学校と祭りと妹の話
学校と祭りと妹の話
素晴らしい天気だ。埃をひとつ残らず拭い去った部屋で、仙道雄一は空を見上げた。窓からは明るい日光が差し込んでおり、雄一の白い肌を照らす。時刻は昼前。両親は出かけ、弟は愚痴と共にバイトへ赴いていった。つまり雄一は現在実家に一人きりだ。せっかくだから、と雄一は中指で黒縁のメガネを押し上げ、一気に遮光カーテンを引いた。
「さて、続き続き……」
明るかった部屋は一気に薄暗くなり、雄一はいそいそとテレビの前に座る。据え置きの黒いゲーム機の電源を突けると、効果音と共に画面に会社名が映し出された。コントローラーを握りしめ、雄一は前のめりに画面に見入った。
オープニングムービーを飛ばしたところで、騒がしく階段を上って来る音がした。家族は出かけているはずなのに。雄一はコントローラーを置き、身構えた。足音は迷いなくこの部屋に向かってきている。強盗や空き巣の類か。瞬時に雄一の頭には相手をどう撃退するかのシミュレーションが流れる。運動神経は悪い、体力はそこそこ、足は遅い、俊敏さは無い。あ、負けたな。雄一は乾いた笑いを零した。
足音は部屋の前で止まり、そのままの勢いでドアノブが回された。
「だが諦めない俺は絶対に!」
「ひわああああ殺される!」
ドアが開かれると同時に、雄一は手元にあったコントローラーを振り上げ、足音の主を仕留めるつもりで振り下ろした。相手は悲鳴をあげつつ、素早く飛びのいてそれを避ける。雄一は舌打ちをし、次ははずさない、とばかりに目線を鋭くする。
「待て待て! 俺だって!」
「あ、京助」
慌てふためいて両手を前に出す強盗男は、雄一の生まれる前からの幼馴染、坂井京助だ。金色に脱色された長髪と、これでもかというほど整った顔立ちを持つ男だ。
雄一は安心感と落胆を半々に含んだため息を吐いて、コントローラーを床に置いた。
「勝手に入ってくるな。不法侵入だぞ」
「俺とお前の仲だろ」
「どんな。で、何の用だ」
「よ、用が無いと来ちゃいけないのかよ!」
「そういうのいらねえから」
泣きまねをしながらへたり込んだ京助を、雄一は見下ろす。そろそろ部屋に入れてくれないか、そんな目を向けられた気もするが、目を逸らして無視を決め込んだ。ロード画面のまま放っておかれたテレビゲームが、気まずそうにBGMを一周させた。
「その、晴香ちゃんから連絡で……集合、と」
晴香が? 雄一は表情をほとんど変えないまま首を傾げた。晴香とは、中学時代に出会った友人のことだ。いつも眠たげな眼をしており、穏やかな性格かと思えば真逆の、横暴で自分勝手な一面を見せる、総合的に評価すると「よくわからない」人間だ。
京助は廊下に座ったまま、ジーンズのポケットから携帯端末を取り出した。突きだされた画面には、メッセージアプリが表示されている。吹き出し模様の画面には、立花晴香からの「集合」というメッセージがぽつりと映っている。
「なんだ、これ。全員?」
「全員だろ。ほらほら早く電源落として。財布と携帯持って」
「俺は、今日はやっと世界が救えると思って」
細やかな抵抗を見せるも、京助は勝手知ったる部屋で滞りなく雄一の外出準備を整えてしまう。こちらを伺うような音楽を流していた機械は沈黙し、財布と携帯をポケットにねじ込まれる。クーラーを止め、雄一の背中を両手で押した。
後ろ髪を引かれる思いをしながらも、雄一は渋々外へ出た。夏も終わったといえ、まだまだ日差しは強い。引きこもりがちな生活により白いままの肌が焼かれる感覚。雄一はわざとらしくよろめいた。
「晴香の呼び出しなんか珍しいだろ。きっとなんかあったんだって。お前それでも仲間か!」
「ただの級友だろ……分かった、分かった、行くから」
引きずられそうになるのを寸前で留め、雄一は自分の足で踏み出した。アスファルトが熱気を放っている。幼馴染は、暑さを微塵も感じていないようだ。自慢の長髪も垂らされたままで、見ているこっちが熱くなっていく。隙を見て切り刻んでやりたいと思うが、大人としてその考えを振り払う。
乗りなれた電車に乗り込んで四駅ほど。部活帰りと思わしき学生がちらほらと見受けられる。改札を抜け、すぐ近くの、アンティークな外装の建物に入った。
「いらっしゃいませー」
『カエルの傘』という喫茶店だ。店主の小柄な男がにこやかにこちらを向いた後、即座に表情を固まらせた。馴染みの男に手を振る。男は接客業にあるまじき「舌打ち」で二人を迎えた。
「随分御挨拶じゃねえか、光くんよ」
京助がその長身を大いに主張しながら、成人男性にしては小柄な男、相沢光に詰め寄った。それはさながらいたいけな少年に絡む金髪不良のようだ。
「他にも客がいるんだ。馬鹿みたいに長い時間、騒ぎやがったら出禁にするからな。注文は」
「ホットコーヒーと新作」
「キャラマキな。雄一、お前は相変わらずマーケティングのカモだな」
雄一は一言も発していないにも関わらず、当然のように注文を通されてしまった。反論を試みるも、注文内容に文句は無いし、「マーケティングのカモ」という表現に異論はない。確かに、期間限定と新作は魔法の言葉だ。雄一は言葉を飲み込み、黙って京助の後について歩いた。
一番奥の四人席には、既に二人の人物が座っていた。よお、と片手を上げながらその席に近づく。座っているのは二人の男女で、通路側が、二人を呼び出した張本人である立花晴香だ。
「おっせえ」
半分伏せられた目に、眉間に寄せられた皺、低い声に指で挟んだタバコ――火はついていないようだ――近づきたくない人物ランキングを作るとかなり上位を狙えそうな要素がてんこ盛りだ。
「和希ちゃんも来てたんだ」
雄一が声をかけると、晴香の隣に座っていた女性が笑顔を見せて会釈した。艶やかな黒髪を持つ彼女は立花和希。晴香の妹だ。現役女子高生という、三十路に片足突っ込んだ男性三人で囲めば通報されかねないお年頃だ。特筆すべき点は、救いようの無いブラコンであるということ。以上。
和希の前の椅子を引いて座る。隣には勢いよく京助が座り、四人掛けの机は少し手狭になる。和希の前にはオレンジジュース、晴香の前にはアイスココアが置かれていた。
「お待たせしました」
テーブルの傍に、指定のエプロンをつけた大学生くらいの青年が立った。雄一の前にはキャラメルマキアートを、京助の前にはホットコーヒーのカップを置く。彼はこの店で一番長いバイトくん一号。店長を意のままに操る裏の権力者と名高い青年だ。
「で? なんの用だよ。和希ちゃんまで連れて」
「和希が、お前らに用があるんだよ。心して聞け」
晴香はココアを一口啜り、背もたれにふんぞり返った。雄一は隣の和希に目をやり、促すように首を傾げて見せる。和希は偉そうな晴香をみて苦笑いした後、雄一ではなく、京助の目を見た。
「京助さん、私のクラスの出し物に、協力して欲しいんです」
ほお、と京助は頬杖をついた。興味深い、と知的な男性の姿を作り出す。もちろん、その姿に和希が頬を赤らめるだとかは全く無いわけだが。これが別の女性なら違っただろう。
「10月に、うちの学校で文化祭があるんです。私のクラスは喫茶店をすることになって。客引きには、パッとした、目立つ、かっこいい男の人がピッタリ! って話で……」
それだけで、京助はにやりと口角を上げた。言わずとも全てを察したようだ。雄一は幼馴染のその表情をしり目にカップの中身に口をつける。今のところ自分は蚊帳の外だ。
「なるほどね。流石和希ちゃん。見る目あるねー。何曜日?」
「日曜日です!」
「オッケーオッケー。バッチリ決めて、ガッツリ女の子を引き寄せてやるぜ!」
拳を握る京助の目が、熱い炎を宿している。不機嫌そうに頬杖をついた晴香が舌打ちをした。どうやら自分以外の男を、和希が「かっこいい」と称することが不服らしい。
「女子高生に手ぇ出すなよ。エロ教師」
「出さねえよ。女子高生には、な」
にこにこと人の好さそうな笑顔の奥に潜むのは淫らな色欲だ。雄一は呆れかえってため息を吐いた。昔からこうだ。
和希は京助の協力を得られて安心したのか胸をなで下ろし、椅子の下から学生鞄を取り出した。中から、ピンク色の厚紙で出来た、カードのようなものを取り出す。
「これ、文化祭の招待券です。雄一さんも良かったら」
「マジか。仕事どうだったかな」
可愛らしいイラストと共に、文化祭の日付が書かれている。どうやら自分が呼ばれたのはこのためらしい。脳内のスケジュール帳と照らし合わせると、丁度空白と重なる。暦通りでない仕事は休日が不定期だ。
「あ、俺も休みだよ。行く行く」
「やった! ありがとうございます! 四人がノルマなんですけど、お父さんもお母さんも忙しいって」
「晴香も行くんだろ?」
「行くに決まってんだろ。和希を、お前らみたいなろくでなしの傍に置いとけるか!」
誰がろくでなしだ。京助が晴香の言葉に噛みついた。晴香はまるで威嚇する小動物のように、京助を睨みつける。これが平常通りなのだから面倒くさい。雄一は京助の前に手をかざし、はいはい、と宥めた。あまりうるさくすると、小さな店長に追い出されてしまう。
それにしても文化祭か。雄一は懐かしさに思いを寄せた。学生時代は、文化祭の売り上げにムキになって先輩と争ったものだ。
「和希、オレンジジュースおかわりは?」
テーブルの隣に、黒いエプロンを付けた光が立った。和希が笑顔でグラスを差し出すと、流れるようにオレンジジュースを注ぐ。
「光さんも、うちの文化祭に来てくれませんか?」
和希は可愛いを全て貪った女子高生の、一撃必殺、回避も防御も許さない攻撃、上目遣いで光を見上げた。控えめに言っても可愛い。これで晴香の妹でなかったら。雄一はキャラメルマキアートのカップを持ち上げながら、小さくため息を吐いた。同時に、隣からも同じ息遣いが聞こえた。チラリと視線を流す。長く時を共に過ごすと、思考回路が似てくるのだ。
光は即死確定の攻撃を意にも返さず、和希が差し出すピンク色のカードを覗き込んだ。
「へえ、10月ね。この日は店が定休日だ。いいぜ。ダメ出ししてやるよ」
「お手柔らかにお願いします」
ニヤリと悪い笑みを浮かべる光に、和希はくすくすと肩を震わせた。
別の客に呼ばれ、光はすぐにテーブルを離れてしまった。和希はカードがはけたことに小さくガッツポーズをして、オレンジジュースのストローに吸い付く。
「高校の文化祭か。俺ら何したよ?」
京助が頬杖をついて言った。その言葉に、雄一は自然と記憶を手繰り寄せる。売り上げで競ったこと、華麗に負けたこと、先輩のパシリ、外部の客とのトラブル。ろくなことが無かった。何したんですか? 和希が興味深々、と言った様子で首を傾げる。男子校の文化祭なんて面白くもなんともないだろうに。
「一年の時は基本的に先輩のパシリだったろ。京助は別か」
「俺は三年間客引きした覚えしかねーな。外部の女性が釣れる釣れる」
「言い方が悪い。三年で演劇に巻き込まれたのは覚えてんだけど、そんなに思い出にのこるキラキラはないよ」
和希がやけに煌めく瞳を向けてくるので、雄一は眉を下げた。
「お兄ちゃんが高校生のころ、私はまだ5歳とかだったので、あまり覚えてないんです。もったいない! お兄ちゃんのことは何でも覚えておきたいのに!」
和希は頬を膨らませてそう言う。晴香が大げさな動きで和希の手を取り、名を呼んだ。和希も晴香の目を見つめ、切なげに呼ぶ。あーはいはい。京助が億劫そうに片手を振った。
「そういうのいいから」
兄弟仲睦まじいのは大変喜ばしい事だが、時と場所と見せる相手を選んでほしいものだ。仲睦まじいで済ましても良い関係なのかは定かでは無い。もしかしたらこの二人、既に世間には顔向けできないところまで進んで……そこまで考えて雄一は頭を振った。考えてはいけない。考えてはいけない。
和希は少し恥ずかしそうにしたあと、腕時計に目をやり、あっ、と口を抑えた。
「いけない。お昼から部活があるんです。呼び出しちゃってごめんなさい。私ここで」
「うん。気を付けて。文化祭必ず行くから」
オレンジジュースを飲みほし、和希が席を立つ。送って行こうか。そう言う晴香に、恥ずかしいから、と和希は苦く笑った。なるほどそう言う感情があるのか。おかしなことだ。雄一が何度目かになるため息を転がした。
文化祭か。底に残ったキャラメルマキアートが揺らぐ。少し楽しみだ。
◆◆
何事も無く。特に世界が滅亡の危機にさらされそれを救うために何人かの初対面の人間を集め魔物を駆逐し人々を守り葛藤を挟んだストーリーを展開する、などと言う事も無く、文化祭当日が訪れた。和希の学校の最寄り駅で、他の三人と合流した。晴香はどこか落ち着きがなく、そわそわと手鏡で髪を整えたりしていた。服装も、いつも見るパーカーでは無くジャケットを着ている。妹の友達は、きっとお前よりも隣の金髪ロン毛を見るし、どんな格好でも咎めはしないだろう。そう言うと、晴香は無言で首を振った。分かってないな。そう言われた気がした。
和希の学校へ行くと、制服を着崩した生徒たちが慌ただしく走り回り、浮ついた空気が充満していた。黄色い声が四方八方から上がり、煌めくエフェクトが見えるようだ。自分たちが入って許される空間なのか、ここは。雄一は思わず一歩後ずさった。が、現役高校生と遜色ない輝きをその頭髪から放っている京助は、何の躊躇も無しに奥へと進んでいく。雄一は慌ててその後に続き、懐かしいテーブルを組み合わせた受付カウンターの前へ立った。制服のスカートにTシャツを着た女子高生が、にっこり笑って手を差し出してくる。チケット拝見します、と形作った声は鞠のように軽く、弾んだ。
遠慮を知らない勧誘を断り、4人で和希の教室へと向かった。高校の廊下は確かに懐かしくあるのに、自分たちの年齢が原因でまるで異世界に迷い込んだようだ。この場所で確かに自分たちは異端者で、いつパスポートを求められてもおかしくない。
「あ、おにーちゃーん!」
廊下の向こうから、聞きなれた可愛らしい声が聞こえた。晴香が勢いよく顔を上げ、丸まっていた背筋を伸ばし、ジャケットの襟を正した。二つ向こうの教室の前には、艶やかな黒髪をポニーテールに結い上げ、独特なTシャツに身を包む和希がいた。黒い袖からすらりと伸びる腕を大きく振っている。隣には友人と思わしき小柄な女子生徒が、多数のチラシを持って立っていた。
晴香が駆け出した。硬直している、というよりも脱力してしまい動かなくなった表情筋が生気を取り戻した。眉が下がりきり、満面の笑顔だ。
「和希―、お兄ちゃんだぞー」
ここでハグ。和希の友人が、女子高生にあるまじき表情をして固まった。違うんです。これが通常運転なんです。心の中で言い訳を唱えながらあの兄妹のところへ行った。
「おー、ここが和希ちゃんのクラスね。いいねー綺麗に飾りつけしてて」
京助が、教室のドアから中を覗き込んだ。きゃあ、と黄色い声が上がる。片手をヒラヒラと振る京助は、本日は髪を結い上げた格好だ。後ろから同じく覗き込むと、学校特有の備品を生かした飾りつけを行っている。黒板にメニューとイラストが描かれ、テーブルの上のメニュー表は教科書風のデザインだ。隅々まで掃除されているのか、埃や汚れは見当たらない。
「京助さん、今日はありがとうございます! 皆―、客引きを手伝ってくれる、坂井京助さんです!」
和希が、クラスメイトを呼び集めて、大きな声で京助を紹介した。女子生徒はきゃあきゃあとはしゃぎ、男子生徒は悔しげに唇を噛んでいる。京助は人好きのする笑顔を見せて、芝居がかった動きで頭を下げた。
「どーも坂井京助です。今日は女の子じゃんじゃん呼び込む予定なんで、よろしく!」
わっと拍手が上がった。この男の、どんな場所でも自分を一番輝かせる能力は、羨ましくもあり、恥ずかしくもある。頭を上げた京助は、無数に伸びて来た白い手により教室内に引き込まれた。雄一らが呆然としている間にスライド式のドアは閉められ、にっこりと笑った和希が前に立つ。
中から、京助の戸惑った声と、悲鳴が聞こえた。光がビクリと肩を跳ねさせる。すぐに教室は静まり返った。光と目を合わせ、同時に首を傾げた。しばらくすると、ドアが勢いよく開かれた。和希の後ろに、金髪の男が姿を現す。和希が振り返り、嬉しそうに声を上げた。横にずれた和希の先にいたのは、上から下まで、黒い燕尾服に身を包んだ坂井京助の姿だった。
「待たせたな、世間!」
壮大な決め台詞と共に、手を額にそえてポーズを決める。うわ、という声が三人分重なった。
「コスプレかよ。アラサーが」
光が腕を組んで言った。確実に似合っている。似合わないはずがない。事実、廊下を歩く女子生徒は軒並み足を止めるし、彼の周りだけどこか世界が違うような錯覚さえ覚える。しかし、彼の日常を物心つく前から隅々まで知り尽くしているこちらとしては、うわ、としか言いようがない。雄一は頭痛を覚えて眉を顰めた。
三人分の嫌悪の視線を浴びた京助は、自信満々な表情を隠し、拗ねたように唇を尖らせた。
「なんだよー。似合ってんだろ?」
「似合ってるから嫌なんだよ。和希、ほんとにこれでいいのか? 女に手ぇ出して悪い噂流れるぞ」
光が言うと、和希が口元を抑えて笑う。
「今日一日だけなんで、大丈夫ですよ。大事なのは話題性と入りやすさです! それじゃ、お願いしますね!」
言って、和希は煌びやかな看板を京助に手渡した。京助は任せろ、と胸を叩く。ああ、心配だ。
京助を一人残して、雄一らは文化祭に浮かれた学校を練り歩く。晴香は和希と離れることを極限まで渋っていたが、大した手伝いも出来ない奴がいても邪魔になるだろ、と言い聞かせれば渋々ついてきた。
廊下中から勧誘の声が聞こえ、外へ出れば屋台の列に目を奪われる。文化祭はいいな。雄一はきょろきょろと当たりを見渡した。
「今日朝飯食ってねーんだよな。とりあえず端からいくか」
光がパンフレットを片手に意気揚々と足を踏み出す。射的はないのか、と目も凝らしている。
「綿あめ、タピオカジュース、クレープ、パンケーキ、チョコバナナ……あっ! 雄一パフェ行くぞパフェ!」
少年のような目をした晴香が、雄一の腕を掴んで引く。呆れかえりながらもそれに従おうとすると、反対側の手が引かれた。見ると、光が雄一の手首を握っている。
「いやたこ焼きとお好み焼きが先だ。雄一行くぞこっちだ」
「お前ら俺を取り合うな。仲良くしなさい」
両側から腕を引かれる。相も変わらず正反対な二人だ。とりあえずたしなめるが、両側からの力が緩む気配がない。俺の腕がちぎれるまであと何秒か。カウントダウンを始めようとしたところで、急に晴香側の力が消え、光の方に身が投げ出された。踏みとどまることも出来ず、彼の頼りない体に飛び込んでしまう。
「いって! ふざけんなおい!」
「こっちの台詞だ」
光にぶつかってしまい、理不尽な罵声を浴びせられる。ふざけんな。言いたいのはこちらの方だ。雄一がじろりと晴香の方を見ると、首を九〇度回転させた晴香が、目を見開き、口をぽっかりと開け、立ち尽くしていた。イラついた光の足を脛で受けながら、晴香の視線の先を追う。
彼が見ていたのは校舎の入り口の方向だ。学生や一般人で混み合っているが、晴香がその目を留める者など考えるまでも無く決まっている。出入り口の端で、和希がこの学校の生徒らしい背の高い男性と親しげに話しているではないか。おいおい、とでも言いたげに、光がため息をついた。
「か、和希!」
「あ、おい晴香!」
慌てて晴香が駆け出した。足をもつれさせている。学校の友人と話しているくらいでなんて大げさな男だ。雄一は伸ばした手を宙に浮かせたまま、行き場のなさに困った。とりあえず追いかけるか。足を踏み出したところで、今度は後ろから引きつった声が聞こえた。
「君一人? 中学生かな? 迷っちゃった?」
「どっか行きたいとこあるの? 連れて行ってあげるよ」
振り返ると、光が女子高生に囲まれていた。ああ、今度はこっちがため息を吐きたくなる。引きつった悲鳴は光のもので、彼は周囲の学生に中学生として認識されていて、ああもう、面倒くさい。
相沢光は女性恐怖症だ。本来なら自分に恋愛的な好意を向ける女性限定なのだが、知らない場所で、自分より背の高い、知らない女性に囲まれれば光じゃなくともこうなるだろう。
「いや、あの、俺、友達と来てるから」
友達。その言葉に吹き出しそうになる。お前が訂正するべきはそこでは無いだろう。助けようと開いた口を押さえた。
光の怯え、戸惑う姿が女子生徒の母性本能を刺激したのか、彼女らの目の色が変わる。光が後ずさるのを許さないように、彼女たちは光の細腕を捕まえる。一緒にお友達探してあげるね! 何か食べたいものある? 特別に奢っちゃおうかなー。その友達はすぐ後ろにいるわけだが、雄一は何も言わず、光の後姿を見送った。
よし。光には悪いが、これで好きに回ることが出来る。晴香の事も放っておこう。お互い子供じゃあるまいし。雄一の頭の中には、既に期間限定の文字しかない。屋台の食べ物はこの日だけの楽しみだ。パンフレットを開き、自分の巡るべき道筋を組み立て、足を前に踏み出した。
横を駆け抜けた女性客が、すごくかっこいい人が来てるんだって、と弾むような声で言った。京助もうまくやっているらしい。
散々文化祭を満喫した夕刻頃、事前に決めていた通り、雄一らは和希の教室前に集まった。一人はやつれたような表情で、一人は悔しげな顔で、残りの二人は、満足気な表情で、だ。どうやらあの後、晴香も自分の好きなように文化祭を謳歌したらしい。
燕尾服の前を少し崩した京助は、教室の机に座って唇を尖らせていた。
「ちくしょー、全然アドレス聞けなかった。人気過ぎんのもダメなんだよなあ」
「雄一てめえ絶対に許さねえぞ。お前、あの後俺がどんな目にあったか……」
「お疲れ中学生」
「三十路に片足突っ込んでんだぞこっちは!」
「そこそこレベル高かった。クレープ作ってたあいつ、中々の腕だったな……」
思い思いの感想を述べる四人を、和希は嬉しげな笑顔で見守る。ありがとうございました、と改めて頭を下げた。どうやら京助の呼び込みは大成功。クラスは大きな黒字を出したらしい。
「いいんだよ。和希ちゃんのお願いだしね。今度お兄ちゃんの方に飯でも奢ってもらうからさ」
言って、京助は片目を閉じる。絵に描いたようなウィンクだ。ムカつく。三人分の声が、また重なった。
和希、と、教室のドア付近から声がする。混みあがる笑いや期待を無理矢理抑え込んだような声だ。和希が振り返った先には、朝も見た彼女の友人らしき生徒の姿がある。口元を手で隠したその顔も、感情の何もかもを放出したくて仕方ない、そんな表情だ。首を傾げる和希に、空いているほうの手で手招きをする。よく見ると、彼女の後ろにはもう一人、背の高い生徒がいるようだ。和希は雄一らにちょっとすいません、と断りを入れると、駆け足でそちらに向かった。
女子生徒は、後ろの生徒の方を指さすと、何も言わず、顔面では言いたいことを全て言っているかのようであったが、何も言わずにその場を後にした。残った男子生徒が、緊張した面持ちで和希の名前を呼ぶ。
その表情には見覚えがある。和希と親しげに話していた男子生徒だ。晴香が今にも飛び出しそうになったのを、咄嗟に雄一と京助が抑えた。
男子生徒を見上げる和希に、彼は、ここではちょっと、と煮え切らない言葉を発した。京助がニヤリと口元を緩めたのが分かった。どんどん力が強くなってく晴香を抑えるのに、光も加勢する。
どうやら二人は移動するようだ。小さな声で告げられたが、校舎裏に、という言葉が聞こえた。ああ、これは、もうこの後の展開が手に取る様に分かってしまう。分かってしまうが、覗き見ずにはいられない。二人の姿が消えた後、いい年の成人男性――光曰く「三十路に片足を突っ込んだ」――四人は、音も無く駆け出した。
文化祭の終わった後、独特の喧騒から外れた校舎裏で、和希と件の男子生徒は向かい合っていた。雄一ら四人といえば、角からその様子を野次馬根性だけで覗き込んでいる。晴香の口と両手両足を抑えることが想像以上に困難だが、今この暴虐の化身に打ち勝たずにいつ勝てというのか。
「立花、あのさ」
少年の声は緊張と期待を半分ずつ含んでいる。男子校に通っていた雄一は、このような光景を見る経験がない。乙女ゲームで見たな。と脳の冷静な部分が言った。
しばらく言葉を詰まらせた少年が、意を決したように息を吸いこんだ。当事者でもないのに、見ているこちらが手に汗を握る。少年が、腰から体を九〇度、勢いよく折り曲げる。
「ずっと好きでした! 俺と付き合ってください!」
言った! 名も知らぬ少年の勇気に心が歓声を上げる。色恋沙汰に人一倍興味を持つ京助が大きくガッツポーズをした。晴香の暴動は大きくなり、そろそろ腕が限界を告げそうだ。
気になるのは和希の返答だ。あの病的なブラコンの彼女が、他の男性に対してどう返事をするのか。断っても断らなくても、それはそれで面白いだろう。
少年の言葉に驚いていた様子の和希が動いた。深呼吸をしたのか、両肩が上がり、下がった。
「ごめんなさい」
見るからに、少年の体から力が抜けた。ゆっくりと、顔を上げる。
「私、お兄ちゃんみたいな人が好きなの」
あっちゃー。京助が言って、体から力を抜いた。少年は和希の言葉に目を見開いて、顎を落とした。この断り方は相当心に刺さっただろう。彼の傷心を想うと同時に、腕の中から晴香が、核弾頭の如く飛び出した。
「和希―!」
一陣の風の如き動きで、和希に飛びつく。お兄ちゃん、と和希が呼んだ。少年は突然の乱入者に目を白黒とさせている。
隣に並べてみるとよく分かる。明らかに平均身長以下の晴香に、背の高い少年。天然パーマとストレートヘア。死んだ目と、光を帯びた瞳。確かに、似ても似つかない。
「こりゃダメだ、この兄妹」
京助が壁伝いに座り込み、光も地面に胡坐をかいた。雄一も呆れて膝を折る。少年は膝から崩れ落ち、立っているのは立花兄妹だけだ。お互いがお互いを抱きしめ合い、幸せそうに笑う。きっとこれが喜劇なら、彼らにはしっかりスポットライトが当たっていることだろう。
こりゃダメだ。京助の言葉を繰り返す。どうやら彼らの、兄離れ、妹離れは遠いらしい。
END
学校と祭りと妹の話