砂ねずみ
この作品はフィクションであり、実際の事柄とは一切関係がありません。
幸福なポー
ポーは幸福だった。
本人がどう思っているのかはわからないが、それでもこの尖鄭安において最年長者である孫武龍に目をかけられたというのは幸福なこと以外のなにものでもなかった。
ここでは赤ん坊が捨てられていることなど珍しくはない。幼子を尊ぶ文化があるこの国でさえ、その大抵はそのまま死んでしまうか、運良く生き延びても慰み者や奴隷然として生きる未来を約束されている。
だがポーは違った。
固く手触りの悪い麻の肌着で巻かれた赤ん坊は、武龍がその側を通るまで一度も泣き声を出すことはなかった。
なぜ貧民街の権力者である武龍が露地に捨てられたその赤ん坊を拾い育てようと思ったのか、彼が亡くなった今や誰もその答えを聞くことはできないのだが、さて寳と名付けられた赤ん坊はすくすくと大きくなった。
武龍も、娼婦たちも、船乗りたちも、スリ師たちも、みながポーの成長を見守り、おそらくこの貧民街で生涯を終えるだろうその未来を、みなそれでも祝っていた。
三兄弟
細く入り組み、まるで迷路のようになってしまった建物の間を少女が跳ね歩く音がこだまする。この町は人口増加を受け建物も増築の一途を続けているため、無法地帯である下層では複雑化を余儀なくされていた。
しゃっ、しゃっ、しゃっ、しゃっ。
布底の靴に砂と埃をほんのすこしだけまとわせて、重力がこの壁と壁のあいだにあることを忘れさせる軽やかな足取りで進む音。一足ごとに輝く星を巻き上げる。まもなく終着点だ。
「にいにい、ねずみが四匹獲れたよ。こいつのせいでホイの家の排水溝がつまってたの、だからホイが"今度お茶を一緒にいかが"だって」
ポーは義妹である美菲の腕から細い糸で吊るされ、白いあぶくをぷくぷく吐く丸い肉をまじまじ見つめると、満足げに一度うなずき夕飯の支度に取りかかった。
「メイメイ、先に圓茄に粥を食べさせてやってくれないか」
彼らの義弟ユンキーは、彼らの知るところ一度も泣いたことがない。それどころか、お腹が減ったとぐずることも、用を足したいと喚くこともなかった。ひとより少し言葉を覚えることが遅い弟分のその性質について、みなはよく理解をしていたし、この尖鄭安の町へ捨てられる以前に・・・産みの親のもとで、普通の人間が一生を使って泣くほどの涙を流しきる出来事があったのだろうと、それがわかる者にはひしひしと伝わるのだった。
この寡黙で穏やかな男児は、騒々しく治安の悪い貧民街において幼子にしてひときわ目立つ存在であったが、誰もがその瞳を覗くと心奪われずにはいられなかった。そのため、齢四つになるまでにユンキーはおよそ認識されている最年少にして町をひとりで散策することに不自由しなかったのだ。無論、まわりの人びとが(時に人嫌いの乞食たちでさえ)彼になにか起こってはならぬと、常にこのちいさな綿ぼこりを見守っていたことはまちがいない。
ゆえにポーもメイメイもユンキーにはひときわ手厚く世話を焼いている。強請らぬものには快く与えたくなってしまうもので、メイメイは言いつけ通り、今や冷めつつある湯ほどに薄い粥を、ことり、とユンキーの手元へ置いた。
三兄弟の家には、そもそも家と呼ぶにはあまりにも質素なその建屋には、満足な生活を送るために必要なものはほとんどなかった。寝具がひとつ、藁の山がひとつ、不揃いの椅子が三脚と、脚が折れいつ傾くかわからない机がひとつ、それに旧式のかまどがひとつ、使い込まれた鉄鍋がひとつ、申し訳程度の便所がひとつ。それがこの家の全てだった。土壁の一部は剥がれ少々の藁が飛び出していたが、それを気にするものなどここには誰もいない。
やがて食卓に先ほど吊るされてきた肉がもうもうと湯気を上げて登場した。硬く臭みのある肉だが、生姜と少量の葱油で炒められたそれはだいじな食料である。ちいさなちいさな骨の髄までそれらがきれいに食べきられると、三兄弟のこの日の夜はしずかに終わりへ向かっていった。
白い夜と黒い夜
メイメイは目を覚まし水を飲もうとかまどの脇にある大甕に手をかけた。
衛生的とは言えない水の表面には、うっすら油と小さな羽虫がいくつか浮いている。それらを木杓ですくいあげ、乾いた砂の床にぱしゃりと撒いた。
黒く重たい夜がおわり、尖鄭安に朝が訪れる。
砂ねずみ