キミノオトシモノ
秋の校外写生大会が開かれた日の午後のこと。
アヤコの五年二組では六時間目に、出来上がった作品を担任が一枚ずつ講評しながら教室の壁に貼り出した。コスモスが咲く花壇、木の葉が舞う公園、お寺の本堂、酒屋の店先。さまざまな絵が並ぶ中、先生が真顔で
「これはすごい」
とうなった作品があった。思わずアヤコも身を乗り出した。
それは道路に転がった一足の運動靴を描いた絵で、題名ラベルには「きみのおとしもの」と記されていた。
ピンクのラインが入った靴は、何度も車に踏まれたらしくぺちゃんこだ。その輪郭を描くペンの線は細くしなやかで、ヨレヨレの靴ひもやひっくり返ったゴム底の模様など、細かいところまで克明に描き込んである。その上から陰影を強調した水彩で丁寧に色をのせ、背景のアスファルトは絵筆の先を使った丹念な点描で凹凸を表現していた。
ぼろぼろの運動靴と乾ききった路面。題材は陰気なはずなのに、巧みな色使いでとてもさわやかな印象を与えていた。
「誰だこれを描いたのは。……カミヤか、すごいな」
意外な作者に、教室がどよめいた。アヤコもちょっと驚いて、斜め前の席で背中を丸めているカミヤ君を見つめた。
「技術は文句のつけようがないし、何より題材が面白い。この靴は、色からすると女の子のもののようだけれど、どんな子が履いていたんだろう。どうしてここに落ちているんだろう……いろんなことを考えさせる。これはきっと、全国コンクールでもいいところまで行くぞ」
先生がどんなに褒めても、カミヤ君はヘルメットみたいな坊ちゃんヘアをうなだれたまま、ニコリともしない。そのかわり彼の講評に二十分もかかったせいで、アヤコを含む残りの作品は「ほかのも力作ぞろいだから、よく見ておくように」の一言で片付けられてしまった。
放課後、アヤコが近寄ろうとするより早く、カミヤ君は数人のクラスメイトに取り囲まれた。
「褒められたんだから、嬉しそうな顔ぐらいすればいいじゃない」
「あれ、本当にプラモが描いたのか? うますぎだろ」
「なんとか言いなよ」
カミヤ君のあだなは「プラモ」だ。プラスチックのおもちゃみたいに無口で無表情で、そのうえ手足の動きがどこかぎこちないからだ。
「ねえアヤコ。『プラモを直す会』ってのを作ろうと思うんだけど、入らない?」
友人のユカがこちらに振り返った。
「第一目標は、喋らせること。第二目標は、ドッジボールを取れるようにすること。第三目標は……」
「また先生に怒られるよ」
アヤコは苦笑しながら歩み寄り、カミヤ君の前に腰を落とした。きつく問い詰めたりしたら、相手はますます縮こまる。しっかりと目を見て、優しく話しかけるのが一番だ。
「いい絵だね。あれ、どこで描いたの」
何気なく手を肩に置こうとすると、カミヤ君はびくっと半身を引き、磁器のようにつるりとした顔をプイとそむけた。
「アヤコにまでこういう態度とはね」
「いつもかばってもらってるくせに」
「ちょっと、静かにして」
声を尖らせる友人たちをひと睨みして、アヤコは辛抱強く話しかけた。
「教えてよ。あの靴、どこに落ちてたの」
いくら尋ねても、その端正な顔にはどんな表情も浮かばない。澄んだレンズのような二つの瞳は、焦点が合っているのかいないのかすらつかめない。
結局、音を上げたのはアヤコの方だった。
「そっか。みんなの前じゃ恥ずかしいかな。あとで思い出せたら教えてね」
「ちょっと。悪者はあたしたち?」
不満そうなユカをよそに、アヤコはランドセルをつかんで教室を出た。
(わたしバカみたい)
舌打ちしたい気持ちでいっぱいだった。ユカの言うとおり、カミヤ君に返事を期待するなんてもともと無理なのだ。彼がこのクラスに転入してからもう三か月が経つけれど、カミヤ君が喋る言葉を聞いた人は誰もいない。女子にからかわれようが男子に小突かれようが、彼は声一つ出さないのだ。
からかいの度が過ぎるときは、アヤコが先生に知らせてその場は収まるのだが、どんな騒ぎになっても当の本人は他人事のような顔で突っ立っているので、正直アヤコにとってはちっとも「助けがい」のない相手だった。
モヤモヤした気持ちで昇降口に行き、自分の靴箱を開いた彼女は、思わずあっと声を上げた。中にはあの運動靴が入っていた。つぶれ具合もゴム底の模様も、カミヤ君の絵そのままだった。
「やっぱり……」
靴を手に取ってつぶやく。絵では省略されていたが、かかとの部分にはくっきりと「ナカガワアヤコ」の記名が残っていた。先月の運動会にあわせて新調し、何日も履かないうちに行方不明になっていた彼女の持ち物。クラスの友達全員に手伝ってもらってあちこち探したのに、どうしても見つからなかったのだ。
失くしたときは新品同様だったのに、今は見る影もない。それでもお気に入りの靴が戻ってきた安堵感に、アヤコはちょっと涙が出そうになった。
一体誰が拾ってくれたのだろう。カミヤ君だろうか。
(まさか)
宇宙人みたいな彼が、こんな気の利いたことをするはずがない。きっと写生大会の後で通りかかった別の誰かだ。
翌日、クラスメイトや先生に尋ねたけれど、結局拾い主は見つからなかった。
カミヤ君の作品は、大手の新聞社が主催するこども絵画コンクールに学校代表として出品された。地区選考、都道府県選考と勝ち進み、アヤコたちが六年生に進級するころにはとうとう全国の最優秀賞を獲得した。
「先生の予言が当たったな。わが校初の快挙だぞ」
担任は、カミヤ君の賞獲得を報じる新聞記事を拡大コピーし、時間割表の横に貼り出した。
記事には「とてもうれしい」といったありきたりな作者の言葉が紹介されていたが、取材に同席した先生がすべて代弁したらしいとの噂だった。写真に収まっているカミヤ君の顔がとびきりの無表情だったので、アヤコはついつい笑ってしまった。
誰かがカミヤ君の絵を褒めるたびに、なぜだか心がくすぐったくなる。
――あの靴を買うときは、お店でとっても悩んだの。ピンクじゃなくてほかの色にしようか、ひもじゃなくてマジックにしようかって。もしほかの靴を買ってたら、どんなに彼が上手でも、きっと賞なんてとれなかったんじゃないのかな。
「あの靴はわたしのなんだよ!」大きな声で言いたくなるのを、アヤコは一生懸命我慢した。
◇ ◇
少し嫌なことがあって下校が遅れたある日の夕方。アヤコは、通学路の真ん中にぺったりと座り込んでいるカミヤ君を見つけた。
(あんなところで何してるんだろ)
その日は気分がムシャクシャしていたせいもあって、余計な好奇心が背中を押した。怪しい真似をしていたら、先生に言いつけてやればいい。
足音を忍ばせて背後に近寄ると、彼はスケッチブックを広げて、何かを熱心に写生しているところだった。
(新聞では無表情だったくせに、やっぱり嬉しかったんじゃない)
何かに熱中しているカミヤ君なんて、今まで見たことがない。突然スケッチに凝りだしたのなら、間違いなくあの絵を褒められたのがきっかけだろう。親近感がわいた反面、ちょっとおせっかいしてみたくなった。
「寒くないの。もうすぐ暗くなるんだから早く帰りなよ。うちの人に叱られるよ」
聞こえているはずなのに、相手は見向きもせず制作に没頭している。アヤコだって、もう返事など期待していない。誰かにムシャクシャの「おすそわけ」をしたいだけだ。
「そんなところにいるとみんなの迷惑でしょ。なに描いてるの? ……ちょっと、ばかじゃないの?」
彼の目の前にあるものを見て、アヤコは噴き出した。それはスーパーの白いレジ袋だった。中からは空のペットボトルとポテトチップスの容器がこぼれている。
こんなポイ捨てゴミのどこが面白いの、そう言おうとしたアヤコは、スケッチブックをのぞき込んで言葉を無くした。
画面ではすでに鉛筆の下書きが終わり、彩色もかなり進んでいた。
夕日の逆光に浮かび上がるレジ袋の白、みずみずしいペットボトルの透明感、幻想的に輝くアルミパウチの銀。図工の成績がよくないアヤコすら息をのむほどの静物画だった。不思議なことに、それは決して虚構や誇張でなく、確かにそのゴミたちが持っている美しさなのだった。彼の筆はパレットと画用紙の間を踊るように往復し、画面を鮮やかな色彩で埋めていく。
どれほどの時間、見とれていただろうか。いつのまにか作品を描き終えたカミヤ君は、かたわらのバケツでカラカラと筆を洗って立ち上がった。ハーフパンツから突き出たふくらはぎは、ごつごつしたアスファルトのせいで赤くなっていた。
――何か敷けばいいのに、そんなこともお構いなしで夢中になってたんだ。
スケッチブックを閉じて歩きだそうとする彼に、アヤコは慌てて呼びかけた。
「すごいね。ほかにも描いてるの? もしよかったら……」
見せてくれない、という言葉はすぼんでしまった。相手はアヤコに背を向けて、とっとと十字路の向こうに消えていた。
翌週の月曜日。アヤコは昇降口の自分の靴箱の中に、小さなビニール袋が入っているのを見つけた。心当たりのないまま袋の口を開いて、どきりとした。
中にはピンク色の携帯電話が入っていた。ヒンジの部分から真っ二つに折れ、液晶画面はひびだらけ。キーボードは半分砕けて基盤が丸見えになっており、袋の底にはプラスチックの細かい破片がわだかまっていた。
かろうじてぶらさがっているトラジマ模様の子猫のストラップには見覚えがある。あの日、校内のどこかで失くし、下校時刻過ぎまで探しても見つからなかったアヤコの携帯電話だった。「小学生にはまだ早い」と頑固な両親を口説いて、ようやく買ってもらったキッズケータイの成れの果てだった。
(ひどい。誰がこんなことしたんだろう)
泣きたくなるのをこらえて教室で尋ね回ったが、みんな「知らない」と首を振るばかり。先生に相談してくる、と職員室に行こうとすると、親友のマキが慌てて引きとめた。
「ちょっと待って。そんなことしたら、みんな禁止にされちゃうよ!」
マキの心配ももっともだった。今は「電源を切り、かばんから出さない」ことを条件に携帯の校内持ち込みが許されているけれど、盗まれただの、壊されただのというトラブルが後を絶たず、先月も全面禁止すべきかどうかを話し合う全校集会が開かれたばかりなのだ。
「犯人探し、またみんなで手伝ってあげるから、ね?」
「……わかった」
マキに背中を優しく叩かれて、アヤコはうなずくしかなかった。
拾い主の手がかりが見つかったのは、それから二か月も経ってからだった。
ある日の「朝の会」に、担任が一冊の本を持ってきた。アヤコも名前だけは聞いたことがある、人気小説家の最新刊だった。
「読めというわけじゃない。この表紙の絵、分かるか? カミヤの作品が採用されたんだ」
うそだ。まじか。すげえ。
席のあちこちから感嘆の声が上がった。アヤコもはっと目を見開いた。
「待て待て、ちゃんと拡大してきてやったからな」
担任はまるで我がことのような得意顔で、ポスター大に引き伸ばしたカラーコピーを黒板に貼り出した。
表紙いっぱいに優しいタッチの風景が広がっていた。筆の跡が見えないので、水彩なのか油絵なのか、アヤコには見当がつかない。
画面のほとんどを占めるのは、青みがかった灰色のアスファルト道路。その彼方には、コンクリートの建物――アヤコたちの小学校が青い霧にけむっている。手前の路上には、無残に壊れたピンク色の携帯電話が落ちている。全体的に冷たい青が基調となっている中で、携帯のピンクだけが温かく浮かび上がり、異様とも言えるほどの哀愁を漂わせていた。
「これはきっと色鉛筆を使ったんだろう。な、画伯?」
先生に聞かれても、カミヤ君はじっとうつむいたままだ。べつに照れているわけではなく、居眠りしているわけでもなく、ひたすら机の天板を凝視している。いつものことなので、先生は揚々と解説を続ける。
「色鉛筆の柔らかいタッチと、どこか不穏な雰囲気との落差がすごい。こんな表現ができる画家は、プロにだってめったにいないぞ」
先生の話によると、作家本人があのコンクールの受賞作を見てカミヤ君にほれ込み、「ぜひ」と依頼してきたという。作家や編集者、装丁デザイナーらが直接カミヤ君の家を訪れ、今までに描きためてあった作品の中から、群を抜いて出来がよく、小説のイメージにもぴったりなこの絵を選んだとのことだった。
先生が解説する間じゅう、アヤコの目は絵の中の携帯電話に釘付けになっていた。
学校が終わってから、アヤコは近くの書店に走った。先生に本を見せてもらおうと思ったのだが、「もう他の子に貸しちゃったよ。順番待ちだ」と言われたからだ。
店頭では、例の小説が「表紙絵は地元小学生!」とのPOPつきで平積みされていた。一冊を手に取って、表紙に描かれた携帯電話を食い入るように見つめる。間違いない。形、色、壊れ方、そしてシマ猫のストラップ。確かに靴箱に「返却」されていたアヤコのものだ。
表紙カバーの折り返しには、画家の名前と並んで絵のタイトルが印刷されていた。
「きみのおとしものⅡ」
◇ ◇
小説はベストセラーになった。印象的な装画も話題を集め、いくつもの新聞が天才少年画家を記事に取り上げた。教室の壁が記事のコピーで埋まっていくのを見ているうちに、アヤコは落ち着かなくなった。
運動靴といい携帯電話といい、カミヤ君はなぜ自分が失くしたものばかり描くのだろう。偶然のはずがない。わざと盗んで道路に落として、絵を描き終えてから靴箱に返却している――それ以外に考えられない。
何を考えているのか分からない彼のこと、些細な理由でアヤコを逆恨みしても不思議はない。もしかしたら、と思い当たるふしはいくつかある。たとえば去年の運動会、アヤコはカミヤ君と二人三脚のペアを組まされた。だれもなりたがらないのを見かねて引き受けたのに、彼はちっとも練習に応じようとしない。運動会当日、ぶっつけ本番を迎えたときにはどこかへ雲隠れしてしまい、アヤコまで失格になった。
わたしと組みたくないならはっきりそう言えばいいのに。学校じゅうを探し回り、図書室でのんきに美術全集を眺めている彼を見つけたときは、思わず怒りが爆発した。周囲の目がなかったせいもあって、履いていた上履きを彼の背中に投げつけて怒鳴ってしまったのだ。
「あんたって、絶対どこか壊れてる。プラモっていうより、ただのゴミね!」
アヤコの運動靴が行方不明になったのは、それから間もなくのことだった。
あのときはたしかに少し言い過ぎたかもしれない。でも、似たような悪口は他の子たちも公然と彼に浴びせているから、アヤコだけが恨まれる筋合いはないはずだ。
だんだん腹が立ってきた。こんなひどいことをしておいて、題名が「きみのおとしもの」だなんて、ばかにしてる。
普通の相手なら、面と向かって問い詰めれば済むだろう。乱暴で扱いづらい男子でも、先生の力を借りればなんとかなる。けれどカミヤ君だけは勝手が違う。たとえ刑事や裁判官が尋問したって、何も喋らないに決まっている。
(でも、ぜったい許さない)
アヤコは、のっそりと席にうずくまっているカミヤ君の背中をにらみつけた。
その日からアヤコの捜査活動が始まった。一日じゅう被疑者を監視して、不審な行動を見たら現行犯逮捕して先生に突き出してやるつもりだった。
カミヤ君はいつも下を向いて歩いているから、登下校を尾行しても気付かれる心配はない。独特の歩き方がよく目立つので、見失うこともない。
彼は毎日、スケッチブックや絵の具セットなど画材一式を抱えて学校に通う。制作活動をするのは下校途中の通学路やその周辺、とくにゴミや落とし物が多い国道沿いだった。一日に一枚描くと決めているらしく、その題材は必ず路上に落ちている何かだった。公園や駐車場など、道路でない場所には見向きもしない。
アヤコは父親から借りた小さな双眼鏡を握りしめ、離れた物陰から辛抱強く観察した。彼は制作態度も風変わりだった。歩道だろうが車道だろうが、気に入った題材を見つければその場にどっかりとあぐらをかき、絵が仕上がるまでは何十分でも何時間でも動かない。クラクションも罵声もおかまいなしだ。歩行者たちは迷惑そうに彼を避けながらも、肩越しにスケッチブックをのぞき込んで「ほお……」と目を丸くするのだった。
カミヤ君が選ぶ画題はくだらないものばかりだった。タイヤ痕がついた黄色の横断旗。ひびだらけになったプラスチックの植木鉢。ひっくり返って死んでいるコガネムシ。車のホイールカバー。時にはまだ使えそうな傘や財布などを描くこともあったが、それらは本当の落とし物であり、カミヤ君がわざわざ盗んだものでないことは確かだった。
それどころか彼は、描く対象に手を触れることすら決してなかった。落ちていたその場所で、そのままの状態をスケッチすることに、強くこだわっているようだった。
(ってことは、犯人は彼じゃないのかも)
アヤコの心は揺らぎはじめた。そもそも、他人に無関心で何をされても動じない彼が、嫌がらせなんて面倒くさい真似をするだろうか?
すべては偶然だったのかもしれない。偶然描いた運動靴の絵を褒められて以来、彼は毎日せっせと絵を描き続けてきたのだ。それだけ多くの作品があれば、中にアヤコの失くした携帯電話が偶然含まれていてもおかしくない。カミヤ君はそれを拾って届けてくれただけなのかもしれない。
(拾って届ける? まさか)
観察する限り、落とし物に手を触れないという彼のこだわりは、絵を描き終わってからも徹底していた。たとえそれがお金の入っている財布でも、悠然と置き去りにするのだ。例外は一切ない。
そんな彼が、わざわざアヤコの持ち物に手を付けるとは思えない。ならば、やはり拾い主はほかにいるはずだ。そして落とし主――すなわち盗み主も。
整理のつかない気持ちのまま、アヤコは監視活動を続けた。疑念が薄らいだとはいえ、まだカミヤ君の容疑が完全に晴れたわけではないし、彼の自宅はアヤコの町内からさほど離れていないから、どうせ尾行は苦にならない。
(それに、危なっかしくて目が離せないんだよね)
カミヤ君は車や歩行者に目もくれず、ただ一心に落とし物と向き合っている。今まで車にひっかけられたり、たちの悪い中高生に絡まれたりしないのが不思議なくらいだ。
双眼鏡を使っても、スケッチブックの画面まではよく見えない。どんな絵を描いているのかとても気になるが、集中している彼のそばに近寄るのは気が引けるし、描き終わってから「見せて」と頼んでも無視されるに決まっている。
通行人の中には、長いことカミヤ君の後ろに張り付いてあれこれ話しかけてくる人がいる。「もっとましなものを描けばいいのに」などとしたり顔で口出しする大人を見ていると、アヤコはやきもきしてしまう。
(せめて迷惑そうな顔くらいしなってば)
アヤコには、カミヤ君の周りの空気がピリリと張りつめているのがよく分かった。これほど一つのことに打ち込んでいる男子なんて、クラスどころか学年じゅう、いや学校じゅうにもいないだろう。普段は焦点すら定まらない暗い目が、絵を描くときだけは生き生きと輝きだす。その引き締まった横顔は、いつもの「プラモ」とはまるで別人だった。息を殺して見つめているうちに、なぜかアヤコも一緒に絵を作り上げているような、高揚した気持ちになるのだった。
彼が立ち去った後、絵の主題になったものをそっと持ち帰るのが、アヤコの日課になった。資料収集は捜査活動にとって重要なことだ。題材が犬のふんだったときはさすがに回収をあきらめたが、夜中に自分の部屋でコレクションを眺め、彼がどんな作品に仕上げたのかを想像するのが楽しみだった。
鑑賞に浸っていると、きまって飼い猫が机の上に飛び乗ってくる。資料のにおいをかいで首をかしげ、こんなものより自分をかまえとアヤコの顔に擦り寄ってくる。彼女は苦笑しながら、トラジマの毛並みを撫でてささやきかける。
「これがただのゴミに見える? キミもまだ素人ね」
カミヤ君の作品を見てみたいという願いは、ほどなく意外なところで実現することになった。例の絵画コンクールを主催した新聞の夕刊で、連載小説の挿絵担当にカミヤ君が抜擢されたのだ。小説の著者は、カミヤ君の熱烈なファンを公言するあの人気作家だった。彼は連載にあたっての予告欄で、こんなメッセージを寄せていた。
「今回の本当の書き手はわたしではない。カミヤ画伯だ。彼の絵がわたしの想像力を無限にふくらませ、物語をつむがせてくれるのだ」
小説にあわせて画家が絵を描くのではなく、画家の膨大な作品の中から毎回一点を作家が選び、そこからわいたイメージを基に次々とストーリーを進めていく。そんな前代未聞の試みらしいと、担任が興奮した様子で説明してくれた。
アヤコはさっそく両親にねだって、その新聞を自宅購読させることに成功した。家族が読み終わった後、古紙回収で束ねられる前に連載小説を切り抜く。長方形の穴が空いたページは必ず引き抜き、固く丸めて捨てた。スクラップしているのを他人に知られるのは、なんとなく恥ずかしかった。
連載は好調だった。やがてアヤコも見覚えのある落とし物が挿絵に登場するようになった。どれも、「資料」から想像していたよりずっと素晴らしい作品だった。キンバエがとまっている犬のふんですら、カミヤ君の手にかかると立派な芸術になってしまう。
(あれも回収しとけばよかった)
と、アヤコが本気で後悔したほどだった。
若いころに芸術家志望だったことを自慢するクラス担任は、紙面に掲載された作品を毎朝解説してみせた。
「カミヤの絵は単純そうに見えて、じつはすべて計算されてる。配色はもちろん、光の角度、陰影、構図――それらが見事に調和しているからこそ、観る者の心を動かすんだ」
制作現場を毎日監視しているアヤコにも、思い当たるふしがあった。カミヤ君はどうやら、画題が落ちている道路の状態にも細心の注意を払っているのだ。アスファルトとひとくちにいっても、場所や部分によって色や質感が微妙に異なる。きっと材料や舗装時期の違いなのだろう。彼は下水道工事などでつぎはぎになった路面を、背景のアクセントとして巧みに絵に取り入れているのだ。
それだけの計算があるとすれば、落とし物の選択にもカミヤ君なりの「こだわり」があるのかもしれない。それが何なのかアヤコには見当もつかないけれど、作品の奥深さを知れば知るほど、彼女は監視活動に夢中になるのだった。
クラスでは、カミヤ君の呼び名が「プラモ」から「画伯」に変わった。もう彼をからかう人はどこにもなく、みんな「きのうの絵、見た?」が朝のあいさつ代わりになった。
女子の間では、新聞小説の挿絵を下敷きに挟んだり、ブックカバーに貼り付けたりするのが流行になった。けれどアヤコは、彼の絵を他人と見せ合ったり、感想を言い合ったりするなんてまっぴらだった。
「こんど、画伯のファンクラブを作るんだ。アヤコはどうする?」
ユカに誘われても、わざと素っ気なく答える。
「あんまり興味ない」
「ま、そう言うと思ったけど」
肩をすくめて去っていく彼女の背中に、アヤコは大声で言ってみたかった。
(わたしの『資料』を見たら、みんなぜったい驚くから!)
いまやカミヤ君は売れっ子の少年画家だった。新聞だけでなく、雑誌やポスターにも彼の作品が登場するようになった。
校内での「画伯ブーム」も過熱する一方だった。休み時間になると、彼目当ての子たちがよそのクラスからつめかけて、教室の入口に人垣ができるほどだった。
カミヤ君のことをよく知らない女子が、彼に「何か描いて」と色紙を差し出して玉砕するのを、アヤコは笑いをかみ殺して眺めるのだった。
カミヤ君の初めての個展は、地元の市民ギャラリーでなく都心の大きな美術館で開かれた。アヤコたち六年生は、大型バスを連ねて集団見学することになった。人気画家本人がクラスメイトと一緒に会場入りするということで、テレビ局のカメラマンがバスの中まで同行取材するほどの騒ぎだった。
もちろんカミヤ君は、美術館で自分の作品を前にしても、ただぼうっと突っ立っているだけだ。代わりにインタビューを受けるのは、つい最近「プラモを直す会」から鞍替えしたファンクラブの会員たちだった。ユカやマキが口をそろえる。
「もの静かでとても落ち着いた人です」
「個性的なカミヤ君がみんな大好きです」
(いくらカメラの前だからって、何よそれ)
友人たちを尻目に、アヤコは複雑な気持ちで一つひとつの作品を見て回った。彼をちやほやする周囲へのいらだちだけでなく、驚くほど量産される画伯の作品にも、何か物足りないものを感じていた。
作品のほとんどは同じ大きさの画用紙に描かれている。彼が同じスケッチブックしか使わないからだ。けれど「きみのおとしもの」のⅠとⅡだけは、ほかの作品よりも立派な額に入り、展示室で一番目立つ場所に飾られていた。この二つが彼の代表作であると、主催者側も認めているのだろう。
べつにカミヤ君は誰かの依頼で絵を描いているわけではない。大人たちは彼が好き勝手に描いた絵の中から、用途にふさわしいものを選んで刊行物に使っているだけだ。アヤコの運動靴と携帯電話だって、彼にとってはレジ袋や犬のふんと同じはずだ。
それなのに、「Ⅰ」「Ⅱ」と比べると、他の作品にはいまひとつ魅力が足りない。どれもすてきな絵なのに、作者の熱意のようなものが伝わってこないのだ。
それが自分のひいき目だとは思いたくない。何が違うんだろう、と首をかしげながら見渡して、一つのことに気がついた。
他の絵には、一枚残らず同じ題名がつけられていた。
「だれかのおとしもの」
◇ ◇
アヤコはその夜、ぼろぼろの運動靴と壊れた携帯電話をうやうやしく自分の机の上に並べ、考え込んだ。いまや彼女の部屋は、コレクションの詰まった何十個もの段ボール箱で埋め尽くされている。中でもこの二つはかけがえのない宝物だった。
頭の中はすっかり混乱していた。
――あなたのいう「きみ」って、わたしなの……?
靴箱に落とし物を届けてくれたのは本当にカミヤ君なのだろうか。そうかもしれないけれど、やっぱり変だ。靴にはアヤコの記名があるが、携帯電話にはそれがない。カミヤ君が見つけたときにもう壊れていたとしたら、メモリーから持ち主を割り出すこともできないはずだ。
今どき、携帯なんてクラスの誰もが持っている。どれも似たようなキッズ用だ。ストラップなどわずかな手がかりだけで「アヤコのかも」と当てられるのは、ユカやマキなど親しい友人だけのはずだ。けれど彼女たちは、アヤコが拾い主を尋ね回ったとき「知らない」と首を振ったのだ。
ではカミヤ君は?
スケッチで天才的な観察眼を発揮する彼のことだから、アヤコには想像もつかない記憶力を持っている可能性はある。二人の席は近いのだから、彼がアヤコのシマ猫ストラップを覚えていても不思議はない。けれどこれまでの調査では、彼は一度だって落とし物に触れたことがないのだ。それとも、「きみ」の持ち物だけは例外なのだろうか。
――もしかして。そんな、まさか。
明確な形をとりはじめたその「まさか」を、アヤコは懸命に頭から追い払おうとした。相手は今でこそ人気者の画伯だけれど、それ以前にプラモだ。無口で無表情で、何を考えているのかさっぱり分からない宇宙ロボットなのだ。
でも、彼は本当に無表情なのだろうか。
アヤコのまぶたに、絵を描いているときのカミヤ君の横顔が浮かんだ。
ひたすら真剣に落とし物と向かい合っている彼。熱中すれば何時間でも道路に座り続ける彼。確かに表情はピクリともしないが、そんな態度そのものが彼の感情であり言葉なのかもしれない。ゴミ袋や犬のふんだって、スケッチを完成させるには一時間以上かかる。まして、あの緻密な「Ⅱ」を色鉛筆で仕上げるのに、一体どれほどの時間がかかっただろう。そしてそれが、「きみ」に対するカミヤ君のひそかなメッセージなのだとしたら。
一人きりの部屋で居ても立ってもいられなくなって、アヤコはベッドで丸くなっていたシマ猫を羽交い絞めに抱きしめた。
「どうしよう。ねえ、どうしよう!」
猫は腕の中で短くうなり、飼い主の顔に軽いジャブを連打すると、尻尾をブルンと振ってドアの隙間から逃げていった。
「どうしよう……」
ベッドに突っ伏したアヤコの胸に、とても温かいものが込みあげてきた。こんな気持ちになるのは生まれて初めてのことだった。
目にくまを、頬に引っかき傷をつくった顔で、アヤコはいつもより早く学校に向かった。登校前のカミヤ君の靴箱に、二つ折りにした手紙をそっと差し入れた。
子猫のイラストの便箋に、パステルピンクのボールペンで書いたメッセージ。短いけれど、一晩中かけて何度も書き直した文章だった。
『おとしもの ひろってくれてありがとう。お礼 おそくなってごめんね』
自分の名前を書く勇気はなかったが、靴と携帯を拾ってくれたのがカミヤ君なら、そして彼がアヤコに特別な関心を持ってくれているのなら、文面と筆跡だけで手紙の主が分かるはずだ。そうなれば、カミヤ君の方からなんらかの返事があるに違いない。彼のことだから直接話しかけてくるとは思えないけれど、態度の変化くらいは期待できるはずだった。
きのうアヤコの心に芽生えた「まさか」は、眠れぬ一夜のあいだに立派な「きっと」へ成長を遂げていた。二人三脚から逃げ出したのも、アヤコを避けて顔を背けてばかりいるのも、彼が極端な恥ずかしがり屋だからに違いない。
アヤコが全身のレーダーを集中させているというのに、教室に入ってきたカミヤ君からはなんの反応もなかった。まるで完璧に整備されたロボットのように「相変わらず」だった。相変わらず黙って下を向かれては、顔色を探ることも視線を交わすこともできない。
このロボットは整備こそ完璧だけれど、基本性能がやっぱりどこかおかしいのだ。いらいらしたアヤコは、彼が見つめている床の上に寝ころがってやろうかとすら思った。
昼休みにそっと彼の靴箱をのぞいてみると、あの手紙はなくなっていた。念のために近くのゴミ箱の中を確認したけれど、手紙が捨てられた形跡はない。他人に盗まれたのでなければ、カミヤ君の手に渡っているはずだ。彼の手に渡っていれば、少なくとも読んでくれているだろう。カミヤ君は石のように無口だけれど読み書きは問題なく、テストの点だってそこそこいいのだ。
もしかして返事の手紙が、と自分の靴箱ものぞいてみたが、期待は空振りだった。
宇宙人の王子様とコミュニケーションをとるには、一体どうすればいいのだろう。授業も掃除も手につかない。そんな彼女を、マキが目ざとくからかった。
「どうしたの。画伯なみに目がうつろだよ」
「変なこと言わないで」
顔に血が昇るのを自覚して、アヤコは慌ててそっぽを向いた。
学校が終わると、アヤコは一つの計画を胸に、カミヤ君より一足先に校門を飛び出した。
スケッチの道を先回りして、画題になりそうな落とし物やゴミをすべて側溝に蹴り落とした。こうしておけば決して絵の対象にならないはずだ。
次に、色合いも質感も文句なしのアスファルトを選び、けさの手紙を書くのに使ったパステルピンクのボールペンを筆箱から取り出して、そっと置いた。
カミヤ君が手紙のことを覚えていれば、きっとこのペンに目を留めて絵に描いてくれるだろう。予想が正しければ、拾ってアヤコの靴箱に届けてくれるに違いない。そして描かれた作品は「きみのおとしものⅢ」として、彼の代表作の一つに加わるのだ。
近くの物陰に身を潜めたアヤコは、期待と不安でじりじりしながら彼の登場を待った。
五分後、カミヤ君は予定通りに姿を現した。そして狙い通りの場所で立ち止まり、しげしげとボールペンを眺めた。
(きっと、どの角度から描こうか考えてるんだ)
胸が高鳴った次の瞬間、彼はペンをひょいとまたぎ、すたすたと歩きはじめた。あっさり期待を裏切られたアヤコは、ペンを拾うのも忘れ、慌ててその後を追いかけた。
結局カミヤ君が題材に選んだのは、運送トラックが落としていった古ぼけた軍手だった。
アヤコはその夜、コレクションに加わった軍手を見つめながら、どうして作戦が失敗したのかを考えた。仮説がすべて勘違いだったとは思いたくない。きっと何か理由があるのだ。誰が手紙を書いたのか、誰がペンを落としたのか、カミヤ君には分からなかったのだろう。やっぱり、絵のこと以外は鈍感な人なのかもしれない。
だとすれば、あのペンは単に絵の題材としての魅力が足りなかっただけなのだ。きっとそうだ。
きれいな色なのに、一体何が不足だったというのだろう。灰色のアスファルトの上にピンク色のボールペン。携帯電話ほどのインパクトはないにしろ、印象的なコントラストになったはずなのに。
アヤコはなんの変哲もなさそうな、汚い軍手をにらんだ。
これにあって、あれにないもの。
(そうか)
この使い込まれた軍手には、持ち主の汗が染み込んでいる。指や手のひらの部分にこびりついた汚れからは、持ち主の体温が、そして仕事ぶりが伝わってくるようだ。
カミヤ君の「おめがね」にかなった運動靴や携帯電話も、アヤコにとって大切なものだった。失くしたときは涙が出るほど悲しかったのだ。
対して、あのペンはどうだろう。筆記用具の中ではお気に入りの一つだったけれど、失くした今もさほどショックはない。つるりとして傷も汚れもない外観からは、持ち主の体温が少しも感じられない。そんなつまらない落とし物が、カミヤ君の芸術にふさわしいはずはない。
「そうか」
アヤコはもういちど声に出してつぶやいて、自分の洋服ダンスを開いた。
翌日。アヤコは再び国道沿いの下校ルートに先回りすると、履いてきた靴下を脱ぎ、車道の轍に放り投げた。猛スピードのタイヤに数度踏ませてから回収すると、脱ぎたての靴下は薄黒く汚れ、どこか物悲しい雰囲気が備わった。それを歩道の片隅にぽとりと落とし、近くの路上駐車の陰に素早く隠れた。
靴下は、くるぶしに子猫のシルエットが刺繍されたもので、アヤコにとって一番のお気に入りだった。友人たちから「また履いてる」とからかわれても、遠足や社会見学など特別な日には必ずこれを履くことにしていた。つま先に穴があいても、母親が上手につくろってくれたおかげで、捨てずに履き続けてこられたのだ。
カミヤ君なら、この靴下を覚えてくれているかもしれない。覚えていなくても、高性能レンズのような目がこのつくろい跡を見逃すはずはない。使い捨ての軍手なんかより、ずっと持ち主のぬくもりが染み付いていると分かるはずだ。彼はどんな絵にしてくれるだろうか。水彩? 色鉛筆? それとも……?
二人の新しい「合作」に思いを馳せていたアヤコは、目の前を通り過ぎるカミヤ君の姿を、危うく見逃しそうになった。
振り返れば、靴下はさっきの場所に寂しく取り残されている。カミヤ君はいつものようにぎこちない動きで、数メートル先の角を曲がっていった。
(ちょっと、どういうつもりよ!)
叫びたいのを必死でこらえ、アヤコは慌てて尾行に移った。靴下を拾う気にはなれなかった。彼に見捨てられた落とし物なんて、ただのゴミだ。
その日、カミヤ君が最終的に選んだのは成人向けの雑誌だった。めくれあがったページには、アヤコが目を背けたくなるようなグラビアやまんががひしめいていた。カミヤ君はそれを、いつもより時間をかけてスケッチしていた。
彼が立ち去った後、アヤコは長いこと迷ったあげく、周囲に人の目がないのを確かめてから、忍者のような素早さで雑誌を回収した。これはこれで貴重な資料だ。
ショックだった。見るからに潔癖そうなカミヤ君がいやらしい雑誌に興味を示したこと。それを恥ずかしげもなく公道でスケッチしていたこと。そして何より、そんな雑誌に自分の落とし物が完敗したことが大ショックだった。
きょうの絵にもし「きみのおとしものⅢ」なんてタイトルがついてしまったら? あんな下品なものが、大切なI、Ⅱと並んで飾られていいはずがない。
けれど、カミヤ君がアヤコの靴下よりエッチな雑誌を選んだのは否定しようがない事実なのだ。
――きみって、本当はそういうのが好きだったの。そっか、そっかあ……。
集めた「資料」たちの異臭がほのかにただよう部屋で、アヤコは何度も何度もつぶやいた。そんな彼女を、猫がきょとんとした表情で見上げていた。
次の日。国道近くの公衆トイレに入ったアヤコは、身につけていた下着を脱ぎ、それをシャツの裾に隠して待ち伏せ場所に向かった。計画段階ではより派手な母親のものを拝借しようとも考えたのだが、やはりそれでは意味がない。白のコットンパンツとスポーツブラでは地味すぎるようで不安だったが、人目を盗んでそれを歩道に落としたとたん、アヤコは顔が爆発しそうなほどの恥ずかしさを覚えた。
すぐそばの生垣の裏に身を隠しても、自分の落とし物を直視する勇気がない。かといってカミヤ君の反応を見逃すわけにもいかない。
もしあれを描いてくれたらという期待と、自分はなんてばかなことをしているんだろうという後悔が、双頭のヘビのように頭をもたげてきた。
カミヤ君はなかなかやってこない。アヤコの心の中で、ヘビたちは縄のようにもつれて格闘している。やがて後悔が期待を飲み込みはじめた。と同時に、アヤコは重大なことを思い出した。
彼女の母親は几帳面なので、あの落とし物にはアヤコのフルネームが記名されているのだ。カミヤ君がそれに気付かないはずはない。彼がアヤコに関心をもってくれているとの「仮説」が間違っていたら、彼はこの落とし物を見てどう思うだろうか? たとえ間違いでなかったとしても、道路に下着を落とすような女子を、彼はいったいどう思うだろうか?
――だめ。やっぱりこんなこと、しちゃだめ!
生垣から飛び出そうと腰を上げたそのとき、カミヤ君がいつものようにヒョコヒョコとした足取りで姿を現した。
回収チャンスを失ったアヤコは、両手で顔を覆いながら、それでも指の隙間から彼の動きを凝視した。心臓の鼓動が数メートル先の彼に聞こえてしまいそうな気がして、腕で自分の胸をぎゅっと押さえつけた。
幸か不幸か、カミヤ君は計画通りに落とし物の手前で足を止めた。腰をかがめ、路上に落ちている布きれをまじまじと見つめた後、彼はほんのわずかに眉根を寄せた。
アヤコは体の中で血がざあっと逆流するのを感じた。
カミヤ君が表情を変えたのは一瞬のことだった。彼はすぐプラモ顔に戻り、何事もなかったかのように足早にその場を立ち去った。
アヤコの落とし物は、彼のすぐ後ろを歩いていたサラリーマン風の男性に拾われた。男性は二枚の布を広げ、太陽にかざして丹念に観察してから、きれいに畳んでそっと背広の内ポケットに押し込んだ。
アヤコは涙をこらえながら、震える足でカミヤ君の後を追いかけた。
画伯と呼ばれる以前、彼はクラスの男子から何をされても眉一つ動かさなかった。給食の熱いシチューを頭にかけられても、ドッジボールでしつこく顔面を狙われても、「プラモ」ぶりが揺らぐことはなかったのだ。
そんな彼が初めて見せたあの表情。あれはきっと、最大級の嫌悪だ。高性能レンズのような彼の目は、落とし物の不自然さと落とし主の正体を、はっきり見抜いたに違いない。不潔なものを描かせようとしたアヤコを軽蔑し、腹を立てているのだ。
(待って。あれにはわけがあるの。ねえ聞いて)
カミヤ君の背中に向かって、彼女は何度も心の中で叫んだ。今まで彼を疑っていたこと、彼を見つめてきたこと、彼を試そうとしたことを、すべて打ち明けてしまいたいと思った。
もちろん何も返事はないだろう。冷たく軽蔑されるだけだろう。それでも、疑問とやましさを彼の前で吐き出せば、心はずっと楽になるはずだった。
そう分かっているのに、どうしても呼びかける声が出てこない。なに描いてるの。ばかじゃないの? 彼をからかうことができた半年前の自分が、まるで遠い他人のように思えた。
カミヤ君はいつになく長い間、せかせかと路地を歩き回っていた。夕暮れ近くになってようやくスケッチしたのは、地面に落ちて息絶えたばかりのスズメのひなだった。
彼が去り、すっかり夕闇に包まれた道端で、アヤコは死んだひなを両手にのせたまま、長いこと立ちつくしていた。じたばたとばかなことをしている自分より、この小さな死骸のほうがずっと潔く美しい存在に思えた。
カミヤ君を思い通りにできる人間なんて、この世にはきっと一人もいない。たとえ思い通りにできたとしてもなんの意味があるだろう。それは痛いほど分かっているのに、後戻りができない。
そう、もう後戻りはできないのだ。カミヤ君に最低な落とし物を見られてしまったのだから。まして、それを拒まれてしまったのだから。
ただしきょうは一つだけ、とても大きな収穫があった。アヤコの落とし物が、わずかながらも彼の心を動かしたという事実だ。動いた方向が期待とは正反対だったとしても、プラスチックどころか超合金のような表情が変わったことは確かなのだ。
カミヤ君に言葉は通じない。彼と話がしたければ、アヤコの「大切な何か」をアスファルトの上に落としてみるしかない。高価なもの、美しいものである必要はないだろう。きっと、持ち主にとって恥ずかしくて、苦しくて、悲しいものが彼を動かすのだ。きょう味わった絶望よりもっと大きな代償があれば、カミヤ君の心をもっと大きく動かせるかもしれないのだ。
◇ ◇
翌朝、アヤコは「熱がある」と言って学校を休んだ。生まれて初めてのずる休みだった。
心配する両親を職場に追い払い、パジャマ姿のまま自分のベッドに座って壁にもたれる。いつものように喉を鳴らして擦り寄ってきた猫を膝に抱き、相手が心地よさそうに目を閉じるまで優しく撫で続けた。
心は決まっていた。次の「落とし物」はこれしかない。アヤコにとって大切なものといえば、もうほかに考えられない。
思えばこの子だって、三年前に自宅近くの道端でか細い声で鳴いていた「落とし物」だ。拾ってきたアヤコが毎日えさもトイレも世話をして、いまでは妹のようにかけがえのない存在になったのだ。
カミヤ君とアヤコの合作として、これ以上ふさわしい作品はないはずだ。
窓の外では、隣家のテレビがだらだらと鳴っている。お昼のバラエティーが終わり、やがてサスペンスドラマのテーマ曲が流れてきた。時計を見上げる。そろそろ時間だ。
アヤコは安心しきって眠っているシマ猫の細い首に片手をかけ、もう片方の手で小さな頭を包んだ。
「……ごめんね」
小さくつぶやき、水筒のふたをひねる要領で、両手に思い切り力を込めた。鋭い爪にパジャマを裂かれ、腕やひざに血がにじんだけれど、少しも痛さは感じなかった。
指先に伝わっていた喉の震えがやみ、ようやく動かなくなったそれを床に横たえ、じっと見下ろす。大好きだったはずの家族が、だらしない毛の塊となって転がる姿は、なんだか不思議な光景だった。
心は張り裂けそうなのに、頭は妙に冷めていた。
画伯はこれに目を留めてくれるだろうか。果たして彼の傑作にふさわしいものとなるだろうか。
アヤコはしばらく考えてからかすかにうなずき、それを浴室に運び、カッターナイフを使って七つに切り分けた。頭、足、胴、そして尻尾。ばらばらになったものを震える手でかきあつめ、二重のビニール袋に入れた。手を洗い、ひっかき傷にべたべたと絆創膏を貼ってから服を着替え、袋をぶら下げて外に出た。
この日のアヤコの道路掃除は徹底していた。ミミズの死骸からペットボトルのフタまで、カミヤ君の気を引きかねないものはルートからすべて取り除いた。大切な会話には静けさが必要なのだ。
カミヤ君がどんなルールで題材を選ぶのか、アヤコはいまだに分からない。今度の落とし物だって、彼の琴線に触れる保証はない。けれど、彼に通じそうな「言葉」が、ほかに思いつかないのだ。
「Ⅰ」も「Ⅱ」も、アヤコの大切なものがぼろぼろになって道に捨てられているさまが描かれていた。汚れ、壊れていたからこそ、カミヤ君はそこになんらかの意味を読み取ったのだ。アヤコにとってペットがどんなに大切な存在でも、きれいな姿のままでは言葉足らずなのだ。
彼女がこの猫をどれほど愛していたか、どんな思いでその首を絞め体を切り刻んだか、ガラスの目をしたプラモ君に果たして伝わるだろうか。
たとえ彼がこれを描いてくれても、絵が新聞や雑誌に掲載される望みはない。けれどそんなことはもう、どうでもよかった。カミヤ君が絵を描くことでしか自分を表現できないのと同じように、アヤコは落とし物でしか彼に呼びかけることができないのだ。
カミヤ君はいつも時間きっちりに行動する。決まった時間に校門を出て、決まった時間に決まったコースを通る。
そのコース沿いでアヤコが選んだのは、学校から十五分ほど歩いた先にある国道沿いの一角だった。ガードレール一枚隔てた車道には自動車がごうごうと恐ろしい音を立てて流れているが、逆に歩道は通行人が少ないので好都合だ。落とす地点は街灯の下、点字ブロックのそばに狙いを定めた。ここなら構図としても完璧だし、たとえ日が暮れても描き続けてもらえるはずだ。
排気ガスにすすけたブロック塀の陰に隠れ、袋の中のものを落とす時機をうかがう。タイミングが早すぎて他人に騒がれては困るけれど、落とす瞬間を画伯に見られるわけにもいかない。
誕生日に買ってもらったピンクの腕時計をにらみながら、彼がいま通学路のどこを歩いているか想像する。国道に出るT字路の交差点を渡って、大きなカーブを曲がって……。
よし、いまだ。
袋を握り締めていざ歩道に走りだそうとしたとき、彼女は危うく誰かとぶつかりそうになった。
「アヤコって、風邪で休んだんじゃなかった?」
「元気そうじゃん。何してんの?」
それは親友のユカとマキだった。通学路の方向がまったく違う彼女たちが、どうしてこんなところにいるのだろう。アヤコは焦った。早くしないとカミヤ君が来てしまう。でも、これでは落とし物ができない。
アヤコを探るように眺めていた二人は、ふっと口元に意味ありげな笑いを浮かべた。
「前から言おうと思ってたんだけど」
とユカ。
「画伯が来る道を知ってるの、あんただけじゃないのよね」
とマキ。
「なんのこと? わたしは……」
アヤコの震える声を遮って、二人が詰め寄る。
「ストーカーなんてサイテー」
「これ、証拠」
ユカが足元にボールペンと靴下を放り投げた。アヤコの落とし物だった。
「きのうのアレも押さえたかったんだけど、キモいおじさんに先越されちゃって」
「でも写真はバッチリだから」
マキが目の前に携帯電話の画面を突きつけた。
「全校集会間違いなしだよ。優等生のアヤコちゃんがまさかあんなことしてたなんて、」
「ねーっ!」
二人は満面の笑顔で声をそろえた。
アヤコは、役立たずな自分の脳みそをシャベルでかき回したくなった。カミヤ君のファンなら誰だって、彼が描いている現場を見てみたいと思うのは当然だ。それなのに、路上の彼を見守っているのは自分だけだと、なぜ思い込んでいたのだろう。もしかしたら今この時だって、何人もの画伯マニアが物陰に潜んでいるのかもしれない。
「画伯、迷惑がってるよ。いちいち目の前にゴミ押し付けられて」
「あんたの持ち物なんか絵になる価値ゼロだって、分かんないの?」
アヤコは後ずさりながらも、恥ずかしさと悔しさを振り払いたくて言い返した。
「でも……、あの靴も携帯もわたしのだよ!」
「もしかして、何か勘違いしてる?」
ユカの冷たい表情は、アヤコがこれまで一度も見たことのないものだった。
「わたしのものなんか、この前の展覧会で五つも飾られてたよ。最近の新聞の挿絵、半分以上がファンクラブ会員の落とし物だって知らなかった?」
マキが大げさに顔をしかめてみせた。
「苦情が出てるの。会員がせっかく落としたものをどかしたり横取りする人がいるって」
「部外者に勝手なことされると困るんだよね、自分のがちっとも描いてもらえないからってさ」
親友だったはずの二人になじられ、アヤコは思わず叫んだ。
「……なによ。あんたたちなんてただの『だれか』じゃない!」
そう。あのタイトルにある「きみ」は、アヤコ以外にありえない。誰とも口をきかないカミヤ君が、絵を通して彼女だけに呼びかけてくれたメッセージなのだ。それ以外に考えられない。
彼は表向きこそ筋金入りのポーカーフェイスだけれど、アヤコには落とし物をちゃんと届けてくれたのだ。靴に書かれていた彼女の記名を、絵の中では省略してくれる優しさがあるのだ。その他大勢の「だれか」とは次元が違うのだ。
ユカは、キュッとあごを引いてにらみつけた。
「……あんなの、画伯の気まぐれに決まってる。感謝してよ、あんたの靴やケータイを道路に捨ててあげたのは誰だと思ってんの?」
「え……?」
アヤコが絶句するのを見て、二人は勝ち誇ったように顔を見合わせた。ユカが、アヤコの髪に指を巻きつけて乱暴に引き寄せる。
「みんなあんたのこと、ずっと気に食わなかったの。気がつかなかった? その鈍感ぶりが腹立つの。優等生ぶって自意識カジョーで、いつも『自分はみんなと違うのよ』みたいな顔をして。何かあるとすぐ先生にタレこんで」
「そのくせ陰じゃ、画伯を『ゴミ』って呼んでたよね?」
「……!」
青ざめるアヤコに、ユカは畳みかける。
「靴を捨ててあげれば嫌われてることに気付くと思ったのに、ちっともでしょ? どうしてやろうかと思ってるうちに、カミヤ君の全国優勝。ケータイを捨ててあげたら、こんどはあっというまにプロデビュー。いちいちあんたを喜ばせちゃうなんて、ほんと、ついてなかったな」
マキが、アヤコが握り締めていたビニール袋をひったくった。
「でも三度目はないから。わたしたちがさせないから!」
「返して」
アヤコは懇願した。どうしてみんな邪魔するの。もう高望みはしない。わたしは彼と静かに話をしたいだけ。わたしが落としたものを見て、彼がどんな表情をするのか確かめたいだけなのに。
必死で伸ばすアヤコの手をかいくぐり、マキは袋の中をのぞき込んだ。
「きょうは何を企んでるの。下着よりエロいもの? それとも……いやあっ」
放り出された袋から転がり出たものを見て、ユカも真っ青になって後ずさった。
「……ここまで狂ってるって、ありえない。マジ、先生に言うしかない」
携帯のカメラを落とし物に向けようとするユカに、アヤコは我を忘れてつかみかかった。
「お願いだからほっといて。彼が来ちゃう!」
「ほっといてあげるから、もう彼に近づかないで!」
ユカはくるりと腰をひねって体をかわし、アヤコの背中を突き飛ばした。勢いがついたアヤコの体は歩道から飛び出し、ガードレールの上で一回転して車道に転がった。
猛スピードで突進してきた大型トラックが、彼女を軽々と宙にはねあげた。
◇ ◇
アヤコがうっすら目を開くと、そこには美しい朱色の空が広がっていた。体に痛みはなかったが、それ以外の感覚もない。首や手足は一ミリも動かない。ただ、自分が固いアスファルトの上に寝ころがっていることだけは分かった。
「知らない、わたしのせいじゃない」
「いきなり飛び出されちゃ、避けるもなにも」
周囲には誰かの泣き声や叫び声がわんわんと響いている。
「どうだ、ダメそうか」
「救急車、いま向かってるって」
「おいきみ、子どもは近寄るな」
――うるさいな、しずかにしてよ。
ぼんやりとそう思っていると、誰かの影がすっと頭上の日差しを遮った。必死で目をこらすと、それはカミヤ君だった。
彼は端正な顔でまじまじとアヤコの顔を見つめると、かたわらにすとんと腰を下ろし、スケッチブックを広げた。
「こら、何やってるんだ」
「やめなさい」
慌てる大人たちの声が遠ざかり、鉛筆が画用紙の上を走るザッザッと小気味よい音だけが耳に伝わってくる。
カミヤ君は相変わらずの無表情だが、左手は台紙がたわむほど強くスケッチブックを握り締めていた。右手の鉛筆の動きは、まるで交響楽を操る指揮棒のようだ。誰とも目を合わせず、女の子の手紙どころか下着にすら動じなかった彼が、いまは焼けた鉄のような視線をまっすぐアヤコに注いでいる。
痛いほどの眼差しに、なんだか笑いたくなった。
――やっぱりこのひと、わけわかんない。
さっきまで聞こえていた鉛筆の音が、急に薄れはじめた。海の底のように重く冷たい静けさが、すぐそばまで近づいている。
もうろうとする意識をふりしぼり、アヤコは尋ねた。
「どうして……わた、し?」
少年は手を止め、鉛筆をからりと路面に転がした。おずおずと腕を伸ばし、アヤコの頬をそっと撫でる。思っていたよりずっと柔らかく、温かな指先だった。
この人、初めてさわった。おとしものに。このわたしに。
水彩画のように滲んでいくアヤコの視界のなかで、カミヤ君はすっと目を細め、小さく唇を動かした。
――えっ、なあに。おねがい、もういちど。
聞き返そうとしたアヤコの言葉も、声になることなく、アスファルトに吸い込まれていった。
【了】
キミノオトシモノ
作家でごはん! 鍛錬場に計3回投稿して手直しを重ね、満を持して(笑)エンタメ系の某地方文学賞(上限80枚)に応募したものの、あっさり落ちた作品です。