人知れず、8Bのペン先で綴る君の名を

人知れず、8Bのペン先で綴る君の名を

■ 序 章

 
 
 
  (ヤバい ヤバい ヤバい いくらナンでもヤバすぎるっ!!!)
 
 
 
放課後の静まり返った廊下。
窓枠の規則的な四角形が磨き上げられた床面に橙色の形を落とす、夕暮れ。
 
 
聴こえるのは、遠く体育館からバスケ部のボールが跳ねる音と、わずかに
開いた窓から洩れ流れるグラウンドの白球を追う野球部の元気な掛け声。
  
 
 
そして、

カノウ イツキが慌てふためいて猛ダッシュする足音だけだった。
 
 
 
 
  (頼む 頼む 頼む 頼むから

   ナンでもするから マジで、ほんとマジで頼むから・・・。)
 
 
 
 
半ば床を滑るように長い廊下を駆け抜け、2階にある2年の教室がある
方向へと階段を3段飛ばしで駆け上げるも、気怠く踵を履きつぶした
上履きがパカパカと脱げそうで邪魔をする。
 
敵は本能寺でも何処でもなく、至極近く、それは自らにあったのだと改めて
気付く。
 
 
こんな時、いつもイツキは思うのだ。
 
 
 
 
  (上履きぐらい、ちゃんと履こうぜ・・・ オレ・・・。)
 
 
 
 
イツキは、2-Bのクラスの中の、目立つグループに属していた。

5人組のそれは、他を圧倒する存在感を持ち、少し着崩した学ランと明るく
染めた髪の毛、勉強なんか真面目にやってる暇があったら遊んでいたいと
いうスタンスの小集団で、勿論上履きの踵はもれなく気怠く踏みつけて履き
つぶしていた。
 
しかし、某有名漫画に登場しそうな金持ち男子グループには程遠く、ただの
チャラくて気怠い中途半端な勉強嫌いの集まりだったのだが、本人たちは
至って真面目に ”不真面目 ”を貫き通していた。
 
 
そんな中でも最も尻切れトンボで地味で目立たないのが、イツキだった。

なんだか気が付いたらそのグループに属していて、何故属するようになった
のかその経緯もよく思い出せない程だが、今更抜けると言い出す事も出来ず
なんとなく今に至る。
 
 
本当は、上履きは履きつぶさずちゃんと踵までしっかりキレイに履きたい。

授業中は机に突っ伏してダルいフリしているが、耳はしっかりそばだてて重要
箇所はこっそりシャープで印を付けている。

文字を書くのなんか嫌いな顔して敢えて汚く崩して書くが、実は書道の段を
持っている。

面倒くさがりなテイでいるが、かなり几帳面で自宅に帰ったらまずはうがいと
手洗いを真っ先にする。

学校では ”オヤジ・オフクロ ”と踏ん反り返って呼ぶが、完全完璧に家では
”お父さん・お母さん ”と敬意を表している。
 
 
そんなイツキの最大にして最高のシークレット、それは・・・
 
 
 
   歯がゆく甘酸っぱい物語を書いている、という事だった。
 
 
 
元々こどもの頃から国語、特に作文が得意で小学生時分などは賞を受賞した
経験もある程だったイツキ。 しかし中学に入り多感な時期に突入するや否や
格好付けたいお年頃の男子が作文で呑気に市長賞なんか取って喜んでいる場合
ではない。 他にやらねばならぬ事、考えねばならぬ事は山ほどあった。
  
 
例えば、
女子にモテる方法とか女子にモテる方法とか女子にモテる方法とか・・・
 
 
いつしか ”書くこと ”から少し離れていたイツキだったが、たまたまネットを
流し見して見掛けた小説投稿サイトにハマり、毎夜毎夜、物語をしたためる様に
なっていた。

最初はPCに向かい指先でキーボードを打ちポチポチ入力して創作していたのだが
本来えんぴつを握って原稿用紙にしたためるのが好きだったイツキは、いつしか
ネット投稿をやめ、アナログ式に移行していた。
お気に入りの ”月光荘 ”という画材店にしか売っていない8Bのえんぴつを
使いやわらかい芯のなめらかな書き心地を愉しんでいた。
 
 
胸を熱くする恋物語がなにより好きだった。

自分もいつかはそんな物語のような甘酸っぱい恋をしてみたいと焦がれた結果
まだその熱く火照る様な予兆は微塵も無さそうだから、それなら理想を書いて
しまえと始めた、それ。

しかし、イマドキの高校生男子が毎夜、甘酸っぱい恋物語をしたためている
なんて口が裂けても言えやしない。 

人知れずチマチマと背中を丸め、8Bのえんぴつを握り机に向かっていた。
 
 
 
とある話を書き終えたとき、イツキの心にひとつ小さな火が灯った。
 
 
 
 
  (誰かに読んでもらいたい・・・ 評価してほしい・・・。)
 
 
 
 
一度そう思いだしたらもう気持ちは止められず、原稿用紙の表紙にふと思い
付いたペンネームを瞬時に書き込み、大きめの茶色い封筒に大切に大切に
原稿を入れた。 どこの出版社に郵送しようか迷い決められず、社名はまだ
書き込まないまま。
 
 
そして、封筒の隅に一行、流れるような達筆で書いた。
 
 
 
       ”感想お願いします ”
 
 
 
翌日中にでも出版社の住所と名前を書いてポストに投函しようと、普段は何も
入れない薄っぺらい学校指定カバンにその封筒を入れた。 

準備は万端だった。
万端な、はず、だった・・・のだが。
 
 
 
今、現在。
 
 
 
   夕暮れの放課後の廊下を、

   イツキは気が狂ったように血相変えて猛ダッシュで駆けていた。
 
 
 
 
  (ヤバい ヤバい ヤバい いくらナンでもヤバすぎるっ!!!
 
 
   頼む 頼む 頼む 頼むから

   ナンでもするから マジで、ほんとマジで頼むから・・・)
 
 
 
イツキは、

原稿用紙が入った茶封筒を、2-Bの教室に置き忘れていたのだった。
 
 
 
 
  (誰も見るな 誰も見るな 誰も見るな 誰も見るな・・・)
 
 
 
 
慌てて勢いよく2-B教室の引き戸の取っ手に指をかけ開け放つ。

そのもの凄い力に、引き戸は弾かれる様にMAXまでスライドし勢い余って
再び少し戻って閉まった。
体が重力に従って進行方向につんのめりながら、転がり込むように教室に
飛び込んだイツキの目に入ったもの。
 
 
 
それは、
机にちょこんと腰掛けて、原稿用紙に目を落とすセーラー服の背中だった。
 
 
 
 
  (し・・・ ししししし、死んだ・・・ オレ・・・。)
 
 
 
 
騒々しい音を立てもの凄い勢いでやって来たその姿に、その細く小さい背中が
ギョっとして大きく飛び上がり振り返る。 顎の長さで切り揃えられしっとり
まとまったショートボブの黒髪が、その頭の動きに合わせ大きく揺れる。
 
 
 
 『ビ、ビックリさせないでよね・・・

  ・・・ナニやってんのよ? カノウ・・・。』
 
 
 
原稿用紙を掴んだそれは、クラスメイトのサエジマ ミコトだった。
 
 
 

■第1話 真剣に原稿用紙を読みふけるその横顔

 
 
 
血相を変えて教室に飛び込んで来た理由を ”忘れ物 ”と言い掛けて、咄嗟に
イツキは口をつぐんだ。
 
 
誰もいない教室の机にぽつんと置き忘れられた ”それ ”が、見紛うこと無く
ド・ストレートに自分の物だと言っているようなものになってしまう。 
それはマズい、超絶マズ過ぎる。
 
 
しかも ”それ ”を手に取り読んでいるミコトは、中学からの顔馴染みであり
気怠さを最大限装うイツキが毎夜甘酸っぱい恋物語などしたためているなんて
考えもしない相手なのだ。
 
 
 
 『サ、サササエ・・・ささ財布、 教室に忘れてさぁ~・・・

  慌てて戻って来たんだよ・・・

  そうそう! 財布、財布っ!!
 
 
  いやぁ~ 小遣いもらったばっかで、チョ~ォ金はいってるから

  まじ、オレ、焦って戻って来たんだよねぇ~・・・。』
 
 
 
嫌な汗が額やら背筋やらワキやら、穴という穴から吹き出していた。
ゾッとするとはこうゆう事を言うんだと、どこか他人事みたいに関心する。
 
 
しかし、イツキの過剰過多な言い訳にも、ミコトは一切興味が無さそうに
『へぇ。』 と一言だけ小さく吐いて、再び手元の原稿用紙に目線を戻す。 

ミコトにとってはイツキが慌てようが財布を忘れようが、小遣いが多かろうが
少なかろうが正直どうでもよかった。
 
 
真剣に原稿用紙を読みふけるその横顔に、イツキは恐る恐る声を掛ける。

その顔は強張るだけ強張り声も裏返りそうだったが、なんとか平静を装い
まるでミコトが手にするそれにたった今気付いたかの様なテイで。
 
 
 
 『ぇ。 なに?

  ・・・な、なに読んでんの? お前・・・。』
 
 
 
自然な感じを装えたか不安でいっぱいで、再び穴という穴から例の液体が吹き
出す。 学ランの中に着ている、だいぶ流行から遅れてお年玉でやっと買った
憧れブランド・アバクロのTシャツの背中がびっしょり濡れて寒くてリアルに
背筋が凍りそうだ。

頭の片隅で、このまま汗が出続けたら脱水状態になって倒れるのではないかと
別の杞憂も生まれはじめていた。
 
 
すると、ミコトがぽつり呟いた。
 
 
 
 『 ”感想お願いします ”って一言かいた封筒が、

  アタシの机の上に置いてあったの・・・
 
 
  ”three ”って、ペンネームだけ書いて・・・。』
 
 
 
イツキが目を見開き慌ててガバっと顔を伏せる。
 
 
 
  (マママママ、マジかー・・・

   なんでサエジマの机に大事なそれ置き忘れるかな、オレー・・・
 
 
   ばかばかばかばか! オレのばか!!
 
 
   つか、”感想お願いします ”だけ、

   巧いこと活きちゃってるって、どんなミラクルなの、それ・・・。)
 
 
 
すると、ミコトが囁くように続けた。
 
 
 
 『この人・・・ すごいよ・・・

  アタシ、最初の1ページですっごい引き込まれた・・・
 
 
  ・・・この人・・・ 天才なんじゃない・・・?』
 
 
 
その言葉が耳に響いた瞬間、イツキは顔を上げて天井を見上げた。
 
 
 

■第2話 最上級の褒め言葉

 
 
 
  (ぁ、あれ・・・? ここ、屋外じゃねーよな・・・?)
 
 
 
突如、頭の先から足の先まで稲妻にでも打たれたような激烈な衝撃が、
一気にイツキを襲う。
 
 
 
 
 ”天才ナンジャナイ? 天才ナンジャナイ? 天才ナンジャナイ?・・・”
 
 
 
 
ミコトの一言が頭の中をグルグル グルグル巡り、トラあたり今にも発酵
してバターになりそうだ。
 
 
 
   (か・・・雷さま、ドコー・・・?)
 
 
 
呆然と瞬きもせず最大限に首を反って教室の天井を見上げ続けているイツキの
横顔をミコトは不思議そうに見つめ、同じように天井を見てみる。 
そこに何かあるのか、ぽっかり口を開けて。
 
 
『な、なに? なに見てんの??』 暫し一緒に上を見ていたミコトに不審顔で
声を掛けられ、イツキはあからさまに取り乱した。 なにか巧い理由をこじつけ
なくてはいけないのにミコトからの ”天才 ”という予想だにしなかった最上級
の褒め言葉に、ケータイのスヌーズ機能よりしつこく延々と痺れつづけるイツキ
の脳は、そう簡単には通常の状態に切り替わらない。
 
 
ただただ潤んだ目で天井を見つめ続け、そしてちいさく呟いた。
 
 
 
 『て、ててて天才・・・ 天・・ 天井も・・・ 

  意外と汚れるモンだよなぁ・・・。 ほら、あそこ!』
 
 
 
学ランの腕を垂直に伸ばし、実際は然程汚れてもいない天井を指さすイツキに
ミコトはふんっと鼻を鳴らしバカにして呆れた様にかぶりを振った。
 
その顔は ”聞いて損した ”とでも思っているようなそれで。
 
 
ゴクリと息を飲み込む音が、イツキの喉元から響く。

反っていた首を静かに戻し、恐る恐るミコトの方へ視線を流す。 ポケットに
手を突っ込み背を丸めて、ゆっくりゆっくりミコトの方に近寄る。 踵を踏ん
づけた上履きが教室の床を擦れる音と、猛スピードで打ち付ける心臓の鼓動が
やけに耳にうるさい。
 
 
イツキは、ミコトのその細い指先が掴んでいるそれをそっと覗き込んだ。
 
 
 
  (オオオオオレの・・・ 

   ・・・ど、どどどどこら辺が ”天才 ”なんだろ・・・?)
 
 
 
その2文字に舞い上がるだけ舞い上がった絶賛・有頂天中のイツキは、読者
第一号のミコトからもっと詳しい評価を聞きたくて仕方がなかった。
 
  
ミコトが浅く腰掛ける机の横に立ち、まるで
”まぁ、ちょっとオレも興味ない訳でもない ” という顔を向け、
体を傾げ小さく呟く。  『なに? どれどれ・・・?』
 
 
すると、ミコトが途端に不審な目を向け睨んだ。
 
 
 
 『アンタなんかが ”コレ ”の善さ分かる訳ないじゃんっ!!』
 
 
 
鼻にシワまで寄せて原稿用紙を守るかの様に、それを胸に抱いてイツキから
遠ざけ死守するミコト。

『 ”なんか ”ってナンだよっ!!』 そう言い返しつつもその時イツキは
自分が作者だとは1ミクロンもミコトに気付かれていない事を知る。
 
 
『いいから、ちょっと見せろって!!』 半ば強引にミコトからそれを奪う
ように引っ張った。

心の中ではあんまり強引に引っ張って原稿用紙が破けたりでもしたら大変で
気が気じゃない。 なんとか適度な力加減でやんわり押したり引いたりして
それを奪い、イツキはペラペラと原稿用紙をめくると、まるで軽く流し読み
している様なフリをした。
なにせ自分が書いた文章。 しっかり読み込まなくたってなにが書いてあるか
分からないはずもない。
 
 
しかし一見、適当に馬鹿にしながら飛ばし読みをしている様な感じにミコトは
更に不機嫌そうに唸った。

『ど~ぅせ、恋愛モノになんか興味な・・・』 言い掛けたミコトの言葉を
遮ってイツキは大袈裟に声を張り上げた。 
 
 
 
 『えええ スゲーじゃん!! ぉぉおもしれーよ、コレ・・・。』
 
 
 
自分で自分の書いたものを褒めちぎって、思わず赤面する。
 
ミコトを ”読者兼評価者 ”としてなんとか取り込んでおきたいイツキは、
怪しまれないよう納得するように、うんうんと腕組みをして唸ってみせる。
 
 
 
 『分っかるなぁ~・・・ こんな気持ちっ。』 
 
 
 
眉根ひそめ体の前で腕組みして、ちょっと切なげに哀愁込めて呟いてみた所
『嘘つけ。』 ミコトから速攻で全否定の3文字が剛速球で返って来た。

 
 
気が付けば、ふたりでひとつの机に浅く腰掛けたまま顔を突き合わせて原稿
用紙に綴られた歯がゆくて甘酸っぱい恋物語を読み耽っていた。
 
 
 

■第3話 感想の伝え方

 
 
 
 『ねぇ、ところで・・・

  どうやって感想伝えたらいーと思う・・・?』
 
 
 
ミコトが茶封筒の表に書いてある ”感想お願いします ”の達筆な一行を
指先でなぞって隣のイツキに目を遣った。

イツキ自身ウットリするくらい達筆なそれ。 
なんせ書道の段を持っているのだ。 原稿用紙に綴られた文字も、もれなく
美しい流れるようなそれだった。
 
 
昨夜の時点ではその横に出版社名と住所を書き、自分宛の返信用封筒も同封
しようとしていたそれ。
まさかミコトに感想を訊ねることになるなんて思いもしなかったイツキは、
次から次へと発生する諸問題に、目を白黒させてひとりアタフタ取り乱す。

背筋の寒さ具合で言えばもうゆうに北極圏に到達し、シロクマあたりガップリ
背負っているような気分さえする。
 
 
しかしそんなイツキになど目もくれず、ミコトはどんどんひとりで考えて
先に進んでゆく。
 
 
 
 『アタシの机の上に置いてたって事は、

  やっぱアタシに感想ききたいって事だよね・・・?
 
 
  読んだら感想文でも添えて、また机の上に置いたらいいかな・・・?
 
 
  でもね!でもねっ!

  忘れ物だと思って他の人に回収されちゃったら困るじゃん?
 
 
  机の中に入れておけばいーかな・・・?
 
   
  そうだよね! 机の中に入れておくことにしよう!!

  でも・・・ 気付くかな? 気付くよね? ダイジョーブだよね??』
 
 
 
イツキにひと言も喋らせず、勝手にひとりで自己完結してゆくミコト。

二人三脚のつもりでいるイツキをスタートラインで取り残し、その脚を
結わえた縄などブッた切ってミコトはマッハのスピードで駆けてゆく様で。 
追い掛けようにもイツキの靴の踵はこんな時もやはりパカパカで。
 
 
 
 『ってゆうか・・・

  なんで、アタシだったんだろ・・・?』
 
 
 
  (いや、たまたま置き忘れただけデス・・・。)
 
 
 
 
 『あっ!!

  アタシが恋愛小説好きだって知ってる人が作者なのかも・・・。』
 
 
 
  (いや、お前がコレ系好きかなんか知らんし・・・。)
 
 
 
 
 『きっと、この人って

  アタマ良くて、メガネで、真面目で・・・

  清潔感のある優等生なんだろうなぁ~、ゼッタイ・・・。』
 
 
 
  (えーぇと・・・ 今、隣にいるのがソレなんですが・・・。)
 
 
 
 
まるで隣に腰掛けるイツキなど目に入っていないかの様に、うっとりと目を
細め遠くを見澄まして自分の世界に籠りミコトは原稿を胸にぎゅっと抱く。

すると暫し頬を桜色に染めて乙女を満喫していたミコトは、やっとイツキの
存在を思い出し、ジロリとまるでゴミ屑を見るような目線を向けて言った。
 
 
 
 『てゆーか・・・ アンタも、感想書きたいの・・・?』
 
 
 
それは ”書きたくないよね? ”という意味合いが随分強く込められている
様な口調だった。 
自分が書いたものに自分で感想文を書くなんて可笑しな話なのだが、その
ミコトの言い振りに、それはそれでなんだか引っ掛かるものがある。
 
ミコトが感想を机に入れておいてくれるなら別にそれでいいはずなのだが、
実際に文章を読んで、嬉しそうに目を輝かせたり哀しげに目を伏せたり、
表情をコロコロと面白いように変化させる様を作者として直接見ていたい
という気持ちが湧いていた。
 
 
 
 『オレは別に感想は書かないけど・・・

  ・・・オレも、出来れば・・・ ソレの続き、読みたい、カモ・・・。』
 
 
 
すると、ふんっと再びミコトは鼻を鳴らした。

そしてイツキの顔の前に人差し指を突き付けると、矢継ぎ早な出来事に脂汗が
テカる鼻頭に指先がくっ付きそうになった。
 
 
眉根をひそめ、真剣な眼差しでミコトは言う。
 
 
 
 『アタシは、この話が大っっっ好きなのっ!!

  だから、馬鹿にするようなこと言ったりしたら

  二っっっ度と見せないから ・・・それだけは覚えといてっ!!』
 
 
 
『は、はい・・・。』 思わず背筋を正してイツキがペコリと会釈した。

とんでもない愛読者が出来たもんだと、呆れたような困ったような面持ちで
しかしやはり照れくさく緩んでゆく頬がジリジリと熱くなるのを感じていた。
 
 
 

■第4話 ”サクラ咲く アカル散る ”

 
 
 
ミコトは大切に自宅に持ち帰った大き目の茶封筒から、まるで宝物のように
原稿用紙をそっと丁寧に取り出した。
 
 
 
         ”サクラ咲く アカル散る ”
 
 
 
そうタイトルが記されたそれは、”three ”というペンネームの人間が
書いた恋愛小説だった。 

男子高校生の不器用な想いが溢れるそれは、主人公のミナトがクラスメイトの
カスミに淡い片想いをする恋物語。 そっと見つめることしか出来ずにいた
ミナトはある日カスミの ”秘密 ”を知ってしまい、それを機にふたりの距離
は縮まってゆく。 縮まるそれに反比例するかのようにカスミへの想いは溢れ
募ってゆくのに、近付いた距離が逆に邪魔をして気持ちを言い出せない。
 
 
ミコトはもう一度最初からそれを丁寧に丁寧にゆっくりじっくり読み返し、
そして大きく大きく溜息をついた。 その頬は高揚してほんのり赤らみ、
机の上に置いた原稿用紙にそっと手の平を乗せて小さくやさしく撫でる。
 
 
 
 『んもぉ~・・・

  ・・・ステキ過ぎる、ってばぁ~・・・。』
 
 
 
暫しぼんやりと話の余韻に浸り、ウットリ遠い目をしていた。

机に肘をついて両手で頬を包み、主人公ミナトとカスミのもどかしい距離感に
思わずため息を落とす。
 
 
 
 『アタシも、こんな恋したいなぁ・・・。』
 
 
 
すると、急に思い出したようにミコトは自室のPCを起動させると文章入力
ソフトを立ち上げ、読んだ感想を綴りはじめた。
 
 
 
  (アタシは別に、ただの一般人だし・・・。)
 
 
 
難しい言い回しや文語的表現を用いて感想を記す必要性なんか感じなかった
ミコトは17才のミコトが感じたことをありのまま正直に書いた。
 
笑った部分、泣けた部分、まるで自分のことの様に胸がきゅっと締め付けられ
た部分をミコトの言葉で懸命にキーボードを打ち付け綴ってゆく。 

気付けば夢中になってPCに向かい、書きはじめてからもう2時間近く経って
いて母親が階下から掛ける ”早くお風呂に入りなさい ”の声でやっとそれに
気付いた。 
目にじんわり疲労感を感じシバシバと大仰に瞬きをして、大きく背を反らすと
腕をまっすぐ天井へ向けて突き上げ伸びをした。
 
 
そして、もう一度PC画面に向き合い最後に一行カタカタと入力した。
 
 
 
  ”three様  次話もすごくすごく楽しみに待っています! ”
 
 
 
ツールバーの ”印刷 ”アイコンをクリックし、感想文をプリントアウトする。

机の横に置かれたラックの上のプリンターが暫し耳障りな起動音を響かせ、
それはやっとの事で排出口から出て来た。
それをクリアファイルに入れて原稿用紙と一緒に茶封筒に納めると、ミコトは
ぎゅっと胸に抱いて目を閉じた。
 
 
物語の中の主人公のように頬がほんのり赤らんでいることに、ミコトはこの時
気付いていなかった。
 
 
 

■第5話 勲章のようなペンダコ

 
 
 
イツキは自室のベッドに横になり、仰向けになったりうつ伏せになったり、
横向きで胎児ポーズを取ったり、ジタバタと落ち着かない面持ちでいた。
 
 
愛読者第一号をゲットした。
それもだいぶ予想とは違う、思いもよらぬ形で。
 
 
取り敢えず、ミコトには作者の正体はバレていない。

そして、嬉しい誤算により感想を書くことにやたらノリノリで張り切っている。
おまけに棚ぼた的流れで、イツキ本人もミコトと一緒に恋物語を読む流れに
まで持って行けた。
 
 
 
 『コレは・・・

  ・・・結果オーライとゆって、いーぃんだ、よ・・・な?』
 
 
ポツリひとりごちて、頭の後ろで手を組みぼんやりと天井の継ぎ目を見つめる。

仰向けで寝転がった然程長くはない足をバタバタと動かし足掻いてみる。
その頬は嬉しさにみるみるだらしなく緩んでゆき、ミコトからの例のひと言を
思い出して口許が小刻みに震える。
 
 
 
 『 ”天才 ”かぁ~・・・

  ・・・こりゃ、参ったな・・・

  天才とか、まじで、そーゆーつもりじゃ全然なかったんだけど・・・
 
  
  天才かぁ~・・・
 
 
  天才・・・ 天才・・・ 

  いや、でもアイツがそう言いたいなら、それはしゃーないしな。』
 
 
 
しつこいくらいにそのひと言を延々呟き続け、ニヤニヤと気味悪く微笑むと
枕をぎゅっと羽交い絞めにして、横向きで膝を折り曲げ体を小さく縮めた。

その重力に従い放題の弛んだ口許から、嬉しさのあまり溜息が零れた。
 
 
 
すると、突然イツキはガバっと上半身を起こした。

そして部屋着のヨレヨレのスウェットの袖を腕まくりすると、飛び上がる様に
ベッドから降りて勉強机に向かう。
 
 
 
 『読者のために・・・

  天才のオレは、書き続けねばなるまいっ!!!』
 
 
 
”ネタ帳 ”ならぬ ”フレーズ帳 ”をパラパラとめくる。

それは、いいフレーズやシチュエーションが浮かんだ時にすぐさまメモ出来る
様に常に常にカバンに忍ばせているイツキのマル秘大学ノートだった。
 
 
第1章だけ書いて感想を求めた、恋物語 ”サクラ咲く アカル散る ”

主人公ミナトの切ない片想いを、ただただひたすら丁寧に綴っていた。
次の第2章は、少しずつ少しずつカスミの気持ちが揺れ動く様をやわらかく
文字に起こしてゆくつもりだった。 
はじめての恋に戸惑う淡くて小さなくすぶる想いを、8Bのペン先でゆっくり
丁寧に原稿用紙に乗せてゆく。
 
 
早くミコトに読んでほしくて、早く感想を聞きたくて、思わず過剰に筆が走る
けれど大切なのはスピードではなく丁寧さ・繊細さだと、短距離走さながら
突っ走りそうになる自分をいなす。

書いては読み直し、書いては読み直して、たった1話分書くだけなのに相当な
時間を要していた。
 
 
 
 『取り敢えず・・・

  第1章の感想もらってからだな・・・。』
 
 
 
真剣にえんぴつを握り続けたイツキの右手中指には、しっかりとまるで勲章の
ようなペンダコが形を為していた。
 
 
 

■第6話 聖なる儀式

 

 

翌朝、ミコトはなんだかソワソワと落ち着かなくて、いつもより早く家を出て
自転車のペダルを踏み込んでいた。

 
自転車のカゴにはしっかりと学校指定カバンが収められている。

いつもは弁当箱を入れているサブバックが傾げないよう、それを最優先にする
のに、今朝はすっかり順位が逆転していた。 

原稿用紙が入ったカバンが真ん中に威風堂々と鎮座し、サブバックの弁当箱は
完全に横倒しになっていたがそんなの全く気にならないミコト。

 

  (原稿にナンかあったら、大変だ・・・。)

 

息を弾ませながら嬉々とした表情で立ち漕ぎをし、学校までの通学路を自転車
のタイヤは砂利を弾き飛ばし軽快に高速回転していた。

 
まだ少し朝早いそこは、遠く運動部の朝練の掛け声やボールが跳ねる音が響く。

まだ止めている自転車もまばらな駐輪場に慌てて滑り込み、2年専用エリアに
駐車すると前カゴから大切そうに茶封筒が収められた学校指定カバンを取出し
胸に抱きせわしなく駆け出した。

慌てて靴箱前で上履きに履き替え、踵が収まりきらないまま爪先をトントンと
打ち付けつつ尚も廊下を走る。 階段をパタパタと一段ずつ小走りで駆け上が
る足音が静かな階段踊り場の壁に、天井に、跳ねて響く。 嬉しそうに頬を
緩ますその顔に、窓から差し込む朝の光がやわらかい。

 
2-Bの教室のドアを勢いよく開けると、やはりそこには誰の姿も無かった。

 

 『ヤッタ・・・! 一番乗りっ。』 

 

自分の机の中にそれを入れておけばいいだけなのだから他人の目など気にする
必要も無いのだが、ミコトはどうしてもひとりでその ” 聖なる儀式 ” を
行いたかった。 ミコトにとっては、なんだかとても大切な事に思えて。

 
自席までゆっくり進みカバンから茶封筒を取り出すと、一度胸にぎゅっと抱く。

 

  (ちゃんと、気付いてくれますように・・・。)

 

そっと目を瞑って願いを込め、丁寧に机の引出しの奥に入れる。

机横のフックにカバンの取っ手を引っ掛け、逆サイドのそれにサブバックを
提げるとイスに腰掛けスっと背筋を伸ばして姿勢を正す。
そして、もう一度引出しに両の手を差し込んでみた。

 
そっと手の平でその封筒の表面を小さくやさしく撫でた。

 
 

■第7話 引出し奥の茶色いそれ

 
 
 
教室内に続々と登校してきたクラスメイトの中に、イツキを見付けたミコト。
 
 
相変わらず気怠そうに上履きの踵を擦って背中を丸めている、その学ラン姿。

中途半端に染めた髪の毛は根元部分が伸びて数センチ黒髪が見え、眠そうに
大きな大きなあくびをしている。 後頭部をボリボリ掻いて、むさ苦しい。

ミコトはじーーーーっとその覇気のない顔を見ていた。 
机に両肘をつき少し身を乗り出すようにして、じーーーーーーーーーーっと。
 
 
すると、ふとミコトに一瞬目線を向けたイツキが、あまりの熱視線に途端に
慌てて取り乱し赤くなった。
 
 
 
  (ななななな、何っ??

   ななななな、なにそんなに見つめてんだよ・・・。)
 
 
 
明らかに困惑した感じでしかしどんどん照れまくって緩んでいくそのマヌケな
顔にミコトは目を細め、呆れ果ててジロリと睨む。 音は出さないよう軽く
打った舌打ちが口内で小さく響く。
 
 
 
  (なに違う意味にとってんのよ、バカじゃないっ??) 
 
 
 
すると、スっと席を立ちあがったミコト。

机を手の平でぐっと押して立つと、イスが自動的に後方に下がってギギギと
嫌な音を立てた。 いまだ照れくさそうにだらしなく口許を緩ますイツキの
元へツカツカとまっすぐ進むと、その学ランの二の腕に握り締めた拳で軽く
グーパンチした。 

そして、自分の机の方を顎で指し ”それ ”を引出しに入れたことを無言で
示す。
 
 
 
  (ああああああ!!!  ”そっち ”、か・・・。) 
 
 
 
朝イチでまっすぐ熱く見つめられて可笑しな勘違いをしかけたイツキが、
ミコトの感想文の存在にやっとのことで気付く。 

気付いた途端に、女子慣れしていない自分の経験値の低さを嫌という程思い
知らされどうやってこの恥ずかしすぎる勘違いを誤魔化そうか脳内フル回転で
言い訳を考えつつも、それでさえマル秘フレーズ帳に ”こんな気持ち ”を
メモっておかねばとかなりの熱心具合。 
うんうん。とひとり、自己完結の納得の謎の頷きを2回。
 
 
そして、チラリとミコトに目を遣り、”了解 ”の意の瞬きをバッチリ返した。
 
 
すると、
 
 
 
 『キモっ。』 
 
 
 
小さく目で合図したつもりだったそれは意外に大仰だったようで、ミコトは顔を
しかめ、嫌なものでも見てしまったかの様に苦い面持ちですぐさま逸らした。
 
 
 
 
 
その日一日、授業なんて上の空だったイツキ。
 
 
 
  (早く読みたい 早く読みたい 早く読みたい・・・。)
 
 
 
イツキの席から少し離れて斜め前方にあるミコトの机。
 
体を傾げクラスメイトの背中の間を掻い潜れば、その引出し奥の茶色いそれが
見えなくもない微妙な位置。
無意識のうちに全ての授業中、倒れるくらいに体を傾げ半ばポカンと口も開けて
イツキはミコトの方を見つめていた。 必死にミコトの机の中身を見ようとして
いた。
 
 
 
  バシッ。
 
 
頭頂部に鈍い衝撃を感じビクっと体が跳ねあがって、ふと我にかえる。

するとそこには英語教師が片手に教科書を丸めて振り下ろし、片手は腰に当てて
苛ついた面持ちで顎を上げイツキを睨みつけていた。
 
 
 
 『随分とまぁ~・・・ 

  堂々とカンニングしてるなぁ~? カノウ・・・。』 
 
 
 
その時、英単語の小テスト中だったことに気付く。 

元々、英語は最も苦手で大っ嫌いだったイツキ。 それなのに劇的サプライズで
嬉しくもなんともない小テストをお見舞いされて、げんなりするは問題は見紛う
事無く見事に1問も解けないはで、思わずイツキは再び体を倒してミコトの机の
方を凝視していたのだった。
 
 
『カ、カンニングじゃねえよ・・・。』 そう蚊の鳴くような声でか細く反撃
すると英語教師は言う。 『じゃぁ、何してたんだよ??』
 
 
 
  (サエジマの机の中が気になって、なんて言える訳ねぇ・・・。)
 
 
 
  『ス・・・ストレッチ・・・、  脇 腹、の・・・。』
 
 
 
すると、再び バシッ!バシッ!!と今度は2度、頭頂部に衝撃を受けた。
 
 
 
 『もっとマトモな言い訳いえんのか、お前は・・・

  英語だけじゃなく、国語力もゼロだな、まったく・・・。』 
 
 
 
”国語力 ”を否定されて心底納得いかず顔を歪めたイツキに、呆れた口調で
言い捨てた教師は、最後にもうひと言どこか意気揚々と付け加えた。
 
 
 
 『放課後、職員室来い。 補習だっ!!』
 
 
 
『ええええええええええええええええええ!!!!』 イツキの心の叫びが
素直過ぎる口から堪え切れずにダイレクトに飛び出し、教室中に響き渡った。
 
 
ミコトが呆れ果てて片頬を歪ませ、天を仰ぐように肩をすくめていた。
 
 
 

■第8話 無意識のうちに姿勢を正して

 
 
 
その日の放課後。
英語教師にこっ酷くネチネチと責められたイツキ。
 
 
英語の成績や授業態度だけに留まらず、ここぞとばかりに生活態度にまで話は
広がるだけ広がり、イツキの苛立つ片足は机の下で高速の貧乏揺すりが止まら
なかった。
 
 
 
  (早く終わらせろよ! こんのっ、くそハゲっ・・・
 
 
   オレは忙しいんだっつーの!!
  
 
   読者の・・・
 
   愛読者からの感想文がオレを待ってんだってばよぉ!!)
 
 
 
長々と拘束され、やっと解放された時にはもう廊下の窓からはオレンジ色の
夕陽が差し込んでいた。
 
 
廊下を猛ダッシュして滑って転びそうになりながら、イツキは2-Bの教室に
飛び込んだ。 まるで、あの日のデジャヴの様なその一連の流れ。
 
しかし、あの日とは違いもう誰もいないその教室。 主が一人もいないそこは
ひっそりと机だけがどこか寂しげにつまらなそうに、きっちり規則的に並んで
いる。 
 
 
静まり返ったそこに静かにイツキは足を踏み入れ、目指す先へと進む。

そして、ミコトの机の前で立ち止まった。
ひとつ大きく息を吐くと、どこか緊張した強張った肩が小さく上下する。

そっとイスを引き、少し後ろに下げる。 椅子脚のゴムが床に擦れてギギギと
嫌な音が鳴った。 もう一度周りに誰かいやしないか挙動不審に振り返って、
キョロキョロと確かめイツキは机の引出しにゆっくり手を差し入れた。
 
 
 
  (あった!!!)
 
 
 
指先に感じた茶封筒の感触。
 
掴んで引っ張り出すと、その表面に自分の字で ”感想お願いします ”とある。
間違いない、原稿用紙と感想文が入ったそれだ。
 
 
その場で勢いよく引っ張り出して今すぐ読みたい衝動にかられ、指先がふるふる
震えるも、なんとかそれをグっと堪えてイツキは慌てて自分の学校カバンに詰め
込んだ。

そして、再び大きな足音を立てダッシュして夕暮れの静まり返った廊下を駆け
出していた。 その顔はイキイキと輝き、燃えるような真っ赤な西日よりも赤く
熱く高揚してゆく頬を鎮められずにいた。
 
 
 
自宅まで息を切らして走って帰ると、靴を放り出すように玄関先で履き捨てる。

投げ出されて左右バラバラに靴が引っくり返った事にもイツキは気付かない。
玄関ドアが乱暴に開閉する大きな音に、驚いたように母親が音がした方向を
覗き込んだ。
いつもは帰宅してすぐ洗面所に行って、うがい・手洗いをする几帳面な息子が
落ち着きなくドタバタと階段を駆け上がってゆく背中を目に、小首を傾げた。
 
 
イツキは自室のドアを勢いよく開け、なだれ込むようにベッドに飛び付いた。

小さな折畳みテーブルの角に思い切り脛をぶつけ、『痛って!!!』 顔を
しかめジンジンと痛みを発する脛を抱えつつも、それすら気にせず慌てて
カバンからそれを取り出し、慎重にベロ部分を開いて茶封筒の中を覗く。

そこには見慣れた原稿用紙の他に、見慣れないそれが。

クリアファイルに丁寧に入れられたA4サイズの用紙が一枚見えた。
ゆっくり指先で掴むとひんやりしたプラスチック素材の温度にどうしようもなく
胸が躍る。 ファイルからはずして出すとイツキは無意識のうちに姿勢を正して
ベッドの上に正座した。
 
 
そして、ゴクリと息を呑んだ。
 
 
ゆっくりゆっくり、そこに書かれた感想を読む。

何度も何度も繰り返し繰り返し読んだ。
ミコトの飾らない素直で純粋な感想と、女子ならではの参考になる的確な意見に
イツキは感動しかなかった。 
そこには、物語への愛情が溢れんばかりに綴られている。
 
 
そして、最後の一行。
 
 
 
  ”three様  次話もすごくすごく楽しみに待っています!”
 
 
 
イツキの頬が赤く染まった。

自分でも分かるくらいにそれは火照り、そして心臓がドクンドクンとうるさい
くらいに音を立てていた。
 
 
 

■第9話 原稿用紙が入った茶封筒を

 
 
 
数日後。
 
 
イツキはいつもより2時間早く家を出て、早朝のまだ静かな住宅街を学校指定
カバンを抱きしめる様に大切にかかえて全速力で走っていた。
 
 
そんな早朝に制服に着替えてリビングに下りてきた息子の姿に母親は驚き、
壁に掛かった時計をまじまじと見つめる。 思わず壁から時計をはずし裏面の
乾電池を一旦取り外し再びセットしたりして、時計の針が正確に時を刻んでいる
のか確かめている。
 
 
 
 『・・・今日は早く行かなきゃなんねーから。』 
 
 
 
母の必要以上に驚き慌てる姿を目に、ボソっと照れくさそうに呟いたイツキ。

すると、『早く言いなさいよ!お弁当間に合わないでしょ。』 今丁度炊飯器の
ボタンを押そうと伸ばしていた指先を方向転換してイツキに突き付けた母。
 
 
 
 『購買でパン買うからいい。 ・・・んじゃ、いてきま。』
 
 
 
そう背中で言うと、玄関ドアを乱暴に開け放して飛び出したのだった。
 
 
 
 
昨夜、第2章の第1話を書き上げたイツキ。

あれからミコトの感想文を何度も何度も読み返していた。
胸に込み上げる ”書きたい欲 ”を全て8Bの丸いペン先に乗せた。
書き終った後もしつこいくらいに推敲を重ね、やっとの事で出来上がったその一話。
 
 
飛び込んだ早朝の2-Bの教室には、当たり前だが誰もいない。

運動系部活の朝練すらまだ行われていないこんな時間に、イツキはひとり満足気な
表情でひっそりと静寂に包まれる教室に足を踏み入れた。
 
 
まっすぐミコトの席に進む。 教室の窓から差し込むまだ初々しい朝陽がイツキの
横顔を照らし、踵を擦って歩く足音はやけに反響して響き渡る。

カバンを机上に置いてバックルをカチャリとはずしかぶせ部分をめくる。 
その中から慎重にそれを取り出すと、一度両手の平で挟んで掴みまるで拝むように
して念を込めた。
 
 
 
  (読者サマ・・・ 今回も、どうぞヨロシクたのむ!!)
 
 
 
そして、その原稿用紙が入った茶封筒をミコトの机の奥に注意深く差し込む。
ニヤリ。どこか得意顔で口角をきゅっと上げてほくそ笑んだ。
 
 
 
まるで儀式の様に仰々しくそれを済ませると、そのまま自席に着いてまだまだ始業
までゆうに1時間半はある、そのなにもする事がない余った時間をどうしようか
考えた。 次第に緊張感がほぐれてゆくと、早起きしすぎた為に急激に睡魔に襲われ
イツキは思い切り机に突っ伏す。
 
 
『あー・・・ ねみぃ。』 時間まで寝て過ごそうと思い目を瞑って一気に心地良い
眠りの世界に堕ちかけ、突然ガバっと体を起こす。
 
 
 
  (オレが早く来た日に原稿があるのは・・・ マズいか。)
 
 
 
自分が作者だと勘付かれるような行動は慎まなければならない。 
決して知られてはいけない、気付かれる訳にはいかないトップシークレットなのだ。

すると、何処で時間をつぶそうか悩むイツキ。 部活をやっている人間なら部室と
いう手もあるが、気怠さを最大限気取っているグループの曲がりなりにも一員である
イツキには勿論所属しているそれもあるはず無く、早朝のどの教室も施錠されていて
入れそうな所は見当たらない。
 
 
気怠く教室を抜け出して、廊下をただ闇雲にウロウロと歩いていた。

ダルい、眠い、やる事がない。 その前に、行く場所が無い。 自宅に一旦帰るのは
激しく面倒くさい、自転車ならまだしも徒歩通学のイツキ。
ベッドで横になれる理想的環境の保健室の前で立ち止まり引き戸に指を掛けるも、
当たり前だが開く気配すら無い。
 
 
 
  (どーしたモンか・・・。)
 
 
 
すると、イツキの脳裏に ”そこ ”が思い浮かんだ。

それは南棟の階段を上り切った場所。 屋上へと続くその階段の先は普段は出入禁止
となっていて外へは出られない。 よって誰も近寄らない場所になっていた。

踵を引き摺りながら南棟へ向かい、階段をダルそうに眠そうに一段ずつ上がると屋上
への扉が見えた。 ”出入禁止 ”と張り紙がされ、勿論しっかり施錠されているその
重厚な扉。 階下からは死角になっているその階段踊り場の壁に背をつけ、イツキは
腰をおろして座った。 体育座りの体勢で膝を抱え静かに目を瞑ると、あっという間に
眠りに堕ちた。
 
 
始業チャイムが遠く廊下向こうで鳴り響いている音に、細く目をしばたかせて大きく
伸びをし、ふと周りを見渡す。
 
 
 
 (あれ・・・ ここドコだっけ・・・?)
 
 
 
大きな大きなあくびをしながら寝惚け眼でキョロキョロと辺りを見渡し、”そこ ”で
仮眠していた事を思い出した。
 
 
『やっべ!遅刻じゃん・・・。』 大慌てでカバンを引っ掴み教室へと駆けた。
 
 
 

■第10話 少し震える指先で

 
 
 
 『カノウー・・・ 遅刻だぞ!!』
 
 
3分ほど遅れて教室に飛び込んだイツキに、担任教師から声が掛かる。

ペコリと首を前に出し悪びれる様子も無くイソイソと自席に向かうイツキ。 
机の間を通り抜けざま一瞬ミコトに目を遣ると、その顔は大きな目を更に見開き
キラキラ輝かせてまるでクリスマスのこどもの様なそれで。

ミコトはチラっと自分の机に目線を流してイツキに合図を送る。  ”それ ”の
意味が分からないはずもないイツキは、”そうかそうか ”の意を込めてちょっと
唇を尖らせ微笑んで小さく頷く。

嬉しそうに肩をすくめ目を細めて微笑んでいるミコトを、クククと小さく笑って
斜め後方の席からイツキはやさしく横目で眺めていた。   
 
 
 
ミコトは毎朝登校すると、真っ先に机の引出しに手を差し込むのがすっかり癖に
なってしまっていた。

早く話の続きが読みたくて、まだかまだかとその指先は茶封筒の感触を求め右へ
左へと狭い机の引出しの中をせわしなく動き回る。

念願叶ってやっと今朝、その感触を指先に感じた時には思わずミコトの喉から
甲高い変な音が出た。 周りのクラスメイトが謎の音に辺りを見回すもひとつ
咳払いして俯き誤魔化した。 そして、そっと指先で掴んで引っ張り出し確かに
それだと確認すると嬉しくて嬉しくてどんどん緩んでゆく頬をどうする事も出来
ずにいた。
 
 
話の続きが読めることに浮かれるミコトだったが、もうひとつ次第に膨れ上がって
ゆく問題があった。
 
 
 
  ( ”three ”って・・・ 誰だろう・・・。)
 
 
 
ミコトはこの物語の作者が気になって気になって仕方が無かった。

同じクラス、少なくとも同じ学校だというのは間違いない。
分かっているのは、ペンネームと、えらく達筆だという事の2つのみ。
ミコトが恋愛小説好きだと知っているという事も付け加えて良いのだろうか。
 
 
 
  (国語が得意って事よね・・・ ゼッタイ。)
 
 
 
早く続きを読みたい気持ちと作者が気になって仕方ない気持ちで脳内は占領され
その日一日全く授業なんか上の空だった。 ぼんやりしているうちにあっという
間に終業時間を告げるチャイムが鳴り響く。

イツキがやたらと不自然にチラチラ目線を流し、掃除当番が面倒くさそうに床を
モップで撫でる中ミコトに近付いて来た。 ペコリ、首を前に出して謎の会釈を
すると照れくさそうにミコトの机に浅く腰掛けたイツキ。
 
 
 
 『・・・まだ、ヒトいるし。 早いってば。』 
 
 
 
ミコトから、”近寄って来るのが早すぎる ”というお叱りを即座に受け瞬殺され
ブツブツと不満を口にしながらイツキは再び猫背で自席へ戻って行く。 何故か
今日に限って中々人が引かない放課後の教室にジリジリと苛立つ気持ちを堪え、
やっとの事で静寂を掴みとったふたりは、慌てて顔を揃えてひとつの机上に浅く
腰掛けると、ミコトは茶封筒からそれを丁寧に丁寧に引っ張り出した。
 
 
 
  ”第2章 第1話 ”
 
 
 
シンプルなタイトルが目に入ると、ミコトは息を止めてそれに見入っていた。

ワクワクしすぎて少し震える指先が原稿用紙の端を覚束なくつまんでいた。
 
 
 

■第11話 ”そう ”確信する点

 
 
 
イツキとふたり放課後の教室で顔を突き合わせて第2話を読み耽り、夢見心地
のままうっとりした面持ちで自宅へ向け自転車のペダルを漕いでいたミコト。
 
 
真っ赤な夕陽に照らされたミコトの自転車に跨るシルエットが、乾いたグレー
のアスファルトにしっとりと落ち伸びている。 生ぬるい風にショートボブの
黒髪がやさしくなびく。 じんわり熱を帯びて震えるミコトの胸の内を表す様に
自転車は小さな砂利を弾きながら、やわらかい橙色の帰路をゆっくり穏やかに
進んでいた。
 
 
すると、通学路を抜け駅前に差し掛かったあたり、夕方の帰宅ラッシュで少し
渋滞する大通り交差点で信号待ちをする学ランの背中が目に入った。

スっと伸びた背筋、短い黒髪、片手に持ったサブバックから覗く文庫本。
決して存在を過剰に主張するような目立つ背中ではないのに、なんだか夕暮れの
そこに際立って見えて、ミコトはすぐさまそれが誰か見当が付いた。
 
 
『ミスギ君~・・・?』 静かに自転車のブレーキを掛けて両足で支えて止まり、
斜め後方から覗き込むように声をかけると、その学ランは小さく驚いて振り返る。
 
 
 
 『ぁ、サエジマさん・・・。』
 
 
 
きっちり几帳面に首までボタンを閉めた学ラン、きれいに磨かれた黒色ローファー
細縁メガネの奥の切れ長の目がやさしく微笑む。
 
『今、帰り?』 ミコトへ向けて発せられた声色は物腰やわらかくて耳に心地よい。
 
 
 
ミスギ ソウスケはミコトのクラスメイトであり、高1でも同じクラスだった。

勉強が出来て責任感があって穏やかで、誰もが納得する ”学級委員タイプ ”。 
その分運動の分野はあまり得意では無さそうだったが、なんでも一生懸命に取り
組む姿にソウスケの事を悪く言う人間など一人もいなかった。
 
 
そのソウスケの姿に、ふと、高1の当時のことを思い出したミコト。

読書が好きでちょくちょく図書室に通っていたミコトは、放課後には高確率で
ソウスケを見掛けた。 ひと気の無い奥の方の机でひとり静かに本に目を落とす
横顔を何度となく見ていたのだった。

あまりによく見掛けるものだから、ミコトは思わず話し掛けたことがあった。
 
 
 
 『いっつもここで本読んでるよね・・・?』
 
 
 
後方から急に話し掛けられて、驚いてビクっとソウスケの体が跳ねた。

誰しも息をひそめる粛然たるその空間に、突然通常ボリュームのソプラノの声が
響き渡り図書室にいた生徒が一斉に目を向ける。 貸出カウンターにいた上級生
の図書委員に嫌味っぽく咳払いまでされ、ミコトは慌てて口許に手を遣って肩を
すくめ、バツが悪そうに眉根をひそめて小さく謝った。
 
 
すると、ソウスケは可笑しそうに小さく声を殺してクククと笑う。
 
 
 
 『サエジマさんも、いっつも来てるよね?』
 
 
 
その会話を交わして以来たまに見掛けると声を掛け合っていたふたりだったが、
だからといって別段なにがあるという訳でもなかった。 
互い ”読書好きのクラスメイト ”という印象なだけだったのだ。
 
 
 
しかし今、ミコトは ”そこ ”に引っ掛かりを覚えていた。
 
 
当時交わした会話の内容など勿論覚えてなどいないけれど、ソウスケと話したと
すれば読書に関する話だった気がする。 
”活字中毒なんだ ”と言って照れくさそうに笑っていたソウスケを思い出して
いた。 あの頃、ミコトも自分の事を話していたはずで。
 
 
 
  (恋愛モノが好き、って・・・

   ・・・アタシ、もしかしたら話してたかも・・・。)
 
 
 
そう思いはじめたらもう止められなくなっていた。

すべて合致する気がする。
優等生で穏やかでやさしくて、読書好き。 ミコトが本好きというのも知っている
のがソウスケなのだ。
 
 
 
そして、一番の ”そう ”確信する点、それは。
 
 
 
   ”三 杉 ”
 
 
 
作者のペンネーム ”three ”
ミスギのミは漢数字の ”三 ”なのだ。
 
 
ミコトは思わず自転車から下りて、オレンジ色の夕陽に照らされるソウスケの
横顔をなにも言えずにじっと見つめた。
 
 
 

■第12話 突如発覚した ”その正体 ”

 
 
 
 『ねぇ・・・ ミスギ君・・・。』
 
 
ミコトは逸る気持ちを抑えられずに、ソウスケに詰め寄った。
自転車のストッパーを立て、どこかすがる様な不安定な表情で見つめる。

その時横断歩道の信号は青色に変わり、音響式信号から鳴き交わし音のピヨピヨと
いう音が流れ出したけれど、ミコトのその表情を目にソウスケも動き出さずに二の
句が継がれるのを黙って待った。

すると急に思い出したかのように、ミコトは学校指定カバンに大切にしまい込んで
いる茶封筒を取り出そうと、バックルをはずしてカバンに手を入れそれを掴み引っ
張り出しかけて、止まる。
 
 
 
 (最初から作者だって言うつもりなら、とっくに言ってるか・・・。)
 
 
 
歯がゆく甘酸っぱい恋物語の作者だと気付かれたくなくて、ソウスケはペンネーム
だけ記してミコトの机にこっそりそれを置いて感想を求めたのかもしれない。
そうだとしたら ”それ ”には気付かぬフリをしていた方が良いのではないかと。
 
 
『ん?』 ミコトのカバンから何か出て来るのかと、ソウスケはキョトンとした
顔でまっすぐ見つめ待ち続ける。
 
 
  
 『ぁ、ううん・・・ な、なんでもない!』 
 
 
 
ひとりアタフタと慌ててカバンを自転車のカゴに再び納め直すと、小さく俯き手持
無沙汰に顔のサイドに掛かる髪の毛を耳にかけたミコト。
 
現れた小さな片耳は、思いがけず突如発覚した ”その正体 ”に激しく狼狽え夕陽
より真っ赤に染まっていた。 
 
 
『ねぇ・・・ ミスギ君・・・。』 もう一度だけ、小さく小さく呼び掛ける。
 
 
『なに?』 なにか言いたげに、しかし中々言い出さず口をつぐむミコトを、
ソウスケは不思議そうに見つめ返すと、やや暫く黙りこくってそして囁くように
ミコトは呟いた。
 
 
 
 『相変わらず・・・
 
  ・・・本読むの、好き・・・ なんだよね・・・?』
 
 
 
なんだか勇気を絞り出して言葉を紡いだようなその空気に、たかがそのひと言を
言う為に何故そんなにミコトがかしこまるのか理解出来ないまま、ソウスケは
コクリと頷く。
 
 
 
 『うん、好きだけど・・・ それが、どうかした??』
 
 
 
『・・・ううんっ!!』 ミコトはぶんぶんと顔を大仰に大きく横に振った。 
ついでに両手の平も左右に揺らして慌てふためいている。

そして、『なんでもない、ごめん。』 と小さく続けた。
 
 
再びそっと俯いたミコト。

足元を見つめると、内股になったダークブラウンのローファーの爪先に夕陽が反射
してキラキラ輝いている。 
思わず、ぎゅっと目を瞑った。
 
 
 
頬がジリジリと火照り、心臓が急速に早鐘を打ち付けていた。
 
 
 

■第13話 作者の正体

 
 
 
ソウスケと別れた後、ミコトは大慌てで自転車のペダルを踏み込んでいた。
 
 
制服のスカートを翻しながら立ち漕ぎをすると、高速で回転するタイヤは
軋む音を轟かせながらアスファルトを滑るように進んでゆく。
 
砂煙を立てながらミコトの自転車は自宅前に突っ込み、少し前のめりになって
急停止した。 急いで自転車から下りると、自宅裏手にある自転車置き場に
放り出すように止め、ループ式の鍵を掛けるのもそこそこに玄関に飛び込む。
 
 
 
 『ただいまぁぁあああ!!!』
 
 
 
玄関先で大きな音を立ててドタバタと慌ただしく階段を駆け上がってゆく姿に
弟がリビングから顔を出し、しかめ面をして呟いた。 
『なんだよ、うっせーなぁ・・・。』
 
 
ミコトは自室のドアを乱暴に開け突進すると、そのまま机にカバンを置いて
バックルをはずす。 焦る気持ちに空回りする指先がいつもならすぐはずせる
はずのそれを阻みイチイチ苛立ちを誘う。

そして、カバンの中から茶封筒を取り出すと表面にあるその文字を見つめた。
 
 
 
       ”感想お願いします ”
 
 
 
たった一行の、それ。

しかし、考えれば考える程それがソウスケの文字のような気がしてならない。
正直ソウスケがどんな字を書くのか、達筆なのか否か実際なにも知らなかった
のだけれどあのソウスケなら汚字なはずはない。 丁寧で美しい字を書くに
決まっている。
 
 
そして第2話が綴られた原稿用紙を、再び丁寧に丁寧にゆっくりめくった。

主人公ミナトの繊細な心情、カスミの淡い気持ち。 ふたりを取り囲む風景や
温度がまるで絵に描いたように、手に取るように思い浮かぶ、その文章力。
 
 
 
 『ゼッタイゼッタイ、ミスギ君だ・・・

  ってゆーか、ミスギ君以外いないでしょ・・・。』
 
 
 
そう確信するミコトが原稿用紙を掴む指先は、興奮と感動でふるふる震える。

それを誰かに伝えたくて、共有したくて、ミコトは慌ててサブバックに入れて
あるケータイを取り出した。 
指先でスライドして電話帳の中のお目当てのその名前を見付けタップする。 

登録してからはじめてケータイ画面を指先で小さくノックされたその名前は
なんだか照れているかの様に ”ダイヤル中 ”という表示に切り替わった。
耳に当てるとコール音が暫し流れ続け、興奮して高鳴る鼓動も相まってやけに
ミコトの耳奥にせわしない。
 
 
そして、それは相手へと繋がった。
 
 
 
 『ぇ、な・・・ あ? え・・・??

  ・・・・・・・・・・・・・・・サ、サエジマ・・・??』
 
 
 
イツキが突然掛かって来たミコトからの着信に、電話向こうで明らかに戸惑い
言葉に詰まっている。

以前クラスメイト数人で連絡先を教え合ったことがあったのだが、だからと
いって電話をし合う用事など何も無く、未だかつてミコトから電話をかけた
事もイツキからかけた事も無かったのだ。
 
 
『な、なに? どした? なんかあった・・・??』 はじめて女子からの
コールを受けたイツキのケータイは、テンパり過ぎて手汗が噴き出す手の中で
どこか他人事の様にひんやり佇む。

女子経験値が激しく低いイツキの急激に赤らむ耳には、ミコトの小さな呼吸
だけ響いて、実際に耳元で吐息が掛かっている訳でもないのになんだかくす
ぐったい。 しかし待てど暮らせど、中々用件を切り出さずにいるミコト。
 
 
『おい、サエジマ・・・?』 再度呼び掛けたイツキに、ミコトは震える声で
呟いた。
 
 
 
 『作者が、誰か・・・ 分かっちゃった・・・。』
 
 
 
耳に聴こえたその予想だにしないひと言に、イツキは目を見張って硬直した。
稲妻に打たれた様にイツキの頭の先から爪先まで突き抜け、その衝撃は駆け
巡る。
 
 
 
 (ババババレたのか・・・? オレだってバレたのか・・・?

  ななななんで??

  いつ、なんで、どうやってバレた・・・??
 
 
  今日の放課後に、第2話読んだばっかなのに・・・
 
 
  ・・・てか、オレ・・・  死  亡  確  定・・・。)
 
 
 
ケータイを掴んだまま呆然自失状態でただのひと言も発せなくなったイツキに
ミコトは静かに続ける。
 
 
 
      『ミスギ君だと、思うの・・・。』 
 
 
 
その静穏たる声色とは裏腹にどこか自信満々に聴こえたそれに、イツキは先程
とは異種の衝撃に呆然としポカンと口を開けて、更に固まった。
 
 
 
 (・・・・・・・・・・・・・はっ?? 
 
  ・・・・・・・・・・・・・・・・ミ、ミスギ・・・???)
 
 
 

■第14話 ダミー

 
 
 
ミコトの口から飛び出した予想だにしなかったその固有名詞に、イツキは暫し
呆然と固まっていた。

あまりに静止し続けるそのアホ面に、先程からうるさく室内を飛び回っている
蝿がピタリと止まったというのに、それにさえ反応せずに。
 
 
 
 (ぇ・・・? な、なんで??

  どっからミスギが出て来たんだ・・・?

  あんなん、ただのガリ勉ってだけじゃねーの・・・?)
 
 
 
すると、待てども求める反応が返ってこないイツキに痺れを切らしたように
ミコトは電話向こうで早口でまくし立てる様に言う。
 
 
 
 『アタシ、高1ん時、ミスギ君と同じクラスだったんだけどね・・・
 
 
  よく図書室で見掛けたのよ。

  いっつも図書室で本読んでたの、ミスギ君・・・。』
 
 
 
   (はぁ・・・   それが、・・・何??)
 
 
 
 
 『アタシのプロファイリングとぴったり合致すると思わない??
 
 
  ”アタマ良くて、メガネで、真面目で清潔感のある優等生 ”

  おまけに読書好きで、同じクラスっ!!

  誰にも怪しまれることなくアタシの机に近付けるじゃない??
 
 
  それにね・・・
 
 
  きっとアタシ、当時

  ミスギ君に恋愛モノが好きだって話してるのよ、多分・・・。』
 
 
 
イツキはミコトが胸を張って言い切るそれを、再び少しの間黙りこくって考えを
巡らせた後、適当に相槌を打った。 『へぇ~・・・。』 

勿論それがソウスケではない事は、作者本人であるイツキが一番分かっている。
 
 
 
  (合致、って・・・。)
 
 
 
それはミコトが言うところのプロファイリングが限りなく ”星 ”を言い当てて
いる前提での ”合致 ”であって、単なるミコトの想像、と言うか描いた理想像
にたまたまそれらしき人間が周りにいたというだけの事ではないのか。 
 
 
なんだか肩透かしを喰らった様な気分のイツキ。

一気に肩の力が抜け、自室でケータイを耳に当てまっすぐ立ち尽くしたまま硬直
していた体はぐったり疲れ果てた様に、ゆっくり腰を屈め床にあぐらをかいた。
 
 
しかし、ミコトが言うように一般的に思い描く ”恋愛小説の作者像 ”は、
もしかしたらソウスケのような生真面目タイプの人間なのかもしれないと考えた。
 
 
そして、イツキは頭の片隅で思った。
 
 
 
 (ダミーがいてくれた方が、オレ的には有難いのかも・・・。)
 
 
 
すると、イツキは急にケータイに向かって声を張った。
再びガバっとその場で立ち上がり、斜め上をキラキラした目で見つめ鼻息も荒く。
 
 
 
 『そ、そうだなっ!!

  ミスギだ、ミスギ!! ミスギ以外いないっしょ!!』
 
 
 
突然大声で叫ばれて、ミコトは顔をしかめてケータイを耳から離した。

イツキの馬鹿デカい声が響いた片耳が、キーーンと耳鳴りのようにうずく。
一瞬苛ついて片頬を歪ませ、思わず小さな舌打ちが出てしまった。
 
 
『まぁ、取り敢えず・・・ 明日ね。』 そう素っ気なく呟いて、ミコトからの
電話はアッサリ切れた。 イツキの耳に通話終了のツーツーという音が即座に響く。

ミコトから掛けてきたくせに、まるで迷惑電話にでも応対するかの様なその驚く程
つれない切電スピード。
 
 
 
イツキは切れた電話をぼんやり見つめながら、自分の執筆活動が ”良い方向 ”に
向かって進んでいる気配に、思わずニヤリとほくそ笑んだ。
 
 
 

■第15話 晴れてダミーとなったソウスケ

 
 
 
翌朝、イツキが登校するとミコトはもう既に自席に着いていた。
 
 
待ってましたとばかりにイツキに向け手をひらひら揺らして手招きすると、
ミコトは随分前に登校して自席でひとり静かに文庫本を読んでいる最前列の
ソウスケの背中を顎で指す。
 
 
 
 『いっつも来るの早いのよ・・・。』
 
 
 
こそこそとイツキに耳打ちするミコト。 

まだ登校して来ていないミコトの前席の空いているイスを引いて、横向きに
腰掛けたイツキに上半身を少し乗り出し、その華奢な手を口許に添えて。
 
 
突然のミコトとのわずか数センチの距離に、イツキは途端に息を止める。 
まるでそれは自分の息がミコトの顔に掛かって、万が一にでも臭かったらマズい
と過剰に心配している挙動不審顔で。
 
しかし、几帳面なイツキ。 うがい・手洗いは勿論のこと、歯磨きだって念入りに
朝・晩キッチリ行っている。 なんせ虫歯はこどもの頃から殆ど無い、歯医者にも
褒められた経歴もあり大丈夫なはずなのだが、どうしてもリアル女子との初めての
超近距離に過剰に意識して、鼻穴を広げ鼻呼吸にシフトしていた。
 
 
『鼻息荒い・・・ なんなの? キモい。』 ジロリ睨まれて、イツキは途端に
鼻呼吸まで止めた。 暫し無呼吸状態で固まり、さすがに苦しくなって顔を横に
向け唇の隙間から細く長く呼吸をする。 そして、少しミコトから体を離して息が
届かないようにして呟いた。 『あ、荒くねーよ・・・ バカ!』
 
 
 
 
昨夜ミコトから電話があったあの後、イツキは自室でひとり、今後のことを色々
考えあぐねていた。

あぐらをかいて、いまだ片手に握ったもうミコトと繋がってなどいないケータイに
目を落とし、薄くてみすぼらしい座布団の上で左右にゆらゆら体を揺らしながら。
薄っぺらい綿がいとも簡単にお尻の座骨に硬い床板を感じさせ、そろそろ母親に
ふかふかの座布団でも新調してもらおうと、要らぬ別の事まで考えつつ。
 
 
もし万が一、ミコトがソウスケにダイレクトに恋物語の存在を話してしまったら、
ソウスケが作者ではない事が呆気なく瞬時にバレてしまう。
おまけに、なにかのキッカケで自分が作者だとバレた日には、ミコト一人でも相当
気まずいというのに、それがソウスケ分も相まって倍になってしまう可能性が生ま
れるではないか。

せっかくダミーが出来て執筆活動しやすいと思った途端のそれは、何をどう考えて
みても勿体無いし、それより何よりリスクが大き過ぎる。
 
 
 
 
イツキはミコトに息が掛からないように口許をさり気なく手の甲で押さえて言う。
 
 
 
 『アイツに直接 ”例の件 ”話すのはやめといた方がよくね?

  本人は隠したいからこそ、ペンネームなんだろうしさ・・・。』
 
 
 
するとイツキのそのひと言に、ミコトは少し驚いた顔を向ける。
 
 
 
 『アタシもそう思ってた・・・

  作者の正体には気付かないフリしてた方がいいかも、って・・・。』
 
 
 
そして、しずしずと続けた。
 
 
 
 『アホな割りには、頭はたらくじゃんっ!』
 
 
 
『誰がアホだっ!』 すぐさま突っ込んで、ジロリ横目でミコトを睨んだ。

”洞察力の塊 ”である恋物語の作者様に向かってその言いぐさはなんだと内心
ムっとしつつも、イツキはミコトにグッサリと釘を刺せたことに安心していた。 
 
 
そして、晴れてダミーとなった、なにも知らないソウスケの生真面目な背中を
こっそり見ては満足気にニヤニヤほくそ笑んでいた。
 
 
 

■第16話 はじめて感じるモヤモヤ感

 
 
 
そして、その ”儀式 ”はしずしずと秘密裏に行われ続けていた。
 
 
早朝の教室でイツキはミコトの机に新作の原稿用紙をこっそり差し込み、ミコトは
それを読んだ後、丁寧に丁寧に感想文をしたため机の中に置く。
 
 
誰にも秘密の、作者の存在だけ隠し隠されたふたりだけの大切な儀式だった。
 
 
その一連の過程の中で、気が付けばミコトは作者だと信じて疑わないソウスケの
事がどんどん気になっていった。

新作が机の引出しに届いた朝は、その日一日ソワソワと落ち着かぬまま最前列の
ソウスケの背中をそっと見つめた。 決して体格がいい訳ではない、学ランの
なんだかひ弱にも見えるそれ。 定規で測ったような正しく美しい姿勢で腰掛け
黒板をまっすぐ見つめながら、右手で握るシャープペンシルがひっきりなしに
ノートの上をなぞる。 
 
 
 
  (ミスギ君は、アタシが ”あの件 ”気付いてること、
 
   ぜんっぜん気が付いてないんだろうなぁ~・・・
 
 
   ってゆーか、あんっな繊細な文章書けるなんて・・・

   ・・・スゴ過ぎるよ、ミスギ君・・・。)
 
 
 
ミコトの口からはうっとりと、感嘆の溜息が幾度も幾度もこぼれていた。
 
 
新作が手元に届くと相変わらず顔を突き合わせて、放課後にそれを読み耽って
いたイツキとミコト。
しかし段々その際に ”ミスギ君 ”という固有名詞がやたらとミコトの口から
連発され始めていたことに、イツキは気付かないはずもなかった。
 
 
 
 『ねぇ、どうやってこうゆうシチュエーション思い付くんだろうねぇ~

  やっぱ、すっごいよ!ミスギ君・・・。』
 
 
 『ねぇ・・・ ああ見えて、

  ミスギ君自身、こんな切ない恋、ケイケンしてんのかなぁ~・・・?』
 
 
 『ミスギ君の頭ん中、覗いて見たいと思わな~ぁい・・・?』
 
 
 
最初はダミーが出来て安泰だ!くらいに思っていたのだが、なんだかあまりに
連発されるそれに手柄を横取りされたような気分になり、正直言うと面白くない
というのが最近のイツキの本音だった。
 
 
 
  (ミスギ、ミスギ、ミスギって・・・

           ・・・オレだっつーの、作者は!!!)
 
 
 
言いたいけど決して言う訳にはいかないその真実に、イツキはモヤモヤする
気持ちが膨れ上がってゆく。 文才があるのも、達筆なのも、すべてすべて
自分なのにミコトはイツキの事などゴミ屑でも見るような目でしか見ない。
 
 
 
  (っだよ・・・ ムスカか!お前は・・・  ムッカつく・・・。)
 
 
 
 
そして、ダミーの存在に執筆活動しやすくなったはずのイツキの胸の内には
自分でも気付かぬうちに別の種類の小さな変化が訪れていた。
 
 
それは、とある放課後のこと。

またしても目をつけられている英語教師に放課後呼び出しをくらい、長々と説教
されてイライラを抑え切れずに、仏頂面で靴箱で外履きに履き替えようとした
イツキの目に、それは映った。
 
 
昇降口の段差を下りてすぐの所。 通学路脇には背の高いヒメジョオンが白い花を
咲かせ緩やかな風にその華奢な茎が小さく揺れている。

そこに、自転車を押して歩くセーラー服の背中とその隣の生真面目な学ラン。
なんだかふたり愉しそうにケラケラ笑っている。
まるで白色なはずのヒメジョオンの花びらが色とりどりのそれに変化し、一面の
花畑の中にでもいるかの様な、淡くてやわらかいふたりの空気感。
 
 
 
  (ぁ、あれ・・・

   ・・・サエジマと、ミスギじゃん・・・。)
 
 
 
最近のミコトはやたらとソウスケに話し掛け、以前に比べどんどん距離が縮まって
いる様に感じていた。 イツキにとって、そんなのどうでもいい事なはずだった。
 
 
しかし、今。 何故かそのふたりの背中をじっと見ていた。
少し首を傾げ、見ようによってはカップルにも見て取れるそれをじっと。
 
 

  なんだか、喉よりもっと下、肺の下の。

  ・・・ちがう。 肺の奥の、奥が。
 
 
 
モヤモヤというか、息苦しいというか、妙な感覚に陥る。
 
 
 
  (アイツ・・・

   ・・・作者のこと、好きなわけ・・・?)
 
 
 
肩口のセーラーがやさしい風に小さくなびくミコトの背中を見つめたまま、
イツキは微動だにしない。 
学ランと並んで歩き、どんどん遠く小さくなってゆくその姿。
 
 
 
  (作品が好きなんじゃねーの・・・?

   小説が好きだって言ってたくせに・・・
 
 
   ナンなんだよ・・・
  
   
   ・・・それ書いてたら、作者のことまで好きなの・・・?)
 
 
 
そして、どこか苛立つように片手に掴んだ内履きを下足場のスノコに叩き付けた。
外履きの汚れたスニーカーが大きな音を立てて左右バラバラに引っくり返る。
 
 
 
  (ミスギが作者な訳じゃねーのに、なにやってんだよアイツ・・・。)
 
 
 
イツキは引っくり返ったスニーカーを揃えようと腰を曲げて手を伸ばし、そのまま
その場にしゃがみ込んだ。 そして頭を抱えるように体を縮込める。

はじめて感じるまるでどんより広がった梅雨空のような鬱屈感。 
言葉には言い表せないその感情に戸惑い、どうしていいか分からないままただただ
イライラだけ募らせる。
 
 
 
 『っだよ・・・ バカじゃねーの・・・?』 
 
 
 
スニーカーを掴む指先が小さく震えていた。
 
 

■第17話 ”尊敬 ”だけではない気持ち

 
 
 
ミコトは自分でも気付かぬうちにソウスケの背中を目で追うことが多く
なっていた。
 
 
最前列の席に座るソウスケは、常に美しい姿勢で佇み授業中はおろか休み
時間でさえそのスタンスを変えはしない。
 
片手に文庫本を持ちしっとりと目を落とす横顔。 優等生なのにそれを鼻に
掛けることもなく、穏やかで余裕があって物腰やわらかでソウスケ以外の
人間が作者かもしれない可能性など、ミコトは全く考えてもいなかった。
 
 
気付けば、なにかとソウスケに声を掛けるようになったミコト。

それは他愛もない、例えば次の授業の教師の話だったり、近付いている
試験の範囲だったり至って普通のなんてことない話だったけれど、決して
モテ要素が強い訳ではなく女子から積極的に話し掛けられた経験など無い
ソウスケにとってもそれが嬉しくないはずもなく、ソウスケからも次第に
ミコトに話し掛ける機会が増えていた。
 
 
 
とある放課後、図書室で久しぶりに会ったふたり。

奥の方の机で静かにハードカバーに目を落とすミコトの姿を見付け、
ソウスケが嬉しそうに小さく微笑んで斜め後方から声を掛けた。
 
 
 
 『ここで見掛けるの、なんか久しぶりだね?』
 
 
 
体を屈めてミコトの耳元で遠慮がちに小声で囁いたソウスケ。

周りなどなにも見えない程本の世界に集中していたミコトは、突然すぐ
後ろで響いた声に驚き肩を強張らた。

『ビ・・・、ックリしたぁ・・・。』 強張った顔で振り返ったミコトに
ソウスケは可笑しそうに 『ごめんごめん!』 と微笑んで謝る。
 
 
横に座っていいかチラっと目線で確認し、隣のイスを引いたソウスケ。

イスの脚が床面に擦れて音を立て読書中の人に迷惑掛けないように、
そっと軽く持ち上げて静かに腰掛けるソウスケがソウスケらしくて、その
所作ひとつひとつに、ミコトの胸の奥はほんのり熱を持つ。
 
 
 
 『ミスギ君も、読書・・・?』
 
 
 
ほんの少し照れくさそうに目線を向け小さく訊ねたミコトに、
『返しに来ただけ。 でも、なんか借りようかな・・・。』 そう言うと
ミコトが読んでいる本の背文字を見ようと、ソウスケは小さく体を傾げた。
 
 
 
 『恋愛モノ、好きなんだっけ・・・?』
 
 
 
背文字にある有名恋愛小説のタイトルを目にソウスケの口から出たそれに、
ミコトは思わず息を呑む。

なぜか頬は急激に熱くなり、心臓が胸の奥でドキン ドキンと弾けるように
音を高鳴らせる。 少し震える声で、ミコトは小さく返事をした。
 
 
 
 『ぅん・・・ 好き。

  ・・・恋愛モノ、読むの大好きなの・・・。』
 
 
 
決して気付かれてはいけない、ミコトが作者の正体を知っているという事実。

そして、ソウスケの表情を伺うように、目の奥の真意をはかろうとするかの
様に思い切って続けた。
 
 
 
 『・・・ミスギ君、は・・・?』
 
 
 
すると、ソウスケは迷うことなく満面の笑みで返した。
 
 
 
 『ボクは活字中毒だから、ジャンル問わずにナンでも読むよ~。』
 
 
 
それをミコトは、微かにベールに包みつつの明確な肯定の意だと判断した。

そして、あんな繊細な物語を書くことが出来るソウスケを改めて心の底から
尊敬していた。
 
 
 
その気持ちが尊敬だけではないという事に、この時ミコトは気付けないでいた。
 
 
 

■第18話 その視線の先

 
 
 
それ以来、イツキはミコトの視線の先を気にして盗み見ることが多く
なっていた。
 
 
ソウスケの斜め後方席のミコトと、そのミコトの斜め後方席のイツキ。
ミコトはソウスケの背中を見つめ、イツキはそのミコトを穴が開くほど
見ている。
 
 
 
  (なんだアイツ・・・

   ミスギのこと見過ぎだろ・・・
 
 
   ・・・。
 
 
   ってダセえ・・・ ギャグかよ、オレ・・・
  
   
   つか、

   女子なら物語のカスミみたいに淡い視線でこっそり見ろっての!

   あんなマジマジとガン見してたら気付かれんだろ、すぐに・・・
 
 
   つか、 一番見過ぎてんのは・・・ オレか・・・。)
 
 
 
授業中イライラが募るイツキは高速の貧乏揺すりをしすぎて、またしても
英語教師に丸めた教科書で頭頂部をクリーンヒットされた。

あまりのその快音にクスクスと教室中が忍び笑いを響かせる中、最前列の
ソウスケも振り返ってイツキに向かって小さく笑っている。 
しかしソウスケのそれはバカにして嘲笑う感じは微塵もなく、同じ男子から
見ても決して感じは悪くない。 

その笑顔をうっとりと見つめるミコトは、イツキが教師に叱られた事になど
全く興味を持たずこちらを振り向きもしない。
イツキは増々腹立たしげにミコトの緩んだ横顔を見眇めた。
 
 
 
 
その日の朝、イツキはミコトの机に新作を忍ばせていた。
 
 
放課後の教室でふたり、いつもの様に顔を突き合わせ原稿を読み耽る。

ミコトは目をキラキラと輝かせてその文字を必死に追い、頷いたり哀しげに
目を伏せたりコロコロと表情を変え忙しいったらない。
イツキはそんなミコトに合わせ、『へぇ~』とか『まじか~』とか、自分で
書いた話の流れなど知り尽くしているくせに大袈裟に感嘆の声を上げる。
 
 
一通り原稿を読み終わった放課後の教室は、一瞬の静けさに包まれた。

半分開けている窓からは穏やかな夕陽が差し込み、ひとつの机に窮屈そうに
腰掛けるふたりの伸ばした足元まで伸びている。
やさしく吹き込んだ生ぬるい風に、ミコトの肩口のセーラーが揺れた。
 
 
チラリ、横目で見るとミコトはいつまでも嬉しそうに原稿を眺めている。
ぎゅっとそれを掴む指先はほんのり熱を帯びるように桜色に染まって。
 
 
そして、
 
 
 
 『アタシね、

  家に帰ってからも何回も何回も読み返してから感想書いてんだー!』
 
 
 
と、どこか自信満々に胸を張って言った。
 
 
 
 『お前・・・
 
  ・・・ほんとに好きなんだな? この話・・・。』
 
 
 
ぽつりとイツキが呟く。
なんだかミコトの顔を真正面から見て言うのは照れくさ過ぎて、俯いて。
 
 
すると、ミコトは眩しそうに頬を染めて言った。
 
 
 
 『うんっ! ・・・大っっっ好き!!』
 
 
 
そう言い切るその顔がやたらと眩しく感じる。

なんだか急に胸に迫り上げるものに、目の奥がじんわり熱い。
イツキは口をぎゅっとつぐみ、泣きそうな顔でそっと目を逸らした。
 
 
 

■第19話 呼び止めたいという気持ち

 
 
 
その日の帰り。
 
 
いつもふたりで放課後の教室で小説を読んだ後の帰りは、徒歩通学のイツキ
と自転車通学のミコトは各々別々に帰っていた。
 
昇降口の所で互いになんとなく視線だけで軽く挨拶して、イツキはまっすぐ
通学路へと歩みを進め、ミコトは出入口横の駐輪場へ向かい自転車に跨る。
校門を出てすぐ右折するイツキと左折するミコト。 
先に歩くイツキが自転車のミコトに追い付かれる前には、互いの自宅へ向け
分岐点を通り過ぎていたのだった。
 
 
しかし、その日のイツキはいつものスピード、いつもの歩幅で足を進めて
いなかった。
 
 
踵を引き摺るように気怠さを醸し出しながらも、意識は後方へ集中して
自転車のタイヤがアスファルト上を回転する音に耳を澄ます。

何故そうしているのか、そうしてしまうのか、自分でも気付きかけている
けれど目を逸らしたい、明確にはしたくない中途半端な気持ちが、その胸の
中にぐるぐると渦巻く。

どうせもうすぐ校門に辿り着いて、イツキになど目もくれずアッサリ
セーラー服の自転車は自宅へ向けて反対方向に進んでゆくのだ。
 
 
 
  (な、なんか・・・ なんか無いか・・・

   ・・・なんか・・・ いい口実とか、なんか・・・。)
 
 
 
すると後方から自転車のタイヤが軋む音が遠くだんだんと近付いて来る。
振り返って確かめたりはしないけれど、それはミコトのはずで。
 
 
 
  (どうしよう・・・ どうしよう・・・ どうしよう・・・。)
 
 
 
ミコトを呼び止めたいという気持ちだけ募り、結局なにもいい案が浮かば
ないイツキ。 タイヤが回転する音はすぐ後方まで近付いて来ていた。
 
 
すると、イツキはミコトが横を通り過ぎる直前に、持ち手を握り締める右手
から学校指定カバンを放り出すように離した。

運がいいのか否かカバンが通学路に投げ出された瞬間、アスファルトに打ち
付けられたバックルが硬い音を響かせてはずれ、中に入っていたペンケース
やケータイが勢いよく飛び出し散らばる。
 
 
『ちょっ・・・!!』 その瞬間横を通り過ぎようとしたミコトが慌てて
ブレーキを握り締め急停止した。 キキキーという耳障りなブレーキ音が
遠く夕空に響き渡る。 両足で踏ん張り、つんのめった際に顔にかかった
サイドの黒髪を指先で耳にかけ、驚きすぎて暫し出せずにいた声をやっと
張って怒鳴った。
 
 
 
 『あ、危ないじゃないっ!! なにやってんのよっ!!』
 
 
 
背中を丸めて、心臓が止まりそうな胸元を苦しそうに押さえイツキを鋭く
睨む。 家路に向け通学路を進む生徒がその声に何事かとふたりに目を
向けているが、まるでその怒号が聴こえていないかの様にその場にしゃがみ
込んで気怠そうに散乱物を回収する、着崩した学ランの背中。
 
 
 
 『わりぃ・・・ ちょ、手ぇ滑った・・・。』
 
 
 
ミコトに怒鳴られた事よりも立ち止まらせる事が出来たという結果にイツキ
は満足でしかない。 ほんの少し緩む口許を見られぬように顔を背けて、
大して悪びれることなく首をペコリと前に出して謝る。
 
 
そして、すぐさま続けた。
 
 
 
 『いやぁ、ほら・・・ 

  ”あの話 ”の続きをボ~っと考えてたらさ・・・
 
 
  今回のラスト、なんか匂わせる感じのアレだったじゃん・・・?』
 
 
 
イツキはチラっと横目でミコトを見つめる。

立ち止まらせる事さえ出来れば、後は ”物語 ”の話題を振ればミコトが
勝手に喰い付くのは分かっていた。
 
 
そして、それは想像通りに進む。
 
 
 
 『そ・・・そうなんだよねっ!!
 
 
  今回の最後で、カスミがなんか言いたげにして終わったじゃない?

  アレ、なんなの? どうなるんだろうねぇ・・・。』
 
 
 
跨っていた自転車から下りて通学路脇にそれを寄せストッパーを立て停めると
ミコトは目をキラキラさせながらまくし立てる様に話し始めていた。
 
 
 

■第20話 気付かぬうちに綻んで

 
 
 
ゆっくりゆっくり陽は沈んでゆく。 
 
 
ミコトの自転車はグラウンドと通学路を分かつ緑色フェンスのすぐ横に
立て掛けられ、背の高いヒメジョオンの白い花が雑草に紛れながらもその
存在感を示している。
 
 
イツキとミコトはフェンスに背を寄り掛けて並んで立っていた。
ミコトの手には原稿が掴まれ、その細い指先でページをめくる。
 
 
つい先程まで誰もいない教室でふたりで読み耽っていたというのに、
ミコトのその顔はまるではじめて目を落とすような、キラキラしたそれで。
 
 
『ねぇ! このシーンなんだけど・・・。』 細い人差し指がさす原稿用紙
の文字。 夢中になって ”このシーンが云々 ”、 ”あのシーンが云々 ”
まるでひとり言の様に話すミコト。

原稿がイツキに見え易いように少し体を傾け、寄り添った瞬間にミコトの
ショートボブの黒髪が揺れて垂れた。
 
 
ミコトの隣に立ち示される箇所を読んでいるフリをしながらも、イツキは
こっそりミコトの顔を見つめていた。 夕陽に照らされて眩しそうに目を
細めて、嬉しそうに愉しそうにそのぽってりした小さな唇は、引っ切り無し
に落ち着きなく動いている。
 
 
 
  (おもしれえヤツ・・・。)
 
 
 
自分でも気付かぬうちに自然に顔が綻んでいた。

そっと口許を緩め、フェンスに寄り掛かる背中を小さく丸めポケットに手を
突っ込んでイツキは小さく笑った。
 
 
 
  (なんで、コイツ・・・

          ・・・この話する時だけ、こんなに・・・。)
 
 
 
すると、
 
 
 
 『なに、ニヤニヤしてんのよ。 気持ち悪い・・・。』
 
 
 
散々話に夢中になりミコトはふと我に返って隣に目を遣ると、イツキは緩み
まくった頬を向けてなにやらミコトを見つめている。

ミコトは思い切りギョっとして、目を細め眇めていた。
 
 
 
 『しししししてねーよ、ニヤニヤなんか・・・。』
 
 
 
慌てて緩んでいた頬を戻し、不満気に唇を尖らせたイツキ。
突然当の本人にズバリ指摘されて、恥ずかしくて思わずどもりまくる。
 
 
『してたじゃんっ!』 ミコトは顔を歪め、気味悪そうに少しイツキから
距離を取る。
 
 
 
 『してねえっつってんだろっ!!

  つか、お前も物語のカスミぐらい素直で可愛きゃなぁ~・・・』
 
 
 
先程までの乙女のような微笑みから一転、憎まれ口しか叩かないミコトに
イツキは思わず言い返す。
 
 
 
 『うるっさい!!

  アンタだってミナトぐらい繊細で紳士だったらねぇ~え?』
 
 
 
嫌味100%のその言葉に、互いいつもの悪罵の掛け合いがはじまる。

顎をツンと上げて目を眇め、イツキに向け遠慮の欠片も無く矢継ぎ早に
浴びせるその言葉。
イツキも負けじと応戦しながらも、内心は笑いを堪えるのに大変だった。
 
 
 
  (ほんっと、口数へらねえ奴だな・・・。)
 
 
 
ミコトのいまだ止まらない悪罵を聞き流しながら、こっそり盗み見ていた。

大きくてクリクリの瞳、瞬きする度に揺れる長いまつ毛、あまり高くはない
小さな鼻、ぽってりと厚みのあるやわらかそうな唇、ツヤツヤの滑らかな
白い頬、そしてイツキに向けて悪態付く時に必ずできる眉間のシワ。
 
 
 
   (・・・なんか・・・

          ・・・可愛いな・・・。)
 
 
 
心臓が、くすぐられる様な、痛がゆい様な、妙な感覚を憶えていた。
 
 
 

■第21話 放課後いっしょにいる理由

 
 
 
そんなイツキの淡くくすぶる想いになど全く気付かないミコトは、
どんどんソウスケとの距離を縮めてゆく。
 
 
 
 『ねぇ、ミスギ君!

  今日もこの後、図書室行くの・・・?』
 
 
 
ミコトがソウスケを呼び掛ける明るく弾むような声が聴こえ、後方席から
目線だけ小さく流してイツキはそれを盗み見る。
気怠そうにイスに浅く腰掛け、そろそろ下校しようとカバンの持ち手に
掛けかけた指がその声色に思わず動きを止める。
 
 
放課後の教室。 

掃除当番が開け放した窓からは心地良い午後の風が通り、ソウスケの元へ
パタパタと小さく足音を立て、まるで幼いこどもがスキップするかの様に
駆け寄るミコトのほんのり赤らむ頬をやさしく撫でてゆく。 
 
 
 
 『ぁ、うん。 行くけど・・・ サエジマさんも行くの?』 
 
 
 
話し掛けられて照れくさそうにソウスケは人差し指を曲げて、第二関節で
メガネのブリッジをそっと上に上げた。
 
 
『返す本があるから・・・。』 そう言って、ミコトはサブバックから
ハードカバーを取り出すと、その背に貼られた学校所有物の証であるシール
が見えた。 その動作はなんだか必死に図書館に行く理由を言い訳している
ように見えなくもない。

照れくさそうに慌てて目を逸らすミコトと、そんなミコトと向き合って更に
恥ずかしそうに指先でメガネのブリッジを上げるソウスケ。
そんなふたりは目線だけで言葉を交わすように頷き、小さく微笑み合って
揃って教室を出て行った。
 
 
それを、イツキは不機嫌そうにじっと見つめていた。
右足が自分でも気付かぬうちにハイスピードの貧乏揺すりをしている。
 
 
 
   カタカタカタカタ カタカタカタカタ・・・
 
 
  
背を丸めて俯いたイツキ。
机の木目調スクエア天板をただただ見ていた。
 
 
 
  (なんなんだよ・・・ イミわかんねぇ・・・。)
 
 
 
  カタカタカタカタ カタカタカタカタ カタカタカタカタ カタカタカタカタ カタカタカタカタ・・・
 
 
 
まだ教室に残っていたクラスメイトが思い切り怪訝な顔を向け、耳障りな
貧乏揺すりをするイツキを睨んでいる。 しかしそれを指摘出来そうにない
程のイツキの機嫌悪そうなその表情に、諦めたようにかぶりを振った。
 
 
やや暫く不満が募りまくったカタカタという音が鳴り響いていた中、
なにか思い付いた様に突然ガバっと立ちあがったイツキ。

あまりの勢いにイスは後方へ豪快に倒れ、教室内に大きな音を響かせる。
 
 
すると机横のフックからカバンを掴むと、慌てて教室を飛び出したイツキ。

その足は靴箱へ向けて、制服のズボンの股部分の縫い目が軋むほど大股で
駆けてゆく。 相変わらず内履きの踵がパカパカするが、そんなのもう
慣れたもんだと巧い加減で足先に力を入れながら、猛ダッシュした。

外履きに履き替え、昇降口の段差を駆け下り、下校する生徒がのんびり進む
通学路をイツキは大きく腕を振って全速力で自宅へ向け走っていた。
 
 
 
そして、息を切らせながら自宅玄関に飛び込み、慌てて2階の自室へ向け
階段を駆け上がる。

最近息子の、謎の慌てふためくせわしない騒音をよく耳にする気がして、
母親はリビングのソファーに座りゆったりお茶を飲みながら小首を傾げ
呆れて小さく笑った。
 
 
自室のドアを大きく開け放つと、まっすぐ机へ向かいイスに掛けた。
飛び付く様なあまりの勢いにキャスター付きのイスが、半回転する。

すると、机の引出しから原稿用紙とお気に入りの8Bのえんぴつを少し乱暴に
取り出して、机の上に広げる。
 
 
そして、ニヤリと口角を上げた。
 
 
 
 『オレが早く書きさえすれば・・・

  ・・・放課後は、アイツと一緒だって事だよな・・・。』
 
 
 
指先でえんぴつを掴む。 人差し指を離し中指でえんぴつを押し出すように
して弾くと親指の周りをくるり一回転して、キレイにキャッチした。
 
 
放課後一緒にいる為の名案が思い浮かび満足気なイツキは、夕飯も後回しに
するほど必死に恋物語を綴っていた。
 
 
 

■第22話 じゃんけんグリコ

 
 
 
 『もぅう、新作が届いたのっ!!』
 
 
ミコトが嬉しくて仕方ないといった潤んだ目でイツキを見つめる、その朝。
 
 
 
昨夜、だいぶ遅くまでかかって完成したそれ。 

晩御飯も風呂も毎週欠かさず見ているテレビ番組も、全て後回しにして原稿
用紙に向き合っていたイツキ。 途中、自分の腹から腹の虫が鳴る音にふと
壁掛け時計を見上げると、もう日付変更線はとっくに越えていた。
 
 
寝不足のクマがありありと現れるその顔をやさしく緩めてイツキは言う。
 
 
 
  『へぇ~、 良かったじゃん。』
 
 
 
あまり疲れた顔を見せて、もし万が一にでも作者だと疑われると困る為、
ミコトからは微塵も心配されてなどいないというのに必死に言い訳を繕う
自分がなんだか情けない。
 
 
 
 『いやぁ~・・・

  昨日、ゲームし過ぎちゃって~ チョ~寝不足でさぁ~・・・。』
 
 
 
『へぇ。』 ミコトは1ミクロンも興味が無さそうに、机の中の茶封筒に
だけ意識を集中させている。

そんな素っ気なさすらなんだか可笑しくて、イツキは綻ぶ口許を必死に
何とかしようといなしていた。
 
 
 
 
そして、その放課後。

いつもの様にふたりで新作を読んだ後、教室を出て下校しようと静まり
返った階段へと向かっていた。
 
 
階段の手摺りに手を掛けながら、ミコトはイツキの少し先をひとり階段を
下りている。 階段の踏面を踏みしめると内履きのゴム底が立てる小さな
足音が階段踊り場に小気味よく響いた。
 
 
イツキは数歩離れた後ろから、ミコトの背中を見つめていた。

ショートボブの髪の毛はイマドキの女子高生のように色を明るくすることも
なく生まれつきの黒髪のままで、頭頂部にはツヤツヤの天使の環が輝く。
ご機嫌に跳ねるように階段を下りるその華奢なセーラーの背中は、耳を澄ま
さないと聴こえないくらいのソプラノの小声で鼻歌を歌って。
 
 
すると、階段を下り切ったミコトが突然振り返った。
 
 
 
 『ねぇ・・・

  こどもの頃、”じゃんけんグリコ ”流行ったよねぇ~・・・?』
 
 
 
新作を予想以上に早く読むことが出来たミコトは、小説の読後の余韻と抑え
切れない高揚感に、イツキへと桜色の頬で満面の笑みを作り呟く。
 
 
 
 『あぁ~・・・

  あの、アレだろ・・・? グーがグリコで、チョキが・・・。』
 
 
 『チョキが、”ち・よ・こ・れ・い・と ”』
 
 
 
『ああ!そうそう!!』 イツキが懐かしさにつられて笑う。
 
 
 
 『それで・・・ パーが ”ぱ・い・な・つ・ぷ・る ”』
 
 
 
10年以上振りくらいに発したその単語に懐かしくてクククと笑いながら
階段を下り切り、そのまま靴箱に向かおうとしたイツキの背中にミコトは
声を掛けた。
 
 
 
 『じゃーんけんっ!』 
 
 
 
そのひと言に、『んぁ??』 イツキは振り返る。

『じゃーんけんっ!』 いまだ階段下で佇み、手をグーにしたまま上下に
揺らしてじゃんけんの合図を送るミコト。
 
 
 
 『今、下りたばっかじゃんか・・・ また上がんのかよ・・・。』 
 
 
 
困惑顔で呆れて笑うイツキに、ミコトは聞く耳を持たず 『ぽんっ。』 
掛け声をかけた。

他者の意見など全く聞かず勝手にじゃんけんグリコを始めるミコト。
咄嗟にイツキはパーを出し、ミコトはグーを出した。
 
 
『ぱ・い・な・つ・ぷ・るっ』 イツキが気怠そうに踵を擦りながら、
一度下り切った階段を再び6段上がる。
 
 
そして再びじゃんけんすると、またイツキが勝った。 
 
 
 
 『ち・よ・こ・れ・い・と。
 
 
  ・・・つか、オレばっか勝ってんじゃねーかよ!

  いつ帰れんだよ、コレ・・・。』
 
 
 
イツキも笑いながら、律儀にミコトに付き合い階段を上がる。
 
 
 
 『いーじゃん、別に。

  ・・・ど~うせ帰ったってヒマなんでしょ?』
 
 
 
笑いながら相変わらず憎まれ口を叩くミコト。
ケラケラと愉しそうに口許に手を当て、眩しそうに目を細め笑っている。
 
 
 
  (ヒマじゃねーよ、バカ!

   オレには大事な執筆活動があんだっつーの・・・。)
 
 
 
そう内心思いながらも、思いがけずミコトとふたりで過ごす愉しい放課後の
ひとときに嬉しさを隠しきれない。

なんとか緩む頬をいなそうと躍起になるも、どうにもポーカーフェイスを
作れそうになく慌ててニヤける顔を逸らした。
 
 
 
 『つか・・・

  やっぱオレばっか勝ってんじゃねーかよ! 

  お前、じゃんけん弱すぎだろっ。』
 
 
 
どんどん不本意に階段を上がらされるイツキは、手摺りから身を乗り出して
階下のミコトを見つめて言う。
 
 
『じゃぁ、アタシ。 次はチョキ出すから!』 ミコトから次の一手の宣言が
飛び出した。 そして、『じゃ~んけんっ・・・。』
 
 
 
 
ふたりは腹を抱えてケラケラ笑っていた。

階段踊り場に、壁に、天井に、ふたりの愉しそうに笑い合う声が色とりどりの
スーパーボールのように元気よく跳ねて響く。
 
 
すっかり夕暮れの気配が迫る校舎の階段で、各々離れた位置で段差に腰掛け
笑い疲れた面持ちのふたり。 踊り場の大きな窓からは夕陽が差し込み、
なんだかその空間だけ橙色の世界のようで。
 
 
 
 『ったく、素直じゃねぇ~なぁ~・・・。』
 
 
 
ミコトはチョキ宣言をしながら、グーを出した。
イツキは素直にミコトに負けられるようパーを出していた。

結局、またしても勝ってしまったイツキ。

笑いながらも胸に込み上げる愛しさが息苦しい程で、ミコトに見えない様に
胸元をそっと押さえる。
 
 
すると、暫く愉しそうにクスクス笑っていたミコトが囁くように呟いた。
 
 
 
 『ねぇ・・・

  ミナトとカスミは、どうやって結ばれるのかなぁ・・・。』
 
 
 
階段手摺の隙間から、ミコトの嬉しそうに微笑む顔をイツキはこっそり見つめ
ていた。 頬がどんどん熱くなり心臓は勝手気ままにドキンドキンとうるさい
程打ち付けている。
 
 
 
  (コイツのこと・・・

         ・・・好きなんだな、 オレ・・・。)
 
 
 
どこか他人事のように、イツキは自分の内側から込み上げる恋心を感じていた。
 
 
 

■第23話 英語のノート

 
 
 
その小さな火が灯ったのは、ある日突然だった。
 
 
 
 『アタシ、日直でもナンでもないってのに・・・。』
 
 
 
ミコトが不機嫌そうに胸の前でノートの山を積み上げ抱えて、ブツブツと
不満を呟きながら歩いている。

クラス全員分の英語授業用ノートを運ぶように指示されたその放課後、
ミコトの足は帰宅する生徒や部活へ向かう生徒で賑わう廊下を、気怠そうに
重そうに少しよろめきながら職員室へと向かっていた。
 
 
 
 『ほんっと、セーカク悪いわ! あんの、ハゲじじい・・・。』
 
 
 
たった1冊のノートなど軽いものだけれど、それが30数人分ともなると
結構な重量になるそれを抱えるにはミコトの細い腕たった2本ではなんとも
心許ないというのに、ただ今日の日付とミコトの出席番号が同数だという
たったそれだけの合致でノートを運ぶ役割を仰せつかってしまったのだ。
 
 
 
 『しかも、

  ちゃんと板書をノートに写してるかの抜き打ちチェック、って・・・

  意味わかんないし・・・
 
 
  い~ぃ歳して、独身な訳だわ・・・。』
 
 
 
ブツブツと悪口めいたひとり言を呟き続け、ノートの山の重みに腕が痺れて
きた頃やっと目的地の引き戸前に辿り着いた。

引き戸横の壁にその山を一旦押し付け、片膝を曲げてノートの底部分に当て
がうとミコトは無理やり空けた片手で瞬時に引き戸をスライドさせ開け放ち
再び瞬時にその手をノートへと戻し抱え直した。
 
 
『失礼シマース。』 誰にと言うでもなく取り合えず小さく入室の挨拶をし
職員室奥の方の日当たりが良い机で呑気に踏ん反り返って湯呑に口を付け、
脂ぎった顔で同僚教師とヘラヘラ談笑している憎たらしい英語教師の元へと
進むミコト。
 
 
 
 『あぁ、サエジマ・・・ ココ、置いてくれ。』 
 
 
 
例えば ”ご苦労さん ” でも ”悪かったな ”でも、たった一言の労いの
言葉も掛けようとせず、散らかった机を顎で指すその禿げ頭をジロリ睨んで
ミコトはわざと大仰にドサっと大きな音を立てその山を自らの腕から机上へ
と移動させた。 
あまりの乱雑なそれに、積み重なっていたノートが少し雪崩れて教師の足元
へ数冊落ちる。
 
 
『あーぁ・・・ サエジマーァ・・・。』 いまだキャスター付きのイスに
腰掛けたまま教師は体を屈めて自分の足元に散らばったノートを拾い集める。

ミコトも一応しゃがみ込んで拾うポーズでもしようかと思ったその時、教師
が吹き出して笑いはじめた。
 
なにを笑っているのかとミコトがしゃがみ込んだまま顔を上げ、教師を見上
げる。 すると、1冊の拾い上げたノートの中身を見て笑っている様だった。
 
 
あまりに笑い続けるその禿げ頭に、さすがにミコトも声を掛ける。
 
 
 
 『どうしたんですか・・・?』
 
 
 
声を上げて笑っていたその教師が、やっとの事で笑いを鎮めてミコトへ向け
広げて見ていたノートを差し出した。
 
 
 
 『今日の授業で、簡単な和文の英訳やっただろ・・・?

  ”彼は木陰に立っていた ”、って。

  ・・・中1英語だ、あんなもん・・・。』
 
 
 
ミコトはその日の英語授業で確かにその和文を英訳してノートに記したのを
記憶していた。 ”こんなのも英訳できんならさっさと中学へ戻れ!”と
嫌味っぽくがなり立てた教師のガサツな声色を思い出す。
 
 
 
 『コレ・・・見てみろ、サエジマ

  アイツ・・・ ほんっと馬鹿なんだなぁ~・・・。』
 
 
 
再び教師が笑い出した。

ノートの ”その箇所 ”を、太く少し爪が伸びた指先で指し示している。
ミコトが少し身を乗り出してそれを見つめた。
 
 
 
 
     ”彼は木陰に立っていた He stand up three ”
 
 
 
 
 『過去形にもなってないは、立ちあがっちゃってるは・・・

  ・・・おまけに、コレ・・・。』
 
 
 
だらしなく膨れた腹部を押さえて、またしても教師が大声で笑い出した。
 
 
 
 『 ”tree ”も書けないのかよ、アイツ・・・

  これじゃあ、 ”樹 ”じゃなくて ”3 ”だろうが・・・
 
 
  アイツの名前、”イツキ ”って ”樹 ”って書くくせに・・・。』
 
 
 
それは、イツキのノートだった。

しゃがみ込んだままのミコトが、そのイツキの英文をまっすぐ見つめていた。
 
 
 

■第24話 ソウスケの文字

 
 
 
イツキのそのノートを見てしまって以来、なんとなく胸に痞えるものを
感じていたミコト。
 
 
しかし、それでもこの時は ”たまたまだろう ”ぐらいにしか思っていな
かった。 たまたまイツキは ”tree ”を ”three ”と書き間違えただけ
なのだろう。 それでなくても英語が全くダメで教師に叱られてばかりの
イツキの事だ。 そんな間違えなど腐るほどあるはずなのだ。 

”three ”というペンネームに、自分自身が過剰反応してしまっている
だけの事なのだと、この時ミコトは納得していた。
 
 
 
そんな小さな ”火 ”など忘れかけていた、とある放課後。
 
 
ソウスケが来週末に近付いている試験の勉強を図書室でするというので、
ミコトもそれに加わろうと一緒に図書室に向かっていた。

少しだけ慣れてきたソウスケとの、その距離。
互いに言葉にしなくとも、特別な用事がない限りは自然に一緒に並んで
図書室へと向かっていたし、まるで当たり前かのように隣同士で席に着く。

どこか恥じらう様に、ソウスケの左二の腕とミコトの右二の腕はふたりの
間に微妙な隙間を作りながらも、それは圧倒的な ”ふたり ”の空間と
なっていた。
 
 
 
 『あ! この間の歴史の授業・・・

  板書消されるの早すぎて、ノート取れなかったトコがあるの・・・。』
 
 
 
ミコトがしかめ面をソウスケに向ける。

小さなぽってりした唇がきゅっと不満気に尖って、こどもっぽさの中に
なんだか色っぽさも見て取れるそれ。 ソウスケは慌てて視線を唇から外す。
 
 
『ボク、ノート取ってるから・・・ 貸すよ。』 ミコトからはずした視線
を再び小さく向けて、ソウスケの心を揺さぶるその唇をそっと見つめた。
 
 
すると、ミコトは大仰にも見える感じで飛び跳ねて喜んだ。
 
 
 
 『ミスギ大先生のノート見せてもらえたら、

  アタシの歴史の成績、ぐ~んと上がっちゃうかもねっ!』
 
 
 
愉しそうに上機嫌に、ミコトは口許に両指先を当ててケラケラ笑っている。

そんなミコトを目を細めやさしく見つめるソウスケ。 内気なソウスケの
胸の中にも確実に淡い恋心が芽生えているのを、もう誤魔化すことは出来
そうにないくらい、ミコトへの愛しさが募っていっていた。
 
 
いつまでも嬉しそうに微笑んでいるミコトを横目で見つめ、ソウスケは
小さく呟いた。 それはどこか申し訳なさそうな声色のそれで。
 
 
 
 『ぁ・・・

  でも、ボク。 
 
 
  あんまり・・・ってゆうか、 だいぶ・・・

  字が上手じゃないから・・・ 見づらいかもしれないよ?』
 
 
 
『え?? すっごい上手じゃない!?』 ソウスケのひと言に咄嗟にミコト
が反応して返した。 そしてその瞬間、”ヤバい ”という苦い顔をして俯く。
 
ソウスケが達筆なのは、原稿用紙で見慣れていて知っているミコト。
しかし小説の作者がソウスケだと気付いているという事はひたすら隠さなけ
ればいけないのだ。 うっかり口が滑り、ミコトは眉根をひそめ反省する。

それにしてもあんなに達筆だというのに謙遜にも程があるソウスケのそれに
逆にそれはちょっと嫌味に聞こえるのではないかと少し危惧するほどだった。
 
 
すると、ソウスケは不思議そうにミコトが発した ”上手 ”というその一言
に首を傾げた。 まるでよく知っているかの様に感じた、その口振り。
 
 
 
 (ボクの字、見たことあったっけ・・・?)
 
 
 
しかし、同じクラスなのだから何かのタイミングで文字ぐらい見たとしても
何も不思議ではない。 もしかしたらたまたまキレイに書けた時があったと
してそれを見たという事なのかもしれない。
 
 
ソウスケもこの時は然程気にせずに、その件は適当に流していた。
 
 
 

■第25話 センス

 
 
 
汚れひとつ傷ひとつ無いソウスケの学校指定カバンから、歴史のノートが
取り出され隣に座るミコトへと渡された。 ノートの表紙には黒マジック
で几帳面に ”歴史 ”とタイトルが表記され、下方には ”2-B 三杉 ”
とある。
 
 
ミコトはソウスケから貸してもらったそれが嬉しくて、机に両肘をつき
少し身を乗り出すようにしてノートを開いてペラペラとめくってみた。
 
 
 
  (・・・あれ?)
 
 
 
最初の方のページで開いて止まって、そこに書かれている文字を見つめる。

それは、懸命に丁寧に書いてはいるけれど、どうしても上手に書くことが
出来ない典型的なタイプのそれで。
 
 
 
  (この日は慌てて書いたのかな・・・。)
 
 
 
ミコトは小刻みに瞬きを繰り返し、次のページをめくってみる。

しかし、次のページもその次もその次も、書かれている文字は懸命で丁寧
ではあるそれだった。
 
 
 
  懸命さは伝わる文字。

  丁寧さだけが伝わる文字。
 
 
 
  あの原稿用紙に記された流れるような達筆には程遠い、その文字。
 
 
 
すると、ソウスケが照れくさそうにぽつり呟く。
 
 
 『言ったとおりだろ・・・?
 
   
  雑に書いてる訳ではないんだけど、

  きっと ”文字 ”って、センスだと思うんだよね。
 
 
  ボク、ほんとこどもの頃から字とか絵とか全くダメで、

  習字の授業とか大嫌いだったんだよね~・・・

  小さい時に習いに行っておけば良かったって、今更後悔・・・。』
 
 
 
そう言って情けなく頬を緩めるソウスケを、ミコトはじっと見つめた。
 
 
 
  (・・・あれ・・・?

   なんか・・・ なんだろ、この感じ・・・。)
 
 
 
胸の中に生まれた霞のようなモヤモヤしたものが、顔を出す。
うまく言葉に言い表せない、この感じ。
 
 
暫し無言でノートの文字を見つめ続け、ミコトは意を決ししずしずと訊いた。
 
 
 
 『ミスギ君、読書好きだよね・・・?

  ・・・じ、自分で・・・ 書いてみたいとは思わないの・・・?』
 
 
 
すると、ソウスケは一瞬キョトンとした顔を向けてケタケタ笑い出した。

静まり返った図書室にその笑い声が高鳴り、慌てて肩をすくめて声のトーンを
落とす。 そして、ソウスケは言った。
 
 
 
 『ボク、読むの専門だからね~

  ”書く ”なんて、とんでもないよっ!
 
 
  ”読む ”のと ”書く ”のは全く別物だし、

  やっぱそれも ”センス ”だと思うんだ。
 
 
  出来上がっているものを ”読み込んで理解するセンス ”はあっても、

  きっとボクには ”想像を文字に起こすセンス ”はゼロだよ。
 
   
  ボク、実は小論文とかあんまり得意じゃないんだ。

  そんな ”力 ”があったら、現国の成績はもっといいはずだよ。』
 
 
 
そう言うソウスケの顔は、嘘ひとつ無いまっすぐなものだった。

ミコトの胸の中で消えかけていた ”火 ”が、再び灯り始めていた。
 
 
 

■第26話 胸に秘めた想い

 
 
 
イツキとミコト、各々胸の中にくすぶるものを感じながらも、だからと
言って何も出来ずに毎日は過ぎていった。
 
 
放課後。

再びミコトとソウスケが揃って図書室に向かう姿を見掛けたイツキ。
どんどんふたりの距離が縮まっている様に見えて仕方がない。
内気で奥手なはずのソウスケがリードする様にミコトを促し、それに
ミコトがはにかみながら続いてゆく。
 
 
 
  (くそっ・・・

   付き合ってんのかよ、アイツら・・・。)
 
 
 
実はミコトがソウスケに対し戸惑っている様子も、物事をネガティブに
しか捉えられなくなっているイツキには ”照れ ”や ”はにかみ ”に
しか見ることが出来ない。

机に突っ伏し顔だけ教室戸口に向ける気怠い学ランは、今日も激しい
貧乏揺すりを延々繰り返した。
 
 
 
  (アイツ、ミスギの前でどんな風に笑ってんのかな・・・
 
 
   手、とか・・・

   ・・・繋いでんのかな・・・
 
 
   もう、キ・・・ キス、とか・・・
 
 
   くそっ! くそっ! くそっっ!!

   カンケーねぇ、カンケーねぇ、オレにはカンケーねぇ・・・
 
 
   ・・・って、

   あんだろ・・・ カンケーあんだろ、くそ・・・。)
 
 
 
そしてイツキは徹夜をしてミコトとソウスケが接近するのを阻むように
急ピッチで原稿書きを進めた。
 
 
 
 
ミコトがイツキに目線で ”例の合図 ”を送った翌朝。

早朝までかかって原稿を書き上げ、寝ずにそのままそれをミコトの机に
忍ばせたイツキは寝不足のクマをしっかり湛えながら、ミコトをそっと
満足気に見つめていた。
 
 
放課後の誰もいない教室でふたり、ひとつの机に腰掛け座る。
 
 
ミコトは原稿用紙の表紙をなにも言わずにじっと見つめていた。

いつも通りの美しい流れるような達筆の文字。
それはどう見てもペン習字か書道を習っていた人間じゃなきゃ書けない字で。
 
 
先日、ミコトは思い切ってソウスケに ”自分では書かないのか ”訊いた。

それに返事をしたソウスケの顔は嘘を言っている人間のそれでは無かった。
もしミコトに ”正体 ”がバレかけていると勘付いたら、こんなに焦って
いるかの様に急ピッチで原稿を仕上げてくるのも考えにくい。
 
 
 
  (ミスギ君じゃ、ないんだ・・・。)
 
 
 
頭の中でさえ言葉にしないでおいたそのひと言が、ミコトの中でしっかり形
を成した。 作者はミスギではない、別の誰かなのだと。
 
 
なんだか胸にぽっかり穴が開いた様な気分で、ぼんやりと俯いていた。

細い指先でそこにあるえんぴつのやわらかい鉛色をなぞり、原稿用紙を
見つめたままいつまで経ってもページをめくろうとはしない。
隣で背中を丸めて気怠さを装い座るイツキが、そんなミコトの様子に首を
傾げる。
 
 
 
 『どした・・・?

  ・・・読まねぇの・・・?』
 
 
 『・・・ん。

  ・・・読むけど・・・。』
 
 
 
ミコトの小さな心許ない返事に、イツキは勝手に勘違いをしてどこか苛立つ。
 
 
 
  (小説読むより、ミスギと図書室行きたいのかよ・・・。)
 
 
 
すると、イツキは少し声を張ってどこか嫌味っぽく呟いた。
 
 
 
 『せっかく早目に仕上げてくれてんだからさ・・・
 
 
  お前もヨケーなこと考えてないで・・・

  つまんねぇ寄り道とかしてないで・・・ 集中して読めよなっ!!』
 
 
 
自分の口から出た声色が自分で思うよりずっとキツ目で慌てるイツキ。

ハっとして横目でチラリ、ミコトの顔色を伺った。
自分の胸の奥からドクン ドクンと激しく打ち付ける音が鳴り響く。
 
 
すると、それでもミコトは俯いたままだった。

下げた顔に連動してショートボブの軽い毛先は垂れ、小さな耳が髪の毛の
隙間から覗いていた。 それは何故か真っ赤に染まって痛々しい程で。
 
 
 
  (くそっ・・・。)
 
 
 
イツキの胸に秘めた想いが、思わず口をついて出た。
 
 
 
 『お前さ・・・

  ・・・ミスギと、 付き合ってんの・・・?』
 
 
 

■第27話 聞き間違いではない、発音

 
 
 
 『お前さ・・・

  ・・・ミスギと、 付き合ってんの・・・?』
 
 
 
急に今まで聞いたこともない様な真面目な声色でイツキに問われて、
ミコトは俯いていた顔をガバっと上げて目を見開く。
 
 
 
 『な、なによ・・・。』
 
 
 
小さな唇をきゅっとつぐみ、途端に眉根をひそめて口ごもった。
 
 
 
 『アイツが・・・ ミスギがほんとに ”three ”なの?

  ・・・お前、それ確かめたの・・・??』 
 
 
 
身を乗り出すように、真剣な、怒っているような表情にもとれるそれで
詰め寄るイツキに、ミコトも負けじと目を眇め強く言い返す。
 
 
 
 『正体訊くなって言ったの、アンタじゃんっ!!』
 
 
 
ミコトから正論を返され二の句が継げずにいるイツキ。
しかし、一度切ってしまった口火はもう止まりそうになかった。
 
 
 
 『好きなの・・・?

  アイツが、ただ作者かもしんねーってだけで、好きなわけ??
 
 
  ・・・それって、なんかチガくね??
 
 
  小説書ければ好きになるの??

  小説さえ書いてれば、それでお前は、誰で・・・』
 
 
 
『てか、アンタに関係なくないっ?!』 ミコトがイツキの言葉を遮り
怒鳴った。 ふたりきりの教室に怒号が一瞬木霊し、その刹那哀しい程の
静寂に包まれる。
 
 
ふたり、俯いてジリジリと込み上げる行き場のない想いに黙り込んだ。

隣に腰掛けるイツキが膝の上で強く拳を握りしめているのがミコトの目に
入った。 必死に怒りを抑えているような、哀しくて堪えているような、
小刻みに震えるその大きな拳。
 
 
すると、イツキは握り締めていた拳をそっとほどいてミコトの膝の上に
ある原稿用紙の端を掴んだ。 そして、ミコトへ再び押し付ける。
 
 
 
 『とにかく・・・ 読めよ。

  きっと・・・ 一生懸命書いてくれたんだから・・・。』
 
 
 
その時、そっと顔を上げたミコトの視線は一点に集中していた。

目を見開き、”それ ”を固唾を呑んで見つめている。
 
 
 
するとイツキはそんなミコトの様子に気付かぬまま、腰掛けていた机から
少し乱暴に飛び降り片手にカバンの持ち手を掴むと、何も言わずに教室を
出て行ってしまった。

『ねぇ、読まないの?』 その学ランの背中に声を掛けたけれど、それは
振り返ることなく消え、廊下に踵を引き摺って歩く足音だけ小さく遠く。
 
 
 
 
ひとり教室に残されたミコトが、先ほど見つめていた ”それ ”を思い返す。

原稿用紙を掴んだイツキの右手中指には、大きな大きなペンダコがあった。
 
 
 
そして、イツキの口から出た作者のペンネーム ”three ”

聞き間違えではない、それ。 イツキは ”スリー ”ではなく ”ツリー ”
と発音したのだ。
 
 
 
 ( ”tree ”も書けないのかよ、アイツ・・・

  これじゃあ、 ”樹 ”じゃなくて ”3 ”だろうが・・・
 
 
  アイツの名前、”イツキ ”って ”樹 ”って書くくせに・・・。)
 
 
 
先日の英語教師が踏ん反り返って笑いながら言っていたことを思い出す。
 
 
『うそでしょ・・・。』 原稿用紙を抱き締めるようにして、泣きそうな
面持ちでミコトは背中を丸めうずくまった。
 
 
 

■第28話 ただひとり

 
 
 
イツキはミコトをひとり教室に残し、まだ夕暮れには少し早い明るい
通学路を歩いていた。
 
 
最初イライラした雰囲気だったアスファルトを擦るその足取りは、次第に
小さくしょぼくれてトボトボという効果音が実際に鳴らされている様で。
 
 
 
 『なんで読まねぇんだよ、アイツ・・・

  アイツが読まねぇなら、もう、書く意味ねぇじゃん・・・。』
 
 
 
まるで迷子のこどもの様にうら寂しい虚ろな表情で、ぽつりひとりごちる。
 
 
当初、顔の見えない不特定多数に向けて書いていたはずの恋物語はいつの
間にか ”ただひとり ”に向けて書かれていた。

ただひとりの喜ぶ顔が見たくて、笑う顔が嬉しくて、愉しそうに弾む声が
聴きたくて。 テレビを見る時間も漫画を読む時間もネットをする時間も
他のどんなものを削ったとしても、小説を書いていたかった。
 
 
 
 
   ただ、ミコトを喜ばせたかった・・・
 
 
 
 
イツキが紡ぐ物語の中の主人公は、遠回りをしながらも互いの気持ちを
確かめ合い少しずつ確実に距離を縮めている。 所詮、自分の指先が紡ぐ
作り物の世界なのだ、なんだかんだありながらも美しくまとまってゆく。

しかし、はじめて恋をしたイツキの現実はそう思い通りにはいかない。
苦しいのと悔しいのと伝わらない歯がゆさの連続で、毎日毎日心臓は
壊れそうに高鳴り痛みを憶えた。
 
 
正直ミコトのどこが好きなのか分からなかった。
ムカつくところや嫌なところならすぐにでも言えるのに。
 
 
 
  (部分的なものじゃないんだ、きっと・・・。)
 
 
 
ただミコトが横にいると愉しくて、嬉しくて、心が満たされる。

ミコトの憎まれ口も、ジロリ睨む横目も、嫌味たっぷりの皮肉を言う声色も
それら全てがイツキの胸に沁み渡った。 イツキの胸を震わせた。
 
 
 
  (ただ・・・ ただ理屈じゃなく、アイツが好きなんだ・・・。)
 
 
 
自分の気持ちが明確になった途端、この先どうしたらいいか全く分からず
途方に暮れるようにイツキは立ち止まった。

少しずつ暮れてきた陽が、うっすらとその弱々しい影をアスファルトに伸ばす。
 
 
大きな大きな溜息が静かに漏れていた。 それに連動して肩が沈む。

そっと俯いて目を伏せたその瞬間、左手に掴むカバンの中からケータイの
着信音がくぐもって聴こえた。
 
 
 
  (っんだよ・・・。) 
 
 
 
面倒くさそうにカバンのバックルをはずして手を突っ込み、けたたましく
鳴り響くそれに目線を向ける。 すると、目を見開いてイツキは固まった。
 
 
 
     ”着信 サエジマ ”
 
 
 
ゴクリと息を呑む音が、ほんのり色付いていた夕空にしっかり響いていた。
 
 
 

■第29話 あの日のこと

 
 
 
ミコトはひとり取り残された放課後の教室で、原稿用紙の表紙に目を落と
したままなんだか泣きそうな顔で俯いていた。
 
 
静かに橙色に包まれるその空間は、まるで世界中で自分ひとりしかいない
かのように閑散として物寂しさを誘う。 遠く廊下の先から流れるハツラツ
とした部活動生の明るい声がなんだか余計に不安をあおった。
 
 
そっと、あの日を思い返す。

もの凄い勢いで大きな音を立てつんのめる様に教室に飛び込んで来たイツキ。
今思えばかなりの挙動不審具合で、財布かなにかを忘れたとか言っていた。
慌てふためき目を白黒させながら、よくわからない事を言い訳めいて。

恋愛小説になど全く興味なさそうなイツキが、一緒に読むと言い出したり、
鼻で嗤いそうな感じに見えて、実際一度も小説のことをバカにしたりはしな
かった。 ここの所ずっと急ピッチで仕上げられている原稿。 寝不足の目の
下の黒々したクマも、右手中指の巨大なペンダコも、作者だと特定するには
充分な証拠のように思えた。
 
 
そして思いがけず発覚した、ペンネームの謎。

きっと ”イツキ ”という名前の漢字 ”樹 ”を英語にしたつもりのそれは
”tree ”ではなく ”three”と間違って覚えているのだろう。

おまけにそれにいまだに気付いていない馬鹿さ加減っぷり。
 
 
 
 『ほんと・・・ バカにも程があるじゃない・・・。』
 
 
 
指先で掴んでいた原稿用紙をそっと胸に抱き、ミコトは眉根をひそめて
困ったような呆れたような顔で小さく微笑んだ。
 
 
 
 『カッコ悪いくせに、一丁前になにカッコつけて隠してんのよ・・・。』
 
 
 
少しだけ腕に力を入れて原稿用紙を抱き締めると、静まり返ったひとりぼっち
の教室に紙がよれる音がクシャっと響く。 その音に慌てて体からそれを離し
小さく出来たシワを手の平で大切そうに伸ばして目を伏せた。
 
 
すると、ふと先程のイツキの言葉が甦った。
 
 
 
 (お前さ・・・

  ・・・ミスギと、 付き合ってんの・・・?)
 
 
 
そのひと言は、どんな意味を持つのか考える。

ただの興味本位かもしれない。 クラスメイトの男女が付き合っているやら
別れたやら、そんな噂は面白おかしく瞬く間に広がるものだ。

別に深い意味はないのかもしれない。

しかし、イツキのあの時の声色は揶揄する感じではなかった様に感じた。
怒っているような哀しんでいるような、失望しているような。
 
 
 
 『ほんと・・・ もう、なんなのよ・・・。』
 
 
 
胸をきゅっと締め付ける歯がゆさに戸惑いながら、膝の上に置いた原稿用紙を
再びそっとめくってみる。

そこには美しい文字が連なる。
その達筆なそれの陰に何度も何度も消しゴムで消した跡が微かに残っている。

きっと遅くまで懸命に懸命にお話を書いた跡なのだろう。
きっとミコトの為に、ミコトの為だけに懸命に。
 
 
指先でやさしく撫でてみた。
やわらかいえんぴつの鉛色から、やさしい温度が伝わるようだった。
 
 
 
 『一緒に読む約束になってたじゃないのよ・・・。』
 
 
 
ぽつりひとりごちて小さく息をつくと、ミコトは意を決するようにカバンから
ケータイを取り出し静かにそれを耳に当てた。
真っ赤に染まる左耳に、暫し機械的な通話音が流れそしてそれは繋がる。
 
 
 
 『サ・・・ サエジマ・・・?』
 
 
 
明らかにミコトからの電話に戸惑っているその第一声。 

わずかに声が裏返って慌てて咳払いをして誤魔化すその気配に、ミコトは
思わず頬を緩めて笑いを堪える。
 
 
 
 『今、どこ・・・?』
 
 
 
ミコトが笑い声を必死に鎮めて、ほんのり桜色に染まる頬で問い掛けた。
 
 
 

■第30話 公園での待合せ

 
 
 
 『えっ? えーっと・・・

  今は、まだ・・・ 歩いてる、けど・・・。』
 
 
 
突然掛かって来たミコトからの電話に、イツキは思い切り動揺していた。

定規を当てられた様に急にシャキンと伸ばした背筋は、まるで教師に叱られ
廊下に立たされる小学生のそれ。
 
 
戸惑いながらもミコトからの電話が嬉しくないはずもなく、思わず人差し
指でポリポリと頬を掻くと、小脇に挟んで抱えていたカバンがストンと
足元に落ちて中身がアスファルト上に散らばった。
 
 
 
 『新作は一緒に読むってルールでしょ!!

  なに勝手にルール変更してんのよ・・・ カノウのくせに・・・。』
 
 
 『く・・・ くせに、ってナンだよ!!』
 
 
 
そんな小憎たらしい悪罵でさえ、イツキの耳をこれでもかと言うくらいに赤く
染める。 ミコトもケータイに向かって敢えて憎まれ口を叩きながら少し俯い
て笑いそうになる頬を必死にいなしていた。
 
 
 
 『ねぇ・・・
 
 
  校門でて、左のほう行った先に公園あるじゃない・・・?

  ・・・そ、そこまで戻って来てよ・・・。』
 
 
 
『え??』 イツキは思いもよらぬミコトのひと言に、聴こえたそれが
間違いではないか聞き返す。
 
 
 
 (ぇ・・・ こ、公園?

  待合せ・・・んの、か・・・? 公園で・・・ ふ、ふたりで? )
 

  
 
 『ァ、アタシもすぐ自転車で向かうからっ!!』
 
 
 
それだけ吐き捨ててミコトはケータイの通話をOFFにした。
 
電波の向こうからは更にうろたえる気配が伝わったものの、イツキからの返事
など律儀に聞いて受け答えできる程の余裕など、頬を赤く染めるミコトにも
一切なかった。
 
 
ミコトはまるで自分の落ち着きない心臓をぎゅっと押さえ込むように切った
ケータイを両手に包み込む。 照れまくっている自分を必死に誤魔化そうと
躍起になるも、心臓が胸の奥の奥で跳ね狂うようにせわしなく音を立てうるさ
い程で。

小さく震える自分の手を他人事のように見つめ、暫し呆然としていた。
イツキ相手にこんなに慌て動揺する自分が自分じゃないみたいで。
 
 
そして、『ぁ・・・ 公園。』 イツキに指定した公園へ向かわなければと
慌てて原稿用紙をカバンに詰め、ミコトは夕暮れの穏やかな廊下をパタパタ
と小さな足音を立てて駆け出した。

その頬は暮れかけた陽に照らされて、やわらかく橙色に染まっていた。
 
 
 
 
指定された公園に先に着いたのはイツキだった。

突然の予想だにしない出来事に頭が追い付かず、ソワソワと落ち着かない。 
どこで待っていれば良いのか、出入口に立っているべきかベンチに座って
待つべきか。 座るなら足は組むべきか気怠さを醸し出し背中を丸めるか。
 
 
 
  (さり気なく、って どーしたらいいんだよ・・・。) 
 
 
 
とにかく、なにがなんでも自然な感じを装いたい。

アタフタ動揺して女子慣れしていない感丸出しの格好悪い姿だけは見せたく
ないと、取り敢えずカラッカラに乾いて引っ付きそうな喉をなんとかする為
公園内にある自販機の前に立ち目の前に並ぶラインナップを眺めていた。
 
 
本当は、この ”みるくたっぷりミルクティ ”が飲みたい。

それはイツキの大好物で、自宅の冷蔵庫にはいつもそれが冷やされている様
母親には口を酸っぱくして言っていた。 しかし、気怠さを最大限装ってい
るイツキがミコトの前で ”みるくたっぷり ”という乙女向けな枕詞はやはり
頂けないのではないかと苦々しく唇を噛み締める。 

やはり ”無糖ブラックコーヒー ”あたりが妥当なのではないか。 または
緑茶などお茶系がベストか。 しかし年寄くさいかも、爽やかにシュワシュワ
炭酸系が青春ぽいかもなど、延々選びきれずにボタンを押し掛けた指を空中で
止めたまま暫し真剣に悩んでいた。
 
 
すると、
 
 
 
    ピ・・・  ガゴン・・・
 
 
 
突然、後方から伸びたセーラー服の腕が人差し指でボタンを押し、イツキが
本当は飲みたかった ”みるくたっぷりミルクティ ”が取出口へと落ちた音
が響く。
 
 
驚いて振り返ったイツキの足元にしゃがみ込み、取出口に手を入れミルクティ
を掴んだその顔は悪びれもせず澄まし顔で言った。 
 
 
 
 『ごちっ! アタシ、これ一番すきなの。』
 
 
 
片手に掴んだペットボトルを小さく左右に振って立ちあがったミコトが悪戯に
ニヤリ口角をあげ、夕陽に照らされていた。
 
 
 

■第31話 ふたりの距離

 
 
 
ミコトは校舎を後にすると慌てて自転車に跨り、イツキが待つ公園へとペダルを
高速回転させて夕暮れの通学路を走り抜けていた。

大急ぎで立ち漕ぎするセーラー服のスカートは結構な勢いで翻り、前髪も飛んで
おでこ全開になっているが、そんな事も気にせず爆走する。
 
 
もうすぐ、この角を曲がれば公園に着くという辺りでミコトは一旦ペダルを漕ぐ
足を止め両足で踏ん張り立ち止まった。 そして急激に掛かった負荷に爆発しそ
うな鼓動を鎮めようと大きく深呼吸して息を整え、おでこの辺りでグシャグシャ
に乱れた前髪を手櫛で均した。
 
 
 
  (カノウなんかの為に、急いだと思われたくないわ・・・。)
 
 
 
可笑しな意地が見え隠れするその昂揚した背中は、呼吸が整うと再び自転車に
跨って今度はゆったりのんびりと澄まし顔でペダルを漕ぎ進み到着すると、
公園出入口横に自転車を停め、中に進んだ。

夕暮れの公園はもう遊んでいるこどもの姿もなく、昼間のそれとは違いひっそり
やわらかい橙色の世界に様変わりしていた。
 
 
ミコトの艶があるローファーが小粒の砂利を踏みしめ進んだ先に、すぐさま目に
飛び込んだ学ラン姿。
自販機の前でなにやらボタンギリギリの所で指を宙に浮かせたまま、小首を傾げ
ドリンクを選びきれずに悩んでいるようだ。
 
 
 
  (まったく・・・ 優柔不断なんだから・・・。)
 
 
 
足音を立てずに静かに忍び寄り、勝手に後方からミルクティを選択したミコトに
跳ね上がるほど驚いて振り返ったイツキのその顔はぽっかりと口が開き、それは
”情けない ”という表現がぴったりで。

思わず吹き出しそうになるのを堪えるミコトに、イツキは照れくさそうに眉根を
ひそめて口を尖らす。
 
 
 
 『っんだよ・・・ ビックリさせんなよな・・・。』
 
 
 
そう呟いて再度硬貨を自販機に投入すると、イツキは最初から決めていた様な
涼しい顔をして、ブラックコーヒーのボタンを親指の先で勢いよく押した。
 
 
 
 
ふたり、ベンチに腰掛けて買ったドリンクをただただ飲んでいた。

いつも放課後にひとつの机に座る時は、なにも考えなくても極当たり前に
超近距離で寄り添っているというのに、今ベンチに座るふたりはいつもの
机より倍はスペースがある1.8ⅿのそこに不自然に間隔をあけている。
 
 
ただ黙ってペットボトルに口を付けている、ふたり。

どうしようもなく照れくさくて、なにをどう話したらいいのか分からない。
今まであんなにポンポン好き勝手なことを言い合っていたのが嘘のようで。

互い、なにも喋ることが出来ず喉から聞こえるドリンクが通過するゴクンと
いう音だけが静かな公園に小さく響いている。
 
 
 
  (もう、なんなの・・・ 最悪・・・。)
 
 
 
あまりに照れくさ過ぎてミコトは若干不機嫌になっていった。

イツキがなにか話題を振って喋ってくれれば、少しはこの気まずい空気も
マシになるというのに、そんな簡単な事も気付けない隣の学ランに舌打ち
でも打ちたくなってしまう。
 
 
イツキもまた、ガチガチに緊張しながらブラックコーヒーを口に含んでいた。

普段はまず飲むことがない無糖のそれに、喉が拒絶してうまく飲み込めない。
ただまっすぐ前を見てはいるが、その目にはなにも映っていなかった。
動揺しまくって変に空回りする最悪のシナリオだけは避けようと、それだけ
考えた結果なにも行動を起こせず一言も発せず、ただ液体を喉に押し流して
いるという状態だった。
 
 
すると、痺れを切らしかけたミコトがイツキに嫌味のひとつでも言おうとして
本来ここに来た理由をやっと思い出した。
 
 
『ぁ・・・ そうだ、原稿・・・。』 そう言ってカバンからそれを取り出すと
イツキもまたそれにこのやりきれない空気を救われたような面持ちで声を張る。
『ああ! ・・・げ、原稿 原稿!!』 
 
 
 
 『ルールは守りなさいよね・・・。』
 
 
 
ジロリ横目で睨んで口を尖らせるミコトに、照れくさそうにイツキはペコリと
首を前に出して謝るポーズをとる。
 
ミコトが原稿用紙を制服スカートの膝の上に広げると、イツキがほんの少し
体を傾げ身を乗り出してそれを覗き込んだ。
 
 
ほんの少し近付いた、ふたりの距離。

イツキの髪の毛に付けている整髪料の爽やかなにおいがミコトの鼻をかすめ、
ミコトのシャンプーのにおいが夕暮れの風に乗って甘く漂う。
 
 
互いの頬がやさしく綻んでいることに、その時はまだ気付けぬまま。
 
 
 

■第32話 小さな秘密

 
 
 
 『もし、もしもね・・・

  作者がミスギ君じゃなかったら、どうする・・・?』
 
 
 
ゆったりとした時間が流れる夕暮れの公園のベンチでふたり、顔を突き合わせ
原稿用紙を読んでいた途中で、ミコトが小さく呟いた。

まるでひとり言のように、顔は上げず膝の上に目を落としたままで。
 
 
イツキはその言葉の意味を考えあぐねる。
 
 
 
  (どうする、って・・・。)
 
 
 
 『なに・・・? ぇ。 イミわかんないんだけど・・・。』
 
 
 
そう言って、イツキは隣に座るミコトの横顔をまっすぐ見つめる。

ミコトがなにを言いたいのかがサッパリ分からず、唇を尖らして小首を傾げ
ている。 チラっと目線を上げたミコトが、イツキのそのアホ丸出しの顔を
見てぷっと吹き出した。 まるでこどもの様な絵に描いたようなハテナ顔。
 
 
 
  (こんなアホに、なんであんな物語が書けるんだろ・・・。)
 
 
 
ミコトは肩を震わせて笑い続けた。
細い両指先を口許に当てて、愉しそうに上機嫌にいつまでもクスクス笑う。

イツキはミコトの笑う理由が全く分からなかったが、その笑顔を見ている
だけでなんだか心がほっこりして、つられて小さく微笑んだ。
 
 
ふたりの間に、穏やかでやさしい時間がゆったり流れる。

ベンチに腰かけ投げ出したミコトの艶があるローファーと、イツキの少し
爪先が汚れたスニーカーが仲良く揃ってゆらゆら揺れる。

夕暮れの生ぬるい風がよそぎ、その瞬間ミコトの膝の上に置いた原稿用紙を
1枚さらっていった。
 
 
『あっ!!』 慌ててミコトが立ちあがり、さらわれた1枚を追い掛けようと
するとイツキが一拍早く立ちあがってそれを即座に掴みミコトに差し出した。

『焦ったぁ・・・。』 再び手元に戻った1枚を大切そうに手の平で撫で、
心から安心したような顔をするミコトを、イツキは目を細め見つめると
ミコトがぽつり呟いた。
俯いて、原稿用紙にある美しい文字にまっすぐ目を落としたまま。
 
 
 
 『 ”作者だから ”ってゆうのは、あるかもしれない・・・。』
 
 
 
『ん?』 またしてもミコトの言うその意味が分からないイツキ。

ミコトは自分がだいぶ言葉を端折った言い方をしていることに気付いているが
恥ずかし過ぎて、一から十まで分かり易く丁寧に説明など出来そうになかった。
 
 
 
 『だーかーらーぁ・・・
  
  
  このお話が書ける作者だからこそ、

  すごいなぁ、尊敬しちゃうなぁ、って思うの・・・
 
 
  こんなやさしいお話が書けるって、

  作者本人があったかい人だからでしょ・・・。』
 
 
 
そう呟くミコトの顔は真っ赤に染まって目も潤んでいたが、丁度差し込んだ
眩しい夕陽にまっすぐ照らされ逆光になってイツキにそれは見えなかった。
 
 
 
 
 
  『ミスギ君じゃなきゃ・・・ 

           ・・・誰、 なんだろうね・・・?』
 
 
 
 
ミコトは小さく小さく訊ねてみる。

決して顔は上げないけれど、その赤く染まった小さな耳はイツキへ向けて
のみ研ぎ澄まされていた。 イツキが発する息遣いや、息を呑む音や、瞬き
する音まで全て聞き漏らさぬように。
 
 
すると、イツキは俯いて苦々しく真一文字に口をつぐんだ。
 
 
 
  (オレが作者だなんて言ったら、

   コイツ、きっと幻滅すんだろなぁ・・・
 
 
   せっかく好きだって言ってくれてるこの話も、

   愉しめなくなっちゃうのかもしんないな・・・。)
 
 
 
言いたいけれど、言えない真実。
言ったっていいのだけれど、でも、やっぱり言えない。 言えそうにない。
 
 
 
 『てか、

  作者が誰とか別にそんなのよくね?
 
 
  話が面白ければ、それでいーんじゃねぇの?
 
 
  作者の顔がチラついたら、

  せっかくいい話も違って感じるかもしんねーぞ。』
 
 
 
そう言うイツキの顔があまりに情けなくやさしく微笑むから、ミコトは
何故だか急に涙が込み上げ、慌ててそれを悟られないよう顔を背けた。

イツキのその声色で、ただ正体がバレるのが恥ずかしいという理由だけで
言っているのではないというのが伝わる。
 
 
 
  (アタシも、気付かないフリしてた方がいいのかな・・・。)
 
 
 
ミコトの胸の中に、ひとつ小さな秘密が出来ていた。

それは決してイツキに気付かれてはいけない、”作者に気付いている ”
という秘密。
 
 
クスリ、小さく肩をすくめて微笑むとミコトはひとり言の様に呟く。
 
 
 
 『アタシも、がんばって感想書かなくちゃ・・・。』
 
 
 
その横顔を、イツキは嬉しくて緩む頬を必死に誤魔化しながら見つめる。
そして、ボソっと声に出した。
 
 
 
 『きっと・・・

  作者は、お前のそれを励みに書いてるはずだから・・・

  別に・・・ 

  慌てなくても、急がなくてもいいから、感想伝えてやれよ・・・。』
 
 
 
『うんっ!!』 ミコトが今まで見せたことない様な笑顔で微笑んだ。
 
 
 

■第33話 誕生日の日付




それは英語の授業終了間際のことだった。


またしても嫌な課題を出していた英語教師が、授業終了後にノートを集める
係を選出しようと脂ぎってテカった頬を歪ませてニヤリと笑う。



 『じゃぁ~・・・

  ・・・今月誕生日のヤツ。 はい、その場で挙手っ!』



生徒たちは皆この教師の選出方法を愉しんでなどいないというのに、それに
気付かぬこの独身ハゲ頭は、まるでゲームのようにひとり意味不明に浮かれ
ている。 ”空気が読めない ”とはこうゆう人間のことを言うのだとみな
揃って露骨に嫌な顔をしていた。


”誕生日 ”というキーワードに、苦い顔をして渋々手を挙げるその中に
ミコトの顔もあったのを、イツキは見逃さなかった。
 
 
 
   (アイツ・・・ 今月、誕生日なんだ・・・?)
 
 
 
すると、教師が手を挙げた一人一人に何日生まれか言わせはじめた。

『13日です。』『5日~。』 そして、最後のひとりミコトが日付を
言おうとしたその顔を見て、教師は思い出したように告げる。
 
 
 
 『サエジマはこの間ノート係やったばかりから、免除だな。』
 
 

  
    ガタンっ!!
 
 
 
聞けると思って少しワクワクしていたミコトの誕生日をふいに流されて、
イツキは無意識のうちに膝で机の裏側を思い切り蹴り上げてしまった。
 
 
 
   (な、なんでだよ・・・ 言わせろよな・・・。)
 
 
 
自分が発してしまった大きな音に照れ隠しに慌ててヤル気がなさそうな
顔で机に突っ伏したイツキを、教師は目を眇めて視線を向け迷惑そうに
小さく舌打ちをする。
 
 
そして気が変わった様に『まぁ一応訊いとくか。 サエジマ、何日だ?』
 
教師のそれに、思い切り怪訝な顔を向けてミコトは呟いた。 『24。』
 
 
そんなのどうでもいいフリをして、興味ない顔をして、聞いてないテイで
机に突っ伏す気怠いイツキの机に隠れた顔はほんの少しニヤけていた。 
広げたノートの隅に小さく ”24 ”とメモると、その数字をシャープ
ペンシルの細い鉛色でグルグルと囲む。
 
 
 
  (誕生日かぁ・・・。)
 
 
 
ミコトになにかプレゼントしたい気持ちが急激に込み上げ溢れる。

今すぐにでも候補探しをしたい。 
自宅でパソコンに向かい ”JK 誕生日プレゼント ”で検索したい。
そして駅前のデパートに偵察に向かいたくて堪らないイツキのシャープ
ペンシルを掴む指先が、落ち着きなく高速でノートに黒点を記してゆく。  
 
 
 
  コツコツコツコツ コツコツコツコツ・・・
 
 
 
  (なにがいいんだろ、なにがいいんだろ・・・

   つか、女子にプレゼントなんかしたことねーしな、オレ・・・
 
    
   てか、その前に

   なんつって渡すんだよ・・・
 
 
   オレが急に誕生日にモノ渡したりしたら、

   アイツに100パー ドン引かれんじゃね・・・?)
 
 
 
  コツコツコツコツ コツコツコツコツ コツコツコツコツ コツコツコツコツ・・・
  コツコツコツコツ コツコツコツコツ コツコツコツコツ コツコツコツコツ・・・
 
 
 
すると、バコンという破裂音と共にイツキの頭頂部にまたしても鈍い痛みが
走った。 ”プレゼントを渡すなにか巧い理由 ”を考えあぐね悶々とする
その顔をムクっと上げると、例の如く教師が教科書を丸めてすぐ横に立ち
コツコツとペン先を打ち続けているイツキを睨んでいる。
 
 
 
 『うるっさいんだよ、カノーォウ・・・

  なにコツコツやってんだ、俺の授業の邪魔してくれるな!
 
 
  ・・・ノート係は、やっぱりお前な。』
 
 
 
その遣り取りに教室中に笑い声が響く中、最前列のソウスケも振り返って
笑っていた。

ソウスケの机に広げた几帳面にまとめられたノートの隅にも ”24 ”と
いう数字がしっかり記されていた。
 
 
 

■第34話 歪な三角形

 
 
 
それからも、ミコトは放課後になるとソウスケに誘われるがまま図書室に
向かっていた。
 
 
作者がソウスケではないと気付いた瞬間から、今までと同じ気持ちは抱け
なかったものの別にムキになって誘いを断る理由もなく、ただ流されるま
まにふたり放課後の廊下を静かな図書室へ向けて足を進めた。
 
 
ソウスケと教室の戸口を出てゆくミコトの背中を、イツキは睨むように
見つめる。

一瞬その刺さった視線にまるで痛みを感じた様にミコトが小さく振り返り
目が合った。 大慌てで気にしてないフリをして目を逸らしたイツキを、
ミコトはなにか言いたげに切なげに見つめる。
 
 
 
  (どうしよう・・・。)
 
 
 
中途半端なソウスケとの関係に、ミコトもどうしたらいいか分からぬまま
どうすることも出来ずに途方に暮れていた。
 
 
 
その日も、図書室のいつもの奥の方の席に並んで座ったふたり。

ソウスケが明らかになにかを言いたそうに、しかし口ごもって中々言葉を
発することが出来ないままチラチラと機会を伺ってミコトに視線を投げる。
 
 
『ん? どうかした??』 いい加減その要領を得ない感じに痺れを切ら
したミコトから、ほんの少し苛立ち気味に訊ねる。
すると、ソウスケはビクっと体を跳ね途端に顔を真っ赤に染めて意を決し
たように小さく心許なく呟いた。
 
 
 
 『あ、明後日・・・

  ・・・明後日も・・・ 放課後、図書室に寄れる・・・?』
 
 
 
『明後日??』 突然訊かれたそれに、ミコトは小首を傾げる。

大抵イツキからの新作が届かない日の放課後はソウスケと図書室に来て
いたのだが、事前に一緒に図書室へ行く約束をしたことは今まで一度も
無かったのだ。
 
 
『ん・・・ 多分、ダイジョウブだと思・・・』 言い掛けた瞬間、
ミコトはそれに気が付いた。 今日は22日、明後日は・・・
 
 
 
  (アタシ・・・ 誕生日だ・・・。)
 
 
 
まだ言い掛けのミコトにソウスケは更に真っ赤に染まった顔で、心から
嬉しそうに微笑む。 机の上で組んだ指先を絡めたり解いたり、ソウスケ
らしからぬその落ち着きのなさ。
『よかった・・・。』 なんだか目まで潤ませ、安心した顔を向けて。
 
 
 
  (ぁ・・・

   こないだ、英語んときに誕生日言わされたからか・・・。)
 
 
 
先日の英語の授業を思い出しながら、ミコトの頭にはイツキの顔が浮かん
でいた。
 
 
 
  (カノウは相変わらず突っ伏して寝てたんだろな・・・

   ・・・気付いてないか、アタシの誕生日なんか・・・。)
 
 
 
ソウスケの隣にいながら、イツキのことを考えていたミコト。
 
 
 
  (ほんっと、寝てばっかなんだから・・・
 
 
   ってゆーか、

   アイツが誕生日を知ってたとしても、別に・・・

   ・・・別に、アレだけど・・・。)
 
 
 
イツキのことばかり考えていた。

イツキの睨むような視線を思い出していた。
イツキのやわらかい情けない笑顔を思い出していた。
イツキのあたたかい流れるような文字を思い出していた。
 
 
その考え耽るような横顔をソウスケは伺うように横目でそっと見つめた。

一見自信なげなその目の奥には、強い意思と実は負けず嫌いな気質があり
ありと浮かび、訳も分からないまま込み上げるモヤモヤしたものに机の上
でやわらかく組んでいた指先をほどき、ぎゅっと拳をつくり握り締めた。
 
 
歪な三角形がイツキ、ミコトそしてソウスケの間に形を為しはじめていた。
 
 
 
 
その時、イツキは駅前の雑貨屋のレジに立っていた。

会計を済まし店員がそれをラッピングする間、ふらふらと店内を歩きなが
ら時間をつぶす。 手持無沙汰に商品を手に取ってみたりするものの早く
包み終わらないかチラチラとプレッシャーをかけるように視線を投げて。

そして、店員からやっと渡されたその可愛らしい包みを満足気に見つめ、
イツキは微笑んだ。
 
 
 
  (あとは、24の朝に新作を忍ばせとけば

   必然的にアイツは放課後に教室に残ることになるな・・・。)
 
 
 
片手にそれをしっかり掴んだまま、イツキは原稿を仕上げるため猛ダッシュ
で自宅へ帰った。
 
 
ミコトへ渡すプレゼントの愛らしい包みが、手の中でやさしく佇んでいた。
 
 
 

■第35話 新作を読むより優先する事柄

 
 
 
恐る恐る机の引出しに手を差し込み、ミコトは思わずぎゅっと目を瞑って
俯いたその朝。
 
 
 
その指先には、”それ ”の感触がある。
 
 
 
今日という日だけは、それが無いことを願っていた。
今日、24日は物語の新作が届いていないことを。
 
 
事前にソウスケと24日は図書室に寄る約束をしてしまったのに原稿
用紙が入った茶封筒はしっかりとその存在感を誇示する様にそこに在る。

ミコトが俯いて目を伏せると、既に登校していたソウスケが微笑みながら
近付いて来て言った。
 
 
 
 『今日・・・ 放課後、ダイジョウブだよね??』
 
 
 
『ぅ、うん・・・。』 思わず覚束ない沈んだ声色が出てしまい、
ミコトは慌ててソウスケに向け大袈裟に笑顔を作った。 満面の笑みを
返し満足気に頷いて自席に戻ってゆくその背中を、ミコトは困り果てた
ような表情で見つめていた。
 
 
するとその時、教室戸口をくぐりイツキがやって来た。

ガヤガヤと騒がしい朝のそこに、今朝も気怠い感じを醸し出し踵を擦る
音を響かせながら。 どこで時間をつぶしていたのか制服ズボンには埃が
付き汚れてしまっているのが見える。 ミコトの机に原稿用紙を忍ばせる
ために早く登校しているはずのイツキは、まるでたった今やって来たかの
ような顔をしていた。 その姿になんだか胸がきゅっと締め付けられ、
ミコトは慌てて駆け寄り学ランの腕を引っ張って再度廊下へと連れ出す。
 
 
『なん??』 朝イチでミコトにぐっと強く腕を引かれ、学ラン越しでも
ハッキリ分かる細い指先の感触に照れくさそうにせわしなく瞬きをする
イツキ。 ミコトは眉根をひそめて脳天気に頬を緩ますイツキへと小声で
呟いた。
 
 
 
 『し、新作が・・・ 机に入ってた・・・。』
 
 
 
『ぉ、おう! 良かったじゃん。』 ニヤリこれでもかと口角を上げる
上機嫌なイツキが目に入り、ミコトはどこか申し訳なさそうにその口許を
きゅっとしぼめる。
 
 
 
 『き、今日は・・・ ちょっと用事があって

  ・・・放課後、アタシ、 残れそうにないの・・・。』
 
 
 
『ぇ・・・。』 聴こえたそのひと言に、イツキは言葉を失った。

イツキの計画では、放課後に一緒に新作を読み、急に思い立ったように
誕生日の話をさり気なく切り出して、偶然を装ってプレゼントを渡そうと
思っていたのだ。

自分の計画が順調に進むイメージしかしていなかったイツキにはミコトが
放課後残れないなどというシナリオは全く以って想定外だった。
 
 
 
  (なんでだよ・・・。)
 
 
 
イツキはじっと足元に目を落としている。

ミコトが弱々しく上目遣いで見つめるも、決して目を合わせようとはしない。
イツキの耳が痛々しい程どんどん赤く染まっていくのを、ミコトはなにも
言えずに見ていた。
 
 
すると、いまだ学ランの腕を掴んだまま何か訴える様なミコトの華奢な手を
振り解くようにイツキはくるり冷たく背を向けて教室に入って行こうとする。
その瞬間、その背中は言った。
 
 
 
 『 ”ルール ”は守らなきゃいけねーんじゃなかったのかよ・・・。』
 
 
 
怒ってるような憂うようなその学ランの背中に、ミコトはなんと声を掛け
ていいか分からず、ただただ困惑した潤んだ目を向けていた。
 
 
 
 
 
その日一日、これでもかという程に不機嫌な感じを醸し出していたイツキ。

いつにも増して貧乏揺すりの音は大きく速く、広げたノートに落とすシャープ
ペンシルの芯は苛立つ気持ちに共鳴するように簡単にポキポキ折れる。

そして次第に、肩を落とししょぼくれてゆく背中。
 
 
ミコトが新作を読むより優先する事柄がなんなのかを悶々と考えあぐねていた。
 
 
 
  (誕生日だから、ってことだよな・・・?
 
 
   友達とパーティーでもすんのか?

   親が自宅でなんか準備でもしてるとか?
 
    
   それだって・・・

   ちょっと残る時間ぐらいつくれんだろ・・・。)
 
 
 
するとその時。
 
 
 
   ガタン!!
 
 
 
クラスメイトのひとりが10分の休憩時間に仲間とふざけ合っていた
ところ机にぶつかり、机横のフックにかけていたサブバッグが床に
落ちる音がした。

何気なく顔を上げ音がした方向に目を遣ると、それはソウスケの机
だったようだ。 ぶつかったクラスメイトが謝る姿の横に、平気だと
言うように軽く手を上げ微笑むソウスケの姿。 落ちたサブバッグから
転がった包みを拾い上げ、付いた汚れを手の平で丁寧に払っている。

  
 
 
   それを、見ていた。
 
 
 
イツキの目に映ったもの。
それは、小奇麗にラッピングされた包装紙の包み。
 
 
 
  (ぇ・・・。

   ・・・ミスギと、って事か・・・?)
 
 
 
咄嗟にミコトに視線を向けると、ミコトと目が合った。

バツが悪そうに慌てて目を逸らし赤い顔をしたミコトが目に入り、イツキは
ガバっと机に突っ伏す。 握り締めた拳が机の上でやり場なく震える。
 
 
 
  (くそっ・・・ くそっ・・・ くそっ・・・。)
 
 
 
『なんだよ・・・。』 
思わず漏れた一言が、突っ伏した上半身と机の隙間にくぐもって響いた。
 
 
 

■第36話 プレゼント

 
 
 
放課後。 
相変わらず静まり返った図書室に、どこか居場所なげに並んで座るふたり。
 
 
なにかを察している気配は互いに伝わり、しかしどちらも切り出す事が
出来ずただただ手持無沙汰に本のページをめくったり戻ったりしていた。

ソウスケがやたら大切そうに抱えるサブバッグのチャックに、指を掛け
かけて止まる。 思わずミコトはその動作を横目で盗み見て、慌てて前を
向き気付いていないフリをした。 
 
 
 
  (迷惑だったら、どうしよう・・・

   ・・・貰ってくれるかな・・・ サエジマさん・・・。)
 
 
 
すると意を決したようにひとつ息をつき、ソウスケはサブバッグを膝の
上に置き直してチャックをスライドし中から可愛らしい包みを取り出す。
それをまっすぐミコトに差し出すと、ゴクリという息を呑む音が響いた。
 
 
 
 『た、誕生日・・・ おめでとう・・・。』
 
 
 
気の毒なほど真っ赤になって目まで潤んでいるソウスケの顔を、ミコトは
まっすぐ見ることが出来なくて、慌てて目を逸らし両手を出してしずしず
とそれを受け取る。
 
 
『ぁ、ありがとう・・・。』 ミコトはペコリ頷くと小さく目を上げた。

誕生日のプレゼントなど今まで何度も貰ったことはあるけれど、こんなに
照れくさそうに真っ赤になられた事はない。 ソウスケが赤面する理由を
考え自意識過剰ではないはずだと、ミコトは手の中の包みを見つめた。

きっと内気で奥手なソウスケのことだ、女の子にプレゼントを渡すなんて
生まれてはじめてのことだろう。 渡されたそれは、ソウスケの緊張から
くる手汗で少ししっとりしていた。
 
 
有難いという素直な気持ちに混ざり、申し訳ないという本音が顔を出す。

手の中で佇むソウスケからのそのやさしい重みを、肩を落としたように
微動だにせずじっと見つめているミコト。
いつまで経ってもそれを開けて見ようとしない様子に、ソウスケが言い訳
する様にやたら早口でまくし立てた。
 
 
 
 『ほら! この間、授業中に誕生日言わされてたでしょ・・・?

  だから・・・ あの・・・ いつも一緒に図書室に来てるし・・・
 
 
  図書室付き合ってもらってお世話になってるってゆーか・・・

  ・・・サエジマさん、本、好きだし・・・
 
 
  だから、あの・・・ それ、今すごい流行ってる推理小説なんだ!

  すごい面白かったから・・・ だから、あの・・・。』
 
 
 
『ありがと・・・。』 声のトーンを落とすことも忘れるくらい余裕が
なくなって息荒く畳み掛ける、いつもは冷静なはずのソウスケをミコトは
小さく微笑んで見つめた。

可愛いラッピングの包みをそっと開き、中からハードカバーを取り出すと
その硬い表紙をそっと指先で撫でる。
 
 
 
  (アタシ・・・ 

   ・・・推理小説なんか、ゼンゼン読まないんだけどな・・・。)
 
 
 
ソウスケがくれた今テレビや雑誌で話題の推理小説。
確かナントカ賞も受賞した有名作家の作品で、本屋に平積みになっていた。
 
 
それをぼんやり見つめていた。
 
 
見つめながら、机の上に置いたカバンの中に大切に大切に忍ばせた茶封筒を
想った。 朝早くミコトの机に忍ばされたそれを、そっと。

大好きな恋愛モノのそのお話を、イツキが懸命に綴るその原稿を、やわらかい
えんぴつのその文字を、怒ったような今朝のイツキの顔を。 
 
 
ミコトは想って、思わず泣きそうになった。
 
 
 
  (ふたりで・・・ 早く読みたいな・・・。)
 
 
 
そっと窓辺に目を向けると、今日は目映い程の夕日は雲の陰に隠れて姿を
見せてはくれなかった。
 
 
 

■第37話 耳に聴こえたその低い声

 
 
 
ソウスケと校門前で別れると、もうすっかり日は暮れ空にはうっすらと
星が輝きはじめていた。
 
 
さすがにもう帰りたいとも言い出せず、図書室が閉館になるまでふたりで
そこにいた。

正直、なにを話したのかもよく覚えていない。
ソウスケが相変わらず赤い顔をして、息継ぎをするのを忘れてしまって
いるのではないかというくらいに喋り続けていた事だけ、ぼんやりと。

  
 
ただただ、1秒でも早く茶封筒の中身を取り出したかった。

ただただ、1秒でも早くイツキが懸命に書いた新作を読みたかった。
 
 
 
  イツキとふたりで、読みたかった・・・
 
 
 
  (怒ってるかな・・・。)
 
 
 
散々イツキには偉そうにルール云々言っておいて、自分はアッサリと
それを破った事にミコトはしょぼくれて自転車を押しながらトボトボと
歩く。 背中から差し込むまだ弱々しい若い月あかりが小さく心許ない
セーラー服を照らし、目の前に伸びる自分のその寂しげな影に余計不安
を煽られるようで。 

いつもイツキがしているように踵を擦って力無く足先を進めると、アス
ファルトが立てる乾いた音がやけに胸に沁みた。
 
 
 
  (電話・・・ 

   ・・・してみようかな・・・。)
 
 
 
迷子のこどもの様に伏し目がちに歩みを進めていたミコトは、丁度先日
イツキとふたりで来た公園前に差し掛かった辺りで足を止めた。
公園出入口の生垣前に自転車を停める。 
そこには置き忘れられた錆びた自転車が物哀しく一台倒れている。

ミコトはカバンからケータイを取り出してその登録先をじっと見つめた。
 
 
 
  ”カノウ ”
 
 
 
なにも意識しないで掛けられたはずのそのケータイ番号は、何故か今中々
タップ出来ずにミコトの細い指先を宙に浮かせる。
 
 
 
  (やっぱ、怒ってるかもしれないよね・・・。)
 
 
 
ミコトの誕生日に敢えて新作を準備してくれた、その意味合いを考えた。

もしかしたら、ただの自意識過剰な勘違いかもしれない。
ただ、たまたま24日と重なった単なる偶然かもしれない。

でも、あのイツキの怒ったような顔を思い出すとミコトの心が波立った。
あの、泣きそうなのを必死に我慢しているような、イツキの哀しい顔を。
 
 
 
 
ひとつ大きく息をつくと、震える指先で思い切ってそれをタップした。

公園の生垣にそっと寄り掛かって顔を少し上げ、茜色から藍色に変わった
空を見上げる。 不安と憂いが大きな鼓動となって、ミコトの小さな胸を
これでもかというくらい打ち付ける。
 
 
すると、ミコトが耳に当てるケータイのコール音に混ざって、公園内から
ジャストタイミングでケータイの着信音が小さく聴こえた気がした。
しかし然程気にすることもなく、ミコトは電話の向こうの気配を伺う。
 
 
『も、もしもし・・・?』 ミコトの耳に聴こえたその低い声が、まるで
海外との時差のようにケータイの向こうと、公園の中からほんの少し被って
聴こえている。

『あれ・・・? 今、どこ??』 状況が把握できずキョロキョロと辺りを
見回すミコトに、イツキは不貞腐れたように照れ隠しのようにボソっと低く
呟いた。
 
 
 
 『・・・こないだの、 公園・・・。』 
 
 
 

■第38話 格好つけたがるその不器用な姿

 
 
 
  (公園・・・??)
 
 
ミコトは生垣から腰を上げると、ケータイを耳に当てたまま公園内に
飛び込んだ。

然程大きい公園ではない、そこ。 ありふれた遊具と、中央の噴水。 
そして、先日ふたりで座ったベンチにイツキがケータイを耳に当て背中
を丸めて座っているのが見えた。
 
 
俯いてミコトと通話しているイツキは、公園出入口にミコトがいる事に
気付いていない。 ベンチから投げ出した薄汚れたスニーカーの足を蹴
とばすように前に出し、なんだかすねた迷子のこどもの様にうら寂しげ
に背中を丸めている。
 
 
ミコトは咄嗟に出入口の生垣に身を潜め、こっそり様子を伺いつつ通話
を続けた。
 
 
 
 『なんで公園にいるのよ・・・?』
 
 
 『いや、別に・・・
 
  ・・・ただちょっと・・・ 散歩、っつーか・・・。』
 
 
 
明らかに学校帰りの学ラン姿で、ぼんやりとベンチに座るイツキをミコト
はそっと見つめる。
 
 
 
  (ずっと、待っててくれたのかな・・・。)
 
 
 
急に胸に込み上げた正体不明の熱いものに、鼻の奥がツンとして眉根を
ひそめた。 そっとケータイを口許から離して、大きく深呼吸をする。
 
 
 
 『今日は・・・ ごめんね・・・

  ・・・ルール、破っちゃって・・・。』
 
 
 
普段は決して非を認めない勝気なミコトの口から出た素直なそれに、
イツキはかなり戸惑った。 耳に聴こえたその声色はなんだか涙声のよう
にも感じて。
 
 
 
 『いや、あの・・・ 別に。

  ・・・つか、 今朝はオレもちょっと、アレだったし・・・。』
 
 
 
こっそり隠れて見つめるミコトの目に、イツキが照れくさそうにガシガシ
と後頭部を掻いているのが映る。 その飾らない姿に、思わず頬が緩んだ。
 
 
すると、小さくミコトは呟いた。
 
 
 
 『今から、公園行く・・・

  ・・・丁度、すぐ近くにいるから・・・。』
 
 
 
言った瞬間、自分でも一気に頬の熱が上がるのが分かった。
 
ケータイを当てる耳も、指先もなにもかもがジリジリ熱い。
なんだかその熱は目にまで沁みる様で、せわしなく瞬きを繰り返すミコト。
 
 
 
 『あぁ! ぅ、うん・・・ わかった。
 
  ・・・まだ、あの・・・ 

  ゼンゼン・・・ オレもここに、いるし・・・。』
 
 
 
再びそっとイツキに目を遣ると、なんだか落ち着きなくカバンに手を突っ
込んでいる。
 
 
不思議そうに小首を傾げそれをじっと見つめるミコト。

すると、その目に映ったもの。
 
 
それはイツキの大きな手に握られ現れた可愛らしい小さな包みだった。
 
それを制服ズボンのポケットに押し込んでみたり、学ランの内ポケットに
しまってみたり、そうかと思うと再びカバンに押し込めたり。
 
 
ミコトはそれを、生垣の陰からまっすぐ見ていた。
格好悪いくせに格好つけたがるその不器用な姿を、じっと。
 
 
 
  (もう・・・ なんなのよ、ほんと・・・。)
 
 
 
イツキとまだ繋がっているケータイを胸にそっと押し付けて抱くと、
ミコトはぎゅっと目を閉じた。 

その瞬間、ずっと我慢していた透明な雫がひと粒、頬を伝い転がった。
 
 
 

■第39話 制服ズボンのポケット


 
  
程なく公園に現れたミコトの姿に、一瞬嬉しくて堪らない顔を向け慌てて
イツキはポーカーフェイスを装った。

頬筋の上下がめまぐるしくて、それは筋肉痛でも起こしそうに思える程で。
 
 
 
ゆっくりまっすぐイツキに向かってやって来るミコトは、なんだかやけに
やわらかい空気をまとっていて、思わず見惚れてしまう。
歩くリズムに、顎の長さで切り揃えられた黒髪が小さく跳ね揺れる。

そして照れくさそうに、呟いた。 『・・・お待たせ。』
 
 
 
 『いや、 オレも・・・

  お前から電話もらった直前に、

  ・・・ゼンゼン、あの・・・ 来たばっか、だし・・・。』
 
 
 
そう言い訳めいたイツキの足元には、空になったペットボトルが2本あり
その内1本は倒れてベンチの陰に転がっている。

来たばかりにしては随分飲み過ぎのその空いたボトルをこっそり見つめ、
ミコトは胸をきゅっと締め付ける痛みに小さく微笑んだ。
 
 
イツキの隣にそっと腰掛けるミコト。

一旦立ち上がったイツキも、同じように再び座った。
相変わらず微妙に間隔をあけたそのふたりの距離。 互い、まっすぐ目の
前の遊具を見つめたまま、なにか言いたげにしかし何も切り出せずに黙っ
ていた。
 
 
すると、ふとミコトのサブバッグから覗く小奇麗なラッピングの包みに目
を奪われたイツキ。 咄嗟に視線を逸らすも、それが気になって気になっ
て仕方がなくて、その黒目は何往復もチラチラとせわしなく移動する。
 
 
 
 『ミ、ミスギと・・・ また、図書室・・・?』
 
 
 
そんなの気になどしていないテイを最大限装ったつもりだった。

しかし喉の奥から出た声は、自分が思った以上に怯えたように震えて発せ
られイツキは慌てて誤魔化しの咳払いをして、喉の調子が悪いフリをした。
指先で喉仏のあたりを押さえて、小さく小首を傾げて。
 
 
『ん・・・。』 ミコトはあまり話したくないその話題に、一拍遅れて
小さく頷く。 なんだか顔は上げられない、イツキの目を見られない。
 
 
 
 『あー・・・ そういや、お前・・・ 

  あの、こないだの英語で、

  誕生日とかなんとかゆってたもんなぁー・・・。』
 
 
 
言った後に、慌てて続けた。 『ぜんっぜん、忘れてたけどー・・・。』
 
 
イツキが制服ズボンのポケットに突っ込んだままの手が行き場なく彷徨う。

その手に掴んでいるものは、ミコトへ渡すつもりの誕生日プレゼントで。
本が好きなミコトへと、散々悩みまくってやっと買った四つ葉のクローバー
の付いた小さなしおりが女子向けに可愛くラッピングされ、どんどん汗ばん
でゆく手に握られていた。
 
 
 
 『ミスギから・・・ 貰ったの? ナンか・・・。』
 
 
 
聞きたくなんかないのに、どうしても訊いてしまう。
ミスギは何を渡したのか、それをミコトはどんな風に喜んだのか、どんな顔
で微笑んだのか。
 
 
ミコトの返事も待たずに、イツキはひとり勝手に続ける。
 
 
 
 『いや~、マジで・・・ よ、よかったじゃん・・・。』
 
 
 
そして、ポケットから取り出そうとしたそれを再び奥に押し込めて、諦めた
様に手だけ出した。

その様子を横目で見て、ミコトは一気に涙が込み上げた。 慌てて顔を背け
るも胸を締め付ける歯がゆい痛みは喉元までせり上がり息苦しい程で。
 
 
 
  (なによ、バカ・・・

   さっさとくれればいいのに・・・。)
 
 
 
ふたりの間にどうしようもなく居心地の悪い空気が流れる。
ジリジリとまとわりつく得体の知れないものに、互い泣きそうな顔で俯いた。
 
 
すると、イツキが勢いよく立ちあがりズンズンと真っ直ぐ進んで行った。

砂利を蹴り上げるように歩くスニーカーは、その靴裏をベンチにひとり
残したミコトに見せながら、踏み締める音を大きく響かせて。

そして自販機の前に立つと尻ポケットに手を掛けた。 おもむろに財布を
取り出すとチャックを開けて硬貨を掴み、自販機のコイン投入口にそれを
数枚入れる。 親指でそっとそのボタンを押すと、取出口に手を入れペット
ボトルを掴み取り出した。
 
 
踵を返してミコトの方へ戻って来ると、イツキは乱暴にそのボトルを掴んだ
手を差し出した。
 
 
『ん。 誕生日なんだろ・・・?』 そう言って押し付けたそれは、先日
この公園で飲んだ ”みるくたっぷりミルクティ ”だった。
ミコトが ”これ一番すきなの ”と言っていた、それ。
 
 
思わずそれをじっと見つめて、ミコトはぷっと吹き出し笑う。
 
 
 
 『誕生日プレゼントが、これ~・・・?』
 
 
 
可笑しそうに愉しそうに肩をすくめてクスクス笑い続けている。

その笑顔を見つめ、イツキはつられて微笑みそうになりかけて慌てて憎まれ
口を叩き返す。
 
 
『有難く思えよっ!! バーカ。』 言い切って、やはり我慢出来ずに微笑
んだ。 目の前の小憎たらしいセーラー服に愛しくて堪らない視線を向け。
 
 
ミコトは、イツキのプレゼントで膨らんだ制服ズボンのポケットをそっと
盗み見ていた。 照れくさくて勇気がなくて、結局ミコトに渡せそうにない
そのプレゼントの膨らみを。
 
 
 
  (バっカみたい・・・ 

   せっかく準備してくれたっていうのに・・・。)
 
 
 
すると、ミコトがまっすぐイツキを見つめて呟いた。
 
 
 
 『ありがと・・・

  嬉しいよ。 一っ番、嬉しいかも・・・。』
 
 
 
その瞬間、互いに、気持ちが重なったように感じていた。
 
 
 

■第40話 四つ葉のクローバー

 
 
 
照れくさそうにふたりベンチに並んで座ってドリンクを飲みながら
ミコトはイツキの制服ズボンのポケットからほんの少しだけ覗く、
可愛らしい包みを横目でチラチラ見ていた。
 
 
 
  (ちょーだいよねぇ・・・ もぅ・・・。)
 
 
 
思わず我慢できなくなって、思い切ってミコトは手を伸ばした。
そして指先でカラフルなラッピングペーパーの先端を摘み引っこ抜く。

『ん??』 ポケットの中身が動く感触に、イツキがギョっとして目を
遣るとミコトが夏休みのこどものようなキラキラした目をして言った。
 
 
 
 『なにコレ?! アンタの??』
 
 
 
目の高さに上げて小さな包みを微笑みながら見つめている。
 
 
『ぇ、あ。 ん・・・ いや、ん。』 慌てまくって煮え切らない
反応しか返せないイツキに、ミコトは更に詰め寄る。
 
 
 
 『え~・・・ 

  いいなぁ、可愛いなぁ~・・・ いいなぁ~・・・。』
 
 
 
かなり大袈裟に声を上げ、包みを色々な角度から眺めてみる。

チラリ、イツキを盗み見て半笑いでその反応をこっそり伺っている事に
未だ絶賛・シドロモドロ中のイツキは全く気付いていない。
 
 
その時、イツキは棚ぼた的流れにただただ驚いていた。

ミコトに渡したくて用意していたプレゼント。 しかし渡す勇気もなけ
ればそのタイミングも。 その前に、受け取ってもらえるかも分からず
ミルクティをあげられた事だけでもう充分だと諦めていたのに。
 
 
 
  (な、なんだこの流れ・・・

   ”棚ぼた ”っつーより、”天ケーキ ”じゃね??

   オレ・・・ どんだけオコナイ良いの・・・??)
 
 
 
そして、たった今思い付いたかのように呟いた。
 
 
 
  『ぇ、あの・・・ 

   ・・・やろうか・・・? オレ、別に要らねーし・・・

   や、やるよ・・・ お前に・・・。』
 
 
 
ミコトへ向けて勇気を振りしぼってボソっと呟いた瞬間 ”しまった!”
と言う顔をして俯いた。 まるで不要品だからあげるみたいな言い方で
勝気なミコトの気に障るに違いない。 また怒らせてしまうかもと、
情けない困り顔をして首の後ろに手を置きガシガシ掻きながら、怒鳴ら
れる覚悟を決め身構えた。 身構えながらも、ミコトが怒るときに必ず
できる愛しい眉間のシワを想って、ちょっとニヤそうになるのを堪える。
 
 
すると、即座にミコトはそれに答えた。 『ほんとっ?!』

この流れを想定して掛けたひと言だったのだ、ここでYESと言わない
はずはない。 やっと自分の手の平の中にやって来た可愛い小さな包みに
ミコトは嬉しそうにはしゃぎながら目を細めて微笑んでいる。
 
 
 
 『ぁ、ああ! ほら、丁度・・・ お前 誕生日だし、な・・・

  丁度いいっちゃー、丁度いいわ。 うん、丁度いい・・・。』
 
 
 
怒鳴られるはずがその真逆の展開に、イツキは目を落としていた汚れた
スニーカーの爪先から目を見張って顔を上げる。 ミコトの笑顔を見つめ
嬉しくて堪らず、ポーカーフェイスを装うのも忘れるくらいにイツキも
微笑んだ。
 
 
『中、見てもいい?』 言ってから、ミコトは照れくさそうに俯く。

中身を欲しがるのが普通であって、ただラッピングが可愛いからと言って
こんなに欲しがるのは無理があったかもしれない。 しかし、鈍感でアホ
なイツキのことだ、この少し無理がある展開にも気付きはしないだろう。
 
 
丁寧に慎重に可愛らしいラッピングの包みを開けてみると、ミコトの指先
にやさしく摘まれて出て来たのは、四つ葉のクローバーのしおり。

それは、銀色の金属製しおりで本のページに引っ掛けると四つ葉が背文字
部分に垂れて可愛らしく佇むもので。 四つ葉はアクリルコーティングが
されていて硝子のように明るく光り水滴がついているかの如く瑞々しい。
 
 
指先でチョンとつつくと、小さな輝く四つ葉が照れくさそうに揺れた。
ミコトは、瞬きも忘れてそれを見ていた。
 
 
 

■第41話 イツキの誕生日

 
 
 
ミコトは、瞬きも忘れてそれを見ていた。
 
 
その瞬間、急激に涙が込み上げる。
鼻の奥がツンとして痛いほどで、ほんの少し顔をしかめた。
 
 
四つ葉を見つめながら、これを買いに行ったイツキを想像していた。

こんな気怠い猫背の学ランが、女子向けの可愛らしいお店に恥ずかしそう
に足を踏み入れる場面を想う。 ギャルのような店員だったらなにか質問
するのでさえ一苦労だったろう。 

テンパってイッパイイッパイになり、汗だくの真っ赤な顔をしているイツキ
を想う。 これを手に取った瞬間のイツキの満足気な顔を想う。 会計を済
ませ包みを受け取った時のイツキの意気揚々とした背中を想う。
 
 
そして、今日一日これを忍ばせていたくせに自分からは渡せず仕舞いだった
イツキの気持ちを想った。
 
 
 
  (バカなんだから・・・。)
 
 
 
瞬きをしたら涙がこぼれてしまう。
ミコトは必死にそうならない様、目を開け続けて堪えた。
 
 
もしそれを見られてしまったら、ミコトの ”気持ち ”に気付くだろうか。

いや、イツキは困惑するに違いない。 慌てて困り果てるに決まっている。
鈍感なイツキはミコトの涙の理由など気付けるはずもないのだから。
 
 
そう考えて、ミコトは心の中で驚いていた。
 
 
  
      ”気持ち ”
 
 
 
ミコトの気持ち。
本当の気持ち。
隠している気持ち。
 
 
 
  (アタシ・・・ カノウのこと、好きなんだ・・・。)
 
 
 
ハッキリと心に刻まれた、その想い。

ミコトは自分で自分に驚いて、そして動揺した。
ジリジリと顔も耳も熱くなってゆく。 しおりを掴む指先まで熱をもち、
シルバーのそれが曇りそうに思える程で。
 
 
 
  (・・・好き、なんだ・・・。)
 
 
 
胸をきゅぅぅううっと締め付ける歯がゆさに、ミコトはそっと目を閉じた。
その瞬間、堪え切れずに透明な雫はローファーの爪先にひと粒落ちた。
 
 
 
ミコトはそれに気付かれぬよう、咄嗟に手の甲で頬を拭い大仰に声を張る。
 
 
 
 『アンタは・・・? アンタは、いつ? ・・・誕生日。』
 
 
 
すると、突然訊かれたそれにイツキはなんだか言いたく無さそうに思える
渋い表情で口ごもった。

『なに?いつよ??』 誕生日を言いたくない理由が分からず、少し苛立つ
声色でミコトは更に問いただす。 『なんで言わないのよっ??』

『なによっ・・・?』 イツキの二の腕を指先で軽く押し遣ったミコト。
すると、ボソっと蚊の鳴くようなボリュームでそれは聴こえた。
 
 
 
 『・・・14。』
 
 
 
『14日? ・・・何月のよ??』 遂にイライラがハッキリ声に出る。

イツキはミコトの眉間のシワに一瞬目を遣り、しずしずと口を開いた。
 
 
 
 『・・・・・・・・・・・・・・・・・・2月。』
 
 
 
『2月っ???』 ミコトの喉から裏返るだけ裏返った声色が出た。
 
 
 
 『2月14日?? バレンタインの??』
 
 
 
何度も何度も ”2月14日 ”と繰り返して、ミコトは腹を抱えて笑い
出した。 上半身を折り曲げてケラケラと可笑しくて堪らなそうに。
 
イツキはこんな反応が返って来るのを分かって、言いたく無さそうにした
というのに、そんな気持ちなど察してはくれないミコトに押し切られ結局
は口を割ったのだった。
 
 
散々笑い続け、呼吸困難でも起こしそうなミコトが笑い声の隙間をぬって
やっとの事で言葉を発した。 『ダッサ~・・・。』 そしてまた笑う。
 
 
 
 『ダサいってナンだよっ!!

  誕生日にダサいも、ダサくないもねーだろがっ!!』
 
 
 
赤くなってムキになるイツキ。

その反応が可笑しくて、またミコトは笑ってしまう。 立っているのも
ツラくなってしゃがみ込み、ベンチにしがみ付くようにしてまだ笑う。
 
 
 
 『Wの悲劇だわね。』
 
 
 
言って、またミコトは笑った。

笑い過ぎて涙が流れて、頬に髪の毛が数本張り付いているというのに
それすら気にせずに笑いまくる。
 
 
すると、増々ムキになったイツキ。 立ったままその片足はカタカタと
貧乏揺すりを刻んでいる。 踏み締められる足元の砂利がスニーカーの
靴底に擦れてシャリシャリと音が鳴る。
 
 
 
 『べ、別に・・・
 
  ・・・オレ、甘いモンとか ぜんっぜん嫌いだしっ!!』
 
 
 
再びミコトから大笑いする声が飛び出す。
 
 
 
 『言い訳、ダッサ~!!!』
 
 
 
もうギブアップとばかりに笑い過ぎの腹の痛みに顔を歪めるミコトを、
イツキは怒ったような照れているような顔で見つめた。

サラサラの艶のある黒髪が笑うリズムに小さく揺れ、ほのかな月明かりに
瑞々しく輝いている。
それを見つめていたら、思わず触れてみたい衝動が胸に込み上げた。 
 
 
そっと手を伸ばして触れようとして我に返り、ギリギリのところで踏み
止まった。 行き場をなくした指先が歯がゆく空を彷徨う。

そして、手の平で軽くやさしくポンっと頭頂部を叩いてみた。
 
 
『いつまで笑ってんだ! 帰るぞ。』 照れくさ過ぎてミコトを見れない。

頬が熱い。 はじめて手の平に感じたミコトの髪の毛の感触に、わずかに
震える手を慌ててズボンのポケットへ突っ込み隠す。
 
 
 
その瞬間、笑い声はやんだ。
 
 
 
ミコトも切なげな真っ赤な顔をしていることに、イツキは気付けずにいた
穏やかでやさしい宵の口だった。
 
 
 

■第42話 忘れ物

 
 
 
それからというもの、互いの気持ちは通じ合っているというのにそれに
ひとり気付かないイツキは、なんとももどかしい距離のまま日々を過ごし
ていた。
 
 
授業中も教科書などそっちのけでミコトの華奢な背中を見つめる。

細いセーラーの肩、ノートをとる時に少し傾げた背中のカーブ、顎の長さで
揺れる黒髪の毛先。 
 
 
ずっと見ていたかった。
毎分毎秒、ミコトの全部を目に焼き付けたかった。
 
 
教師からプリントが配られ、最前列の生徒から後方の席へ順々にまわして
ゆく。 それにも気付かずに、イツキはミコトの方を片肘ついてぼんやり
見ていた。 ぽっかりと口は開いたまま、埴輪のような顔を向けて。

すると、前席のクラスメイトから渡されたプリントをミコトが後席へ渡そう
と腰を捻って半身後ろ向きになった瞬間、イツキと目が合った。
 
 
  
  ふたり、一瞬固まる。
 
 
 
慌てて目を逸らすミコトと、咄嗟に俯くイツキ。
 
 
 
  (やべぇ・・・ 見てんのバレたかな・・・。)
 
 
  (こっち、見てた・・・?)
 
 
 
動揺して照れくさそうに眉根をひそめ小さく息をつくと、まるで怖いもの
見たさの様に互い同時にもう一度こっそり相手に目を向けた。
 
 
 
  再び、バッチリ目が合った。
 
 
 
ミコトは瞬時に前を向き教科書で顔を隠し、イツキは90度首を反って天井を
見上げる。 互いの耳が同じ色に染まり、心臓が同じ速さで脈打っていた。
 
 
 
 
その日の放課後、掃除当番だったミコトはモップ掛けをする為に各机を
ダルそうに後方に下げていた。 

当番の生徒の一人が窓を開け放ち、身を乗り出して両手に掴んだ黒板消しを
ボフボフと叩き付け粉を落としている。 女子二人組は仲良くゴミ箱の端を
掴みゴミステーションまで運ぶために教室を出て行った。
 
 
 
  (わざわざ机下げなくても、

   机の間だけチャチャっとモップ掛ければよくなーい・・・?)
 
 
 
心の中で文句タラタラ言いつつ、そっと机端に手を掛け軽く持ち上げ斜めに
なった瞬間ケータイが滑り落ちた。 カチャンと音が鳴り、床面に転がる。

それを屈んで拾い上げ、ミコトはそれがイツキの机だった事に気が付いた。
 
 
今日は新作が机に忍ばされていなかった為、イツキはどこか後ろ髪を引かれ
る様な面持ちで一瞬振り返り、先程教室を出て帰って行ったのを思い出す。

ミコトはケータイを片手に掴むと、机の間をぬう様に教室の窓側へと駆け出
した。 そして窓を開け放ち転落防止柵に上半身をもたれて、少し身を乗り
出し通学路を進む制服の群れにその姿を探す。
 
 
 
  (もう帰っちゃったかな・・・。)
 
 
 
通学路脇に背の高いヒメジョオンの白い花が揺らめく中、友達と帰る姿、
仲良さそうにカップルで歩く姿、自転車で颯爽と進む姿。

その中にひとり気怠く踵を引き摺って歩く、学ランを見つけた。
 
 
 
 『カノーーーーーーーーーオ!!!』
 
 
 
ミコトはケータイを掴む片手を上げて大きく振り、イツキに呼び掛ける。

その顔はやけに嬉しそうに愉しそうに、声色は軽やかに弾んで。
突然大声で名を叫びだしたミコトに、同じ掃除当番の面々が驚いて何事か
と見ている。
 
 
 
 『カーーノォォォオオオオオオオオオオ!!!』
 
 
 
もう一度叫ぶと、通学路で足を止めキョロキョロと辺りを見回し確かに
自分の名が呼ばれたそれに挙動不審にイツキが戸惑う姿が見えた。
ミコトは肩をすくめクスっと小さく微笑んで、もう一度呼び掛ける。
 
 
『カノー!!! こっちこっち!!』 決して聴き間違えるはずのない
ミコトの声に、イツキは2階の自分の教室の窓を遠く見澄ました。
 
そして、それがやはりミコトだと判明すると、驚きつつも嬉しそうに校舎
へと慌てて駆け戻る。
 
 
『なんだよ?』 照れているのがバレないよう出来る限りの飄々とした顔を
作ったつもりだったものの、みんなの前でこんな風に大声で名を呼ばれて、
やはりイツキの頬はどうしてもだらしなく緩む。 2階の窓から身を乗り出
すミコトを、イツキは階下から首を思い切り反って見上げた。 
 
 
すると、ミコトは笑いながら言った。
 
『アンタ、ケータイ忘れてるよ~!』 片手に掴んだケータイを転落防止柵
の間から伸ばして、ゆらゆらと揺らして階下のイツキに見せた。

『ん??』 イツキはカバンの中をざっと確かめて本当にそれが無いことに
気付くと、『まじかー・・・。』 再びミコトを見上げてボソっと呟いた。
 
 
 
 『ダリぃ~・・・。』
 
 
 
もう一度靴箱へ戻り内履きに履き替えて、2階の教室へ向かう覚悟を決めた
ダルそうなイツキへ、ミコトが笑いながら声を掛けた。 
『ほらっ、投げるよ~!!!』
 
 
始球式のアイドルの様に ”女の子投げ ”でぎこちなく大きく振りかぶって
今にもケータイを窓から放り投げるポーズを取るミコト。
 
 
『ばばばばかっ!!! やめろって!!』 もし巧くキャッチ出来なかったり
悪送球の場合、硬いアスファルトに叩き付けられたケータイが壊れるのは火を
見るよりも明らかで。 窓の下で慌てふためくイツキの姿に、振りかぶった
ポーズで一時停止し満足気にミコトはケラケラと笑い声を上げる。
 
 
 
 『なんつって~ぇ・・・!』
 
 
 
クスクスとまだ肩をすくめて笑っている無邪気なミコトを、イツキは一瞬睨む
ように眇め口を尖らせ、そしてその刹那目を奪われた様にまっすぐ見つめた。
思い切り、その眩しい笑顔に見惚れていた。
 
 
すると、更に窓から身を乗り出してミコトがケータイを掴む手をゆらゆら振る。
 
 
 
 『昇降口まで戻って来て。 持ってってあげるから!』
 
 
 
ミコトがやわらかく微笑んだ。
 
 
 

■第43話 不完全燃焼のキモチ

 
 
 
気恥ずかしくて緩んでいく頬を堪えきれないまま、イツキはダッシュして
昇降口まで駆け戻った。

すると同時にミコトも肩口のセーラーを翻し、パタパタと内履きの靴音を
響かせやって来た靴箱付近は、下校する生徒がまだまだ多い時間帯。
邪魔にならないよう昇降口の端に移動すると、ふたり、やけに照れくさ
そうに向き合ったまま黙った。
 
 
昇降口脇には水道の蛇口に繋がれたままの緑色ホースがだらしなくダランと
垂れ、横長のプランターにはパンジーの花が退屈そうに佇んでいる。
 
 
別に珍しくもないそれらに必死に目を向けているふたり。
 
その恥ずかしくて仕方ない空気を払拭しようと、ミコトがわざとツンと顎を
上げケータイを掴む手をイツキの脂ぎった鼻の前に突き出す。
 
 
 
 『ミルクティ1本ね。』
 
 
 
『あぁ?!』 ミコトからケータイを受け取ると、イツキは半笑いで
ミコトから飛び出した ”お礼 ”という名の強引な要求に異議を唱える。

ミコトも笑いそうになるのを必死に堪え真顔を作り、まっとうな要求だと
言わんばかりに胸を張って目を眇めた。
 
 
 
 『あー・・・ 口に出したら飲みたくなった~・・・

  早くおごってよ!! ほら、行くわよ 公園っ!!』
 
 
 
『今っ???』 ミコトの傍若無人な言動に、目を見張りせわしなく瞬き
をする。 しかし、そんなミコトらしい我がままさえ愛おしくて堪らない。
 
 
『そう、今! ほら、早くぅ!!』 その場で足踏みするように急かす
ミコトに我慢出来ずにイツキはぷっと吹き出した。
  
 
 
 『オレの小遣いが、お前のミルクティ代で消えるじゃねーかよっ!!』
 
 
 
そう憎まれ口を叩く割りには、その頬はだらしなく緩んでゆく。

そして尻ポケットに入れている財布を確認しようとして、そこには何も
無いことに気が付いた。
 
 
 
  (ぁ・・・。)
 
 
 
『てか、オレ 今日財布忘れたんだった・・・。』 おごらされるくせに
明らかにガッカリと肩を落とし、ガシガシと寂しげに後頭部を掻きむしる。

せっかくのミコトとの公園タイムがふいに流れてしまって、どうしても
しょんぼりする気持ちを隠しきれないまま、『今度な。』 小さく呟いた。
 
 
『え~・・・。』 ミコトもまた、イツキとふたりで公園に行く口実を失い
不満気に口を尖らせ眉根をひそめていた。 自分の口から出た巧い口実に
内心踊る心を我慢しきれずにはしゃいでいたというのに。
 
 
ふたりの間に、不完全燃焼のキモチだけやり場なく浮かぶ。

ミルクティがあろうが無かろうが、別にいいのに。
公園じゃなくても、どこでも。
 
 
 
  ふたりでいられれば、それでいいのに。
 
 
 
そんなふたりの様子を、ソウスケが靴箱の陰から睨むように見ていた。
 
 
 

■第44話 マル秘ノート

 
 
 
とある放課後、イツキの元へソウスケが近寄って声を掛けた。
 
 
『カノウ・・・ ちょっと、いい?』 教室ではなく別の場所に移動して
話したいという空気を察し、イツキはソウスケから自分になんの話がある
のか想像もつかなかったが、言われるままに教室の戸口を抜けソウスケに
続いて廊下を歩いた。
 
 
ソウスケがまっすぐ前を向いたまま、『急に、悪いね。』
定規ではかった様な美しい姿勢で、数歩後ろを歩くイツキに背中で呟く。

『んぁ? いや、別にいーけど・・・。』 訳も分からないまま、イツキ
は小首を傾げながら放課後の廊下を促される方向へと向かっていた。
 
 
ひと気の無い調理実習室があるエリアで足を止めたソウスケ。

くるり振り返ると、内履きのゴム底が床面に擦れてキュっと鳴った。
その瞬間、まるでイツキを睨むようにまっすぐ見眇める。

『な、なに??』 その射るような視線に耐えられず思わず顎を引く。
するとソウスケは、途端に自信なさそうな表情と声色に変わった。
 
 
 
 『ぁ、あのさ・・・

  カノウって・・・ サエジマさん、と・・・

  ・・・つ、付き 合ってるの・・・?
 
 
  サエジマさんの、こと・・・ 好き、なの・・・?』
 
 
 
意を決したように真っ赤になって真剣に問うソウスケに、イツキは思い切り
戸惑って狼狽えた。 そんな事訊かれるなんて夢にも思っていなかった。

なんて返したらいいの分からず金魚のように口をパクパクさせ、やけに高速
の瞬きを繰り返して。
 
 
すると、慌ててイツキは言い捨てた。
 
 
 
 『べべべ別に・・・ そんなんじゃねーよ!!

  ”おな中 ”だってだけで・・・ ぜんっぜん、そんな・・・。』
 
 
 
『なら、良かった・・・。』 ソウスケがホっとした様に胸を撫で下ろす。
目でも潤ませているのではないかと思う程の、その安心して緩んだ顔。
 
 
 
 『カノウってサエジマさんと仲良いだろ・・・?

  だから・・・ ちょっと心配になっちゃって・・・
 
 
  実は、 あの・・・

  ・・・サエジマさんに告白しようと思ってるんだ、ボク。』
 
 
 
『ぇ・・・。』 そこから先はなにも言葉が出てこなかった。

それは、イツキとミコトの仲を確認する為だけではない、明らかにソウスケ
がイツキに対して布石を打ったという事な訳で。 一手早く先回りした訳で。
 
 
 
 
 
ソウスケはどこかご機嫌に教室までカバンを取りに戻る。

その背中はやけに弾んで見えて、放っておいたらスキップでもしそうなそれ。
遠く吹奏楽部が練習する各々の担当パートのメロディが、途切れ途切れに響き
それに合わせるようにソウスケが小さく鼻歌を歌う。

対照的にイツキはぼんやりと足元を見ながら踵を擦っていた。
 
 
 
  (オレだって・・・

   アイツのこと好きだって、言えば良かったのか・・・。)
 
 
 
なんだか取り返しのつかない事をしてしまった気がして、気が重い。

今からソウスケに言おうか、さっきの件だけどと蒸し返そうか。
でもソウスケに言ったところでどうなるのか。 その件を言わなければならない
相手は本当はソウスケではないのだから、牽制しあう意味はあるのか。

イツキは悶々と考えあぐねていた。
 
 
動揺しまくったイツキは教室に戻ると、机の中から乱雑に物を引っ掴みカバンに
詰め物思いに耽ったような面持ちで、『じゃ。』 ひと言ソウスケに呟くと、
教室を出て行ってしまった。

『ぁ、うん。じゃあ・・・。』 軽く手を上げたソウスケは、明らかに覇気の
ない気怠いその背中を物言いたげにじっと見送る。
 
 
ソウスケは小さく息をついて、ふとイツキの机に目をやるとその引出しから
大学ノートが1冊はみ出して覗いているのが見えた。
引出しに押し込めてあげようとそれに触れたソウスケの目に、気になる文字
が飛び込んで来た。
 
 
 
      ”マル秘 ”
 
 
 
それはイツキが物語をしたためる時に用いるフレーズ帳だった。

いいフレーズやシチュエーションが浮かんだ時にすぐさまメモ出来る様に
常に常にカバンに忍ばせているイツキのマル秘大学ノート。
 
 
マル秘と堂々と書かれたら、さすがにそれを手にした方は気になって仕方
なくなるのは人間の性というもので。
ソウスケは暫し罪悪感と闘いつつも、掴んだまま離せずにいたそれをそっと
開いてみた。
そこには、なんだかよく分からない人間関係や構図、相関図が記されて
いてソウスケは小首を傾げてそれをパラパラと流し読みする。
 
 
 
 『ん・・・? ”サクラ咲く アカル散る ”・・・??』
 
 
 
しかし、ページの後ろに進むにつれそこにはある特定の人物のことを書いた
のであろう記述がどんどん増えていった。
 
 
 
  そこには、伝えられない想いが溢れる程に書き記されていた。
 
 
 
  (・・・やっぱり、そうか・・・。)
 
 
 
イツキが想いを寄せるその ”特定の人物 ”が誰か分からないはずもない
ソウスケ。 思わずノートを掴んだ指先に力が入ると、ビリビリに破いて
やろうかと一瞬ためらい、しかしそうせずにもう一度前半部分の謎の相関図
に目を落とす。 イツキが必死に書き記しているそれを、じっと。

そしてその大学ノートを自分のカバンに乱暴に詰め込むと、引き攣る頬を
いなしもせずソウスケは冷たい表情のまま教室を後にした。
 
 
その時、ソウスケからの宣戦布告に動揺しまくるイツキは、大事なマル秘
ノートが無いことになど全く気付かずにいた。
 
 
 

■第45話 叫ぶ声が

 
 
 
翌朝、イツキが登校し教室に足を踏み入れると真っ先に目に入ったのは
ソウスケがミコトになにか話し掛けている姿だった。
 
まだホームルームがはじまる前の賑やかな教室。 ミコトとソウスケの事
など誰も気にせず、クラスメイトの面々は昨夜のテレビや話題のニュース
の話で盛り上がっている。
 
 
一瞬教室戸口で足が止まり、イツキはふたりから目を逸らして再び進む。
ふたりの横を通り過ぎる瞬間、チラッと一瞬その言葉が聴こえた。
 
 
 
 『じゃぁ、放課後に・・・。』
 
 
 
イツキは聴こえてなどいないフリをしたが、どう頑張っても顔は引き攣り
硬い表情になっていた。 ミコトも一番聞かれたくない相手にそれを聞か
れた事にバツが悪そうに目を落とす。 

自席に着いたイツキは、不機嫌そうにすぐさま机に突っ伏してミコトとは
反対側に顔を向けた。 奥歯を強く噛み締めるその力に、顎のあたりの頬
が歪む。 ソウスケがいつ実行に移すのか気が気じゃなくて昨夜はあまり
寝られなかったのも相まって、イツキのイライラは最高潮に達していた。
 
 
そんなイツキをミコトは泣き出しそうな顔でそっと見つめる。
 
 
 
  ”今日の放課後、ちょっといい・・・?

              話したい事があるんだ・・・。” 
 
 
 
先程のソウスケの言葉を思い出していた。
 
 
正直言って行きたくない。
どうしたらいいのか分からない。
ソウスケから告げられるであろうそれを聞きたくない。

ミコトは助けを求めるような目を必死にイツキに向けたが、その日一日机に
突っ伏したままの不機嫌そうなその姿は、一度もミコトと目が合うことは
無かった。
 
 
 
ジリジリと近付く放課後の時間。
確実に時計の針は1秒ずつ進み、イツキの心は1秒ずつ焦りが募る。
 
 
 
  (アイツ・・・ なんて返事すんだろ・・・

   ・・・オッケー、すんのかな・・・?)
 
 
 
そればかりが気になって他のことなど何も集中出来ない。

もしかしたら、ミコトはソウスケの告白を受け入れるのかもしれない。
もう一緒に公園に行くこともなくなるかもしれない。
もうあの憎たらしい悪罵を聞けなくなるかもしれない。
もう放課後ふたりで顔を突き合わせて物語を読めなくなるかもしれない。
 
 
 
  (ミスギが作者じゃないかもって思ってても、

   それでも・・・もしかしたら、アイツ。 付き合うのかも・・・。)
 
 
 
その瞬間、本日の終業を報せるチャイムが教室に廊下に、学校中に響き
渡った。 それは、イツキのタイムリミットを報せるそれでもあり。
 
 
 
  (ヤだ・・・。)
 
 
 
イツキは机の上で握り締めた拳をじっと見つめる。
 
 
 
  (ぜったい、ヤだ・・・

   アイツが他のやつに笑うのなんか、ヤだ・・・。)
 
 
 
すると、ソウスケが静かにミコトに近寄り目線で促し廊下へと誘う。

小さく頷くとまるで諦めたようにそっとイスから立ち上がったミコト。 
今日一度もイツキと合わなかった目線に、ミコトはすっかり自信をなく
してしまっていた。 後ろ髪を引かれるようにトボトボとソウスケに続く
セーラー服の背中をイツキは泣きだしそうな顔で見つめる。
 
 
 
  (ヤだ ヤだ ヤだ ヤだ ヤだ ヤだ ヤだ ヤだ・・・)
 
 
 
その瞬間、イツキは荒々しく立ちあがり戸口付近で留まっている数人を
乱暴に押し退け掻き分けると、教室を飛び出した。

当に慣れたはずのパカパカの内履きが今日に限ってやけに邪魔をし、
焦る気持ちも相まって全く早く走れない。
 
 
 
  (くそっ!!!)  
 
 
 
苛立ちを爆発させ舌打ちを打つと、イツキは廊下の真ん中でしゃがみ
込んで指先を差し込み踵を靴にすっぽり押し入れると、猛ダッシュで
駆け出して後を追った。 必死に愛しいミコトを追い掛けた。
 
 
 
  (ヤだ・・・

   アイツが他の奴に嬉しそうに笑う顔なんか見たくない・・・
 
 
   オレにじゃなくていいから、

   物語にだけでいいから・・・ だから・・・ 頼むから・・・)
 
 
 
 
   『サエジマァァァアアアアアアアアアアア!!!』
 
 
 
イツキの叫ぶ声が、廊下に響き渡った。
 
 
 

■第46話 イツキの秘密

 
 
 
 『サエジマァァァアアアアアアアアアアア!!!』
 
 
 
遠く廊下の先に佇む関係ない生徒まで振り返る程の、その絶叫。

イツキ自身、今まで生きてきた17年間で一番大声を張り上げているかも
しれないと、どこか他人事のように耳に響く自らのそれを聴きながらも
腕を振り大きく脚を蹴り上げて必死に廊下を駆ける。
 
 
辺り一面みな動きを止め、まるでこの世界で動いているのはイツキひとり
だけの様だった。 
 
 
 
否。 それは、もうひとり。
 
 
 
ミコトがそれを待っていたかのように、慌てて振り返る。

顔のスウィングに髪の毛先が連動して揺れ、じれったく頬にかかる。
途端に赤く潤んだ目で、自分の名を叫びながら駆け寄って来るその姿を
じっと見つめた。
 
 
 
  (カノウ・・・。)
 
 
 
息を切らせて目の前に現れたイツキは、猛烈に駆けたその苦しさに顔を歪め
上半身を屈めて大きく大きく呼吸をしている。 乱れた息に中々二の句を継
げずに、ただただ、ゼェゼェと全身を上下させて。
 
 
すると、ソウスケがイツキとミコトの間に割って入り目を眇めて言った。
 
 
 
 『なに・・・?

  今からサエジマさんに話があるんだけど・・・。』
 
 
 
ソウスケらしくないキツく冷たい口調で言い捨てると、『行こう。』 と
ミコトへ向けて廊下の先を視線で促す。
ミコトはソウスケに目を向け、そして弱々しい視線で再びイツキを見つめた。
 
 
イツキは追いかけて来たもののなにも言えず、ただただ苦しそうに荒い呼吸
を繰り返している。 
 
 
 
  (ここで止めなきゃダメだろ・・・

   ・・・なにしに来たんだよ、オレ・・・。)
 
 
 
屈めた上半身を支える膝に当てた手が、やり場なく震えた。
 
 
すると、ガバっと体を起こしイツキが思い切りミコトの手首を掴んだ。
 
 
 
 『わ、悪りぃ。

  ・・・ちょっと急用があんだ・・・。』
 
 
 
そうソウスケに告げるとミコトの腕を引いて、元来た道を再び駆け出した。 

呆然とするソウスケをひとりその場に残し、ふたりは静かな廊下を駆ける。 
ミコトもなにも言わず頬を染めてそれに続いた。
 
 
イツキの大股で駆ける足音と、ミコトの引き摺られるような小さなそれが
磨き上げられた廊下の床面を跳ねてゆく。 誰も追って来てなどいないのに
ふたりはまるで誰もいない所へ逃げ出そうとでもするかの様に無言で駆けた。

ミコトの細い手首をしっかり掴むイツキのゴツい手は、ハッキリそれが分かる
くらいにガタガタと切ないほど震えていた。
 
 
 
 
ソウスケは嘲笑うように頬を歪め、ひとり、誰もいない教室へ戻った。
そしてカバンの中に忍ばせていたイツキのマル秘ノートをそっと取り出す。
 
 
なんだかよく分からないが、イツキの秘密が詰まったそれ。
イツキを困らせるには丁度いい、それ。
 
 
冷酷な目でそれを見つめ、黒板の前へとまっすぐ進む。

そして黒板消しを置く粉受けの部分にノートを立て掛けると、白いチョークを
指先で掴み黒板に文字を書いた。
静まり返った教室に、チョークが黒板に削られる音だけカツカツと小さく響く。
 
 
 
  ”なにコレ?笑 ”
 
 
 
立て掛けたノートに向け白い矢印を書き込んで、静かにチョークを置いた。
指先についた白い粉をパンパンと払い落とす。
 
 
ソウスケの頬が怒りと悔しさで真っ赤に染まり、歪んでいた。
 
 
 

■第47話 なにか巧い言い訳を

 
 
 
イツキはいまだ乱暴にミコトの手首を掴んだまま、公園へ飛び込んだ。
 
 
そしていつものベンチの前までやって来ると、やっと安心したかのように
ミコトの手首から一本ずつ指を剥がし、静かに手を離す。

強く掴まれていたそれがジンジンと熱く脈打って、ミコトはもう一方の手で
やさしくさするとそっと目を落として手首を見つめた。
 
 
『ご、ごめん・・・。』 自分で思うより強く握り締めてしまっていた事に
今になってやっと気付いたイツキ。 掴んで駆けることに無我夢中で力加減
になど全く意識がいってなかった。 曲がりなりにも男子の握力でか弱い女子
の手首をギュウギュウに掴んでしまった事に申し訳なさそうにうな垂れる。
 
 
『ばか力・・・。』 ミコトはクスっと笑って赤い手首を押さえた。

ハッキリ指痕の付いたこの手首に、不器用で表現下手なイツキの気持ちが全て
込められている気がして、手首より何倍も何百倍も胸が痛い。
 
 
 
互い、真っ赤な顔で居場所無げに俯く。

少しずつ陽が沈んでゆく夕刻の公園のブランコが、遊び疲れて帰って行った
こども達にやさしく手を振るように小さく小さく揺れている。
 
 
イツキは必死にソウスケに言い放った ”急用 ”を考えあぐねていた。

なにか納得させられる巧い言い訳を、こんな風に乱暴に手首を掴んだ理由を、
ソウスケの真剣な告白をあからさまに邪魔した訳を。
 
 
焦りばかりが募ってなにも思い浮かばない。

だからと言って本当の気持ちを言える程、イツキのパンクしそうに鼓動を打つ
臆病で意気地のない心臓は強さなど兼ね備えていない。 それはノミの心臓と
言うよりむしろプランクトンクラス。
 
 
すると挙動不審に定まらない視線を泳がせ続けるイツキに、夕陽に反射する
自販機が映った。
 
 
ゴクリと息を呑むと、大慌てで身振り手振り交えて言う。
 
 
 
 『ほら! ぁ、あの・・・

  こないだ・・・ ケータイの、あの・・・ お礼の・・・

  ミルクティ、まだ・・・ ぉ、おごってなかった、からさ・・・。』
 
 
 
いくら名案が浮かばないとはいえ、しょうもない言い訳をしてしまった。

そんな事でこんな大仰に学校中に響き渡る程の大声で名を叫び、乱暴にミコト
を連れ出すなんて、普通に考えて有り得ない。
 
 
ミコトがどんな顔をして痛烈な嫌味を吐くか想像してイツキは身構えた。
無意識にぎゅっと肩に力が入り、身の置き場ない情けない顔で俯く。

しかし、次の瞬間イツキの耳に聴こえたのは想像とは真逆のそれだった。
 
 
 
 『ぅん・・・
 
  ・・・アタシも。 それ、待ってた・・・。』
 
 
 
思わずイツキは顔を上げミコトを見つめる。
ミコトの頬も耳も痛々しいほどに真っ赤に染まっていた。
 
 
ミコトは自分の口から出た ”それ ”がイツキに正しく伝わっているか、
赤く火照る小さな耳を澄まして様子を伺う。
 
 
 
  ”それ ”は、決してミルクティを指すのではないという事を。
 
 
 
しかし、鈍感なイツキにはやはり伝わらなかったようだ。
”連れ出してくれるのを ”待っていたミコトの本音に、イツキは気付かない。
 
 
 
 『ぁ、あの・・・  今、飲む?』
 
 
 
ミコトは俯いたまま呆れたように困った顔で微笑み、コクリと静かに頷くと
髪の毛先がじれったそうに揺れた。
 
 
 
 
ベンチに座り、ふたり黙ってペットボトルに口を付けていた。

ここに来るといつもこのシチュエーションな気がして、ふたり同時にぷっと
吹き出して笑う。
 
 
『ありがと。』 突然ミコトが小さく呟いた。
やさしくそよぐ風に前髪を撫でられ、どこかくすぐったそうに目を細めて。
 
 
『ん??』 ミルクティのお礼ではない気がして、イツキがそっとその横顔
を見つめると、ミコトは少し間を置いて静かに話し出した。
 
 
 
 『今日ね・・・

  ミスギ君に話しがあるって呼び出されて・・・
 
   
  正直、ちょっと困ってたってゆーか・・・

  どうしよう、って・・・

  でも、なんて断っていいかも分かんなくて・・・。』
 
 
 
その素直な言葉に、イツキはミコトが告白を受け入れるつもりが無かった事
を知る。 それだけで充分イツキの胸は凪ぎ、ホっとしすぎてなんだか目頭
がじんわり熱いほどで。
 
 
『お前ってさ、意外とお人よしだよな?』 安心して肩の力が抜けた途端、
イツキの喉からなんだかやけにやさしい声色が出た。

『意外ってナニよ?!』 ミコトからも同じそれが出てふたり微笑み合う。
 
 
 
 『オレには、好き勝手なことポンポン言うくせによぉ~・・・』
 
 
 
背もたれにだらしなく寄り掛かり呆れたように笑うイツキに、ミコトは口を
尖らせて顔を背けた。
 
 
 
  (それは・・・

   アンタには肩に力入れずにナンでも言えるからでしょ・・・。)
 
 
 
鈍いイツキに呆れつつ、ミコトはツンと顎を上げていつもの口調で言う。
 
 
 
 『まぁ、アホのアンタには遠慮なんて要らないしね~。』
 
 
 
『誰がアホだ!!』 剛速球で返して、互い、顔を見合わせて笑った。
こうやって憎まれ口を叩き合っている時間が、愛おしくて堪らなかった。
 
 
 
『ねぇ、次話どうなると思う?』 ミコトが遠くを見つめ、物語の話を
小さく呟いた。 ベンチの縁に手を掛けて、少し身を乗り出しながら、
そのローファーの小さな足はご機嫌にゆらゆらと揺らして。
 
 
 
 『ん~・・・ まだ、くっ付かねえんじゃね?』
 
 
 『カスミからは言わないのかな・・・?』
 
 
 『言えねぇだろ。』
 
 
 『ミナトからは??』
 
 
 『アイツもヘタレだからなぁ~・・・。』
 
 
 
すると、ミコトが囁くように呟いた。
 
 
 
 『・・・誰かさんみたいだよね。』
 
 
 
『んぁ?』 一瞬吹いた風にさらわれ、ミコトのひと言はイツキには
届かなかった。
 
 
 

■第48話 揶揄で溢れる黒板前の人だかり

 
 
 
翌朝。 ミコトが教室に足を踏み入れると、黒板前でなにやら人だかりが出来
ていた。
 
 
チラリ横目で見つつ自席へ向かおうとしたミコトの耳に、冷やかしの様な嘲笑
うような耳障りでしかない嫌な声色が聴こえ、よく分からないままうんざりと
顔をしかめる。
 
 
 
  (朝っぱらからナンなのよ・・・。)
 
 
 
すると、次の瞬間耳に入ったその固有名詞に、ミコトの足は固まった。
 
 
 
 『なにこれ~?

  ミサキ? カスミィ~? 相関図まで書いてあるけどぉ~。』
 
 
 
ミコトの頬が引き攣り、そして急激に心臓の鼓動が高鳴る。
 
 
 
  (ぇ・・・? 原稿・・・??)
 
 
 
もしかして、新作原稿がいつもの机引き出しではなく別の場所に置かれていて
それを誰かが見付けたという事か。 それとも机の中から茶封筒が落ちてしま
い目に付いて中身を開けられたのか。
 
 
慌てて揶揄で溢れる黒板前の人だかりへと駆け寄り、人波を掻き分け進むと
そこには1冊のノートがあった。
 
 
 
   ”マル秘 ”
 
 
 
そう書かれたそれは、間違いなく流暢な達筆のそれで。
見紛う事無くイツキが書く美しいそれで。
 
 
 

  (原稿・・・じゃ、 ない・・・?)
 
 
 
ミコトも初めて目にするそれに、身を乗り出してその中身に目を向ける。

そこには ”サクラ咲く アカル散る ”の概要や、人間相関図。 ミコトが
確かに読んだ覚えのある話のシチュエーションや登場人物のセリフなど、
事細かに記されていた。
 
 
 
  (これって・・・。)
 
 
 
知らぬ間に息を止めまじまじとそれに見入っていたその時、登校してきた
イツキが教室戸口に姿を現した。
 
 
人だかりへ向けチラっと目線だけ投げて自席へ向かおうとして、クラスメ
イトの間から一瞬見えたその見覚えある大学ノートに目を見開いて固まる。

まるで目玉が零れ落ちそうになり、一気に赤いペンキでも被ったかのように
顔も耳も首も、皮膚という皮膚が真っ赤に染まった。 そして一時停止ボタン
を押したかのようにその場で微動だにしなくなった制服ズボンの脚が、次の
瞬間ガクガクと小刻みに震えだしたのが見えた。
 
 
ミコトはなんだか泣き出しそうにその姿を見つめる。 

イツキがなんの言い訳も用意せぬまま輪の中に飛び込もうと、前のめりに
なって震える片足を蹴り上げようとしたその一拍手前で、ミコトが大声で
叫んでそれを遮った。
 
 
 
 『それ、アタシのっ!!!』
 
 
 
ザワザワとざわめいていた観衆が一瞬の無になり、一斉にミコトに視線を注ぐ。

ミコトは真っ赤な潤んだ目で、大袈裟に身振り手振りを付けるとまくし立てる
様に言った。
 
 
 
 『アタシ・・・

  趣味で、ちょっと恋愛小説書いてて・・・
 
 
  ・・・これ、アタシのノートだから・・・
 
 
  もう、恥ずかしいなぁ・・・ やめてよねぇ~・・・。』
 
 
 
そう言うと、マル秘ノートを乱暴に引っ掴み、ぎゅっと強く胸に抱くと引き
攣った頬で照れ笑いを浮かべる。 

『はい、みんな! 散って、散って!!』 いつものミコトらしい言動で
その場を治め、屈託のない明るい空気を無理やりにも思えるほど大仰に振り
まいて。
 
 
イツキは、泣き出しそうな不安げな顔でミコトを見ていた。
 
 
  (サエジマ・・・。)
 
 
 
 
 
事の首謀者であるソウスケは最前列の席でひとり、まるでそんなくだらない
事になど興味が無いという顔をして文庫本に目を落とすフリをしながら、
イツキのノートを慌ててミコトが自分のだと言い張った理由が分からず、
不機嫌そうに頬を強張らせていた。
 
 
自席に着いたイツキは耳を真っ赤にして机に突っ伏し、その日一日顔を上げる
ことは無かった。
 
 
 

■第49話 言えそうにない理由

 
 
 
ミコトはその日一日、イツキから ”マル秘ノート ”について何か言われる
かと思い身構えていたが、なにも、ただのひと言もなく、むしろ避けられて
いるみたいに視線すら向けられる事はなかった。
 
 
”それ ”がイツキの物だと気付いている事は隠しておかなければならない。
だから、イツキにノートを返すのは今の状況としては間違っている。
 
 
”作者 ”のノートをたまたま発見し、かばう為にミコトが身代わりになった
というテイを装ったつもりだった。 それならそれで、ミコトからイツキに
”コレって作者のだよね? ”と、隠れてこっそりその話を振っても良さそうな
ものだったのだが、うっかり余計な事まで言ってボロが出そうでなんだか怖
かった。
 
だからイツキからその件について話し掛けて来たら最低限の遣り取りをしよう
思っていたのだが、当のイツキからは何も無い。
 
 
その時イツキもイツキで、あまりに動揺しまくりミコトにその件を話し掛け、
作者本人ではないテイを装う余裕など全く無かった。 大切な大切なマル秘
ノートを落とした事にすら気付かず、ここ最近のミコトとの距離に浮かれ、
危うく公衆の面前でトップシークレットをさらしかねなかったのだ。
 
あの時ミコトが機転を利かして犠牲になってくれなければ、更に更にドツボに
はまっていたのは明白で。
 
 
本当なら、ミコトに言うのが普通なのだろう。
 
 
 
    ”アレって作者のノートだよな? ” と。
 
 
 
恋物語を読んでいる読者として興味ありげに、なんなら目でもギラギラ輝か
せて身を乗り出しマル秘ノートの中身を知りたがって然りなのに。 スルー
するのは逆に不自然極まりないと頭では分かっているけれど、それでもどう
しても直接ミコトの顔を見てそれを言えそうにない理由があった。
 
 
 
    だって、

    だって、あのノートには・・・
 
 
 
 
 
  (アイツ・・・

   なんにも言わずに、ノート持って帰ったよなぁ・・・。)
 
 
 
ミコトに見せたくない、決して見られてはいけない歯がゆい想いが溢れる
ほどに綴られているのだから。
 
 
 
  (読むよなぁ・・・

   帰って、ぜってぇ 読むよなぁ・・・ 
 
 
   相関図だけで止まる訳ねぇよなぁ・・・
 
 
   最初から最後まで熟読するよなぁ、アイツなら・・・。)
 
 
 
 
  『し・・・ 死んだ、オレ・・・

           ・・・つか、殺してくれ・・・。』
 
 
 
放課後になっても突っ伏した顔を上げられず、下校してもう空っぽのミコトの
机をギロリと恨めしそうな細目で見つめていた。
 
 
 

■第50話 日記というか、むしろ

 
 
 
ミコトはイツキにひと言も声を掛けられないまま、机に突っ伏したままの
学ランの気怠い背中に視線を投げつつ学校を後にしていた。

互いなにか言いたげなのは気付いていながら、なにも発する事が出来ない
ままもどかしい一日が終わろうとしていた。
 
 
ミコトは後ろ髪を引かれつつ自宅に帰り、そしてすぐさま自室にこもった。

机の上に置いたカバンを、少し離れたベッドに腰掛けてチラチラ横目で見る。
そのノートが気になって仕方ないけれど、読んでいいのか否か。 なんだか
迷ってしまって中々それをカバンから取り出せずにいた。
 
 
きっとこれはイツキのネタ張の様なものなのだろう。

登場人物の相関図や、細かな設定。 野次馬たちが半分バカにした様に読み
上げていた感じでいうと、物語のフレーズやシチュエーションが記されている
と思われた。
 
 
純粋に物語を愛する読者としては、先の展開が見えてしまっては楽しみが
半減してしまう。 しかしその反面、愛読者として知りたくない訳はない。

まだ迷って判断を決め兼ねている指先で取り敢えずカバンの中からは取出す。
ミコトは制服から部屋着に着替えるのも忘れてそのままベッドに腰掛け、
ノートを膝の上に置いたまま、じっとその表紙だけ見つめていた。
 
 
 
  ”マル秘 ”
 
 
 
そのタイトルをぼんやり見つめる。
 
 
 
 『ほんとにマル秘なら、

  フツー、こんな目立つように ”マル秘 ”って書くかねぇ・・・。』
 
 
 
アホ過ぎるイツキに呆れて笑ってしまう。

背中を丸め、太マジックペンで表紙に丁寧に書きこむ猫背をそっと想像して。
そして、イツキらしいそれに愛しくて微笑んでしまう。
 
 
 
 『ちょ・・・っとだけ、なら。 見てもいいかな・・・?』
 
 
 
暫く悩んでノートの端を摘んだままの指先をモジモジと歯がゆく留まらせ、
意を決してミコトは表紙をめくってみた。

そこには思った通りの ”サクラ咲く アカル散る ”の事細かな設定が記され
ている。 愛読者であるミコトでも読み取り切れなかった裏設定や、物語には
出てこない登場人物の細かな背景、そしてサイドエピソードが綴られている。
 
 
ミコトは時間も忘れてそれを読み耽った。

目をキラキラさせて、大好きな物語のそれに胸をときめかせゆっくりゆっくり
丁寧にページをめくってゆく。 自分でも気付かぬうちに頬は緩んでやさしく
微笑んで。
 
 
しかし、途中からなにか様子が変わって来たことに気が付いた。

”サクラ咲く アカル散る ”の設定とは別物になっている気がしてならない。
登場人物の名前の表記が極端に減り、代わりに物語の中の誰を指すのか不明な
”アイツ ”という曖昧なそれがどんどん増えそればかり目に付く。
 
 
それは、例えて言うなら日記のような、
 
 
 
    否。 日記というか、むしろ・・・
 
 
 
 
 ”アイツが今日も図書室へ行った。”
 
 
 ”アイツはミルクティが好きだと言った。”
 
 
 ”アイツが2階の窓から落ちやしないかハラハラした。”
 
 
 ”アイツがめちゃめちゃ笑った。”
 
 
 ”アイツがめちゃくちゃ怒った。”
 
 
 ”アイツが今日・・・” 
 
 
 ”アイツが・・・  アイツが・・・  アイツが・・・”
 
 
 
そこには、”アイツ ”と記されたただひとりの事が溢れる程に書かれていた。
まるで、決して名前を表記できない、渡す事の出来ない、ラブレターのようで。
 
 
 
  えんぴつで人知れず綴った、ラブレターのようで。
 
 
 
開いたノートのとあるページで、ミコトは手を止める。

その瞬間、そのページにまるで夕立のように、次々と雫がこぼれ跡をつける。
ミコトはノートをぎゅっと胸に抱いて、肩を震わせた。
肩を震わせ、声を殺して泣いた。
 
 
 
 『もう・・・ ナンなのよ・・・。』
 
 
 
ミコトの涙が沁み込んだそのページ。

そこには、イツキの言葉に出来ない切ない想いが、やわらかいえんぴつの
鉛色で記されていた。
 
 
 
   ”あいたいときは、なんて言ったらいいんだろ。”
 
 
 

■第51話 脳内会議

 
 
 
鉛の玉でも足首にはめられ引き摺っているかの様に、イツキは重く鈍い足取り
で自宅へ帰った。 
 
 
玄関ドアが開閉した音に、エプロン姿の母親がキッチンからひょっこり顔を
出し『おかえり~。』 声を掛けるも、ガックリうな垂れた一人息子はそれに
一瞥もせず真っ直ぐ2階の自室へ向け階段を上がってゆく。
 
なんだか元気がないように見えるその背中に、母は気遣って声を掛けた。
 
 
 
 『ミルクティ冷えてるわよ~・・・。』
 
 
 
するとそのひと言に咄嗟に動揺して階段の段差を踏み外し、イツキが大きな
音を立て脛やら膝やら打ち付けつつ勢いよく階下へ転がり堕ちた。
 
 
 
  ( ”ミルクティ好きだった ”とか、

    あのノートに・・・ 書いた、よな・・・ オレ・・・。)
 
 
 
『ちょっとダイジョーブ??』 慌てて駆け寄りイツキの腕を掴んで引っ張り
起こそうとする母親を手の平で遮り、思い切り大きな大きな溜息をひとつ。

まるで魂まで抜け出たのではないかというくらいの埴輪顔に母親は首を傾げた。
 
 
 
階段の段差で打った脛や膝がジンジン熱をもっているように痛むが、それすら
かすむ程に ”マル秘ノート ”がグルグル グルグル頭を巡る。
回転スピードで言えば、もう眩暈を起こしそうなくらい。 脳震盪でも起こし
たかと救急病院にでも駆け付けたいくらい。 CTあたり連写したいくらい。
 
 
 
 『ど、どうする・・・? オレ・・・。』
 
 
 
イツキは呆然と自室の真ん中で立ち尽くし、相変わらずの埴輪顔のまま浅く
呼吸を繰り返す。 なにがベストなのか、どうするのが正解なのかテンパり
まくって全く役に立ちそうにない頭で必死に脳内会議する。
 
 
情熱的なイツキは言う。
 
 
 
  ≪この際、いい機会だから作者がオレだって言っちゃえば~ぁ?≫
 
 
 
すると、ヘタレなイツキが大慌てでどもりながら。
 
 
 
  ≪そそそそんなのムリに決まってんじゃんっ!!

   ドン引きされて、ガッカリされて、小説まで嫌われるかも・・・。≫
 
 
 
脳天気なイツキは、呆気らかんと。
 
 
 
  ≪ノートなんか気付いてないフリして、このままで良くねぇ~?≫
 
 
 
ガヤガヤと頭の中を騒がしく混乱させるその声たちに、冷静なイツキは言った。
 
 
 
  ≪サエジマのことだから、

   きっと原稿の感想と一緒にさり気なく返して来るんじゃないか?
 
 
   ・・・って、事は。 今、オレがしなきゃいけない事は・・・。≫
 
 
 
すると、イツキは呆けた埴輪顔からまるで頭から冷水を被ったようなスッキリ
した面持ちに様変わりさせ、握り拳を突き上げた。
 
 
 
    『天才作者さまに・・・ 

             ・・・オレは・・・ なるっ!!!』
 
 
 
麦わら帽子でも被る勢いでそう宣言し、学ランを脱ぎ捨てベッドに放るとバフっ
と音を立ててそれはくたびれた枕の上に広がる。 中に着込んでいた赤色Tシャ
ツには袖など無いくせに、腕まくりをするテイで腕を手首から上へとさすると、
大きくガッツポーズをして気合の雄叫びを上げた。
 
 
 
  『書くぞぉぉぉぉおおおおおおおおおおおっ!!!』
 
 
 
その瞬間ドアを軽くノックして部屋に入って来た母親とバッチリ目が合った。

弓なりに腰を反り返し、天井に向けて『お』の発音をしている途中のそれ。
互い、見られてはいけないものを見られ、見てはいけないものを見てしまった
顔を向け合い、まるでなにも無かったかのようにさり気なさを装う。
 
 
『ミ、ミルクティ・・・。』 わざわざ部屋までそれを持って来てくれた母。

イツキはゆっくりゆっくり腹筋を使って反った背骨を戻しつつ『ぁ、あぁ。』
ペコリと首を前に出して礼のポーズを取った。
 
 
パタンと自室ドアを閉めて母親の姿が無くなった途端、イツキは恥ずかしげに
その場に頭を抱えてしゃがみ込んだ。 
 
 
 
  (ハズい・・・ ハズ過ぎるじゃねーか・・・

   ま、まぁいい・・・ とにかく、オレは書かねば・・・。) 
 
 
 

■第52話 ホントのことを知る権利

 
 
 
ミコトはその日の放課後、ソウスケを呼び出していた。
 
 
 
 『サエジマさん的には、

  人があんまりいない所の方がいいよね・・・?』
 
 
 
ソウスケはまるで先日の件など忘れてしまっているかの様に涼しい顔を
向ける。 『ぅ、うん・・・。』 ミコトがバツが悪そうにコクリ頷くと
ソウスケが先に廊下を進み、ひと気がないエリアまで促した。
 
 
静かな廊下の先をまっすぐ見つめ歩きながら、ソウスケが言う。
 
 
 
 『こないだ・・・ カノウに告白でもされたの?』
 
 
 
そのひと言に、ソウスケの数歩後ろを歩いていたミコトの足音が止まる。
あまりのダイレクトなそれに、目を見開き口をつぐんで眉根をひそめた。

途端にひとり分になった廊下に響く内履きの足音は、なんだか上機嫌にも
思える足取りで立ち止まったミコトをその場に残しゆっくり進んでゆく。

ソウスケは振り返りもせず、肩を震わせてクククと愉しそうに笑った。
まるで背中に目が付いていてミコトの一挙手一投足が見えているかのよう。
 
 
そして半身振り返って、ぽつり呟く。 『・・・ぁ、 まだか。』

それは鳥肌が立つほどに悪意ある声色に感じ、ミコトは咄嗟に顔を背ける。
するとソウスケはもう一度クククと肩を震わせて、再び廊下を歩き出した。
 
 
 
先日、ソウスケがイツキを呼び出し話をした調理実習室があるエリアへ来た
ふたり。 ミコトはその廊下の静けさに逆に居心地の悪さを感じ足元に目を
落として、これからなんてソウスケに話を切り出そうか考えあぐねていた。

ソウスケは廊下の壁に軽く背をもたれ、ただ静かにミコトが口を開くのを
待っていた。 少しだけ開いている窓の隙間から、青いにおいの風が通り
ミコトのサラサラの前髪をそっと撫でてゆく。
 
 
 
 『ぁ、あの・・・

  こないだは、ミスギ君の話も聞かずに・・・ ごめんね・・・。』
 
 
 
暫しの息が詰まる様な沈黙の後、やっとの事でミコトが口火を切った。 
『失礼だったよね・・・ ほんと。』
 
 
すると、ソウスケは少し意地悪な口調で言った。
 
 
 
 『ボクは、なんかよく分からないまま

  サエジマさんに振り回された、ってだけだよね・・・?』
 
 
 
反論の余地すらない真っ当な意見に、ミコトは『ごめん。』と小さく呟いた。
ソウスケは一見穏やかにも思える面持ちで、尚も執拗に続ける。
 
 
 
 『やたらと ”本が好きか ”訊かれて、

  そっちから近付いてきて思わせぶりな態度とったかと思ったら

  今度は急に離れていって、カノウと逃げて・・・
 
 
  ・・・ボクには、なにがなんだかいまだにサッパリだよ・・・。』
 
 
 
そして、強い口調で言い捨てた。 『ボクは唯一の被害者だよね。』
 
 
ソウスケは自分の口から出たそれに、自分で驚いたように一瞬全ての動きを
止め再びクククと感情のこもらない乾いた笑い声を上げた。 その目の奥は
全く笑ってなどいない。
 
 
『ほんとに、ごめんなさい・・・。』 ミコトが腰を90度折って深々と頭を
下げ謝った。
 
謝ったまま顔を上げない。 それはソウスケからの了承があるまでは下げ続け
ようとでも思っているように頑なに。 そのツヤツヤの頭頂部の天使の輪が、
なんだか泣いているように潤んで揺れて見えた。
 
 
ソウスケは、それを黙って見ていた。

ミコトの口からどんな言い訳が飛び出すのか待っているのに。
頭を下げてほしいのではなく、何故こんな事になったのか真実を知りたいのに
ミコトはそれを説明する気配もない。
 
 
『ごめん、ちょっとキツく言い過ぎた・・・。』 ソウスケはぽつり謝ると、
ミコトの肩にそっと指先で触れて、頭を上げるよう促した。

すると、身の置き場なくしずしずと上半身を戻したミコトの目は真っ赤に潤ん
でいた。 その色で本当にミコトが申し訳なく思っている事は伝わる。
 
 
ソウスケが小さく息をついた。

例え自分は被害者だったとしても、怒りに任せて女子に強く当たってしまった
ことに次第に自己嫌悪の念が顔を出す。 いつも元気で明るいミコトをこんな
風に意地悪に追い込むことが出来る自分に心の中で驚いていた。
 
 
そして、静かに続ける。
 
 
 
 『ボク、推理小説が一番好きだって知ってるよね・・・?

  ”謎 ”が謎のままなのが、すごくイヤなんだ・・・
 
 
  このままだとスッキリしない。

  ボクは今回の件のホントのところを知る権利があると思うんだけど。』
 
 
 
すると、ミコトが揺らぐ瞳をまっすぐ向けコクリと小さく頷いた。

肯定の頷きをしたもののやはり戸惑って、次に口を開くまでやや暫く時間が
掛かる。
しかし、ソウスケという人間を信じて静かにゆっくり話し始めたミコト。
 
 
 
 『ぁ、あのね・・・ 
 
 
  ・・・実は、 

  ・・・・・・・・・・・・・・・・。』
 
 
 
あの日。 ミコトが誰もいない教室で茶封筒を見付けたことから始まった
勘違いの物語を、ゆっくりゆっくり話す。 話ながらその顔は愛おしそうに
でもどこか切なそうに。
 
ただひとりの格好悪い情けない姿を想いながら、所々笑みを浮かべて。
 
 
『そうゆう事だったんだ・・・。』 全ての真相を知らされたソウスケは肩を
すくめて呆れたように小さく笑った。
ミコトから当時訊かれた謎の質問の意味や発言の理由が、今になってやっと
しっくり胸に落ちる。
 
 
 
 『知ってると思うけど・・・

  こないだのノートは、カノウのだよ・・・。』
 
 
 
『ぅん。』 いまだミコトが大切に大切に持っているイツキのマル秘ノート。

次回感想文を渡すときに一緒に茶封筒に同封しようと思っていた。 あれから
何度も何度も読み返しては、その度に頬が耳が、胸が熱くなる大切なそれ。
 
 
『あのノートの後半に書い・・・』 言い掛けてソウスケは口を閉じた。
 
 
   
  ”あのノートの後半に書いてたの、ラブレターみたいだったよね ”
 
 
 
そんなのわざわざ言わなくても、当の本人が気付かないはずはない。

ミコトの一番近くにいながら伝えられない溢れんばかりの想いを抱え、
人知れずノートにそれを綴るイツキを想像し、ソウスケは手の甲で口許を
隠すと目を細め笑い声を殺した。
 
 
 
  (すごいパワーだな・・・

   ・・・正直、敵わないな。 ボクには・・・。)
 
 
 
そして、ふと思い出したことを告げる。
 
 
 
 『ボク、そう言えばカノウと小学校一緒だったんだ・・・
 
 
  カノウは、いっつも作文で賞とか取って表彰されてたし

  書道も習っててすごい字が巧かったから、

  よく廊下とかに貼り出されてたよ・・・。』
 
 
 
『そうなんだ・・・。』 小学生の気怠くない小さなイツキを想像し、
ミコトは嬉しそうに肩をすくめ微笑む。 今は無駄に格好つけて気怠さを
装う本当はバカが付くほど生真面目なイツキを。
 
 
 
『・・・カノウのこと、好きでしょ?』 突然ソウスケが試すように訊く。
 
 
 
それに一瞬驚いた目を向け、そして照れくさそうに目を伏せたミコト。
顎の長さで揃えられた黒髪の毛先が、サラリ。小さく流れて戻る。
 
 
 
 
   ミコトが、小さく。 しかし、確かに頷いた。
 
 
 
 
ふと自分の胸元に目をやったミコト。

誕生日にイツキから随分時間が掛かって半ば奪うように強引に貰ったしおりの
四つ葉が、胸ポケットから覗いて揺れた。
 
 
 

■第53話 ふたり歩く通学路

 
 
 
 『あのさ・・・ 公園いかね?』
 
 
新作がミコトの机に忍ばされていたその日。

机の引出しに手を差し込み感じた ”それ ”の感触に、ミコトは今までにも
増して喜びと、そして溢れそうな照れくささのやり場に困って俯いた。
 
 
今までは放課後の教室でひと気が無くなるのを待って、ふたり顔を突き合わせ
読んでいたのだが、一刻も早くふたりだけの時間を待ち侘びるその顔は中々
閑散としない放課後のそこに、駄々を捏ねるこどもの様なふくれ面を向ける。

すると、痺れを切らしたイツキがいつもの公園で読むことを提案した。
ミコトも跳ねるように大仰に頷き、ふたり、揃って教室を出たのだった。
 
 
 
いつもは昇降口で別々の方向に進む。

イツキは徒歩でまっすぐ校舎脇の通学路を進み、ミコトは駐輪場へと曲がって
自転車に跨る。 しかし今日、はじめてイツキはミコトの後について一緒に
駐輪場へ向かっていた。
 
 
ミコトのローファーとイツキのスニーカーの靴底が、アスファルトを擦って
進む。 小さな歩幅と大きなそれが、どうにも照れくさそうに前後で並んで。
 
 
別にそんなの大した事ではない。

そんなの、互いに分かっている。 照れるに値しないと、必死に心の中で。
 
 
ミコトが自転車の鍵をはずすのを斜め後方からイツキが黙って見ている。
見られていると思うと、ミコトの鍵を掴む細い指先はぎこちなく空回った。
 
 
なんだか赤い耳をして自転車の横にしゃがみ込み、中々開錠出来ないミコトの
小さな背中にイツキが小さく笑った。 『なーにやってんだよ?』

笑われた気配に、ミコトが口を尖らせ眉間にシワを寄せて振り返った。
 
 
 
 『わ、笑ってないで助けなさいよねっ!!』
 
 
 
するとイツキはミコトの隣に膝を折りしゃがみ込み、その細くて白い指から
無言で鍵を奪うと、ゴツい指先でカチャリという音を響かせて呆気なく鍵を
開けた。

『ドリンク1本、な?』 ニヒヒと悪戯っぽく笑うその顔があんまりやさし
くてミコトは瞬きも忘れて真っ直ぐ見つめてしまった。
 
 
 
  (カノウって、こんな顔してたんだっけ・・・。)
 
 
 
笑って糸のように細くなった目、きゅっと引き締まった頬筋。 大きな口は
上機嫌に口角が上がり、それはまるで三日月のようで。
 
 
 
 
   どきん どきん どきん どきん ・・・
 
 
 
 
胸の音が喉元までせり上がってきたように近くに聴こえる。

まじまじと長いまつ毛の潤んだ目で見つめられて、イツキはあからさまに
戸惑った。 いつまで経っても、ミコトとの視線がバッチリ重なったまま
外されない。 パチパチとせわしなく瞬きを繰り返し、モゴモゴと口許を
うごめかせて、慌てて目を逸らす。
 
 
そしてガバっと立ちあがると、赤くなってゆく顔を見られまいとするかの
ようにイツキは背を向け先に歩き出した。 ミコトも慌てて自転車を押して
それに続く。
 
 
気怠そうに踵を擦ってポケットに手を突っ込み猫背で進む学ランの背中。

本当は作文で賞を受賞し、書道は廊下に貼り出され、そして甘酸っぱく
歯がゆい恋物語を人知れずしたためている、その背中。
 
 
不器用で格好悪いその背中を、ミコトは斜め後方からそっと見つめる。

自転車のハンドルを掴みゆっくり押しながら通学路を進むと、タイヤが小粒
の砂利を弾きながら回転する音がイツキの踵を擦る音とシンクロした。
 
 
すると、イツキが突然振り返った。

そして、『ん?』 とポケットから出した手を伸ばす。
その意味が分からず小首を傾げるミコトに、何も言わずにハンドルを掴み
自転車を引き受けるとイツキが押しながら歩き出した。

すぐさまミコトから離れて数歩先を自転車を押して歩く学ランは、さり気
なさを装おうと首を左右に倒してゴキゴキ鳴らし、照れくささを誤魔化そう
と必死なのが手に取るように分かる。
 
 
そっと顔を伏せ目を細めミコトは微笑んだ。

不器用で照れ屋で格好つけたがりの、あたたかいその背中。
”ありがと ”と素直に言いかけ、途端に発した言葉は照れ隠しのそれだった。
 
 
 
 『ミ、ミルクティおごってよねっ!!』
 
 
 
『んぁ?? なんでだよ、逆だろぉ~?』 イツキが呆れた顔でケラケラ笑う。

ふたりの笑い声が、まだ明るい真っ青な空に吸い込まれて響き渡った。
 
 
 

■第54話 みるくたっぷりミルクティ

 
 
 
ふたり。 いつもの公園の、いつものベンチ。
 
 
またしても奢らされたミルクティのペットボトルをまずミコトに差し出すと、
いつもと同じように、イツキは親指の先でブラックコーヒーの赤く点灯する
ボタンを1度押した。 ガコンと音を立てて、それは取出口に現れる。
 
 
 
 『ねぇ、いっつもブラックだね・・・?

  ・・・ほんとに甘いもの嫌いなの・・・?』
 
 
 
ミコトは体を左右にゆらゆら揺らしながら、少し屈んでブラックコーヒーを
取り出している学ランの背中に呼び掛けた。

突然投げかけられた問いに、イツキは慌てて 『ぁ、あぁ。ん・・・。』と
なんだか歯切れ悪く返す。 本当はミコトと同じみるくたっぷりミルクティ
が大好物で毎日家で飲んでいるなんて格好悪くて言えない、言いたくない。
 
 
そのどこか不自然な様子に、ミコトはイツキの目の前にまわると目を眇め
顔を覗き込むようにしてその真意をはかろうとする。 

 『ねぇ~・・・ ほんとに、ほんとなのっ??』
 
 
 
無駄に格好付けたがりのイツキの事だ、ブラックコーヒーは ”ポーズ ”
なのではないかと最近疑いはじめていたのだった。
 
ほんとは微糖あたりが好みなのではないのかと。
 
 
 
 『ほんとは甘~ぁいの好きなのに、

  カッコつけてるだけなんじゃないのぉ~・・・?』
 
 
 
執拗に責められて、イツキは絶句した。

なにか言葉を発したら逆に言葉尻を捕らえられて、ボロが出そうで口を
閉じる。 それでなくとも口が達者なミコトに応戦したところでいつも
決まってタジタジ、連戦連敗なのだから。
 
 
しかし、それがかえってイツキからの答えになってしまった。
 
 
必死に白を切っているがどうしても苦い顔が覗き見えるイツキを、ミコトは
可笑しそうにケタケタ笑う。 なんだか眩しそうに愉しそうに、しかしその
笑い声はイツキをバカにするそれではなくて。

まるでシャボン玉にはしゃぐこどもの様な、ミコトの耳にやさしい声色に
うっかりイツキも頬が緩んだ。
 
 
 
 『ねぇ・・・

  ・・・ほんとは、なにが好きなの・・・?』
 
 
 
イツキが好きなものを知りたい。 ミコトはただ、純粋にそう思っていた。

もっと、イツキの事を。 些細なことでも、少しでも。
 
 
 
すると、暫く口ごもっていたイツキが観念して口を開く。

その手に掴んだままのブラックコーヒーの ”無糖 ”とあるラベルをじっと
見つめたまま、バツが悪そうにボソっと呟いた。
 
 
 
 『ミ、 ミル・・・ク、ティ・・・。』
 
 
 
『えっ?!』 想像していたよりもはるかに甘ったるいその固有名詞に、
ミコトは一瞬固まってそして大笑いした。 体を折り曲げて腹を抱え笑い
転げている。 ”ギブアップ ”とばかり手の平でイツキを制し、細い指先で
目尻に溢れる涙を押さえてそれでもまだ苦しそうに、愉しそうに。 

その笑い顔は、なんだか嬉しくて堪らなそうなそれに見えた。
 
 
笑われ過ぎて照れくさそうに、イツキが横目でジロリ睨み口を尖らせ、
ミコトの頭をポンとはたいた。

『笑い過ぎだっ!!』 そう言いつつも、このやわらかい時間が愛おしく
てどうしようもない。
 
 
すると、ミコトがそっとそれを掴んだ手を差し出した。
 
 
 
 『・・・ほら、飲む? ひとくち。』
 
 
 
鼻の前に突き出されたペットボトルのラベルを、イツキは寄り目になり
つつ見つめる。

それは、既にミコトがキャップをひねり開け、ぷっくりと赤い小さな唇を
押し付け、甘い甘いミルクティを喉に流し込み済な訳で。 

それをイツキがひとくち貰うというのは、まさしく、あの、夢にも見た、
例のアノ、リア充しか体験したことがないであろう ”アレ ”になる訳で。
 
 
土偶のように固まって埴輪顔をしているイツキを横目でチラリ眇め、ミコト
は手を伸ばしてイツキの後頭部をパコリと叩いた。
 
せっかくミコトが最大限さり気なさを演出してあげたというのに、目の前の
この非モテ馬鹿はあからさまに照れまくっているのが、ミコトにまで伝染
してきて迷惑この上ない。
 
 
 
 『つ、つまんない事かんがえてんじゃないわよっ!!』
 
 
 『べべべべつに・・・ ぜんっっっぜん、考えてねーぇしっ!!』 
 
 
 
ゴクリ。 まだミルクティを飲む前から息を呑む音がハッキリ響く。
そして、イツキがペットボトルの飲み口にしずしずと唇を付けた。
 
 
ミコトが付けているリップクリームの甘い香りがほのかに霞めた気がして
眩暈がしそうだ。

なんだかうっすら涙目で遠くを見つめペットボトルに口を付けるイツキと
それを隣で、モジモジしながらチラチラ横目で見ているミコト。
 
 
なんだかやけに今夕の風は生ぬるく、しっとりと纏わりつく。
 
 
今日のみるくたっぷりミルクティは、いつもに比べてとろける程に甘かった。
 
 
 

■第55話 まるでそれは返事のような

 
 
 
ふたり、公園のベンチでほんの少し寄り添って原稿に目を落とす。
 
 
照れくさくて恥ずかしくて、ただ吸って吐くだけの呼吸すら戸惑い、
どうやって今まで何も考えずに息をしていたのか、会話していたのか
名を呼び合っていたのか、互いに全く思い出せない。
 
 
正直、原稿になど集中出来ずにいた。

ベンチにやたら浅く座るふたりの間には、飲みかけのペットボトルが2本。
この2本分の間隔だけなにか必死に言い訳をするように空けて、まるで勇気
を出してギリギリまで近付いてみたかの様なそのふたりの距離感。
 
脚を広げて座るイツキの膝は大きく外向きになっている為、照れくさそうな
まるい桜色のミコトの膝頭にもう少しで触れてしまいそうで。
 
 
 
  (触れてみたいな・・・。)
 
 
  (もうちょっとで膝がぶつかっちゃいそう・・・。)
 
 
 
その手も、膝も、視線も、気にしていないフリを装うふたりの間で歯がゆく
留まっていた。
 
 
 
 
相変わらずやわらかくて、あたたかい、イツキの紡ぐ物語。

今までは主人公のミナトとカスミの恋物語としてしか見ていなかったのに、
なぜか今、ミナトはイツキに見え、カスミにはミコトを投影してしまう。

必死に机に向かい8Bのえんぴつを握るイツキは、自分でも気付かぬうちに
少しずつ少しずつカスミにミコトの姿を重ね合わせていた。 控え目の設定
だったカスミが気が付くと元気でどこか勝気なそれになってゆく。 
 
 
 
  ミコトのことばかりを考えて書いていた。 
 
 
 
ミコトが、腹を抱えて大笑いするときの顔。

ミコトが、眉間にシワを寄せて憎まれ口を叩くときの顔。

ミコトが、照れくさそうに目を逸らすときの顔。
 
 
 
  一日24時間、ミコトのことばかりを考えていた。
 
 
 
そして、それはミコトも同じだった。

イツキのマル秘ノートを覗き見てしまってからというもの、過剰にイツキを
意識してしまっていつも通りの何気ない感じになど到底出来なかった。
 
 
 
  (もう・・・ カンベンしてよねぇ・・・。)
 
 
 
ひとり、持ち帰った原稿を自室で読んでいても、それが全て自分への
ラブレターに見えて仕方がない。 自意識過剰過ぎるかもと思いつつも
主人公のミナトがカスミへと向ける視線も言葉も、イツキのそれとなって
ミコトの胸に迫りくる。
 
 
気付くと、ミコトの感想文にも変化が訪れていた。

真剣にパソコンに向き合い指先でカタカタ打ち付けるキーボードの音が
照れくさそうにはにかんで弾む。 ミコトの頬はほんのり染まり、口許は
歯がゆくじれったく噤まれ、その刹那、やさしく緩む。
 
 
印刷のアイコンをクリックし、プリンターから排出されたそれを手に取り
ミコトは読み返してみて、途端に真っ赤になった。
 
 
 
  まるで、それは。 イツキからのラブレターへの返事のような。
 
 
 
『もぉ・・・ ナンなのよ・・・。』 もう誤魔化し切れないイツキへの
溢れる想いが、規定ゴシックの規則正しい文字でそこにあった。
 
 
 

■第56話 あいたい気持ち

 
 
 
自室でひとり、待ちに待ったミコトからの感想を読み、イツキは両腕で
頭を覆って身悶えた。

何度も何度も読み返し、必死に自分の勘違いまたは解釈違いに違いないと
心の中でひとり繰り返す。
 
 
 
  (ここここれは、作者宛であって・・・

   ・・・オオオオオオレに、じゃないし・・・。)
 
 
 
そこにあるのは。 まるでラブレターのような、それ。
生まれてこの方、一度も貰ったことも無ければ微塵も渡す勇気がない、それ。
 
 
どんな顔して読めばいいのか、どんな体勢がベストが、正座か否か。

服装はくたびれた部屋着Tシャツのままで良かったのか、襟付きドレスコード
は無かったのか。 手洗い・うがいは済ませたから問題はない。 ついでに
歯磨きもしておいた方が良かったのかもと混乱混線する脳内は噴火でもしそうで。
 
 
 
  (な、なんだ・・・ なんなんだ・・・。

   この感じ・・・
 
 
   この、言葉に・・・ 文字にするとしたら、

   ナンて表現するのが正解なんだ・・・?
 
 
   なんて言葉が当てはまる?

   小説に書くなら、なんて書く?
 
 
   痛いような、息苦しいような・・・
 
 
   喉の下、っつーか・・・

   肺の奥、っつーか・・・

   みぞおちの斜め下、っつーか・・・。
 
 
   そうか、ココか・・・  
 
 
 
   ・・・ココは、 心臓、か・・・。)
 
 
 
大きくペンダコが膨れ上がる右手で、Tシャツの上からぎゅっと心臓を
押さえた。 あまりに歯がゆい音を高鳴らせるそれに、苛立ち紛れに拳を
作ってゴツンゴツンと叩きつけてみる。
 
 
 
 『痛てぇ・・・

  まじ、心臓・・・ 痛てぇっつの・・・。』
 
 
 
恋の病に侵された乱れ狂う心臓は、拳で叩いたくらいじゃびくともしない。

体を屈め、かと思うとよじらせて身悶え、落ち着きなく前後に揺らしてみる。
ぎゅっとつぐんだ唇のわずかな隙間から、本音がぽろりと零れて落ちた。
 
 
 
 『・・・ぁ、あいたいな・・・。』
 
 
 
そして自分のその切なげな声色に自分で照れまくって、真っ赤になった。

再び頭を抱え込んで背を丸め、溜息にも似た息をつく。
吐いた息に紛れて、再びじれったく本音が漏れる。
 
 
 
 『 ”あいたい ”って、

  なんか、他の表現ねぇのかよ・・・
 
 
  もっと、こう・・・ 軽い感じ、っつーか・・・

  やんわりと、つうか・・・ なんか、こう・・・。
 
 
 
  アイツの、隣は・・・ 

  ・・・いつも隣にいるのは、  オレ、じゃねえの・・・?』
 
 
 
胸の痛みと、火照りに火照った頬と、爆発寸前の頭にかこつけ勢いに任せ、
イツキはガバっと立ちあがるとすぐさまケータイに手を伸ばした。
 
 
自分に悩むヒマを与えない、その光のスピード。
0コンマ1秒でも動きを止めたら、もう行動には移せなさそうな気がした。

そして、突き指しそうな勢いでそれをタップするとウルウルに潤んだ目を
見開き左耳に当てる。

爆発しそうな心臓の鼓動に混じり、冷静なコール音が耳の奥に響く。
 
 
 
  トゥルルル トゥルルル トゥルルル トゥルルル・・・
 
 
 
4回目のコールで、繋がった。
 
 
『どうしたの・・・?』 ケータイの向こうの声が照れくさそうに微笑んだ。
 
 
 

■第57話 恋の病

 
 
 
 『どうしたの・・・?』
 
 
ミコトは頬がジリジリと真っ赤に染まってゆくのを感じながら、やさしく
小さくイツキに問い掛ける。

ケータイから着信音が鳴り響いた瞬間、ミコトもまた電話をしようか迷い
小さな両手でしっかりそれを握り締め、潤んだ目で見つめていたのだった。
 
 
イツキからのそれに飛び跳ねるくらい驚き、突然早鐘の様に打ち付けだした
胸の鼓動にシンクロするように指先がふるふると震え、本当はワンコールで
出たい気持ちはあるのに中々そう出来ずに、やっと4回目に出たのだった。
 
 
『ぁ、あのさ・・・。』 最初のひと言を発した途端、二の句を継げずに
口ごもったイツキ。 心臓の爆裂音がケータイに拾われてしまうのでは
ないかと思うほど、喉元で大きく高く鳴り響く。
 
 
『ん・・・。』 ミコトもまた同じ痛みを胸に、電波の向こうのイツキを
急かしたりはせずにいた。 ただ黙って、イツキの息遣いを聴いている。
ふたりの間に言葉には出さずともその空気が、気持ちが、流行り熱のように
じんわり伝わる。
 
 
 
 『ぁ、あの・・・ アレ!

  その。 今回のアレ・・・ 
 
 
  ・・・も、もいっかい読みたいんだけど・・・。』
 
 
 
イツキが言ったアレとは、今回の新作の原稿の事だった。
 
 
本当は ”あいたくて仕方ない ”と言いたい。

あいたくて、あいたくて、あいたくて、どうしようもない。
言えるものなら、すぐさま言いたい。

しかし、臆病すぎるその喉からは原稿にかこつけたその理由をこじつける事が
精一杯だった。
 
 
『ん。 明日、持ってくよ・・・。』 そう返したミコトへ、イツキは語尾
が被る勢いで早口でまくる。
 
 
 
 『いや、あの。 そうじゃなく、て・・・ 
      
           ・・・・・・・・・ぃ、今・・・。』
 
 
 
『今っ?!』 さすがにミコトも驚いて声が裏返る。

思わず自室の壁掛け時計に目を向けると、もう夜の10時を廻っている。
ケータイの向こうからミコトの戸惑いの色がありありと見えたけれど、
ここで怖気づいて引いてはいけないとイツキは自分を奮い立たせる。
 
 
 
 『ぃ、今っ!!!

  あの・・・ もう遅いから、

  ・・・オレ・・・ 近くまで取りに行く、から・・・。』
 
 
 
すると、暫くミコトからの返事はなかった。

イツキはぎゅっと握り締めた手元に不安で仕方ない弱々しい視線を落とす。 
ケータイに強く当てた赤い耳には、ミコトの静かな息遣いだけが流れる。
落ち着きなく爪の先を弾き、やはり迷惑だったのだとうな垂れかけた。
 
 
 
 『・・・じゃあ、公園にしない?』 
 
 
 
ミコトからやっと発せられたそれに、イツキは
”ごめん、やっぱいいや。”と言い掛けた ”ご ”の口を真一文字に閉じた。

『ま、まじで・・・? いいのっ?!』 イツキのその反応に、姿を見ずとも
身を乗り出して目を見張る様子が目に浮かび、ミコトは思わず微笑み頷く。
 
 
 
 『あの・・・ もう暗いし、遅いからさ・・・

  公園の向かいのコンビニに、取り敢えず。来てくんない・・・?』
 
 
 
『ぅん。』 とミコトが照れくさそうに頷く。

『悪りぃな・・・。』 イツキの声色は嬉しさを隠そうともしないそれで。
 
 
 
 
通話が終わったのを表すツーツーという機械音が鳴ってもまだ、ふたり、
ケータイを耳から離せずにいた。 あまりに熱を持った左耳のせいで
本来はひんやり冷たいはずのアルミ合金のケータイまでじんわりと温かい。
 
 
 
  (早く、あいたい・・・。)
 
 
  (急いで行かなきゃ・・・。) 
 
 
 
恋の病は、完全にふたりを捕らえて離さなかった。
 
 
 

■第58話 あいたいとき

 
 
 
公園の向かいにあるコンビニに先に着いたのはイツキだった。
 
 
もう夜の10時半はとうに廻っている。 こんな時間にミコトをひとりで待た
せる訳にはいかない。 それは例えどんなに明るいコンビニ店内であっても
心配で仕方がないのは同じだった。
 
 
慌てて息せき切って走ったために、せっかく整えたスーパーマッドタイプの
ワックスが裏目に出て、向かい風を浴びまくった前髪があらぬ方向に飛んで
しまっている事に、イツキはコンビニのガラス窓に映る自分を見て初めて気
が付いた。

おまけに部屋着のTシャツで飛び出して来てしまった。 母親が何処かに旅行
に行った際に土産で買ってきたしょうもないご当地Tシャツを、よりによって
今日このタイミングで着ていた自分を穴でも掘って埋めたい。 お気に入りの
黒のアバクロTシャツは洗濯したばかりでまだ洗面所に干されていたっけ。
 
 
すると、遠く暗がりの中からこちらに向かって自転車のサークルライトが右に
左にゆらゆら揺れながら現れるのが見えた。 ロールアップしたデニムに、
羽織ったドルマンドレープのカットソーが小柄なミコトを更に華奢に見せる。

慌ててイツキの目の前に滑り込み急ブレーキをかけたミコトもまた、前髪が
飛んでおでこが全開になっていた。 ハァハァと肩で息をしながら照れくさ
そうに中々整わない呼吸を必死に鎮めようと、背中を丸め胸に手を当てる。

そして、そっと視線が絡み合うとふたりは照れくさそうに頬を緩めた。
 
 
 
夜の公園にやって来た。

いつものベンチにちょこんと腰掛けるミコトの元へ、自販機でミルクティを
2本買ったイツキが駆け足でどこか慌てて戻る。 無言で差し出されたそれに
ミコトが可笑しそうに肩をすくめて笑う。

『アタシを太らせたいわけぇ~?』 ツンと澄まし顎を上げて目を細めるも、
その頬は嬉しそうにやわらかく緩んでゆく。

ミコトの笑顔を目に照れくさそうにペットボトルのキャップを少し乱暴に開け
喉が渇いて仕方なかったかの様にグビグビ甘ったるいそれを勢いよく飲んで
いる隣のイツキを横目で見て、『ほんっとに好きなんだね。』 吹き出して
笑った。
 
 
ほの暗い公園にぽつんと心許なく立っている街灯の明かりが、黙って並んで
座っているふたりの背中をぼんやり照らす。

小粒の砂利はふたりのその距離を表すように、シャリシャリとすぐ間近で音
を立てる。 イツキの爪先が汚れた大きなスニーカーと、ミコトのごろんと
丸いサボサンダルの靴裏が、照れ隠しの様に少し足先を動かす度に歯がゆく
じれったくシャリシャリ鳴った。
 
 
ミコトがカバンから原稿を取り出し、イツキへと渡す。 『はい、これ。』

すると、イツキはただあいたいが為の口実だったそれに、一瞬なんのことか
と首を傾げ一拍遅れて即座に手を出す。
『あぁ、そうそう! よ、読みたかったんだった・・・。』 と誤魔化した。
 
 
イツキは渡された原稿用紙に目を落とすも、一切内容など読んではいなかっ
た。 用紙の端を指先でつまむだけで、中々そのページは進まない。
 
 
ミコトはただイツキの隣に座り、やわらかく穏やかなその時間に身を任せて
いた。 ベンチの座面フチに手を掛け、少し前のめりになってぶらぶらと足
を揺らす。 再び砂利が立てたシャリシャリという音が、公園の草むらから
流れる夏の虫の音と相まってやさしいBGMのようにそよいだ。

イツキが新作を読みたいなんていうのが本音ではない事ぐらい、気付かない
はずはない。 何故ならミコトは作者が誰か知っていたし、一番内容を熟知
しているその本人がわざわざそれを急いで読まなければならない理由など無
いのだから。
 
 
そっとイツキの横顔を盗み見る。

ひたすら原稿を読むフリをしているその目は、かすかに潤んで、そしてどこか
落ち着きなく彷徨って。
 
 
ミコトは覗き見てしまったイツキの ”マル秘ノート ”の一行を、そっと思い
出していた。
 
 
 
      ”あいたいときは、なんて言ったらいいんだろ。”
 
 
 

■第59話 二通りの想い

 
 
 
イツキがそっと呟いた。
 
 
 『お前・・・

  ・・・まだ、 いまだに・・・ 作者のこと気になるわけ・・・?』
 
 
 
言ってから、慌ててさり気なさを装おうと原稿のページを無駄にめくってみる。
静まり返った夜の公園に、紙が立てる音だけが連続して小さく響く。

ミコトはイツキが言った ”その意味 ”を、考えていた。
それには二通りの解釈の仕方があった。
 
 
 
  ”作者の正体 ”が気になるのか、

  それとも、”作者のことを意識している ”という意味か。
 
 
 
イツキもそれにふたつの解釈があると分かっていながら、そういう言い方を
した。 訊きたいのは、本当にそのどちら共に対してだったのだから。

ミコトが作者の正体を知ったらどう思うのか、幻滅するのかガッカリするか。
そして、恋物語を生み出す作者自身を今も特別な目で見ているのか、否か。
 
 
ミコトは暫く考え込んで、そしてボソっと呟いた。
 
 
 
 『気になる、って・・・ どうゆう意味で?』
 
 
 
いい加減、本当のことをイツキ本人の口から聞きたいという想いが溢れる。
そしてそれにも、二通りの想いがあった。
 
 
 
  ”本当のこと ”

  それは、”作者本人である ”ことと、”ミコトへの気持ち ”
 
 
 
ふたりの間に、居心地の悪い少しひんやりした風が通り抜ける。

イツキが指先に掴む原稿用紙が、一瞬力を込めた為にクシャっと音を立て、
ミコトが両手に掴んで持つミルクティのペットボトルがペコっと音を出す。
 
 
イツキの胸に、一気に仄暗く渦巻く不安がよぎった。

嫌われたくない、ガッカリさせたくない、嘘を知られなくない。
このままの距離じゃ到底物足りないけれど、リスクを負う覚悟はどうしても
持てなかった。
 
 
 
  同じ心臓の痛みなら、

  嫌われる痛みよりも、手の届かない歯がゆいそれの方が、まだ・・・
 
 
 
すると、俯いていたイツキが途端に話題を変えて話を濁した。
 
 
 
 『ぁ、あの・・・ コレ、

  ・・・次が、最終話なんだな・・・ 終わっちゃうんだな・・・。』
 
 
 
その明らかな話を逸らすための大根芝居っぷりと、煮え切らない及び腰に
ミコトはさすがに苛立って素っ気なくひと言だけ返して、口をつぐむ。
 
『・・・ん。』
 
  
バカで、ヘタレで、度胸もなくて、格好も悪くて、ダサいTシャツを着た
イツキを横目で睨むと、いつもの悪罵がその口を突いて出そうになった。

痛烈なひと言でも浴びせてやろうかとミコトが口を開きかけた、その瞬間。
 
 
 
 『サ、サエジマと 一緒に・・・

  ・・・もう、コレ読めなくなるの・・・
 
 
  なんか、 なんつうか・・・
 
 
  ・・・・・・・・・・・・・・さ、寂しいな・・・。』
 
 
 
イツキの声は震えていた。
ハッキリ分かるくらいに、それは痛々しい程に。
 
 
ただ ”寂しい ”というたったひと言を言うのに、どれだけ今勇気を出した
のだろう。 イツキは膝の上で拳を作り、片足は落ち着きなく貧乏揺すりを
して足元の砂利が耳障りな音を響かせている。

しかし、それすら耳に入らない程、イツキの臆病な胸の内を想ってミコトの
胸はぎゅっと締め付けられて息苦しくなった。
 
 
 
 『お前と・・・ コレ、読めて・・・

  ほんと、まじで・・・ 

  あの、まじで・・・ オレ、 愉しかった・・・
 
 
  ・・・ぁ、ありがとう・・・。』
 
 
 
最後にもう一度だけ、イツキは囁くように呟いた。
それは、まるで泣いているみたいに震えて切なく夜の公園にこぼれた。
 
 
 
 『一緒に、読んでくれて・・・  ありがとな・・・。』
 
 
 
 
そして、最後の原稿をミコトに渡す日がやって来た。
 
 
 

■第60話 最後の物語

 
 
 
その朝、イツキは2時間早く自宅を出てゆっくりゆっくり歩いていた。
 
 
”サクラ咲く アカル散る ”の最終話が昨夜書き終わった。

数か月かけて全てを書き上げた、それ。
今までもいくつも小説をしたためてきたけれど、やはりそれへの思い入れは
殊更で ”終 ”と最後の一文字をページ後方に書き込むその手は、達成感やら
嬉しさやら高揚する気持ちが抑え切れず小刻みに震えた。
 
 
それと同時に、一抹の寂しさも顔を出す。
 
 
小説でも描いた事のない思いもよらぬ展開で、ミコトにそれを読んでもらう
流れになりふたりでひとつの机に腰掛けて物語に入り込む放課後がなにより
大切になっていた。

隣で原稿に目を落とすミコトが嬉しそうに微笑んだり、自分のことのように
はしゃいだりするのを横目に、どんどん溢れだす淡い気持ちのやり場に困り
果てた。 そしてそれに比例するように募ってゆく、罪悪感。
 
 
 
  ミコトを騙している

  嘘をついている
 
 
 
ミコトが嬉しそうに微笑めば微笑むほど、それはイツキの胸に重く積もって
ゆく。 本当のことを言いたいけれど、それはミコトを幻滅させ、なにより
物語を愛してくれた気持ちまで否定させてしまう気がして、臆病なそのノド
からは真実など言えそうになかった。

決して言えぬまま、最終話を迎えていた。
 
 
そして、イツキはひとつ決心していた。
 
 
 
  これが、最後。

  これで嘘は最後にしよう。

  もうこれ以上ミコトには物語を届けない、と。
 
 
 
そう決めたイツキの指先は、いつにも増して強く強く8Bのえんぴつを握り
締め変形したペンダコが痛々しい程だったが、周りの音など一先耳に入らない
くらい集中して最後の物語を書いた。
 
ミコトのことだけを想い、懸命に、えんぴつは止めどなく流れるように原稿の
上にやさしい鉛色を残した。
 
 
 
まだだいぶ早い早朝の校舎は、運動系部活の朝練すら行われていないため静ま
り返ってまるで音のない世界に迷い込んだかのようだった。

靴箱前に立ち、上履きに履き替える。
なぜか今日はいつも踏み潰す踵を、指先で均しながらすっぽりとその中に押し
込めた。 常に気怠さを装って敢えて擦って歩くその耳障りな足音も、スっと
背筋を伸ばしまっすぐ美しい姿勢で歩くイツキに、磨き上げられた廊下の床面
に響く内履きの靴裏ゴムがキュっと小気味よい。
 
 
イツキの足はゆっくりゆっくり2階の教室へと向かう。

階段の段差を静かに踏みしめると相変わらずの耳にやさしいゴムの擦れる音と、
片手に握ったカバンが制服のズボン横をかすめる音が小さく聴こえた。
階段踊り場の高い位置にある窓からは、若い朝陽が顔を出しイツキを照らす。
 
 
ふと、ミコトと階段でじゃんけんグリコをしたあの日を思い出した。
 
 
新作を読み終わった夕暮れの放課後に、ふたりで腹を抱えてケラケラ笑った
あの日。 階段踊り場に、壁に、天井に、ふたりの愉しそうに笑い合う声が
色とりどりのスーパーボールのように元気よく跳ねて響いたあの日を思い出し
イツキは懐かしそうにどこか寂しそうに目を伏せる。
 
 
 
  (もう、放課後にあんな風に笑い合うことも無いんだな・・・。)
 
 
 
小さく溜息のような息をつくと、見慣れた教室の戸口前で足を止めた。

引き戸に指先をかけてそっと右にスライドすると、それはガラガラと乾いた
音を立て当たり前だがまだ誰もいない閑散とした教室内が一度に見渡せた。
 
 
ゆっくりミコトの席まで向かい、机の上にカバンを置く。

バックルを指先で挟むようにカチャリとはずして、かぶせ部分をめくると
それが見えた。 この数か月で少しくたびれてよれてしまった原稿が入った
茶封筒。 やさしく取り出すと、表に書いた ”感想お願いします ”の文字
に少し微笑んでそっと撫でてみた。
 
茶封筒が小さく小さく撫でられて音を立てた。
 
 
鼻から息を吸って、小さく吐く。
じんわりと熱いものが込み上げる胸が、呼吸に合わせて上下した。
 
 
 
 
するとその時、
 
 
 
    『こんなに来るの早かったんだね・・・。』
 
 
 
慌てて振り返ったイツキの目に、教室戸口に佇むその姿が映った。
 
 
 

■第61話 震える両手で

 
 
 
耳に聴こえたその声に、イツキは慌てて振り返る。
 
 
 
そこにはミコトが佇んでいた。

両腕を上げて気持ち良さそうにグンと伸びをして、その華奢な姿は小さく
微笑む。
 
 
 
 『毎回こんなに早起きするの、大変だったでしょ・・・。』
 
 
 
イツキは手に掴んだままの茶封筒を咄嗟に離して、なんて誤魔化そうか
今日はたまたま早く来ただけを装おうか、混乱する頭で色々考えてみる
もののワナワナと震える喉が、手が、脚が、まったく自由が利かずただ
ただ無言でその場に立ち尽くす。
 
 
押し潰されそうな重い空気に顔面蒼白のイツキとは対照的に、ミコトは
教室の窓から差し込む朝陽に眩しそうに目を細めて、上機嫌な様子で朝の
空気を胸いっぱいに吸い込んでいる。 

気付かれないはずはない、イツキの早朝のこの行動の意味。
 
 
 
イツキはぎゅっと口をつぐみ、足元に目を落とした。

最後の最後、今回でもう終わりにしようとしたそのタイミングで、結局
ミコトに嘘がバレてしまった。 責めるでもなじるでも無い、なにも気に
していない様なミコトの様子に、逆にイツキの罪悪感はむくむくと膨れ上
がり張り裂けそうなその胸を締め付ける。
 
 
 
 『・・・ご、ごめん・・・。』
 
 
 
イツキが震える声で、呟いた。
 
 
 
 『オレ・・・

  ずっと、嘘、ついてた・・・
 
 
  ・・・騙してた・・・ お前の、こと・・・。』
 
 
 
すると眩しそうに目を細めて窓の外を見ていたミコトが、イツキにゆっくり
目を向ける。 『 ”騙してた ”って・・・ なにが?』 抑揚のない声で
呟いて小首を傾げ。
 
 
 
 『・・・ガ、ガッカリ・・・ した、ろ・・・?
 
 
  だって、お前・・・

  お前の。 描いてた作者の、理想像・・・ ゼンゼン違うだろ・・・
 

   
  ガッカリさせんの申し訳なくて・・・

  ・・・いや、コレはただの言い訳に聞こえるだろうけど・・・

  い、言い訳なんだけど・・・

  
 
  ・・・オレ・・・。』
 
 
 
今にも泣き出しそうな顔をして、俯くイツキ。

耳が真っ赤に染まり、強く噛み締めた奥歯が健康的に引き締まった頬を
みるみる引き攣らせてゆく。

ショックなはずのミコトがなにも気にしていないかの様に振舞ってくれて
いるのが申し訳なくて居た堪れなくて、こんな事なら最初から物語なんか
書かなければ良かったと、イツキは伏せたままの顔を情けなくしかめる。
 
 
すると、
 
 
 
 『ビックリはしたけど、ガッカリなんてしなかったよ。』
 
 
 
ミコトのその囁くようなひと言に、イツキは弱々しく視線を上げた。
そして、自信なげにミコトを見つめる。 
 
 
肩をすくめクスっと小さく笑ってイツキの方へとゆっくり、しかし確かな
足取りでミコトが向かって来る。 机と机の間を進み、こちらに近付いて
来る小さな足音が無性に怖く感じて無意識にイツキの肩に力が入った。
 
 
 
 『ごめんね。

  アタシ、随分前に気付いてたの・・・
 
 
 
  気付いてたのに、気付かないフリしてたの。
 
 
  きっと・・・

  アタシが気付いてるの分かったら、アンタ、書きづらいと思ったし。
 
 
 
  それに・・・』
 
 
 
ミコトがイツキの目の前に立ち、少し顎を上げてまっすぐ視線を合わせ
そして哀しそうに眉根をひそめ目を逸らした。
 
 
 
 『それに・・・

  もう・・・ 書いてくれなくなると思ったから・・・。』
 
 
 
そう呟くと、ミコトはイツキの右手を震える小さな両手で掴んだ。
そしてそっと目の高さに持ち上げ、じっと見つめる。
 
 
 
 『ペンダコ・・・

  また、酷くなってるじゃない・・・。』
 
 
 
イツキの右手中指には、痛々しいほど膨れ上がり変形したペンダコが
あった。 第一関節と爪の丁度中間くらいの所に赤々と突出したそれ。

ミコトは一瞬それに指先で触れてみようか迷うも、痛そうで怖くて、
なんだか哀しくなって止め、大切に守るように包み込んだ。

その大きな不器用なゴツい手は、あたたかくて、やさしくて、ミコトの
小さな心臓を有無を言わさず鷲掴む。

その時、はじめてミコトの手に触れられて、ダイレクトにその温度を
感じてイツキの右手もまた恥ずかしいくらいに震えた。
 
 
ミコトは更に力を込めてその大きくて不器用な手をぎゅっと握り締めると
祈るように自分の額に当て、なんだか苦しそうに顔を歪めて目を伏せた。
 
 
 
 
   『アタシの、ため、に・・・

    アタシに・・・ 読ませるため、だけ、に・・・

 
 
    ・・・がんばって、書いてくれたんだ、よね・・・?』
 
 
 
 
心臓が肥大して、風船みたいに宙に浮いて、所定の位置から喉元まで
上がってきたのかと思う程、その打ち付ける鼓動は大音響で直接耳に
頭に響き渡る。

水中で溺れ足掻いているみたいに、普通に息が出来なくて苦しくて。
 
 
 
ふたり、まったく同じ顔をして立ち竦んでいた。

泣き出す3秒前のこどもの様な不安げな顔で、互いを見つめていた。
 
 
 

■第62話 ミコトの告白

 
 
 
 『ァ、アタシ・・・。』
 
 
ミコトが、涙の雫が今にもこぼれ落ちそうな大きな瞳をまっすぐイツキに
向ける。 ぎゅっと握り締めたままのイツキの大きな右手を、そのままに。
 
 
 
 『アタシ・・・
 
 
  新作が引き出しに入ってる日は必ず、

  アンタが寝不足で・・・ 疲れた顔してんの、気付いてた・・・
 
 
  中指の、ペンダコだって・・・

  急ピッチで書けば書くほど酷くなるの、ちゃんと見てたの・・・。』
 
 
 
イツキもまた潤んだ目でミコトを見つめ返すが、込み上げる熱いものが
息苦しくてひと言も返せない。
 
 
 
 『アタシの・・・ 誕生日・・・
 
 
  ほんとは、あの日・・・

  放課後は、アンタと新作だけ・・・ 読みたかった・・・
 
 
 
  ミスギ君のトコ・・・ 行きたくなかった・・・
 
 
 
  アンタが、公園で待っててくれたのが・・・

  ・・・嬉しかった・・・

  すっごい嬉しくて嬉しくて、なんか泣きそうで・・・
 

    
  アンタのポケットから、

  プレゼントが見えてんのも、ちゃんと気付いてた・・・。』
 
 
 
その最後のひと言にイツキがガバっと顔を伏せ、困り果てたような
照れくさそうな苦い顔を作る。

なにもかもバレていたのに気付かれていないと思っていた、さり気
なさを完璧に装い切っていたつもりのあの日の自分が恥ずかしすぎて
もう死にそうだ。
 
 
 
 『アンタ・・・

  いつまで経っても、ぜんっぜんプレゼントくれないから・・・
 
 
  で。 なんか突然、自販機に突進してミルクティだけ買って、

  ドヤ顔で満足そうにしてるから・・・
 
 
  痺れ切らして、アタシ・・・ プレゼント強引に貰って・・・。』
 
 
 
  (・・・・。
 
 
   いや、オレ・・・

   あん時。 ドヤ顔なんか、してた・・・?

   テンパりすぎて、ぜんっぜん記憶にないんですけど・・・。)
 
 
 
ミコトの言葉は止まらない。
 
 
 
 『ミスギ君の告白を邪魔しに来てくれたのも・・・

  アタシ、ほんとにほんとに・・・

  涙でるくらい、嬉しかった・・・
 
 
  なんか無言で、ただ呼吸荒くしてるから、

  このまま鼻息だけ印象に残して、

  結局なんにもしないで帰っちゃうのかと心配したけど・・・。』
 
 
 
  (お前・・・ だんだん、ディスってきてるじゃねぇか・・・。)
 
 
 
 『でも。 乱暴に手首掴まれて引っ張られた時は、

  ほんとに、ほんとに・・・ 
 
 
 
  ・・・アタシ・・・ 嬉しかったの・・・。』
 
 
 
  (アメとムチがハンパ無いな・・・。)
 
 
 
ミコトは眉間にシワを寄せ、イツキを睨みつけて言う。
 
 
 
 『 ”マル秘 ”って、フツー ほんとにマル秘のものに書くっ?!』
 
 
 
さすがにあのノートの事を切り出させてイツキは目を見開き固まった。

まさかミコトへの伝えられない想いを綴ったそれを当の本人に読まれる
なんて思いもせず。
 
 
 
 『マル秘ノート・・・
 
 
  あの、後半の、アレ・・・

  ”アイツ ”って・・・ アレ・・・
 
 
  アタシ、だよね・・・?

  アタシの勘違いじゃないよね・・・?
 
 
 
  もう・・・ 心臓、痛いってば・・・
 
 
 
  あんなの間接的に見せられて、

  かと思ったら、あんなド・ストレートに気持ち書かれて・・・
 
 
  作戦なの? 実は全部アンタの作戦なの・・・??
 
 
  
  もぉ・・・ アンタのせいで、なんにも手に付かないよ・・・。』
 
 
 
最後は涙声で呟くミコトを、イツキはただただ見つめていた。

ミコトがぐしゅぐしゅと鼻をすする音が響き、頬に伝った涙を拭った
手の甲は濡れて光り、なんだか切なくて痛々しくて。
 
 
そして、眉間にシワを寄せ不機嫌そうに口を尖らせたミコト。
 
 
 
 『ァ、アタシが・・・

  アタシが、全部ゆっちゃってんじゃないのよ・・・
 
 
 
  ・・・言わすなっ、ばかっ!!!』
 
 
 
その照れくさくてイツキを見られない俯くしかめ面を見ていたら、
思わずぷっと吹き出してしまったイツキ。
 
 
愛しくて愛しくて仕方ない・・・
 
 
こんなに心臓が早く打ち付けて体内的には大丈夫なのだろうかと、
どこか他人事のように頭の片隅で思いながら、イツキはミコトから
掴まれていた手をそっとほどいて、その大きな両手で包み返した。
 
 
 
 『ぁ、あの・・・

  思いっきしバレてるとは・・・ 思うんだ、けど・・・ 
 
 
 
  ォ、オレ・・・・・・・・・・・・・・・。』
 
 
 
イツキが言い掛けた時、廊下の向こうから部活動の朝練終わりの生徒が
賑やかにこちらに向かって来る足音が聴こえた。
 
 
 

■第63話 ラストシーン

 
 
 
その時、廊下向こうから部活動の朝練終わりの生徒が賑やかにこちらに
向かって来る足音が聴こえた。
 
 
ふたりきりの朝の教室で、強く握り締めていた手を慌てて離す。

しかし、この中途半端な状態で今ふたりの間に漂う ”この空気 ”を
断ち切るのは生殺しとも言えるほどで。
 
 
すると、イツキが無言でミコトの手首を掴んで教室戸口へと促した。
ミコトは促されるままそれに従うと、慌てて机上の茶封筒を引っ掴んで
駆け出した。
 
 
 
まだ午前8時前のひと気も疎らな廊下を、ふたりは走る。

いつしかミコトの手首を掴んでいたはずのイツキの大きな手はしっかり
手を繋でいた。
もう自信なげに小刻みに震えてはいない、その手と手。 

イツキの手は確かな意思を持って握り締め、その脚は頼もしくリードする
ように目的地へ向けて駆けていた。
 
 
イツキが向かっていたのは、南棟だった。

屋上へと続くその階段は普段は出入厳禁となっていて外へは出られない。 
よって誰も近寄らない場所になっていたその階段踊り場。 イツキが早朝
に原稿を机に忍ばせた後、ひとり、寝て時間をつぶす場所だった。
 
 
パタパタとふたり分の足音を響かせてやって来たふたり。
今日のイツキは踵をしっかり内履きに収めていた為、跳ねる様に踊る様に
その足音も軽快で耳に心地よい。

少しだけ乱れた息を胸を上下させて深呼吸し整えると、互い顔を見合わせ
て照れくさそうにはにかんで笑った。
 
 
 
 『ココで・・・ 時間つぶしてたんだ、いっつも・・・。』
 
 
 
そう呟いていつもの所定位置、踊り場の壁に背を付けてズリズリとそこに
座り込んだイツキ。 すると、ミコトは目を細めて微笑んだ。
 
 
 
 『だっから、原稿が机にある日は

  カノウのズボン、汚れてたんだ~・・・?』
 
 
 
掃除もまともにされていないそこは、埃がひどくて直接床に座りでもした
ら汚れるのは必至だったが、毎回早起きする為に睡魔と闘うイツキには
そんなの全く気にしてなどいられなかったのだ。
 
『あっ!』 イツキの隣に座ろうとしたミコトに、今更ながら汚れている
床面に難色を示し、しゃがみ込むスカート姿を遮るように手を伸ばす。

すると、『別にいいよ。』 そう言って、ミコトは微笑んだ。
 
 
 
 『一緒に、 座りたいよ・・・。』
 
 
 
 
 
その後はふたり、なにも言えずにただ黙って並んで座っていた。

今までで一番近付いて。
ふたりの二の腕が触れ合うくらいの、距離で。
 
 
すると、ミコトが教室を飛び出す際に引っ掴んで来た茶封筒を思い出
した。 体育座りしている立てた膝を伸ばしてまっすぐ床に足を投げ出
すとスカートの太ももの上にそれを置く。

そして、『読んでもいい・・・?』 小首を傾げイツキへと確認した。
 
 
コクリとイツキが頷く。

自分が書いたと知られながらのそれは、内心恥ずかしくてどうしようも
なかったが、これが最終話、最初で最後になると思うとイツキもなんだか
感慨深かった。
 
 
ミコトが1枚、ページをめくる。
大好きな大好きな歯がゆくて甘酸っぱい恋物語。
 
 
あの日、ミコトの勘違いからはじまったふたりの恋物語もまた、最終章
に近付いているのを確かに感じながら、やわらかい息遣いでゆっくり
原稿をつかむ指先は終わりに向けてページを進めてゆく。
 
 
胸がじんと熱くなる。

物語の主人公ミナトとカスミも、互いへの想いを胸に高鳴る鼓動に苦し
げに顔を歪めながら、ただただ溢れそうな素直な気持ちを口に出そうと
しているこの物語のピークに達した、その時だった。
 
 
 
 
  (・・・・・・・・・・・。)
 
 
 
 
感慨深げに読み進めていたミコトが、とある一行で固まった。
固まったまま微動だにせず、真っ赤な顔をして目を見開いている。
 
 
『ん??』 イツキはそのミコトの様子に首を傾げじっと見つめるも、
どんどん真っ赤に染まってゆくミコトの頬や耳や首筋は留まることを
知らない。

その様子に最終話になにか誤字脱字または不手際でもあったかと、
イツキもさすがに心配になり、原稿をミコトの指先から引き放そうと
するもなんだか必死にそれを離そうとしないミコト。 
原稿でその赤面した顔を隠すように、終始、頑なな態度で。
 
 
 
 『なんだよ・・・? 見せろって。』
 
 
 
無言の押し問答の末、半ば強引にミコトの指先からそれを奪った。

そして原稿に目を落とし、ざっと速読するイツキの目に映ったもの。
 
 
 
それはラストのシーンで、主人公ミナトが想いを寄せ続けるカスミへと
遂に告白する場面だった。

だった、の・・・ だが。
 
 
 
 
 
 ≪ずっと、ずっと。好きだったんだ・・・ 俺。

                ・・・ミコトのことが・・・。≫
 
 
 
 
 
そこには、

ヒロイン ”カスミ ”ではなく、はっきりと ”ミコト ”と在った。
 
 
 

■第64話 告白

 
 
 
 ≪ずっと、ずっと。好きだったんだ・・・ 俺。

                ・・・ミコトのことが・・・。≫
 
 
 
  (・・・・・・・っっっ!!!!!!!!)
 
 
 
先程のミコトのデジャブさながら、イツキが赤色ペンキでも頭から
被ったかのように真っ赤っ赤になり、原稿で顔を隠す。
 
 
 
 『さ、最後の最後に・・・

  新しい登場人物が、 出て・・・ きた・・・の・・・??』
 
 
 
赤面するミコトが充血したような涙目で、イツキへと切り出しづらそう
に恥ずかしくて仕方なさそうに、小声でぽつり訊いた。
 
 
 
 
 
それは、昨夜。

真剣に最終話をしたためていたイツキは、ミコトに物語を読んでもらう
事になった経緯をひとり静かに思い返し、小さく微笑んだり、胸が切な
くチクっと痛んだり、まるで泣きそうな情けない顔をしたりしながら、
ミコトのことばかり考え物語のラストを書いていた。
 
 
 
  ミコトのことを考えて、考えて、考え過ぎて・・・
 
 
 
最後の最後。 主人公ミナトがカスミに想いを打ち明けるシーンで、
うっかりヒロインの名前を ”ミコト ”と間違えてしまったのだった。
 
 
地獄とも言える程の、長い沈黙。
 
 
ミコトは、イツキがなにか言ってくれるのをひたすら待つも、頭の中が
真っ白どころか純白、ピュアホワイトになり失神しそうなイツキから
聴こえるのはただただ荒く繰り返される呼吸音のみで。
 
 
なんて誤魔化そうか考えて考えて考えるも、なにも妙案は浮かばない。
イツキは諦めたように、正直に、蚊の鳴くような声でぽつり呟く。
 
 
 
 『ま、間違えた・・・ だけ・・・

            ただの・・・ ミス・・・。』
 
 
 
『・・・ミス?』 ミコトは恥ずかしくて仕方ない弱々しい視線を向け。
 
 
 
 『ぁ、あの・・・

  昨日は、あの・・・ 考え、すぎて・・・

  書きながら、考え過ぎて・・・
   
 
 
  ・・・・・・・・・・・・・・お前、の・・・ こと・・・。』
 
 
 
そう呟くと、イツキは体育座りする立てた自分の膝と膝の間に顔を埋めた。

チラリ覗いた耳の裏側も、首筋も、気の毒なくらいに真っ赤になって。
大きな体が、まるで小学生のそれのように心許なく小さく小さく丸まる。
 
 
 
  (死ぬ・・・

   恥ずかしすぎて、オレ、きっと、今、この場で、死ぬ・・・
 
 
   つか、もう・・・ いっそのこと誰か殺してくれ・・・。)
 
 
 
ミコトもまた、こんな形での思っても見なかった告白に心臓は壊れる
寸前だった。
 
 
 
  (もぉ なんなのよ・・・  苦しいってば・・・・。)
 
 
 
その瞬間、恥ずかしすぎて呼吸も出来ないミコトが慌てて立ち上がり
イツキに背を向けた。 あまりに火照る頬を見られまいと、こっそり
手の平をひらひらと揺らしその顔に風を送ろうとしたのだ。
 
  
しかしその時イツキは、なぜかミコトが何処かへ行ってしまうのでは
ないかと思ってしまった。
 
もう二度と手の届かない場所へ行ってしまうのでは、と。
 
 
 
 『ャ、ヤダ・・・

  ・・・ダメだ、行くなよ・・・。』
 
 
 
イツキの切なげな、切れ切れの声が階段踊り場に響く。
 
 
『え?』 別に何処にも行くつもりのなかった、ただ恥ずかしくて背を
向けようとしただけのミコトは、必死の形相のイツキに逆に戸惑う。
 
 
 
 『な、なによ・・・?』 
 
 
 『行くなよ!

  ・・・行かないでよ、頼むから・・・
 
 
  ど、どこにも・・・ 行かないでよ・・・。』
 
 
 
イツキはミコトの手首を乱暴に引き寄せると、バランスを崩したミコトが
イツキの胸になだれ込むようによろけた。
 
 
その瞬間、頭で考えるより咄嗟に体が動いたイツキ。

ミコトの首の後ろに手を添え震える胸に引き寄せると、ぎゅっと強く強く
抱きしめた。
 
 
 
 
 『す・・・・・・・・・・・・・・・

  好き、なんだ・・・・・・・・  好きなんだよ・・・・
 
 
 
  もう、どうしたらいいか分かんないくらい・・・

  なんて言葉にしたらいいか、分かんないくらい・・・。』
 
 
 
イツキの熱い息がミコトの赤い耳を更に熱く赤くさせる。

イツキの硬い胸の感触も、筋肉で引き締まった腕も、目の前にある喉仏も
少し背伸びしたら触れてしまいそうな唇も、なにもかも、ミコトの心臓を
狂ったように高鳴らせるには充分過ぎた。
 
 
驚いたミコトの膝から力が抜けた。 腰が抜けた様に床にふたり、ペタン
と座り込む。
イツキに抱きしめられたまま、ミコトは呆然と目を見開いていた。
 
 
そして、ゆっくりゆっくり震える手をその不器用であたたかい背中に廻す。
学ランの生地とセーラー服のそれが歯がゆく擦れ合ってかすれる音がする。
 
 
ミコトが、イツキの学ランの胸に顔をうずめて、ぎゅっと目を閉じた。
 
 
 
   『アタシも・・・

       ・・・カノウが、・・・  大好き・・・。』
 
 
 
その瞬間、校舎中に始業のチャイムが鳴り響いたけれど、ふたりは抱き
しめ合い互いの心臓の鼓動をその胸に感じ合ったまま、その場から動こう
とはしなかった。
 
 
 

■第65話 2月14日

 
 
 
放課後。

ふたりはチラっと互いに視線を送り合って、どちらからともなく歩み寄る。
 
 
照れくさそうに、でもどこか当たり前のように、ふたり揃って教室を出る。
そして長い廊下を抜けいつも決まって向かう先は、屋上へと続く誰も近寄
らないひと気のない南棟の階段踊り場だった。
 
 
壁に背を付けて寄り掛かり、並んで床に座る。

ふたりの肩も二の腕もしっかり触れ合い、床に投げ出した互いの足先は
歯がゆくぶつかる。 イツキの左足とミコトの右足の内履きの爪先ゴムが
ゆらゆら左右に揺らす度照れくさそうにコツン コツンとノックし合い、
そのやさしい感触に頬はほんのり色付いて緩んでいった。
 
 
毎日毎日、ふたりはここでなんてことない話をする。
 
 
みるくたっぷりミルクティのラベルがマイナーチェンジした、とか。
クソ英語教師の髪の毛が若干増えた気がしないでもない、とか。
イツキの身長が少し高くなった、とか。
ミコトの前髪がちょっと伸びた、とか。
 
 
そんな他愛のない話をしている間も、イツキの左手とミコトの右手は
常に常にやさしく繋がれていた。 指先から感じる互いの温度を決して
逃さぬよう、ふたりはいつも手を繋いでいた。
 
 
 
 『ねぇ! グリコしようよ、グリコっ!!』
 
 
 
突然勢いよく立ち上がったミコトが、嬉しそうにイツキの手を両手で
掴み強引に引っ張り上げ立たせる。
 
 
 
 『お前じゃんけん弱いから、

  結局、オレがいっつも不利じゃんかぁ~・・・』
 
 
 
しかめ面で言い返しながらも、イツキは相変わらずなミコトに愛しくて
仕方ない視線を向けどうしても笑ってしまう。

『ほら、ココから下りながらグリコすれば丁度いいじゃん?』 片手に
カバンを持つとミコトは空いた他方の手でスカートのお尻をポンポンと
払い埃で汚れたそれを均した。 そしてまだ体勢が整わないイツキなど
お構いなしに握ったグーの手を上下する。
 
 
 『じゃ~ぁん けんっ・・・。』
 
 
 
 
 
やはりミコトはじゃんけんが弱い。
 
 
『ぱ・い・な・つ・ぷ・る。』 イツキが先に6段下がった。

『じゃ~ぁん けんっ・・・。』 再びの掛け声に、『ぽんっ』の合図で
出したのはイツキがグーで、ミコトがチョキ。 『ぐー・りー・こっ』
 
 
そしてイツキは呆れた様に顔をしかめる。
 
 
 
 『やっぱ、お前じゃんけん弱す・・・』
 
 
 
すると、
ミコトがそれを無視して語尾が被る勢いで、 『じゃ~ん けんっ。』
 
 
ミコトはチョキを出し、イツキはパーを出した。
にっこり笑って、跳ねるように階段を降りるミコト。
 
 
 
 『ち・よ・こ・れ・い・とっ、 ・・・と。』
 
 
 
やっと階段を下りて来て近付いたミコトを、イツキが嬉しそうに小さく
微笑んで見つめる。

するとミコトは片手に持ったサブバックに手を突っ込み、なにか掴んで
手を出した。 そして、それを3段下のイツキに差し出す。
 
 
 
 『はい。 ちよこれいと。』
 
 
 
『ぁ。』 それをまじまじと凝視するイツキ。

そうだ、今日は2月14日。 バレンタインデーだった訳で。
負け続けているというのにミコトがやたらと ”チョキ ”ばかり出す事に
内心不思議に思っていたのが、やっと ”この為 ”だったのだと気付く。
 
 
はじめてちゃんと貰うバレンタインのチョコレート。

今までだって、十把一絡げのあからさまな義理チョコや、母親からの肉親
お情けチョコはあったけれど、付き合っている ”カノジョ ”から貰える
それは生まれて初めてで。
 
 
 
 『ぁ・・・ ありが、とう・・・。』
 
 
 
両手で掴んで小さな包みにじっと目を落とす。

小さくて軽いはずが、イツキの小刻みに震える手の平にやけに重みを感じ
させそして中のチョコが溶けてしまうのではないかと思う程になんだか
熱を発するようで。

胸の奥の奥がぎゅぅぅううっと握り潰されるように、痛くて苦しい。
 
 
 
  (やべぇ・・・ こんなに、嬉しいもんなんだな・・・。)
 
 
 
すると感慨深げに潤んだ目で悦に入るイツキなど放置して、ツンと澄まし
顔でミコトは更に淡々とじゃんけんを続ける。 『じゃ~ん けんっ。』

甘い雰囲気も余韻もあったもんじゃないとイツキが呆れて苦笑いすると、
次の一手もミコトが珍しく勝った。
 
 
  
 『ぐぅ りぃ ・・・  こっ。』
 
 
 
なんだか俯いてイツキの方は決して見ずに、ミコトはゆっくり階段を1段
ずつ踏みしめるように静かに下りた。
 
 
気が付くと、ふたりの段差はなくなっていた。
向かい合って立つ、ふたり。
 
 
突然のそのかしこまったような、どこか緊張したような様子に、イツキは
『ん?』と顔を覗き込もうと少し背を屈めた、その瞬間。
 
 
 
ミコトはイツキの肩にそっと手を置き、爪先立ちをして顎を上げた。
 
 

   
     。。。。。
 
 
 
 
 
   『た、誕生日・・・

           ・・・おめで、とう・・・。』
 
 
 
触れ合った唇をあっという間に離して、ミコトが真っ赤になって俯いて
いる。 イツキは今なにが起こったのか頭が整理できず、ただただ浅い
呼吸をして立ち竦む。
 
 
 
 
 
    階段の途中で、ふたり。

    生まれてはじめての、キスをした。
 
 
 
 
 
 『そ、そっか・・・ オレ、誕生日でもあったっけ・・・。』 
 
 
ミコトのぬくもりがダイレクトに伝わった自分の唇をそっと指先で押さ
えてイツキは呆然としていた。
 
 
今にも倒れそうな面持ちで、その潤んだ目はどこを見るでもなく遠くを
見つめる。 片手に握り締めたチョコの包みが、イツキの燃えるような
手の平の熱に少しだけ溶けて形を歪めた気がした。
 
 
 

■第66話 ”h ”

 
 
 
 『ェ、エッチが多いのよっ?! ・・・ねぇ、分かってるのっ??』
 
 
真っ赤っ赤に頬を染めたミコトが、急に大きく声を張る。
 
キスの余韻が漂いまくるその空気が恥ずかしくて、顔から火どころか
火柱でも上がりそうで、もうどうしようもなくて、ミコトは必死に話題
を逸らそうとした。
 
 
 
  (エ、 ・・・エエエエエ、エッチって・・・。)
 
 
 
  『ぃや、あの・・・
 
   ・・・今、 チュゥした、 ばっかで・・・ 
 
 
   ・・・ま、まだ・・・。』
 
 
 
シドロモドロになって口ごもる、負けず劣らず見紛う事無く真っ赤っ赤な
イツキを目の前に、ミコトは更に頬を染め半ば怒ったように口を尖らす。
 
 
 
 『ち、ちがっ・・・ なにゆってんのよっ?!

  ペンネームのことっ!!
 
 
   
  ・・・そ、そもそも、

  ァ、アンタが・・・ 簡単な英単語なんか間違うから・・・。』
 
 
イツキの覚え間違いで事態をややこしくさせた ”three ”という
ペンネーム。

”樹 ”を英語表記する場合 ”tree ”と書くのに、イツキは何故か
”h ”を足して覚えてしまっていた、それ。
 
 
『あぁ・・・ ん。 悪りぃ悪りぃ・・・。』 既に指摘されて、一度
怒られているその件を再度蒸し返され、ペコリ首を前に出して謝る。 
謝りながらも、必死にアタフタと照れ隠しをするミコトがなんだか滑稽で
チラリその様子を盗み見て思わず笑ってしまう。
 
 
  
 『ってゆーか・・・ 
 
 
  ・・・ ”まだ ”ってナニよ、 まったく・・・。』
 
 
 
自分で振った話題で更にドツボにはまり、赤面がとめどないミコト。
 
 
すると、それに加えて追い打ちを掛けるように、考えなしなひと言が
イツキの口から出た。 本来は心の中に留めておくべきそれは、アホな
イツキからは壊れた蛇口から吹き出すようにダダ漏れで。
 
 
 
 『今は、ほら・・・ チュゥだけ、だけど、さ・・・

  ・・・まぁ。 その・・・ ゆくゆくは、的な・・・?』
  
  
 
『ド、ドサクサに紛れてナニゆってんのよっ?!』 恥ずかしくて仕方
なくてミコトは不機嫌そうに眉根をひそめる。 
 
 
不満気に突き出したその唇。
 
 
上唇より少しだけ厚みをもったぷっくりやわらかい下唇を突き出し、
きゅっとつぐまれた口端は照れくさくて仕方なさそうに引き攣っている。
 
 
それを見ていたらもう一度触れたくて、もう一度きちんとそのやわらかさ
を確かめたくて仕方がない衝動にかられた。

思わずイツキはいまだ向かい合って立つミコトの肩にそっと手を置き、
少し身を乗り出して、怒られるのを重々覚悟してドサにもクサにも紛れ
まくってみる。
 
 
『ちょっ!!!』 ”その気配 ”に、首を引っ込めるように肩をすくめ
ミコトは身をよじらせ抗う。 自分からした先程のキスだって、だいぶ
長いこと悩んで悩んで、一生分の勇気を使い果たす勢いでやっと出来たと
いうのに。
 
 
 
 『来年の誕生日の分・・・ 前借り、でっ!!!』 
 
 
 
必死にキスをせがむイツキにミコトはムキになって抵抗する。
  
 
 
 『バババ、バカじゃないのっ?!』 
 
 
 
 
 
必死に抵抗しながらも、じゃれ合いのようなこの遣り取りがなんだか
可笑しくなってしまって、途中からケラケラと声を上げ笑い合い、
しまいには大笑いして、笑い疲れてふたりで階段の段差に座り込んだ。
 
 
 
 『今のやり取りもいいな。 小説に使えるかも。

  ・・・マル秘ノートにメモっとこうかな・・・。』
  
 
 
ニヤっと笑いながらやさしい視線を向けるイツキ。

『アタシの分のなんらかの権利も発生するからねっ!』 ミコトが顎を
上げ小憎らしい顔でジロリと横目で睨む。
 
 
 
 『そん時は、ほら。 作家夫人かもしんねーじゃん??』
 
 
 
なにも考えず軽く言ってしまって、自分の言葉の意味を考えイツキは俯く。
やっと治まったはずのジリジリとした熱が、再燃して耳を染め上げてゆく。
 
 
 
 『だっ・・・だから、

  早まり過ぎだって言ってんのっ!!!
 
 
  アタシ達、まだ キ・・・・・・・・。』
 
 
 
 『あぁ、ぅん・・・ オレ達。  まだ。
 
 
  キ ス し か し て な い ん だ っ た。
 
 
  イロイロモロモロは、 こ れ か ら、 こ れ か らっ!!』 
 
 
 
ミコトを遮ってわざと辱めるように滑舌よくそれを言い切るイツキ。
 
 
『もぉ・・・ バカなんじゃない・・・?』 下げた顔に連動してサラリ
垂れた髪の毛で隠す、恥ずかしくて仕方ない困った表情になっている顔を
ミコトは必死に見られまいとする。
 
 
 
   照れくさくて、

   恥ずかしくて、

   歯がゆくて、

   でも、その何億倍も愛おしい。
 
 
 
頭の先から足の先、自分の全部から、イツキへの想いが溢れ出てしまう
気がした。 イツキもまた、寄り添い隣に座るミコトのやわらかい甘い
香りに目を閉じて深く深く呼吸をすると、ミコトへの想いを抑え切れず
眉尻を下げ困り顔で情けなく微笑む。
 
 
 
そして、

どちらからともなく顔を上げ淡い視線が重なると、互いにそっと目を閉
じて眩暈がする程やさしいぬくもりに酔いしれた。
 
 
 
二度目の唇のほのかな温度は、一度目のとき以上に恋するふたりの胸を
ドキドキさせ苦しめた。
 
 
 

■最終話 人知れず、8Bのペン先で綴る君の名を

 
 
 
放課後の教室に、開け放った窓からやわらかい春の風が通り過ぎる。
 
 
3年C組。

進級しイツキとクラスが離れたミコトは、掃除当番に割り当てられた
モップを掃除用具入れの縦長のロッカーに少し乱暴に押し込め、少し
歪んだその扉をバンと手の平で叩くように閉めた。
 
 
 
 『ミコト~・・・? 

  掃除当番終わったんでしょ? まだ帰らないの・・・?』
 
 
 
自席の机にちょこんと腰掛け、なんだかやっとのんびり落ち着ける様な
面持ちのミコトにこれから部活へ向かうクラスメイトが声を掛けた。
 
 
『ん~、 ちょっと所用で・・・。』 ミコトがニヤっと口角を上げる。
 
 
手を振って教室を出て行ったクラスメイトの背中を見送り、やっと教室に
ひとりになったミコトは机の引出しからそっと ”それ ”を取り出した。
新品になった ”それ ”は、表面に相変わらず流れるような見事な達筆で
一行書いてある。
 
 
 
 
     ”感想お願いします ”
 
 
 
 
しかし、以前のそれよりも堂々として、なんだか自信がみなぎっている
ように見える。 実際に文字サイズは心なしか大きくなっている。
 
 
ミコトはその文字を指先でそっと撫でて、目を細め微笑んだ。

そして、ゆっくり茶封筒を開いて中から見慣れた原稿用紙を取り出すと
その表紙を潤んだ目でまっすぐ見つめ、それをセーラー服の胸にぎゅっと
抱き切なげに目を伏せた。
 
 
その時。
後方から声がした。
 
 
 
 『ミコト~ぉ。 ほら、帰るぞ~ぉ!!』
 
 
 
隣の教室から現れたイツキが、教室後方の戸口の上枠に手を掛け体を傾げ
ながら覗き込む。 
そして、ゆっくりと教室内を進むその足音はしっかり踵まで収めた内履き
が立てるパタパタという軽快なそれで、以前の気怠さは微塵もない。

机に腰掛け華奢な背中を丸めているミコトに近付き、背中からひょっこり
顔を出してイツキはミコトが大切そうに胸に抱くそれを覗き込んだ。
 
 
 
 『ぇ。 なに? なに読んでんの?』
 
 
 
すると、ミコトは満面の笑みで後ろのイツキへ呟く。
 
 
 
 『 ”感想お願いします ”って一言かいた封筒が、

   アタシの机の上に置いてあったの・・・
 
 
   この人・・・ すごいよ・・・

   アタシ、最初の1ページですっごい引き込まれた・・・
 
 
   ・・・この人・・・ 天才なんじゃない・・・?』
 
 
 
その言葉に、イツキも零れんばかりの笑みを向ける。
そしてミコトの頭にぽんと大きな手を乗せ、やさしくガシガシと撫でた。
 
 
 
 『じゃぁ、ガンバって感想書いてやったらいーんじゃねっ?』
 
 
 
イツキが頭に乗せるそのゴツい手をミコトはそっと掴むと、ぎゅっと握り
返してイタズラっぽく眉を上げ小首を傾げた。
 
 
 
 『ねぇ、アンタも一緒に読むぅ??』
 
 
 
すると、イツキが愉しそうに笑ってうんうんと頷いた。
 
 
 
 『言っとくけど。

  馬鹿にするようなこと言ったりしたら

  二っっっ度と見せないから ・・・それだけは覚えといてっ!!』
 
 
 
ツンと顎を上げミコトはジロリと目を眇める。

『分かっとります。』 イツキは背筋を正し仰々しくペコリと会釈した。
 
 
 
そして、ふたりでクスクス笑い合った。
 
 
 
 
 
春のやさしい午後の風が、ミコトが大切に掴む原稿をひらりとめくる。

その瞬間、やわらかい8Bのえんぴつでしたためたタイトルが現れた。
 
 
 
 
 
      ”人知れず、8Bのペン先で綴る君の名を ”
 
 
             ”tree ”
 
 
 
 
                            【おわり】
 
 
 

人知れず、8Bのペン先で綴る君の名を

人知れず、8Bのペン先で綴る君の名を

気怠く着崩した学ランと明るく染めた髪の毛、上履きの踵は履きつぶすイツキの最大にして最高の秘密は ”歯がゆく甘酸っぱい物語を書いている ”事だった。 誰にも知られる訳にはいかないはずのそれが、うっかり教室に原稿用紙を置き忘れクラスメイトのミコトに読まれてしまう。 ”感想お願いします ”とだけ書かれたそれに目を輝かせ読み耽るミコトはまさか作者がイツキだなんて思うはずもなく。 いつしかふたりで顔を並べて恋物語を読み進めるうちに、イツキは初めて物語ではない本物の ”恋 ”を知るが・・・。 ≪全67話 完結≫

  • 小説
  • 長編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-02-20

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著作権法内での利用のみを許可します。

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  1. ■ 序 章
  2. ■第1話 真剣に原稿用紙を読みふけるその横顔
  3. ■第2話 最上級の褒め言葉
  4. ■第3話 感想の伝え方
  5. ■第4話 ”サクラ咲く アカル散る ”
  6. ■第5話 勲章のようなペンダコ
  7. ■第6話 聖なる儀式
  8. ■第7話 引出し奥の茶色いそれ
  9. ■第8話 無意識のうちに姿勢を正して
  10. ■第9話 原稿用紙が入った茶封筒を
  11. ■第10話 少し震える指先で
  12. ■第11話 ”そう ”確信する点
  13. ■第12話 突如発覚した ”その正体 ”
  14. ■第13話 作者の正体
  15. ■第14話 ダミー
  16. ■第15話 晴れてダミーとなったソウスケ
  17. ■第16話 はじめて感じるモヤモヤ感
  18. ■第17話 ”尊敬 ”だけではない気持ち
  19. ■第18話 その視線の先
  20. ■第19話 呼び止めたいという気持ち
  21. ■第20話 気付かぬうちに綻んで
  22. ■第21話 放課後いっしょにいる理由
  23. ■第22話 じゃんけんグリコ
  24. ■第23話 英語のノート
  25. ■第24話 ソウスケの文字
  26. ■第25話 センス
  27. ■第26話 胸に秘めた想い
  28. ■第27話 聞き間違いではない、発音
  29. ■第28話 ただひとり
  30. ■第29話 あの日のこと
  31. ■第30話 公園での待合せ
  32. ■第31話 ふたりの距離
  33. ■第32話 小さな秘密
  34. ■第33話 誕生日の日付
  35. ■第34話 歪な三角形
  36. ■第35話 新作を読むより優先する事柄
  37. ■第36話 プレゼント
  38. ■第37話 耳に聴こえたその低い声
  39. ■第38話 格好つけたがるその不器用な姿
  40. ■第39話 制服ズボンのポケット
  41. ■第40話 四つ葉のクローバー
  42. ■第41話 イツキの誕生日
  43. ■第42話 忘れ物
  44. ■第43話 不完全燃焼のキモチ
  45. ■第44話 マル秘ノート
  46. ■第45話 叫ぶ声が
  47. ■第46話 イツキの秘密
  48. ■第47話 なにか巧い言い訳を
  49. ■第48話 揶揄で溢れる黒板前の人だかり
  50. ■第49話 言えそうにない理由
  51. ■第50話 日記というか、むしろ
  52. ■第51話 脳内会議
  53. ■第52話 ホントのことを知る権利
  54. ■第53話 ふたり歩く通学路
  55. ■第54話 みるくたっぷりミルクティ
  56. ■第55話 まるでそれは返事のような
  57. ■第56話 あいたい気持ち
  58. ■第57話 恋の病
  59. ■第58話 あいたいとき
  60. ■第59話 二通りの想い
  61. ■第60話 最後の物語
  62. ■第61話 震える両手で
  63. ■第62話 ミコトの告白
  64. ■第63話 ラストシーン
  65. ■第64話 告白
  66. ■第65話 2月14日
  67. ■第66話 ”h ”
  68. ■最終話 人知れず、8Bのペン先で綴る君の名を