朔夜神子

朔夜神子

 瞬間的な動態を捉える。朔夜の目の動きは深く森の奥を見つめている。濃い暗闇の中に確かに何かが動いたのだ。もしや、『胡座』かもしれない。朔夜の胸を打つ鼓動は激しくなる。たぶん、朔夜はここで死ぬのだろう。不吉な予言が成就されるのだ。朔夜は14歳。生まれた時に、十二を二つ越えた時に、命が失われるだろうと言われた。それから、人々は朔夜を日の当たる生活から遠ざけた。怯える毎日を暮らしながら、朔夜は生まれ故郷を思い出す。とても風の強い村だった。人々は死にゆく者への礼儀として、朔夜を大人として扱った。だから、朔夜には子供時代が短い。記憶のある頃から長老会に出席してきた。もちろん、若い子供に村の重要事項を決めることはできない。ただ、形だけの権威を与えられたにすぎないのだ。一度だけ朔夜は村外れの十郎という男を哀れに思って、発言したことがある。朔夜が十二の時だ。この時、朔夜は村にとって危険な人間に変わった。そこで、村の商品を売り歩く旅商として、村から出された。両親は何も言わなかった。長老会議の決定は重かった。それから、二十日様々な村を訪ね歩いた。一緒に山の坂道、川の岸辺、舟の上を過ごしてきた男は、既に亡くなった。朔夜の故郷の村に比べて、北国は戦が多かった。原因は何か朔夜はわからない。ただ、言葉が通じるのがせめてもの救いだった。朔夜は北国の彩花という町に腰を落ちつけた。そこで、重労働をして過ごした。若い頃から大人並みに扱われてきたせいか、朔夜の体は十分に発育していた。筋肉は盛り上がり、まだ小柄な体の成長を締め付けるように燃えていた。だが、ある時、朔夜は足を痛めてしまい肉体労働が不可能になった。そこで、友人の戸狩から見張り番の仕事を紹介してもらった。といっても、危険な仕事だ。森に住む胡座という怪物が現れたら、鐘を鳴らす、というものだった。そして、胡座を見たものは死ぬと言われていた。戸狩は信じていなかった。ましてや、胡座はここ十年現れていないという。もう、多くの若者は迷信と信じていたし、大人の中でさえ、もう胡座は現れないというものさえいた。ただ、町の上役は慎重だった。今も見張りを起き続けている。昔は十人だった見張りも今では一人になった。昼夜交代で二人は任にあたった。そのうちの一人が朔夜だった。朔夜は自らに課せられた不吉な呪いを知っていたが、彩花の町の人間には何も言っていなかった。一五歳になるまでには、後一週間ばかりというところだ。ピー。指笛が鳴る。交代の時間だ。朔夜は森で何かが動いたのを感じたが、もう一人の見張り番には何も言わなかった。櫓を降りる頃にはすっかり動いたものを見なかったかもしれないという楽観的なものに変わっていた。それに、動いたものが胡座であるとは限らないのだ。
 幾人もの人間が共同で借りる寝所に帰ると、戸狩が朔夜を迎えた。
「よう。今日も安泰だったろ?あんな良い職場はないんだぜ。ただな、この町の人間はまだ胡座を怖がってる。でも、お前はそうじゃないよな?朔夜?」
 朔夜は何も答えずに二人は表の食事場へ歩いて行った。
「戸狩……」
 朔夜は何かを言おうとした。それは、自分に課せられた運命のことかもしれないし、昼に見た動物のことだったかもしれない。朔夜自身にも、自分が何を言おうとしているのか、判然としない。結局、戸狩はいつものことだ、と言うように一方的に話し始めた。大商人の家で鶏が十羽ほど盗まれたこと、南の方でまた戦が始まったこと、東の平原での麝香鹿の狩りが思わしくなかったこと。そして、戸狩の母親が死んだこと……。もう、戸狩は覚悟をしていたのだろう。悲し気な表情はしていなかった。でも、朔夜は戸狩の目の下に赤い跡を見た気がした。気のせいかもしれない。でも、戸狩は他の事件と同じように、元気な声で言った。戸狩はそんな奴だ。朔夜は友が自分にも決して弱いところを見せないのを少し残念に思った。そして、戸狩は同情されることが何よりも嫌いだと知っていたので、朔夜は筋肉も、もう衰えた腕を戸狩の肩にまわして、話しをした。といっても、朔夜の話しは特に多くはない。一日中櫓で見張りをしているのだ。好ましい話しなどない。そこで、朔夜は故郷の話しをすることにした。村の長老会、両親、妹、弟、十郎の話。そして、ここにはたどり着けなかった旅商の話。戸狩は興味深そうに聞いていたが、やがて、飯が終わる頃には体を動かしたくてうずうずしていたのだろう。広場に行くと言って駆けていった。朔夜はその夜、多くの貧しい人々と雑魚寝をしながら、夢を見ていた。
 胡座のことだった。胡座は黒い芽のような物を顔に生やし、朔夜を手招きしている。胡座はどんどん大きくなって、巨大な象の大きさになった。そして、櫓から見下ろす朔夜の真下に来て、止まった。四肢のある胡座は黒い手を櫓の足場にかけた。そこに戸狩がやってきた。胡座は戸狩を見つけて、巨大な足を伸ばす。戸狩は必死に逃げる。朔夜は櫓の上から動けない。戸狩はやがて、飲まれてしまう。そのまま、櫓の体に吸収されるように見えた。「戸狩!」と叫んだ瞬間に、現実へと戻った。
 もう、夜明けが近かった。いつも、自然に目が覚めるよりも、少し早い時間だ。寝汗で肌着が濡れている。貧しい人々は良く、肌着をお互いに使いまわしている。この寝所にいる人々は皆、月に幾らかのお金を払って、その肌着代、洗濯代も出している。昼になると、洗濯女たちが来て、川に肌着を持っていくのだ。肌着は盗まれる心配はない。ここよりも貧しい人々は、この彩花の町にはいないのだ。籠に着ていた肌着を入れると、新しい肌着を着る。朔夜のサイズは一番小さな大人が着るためのもので、よく探さないとないのだが、この日は運良くすぐに見つかった。きっと、同じサイズの肌着を使っている人間が昨日洗濯に出したのだ。森に近い町の北へ朔夜は向かう。戸狩はきっと今頃は遊びから帰ってきてぐっすり眠っているに違いない。戸狩自身も見張り番の仕事をしたいに違いなかったが、朝が苦手な戸狩には無理だったのだ。
 朔夜は指を奇妙な形に折り曲げると、口をあてて鳴らした。もう一人の見張り番の声が聞こえてきた。
「おー。来たかー。ま、ちょっと上がれ。森の様子をよく見てもらいたいんだ」
 朔夜は言われるままに足を木板にかけて、登っていく。もう一人の見張り番は初老の男だった。名前は朔夜も知らない。戸狩が、確か、十年前の胡座に命を奪われた者の生き残りらしい。胡座は人を襲うのかと、朔夜は恐怖したものだが、戸狩は十年前の胡座は既に退治されたから、と笑ったのを思い出す。見張り番は頬に鋭い傷痕を持つ、朔夜は何も聞かない。逆に、朔夜のことを聞かれても、困るからだ。もし、見張り番が傷の原因を話せば、朔夜も運命の予言を話さなければならないのではないか、という思いが何故かつきまとった。
「胡座は子供が好きだ。子供を昔、失った人間の霊の集まりとも噂されている。十年前にわしの子供も胡座に食われた。食われた子供がどうなるのかはわからん。ただ、奴の腹からは何も出て来なかった。どこに行ったんだろうな。わしの息子はどこに行ったんだろうな。だから、お前を見張り番にすることには反対した。だが、どうしようもなかった。わしも年だ。昼は休まねばならん。それに上役に意見もしないと、あの事件は風化してしまうだろう。くれぐれも気をつけるんだ。もし、胡座を見た時のおまじないがある。目をつぶって、こう歌うのだ」
 初老の見張り番は歌い始めた。
 シンダラミッタ アリエタラ
 ジンダラミッタ ユメミタラ
 短い節だったが、見張り番は真剣に歌った。森が少しざわめいた気がした。太陽は完全に姿を現し、櫓の頂上にも日が射し始めた。
「わしは行くでな。気をつけるんだな」
 朔夜は頷いて、見張り番を見送った。森は緑と赤の混合した絵の具でキャンパスをデタラメに塗りつけたような姿をしていた。今日は、何も見なければいいな、と思った。朔夜は教えてもらった歌を口ずさむ。
 シンダラミッタ アリエタラ
 ジンダラミッタ ユメミタラ
 風によってだろうか。今度は森が大きく揺れた気がした。朔夜は強い突風を感じて、目を思わず閉じた。胡座はきっと来ない。戸狩の言うとおりに違いない。でも、朔夜は森を見ると、その考えが鈍ってくるのが、わかった。森は不気味な暗さを備えて、中の物を覆い隠していた。
 

朔夜神子

朔夜神子

物語作家七夕ハル。 略歴:地獄一丁目小学校卒業。爆裂男塾中学校卒業。シーザー高校卒業。アルハンブラ大学卒業。 受賞歴:第1億2千万回虻ちゃん文学賞準入選。第1回バルタザール物語賞大賞。 初代新世界文章協会会長。 世界を哲学する。私の世界はどれほど傷つこうとも、大樹となるだろう。ユグドラシルに似ている。黄昏に全て燃え尽くされようとも、私は進み続ける。かつての物語作家のように。私の考えは、やがて闇に至る。それでも、光は天から降ってくるだろう。 twitter:tanabataharu4 ホームページ「物語作家七夕ハル 救いの物語」 URL:http://tanabataharu.net/wp/

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-02-27

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