いいなり

 雨が空からしたたり落ちていた。
 広げたこうもり傘がぼつぼつと音をたてる。歩みを進めるたび、古いスニーカーの底から冷たい水がぐしょぐしょと靴下を濡らした。
 ライトを煌々と光らせた大型トラックがエンジン音を響かせて背後に迫り、通り過ぎていった。ばしゃり、タイヤの跳ねた水しぶきが右半身にまんべんなくかかる。コートにしみる冷たさを掌で拭おうとして、かえって広げた。
 左ポケットにいれておいたから、濡らさずに済んでよかった、タバコ。マルボロを1本取り出して咥え、火をつけた。深く吸い込み、吐き出すと、白煙が夜空にとけて消えた。
 街頭が等間隔で歩道の闇に光の地帯をつくりだしている。前方、闇を4つ挟んだ向こうに、人影が見えた。親子だ。ニット帽を被った女性が、男の子の手を引いて歩いている。
 背の低いわたしは、路上で喫煙していると、変な目で見られることがよくある。煙の立ち上るタバコを、指ではさんで、くるりと掌のうちに隠した。母親は、何も言わず通り過ぎていく。
 立ち止まり、もう一口、煙を吸い込む。上空に首をかしいで吐き出した。夜空の星は雨雲に隠されているのだろう、どんよりと暗いねっとりした灰色のなかに、光の点を探そうと、無駄な努力をする。
 仕事の前の一服だ、仕方ない。だって、わたしの職場には喫煙所がないし、職場あたりの路傍でタバコを吸うことは、雇い主から禁じられている。一日一本のタバコのポイ捨ても、そういう事情があるのなら、わたしだったら許してあげる。
 火のついたタバコを雨濡れの路上に投げ捨てた。
 携帯電話を取り出して、時間を確認した。21時の、10分前。急がないと、間に合わない。早足で、職場へと向かう。

 足立中央図書館は閑静な住宅街と日光街道にはさまれる形で、巨大に、ずん、と建っている。正門をくぐると、広い駐輪場と、巨大な噴水がある。ガラス扉から、数人の職員が、話をしながら出てくるのが見えた。
「こんばんは」
 仕事終わりの彼らに、わたしはいつもそう挨拶をする。声に緊張がにじまないよう、注意をはらって発音する。
「お疲れ。ちょうどよかった、これ、鍵」
 一番年配の中年男性がキーリングにまとめられた鍵束を差し出した。
「お待ちかねだよ、今日も。……あんたも大変だね」
 男性は言って、帰路につく同僚達にかけよって加わった。
 彼らの背中を見つめていたら、ひとりの女性がこちらを振りむき、目が合ってしまった。わたしは慌てて図書館に向き直る。仕事だ、仕事。
 鍵をつかって明かりの落ちた図書館に入り、階段をのぼって三階にある館長室をめざした。

 館長は今日も、にたにたと嫌らしい笑みを顔一杯にたたえて、わたしを待っていた。
「脱ぎなさい」
 命令に従ってコートを脱ぎ、ハンガーにかけてつるした。背筋を伸ばしてまっすぐに立ち、下から見上げるようにして館長を見据えた。
「そうじゃない、わかってるだろ」
「……どうしてほしいのか、わかってるでしょ」
 わたしの声に館長はうなずいた。太く短い指でわたしのシャツのボタンをはずす。
「いけない子だ」
 何度も、何度も、こうしてわたしを抱いているのに、どうしてこの人はこの期に及んで、こんな芝居がかったことを言えるのだろう。背筋に虫が這うような悪寒が走る。歯を食いしばって耐えたら、治療せずに放置している虫歯がぴしりと痛んだ。
 わたしの勤務時間は、夜の九時から、三時間程度。基本は一日おきの出勤で、急に呼び出されることもあるけれど、土日と祝日は館長が家族サービスをするから、休みになる。
 これで安アパートに住みながらギリギリ食べていけるだけの給料がもらえるのだから、いい仕事だ。いい仕事のはずだ。いい仕事にわたしはついている。
 なのに、どうして、雇い主の頭か、もしくはわたしの頭を、ときどき拳銃でズドンと打ち抜いてしまいたくなるのだろう。
 書類が散らばった机のうえの、人を殺せそうな重厚さをもった灰皿を視界の隅で捕らえながら、わたしはわたしが食べていくための気持悪い三時間をやり過ごした。
 仕事をしている人なら、これぐらいは耐えて当たり前のはずだ。
 全身の脂を拭いながらタバコを咥える館長に見送られて、わたしは図書館を後にした。すっかり夜の更けた北千住は、若い女の子をナンパする黒人や、国道を爆走する暴走族で騒々しい。彼らと視線をあわさないように気をつけながら、家路を急いだ。

 アパートに帰り、シャワーを念入りに浴びて、床に入り、目が覚めたのは次の日の昼過ぎだった。眠りすぎて頭が痛い。泥のなかから抜け出すように起き上がり、解凍したごはんに納豆と卵の食事をすませ、テレビをつけた。ワイドショー番組が画面にうつった。
「犯人は――ちゃんを誘拐したのち、暴行を加えてから殺害したものと見られます。ひどい事件ですね」
 てかてかとオデコを光らせながら、アナウンサー上がりの司会者がそう言った。この人は、確か先日、愛人の存在が発覚して問題になっていた。まだ、テレビに出てるんだ。虫唾が走る。
 リモコンを操作して、テレビの電源を切った。
 本棚に並べた文庫本を指で追って、読みたくなるタイトルがないか、探した。だけど、ダメだ、今持っている本は、ぜんぶ飽きるほど読んでしまって、もう退屈をしのぐのに使えない。
 仕方ない。仕方ないから、わたしは服を着替えて、図書館へ行くことにした。

 足立中央図書館は、館長が性欲過多である以外は、極めて優れた図書館だ。施設はきれいで空調も行き届いている。蔵書はレパートリーが豊富で、ベストセラーから隠れた名作まで幅広く揃っている。
 わたしはここの児童書籍コーナーにある、背の低い椅子と机がお気に入りだ。短足のわたしは、一般閲覧コーナーの椅子に座ると、足がぶらぶらとして落ち着かない。
 子供のためにしつらえられたこの場所は、わたしの体にもすこし小さすぎるぐらいだが、体を押し込めて座ると、本を集中して読むにはちょうどいい。
 それに、児童書籍の棚のまえで立ち働く職員は、昼勤務だけのパートさんが多く、わたしの仕事を知らないことも都合がよかった。
 昔読んだ子供向けのファンタジー小説シリーズを机に積んで、読み始めた。
 大人になって読み返すと、子供のときには気付かなかったことに気付いて、新鮮だ、なんてことはない。小学校の昼休み、自分の机にへばりついて辿った物語が、当時と同じ質量でもってわたしを楽しませた。
 全6巻を読み終えたとき、窓の外では太陽がすっかり沈んでいて、わたしの周りには人気がなかった。
 こりかたまった背筋を伸ばしながら、そろそろ帰るか、と立ち上がりかけたとき、わたしは肩を叩かれた。
「お姉さん、もう閉館だよ」
 振り返ると、5、6歳ぐらいの男の子が、大きな瞳でこちらを見ていた。
「さっき、職員さんがそう言ってたんだけど。お姉さん、気付かなかったみたいだから」
 男の子はすこし得意げな顔をした。
「それで、わたしに教えるために、待っててくれたの?」
「うん。本を読んでるとき、邪魔をされると、すごくうざったいからね」
「ありがとう。いい子だな、君は」
 頭を撫でてやると、男の子は眉をしかめて、そういうのいいよ、とわざとらしく言った。いっそ抱きしめてやりたい気もしたが、やめておいた。代わりに男の子が脇に抱えている本を指差して、「何を読んでるの?」とわたしはたずねた。
「伝記。これは、野口英世。本当は、冬休みのあいだに1冊だけ読めばいいんだけど、これでもう4冊も読んだんだよ。ぼくはたくさん勉強して、きっと偉い人になるよ」
「そっか、がんばりなよ」
「当たり前だよ。……ねえ、お姉さん。昨日の夜、ここにくるまでの道で、タバコを吸ってなかった?」
 わたしは呼吸を止めて、男の子を見つめた。真剣な面持ちで、男の子は視線を外さなかった。
「……吸ってたね。そうか、君、ニット帽のお母さんと一緒に、昨日の夜、歩いてた子か」
「昨日もここの図書館に来てたからね。お姉さん、路上でタバコを吸っちゃ、いけないんだよ。それに、ぼくらが通り過ぎたあと、ポイ捨てしたでしょ。ダメだよ。ぼく、こないだ、小学校のボランティアで、あのあたりのゴミ拾いしたんだから」
 腰に手をあてて、自分の正しさを微塵も疑わないハッキリした視線を浴びせながら、男の子はとうとうと説教をした。怒られているのに、わたしは微笑んでしまいそうだった。
 少年よ、君はそのまま、君の道を進め。
 頭のなかでそう語りかけた。
「それじゃあ、お姉さん。ぼくはもう帰るよ。お母さんが下で待ってる」
 説教を終えた男の子はそう言って、本棚のあいだを駆けていった。わたしも帰ろう。鞄を肩にかけて、コートを羽織っていると、ばたばたと足音が聞こえた。顔をあげると、男の子が息を切らして、脇に抱えていた本をこちらに差し出していた。
「お姉さん、これ、貸してあげるよ。野口英世は、ちょっとダメな人だけど、最後には研究でたくさんの命を救った、すごい人なんだ。すっごくおもしろいよ」
「……ありがとう」
「じゃあね!」
 また慌しく駆けていく男の子の背中に手を振った。最近では珍しい、いい子だった。最近の子供が本当にどうしようもないのか、わたしは知らないけれど、昔のわたしよりは、明るくて、ハキハキしていて、しっかりしていて、ぜったいにいい子だ。
 今日は、外食をしようかな。わたしは穏やかに満たされた気持で考えた。夜遅くまで営業している、ファミリーレストランへ行って、ハンバーグを食べよう。食後のコーヒーを飲みながら、この本を読んで、明日も日が昇っているうちに図書館へ来よう。男の子と、感想を語り合えるかもしれない。そういう楽しみがあることを、新鮮に感じた。
 ちゃんとした仕事、探そうかな。
 出入り口のガラス扉をあけながら、小さく呟いたわたしの肩を、太く短い指が触った。
「連勤ですか?ちょうどよかった」
 館長はわたしの体を引き寄せてしっかりと抱き、ガラス扉をバタンと閉めた。

いいなり

いいなり

女性が主人公の、短い話です。

  • 小説
  • 短編
  • 青年向け
更新日
登録日
2016-02-23

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