最後の日
最後に桜を見たいと思った。穏やかな春の夜にかけがえのない思い出のある、あの場所で――
※
毎日が全く面白くなかった。仕事をしていても、休みの日を過ごしていても、酒を飲んでみても、心が踊るようなことは何一つなかった。
三十八歳独身。生命保険会社勤務。役職は主任。年収七百万。この御時世を考えれば、僕は充分なステータスをもっていた。
でも、僕は孤独だった。中学二年の時、ある日突然、母が何の予告もなく家を出て行った。理由は職場の上司との不倫。その上司が大阪に転勤になったのを機に仕事を辞め、背中を追いかけて大阪に行き、水商売をしながら単身赴任となったその上司のマンションに足繁く通っていたらしいのだ。
真面目で優しくて穏やかな性格の父は母の不貞に全く気付かず、突然いなくなった母のことを何かあったのではないかと心配し自分が裏切られ愛想を尽かされたなどとは全く想像しなかった。
母の安否と行方を知る為に探偵事務所に依頼をした。それで始めて真実を知った父は愕然とし、魂を抜かれたようにうつろな目で下を向いた。
次の日、僕が学校から帰ると玄関に仕事に出かけたはずの父の革靴がきれいにそろえて置いてあった。不思議に思い、居間に入ると……そこには変わり果てた顔をした父の体が宙に浮いていた。
外は桜が満開で、人々が花見の席で談笑し、暖かい春を穏やかな日差しを心地よい空気を感じている。でも、帰ってきた我が家はまるで、自分の家の上にだけ黒い雲が乗っかり、雷が落ち、激しい雨が降っているような、そんな感じがした。
僕はその時に思った。優しい人間は不幸になり生きる望みを失くし、欲望の赴くまま平気で裏切る人間がのうのうと生きてゆくのだと。
その時から、僕は女性を信じられなくなった。中学三年の一年間、高校生活、大学生活、そして社会人になっても、僕は恋人などおらず、一人きりだった。
両親を失った僕は父の弟にあたる親戚のおじさんに引き取られた。おじさん夫婦も僕が高校を卒業した時に離婚してしまった。その理由については興味がなかったのでよくわからないが、どうやら父の家系は幸せな結婚生活を送ることができない因縁があるようだった。
つまりは父の血を引いている僕も誰かを愛しても、きっと結婚は失敗する。それならば、恋愛もしない方が良い。誰ともかかわらない方が良い。そう思ってこの歳まで孤独を貫き通してきた。
ただ、過去にたった一人だけ……、心を奪われそうになった女性がいた。その人を好きになってしまいそうになった。
田中里美さん――。大学生の時のバイト先の仲間だった女性だ。その当時、彼女は二十九歳。僕と彼女は有楽町の駅前に新しく建設されたオフィスビルの中にあるカフェでバイトをしていた。僕は厨房でカフェのメニューの担当。オーストリアのウィーンの喫茶店からレシピを取り寄せたというその喫茶店のコーヒーやパフェはどれも本格的で、厨房での調理はコーヒーをカップに注ぐだけとか、ガラスの器にアイスや生クリームをただ積み重ねるというような簡単なものではなかった。
お客様に提供する形も銀製のトレーに見栄えが良いようにぴったりと配置が決まっており、デッシャーと呼ばれるセットする担当も速さと見栄えの両方のクオリティを保たなくてはならず、なかなかのスキルが必要とされる仕事だった。
彼女はそのデッシャーを担当することが多かった。彼女が一番、仕事をこなすことができたからだ。厨房とデッシャーの連携はとても重要で厨房側からは、次にどの商品が出るのかをデッシャーに伝え、デッシャーはそれに応じて迅速にセットをする。
僕と彼女の連携は息がぴったりで、彼女と組む時はどんなに忙しくてもスムーズに注文が通り、お客様にもそれほど待たせることなく提供ができた。
厨房から商品を出すときに幾度となく彼女と目があった。そこには僕が否定しつづけた信頼があるような気がした。目が合ったときに時折見せる彼女の笑顔に心を揺さぶられることもあった。
三月の下旬のある日。桜の蕾も膨らみ始めて、もうすぐ春という時季に季節外れの寒波がやってきた。早朝から雪が降り東京都心も積雪を記録した。午前九時には十センチの積雪となり、電車は運転見合わせや遅れが相次いだ。その日に出勤するはずの従業員も足止めを食らい、まともに出勤できたのは僕と田中さんだけ。店長も開店の十分前になっても到着していない。
あわてて店長の携帯電話に連絡をしてみる。
「店長、大谷です。今、どこにいらっしゃいますか?」
「ごめん、電車が動いていないのでタクシーでそっちに向かっている。でも、道路も渋滞していて車がなかなか進まないんだ」
「僕、鍵とかもってないのでお店開けられないですけど、どうしますか?」
「ビルの管理室に行って、事情を話せば鍵を渡してくれるはずだから、大谷君が店を開けてくれるかな? ほかに出勤しているスタッフはいないの?」
「あとは田中さんだけです」
「そうか、君と田中さんなら二人でも大丈夫そうだ。俺が行くまで、なんとか二人で頑張ってくれ」
「わかりました。やってみます」
何とかいつもの時間に開店し、普段と同じようにお客様を迎える準備をするが、その日は日曜日で会社が休みということもあり、お客様は全く来ず開店休業のような状態だった。僕は厨房から出てホールで田中さんと外の様子をみていた。
向かい側の建物は全面ガラス張りの多目的ホールになっている。その建物との間の通りは普段ならば多くの人が行き交い、ランチのお弁当などを販売するワゴン車が多く留まり、開店の準備をしているはずだった。しかし、さすがに今日は歩く人などほとんどおらず、弁当販売のワゴン車も一台も来ていなかった。
チャコールグレイのアスファルトは雪が積もって真っ白になり、通りのあちらこちらに植えてある街路樹の枝には、うっすらと雪がまとわりついている。いつもは都会的な冷たい印象のモノクロの世界が今日は温かみのある水墨画のように見えた。
「綺麗……、雪って本当に綺麗だね」
彼女の声はとても綺麗だった。綺麗? いや、なんだろう。なんて形容したらいいかわからない。ただそれは心にじんわり沁み込んで、何とも言えない心地よさがあった
「私、沖縄の出身だから雪ってほとんど見たことないの」
「田中さん、沖縄だったんですか」
彼女が時折見せるおおらかな笑顔は沖縄で育った賜物なのだろうか。
「雪、あの日以来だな……」
そうつぶやいた彼女の表情を見ると、大きく見開いた眼には薄い膜ができ、ほんの少しの厚みを帯びているような気がした。そこから一滴の水が流れ、薄い膜は壊れ、その厚みは消えた。
「……」
僕は彼女の顔から眼をそらした。そのまま見てしまうと、自分の心に変化がおきてしまうのではないかと思った。今まで自分が頑なに閉ざしてきたものに変化が起きたとしたら、それは良いことなのだろうか、それとも悪いことなのだろうか。
それでも僕は彼女を見つめたいという衝動に駆られ、店のガラス窓に映る、外の真っ白な光景に視線を落とす彼女の顔を窺った。そこに映った彼女の顔はあまりに美しくて現実のものとは思えなかった。
「大谷君、今日仕事終わった後、時間ある?」
外に向けた視線を動かさずに彼女が言った。
「はい」
「一緒に食事でも行かない?」
「はい」
いつもなら人からの誘いは断るのだけれど、僕はあっさりと返事をしてしまった。女性を信じられない。それなのに彼女だけは何か違った。仕事での信頼関係からくるものなのか、それとも……。
開店から一時間が経ち、ようやく店長とほかのスタッフも出勤してきた。お昼ごろには雪は止み、電車が動き出すとまばらではあるがお客さんも来るようになった。いつもは戦場のような厨房も今日だけはゆったりとした時間が流れていた。
オーダーが入っても、それほど急ぐ必要がないので注文が入ったヴィーナリーベと呼ばれるパフェをとにかく形よく、美しく作ることに専念してみる。アイスクリームをパフェグラスの上に置き、キウイ、アプリコット、オレンジなどのフルーツを乗せ、指先を集中し、生クリームを絞る。最後にキウイソースとロールクッキーを乗せて完成させた。
なかなかの出来栄えだった。僕は満足気にそのパフェを眺めた後、デッシャーの彼女へ渡した。
彼女はにっこりと微笑み「美味しそう」と言った。
僕は何故か、その時の彼女の笑顔が、心に焼き付いて離れなかった。
十八時になった。僕も彼女も上がりの時間だ。
「お疲れ様でした」店長に挨拶をすると「ご苦労様、今日は店を開けてくれてありがとう。助かったよ」と店長は笑みを浮かべて僕ら二人を見た。
お互い更衣室で私服に着替えて、ビルの一階で落ち合い、有楽町の駅の方に歩いて行った。彼女は何も言わず、まっすぐに前を見つめ歩いて行く。歩道は雪が少し解けて、ぐちゃぐちゃになっているが、そんなことは何も気にせず早歩きで彼女は進んでいった。
有楽町の駅を抜けて、銀座方面に出る。晴海通り沿いの歩道を歩き、四丁目の交差点までやってきた。
上空を見上げると、和光の時計台が見えた。その針がさしているその時間はもう、二度とやってこないもので、そう考えると今見えているすべてのものが、かけがえのないもののように思えてきた。後ろから見る彼女の背中もまた、とてもいとおしく思えるような……。なんだか不思議な感覚だった。
交差点を左に曲がり、二つめの角を左に入った。細い道を五十メートルほど歩いて彼女は立ち止った。
「ここでいい?」
地下に続く、狭い階段があり“朧月”という看板が掲げてある。和食のお店だろうか?「はい、いいですよ」
僕がそう答えると彼女は階段を下りて行った。僕はその後に続く。彼女が階段を降り切って左側の引き戸を開けると、いらっしゃいませという穏やかで温かい声が聞こえてきた。
彼女の顔を見た和服を着た女性の店員は常連のお客様を迎えるような、安心した笑顔を浮かべた。そしてその後、僕にも穏やかな笑顔を向けた。
四人掛けのテーブル席が五席、カウンター席が六席のこぢんまりとした、落ち着きのある店だった。彼女は一番奥のテーブル席に座り、コートを脱いで、壁のハンガーにかけた。僕は向かい側の席に座り同じようにコートを脱ぐ。彼女は僕のコートを手に取りハンガーにかけてくれた。
彼女にしてもらった何でもないことが、とても新鮮でいちいち心に響いてくる。今日の僕は何かおかしい。僕は彼女を、田中さんを女性として強く意識していた。
「何か嫌いなものとかある?」
「いや、大丈夫です」
「じゃあ、おまかせで二人分お願いします」
彼女は笑顔で和服の店員さんに注文を告げた。
「どうしたの? なんだか緊張しているみたい」
やさしい笑顔で彼女が僕に向けて微笑む。
「いや、あんまりこういうお店には来たことないので……」
「そうだよね。大学生だから彼女と食事だとイタリアンとかそういうお店に行くのかな?」
「彼女はいないです」
「本当? 大谷君、すごくもてそうなのに」
「いや、僕なんかぜんぜんもてないです。それに……」
「それに?」
「いや、なんでもないです」
「会話の最初に“いや”ってつけるのは口癖?」
彼女はまた微笑んだ
「あっ、そうなんですかね、気づかなかったです」
「お酒は飲む?」
「あっ、はい。じゃあ僕はビールで」
「わたしは日本酒にしようかな」
そういうと彼女はビールと日本酒を注文した。
前菜がテーブルに運ばれてきた。
「これはなんですか?」
「タケノコの木の芽和え。食べたことない?」
「はい、はじめてです」
ちいさな山のように盛られたタケノコの上に鮮やかな緑の飾りの木の芽が乗っかっている。タケノコを一つ口に入れる。白みその甘みとだしの香りが口の中に広がる。少しだけ、緊張が解けたような気がした。
「あのね、わたし、なんか不思議なの」
「はい?」
「大谷君のこと」
「……」
「八歳も年下なのにね、すごく頼りがいがあるっていうか、安心感があるっていうか。仕事でよく一緒に組むでしょ。厨房とデッシャーで。大谷君と組む時は本当に安心なの。絶対に失敗とかしなさそうって。大谷君が休みでほかの人と組む時は実はあんまり仕事がスムーズにいってないのよ。知らなかったでしょう」
確かに自分が休みの日のことは知らなかった。ただ、もう一人いるカフェの担当のバイトも自分と同じぐらい仕事のできる人間だと思っていた。なので、きっとうまく仕事をこなしているのだろうと思った。
「それでね、わたし、大谷君のこともっと知りたいなあって思ったの」
彼女は恥ずかしそうに少しうつむき、再び顔をあげて、僕の目を見た。
「……」
僕は何もしゃべれずにいた。なんて言っていいかわからなかった。彼女は僕に好意をもっているのだろうか? 恋人がいない男が彼女のような綺麗な人からこんなことを言われたら、素直にうれしく思い期待する。それが普通だろう。
でも、僕は普通ではない。やはり信じられない。今までもずっとそうだった。ただ、彼女の言葉には彼女の笑顔には彼女の目には、今までの女性とは違う何かを感じていた。僕の心は混乱していた。綱引きのロープの真ん中についている赤いマーキングが中央のラインを行ったり来たりするように、彼女の魅力と僕のトラウマが力比べをしていた。
「僕も、田中さんと仕事で組む時はとても安心感があります」
彼女は僕の返答に少し不満な様子だ。
「女性としてはどう思う? わたしのこと」
彼女はこう言うと、僕の目を見つめた。
「……」
綺麗な人だと思う。でも、積極的な彼女に対しての疑念もある。でも、心が吸い寄せられそうになる。
「僕、今まで一度も女性と付き合ったことがないんです。僕は女性を信じられないんです」
僕は無意識のうちに口を開いてしまった。心の扉が開いた訳ではないが、窓に穴が開いてそこから本音が漏れてしまったようだった。僕はさらに続けた。
「母が父を裏切って、父は自殺しました。父は真面目で優しくて誠実な人間でした。母のことも本気で愛していたはずです。でも、母は十三年間、夫婦として人生を共にしてきた父をあっさりと、いとも簡単に裏切りました。なので、僕は……女性を信じられないんです」
思わず、話してしまった。重いよな。こんなことを自分から誰かに話したのは初めてだった。
「……そう、悲しい思いをしたんだね」
彼女は眉間に少ししわを寄せ悲しそうな表情をした。その後、わずかな沈黙が流れた。
「わたしもね、裏切られたんだ、好きな人に……もう三年前のことなんだけど、話聞いてくれる?」
僕は黙って頷いた。
「遠距離になってしまったの、その時付き合っていた彼とは。幼馴染で二歳年上でね。小さいころは沖縄の海で一緒によく遊んだりした。とても頭が良くて行動力があって、頼りがいのある人だった。高校生の時から十年間付き合った人で本当に大好きだった。このままこの人と結婚できたらいいなあって、付き合い始めたときからずっと思っていた」
カチャ。小さな音がした。彼女が飲んでいるグラスの氷が動いた音だった。彼女は少しの間をおいて、再び話し始めた。
「よくあるパターンなんだけどね。遠距離になって、初めのころは彼もよく電話をくれたの。東京ってこんなに寒いんだな。甘く見ていたよ。会社がある新橋はさあ、すごくたくさんの人がいて。……なんて本当にありきたりの会話をして、それでもそんな会話ができることがすごくうれしくて、うれしくて、たまらなかった。でも、だんだん連絡が来なくなったの。こっちから電話しても呼び出し音が繰り返し鳴るだけで、電話から聞こえるのは彼の声ではなくて、留守電の機械的な女性の声ばかりで……それでね、わたし彼に内緒で東京まで行ったの。とても寒い雪が降っている日だった。彼の住んでいるマンションに何も言わずにいきなり行って、もちろん日曜日に」
苦笑いを浮かべて、彼女は下を向いた。そして顔をあげ、続きはもうわかるでしょう?というような笑みを浮かべて、彼女はまた話し始めた。
「彼の部屋の前に着いて、インターホンを押して、祈るような気持ちだった。でも、彼は部屋にはいなかった。留守だったことが残念なような、ほっとしたようなそんな気持ちだった。出直そうとして歩き出して、下におりるエレベーターを待っていた。二十秒後にエレベーターが着いた。そこには半年ぶりに見た彼の顔があった。そして、その横には初めて見る女性の顔があった。二人は腕を組んでいた。手にはコンビニの袋をぶら下げていた。彼の大好きなレモンティーが半透明の袋に透けて見えていた。わたしはその時、彼に何も言えなかった。恐れていたことが、予想していたことが的中して……何も言わずに、二人の横をすり抜けてエレベーターに乗った。彼もわたしに何も言ってこなかった。わかってはいたのだけれど、いきなり押し掛けたりするべきじゃなかった。そのことを後悔したけど、それをしなければ、その後にもっと大きな後悔をすると思った。あの時にわかってまだよかったのかもしれない。マンションからの帰り道、駅まで歩く途中に小さな公園があってね。地面も木もベンチも滑り台もブランコも、すべて雪で白くなっていて、とてもきれいだった。でも、でもね、その白さがとても虚しくて、とても寂しかった。たった半年、半年でわたしと彼との十年間は終わってしまった。離れてしまった半年が重かったのか、一緒にいた十年が軽かったのかはわからない。でも、軽かったとは思いたくなかった」
「……」
彼女はまるで恋愛小説の一部分を朗読しているかのようだった。僕は何も言えなかった。何か言うべきだと思った。でも、何も言えなかった。彼女は初めからこういう話をするつもりだったのだろうか。僕の過去の話を聞いて、思わず吐き出してしまったのだろうか。
「鰆の柚子風味焼きでございます」焼き物の鰆がテーブルに運ばれてきた。
重くなった雰囲気のところに爽やかな柚子の香りが漂い、重い空気が少しだけ晴れたような気がした。
「話題、変えようか。大谷君は好きな芸人さんとかいる?」
「えっ?」
突拍子もなく、彼女は他愛もない会話を始めた。それから僕らは職場の同僚のことや店長のこと、常連のお客さんのことなど、さっきまでの会話は忘れてしまったかのように取り留めのない会話を続け、食事は終りを迎えた。
店を出て、階段を上がる。通りに出ると、入った時には気づかなかったが、向かい側にちいさな公園があった。そこには一本の大きな桜の木があり、枝に積もった雪の隙間からほんの少し膨らんだ蕾が見えた。
彼女は公園の桜の木をじっと見つめていた。僕もその桜の木をじっと見つめた。いや、魅入られてしまったのかもしれない。
「桜って、花が咲き始めて満開になるとみんな綺麗、綺麗って喜ぶでしょう。でもね、わたしは咲き始める前の、蕾が膨らんだぐらいの桜が一番好きなの。これからっていう希望に満ちているっていうか。満開になってしまったら、後は散ってしまうだけだから……」
「僕は……僕がもし植物だったとしたら、一生花を咲かせることはないと思います」
「大谷君が自分から水と光を求めるようになれば、きっと花は咲くと思う」
彼女はそう言った。僕にとっての水は、光は、彼女なのだろうか。少なくとも今の僕には彼女以外の女性の存在は考えられなかった。
彼女は僕の方に視線を向けた。そして、僕の方に体の向きを変えた。まっすぐに僕を見つめるその視線から見えない鍵が現れて、僕の心の扉の鍵穴にまっすぐに突き刺さった。あとはその鍵を右に回せば、カチャリと音を立てて、それは外れてしまうのではないかと、そう思った。
次の日、出勤のはずの彼女の姿が見えなかった。
「店長、今日は田中さん、どうしました?」
「体調が悪いから休ませてほしいって、電話があった。めずらしいよな」
どうしたのだろう? 普通に風邪か何かひいたのだろうか? 昨日、一緒にいた時は具合が悪そうには見えなかったけど。心が疼いた。僕と食事をしたことが何か関係しているのだろうか? いや、それは自意識過剰だろう。おかしい、今まではこんな風に思ったことは一度もないのに。
その日は一日、仕事に身が入らなかった。昨日のことが、頭の中で心の中でいっぱいで、彼女の笑顔が寂しそうな顔が浮かぶばかりだった。
今日は平日なので、バイトのあとには大学の授業が入っていた。僕は夜間の大学に通っている。でも、今日は授業に出る気にはならなかった。バイトを終えて、店を出た後、銀座方面へと歩いた。昨日、彼女に連れて行ってもらった店へもう一度、行ってみたくなった。いや、その店に行きたかったというよりは昨日と同じように、彼女と一緒に歩いた道を歩きたくなったのだ。
四丁目の交差点を曲がり、二本目の角を左に曲がり、細い路地に入る。右手に昨日、店を出た後に立ち止った公園が見えてきた。その公園のベンチに一人の女性が座っていた。田中さんだった。彼女は僕に気づき、穏やかに微笑んだ。僕は彼女のほうに近づいて行った。
「今日は学校の授業はサボり?」
「はい、ちょっと今日は……」
「わたしも今日は仕事サボっちゃった」
「どうしてですか?」
「昨夜、いろいろと思い出しちゃって……眠れなかったの。とても仕事に行ける状態ではなかった。バイトとはいえ、こんなことしたらダメだよね」
昨日、積もった雪は一日でだいぶ無くなっていて、枝にまとわりついていた雪はすべて消えていた。
彼女はベンチから立ち上がった。僕の顔をまっすぐに見つめ、一歩、二歩と僕の方に近づいてきた。そして何も言わずに僕の胸に顔を押し付け、僕の背中に手をまわした。
彼女が感じた僕の心の温度は温かかったのだろうか、それとも冷たかったのだろうか。
僕自身も自分の心の温度がわからなかった。僕も自分の手を彼女の背中に回した。僕は今、一人の女性を抱きしめている。生まれて初めてのことだった。普通ならこの上ない幸せを感じるのだろう。でも、僕はそれがわからなかった。
「そっか」
少しの沈黙の後、彼女はそういうと僕から離れた。
「じゃあね」
少し微笑んで、寂しそうな顔をして、彼女は立ち去っていった。
それが彼女と交わした最後の会話だった。次の日、彼女はまた出勤しなかった。突然、今日で仕事を辞めますとの電話があったそうだ。彼女は僕のことをどう思っていたのだろう。辞めた原因は僕なのだろうか。僕は彼女の気持ちに応えられなかったのだろうか。僕は彼女のことが好きだったのだろうか? なぜだか、罪悪感が心の中に広がった。
夢が覚めたみたいだった。良い夢だったのか、いやただの幻だったのか。でも、少なくとも僕は彼女に出会えてよかったと思った。心の扉は開かなかったけど、初めて扉をノックしてくれた人に出会えた。ノックされたその振動が僕の心の奥に温かいものを運んでくれたそんな感じがした――
あの場所に十七年ぶりに行ったのは四月一日、桜の蕾が膨らんで今にも花が咲きそうなそんな時だった。銀座四丁目で酒屋をやっている坂上さんというお客様。保険の満期が近づいてきたのでご挨拶に伺ったのだ。住所を見たときに、ピンときた。あの時のあの場所の近くだと。
支社のある品川駅から山手線に乗り、有楽町駅で降りる。有楽町マリオンの通りを抜け、晴海通りに出る。まずは四丁目の交差点に向かって歩き出した。昼間は四月下旬の暖かさだった今日の日も、夜になると少しひんやりとしてきた。あの時のことを思い出しながら、銀座の街を進んでゆく。四丁目の交差点まで来て、あの時と同じように上を見上げる。和光の時計台が温かい光を発して、現在の時刻を示している。あの時に自分の心にこみ上げてきた不思議な感覚を今日は感じない。
当たり前だろ、もう十七年も前のことだ。それにお前は一人なのだから。自分に問いかける。もう疲れてしまった。自分に向けて、話しかけるのは。
交差点を左に曲がり、二本目の角をまた左に曲がる。この道に入るのはあの時以来、三回目だ。住所を確認して周りの建物に気を配る。あった。ここだ。
あと三十メートルぐらい歩いた所だっただろうか、田中さんと一緒にいった“朧月”というお店は。道の先を見ると道路の右手に公園があった。そうだ、あの公園だ。桜の木はまだあるのだろうか。
坂上さんのお店を訪ねて、保険が満期になることを知らせ、更新の話を切り出す。静岡の支社にいる契約時の担当者の名前をだすと坂上さんは懐かしいなあと言って顔をほころばせた。更新の話はすんなりとまとまった。三十分ぐらいの和やかな談笑のあと坂上さんの店を後にした。
時計を見ると時刻は十九時五十分だった。僕はその道の先に向かって歩き始めた。“朧月”はまだあるのだろうか……
ここだ。ここのはず。地下に続く階段。そこには“朧月”の看板はかかっていなかった。階段の両側には青い光のトーチがついており、そこで足を止めた人を誘っているようだった。僕は自分の意思ではない、何かに突き動かされて階段を下りて行った。
階段を降り切って、左側にある扉を開ける。入ってすぐに狭い受付のようなカウンターがあった。そこには月隠(つきごもり)と書かれた表札がおいてある。
「大谷弘樹様、おいでになりましたね。お待ちしておりました」
淡いピンクのスーツを着た三十代後半ぐらいの女性が、落ち着いた声で僕に挨拶をした。どこかで――見たことがあるような気がした。でも、記憶をたどっても、はっきりとこの女性の存在が僕の頭の中にあるわけではなかった。
占い師? だから初めての客にこんなことをいうのだろうか? なぜ、僕の名前を知っているのだろう?
「どうぞ、お座りください」
暗くてよく見えなかったが、カウンターの前には黒い小さめの椅子が置いてあった。よくわからないまま言われたとおりに椅子に座る。普通なら不審に思ってすぐに店を出て行くのだろうが、僕はなぜが素直に椅子に座ってしまった。
「とうとう、あと一週間ですね」
顔色一つ変えずに淡々とした口調で女性は言った。
「何がですか?」
「あなたの寿命」
「はい? あの、あなたは占い師か何かですか?」
「いえ、違います」
「じゃあ、勝手に人の寿命なんて言わないでくださいよ。しかも一週間だなんて」
「忘れてしまったのなら、それでも結構です。でも、あなたはこの一週間で、過去にあなたと関係のあった二人の大事な人と再会します。その時間を大事にしてください。最後の日を迎えた時に後悔のないように素直な心で向き合ってください」
この店に入ってから、すべてが胡散臭くて信じられなかったが、目の前にいるこの女性が今、話した言葉は何のわだかまりもなく僕の心に入ってきた。
僕は立ち上がり、何も言わずに店の外に出た。階段を上がって外に出る。入るときに点いていたトーチの青い光は消えていた。
一週間……本当なのだろうか。僕は持病など何も持っていない。健康そのものだ。一週間後に死ぬとしたら、事故か何かだろうか。……でも、いいか、それでも。あと一週間しか生きられなくても、両親はもう二人ともいないも同然だし、僕自身に家族がいるわけでもない。それでもいい。
しかし、二人の大事な人とは誰だろう? 疑問に思う必要はなかった。僕が三十八年間の人生で深い関わりのあった人間はほとんどいないのだから。
四月二日。朝六時に起きる。今日も仕事の日。いつも起きる時間だ。朝食はトーストと紅茶、あとはたまに目玉焼きも作る。今日はその“たまに”の日だ。賞味期限ぎりぎりの玉子を割り、フライパンに落とす。十秒後に水を入れ、ジュ―という心地の良い音の後にふたをする。
食パンをトースターに入れ、タイマーをまわす。僕はやや強めに焼くのが好きだ。そして振り返り、口にふたをされて、もごもごしている目玉焼きのフライパンに向き合う。
考え事――昨日のあの出来事は何だったんだ。
ふたをされたフライパンから聞こえる音が小さくなってきた。もうすぐ窒息しそうなそんな音。
考え事――本当に一週間なのか。
ふたの隙間から煙のようなものが上がる。匂いがする。
僕はハッとしてふたを開けた。目玉焼きは縮まって、よくアニメとかである泣きそうな時の目の玉の形になっていた。ひっくり返すと丸焦げだ。
さすがにトーストはタイマーをまわしているので良い具合に焼きあがった。 紅茶を入れる。紅茶にレモンを入れる。紅茶に砂糖を入れる。
朝食を食べ終え、上着を着て、コートを着て、カバンを持って家の扉を開ける。玄関を開けて三歩ほど歩いた時に頭がぐらぐらした。腹に激痛が走り、脂汗が出てくる。僕はよろめいて、マンションの廊下に倒れた。
気が付くと、そこは病院のベッドの上だった。
「気が付きましたか? 体調はどうですか?」
「はい、今は大丈夫です」
「急性胃炎ですね。おそらくストレスからくるものだと思います」
ストレスか……
「今日は半日かけて点滴を打ちましょう。栄養剤と痛み止めを入れてあります」
こんなことは初めてだった。しかも、タイミングが良いというか悪いというか。銀座のあの地下にいた女性に言われたことが気にかかった。実は自分の身体には異変がおきているではないか?
僕は不安な気持ちを抱えて、家へと帰った。死んでしまっても構わない――それはやはり強がりだった。急に本当に最後の日が近いのではないかと怖くなった。
四月五日。僕は池袋から東武東上線に乗り埼玉県の武蔵嵐山という場所に向かっていた。手に二つの花束とお線香とライターが入った紙袋を持ち、電車から見える外の景色を眺めていた。電車の中はガラガラで席はいくらでも空いているのだが、僕は座らなかった。外の景色を眺めていたかったからだ。
一時間ほどして、電車は武蔵嵐山の駅に着く。霊園の事務所に電話をして、送迎車を呼ぶ。十分ほどで、送迎車は駅に到着した。
「どうぞ」
運転手が穏やかな声で僕に言った。僕は車に乗り込んだ。他に霊園に行く人がいないか、五分ほど待ち、誰もいなかったので車は出発した。
「今日は暖かくていい日ですねえ」
「そうですね」
「霊園の桜も満開で綺麗ですよ」
「そうですか」
運転手は五十歳ぐらいだろうか、物腰の柔らかい感じで、話し方や雰囲気が父に似ている気がした。こみ上げてくるものがあり、僕は話しかけてくる運転手に対して素っ気ない会話しかできなかった。
車が霊園の事務所に着いた。父の墓はここから少し坂を登ったところにある。五分ほど歩いて、その墓がある一角に着いた。手桶に水を入れ、柄杓を持つ。父の墓の方に視線を向けると、そこに一人の女性がしゃがんで目を閉じ、両手を合わせていた。
二十五年ぶりだった。あの日以来だった。その女性を最初に見た時、一瞬、僕の心に憎悪のような感情が湧いた。でも、閉じた目から涙をこぼすその女性の顔を見て、それはすぐに消え去った。
母だ。銀座のあの店の女性が言っていたことは本当だった。僕はゆっくりと母の方へ近づいて行った。
「おひさしぶりです」
「……」
母はゆっくりと立ち上がり、僕の方を向いた。二十五年ぶりにみた母親の顔は痩せこけていて、六十一歳のはずの母はとても老けて見えた。まるで老婆のようだった。その姿をみて、胸の奥にあった憎悪はほぼ消えて、ここまでの母の変化を一度も見ることができなかった、悲しみが湧いてきた。
「弘樹、立派になったね。本当に、本当にごめんなさい……」
「父さんのことはいつ知ったの?」
「出て行ってから二年後にね、こっちに帰ってきたの。不倫していた上司に捨てられて。寄りを戻してほしいなんて、ずうずうしい気持ちではなかったのだけど、お父さんと弘樹の顔を見たくて……気づかれないように一目でもと思ってね。そうしたら、家が引き払われていて。その時に隣の斉藤さんが偶然、外に出てきてね。事情を聞いたの。罵倒されたわ。斉藤さんに。あなた、最低の女よねって言われた。そうだよね。わかっている。だって、私が、私がお父さんの命まで奪ってしまったんだものね……」
「何で、何で父さんを捨てたんだ。そんなにその上司に魅力があったのか。僕のことは息子のことは大事に思わなかったのか……」
強い口調で言ったつもりだったが、最後の方は声が小さくなって涙ぐんでしまった。今更、責めても何にもならない。独身で兄弟もいない僕にとっては、唯一の家族なのだ。
「母さん、今はどうしているの?」
「大阪で暮らしている。水商売で貯めたお金でブティックを経営しているの」
「一人?」
「うん。お父さんのことを知ってから、償いのつもりで生きている。自分はもう他の誰かを好きになったりしちゃいけないんだって」
「……」
「弘樹は幸せに暮らしているの?」
「……ああ、幸せだよ。結婚して子供もいる」
嘘をついた。本当のことは言わない方がいいと思った。
「そう、それならよかった」
「この後は大阪に帰るの?」
「うん、仕事忙しいからね。弘樹、これからも、お父さんのお墓参りだけはさせてもらっていい?」
「もちろん。父さんのこと忘れないでやってほしい」
「ありがとう。やっぱり弘樹はお父さんの子だね。私に似なくて本当に良かった……」
細い足で母はお墓を後にして階段を坂を下りて行った。母とはもう二度と会えないと思っていた。
僕たち家族は二十五年ぶりに三人になった。
四月八日。あの女性の予言の通りなら、今日が僕の最後の日になる。朝七時に目が覚めた。身体には何の異変もない。今日は平日だが、会社には有給休暇を出していた。あの女性が言ったことを信じたわけでないないが、今日は何か特別なことが起きるような気がしていた。
一人とは再会した。もう一人は……僕の頭の中に浮かぶのはあの人。ただ一人だけだった。
朝食をとり、シャワーを浴びて、外へと出かける。どこに行こう。僕はあまり考えずに普段、よくいく場所へ一人で向かった。
初めに海辺の公園へ行った。家から近いので、休みの日で天気がいい時はいつも自転車で行っていた。今日は春らしい暖かい陽気でとても気持ちがいい。
その後、六本木の美術館へ行った。絵画展を見るわけではなく、ホールの一階のソファーに座って本を読む。一時間ほど、読書をした後は美術館の外に出て、近くにある公園へと向かう。近代的な真新しいビルの裏にあるこの公園には、庭園もあり、人工的な美しさと植物の本来の美しさが合い重なって、僕は大好きな場所だった。
午後一時を過ぎても、なにも変わったことはなかった。身体に異変もない。日比谷線に乗り、恵比寿に出る。よく通っていた、ラーメン屋で昼食をとる。これが最後の食事になるのだろうか? 食事を終えて、これもまたよく通っていた喫茶店へと入る。そこで三時間ほど、読書をして過ごした。
日が暮れてきた。
僕は山手線に乗り、有楽町へと向かった。とうとう、その時が近づいてきた。僕には何故だか根拠のない確信があった。
有楽町の駅へと着いた。僕はまたあの道を歩いた。銀座四丁目の交差点を曲がった。二本目の道を左に入った。六十メートルほど歩いた。右手に公園がみえた。そこに……一人の女性がベンチに座っていた。見覚えのある顔だった。十七年ぶりだった。あの時、この場所で彼女を抱きしめた。彼女は僕に気づいて、にっこりとほほ笑んだ。
僕は彼女の方に、公園の奥にあるベンチの方に歩いて行った。僕は彼女の隣に座った。
「なんで、ここにいるんですか?」
「この公園の桜が好きだから、この時季は毎日来ているの」
「たまたま、今年の春だけですか?」
「毎年。十七年前のあの時からずっと桜のつぼみが膨らみ始めて、満開になって散ってしまうまで、夜の六時から七時まで、ここで本を読んだり、昔のことを思い出したり……」
「僕を待っていてくれたのですか?」
「大谷君、そういうところもあったんだね。自惚れだとは思わないの?」
「……」
「思わなくていいよ。自惚れだなんて、あなたのことが好きなのは本当だから」
「……」
「三十八歳、だよね。結婚とかしているの?」
「……いや、ずっと一人です」
「何で、もったいない。大谷君もてるでしょう」
「十七年前に一緒に食事に行った時も同じことを言われました」
「よく覚えているね」
「はい、あの時のことは忘れられません」
「まだ、抱えているの? 女性を信じられないトラウマ」
「いや……わかりません。でも僕はずっと後悔していました」
「後悔?」
「あの時、田中さんの気持ちを受けとめられなかったこと。僕は間違いなく、あなたに惹かれていました。あなただけは信じられるような……でも確信が持てなかった。本当は何も考えずにあなたのことを好きでいたかった。でも、どうしても心の奥に植えつけられてしまった腐った根が花を咲かせることを許してくれなかったんです」
公園の桜は満開だった。春の風になびかれて、桜の花びらがちらほらと降り注いでくる。
「わたしもあの後、誰とも付き合わなかった。また、裏切られるのが怖かった。それにずっと、大谷君のことが心の中に残っていた。わたしね、自分でもよくわからなかったの。どうしてこんなに大谷君のことが好きなのかって。でもね、あの時のあの瞬間にあなたへの想いに芯が通った。そんな感じがしたの」
「それはいつですか?」
「覚えている? 大雪が降ってわたしたち二人だけで店を開けた時のこと。あの時はお店が暇で、大谷君、ヴィーナリーベってパフェを真剣に集中して、すごくきれいに形を作ったでしょう。わたしはその時の大谷君をずっと見ていた。パフェグラスを用意して、フルーツをカットして、アイスを乗せて、生クリームを絞って、キウイソースをかけて、ロールクッキーを乗せて。できあがったそのパフェをわたしが、受け取った。銀のトレーの上に乗せた。なんでもない仕事の中の一コマだけど、あの瞬間はたった一度きりの大切な時間だった。いつもは忙しくて、ただ仕事をこなすことだけを考えていた。でも、あの時だけは違ったの。特別な時間だったの」
僕はあの時のことを鮮明に思い出した。十七年前とは思えない、色あせない鮮やかな記憶だった。
働いていた店から、外の雪景色を見ていた彼女の表情。厨房でパフェを作って渡した時の彼女の笑顔。銀座四丁目の交差点、和光の時計台を見て感じた、いとおしさ。朧月で一緒に食事をして、打ち明けたお互いの過去。その後に公園の桜を見上げる彼女の横顔。翌日、同じ公園で抱きしめた彼女の温もり。
もう一つ思い出した。僕の心の鍵穴にあの時、現れた鍵が刺さっていたままだったということを――
鍵は回された。カチャリという小さな音がした。扉が開いた。僕は心から――彼女を好きになった。
「田中さん……僕は水を、光を求めてもいいですか? そうすれば花は咲くのですか?」
彼女はじっと僕の目を見つめている。
「僕はあなたのことが好きです」
緊張などしなかった。こんなにも素直に自分の気持ちが言葉に変わったのは、三十八年間生きてきて初めてだった。
「こんなおばさんでも本当にいいの?」
彼女は無邪気に笑った。その笑顔は十七年前の彼女の笑顔となんら変わりがなかった。
僕も笑顔で頷き、彼女の目を見つめた。僕は彼女の方に近づいて行った。彼女を抱きしめようと。
その時だった、急に胸に痛みが走った。苦痛に顔が歪み、立っていられなくなる。その場にうずくまり意識が遠のいていく。
彼女の顔を見上げる。彼女は時間が止まってしまったように、呆然と立ち尽くしている。やっと、やっと、人を愛せると思ったのに。やっと、母への憎しみを消すことができたのに。
“死んでもいいか”なんて嘘だ!頼む!僕を生かしてくれ……
意識が朦朧とする中、僕はあることを思いだした。そうだ、今日を最後の日にしたのは僕自身だった。五年前、“月隠”にあの地下の場所に僕は行っていたのだ。
そう、やはりあの時も吸い込まれるように地下の階段を下りて行った。階段のトーチの明かりはオレンジ色だったような気がする。階段を降り切って左側の扉を開けた。そこには薄いピンクのスーツを着た三十代くらいの女性が座っていた。
「よくおいでくださいました。あなたの心はわかっています。人生を終えたいのですね」
何も言っていないのにこの女性は僕の心を見抜いていた。そう、僕は生きる意味を見失っていた。
信じる人もいない。信じる道もない。人を愛することもできない。僕は毎日をただ、無意味に生きていた。もう、こんな人生なんていらない。そう思っていた。
「今なら、最短で五年後の三月二七日から四月一五日までが空いています。ご予約されますか?」
「予約?」
「はい、寿命を終える“予約”です」
「……」
「悩んでおられますか? それは当然のことです。でも、あなたがお望みならば、その時の直前までにキャンセルすることもできます。あなたは意識をしてなくても必然的にもう一度、この場所に来ます。その時におっしゃってください」
そうだ。まだキャンセルできるかもしれない。今日を最後の日にしなくて済む。“月隠”は目と鼻の先だ。今から、そこに行けば……
必死になって僕は前に進もうとする。しかし体に力が入らない。胸の苦しみが断続的に襲ってくる。
わずかな苦しみの隙をついて前に進む。もう一度、彼女の方を見上げる。彼女はなぜか立ち尽くしたままだ。
二十分をかけて、僕は地下へ続く階段にたどり着いた。這いつくばって階段を下り、左側の扉を開ける。
「キャンセルしてくれ」
暗闇に向けて僕はそういった。人がいるかもわからなかったが、とにかく僕は精一杯の声を振り絞りそういった。
「かしこまりました」
その声が微かに聞こえて、その後僕は意識を失った。
六月八日。じめじめとした梅雨の中休みで今日は朝から晴天に恵まれた。ベランダから桜の木が見える家に住みたい。彼女の希望を最優先にして、新居を選んだ。僕たちは昨日から一緒に暮らしている。南向きで日当たりのいい、公園の桜並木に面した、とても素敵な部屋だった。来年の春がとても楽しみだ。毎年、僕たちはここから二人で満開の桜を見ることができる。
今日は朝から、段ボールに入っているそれぞれの荷物を整理していた。「あった。この箱だ」僕はその箱から食器類を出した。
「ちょっと疲れたね。休憩にしようか?」
「そうだね」
「じゃあ、あれを作ろう」
「久しぶりだね、本当に」
昨日、近くのスーパーでフルーツとお菓子とアイスクリームと生クリームを買っておいた。
生クリームをボールに注ぎ、ホイッパーで泡立てる。そして、箱から出したばかりのパフェグラスを水で軽くすすぎ、そこにアイスクリームをのせる。その周りにカットしたキウイ、アプリコット、オレンジを乗せる。次に生クリームを絞り、キウイソースをかけロールクッキーを乗せる。
出来上がった。
「できたよ。一緒に食べよう」
「うん」
僕と彼女は一緒に暮らしていく。これからもずっと、一緒にいる。もう、お互いに過去のような辛い経験をすることはないはずだ。そして、銀座のあの地下の部屋に行くこともないだろう――
最後の日