バースデイ
生まれた日のこと。
22年前の大雪の日に、田舎のレンガ造りの病院で、私は産まれた。ひと月ばかり予定日より早い出産だったから、私は未熟児ということになるらしい。母はよく、「指が小枝チョコレートのようだった」という表現をしてその様子を聞かせてくれた。産まれた時、私と母とを繋ぐ臍の緒は切れそうなほど細い部分があったらしい。あとひと月、胎内にいたら私は死産だったのだろう。そんなスレスレの状況で、この世界に「生まれる」ことになったのは、嬰児である私の小さな小さな生存本能かもしれないし、前日に母が調子に乗って兄とバスケットボールをしてスラムダンクごっこをした為にこれ以上この女の中に居てたまるかと思ったからかもしれない。恐らく、後者だろう。生まれる、ということは、私にとって賭けのようなものだったのだと思う。千切れそうに細い臍の緒を胎内で見つめながら、千切れるかな?千切れないかな?などと思案していたに違いないのだ。
生み落とされた私は、未熟児だった為に、保育器の中で少しの時を過ごした。どんなにか弱いのかと両親と祖母が硝子越しにそれを覗いたとき、私はふてぶてしく、脚を組んで眠っていたそうだ。脚を組む癖は治っていない。生まれたその日からやっていたのなら、この癖は治らないのだろう。賭けに負けたようにふてくされて、ふてぶてしく脚を組み、さぞか弱いかのように擬態することを偶に忘れる。
私は欠陥品だと思う。あとひと月母の胎内で作られる筈だった何かを、持ち得ないまま出てきてしまった。それが何かは分からない。けれど恐らくそれが、私が恐ろしくこの世界と波長が合わないことと通じているのではないかと考える。或いは、前日にバスケットボールをされた不快感が続いているのかもしれない。私はスポーツが大嫌いだ。
大雪の日に、小枝チョコレートのような指をして生まれた私。ふてぶてしく脚を組んで眠っていた私。千切れるかな?千切れないかな?胎内で臍の緒を見て、何かを期待していた時と同じく、私は毎日、生の反対への憧れを募らせる。轢かれるかな?轢かれないかな?横断歩道を渡りながら、トラックが突っ込んで来ることを期待する。
それでも私は生まれてきた。また一年、生き繋いだ。小さな小さな生存本能は、これからも私を動かしていく。生まれた方が良いのかな、生まれない方が良いのかな、と思案していた嬰児の私は、生まれた時、選択を誤ったと確信しただろう。けれど、保育器の中しか知らないのに、その判断を下すのは早過ぎる。
世界は愛おしいもので溢れている。愛おしいひとが沢山いる。生まれてきて良かった。そう思わせてくれる何かに沢山出逢った。生まれてきて良かった。少なくともこの一瞬、そう思うよ。
あの時の賭けに勝ったのか、負けたのか、それを決めるのは最期で良い。後出しジャンケンにさせてもらう。どうせ私の一人遊びなのだから。
2016年2月7日
バースデイ