金曜日の夕暮れ(仮初め編)

雨之香

真面目姉 × 強引兄

パタン。
静かなドアの閉まる音を合図に、彼ーー蓮見錬は私を背後からふわりと抱き寄せた。

「待ちわびましたよ」

その囁きだけで十分なほど、私の体は熱を帯びていた。
熱く疼き、欲した。
彼を受け入れる準備は整っていた。
触れられた部分から、欲はさらに溢れた。
逃れられないこの感覚を、私は嫌というほど知っている。
抗えないこともわかっている。
コレの前では、私は本当に無力だった。

「慧那さん」

彼は、どんな時も私を必ず呼び捨てにはしなかった。
その微妙な距離感が少しもどかしく感じた。

「すごく、綺麗ですよ」

下着姿にされた私は、彼の部屋のドアに貼り付けられていた。
舐めるように確かめるように、視線を滑らせていく。
たったそれだけで、私はじんわりと熱が孕むのがわかった。

「恥ずかしいの?」

彼の一言で、無意識のうちに顔を反らしていたことを私は知った。
また熱を持った彼の手が私の頬に触れると、やんわりと正面を向かされた。
その手は頬から顎の方へと移ると、くっと上に押し上げた。
彼は顔を少し傾け、私の唇を奪った。

「ん……」

まだ浅い口付けが終わると彼は一旦、私の唇を解放した。

「っ……」

その時、私の目に映ったものに私は目を奪われた。
彼の唇には、私の塗ったグロスがあった。
ぬらぬら、とそれはカーテンから射し込む夕日で、妖艶に光っていた。

(やだ……。すごく、いやらしい)

恥ずかしくてつい、私は目を反らした。

「あれ。僕のこと、誘ってます?」

反論するはずの口はもう、彼によって塞がれていた。
口付けに応える私の行為は、もはや肯定でしかなかった。

「はあ」

「慧那さん……」

「なに?」

「ごめん。今日は優しくできそうにない」

息も荒々しく言う彼は、本当に限界に見えた。
私が頷くのを合図に、彼は私を貪るように求めたーー



「もう日が暮れたから、送ります」

「大丈夫よ。平気だから」

「でも、僕のせいで遅くなっちゃったし……」

しょんぼりする姿は本当にかわいくて、私はつい吹き出した。

「萌那にも余計な心配はかけたくないから。せっかくだけど、一人で帰るね」

「わかりました……」

素直な返事とは裏腹に、声は沈んでいた。
私は申し訳ない気持ちを抱きながらも、最悪の事態ーー妹を傷つけることだけは避けなければ、と思った。

「よお」

その帰り道、私は曲がり角の手前で不意に声をかけられた。

「“あいびき”は楽しめたか?」

不躾な物言いに薄気味悪い笑みを浮かべたその男を、私は知っていた。

「優(ゆう)さん、どうしてここに?」

彼は私のアルバイト先の先輩だった。
確か、今は大学生のはずだ。
偶然にしてもあまりにもタイミングが悪く、私は狼狽えた。
そんな私を逃がすまい、と彼は壁に詰め寄った。

「どうしてって、ここが俺の家だからだよ」

「え?」

「錬は俺の弟だ」

「!」

言われてから私は漸く気がついた。
二人の姓が同じだということに。
それほど、今の私は動揺していたのかもしれない。

(優さんから家族の話は聞いたことがなかったけど、そういえば彼の名字も蓮見だったっけ。
これは少し厄介なことになりそう)

私の懸念は次の瞬間、実に不安の種を発芽させる。

「見かけによらず、とんだ淫乱だな」

頭に血が上った。
私は鋭く睨みあげると、強く突飛ばし否定した。

「ち、違います!」

「どの口が言っている」

その声は高揚した私に、冷水を浴びせた。
背筋はまるで凍りつきそうだった。
それほどの恐怖が彼にはあった。

「あんた、自分が何しているのかわかってるのか?」

「っ……」

「あいつの女ーー慧那の妹もちょくちょく家に来てる。俺も顔見知りだ」

彼が今、何を言おうとしているのか動揺している私にもわかった。

(わかってる。それは私にもわかっている。だけど、今はききたくない……)

「錬は、あんたの妹に本気だ。本気で想ってる」

「ええ……」

「取り返しのつかなくなる前に、けじめをつけろ」

「……」

「お下がりは気に食わないが、慧那ならいつでも相手をしてやるよ。カラダが寂しいならな」

耳元で嘲笑われ、私は背筋が震えた。

「か、からかわないでください」

「ああ、あれか。ひょっとして年下が好みか?」

「もう、やめてください……!」

髪をかきあげ耳を露にすると、彼の舌が耳をなぞり首筋まで降りた。

「荒々しいキスマークだな」

「!」

「俺ならもっと綺麗につけてやる」

それから彼はそこを十分なほど舌で潤し、音を立て吸い付いた。
冷めない熱が注ぎ込まれるようだった。
じんわりと痛みを伴うにも関わらず、それは甘く癖になりそうだった。
全身がどんどんと過敏になっていく。
私は漏れる喘ぎを止めるため、下唇を噛み締めた。

「さすがだ」

発せられた言葉の意味がわからず首をかしげる私を、彼は鼻で笑った。

「声を押し殺す術は、御手の物だな」

愚弄するその言葉に、私は思わず手をあげた。
しかし、彼はそれを軽々と受け止め鋭い目で私を射抜いた。

「今日のようなことはもう終わりにすることだ。今ならまだ間に合う。大切な妹も傷つかない」


それから私が、蓮見家を訪れることはなくなった。
また妹の彼氏ーー蓮見錬が家を訪れる際には、外出をするなどし、あらゆる接点を断とうと努力した。
兄の優に真っ向から咎められたことにより、私の壊れた理性は立て直された。
またそれは、苦痛と寂しさと辛さが伴った。

(これに負けてはダメ。妹も錬くんも、私にとっては大切な人たちだから)

私は振り返らず、決めた道を進んだ。
それが正しいことを私は知ったからだ。
だから迷わず、惑わされず私は走ることができた。
息が切れたり、途中で休むこともあるかもしれない。
けれど、私はもう立ち止まらない。
まっすぐ、前を見て進むだけ。



「慧那姉。また出掛けるの?」

「少し用事があるから。それにほら、蓮見くんと二人の方が気を遣わなくていいでしょ」

「別に慧那姉がいても気なんか遣わないよ」

(それはそれで、ちょっと複雑ね。喜んでいいのやら悲しんでいいのやら)

「錬キュンに、ちょっとサプライズしたいからさ。手伝ってよ! 時間とらないから」

「うーん……」

「ね、お願い! 慧那姉にしか頼めないの! ホントこの通りだから。一生のお願い!」

私の目の前で必死に手を合わせる妹を前にしたら、もう承諾するしかなかった。

「わかったわ」

私は妹が買い出しや準備をしている間、彼ーー蓮見錬との時間を繋ぐよう頼まれた。
まったく酷な話だと思った。

(よりによって、こんなお願いをされるなんて。
私もとことん神様から見放されたものね。
それほど、罪が重かったってことかしら)

「どういう風の吹き回しですか」

二人きりになった部屋で、彼はぶっきらぼうに尋ねた。
どうごまかすか、まったく考えていなかった私は口ごもる。
しかし、絶好の機会だと思った。
今までの関係を清算する、またとない機会だと。
もしかしたら、何もかもを知った妹が計らってくれたのかもしれない、とさえ思った。
二人のイケナイ関係が始まった二階の和室で、私はこの関係に終止符を打つ。

「もう、終わりにしましょう」

俄に怪訝を露にした彼は言った。

「兄さんに、いったい何を吹き込まれたんです」

ゆらゆらと首を振り、私は静かに否定した。

「違うわ。私、気がついたの。自分の弱さにずっと背を向けていたこと。
萌那も錬くんも二人とも大切だから、傷つけたくないから。だから、これで終わりにするわ」

「それが逆に萌那を傷つけることになっても?」

「大丈夫よ。あの子はもう子供じゃないわ。
きちんと向き合えば、きっと応えてくれるはず。それにーー」

「それに?」

「もう立派なブラも着けているんだから」

最後の一言に、彼は見たことのないほど顔を赤らめた。
初々しい反応に、私は胸が切なく締め付けられた。

(妹のことを本当に大切に思ってくれている。
もう何も心配はないわ。彼に私は、もう必要ない)

「萌那のこと、よろしくお願いします」

私は姉として、彼に最後のお願いをした。
固く結ばれた手は、彼の一言で震えた。

「僕も、同じです。萌那もお姉さんも大切だから」

「っ……」

「だから、あなたの分も、萌那を目一杯愛します。幸せにしてみせます」

「ありがとう。蓮見くんーー」



金曜日の夕暮れ時。
一人になった和室で、私は力なく座り込んだ。
たった一人で立つことは、容易ではなかった。
支えを失った私は、まるで魂を抜かれたただの脱け殻。
しかし、私は思った。
蓮見優の言う通り、引き際を間違えていたらもっと残酷な結末が待っていた、と。
私にはきっと堪えられないほどの結末に違いなかった、と。
それでも胸が張り裂けてしまいそうなのは、私がそれほど深い罪を犯していた証だ。
これは自分自身で受け止め、乗り越えていくしかない。
再び自分の足で立ち、歩いていくためにこれは必要な痛みなのだ。

(泣いている暇はないわね。
洗濯物を取り込まないと。それに晩ご飯の支度もまだできていないわ。
今晩のメニューは何にしようかしら)

私はベランダへと向かった。
その時、窓ガラスに小石が当たり、きれいな放物線状を描きながら跳ね返った。

(もういったい誰のいたずら?)

がらがらと些か乱暴にドアを開ければ、そこには見知った人がいた。

「よお」

「優さん!」

「般若みたいな形相して、何よりだ」

可愛いげのない嫌味を言われ、私は本当にあの二人が兄弟なのか疑問に思った。

「こんなところで、こんな時間に何をしているんですか?」

不審者と言わんばかりの口調で反論を試みた。
しかし、それに対する答えはごくあっさりとしていた。

「散歩だよ。慧那も付き合え」

人に物を頼む口調とは到底思えなかった。
断ろうかとも考えたが、気分転換をしたかった私は渋々付き合うことにした。

(きっと、私のことを気にかけて来てくれたのよね。不器用な人)

私は洗濯物だけを片付けると急いで駆けつけた。

「あ、そうだ。晩ご飯の支度まだだったんだわ」

「妹がかわいいのはわかるけど、たまには手を抜けよ」

「でも……」

「休むことも大事だって言っているんだ。今日くらいは自分を労ってやれよ」

「わかりました。じゃあ、妹にメールだけ入れておきます」

傍らで、彼は呆れたため息を吐いていた。

「温かいものでいいか?」

「はい。ありがとうございます」

私はミルクティーを受け取り、ベンチに腰かけた。
しかし、そこから話は一向に進まなかった。
何か用があるのかとも思ったりしたが、そんな素振りもない。
間が持たなかった私は、ミルクティーの封をついに切ったのだった。
口に広がるミルクの柔らかな風味が私の気持ちを穏やかにさせた。
彼はくっとコーヒーを飲み干すと、漸く口火を切った。

「最近見かけなくなったけど、尻は拭えたのか?」

目線は前方に向けたまま、彼は尋ねた。

「ええ。お陰さまで」

「そうか」

「案外、すっきりしました。気持ちも楽になりました。
弟さんもきちんと納得してくれて、妹を今まで以上に大切にしてくれるって、そう言っていました。
私もこれで、また妹の前で正々堂々と姉を務められます」

私はもう一度、ミルクティーを口にした。
体が甘さを無性に欲していた。

「案外、頭悪いんだな。あんた」

突然の罵倒に私は、眉間にシワをよせた。

「慧那の強がりを聞くために、呼び出したんじゃない」

「強がり……」

譫言のように呟くと、どこかで鎧が落ちる音がした。

「しっかり者ってのは、苦労した奴がなるものだ。だったらもう、慧那には必要ないだろ」

「……」

「我慢しなくていい。しんどいなら吐き出せばいい。泣きたいなら、泣けばいい」

「私は……」

抱き締めることもあやすこともせず、彼はただいい加減の隣で話を聞いてくれた。
私は積もり積もった胸の内を吐露した。
嗚咽を漏らし泣きじゃくった。
強がりな鎧も小さな見栄もすべて脱ぎ払って、心ごと丸裸になった。


本当は随分と前から寂しかった。
唯一の肉親である父は日々仕事に追われ、幼い頃からほとんど顔を合わせることがなかった。
学校のテストで良い点数を取っても、誰に報告すればいいのかわからなかった。
雷が鳴った夕方には泣きたい自分を抑え込み、泣きわめく妹をひたすらあやした。
家事全般と学校に追われ、自分に使う時間など私にはなかった。
そのうちに、使い方すらわからなくなっていた。

そんなある日のこと。
私は癒しという名の快楽を知った。
アルバイトからの帰り道だった。
行きずりの知らない男の人に誘われるがまま、一夜を共にした。
その色事は、まるで夢のようだと思った。
非現実的でふわふわしていて、掴み所がない。
そして儚い。
いつの間にか、空っぽになっていた私を満たしてくれた。
行為のその間だけは、私の存在価値を見出だせた。
体を求められれば、私は必要なんだと思えた。
愛を囁かれれば、私は愛されているんだと思えた。
たとえそれが仮初めだったとしても。

私はただ寂しかった。
寄りかかる場所が欲しかった。

「よく出来ました」

彼の言う通り何もかもをさらけ出すと、柔らかな笑みで頭を撫でられた。
その笑顔は、何だか弟のものと似ていた。

「優さんって本当は優しい人なんですね」

私の言葉に彼は目を開き、きょとんとした。

「寝ぼけてんのか、慧那。誰が純粋な親切心だけで、こんな面倒なことするかよ」

「え?」

「下心があるからに決まってんだろ」

「それって本当に……?」

後退りする私に、彼はそれ以上に詰め寄った。
吐息を感じられる距離だった。

「慧那の泣き顔はたまらないな」

「ちょっと、そんなに見ないでくださ……」

噛みつくようなキスに体が震えた。

「俺は、錬とは違って甘やかす質ではないんでね」

「……?」

「むしろ泣かせる方が気持ちがいい」

言葉だけで体は顕著な反応を見せた。私は恥辱に顔を染めた。

「後悔はさせない。他の奴になんて、目移りできないくらい愛してやるよ。慧那」

“だから、俺の女になれ”

隣に一人いるだけで、あんなにつらかった一本道がまるで見違えた。
歩き進むことが苦痛ではなくなった。
その人のために、自分自身を大切に思いやることができた。

「優さん。ありがとう」

「礼はまだ早い。慧那には教えることがまだまだあるからな。調教しがいがある」

どこかで聞いた台詞に、私は小さく笑みを溢した。

(やっぱり優さんと錬くんは兄弟で、私と萌那は姉妹なのね)


(おしまい)

金曜日の夕暮れ(仮初め編)

どんなにイケメンでも、強引の限度があると思います。お目汚し、ごめんなさい。

金曜日の夕暮れ(仮初め編)

それでも、やっぱりイケナイことだから。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-02-26

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