時のラティア

時のラティア

プロローグ

 レイタール王国の南方にある地域、ノーヴォン。そこの唯一の学校には、看護科・薬理科・栄養科がある。これは、コヨリース学院の看護科で看護師を目指すラティアの物語。

1

 薬液を吸い上げ、中指一本で注射器の押し子を引いていく。目盛りの指定の数字まで薬液を満たすとアンプルの薬瓶から抜き取り、注射針にキャップをする。

「終わりました。次、皮下注射にいきます」

 ラティアは声を発しながら患者役のケンを見る。オレンジ色の短髪の男子、ケンは患者として椅子に座って待っていた。先の注射器を乗せたワゴンを引き、ラティアはケンに近付く。

「こんにちは、ケンさん。これから薬の注射をしますね。準備するので、そのままお待ち下さい」
「分かりました」

 ケンから体を背け、ワゴン上の消毒液で手を濡らし手袋をはめている間、ケンは真剣な表情でラティアを見ていた。

「ラティア、その注射……本当に打つのか?」
「え?」

 ケンの声に振り向くラティアの手には、肌色のスポンジ製の物を持っていた。

「何だ? それ」
「これは注射練習用パッドだよ」

そう言うとラティアはケンの腕にそれを取り付けた。

「ここに打っていくんだよ。直接はまだ出来ないよ? 見習いだからね」
「あっ、そうか! そうだった! ……あー、良かった!」

 ほっ、と息をつくケンだった。

「……また先生の話、聞いてなかったのか。ちゃんと聞いといた方がいいぞ。……ラティアも困るだろ」
「いや、私は…… 」
「シルヴァに言われなくても分かってる!」

 同じ班のシルヴァにケンは声を張り上げた。今は皮下注射の練習で4人1グループになっている。茶髪で長身のシルヴァはラティア達の班長として動いていた。
 お互い注射を打つ流れや声掛けを確認し、授業が終わるとそれぞれ服を着替えにロッカーに向かった。女子ロッカーでラティアは青のナース服から私服に着替える。団子状に1つに纏めていた髪を下ろし、金の髪が揺れた。

「ラティア。シルヴァ達と何か言ってたけど、どうしたの?」
「どうせ、またケンが人の話を聞いてなかったんじゃない?」

 黒髪で耳下に2つ縛りのユリカが訊ね、茶髪でポニーテールのイルが的を射て話に入ってきた。

「本当に注射を打つんだとケンは思ったみたい」
「ほらね」

 イルは肩をすくめた。その後イルとユリカが話を続けるけど、ラティアは別の方に意識が向いていた。視界の端に突然光が灯ったのだ。無意識にその光へ顔を向けると、その光は規則性なく動き回り、でも確実に近付いてきていた。

(何だろう、あれは)

 ふと周りの着替えてる女子を見てもその光に見向きもしない。話しているイルとユリカも気付いていなかった。

(誰も気付いてない……え? 今、あの人見たよね? まさか、見えていない?)

 光を見たと思えるような、顔を確実に向けている人がいたのに、その人は表情変えることなく過ごしていた。

「どうしたの? ラティア。ぼーっとして」

 イルが訊ねる。

「えっ……ううん、何でもないよ」
「そう? なら先に行っちゃうよ」

 イルとユリカは支度を終えて次の教室へと歩を進める。そして、光の前を通りすぎた2人。

(やっぱり見えてないんだ)

 ラティアは慌ててロッカーの扉を閉めて2人の後を追う。

「待ってよ、2人ともっ」

 光を一瞥し、横切ろうとした時だった。

「痛っ!」

 ズキッと鋭い痛みが頭を襲う。

「……ラティア?」

 イルとユリカが振り返ると、そこにラティアの姿はなかった。

2

 突然の頭痛に思わず眼を閉じた。ほんの少し視界を暗くした。ただ、それだけの筈だった。

「え…… 」

 ラティアの目の前に広がる景色は、先まで居た学院の更衣室内ではなかった。

「ここ、どこ?」

 見慣れない風景。山の頂上付近にいるのか、なだらかな勾配と遠くに集落が見える。木々に囲まれ、人里から離れた民家が一軒ポツリと建っていた。
 ラティアはその民家の広い荒地に突っ立っていた。元々は畑として利用していたのだろう、荒地といってもそこまで酷くはなく、手を付けなくなって暫くの事だと伺えた。

「何で? 私、学校にいた筈……」

 ラティアは酷く混乱した。訳も分からず
(たたず)むばかりで動こうとは思わなかった。

「あなたっ? あなた……っ!」

 しゃがれた女の人の声が耳に入る。民家の方向からだった。その声には焦りが混ざっている。
 気付けばラティアは駆け出していた。その間にも聴こえてくる掛け声には落ち着きは一切なかった。

「しっかり、あなた! 誰か、誰かぁ!!」

 慌てて扉を開けると老夫婦がいた。泣き崩れるお婆さんはラティアを見て驚きを隠せない。周りに人が住める場所はなく、呼んだ所で誰も来ない事はお婆さん自身分かっていたからだ。金髪の少女が現れた事にお婆さんは状況をすぐに把握出来なかった。

「えっ……?」

 戸惑うお婆さんを余所にラティアは倒れているお爺さんに駆け寄る。

「大丈夫ですか!?」

 僅かな応答でお爺さんに意識があると分かるとラティアはお婆さんに訊ねる。

「どうされたのですか!? こうなった理由は」
「分からないんじゃ。気付いたら倒れとって……」

 お婆さんは不安げに話す。ラティアは倒れた原因の手がかりとなる情報収集を始めた。

(発汗に手足の震え、それに顔面蒼白と口唇乾燥)

 親指側の手首に指を押し当ててみる。

(__頻脈。……これは、間違いない)

 お爺さんの身体の観察や実際に脈を測り、ラティアは一つの疾病に辿り着く。

「あの、この方は何か薬を飲んだりしていますか?」
「えぇ、糖尿病の治療の薬を飲んでおる」
(やっぱり……低血糖の症状だ)

 お婆さんの返答にラティアは確信した。理由が分かれば対処出来る。

「お手数ですが、お砂糖を持ってきていただけますか?」
「あ、あぁ、ちょっと待っとくれ」

 奥の台所から砂糖の入ったケースを持ってきた。ラティアはお爺さんに砂糖を口に含ませる。

「これで少しは良くなると思います」
「ありがとうございますっ……」

 お婆さんは安堵するがラティアの表情は険しかった。

(これでいい筈だけど、私は見習い……)

 医者ではない為、容易に終わりに出来なかった。

「私、念の為、お医者さんを呼んできます! 10分頃経っても回復しないようでしたら、お砂糖をこの大さじで2杯口に含めて下さい」
「あぁ、分かった。しかし、お前さん医者ん所まで結構掛かるが大丈夫かえ?」
「大丈夫です! すぐ呼んできますね!!」

 一歩外に出てふと気付く。ここは山の中腹。今から下ってそれも医者を探して戻ってくるとなると相当時間が掛かる。

(せめて馬があれば……)

 交通手段でもある馬でさえ居ない状況。ラティアは意を決して走り出した。その時。

「い…っ」

 再びあの頭痛。顔を歪ませ、眼を開けると。どこかの路地裏にいた。目の前には人の行き交う道。山から一瞬で人里に下りてきたようだ。

(と、とりあえずお医者さんを捜さないと)

 この不可思議な現象について考えたくなるが、今は最優先である医者捜しにラティアは人通りに出る。

「えっ!?」

 看板には「診療所」の文字。捜す必要がなくなった。眼前に建つ建物へラティアは歩を進めた。

3

 黄昏時、部屋に茜の斜陽が差す。他の家よりも高い場所で住んでいる老夫婦は一人の少女の帰りを待っていた。

「やはり女子(おなご)一人で行かせるんじゃあなかったのぉ……」

 心配するお婆さんの元に複数の馬蹄の音が近付く。勢いよく開いた扉にはラティアと白衣の男がいた。

「お連れしました!」

 ラティアの後に入ってきた医師はお爺さんの診察をする。

「うん、大分良くなっている。聴いていた通りの症状……低血糖症だね。対処が早かったから命に別状はないよ」

 ほっと息をつくラティアとお婆さん。静かに老婆は涙を流した。

「ありがとうございます。ありがとうございますっ」

 医者の診察と処置を終え、暫くしてお爺さんは起き上がれる状態までに回復した。

「あんた、起きて大丈夫かい。まだ横になってた方がよくないかい」
「いやぁ、大丈夫だ。また婆さんが『あなた』と呼んでくれんなら、横になろうかねぇ」
「バカ言ってんじゃないよ」

 老夫婦は笑い合う。お爺さんはラティアに顔を向けた。

「いやぁ、助けてくれてありがとうなぁ。名は何と言うんかえ?」
「ラティアと言います」
「そうか、そうか。良い名じゃなぁ」
「爺さん、俺には何もないんかい?」
「忘れてはおりゃせんよ。ありがとうなぁ」

 その言葉を聴いて、医者は薬の用法や症状が出た時の対処を伝えると帰る支度を始める。

「キミも帰るだろう? ここから下るまで時間が掛かる。暗くなる前にもう出た方がいい」
「あ、はい」

 そう言われ、ラティアは少し考えた。

(帰りたくても何処だか分からない。それに、時間が進んでる……?)

 注射の練習後の着替えはまだ正午前。医者の言葉と1時間程かけて山を登った事から考えて、今は午後だろう。

 ここで何処だか分からない事を伝えたら、医者の所に行くまでの経緯を訊かれるのは確実。また、逆に意味もなく居座るのは余計に怪しまれる。

 ラティアは医者に言われた通りに帰る支度するフリをした。

 老夫婦には見送りはしなくてよい旨を伝え、ラティアと医師は外へ出る。

「あぁ、キミはそっちの馬のを取ってくれ」

 家屋の雨どいに結んである馬の手綱を指差す。医師は近くの馬のをほどいていた。

 ラティアも言われるがまま手綱に手を伸ばす。そこに何かが刻まれているのに気付いた。

(……アーロン?)

 手綱をほどき、ラティアは医者を見やる。彼は既に馬に乗っていた。

「キミはその馬で帰ったらいい」
「えっ!?」
「返しにくるのはいつでも構わないさ」
「あの、こんな高価なのは…… 」

 黒い毛並みに体格も申し分ない。色での格付けとしては上から数えた方が早かった。

「そんなに高価でもないから。なに、ここいらじゃあその馬は少し有名だから、場所が分からなくとも私の診療所まで辿り着ける」
「あ、ありがとうございます!」
「途中まで送るか?」
「いえ、方向が違いますので、ここで大丈夫です」
「そうか。気を付けろよ」

 そう言って医師は真っ直ぐ下っていく。

(危ない……いつどうなるか分からないから一緒には居られない。それに長く居たら何か言ってしまいそう…… )

 自分の居た場所が変わる条件は何となく気付いた。そして医師と離れる事で自ら墓穴を掘るのを防ぎたかった。

「……さて、どうしよう」

 ひとまず馬に乗ろうと鐙に足を掛けた時だった。

──頭に突き刺すような痛み。


 ラティアと別れ、少し山を下る途中で医師はふと疑問に思う。

「そういや、彼女、何であの家に居たんだ? って、もう居ないな…… 」

 振り向けば遠くに家屋しか見えなかった。ラティアも帰ったのだと医師は前を向いた。

4

「──……ティア」

 何か、声が聞こえる。

「……ラティア!」

 ハッ、と目を開けると眼前に見慣れたロッカーがあった。ラティアは少し動揺する。

「どうしたの? ラティア。ぼーっとして」

 声に驚き、横を見ると訊ねたのはイルだった。

「えっ……あ、ううん、何でもないよ」
「そう? なら先に行っちゃうよ」

 何が起きたのか分からずにいたけど、一つだけハッキリしている。

(……戻ってきたんだ)

 イルとユリカは更衣室から出ようとしていた。慌ててロッカーを閉め、窓を一瞥する。室内に明るい光が差し込んでいた。

「待ってよ、二人ともっ」

 ラティアは、先のイルの言葉を聴いたのも今の言葉を言ったのも初めてではなかった。

(戻ってきた、だけじゃなくて時間も戻ってる……?)

 ざわつく心を持ちながら二人の後を追うラティアだった。

 イル、ユリカと共に次の講義がある教室へと向かう。ラティアは自身の手を見つめ、これまでの事を振り返る。お爺さんを助けた記憶はあるが実感が沸かなかった。

(本当に私はあの家に居たのかな? それとも幻だった?)

 疑いの心を持って教室へ入ると、何故かざわざわと騒がしかった。生徒が全員、窓辺に立っている。

「ケン、どうしたの? 何か__ 」

 不思議に思ったユリカが近くにいたケンに声を掛けるも、窓の外を見るなり言葉を止めた。

「ちょっと何? ユリカまで、どうしちゃったのよ」

 訳が分からないとでも言いたげなイル。窓に近付く彼女に続いて、ラティアも同じように外を見やる。

 瞬間、背筋に冷たいものが走るような感覚に襲われた。

「……黒、って事は確か高価な分類に入ってるよね」

 イルがボソッと呟く。

 室内の生徒が注目している視線の先には。小屋から離れ、あてもなく歩き回る一頭の黒い馬がいた。

(あの馬はまさか──…… )

5

 翌日、授業の途中休憩でラティアの席にイルとユリカが近寄る。

「ラティア。昨日の事、訊いても大丈夫?」
「まだ言えないなら無理しなくていいけどね」

 昨日の馬の件は二人には話さなかった。思わずあの時の体験を言ってしまいそうだったからだ。

「ごめんね。実はあの馬、おじさんから預かっていたんだ。それを私が判断して言っていいのか分からなくて。でも言って良かったみたい」

「なんだ。……ってかそこまで気にしなくてもいいんじゃないの」
「本当、ラティアは優しすぎというか考えすぎというか…… 」

 二人はそれで納得し、詳しく訊こうとはしなかった。ラティアの言葉は昨夜、改めてあの時の事を考えてみて、こう言うしかないと思っての言動だった。

(元の時間に戻っている時点で、あの体験はしたという事実にならない。私も馬を見るまで本当だったのか分からなくなってたけど…… )

 馬の持ち主は誰か、という時に手綱に刻まれていた名を口にした事でラティアの馬だと判明し、と同時にあの体験は事実だった事も明らかになった。

(でも、何で急にあんな所へ? それに場所が変わるタイミングが掴めない。唯一分かるのは……痛みがあると場所も変わるって事くらい)

 いつまた頭痛がして別の場所へ飛ぶのか見当がつかず、身構えてから一週間が過ぎようとしていた。未だやって来ない痛みにラティアは次第に忘れていき、普段通りの日常に戻っていた。

 そんな何事もなく過ごす日の午後。ラティアは疾病についての講義を聴いていた。

「では、教科書38ページの所をエレナ、読んで下さい」

 先生に指名された、お下げ髪のエレナが読もうとして立ち上がった。が、突如としてエレナは倒れる。

「どうした!? エレナ!」

 駆け寄る先生にざわつく生徒。ラティアは心配になって席から離れた。

「いたっ」

 痛みが走り、ふと気付くとラティアは椅子に座っていた。その違和感と痛みから察する。

(いや、まさかそんな訳…… )

 あの時と状況が似ている。現に倒れた筈のエレナは先生の話を聴いていた。

(また時間が戻った?)

 どこまで時間が戻ったのか、考えていると聞き慣れた言葉が耳に入った。

「では、教科書38ページの所をエレナ、読んで下さい」

時のラティア

時のラティア

コヨリース学院看護科一年のラティア。看護の勉強を励む中、突然の頭痛。気が付くとそこは__。同じ看護の仲間であるシルヴァ、イル、ケン、ユリカと共に学び、成長していく物語。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • 冒険
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-02-26

Copyrighted
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