愛猫のスフレちゃん二匹分くらい好きなあなたへ

 子どもの頃に一度だけ、空を飛んだことがあるよ。
 乳白色の空の日だった。
 わたしはモスグリーンのショートブーツを履いていたのだけど、電線を走るリスを追いかけていたら転んでしまって、ブーツの片方をすぐ横にあった用水路に落としてしまったのだった。
 わたしは泣いた。
 わんわん泣いた。
 ひざはすりむけて痛いし、転んだはずみで糸が切れたビーズのブレスレットはばらばらに散らばるし、ブーツの片方を失くすし、すりむいたひざには小さな石粒が食いこみ血も滲んでいるし、周りには家もなければ人もいないし、リスも見失ったし、風はすこしだって吹いていないし、樹々のざわめきもまるで聞こえないし、虫が鳴いていなければ鳥も飛んでいないし、鼓膜を震わすのはブーツを飲みこんだ用水路の水の音と自分のわんわん泣く声だけだったので、だんだん泣いているのが馬鹿みたいに思えて泣くのをやめた。
 濡れた頬を手の甲で拭って、しゃんと立ち上がって家に向かって歩き出したら、そのうち乳白色の空が次第にアイボリーに変わり、空から天使が舞い降りてきた。天使は赤ちゃんくらいの大きさでシーツのような布きれを腰に巻いているだけの、よく想像図にて表されるタイプの天使だった。
 当時のわたしは天使だの妖精だのの類に強い憧れを抱いていたものだからね、アイボリーカラーの空から降り立った天使を前に胸がずうっとドキドキしていたのよ。児童書や少女漫画に登場する女の子みたく、自分の瞳に無数の星が瞬いているような気分だった。
 天使は小ぶりの翼を羽ばたかせ、ぷくりと丸い人差し指でわたしを指差し、くるんくるんと八の字を三周描いた。
 それで、それでね。
 わたしの足は、地面を離れたの。
 左はモスグリーンのショートブーツ、右は薄汚れた白い靴下で、わたしのからだはふわふわと、地面から浮かび上がったのだけれどね、それからの記憶はどうにかこうにか思い出そうとしてもシュレッダーにかけた書類のように細断されていて散り散りでちぐはぐで、けれども、けれどもだよ。翼が無くとも、鳥のように空を飛びまわったのね、そのときのわたし。
 アイボリーの空が乳白色に戻る瞬間を空中に寝そべり眺めながら、天使と語り合ったことはよく覚えている。見た目は赤ちゃんだったけれど、天使は八歳のわたしより物知りで語り口も大人かと思うほどしっかりしていた。
 マシュマロみたいに柔らかい天使が教えてくれたこと。
 一、天使は日溜まりで光のシャワーを浴びるのが好き。
 一、天使のあいだで雲に星屑をふりかけて食べるのが流行っている。(舌がしびれるほど甘くておいしいらしい)
 一、天使は泣いている子どもを一瞬で笑顔にすることができる。
 天使は云ったよ。困っている子どもを放っておけないの、だからこれをお履きなさい。
 左はモスグリーンのショートブーツに、右は薄汚れた白い靴下だったわたしの足元がいきなり黄金色に輝き出して、目がくらんだ。目がくらむ前に確認したわたしの両足は膝下までが金色に染まっていて、視覚を取り戻したときにはすでに天使の姿は消えていた。
 足の裏になじんだ硬さを感じた。
 わたしの足に花が咲いていた。
 さくら色のバレエシューズが、もうずっと前から履いていたと錯覚するほどに自然と、わたしの足に馴染んでいた。
 そう、わたしが今履いているバレエシューズが例の天使からの贈り物なのだけどね、十三年経った今でも履けるのよ。わたしの成長に合わせてバレエシューズも伸びて大きくなっているようなの。ふしぎでしょ。
 信じられなければ、信じなくてもかまわないわ。
 でも、お願い。
 馬鹿みたいだと、笑わないでね。
 愛猫のスフレちゃんの二匹分くらい、わたしが好きなあなた。

愛猫のスフレちゃん二匹分くらい好きなあなたへ

愛猫のスフレちゃん二匹分くらい好きなあなたへ

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-02-24

CC BY-NC-ND
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