橙色のミムラスを、笑わない君に。【スピンオフ】
~ タキが病院にやって来た日 ~ ■ 前 編
『懐かしいにおい・・・。』
レイが目を細めてそっと微笑んだ。
どこまでも続く真っ青な空にもくもくの白い雲がほっこり浮かび、遠く稜線が
やわらかく続く。 瑞々しい苗色が映える目の前に広がる田んぼには小さな
アマガエルとアメンボの姿。 水面を俊足で瞬間移動するようなそれを、
レイは嬉しそうに見つめた。
『なーんにも無いトコでしょ~?』 レイは車から降りて、両腕をぐっと
空に突き上げ大きく伸びをする。 大きく大きく鼻から息を吸い込むと、
気持ち良さそうに目を閉じて、前髪を撫でてゆくやさしい風に微笑んだ。
チラリ、運転席に座るユズルに小さく視線を向ける。
手動運転装置がついた車イス対応車両で、ユズルが運転してやって来た
そこはレイが生まれ育った小さな田舎町だった。
その日、ふたりは山並みと田んぼと広い空しかないその町にいた。
レイが育った町に行ってみたいとユズルが言い出したのは、その数日前の
こと。 今までユズルの住む隣街に祖母タキと暮らしていたレイ。
職場である大学病院もその街にあったが、元々生まれ育った場所では
なかった。 両親が他界し、祖母に引き取られた小学生の頃からそこに住み
始めたレイは、幼い頃は家族3人でこの田舎町で暮らしていたのだった。
『キレイなとこで育ったんだね・・・。』 ユズルは運転席から車イスに
移り少しだけ小高いその径からまるで絵画の様な景色を嬉しそうに眺める。
ユズルの住む都会とは空気のにおいも、風の温度も、陽の強さも何もかも
違う。 目をつぶって思い切り深呼吸すると、レイに真似てユズルも腕を
上げて気持ちよさそうに伸びをした。
『何年ぶりだろう・・・。』
そう呟いた瞬間、レイの表情が少しだけ翳ったような気がした。
レイに気付かれない程度に視線を向け、物哀しげにそっと見つめるユズル。
静かに手を伸ばし、隣に立つレイのどこか力無く垂れた手をやさしく握る。
するとその瞬間、驚いて小さくレイの指は跳ねそしてぎゅっと握り返した。
実はこの生まれ育った田舎町にやって来たのは、祖母タキに引き取られて
以来初めてだった。
遠いというだけではなかった、ここに来られず仕舞いだった理由。
たった一人で来るには勇気が必要だった。
かと言って祖母タキと一緒に来る気にもなれなかった。
タキに寂しい顔を見せるのが嫌だった、タキにほんの少しだとしても
哀しい思いをさせるのが嫌だった。
もういない大好きだった両親を思い出すのが、怖かった。
そっと目を閉じて、大きく大きく深呼吸したレイ。
多くは語らないそのヒョロヒョロに痩せた姿を見つめ、ユズルはタキが
病院にやって来た日のことを思い出していた。
それは、結婚を決意した数日後のことだった。
復職に向けての準備を進めていたユルズの病室のドアをどこか慌てる様に
大きくノックする音に『はい?』ユズルは目線を向けてひと言返事をした。
するとドアを引いたそこには、杖を片手に病室に飛び込んで来たレイの
祖母タキの姿があった。 その顔は、もう既に目に涙を浮かべて嬉しくて
嬉しくて仕方ないといったそれで。
瞬時にレイが結婚の件を話したのだと気付く。
(僕が挨拶に行くまで黙っててって、あれほど言っといたのに・・・。)
ユズルは車イスのレバーを倒し前進すると、タキの元へ慌てて近寄る。
そして『どうぞ掛けて下さい。』 と、応接セットのソファーへ促した。
すると、タキはユズルの手をその皺くちゃなか細い両手でぎゅっと包み、
まっすぐ見つめる。
『先生・・・
ユズル先生・・・ ありがとう・・・
ありがとうね・・・。』
タキの瞳から遂に堪え切れない涙の雫がこぼれ落ちた。
何度も何度も ”ありがとう ”というその顔は、刻み込まれたシワの一本
一本に涙が沁み込んでゆく様で。
『すみません・・・
ちゃんと僕から挨拶にお邪魔しようと思って・・・
レイにまだタキさんには言わないでって言っといたんですけど・・・。』
困ったような呆れたような笑みを頬に浮かべるユズルに、タキは濡れた頬を
更に緩ませてケラケラ笑う。
『あの子は嬉しいことは我慢できない子だから。』 可笑しそうに肩を
すくめた。 レイが ”その話 ”を切り出した時の照れくさそうな嬉しくて
仕方なさそうな顔を思い出し、タキは再び熱い雫を頬に零す。
そして、タキは続ける。
『挨拶が先とか後とか、そんな事はどうでもいいのよ・・・
・・・そんなちっちゃな事、たいしたことじゃないわ・・・。』
そう胸を張って言い切るタキを見ていたら、やはりレイと血が繋がっている
のだと再確認するユズル。 この穏やかでのんびりしたタキの意外な一面は
破天荒なレイにしっかり受け継がれているのだと。
応接セットのソファーに、ちょこんと浅く腰掛けた小さなタキはニコニコと
嬉しそうにユズルを見つめる。
それはまるで、ユズルの顔に誰かを重ねているかの様に。
タキが静かに口を開いた。
『あの子の両親・・・
わたしの娘夫婦が事故で亡くなった話は、聞いてるのよね・・・?』
突然はじまったその話に、ユズルはただコクリと小さく頷いた。
『レイは、娘にそっくりなのよ・・・
ウチの娘も、いつも呆気らかんとしてて何事にも動じなくて、
ケラケラ愉しそうに笑ってる子だったの・・・』
タキは面影を懐かしむように、そっと目を細める。
『娘婿・・・ レイの父親がね、
ちょっと都会での生活に体を壊してしまって・・・
そしたら娘が、突然なーんにもない田舎町に一家で引っ越すんだって
わたしになんの相談も無しに、たった3日で色んなこと決めて、
さっさと行ってしまったの・・・
あの時はわたしも驚いたけど、
でも、娘らしいなってちょっと可笑しかった・・・
爆発的な行動力と、強い信念があるあの子らしいって・・・。』
ユズルはただ黙って聞いていた。
レイの母親に会ってみたかったという思いが急激に胸に込み上げる。
きっとレイと同じく、痩せていて朝陽の様に笑う眩しさの塊のような女性を
そっと想像して視線を落とした。
『その日、ね・・・
結果的に、娘夫婦が事故にあったその日・・・
家族3人で、わたしに会いに来てくれてる途中だったのよ・・・。』
タキがそっと目を伏せた。
膝の上でクロスしたしわがれた指に、一瞬ぎゅっと力がこもる。
『なんてことない山道の緩いカーブでね・・・
ちょっとハンドル操作を誤ったらしいんだけど・・・
打ちどころが悪かったらしいわ・・・
あと数センチずれてたら、ただのかすり傷だったって・・・。』
寂しげに哀しげに、肩をすくめたタキの乾いた小さな笑い声が病室内に響く。
『でもね・・・
その時、娘夫婦を看てくれたお医者さんが、
とにかく必死にあの子達を救おうとしてくれて・・・
他の先生が ”もう難しい ”っていくら言っても、
そのお医者さんは最期の最期まで・・・ あの子達を・・・。』
タキがそっと目尻の雫を指先で拭った。
なにかを探るようになにかを重ねるように、まっすぐユズルの顔を見つめた。
~ タキが病院にやって来た日 ~ ■ 後 編
タキの頬に、再び涙が伝った。
ユズルも顔を歪めて必死に涙を堪えていた。
『たった一人だけ生き残ったレイに、
その先生が ”ごめんね ”って謝ったの・・・
”君をひとりぼっちにしてしまった ”って、レイを抱き締めて・・・
後から分かったんだけど、
その先生にもレイと同じ歳くらいのお子さんがいたらしいわ・・・
きっと、レイを自分の息子さんと重ねて胸が痛んだのね・・・。』
すると、タキは伏せていた顔を上げた。
まるで穏やかで眩しい朝陽のような微笑みで、静かに言う。
『あの子の両親が搬送されたのは、ユズル先生の病院だったの・・・
ホヅミ先生・・・
ユズル先生のお父さん、当時、外科部長だった院長先生が
あの時、必死に救おうとしてくれたお医者さんなのよ・・・。』
その言葉を耳に、ユズルは目を見張って固まった。
タキがわざわざ隣街のユズルの病院に来た事に、確かに違和感を覚えていた。
自らが住む街の、しかもレイが務める病院があるというのに、何故ここまで
来て入院したのか不思議に思っていたのだった。
『どうしてもどうしてもあの時のホヅミ先生に会いたくて、
レイに無理言ってこの病院に入院したの・・・
あの子はきっと当時まだ小さかったから、
搬送先がここだって気付いてないのね・・・
そうしたら、ユズル先生がホヅミ先生の息子さんだって聞いて
わたし、もう嬉しくて嬉しくて・・・。』
ユズルの顔を潤んだ目でまっすぐ見つめる、タキ。
『ユズル先生が例えどんなに表面上だけの笑顔でいても、
あのホヅミ先生の息子さんだもの、悪い人なはずないって信じてた・・・
ユズル先生は、あたたかくてやさしくて、素晴らしい人に違いないって。
だから、ユズル先生がレイをお嫁さんにしてくれるって聞いて、
わたしにとってはもう夢のようなのよ・・・
あの子の両親も、きっと天国で飛び上がって喜んでるわ・・・。』
タキが身を乗り出して、ユズルの手を握った。
そのぬくもりがユズルの胸にじんわり広がり、透明な雫となって零れる。
『レイを・・・
あの子を見付けてくれて・・・ ありがとう・・・。』
タキの小さな手の平の温度が、胸に突き刺さり痛かった。
ユズルは頬に伝う涙をそのままに、大きくかぶりを振る。
『見付けてもらったのは、僕です・・・
・・・僕が、レイに・・・ 救われたんです・・・。』
するとタキは目を細めて幸せそうに微笑んだ。
ユズルはタキの手をもう一度ぎゅっと力をこめて握り締める。
『動かない脚の分、それ以外の全てを使って
・・・全力で、レイを幸せにしますから・・・。』
その真剣な一言に、タキが心から幸せそうに笑った。
『そんなのいいのよ・・・ 幸せにしようなんて思わないで・・・
ふたりでただ仲良く生きてくれれば、それで・・・
それにあの子、
”幸せにする ”なんて言われたら、きっと怒りだすわよ・・・
”してもらわなくてケッコー! ”とか言って。』
ユズルとタキ、レイが目をすがめ顎をツンと上げる顔を思い浮かべて声を
出してケラケラと笑った。
ふたりのやわらかい笑い声が、静かな病室に木霊していた。
カッコウが遠く小気味よい鳴き声を高い空に響かせている。
暫しなにも喋らずに、延々続く青い空を見上げていたユズルとレイ。
ユズルはそっとレイを見つめた。
『幸せになろうな、ふたりで・・・。』
そう呟いて手を握った。
レイの細くて長い指、短く切り揃えた爪、飾らないそれ全てが愛おしい。
するとレイが嬉しそうに頬を緩め、頷く。
『うん・・・ ”ふたりで ”ね。
もしユズルが ”幸せにしてやる ”なんて上から言ったら、
”そんなのケッコーです! ”って言おうかと思ってたわ。』
レイが言い放ったその一言に、ユズルが思わず吹き出して笑った。
一旦笑い出したら、もう止まらなくなってしまったユズル。 いつまでも
いつまでも、愉しそうに幸せそうに笑い続けているその姿に、レイは小首を
傾げる。 『・・・なによ??』
『いいや、別に・・・。』 そう言いつつ、まだ笑っているユズル。
『タキさんに、感謝しなきゃな・・・。』
『ん~??』
『なんでもない。』 そう言って、上半身を乗り出しユズルは両腕を広げた。
レイはユズルが笑う意味がよく分からないまま、その腕にすっぽり包まれる。
『運命だな・・・。』
ユズルの囁くような声が、くぐもってふたりに落ちた。
【おわり】
橙色のミムラスを、笑わない君に。【スピンオフ】