青とエスケペイド 短編集
長編"青とエスケペイド"(http://slib.net/55794)のサイドストーリーを集めたもの。好きに書き散らしてます。一部注意を要するものあり。
本編のネタバレ満載、シリアス・コメディ・アダルト・ホラーなどごちゃ混ぜ。
アンノウン(遍高校の話)
わたしから見る限り、茅ヶ崎龍介はクラスから少し浮いている。
訂正。少しじゃない。かなり、浮いている。
「龍介ってクラスに馴染んでないよね」
2限目の休み時間、生徒たちはいくつかのグループを作って談笑していた。授業中の静けさとはうって変わって、教室じゅうがとても賑やかだ。ある男子の一群から紙飛行機がすうっと飛んで、それを見た周りがげらげら笑う。たぶんあれ、さっき受けた小テストだと思う。
龍介はそんな喧騒を避けるように、一人ぽつんと机に向かっている。
「だから?」
「浮いてるよって話」
「知ってるけど」
「いいの?」
「別にいいんじゃね」
にべも無い。人を突き放す話し方は昔から変わってないけど、最近になって刺々しさが一段と増した気がする。
龍介は猫によく似ている。授業中はたいてい寝ているし、かと思えばふらっと教室を抜け出す。気まぐれに授業を受けてみたりサボってみたり。昼休みに誰かとご飯を食べているところなんか見たことがない。龍介は群れない。
今は何をしているかと手元を覗き込むと、縦長の用紙が机に置かれている。紙には意味のとれない記号がずらずらと並んでいた。なんだろう。外国語?
「それ何」
「数学の証明問題」
「え! そんなの習ったっけ」
「習ってねーよ。つうかこの先も習わねーよ。高校の範囲じゃねぇからな」
「あんたそんなの解けるわけ」
「だから今その解き方を考えてんだろ。気が散るから話しかけんな」
「なにその言い方! せっかくわたしが親切にも心配してあげてるのに」
龍介が今日初めてわたしのほうを見た。じろりと音が聞こえそうなジト目だ。
「お前のは親切って言わねーんだよ。ただのお節介。邪魔」
「何をぅ!」
相当頭にきたので龍介の脳天へチョップを食らわせた。もう愛想が尽きたので自分の席に戻る。いってーな暴力女と悪態をつく声が後ろから聞こえるけど無視。ガン無視。
わたしの机はいつも話す女の子三人に取り囲まれていた。まるでわたしを待ち受けていたみたいだ。
「しのむーのお帰りだぁ」
「ねえねえさっきー今、茅ヶ崎くんと喋ってたよね」
「しののん何話してたの?」
「大したことじゃないって」
溜め息混じりに答える。質問も質問だけど、あだ名をどれかに統一してほしい。わたしのあだ名は妙にたくさんある。名字の篠村からしののん、しのむー、名前の未咲からさっきー、みさっちゃんとか。
しののんって言いづらくないのかな。そういえば龍介にあだ名って無いや。
「しののんは良いよねぇ。茅ヶ崎くんと普通に喋れて」
「え? 別にみんな喋れるでしょ」
「えーっ、喋れないよ。格好よくて頭いい男子と話すのって緊張しない?」
「しかも茅ヶ崎くん、硬派! って感じだし」
「そうそう。チャラい女はお断りみたいな」
「いやいやあいつ全然格好いいとかじゃないじゃん」
みんなの言葉があまりに本人とかけ離れていて思わず笑ってしまう。格好いいなんて一番龍介に相応しくない。大体硬派だったら授業を抜け出したりしないだろう。まあそれは偏見かもしれないが。
もしかして龍介は浮いてるんじゃなく、高嶺の花だと見なされてるのだろうか。まさかね。
「さっきーって茅ヶ崎くんと付き合ってるんだっけ」
唐突な質問に反応が遅れた。
「……は? 無い無い。誰があんな無愛想なやつと」
「えー無愛想じゃなくない? この前おばあちゃんの荷物持ってあげてるの見たよ」
「それ人違いじゃないの」
「あたしも見た! 格好よくて優しいのに対象外とは、未咲さんの目は厳しいですな~」
三人が好奇の目で見てくる。
あいつ、見知らぬおばあちゃんには優しくできるのに、幼なじみのわたしにはできないってか。後でしばいたろか。
さっきのわたしと龍介の会話を聞かせてあげたい。そしたら幻滅して納得してくれるだろうに。できないのがもどかしい。
「とにかく」
3限の始まりを告げるチャイムが鳴った。
「龍介はみんなが思ってるようなやつじゃないからね」
教室がばたばたと忙しなくなる。わたしの机を囲んでいた輪もにわかに弛まって、散り際、一人がわたしに耳打ちして囁いた。
「でも、茅ヶ崎くんはさ、しのむーが思ってるような人でもないかもよ」
心の中でむううと唸る。みんな何故そんなに龍介を買い被っているのか。思い違いだって。
3列窓側の席を見やると、相変わらず龍介は数学の問題に向き合っていた。ものすごく真剣な表情だ。わたしでも見たことがないくらいの。窓から差し込む陽の光が龍介を照らしている。
先生が来ないうちに龍介を観察してみる。言われてみれば外見はそんなに悪くないかもしれない。むしろ、なかなかかもしれない。あくまで、かもしれない、に留めておくけど。
見つめていると、龍介がふいと顔を上げそうになって、慌てて頭ごと視線を逸らした。危ない危ない。見ていることがバレてまた小言を言われたらたまらない。
いや別に、どきどきなんて、してないし。
異端審問(罪の話)
※暴力的・猟奇的な描写があります。
約10メートル四方の正方形の部屋に踏み入る。がらんとした無機質の部屋には先客がいて、こちらの姿を見るなり声にならない叫びを上げた。ルカは伏せ気味にしていた面(おもて)をゆらりと上げ、先客の方へ視線をやる。
中肉中背の、これといって特徴の無い30前後の男だった。両腕はしっかりと手錠で戒められている。ルカは男を見下ろして、両目をすがめた。この男には、自分はさしずめ背の高い幽鬼にでも見えていることだろう。怯えた光を双眸に宿した男の唇がわななき、死神、と消え入りそうな言葉を押し出した。
「私は神ではありません」
ルカは冷ややかに言い放つ。
「この世に神がいるとしたら、それはディヴィーネ様だけです。貴方はそのディヴィーネ様を裏切った。貴方が受ける処罰はお分かりですね」
青ざめていた男の顔が蒼白に転じる。絶望を悟ったのだろう。ルカはじり、と男に歩み寄った。
この部屋は、罪の異端審問に使われる専用の空間だ。異端審問とは、早い話が粛清である。ディヴィーネに反旗を翻したりディヴィーネを欺いたりした者は、ルカを始めとする異端審問官によって断罪される。この部屋に連れてこられた時点でその者の運命は決まっている。その運命とは、死だ。
部屋は三方がコンクリートだが、出入口の正面だけは鏡張りになっている。その鏡は向こう側からは透明に見えるマジックミラーで、その向こうにディヴィーネがいる。かつて仲間だった者が異端審問官によって血祭りに上げられるのを、その澄んだ碧の瞳でじっと見ているのだ。
異端審問にかけられた者の行動は概ね二つに分けられる。一方は異端審問官にしゃにむに襲いかかってくる者。もう一方はもはや戦意を喪失し、呆然と己の運命を噛み締めている者。今、ルカの目の前にいる男は後者だった。
「スパイ容疑により貴方を粛清します」
がちがちと歯を鳴らす男に向かって、ルカは淡々と伝える。
この男には、影のスパイの容疑がかかっていた。その疑いが正しいのか、誤りなのか、異端審問官にとってはどちらでもよいことだ。罪の戒律にはこうある。"疑わしきは罰せよ"。疑われた人間は死ぬしかないのだ。
「ちょ、ちょっと待ってくれ!」
震えるばかりだった男が、必死の形相でルカを見る。
「か、家族がいるんだ! 娘が……2歳になったばかりで……。最期に、す、少しだけでいい、家族に会わせてくれ!」
ルカは男に歩み寄る足を止めた。
「ああ、貴方、家族がいるんですか」
ルカは心の内で納得した。おそらく、影の人間に家族を人質に取られ、情報を流さなければ家族を傷つける、とでも脅されたのだろう。家族はそういった場合によく脅しの材料にされる。分かりやすい話だ。影の人間も同じ穴の狢だから、彼らの考えそうなことは大体分かる。
それにしても、とルカは内心で嘲笑を漏らした。家族ごときに自分の命すら懸けてしまうなんて、愚かな男だとしか言いようがない。配偶者など全く赤の他人だし、子供だってまた作ることができる。家族を知らないルカにとって、家族のためという理由で無謀を犯す人間は軽蔑の対象だった。
この世には、ディヴィーネ以外に命を懸けるべき存在などないのに。
「頼む! ほんの少しだけでいいんだ! お願いだ!」
「安心してください」
喚き続ける男の頬には、興奮のためか朱が注している。ルカはまた、男へ歩み寄る足を進めた。
「心配しなくとも、すぐに会わせてあげますよ。――あの世でね」
一瞬、一縷の希望を見つけたように弱く輝いた男の目が凍りつく。上気していた頬がさっと色を失う。男の瞳は、己の死を悟ったときよりも深い絶望の奈落を映していた。
他人が絶望を感じることについてルカは何も思わないが、おそらくディヴィーネは喜ぶだろう。そういう意味では今の言葉には意義があったと思う。
「な、なんで……家族は……関係ない……。まだ、死にたくない……死にたくない……!」
糸の切れた操り人形のようになった男が、魂が抜けきった虚ろな声を出す。
関係があるかどうかは男が決めることではない。これ以上の問答は不要だとルカは判断した。
右足を強く蹴って男に肉薄する。恐怖に染まった表情が眼前に迫った。ルカは利き手である左手の指を揃え、手のひらを上に向け、大きく振りかぶって男の腹へと勢いよく突き出す。指は容易く肌を切り裂き、いとも簡単に肉が裂ける。手が生暖かいものに埋まる感触。男が絶叫したが、ルカは聴覚を意識から遮断した。
ルカは男の内部にあるものを掴んで引きずり出す。鮮やかな赤が滴り落ち、ずるずると細長い腸が姿を見せる。それを限界まで引き出し、断ち切った。赤い生(せい)が男の体からどんどん溢れ出てくる。鼻を突く、生の生臭い匂い。聴覚に続き嗅覚も意識から追い出す。
男の血を浴びながら、ルカの精神は冷静だった。肉を断つ。骨を砕く。あらゆる臓器を握りつぶし、踏みにじる。男は既に絶命している。男だったものがただの肉塊になるまで続けなければならない。そうしなければディヴィーネは満足しない。
最後、ルカは男の頭部だったものを踵で踏み潰した。降り下ろした踵の衝撃に耐えきれず頭蓋が爆ぜる。脳漿がぐちゅっと音を立てて四方に飛び散る。部屋の床が赤く染まり、男の目玉や内蔵や骨や指だったものがあちらこちらに散らばっていた。精神が獣から人間へと戻る。一種の興奮状態から醒めた体にどっと疲労感が降ってくる。ルカは肩で息をした。嗅覚が戻ってきて、吐き気を誘う臭いが鼻腔を満たす。血の臭い。いつまでも慣れることのない臭い。
男の最期の言葉を思い返す。今際(いまわ)の言葉が死にたくないとは、滑稽だなと思った。
「そんなに生きたいのですか……私には分かりませんね」
呟いた声は、誰にも届かなかった。
ぱちぱちぱち、と呑気な音がして、出入口の方を振り返る。ディヴィーネがその彫像のように整った顔に、微笑みをたたえながら部屋に入ってくるところだった。血染めの床を平然と踏みしめてルカに近づいてくる。その足元で眼球がぶちゅ、と爆ぜた。
「見事な働きだったよ、ルカ」
「……教皇様。汚れます」
「ディヴィーネと呼んでって言ってるでしょう。それはさておき、なかなか楽しめたよ。この人、ルカの言葉でどん底に落とされたような顔をしていたね。傑作だったと思うよ。うん、最高だった」
ディヴィーネは無邪気な子供のようにくすくすと笑い声を立てた。
「さ、おいでルカ。体を洗ったら、ご褒美をあげよう」
「……有り難き幸せ、光栄です」
ディヴィーネはためらいなくルカの血だらけの手を取る。ディヴィーネが身を翻すと、きらきらと輝く銀髪がふわりと躍り、花のような香りが周りに散った。
ルカは主に手を引かれ、肉塊が沈黙する部屋を後にした。
Neue Begegnung(影の話)
どしゃ降りの夜だった。
自動車の強烈な明るさのヘッドライトが闇を裂き、道の真ん中で立ちすくむ私の目を容赦なく眩ます。鋼鉄製の悪魔がものすごい勢いで私に迫ってくる。獣のうなり声にも似たエンジン音。タイヤが轍(わだち)に溜まった雨水をまき散らす。
間違いなく死ぬ、と私は思った。濡れて冷えきった体は動かない。こんな場面を網膜に焼きつけて天に召されるなんてあんまりだ。
死ぬときってやっぱり痛いのかな、と働かない頭に浮かんだ疑問は、体ごと横ざまに吹っ飛ばされる。
撥(は)ねられた。
と思ったが、違った。まだ生きている。なぜ。車が猛スピードで走り抜ける音を聴く。無意識に閉じていた瞼を怖々開けると、目の前に男の人の顔があった。
「大丈夫?」
その男の人が訊いた。声音に緊張がみなぎっていた。
どうやら、通りがかった男の人が、自分の命も顧みず私を助けてくれたらしい。
バケツをひっくり返したような雨のなか、私も男の人もただただびしょ濡れだった。濡れそぼった髪の向こうから、男の人の澄んだ目が私を見ていた。
私に怪我はなかった。
男の人の眸が潤んで、私は抱き締められた。
優しげな抱擁だった。
「良かった……目の前で死んでいくのをただ見ているだけなんて、もう嫌だから……」
そんなふうに男の人に抱き締められたのは初めてで、私の胸は高鳴った。
ザーッという雨音が、私と男の人を包む。
男の人からは、涙と、他の女の匂いがした。
男の人が部屋の電気を点ける。パチンと音がして、ソファやカーペットやカーテンやテレビが一斉に姿を現した。小綺麗な部屋だ。そして、そこかしこに知らない女の残り香が漂っている。
「今は僕一人なんだ」
男の人が言った。
私の体も男の人の体もずぶ濡れだったので、水がとめどなく滴り落ちて床がびちょびちょになった。
男の人がもふもふとした純白のタオルを持ってきて、私をわしゃわしゃと拭く。男の人は慈しみの満ちた目で私を見ている。
男の人も着替えたりすればいいのに、私にばかり構う。今度はホットミルクを作って、持ってきてくれた。
「口に合うか分からないけれど」
一口飲む。胃の底の方から温かみが全身へ広がる。と同時に、ほわほわした毛布で包まれるような甘い気分になる。これは、安堵感というやつだ。
私は急に眠たくなってきた。
男の人が目尻を下げてふふふと笑う。私は、この男の人は春生まれだろうなと思った。でなかったら、こんな心地よい春風のように笑えるはずがない。
「眠い?」
男の人の手が私の頭をそっと撫でる。
睡魔に手ひどく襲われて、問いに答える余裕もない。
男の人が私を抱えあげた。ふっかりとした場所に寝かせられる。
その夜は、男の人と一緒のベッドで眠った。
深夜、物音で目が覚める。
景色が煙るほどの勢いで降っていた雨は止んでいた。それどころか、月の影すらある。窓の外は冴えた月光が粛々と注ぐばかりで、静寂に覆われている。
物音は、男の人が呻く声だった。悪い夢でも見ているのだろうか。うなされている。
「ルーエ……」
悲しい顔と、悲しい声。
こちらまで悲しみが伝わってくるような。
男の人の喉の奥から絞り出されたそれは、女の名前なのだろう。そしてきっと、彼女はもうこの世にはいない。
男の人の眦(まなじり)から、涙がひとすじ伝った。
はっと男の人が目覚める。私がその涙を舌で舐めあげたからだ。塩気の味が舌先に広がる。男の人が驚きと困惑の混じった表情で私を見た。
先ほどとは反対側の目の涙も、私は舐めとる。
「ちょ、っと、くすぐったいよ」
男の人が眉尻を下げて困ったように笑う。
笑ってくれた。これでいい。
悲しみはすぐには癒えないけれど、今だけは、私がここにいる。
誰かと抱き合って眠ることのあたたかさを、私はその日知った。
もう一度目覚めたとき、隣に男の人はいなかった。鳥がチチチと鳴いている。朝になっていた。
私は慌ててベッドから飛び出す。
男の人はキッチンで、朝食の準備をしていた。紅茶の芳香と、パンの焼ける香ばしい匂い、ベーコンと卵が焦げる食欲を誘う香り。うっとりするような朝の光景。
おはよう、と男の人が私へにっこりと笑いかける。
「ところで」
男の人が腰を落とし、私と目線を合わせてきた。なんて綺麗な瞳なんだろう。青空よりも海よりも深く透きとおった青だ。見惚れてしまう。
男の人がまた私の頭を撫でた。
「帰る場所はあるの?」
じっと私を見て問う。
そんなところは無かった。母は、とうの昔に交通事故で死んでいた。父の顔は知らなかった。
「無いのなら、僕と一緒に、ここで暮らそう」
真剣な表情と声で、男の人が告げる。
私は、男の人を見上げて、ニャアと返事をした。
男の人は、私を軽々と抱き上げて、柔らかく微笑んだ。
(新しい出会い)
メルティングブルー(遍高校の話)
あと25分。長い。
わたしは壁の時計の長針を睨みながら早く早くと念じてみる。そんなことをしたって針の遅々とした速度はもちろん変わらない。ふうと軽く嘆息して、机に目を落とす。
高校で初めての模試の最中だった。机の上にはほぼ白紙状態の数学の解答用紙がある。だだっ広い空白が、お前に解けるもんなら埋めてみろとわたしを嘲笑っているように感じる。これでも頑張って分かるところは解いたのだ。合っているかどうかは怪しいが。泣ける。
やることがない。見直しだって3回した。だけど分からないものは何度見ても分からないのだ。
試験監督をしている桐原先生がゆっくりと回ってきて、わたしの手元を覗こうとする。わたしはばっと腕をかざしてそれを阻止する。先生の方をキッと見上げると、呆れたような顔をして前方へと歩いていった。
あと22分。あーあ。早く終わんないかな。なんでやることもないのに机の前に大人しく座ってなきゃなんないの。馬鹿みたい。
龍介の様子はどんなかな、とサボり癖のある幼馴染みの席を見遣ると、当の龍介は机に突っ伏して寝ていた。丸まった背中が呼吸に合わせてわずかに上下している。
なーんだ。龍介だって同じじゃん。わたしはちょっとほっとして、窓の外を眺めた。澄んだ薄い空色に、綿のような白い雲がぽこぽこと浮かんでいる。いい天気だなあ。走りたい。こんな教室の中でじっとしていたくない。
相変わらず時計の針はのんびりと進んでいる。
模試の後、すぐに模範解答が配られて自己採点をした。国語と英語はまあまあかなと思うが、数学はひどい。目も当てられない。まあ、ほとんど白紙だったんだから当然だけど。
「あ! 龍介、どうだった?」
真っ先に荷物をまとめて帰ろうとしている龍介に声をかける。龍介は冷めた目をわたしに向けた。
「さあ。結果が戻ってきてからのお楽しみでいいだろ」
「なにそれ。少しは教えてくれたっていいでしょ」
実はわたしと龍介は賭けをしている。賭けって言うほど大ごとじゃないけど。わたしの3教科の合計点と、龍介の数学の点数を比べて、高い方が低い方にアイスを奢るという約束なのだ。
その賭けを提案したとき、お前にはプライドはねーのかよ、と龍介は言っていた。プライドなんてどうでもいい。プライドよりもアイスの方が大切だ。
それから幾週かが過ぎ、模試の結果が返ってきた。国語と英語は部分点が加算されていて自己採点よりも高かったけど、数学は1点の差もない。数学は答えがひとつしかないから嫌い。適当に書いたって絶対に当たらないもんな。
結果が書かれた用紙には、偏差値や順位、偏差値を三角形のグラフにしたものなどが印刷されている。わたしの三角形はすごく小さい二等辺三角形だ。悲しい。言わずもがな、引っ込んだ頂点は数学である。
「どうだった?」
かけられた声に顔を上げると、にこにこと笑みを浮かべた輝だった。傍らには龍介がいる。笑顔の輝とは対照的に、むっつりした仏頂面をわたしに向けていた。
「先に龍介の見せて」
わたしは返事を待たず、龍介の手から用紙をひったくった。
どれどれ、と数学の点数の部分を探す。わたしの用があるのは数学だけなのだ。
そこには、100/100とあった。
え。なにこれ。100分の100ってことは、つまり……。
「え、嘘、満点!?」
「馬鹿、声がでけえよ」
少し焦ったように龍介が言う。
教室にはまだ多くの生徒が残っていて、わたしたちの方を、正確には龍介をちらちらと見ている。満点だって、茅ヶ崎くん、すごいね、と囁いているのが聞こえる。
わたしは思わず、えーっと声を上げてしまった。模試中に熟睡する龍介の背中が脳裏に甦る。
「だって龍介、解答時間の半分くらい寝てたじゃん! どうして?」
「どうしても何も、終わったから寝てたんだよ」
龍介が不機嫌そうに答えた。
「龍介、すごいよねえ。さすがって感じ。点数少し分けてほしいよ」
「輝だって、国語の点数9割近かったじゃねーか。記述式でそんなに取れる奴そうそういねえって。国語なんて答えが何個もあるのに、すげーよ」
「いや、数学の方が難しいって。国語なら何か書けば当たるかもしれないけど、数学は答えがひとつしかないもんね」
互いを褒めあう龍介と輝の言葉を、わたしはぐぬぬと思いつつ聞いていた。どうせわたしには運動しか取り柄がないですよーだ。
中学校まではスポーツができる人が男女問わず人気者だったけど、高校はそうではないみたいだ。ため息が出てしまう。俯くと、手に持ったままの用紙のある部分に目が留まった。
数学の全国順位、1位とある。
「えっ、ねえ龍介、全国1位だって、数学の順位!」
慌てるわたしを尻目に龍介は、はあ?と言いながら首を少しばかり傾けた。
「なんで驚いてんだよ。満点なんだから1位なのは当たり前だろ。満点取れる奴が全国に何百人いると思ってんだ」
「えーでも、すごいじゃん!」
龍介にとって当然のことでも、1位が全国に何百人いようとも、わたしからすればそれは本当にすごいことだ。
勢い込んで言うと、龍介は反対に押し黙った。そんなことを言われるなんて予想外だった、と言わんばかりの表情だ。返すべき言葉を探しているらしく、目がわずかに泳いでいる。
「……別に、そんな特別なことじゃねーよ。……それよりも、お前さ」
龍介が鋭い目をすっと細めた。尖った視線がわたしに向けられる。なぜだか瞳の奥に、悲しみが見え隠れしていた。
「たまにそういうこと言うの、やめてくれよ」
ほとんど懇願するような調子だった。
わたしはそう言う龍介の本心が掴めなかった。どうしてそんなことを? どうしてそんな目をするの? わたし、何か悪いこと言ったかな。
「な! なんでよ、せっかく褒めてるのに、何が不満なわけ」
「俺は――いや、それより、早くアイス食べに行こうぜ。食べたいんだろ」
開きかけた口を一旦閉じて、龍介が通学鞄を手に取る。そのまま、すたすたと教室の外へと歩き出す。輝がやれやれ、といった様子で肩をすくめ、苦笑した。
「僕は二人の邪魔しちゃ悪いから先に帰るよ。二人っきりでゆっくりしていって」
「だから、そんなんじゃないってば! ちょっと龍介、待ってよー!」
わたしも鞄を引っ掴み、無愛想な幼馴染みの背を追った。
* * * *
傾いた太陽はまだ、じりじりとした陽射しを道行く人々に注いでいた。模試を受けた頃、この時間には肌寒さを感じていたはずだ。何気ないところから、季節が進んでいることを知る。
俺と未咲は高校の近くにあるジェラート屋に向かって歩いていた。この気温だと、おそらく店は混んでいるだろう。その店はこじんまりとしているが洒落た外観と内装で、この辺に高校が多いこともあり、様々な制服を着た高校生でいつも賑わっている。
未咲はうきうきした気分を隠そうともせず、俺の隣を歩いている。よっぽどアイスを食べられるのが嬉しいらしい。そもそもこの賭けは最初から結果が見えていたのだ。点数の上限が決まっている俺と未咲では、対等な勝負にはなり得ない。俺は怒っていいはずだ。なのに、満面の笑みを浮かべる幼馴染みを見ると、あまり悪い気がしない自分が悔しい。
目的のジェラート屋には、10組ほどが並んでいた。その最後尾に続き、色とりどりのジェラートが並ぶショーケースが近づくのを待つ。
そのまましばらくしていると、未咲があからさまにふううとため息をついた。
「……なんだよ」
「別にー。こういうとこにはせっかくなら龍介じゃなくて別の人と来たいなって思っただけー」
「その言葉、そっくりそのままお前に返してえな」
俺はむっとして言い返した。まんざらでもないと思っていたのが間違いだった。波風が立つようなことをどうしてわざわざ言うんだこいつは。
刺々しい空気が未咲とのあいだに漂ったまま、前にいた客が会計を済ませて店から出ていった。目の前に、鮮やかな色のジェラートがずらっと並ぶ。それを見るやいなや、未咲が目を輝かせ、口元を綻ばせた。現金な奴だ。
「うわーどれも美味しそう! レアチーズケーキもラズベリーもシトラスミックスも巨峰もマンゴーもいいなー、どうしよ」
未咲は屈みこみ、食い入るようにジェラートを見つめる。ただでさえ短いスカートの裾が持ち上がり、意外なほど白くきめ細かい太ももが露になっている。半歩退いたところにいる俺には、見えてはいけないものまで見えてしまいそうだ。
「おい、そんなにしゃがんだらパンツ見えんぞ」
「スパッツ履いてるから見えませーん」
冷やひやしながら指摘すると、冷めた答えが返ってきた。ああそうですか。
「ていうかどこ見てんの? 気持ち悪いんですけど」
そりゃ悪かったな。
こんな距離でそんなことをされたら、嫌でも目に入る。ただ見ていたのは事実なので、俺は口をつぐんでいた。
それにしても、太ももの際どいところまで見えていることについては、何も思わないのだろうか。不思議だ。
2分経っても3分経っても、未咲の逡巡は続いた。決まる気配がない。
「おい、人が並んでんだから早く決めろよ」
未咲が、えっ、と焦った声を漏らす。
「でも、レアチーズケーキとマンゴー、どっちも同じくらい食べたいし、美味しそうだし……どうしよ、決められない」
「んなもんダブルにすりゃいいだけの話だろ」
このジェラート屋のオーダーの仕方は4つある。アイスはシングルかダブル、そしてそれぞれ器がカップかコーンかが選べる。もともとシングルの値段も高めだが、ダブルとなれば金欠の高校生にとってはなかなかの痛手となる。特別な時でない限りそうそう選ばない。
未咲は俺の方を振り返った。目を丸くしている。
「えっいいの? だってお金払うの龍介だよ?」
「だからいいって言ってんだろうが」
なんでこういうところだけ気を遣うんだ。
未咲はありがと、と呟いて、今や遅しとオーダーを待っていた店員に注文を伝えた。
店を出る。未咲の手には、レアチーズケーキとマンゴーのジェラートが盛られたコーンが、俺の手にはチョコミントのアイスクリームが盛られたカップがある。
俺は甘いものが苦手なので、食べられるアイスといったらチョコミントだけなのだ。
未咲が俺の手元を怪訝な顔で見る。
「ねーなんで龍介コーンにしないの? 同じ値段なのに、カップは食べられなくてもったいないじゃん。それに、チョコミントって……それ歯みがき粉の味でしょ」
「うっせーな、コーンは甘くて嫌なんだよ。それに全然歯みがき粉の味じゃねえっつーの。大体俺が何を食べようがお前には関係ねえだろ」
一頻(ひとしき)り反論し、プラスチックのスプーンをアイスの山に突き刺そうとしたところ、手からアイスがふいと消えた。横から未咲がひったくったのだ。
「ちょっとちょうだい」
俺が可否の返事をする前に、アイスの山の頂上部分を、ぱくりと未咲が頬張った。途端に微妙な表情になる。
「んん、やっぱ歯みがき粉の味! 返す」
突っ返されたアイスを、俺は半ば呆然と受け取った。けっこうな量が減っている。人のものを許可なく食べる行為もあれだが、これに俺が口を付けたらどういう事態になるか――。頼むからちょっとは頭を働かせてくれ。
もやもやが渦巻く俺の心の内など知ったことかといった様子で、未咲は自分のジェラートを美味しそうに食べ始めた。目は閉じられ、首がほんの少し左右に揺れる。
「んーっ! おいし! ありがと龍介!」
未咲がにかっと俺に笑いかける。その笑みには、賭けに負けた俺の敗北感を煽るような、そんな意地汚さはどこにも含まれていなかった。どこまでも純粋な、俺にとっては眩しいほどの笑顔だった。
俺は、ああ、無防備だな、と思う。誰にでも、そんな剥き出しの感情をさらけ出しているのだろうか。
俺は無言のまま、胸の奥にわだかまる鬱々とした感情を押し潰すように、アイスを一すくい口に運んだ。
淡く緑がかったその青は、苦い胸の内とは裏腹に、甘く爽やかな味がした。
ひとりでは行けない場所(遍高校の話)
閉館時間の迫る図書室で、読書に没頭している。
俺は無心でページをめくる。"素数"がテーマの本だった。
素数という深遠なる数に数学者が魅入られ、しかし完全な理解には到達できずに悪戦苦闘してきた歴史を、年代を追って丁寧に描いている本だった。借りて帰っても良かったのだが、一度ページを開いてしまうとなかなか止めるタイミングが掴めず、それならば閉館時間まで居座ってやろうという謎の開き直りで現在に至る。
俺はその本で紹介されていた、インドの数学者が発見した摩可不思議な公式を初めて目にし、衝撃を受けた。その衝撃の余韻を味わっていたまさにその時、誰かが俺の肩を叩いた。
誰だこんなところで、と振り返る。
部活帰りなのか、頬を少し上気させた短髪の女子生徒。幼なじみの未咲だった。
制汗剤の匂いが鼻腔にふわりと香る。
未咲はにんまりと笑って、親指で図書室のドアを指すという男前な仕草をした。
「牛丼食べたくない?」
本の貸し出し手続きを済ませ、図書室のすぐ外側、鞄を入れておくロッカーが並ぶスペースまで来ると、未咲が唐突に言った。
頭の中が"?"で埋め尽くされる。
なんで、いきなり、牛丼?
「いや別に、特別食べたくはねーけど」
「うそお、食べたいでしょ絶対。今すごい牛丼食べたいでしょ? ねっ」
小首を傾げながらねっ、と言われても。
「その決めつけは何なんだ。つーか人の話聞けよ」
「ということで、牛丼食べに行こうよ龍介」
だから、人の話聞けよ。
「ということでってどういうことでだか、全然分かんねーんだけど」
「わたしにもよく分かんないけど、牛丼は美味しいよ?」
無邪気ないたずらっ子のような目をして、支離滅裂なことを言う。
――駄目だ、こいつ話通じてねえ。
まるで訳が分からないが、とりあえず牛丼を食べたいのが未咲であることだけは分かった。
そういえば、とふと思い出す。以前もこんなパターンがあったのではなかったか。
あの時は確か、帰りの電車を駅のホームで待っていたら、ラーメン食べたくない?と突然現れた未咲が脈絡なく尋ねてきたのだ。
その後回れ右をして無理やり15分ほど歩かされ、いかにも老舗といった外観のラーメン屋に連れ込まれ、野菜がたっぷり乗った味噌ラーメンを注文させられた。まああのことに限っては、ラーメンが美味しかったから許す。
結局、今回も未咲に押し切られ、特に食べたくもない牛丼を食べに行くことになった。
訳が分からん。
俺たちの高校のそばには、チェーン店の牛丼屋があって、野球部とかテニス部とかの男子生徒たちが部活帰りに大挙して押し寄せる、らしい。店に入ったことはないので、その表現が写実的なものか誇張なのかは不明である。今は夕飯には少し早いが、部活がちょうど終わる頃なので、その話を実際確かめることができそうだ。
できそうだからといって、どうと言うこともないのだけれど。
「牛丼が食べたいんなら、勝手に一人で行けばいいだろうが」
隣を歩く未咲に、ちくりと棘を刺すつもりで呟く。
「うーんおなか減った! 早く牛丼食べたい! 大盛りの牛丼をおなかいっぱい食べたーい!」
「あのさあ、頼むから話聞いてくんないかな」
「えー? いま何か言った?」
偽りのないきょとんとした顔が返ってくる。
未咲の雰囲気がいつもと少し違っていて、俺は戸惑った。大抵はつんけんしているのに、今はなんというか、若干ふわふわしている。どうも未咲は空腹だと上の空になるらしい。10年以上の付き合いだが、新発見だった。
「だから、牛丼食べたいなら一人で行けっての」
「はあ? 一人で牛丼屋なんて入れるわけないでしょ。馬鹿じゃないの」
「……」
言い直したら蔑むような目で見られた。理不尽だ。そこまで言われなくてはいけないことだろうか。
未咲は口先をちょっと尖らせる。
「大体わたし、一人で牛丼屋に入っていけるほど逞(たくま)しくないし」
「嘘つけよ。だったら俺じゃなくて、クラスの友達とか部活の友達とか誘ったらいいだろ」
「あのねえ、わたしだって女の子とだったらドーナツ屋さんとかハンバーガー屋さんとかに行くから」
ほお。そういうものなのだろうか。牛丼とハンバーガーに何の違いがあるのだろう。どちらも牛肉なのに。女子は完全に理解の範疇を超えている。
「それなら、輝はどうなんだよ」
俺はもう一人の幼なじみ、上宮輝の名前を出した。彼は多少計算高くて腹黒い面はあるが、基本的には優しくて物分かりがいい奴なので、未咲の唐突なお願いにも苦笑いしながらも応じてくれるはずだ。
未咲は今度は首をひねる。
「輝を誘ってもいいんだけどねー、でもなんかすごい忙しそうだから。その点あんたは暇でしょどうせ」
「どうせ言うな」
とは言いつつも実際暇だったので、あまり反論はできない。
俺は未咲が輝を誘った場合のことを考えた。そうなれば、未咲と輝、二人きりということになる。あの二人なら万が一にも間違いは起こらないと思うが、未咲が自分と二人でいるのを選ぶならば、それはそれで。
――それはそれで?
俺は心に浮かびかけた続きを揉み消した。
隣では、未咲が流行りの歌をハミングしている。
店内は聞いていたとおり、高校生男子で溢れかえっていた。坊主頭の野球部らしき集団、テニスのラケットケースを持った集団などが、ボックス席を占拠している。カウンター席にもちらほらと客がいるが、ものの見事に全員男だ。むさ苦しいことこの上ない。
浮いてるな、と俺は思った。未咲のことではない。胸元のリボンと短いスカートは、この空間に不思議と馴染んでいた。それは、彼女が運動部の所属だからかもしれない。
浮いているのは、自分だ。
幾ばくかの居心地の悪さを覚えて、わいわいと盛り上がっている集団から目を反らした。部活で汗を流し、仲間と一緒に帰途の道すがら夕飯を食べに行くような青春とは、俺は今のところ無縁だった。
そんな俺の思索に構わず、未咲は店内をずんずんと進む。錯覚だが、どんよりとした海面を未咲が割り、俺を先へ導いていくように見えた。その様は、どこか痛快だった。
嘘つけよ、と二度目は心の中で呟く。
――昔からそうやって、俺の手を引いて、どこへでも連れていくくせに。
未咲が不意に振り返る。
「なに龍介、にやにやしてどうしたの」
「してねぇよ」
「あ! 誰か好みの子でもいた?」
「男しかいねえだろうが」
「わたしがいるじゃん」
「……」
「あっ自分で言ってて恥ずかしくなっちゃった」
「…………」
なっちゃった、じゃねーよ。いきなり何言ってんだよ。畜生が。
店内のボックス席は全て埋まっていたため、必然的にカウンター席になる。店員に注文を伝えると、すぐに丼が運ばれてきた。大盛りひとつと並ひとつ。言うまでもなく、大盛りが未咲で並が俺だ。
丼が置かれるが早いか、未咲は紅しょうがの容器を引き寄せ、金属のピンセットみたいなもので豪快に中身を掴むと、丼の中へそれを大量に投入した。
器の中が紅に染まる。嘘だろ、何やってんのこいつ?
「お……前、何やってんだよ」
「え? 紅しょうが入れただけだけど」
「いや入れすぎだろ、真っ赤になってんじゃねーか。馬鹿なの?」
「あのー、紅しょうがを馬鹿にしないでくれますー? 紅しょうがは隠れた味の名脇役なんだから!」
「別に紅しょうがは馬鹿にしてねーし、全然隠れてねーし、そんなに入れたら脇役どころかもはや主役だろ」
「龍介も入れようよ」
「いやちょ……入れなくていい! 入れなくていいから! やめろって!」
未咲が俺の腕を押さえ付け、強引に紅しょうがを投下せんとしてくる。何こいつすげえ力なんだけど。
俺は紅しょうがが苦手だ。というより食わず嫌いだ。料理は出されたまま食べるのが一番うまい。と信じている。ほどでもないけど、何となく、そうしている。
抵抗虚しく、俺の丼までもが紅しょうがの海と化した。何やってくれてんだ。恨むぞ。
俺は泣く泣く、紅しょうが:牛肉:ご飯=3:3:4くらいの比率になった牛丼に口をつけた。一口ぶんを口に入れ、咀嚼する。すると甘じょっぱいタレの味に、しょうがの辛味としゃくしゃくとした食感がアクセントになって、未知の味が舌の上に広がった。これは意外にいけるかもしれない。これも、新発見だ。
未咲は好奇の目を俺に向けている。悔しいから、美味しいなんて言わない。
俺が無言で二口目を口に運ぶと、未咲は満足したように自分の食事を始めた。あーんと口を目一杯開いて、とんでもない量をぱくっと頬張り、幸せそうにもぐもぐもぐと顎を動かす。
あーん、ぱくっ、もぐもぐもぐ、だ。
ダイナミックな、とかワイルドな、とかの表現がはまる食べっぷりだった。
「うーん、体を動かした後の牛丼は格別ですなあ!」
「おっさんかよ」
「龍介の中のおっさんのイメージおかしい」
「おかしくねーだろ」
「やっぱり牛丼って美味しいね」
「こんなもん美味しいとか言ってたら普段どんな飯食ってんだと思われるっての」
「だって本当に美味しいもん」
「もんとか言うなよその顔で」
「あーっ! 今のイエローカードだから! わたしだって選べるならもっと可愛い顔に生まれたかったし!」
「……別に、可愛くねぇとは言ってねえだろ」
「え? なに? 聞こえなーい!」
「つうか何だよイエローカードって」
「本人にはどうにもならないチビやハゲなどの悪口を言うと累積によって退場になります」
「どこからだよ」
「人生から」
「ずいぶん重いペナルティーだな」
何だそりゃと思いながら俺は三口目を口に放り込む。しかし未咲の言うことも分からないではない。確かにそういう悪口は冗談にもならなくてタチが悪い。未咲の正義感の一端は不意に顔を出す。
未咲の横顔をちらりと見る。心の底から楽しそうだ。本当に美味しそうにものを食べる奴である。
「……俺じゃなくて、生徒会長を誘ったら良かったんじゃねーの」
無意識に、そう口に出していた。
生徒会長とは、胡散臭いほど爽やかな遍高校の二年生、九条悟のことである。輝によると、どうも未咲は九条のことを好いている。らしい。
未咲が明らさまにぴくりと震える。またあの蔑むような目を向けられた。
「はあ!? 何言ってんの? 会長の前で牛丼なんて食べれるわけないでしょ」
「何でだよ」
「こんな大口開けてるとこ、みっともなくて見せられるわけないって。だって想像してみて。もし龍介の好きな女の子が、一緒に牛丼食べに行こ! って言ってきたらどう思う?」
「…………」
「やでしょ? ドン引きでしょ?」
「……それはそれで、俺は別にいいけど」
「えー! 龍介ってやっぱ変わってるね」
「……お前に言われたくねーよ」
「それは一体どういう意味でしょうかあ?」
「黙って食えよ」
「なんで黙る必要があるのよ? お喋りしながら食べたほうが楽しいし美味しいじゃん」
「お前は女子か」
「はあー? どこからどう見ても完全に間違いなくれっきとした由緒正しい女子なんですけどー?」
「日本語の使い方おかしいだろ。大体お前俺と喋ってて楽しいか?」
「んー、わたしは割と楽しいー」
ぽろりと紡がれた未咲の言葉。俺は硬直した。箸で掴みかけた牛肉がぽろりと落ちた。
不意打ちだ。いつもはそんなに素直じゃないくせに。ペースが狂う。
俺は微かにため息を吐(つ)いた。
好きなものを食べながら怒ったり意地を張ったりするのは、確かに難しい芸当だろう。それにしたって、なあ……。
「いつもそれくらい……」
「ん?」
「いや何でもねー」
「んん?」
リスのように膨らんだ頬をもごもごさせながら、未咲が不思議そうな顔をした。
帰りの電車は珍しく空いていた。一両にぽつりぽつりと人が座っている程度だ。
未咲は俺の左側に腰を降ろして、でかいピンク色のケースが付いた携帯を弄りだす。俺は鞄から借りてきた本を取り出し、栞を挟んだページを開いた。あの、不可思議な数式が載っているページだ。
数式を発見した時って、わくわくするんだろうな。想像すると同時に、今日発見した未咲の表情やら紅しょうがの食感やらを、俺は思い返していた。
「ふあーあ」
電車の中なのに猫の鳴き声がして一瞬驚いたが、違った。未咲の欠伸だった。
未咲はいつの間にか携帯を鞄にしまい、欠伸を噛み殺す作業に移っている。
「なんかおなかいっぱいになったら眠くなってきちゃった」
「起こすの面倒くせえから寝るなよ」
「言われなくても寝ないし……」
俺は牽制しておいて、数学の世界へと戻る。
しばらく本に没入していると、いやに左肩が重い。何だと思って見ると、未咲が安らかな寝顔を俺の肩に預け、すやすやと寝息をたてていた。
間近に見る睫毛の長さと、桃色の唇のつやに不覚にもどきりとする。
さっき寝ないって言ったの誰だよ。
肩を揺らしてみる。効果はない。
「おい、寝るなって。起きろよ」
小声で言ってみるが、起きる気配はない。
はあ。仕方ない。未咲の寝顔があまりにも満ち足りていたので、俺は早々に諦め、成り行きに任せることに決めた。
電車がガタタン、ゴトトンという規則的な音をたてる。窓の外は黄昏(たそが)れはじめていて、乗客のいない前方の窓ガラスに、未咲と俺がくっきり映り込んでいる。
ガラスに映るゼロ距離。
何してんだか、と心の中で呟く。
こちらを見返している自分の顔が、そんなに嫌そうでもなく、それどころかけっこう満足そうだったから、自己嫌悪に陥りかけた。
俺は本を閉じ、ぼんやりと窓を眺めた。
未咲には翻弄されるばかりだが、未咲がこうして俺を連れ回さなければ、部活も何もしていない俺の学校生活は、もっと平坦で単調で張り合いのないものになっていたのかもしれない。未咲のおかげで知れた感情や表情、景色が色々ある。当の未咲にはそんなつもりはないだろうけど。
体に感じる電車の振動も、肩に感じるしっかりとした質量も、牛丼で満たされたおなかも、ほとんど人がいない車内も、悪くない。心地好い。未咲が寝てしまうのも分かる。
俺は一瞬だけ目を閉じ――
次に目を開けた時には、降りるはずの駅をいくつも過ぎていた。ああ。やらかした。
隣を見ると、未咲は相変わらず安らかに眠っていた。慌てて起こして、開いたドアから飛び降りる。二人揃って寝過ごしてしまった。
駅のホームに立つと、未咲が俺をじろりと睨んでくる。一発で目が覚めたらしい未咲の目は、未だかつて見たことがないほど吊り上がっていた。
やれやれだ。
逆方面の電車を待つ間、未咲に罵詈雑言の波状攻撃を受ける羽目になったことは言うまでもない。
こいつのやることなすこと全てが気に入らない(影の話)
桐原が車の時計に目をやると、もうすぐ夜の8時を回ろうとしていた。
マンションの駐車場にセダンを停める。帰るのがすっかり遅くなってしまった。自分の部屋に入りリビングへ抜けると、テレビを見ながらヴェルナーが腕立て伏せをしていた。
「おーうお帰りぃ。腹減ったぞ」
「すまんな。注文していた本を受け取りに書店へ行っていたら遅くなってしまった」
「本ってエッチなやつ?」
「違う」
ヴェルナーはなーんだ、と残念そうに言って、床にぺたりとうつ伏せになる。
どうやら今日の龍介の見張りはハンスの当番らしく、金髪の青年の姿は部屋に無い。
桐原は冷蔵庫の中身に思いを巡らす。何か二人ぶんの料理を作れないでもないが、今から作るとなると少々億劫だ。それに、ヴェルナーだけでなく自分の腹も相当空いている。
「ヴェル、今日は近くの定食屋にでも行くか? これから作るには遅くなってしまったし」
ネクタイを緩めつつ厄介者の同居人にそう持ちかけると、床にぺったり張りついていたヴェルナーが目を輝かせてむくりと起き上がった。
「定食屋って、もしかして和食があるところか?」
「まあ、定食だからな。大体は和食だろうな」
「そうか! 行く行く! 行くぞ! 俺は行くぞ!」
「お、おお……それじゃあ、そうするか……」
意気込むヴェルナーに半ば引きずられる形で、二人は連れだって出かけた。定食屋までは歩いて10分とかからない。道中、ヴェルナーは遊園地へ向かう子供のようにはしゃいでいた。
「俺はな! 和食がな! 大好きなんだよ!」
「そうか。それは良かったな」
「むしろ愛してると言ってもいい! 特にな! 焼き鮭定食がな! 大大大好きなんだな!」
「そうか」
とてもうるさい。
ヴェルナーの足取りは踊るように軽やかだ。誰もお前の好みなんか聞いてないし興味もない、と桐原は声に出さずに毒づいた。
目的の定食屋は、仕事帰りのサラリーマンで賑わっていた。時間が遅めだからか一杯やっている人々もいる。幸いテーブル席がひとつ空いていて、桐原とヴェルナーはそこに通された。
この定食屋は味はなかなかで、安めな割にご飯も野菜もボリュームたっぷりなので、働き盛りのサラリーマンにはけっこうな人気だ。今も店内はスーツ姿の男性が殆どで、派手な服装かつ赤髪のヴェルナーは店の中でかなり浮いている。水を持ってきた大学生くらいの女性が、奇異なものを見る顔つきでヴェルナーを一瞥した。
ヴェルナーはといえば、そんな視線を意にも介さずメニューとにらめっこしている。
「決まったか」
ヴェルナーは返事もせず唸るばかりだ。
「……魚……鶏……豚……はたまた野菜……」
眼がメニューの上を目まぐるしく動いている。
「うーん……うーん……」
「おい、早く決めたまえ。なんでそんなに悩むんだね」
「えっだって全部うまそうだし……でも全部は食べられないし……どうしよ……」
「そんなのまた来たときに別のを食べれば良かろう」
呆れて溜め息混じりに言うと、ヴェルナーは名案を聞いた! とばかりに顔をぱああと明るくした。
「あっなるほどそうか! じゃあメニューの先頭から食べよう! すいません! 刺身定食ひとつ、ご飯大盛りで!」
いきなり大声で呼び止められて、先ほどの大学生らしき女性はびくりと肩を震わせた。
思慮の浅い男だ。彼女を気の毒に思いながら、桐原は鯖味噌定食ひとつ、と自身の注文を伝えた。
注文した定食が目の前に置かれると、ヴェルナーはきらきらした目でそれをしばし見つめた。人の目は実際きらきらすることがあるのだなと桐原は変なところに感心する。
いただきます、と軽く手を合わせてから、桐原はずずずと味噌汁を啜った。ここの味噌汁は珍しく生姜を利かせたもので、これが非常に美味なのだ。何度か自分でも味を再現しようとしたものの、まだ成功には至っていない。
ふと前方を見ると、ヴェルナーは未だにじっと料理を注視している。殆ど呆然としていると言っていい表情だ。
「何をしているんだ。早く食べんと冷めるぞ」
「……じゃあ、い、いただきます」
神聖なものであるかのように、ヴェルナーは恭しくお椀を手に取った。大袈裟だ。
「いや俺、和食が好きすぎてさ、なんか近づきがたい存在に思えちゃうんだよね」
どうでもいい。
「味噌汁うまい」
「そうか」
「漬物うまい」
「そうか」
「白米うまい」
「そうか」
「サラダうまい」
「……そうか」
それは和食ではない。
食べ進めるうちに、ヴェルナーの口数が減り、そのうち滂沱(ぼうだ)の涙を流し始めた。桐原はぎょっとして箸を取り落としそうになった。ヴェルナーはしきりに schoen、schoen と感嘆したように呟いている。
「素晴らしい。これは。神が作った料理だ。素晴らしすぎる。Mein Gott! 信じられない」
自分で食べているのに信じられないもクソもあるかと桐原は心の中で悪態を吐く。
食べながらおいおいと泣くヴェルナーを、客の数人が怪訝な顔でちらちらと窺っている。
こいつは何なのか。真性の阿呆か。ただでさえ目立つ存在なのに、更に悪目立ちするような言動をなぜするのか。
「おいヴェルナー……ドイツにだって和食の店くらいあるだろう?」
気を逸らすためにそう声をかけると、感動しきりだったヴェルナーが今度は憤慨し始めた。
「はあ……ドイツの和食屋なんてただのぼったくりだぜぼったくり。あいつら和食と名が付いてりゃ売れると思ってるんだぜ? 魚は悪くなりかけだし天ぷらの衣はびちょびちょだしよぉ! Scheisse! 美味くもなんともない、料理とも言えないもんを馬鹿高く売りやがって! ふざけんなってんだ! まあ食べるけどよ」
食べるのかよ、と桐原は脱力した。
もうこの男の相手をしたくない。精神的な疲労感を感じつつ、早く店を出ようと桐原は黙々と箸を進めた。
店を出る頃には桐原はぐったりしていた。なぜ夕飯を食べるだけでこんなに疲れないといけないのか。全ては上機嫌で隣を歩くこのふざけた男のせいだ。
ヴェルナーは定食の刺身の種類におかしな節をつけてふんふんと歌っている。
「ブリ~イカ~マグロ~ふんふんふーん」
とてもうるさい。
「いやー美味かったなあ」
「まあな」
「また近いうちに来たいもんだねえ。あっそん時もお前の奢りね」
「死んでくれ」
「とか言って、俺が死んだら悲しむんでしょ?」
「むしろせいせいする」
「またまたー」
何を言っても上滑りする。こういう風になったヴェルナーには何を言っても無駄なのだ。桐原はうんざりして深く嘆息した。
「いやー俺、ほんと自分が和食大好きなんだなって改めて思ったよ」
「そうか。私は貴様のことが心底嫌いだと改めて思ったよ」
「うわー何それ、ひでぇ」
ヴェルナーが楽しげな笑い声を上げる横で、桐原は思いきり顔をしかめた。
インザマーケット(遍高校の話)
お菓子と本は似ている。
新しく市場に出されたものはすぐには棚に置かれず、棚の脇に平積みにされるところが。
週に何回か来るスーパーで、平積みされたお菓子コーナーの前にいる。今はちょうど季節の変わり目で、期間限定品が店頭に並び始める頃合いだ。お菓子好きとして、新商品のチェックは欠かせない。
私はあるチョコレートの箱を手に取る。このシリーズはちょっと贅沢な素材を使っているのが売りで、パッケージも高級感を意識しているのだろう、文字がエンボス加工になったりしている。お菓子にしては確かに高めな価格設定だけれど、本当に美味しいので文句は無い。今回の新商品もきっと美味しいはず。
私はかごにチョコレートを差し入れながら、これは頑張った日に自分へのご褒美として食べることにしよう、むふふ、とほくそ笑んだ。
「水城先生?」
聞き覚えのある声がした。そちらを向くと、背の高い、眼鏡をかけた、黒いスーツ姿の男性が立っていた。他でもない、同僚の桐原先生だった。
先生はジャケットの前釦を外し、ネクタイを緩めていて、少しリラックスした雰囲気だ。その左手には買い物かごがある。
彼の顔を見た瞬間、ばくんと心臓が跳ねて、軽くパニックに陥る。なぜなら私は桐原先生が好きだからだ。思わず、あふゎ!?と珍妙な驚きの声を出してしまう。
「あ、ききき桐原先生、お疲れさまですっ。えとえと、お買い物ですか?」
尋ねておいて、スーパーに買い物以外何しに来るんだー!と自分で突っ込む。私は馬鹿か。
桐原先生は特に顔色を変えず、ええ、と肯定した。
「水城先生もこちらのスーパーをお使いだったんですね」
「は、はい、そういえば家近かったですよね。でも初めて会いましたね。あは、は」
慌てているのを何とか繕おうとする。完全に気を抜いていたので、不意打ちを食らった気分だ。桐原先生とここで会う可能性があるなら、買い物するにももっと気をつけないといけないな。
というか、さっきお菓子の箱を持ってにやにやしてたところ、先生に見られたかも? どうしよう、最悪だ。絶対変な女だと思われただろうな……。
うう、と思って俯くと、先生のかごの中身が目に入る。
卵に、肉や魚などの生鮮食品、練り物類、大豆食品、たくさんの野菜、調味料、食パンやカレールウや麺類や缶詰やエトセトラ……。ザ・100パーセント自炊!という感じのする内容だ。
対して私のかごの中は、お菓子やお惣菜や菓子パンやヨーグルトやカップスープや冷凍食品ばかりである。私とて社会人になってしばらくは自炊を頑張っていたのだけれど、忙しさにかまけてだんだん主食を用意する以外の自炊をほぼ辞めてしまった。私は自分のかごをそっと後ろ手に隠した。
にしても、桐原先生の買い物、ものすごい量だなあ。彼が男性であることを考慮しても、悪くなる前に食べきれるとは思えない……。先生って一人暮らしだったよね? そんな疑念がつい口を出る。
「それ、お一人で全部食べるんですか?」
「ああ、いえ、うちに居候がいまして――」
先生が語尾を濁す。
"居候"? その言葉で私の頭の中は真っ白になる。それって、一緒に住んでる人がいるってこと? 同棲中の彼女、とか?
私の脳内が妄想に切り替わる。
桐原先生と、すらっとしたモデル体型のロングストレート黒髪美女(※イメージ)が、仲良くキッチンに立って料理をしている。二人は他愛もない話で楽しそうに笑っている。そうしてできあがった料理はどれも美味しそうで、料理を並べたあとにテーブルへ就いた先生は、優しくその女性に微笑みかける……。
そうして、私は真っ暗い奈落の底に落ちる(※イメージ)。
い、嫌あああぁ!
叫び出しそうなのを堪え、おずおずと先生を見上げる。私の顔は青ざめているに違いない。
「あの、前……一人暮らしって仰ってませんでした……?」
桐原先生はばつが悪そうな顔をする。
「いやまあ、居候というか、犬猫みたいなものですけどね」
その返答に、ほーっと安堵した。犬猫みたいなのもの。つまり、ペットか。人間くらいよく食べる、雑食性の。
でもそんな生き物って何だろう。熊? 熊って個人で飼えるのかな?
「可愛いんですか?」
「かわいくはないですね」
即答だった。えっ、と私が何も言えないでいると、先生は少しだけ目を泳がせた。
「やむを得ず面倒を見ているだけなので……」
なるほど、と私は相槌を打つ。親戚や友達から、しばらく預かってほしいと頼まれたのだろうか。
先生と動物がじゃれているところをなんとなく想像する。その光景が意外にもしっくりきて、自分の脳内の映像なのに頬が緩みそうになった。どうしよう、和む。
大型犬とじゃれ合う桐原先生。屈託のない笑顔を浮かべる桐原先生。犬が先生に飛びついてその頬をぺろぺろと舐める。不埒な思いが胸を過(よ)ぎる。ああ、犬になりたい……。
「犬になりたい?」
桐原先生が訝しむように小首を傾げて言った。えっ、嘘、私いま口に出してた……!? やだ、唐突にそんなこと口走るなんて私完全に変態じゃない……!
恥ずかしさで顔がかあっと熱くなる。ぶんぶんぶんと胸の前で片手を振る。
「えっ犬になりたいって? 何ですか? 私はそんなこと言ってないですよ? 全然言ってないですよ?」
「そうですか、失礼しました。私が聞き間違えたようです」
先生が申し訳なさそうな顔をするので、私の心はしくしくと痛んだ。いえ申し訳ないのは私です、失礼したのは私の方です、先生は何も悪くありません、謝らないで……。
「お買い物の邪魔をしてしまいましたね。お時間取らせてしまってすみません。では」
「あ、あのっ!」
桐原先生が踵を返そうとするので、もっと話がしたい!という一心で反射的に呼び止めてしまう。別に邪魔じゃないですよー! なんならもっと邪魔をしてきてもよろしいんですよー!
「はい?」
先生が律儀に振り返る。どうしよう、呼び止めたはいいけど何も言うことを考えてなかった。
先生に言いたいことはたくさんあるのだ。好きだとか好きだとか大好きだとかずっと見てましたとか良かったらお付き合いしてほしいとかもういっそのこと結婚してほしいとか。でもそれらは断じて、断じてこのタイミングで言うべきことではない。
どうする、どうするの麗衣!?
「あ、あのっ私、先生の料理が食べてみたいです!」
苦し紛れに口を突いた台詞はそんなものだった。
なんだそりゃー!と自分の中のもう一人の私が叫ぶ。確かに食べたいけども! それを今伝えてどうする!
桐原先生は少しばかり目を丸くして、
「構いませんよ。大したものは作れませんが」
と言った。先に支離滅裂なお願いを口にしたのは自分の方なのに、私は面食らった。
えっ……いいの?
「いいんですか?」
「料理は嫌いじゃないので。それに何人分作ってもそんなに変わらないですし」
その返答はどこか論点がずれているようにも思えたが、私の突飛な物言いにも動じない、桐原先生の包容力に感銘すら覚える。
なんて懐が深い人なの……好き……。
「それではまた明日、学校で」
軽く会釈をして、今度こそ桐原先生が背を向ける。
私は彼の背中を眺めながら、ああそうか、また明日会いましょうとただ言えば良かったんだ、なにも料理を食べてみたいなんてとんちんかんなことを言う必要はなかったのに、でも承諾を得られたからそれはそれで良いのかも、結果オーライなのでは、などと滔々と考える。浮き沈みする思考を抱え、私はレジに並ぶ人々の列に歩み寄る。
そこでふと思い立って、一旦レジを離れた。商品棚を二つ三つ越え、卵のパックをひとつ手に取る。
いつか桐原先生と並んで料理をする日が来ることを願って。少しずつでも、再開しよう。そう考えた。
春の日の幻想:if
真冬の空気が身を切ると、めざめが近いことを知る。凍りついた涙を融かす春がやって来て、私はようやく固く閉じていた目を開く。
起きぬけの視界に映るのは、地を覆うやわらかな緑、白や黄や青の小さき花々、それらを求める虫たちなどだ。
小鳥たちは春の謳歌を口笛に乗せ、頭上には薄い青が、無限の奥行きを持って広がる。その青のところどころ、誰かの置き忘れのように、霞んだ雲がたなびいている。風は時おり強く吹き、いささかまだ冷たさも残る。
私が目を開いていられるのは、春のわずかな期間だけだ。ゆえに私は、この景色しか知らぬ。私の目に、他の季節が映ったことはない。
のどかな陽の光に誘われて目が開ききり、あとは涙を落とすばかりになる頃、数多の人間が私の下に集(つど)い来て、何やら語り合い、飲み交わし、歓声をあげる。私にはそれが、刹那の夢であるかに思われる。人間の夢であるのか、はたまた私の夢であるのか、判然としない。どちらにしても大差はない。
そんな賑々しさとは無縁な、時の流れが止まったかと勘違いするほどの、穏やかな昼下がりのことだった。こんな日は、過去も現在も未来さえもが渾然一体となり、春霞のなかに漂う。私たちの足元では、彼岸と此岸の境目があやふやになって、ゆらゆら溶け合っている。
向こうから、男が一人近づいてくるのに気がついた。黒髪の、鷹に似た眼の男だ。若人が朝方に大勢吸い込まれ、黄昏時になると吐き出される建物の方から、私の足元を茫然と見つめて、ず、ず、と体を引き摺るように、歩み寄る。その眼には尋常でない光が宿っている。大方、花霞の下に、死者の幻でも見ているのだろう。その男にはほの暗い死の影が付き纏っていた。いっとう大切な人間を喪(うしな)った者だと、私には苦もなく分かった。
大概の人間は私の目が開くのを心待ちにする。けれども、畏怖の目を我々に向ける人間も、少数ながら、いる。この世ではないところへ、私たちが人間を呼び誘(いざな)うと恐れているのだろう。
そう闇雲に忌避する必要はない。我々に呼ばれるかどうかを決めているのは、その人間の中の性質だからだ。死に触れた経験が多いほど、我々の声は人間の内に大きく、響く。
男は蹌踉として、足をもつれさせる。
呼び声に誘われ、幻に魅入られたその男を、私は憐れんだ。境界を越えたら、二度と戻ることは叶わぬのだ。
不意に風がざあと吹いた。枝がざわざわ揺れ、私の涙がはらはらと風に舞い、落ちる。数えきれない薄紅色の涙が、世を分かつ淡い幕となって、男を外界から切り離す。
さざめきの渦の中で立ち尽くした男の口が、何言か紡がんと震えた、その時であった。
「桐原先生!」
甲高い声が、空気を刺した。いずこから小柄な女が出で来て、黒髪の男に飛びつく。
ふっつりと風が止む。薄く色づいた幕は、幻影のごとく掻き消えた。彼岸の気配は、零れた涙がすべて地に届くと、潮が引くように遠くなる。
女が男の服の袖口をきゅ、と握り、瞳を潤ませて男を見上げた。男は表情に驚きを滲ませながら、女と向かい合っていた。
男と女を取り巻くのは、ただただ穏やかな春の暖かみだった。
「すみません、なんだか先生が、どこか遠いところに行ってしまう気がしたから……」
女が縋るように、男の掌を握る。
私には人間の言葉が分からない。
男は幾秒かのあいだ、ぼんやりと女の顔を見下ろしていたが、やにわに正気を取り戻して、ふるふると首を振った。
「……ありがとうございます、水城先生。行ってしまうところでした……」
男はちらりと私の方へ目をやる。
私には人間の言葉が分からない。
男と女は二言三言言葉を交わし、それから男がわずかに微笑んだ。女もそれにつられるように、泣く直前の表情にも似た、はにかんだ笑顔を見せた。
二人は揃って私に背を向け、若者が集う建物へと歩き出す。
女が一度振り返って私を見、小首を傾げた。
男はもう振り返らなかった。
それでよいのだと私はなぜか思った。男は再び幻に魅入られはしないだろうという予感があった。
また、風がざあと吹いた。私を泣かせるために、春風はあるのかもしれなかった。風が吹くたびに薄紅の涙は舞い散り、その涙が尽き果てるとき、私の春は今年も終わりを迎える。
はらはら。
ほろほろ。
じきに涙は涸れるだろう。そして私はまた、滅びを待つための眠りに就く。
夜の澱/檻に歌う(影の話)
私は彼の体を知っている。
任務をこなしてホテルに戻る頃には、深夜といってよい時間になっていた。
堅苦しいドレスを脱ぎ、シャワーを浴びて整髪料を洗い流し、ブラウスとスラックスという格好に着替える。髪を乾かすのもそこそこに、部屋のキーだけを持って、自分に宛(あて)がわれた居室を後にした。風を切って、大股で廊下を進む。敷かれた紺色のカーペットが、ピンヒールの衝撃音をすっかり受け止めてくれる。
とある政治家からの依頼が、今回の任務だった。
あるパーティーに出席する間、護衛を頼みたいというのが氏の秘書からの申し入れ。民間人が多く招かれたパーティーの場に、通常のSPがうろうろするのは好ましくない、という判断に基づくもの。
その政治家は、資金面で裏社会と繋がっていると専らの噂だった。氏は市長戦への立候補を控えており、どうもそれをきっかけに、裏との関係を断とうとしているらしかった。
裏の住人が腹を立て、報復を目論むかもしれない。出席者に紛れ、怪しい人物がいないか見張ってほしい。依頼内容はそんなところだった。
正直気の進まない仕事だったが、引き受けた以上、文句は言えない。
「金さえ貰えりゃあ俺は何でもいいよ。依頼主が汚いおっさんだろうが何だろうが、きっちりやることやるだけさ」
任務のパートナーとして呼び寄せた、ヴェルナー・シェーンヴォルフはそう言って笑っていた。年配の有力者ばかり招かれたパーティーに若い女、つまり私が一人でいては嫌でも目立つので、異性のパートナーを探した次第だ。そこに他意はない。声をかけたのはヴェルナーが最初でもないのだから。
依頼主の恐れた通り、会場では一悶着起こって、私たちは少々暴れる羽目になった。我々にとってはよくある事態だ。特筆すべきことでもない。
目指す部屋番号の扉が見えた。コンコンコン、と小さくノックする。
「はーい」
緊張感のない声とともにドアが開き、ヴェルナーのやや野性的な、整った顔がひょいと覗く。私を見るやにっこりと相好を崩し、そのまま大きくドアを内に引いた。
「どうぞ、ロッティちゃん」
「夜遅くにごめんなさい」
「いやァ全然、気にしないで」
ヴェルナーの部屋はなぜか暗く、彼自身はパーティーに出席したままの格好だった。上等な黒のスーツにシルバーのベストとネクタイを合わせ、長い前髪と襟足はワックスで撫で付けている。一暴れしたというのに、髪型には少しの乱れもない。
まともな格好ならそれなりに見えるのに、という気持ちは口に出さずにおく。言ったらきっと付け上がるからだ。
「電気くらい点けたら」
「月をね、見てたんだ。満月。綺麗だよ」
そう言ってカーテンが開かれた窓の外を指差す。部屋の入り口からは、天頂近くにあるはずの月の姿は角度的に捉えられない。それでも、ぼんやりと浮き上がった景色が、冴えた月の輝きを仄めかしていた。
暗い部屋で満月を眺めるなんて、ヴェルナーは意外とロマンチストなのかもしれない。私とは違って。
満月を見てると少し怖くなるよ、とヴェルナーが抑えた声で呟いた。
「怖い? なぜ」
「俺の名字に、狼って入ってるだろ。満月を見てるとさ、君を襲う狼に変身しちゃいそうで怖いよ」
美しい狼。
雰囲気をぶち壊しにする発言をして、ヴェルナーが尖った犬歯を覗かせて獰猛に微笑む。本当に、飢えた狼のようだと思う。
「あなたはいつでも下品な狼みたいなものよ。今さらそんなの杞憂でしょう」
突っぱねるように言葉を投げると、ヴェルナーが首を傾げ、怒らせちゃった?と思案げに指で頬を掻いた。意味を図れず、何が、と問い返す。
「君以外に綺麗なんて言葉を遣うから、気に障ったのかと思って」
「……月相手に、嫉妬なんかしないわよ。あなたが何に対してどんな言葉を遣おうが、私の知ったことじゃないわ」
「ムキにならなくても、今宵の君は世界一綺麗だったよ。君のドレス姿は素晴らしく美しかった。脱いでしまったのは残念だ、まだ見ていたかったのに」
噛み合わないヴェルナーとの会話で、先刻シャワーとともに洗い流したはずの疲労感が、体にじんわりと広がってくる。
彼と久しぶりに会って、ああそうだ、こんな男だった、と記憶が甦っていた。歯が浮くような台詞を、ヴェルナーは何でもないような顔で口にする。だから信用されないのだと、彼が理解する日は来るのだろうか。
ヴェルナーがにじり寄ってきて、まだ湿り気を含んだ私の髪に触れた。彼の赤い双眸に、慈愛めいた光が宿っていることを、私は知覚する。掬い取られた髪の一房が、彼の指のあいだを流れ落ちる。
「ねえ、着飾ったままするのもいいと思わない?」
ゆったりとした低い囁きに対し、何を、とは訊かない。着替えてきて、本当に良かったと思う。
「――あなた、私のことばかり見ていたの。任務中でしょう」
「俺はいつでも君だけを見てるよ」
ヴェルナーがさらにぐっと近づいてくる。たった今の発言を体現するような、まっすぐな視線に射抜かれて、その場に釘付けになった。
彼の瞳には上目遣いの私が映りこんでいた。こうして見下ろされると、私たちが女と男であることを否応なく突き付けられる気がして、背中のあたりがひどくざわつくのだった。
「ところで、どんな御用かな。夜の相手なら喜んでお受けするけど」
ヴェルナーが腰に手を回してくるのを、間髪入れず振り払う。
「あなたにお礼を言いに来たの。わざわざドイツから来てくれて、ありがとう」
「水くさいな。君のためならどこへでも行くさ」
「そんな便利屋みたいなこと、言っていいのかしら」
「だって俺は君のものだから。ずっと前からね」
真剣な眼差しで、さらりとそんなことを言う。
「……要らないわ」
「つれないなァ」
ヴェルナーは肩をすくめ、寂しそうに笑った。あまり見たことのない彼の表情に、心が漣立(さざなみだ)つ。
不意にヴェルナーが目を伏せて、私の右手を恭しく掬い取った。そのまま口元へそっと運んで、手の甲に唇を押し当てるだけの、優しい口づけをする。彼のそんな仕草に、胸が詰まるような苦しさを感じてしまうのはなぜだろう。
「……あなたには似合わないわ、そういうの」
「やっぱり?」
ヴェルナーがにやっと笑う。わざと礼儀を欠いた私の物言いにも、気を害した気配はない。
迷いなく私を見つめる彼の視線に、ある夜のことが思い出された。ひんやりした夜気が指の先から浸食してくる、そんな冷たい夜だった。あの日も彼は同じ目をしていた。どこか悟ったような、見るもの全てを包み込んでしまう、底知れぬ深さの目だ。
私は思わず顔を逸らし、無意識にぐっと拳を握り締める。
頭上からは、夜をそのまま音に変えたような、トーンを落とした声が降ってくる。
「今日の任務で、君に会えて良かったよ。元気そうで何よりだ」
「……今さらどの面下げて会いに来たんだと思ったでしょう」
「まさか。君から連絡が来たときは、天にも昇る思いだったよ」
「……私、明日の朝にはここを発つの。その前に、あなたにお礼を言いたかった。それだけよ。私はもう戻るから」
居たたまれなくなって、話を切り上げる。
ヴェルナーは相変わらず、私にひどく優しい。ヴェルナーが私を嫌っていないことが、私には大いに謎だった。
数年前、私は彼に対して、許されない行為をはたらいたのに。
今回の任務絡みで、ヴェルナーとは久しぶりに連絡を取った。罵られるかもしれない。私はそう予感していた。
たとえ彼から罵声を浴びせられても、自分の行為への当然の罰として、受け入れられたはずだった。しかしヴェルナーから私に向けられたのは、罵言(ばげん)ではなくて好意だった。
私は当惑した。差し出された優しさを上手に納めておく場所など、心のどこにも存在しなかった。いっそ罵倒してくれた方が良かったのに、"あの夜"を超えてもなお変わらない彼の態度は、私を少なからず動揺させた。
これ以上、平気な顔をして、ヴェルナーの前に居ることはできない。彼に背を向け、ドアレバーを押し下げる。
後ろで、衣ずれの音がした。
「もっと一緒にいたい」
後ろから、力強い腕に抱きすくめられる。耳元で囁く低い声が、ぎゅっと心臓を締め付けた。
苦しくないぎりぎりの強さの、抱擁の圧力。密着した服越しに伝わる、彼の肌の熱。そしていつもは付けていないはずの、男物の香水がほんのりと鼻腔に香る。
その匂いを嗅いだ途端、強いアルコールを飲んだ瞬間のように、視界と脳がくらりと揺れた。彼に酔う、という表現が脳裏を掠(かす)め、書き損じにするみたいに、脳内のペンでぐしゃぐしゃに塗りつぶす。
耳に息がかかるほどの距離で、ヴェルナーが熱っぽく私の名を呼んだ。発熱する前みたいに、体がぞくぞくした。
「何をするの」
彼の腕の中で身をよじり、ヴェルナーの赤い双眸を捉えたところで、下から睨みつける。さらなる抗議の声をあげようとした口は、ヴェルナーのそれで塞がれた。
あっ、と思う暇もなかった。
無意識に全身がびくりと跳ね、背筋を悪寒とも快感ともつかない震えが走る。反射的に彼の体を押すと、そこにはいつかの夜と同じ、どっしりとした胸板があった。
背後には硬いドアがあって、逃れることができない。腰をしっかりと抱かれ、唇を柔らかく食(は)まれ、ヴェルナーの思うまま、容易く歯列を割られた。別の生き物にも思える、熱い舌が中に入ってくる。なんて、狂おしいほどの熱量なのだろう。
ヴェルナーは角度と深さを変えて、私の中心まで侵さんと迫り、熱を与える。いつの間にか後頭部に添えられた指が、髪を内部から掻き回す。
次第に頭が空っぽになって、じわりと視界が潤み、体の奥の方がじんじんと疼きだした。鼻から漏れる自分の息が、甘ったるい響きを含んでいて、嫌悪を覚える。彼の火傷するほどの熱情で、全部溶かされかけている。頑なに閉ざしていたはずの心の扉まで、ヴェルナーにこじ開けられそうになる。
これほど烈しく私を求めるのは、後にも先にも、きっと彼だけだ。
甘やかな痺れが脳髄を満たしていた。思考に濃い霧がかかって、何も考えられない。腰に力が入らなくなり、思わず支えをヴェルナーの体に求めると、まるで縋りつく格好になった。
ヴェルナーが少しだけ含み笑いを漏らして、体を離す。しようと思えば腕ずくで何でもできるだろうに、ヴェルナーはそれ以上は欲してこなかった。
彼の片手は私の腰に添えられたままだ。その感触を心地よいと感じてしまう私は、本当に愚かしく、どうしようもない。
ヴェルナーが自分の唇を舌でぺろりと舐める。
「愛してる」
「……そんなの、他の女にも言ってるんでしょう」
「君だけだよ」
大きな掌がそろりと頬に触れた。
ヴェルナーは女の扱いが上手かった。きっと何人もの女の体を愛撫し、その耳に愛を囁き、唇に熱情を落としたに違いなかった。
熱い手だった。彼の手は真冬でも熱くて、その手で触れられると、彼の熱を受け入れることしかできないのだった。炎の人なのだと思う。
「……発情期の犬だって、もう少し節度があるわよ」
「そう言う割には抵抗しないんだね」
ヴェルナーが男の顔をして言う。私を見つめる赤い眼の奥に、青白い情欲の炎が灯って見える。けれど口元に浮いているのは、痛みを堪(こら)えている時と同じ、切なげな微笑だった。
彼の親指が、目の下あたりを優しく撫でる。
「君のこと、もう泣かせたりしないから」
「――あなたが泣かせたんじゃないわ。あれは私が勝手に泣いただけ」
「同じことだよ」
私の胸が、ちくりと痛んだ。
ひどく緩慢な、涙がじりじりと伝う速度で、指が頬の上をなぞって落ちる。熱い指先は、顎にまで達すると、舟が岸から離れるみたいに、ふっつりと離れていった。
両手をポケットに突っ込んだヴェルナーが、ねえロッティ、と呼びかける。
「君は"あの日"のことで、俺に負い目を感じてるから、抵抗しないのかい。それなら、そいつは思い違いってやつだぜ。俺は君を縛らない。君は自由だ」
息が詰まった。
普段はおちゃらけているくせに、こういう時ばかり、ヴェルナーの言葉は簡単に核心を突く。
あの日。忘れられない夜のこと。
私は一度、彼の逞しい体に縋ってしまった。彼の優しさに付け入って、彼を利用した。その行為は恐らく、彼を深く傷つけた。涙を、見せてしまったから。
私は彼の好意には応えられない。応える資格がない。私は、彼に後悔を植えつけただけの女だ。
だのに彼は、私に負い目を感じるなと言う。縛られるなと言う。小賢しい女だと知ってなお、愛していると言う。
そんな風に、まっすぐな目で見ないでほしかった。ヴェルナーの尽きることのない情愛は、私のように打算的でなく、もっと普通の、純粋な心を持った人に、注がれるべきだと思った。そうしてそのような女(ひと)と二人で、幸せになってほしかった。
互いにぽつぽつと、呟くように会話をする。
「……自由だと言う割に、私を諦めてくれる気はないのね」
「勿論」
「私はあなたに酷いことをしたのよ。あなたの心を傷つけた」
「傷ついたのは君の方だろ。俺のことは気にしなくていい」
「……あなた、頭がおかしいんじゃないの」
「うん、君のことが好きすぎて、おかしくなっちゃったかもしんない」
「罵ってくれていいのよ? 誰にでも体を許す尻軽女だって」
「そんなこと、俺が言えた義理じゃないさ」
そう言って微笑むヴェルナーの表情には、明らかな憂いが滲んでいる。これが傷ついた人の顔でなくて、何だというのだろう。
ぐっと顎を上げ、ねえヴェルナー、と今度は私が呼びかける。
「あなたは、起こりうると思うの。籠から逃がした鳥が、自分から籠の中に戻ってくるなんてことが」
あの日の夜、私は確かに彼の籠の中にいた。計算ずくの行為が終わって、私が去ろうというとき、ヴェルナーは私を引き留められたはずなのだ。 その意思さえあったなら。
彼はそれをしなかった。彼自身の優しさのために、私を逃がした。籠の外で私がする行為が、再び自分の心を傷つけると知っていて。
ヴェルナーは今も、籠の扉を開け放して待っているのだ。自らが開けた籠の中へ、私が舞い戻ると信じながら。
彼は煩悶を隠すように伏し目がちで、その様子が却って、痛々しげだった。
「そうだねぇ……そういうことがあってもいいんじゃないかな、とは思ってるよ」
「そう……そうね。何をどう信じるかは人の勝手だわ。たとえそれが、どんなに現実味の薄いことだとしてもね」
私の言葉はもはや八つ当たりになっていた。
目の前の微笑は揺らがない。私の方が泣きそうだった。
ヴェルナーの優しさは、見はるかす海のようにどこまでも広く、大きく、深かった。私がどんなに酷い仕打ちをしようとも、かすかな笑みをその口元に湛えて、全てを受け入れ、全てを許すに違いなかった。
こんなに狡い女に、変わらぬ愛を囁いてくれる、彼の神経が理解できない。私には、底のないその優しさが怖かった。
彼の優しさは私を駄目にする。
今度こそ、私は彼に背を向けた。
私たちの間には、忘れられない夜が横たわっている。二人を繋ぐのもその夜で、隔てるのもその夜だ。こんなに近くにいるのに、彼との距離はこの上なく、遠い。
あの日から、私の夜は続いている。彼の籠から飛び出ても、終わらない夜に囚われている。淀んだ澱(おり)の底で、果てない夜の檻の中で、もがいている。
それでもあの夜を、過ちだとは思いたくない。
彼からの二度目は無く、ドアが閉まる直前、ヴェルナーが私へ向けて小さく手を振った。
「またね、小鳥ちゃん」
私は彼の部屋に背を向ける。かちゃりと小さい音をたて、ドアが閉まった。
あの夏の羽化の痛み(遍高校の話:昔)
祭りの夜は、きらびやかな喧騒だ。
中学に入学して初めての夏休み、僕は未咲と一緒に、毎年来ている神社の夏祭りのただ中にいた。
隣を歩く未咲は、白地に薄黄の花があしらわれた浴衣を着ている。中学に上がる前には長かった髪がばっさり短くなっていて、そのうえ後頭部の髪はまとめ上げられていたから、普段は見えないほそい首すじとうなじが、すっかりあらわになっていた。人混みのなかではぐれないようにと、僕の右手は未咲の左手にしっかりと握られていた。
「輝くんも一緒に来れば良かったのにねえ」
りんご飴をかじりながら、未咲が言う。
僕はそうだね、と答える。
輝は僕たち二人の幼なじみだ。去年もこの祭りには3人で来た。それなのに今日の朝になって、"僕は妹と行くから"なんて輝が言い出したのはかなり不可解だった。輝の妹の灯(あかり)ちゃんとは、僕も未咲も親しくしているし、4人で遊ぶことだってある。輝が謎めいた笑顔を僕に向けていることも、僕の心の疑念を加速させた。
神社の敷地は広く、石畳の参拝道の両側にはずらりと出店が並び、祭りでは定番の、焼きそばやらたこ焼きやら焼きとうもろこしやらわたあめやら、風車やらお面やら水ヨーヨーやら射的やらの文字が躍り、さまざまな音、さまざまな匂いをあたりに漂わせている。広場みたいにぽっかりと空いた空間には巨大な櫓が立てられ、てっぺんで打ち鳴らされる太鼓と、スピーカーからの大音量のお囃子(はやし)に合わせて、老若男女が盆踊りに興じている。
どこもかしこもものすごい人だかりだ。去年まで何とも思わなかったのに、その人の多さで、僕は気分が悪くなりはじめていた。
「龍介くんも何か食べたらいいのに。お小遣い持ってきてるんでしょ?」
「ああ……うん……」
僕は生返事をする。おなかは減っている気はするけれど、いま何か口にしたら、ぜんぶ吐いてしまう予感がした。
未咲は機嫌よく、僕の手を引いてあっちへひらり、こっちへひらり、と出店をあちこち見て回る。浴衣の袖がひるがえって、花から花へ飛びうつる蝶の様子にそっくりだ。未咲が首を動かすたび、髪の飾りが提灯の灯りにきらきらと輝いて、きれいだった。
「あ、金魚すくい、やりたいな」
不意に未咲が屈みこむ。青いプラスチックの水槽の中で、数えきれない朱色と黒のいのちが、あてどもなく泳いでいる。
未咲がしゃがむのに続き、僕もお金を払ってポイと器を受け取り、未咲の隣に腰をおろした。水面が光を反射する。エアポンプがたてるぶーんという低い駆動音で、賑々しさがかき消される。半透明の金魚の尾びれがゆっくりゆらめいて、なぜだか夢のなかの光景みたいに思えた。
未咲がポイを水に入れ、白の斑(ふ)の入った一匹の金魚を慎重に追う。金魚はたぶん、自分が狙われていることにまだ気づいていない。ポイのプラスチックの輪と、紙の境に金魚が乗ったタイミング、そこでふいっと引き上げる。
紙が破れた。
金魚が身をよじる。
水音もたてず、少し水面を乱しただけで、金魚は水槽のなかに戻る。彼は、あるいは彼女は、何事もなかったように泳ぎを再開して、朱色の群れに紛れた。
「あー、駄目だあ。わたし、金魚すくいできたことない」
未咲が心底残念そうな声を出した。
その一部始終を黙って見ていた僕は、水槽に向き直る。和紙をすべて水に濡らして、手近な場所に金魚が浮き上がってくるのを待つ。これと決めたら、金魚の進行方向に合わせてポイを移動する。金魚の動きに逆らわないようにしながら、すばやくポイを器の方へ動かした。
「あ!」
僕の器へと泳ぐ場所を変えた朱色の流線形。未咲が目を輝かせる。僕はもう一匹、黒い金魚をすくったところでわざと紙を破いて、終わりにした。すくおうと思えば何匹だってすくえるけど、そう何匹もいたって仕方ない。
店のおじさんに金魚をビニール袋に入れてもらい、その出店をあとにした。袋を掲げて、透きとおったひれを持つ生き物をじっと見る。
たった数十ミリリットルの水のなかで乱舞する、小さな二つのいのち。
その奥ゆかしいうつくしさ。
僕はそれを、未咲に差し出した。
「……これ」
「え、貰っていいの?」
「僕の家、どうせ水槽ないから」
「ほんと!?ありがとう!」
未咲が屈託なく、笑う。僕はなんだか、心臓を誰かにつつかれているような、くすぐったい気持ちになった。
また二人で手を繋いで、ぶらぶらと店を回っていると、近くに小学校からの同級生が何人かいるのが視界に入った。あ、嫌だな、と咄嗟に思う。僕にいつも難癖をつけてくる奴らだったからだ。
僕の視線を感じたみたいに、ひょいとその中の一人が僕たちの方を向いた。目がちょっと見開かれ、口元に感じの悪い笑みがじわっと浮く。つるんでいる仲間の肩を叩き、不躾に僕らを指差した。
「おい、龍介と未咲じゃねーか。手なんか繋いじゃって、デート?」
「まじだー、やっぱり、付き合ってんだろ?」
「人がいないとこに行って、ちゅーとかしちゃったりするわけ?」
ひゅーひゅーと囃し立てられる。顔がかっと熱くなった。これまで何を言われてもこんなことはなかった。恥ずかしい。初めてそう感じた。
未咲は軽くため息を吐き、
「だったら何?」
と応じた。おおー、とどよめく同級生らに背を向けて、あんなの気にしなくていいから、と僕の耳元に囁いた。
そのあと、どうしてだか、未咲の顔をまともに見れなくなってしまった。提灯の淡い黄色の光に照らされ、未咲の汗ばんだうなじが、つやりとした光を放つ。後れ毛が肌に貼りついているのが、なぜか見てはいけないもののような気がして、僕は目を逸らし続ける。
繋がれた手に意識を丸ごと持っていかれたように、そこだけが妙に熱い。足元がぼんやりとして、雲の上を歩くってこんな感じだろうか、と考えた。
「龍介くん、大丈夫? 気分悪い?」
未咲が僕の顔を覗きこむ。夜になっても残る暑さのせいか、未咲の頬は上気し、いつもより白く見える肌は、滲んだ汗でしっとりしている。唇の動きが、いやになまめかしい。
心臓が馬鹿になったんじゃないか。そう思ってしまうほど、激しく動悸がした。
「うん……ちょっと……」
「どこかで休もっか」
未咲の手に引かれるまま、霧がかかった頭を抱え、僕はもつれる足を動かした。
僕らがたどり着いたのは、ちょっとした屋根と椅子が設置された、神社に隣り合う植物苑の休憩スペースだった。ここまで来ると、周囲には誰もいない。人々のさざめきも、祭り囃子も、湿った空気の膜の向こうにある。
どこかでもう秋の虫が鳴いている。
未咲はいつの間にか買っていた、もこもこしたわたあめを僕の手に渡そうとした。
「甘いものを食べたら、元気になるかもよ」
「いや……」
食べたら、たぶん気分の悪さが増すだけだろう。未咲の厚意を断るのは心苦しかったけれど、僕には気遣いをして一口だけ食べる、それくらいの余裕すらなかった。
未咲は気を害した風もなく、そっか、と呟いてわたあめを口に運ぶ。ちらちらと現れる舌が、変に赤く、肉感を伴って見え、胸の内側がざわざわする。目の前がぐるぐるする。これまでとはまた別の気持ち悪さに、手で口を覆ってうつむいた。
僕は気がついていた。未咲の手の感触が、少しずつ変わってきていることに。細くすとんとして、人形の指みたいだった未咲の手は、やわらかさをまとい、女の子の手になっていた。対する僕の体は急に骨ばってきて、喉仏も目立つようになって、声も低くなって。未咲の体は、曲線を帯びて、丸みが目立つようになって、いつしか彼女は下着を着けていていて。
どうしてだかいまになって、制服姿の未咲が脳裏に甦る。制服の真っ白なシャツから、下着がちょっとだけ透けて見えていた。その光景が、僕の胸の内をぐちゃぐちゃに掻きまわす。
呼吸の仕方が分からなくなった。吐き気がする。自分の思考、自分の存在、その気持ちの悪さに。
未咲の浴衣の下の裸の姿を、脳が勝手に思い描きはじめる。
混乱。動揺。焦り。
もう駄目だと思った。僕はおかしくなってしまったんだ。
僕は立ち上がった。
「龍介くん?」
心配そうに、未咲がこちらを見上げる。くりくりした丸い目に見つめられると、どうにかなってしまいそうだった。
いますぐここで、そのきれいな浴衣を、脱がせてしまいたい。
そう衝動的に考えている自分に、愕然とした。
未咲から顔を背けて、涙をこらえながら、震える声を絞りだす。
「……もう、龍介くんって呼ばないで」
「龍介くん……? どうしたの?」
「呼ぶなって言ってるだろ!」
僕は駆け出した。不安げな未咲を置き去りにして。
自分への嫌悪感で、いてもたってもいられなかった。怖かった。その場にいたら僕は、僕じゃなくなってしまう気がした。未咲が僕の名前を叫んだけれど、聞こえないふりをした。
未咲の浴衣姿。きれいなうなじ。細い首すじ。やわらかい手。同級生の言葉。ねばついた視線。男子と女子である僕ら。走りながら、いろんな情景が胸につっかえた。未咲が浴衣を着ていて良かったと思った。下駄を履いていたら、あの未咲でも僕に追いつけやしないから。
家に着くまで、一度も立ち止まらなかった。
その夜、自分の部屋に着いてから、僕は少し泣いた。
昏い夜のための命題(影の話)
私があの光景を、忘れられる日は来るのだろうか?
酷い夢で目が覚めた。
悪い汗に、全身がじっとりと塗(まみ)れた感覚。呼吸が浅く、早い。心臓が早鐘を打ち、肋骨の内側を激しく叩いている。
吐き気がした。現実と夢の狭間を、意識が覚束なく浮遊する。混乱する頭を抱え、呻きとともに長く息を吐き出した。置き時計のコチ、コチ、という音が、いやに大きく響く。今のが現実でないことを、必死に自分に言い聞かせる。
掌で顔を覆う。胃の底がむかむかして、せり上がってくるものがある。必死に夢の情景を振り払おうとした。
あれはいつもの、自分が担任を務めている教室だったと思う。けれど、机も椅子も無かった。生徒たちが、べっとりと血に濡れて床に倒れていた。うつ伏せた格好で、物言わぬ有機体となって、誰もぴくりともしない。そしてなぜか、教室の中央に"あの人"がいた。"あの時"と同じ格好で永久に押し黙り、リノリウムに広がった銀色の髪だけが、ただただ美しかった。自分は教壇に立ち、何もできないまま、虚ろな目でその光景を見つめていた。
もう何年も前のことなのに、とうの昔に過ぎたことなのに、なぜ今さら、夢に見るのだろう。
情けなかった。
暗闇の中、震える手で携帯電話のディスプレイを点灯させると、時刻は午前3時半になりかけだった。夢の続きを見る気がして、また眠る気にもなれず、規則正しい居候の寝息の横を通りすぎ、顔を洗いに洗面台へ向かう。
未明の闇と静寂は色濃く、電気を点けても払いきれない暗がりが、部屋の隅に居凝(いこご)っている。夜の沈黙が耳に刺さって痛い。鏡の前に立てば、目の下にクマを作った人相の悪い男が、こちらを睨み返してくる。
不意に、鏡に映った自分がせせら笑ったように感じて、肌が粟立つ。鏡の中のもう一人の自分が、自分を嘲笑う。
――あれが、お前の想像しうる最悪の形の悪夢だよ。
鏡に映る私は冷たい声音で言う。
自分が関わった人々が傷つき、倒れ、もはや身じろぎひとつしない。彼らの、彼女らの瞳は、もう何も映さない。取り返しのつかない事態。それを見ているだけの無力な自分。
私はその光景を最も恐れている。この目に映る人々の、笑顔くらいは守ってみせる、そう自分に誓ったくせに。
鏡写しの私がさらに言い募る。
――お前は卑怯者で、臆病者だ。そんな人間が、他人の幸福を守ろうとしているだと? 甚だしい思い上がりだな。
私は知っている。己が卑怯なことも、臆病なことも。これは私の声だ。目を背けて見ないふりをしてきた、心の弱いところの縫い目が綻んで、あれから8年も経ったいまになって、襤褸(ぼろ)がどんどんこぼれだす。
自分自身に糾弾されるなど、こんなにも滑稽で、しかも笑えないことはない。
自分による幻聴はいよいよ、凄惨さを増した。
――笑わせるなよ。まさか忘れたわけではないだろう?
私の分身が、虚無を映したその目を見開き、嘲う。
――大切な人ひとり、守れなかったくせに。
「黙れ」
自分の内なる声を振り払いたくて、そう口に出していた。喉が震えていた。むっとして暑い夜なのに、寒気が背中を這い登る。冷や汗が顎を伝う。
何のことはない。鏡の中には、必死な形相でこちらを噛みつかんばかりに睨む、愚かとしか形容できない男がいるだけだ。
耳にきいんと高い静寂の音が帰ってくる。
汗を手の甲で拭う。私は正気を失いつつあるのかもしれない。そう考えるとぞっとした。
気分の悪さに半分ぼうっとしながら蛇口をひねり、いつもより僅かに冷たい水を掌でせき止める。顔に水流を受けると、吐き気は幾分か和らいだ。水を止め、顔面を覆ったタオルから目を上げると、後ろにいつの間にかヴェルが立っていた。鏡の向こうで、彼の鮮やかな色のシャツが、暗夜から浮き上がっている。
鏡越しに、ヴェルと目が合う。
「辛そうだな」
「……起こしたか。すまん」
「大方、怖ーい夢を見て目が覚めちゃった、ってとこか?」
ヴェルは小馬鹿にするように、にやにやと品の無い笑みを浮かべながら、言った。彼の尖った犬歯は暗所にあって、なおぎらりと存在を主張している。私にはそこにいるのが、獣ではないと明瞭に述べることができない。
怖い夢。そのとおりだ。過去と現在とがぐちゃぐちゃに混じり合った悪夢。だが、その原因はきっとこの男だ。
私のなかで、過去の象徴となった男。
忌まわしい記憶の扉を開ける鍵。
記憶の奥深くの場景が、海馬の底から引きずり上げられたのは、過去を引き連れてヴェルが私の前に再び現れたからなのだ。
「誰のせいだと思っている」
「おいおい、俺のせいかい?」
ヴェルは肩をすくめる。
私だって分かっている。この感情が八つ当たりにすぎないことを。私はただ、人のせいにして、感化されやすい自分の弱さに目を瞑りたいだけだ。
分かっているのに、ヴェルに当たり散らすのをやめられない。
「だから貴様になど、二度と会いたくなかったんだ」
「ずいぶんと悲しいことを言うねェ」
「せっかく普通の日本人としての生活にも馴染んで、真っ当な人間になれたところだったのに――」
「真っ当? お前がか?」
ヴェルが喉の奥を鳴らしてくっくっと笑う。
「自分の手をよく見てみろよ」
首がヴェルの命令に屈するように動き、視界がそれに追従する。
血。
自分のものとも他人のものとも知れないねばついた赤で、両の手が染まっている。血はところどころどす黒く変色し、皮膚組織にこびりついている。
驚きはなかった。そういえばそうだった、と思い出しただけだった。そうだ、私の両手は血塗れだ。どんなにしつこく手を拭っても、過去から目を逸らし続けても、自分のした行為を無かったことにはできないんだ。
瞬きをする。血はきれいさっぱり消え失せた。
「お前は過去の記憶に、一生縛られつづける。そういう運命なんだよ」
託宣を告げるがごときヴェルの囁き。
運命。呪縛。いまそのふたつの言葉は同じ意味を持つ。
背中を無数の虫がぞわぞわと這いずる、そんな幻覚に吐き気を催しながら、声をふり絞る。
「……勝手なことを抜かすな」
「勝手? 笑わせんなよ、自分で自分の生き方を縛ってるのはお前じゃねえか」
「何を――」
「お前は大事な人を目の前で失って、他人にこんな思いはさせないと心に決めたんだろ。誰にも好かれずに、誰も愛さずに、嫌われ役に撤するって。それのどこが、過去に縛られてないって言えるんだよ、なあ?」
戦慄した。ヴェルの言うとおりだった。だが、その決心を口に出したことはない。なぜこの男は知っているのだ?
絶句する私を、ヴェルがさらに追い詰める。
「だがお前は、自分の決めた約束事を自分で破った。優しい優しい錦くんは、とっても可哀想なお坊っちゃんに、深入りせずにはいられなかったってわけだ。つくづくお前は甘ちゃんだよ。甘すぎてゲロ吐きそうだぜ」
「……っ」
「お前の甘さは、周りの人間を傷つける。いつか必ずな」
ヴェルの口元は今や、私の耳のすぐそばにある。
耳管に直接吹き込まれる、冷たい責め苦。頭の中でがんがんと反響するそれが、ヴェルの声なのか、自分の内なる声なのか、私にはもはや判別できなくなっていた。
8年前の現実の悪夢。
今しがたの悪夢の光景。
人間は器用な動物だから、眠らずともちゃんと悪夢を見ることができる。私はまた、過ちを繰り返そうとしているだけなのだろうかと、自問自答する。
「誰か特定の人を大切にすればするほど、別れが辛くなるだけだ。それはお前が一番よく分かってるだろ?」
「……茅ヶ崎のことなら、傷つけさせはしない。私が盾になる」
「どうかな」
ヴェルは嘲りの感情を隠さない。
「守るものができると、人は弱くなるもんだ。お前にはその覚悟ができてねぇよ。これっぽっちもな」
そこでふと、弱みをぎゅうぎゅうと絞め続ける男が真顔になる。
「他人に首を突っ込むならな、それ相応の覚悟が必要なんだよ。お前はもう、坊っちゃんや他の誰かに危険が及ぶとしたら、見殺しにはできねェはずだ。自分を危険にさらすことだって、何だってしちまうだろ。誰かを大切にするってのは、そういう弱さをしょいこむってことだぜ。いつまで過去に囚われてるつもりだよ? 誰かを守るつもりなら、弱さをぜんぶ背負った上で、強くならなきゃいけねえんだって」
「……」
「お前は弱いよ。俺よりも、8年前よりもな」
表情を緩め、残酷なほど優しい笑みを浮かべて、ヴェルが言った。容赦のない指摘だった。憎まれ口を叩くくらいしか、彼のすべてに打ちのめされた私にできることはなかった。
「……何でもお見通しか。貴様に私の何が分かるというんだ」
ヴェルはひきつるように笑い、鏡越しに私の顔を指差す。
「何でも分かるさ。なんたって俺はお前自身だからな」
「――何?」
「お前、自分が自分と話していることにも気づかないのか?」
「……!?」
顔から血の気が引く。焦って後ろを振り向くが、確かにそこには誰もいなかった。開け放した洗面所のドアの向こうには、黒々とした闇が続いているだけだ。
どくどくと脈打つ体に言い聞かせる。そうだ、ヴェルは寝るときにシャツなど着ないじゃないか。
彼の幻の薄ら笑いが網膜に焼きついているように思え、喉を絞められてもいないのに、私は息苦しさにあえいだ。
洗面所をあとにする。倦怠感に体を引きずられながら。
血の通った本物のヴェルは、高いびきを夜の帳(とばり)に響かせて、いまだ夢のなかにいた。きっと彼は、私のような悪夢とは無縁なのだろう。
目を覚ませ、と心のなかで声が広がる。先程までの幻聴とは違う。自分が自分の意思で呟いた言葉だ。
目を覚ますんだ。現実問題を、目の前のことを、直視するんだ。
分かっている、と私は自分自身に答える。分かっているさ。
もちろん、分かっているとも。
窓の外を見る。救いにも似た薄明はまだ、そこには無かった。
ヴァイオリンとピアノ(罪の話)
今はこの、激情を受け止めてくれる曲とピアノが必要だった。
ルカは体に馴染んでしまった部屋へ足を踏み入れる。
罪の本部の一角。だだっ広い円形の部屋。漆黒の壁や床のそこかしこに青白い光がちかちかとまたたき、星をちりばめた空が広がるよう。
ここに入るには、指紋や静脈の認証は必要ない。部屋の中央につや消しのグランドピアノと椅子が置かれているほかは、なにひとつ物は無かった。
ここは、ルカのための部屋だ。
ピアノの屋根を持ち上げて固定し、鍵盤の蓋を開き、そこにある深紅の布を外して畳む。椅子に腰かける動作のさなかに、ルカは鍵盤に指を走らせた。つるりとした、何千回何万回と触れても新鮮な感触。
肺に詰めていた重い息を吐き出す。目を閉じて、傅(かしず)くように、ピアノの前に頭を垂れる。ぐちゃぐちゃに荒れた感情を掻き分けて、響いてくる旋律がある。それを捕らえたら、この両手で再現するだけだ。そうやって、ルカはピアノの内側に自分を見つける。
構えた十指を一瞬だけ静止させたあとは、もうほとんど無我夢中だった。
ベートーヴェンのピアノソナタ第14番"月光"。その第3楽章、プレスト・アジタート。
音の激流が流れ出る。それはピアノ線からでなく、あたかも自分の指から迸るように、ルカには聴こえる。ピアノに取りつかんばかりの格好で、一心不乱に、心のなかの嵐を、そのまま88鍵にぶつけていく。
思考を占めるのは、自分自身への怒り。あの方のお役に、十二分に立てていないもどかしさ。不甲斐なさ。情けなさ。
もっと、とルカは思った。
――もっと、もっと、もっとだ!
吹き荒れる感情の暴風が旋律にシンクロする。激しい分散和音を、ピアノ自体に叩きつけるように奏でていく。曲はもはや人に聞かせられる代物ではなく、音の暴力と化している。
溢れる負の衝動の吐露。感情の拡張としての音楽。
曲の最終盤、重い3つの和音が、曲全体を崩壊させてフィナーレとなる。
全身から力が抜ける。大きく息を吸うと、ひゅううと気管が鳴った。呼吸すら忘れていたらしい。極限まで前のめりになった体を起こし、椅子の背もたれに預ける。顎を伝う汗を拭う。
そこで、ブラボー、という声が部屋に響いた。
はっとして顔を上げる。十歩と離れていない距離に、人がいる。ルカと同じ枢機卿用の黒い上着を羽織った、茶髪に緑色の目の、二十代半ばほどの男だった。演奏に没頭して、途中で人が入ってきたことにも気づかなかったようだ。
いや、そもそも、この部屋に誰かが入ってくるなど想定の範囲外だった。ここにはピアノしかないのだ。用がある人間などいるはずがない。
男がつかつかと歩み寄ってきて、にやっと笑った。
「命を削るみたいな、とんでもない演奏だったな。あんたがルカだろ? お噂はかねがね聞いてるぜ、血も涙も感情もない機械みたいな奴だって。だが、演奏はずいぶん感情的じゃないか。驚きだ」
不躾に捲(まく)したてる男に、ルカは咄嗟に反応できない。その沈黙をどうとったのか、男は何かに気づいたようにああ、と声を漏らした。
「教皇様の懐刀(ふところがたな)たるお方が、俺のことなんざ知ってるわけないか。俺はマシューってんだ」
「……なぜ、この部屋にいらっしゃるのですか」
「ん? 俺も趣味で楽器をやるんでね。この部屋を見つけてから時々使わせてもらってたんだよ。なんでこんな立派なピアノと防音室があるのか、ずっと不思議だったんだが、あんたのためだったか」
マシューと名乗った男が、あんたと違って俺はこいつだがな、と左手に持ったものを掲げる。
生き物が持つのと同じく、有機的で優美な曲線。濡れたような艶をその身に纏った、一挺のヴァイオリン。
おもむろにマシューが楽器を構える。彼の雰囲気が熱したガラスを引き延ばすように研ぎ澄まされ、ふ、と部屋全体の空気を変える。
瞬間、弓が目にも止まらぬ早さで動き出した。
パガニーニのカプリース、その第1番。耳に突き刺さる音の洪水。頬に感じる空気の震え。躍るような弓の動きに、釘付けになる。
至近距離で放たれるその豊穣な響きを、ルカは呆気に取られて聞いていた。
怒涛に似た1分半のあと、残響が消えるのを待ってマシューがゆるりと構えを解く。強烈な自己紹介を披露した男が、不敵な笑みをこちらに向ける。
「ざっとこんなもんだ」
「……趣味の域ではないでしょう」
「お褒めにあずかり光栄だね」
マシューが腰を折り、芝居がかった仕草で一礼する。
「あなたは……何者ですか」
「俺は、しがない科学者だよ。マッドな方のな。――しかしラッキーだったよ、こうやって挨拶できて」
「……ラッキーとは……」
「今度からあんたと一緒の班で研究することに決まったんだ。事前にこうやって挨拶できて良かった。これからよろしく頼むぜ」
マシューが唇を弓形(ゆみなり)に歪ませ、右手を差し出してきた。握手を求めているらしい。
ルカは冷ややかにその手を見る。相手が誰であれ、握手に応じる気は無かった。
視線に怖じ気づき、これまでの人間と同じようにすごすごと手を引っ込めるかと思いきや、マシューは手を伸ばして強引にルカの手をとった。2度3度と強く上下に振る。
「おいおい、人がせっかく友好的に挨拶しようってのに、その態度はないだろ。年上相手に失礼じゃないか?」
からかうような口調。ルカは目を少しだけ細めて、相手の顔を見た。
「……私が怖くないのですか」
手をほどいたマシューが、とたんにぷっと吹き出す。
「あんた、見かけによらず面白い奴だな。もしかして罪には"ルカを怖がらないといけない"とかいう戒律でもあんのか? それともルカ、全世界の人間があんたを怖がるとでも思ってんのかい?」
「いえ……そういうわけではありませんが……」
ルカはマシューの笑いを堪えた顔をじっと見る。自分に向かい合う人間はいつも、恐れおののき、畏怖に侵された目でこちらを見るのが通例だった。それが普通なのだ。このマシューという男は普通ではない。
ルカの胸の内に、久方ぶりに味わう感情が生じていた。
その小指の先ほどの、ごく小さな感情を仔細に眺め回す。脳内の感情のライブラリと照合して、名前を検索する。ルカはそうして、己の気持ちをラベリングし、分類する。
これがもはや、ヒトの感情機構でないことは明白だ。人の手で作られることになる、感情を持つロボットも、きっと同じような機構を備えるだろう。ルカはとうの昔に、人間であることを辞めている。
久しぶりに発生した感情。これは、動揺だ。
マシューはルカの内心などどこ吹く風といった様子で、手にしたヴァイオリンを眼前で揺らめかせ、ピアノの側板部分を撫でる。
「今度一緒に演奏しないか? こいつと、こいつでさ」
「――何のために」
「あんたは今、何のために弾いてたんだ?」
「……」
「誰に聞かせるでもない、自分のためだろ。俺と演奏する理由だって、それじゃあ足りないかい?」
一体この人間はいきなり何を言っているのか、とルカは目の前にある顔を眺めやる。真っ直ぐこちらを見返すマシューの表情は楽しげだ。
得体の知れぬ男だと思った。この罪という組織にあって、この男の存在は場違いだった。奇妙ですらあった。
彼は、マシューは、あまりに人間的すぎる。
思ったことを素直に口にし、個人的な楽しみを躊躇なく求め、それが当然のように笑っている。ヒトとしての自然な営みは、ここでは不自然なものとしか映らない。
「じゃあ、またなルカ。楽しみにしてるぜ」
ルカの返事も待たず、くるりと踵を返して、マシューは歩み去っていった。後ろ向きのまま、一度ひらひらと手を振って。
ルカは、男の姿が見えなくなるまで、相容れない存在に違いないその背中を、じっと見つめていた。
赤い夢を見る(影の話:if)
※猟奇的な描写があります。
俺がしてきたことはすべて間違っていて、これはきっと、その過ちへの罰なんだろう。
贔屓のサッカーチームが優勝を決めたその夜、俺とハンスは、家で祝杯をあげていた。
ハンスとの二人暮らしをして久しいけれども、二人だけで飲むのは珍しい。というのも、以前二人で飲んだ翌朝、なぜか俺がバスタブの中で半裸で目を覚まし、ハンスは寝袋にくるまって廊下で寝ていたからで、以降その出来事が恐ろしくてなんとなく控えていたのだ。お互いの頭からその夜の記憶はすっかり抜け落ちており、あの日何があったのか結局分からず仕舞いだ。
けれどチームの優勝ともなれば、まっとうなサポーターなら飲まずにはいられない。いつかの夜のことも忘れ、しこたまビールを買い込んで、俺もハンスもおおいに酔った。前後の分別もつかないくらいに。
いつのまにか落ちていた眠りから目覚めると、俺の体は椅子にがっちりと縛りつけられていた。
反射的に立ち上がろうとすると、きつい戒めに座面へと押し戻される。強盗でも入ってきたか、と酔いが一気に醒めた。拘束から抜けられないものかと試みるが、体を揺らすどころか、首から下は身じろぎひとつできない。自分はさておき、ハンスの姿がないことに焦っていると、キッチンからひょいと当のハンスの顔が覗いた。
その手には、柄から刃先までが同じ金属でできた、どこぞの有名なマイスターが作ったとかいう、風さえするりと裂いてしまえそうな、この家で一番刃渡りの長いナイフが握られていた。
ああ、何かつまみでも作ってくれてるのかな。
なんて悠長なことは考えなかった。ナイフの切っ先は、明らかに俺に向けられていたからだ。
ハンスの目はアルコールの霧に覆われてとろんとしており、焦点が合っていない。夢想にでも耽っている目だ。
やばいな、と思い始める。俺を縛りつけたのもハンスなのか? 一体どういうつもりなんだ。
いつもは青く澄んでいるはずの、胡乱な視線が俺をとらえる。締まりのない口元が開いて、舌足らずな声が続く。
「あれ、ヴェルナーさん、起きましたかあ?」
「何やってんだよ、お前……」
「夢の中でしかできないことをしようと思うんですよお」
ハンスが危うげにナイフを振りまわしながら、覚束ない足どりで、身動きが取れない俺のところへ近づいてくる。その両目の奥は夢見るように淀んでいたが、表面は無邪気とさえいえる好奇心で輝いてもいた。
俺の顔からは血の気が引いて、さっきからすうすうしている。ハンスは明らかに正気を失っていた。脳内のアラートが大音量で鳴りだす。どうすればいい。どうすればいい。頭の中には誰もいなくて、正しい答えは返ってこない。
「夢? 馬鹿野郎、これは現実だぞ」
低くゆっくり言い返すと、ハンスはクラッカーが弾けるみたいにけたけたと笑いだした。その笑い方は、ベルリオーズの"断頭台への行進"に似て調子外れに明るいところがあって、聞いている俺をぞっとさせた。
「やだなあヴェルナーさん。こんなにふわふわしてるのに、現実なわけないじゃないですかあ」
ハンスの表情は、恍惚としていた。その様子の異様さに、冷や汗が出てくる。
ハンスはきっと、夢の底を海中眼鏡で覗いている状態なのだ。眼鏡の底に見える小魚の言葉なんか人間には届かない。それと同じで、俺の言葉もハンスに届きやしない。
にじり寄ってきたハンスが俺の前に立つ。とても美しく整った顔が俺を見下ろす。なんて冷たい目なんだと思った。初冬の凍てつく風にさらされた湖面のよう。
空っぽの左手が俺の顔に伸ばされる。
「僕ね、これが欲しいんですよ」
ハンスの指先は熱を帯びていた。手のひらが頬を覆う感覚と、親指が目の下あたりを撫でさする感覚がある。品定めするような、ゆったりとした手つき。この不穏な空気にはなじまない、慈しみすら感じる動作。
俺を見つめるハンスの瞳には、気が狂(ふ)れた者に特有の、尋常ではない熱量がこもっていた。
俺の喉がごくりと鳴る。ハンスの声がぽつぽつと降ってくる。
「何度も夢に見たことがあるんです――ヴェルナーさんの目には僕と違うものが見えるのかなって。ヴェルナーさんの世界は何色なのかなって。ヴェルナーさんの目があったら、僕もヴェルナーさんにすこしでも近づけるのかなって――」
俺の脳の中に、ある想像が立ち現れる。床に投げ出された俺の体。その傍らに跪くハンス。血まみれの俺の顔面から、同じ血の色の光彩を持つ眼球を抉りだす。ひとつ。ふたつ。ハンスが欲しかったもの。
それは恐ろしくクリアなイメージだった。
ハンスは正気ではないが、きっと本気だ。
「お前……正気に戻ったら後悔するぞ」
俺の言葉は緊張でかすれていた。ハンスは小首をかしげるだけで、彼の中の正気は帰ってこない。
頬に触れていた左手が離れる。代わりに右手のナイフが、至近距離から突きつけられる。
無機質で無情な金属のきらめき。既に死んでいるものしか、まだ裂いたことのないハンスのきれいな右手。このままでは、そのどちらも、これから俺の血で汚すことになる。
「ねえ、どうして何も教えてくれなかったんですか」
不意に、はっきりした声音でハンスが言った。
「僕だって強くなりたかったのに。あなたみたいになりたかったのに」
その言葉で、俺は悟った。自分の愚かさ、自分の傲慢さを。
自分が教わったことを、俺はハンスに教えてこなかった。
俺が知っていたのはすべて、他人を傷つける技術だった。それをハンスに教えることが、影という組織における俺の役割であり、義務だった。
けれど、俺はハンスに知ってほしくなかった。銃を発砲する際に腕を伝う反動も、飛び散った火薬がどのように鼻を突くかも、弾道の計算の仕方も、銃弾の貫通とともにあがる血しぶきの鮮やかさも、絶命した相手の目に残る憎悪の色濃さも。
初めて撃った相手は自分の師だった。
ハンスには俺みたいになってもらいたくなかった。組織の求めなんかくそ食らえだと思った。俺は心に決めた。ハンスの手を汚させまいと誓った。物言わぬ師を森の奥に埋めながら。視界が滲むほど泣きながら。
だからハンスには代わりとなることを教えた。教えたつもりだった。しかし、俺の思いは伝わってはいなかったのだ。ハンスが俺を見返すとき、その双眸に宿る嘆願に気づいていなかったのだ。
なぜちゃんと言葉にしなかったのか。
俺はなんて浅はかだったのだろう。
点けっぱなしのテレビの向こうでは、まだサッカーの熱が覚めやらず、今季からチームの指揮を取ってきた監督が、レポーターのインタビューに答えている。
「これまでのこのクラブの伝統を、私は大きく変えてた。それはとても大きなチャレンジだった。選手たちには戸惑いや反発もあったはずだが、これで我々のやり方が間違っていなかったと証明できたと思う」
そうかそうか、君たちは間違っていなかったんだね。おめでとう。どうやら俺の方は、何もかも間違っていたみたいだよ。
俺は言い訳を考えるのをやめた。全部を受け入れることにした。
いよいよハンスがナイフを振り上げる。優しくほほえみながら。
ハンスが最初に手にかける相手は俺だと決まっていたも同然だったけれど、その機会がこんなにも早く来てしまったことだけが残念で、ハンスが自分自身を傷つける前に、正気を取り戻してくれることだけが最期の願いだった。
照明を反射して、ナイフの平面が一度だけぎらりと光る。
「ごめんな、ハンス」
その言葉が届いたかどうか分からない。
俺は目を瞑らなかったし、逸らしもしなかった。
ハンスのその姿を見届けることが、俺への罰だと知っていたから。
The Bird Doesn't Sing a Aubade.(影の話)
※途中に直接的な性描写があります。
退屈な会議にも、実りというのはある。
"パシフィスの火"。
影と"罪の全面闘争。
それが鎮まって2年が経つ。影の方針会議に召集された俺は、堅苦しい場所にこれから何時間も拘束されることに苛立ちながら、無駄に広い会場をぶらついていた。テレビ会議の機器も普及したこのご時世、顔を突き合わせて侃々諤々議論をすることに何の意義があるというのか。会議の現場で考えても仕方ないことをぶつくさ呟いているとき、女性の後ろ姿が目に飛びこんできた。
強い既視感を覚える歩き方だった。
人は普段意識しないけれど、歩き方というものには非常に強い個性が現れる。ほとんど隠しようがないくらいに。個人差が大きく、後ろ姿でも遠目でも判別できる歩行による個人識別法は、影のなかで有用なツールとして使われている。
俺の思考の中から、一瞬で不平が霧消した。
「ロッティちゃん!」
声をかけながら走り寄る。
最後に会った時からだいぶ髪が長くなっているが、間違いない。俺が間違えるはずがない。2年前、支援部隊にいたシャーロット・エディントンだ。俺が想いを寄せていた女の子だ。
「ロッティちゃん、久しぶりだね! 君も呼ばれてたんだねえ、俺のこと覚えてる? 髪伸ばしたんだー似合うね、相変わらず君は世界一可愛いよ」
目前に迫る彼女が、ふっと振り返った。スリーピースのパンツスーツに身を包み、首元にはマニッシュなクロスタイ。その男っぽさを補って余りある、輝かしく豊かな金髪とこぼれ落ちそうに大きな青い瞳。2年前に18歳だったはずだから、今は20歳か。ああ、何も変わらない。シャーロットは変わらずとても美人だった。
桃色の可憐な唇が、つと開く。
「あなたも相変わらず、女と見たら口説かずにはいられないようね。ヴェルナー」
きれいなアーモンド形をした双眸に、きっと睨まれる。
はて。俺の思考は一瞬止まる。
シャーロット。外見は確かにシャーロットだ。間違いない。でも、纏っている雰囲気がなんだか違う気がする。2年前は、もっとこう、大人しくて控えめな感じじゃなかったか。俺が近づいていったら、即座に女性の上官の影に隠れてしまうような。
それに、名前を呼び捨てにされたことなんて一度もなかったはずだ。気づいてなぜかちょっとどきどきした。
思考が迷走のトップスピードへ駆け上がらんとする間に、
「何か用かしら? 何も用がないなら話しかけないでちょうだい」
シャーロットがふいと立ち去ろうとする。
彼女の高飛車な物言いに、背中がぞくぞくとした。それはある種の快感だった。思い返せばあれが、自分のマゾヒストとしての目覚めだったのかもしれない。元々俺の中に火種はあったのだろうとは思う。少年時に年上の女性とばかり夜遊びをして、異性に主導権を握られる状況には慣れていたから。
すたすたと大股で離れていくシャーロットを、慌てて追いかける。
る
「あーちょっと、ちょっと待って! 用ならあるんだ、この会議が終わったらさ、一緒に食事でもどうかな?」
「食事……」
こちらを見上げるシャーロットの、永久凍土の氷のように冷たい視線。俺の価値を推し量っている視線。
値踏みされている。そう思ったら興奮してしまった。
「そうね……いいわ。ちょうどあなたに聞きたい話があるから」
頷いたシャーロットは、ずいと体を寄せてきた。うわ、近い。腕を差し出せば、抱きしめてしまえる距離だ。
彼女の華奢で優美で、けれどか弱さを感じさせない手が、俺の首元に伸ばされる。どきりと心臓が跳ねる。このまま首でも絞められるのか? 悪くないな。それもいい。
「ちゃんとしたお店に行くなら、ネクタイくらい締めてきなさいね」
シャーロットはそう言って、不敵にふふっと笑った。
体の奥から、形容しがたい色々な情動が湧き上がってくる。到底口には出せない、興奮やら悦楽やらも混じっている。
俺は阿呆みたいに彼女の遠くなる背中を見つめた。会議の開始を知らせるエージェントの怒声に我に返るまで、俺は廊下のど真ん中でぼんやりと突っ立っていた。
大慌てで予約した割には、いい店だった。
淡いグレーで統一された店内は落ち着いた雰囲気で、壁にかかった抽象画と、テーブルに飾られた花の色彩が映え、目を楽しませる。室内の居心地のよさを軽やかに演出する、プーランクの器楽曲の調べ。席同士の間隔は大きく取られており、隣の席の会話はほとんど聞こえない。俺たちの会話もそうだろう。
静かな談笑と、食器がたてる無機質かつどこかあたたかい音。それらが、品のよい調度品で揃えられたフロアに満ちている。
シャーロットの格好は昼間と異なり、膝丈の濃紺のカクテルドレスだった。
会議の出席者に用意されたホテルのロビー、そこでの待ち合わせに、シャーロットは華やかに変身して現れた。パンツスーツで上書きされていた彼女の魅力があらわになっていて、目が釘付けになる。日中には半分以上隠れていた、優美な形状の黒いピンヒール。それに踏まれたいなあと思った。
「ロッティちゃん、すごく綺麗だね」
「お世辞はいいわ。それより、ネクタイはあったのね。あなたがネクタイを締めてると、手綱みたいだわ」
シャーロットが俺のネクタイを軽く引っ張る。
手綱。その単語が異様に大きく聞こえた。操られるためのもの。俺の手綱はぜひとも、シャーロットに持ってほしい。
「なんだ、調教してくれるのかい」
「そうね、悪い犬には躾が必要ね。もっとも、それは私の役目ではないけど。さあ、早く行きましょう」
シャーロットはさっさと歩き出した。彼女の一言、一単語が俺の心臓を正確に射抜く。俺の脈拍は走った直後くらい速く、頭は熱病に侵されたみたいにぼーっと熱かった。
「元気そうで良かったわ」
洗練された所作で、オードブルを口へ運んでいたシャーロットの言葉に、はっとする。いけない。追想に浸ってぼんやりしてしまっていた。
「ああ、元気も元気だよ、特に」
下半身が、と言いかけてやめる。つい素が出そうになる。悲しいかな、ネクタイを締めていても、こんな上品な店にいても、俺の内面が上品になるわけではないのだ。むしろ、この場にいることへのある種の反動で、下世話な文句を使いたくなってくる。これはもう病気みたいなもので、しかもおそらく一生治らないと断言できる。
「君も元気そうで何よりだ」
「ありがとう。ところで、知ってるかしら。私ね、今あなたと同じところの所属なの」
「え」
思いがけない告白に、目をしばたかせてしまう。シャーロットは俺の反応をうかがうように、こちらをじっと見続けている。
"影"という組織には、3つの部門がある("パシフィスの火"以前は部隊だったが、のちに名称が改められた)。支援部門、諜報部門、それから俺のいる戦闘部門だ。
シャーロットは支援部隊の所属だったはずだが、俺と一緒ということは、今は戦闘部門所属ということか。戦闘部門とは、とどのつまりは相手と直接事を構える部所だ。一番の下衆人の集まりだ。
支援部門から戦闘部門への異動。
その制度は、あるにはある。だがそれは、滅びた文明の荒廃した遺跡よろしく、ひっそりと規律のなかに打ち捨てられているものにすぎない。異動認可のための試験は、身体能力やら戦闘技術やらの基準がやたらと厳しく、幼少から訓練を受けた者でないと、クリアするのがほとんど不可能なのだ。
それを、シャーロットはパスした。
軽い目眩に襲われる。どれほど努力したのだろう。どれほど苦労したのだろう。あの、男を前にしただけで狼狽えていた、線の細い女の子が。
「――頑張ったんだね」
「今も、頑張っている途中よ」
辛さなど微塵も感じさせない、彫像めいたほほえみ。仮面の上から張りつけた、作り物の笑顔。
不意に、周りの状況なんかぜんぶ無視して、澄ました形の椅子なんか蹴り倒して、彼女をぎゅっと抱きしめたい衝動に駆られた。
けれど、なけなしの理性が俺を座面に縫いつけて、ワイングラスをすっと持ち上げさせるにとどめる。
「そっか……つまり、君もろくでもない連中の一員ってやけだ。ようこそ、人でなしの集まりへ」
「ありがとう」
乾杯は既に済んでしまっていたけれど、シャーロットもグラスを掲げてくれ、二人揃って赤い液体を口に含む。
ああ、渋いな。すごく渋い。
「ねえ、どうして部門変えなんてことをしたのか分かる」
今度は試すような視線が向けられる。俺は閉口して、顔の横でひらひらと手を振った。婉曲な表現は嫌いじゃないが、シャーロット相手に腹の探りあいみたいなことはしたくない。
「回りくどいのはやめにしよう。聞きたい話って、ルネのことだろ」
「今の話でよく分かったわね。そうよ」
「俺が話せる内容で、君が聞きたいことなんて、それくらいしか思いつかないからね。君はルネの背中を追いかけて、部門変えをした。そういうことじゃないのかな」
シャーロットがゆっくりと、噛み締めるように頷く。
ルネ・ダランベール。
戦闘部隊所属の、俺のかつての上官。シャーロットが親しくしていた相手。ルネはもうこの世の人ではない。敵の手にかかって、2年前に死んだ。
ルネとシャーロットは女性同士ということもあってか、しばしば二人きりで長々と話しこんでいた。何を話していたのか俺は知らない。二人でいるところに近寄っていったら、しっしっとルネによく追い払われたものだ。
柄にもないかもしれないが、俺はルネを尊敬していた。上官として、人間として、心から慕っていた。彼女は全き真のリーダーだった。
そして、ルネに敬愛の情を持っていたのはシャーロットも同じだったのだろう。道半ばで途絶えてしまった彼女の足跡を、シャーロットは辿ろうとしている。追いつこうとしている。そしていつか、追い越そうとしているのだ。
そう考えると、日中シャーロットが身につけていた男性的なスリーピーススーツも、男だらけの戦闘部門にあって、課せられた使命を果たしていくことへの決意の表れに思えた。
「それで、ルネの何が聞きたいんだい」
「辛かったらごめんなさい。……最期のこと」
申し訳なさそうに、シャーロットが切り出す。予想はついていた。シャーロットは、ルネの死に目には立ち会えていないから。
それは、思い出というにはあまりに生々しい記憶だ。
2年前。もう2年。まだ2年。
ルネの臨終は、血染めの最期だった。美しい銀髪を自らの鮮血で染めて、命を髪に吸い取らせて、その体は少しずつ熱を失っていった。永遠の眠りが近づいても、彼女は苦痛の中で笑っていた。死ぬのが自分で良かった、君たちでなくて良かった、と。
思い出す必要もない。思い出すには一度忘れる必要がある。脳裏から消えてくれない光景を、思い出すことはできない。
今際にルネは、私を忘れて、と言った。愛する人へ、私を忘れて幸せになってくれ、と。それはどんなに想像を絶する心境だったろう。
目の奥からとめどなく溢れ出る涙の熱さを、今まさに経験しているように、俺は想起することができる。嘘だろ、という内心の叫びが、頭の中で何度も反響した。目の前の状況を理解することを、脳が拒絶していた。戦友は、二度と動かない彼女を腕に抱いて、体の動かしかたを忘れてしまったように、呆然としていた。
眼前のシャーロットに語った後で、最期は笑って逝ったよ、と付け加える。
シャーロットが詰めていた息を吐く。
「私ね、ルネさんが亡くなったなんて、今でも信じられないの。何事もなかったみたいに、ルネさんがひょっこり帰ってくるんじゃないかって、まだ思ってるわ……」
「……そっか」
「――ごめんなさい。すべてを見ていたあなたの前で、軽率な発言だったわね……気を悪くしたかしら」
「いや……いいんだ」
俺は戦友のことを考えていた。一度も涙を見せずに影から去っていった、真面目で堅物で、ルネを愛していた男のことを。
ルネの死後、彼は虚無に覆われたその黒々とした眼で、じっと死を見つめていた。見えない死の輪郭をなぞるような、怖いくらいまっすぐな視線で。影を辞める直前の彼は、一歩踏み間違えばふらっと彼岸へ行ってしまえる、そんなぎりぎりのところに立っていた。俺にはそう見えた。
どうにか、彼の喪失感を癒してくれる人やものが見つかっていればいいが、と願わずにいられない。
ウェイターが、コースのメインディッシュを運んでくる。芳しい赤ワインのソースを絡めた、牛肉のフィレステーキ。ウェイターが去るまで、お互いじっと肉汁滴るそれを眺めた。
ミディアムレアの肉塊にナイフを入れながら、シャーロットが問う。
「ルネさんは、幸せだったのかしら」
「死者が幸せだったか不幸だったか、それを論じることに意味はないよ。その議論は、生者の慰めにしかならない。死ってのは、生者だけに意味のあることだ」
「ずいぶん達観してるのね」
「そうだね。死んだ生き物の肉を味わいながら、血の色の飲み物を楽しみながら、死者の話をすることができる人間だよ。俺も、君もね」
「……そうね」
シャーロットの返事は、考え事に沈んでいた。
俺は大きめに切り分けたステーキを頬張る。咀嚼する。中から肉汁が溢れ、牛肉の風味が口内を満たす。死者の沈黙は永遠だ。俺たちはいつまでも、その沈黙に耳を澄ましているわけにはいかないのだ。嫌でもこうやってものを食べて、生きて、前に進まねばならないのだ。時間の歩みに取り残されないように、不断の流れにしゃにむにしがみついて。
その後は他愛もない近況報告をした。料理はどれも美味しかった。文句なしに和やかな店内において、いつになくしんみりした気分だった。シャーロットに聞きたい話がたくさんあったはずなのに、なぜだか言葉はあまり浮かんできてはくれなかった。
店の外では夜風が冷たい。薄着のシャーロットに、スーツの上着を羽織ってもらう。その上で、つい無意識にシャーロットの細い腰に手を回していた。女性と歩くときの癖だ。振り払われるかと思ったが、意外にもすんなり受け入れられる。
「嫌がらないのかい」
「話を聞かせてもらったから」
等価交換というわけだ。
シャーロットの瞳の奥では、何か強い決意が揺らめいている。
「今日は泊まるんだろ。同じホテルだし、部屋まで送っていくよ」
「ありがとう」
本当はずっと、一晩中でも寄り添っていたかったが、この心境と雰囲気ではできそうもない。あっという間にホテルに着いてしまい、名残惜しいながらお別れのハグをする。食事前の彼女と別人みたいに、シャーロットは妙に従順だった。
「じゃあ、おやすみ」
「ヴェルナー、ちょっと待って」
袖を強く引かれる。体の向きを変えようとしていた俺は、簡単に体勢を崩す。強引に部屋に引き入れられた。
背後で重い金属の音がする。ドアの鍵が自動的にかかったのだ、と思ったか思わないかのうちに、シャーロットにキスされていた。
やわらかい唇。あまやかな、花にも似た肌の匂い。幸せを具象化した香りが、鼻腔をいっぱいに埋める。条件反射で腰に腕を回し抱き寄せると、シャーロットが首に手を絡め、いっそう深く口づけてくる。彼女の意図がわからないながら、体の内側が熱を帯びてくるのを感じた。
さらに腰を引き寄せ、体を密着させる。舌を入れようとしたら、存外強い力で突き放された。
俺を見上げるシャーロットの双眸には、何の情感もこもっていなかった。
仕事を前にした業務遂行者の目。取引の勘定をしている計算者の目。
シャーロットは俺ではなく、俺のもっと向こうにいる、誰でもない誰かを見ている。
「どうしたの」
「お願いがあるの」
俺の懐にとす、と体を預けたシャーロットは、抱いてほしいの、と囁いた。
俺は彼女を抱擁したままで、数秒押し黙った。これが他の女性なら二つ返事で誘いに乗るところだが、思慮深いシャーロットのことだ。何かしら事情があるに違いない。
「理由を聞いても?」
「……この前、話をされたの。影の任務で、色仕掛けを使って情報を集める必要が出てくるかもしれないって」
「ハニートラップってやつか」
「ええ。でも私まだ――経験がなくて。きっと練習なしじゃうまくできない。あなた、そういうことは詳しいでしょう。だから、色々教えてほしいの」
「……初めての相手が俺でいいのかい」
「こんなこと、他の誰かに頼めると思うの?」
至近距離から、青い目に宿った強い光に射抜かれる。美しい瞳だ。雪を頂く険しい独立峰のように、気高く、孤独で、他人を寄せつけない瞳だ。その瞳の中に凍りつく雪を、融かすことができたらいいのに。
それだけの情熱が、俺のなかにあるだろうか。
「分かった。俺を練習台にしていいよ。何でも言って」
シャーロットがほっとした表情をする。俺たちはドアの前で、もう一度唇を重ねあった。
シャワーを浴びながら、どうしてこんなことになったのだろうとぼんやり考える。
そりゃ、シャーロットと合意の上で一夜を共にできるなんて、俺には願ってもないシチュエーションだ。夢みたいだ。けれど、俺は他の男に抱かせるために、今夜彼女を抱くのだ。本当はそんなの想像したくもない。しかしそれをシャーロットが望むなら、俺には止める権利がない。
シャーロットは先にシャワーを浴び終えている。湯上がりにバスローブを纏った姿は、とてもあでやかだった。胸元の服の合わせから、深い胸の谷間が覗いていた。以前は彼女のスタイルをあまり意識したことがなかったなと思う。シャーロットは可愛い女の子から、美しい女性になっていた。たった2年で。
緊張がそろりそろりと足先から這い登ってくる。初めてのときですら、こんなに生唾は出てこなかっただろう。
お湯の栓をひねり、タオルで体を拭き、下着を穿く。そこでいきなり、浴室の扉が開かれた。反射的に武器を探してしまうのは職業病だ。上下の下着しか身に着けていないシャーロットが、そこに立っている。
「鍵をかけないなんて不用心ね。もう終わったかしら?」
「えっ待って、まだパンツしか穿いてな――」
「要らないでしょう、どうせ脱ぐんだもの。早く来て」
にべもなく言う。体の線を隠そうとすらせず。
ロイヤルブルーの下着に彩られた、白く透明感のある、なめらかでつややかな肌。下着のレースに飾られて、一種の芸術品とさえ見える、たわわでやわらかそうな胸。見事なくびれと、引き締まったおなか。魅惑的な腰つき。夢にまで見た肢体だ。この世界中でシャーロットが一番綺麗だ。疑いもなく、ためらいもなく、俺はそう確信した。
シャーロットに手を引かれるまま、隣りあってベッドに腰かける。苦笑いがこみあげてくる。
「ああ、やばいな。すげえ緊張する」
「あなたが緊張してどうするの。……始めましょう」
ベッドの上で抱きあう。キスを交わす。今度は舌も絡めて。シャーロットの肌はさらさらなのに、しっとりともしていて、最高に気持ちいい。ずっと溺れていたくなる。そのうちに堪えきれなくなって、押し倒す。あくまで優しく、だ。
下着の上から、シャーロットの体のすみずみまで、くぼみから盛り上がりまで、貪るように口づけをする。こんな状況でも、嬉しいという気持ちを抑えられなかった。どんな形であれ、シャーロットに尽くせることが俺の喜びだった。
シャーロットもぎこちないながら、口づけを返してくれる。時おり抑えた甘い吐息を漏らしながら。それだけで俺の本能はどんどん剥き出しになっていった。理性は遥か下方に置き去りにされ、動物の本能だけがぐんぐんと高みに昇っていく。我慢できず、熱くなった下半身の昂りをぐいとシャーロットに押しつけると、彼女はびくりと小さく身を震わせた。
「あ、ごめん……」
「いいの。ねえヴェルナー……触っても大丈夫かしら」
「……俺はいいけど……」
シャーロットが俺の下着を降ろそうと手をかける。その両手はあからさまに震えていた。こちらが申し訳なくなるほどだった。口では平気な素振りをしていても、気持ちはいっぱいいっぱいなのだ。
これから、彼女が知らないことを、もっとたくさんするというのに。
「ロッティちゃん……やっぱりもうやめておかない……?」
「馬鹿にしないでよ、これくらい私にだってできるんだから」
声のわななきを押し殺して、シャーロットが一気に下着を下ろす。
俺のものは充分大きく、硬くなっていた。薄暗い部屋でも、先走りで濡れ、太い血管が浮き出ているのが見える。奇怪でグロテスクな、男だけが持つモニュメント。
シャーロットが固まる。喉だけが動いてごくりと唾を飲み込む。
「見るのは初めて?」
「……近くでは」
「そう。……触ってみる?」
こくりと頷きが返ってくるが、緊張のためか、彼女の腕は糸の切れた操り人形みたいに動かない。俺はシャーロットの手首を優しく掴み、張りつめて屹立したものに導く。指先から彼女の速い脈動が伝わってくる。しかし俺も少なからずのぼせあがっている。何せ相手は大好きな相手なのだ。おあいこだ。
細い指がそこに届いたとき、電撃を受けたのかと思った。一瞬意識が吹っ飛ぶ。それほど強い快感が体を貫いた。こんなことは初めてだ。
シャーロットは強張りながら、どこか感心した風な表情を浮かべる。
「こんな、感触なのね」
「……硬いでしょ」
おずおずとした頷き。
「……それに、すごく熱いわ」
囁きと同時に、彼女の指の腹がゆるゆると表面を往復する。それだけで気持ちよくて、脳のヒューズが飛びそうになる。撫でさすられる感覚に、思考が熱で溶ける。興奮の血流で胸がはち切れる寸前に、シャーロットが脚のあいだにぐっと顔を寄せてきた。
「これを、咥えればいいんでしょう。どうやったらいいのか教えてね」
「え、ちょっと、待っ――」
彼女は躊躇なくそれを口に含んだ。
途方もない快感が、背中伝いに脳まで駆けあがる。
未曾有の感覚だった。きもちいい。それ以外考えられない。理性の残滓が弾け飛ぶ。真っ白く輝く悦楽の海に投げ出され、全身をふわふわした快楽の波が包む。肌の感覚がおかしくなって、あたたかい波間にゆらゆら浮いていると錯覚する。
気持ちよさでどうにかなりそうな頭で、必死にシャーロットのことを考える。彼女の問いたげな上目遣い。そうだ、やり方、教えてあげないと。
シャーロットの髪を撫でる。掌だけ、快楽の海から付き出している感覚。さらさら、ふわふわとした髪の触感。すべてが俺の脳内で快感に変換される。臨界点ぎりぎりだ。
「先端の縁のところ、舐めて……そう……奥まで、咥えてみて……歯が当たらないように……」
自分の声がひどく遠い。
ああ、ロッティちゃんの舌だ。ロッティちゃんの咥内だ。ロッティちゃんの吐息だ。俺のものはいま、シャーロットに咥えられている。夢みたいだ。
「きもちいい、きもちいいよ、ロッティちゃん……」
うわ言みたいに呟く。
瞼の裏にちかちかとまたたく光。俺の絶頂の予兆だ。
「離して、ロッティ……」
言いながら、シャーロットの頭を穏やかに押し返すが、彼女はなぜか離そうとしない。
「ロッティちゃ、……駄目だって……っ」
堪えきれなくて、そのまま達した。悦楽の海が巨大な波となって、何度も押し寄せる。シャーロットの口の中で、俺のものがびくんびくんと痙攣を繰り返して、どろりとした生臭い液体を吐き出す。
してもらっていただけなのに、息が上がっていた。シャーロットが、口内の白いものを、ごくんと嚥下する。俺は肩で息をしながら、彼女を信じられない思いで見る。
「――こんな味なのね」
「ごめ……」
「私が望んだことよ」
彼女の掌が、頬を優しげに撫でた。
絶頂に至ったばかりで霞がかる頭に鞭打つ。俺もしてあげないと、と自分を奮い起たせる。
「じゃあ、今度は俺の番だね。触っていい?」
返事があるかないかのタイミングで、下着の上から豊かな双丘を揉みしだく。あっ、と驚く声があがるが、頓着せずに続けた。
わざと音をたてて首筋に口づけを落としながら、下着の下部から指を差し入れ、先端に触れる。ふにふにとやわらかさを持っていたそこは、つねったり、周辺を触ったりしているうちに、硬さを帯びてくる。
シャーロットの吐息が、隠せずに漏れる声が、熱く、甘くなってくる。耳のそばで生まれるその音が、俺の野性を激しく呼び覚ます。
「今まで誰かに触られたことある?」
聞くと、シャーロットが弱々しく首を横に振る。
俺の体温がまたぶわっと上がった。こんなに綺麗な体に、誰も触れたことがないなんて。その初めての男になれるなんて。嬉しい。とても嬉しい。
「下、触るね」
「ん……」
下着の上からそこを愛撫する。布ごしでも、もうとろとろに潤んでいるのが分かる。感じてくれているのだ。
直に触れようと下着のなかにそろそろと指を伸ばすと、シャーロットがひしとしがみついてきた。片腕で火照ったしなやかな体を抱きとめる。
「怖い? 大丈夫だよ。気持ちよくしてあげるね」
俺は中指を、そこに伸ばした。熱く、ぬるりとした感触に迎え入れられる。途端、シャーロットが聞いたことのないような甘い喘ぎをあげた。触られるのは初めてなのに、それが気持ちいいと、体が知っているのだ。
入り口の上の方にある膨らみをリズミカルに刺激する。シャーロットの腰が、俺の指に合わせて上下しはじめる。おそらく無意識のうちに。
「ん……っ、ヴェルナー……だめ、そこ……」
「ここ、気持ちいいでしょ」
「やぁ……も……おかしくなっちゃう……っ」
「気持ちよくなっていいんだよ」
シャーロットは俺の腕のなかで、生まれたての雛のように震えていた。自分すら知らない自分に怯えていた。そんな彼女を、心の底から愛おしいと感じた。大切にしたいと思った。
指の先でぷっくりと形を作ったものが、どんどん硬さを増していく。それに比例して、シャーロットの嬌声も高く、長く、とろけていく。抱き寄せていた方の腕を解き、片手で刺激を続けながら、もう片方の手を後ろから入り口へと伸ばす。
そこはシーツにこぼれるくらいに濡れていた。中から溢れてくるものに逆らって指を差し入れると、案外たやすく根本まで受け入れる。
シャーロットの中はとても熱かった。
片手の刺激を一旦止め、奥まで差し込んだ指を動かしてみる。
「中で動いてるの、分かる?」
「そこ、なに……」
「一緒になるとこ」
耳元で囁くと、シャーロットの中が俺の指をきゅうと締めつけた。
両手での刺激を再開する。シャーロットの、あ、ああ、と漏れる猫みたいに上擦った声が、脳の雄の部分を引っ掻きまわす。もうとっくに理性なんか焼き切れている。
この指が、俺のあそこだったら。そう考えるだけでやばかった。俺のものはまた硬くなっていた。
早く挿れたい。本能のまま、剥き出しになったものをすべすべした太ももの内側に擦りつける。
一際高い喘ぎ声が上がって、シャーロットがぎゅううと俺に縋りつく。まるで全身が落下していくことに逆らうみたいに。中が、きゅう、きゅう、と強い収縮を繰り返した。絶頂だ。指の運動をやめる。荒い息をたてて、シャーロットが脱力する。
気持ちよかった、と問うと、潤んだ目が俺を見つめ、小さな頷きが返ってくる。
「良かった」
軽く汗ばんだシャーロットの額にキスをした。
彼女はもうぐったりしている。俺のは痛いぐらい起っているし、最後までしたかったが、彼女は何もかも初めての経験なのだ。このへんで止めておいた方がいいかもしれない。
「今日はもうよそうか」
「……馬鹿言わないで。最後まで続けるわ」
「ロッティちゃん……君に無理をさせたくないんだ」
「何を言ってるの? あなたが気を遣う必要ないじゃない。私が頼んだことなのよ」
「そうだけど……」
「私とするのは嫌?」
きっと睨まれる。それが精一杯の虚勢だと、分かってしまう。俺はシャーロットを抱きしめて、頭を撫でた。
「そんなわけないだろ。俺もロッティちゃんと一緒に気持ちよくなりたい。でも君を大切にしたいんだ。君が好きだから」
「やめて……」
「大好き」
「やめてよ……」
「本当に、続けていいの?」
肩口あたりに、首肯の気配を感じる。
俺は一度体を離してベッドから降り、自分の上着の内ポケットからコンドームを取ってきた。
「それ、いつも持ち歩いてるの」
「うん、まあ」
「……」
「いや、別にそういう機会を常に狙ってるわけじゃないよ? でも用心するに越したことはないじゃん?」
「…………そうね」
「じゃあちょっと待って、着けるから……」
「待って」
「え」
「口で着ける練習がしたいの。貸して」
シャーロットがずいと掌を差し出す。練習ってなんだかなあ、と思いつつ、ギザギザの小さな包みを彼女に手渡す。シャーロットは手の中のものに、数秒間じっと視線を注いだ。もしかして、コンドームを見るのも初めてなのだろうか――。
俺はシャーロットがやりやすいよう、ベッドの端に腰かけた。彼女は張りつめた面持ちで、脚のあいだに跪(ひざまず)く。どうしよう。この状況だけでイけそうだ。
彼女の指が袋を破く様子を眺めていたら、不機嫌そうな上目遣いが俺を捉えた。
「なに」
「いや、可愛いなと思って」
「馬鹿じゃないの」
シャーロットが吐き捨てる。罵られて興奮した俺のものが、また少し大きくなる。それに気づいたらしいシャーロットは、重力に反して立ち上がったものを、冷めきった眼で見つめた。
「あなた、変態なのね」
そう、俺は変態で、君は最高だ。
繋がった悦びを感じたのは、きっと俺だけだった。
初めての子を相手にしたことがないわけじゃないが、そう経験が多いわけでもない。さっき1本だった指を2本に増やし、じっくり時間をかけて慣らしていく。大丈夫、夜は長いのだ。そう焦ることはない。
「ヴェルナー……」
シャーロットが俺の名をうわ言のように繰り返す。その様子は切なげと言ってもよく、俺の心臓がきゅうと締めつけられる。表情は今や溶けきって、瞳は生理的な涙で潤んでいた。蠱惑的に腰がくねる。その乱れた顔を他の男の前で見せるのだ、と思うとたまらない。嫉妬で気が狂いそうだった。
俺だけを見ていてほしかった。永遠が叶わないならば、せめてこの一瞬だけ。この夜だけは、どうか。
俺よりも幾回りも小さいシャーロットの手が、添え木を探す植物みたいに俺の腕を掴む。
「あ……ぁ、ヴェルナー……我慢できないの、早く来て……足りないの……」
「ロッティちゃん、そんなこと言われたら俺――」
「ヴェルナーの……もっと熱くて太いの、ほしい……」
「どこで覚えたの、そんなの……」
シャーロットの表情が、声が、吐息が、体が、体温が、匂いが、水音が、俺の欲望を煽る。もう限界だった。
俺ので気持ちよくなってほしい。
一緒に気持ちよくなりたい。
シャーロットの上に跨がる。この光景が幻だったとしても驚かない。彼女の瞳の中に恐怖はなかった。
「挿れるよ」
自分のものの根元を掴んで、彼女の体の中心の潤みにあてがう。シャーロットがびくりと反応して、俺の体に足を絡めてくる。極力ゆっくり、少しずつ、深くしていく。シャーロットの呼吸は上がり、顔は徐々に痛みに耐えて歪んでいったけれど、苦悶の表情にまではならなかった。
最後まで入れたら、今までにない絶対的な幸福感が俺に訪れた。もう死んでもいい。忘我の状態で、シャーロットの手を取り、交接部まで導く。
「一緒になってるの、分かる」
「……分かる」
泣きそうな顔で、彼女はか細く答えた。
「動くね。辛かったら言って」
俺は腰をスライドさせる。奥を突くたび、甲高い声が可憐な唇から漏れ出た。
シャーロットと、ひとつになっている。
その事実だけが真理で、他のことなんてどうでもよかった。俺はシャーロットを愛しているのだと、その時強烈に感じた。愛している。世界で、シャーロットだけを。
「好き。大好き。愛してる」
体位を変える。リズムを変える。
シャーロットはいやいやをするように、首を振る。君が俺を好きじゃないのは分かってる。でも言わずにいられなかった。
「ヴェルナー……だめ……」
不意に、彼女が呻いた。俺は慌てる。一人で突っ走りすぎたか? 好きな人と繋がれたのが嬉しくて、独りよがりになっていたかも?
「ごめんっ、痛かった? 苦しい……?」
「駄目よ……」
涙で潤みきった眼が、俺を見上げていた。
「そんなに優しかったら、練習にならないでしょ……っ、もっと、酷くして……」
シャーロットの言葉は震えていた。切実な、乞うような声色だった。俺の体もぞくりと震える。
彼女の泣きそうな声が、自分の内には存在しないと思っていた暗い欲望に、火を点けたのを感じた。
「――ごめん」
俺は本能の欲求に従い、シャーロットを抱いた。いろんな角度、いろんな深さ、いろんなリズム、いろんな体位で。こんなめちゃくちゃなのは初めてだった。それは抱くというより、犯すと表現した方が正しかった。大好きな人を、世界でただ一人愛している人を、俺は欲望の赴くまま、身勝手に、でたらめに犯した。
シャーロットの目尻に光るものが伝ったとき、俺はなんてことをしているんだ、と愕然とした。
「……ロッティちゃん、もうやめよう……?」
「やめないで……お願い……」
シャーロットは必死になっていた。影のために、任務のために、汚くなるために。それが彼女の願望ならば、叶えてあげたかった。俺にできるなら、叶えなければと思った。俺は自分のなかの理想を殺した。
シャーロットは声を押し殺し、泣きじゃくっていた。この腕のなかで。俺が、泣かせたのだ。彼女が絶頂を迎えて仰け反っても、唇を噛み、腰を動かし続けた。部屋に嗚咽が響いた。幸福感などとうに萎(しぼ)みきっていた。
俺は2度目の絶頂を迎え、罪悪感という名のどろどろした液体が、ゴムの内部に溢れ出る。
俺は彼女に、ちっとも優しくできなかった。
行為の後、いつの間にか眠ってしまったらしいことを、暗がりの中で目覚めて知る。
まだ夜中だ。目が覚めた原因は衣ずれの音だった。シャーロットが服をその身に纏い直している。濃紺のカクテルドレスではなく、ダークグレーのパンツスーツを。信じられないことに、傍らにはキャリーケースが置かれていて、既に荷支度を整えてある風情だ。
ベッドの上で起き上がると、彼女の澄んだ眼がこちらを向く。
「起こした? ごめんなさいね」
「ロッティちゃん……? どこに行くの」
「決まってるでしょ。イングランドに帰るのよ。部屋の鍵はお願いね」
「どうして? まだ夜なのに……。そんなに焦らなくても――」
「あなたと違って、私は忙しいの」
「そんな……せめて朝まで、一緒にいられない?」
「駄目よ。それは恋人がすること。私たちは違うでしょう」
追い縋る調子の俺の言葉へ、シャーロットは静かに答える。その声は高地に吹くそよ風のように優しく、清涼で、それでいて冷淡だった。俺の下で取り乱していたのが嘘だったみたいに、シャーロットは淡々としていた。
厳然とした事実を突きつけられ、俺の喉は言うべき単語を何も発せられない。ああこれで、シャーロットは他の男に抱かれる準備が整ったのだな、とぼんやり考える。
仕事着を身につけたシャーロットは、もはや元の彼女ではなかった。未知に震える雛ではなかった。そこにいる彼女はもう、俺の手が届かないところへ飛びたってしまっていた。その理解が、俺の心にざっくりと傷をつける。
シャーロットが体の正面をこちらに向き直す。粛然とした佇まいで、俺への言葉を紡ぐ。
「私はあなたが、私の頼みを断らないことを――断れないことを、初めから知ってた。それを分かっていて、私はあなたを利用したの。あなたの好意を踏みにじったのよ。……ひどい女だと思ったでしょう」
それを、俺は全裸のままで聞いている。阿呆みたいだった。
でも君は、俺のことを分かってないよ、シャーロット。苦笑して、肩を竦める。
「全然だよ。本当にひどい人間は、自分をひどいだなんて言わない」
「……あなたはもっと気をつけた方がいいわ。あなたは優しすぎる。だから私みたいな、たちの悪い女に付け入られるのよ」
「君はたちの悪い女なんかじゃないし、そんな心配も要らないよ。俺が好きなのは、君だけだから」
シャーロットは押し黙り、眉間に力を入れ、奥歯を噛む。苦痛に耐えている表情。
好きだなんて言ってごめんね、と心の中で謝る。だけど、本当のことなんだ。応えてほしいとも思わない。
籠で歌う鳥より、自由に羽ばたく鳥の方が美しい。
俺は語りかける。遥か彼方へ飛び去らんとする彼女に。
「優しくできなくてごめんね。君に辛い思いをさせてしまった。泣かせてごめん」
「あなたが気に病む必要はないのよ。私が望んだんだもの。私があなたに、頼んだことよ」
「それでも君に……優しくしたかったんだ。ロッティちゃん、どうか忘れないで。俺はいつでも、君だけを愛してる」
「……私のわがままを聞いてくれて、ありがとう。さよなら」
ぽつりと言い残して、最愛の人は未明の闇へ消えていった。
ドアが静止するのを見届けてから、ベッドに倒れこむ。シーツからシャーロットの残り香が立ちのぼる。酷い気分だった。彼女のすすり泣きが、耳にこびりついて離れてくれない。生まれてこのかた、こんなに惨めな気持ちになったことはなかった。
シャーロットは俺を利用したと言った。俺の好意を踏みにじったと表現した。
それは違うよ、と俺は唸る。
俺は嬉しかった。まるきり打算の意図しかなくとも、彼女が俺を選んでくれて、とても嬉しかった。シャーロットに利用され、いいように扱われ、最終的にボロ雑巾同然に棄てられようと構わなかった。むしろ、それが俺の願いだった。ひたむきな望みだった。
俺を利用してよ、ロッティ。
擦り切れるまで利用して、そうして手酷く棄ててくれ。
でもそれを言う相手はもういない。小鳥は飛びたってしまっていた。
朝の歌を聞かせてくれないままに。
冷えた夜気が体を浸食してくる。冷たい夜はまだ明けない。
孤独者とイノセント・ジェム(罪の話)
音楽。
ぼくは音楽を愛する。
腐臭を放つおぞましい沼から生まれる、控えめにきらめく穢れを知らぬ宝石。ぼくは音楽を、そう定義する。
久しぶりにルカの顔を見た。
顔を合わせるのはほぼひと月ぶりだった。彼にはさる大がかりなプロジェクトのリーダーを任せていて、アジアの離島に行ってもらっていた。こんなに長くルカと離れたのは、十年以上の付き合いのなかで初めてだった。
そのあいだ、どんなにぼくが彼のピアノを聴きたかったか。それは殆ど飢えといって良かった。ぼく自身は楽器を弾けなかった。ルカの奏でる憂いに満ちた旋律が、聴きたくてたまらなかった。
彼が戻ってくるとすぐ、演奏を聴かせてと彼に頼んだ。ぼくには分かっていた。ぼくの言葉を、彼は"命令"だと解釈するだろうことを。疲弊しているはずのルカに、彼が断らない――断れないのを知りながら、ぼくはせがんだ。
円形の防音室にぼくらはいる。ルカはピアノの前に腰かけていて、少し離れた場所の椅子にぼくも座っている。部屋の中央に置かれたスタインウェイのつや消しのピアノは、壁を走る青白い光を反射しない。
「君のピアノを聴かせてよ、ルカ。ずっと聴きたかったんだ」
「は、勿体ないお言葉です。何にいたしましょう」
「じゃあね――愛の夢、第三番」
ルカが厳しい顔つきをぴくりとも崩さず見つめてくるのへ、ぼくはそう答えた。ルカは従順にこくりとうなずき、ピアノに向き直る。瞑目したルカの顔は、石からできた彫像のように、冷たく、生命の温かみを感じさせない。数瞬の静寂があり、その静けさの中から、彼の十指が奏でるメロディーが流れだす。
フランツ・リスト作曲、"愛の夢"第三番。
ぼくは目を閉じて、そのたゆたう音たちに浸る。ルカの音楽。いつも不思議に思う。甘美な曲のはずなのに、どうしてこんなにも悲しげに響くのだろう、と。
きっとルカは愛など知らないのだ。それでいい。愛なんて下らないもの、ルカは一生知らなくていい。
瞼の裏の暗闇のなかで、ぼくはいつしか子供に戻っていた。忌まわしい、捨て去ったはずの子供時代に。
母に抱きかかえられてあやされる。そういえばかつては自分にも母があったなと思う。誰にでも両親があること、その不思議。記憶は他人の日記を読むようにおぼろげだ。もう顔だちは思い出せないから、概念と化した母の顔には目も鼻も口もない。
ぼくの体はどんどん縮む。窓辺に置かれた揺りかごのなかで、波間に漂うようなゆったりとしたリズムを身体に感じる。窓からは楡(にれ)の木が見え、葉末(はずえ)を通り抜けた陽の光が、ぼくの肌を温める。ぼくの人生の揺籃期。どこからか教会の鐘の音が聞こえてきていたっけ――。
目を瞑っていたら、いつの間にか眠ってしまったらしい。はっと気がつくと、誰かに抱えられ、運ばれていた。ぼくを抱く力強い腕は、もちろんルカのものだった。
壁にも床にも光の筋がせわしなく行き交う廊下を、ルカはしずしずと進んでいる。ぼくは彼の胸あたりを、掌でぎゅうと押し返す。
「なに、してるの……っ」
「お疲れのようでしたので、お部屋へお連れしております」
事も無げに、平坦な調子でルカは言う。
「離して、自分で歩けるから」
「は、申し訳ございません」
床へ降ろされた拍子に、まずい、と思った。脚がもつれて、よろけてしまったのだ。ルカの前で、避けるべき事態だった。案の定ルカが、眉根をわずかに寄せて、ぼくを見やる。
「畏れながら――ディヴィーネ様、ご無理をなさっているのではありませんか。実務は他の者に任せて、しばらく休養を取られては……」
息苦しいほど真摯な調子だった。ぼくは笑ってしまう。無理なんて、ずっとしてる。何も知らないくせに、そんなことを言って、そんな顔をしてしまえるんだね、ルカ。君は本当に愚かな人間だ。
冷や汗が出てきそうになるけれど、ぼくは歪んだ笑みを作って、長身のルカを見上げた。
「ぼくに意見するんだ? 何様のつもりなの、ルカ?」
ルカは目をほんの少し見開くだけで、顔色ひとつ変えない。ぼくを見る目はまっすぐだ。理知的な琥珀色の眸は、底に至るまで全く淀んでおらず、澄んでいると言ってもいいほどだった。
なぜ? ねえ、なぜなの。胸のうちがざわざわする。どうしてぼくをそんな目で見るの? 見られるの?
傷つけたくなる。傷ついてしまえばいいのにと思う。
ルカはその場で膝を折った。
「ご無礼をお詫び致します。申し訳ございませんでした。……ですが、この私めにできることがあれば、どうか何なりとお申し付けください」
「……今は、独りにしてくれるかな」
「は。では人払いを致します」
「――お願い」
ぼくはさっさとルカに背を向けた。これ以上長く彼の琥珀の視線に曝されていたくなかった。ぶれることなくぼくを射る、その鋭い視線に。
廊下が薄暗くて良かった。おそらく、ルカはぼくの顔色の悪さには気づかなかったはずだ。足取りがふらつかないよう、様子のおかしさを気取られないよう、気を張りつめて自分の居室へと向かう。
* * * *
その場に残された黒髪の青年は、自らの主の背中が見えなくなると、静かに立ち上がった。そして、自分の両手を開き、なかば呆然とした様子で、そこに目を落とす。
「また、痩せてしまわれていた……」
呟きは廊下の暗がりへと吸い込まれ、青年以外に届くことはない。
* * * *
部屋に辿り着いたぼくは、何枚もの布を仰々しく重ねた服を着たまま、ベッドの上に崩れ落ちた。
胸を押さえる。そこにある強烈な違和感。漠然とした痛み。表現できない種類の苦しみ。それは、一昨日より昨日、昨日より今日と、微弱ながら確実に大きくなっている。そして今日より、明日はきっと酷くなるだろう。
「まだ駄目だ……ぼくは果たさなきゃいけないんだ……」
言い聞かせるように呻く。覚られてはいけない。絶対に、誰にも。
必ずや完遂を、とぼくは何度とも知れない誓いをたてる。もちろん、自分の名において。
やり遂げてみせる。この絶対的な、孤独のなかで。
青とエスケペイド 短編集