ビターオレンジ
れいくんは僕の友達だ。
ねぇ、他人色に染まってどうする。
それってさぁ、おいしいの?
『れいくんは僕の友達だ』
どこまでも友達で、それ以上もそれ以下もありはしない。それはれいくんと僕の間での当たり前の境界線であった。
授業中の校舎。
静かな廊下は、怖いくらい。
その突き当たりにある暗い階段に二人で座っていた。
赤ジャージと黒の学ランが密やかに。
誰も僕とれいくんがここにいることは知らない。
「れいくーん、僕は未来が見えないよ」
れいくんは購買で買った瓶のフルーツ牛乳をストローでおしとやかに飲んでいる。
「唐突だね、せのちゃん。メガネの度数あってないんじゃない?」
「失礼な!僕はいつまでも、いーやこれからもメガネなんかしないよ!」
そのかわり目つきはすこぶる恐ろしいとよく言われるけど。
れいくんはため息をついた。
「せのちゃん……だから見えないんじゃないの?メガネは悪くありません」
都内の某高等学校、だけど僕ははみ出しものなので、今日も階段に隠れては昼寝をしている。
昼寝するくらいなら帰ればいいんだけど、僕は家でもはみ出しものなので学校に来るしかなかった。
家庭では素晴らしい人格を持ったいわゆる家族の皆さんが、地位と名誉にあふるる日々を美しく生きていらっしゃる。僕はそんな生き方出来ないから、汚く地を這って生きるのだ。
だけどそんな生活も18年も続くといまではそんなに嫌じゃなくなってきた。多分僕はSかMかと聞かれればMなのだろう。
高校三年生。もう戻れない。
素晴らしい家族と別れの時は近いが、望む未来などなかったからね。未来には隠れる階段はないのだから。
れいくんは三年間同じクラスだった。
夏でも冬服の制服を着て来る彼の背中はいつも汗ビッショリだ。彼も僕みたいに私服登校すればいいのに。目に痛い赤ジャージ、教師には睨まれるけど。
れいくんは優秀な生徒だ。
成績は学年首席だし、運動神経も抜群。完璧すぎてちょっとこわいぞ。そんな身体に生まれた彼は、将来何になるつもりだろう、国家でもうごかすつもりかな。
一時間目の終わりをチャイムが彩る。静かな廊下に温かい何かが流れるように。
「せのちゃん、次は学年集会だよ」
「えー面倒くさい、サボろうっと」
たくさんだよ。白と黒のモノクロームの講堂で、僕だけがひとり孤独になるのはさ。
「たまには偉い人の話を聞こうよ、せのちゃん」
今日のれいくんはしつこいな。偉い人って誰?ハゲ校長なんて言わないよね。
はっはーん。さすがは学級委員、この手段で僕をクラスに呼び戻す気だね?
「ねぇ、せのちゃん……だめ?」
探るように、探るように。まるで片思い中の乙女みたいに……ああ、泣きぼくろがセクシーだねれいくん。
「ブブーだめ。残念でしたー僕はその程度じゃここからうごくつもりはありませーん」
「……じゃあおれもここにいるよ」
ため息をついたれいくんは、そのままごろりと床に横になった。
ありがたいお話が繰り広げられているだろう講堂から遥か離れ、僕とれいくんは昼寝をした。
目を開けるととなりのれいくんが汗をかいて寝ている。せめて夏なんだから学ランは脱げばいいのに。
れいくんの寝顔なんてはじめてみた。
いつも彼は優秀すぎて僕はついていけない。うらやましい?いや、彼の先にはキラキラと輝いた道がありすぎて、僕では目が眩んであるけないよ
……それじゃあ、僕はどこへ行く?
ーーー
チャイムが鳴って目が覚めた。
ああ、教室戻らないと。
「せのちゃん」
おきないか。まあいいや、あとでもう一回来ようか。
あーよく寝た。
もうホームルームの時間じゃないか。何時間寝てたんだ。
記憶に残らないホームルームを夢見心地で過ごした後、掃除の当番なので廊下をほうきがけ。ああ、今日の日よさようなら。
「御津村」
掃除も終わり一日の終わり、もう一回せのちゃんのところへいこうとすると、担任に呼び出された。
「お前なぁ、夏なんだから夏服を着て来なさい」
「……はあ」
好きで夏に冬服着てるわけじゃない。
「ところで仲林の様子はどうだ。まだ私服登校のようだけど。このままだとなんらかの処置をとらないといけないけどね」
せのちゃんのことだ。
処置ってなんだよ、その言葉の裏に悪意が見える。
「……なんだその目、任せろといったのは君だろう?」
任せろというか、あまりに他の奴らの言葉が威圧的過ぎて見ていられなかっただけだ。せのちゃんは、悪くない。
せのちゃんのぶんのフルーツ牛乳を買って、再びあの階段に。
「れいくん!おかえり」
せのちゃんはセクシー女優みたいなポーズで漫画を読んでいる。ここは家か。
「ねぇ、れいくん。制服なんて馬鹿馬鹿しいと思わない?僕は僕だ。学校内外関係ないね。わかるだろう?わかるかられいくんも夏服なんて着ないんだよね?」
「う、うーん。まぁね」
せのちゃんにいつ本当のことを言ったらいいのだろう。家が貧乏で夏服を買う金がないんだって。
これも裕福ではない家に生まれた定めだ。
勉強してるのだって、優秀な成績を讃えられ、いろいろと主に資金源において補助が欲しいからだ。バイトだって受験生だけど減らしていない。がんじらがめの生活。だけど病床の父さんの泣き顔が見たくなくて、家でも優秀な息子を演じている。
多分これから先も、おれはせのちゃんみたいに自由に生きることなんて出来ないのだろうな。おれだって、こんな暑い冬服脱ぎ捨てて、せのちゃんみたいにまぶしい色したジャージ着たいよ。
だけど、いませのちゃんは窮地にさしかかっている。
「あのさ、せのちゃん……」
「なにー?」
こっちは冷や汗までかいて考えているのに、ゴソゴソとせのちゃんがポテトチップスの袋に手を突っ込むのをみて、なんだか馬鹿馬鹿しくなってしまった。
「いや、なんでもない」
まぁね、制服、着てみようよ!なんてどう考えてもおれはさわやかになんか言えないし。その前に言った途端、せのちゃんに殴られそうだ……。
「でもさ、せのちゃん。あまり目立たないようにしたほうがいいよ。世の中頭の良いやつばかりではないから」
せのちゃんの目がとがる。
「なんだよ!れいくん説教かよ!」
「……心配してんの」
それからしばらく、秋は深まり寒い季節を感じる頃のことだ。
相変わらず私服姿でダラダラとした生活をつづけていたせのちゃんは、とうとうダブりの危機となりクラスに嫌々ながら顔を出すようになる。
せのちゃんが登校するとクラスの雰囲気が変になる。ひそひそ笑う女子生徒達、男子生徒だってせのちゃんを仲間だなんて思っていない様子だった。
おれは授業中、消しゴムにメッセージを書いてせのちゃんの机に放った。
『大丈夫?』
何が大丈夫なのか。だけどせのちゃんはおれのほうに振り返って、あっかんべーをしてそれに答えた。
でもさ、ほんとうにせのちゃん、大丈夫?
翌朝のことだった。
朝のホームルーム、せのちゃんが来ない。一時間目の授業、単位危なかったんじゃないのか。早く来いよ、せのちゃん。
ドキドキしてきた。留年なんかしたら一緒に卒業式出られないだろ?
そのとき、教室の後ろのドアが開いた。
待ち遠しかったせのちゃん。
だけど……。
「オハヨーゴザイマース」
「せのちゃん……!!」
思わず声が出るほどにせのちゃんのジャージはボロボロだった。もちろんそれを纏ったせのちゃんも。
一体今朝、なにがあった?
一時間目の授業をモヤモヤした気分で過ごし、単位に余裕のある二時間目の授業、おれとせのちゃんは久しぶりの階段で過ごした。
ーーー
「ねぇれいくん。僕はこのナリがコンプレックスでたまらないよ」
今朝のことを思い出すと煮え繰り返るほど腹がたつ。
僕を囲んだのは、隣の駅の高校の制服を着た男子生徒。しつこくからかった挙句、僕に触れるから蹴っ飛ばしてやった。
「……そしたらね、チビだの生意気だの騒いできて、反撃された挙句のこのざまだよ」
話しながら階段のほこりを数えていた。悔しさが一転少し悲しくなる。
れいくんはしばらくなにも言わなくて、ぽつりとつぶやいた。
「……おれと一緒ならなにも起こらなかった」
ふざけてない、れいくんは真面目な顔をしていた。
「はは、まぁれいくん無駄に大きいから」
遠くから後ろ姿を見ただけでれいくんだって一目でわかる。
そういうところ、うらやましいよなぁ。
「せのちゃん、明日から一緒に登校しよう」
それは多分れいくんの覚悟の一言だった。
驚いたなんてもんじゃない、だってれいくんは冗談なんて言わない。
「えっ?でもさ、れいくんうちと方向逆じゃね?」
「構わないよ、2時間も3時間もかかるわけじゃないし」
そして翌朝、本当に僕の最寄り駅にれいくんはいた。
山は今日も青くて綺麗だ。雲は高く、本日は晴天なり。
「はじめてきたけど落ち着いたところだね、せのちゃん」
早起きしたのか、れいくんの目がショボショボしている。
「えーそれって田舎っていいたいのかよ?」
「田舎を馬鹿にはしないタイプだよ」
「でもこの電車、東京方面は40分に一本しかこないけど?」
「……そのようだね」
ーーー
せのちゃんの地元は随分いい環境にあるんだな。風景を眺めていたら視力なんてあっという間に良くなりそうだ。
二人きりのホームは朝のラッシュなんて関係ない。
通過電車が音を立てて走る。
「れいくん」
「なに、せのちゃん」
電車は賑やかに通り過ぎていって、せのちゃんの声がやけに鮮明に響いた。
「……ねぇれいくん、僕人間辞めてもいいかな?」
……せのちゃん?
上を向けば、あまりに青い空だった。
「わかるだろ?学校も家も電車さえもね、僕が目障りだって言う。僕はもう疲れちゃったよ。もうこれ以上の干渉はたくさんだ」
また傷が増えてる気がした。
ぼろぼろのジャージのなかのせのちゃん……怒りが沸騰してたまらない。
誰だ、せのちゃんに触れたのは、誰だ……!
ちょうど電車が来る頃だった。
電車の姿を見て、せのちゃんの身体が硬直したのがわかる。せのちゃんの痛みがおれに伝わる。
……大丈夫、せのちゃん。もう怖いことはないから。
「……行こう、せのちゃん」
「れいくん?」
……一緒に行こう、誰もいないところに。
学校を通り過ぎ、新宿にやって来た。
「せのちゃん山手線、どっち回りにする?」
「……まかせるよ」
今日のせのちゃんはあまり話さない。困った、会話が続かないな。
「ねぇ、れいくん。この世の果てはなんて駅にあるのかな?」
髪の毛が邪魔してせのちゃんの表情が見えない。
……やめろよ。
……そんなこと言うな。
おれはそれって死ぬつもりかとせのちゃんに聞きたかったけど、怖くてどうしても聞けなかった。
『次は池袋ー池袋ー』
山手線はぐるぐるまわっていた。
運転が難しいから、日本で一番うまい運転手さんが運転してるっていうのは本当だろうか。
席が空いたので、せのちゃんとともに座る。あれ以来せのちゃんは一言も発しなかった。
せのちゃんが痛いとおれも痛い。
せのちゃんのいない未来は見えない。
思えばこの狭い学校内で、せのちゃんだけがリアルだった。
「……ふたりで学校やめて田舎で喫茶店開こうか」
「は、なにいきなりれいくん。どうしたんだ」
黙っていたはずのせのちゃんがあっけにとられた顔してる。
唐突すぎたか?
うん、自分でも何言ってるのかわからなくなってきたけど。
でも例えばここから遠い観光地でさ、自然に触れて生きるのも悪くはないだろう?
「どれも可能性のひとつだよ、せのちゃん。そうだね、喫茶店の名前は……ビターオレンジ」
その日、金が無くなって帰宅することになった。あっけない現実逃避。だけどせのちゃんは穏やかな顔してる。
「せのちゃん、大丈夫か。辛いならおれんち来てもいいんだぞ?」
「はは、気をつかうなよれいくん。今日はありがとう、スッキリした」
『また、学校で』
そう言ってとびっきりの笑顔でせのちゃんは笑った。
それから数日後のことだった。
廊下の向こう、せのちゃんがジャージで走ってくる。
「れいくーん!!決まった、決まりました!」
「せ、せのちゃん?」
その大声に、周りの生徒が振り向いている。
「見事りゅーねん、決定でーす!」
廊下で騒いだことを教師に怒られたので、おれとせのちゃんはいつもの階段にいた。
「せのちゃん、嬉しいの?」
「気分は最悪だね!」
だけどせのちゃんは晴れ晴れとした顔をしていた。
「だからさーもう学校、やめようと思って」
フルーツ牛乳の瓶がころころと転がっていった。
「せ、せのちゃん!?」
「勉強したくなったら、戻ってくるよ」
でもね、とせのちゃんは続けた。
「べつに、皆なんていつかいなくなる。最後に残るのは自分だけだから。自分の人生に責任はとるつもりだ」
そしてせのちゃんは学校を去った。
家にだって居場所がないって言ってた。ひとりで、ひとりでどうするんだよ!
何度もそう止めたけど、せのちゃんは笑っているだけだった。
「安心しろ、れいくんの卒業式には来るから!」
そう言って夕日に去っていくせのちゃんの後ろ姿。おれはたぶんずっと忘れないだろう。
それから数ヶ月、せのちゃんは行方が分からなくなった。
携帯を持ってたらよかったのに、おれは金がなくて買えないままだ。
せのちゃんも携帯持ってる様子はなかったし。
春がやってくる。
せのちゃんはもうどこにもいないのに。
『安心しろ、れいくんの卒業式には来るから!』
週末は卒業式、再会の約束は忘れてはいない。
ーーー
一足早い桜が綺麗だった。
校庭を見回して歩く。泣いている生徒、別れを告げる教師……ちがう、おれの目的は。
「れいくん!」
聞き覚えのある声に振り向いた。
少し髪伸びた?でも声は変わっていない。
「れいくーん!!」
そう言って手を振るセーラー服姿。せのちゃんの制服姿は入学式以来だった。退学したってのになんだよ、まだ大事にとっていたんじゃないか。
「髪、伸びただろう?なんだか恥ずかしいな」
もう普通の女子高生にしか見えない。
「……似合ってるよ、せのちゃん」
そう言っておれは学ランの第二ボタンをひきちぎった。
「やるよ、せのちゃん」
せのちゃんは苦笑する。
桜だけじゃなく、せのちゃんも綺麗だ。
これからはもう、自分の道。
おれも後悔しないように生きないと。
金は相変わらずないけれど、彼女の手はもうはなさない。
「せのちゃん」
「……れいくん、卒業おめでとう」
(おわり)
ビターオレンジ