土曜日の昼下がり(秘め事編)
雨之香
生真面目姉 × 思春期弟
ピンポーン。
どこにでもある我が家のインターホン。
これが合図だった。
そう、私がイケナイ恋に堕ちる合図だった。
「はーい」
いつも通りの土曜日の朝。
私は特に躊躇なく玄関のドアを開けた。
「はじめまして。僕、蓮見錬(はすみれん)と言いますーー」
そのあとのことはもはや、聞き取れてなどいなかった。
蓮見錬と名乗るその好青年は、絵本やおとぎ話から飛び出してきたかのような容姿を揃えていた。
朝日は後光と化し、ハトは青い鳥にでも見えてしまいそうだった。
そして、彼の吐息からはマイナスイオンが放たれていた。
「あ、あの?」
起きたばかりの私は再び、夢の国へとトリップしていた。
「えっと、ごめんなさい」
もう一度聞きそびれた用件を窺おうとしたところで、ドタドタと荒々しい足音が後方から聞こえてきた。
「錬キュン!」
謎の単語を発し、私の妹ーー白川萌那(しらかわもな)は彼ーー蓮見錬に抱き着いた。
その時、私の眼球は半分ほど飛び出していたと思う。
(錬キュンって、いったいなに?)
妹の痛い部分を目の当たりにした気分だった。
「もう待ちくたびれたよ。昨日から全然会えなかったから寂しかったよお」
妹は尚も抱き着いたまま、彼の胸元に猫のごとく顔を擦り寄せた。
とりあえず、と私はまず玄関のドアを閉めたのだった。
(万が一、ご近所に目撃されたりでもしたら、赤っ恥をかくのは私だからね。それは御免被りたい)
「そうだ。慧那(えな)姉にも紹介するね。私のダーリンの蓮見錬キュンだよ」
“キュン”という単語が耳につく度、眉間にシワがよってしまう。
しかし、彼の前ではそんな醜態は晒せない。私は大人の対応をした。
「はじめまして。姉の慧那です。(バカな)妹がお世話になっているみたいで……色々困らせていないかな。何でも気軽に相談してね」
初対面の挨拶にしてはやや食い下がり感が出てしまったことに、少し後悔した。
あまりの美貌に、接点を持ちたい欲望が抑えきれなかったのだ。
姉の内面的醜態にまで気づかなかった彼は、プリンス様スマイルで応じた。
「いえ。僕の方こそ、いつも萌那ちゃんに良くしてもらっています。
大した物ではないですが、良けばこれもらって下さい」
ケーキらしき包みを渡され、私はますます感心した。
(どこまで出来た王子様なのかしら。悪いけど、妹にはもったいないわね)
「錬キュン、そろそろお部屋に行こうよ、ね?」
妹は彼の片腕を掴み、ただをこねる方式でぶらぶらと揺すった。
「そうだね。おじゃまします」
ぐいぐいと妹のペースに巻かれながらも、脱ぎ捨てた靴を揃えたり、私に会釈したりなど礼儀は抜かりがなかった。
私は笑顔で二人を見送ると、ケーキを分けるためキッチンへと向かった。
「それにしても……」
(なんて美しさなの! あれはハーフかしら? 外見も内面も何もかもが言うことなしだわ。もはや人類の完成形ね)
「はあ……」
(まさか妹にあんな素敵な彼氏がいたなんて。
中学三年でも、まだまだお子様だと思っていたのに。ちゃっかりしているわね。
しかもお家デートなんて)
ケーキをお皿に取り分けたところで、私の手と思考が止まった。
(やだ。ちょっと待って。お家デートってことはつまり……。そうよね。そういうことよね。
だけど私の妹に限ってそんなことあるはずがない。だってウブそのもの、なのだから。
ブラだって最近つけはじめたのよ。初潮だって人より遅れていたもの。
第一、性に対する免疫も知識もまったくない。それにまあ、あの好青年が彼氏なら、大丈夫よね。きっと)
自己解決したその瞬間、二階からいかがわしい物音がした。
何かが落ちるような、擦れるような音。
(やだ、もしかして……)
気を抜かしたその時、ヤカンがけたたましい音をあげて、沸騰を知らせた。
「熱……」
火は消せず、溢れた蒸気に指を火傷した。
「早く冷やさないと」
素早くヤカンの火を消すと、彼ーー蓮見錬は私の手を取り流水に浸した。
(蓮見くんってば、いつの間に背後にいたの?)
動揺を隠し、とりあえず私は冷静にお礼を言った。
「蓮見くん、ありがとう」
「いいえ。どういたしまして」
私の顔を覗き込むようにして、彼は囁いた。
「お茶、入れますね」
私がしようとしていたことを瞬時に察し、彼は二人分のティーカップにお湯を注いだ。
「そういえば……さっき何か物音がしていたけど、大丈夫だった?」
別に詮索するつもりはなく、ごく自然な会話の流れで聞いたつもりだった。
彼はくすっと一笑いすると、ヤカンを元に戻した。
「ええ、大丈夫ですよ。まだ何もしていませんから」
“まだ”が強調されたように聞こえた気がした。
ついでに悪寒もした。
私はどう答えるべきかわからず、黙るしかなかった。
(ちょっとなんなの? この空気。蓮見くんのキャラがさっきと全然違う。纏う空気も変だわ。どっちが本物なのか、わからない)
途端に私は妹の身を案じ始めた。
しかし、先ほどの彼女の様子からは、今の蓮見くんのキャラを知らないと推測できる。
まさか、無理を強いているようなことはないはずだ。
「かわいい妹さんが心配ですか?」
その声は突如真後ろから聞こえた。
私は体を強張らせ、警戒した。
しかし、彼から伝わる体温がそれを柔く溶かしていく。
まるで力が抜けていく感覚だった。
(のまれちゃ、ダメよ)
私は自らに言い聞かせた。
「萌那ちゃんはーー」
彼はキッチンに手をつくと静かに続けた。
「初々しくてかわいらしい。学校でも人気なんですよ。知っていました?」
初対面で交わした挨拶とは程遠い声だった。
艶かしく体を這うような音色に、私は頭が眩むようだった。
(蓮見くんはいったい、なにを企んでいるの?)
逆上せゆく頭の片隅で必死に考えるも、皆目見当もつかなかった。
「そうだな。まるで未熟な果実のようだ。熟れるまでが、すごく待ち遠しいです」
恐ろしいと思った。
妹と同じ中学三年生とは到底思えなかった。
この艶かしさも色っぽさも、すべてが未熟ながらもどこか洗練されていた。
年下だからといって一纏めにはできず、また逃げることもままならなかった。
(とりあえず、空気を変えないと。このまま流されてしまうと、ますます逃げ場がなくなる気がする。第一、妹に怪しまれるわ)
「それよりもーー」
しかし、先に言葉を発したのはまたしても彼の方だった。
「熟れた方は、本当に美味しそうだ」
舌舐めずりをし、彼はケーキの上に乗った苺に手を伸ばした。
「な、なにしてるの……錬キュン!」
私はその時、首が飛ぶ勢いで振り返った。
キッチンの入り口に、いつの間にか妹がいたのだ。
気を失うほど、血の気が引いた。
(大変。なんて場面に遭遇したの? いったいいつからいたの? どこまで見聞きしていたの?)
私は一抹の願いにかけて、目を瞑った。
(お願い。どうか何も知らないでいて)
「もう。遅いと思ったら錬キュン、つまみ食いしてたの? ダメでしょ」
「ごめんごめん。美味しそうで、つい」
「あと、慧那姉にフキンもらった? 早くしないとさっき溢したお茶、どんどん染みちゃうよ」
「そうだった。お姉さん、布巾いただけますか?」
私は色々と安堵を取り戻していた。
一息をつき騒がしい胸を撫で下ろすと、彼に布巾を手渡した。
「あとで、ケーキと飲み物を持っていくから、萌那と蓮見くんは先に部屋をきれいにしていてね」
不安の種を一掃すべく、私は二人に告げた。
一人になったキッチンで、重苦しい息を吐いていた。
妹の部屋をノックする瞬間が最も緊張した。
両手にはケーキと飲み物を載せたトレイがある。
緊張は更に増した。
「萌那。ドアを開けてくれる?」
「はあい」
いつものトーンにため息がつい溢れた。
(私ったら、なんで安心しているの? 二人は恋人同士なんだし何をしようが関係ないじゃない。
そうよ。妹が傷つかない限りは、ね)
「萌那。お茶、溢したところはきちんと拭けたの?」
私はトレイを妹の勉強机に置いた。
二人は円卓でテスト勉強をしているようだった。
安堵している私がそこにはいた。
「うん。多分……」
お気に入りの絨毯だけあり、妹は肩を落としている様子だった。
「明日もお天気みたいだから、洗えば大丈夫よ」
「うん!」
元気な笑顔がすぐに戻った。
それを確認して、私は部屋をあとにした。
(蓮見くんをお家に呼んだのは、勉強するためだったのね)
理由がわかったところで、落ち着けるはずもなかった。
部屋にいても、隣の妹の部屋に意識が傾く始末。
そばだてた耳から入る音声のみの情報では、良からぬ想像が膨らむばかりだった。
物が落ちる小さな物音にいちいち反応し、会話が途切れでもしたら途端に立ち上がったりした。
(二人同意の上ですることなら構わない。
ただ、妹に無理を強いるようなことだけは止めてほしい。傷つけるようなことだけは、どうかしないでほしい)
祈りにも似た思いでたくさんだった。
(妹のことだ。きっと何かあったらいつものように騒がしく暴れるに違いない)
さすがに家で二人きりにするには勇気がなかった私は、リビングへと向かった。
気を張っていたのかして、気づけば私はソファーで微睡んでいた。
(いけない。うたた寝をしちゃった)
時計は午後二時半を差していた。
一伸びすると、私の体からは膝掛けがするり、と落ちた。
(あれ。いつの間に膝掛けが……。萌那かな?)
珍しいこともあるものだな、と特に何の疑問も抱かず立ち上がった私の目に飛び込んできたのは、きれいに洗われた食器だった。
カップ、小皿、フォークと部類別で丁寧に並べられている様子からでもわかる。
妹がしたものではない、と。
そもそも、妹が食器を洗うなんてことは今まであった試しがない。
私はどうしてか、一本いやそれ以上を取られた気分だった。
小悪魔的な二面性を見せられたかと思うと、律儀で礼儀正しい性格が垣間見れる。
まったく読めない人だと思った。
私に膝掛けをくれたのもきっと、彼ーー蓮見錬だ。
寝顔という醜態を見られたのは失敗だったけれど、気遣いのできるいい子には違いない。
私は安堵の笑みを溢すと、洗濯物を片しにいった。
「風が気持ちいい」
ベランダが東向のため、干物に日はもう当たらない。
私はすっかり乾いた洗濯物を取り込んだ。
アイロンをかける制服のブラウスなどを避け、バスタオル、手拭き、下着を洗濯物カゴに畳んで入れていく。
私は今二階の和室にいた。
襖が空く、物の擦れる音がした方を振り返ると、そこには例の彼がいた。
「蓮見くん、どうしたの?」
「お手洗いを借りて、その帰りです」
そう言いながら、襖をそっと閉めたのだった。
昼下がり。
天気は良く、空には雲ひとつなかった。
小鳥たちの囀ずりなんかも聞こえ、長閑で平和な日常のひとコマだ。
しかし、彼と密室で二人きり、このシチュエーションはどんな平穏も軽々と砕き去ってしまう、そんな破壊力を持ち合わせていた。
いや、今この時だからこそ、平和だからこそ、恐怖が身に染みるのだ。
お化け屋敷でオバケに出会うのと、ふとした日常でオバケに出会うのとでは、その驚きは格段に違うのと同じように。
私も今、予期せぬ場面で想像し得ないことに出会う。
「お家のことは、いつもお姉さんがされているんですか?」
襖を隙間なく閉め終えると、彼は歩を進めた。
「ええ。大体は。家は父子家庭だし、父も帰りが遅いから」
「できたお姉さんだ」
「お姉さんはちょっと恥ずかしいな。慧那、でいいわ」
「慧那さん、か。萌那ちゃんはお姉さんが好きだから、その呼び名だとヤキモチやかれちゃいそうですね」
困り笑いをした彼は、あまりにもあどけなく私はつい目を奪われた。
「蓮見くんも早く戻らないと、萌那に怒られちゃうわよ。せっかちだからね、あの子」
早く彼を追いだなさなければ、と思った。
彼はもう私のすぐ側にいた。
「大丈夫です。さっき、眠っちゃったので」
「え、寝ちゃったの?」
「昨日も遅くまで勉強頑張っていたみたいで、今朝も早かったから寝不足だったんでしょうね。まったく、かわいい人です」
困ったような言い種にも関わらず、彼の顔には笑顔があった。
妹は愛されている、そう思った。
私は何だか少し、羨ましかった。
「僕も手伝います」
「いいわ。蓮見くんはお客様なんだから。そういえば食器も片付けてくれたみたいで、ありがとう」
「いいえ。慧那さんの仕事に比べたら、お安いご用です」
「そんなことないわ。それと……膝掛けもありがとう」
タオルを忙しなく畳みながら言う私は、とてもじゃないけれど年上には見えなかったと思う。
そんな私に彼は、構わず言った。
「僕も、いいもの(慧那さんの寝顔)が見れたので」
「蓮見くん……」
「ごちそうさまです」
「!」
思わず叫び出す私の口を封じたのは、彼の熱を帯びた掌だった。
「慧那さん、静かにしないと……萌那が起きる」
その時、私の背後には和箪笥が迫っていた。
私はついに追い詰められていたのだった。
「ふふ」
彼は不敵すぎる笑みを溢し、囁いた。
「萌那はこれから僕の色に染める。調教しがいがある。対して姉は、しっかり者でプライドも高く、隙がないーー貴女は落としがいがある」
塞がれた口では呼吸もままならない。
気持ちが焦るほど、息は苦しくなった。
しかし、ぼうっする意識の中でもはっきりとわかることがあった。
それは彼の目がもう、色欲に犯されていることだ。
つまりーー私に欲情していた。
それは決して獰猛なんかではなく、むしろ妖艶に思えた。
私の中の欲情も掻き立てているようだった。
乱れ始めた吐息はもう媚薬しでしかなく、ただ私を落としていくだけだ。
「ん……」
色情に染まった目と色っぽい息遣いからは想像もできないほど、柔らかな口付けだった。
唇を隈無く堪能したその舌は、私の呼吸に合わせて開いた唇から器用に割って入る。
舌と舌が執拗に絡み合う音は、彼と私の欲情に火を点けた。
そして、止めどなく溢れる津液は私の喉を熱く流れた。
「慧那さん……色っぽいですよ、すごく」
「そんなこと、言わないで……」
「どうして? こんなにも、たまらなく欲情しているのに」
(だからよ。言葉にされると快楽と罪悪感で頭がどうにかなってしまいそう)
彼はじりじりと私を追い詰めた。
カーディガンのボタンはもうすべて取り除かれた。
インナーを着ていない白色のブラウスからは、うっすらと淡い紫色の下着が透けていた。
「エロいね、お姉さん」
「!」
突然の砕けた口調に、彼との距離感が掴めなくなった。
「ああほら。静かに。わかっていると思うけど声、我慢してくださいね」
可愛く傾げる仕草からは、これから起こることなんて想像もつかないだろう。
私は迫り来る欲に、与えられる甘美な刺激に身を委ねるしかなかった。
六畳一間の和室で繰り広げられる秘め事は、私をそこはかとなく虜にした。
妹をこよなく愛する彼ーー蓮見錬。
未熟な果実が美味しく実るその時まで、私は彼を繋ぎ止めるしかないのだろうか。
愛しい妹に傷がつかないよう、甘さに飢えた獣に求められるがまま蜜を与えるしか、術はもうないのだろうか。
(金曜日の夕暮れー仮初め編ーへ、つづく)
土曜日の昼下がり(秘め事編)
どうしてこんな話が浮かんだのか、もう思い出せません。