Ai

美澪は、本当に好きだったんだよ。

ベッドに寝転がり、布団を頭いっぱいまで被る。世界から遮断されたこの場所は彼女が唯一落ち着ける場所だった。独りで泣き喚いた事も多かった。壁を気の済むまで殴り続けた事もある。それでも、この部屋は彼女を拒絶しなかった。それがとても心地良かった。
「もうさぁ私要らないんだよ」
独り言なのか、それとも誰かに話しかけているかのように漏れた言葉は必死に考えてそうして吐かれた言葉だった。布団をほり投げて、彼女はすぐ近くのベランダへと続く窓を乱暴に開けた。吹き抜ける風が頬を摩り、彼女の意志を突き進める。彼女が住むマンションは24階建てで、そして彼女の部屋は11階である。彼女は下を覗く。遠い遠いコンクリートの地面を凝視しながら彼女は身をどんどん乗り上げていく。ベランダの壁は彼女の腹あたりまでしか無く、ついに頭の重みで逆らえなくなった身体は風を受け流しながら降下していった。
ぐしゃっと言う音が今も耳を離れないという。

俺はこの一連の話を当の本人から聞いた。目の前にいるこの幽霊にだ。
「ねぇ、健太くん? 考え事?」
漆黒の髪に陶器のような肌、そして白装束。如何にもという雰囲気を醸しながら煎餅を頬張るこの幽霊、美澪はマンションで先月自殺した。俺は生前仲良くしていたし、そもそもこいつの彼氏の紹介で仲良くなった。未だに信じられなくなる。なんでこいつが自殺してしまったのかということに。先程言った通り、美澪には彼氏がいた。二人はお似合いだったし、何か問題があったとは思えない。死んでから一ヶ月経つが、こいつが何故自殺したのかはわからない。けれど、俺の家に身を寄せる辺り彼氏と何かがあったと思えた。それは、俺が前々からその事で相談を受けていたからだ。そして、俺はこの時それが間違いだとは気づいていなかった。俺は馬鹿だった。
彼女はもしかしたら、彼氏に何か酷いことをされたのかもしれない。
それでも、その事を聞くのは気が引けた。この世に未練があって戻って来たなら、その未練をちゃんと解決してほしいからだ。そして、今の彼女にはそれをする元気が欠落している。だから、一ヶ月も俺の家にいるのだ。そう考え、俺はこの事実から目を逸らし続けていた。けれど、それがもう続かないのだと俺はどこかで薄々気付いていた。美澪がここ最近俺のいない間に外出しているのだ。なぜ俺がいない時でなければいけないのか。そして、毎日明るそうにしていた彼女がそうして出掛けた日には泣きそうな顔をしている。しまいには泣いている姿を見たこともあった。
俺は心配だった。俺は彼女に友人以上のそれを感じていた。それだけははっきりわかった。そして多分、彼女は最近あいつの所に向かっている。そして、あいつが何かしらの理由で彼女を傷付けた。そう理解した。そう理解した後の行動は簡単だった。
「なぁ、お前さ彼女でもいるの?」
いつもの大学での帰り。俺はそう切り出した。
「あー? 健太お前さ、知らねぇの。俺ずっと前からいたよ。ほら、あいつ」
俺は絶句した。こいつが指差す先には美澪以外のずっと前からいるという彼女がいるのだ。
「……美澪は?」
「ンなやつ知らねぇよ。じゃあな」
女と共に立ち去るそいつは、獣のように思えた。俺は憤りと悲しみが一気に溢れて死にそうだった。

「遅かったね。お帰り」
幽霊のくせに炬燵に入りやがって。お前、寒さも何もねぇだろうが。
俺はそう思いつつも、誰かが待ってくれているという人の温もりを感じ、それを嬉しく思いつつ生返事の様な返しだけをした。
「ねぇ、私生きてていいかな?」
縋るような、泣きつくようなそんな声に俺は少しだけ驚いた。こいつはいつでも気上だった。独りでボヤボヤと吐き出すことは多くても、他人にそれを漏らすような人間ではなかった。返答を待つ彼女は弱い力で俺の服の裾を引っ張る。俺は苦しかった。
「死んでる奴が何言ってんだよ」
「あはは、そうだね」
明らかに混ざる悲しみの色。笑う頬が引きつっているのも見逃さなかった。無理にでも笑い、更に続けた。
「でも、ここにはいていいよ。お前の気が済むまではさ」
早口になる。心臓の鼓動もどんどん早くなる。それでも俺は伝えなくてはいけないと思った。傷つけた分、治してあげなきゃと思った。美澪の弱い心を癒してあげたいと思った。美澪の笑顔を見たいと思った。
「うん…ありがとう」
彼女の握り締める拳に力がこもる。俺はその拳をそっと上から覆った。小さな手を包み込むことは出来ない。彼女を通り抜けてしまった。
死んでいる。やはり、彼女は死んでいるんだ。
触れてみて、再確認した。目を背けたかった事実に、俺は胸がきゅうと苦しくなる。もう、いない。
彼女を凝視するとにこっと笑っている。
「健太くん、おとぎ話しよう」
彼女の瞳には揺らぎない強さを感じた。

色んな事を聞いた。浮気をしていたことを知っていた事、奴が浮気性だという事、美澪の事。美澪が本当は強くないという事。たくさん聞いた。美澪はただ淡々と話していた。泣きはしなかった。けれど、話し終えた後、どうしても苦しそうに見えた俺は彼女を抱き締めた。瞬間、彼女の雨は降り始めた。ひとしきり降った後、こう言った。
「……冷たいね」
「死んでるからな」
「そうだね、死んでるもんね」
彼女の口から零れた「死んでる」という言葉があまりにも重くて、俺も泣いてしまいそうだった。それでも泣くまいとした。俺より辛い思いをしている子の前で弱い所なんて見せられなかった。俺にやっと話してくれた未練の事を考えたら、俺の辛さなんか大したことなく思えた。俺は、なんだか不思議な気分だった。辛いのに辛くない。そんな感じだった。それでも、何が辛いのかは全く分からなかった。もやもやして気持ちが悪かった。
その日の晩は、全く眠れなかった。

俺は彼女に便箋と数枚の紙を用意した。美澪が「手紙を書きたい」と言ったからだ。共にいられる時間はどんどん削られている。多分美澪はその手紙を書き終えたら消える。だから、それまでの時間を大切にしようと思った。幸い、美澪は手紙に必要以上の時間をかけていた。好きな奴に渡す手紙に書く言葉一つ一つを慎重に選んでいるようだ。必死に書いている美澪は本当に本当に愛おしかった。美澪があいつを思っているのが横顔でも見て取れた。苦しかった。分かっていたことだ。けれど、異常に辛かった。
俺はその日、大学へと向かった。懐には美澪から受け取った手紙を入れて。あの日以来、あいつとは話していない。だから、話すのはやけに緊張する。あいつは今日も女と共にいた。俺は、これだけを言った。
「これ、美澪から」
乱暴に受け取られ、俺は溜息を零しその場から立ち去った。
急ぎ足で帰宅した。カンカンうるさい階段も、隣の声が丸聞こえな薄い壁も、大量に配達物が入った郵便受けも何も目に入らなかった。鍵を開け、ただいまと大きな声で言う。いつもなら、いつもなら、お帰りというこえがあったのに、何も無かった。シンとした静けさが俺の耳を襲う。靴を脱ぎ、彼女がいつもいた机へと向かう。何も無かった。びっくりするくらい、静かだった。そして、俺は机に置かれた一枚の紙を見つけた。それは俺があげた紙だ。

『健太くんへ
いつもありがとう。健太くんのおかげで未練なくこの世を去れるよ。本当にありがとう。
健太くん、私要らない子じゃなかったよ。
生まれ変わったら、一番に好きな人に会いに行くね。
美澪』

美澪が死んでから、二ヶ月。美澪は本当にこの世から消えた。俺は、ペンと紙を用意し走らせた。

『美澪、××××』

春の風が止まないそんな日。俺は河川敷を歩いていた。目の前には、早く早くと手招きする真っ白の彼女がいる。

Ai

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  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-02-25

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