虚
残酷な描写を含みます。苦手な方は、ご注意ください。
落ち窪んだ夜
お題:『りんご』『公園』『雨』
冷たい、凍った夜だった。
頭上から爆ぜる音が降り注いでいる。パタパタとも、パチパチとも聞こえる音はホワイトノイズのようにも聞こえ、町の音を全て吸収し雑音に変えてしまっている。
冬の木枯らしに当てられた雨は氷雨となり、町にあるあらゆる物質から熱を奪い去ってしまっていた。この雨も時期に霙になり、雪に変わるかもしれない。そう思う程、冷め切った夜だった。
その雨の真ん中で高山健吾は呆然としている。
片手にレジ袋と鞄を持ち、もう片方の手で傘を差して、その黒い表面に打ち付ける雨粒の音を漠然と捉えていた。一見するだけで奥さんに買い物を頼まれたサラリーマンと解り、それは外れていない。高山は会社から帰宅する途中で買い物を頼まれ、そして今、そこに立ち竦んでいる。
――なんで。
それが最初の疑問である。
口許から烟る白い呼気の向こうに透けて見える光景を、高山は愕然とした面持ちで眺めている。
――どうして。
それが次の疑問である。
どんな時でもその道を使う事はなかった。何故なら高山にとって、その場所は大きな虚であったからだ。自分の持つ闇をまざまざと見せつけられるような、刃物の切っ先を胸元三寸に突き付けられるような、そういう昏い場所だった。
だから高山は近道だと知っていてその道を利用する事はなかったし、晴れだろうと昼だろうと必ず回り道をしていた。
それが癖になっている筈だった。
意識せずとも迂回する。人間の行動は凡そ何かの反復運動だ。いつも使っている道を無意識に選択するものだし、人によってはその道のどこを通るかさえ決まっている。それを外れればどこかに違和感が残り、寸の間も立たずに軌道修正しようとする。そういうものだと思っていた。
――それなのに。
高山は殆ど無意識に虚のある道を選択し、白煙に霞むその場所を視線に留めていた。
震える指先に気付いたのは、その後だ。しっかりと意識していないと落としそうになってしまう傘を、強く握る。頭上からは、相変わらず雑音のような雨音が響いていた。
そうして高山は、今夜だからだと――気が付いた。
忘れる事はない忌まわしい記憶が脳裏を掠める。まるでフラッシュのように蘇る光景に胸の辺りが竦むような感覚がした。
――立ち去らないと。
虚はそこで大きな口を開けているのだ。今ほんの僅かでも気を抜けば、それが持つ闇は高山など一瞬の内に飲み喰らうだろう。
そうなる前に、立ち去らなくては――。
高山は地面にべっとりと張り付いている足を、意識して引き剥がす。小さく水の爆ぜる音がした。それをまた意識して、前へと踏み下ろす。
見なければ良い。その気持ちが傘を前傾させる。視界には倒された傘と雨に光るくすんだ道しか映っていない。早くなる呼吸を押し殺して、もつれそうになる足を懸命に動かした。
「あの日も――こんな雨でした」
耳障りな雨音に紛れて聞こえた声に、高山の足が止まった。
視界を覆っていた傘を反射的に引き上げると、いつから居たのか――気が付かなかっただけでずっと居たのかもしれない――男の後ろ姿が見えた。
公園の入り口に佇み、先程の高山のように立ち竦んでいる。そう思ったのは、首が不自然に垂れ下がり、男が着ているダウンジャケットのボアに埋もれてしまっているからかもしれない。
あるいは男が、この寒空に傘も差さずに居るからかもしれなかった。
「……え?」
声を上げてから後悔した。関わり合いになるべきではないのだ。その男がどんな人間であれ、今晩は誰とも会話を交わすべきではない。真っ直ぐ家族の元に帰り、団欒を楽しむべきだと理解しているのに、高山の喉は音を発してしまっていた。
「冷たい、雨だったんです。今日みたいに……。天気予報は明日雪になるかもぉ、なんて言ってて……。俺、覚えてるんです。忘れられなくて……」
誰に宛てるでもなく呟かれる男の言葉はまるで独り言のように細く、儚い。それなのに決して雨音に邪魔される事はなく、一音一音正確に高山に届いている。
「知ってますか? ここで、人が死んだの」
その言葉を聞いた途端、高山は傘の柄を強く握り締めた。
「一ヶ月前の今日……。深夜十二時を過ぎた頃でした……。歩行者の男性が車と接触。発見が遅れ、そのまま死亡が確認された……。新聞にはそう載ってました」
男の肩の辺りが動き、ボアに埋もれていた頭部が覗く。キャップを被った男の顔が反対側の横道へ向き、それからまた同じ位置へ戻された。
暗がりのせいか被っている帽子のせいか、男の表情は読み取れなかった。
「次の日は雪でした。遺体は、半分雪に埋まっていた。前の日からの雨の所為で、証拠は何も残されていませんでした……」
今高山が感じている底冷えした感覚は、雨の冷たさのせいではない。脳裏にちらつく映像が、じわじわと内部から熱を奪っていっている。
立ち去ればいいと頭は理解している。何もかも聞かなかった事にしてこの場から逃げ出してしまえばいい。そうして今までのように、何も知らない顔をすればいいのだと、高山は解っていた。
それなのに、身体が言う事を聞かないのだ。高山の足は棒のように固く、地面に縫い付けられてしまったのではないかと思う程重い。
「殺されたんです……。見殺しにされた……」
そこまで言うと男は天を仰ぎ、冷えた指先を温めるかのようにポケットに手を入れる。
この男は、何故そんな話を自分にするのだろう。たまたま通りかかったからだろうか、話をする相手は誰でも良かったのだろうと思う。口ぶりからするに、男はここで亡くなった故人の友人か、あるいは家族か――いずれにせよ、命日に故人に思いを馳せる事自体は良くある事だ。誰かに思い出を話したくなる事もあるだろう。
だが何故――自分なのだ。
狙ったのだろうか、そう思った。しかしそれでは辻褄が合わない。普段はこの道を避けている。虚があるのだ。好き好んでこの道は選ばない。それはただの偶然で、永遠に通らない事だって有り得た。いや、可能性としてはそちらの方が高いのだ。だから男が狙って高山に出会う確率は低いだろう。狙って会えるものではない。だとするなら、
――偶然、だろうか。
「……ずっと、来てるんです。ここに来れば会えるような気がして。変な事言ってるって、解ってます。それでも何となく……会えるような気がするんです……」
凍った空気は、高山の体温を全て奪い尽くしている。感覚は薄いのに、思考ばかりが尖っていた。
――何故、何故、何故何故何故。
高山の頭は、疑問で埋め尽くされている。
何故今日なんだ。
何故僕なんだ。
どうしてそんな話をする――。
「助かった命かもしれなかった。運転手が見捨てずに助けてくれれば、救えた命だったかもしれない……。どんな……気分だったでしょうね……。助けて欲しいのに見捨てられた気持ちは……。どんな、恐怖だったでしょうね。ゆっくりと死んで逝く気分は……」
雨の合間を縫って聞こえる独白がじわり、またじわりと虚の口を広げていく。それはまるで獲物を目の前にした蛇の口のように、ぽっかりと昏い穴を開けていた。
「冷たい雨に打たれて……段々身体の力が入らなくなって……。苦しかったかもしれないし、痛かったかもしれない。何も……感じなかったかもしれない……」
男の声に抑揚はない。天気の話でもしているかのように平坦で、責め立てる気配が一つも見られないのだ。それなのに、いやそれだからこそ、高山にはそれが苦しかった。真っ向から責められた方が幾分楽だろうとすら思える。
「助けてくれ、助けて欲しいと苦しむ恐怖って、どんなもんなんでしょうね……」
――やめてくれ。
咄嗟にそう思った。
「どうして死ななきゃならなかったのか、何も悪い事はしていないのに……。まだまだやりたい事は沢山あって、意識だってあったのに……。救急車さえ呼んでくれさえすれば、助かった命だったのに……」
――もう聞きたくない。
動揺、混乱、混迷――当然呼吸は細く早くなる。
「……見捨てた犯人は、どんな気分なんでしょうか……。もう、忘れてしまったのかも――」
「仕方なかったんだ!」
思うより早く、高山はそう叫んでいた。じわじわと真綿で締めるような独白をそれ以上聞いて居られなかった。
「……仕方なかった?」
ずっと背中を向けていた男の身体がゆっくりと高山へ向けられる。キャップの影に隠れた顔は、漆黒の闇に紛れてしまっていた。
「逃げる気なんてなかった……ッ。頭が真っ白になって、気付いた時にはもう車に戻ってたッ。 大した事故じゃないと思ってた! 怪我もしてなかった。誰かが見つけると思ってたんだ!」
高山は、あの日――一ヶ月前の今日、
人を殺した。
今日のように氷雨の降る、凍った夜だった――。
※
その日高山は家路を急いでいた。
残業で遅くはなっていたが、別段急ぐ用事があった訳ではない。ただ家には生後間もない娘が待っていて、早く会いたかっただけだった。勿論遅い時間に帰宅したところで娘は寝ているし、残業がなくてもその結果は変わらなかった。それでも荒んだ毎日を送っていた高山にとって、娘の寝顔程癒されるものはなかった。
やっと笑うようになったところだった。娘が喋る声は何も言葉になっていなかったが、それでも意思は伝わる気がした。乳臭い柔らかな肌が愛しかった。高山はこれが父性と言うものなのかと、自分自身の変化に驚き、また楽しんでもいた。
だから、急いでいた。
娘が待っている。早く帰らなければ――。
当時高山の頭には、それしかなかった。
だから車の端に人影が差した事を――見逃したのだ。
ブレーキを踏んだ頃には遅かった。ドン、という強い衝撃の後、轍に踏み上げたような揺れが車内に響く。
――やってしまった。
それを理解するのは早かった。人を轢いたと理解するのは、ほんの一瞬の後だったのだ。
高山は慌てて車外へ飛び出す。氷雨が身体を濡らし、眼鏡のレンズを雨粒が滑る。大きく歪んだ視界の先には――。
その後すぐ、高山は車を売った。
妻には車に掛かる費用を娘に回したいと嘘を付き、修理工には電柱にぶつけたと嘘を付いた。
それで全て封印したつもりだったのだ。
※
「……新聞で亡くなった事を知った後は、何度も自首しようと思った……。全て話して、罪を償うべきだと何度も思った……。だけど出来なかったッ。僕には家族が居る……ッ。妻と、まだ幼い娘が居る……ッ。家族に迷惑は掛けられなかった! 僕が居なくなったら家族はどうなる! 娘はッ!」
傘を強く握ったまま、高山はずっと押し殺していた思いの丈を吐き捨てた。
「僕には二人を養う義務がある! 見捨てられなかったんだ! そうだろう? 一生人殺しの烙印を背負わせるなんて僕には出来なかった! 可愛い娘なんだ……。僕の、たった一人の……ッ」
ただひたすらに闇を吸い込んだ瞳が、高山を見据えている。
「……で? それが仕方なかった理由、ですか」
その無慈悲な声に高山は伏せた顔を上げる。男の顔は昏く沈み、まるで顔のないマネキンに人間の面を貼り付けたかのように何の表情も刻まれていない。怒りも、悲哀も、蔑みすらそこにはなかった。
「……まぁ、言いたい事は解りますよ。家族を守りたい、自分の地位を守りたい。誰しも思う事です……。結局身勝手なのが人間だ」
「悪かったと思ってる。でも解ってくれ! のうのうと生きて来た訳じゃないんだ! 僕だって苦しんだんだ!」
「苦しんだ……?」
「それで償える罪じゃない事も解ってる……。僕がどれだけ苦しんでも、被害者は戻って来る訳じゃない……。それでも!」
解って欲しかった。自分勝手な言い分だと充分過ぎる程理解している。高山の言葉はどれも酷く利己的なだけで、到底許しを得られるようなものではない。それでも、罪の意識に苛まれ眠れぬ夜を幾夜も過ごした事を、いっそ死んだ方がマシだと狂おしい日々を過ごして来た事を知って欲しかった。
あの日から、高山はあの出来事を一時たりとも忘れた事などなかったのだ。
「本当に勝手ですね。笑えるくらい身勝手だ。あんたは今、苦しんだと言った。まるでもう解放して欲しいと、もう充分だと言いたげに、苦しんだと言った……。苦しんでいるとは……言わなかった。それがあんたの本心だ」
落ち窪んだ瞳が高山の内部を見透かしている。
「すまなかった!」
高山はもうそうするしかなくて、濡れる事も厭わずその場に膝を付く。顔に泥が跳ねるのも構う事なく、深く頭を下げる。
手を付いたせいで、レジ袋から中身が辺りに転がった。
勿論、そんな事くらいで許して貰えるとは思っていない。高山は人を見殺しにし、あまつさえ逃げ続けて来たのだ。それは土下座の一つで赦される罪ではない。人の理に反している。歩むべき道を違えている。
それでも、高山にはそれしか方法が残されていなかった。
「……別に、謝って欲しいなんて思ってませんよ」
低い、とてつもなく黒い声だった。
その声を聞いた途端、何も伝わらないのだと高山は漸く悟った。この男は、責め立てるつもりでここに居るのではないと理解した。どれだけ苦渋を吐き出しても、どれ程の後悔を叫ぼうとも、この男は責めもせず、そして赦しもしないのだと、やっと理解した。
「なら……ッ……それなら僕はッ……どうすればいい!」
その悲痛な叫びすら、雨音は容赦なく雑音へと変えていく。
高山は大きな虚に――とっくに飲み込まれていたのだ。
「俺の……俺の名前……言ってませんでしたよね」
叫びの名残りが完全に掻き消された頃、男はやはり平坦な声でそう言った。
「……え?」
男はいつの間にか背を向けていた。高山はゆっくりと上げた視線をその背中に固定して、妙に間抜けな表情を顔に刻んだ。
「俺の名前……三浦俊介って、言います。三浦俊介……知って、ますよね」
問い掛けとともに男がブレるように動く。
何の感情も映さない冷たい視線が高山を捉えた。
「ずっと会えると思ってました……。いつか、あんたはここに来る。そんな予感がしていたんです」
会える気がする、と男は言った。
「ここにずっと居たら……あんたは来る……。そう思ってた」
会える気がすると、この男は間違いなく言ったのだ。
「だからずっと待ってたんです……。一ヶ月前の今日から……ずっと……」
仄昏い、全ての光を吸収してしまったような黒い瞳が高山を見据えている。何もかもを飲み込むような、真っ暗な瞳が――。
そして高山は、漸く気が付いた。
この男は――この男はどうして、濡れていないのだ。
この男は何故――息が白く立ち上らないのだ。
それに気付いた途端、鼓動が耳に張り付いた。それに紛れ、引き攣るような滲んだ呼吸音がする。眼鏡に流れる雨粒のせいで視界が大きく歪み、口許から立ち上る白煙によって男の姿が濁っていった。
それ以外の感覚はなかった。今自分がどんな体勢であるのかも判然としない。もしかしたら、あまりの衝撃に気を失っているのかもしれない。そう思う程、それが解らない程、高山の身体は冷たく凍ってしまっていた。
地面から、じわじわと恐怖が這い上がって来る。
虚が――ぱっくりと開けたその口を――閉じようとしていた。
「……りんご……俺、好きだったんですよね……」
男はその足元に転がっていたりんごへ視線を落とし、懐かしそうにそう言った。その後、ゆっくり高山の目の前まで差し迫り、じっと昏い目を向ける。
男の足が接触した筈のりんごは、微動だにせずそこに在る。
男の顔が糸を引くようにじわりと近付いた。
「俺がまだ……生きてた時は……」
「……三浦……俊介……ッ」
その名前を呟いた後、高山の喉は一切の声を遮断した。
――こいつは――この男はッ。
「……あんたは俺を……殺したんだ……」
耳元で低く囁かれたきり、
全ての音が――消えた。
記憶や後悔から逃れる術はない。
悔やんでも悔やまなくても、愚かな行いは一生ついてまわる。
― ギルバート・パーカー
(了)
揺らぐ孤影
お題:『秋』『幽霊』『異常』
吉田雅史は、いつものように辺りを入念に見回す。前後左右、全てへ視線を配ってから、階段の手摺りに身体を半分預けて階下を見下ろす。そうしたまま数秒間耳を澄まし、漸くその前へ立った。
吉田の目の前には扉がある。
どこにでもある、至って普通の鉄扉だ。
その前に陣取った吉田は、シャツの胸ポケットから細長い針金のようなものを取り出し、やはり辺りを気にしながらそれを鍵穴へと差し込む。左右にゆっくりと手首を返し、それから少しだけ上へ針金を動かすと、カチリと小さな音がした。
ふう、と唇から小さく息が漏れる。
針金をもう一度胸ポケットへ戻した吉田は、ゆっくりとドアノブを捻り、音を立てないよう幾分慎重にそのドアを開けた。
風に煽られ、ドアの磨りガラス部分に貼り付けられている『立ち入り禁止』の張り紙が揺れた。
見晴らしの良い屋上である。
高さこそないものの、辺りの建物が低いお陰で開放感がある。天から続いている青空は目線の高さまで大きく広がり、今日のような晴天であれば遠く霞む山並みまで見える絶景の場所だった。
季節は春に差し掛かった頃で、日差しは温かい。だが屋上を浚う風は秋風のように若干冷たく乾いている。日向に居て丁度良いような、そんな陽気だった。
吉田は日差しに目を細めつつネクタイを緩めると、尻ポケットから煙草とライターを取り出した。
「……あぁ、だりぃ……」
咥え煙草のまま、屋上の縁にある手摺りまで近付く。
漏れた声は仕事への不満であった。
吉田は新聞を作っている会社に勤めている。記者と言えば聞こえはいいが、所詮地方新聞だから大きな仕事は回って来ない。精々どこぞの泥棒が捕まった程度の事件が一面になるくらいで、都心部の記者たち程忙しくもなく、暇と言う程余裕もない、中途半端な忙しさだった。
だから吉田は、鬱屈した気分になると屋上へサボりに出た。狭苦しい室内であくせくしているのが嫌になると、開放感を求めてここへ来る。勿論、トイレより長く居ないのだから上司も知っている訳で、何度も咎められた事もあるのだが、どうしても逃避しなくなるのだ。
手摺りに背中を預け、ぼんやりと上空に流れる雲を眺めていた吉田は思い出したように身を翻し、漸く煙草に火を付ける。青みがかった煙を視線で追い、溜め息を零しながら手摺りへ上半身を投げ出すようにして寄り掛かると、大きく息を吐き出した。
いつもなら煙草の一本も吸い始めた頃には楽になって行く閉塞感も、何故だか今日は晴れない。
こういう日はままあった。
何をしてもしゃっきりとしないというか、物が何ひとつ頭を通らない日は、社会人なら一度は経験した事があるかもしれない。言わずもがな、そういう日は小さなミスが重なり、どんどん気が滅入っていく。
尻ポケットへ伸ばした手を止めた吉田は、それを誤魔化すようにして煙草の先にぶら下がっている灰を指で落とす。
「サボりスか?」
それからゆっくりと顔を横へ向け、まるで気紛れだと言わんばかりに声を掛けた。
「……はい?」
その視線の先、屋上の四隅の一角には紺色のスーツを着た先客が居た。こういった事はままあった。簡単に施錠が外せるこの場所は、この辺りの社会人の社交の場にもなっていたから、時々ご同輩と会う事もある。
男は急に声を掛けられたからなのか、非常に間が抜けた不思議そうな表情を浮かべていた。
「いや、まだ昼休憩には早いっしょ」
そう言うと、吉田は自分のしている腕時計を指差す。時刻は十一時を少し過ぎたところだったから、幾ら交代休憩だったとしてもまだ早いだろうと思ったのだ。
「あぁ……いえ……」
「じゃ、やっぱサボりだ」
頭ごなしにそう決めつけると、吉田はその気持ちも良く解ると自分勝手に頷いて見せた。
男は頷くでもなく否定するでもなく、酷く曖昧に頭を動かして苦笑する。
「俺、吉田って言います。吉田雅史。向かいのビルの新聞社に勤めてます」
「あ、あぁ……。高山健吾です。しがないサラリーマンです」
男たちはまるでそれが染み付いているかのように、自己紹介の後頭を下げる。仕事をサボっているにも関わらずその延長上であるかのような動作をした事に、吉田はヘラヘラとした笑みを浮かべる。
「怠いっスよねぇ」
「え?」
「仕事。毎日毎日同じ時間に起きて、混んだ電車に乗って……おんなじような事毎日して……帰って寝るだけで……。なんかこう、気が晴れるような事ないっスかねぇ」
「と、言いますと……」
「なんかこう……非日常みたいな、超異常事態みたいな。何て言うのかなぁ、驚きも新鮮さもないじゃないですか」
吉田の人生は、埋もれてしまっていた。
無意味に消費されるだけの時間は、一分一秒と過ぎ去る度心身を摩耗させ疲弊させていく。唯でさえ鬱屈している人生が、それによって更に窮屈になっていった。
必然、感覚は日に日に鈍くなっていくばかりだった。
次々と手元にやって来る事件や事故すらも、刺激には成り得ない。所詮対岸の火事でしかなかった。吉田にとってすれば、それはどれも他人事だったのだ。
荒んでいると思うし、破綻しているとも思う。
いつからか吉田は、人間を形成する上で大切なものを見失ってしまっていた。
そんな話をすると、高山は掛けていた眼鏡を指の背で押し上げ、遠く晴れ渡る空を見つめた。
「……幽霊って、居ると思いますか?」
「え?」
驚いたのは吉田の方だ。先程話し掛けた時の高山より間抜けな表情を浮かべただろうと思う。
「信じます? 幽霊」
高山は同じ質問を違う言葉で言い、吉田へ視線を移した。
「……俺は……信じ、ないかなぁ……」
そう言いながら小さく手を握り、視線を空へと向ける。
「だって見た事ないし。俺のじいちゃん、もうとっくに死んでるんですけど、一度も見た事ないんですよね。どんなに願っても会えないなら、居ないのと一緒でしょ」
「確かにそうですね」
「高山さんは信じるんですか」
吉田の言葉に笑いながら頷いていた高山は、その問い掛けに一瞬動きを止め、表情を少し強張らせた。
「……ある……男の話をします……」
丁度太陽が雲に隠れ、高山の顔に影が差した。
「その男は僕と同じサラリーマンでした。吉田さんの言うところの同じ日常を繰り返していた。毎日、毎日……。それでも男は満足していました。家に帰れば、美しくはないけど料理の上手い、気立ての良い妻が待って居たからです」
「羨ましいっスね」
未だ独身の吉田はそう茶々を入れ肩を揺らすと、すっかり短くなってしまっていた煙草を落とし足で消す。
「男はそれだけでも充分幸せでした。そして結婚して数年後、もっと大きな幸せがやって来たんです。男の妻は言いました。妊娠した、と」
そこまで言い、高山は顔を上げる。綺麗な水色をした空に、筆で刷いたような雲が漂っていた。
「男は有頂天になりました。自分に子供が出来るなんて思ってもみなかったからです。勿論、出来る可能性がある事は理解していましたが、それが本当に現実になるなんて思ってもみなかったんです」
空を見上げていた高山の目が僅かに細まる。まるで過去を邂逅しているかのようだと吉田は思い、それは外れていないと確信している。
「生まれて来た子は女の子でした。男親は女の子を、女親は男の子を可愛がると言われていますが、男も同じでした。可愛くて仕方がない。夜泣きで起こされても、男は苦痛を感じませんでした。それどころか、泣くという事は生きている事なのだと、毎日実感していたんです」
疲れなど感じませんでした――高山はそう言い、表情を緩めた。
「仕事にも張りが出ました。自分が稼いだ金で妻子を養える事が楽しかったんです。給料が入ったら何を買ってやろう、どこに連れて行ってやろう、どんな学校に進ませてやろう……。希望が広がる度、男は妻に気が早いと窘められる程でした。そんなやり取りすら、男には幸せでした」
「いいなぁ……。俺もそんな幸せ手にしたいですよ」
嫉妬半分冷やかし半分で言った吉田に視線を戻し、
「でもね、吉田さん……。幸せっていうのは、量が決まっているのか……ずっとは続かないんですよ」
高山はそう言った。
「……冬の……ある寒い夜でした……。男は自家用車で家路を急いでいた。家に帰れば幼い娘と妻が待っている。早く帰らなければ……。男は近道を選びました。大通りと違って小道になっているその道は、普段から人通りが少なく地元の人間しか知らないような便利な道でした……」
そこまで話した高山の手が、緩く握られる。
「……あっという間の出来事でした。男には影が差したとしか解らなかった。ブレーキを踏んだ頃には……車体に何か重い物がぶつかった衝撃と、轍に乗り上げたような揺れが襲っていました……」
「……え……人轢いたんですか?」
二本目の煙草に火を付けようとしていた吉田は、思わず動きを止める。
「……通報すれば良かったのだと、男は今も悔やんでいます……。あの日からずっと、男は苦悩していた。忘れた事など一度もなかった。だけど男には……妻子が居た……。だから男は――」
「逃げた……んですか……」
背筋が薄ら寒くなった気がした。
高山の邂逅は、いつしか犯した罪の自供になっている。そして吉田は、その情景を手に取るようにありありと思い描いていた。脳裏に過る光景が背後から冷気を流し込む。
「……こんな事言い出して、困らせているのは解っています……。それでも、最後まで聞いて貰えますか……」
吉田の戸惑いを感じたのか、高山の瞳は懇願で滲んでいる。
その視線を目一杯受け取った後、吉田は二本目の煙草に火を付けた。
それが合図だった。
「……それから数年後、男は不意にその道に辿り着きました……。あの日以来ずっと避けていたのにも関わらず、です……」
それを受けた高山は安心したように話し始める。
「そしてそこで……一人の男に出会いました……。事故のあった場所……未だに誰かが花を添えているその場所に、その男は居ました……。それを見た途端、男は足の竦むような気持ちがしました。恐怖とは何かと聞かれたら、男は真っ先にあの情景を思い出すでしょう。それくらい、男にとっては怖いものだったんです……」
高山がそう言った途端、地上が大きく陰った。
吉田は咄嗟に上空を見上げる。先程まで温和な光を放っていた太陽は、薄暗い雲に完全に隠されてしまっていた。視線を戻せば、陰より昏い高山の姿がある。まるでその身から闇が滲んだような光景だと、吉田は鳴った喉を止める事が出来なかった。
「……男はまた逃げ出そうと思いました。見たくなかったんです。自分の傷を――闇を……。だけど……人生はそう上手く行かないんですよ……。男は話し掛けられてしまった。口振りからするに、そこに居た男は身内のようでした。事件のあった日、そこで人が死んだ事、まだ……犯人が捕まっていない事をただ淡々と伝えられました。逃げ出したい、もう聞きたくないと男は何度も思いました。それでも身体が動かない。解りますか? この恐怖が……」
吉田を見据えた高山の瞳からは光が奪われてしまっている。
場を和ませる為の軽口も紡ぐべき言葉も、その仄暗い瞳に奪われて、吉田はただ黙るしかなかった。
何も言われないと気付いたのか、高山は自虐的な笑みを口許に灯してから視線を外す。
「男の口振りは、決して誰かを責め立てるようなものではありませんでした。その口調はまるで平坦で、何の感情もなかった。それが耐えられなかった。男は謝罪しました。それしか逃れる方法がなかったからです。許して欲しかった。自分勝手だと解っていながら、少しでも負担を減らしたかったんです。秘密と言うのは、吐露してしまえば楽になるものだと、男はそんな風に感じていた……」
でも――高山はそこで言葉を切り、手摺りへと一歩前へ進む。
その瞬間強い風が屋上を撫ぜ、吉田の手元で煙草がジジ、と小さく燃える。
「……許される事なんて……なかった……。過去は変えられない。やってしまった行いは一生背負っていかなければならないのだと、取り返しなど付かないのだと、気付いたんです……」
「……それは……何で、ですか……」
やっと出た言葉は聞いても仕方がないような問いだった。それが当たり前だったからだ。過去をやり直したいと願う人間は殊更多い。そうして皆、やり直せないのだと理解する。だから後悔のないようにだとか、先を見据えろだとかいう説教が出来るのであって、どうしてそう思うのだと問い掛けられたところで、そうだからだとしか答えられないだろう。
――無意味だ。
そんな事は、吉田自身が一番良く知っている。
高山は自嘲するかのような笑みを浮かべ、
「……男が出会った男は――被害者だった、んですよ……」
そう言った。
「……被害者……?」
「彼は被害者本人だった……。ずっと僕を待っていたんですよ。死んで尚、そこで僕を待っていた。僕に事実を突き詰める為だけに、僕に現実を見せる為だけに、やり直す事など出来はしないのだとそれを伝える為だけに――」
「幽霊だった……って事ですか……?」
俄に信じがたい出来事だった。もしかすると、これは暇を持て余した吉田を楽しませる為の戯れ言なのかもしれないと思う程、現実味が薄い。元より幽霊など信じていない吉田にとってすれば、この話をそのまま飲み込めなど到底無理な話である。
「……上手いなぁ。高山さん、噺家になれるんじゃないですか? すっげぇ臨場感あったし、俺すっかり騙されるとこでしたよ」
だから吉田は、やはりそう茶化した。
言われた高山は、笑みを浮かべる。
「僕はね、吉田さん……。もう、疲れてしまったんです……。妻子に隠し事をし続ける事も、背中にべったりと張り付いた罪を感じ続ける事も、疲れてしまった……」
また一歩、高山が手摺りへと近付く。
「もういいですってぇ。降参ですよ。俺の負けです」
罪の邂逅は冗談だったと思い込んでいる吉田は、軽快な口調で言うとすっかり火の落ちてしまっていた煙草を足で揉み消した。
「吉田さん!」
「おわっ! びっくりした!」
突然響いた怒声に近い声に、吉田は反射的に声のした方へ顔を向ける。
「またこんなところで仕事サボって! 編集長怒ってますよ!」
屋上に駆け込んで来たのは同じ新聞社に勤める女性社員で、編集長に相当当たられたと見えて、両眉を釣り上げている。
「解った! 解ったよ。もう戻るから」
吉田は銃を突き付けられた犯人のように両腕を上げ、投降の意思を示してから顔だけを後ろへ向ける。
「そういう訳なんで俺――」
そこまで言って、吉田は声を失った。
居ないのだ。
先程まで居た筈の高山がどこにも居ない。
血の気が引いた。
「嘘だろッ!」
吉田は咄嗟に手摺りの外を見る。罪を苦にして飛び降りたと思った。
「……あ、れ……?」
――だがそこには、何もなかった。
人が飛び降りた形跡も、失敗した跡もない。ただ眼下に広がるのは、大通りを過ぎ去る人々だけで、何か事件が起こった様子もない。
「……ていうか、良くこんなところで煙草なんか吸えますね……」
女性社員は顔を大きく歪め、辺りを見回しながら自分を抱くようにして身体を擦っている。
「……え?」
「だって、自殺あったの一昨日ですよ? あぁ、そっか……。吉田さんお休みでしたっけ……。あったんですよ、自殺……。何か、事故の加害者だったみたいで、それを苦に――」
その話を最後まで聞く余裕もなく、吉田は走り出した。階段を掛け降り、歩道を突っ切って反対側のビルへ駆け込む。
「吉田ぁ! おめぇ何してんだ!」
編集長の怒号に答える暇もなかったのは、呼吸が乱れている所為だけではなかった。
吉田は一直線に端末の前に駆け寄ると、高山健吾という名前を入力する。新聞社で扱った事件は全てこの端末で管理されていたから、今聞いた話が本当なら記事が出る筈だ。端末が記事を検索する時間も、吉田の気持ちを焦燥させる。
自然、吉田は指先で机を叩く羽目になる。
そうして暫くの間の後、その動きが不意に止まった。
「…………あっ……た……」
吉田の目の前にある画面には、高山があの場所で飛び降り自殺をした事、一ヶ月前に起こした轢き逃げ事件の自供と思われる遺書があった事、その事故が実際起きていた事が映し出されている。
そしてその記事の横には――。
事故の被害者と高山の、二人分の顔写真があった。
画面からゆっくり顔を引き離した吉田は、ふと思い至る。
屋上に続く扉は――確実に施錠されていた。
あの鉄扉は外側から鍵を掛けられないようになっているから、高山が先に上がっていたとすれば、やはり辻褄が合わないのである。
――だったら、やっぱり自分が見たものは――。
幽霊――だったのだろうか。
だとするなら高山は、死んでも尚罪の意識に苛まれている事になる。秘密を吐露すれば楽になる筈だと思っていたと言っていた。背中に張り付いた罪を感じている事に疲れたと言っていた。
――なのに。
吉田は社内の窓に近付くと、先程まで居たビルを見上げる。
そこには――。
高山と思われる昏く沈んだ人影が――揺らいでいた。
過去は死なない。過ぎ去りさえしない。
― ウィリアム・フォークナー
(了)
滲む漆黒
お題:『変わってしまった』『声』『苛立ち』
「ふッざけんなよ! 何で俺なんだ!」
この世の黒を全て塗り込めたような夜の肌に、男の怒声が響いた。虚空にぶつけた苛立ちは、すぐさま白い烟りとなって闇に吸い込まれる。
「……ふざけんなよ……ッ。誰が死んでやるかよ……。思い通りにはさせねぇぞ!」
男はじわじわとその身に迫る死の恐怖と戦っていた。その焦燥が、男の不審な挙動に表れている。不自然に見開かれた瞳は、鋭く濁っていた。
男が死に怯えるのには理由がある。
職場の仲間が次々と不幸に見舞われているのだ。最初は一人が自殺したと聞いた。次に一人が失踪して行方不明になり、その次は事故で亡くなった。
そしてその全てに、一人の男が関与している。
その死神のような男の気配を、まざまざと感じているのだ。
男は――三浦俊介は、肩を固く怒らせたまま辺りを睨め付けた。
「加藤さんも……中谷さんも田中も! お前が殺したんだろ! くそッ――俺は死なねぇぞ……冗談じゃねぇ……ッ」
そう叫びながら、視界の端に何かの気配を感じる度顔を向け、そこに何もないと解るとまた別の場所へ身体を向ける。
三浦には時間がなかった。死はもうすぐそこまで来ている。考えている時間などとうに失われていた。
差し迫った危機と対峙するか死を待つか、そのどちらかしか道は残されていない。
「言いたい事あんなら言ってみろ! どうせ……ッ……どうせ言えもしねぇ癖に……鬱陶しいんだよ!」
焦燥と憤りを吐き出す度、三浦の口許から白煙が立ち上る。それが視界を濁らせていき、更に恐怖を煽っていった。
三浦の聴覚が、不意に窄み始める。金属音にも似た高い音が外界の音を遮断し、三浦を世界から孤立させて行く。音はどんどんと遠くなり、その度に呼吸音がやたらと耳に付くようになっていった。
「……何なんだよ……ッ」
三浦は反射的に自分の片耳を押さえた。何をしても聴覚が復帰しない事は解っていた。それは不吉が訪れる予兆なのだ。じわじわと滲み出す墨のように、それはいつでも聴覚の異変と共に現れた。
「何なんだよ!」
三浦は感じた苛立ちのまま腕を振り下ろす。
「ふざけ……ッ……ふざけんなよ! 澤村ァ!」
その怒声は、やはり白い烟りとなって寸の間の後、掻き消えた。
※
職場の後輩――澤村尚樹が自殺したと聞かされたのは、その葬儀の一日前だった。訃報を齎したのは上司からの電話で、聞かされた瞬間、同時に沸いた二つの感情の所為で愕然とした。
やはり、という気持ちと、まさか、という気持ちだった。
後輩であった澤村は、コミュニケーション不全という言葉がしっくり来るような性格だった。常に誰かの顔色を窺い、何かに怯え、おどおどとしているという形容が生易しい程の気弱さを持っていた。
だから追い詰めれた時、生と死ならば死を真っ先に選ぶような人間だろうと思う。弱々しく自己主張のないあの性格であれば、何らかの精神的な疾患を持っていても不思議ではなかったのだ。
そして同時に沸いたもうひとつの感情は、
澤村を死に追いやった遠因が自分にもあるのではないかという自己保身に基づくものだった。
三浦は、職場の人間と共に澤村を蔑ろにしていた。
有り体に言えば、澤村は嫌われていたのだ。
出来が悪かった。何をしても鈍臭く、要領を得ない喋り方が周りを苛立たせた。何ひとつまともに出来なかった。同じミスを何度も繰り返し、澤村と他の社員との軋轢は日に日に強まっていく。
そうしたある日、澤村が小さなミスを犯した。何度も繰り返し注意されていた筈のミスだった。ずっと押し殺していた感情が暴発するには、それで充分だった。
その日を境に澤村は、明らかな敵意を向けられるようになったのである。
その敵意が暴力の形を取るのに、さして時間は掛からなかった。毎日職場の陰で虐めとも取れる行為が行われていた。他の社員たちは率先してその輪に加わる事はなかったが、暴言の一つや二つならぶつけている筈だ。三浦とてその例外ではない。いや、暴力を振るわなかったというだけで、その罪は他の人間よりは僅かならず重いだろう。
知っていて誰も止めなかった。それは、言われるだけの、されるだけの理由があるのだという同調圧が社内に蔓延っていたからだった。
だから結局、暴行という犯罪が社内で行われているという公然の秘密が役員に伝えられる事はなかったし、秘密を知っている全員が加担した事になるだろう。
それが、三浦の脳裏に暗い陰を落とした。
次の日行われた澤村の為の葬儀は、白々しいものだった。
誰ひとりとして弔う気などないのだ。成り行き上仕方なく社葬となっただけで、準備をしている間もその最中も煩わしいという感情が足元に沈殿していた。
粛々と進められた葬儀は、だから憐れみも悼む気持ちもない、空々しいものだった。
それは出棺が済み、納骨が済んだ後も変わらなかった。
何も変わらなかったのである。
社員が一人自殺したという普通であれば衝撃的な事実は、この職場においては風化するのが早かった。職場の雰囲気は、まるで澤村が最初から存在しなかったかのようであったのだ。
あんな奴の事はさっさと忘れてしまおう――そういう空気が出来上がっていた。
それに三浦はゾッともしたし、安堵もした。
このまま何もなく時間が過ぎ去れば、その内何もかも本当になかった事になる。自己保身を大前提に考えるのであれば、それで良い、それが一番なのだと、そう考えるようになった。
俺は悪くない――。
その感情は、日増しに強くなっていった。
それが変わってしまったのは、初七日を過ぎた頃からだった。
先輩の加藤が自殺したと聞かされた。その突然の訃報は職場を混乱に陥れ、そして暗い影を落とす。澤村の一件があってから不幸が不幸を呼んだのか、小さな町工場を襲った不運はそれだけでは収まらなかった。
その十四日後、中谷まで失踪したのである。
いずれも理由が解らなかった。加藤はどちらかと言えば溌剌としている性格で、自ら命を絶つような人間ではなかった。また不義理を嫌う中谷は、十年以上の勤続経験で一度だって無断欠勤をするような人間ではなかったのだ。
その違和感が、工場に不穏を呼んだ。
二人の古株が残した謎は、毎日誰かの口の端に上がる。呪われたのではないか、祟りかもしれないと口にする社員も居た。その根幹は、あの虚しいばかりの葬儀と全てに蓋をしようとした自分たちの行いに根ざしている事は明らかだった。
その内、一度お祓いをしようという話になった。目に見えない恐怖が職場の人間に影を落としているのは明白で、騒ぎを収めるにはそれくらい大仰な方が尤もらしい理屈になるのだろうと、三浦は半ば冷めた感情でそのやり取りを聞いていた。
「……ちょっといいか」
そんな中、同僚の田中に声を掛けられたのは、その日の終業時間が過ぎた頃だった。
「どうした? 俺今日見たいテレビあんだよね」
田中が声を掛けて来る時は大抵一杯付き合えというものだったから、三浦はそう言って小さく笑う。だが田中は顔を強張らせたまま辺りを見回し、そして隣の椅子を引いた。
「……出るんだよ……」
「……何が」
三浦の問いに、田中は逡巡するように両手を揉む。
「何だよ、はっきり言えよ」
「……澤村が……出るんだ……」
「……は?」
脈絡なく出された話題はあまりに唐突で、何を馬鹿な事をという苦々しい感情を殺す事に苦労する。
「おかしな事言ってるって解ってる……。でも俺怖くてよ……。聞いてくれよ……。もう、おかしくなりそうでさ……」
田中が身体を動かす度、椅子が小さな悲鳴を上げた。
「中谷さんが失踪した原因……。俺、知ってるんだ……。中谷さんとこにも出たんだよ、澤村が……。俺相談受けててさ……。お祓いとか、神社とか寺とかに相談にも行ってさ……。でも、どうにもならなくて……」
「ちょ、ちょっと待てよ。言ってる意味が解かんねぇよ」
俄に信じ難い話だった。澤村の幽霊が出ると聞いて、それが失踪の原因だと聞いて鵜呑みには出来ない。唯でさえ、呪われたのではないかと噂になっているのだ。その雰囲気に飲み込まれたとしか思えなかった。
「お前にも解るだろ。加藤さんの事だって、多分、澤村の仕業なんだよ……。だって俺らさぁ――」
俺ら――その言葉を聞いて、一瞬背筋が冷えるのを感じた。
三浦の脳裏に、忘れたい過去と澤村の歪な笑顔が思い描かれたのだ。
何をされても崩れる事のなかったあの不気味な笑顔を思い出し、薄ら寒い気持ちになる。
「……ふざけんなよ……。やめろよ、そういう冗談……。笑えねぇって……」
「冗談なんかじゃねぇんだって! お前だって、やばいと思ったろ? 澤村が死んだ時、お前だって――」
「俺らは悪くねぇだろ」
立ち上がった田中のその言葉を、三浦は強い口調で制した。
「勝手に死んだあいつが悪いんだろ……。弱かっただけだって……。嫌なら辞めりゃ良かったんだしさ……。就職先なんか、幾らでもあんじゃん。勝手に我慢して、勝手に死んだあいつが悪いんだって。俺らに責任なんかねぇよ……」
そうだ。俺たちは悪くない。
呪い? 祟り? 何を馬鹿な事を――。
三浦はゆっくりと田中の瞳を見据えた。
「お前も気にし過ぎだって……。大丈夫だよ。加藤さんも、中谷さんだって何か他に理由があったかもしれないだろ? たまたま――」
「俺……殺されるかもしれない……。あいつ、近付いて来てるんだ……。毎晩、毎晩……少しずつ……。顔、見たらさ……。俺……どうなるんだろうな――」
そしてその言葉は、事実となった。
澤村が死んでから三十五日後、田中は交通事故でこの世を去った――。
※
「何なんだよ……ッ……。何なんだよッ!」
街頭以外目立った明かりのない道を三浦は駆け足で歩いていた。細かく降り注ぐ雨は、着ているダウンジャケットを容赦なく濡らして行く。異常に目深に被っているキャップが、目元を黒く沈めていた。
忙しなく足を動かしながら、三浦は時折辺りへ視線を向ける。そうして気配を探り、視界に何か過る度身を固くした。
澤村が――出るようになったのだ。
田中の言葉通り、三浦の元にも現れるようになった。
最初は裸足の足先だけだった。それが丁度スポットライトとそれが作り出す闇に切り取られたようにぽっかりと浮かんでいたのである。次の日には足首の辺りまで見えるようになった。その次にはふくらはぎが、次に膝が、そしてそれは徐々に澤村の身体を形成していく。
近付いて来るという言葉を思い出したのは、それから一週間も経たない頃だった。
田中の言っていた事は全て真実であったのだ。
だとするのなら、三浦は死の宣告を受けたのと同じである。もっとちゃんと聞いておくべきだったと後悔した。あの日過去の邂逅から目を逸らした三浦は、結局それから田中とまともに話す事もなかった。
ありありと焦燥していく同僚に気付いていながら、手助けする事も、関わり合いになる事すらしなかったのだ。
「クソ――ッ」
三浦は自分の手の甲を噛み締める。
何か対処法はないのかという焦りと、何の手立てもないのだという現実が三浦を苦しめていた。
「……死なねぇぞ……ッ。誰が死んでやるかよ……。冗談じゃねぇ……ッ」
きっと逃げ道はある筈なのだ。呪いや祟りなどというまやかしに足を取られて堪るかと、三浦の歩みは自然強くなっていく。
――あいつが悪いんだ。俺は悪くない。
足が地面を強く踏み締める度、その感情が三浦の内部を支配していった。
――あいつが弱いのが悪いんだ。勝手に死んだんだ。
自己保身の為の言い訳は、いつしか三浦にとっての真実となった。自分の行いが自殺の遠因であったかもしれないという後ろ暗さを隠す為、それに綺麗に蓋をしてしまう為、三浦は幾つもの言い訳を己にし、そしてそれを事実に摩り替えた。
そうであったのだから仕方がないのだ、という保身をしたのだ。
相手はとうに死んでいる。死人に口なしと言うがまさにその通りで、三浦が口を挟まなければ本当のところが明るみに出る事はない。
俺が正しいんだ。俺は間違っていない――。
その自己保身が完全な形を取った瞬間、三浦の足が止まった。
男が、立っていたのである。
反射的に澤村かと身構える。だが男は暗がりに立っていて、それが現れる時の理とは外れていたから、肩に入れた力をすぐに抜いた。
着ているのはレインコートか、その表面が雨でてらてらと光っている。被っているフードの所為で、ゆっくりと引き上げられた顔は良く見えなかった。
「……三浦、俊介さん……ですね」
男と三浦には少し距離がある。それが男の容姿を闇に隠し、そこに居るのが知り合いなのかどうかも解らなくさせている。三浦は僅かに警戒した。
何故名前を知っているのだ――そう思ったからだった。
「……澤村尚樹を知っていますね?」
男の言葉はどれも断定的だ。それが何もかも知っていると三浦に予見させる。落ちた肩が、もう一度迫り上がった。
「……あんた、誰だ」
三浦の言葉は強い。気が立っていた。唯でさえ追い詰められているのだ。死の予感はもうすぐそこまで迫っている。明日か、明後日か、いずれにしろ遠くはない未来にそれと直面せねばならない焦燥が、三浦の感情を逆撫でしている。
「弟が……お世話になりました……」
ゾッとした。
身内は居ないのではなかったのかと思う。だが目の前に居る男は確かにそう言った。信じ難いと思う気持ちと、確実にそうなのだと突き付けられる現実で、三浦は言葉を一瞬失った。
街灯の光を浴びた男の顔には、澤村の面影があったのだ。
「随分酷い事をしてくれたみたいですね……。全部、知りました。知っているんです……。あんたたちが弟に何をしたのか、弟がどうして死を選んだのか……。全部、調べましたから……」
「……け、刑事か」
そう言うと、男は小さく笑って一歩、歩みを進める。三浦は反射的に後退した。
「弟は……懸命に生きていました。死を望み死に憧れ……それでも生に縋っていた……。生きていたいと渇望していたんです……。それをあんたたちが……壊した……」
問い掛けに答えはなく、代わりに、じり――と男が一歩近付いた。
「弟はどれだけ無念だったでしょう。どれだけの苦渋を味わったでしょう……。生きたいと願いながら死を選ぶ事は……どれ程の苦しみでしょうか……」
男との距離が徐々に縮まっていく。じわり、じわりと男が近付くにつれ、その表情がはっきりと見えるようになっていく。
「……だから……だからどうだって言うんだよ……。勝手に死んだあいつが悪いんだろ! 俺に何の責任があるよ! 俺の所為じゃねぇだろ!」
三浦は精一杯の虚勢を張った。そうでもしなければ、男から滲む暗澹たる感情に飲み込まれてしまいそうだったからだ。
「ふざけんじゃねぇよ……。俺が何したって言うんだよ! 聞いてんのか! 澤村ァ!」
その瞬間、キーン、と高い音がした。耳鳴り特有の音である。周りで聞こえていた雨音が窄み、篭っていった。
三浦は咄嗟に片耳に触れる。自然と顔が傾き、眉が大きく歪んだ。
その視界の先、目の前に居る男の影が、二重にぶれる。
澤村のものか、男のものか、それは時折重なり合い、あるいは僅かにズレて見えた。
「死なねぇぞ……。俺は……ッ。殺されてたまるかァ!」
そう叫ぶや否や、三浦は全身全ての力を使って駆け出した。ここを抜ければ大通りに出る。そうすれば数人の人が居るだろう。助けを求めればいい。殺されそうになっていると話せば事が大きくなるだろう。放ってはおかれない筈だ。
そうすれば、そうすれば――。
凍えた雨が三浦の素肌を滑り落ちる。白く烟る闇が、幾つもの街灯の光に切り裂かれていた。
その下に、澤村が――ぶら下がっていた。
顔は赤黒く鬱血し、舌が飛び出している。投げ出された四肢が風に煽られたように揺れていた。
あぁ――顔を見てしまった。
その絶望が、足の速度を無意識の内に落とす。
その瞬間、大きく身体がぶれ、目の前が真っ白になった。
息を飲む隙もなく、何かを考える暇すらなかった。
ただ覚えているのは、
楽しげに自分を見下ろす澤村の歪んだ笑顔と、走り去る車のエンジン音だけだった。
復讐を果たしてこそ、相手を許す気になる。
― スコット・アダムス
(了)
冴え凍る闇
お題:『兄弟』『サディズム』『貨物列車』
弟はいつもサディズムの被害者だった。
最初は義父の、次に同級生の、そしてそれは社会人となっても変わらなかった。弟は常に暴力の対象者であり、サディストたちの捌け口であった。
何が悪かった訳ではない。性格は大人しく積極性こそなかったが、弟はそれでも絶望はしなかったし、生きる為に懸命に足掻いていたと思う。人に馴染む為の努力も、自分を殺す努力だってしていた。自己顕示欲を殺し承認欲求を無くし、それでも誰かに認められる事だけを夢見て、いつか必ず報われると信じ生きていた。
大丈夫、いつか必ず――何度その言葉を口にしたか解らない。
世界はとてつもなく広いのだ。どこかに必ず理解者が居ると、何度励ましただろうか。それをいつだって疑っていなかった。そこを疑えば、弟は生きる為の足枷を無くしてしまうとそう思った。人は誰しも足枷などなく自由に居たいと願うものだが、それが完全に無くなってしまった時、人は生きる目的を見失う事も解っていた。
人は何かに縛られて居ないと生きていけないものだと、解っていたのだ。
だから励まし続けた。大丈夫だ、お前ならやれると躓く度立ち上がらせた。尻込みする身体を押し出し、支え続けた。
だが弟は他者から与えられる身勝手なエゴによって――死んでしまった。
※
吉田雅志はその日もやはり、そこに居た。
時刻はもうすぐ陽も落ちる頃合いで、西に沈む夕日が空を真っ赤に染め上げている。それも時期に藍色へと変化し、そうして間もなく夜の帳が降りるだろう。
屋上へ出た吉田は、ジャケットの胸ポケットから煙草を取り出すと一本に火を付ける。遮るものの何もない高い空を眺めながら、口から紫煙を吐き出した。
指先で灰を落とした吉田は、口から零れそうになった溜め息を寸で止める。尻に伝わる振動の所為だった。緩慢な動作でズボンの尻ポケットからスマートフォンを取り出す。
画面には『尚樹』と表示されていた。
「もしもし? どしたぁ?」
吉田はその電話を取る時、自分がどのような状態に置かれていようと何事もなかったかのように出る事にしていた。でなければ他人の挙動に敏感な相手に些細な違和が伝わってしまうからだった。
『……もしもし、兄ちゃん? ごめん、俺だけど……』
「解ってるよ、表示出るんだから。謝んなくていい」
それがいつものやり取りだ。暴力に晒され続けた尚樹は、自分が悪くても悪くなくても謝る癖が付いている。悲劇だと、吉田はそう思う。
「それで? どうした?」
『……何があった訳じゃないんだけど、兄ちゃんどうしてるかなって思って』
「俺? 俺は今サボってるとこ。もう面倒臭くてさぁ……編集長もうるせえし、解放してくれぇって、トイレ行くフリですよ」
吉田はそう、出来るだけ冗談めかした口調で言った。
『相変わらず忙しいんだ……。あんまり無理しないでね』
「お前もな」
『うん……。兄ちゃんさ、俺があげたミニカー、まだ持ってる?』
それは兄弟が離れ離れに暮らしていくと覚悟した時、弟から貰ったものだった。
吉田と尚樹は、両親の離婚によって高校を卒業するまでの期間を別々に過ごしていた。離婚自体は吉田が望んだもので、義父の虐待に耐え兼ねた吉田が自身の喉に包丁を突き付け母親を脅したのだ。だが母親には二人を育てるだけの金銭的余裕がなく、尚樹だけが親戚の養子になった。
そしてたった二人の兄弟が離れる日、互いに一番大切なものを交換したのだ。
「持ってるよ。今は部屋に飾ってる。あれから増えてなぁ。ちょっとしたコレクションになったよ」
『そっか……』
「それがどうかしたか」
『いや……どうなったかなってちょっと気になって。兄ちゃんのとこにあるなら安心だね……』
何となく、言い知れない気持ちになる。不安と言えばそうだし、違和感と言えばそれも当て嵌まる。一言では説明出来ない感情がじわっと染み出した気がした。
「……お前、本当に大丈夫か?」
『……え? 何が? 兄ちゃん心配し過ぎだよ。大丈夫だって。でも、ありがとう……。兄ちゃんが居なきゃ、俺ここまで生きて来れなかったよ……。ほんと、感謝してる。ミニカー、大事にしてね――』
それが弟とした最期の会話だった――。
吉田は、垂れ下がる鯨幕を眺めながら無意識に拳を握った。
出入り口の脇には〝故澤村尚樹葬儀場〟という看板が立っている。読経が始まったのだろう。遠く聞こえる低いうねりが、吉田の鼓膜をか細く揺らしていた。
弟の尚樹が死んだのだ。
その突然の――吉田にしてみればある程度予測出来た筈の――訃報を、吉田は自社新聞のお悔やみ欄で知った。それは電話で話した三日後の事だった。勤め先から出されたその記事の内容から察するに、どこかに身寄りが居ないか探していたのかもしれないと思う。
義父の手から逃れる為、吉田も尚樹も随分前に戸籍を分籍している。高校を卒業してから数年は各地を転々とし、足が付く事を恐れて互いに兄弟がいる事は伏せて過ごして来た。同じ町内に住むようになったのはここ数年の事で、それでもやはり他人には身寄りはないと話していた。
それが仇となったと、腹立たしいような悔しいような気持ちで記事を眺めた。だが弟を守る為には、それしか方法がなかった事も良く理解している。
だから本来なら喪主である筈の葬儀に、吉田は第三者として立ち会う羽目になってしまったのだ。
そうして吉田は、その鯨幕の前に立ち尽くしていた。
参列するつもりだったのだ。兄弟だと打ち明けずとも、友人だとか知り合いだったとか言い訳は幾らでも付く。だがそれを目の当たりにした途端、足が竦んだ。認めたくない、そう思った。遺体を見てしまえば、尚樹がもうこの世に居ない事を現実にしてしまう事になる。それが耐え難かった。しかしこのままでは弟の遺体は荼毘に付されてしまう。そうなる前に会っておくべきだとも思う。
相反する二つの感情の所為で吉田の足は結局、前へ進む事もそこから下がる事も出来ずにいた。
ふと、出入り口から男が二人出て来たのが見えた。喪服を着ている事から、尚樹が勤めていた会社の同僚か上司なのだろうと思う。二人の男はそのまま外に設えられていた灰皿に近付き、どちらかともなく煙草を吸い始める。
何故かそうしなければならないような気がして、電柱の影に身を潜めた。
「……ったく、だりぃな……」
「長いっスよね、坊主のお経って」
会話から察するに、二人は先輩と後輩なのだろう。尚樹とはどんな関係だったろうかと、吉田は耳をそばだてた。
「大体よ、あんな奴の為に何で俺らが参列しなきゃなんねぇんだよ。部長も部長だよ、お人好しというかさ。あいつの偽善に付き合わされる俺らの身にもなれっての」
「ほんとっスよね。身内がないなら無縁仏にでもすりゃ良かったんスよ。申し訳ないっスけど、俺可哀想とか全然思いませんし」
「お前、言うねぇ。ま、そりゃそうだわな。仕事は出来ねぇし陰気臭ぇし、何で生きてんのか解かんねぇ奴だったもんな」
清々しましたよ――その言葉を吉田は愕然とした思いで聞いていた。
尚樹は遂に絶望してしまったのだと解ったからだった。
この世に自分の居場所など存在しないと思ってしまった。たったひとつ、吉田がずっと嵌め続けていた足枷を外されてしまったのだ。だから死んだ。
弟は、殺されたのだ。
積もりに積もった過去と現在に殺された。己のエゴとサディズムを向けた全員に、殺されてしまったのだ。
吉田は、足元から這い上がるようにして伝わる冷たい感情が胸の内に蟠るのを感じた。それが憤怒である事に気付いたのは、それからずっと後だった。
葬儀が済んでから、吉田は弟の身辺について調べた。
弟の身に何が起き、誰が枷を外したのか知りたかった。記者という立場は仕事柄様々な人間に通じている。コネは腐る程あった。その全てを使って詳細に調べ上げる。帰宅は遅くいつもコンビニの弁当を食べていた事も、時折怪我をしていた事も解った。
遺体が発見された日に立ち会った顔見知りの刑事からも、子細を聞く事が出来た。
そして吉田は、葬儀のあったあの日に感じた予感は正しかったのだと思うようになる。尚樹と他の社員の仲が芳しくなかったという言質が取れたのだ。その中には、時折怒鳴り声が聞こえた事や目を背けたくなるような行為があったというものまであった。
いじめなどという生易しいものではなかっただろう。大の大人がする事だ。それは巧妙で意地汚く、陰惨で無残な暴力だっただろう。
尚樹はそれに耐え兼ねたのだ。
許し難かった。いつだって弟は死を見詰めていたのだ。ずっと望んでいた。だがそれ以上に生にしがみついてもいた。縋っていたのだ。それが解っていたからこそ吉田は決して弟を見捨てはしなかったし、ずっと手を差し伸べ続けていたのだ。
沸々と湧き上がる憤りは吉田の総身を震わせる。
――復讐してやる。
弟の苦しみを、哀しみを怒りを解らせてやるのだと、吉田は誓った。
※
パラパラパラと頭上に降り注ぐ雨の音を聞いていた。
レインコートを滑った雨粒が、吉田の頬や指先を濡らして行く。
「……たす……けて……」
吉田の目の前には一人の男が倒れている。
今唸った何かは、車のエンジン音だろう。余程急いでいるのか、遠くで何かを引き裂くような高い悲鳴に似た音が聞こえた。
「た……すけ……て……」
男は吉田へ片手をゆっくりと差し向ける。喋る度、ごぼごぼと口から濁った赤色をした泡が溢れる。男が数度咳をし、今度ははっきりと血を吐き出した。男の身体は雨と泥に濡れているが目立った外傷はない。だがこのまま放置すれば、いずれ死ぬ事は明らかだった。
吉田はそれを見ていた。
凍った雨より冷たい心で、ただ眺めていた。
電柱の光の前では自分の姿はただ黒く映るだけだろう。知ればいい、それが弟の、尚樹の影であると知ればいいと思う。
男の呼吸が引き攣れる。もう肺はまともに空気を吸い込んではくれないのだろう。苦しむような咳を幾度も繰り返していた。
苦しめ、もっと苦しめ――。
濁り冷め切った感情が、吉田の顔を歪に歪めた。
「……なん……で、俺……が……」
男の瞳はもうどこも見ていない。空を引っ掻くように指先が動いている。
「……嫌……だ……死にたく……な……い……」
男の顔が大きく歪んだ。死は間もなく男の身に届くだろう。死神の大きな鎌は、もう既に男の首を捉えている。
「……嫌……だ……」
指先が吉田へと伸びる。
「……お……ま……え――」
何が見えているのか、走馬灯だろうか。もう何も見えていない筈の瞳が僅かに左右に振れた――。
その瞬間、男の身体から全ての力が抜けたのが解る。
深い夜の闇を見詰めていた男の瞳から光が失われた――。
ゆっくりと上空を見上げる。
雨はいつしか雪に変わっていた。
白濁した呼吸が吉田の視界を濁らせる。
ふと吉田は、自分の中に何もない事に気が付いた。妄執とも呼べるような執着も、身体の芯から凍らせるような怒りも何もない。それどころか自分が何も感じていない事に気付く。痛みも、哀しみも苦しみも何も感じない。全てが凍るような夜なのに、それすら感じる事が出来なかった。
胸の中あるのは、大きな虚だけだった。
全員死んだのだ。
吉田自身が手を下したのは一人だけで、他の人間は勝手に死んだ。一人は自殺をし、もう一人は行方知れずだと聞いている。そしてもう一人は、交通事故でこの世を去った。尚樹の無念が届いたのかもしれないと、そう思っている。
復讐は終わった。
それなのに、吉田には何も残されていなかった。すっきりとした感覚も、全て終えた達成感もない。その虚脱とも呼べる感覚は、そんな事をしても尚樹は戻って来ないのだという虚しさに根ざしている。無駄だった。幾人殺したところで弟は二度と戻って来ない。
それが、吉田の胸中に虚を作った。
恨みを晴らすだとか復讐だとか大義名分を掲げたところで、故人がそれを望んでいる訳もない事は一番理解している。結局自己保身の為かと、空々しく寒々しい思いに堪らず引き攣れた笑みが浮かぶ。
この冷たい夜にあるのは緩慢な気怠さだけだったのだ。
時期雪が積もるだろう。この世に存在するありとあらゆる物を凍らせるような凍てついた雪が、全てを飲み込むのだ。
吉田と生を繋ぐ足枷は、そうして外された。
※
駅のホームで、吉田は弟から貰ったミニカーを指先で弄んでいた。
あの忌まわしい出来事からもう既に百日経っている。
一時たりとも忘れた事はなかった。弟が死んだ事、人を殺した夜の事、その全てを詳細に思い出せる程、あの出来事は常に傍らにあった。忘れてはならない記憶だとそう思っていた。それは吉田が、過去からは逃れられはしないのだと弟から教わったからだった。いつしかその記憶が心身を蝕み、そしてそれが死に至らしめる事も、解っていた。
その日を待っていたのかもしれないと、そう思う。
いつからか吉田は死を望んでいたのだ。生に繋がれていた足枷はとうの昔に外れている。それでも人を殺したあの日にすぐに死を選ばなかったのは、タイミングではなかったからだと思っている。
だから吉田は、何もない空虚な人生をただ諾々と生き続けた。ヘラヘラと調子を合わせ、狭苦しい社会に身の丈を合わせ続けた。淡々と日常をこなし続けたのだ。
そうして鬱屈が溜まると、あの屋上へ出た。
高山は――どう感じていたのだろうとふと思う。
あの日、屋上で出会った昏いあの影は、死までの時間をどう過ごしていたのだろう。そこまで考えて、こんなに何もなかった筈もないと思う。
高山は苦しんでいたのだ。良心の呵責から血反吐を吐くような思いがしただろう。遺す妻子を思って涙したかもしれない。いずれにせよ、高山は苦しみから死を選んだのだ。何もない自分とは違う。吉田には人を殺したという後ろ暗ささえない。
だが高山との出会いは、間違いなくタイミングを生んだ。
氷雨の降るあの日、突き飛ばした三浦を轢いたのが高山だった。そうであったと知った瞬間、吉田の中で悔恨が生まれた。図らずして二人殺した事になる。それが吉田を死へ近付けた。
元よりいつ投げ出しても構わない命だった。この世に縛り付けるものはもう何も残されていない。吉田にとって死とは、懺悔でも慰めでも、ましてや償いですらない。
死ななければならない――ただそれだけの事だった。
吉田は視線を落とし、弄んでいたミニカーを眺める。
『僕だと思って大事にしてね』
弟の泣き出しそうな顔を思い出す。
「三番線、電車が参ります――」
アナウンスの声がした。
「えー、三番線、間もなく貨物列車が通過致します。危ないので白線の内側に下がってお待ちください」
座っていた椅子から立ち上がり、ミニカーを胸ポケットに押し込む。
『兄ちゃん』
ふとそんな声がした気がして、吉田は人の溢れるホームへ視線を向けた。
人の波に紛れ、弟の尚樹が立っている。人の流れが、その姿を掻き消したり現したりする。尚樹は今にも泣き出しそうな、あの日と同じ顔を浮かべていた。
「今行くから……ちょっと待ってろ……」
その呟きは、周りの騒音に掻き消された。
『ごめんね……』
「謝んなくていいよ……」
突如、高い警笛の音がホームのざわめきを引き裂いた――。
弟はいつでもサディズムの被害者だった。
サディストたちは己の鬱屈が溜まるとその矛先を弟へ向けた。
最初は義父が、次に同級生たちが、そしてそれは社会人となっても変わらなかった。
弟はいつでも捕食者の獲物だったのだ。
それが許せなかった。弱者たる弟を虐げる連中が、許せなかった。
だがそれは自分も同じだったかもしれないと、今となってはそう思う。
端から決めつけていたのだ。弟は弱者であると。抵抗の出来ない弱い存在であると、そう植え付けたのは自分だったのかもしれない。
一人でも生きていけたかもしれなかった。自分という存在がなければ、弟は自身の力で立ち上がる事を覚えたかもしれなかった。その機会を奪ったのは自分だ。逃げ道を塞ぎ、立ち向かう事を強いた。
庇護せねばならぬ対象だというエゴを向けたのは、間違いなく自分なのだ。
弟は――だから弟は、他者から与えられた身勝手なエゴによって――死んだのだ。
死というのは物語の終わりと同じ。
タイミングによってそれ以前の出来事の意味が変わる。
― メアリー・キャサリン・ベイトン
(了)
虚
この作品は「三題噺、しませんか?」様、「あなたの書く小説のお題だしてみたー」様、「三題噺ったー!」様、「三題噺ったー+色テーマ付き」様からお題をお借りしています。
表紙画像 : いもこは妹 様 http://www.pixiv.net/member.php?id=11163077
この場をお借りし、お礼申し上げます。