青とエスケペイド Escapade with Blue

エスケペイド[escapade]
1.とっぴな冒険、ひどいいたずら
2.(規則・拘束などからの)逸脱、脱線行為

Act.01 青空を二人占め

 茅ヶ崎龍介はクラス一のサボり魔であり、学年一の問題児であり、かつわたしのクラスメイトであり、幼なじみでもある。奴の面倒を見るのは大抵わたしの仕事だ。昔から。

「茅ヶ崎くんはお休みですか」
「いえ、サボりです」

 梅雨入り前の6月のある日。今日も龍介の席には誰も座っていない。
 わたしが間髪入れずに答えると、国語科担当の今野先生はわたしのほうを見て困った顔をした。もともと開いてるんだかどうか分からない目が、眉根を寄せたせいでさらに細くなっている。前が見えているか心配になる。
 今野先生大丈夫ですか。前見えてますか。

「すみませんが呼んできてもらえませんか?」
「はい」

 今野先生は心底申し訳無さそうな表情を浮かべている。この顔を見るのは何回目だろう。生徒に対して過剰に下手に出る必要はないと思うのだけど、定年間近のおじいちゃん先生は優しい性格みたいだった。
 サボり魔を呼んでくるためにわたしは席を立つ。こういうのは学級委員長の役目であり、そうしてその学級委員長はわたしだ。
 教室のドアを閉めるついでに振り返ると、先生はゆらゆらとわずかに揺れながら板書を始めていた。その1/fの揺らぎの魔の手にかかって、早くも生徒が数人机に突っ伏しているのが見えた。


 成績が良いわけでもない、というより底辺層なわたしが学級委員長をしているのは、単に厄介事を押し付けられたからに他ならない。あいつの、龍介の行きそうな場所は大体頭に入っている。今日は晴れているから、おそらく屋上にいるだろう。
 衣替えしたばかりの夏服のスカートをはためかせながら走っていると、途中で担任に呼び止められた。
 担任の桐原先生は6月だというのに黒いスーツを上下ともしっかり着ている。先生が黒以外のスーツを着てるのを見たことが無い。そんなに黒が好きか。暑くないのか。むしろ見てるこっちが暑苦しいわ。

「篠村。今は授業中だが」
「言われなくても知ってますー。先生こそ何してんの?」
「一服」

 先生は内ポケットからタバコの箱を覗かせてみせた。どうやらこれから外に行くつもりらしい。
 禁煙がもてはやされている今、外に出てまで喫煙する教師は希有なんじゃないかと思う。そこまでして吸う価値がタバコにあるんだろうか。無いに決まってる。

「タバコは有害物質の塊なんだって」
「君に言われるまでもなく知っている」
「じゃあなんで吸うわけ」
「大人の事情だ」

 先生が口の端を歪めて皮肉っぽく笑う。どうでもいいけどわたしはこの人が苦手だ。苦手っていうか嫌い。大っ嫌い。

「とにかくわたしは急いでるの」
「また茅ヶ崎探しか。学級委員長も大変だな」
「そうやって他人事みたいに言ってるけど担任にだって責任あるんじゃないですか」
「まあそうだな」

 桐原先生は笑ったままであっさり肯定した。この人のこういう、何を考えているのか全然読めないところが好きになれない。

「君もせいぜい頑張りたまえ」
「うっさい」

 廊下の角を曲がる直前、思いっきりあっかんべーをしてやった。


 結論から言うと、屋上に龍介はいた。
 屋上に繋がる扉を開け放つと、気持ちのよい風が頬を撫でる。こういうのを爽やかな初夏の風って言うんだろうか。詩人みたいだわたし。おお。
 屋上の端っこにはぽつんとソファーが置かれている。何度見ても違和感がある光景だ。たぶん龍介が運んだのだろうけど、そんな根性があるなら授業に出ればいいのに。
 表面が破け、中のスプリングが出かかった古びたソファーの上に、龍介が猫のように身を丸めて眠っていた。近寄って声をかけると、ぼんやりと薄目が開く。

「龍介」
「……なんだよ」
「なんだよって何よ。あんた何やってんの」
「昼寝」
「授業中だけど」
「お前に言われなくても知ってる」
「担任みたいな口の利き方をすんな」

 要領を得ない。仕方ないので龍介のおなかを小突く。

「えい。起きろ」
「いってえ止めろ馬鹿」
「なら起きなさい」

 龍介がしぶしぶといった様子で身を起こした。そういえばなぜかこいつも冬服を着ている。どうして暑苦しい格好してる人ばかりわたしの周りにいるんだろう。
 龍介が長い前髪のあいだから恨めしそうな視線を送ってきた。

「よくも俺の快眠を邪魔したな」
「ねえ前髪切ったら」
「うっせぇ」
「なんでブレザー着てんの」
「どうでもいいだろ」
「暑くないの」
「暑くねーよ」
「教室戻ろうよ」
「やだね」

 やだねって子供か。わたしが口を開こうとするのを手で制して、龍介が面倒くさそうに溜め息をついた。

「あのさ未咲。お前、今野先生の授業ちゃんと聞いてるか? というか、ちゃんと起きてるか?」

 起きてると答えようとして詰まる。全く起きてないことに思い至ったからだ。最初と最後の2、3分くらいしか起きてない。
 弁解しとくと、今野先生の授業中に寝ているのは何もわたしだけじゃない。クラスメイトのほぼ全員が夢の世界に旅立っている。先生の体の微細な揺れが生徒の眠気を誘発しているとしか思えないのだ。初回の授業は衝撃的だった。恐るべし今野催眠。

「ほら見ろ。寝てるなら教室で寝ようが屋上で寝ようが一緒じゃねーか」
「……一緒じゃないわよ」
「何が違う。説明してみろ」
「あのね。そうやって理屈っぽいからモテないのよ」
「お前にだけは言われたくねぇな」
「"だけは"ってどういうことよ」
「そういうことだよ」

 しばらくお互い無言で睨みあう。龍介と顔を合わせるといつもこうだ。口喧嘩ばかりしてしまう。
 不意に疲労感がどっと押し寄せてきて、思わず龍介の隣に腰を下ろした。緑色のスカートの下で古いソファーがぎぃこーと不平を漏らした。

「お前なに座ってんだ」
「なんか疲れたあ」
「は?」
「わたしも授業サボろっかな」
「はあ?」

 龍介が頓狂な声を出す。何秒か唖然として、それから頭を掻いて、呆れたようにまた溜め息を一つ、ついた。

「お前は俺を呼びに来たんじゃねぇのかよ」
「そうだけど、んー疲れたし」
「意味分かんねーなお前……」

 意味はわたしだって分かんない。こんな場所で授業中にひなたぼっこなんかしてちゃいけないだろう。ましてやわたし、学級委員長だし。
 でも天気は良いし、空はきれいだし、雲は美味しそうだし、風は気持ちいいし、なんだかいいやって思った。龍介は毎日こんな気分を独り占めしているのか。それってちょっと、羨ましい。
 今野先生には悪いけど、今回くらいは許してほしい。テストで赤点取っても字が丁寧だとか名前が素敵だって理由で加点する人だから、多目に見てくれると思うんだけど。問題は担任だな。
 青空に向かって両手を突き上げ、うーんと伸びをする。風が制服のリボンをさらう。

「あーあ! また桐原せんせーに怒られるぅ!」
「やっぱり意味分かんねーなお前」

 龍介が今度は声をたてて笑った。
 いい天気だ。

Act.00 ちっぽけで勇敢な哲学

 よお、とぶっきらぼうな声がして、背負っていたランドセルが乱暴に後ろに引かれる。
 次の瞬間に龍介が見たのは、茜に染まりかかった空と雲、そして二人のクラスメイトのにやついた顔だった。
 仰向けのままじっとしている龍介を、二人はひっくり返った昆虫を観察するような目つきで覗きこんでいた。

「あれえーあたまのおかしい龍介くん、今日はひとりで下校してんの?」
「おまえ今日も算数のじかんにすうじに色がついてるとか言ってたよな」
「すうじに色なんてついてないっての。こくばんのは白だし、きょうかしょのも黒しかないっての」
「変なやつー」
「変なやつー」

 囃し立てられても龍介は黙っていた。数字に色が付いていない、と言われても、自分には付いて見えるのだからどうしようもない。

 小学校に上がってからほとんど毎日こんな調子だった。最初の算数の時間にそのきれいな色の数字はなんですか、などと先生に訊ねたのが原因のようだった。担任の先生は困惑したように龍介を見、クラスメイト達は一斉に龍介を見た。皆、奇異の目を向けていた。

 ――龍介くんは、自分には見えないものが見えてるんだ。
 ――龍介くんは、変な子なんだ。

 己に向けられた視線は、そう言っていた。
 龍介はそこで初めて、数字が色んな色に見えているのは、どうやら自分だけらしいと気づいたのだった。

「つーかさおまえさー、なんでずっとウソついてんの?」
「ウソついたら駄目って先生も言ってたじゃん。ウソついたらごめんなさいしなきゃいけないんだよ」
「すうじに色がついて見えるなんてウソでしたごめんなさいって、謝れよ」
「そうだよ謝れよ」
「……嘘じゃないよ」

 そこで初めて、龍介は口を開いた。なぜ本当のことを言って嘘つき呼ばわりされるのか、意味が分からなかった。思い返すと、それは人生で初めて理不尽さを感じた瞬間だったように思う。
 それまでにやにやしていた二人の顔が、さっと怒りに染まった。

「……は? なにくちごたえしてんだおまえ」
「はやく謝ればいいんだよ、謝んないと――」

 一人が足を振り上げた。おなかを蹴られる、と直感して、龍介はぎゅっと目をつぶる。だが、覚悟していた痛みが来る前に、

「こらっあんたたち! 何してんのよ!」

 聞き慣れた声が龍介の耳に届いた。
 ゆっくりとまぶたを開けると、二人はあらぬ方向を見て後退りしているところだった。

「ちぇっ、未咲かよ」
「よかったなおまえ、女子にまもってもらえて」
「女子にまもってもらわないと何にもできない龍介くん、じゃーな」
「じゃーな」

 二人は捨て台詞を吐いてぴゅうっと逃げていった。逃げ足だけは速い二人だ。

「こらーっ、覚えときなさいよー!」

 未咲が二人の背中へ叫ぶ。龍介はその間におもむろに立ち上がって服の砂を払った。ふうと息をつく。
 こちらに歩み寄ってきた未咲の表情は明らかに憤慨していた。

「なんなのよあいつら。体が大きいからっていばっちゃってさ。こんど会ったらぜったいにゆるさないんだから」

 龍介は俯いて足先で小石を蹴った。
 まただ。また、未咲に助けられてしまった。

「ねえ龍介くん、あいつらがまちぶせしてるかもしれないから一緒に帰ろうって言ったじゃん。なんで、先に行っちゃうの?」

 龍介は顔を上げて未咲を見た。既に怒りの色は消えていた。代わりに、心配そうな表情が浮かんでいた。
 どうして一人で帰ろうとしたのか。未咲には関係無いから。これは自分の問題だから。 
 巻き込みたくない、という言葉を、まだその時の龍介は知らなかった。

「だって……僕といたら、未咲ちゃんも変な人だと思われるかもしれないし」

 自分で思っていたより、弱々しい声が出た。
 未咲は小首を傾げて、龍介の左手首を掴む。

「だいじょうぶ。わたし、なに思われたってへいきだし。それに龍介くんはべつに変じゃないって」

 帰ろ、と未咲がにっこり笑って言った。


 それからも、二人のクラスメイトからの嫌がらせは止まらなかった。靴を隠されたり、教科書を破られたり、筆箱を捨てられたりした。大方のクラスメイトは知らぬ素振りを貫いていた。幼稚園の時から一緒に遊んでいた未咲と輝だけが、靴を探したり、教科書のコピーを取ってきたり、ゴミ箱から筆箱を見つけてきてくれたりした。
 担任の先生からも、龍介くんがおかしなことを言って子供たちを困惑させています、といった旨の連絡が親に行ったらしく、気遣わしげな表情の母親から学校はどうなの、とぼんやりした質問を投げかけられた。
 龍介の心の中では、他人に対する不信感が募っていった。信頼できるのは、未咲と輝だけだった。
 ある日、三人は神社の軒先で雨宿りをしていた。神社の境内で遊んでいたら、急に大粒の雨が降ってきたのだ。誰も傘を持っておらず、止むまで待つほかないようだった。
 未咲は板張りの端に座り、むーっと頬を膨らましながら、足をぶらぶらと揺らしていた。輝は興味深そうに雨粒や雨雲を観察し続けていた。龍介は二人の間で、じっと立ち尽くしていた。

「――やっぱり僕って、変な人なのかな」

 無意識に口が動いていた。それはずっと胸の中で渦巻いている疑問だった。
 二人は驚いたように龍介の顔を見やった。

「どうしたの、いきなり」

 輝が目を見張ったのは数瞬のことで、そう優しく訊ねた輝の顔には微笑が浮かんでいる。

「ずうっとかんがえてたんだ。未咲ちゃんと輝くんは僕のこと、変じゃないって言ってくれるけど……。でも僕は、ほかの人には見えてないものが見えるし、僕だけみんなと違う。変わってる……やっぱり変なんだよ、僕は……」

 話すうちに鼻の奥がつんとしてきて、慌てて下を向いた。なんで泣きそうになってるんだ、なんで涙なんか出てくるんだ、と思ったとき、ああ、そうか、自分はずっと悲しかったのだ、と分かった。
 ――なんで、僕だけ。

「違うことって、そんなにだめなことかな?」

 未咲の声に、視界が滲むのも構わず顔を上げる。
 いつの間にか立ち上がっていた未咲が、腕組みをしてうーんと首をひねった。

「龍介くんはすうじが色んな色に見える。輝くんはこくごのきょうかしょを読むのがじょうず。私は走るのがはやいし、けんかもつよい。みんな、ほかの人と違うところがあるんじゃない? それってべつに変なことじゃないとおもうけどな」

 龍介くんが変なら、私だって変だし、輝くんも変ってことになるよ、と未咲は言って、太陽のように暖かく笑った。
 今思えばそれは拙い言葉だったが、龍介は、心に一条の光が射し込んだように感じた。

「――雪のけっしょうは」

 輝が雨空を見上げて口を開いた。土砂降りの中に、一片(ひとひら)の白を探しているように見えた。

「ひとつも同じ形が無いんだって、本で読んだ。あんなに、空から数えきれないほどふってくるのに。ぜんぶ違ってて、ぜんぶきれい」

 今は雨だけどね、とこちらを振り返って輝は苦笑した。

「なんか、僕たちも同じかなぁって」

 輝も、龍介に微笑みかけた。凍ったものを融かすような、柔らかい表情だった。
 龍介は胸に込み上げるものを何と言葉にして良いか分からず、黙ったまま降りやまぬ雨を見上げた。未咲と輝も、龍介に寄り添うように立って、同じように空を見上げていた。


 二人はあの日のことを覚えているだろうか。雨粒が濡らした土の匂いや、雨滴(うてき)が梢の葉を打つ音や、頬を撫でていくひんやりした風の温度を、覚えているだろうか。
 龍介には分からない。ただあの日龍介は、確かに二人に救われたのだ。
 けろりと雨の上がった帰り道、水溜まりには虹が映っていた。

Act.02 予感

 高校に入学してから5日後、俺は担任の桐原先生に呼び出された。


 心当たりは、ありすぎるほどある。
 4日前の学力テストで数学の時間に30分以上寝ていたし、何より、担任の担当教科である数学の授業時間には教科書もノートも筆記具すらも机に出していないのだ。注意されないわけがない。
 担任が変わると呼び出されるのは常だったが、俺はこれまで、釈明をうやむやにしてきた。自分の行動の理由というものを、相手を信頼しなければ説明することはできなかったからだ。相手が教師だとしても、他人を軽々しく信頼する気にはなれなかった。
 昼休み、俺はのそのそと職員室へ向かった。

「来たか茅ヶ崎。こっちだ」

 職員室の中は、電話で話す先生がいたり質問しに来た生徒がいたりでがやがやしている。龍介が名乗って職員室に入ると、入り口から程近い席にいる桐原先生が振り返って声をかけてきた。あまり怒った表情には見えない。
 先生はどうやら食事中だったようで、近づくと手元にあるお弁当が目に入った。彩り豊かで見るからに美味しそうだ。俺の好きなπの色に似ている。奥さんが作ったのだろうか。
 
「美味しそうですね」

 思わず声が漏れていた。
 そうかね、と先生はわずかに首を傾げる。

「まあ、自分で作ったものだから味は知れているがね。相談室に来てほしいんだが、時間は大丈夫か?」

 桐原先生が料理をすることに少し驚きつつ、俺ははい、と返事をした。
 相談室というのは、職員室から繋がった廊下に3つ並んでいる部屋で、全て和室である。入学早々そこで担任に注意を受けた未咲によると、通称『説教部屋』と呼ばれているという。
 これで決まりだな、とうっすら考えながら上履きを脱いで畳に腰を下ろした。

「少々君自身について聞きたいことがあってな」

 先生は俺の正面に座るなりそう言って、A4サイズの紙を何枚か机の上にぱさぱさと置いた。反射的に目を落とすと、一番上にあったのは数学の学力テストの解答用紙だった。もちろん俺のものだ。
 このテストで、俺は完璧な解答をしたと思っていた。呼び出されるほどのミスをしたはずはないのだが。

「君は確か、問題を解いている間消しゴムを机に出していなかっただろう」

 尋ねられて、はい、と答える。それがいけなかったのだろうか。先生の顔へ視線を移すと、ひどく真剣な目に見返された。そして、

「君の解答は、とても美しい」
「……はい?」

 思いがけない言葉が飛んできた。驚く自分とは逆に、先生はいたって真面目な表情である。

「君の解答には全く迷いが無い。最初にゴール地点が分かっていなければ、こんなに完璧な解答はできん。しかも訂正も全くせずに。それに君は開始20分で、これを解き終わっていたのではなかったかね?」

 先生の声の調子のせいで詰問されているように感じるが、どうやら怒られているわけではないらしいのは分かる。
 先生は驚異的だ、とかなんとか呟いて解答用紙を一瞥したあと、またこちらの目を真っ直ぐ見つめた。クールな先生かと思っていたのに、その熱のこもった目に気圧される。

「何か特別な勉強をしてきたのかね」
「いや……独学で勉強しただけです」
「ほう。どのくらいできる」
「大学で使う教科書は何冊か読みました」
「理解できたかね?」
「はい」
「ふむ」

 先生は右手を顎に当て、何か思案事を始めた。気のせいかもしれないが、どことなく楽しんでいるようにも見える。訳が分からないまま、この先生はまだ若いのにずいぶんおじさん臭い話し方をするなあ、などとぼんやり考える。
 すると、

「君」

 急に呼び止められはっとした。

「そのレベルなら、普通の授業を聞く時間も勿体なかろう。君が希望するなら、大学レベルの問題を持ってきてもよいが」

 無意識に、え、と声が出る。
 先生の提案は、正直嬉しかった。でも、自分の今までの生活態度は悪かったし、先生が自分に目をかけ、そこまでしてくれる理由が分からない。しかも、入学してまだ5日目だ。
 気持ちの整理がつかないまま、俺は無意識に口を開いていた。

「どうしてですか」
「ん?」

 先生の片眉が上がる。

「どうしてそこまでしてくれるんですか? 俺は授業も聞かないような生徒だし、先生だって俺のことまだ何も知らないのに……」

 俺はこれまで、他人をほとんど信用してこなかった。心を開いたのは幼馴染みの2人だけと言っていい。自分も相手に関わらないし、相手も自分に関わらない。そういうスタンスだった。なのに、いま先生がこちらにすっと踏み込んでくることが、自分でも不思議なことに全く嫌ではなく、むしろ心地よかった。
 先生は眉根を寄せて呆れたような表情を浮かべ、短く息を吐いた。

「いいかね茅ヶ崎。普通、教師はな、生徒のために何でもしたいと思っているものだ」

 ぽかんとして、先生の顔を見つめる。今まで、そんな関わり方をしてくれる先生はいなかった。

 ――それとも、自分の方が関わるのを避けていただけだったのだろうか? 

 なんとなく、この人を信頼しても良いような気がした。
 自分のことを、話しても良いんじゃないかと感じた。
 言ってみようか。言ってみよう。

「あの、信じてもらえないかもしれないんですが」

 俺は意を決した。

「ん? 何だね」

 先生の黒縁眼鏡の奥の目が少しだけ丸くなる。

「俺……なんというか、数字に色が着いて見えるんです。円周率とかも、すごくきれいな色に見えるんです。そういうきれいな数字を見たくて、数学を勉強してきたんです」

 数字に色が見えることを話してきた人の顔が甦る。困ったように曖昧な微笑みを返してきた人もいれば、異物に遭遇したと言わんばかりに顔をしかめる人もいた。ふーん、そうなんだ、とすんなり受けとめてくれたのは未咲と輝だけだった。
 どんな反応が返ってくるか。両膝の上で拳を握りしめた。

「なるほどな」

 嘆息するような言葉に、はっと顔をあげる。
 先生は合点がいったとばかりに、何度か小さく頷いた。

「円周率にきれいな色が着いて見えるのか。羨ましいものだ」
「……信じるんですか?」
「? 信じるも何もないだろう。嘘なのかね」
「いえ……」

 桐原先生はそこで、ほんの少しだけ愉快そうに微笑んだ。5日間で初めて見た先生の笑顔だった。
 それは冷徹なイメージが覆るくらいの、優しい笑顔だった。

「音に色を感じるとか、そういうのを共感覚というんだ。君のも多分それだろう。素晴らしいじゃないか」
「そう……ですかね」
「違いない」

 先生は机の上の紙をとんとんと揃えて、

「では、来週からプリントを準備してくる形で良いな? 話というのはこれで以上だが、君から何か聞きたいことはあるかね?」
「いえ……あ」
「ん?」
「あの……また話しに来てもいいですか」

 今度は先生が声をあげて笑った。

「勿論だ。私でよければ」

* * * *

 教室へ戻ると、未咲がにやにやしながら待ち受けていた。机に座ったまま、人を小馬鹿にしたように下から顔を覗いてくる。

「で~? 龍介は何説教されたわけ? わたしが説教食らってあんたが何も言われないわけが……あれ?」

 未咲の表情がにやけ顔から真顔、怪訝な顔へみるみる変わってゆく。

「なんかあんた……清々しい顔してない? なになに? 何があったわけ? ちょっと、話しなさいよ」
「話さねーよ」
「はあ? 何それ? 龍介のくせに何言ってんのよ」
「話さないって言ってんだろ」

 いきりたつ未咲に、思いっきり笑顔を向けてやった。未咲は相当混乱するだろう。いい気味だ。
 高校生活、少し楽しくなるかもな、と俺はほんのり思った。

Act.03 君との距離

 時の流れとともに、季節は移ろう。花は散り、緑は色づき、やがて樹から離れる。
 人も変わりゆく。一人一人も、その関係も。


 放課後。
 高校に入学し、初めての中間テストを軽い緊張とともに受け、その結果に一喜一憂したのも過日のこと。新入生も毎日の生活に慣れ、ある者は部活に精を出し、ある者はバンド活動に熱中し始め、ある者は上級生の異性に熱を上げだす。そんな時期だ。
 龍介はといえば、部活にも入っていない。バンドを組んだわけもない。ましてや好きな先輩などいない。授業が終わると図書室に直行し、数学関連の書籍を探し、閉館時間まで数学の問題に一人取り組むという生活を送っていた。
 図書室というと、小中のイメージからあまり良い印象を持っていなかった龍介だが、この高校の図書室を見て認識を改めた。図書室の中は広々として明るく清潔感があり、漫画コーナーや新刊コーナーがあってタイトル数も充実している。何より居心地がいいのである。試験前には人で溢れかえるが、今は座席に困ることもない。
 龍介が図書室に籠っている頃、幼なじみの二人は当たり前のように部活に励んでいる。未咲は中学から続けている陸上部で、輝は写真部と新聞部を兼部しているらしい。取材をしに行くのか、カメラを手にした輝が教室を出ていくのを時々見かける。
 ゴールデンウィーク頃までは三人そろって帰ることもあったのに、最近ではめっきり少なくなった。一人で電車に乗っていると、降車駅までの時間がやたら長く感じられる。
 今日も図書室に行こうかと考えながら、必要な教科書やノートを鞄に詰めていると、筆記具やカメラを携えた輝が通りかかった。その横顔に声をかける。

「よう輝。取材かなんかか?」

 輝が振り向いて、人好きのする笑みを浮かべる。

「うん。これからインタビューしに行くんだ」
「部活、そんなに忙しいのか? 文化部の活動って週一とかじゃねーの?」
「僕の場合、兼部してるからね。それに、全体の活動の他に個人でも色々仕事があるから」
「ふうん……」

 中学も幽霊部員だった龍介には、部活での個人の仕事がどんなものかぴんとこない。

「龍介も何か部活やればいいのに。この高校、なかなか面白い部活たくさんあるみたいだよ。冒険部とか三味線部とか」
「例に挙げるのなんかおかしくね?」
「あはは、いや、それは冗談だけど。でも部活に入って、他のクラスの同級生とか上級生と知り合いになるのは悪いことじゃないんじゃない?」
「興味もねぇ部活に入ってわけの分からん奴らとわけの分からんことをするくらいなら、一人で黙々と数学の問題に向き合ってた方が数十倍ましだ」

 龍介が憤然と答えると、輝はちょっと悲しそうな顔をした。

「ああ、そういえば」

 と、気を取り直したように言う。
 その次の言葉が爆弾だった。

「未咲に好きな人ができたみたいだけど、龍介は知ってる?」
「――え」

 なんだそりゃ。知らない。
 二の句が継げなかった。
 そういえば最近、未咲が妙に浮かれていたように思う。あれはそのせいだったのだろうか。少なからず動揺している自分に気付いて、龍介は自身に腹が立った。

「知らねえ。確かなのか?」
「おそらくね。相手は多分……」
「ちょ、ちょっと待て、相手も分かってんの?」

 どうして輝がそんなに詳しいのだ。
 龍介は軽く冷や汗をかいてきた。

「うん。多分、この高校の今の生徒会長だよ。名前は九条悟(くじょうさとる)」
「生徒会長? なんでそんなのと未咲が……どういう接点だよ」
「未咲は学級長だからね。生徒会で当然顔は合わせるだろうね」

 輝が苦笑とともに答える。
 そういえばそうだった。未咲が生徒会員だということをすっかり忘れていた。
 しかし、生徒会長とは――恐れ入る。

「そうそう、これからその生徒会長にインタビューしに行くところなんだけど、よかったら龍介も来る?」

 なんだと。
 思わず頷きかけて、慌てて首を横に振る。

「――いや、部外者が着いてったらおかしいだろ……」
「じゃあ、龍介に書記役をお願いしようかな。役割があれば大丈夫でしょ」

 にっこりと底の知れない笑顔を作って、輝がテープレコーダーと筆記具を龍介に差し出した。


 インタビューの場は、人のいない特別教室だった。龍介が輝の後から教室に入ると、一人の生徒が椅子からさっと立ち上がってこちらを見た。
 うわ、と声が漏れそうになる。生徒会長というとガチガチの真面目な生徒を想像していたが、悟はそういうタイプではなかった。制服は規定どおりきっちりと着ているものの、口元には柔らかな笑みが浮かび、しなやかな身のこなしは運動神経のよさを感じさせた。好青年を絵に描いたような人間だ。そして背が高い。180cm近くあるだろう。
 輝が悟に向かって頭を下げる。

「お待たせしてすみません、九条先輩」
「大丈夫だよ。今日はよろしく」

 快活な声で言い、悟は五月の快晴の空のように爽やかな笑みを浮かべた。うっと龍介の息が詰まる。自分とは絶対に相容れない類いの人間だと思った。
 悟が龍介の方を見て少し不思議そうな表情をする。

「あれ? 一人だと聞いていたけど……」
「あ、こちらは僕の友人の茅ヶ崎龍介くんです。書記役をお願いしました」 

 龍介は無言で会釈した。

「あ、なるほど。君もよろしくね。二人とも一年生かな?」
「はい」
「高校にはもう慣れた?」

 そうですね、と輝が答える。
 どうやら悟は人と話すのが好きな質(たち)のようだ。初対面の相手と笑顔で言葉を交わすなど、龍介には到底できない芸当だ。
 悟は嬉しそうな様子でうんうんと頷いている。

「そうか、それは良かった。二人は何の部活に入ってるの?」
「僕は新聞部と写真部に」
「……俺は、何も」

 そう言うが早いか、悟が龍介の方に笑顔を向けた。白い歯が眩しい。

「そうなんだ、じゃあバスケ部入らない? 俺バスケ部員なんだけど、もう何人か新入生入ってほしくて……って、俺が話してたら意味ないよな。ごめんね」

 ばつが悪そうな顔もまた爽やかである。輝はにこにこしたまま、いえ、大丈夫ですよ、などと言葉をかけ、悟に腰を下ろすよう促す。
 二人ともよくそんな愛想よく会話ができるな、と龍介は傍観者のように考えていた。

「それじゃあ、本題に移ろうか。文化祭のことについて聞きたいということだったよね」
「はい。早速ですが、今年の文化祭のテーマについて何かお考えは――」

 龍介は無言でテープレコーダーのスイッチを入れた。



「――それでは、ありがとうございました」
「こちらこそ。いい記事になるのを祈ってるよ」
「ありがとうございます」
「じゃあ、編集頑張ってね。それから茅ヶ崎くん、バスケ部の話、よかったら考えておいて」

 インタビュー後、朗らかに言って、悟は龍介に握手を求めた。バスケ部になど入るつもりは毛頭無かったが、先輩の求めなので無下にするわけにもいかず、はあ、と気の無い返事をしつつ龍介はその手を取った。
 じゃあ、と軽く残して、悟は颯爽と踵を返す。その姿が遠くなってから、

「さすが生徒会長九条悟、去り際まで爽やかだね」

 輝の口調はしみじみとしていた。

「……なんか、むかつくくらいイケメンだな」
「あれ、顔知らなかった? 僕らの入学式でも挨拶してたじゃない」
「寝てた」
「ああ……そっか」
「ああいう奴はな、腹の底では黒いこと考えてんだぜ。絶対ぇそうに決まってるって」

 輝が堪(こら)えきれないといった風に吹き出す。

「……何が面白いんだよ」
「龍介、僻みすぎ」
「別に僻んでねーよ。あれで裏が無かったらそれこそ聖人君子みたいじゃねえか。ありえねえだろそんな奴」
「まあまあ、邪推は止そうよ。それより、未咲の相手としてはどう思った?」

 輝が龍介の目をまともに見た。その瞳が好奇心の光を宿している。

「……未咲には釣り合わない」

 正直な感想だった。輝があははとさも可笑しそうに笑い声をあげる。

「……んだよ。だってそうだろうが」
「いや、僕も全く同じ感想だったから」

 笑顔でしれっとひどいことを言う奴だ。

「未咲には龍介くらいがぴったりだと思うけどねー」
「なんで俺なんだよ。つうか、くらいって何だよくらいって」
「あはは」

 誤魔化された。
 龍介が抗議の声を上げようとしたところで、不意にでもさ、と輝が呟き、真面目な表情でこちらを見る。

「このまま、未咲と生徒会長が付き合うことになるかもしれないよ。それでも、龍介はいいの?」
「……いいも何も、なんで俺が関係あるんだよ。未咲が誰と付き合おうが、それは未咲の勝手だろ」
「そうかなあ、後悔するんじゃない? 絶対後悔すると思うけどなあ」
「後悔なんてしねーよ」

 輝はどうも昔から龍介と未咲をくっつけたがっているようだが、龍介にとって未咲は幼なじみであり、それ以上でもそれ未満でもない。はずだ。未咲もおそらく同じだろう。
 二人は鞄を取りに一旦教室まで戻り、昇降口に向かった。階段から一階廊下に降りるところで、女子生徒と鉢合わせになる。未咲だった。
 未咲がぱっと顔を輝かせる。

「あれっ、輝じゃん! ……と、龍介。こんな時間までどうしたの?」
「さっきまで生徒会長にインタビューしてたんだ。龍介にも手伝ってもらって」

 生徒会長、という単語が輝の口から出たとたん、未咲の目の色が変わった。喜色満面というのはこういう顔をいうのだろう。
 龍介の心がなぜかちくりと痛む。

「うそー! 龍介の代わりにわたしが行きたかったー! 今まで部活だったけど! ……ってあれ? なんか龍介元気なくない?」
「うん、現在進行形で失恋中」
「え!」

 未咲が目を丸くする。

「ちげーよ馬鹿なに言ってんだ」
「ちょっとちょっと、龍介好きな人いるのー? だれだれ? 同じクラスの子?」
「うるせーな、違うって言ってんだろ!」

 自分でも驚くくらい、大きな声が出た。
 未咲がぎゅっと口をつぐみ、身を引くようにして龍介を見る。

「な……なによ、別にそんな怒鳴らなくてもいいでしょ。龍介ってほんと意味分かんない。行こ輝」

 未咲が背を向けてさっさと歩き出した。輝は肩をすくめて龍介を見る。やっちゃったね、と言いたげな顔だ。
 そんな顔されなくても分かる。今のは良くなかった。自己嫌悪に陥りつつ、前を行く二人をとぼとぼと追いかける。一緒に帰っていいものか、未咲の様子からは判断しかねた。
 その時、右手の職員室の扉が開いて、男性教師が出てくる。反射的に顔を見ると、担任の桐原先生だった。今日はよく人と出くわす日だ。
 目礼して通りすぎようとしたが、ちょうどよかった、茅ヶ崎、と声をかけられて先生に向き直る。

「この前配布した進路調査票のことなんだがな。提出期限が明日になっている。そして実は、私のクラスで提出していないのは君だけだ」
「……ああ」

 今思い出した、わけではない。調査票はずっと、制服のポケットにしまわれている。
 この高校は進学校ゆえ、文理選択の時期が早い。一年生のこの時期にそんな重要な選択を迫られるとは、龍介は思ってもいなかった。
 それに加え調査票には、私大、国公立大、専門学校のいずれかに丸をつけるところがあり、学校名を書く欄が設けてある。龍介は進路について何も考えておらず、そこに手をつけられる気がしなかった。渡されたその日に理系に丸をつけたものの、提出できずにいたのはそのせいだ。

「すいません、理系に進もうとは思ってるんですけど、志望校とか全然考えてなくて……」

 先生がふっと表情を弛める。

「それで大丈夫だ。今回は文理どちらなのかだけで構わない。それも決定ではないしな。来年のクラス編成に関わるから、ある程度の傾向を知りたいだけだ」
「――そうなんですか」
「この時期に全員の志望校なり進路なりが決まっているとは教師も思っていないよ。それらについてはまた機会があるとき話そう」

 龍介はこくりと頷いた。少し胸のつっかえが取れたように思えた。進路調査票のことで、実をいうと少し悶々としていたのだ。
 心に幾ばくかの余裕を取り戻した龍介は、はたと気づく。そういえば、桐原先生と悟の背格好は似ている。先生の方がわずかに身長も高く、肩幅もあるが。
 バスケ部に入らない? と問う悟の声が耳に甦る。
 スポーツをやっていると、背が伸びるだろうか。

「あの」
「ん?」
「先生は、何かスポーツやってましたか」

 先生は怪訝な顔をした。

「どうした、唐突に」
「いや、ちょっと、気になって」
「そうだな……」

 少々の間を置いて、

「スポーツというか……武道のようなものを、昔な」

 先生が答えた。

* * * *

 廊下で話す龍介と桐原先生を、曲がり角から未咲と輝がこっそりと見る。

「担任と話すときの龍介ってなーんかいつもと違うよねー。素直っていうかさ」

 未咲は心底面白くなさそうな顔だ。

「桐原先生って他の先生と違う雰囲気あるよね」
「そう! あんな性格悪い奴見たことないし!」
「そういうことじゃなくて、どことなく浮世離れしてるっていうか……本心が掴めない感じ。眼鏡だってたぶん伊達だし」

 未咲が驚きの表情を浮かべて輝の方を振り返る。

「え、分かるの?」
「うん、顔を斜めから見たとき輪郭が歪んでないでしょ? 度が入ってるなら歪むはず……あ、先生は昔武道をやってたらしい」
「え、分かるの?」

 輝たちがいるところからは、二人の会話はほとんど聞き取れない。未咲が驚くのも無理はない。

「うん。読唇術が使えれば簡単」
「えっ輝、心が読めるの!?」
「心じゃなくて、唇の方の読唇術ね」
「なーんだそっかー」

 すんなり納得した未咲に対し、疑問を持つことを知らないんだなあ、と輝は苦笑を漏らした。

* * * *

 結局、輝と未咲と同じ電車に乗り込んだものの、龍介はずっと上の空だった。二人の会話も全然覚えていない。気づいたら自宅の玄関の前にいたような有り様だ。
 家に入ると、母親の涼子が鼻歌を歌いながらキッチンに立っていた。帰宅した龍介を認めて、おかえり龍ちゃん、と歌うように言う。

「……ただいま」

 涼子は憂うべきことなどこの世にない、といった泰然自若の体で夕食作りに勤(いそ)しんでいた。その横を通りすぎて二階の自分の部屋へ。
 ドアを閉めるか閉めないかのうちに、龍介は適当に鞄を投げ出した。そしてベッドに倒れこむように横になる。ふーっと息を吐き出す。
 ――疲れたな。   
 胸の内側がもやもやする。これを何と呼ぶのか龍介は知らない。分からない。誰か、教えてほしい。
 目を閉じると、二人の幼なじみの顔が浮かんでくる。輝の口が蠢いて、"後悔するんじゃない?"と言葉を発した。

「後悔なんて、しねえよ……」

 幼なじみということを抜きにしたら、自分は、未咲のことをどう思っているのか。改めて考えると分からない。
 本当に分からないのだ。自分自身のことなのに。情けなくて泣きたくなる。
 目を開ける。二人の顔を遮るように、ポケットから進路調査票を取り出して翳す。理系に丸がついている。私大、国公立大、専門学校、学校名(   )。それらは渡された時のままの状態だ。
 自分は理系に進むつもりだが、未咲と輝はたぶん文系だろう。これまでずっと同じクラスだったが、来年からは確実に別々になる。ずっと三人一緒ではいられないのだ。
 それに、ずっと同じ関係でもいられない。いつか、必ず離ればなれになる日が来る。

「あー……くそっ」

 調査票を放り出し、頭を抱えてベッドの上で丸くなった。
 将来のことなんて考えたくない。
 自分は何がしたいのだろうか。分からない。
 自分に何ができるのだろうか。それも分からない。
 分からない。分からない。分からない。
 自分には何が分かるというのだろう?
 鬱々と考え込みそうになって、無意識に舌打ちをする。

「今の自分のことも分かんねえのに、未来の自分のことなんて分かるかよ……」

 龍介は人知れず呻いた。


 昨日と同じような一日が終わって、生徒が待ち望んだ放課後が来る。部活に急ぐ者、下校する者、皆その顔は明るい。
 どうしてみんな、そんな平気な顔をして毎日を過ごせるのだろうか。悩みなど持っていないのだろうか。
 龍介はぼんやりした頭をやり過ごしつつ、鞄に必要なものを移す。昨晩はよく眠れなかった。授業中はいつも以上に眠ってしまった。悪夢を見たような気もする。
 龍介のその日がいつもと違う日になったのは、未咲が話しかけてきたからだった。

「龍介」
「あ?」
「あ? って、あんたね……その返事感じ悪いから止めなさいよ」
「うるせーな。お前は俺の母親かっつーの」
「あのね、いちいち突っかかってくるの止めてくれる? まあそれはどうでもよくって、ちょっと付き合ってほしいんだけど」

 龍介は少しまごついた。昨日あんな話をしたせいだ。

「……何びっくりしてるわけ? ちょっと買い物付き合ってほしいって言ってんの」
「……ああ」

 買い物か。ほんのちょっとでもどきりとしてしまった自分を蹴り飛ばしたい。
 未咲が龍介を連れて向かったのは、高校から程近いところにある雑貨屋だった。ガラス用品や文房具やアクセサリー、プレゼントに使えそうなものから変わり種の置物まで、しゃれたものなら大体揃う。ちなみに龍介はここで買い物をしたことなどない。

「何買うか知らねーけど、なんで俺連れてきたんだよ」
「男の人がどんなもの貰ったら喜ぶか、教えてほしいのよ」

 そう言う未咲の頬は、ほんのりと朱に染まっていた。
 ははあ、と思う。

「生徒会長にプレゼントでもあげんのか」
「ちょっ、余計な詮索は止めてよね!」

 未咲の頬が今度は怒りで朱に染まる。
 めんどくせえ奴だな、と龍介は嘆息した。



「あ! 見て龍介、これ可愛くない? これも可愛いし、これすごい綺麗! あーあそこにあるのも可愛いなー」

 店内をうろうろしながら品物を見繕ううち、未咲は自分の世界に入り込んでしまったようだ。プレゼント選びそっちのけである。何しにきたんだよ、と龍介は呆れるしかなかった。
 それにしても――と思いながら、未咲が先ほど可愛いと言っていたカエルの置物を手に取る。そのカエルはなぜか燕尾服を来ていて、パイプをふかしている。龍介には妙ちくりんで変なカエルだとしか思われない。未咲の趣味は割と変わっているようだ。
 品物を見て回る嬉しそうな未咲の横顔を眺めているうち、なんとなく胸の内が温かくなってきた。こそばゆいような、不思議な感情が湧いてくる。これはなんだろう。

「……何か買ってやろうか」

 無意識に、そう口にしていた。
 未咲が怪しむような顔をする。

「は? なんであんたが、わたしに物を買うのよ」
「悪ィのかよ」
「……ま、あんたがどうしてもって言うなら、貰ってあげてもいいけど?」 

 口を尖らせてぷいと顔を逸らしながら言う。不機嫌なのか、照れ隠しなのか、はっきりしない。
 本当にめんどくせえ。


 未咲が購入したのは、ふたを開けるとペン立ての形状になるペンケースだった。学校でも使えるようなものが良いだろう、との思いで龍介が選んだのだった。
 龍介はもう帰ろうと思っていたが、未咲はこれから部活に行くそうだ。ご苦労なことである。
 雑貨屋と駅は反対方向なので、必然的に途中まで未咲と一緒に歩くことになった。二人並んで歩くのはかなり久しぶりな気がする。未咲は今にスキップでも始めそうな軽い足取りだ。
 龍介は何気なく未咲のつむじを見下ろした。昔のことを思い出す。幼い頃は未咲の方が背が高かったのに、いつしか龍介の背が未咲を追い越し、今やかなり身長差がついている。身長とともに、二人の関係にも距離が開いてきたと思う。小さい時はそれなりに仲が良かったはずなのに、今では喧嘩腰でしか会話をすることができない。いつからこうなってしまったのか。

「何感傷に浸ってんの」

 校門へ続く小道の前に差しかかると、未咲がこちらを振り返った。別に、と言葉を濁したまま、しばし龍介は未咲と向かい合った。

「未咲」
「なに」

 言いたいことはたくさんある気がしたが、言葉は何も浮かんでこなかった。

「……上手くいくといいな」
「余計なお世話」

 吐き捨てて、未咲は足早に校門へと向かっていった。
 また距離が遠退いて、手の届かない場所へ行ってしまうのだろう。龍介はしばらく、その場を動くことができなかった。

Act.04 秘密

 月は、常に同じ方向を地球に向けているという。地球から月を見ている人間は、月の裏の顔を知ることは決してできない。
 月だけでなく、人も、ひょっとしたらこの世の中も、同じようなものなのかもしれない。



「茅ヶ崎。話がある」

 数学の授業が終わったあと、そう桐原先生に切り出され、彼の顔を見た龍介は少し驚いた。
 先生がひどく深刻そうな、険しい表情を浮かべていたからだ。

「なんですか、話って」
「……ここではできない話なんだ」

 二人の周りを、賑々しく生徒たちが通りすぎてゆく。
 先生は苦虫を噛み潰したような渋い顔をしている。彼にしては珍しく、歯切れが悪い。

「君、放課後の予定はあるかね」
「いえ」
「そうか。……すまんが私の家まで来てくれないか?」

 龍介は先生の眼鏡の奥を見つめた。真剣な眼差しがそこにあった。虫の知らせと言うべきか、なんだか嫌な予感がしたが、予定がないといった手前、行かないわけにはいかなかった。


 放課後、校舎の周りには既に夕闇が迫っていた。カラスが一羽、二階教室の欄干に止まって、じっとこちらを窺うように見ていた。
 その視線を振り切るようにして、龍介は先生の黒いセダンに乗り込んだ。いつも不敵な雰囲気を纏っている先生は、切羽詰まったような、思い詰めたような、余裕のない表情をしている。龍介の心中は穏やかではなかった。
 先生が運転するセダンは、学校から20分ほどの場所に立つ、新しそうなマンションの駐車場へと導かれるように進んでいく。そのマンションは小綺麗だがおしゃれすぎるということはなく、どちらかというとシンプルで機能美というものを感じさせる造りをしていた。
 小中高を通じて、先生の家へ上がるのは初めての経験だった。先生も自分と同じように普通に生活してるんだな、と妙な感慨にふける。
 駐車場からエレベーターに乗り、先生の部屋へ向かうあいだ、先生は無言を貫いていた。龍介も何を話していいやら分からず、二人とも黙りこんでいた。
 先生がカードキーでドアを開けると、淡いクリーム色の壁が目に入った。小さめの傘立てと靴箱が置いてある玄関から、短い廊下が続いている。そして驚いたことに、部屋の中には先客がいた。三和土(たたき)からフローリングに上がったすぐのところに、長身の、燃えるような赤毛をした欧米人らしき男が立っていた。年の頃は20代後半といったところか。整った顔には薄く笑いが貼り付いている。黒いジャケットに鮮やかな紫色のシャツを着て、胸元にはクロスのネックレスが覗いていた。
 派手な人だな、と龍介は思った。桐原先生とは正反対だ。

「来てもらったぞ」

 先生は男がそこにいるのが当然といった様子で声をかけた。
 赤毛の男はすい、と視線をこちらに寄越し、

「君が茅ヶ崎龍介くん?」

 微笑んだまま、流暢な日本語でそう訊いた。


 マンションの間取りは1LDKで、一つ一つの部屋が広々としており、どの部屋もほとんど生活感を感じさせないほど整理されていた。龍介はダイニングの4人掛けのテーブルに就くよう促された。桐原先生は、腹が減ったろう、あり合わせのものしかできんが何か作ろう、と言ってキッチンへ消えていった。放課後、先生の仕事が終わるまでしばらく待っていたから、時刻はもう7時を回っていた。
 龍介が椅子に腰掛けると、赤毛の男が正面に座って正対する形になった。担任の先生の部屋で、なぜか見知らぬ外国人と向かい合うという状況に置かれている。非常に気まずい。部屋に余計なものが無いことが、居心地の悪さに拍車をかけている気がした。
 目の前の男は端整な容貌を持っていたが、それよりも、血のように強烈な赤色をした虹彩と髪とが目について仕方なかった。男は口の端に微笑を浮かべ、その深い赤をたたえた瞳で龍介をじっと見ていた。
 油断してはならない。この男に心を許してはいけない。龍介の頭のどこかでそんな声がした。

「あのう」

 自分でもびっくりするくらい不機嫌な声が出る。

「あなた誰ですか」
「ん? そうだな、誰だと訊かれたら答えないわけにはいかないな。俺はヴェルナー・シェーンヴォルフ。呼ぶときは気楽に、ヴェルナーでいいよ」

 謎の外国人はにやりと笑う。長ったらしい名前を知れたところで、疑問は何も解決しない。

「そういうことじゃなくて……何者なんですか、あなたは。桐原先生の知り合いですか」
「んー、まあそうだねぇ、あいつの昔の友人てところかな?」

 ヴェルナーと名乗った男は飄々と笑って、椅子の背もたれに腕をかけた。かなり偉そうな格好となる。

「しかし錦が今や学校の先生とはねえ。人生何があるか分かんねぇもんだな。君もそう思わないかい?」

 ヴェルナーは含み笑いを漏らしながら龍介の目を見た。思わないかい、と投げかけられても、龍介には思わない、としか答えようがない。桐原先生が先生である姿しか見たことがないのだから。
 先生を下の名前で呼ぶところを見ると、この人はかなり先生と親しいのかもしれない。生真面目な先生と軽薄そうなこの外国人、一体どんな接点があったのか想像もつかない。
 龍介が黙っていると、ヴェルナーが短く嘆息した。

「あのさ君……なんか俺のこと警戒してるみたいだけど、別にとって食ったりしないから。はいリラックスしてリラックス。人生にはリラックスが一番重要だぜ」

 本気とも冗談ともとれない台詞のあと、ヴェルナーはうーんと伸びをして腹減ったなあと呟いた。
 そうこうしているうちに、キッチンから桐原先生が戻ってきた。両手に炒飯が盛り付けられた丸皿を持っている。先生が紺色のエプロンを身に付けていたので、龍介は面食らった。学生が調理実習で着るような、いかにもエプロンといった形のエプロンである。それがいやに似合っていて、思わずまじまじと先生を見てしまう。

「口に合うか分からんが、よかったら食べたまえ。……何かおかしいかね、茅ヶ崎」
「い、いえ」

 丸皿は龍介とヴェルナーの前へと置かれた。先生自身は食べないらしい。皿の上の炒飯はほかほかと美味しそうな湯気をたてている。
 ヴェルナーが先生に向かっておい錦、と呼びかけた。

「なあ、このお坊っちゃん、お前の若ぇ頃にそっくりじゃねーか。驚いたなー、息子か?」

 ヴェルナーの愉快そうな笑い声に対し、先生は不愉快そうに顔をしかめる。

「馬鹿を言うな、そんなわけないだろう。彼を何歳だと思っている。御託はいいからさっさと食え」

 ヴェルナーはじゃあいただきまーす、と能天気に言い、遠慮なく炒飯を口へ運び始めた。

「君も食べたら? 錦の料理うまいよ」
「……いただきます」

 やや逡巡してから、スプーンですくって、口に入れる。途端に香ばしい薫りが鼻腔にに広がった。ご飯はぱらぱら、卵はふわふわで、細かく刻まれてほどよく甘い玉ねぎがしゃきしゃきと音をたてた。

「……おいしいです」
「でしょー?」

 なぜかヴェルナーが誇らしげに微笑んだ。それを、エプロンを脱いでヴェルナーの隣に座った桐原先生が呆れ返った表情をして見る。

「ヴェル、貴様はもう少し遠慮というものを覚えろ」
「えー今さらなんでよ? 料理作ってくれるようになってから何日も経ってるじゃん。それに、俺とお前の仲なんだから遠慮なんていらんだろ?」
「あのな、貴様は居候としての自覚が足りんのだ。少しくらい申し訳なさそうにせんかこのたわけが」

 先生はヴェルナーに向かってくどくどと何ごとか言い出した。大体貴様は昔から云々、いい加減に精神構造を云々、そういった説教めいたことをヴェルナーはもりもり食べながらへいへいと適当に聞き流していた。
 なんか母親みたいだなと龍介は思った。

「あの、ところで話って」

 それまでこんこんとヴェルナーに小言を言い聞かせていた先生が、はたとこちらを見る。途端に表情が曇り、目に陰が射す。

「ああ、そのことだが。この男から、話してもらう」
「そうですか。あの」

 龍介が促そうとすると、ヴェルナーは手で制止するような動作を見せ、まあ待ちなさいお坊っちゃん、と芝居がかった調子で言った。

「そう慌てなさんなって。まずは空いた腹を満たすのが先決だ。日本には"腹が満たされざる者喋るべからず"という金言があるだろう?」
「ありません」
「あ、そう?」

 ヴェルナーは人を食った笑みを浮かべ、炒飯を食べる作業を再開した。龍介も仕方なくスプーンを動かす。
 その間、桐原先生は沈痛さと憐憫が入り混ざったような複雑な視線を龍介に向けていた。龍介の心はざわつく。胸が騒ぐというのは、こういうことをいうのだろう。

「さてと、じゃあ本題に入ろうか」

 龍介が食べ終わるのを見計らって、先に皿を空にしていたヴェルナーが切り出した。テーブルに両肘をつき、顔の前で指を組む。ヴェルナーの赤い視線が龍介を射抜いた。

「単刀直入に言うとだね、シュウスケくん」
「龍介だ」

 言い間違いに横から即座に訂正が入る。

「あー失敬、どうも男の名前を覚えるのは苦手でね。で、龍介くん」

 ヴェルナーが僅かに目を細めた。一呼吸置いてから口を開く。

「単刀直入に言う。君は、命を狙われている可能性がある」

 その言葉の響きは、冷たかった。
 一瞬、何を言われたか理解できなかった。脳の奥までその言葉が辿り着くまで数瞬を要した。言葉を反芻する。
 いのちをねらわれているかのうせいがある。
 命を、狙われている。
 誰かが、自分を、殺そうとしている。

 ひどく、現実感の無い話だ。

「……心当たりがありません。人違いじゃないですか」

 龍介はきっぱりと告げた。
 それを聞いて、ヴェルナーが虚を突かれたような顔をする。

「あれれ、あんまり驚かないねえ」
「だって俺、そこまで人に恨まれるようなことなんかしてないですよ。命を狙われるなんて……あり得ない」

 そこでちらりと先生の方を見る。あまりにも荒唐無稽だと感じた。こんな話は止めさせてほしかった。
 しかし、そこにあったのはこちらを見返す真剣な瞳だった。
 ーーえ、本気かよ。

「人違いなんかじゃないさ。確かに君は今のところ何もしちゃいないが、君が将来やり遂げることで不利益を被る奴らがいる。そいつらに狙われかねないってわけ」

 ヴェルナーが噛んで含めるように言う。引っ掛かりを覚える言い方だ。さも未来のことが分かっているような言い種(ぐさ)ではないか。

「なんで、これから俺がやることが分かってるみたいな言い方をするんですか」
「分かってるみたいな、というか、実際分かってるんだけどねえ。まあ、一つ一つ説明していこう。君が知らない世界のことだよ」

 意味深な台詞のあと、ヴェルナーがウインクをした。そして思案げに腕を組み、心持ち視線を上の方にやる。
 
「まず何から話すべきかなあ……予見のことから話した方がいいかな」
「よけん?」

 聞き慣れない言葉だ。
 そ、とヴェルナーが軽く肯定して、滔々と説明を始めた。
 彼曰く。未来と現在は方程式の左辺と右辺のように、一対一で対応しているものである。左辺が現在、右辺が未来とすると、現在の構成要素を全て挙げることができれば、方程式の解を求めるがごとく、おのずと未来が見えてくる。
 未来は、予め知ることができる。それを俺たちは予見と呼んでいる、とヴェルナーは言った。
 いきなり突拍子もない話をされて龍介は面食らった。しかしどうやら、超常現象の類いについて話しているわけではないらしい。どちらかといえば科学的な内容に感じた。確かに理屈は通っている気はする。
 ヴェルナーはその先を続けた。

「ただし、未来を予見すると口で言うのは簡単だが、実際のところはかなり困難だ。現在の構成要素なんてそれこそ数えきれないほどあるからな。機械で計算しようにも、未来像が導き出される前に未来が来ちまうだろう。んで、ここで情報の取捨選択に長けた人間の登場ってわけだ」

 ヴェルナーの口は滑らかだ。

「豊富な知識と、類い稀(まれ)な記憶力と、そしてこれが一番重要なんだがーー第六感ともいえる直感を持ち合わせた人間がいる。そいつらは未来をある確率で予想することができる。俺たちは予見士と呼んでるがね。そいつらが君の未来を見たってわけ。ここまではいいかい」

 いや、と龍介はヴェルナーの話を遮った。

「ちょっと待てよ。その予見士って奴は、スーパーコンピューターよりも計算が速いってのか? 化け物かよ。そんなん信じられねえ」
「計算してるわけじゃないよ。見えるんだよ」「なんだそれ。ますます納得できねえって」
「んなこと言われたってできるもんはできるんだから仕方ねえだろ」

 ヴェルナーは子供がするように口を尖らせて言う。
 でも、と龍介がなお食い下がろうとすると、それまで口を閉ざしていた桐原先生に、茅ヶ崎、と呼び止められた。先生の目は真剣さに満ち、その視線はこちらに突き刺さってくるようだった。

「申し訳ないが、信じてもらうしかないんだ。とにかく、こいつの話を最後まで聞いてやってくれないか」

 先生の言葉には、嘆願するような響きさえあった。桐原先生にそこまで言われては、了承するしかない。龍介が渋々首肯すると、ヴェルナーはふーん、と龍介と先生を交互に見た。

「……まあいいや。じゃあ話を先に進めよう。お次は一番大事な、誰が君の命を狙ってるかと、俺が何者かについて。君の命を狙いかねない奴らーーとりあえずそいつらを敵ということにしとこう。俺たちはそいつらに敵対してるんだ。つまり、君にとっては味方だ」
「……そいつら、俺たち、ってことは、複数人なんだな。その敵も、あんたらも」

 ヴェルナーが、よくできました、とでも言うように、にこっと笑う。

「察しがいいね。その通りだよ。俺たちはその敵に対抗して作られた組織の一員でね。組織は便宜的に影と名乗ってる。で、敵さんの名前は"ペッカートゥム"。ラテン語で"罪"という意味の、国際的なテロ組織だよ」

 ヴェルナーの最後の言葉に、思わず目を剥いた。国際的なテロ組織? どうしてそんな物騒な奴らに自分が狙われないといけないのか。

「それは言えないんだ」

 ヴェルナーが少し残念そうな表情を作る。

「未来は自分で確かめてくれ。もっとも、それまで君が生きていればの話だけどね」
「おいヴェル、冗談がすぎるぞ。もっと言葉に気を遣え」

 先生が堪えきれないという風に口を開いた。いたくご立腹のようだ。ヴェルナーがぺろりと舌を出す。ごめんごめん、と反省しているのか疑わしい謝罪をする。

「まあ、そうだな……ヒントを出すとしたら、君が(ペッカートゥム)の活動に支障を与える脅威に後々なるだろう、ってことまでは言えるかな。実は影だけじゃなく罪にも、さっき説明したような予見士がいてね、君がそういう存在になることを同じように予見した。その上で俺たちは、罪の連中が君を狙うかもしれないと予想したんだ。脅威の芽は早く摘んでおくに限るからね。それで、俺が君の護衛として影から派遣されたってわけさ」
「護衛?」
「あれ? 言ってなかったっけ」

 初耳だ。
 先生がちらりとヴェルナーを見た。

「影のお偉いさんから言われたんだよ。いつ罪の奴らが襲ってきてもいいように、俺が君の周辺を監視する。いざというときは俺が君を守る」

 そこまで言って、ふとヴェルナーは龍介から視線を外して首をすくめた。

「こういう台詞は君みたいに根暗そうなお坊っちゃんよりも、可愛い女の子に言いたかったけどね」
「……ヴェル」
「あーはいはい、うるさいなお前はいちいち」

 桐原先生のたしなめるような声に、ヴェルナーはちょっと頬を膨らまして応えた。
 龍介はそこで、先ほどから気になっていることを問うてみることにした。

「なあ……ちょっといいか? その……ペッカーなんとか? って奴らは、国際的なテロ組織なんだよな。でもそんな名前、聞いたことねえぞ。その話、本当なのかよ」

 龍介のその問いを、ヴェルナーはうんうんと頷きながら聞いていた。

「その疑問はもっともだ。罪の存在をほとんどの人間は知らない。報道されることはおろか、全世界的にその存在が秘匿されているからな」
「秘匿? どうして……」
「君はクローンというものを知っているかい?」

 急に真面目な顔をして、ヴェルナーがこちらを見据えた。話の展開についていけず少々動揺する。

「え……っと、多分。ドリーとか、聞いたことある」
「そう。ドリーはクローン羊だな。クローン技術は何十年も前から研究されてるが、それを人間に応用する研究は現在禁止されている。倫理的な問題が解決できないからだ。クローン人間に関する法的な整備はされていないし、クローン人間が存在しないことを前提でこの世界は成り立っている」
「……それで?」

 ヴェルナーの双眸が不穏な光を放つ。

「罪では様々なテクノロジー開発が行われてる。クローン人間の研究も極秘裏に進められてるらしい。既に実用化に至っているって話もある」
「……!」
「クローン人間がいることが明るみに出たら、世界はそれこそ混乱の渦に巻き込まれるだろうな。その他にも、世界的に凍結されてる研究を連中は進めている。だから、罪の存在を公にするわけにはいかないんだ。もちろん罪に敵対する俺たち影も同様に」

 ヴェルナーが不遜に笑う。

「光で照らすことができない闇は、もっと大きな影で覆い尽くすしかないのさ」

 龍介は何も言えなかった。さっきヴェルナーが言った君の知らない世界のこととは、こういうことだったのだ。

「ちょっと待て。じゃあ、なんでそれを俺に話すんだ?」
「君はいずれ知ることになるからだ」

 不敵な笑みが返ってきた。含みのある言い方だ。龍介は、自分がそういう言い回しが嫌いであることに気づいた。
 それにしても、と思う。そんな危険な連中に狙われるなんて、未来の自分は一体何をやらかすというのだろう。
 ヴェルナーの話はにわかには信じがたい内容ばかりだったが、桐原先生が黙して聞いている以上、信用しなくてはいけない気がするのだった。

「まあまあお坊っちゃん、そんなに心配することはねーよ。何もすぐに罪の連中が襲ってくるとは言ってない。今のところ、罪の人間が君に手を出す可能性は低い」
「……じゃあさっきの予見の話は何だったんだよ」

 龍介は憮然として言った。ヴェルナーが諭すような口調になる。

「予見ってのはな、100パーセント確実な未来を知れる能力じゃねぇんだ。さっきも、ある確率って言っただろ。未来になればなるほど、その精度は落ちる。天気予報とおんなじだ。君が将来、罪にとって脅威となる確率は、現時点では五分五分ってとこだ」
「……ふうん」
「だから今からそんなに怖がらなくてもいいんだぜ。何かあれば俺が守ってやるしな」

 別に怖がってない、と龍介は言いたかったが、面倒なことになりそうなので口をつぐんでいた。ヴェルナーは超然と椅子にふんぞり返っている。この男に自分の命を預けるのか。龍介はそっちの方が心配だった。

「つーか、さっきから護衛って言ってるけど、まさか学校にも着いてくんのか? それとも俺に外出するなって言うわけ?」
「案ずるな、お坊っちゃん。君は今までどおり普通に生活してていい。護衛っつっても、四六時中君のそばにいるわけじゃないしな。少し離れたところから、見張らせてもらうよ」
「離れたところって……そんなんで何かあったときに間に合うのか」
「心配御無用」

 ヴェルナーは懐に手を差し入れた。おもむろに黒光りするものを取り出す。見てぎょっとする。拳銃だった。
 龍介の喉がごくりと鳴る。

「不届き者はこいつでどかん、さ」
「……本物?」

 思わず漏らすと、ヴェルナーが馬鹿にするような笑い声をたてた。

「おいおい、割と面白いな君は。偽物持ち歩いてどうすんだ」
「……警察でもないのに、そんなもの持ってていいのかよ。ここは日本だぞ」

 むっとして言い返すと、ヴェルナーは事も無げに大丈夫さ、と言った。

「影の人間が武器を所持するのは、各国の警察とICPOによって認められた権利だ。ま、その事実を知るのは警察でもICPOでも一部の人間に限られるがね。さっき言い忘れたが、俺たち影の人間は、罪の連中を殺しても何の罪にも問われないことになってる」
「え」
「言い換えれば、俺たち影は罪専門の殺し屋集団とも言える。……驚いたかい?」

 ヴェルナーの顔をまじまじと見る。つまり、目の前にいるこの男は。
 人を。
 殺したことがあるのだ。

 ぞっとする。目前に座る笑みを浮かべた男が、にわかに禍々しい存在に思えてきて、龍介は寒気を覚えた。

「ってことで、これからよろしくー。君に話したかったことは以上、終わり」

 龍介の心情を知ってか知らずか、ヴェルナーが緊張感の欠片も無い声でそう締めくくった。


 先生の家から退去する頃、時刻は9時になりかけていた。
 龍介の頭の中では、今しがたヴェルナーから聞いた様々のことがぐるぐると渦巻いている。先生とヴェルナーが何言か交わしているのも耳に入らず、熱に浮かされているような感覚だった。
 玄関で靴を履いているとき、傍らに立っていた桐原先生が、フローリングに立つヴェルナーに話しかけた。

「じゃあ、家まで送ってくる。せっかく来てもらったんだから、礼くらい言いたまえ」
「ん、ああ、わざわざどうもな」

 ヴェルナーの挨拶はぞんざいだった。

「つーか、護衛するとか言ってたのに着いてこないんだ……」
「んー? ま、今日は大丈夫でしょ。明日から本気出すわ、もう眠いし」 

 龍介の嫌味に対し、ヴェルナーは大あくびで応える。
 もし何かあったとき、この人は本当に助ける気があるのだろうかと、疑念を抱かざるを得ない態度だった。
 先生がドアを押し開けようとした瞬間、不意にあ、とヴェルナーが思いついたように呟く。

「ちょっといいか、錦 」

 先生が軽くため息を吐き、

「なんだね……すまん茅ヶ崎、先に行っててくれ。走って追いかけるから」

 龍介が部屋の前の通路に出たところで、ドアが音もなく閉じられた。

* * * *

「錦。お前の言うとおり、約束は果たしたからな」

 ドアを閉めた桐原の耳に届いたのは、氷のように凍てついた声音だった。頭を押さえつけられるような圧迫感を感じる。振り返って見ると、ヴェルナーの口元は笑みの形になっていたものの、眼は全く笑っていなかった。獲物を狙う狼のような鋭い眼光に、桐原の身は少々震えた。

「今度はお前が約束を守る番だぜ、"黒獅子"」
「分かっている」

 ヴェルナーを睨み返しながら、桐原は答えた。

* * * *

 空の高い所で月が煌々と輝いている。先生が運転するセダンの助手席で、龍介はぼうっと窓の外を眺めていた。
 自分の命が狙われるかもしれない。それは未だに現実味の薄い話だ。ただ眼裏(まなうら)に焼き付いたヴェルナーの拳銃、その荒々しい銃口が、これは現実だと突きつけてくるようだった。
 道路は様々な色の車のライトで溢れている。この道を走る人々は、罪のことも影のことも予見士のことも、誰一人として知るものはないのだ。ヴェルナーの話を聞く前の龍介も、そのうちの一人だった。
 不思議な心地だ。桐原先生の家の敷居を跨ぐ前の自分と、ヴェルナーから話を聞かされた後の今の自分とが、同じ人間ではないように思われる。

「遅くなってすまないな。親御さんによく謝っておいてくれ」

 交通量の少ない細い道に差しかかったところで、先生が口を開いた。龍介は視線を窓の外から進行方向へと移す。

「いや、そのことは別に……。ただ色んな話をいっぺんに聞いて、少し疲れました」
「悪いな。あいつはお調子者だし能天気だし無神経だが、悪い奴ではないはずだ。腕も確かだし、よろしく頼む」
「それは、まあ……あの、ひとつ訊いていいですか」
「ん?」

 それは、ふっと湧いた疑問だった。

「先生はどうして、あの人と知り合いなんですか」

 前方の信号が黄色から赤に変わった。先生が静かにブレーキを踏む。体が少し前につんのめる感じがあって、車体が止まる。エンジンが自動停止する。
 静寂。

「私はな」

 ややあって、先生が言葉を発した。
 龍介が横を見ると、怖いくらい真っ直ぐな目で、前を見つめる先生がいた。

「あの男が所属している組織に、身を置いていたことがある」

 ぽつり、と漏らすような声だった。

Act.05 過去からの来訪者(前編)

 桐原先生は、どこかミステリアスな人だ。
 彼はいつも細身の黒いスーツを一部の隙なく着こなしていて、きりりとした表情の奥の瞳は常に冷ややかであり、動作はきびきびとして厳格な雰囲気を漂わせている。見かけは近づきがたく思えるけれども、話してみると柔らかい物腰で丁寧に対応してくれる好い人だ。

 桐原先生は私、水城麗衣(みずきれい)の同僚であり、同時に、私の想い人でもある。

 職員室の壁の時計をちらりと見上げる。もうそろそろかな。もうすぐ、彼が来る頃。
 毎日のことなのに、少し緊張する。しかし嫌な緊張ではない。落ち着こうとふっと息を吐いたときだった。私の席のすぐ右側にあるドアが、わずかな音を鳴らしながらスライドする。おはようございます、と挨拶した落ち着きのある声に、私の心臓は落ち着きを無くす。
 声の主は私の隣の席の椅子を引いた。そちらへ向かって、

「桐原先生、おはようございます」

 高鳴る鼓動を必死に鎮めながら、平然を装って挨拶をした。
 大丈夫かな。今の私、自然に笑えてるかな。

「おはようございます。水城先生」

 桐原先生が私の方に顔を向けてそう返してくれた。その拍子にばっちり目が合う。かっと顔に血が上るのが分かって、反射的に目を反らした。
 あ、やばい。今の、絶対感じ悪かったよね……。
 自己嫌悪で死にそうになりながら、私は授業の準備を再開した。横目で桐原先生を窺うと、彼は何事もなかったような面持ちでパソコンの電源を入れたところだった。黒縁眼鏡の奥の目がまっすぐ前を見ている。日本人にしては彫りの深い顔立ち。横顔では通った鼻筋が際立つ。ただの数学の先生にしておくには勿体ないくらいだ。会うたびに、格好いいなあと思ってしまう。キーボードを叩く、少し骨の浮いた長い指に見とれる。
 初めて先生に会ったときから、ずっと彼が好きなのだ。一目惚れだった。そして、こんな風に年甲斐もなく、中高生のように胸を焦がしている。
 桐原先生のことをもっと知りたいという思いと、この気持ちに感づかれてしまったらどうしようという畏れのあいだで、私は長いこと揺れ動いていた。
 横の席を盗み見たり、メールに目を通したり、授業の準備をしたりするうち、朝はあっという間に過ぎていった。
 今日の1時限めは1年D組で授業がある。テキストやらプリントやらを束にして抱え、始業のチャイムと同時に教室に入る。教壇の上から生徒のみんなを軽く見渡したところで、私は内心ちょっと落ち込んだ。
 また茅ヶ崎くんがいない。
 このクラスの茅ヶ崎龍介くんという生徒は、授業中はたいてい机に突っ伏していて、時々ふらっと教室から出ていってしまう。今日みたいに最初からサボることもある。前回もだったから、これで2回連続だ。
 茅ヶ崎くんは何を考えているかよく分からないところがある。気怠そうな雰囲気とは裏腹に、目付きは鋭い。射抜くような、刺すような鋭さがある。他の人が見えないものまで見えているんじゃないかとさえ思う。正直言うと、茅ヶ崎くんのことはほんの少し怖い。教師が生徒のことを怖いなんて言っちゃ駄目だとは思うけど。
 気を取り直して、私は明るい声を繕った。

「グッモーニン、エヴリワン!」

 グッモーニン、とクラス全員のもそもそした返事が返ってきて、授業が始まる。


 授業の後、持ってきた紙の束を揃えていると、一人の生徒が近寄ってきた。水城ちゃん、と私を呼んだのは篠村未咲さんだ。このクラスの学級長で、私によく話しかけてくれる。彼女はいつもタメ口だ。
 生徒が教師にタメ口を遣うことに対して、否定的な意見の人も多いだろう。教師としての威厳がどうのこうの、とか。でも、自分自身に限って言えば、私は悪いとは思わない。威厳を持って生徒に接するなんて私にはできないので、親しみを持ってくれた方が嬉しい。

「ねえ、授業の最初、水城ちゃんショック受けてたでしょ」

 未咲さんはそう言った。え、と漏らして彼女の溌剌とした顔をまじまじと見る。

「龍介がいなくてショックだったんでしょ? 水城ちゃんを傷つけるなんて、あいつサイテーな奴よね。でも大丈夫! わたしがガツンと言っておくから!」

 未咲さんは左手を腰に当て、勇ましく右拳を握りしめた。
 それはガツンと言っておく、というか、ガツンとやっておく、なのではないだろうか。未咲さんが拳で事を解決することの無いよう、心の内で祈った。
 いや、それよりも。

「どうして分かったの? 茅ヶ崎くんがいなくて私がショック受けてるって……」
「だって龍介の机見てすっごい悲しそうな顔してたもん。水城ちゃんすぐ顔に出るから何考えてるか誰でも分かるって」

 嘘、と思った。自覚が無かった。感情を顔には出さないように気をつけているつもりだったのに。
 もしかして、桐原先生を見るときも顔に出ている? いやいや、そんなはずは。

「あっ、そうそう、水城ちゃんにお願いがあるの!」

 勢い込んで、未咲さんが両手で私の手を握る。手を包み込んだ未咲さんの掌はさらりとしてほのかに温かい。なんの躊躇もなく他人の領域に踏み込むその仕草に、同性ながら僅かにどきりとした。

「なあに?」
「英語の文法で、どーしても分からないところがあるの! 水城ちゃん、教えてくれない?」

 未咲さんが上目遣いでこちらを見る。身長自体は彼女の方が高いが、教壇とヒールのある靴のせいで今は私の視線の方が上だ。未咲さんの力のある円らな目を見る。可愛いなと思う。

「もちろん、いいわよ。今日のお昼休みでいい?」
「えっいいの? やった!」
「だってそれが仕事だもの」

 くすくす笑いながら答えると、未咲さんがわざわざ教卓を迂回して、水城ちゃん大好き、と言いながら抱きついてきた。ためらいの無いスキンシップ。もはや言葉でしかコミュニケーションをとらなくなった私は思わず、若いなあ、と心のなかで呟いてしまう。
 高校生は若い。自身が高校生だった頃は自分のことを若いなんて考えたこともなかったけれど、今になって思う。何事も、失ってから気づくものなんだろう。

「それじゃ、お昼休みにね。またね、未咲さん」
「うん! またねー」

 教室の前でぴょんぴょん跳ねる未咲さんに手を振り、1年D組を後にした。未咲さんはこの高校ではあまりいないタイプだ。進学校だからか、割と大人しめの生徒が多い中で、膝上15cmのスカートとニーハイを履いた姿はなかなかに目立つ存在だ。
 あんな短いスカート、最後に履いたのはいつだっけ。ニーハイなんか履こうとするものなら周りに止められるだろう。そういえば、今年の一年生とは年齢が一回り違うのだと思い至って、軽く心が沈んだ。
 27歳。27歳かあ……。


 お昼休み。
 家から持ってきたお弁当の包みを開く。一応自分で詰めたものだが、作ったものはほとんど無い。冷蔵庫から出して、そのまま弁当箱に入れれば食べられるおかずに頼りきっている。何度となく食べたことのあるミートボールを口に運ぶ。言うまでもなく味気ない。
 何気なさを装って隣の席を見やる。桐原先生のお弁当は今日も彩り豊かだ。出来合いのものなど入っていないのが一目で分かる。私の貧相なお弁当とは雲泥の差だ。今日のメインのおかずは鮭だろうか。煮物の中のれんこんは飾り切りさえしてある。いつも通り、美味しそう。
 新学期の初めは、嗚呼、愛妻弁当か……と落ち込んだものだが、先生自身が作っている、と彼の口から聞いたのだ。茅ヶ崎くんとの会話の中で確かにそう言っていたのを、私はばっちり聞いていた。別に盗み聞きしていたのではない。自然と耳に入ってきたのだ。少し、聞き耳は立てていたかもしれないけど。
 桐原先生、一体何時に起きてるんだろう。先生が手際よく料理をしているところを想像して、私はほーっと熱のこもったため息をついた。その背中を見てみたいなあ。あわよくば、先生の手料理を食べてみたいなあ。
 いやいや、妄想はやめよう、とぶんぶん首を振って食事を再開しようとしたら、箸がない。
 え、あれ、と思っているところに、

「水城先生、箸が落ちましたよ」

 横から桐原先生が私の箸を差し出してきてくれた。いつの間にか落ちていたらしい。食べながら箸を取り落として気づかないなんて大丈夫か私。人として大丈夫か私。

「すみません、ありがとうございます」

 ぺこりと頭を下げて受け取ろうとしたら、なぜか桐原先生がじっと見つめてくる。その鋭い眼光は、ドラマでよく見る取調室の刑事を連想させた。何なに、なんだろうこの状況。私は隠し事なんかしてません! 先生への想いは隠してますが!
 ぽかんとしたまま馬鹿みたいに先生を見上げ続ける。脳内は混乱の極みにある。
 両目を僅かに細めてから、桐原先生が口を開いた。

「ぼうっとされているようですが、具合が悪いのではありませんか」

 私は、へ?と言ってしまった。我ながら可愛げがない。
 あの、すみません、妄想していただけです。
 というよりも。桐原先生は私のことを心配してくれているのだ。そのことに気づいて、急にどぎまぎしてしまう。
 先生が眉根を寄せる。

「顔も少し赤いようですし。大丈夫ですか」

 それは、あなたのせいです、桐原先生。

「ね、念のため、保健室で熱計ってきます~!」

 先生の視線にいたたまれなくなった私は、職員室を飛び出した。


 保健室で体温計を借り、体温を計る。36度5分。すごく平熱だ。そりゃそうだ。
 職員室に戻ると、気遣わしげな表情の桐原先生に、大丈夫でしたか、と尋ねられた。はい、全然大丈夫でした、と返事をする。
 桐原先生は一見冷たそうに見えるが、他人に対しては意外と世話焼きというか、心配性である。不思議な人だ。
 洗ってきた箸で何の感慨もない食事を再開し、食べ終える頃、約束どおり未咲さんがやってきた。 

「失礼しまーす。水城ちゃん、英語教えて!」

 その声に、私より先に桐原先生が反応する。

「篠村、ちゃんと敬語を遣いなさい。私相手には構わんが、他の先生には失礼だろう」

 未咲さんは先生に向かってべーっと舌を出した。どうやら二人の仲は険悪なようだ。二人とも好いている私には胸が痛む光景である。
 職員室の外の廊下には、質問に来た生徒と教師が座れるように、長机と椅子が設置してある。そこに座るや否や、未咲さんがぷりぷりして言う。

「ほんとあいつ、やな奴! 水城ちゃんと私は仲良しだから、生徒と先生とか関係ないし!」
「未咲さんは、桐原先生のこと嫌いなの?」
「大っ嫌い! すごい感じ悪いじゃん! 水城ちゃんもそう思うでしょ?」
「うーん……私は、桐原先生のこと」

 好きだけどな、と思わず言いかけて慌てて口をつぐむ。代わりに、尊敬してるけどな、と続ける。

「尊敬ー? あんな性悪眼鏡を? あいつと席が隣なんて、水城ちゃんがかわいそう」

 いやいや、私は嬉しいんです、と苦笑しながら心の内で返事をする。それにしても、性悪眼鏡って。ちょっと面白いなと思ったのは秘密にしておこう。
 未咲さんがぺらぺらと参考書をめくって、ここが分からないの、と言った。ふむふむ。説明の手順を頭の中で組み立てる。

「これはね、この問題を例にするとね……この動詞を受動態にして……」
「じゅどうたい?」
「えーと、受身形のことよ」
「受け身? じゅどう……柔道?」

 未咲さんは無邪気な顔で首をひねっている。
 これはどうやら、気合いを入れて取り組む必要がありそうだ。私はよし、と気持ちを引き締めた。
 時間も忘れて教えていると、別の長机に誰かが座る気配があった。未咲さんの背側、私の向いている側の机である。反射的にちらりと見ると、桐原先生だ。と、茅ヶ崎くん。
 桐原先生が私に背を向ける形で椅子に座る。未咲さんが問題を解いているあいだに、そちらを少し見やると、先生と茅ヶ崎くんが穏やかに談笑していた。わ、笑ってる。あの茅ヶ崎くんが。
 茅ヶ崎くんが数学を得意としていることは、今年の一年生の担当教員なら誰でも知っている。彼は、数学の入試問題を完璧に解答して入学してきたのだ。数学のセンスを持つ者同士、ウマが合うのかもしれない。
 いいな、桐原先生と二人きりなんて。茅ヶ崎くんが羨ましい。
 不純なことを考えていると、できた!と未咲さんが元気な声を発した。どれどれ、と問題が並ぶページをチェックする。文法というよりもスペルミスが若干散見されるが、全体的には及第点だろう。

「うん、文法は大丈夫みたいね」
「やった! ありがとう水城ちゃん、水城ちゃんのおかげだよー」

 未咲さんは私にぎゅっとハグをすると、じゃあね、と元気に言い、風のようにさあっと去っていった。折って短くしたスカートが走るのに合わせてはためいていた。生徒の"分からない"が"分かる"に変わる瞬間を見届けるのは、いつだって良いものである。
 使ったペン等を片付けて立ち上がると、ほぼ同じタイミングで茅ヶ崎くんと別れたらしい桐原先生と目が合った。
 あ。どうしよう。何か言わなきゃ。

「うちの生徒がご迷惑おかけしたようで。すみません」

 私が口をもごもごさせていると、桐原先生がそう切り出した。そのうえ頭をちょっと下げられる。慌てて胸の前で手を振った。

「そんな、迷惑だなんて。これが仕事ですから」
「そうは言っても篠村のあの話し方、水城先生も怒っていいと思いますよ」
「いえ……私は別に気にしてないんです、本当に。それにしても茅ヶ崎くん、桐原先生には懐いてるんですね」

 先生が苦笑を浮かべる。

「この場合に懐くという表現が正しいのかは分かりかねますが、まあ、何かと頼ってはくれますね」
「そうですか……英語の授業も、ちゃんと聞いてくれたらありがたいんですけどね……」

 そこで桐原先生の目にふっと翳りが差した。

「まあ、彼にも色々と事情があるようです。ああいう態度と目つきですから誤解されやすいのでしょうが、私が見たところ他の生徒とそんなに違っているわけではなさそうです」
「――そうなんですか」

 先生に、見た目で判断するなと言われているようで意気消沈する。茅ヶ崎くんとほとんど話したこともないのに怖いなんて思って、私は教師失格だな。

「茅ヶ崎にはせめて授業に出席するように言っておきますよ」
「はい……あのっ」
「はい?」
「大切なことを教えて下さって、ありがとうございましたっ」

 私は90度に迫る勢いで礼をした。顔を上げると、先生は「?」という表情をしていた。
 今度茅ヶ崎くんに会ったら、話しかけてみようかな。そう思いながらそれでは、と桐原先生に挨拶した。

 
  日が傾いてきて、窓から射し込んだ茜が廊下を染めている。今日ももうすぐ終わりだ。心地よい疲労を体に感じて、よし、あとひと踏ん張り、と気持ちを入れ換える。
 生徒たちがきゃっきゃとはしゃぎながら私の横を通り過ぎていく。さようならと挨拶してくれる見知った顔もちらほら。快い夕べの時間だ。夜は何を食べようかなあとぼんやり考えながら歩いていると、背後から男性の声がした。

「お嬢さん。そこの可愛らしいお嬢さん」

 お嬢さんを探すべく辺りをきょろきょろと見回す。私はお嬢さんと呼ばれるような年齢ではない。しかし周囲には誰もいない。もしやと思いつつ、私ですか、と問いかけながら振り返って、目を見張った。
 そこには、長身で真っ赤な髪の欧米人らしき人が立っていた。自分と同い年くらいだろうか。深いボルドーのスーツに艶のある黒いシャツという、この上なく学校にそぐわない派手な格好に面食らう。教員兼来客用の玄関から入ってきたらしく、足元は素っ気ない意匠のスリッパだ。

「そうそう、君。後ろ姿からイメージしたよりも前から見た方がずっと可愛いね」

 男性は流暢な日本語で言い、気取った笑みを浮かべた。
 喜べばいいのか警戒すべきなのか分からず、私ははあ、と生返事をする。どこからどう見ても保護者には見えないし、お客さんだろうか。ただ、まともなお客さんとは思えないけど。
 そこまで考えてはっとする。見た目で判断しちゃいけない、と学んだそばからまた過ちを繰り返すのか。私は疑念を振り払っておずおずと尋ねた。

「あの、この学校に何かご用でしょうか……?」

 男性はにこっと笑う。

「ああ。えっと、君はこの学校の先生?」
「あ、はい」
「君の同僚にニシキって奴はいるかな?」

 ニシキ……西木? 脳内の教員名簿をぱらぱらめくる。西木先生なんて、この高校にいただろうか。どうも思い当たらない。
 その時だった。目の前の男性がお、という顔をした。その目は私の肩越しに後ろを見ている。そちらを見てどきんとした。職員室から出てきたばかりの桐原先生が硬直したように立っていたからだ。
 先生は瞠目し、私などこの場にいないかのように、視線を赤髪の男性に注いでいる。
 そういえば、桐原先生の下の名前って確か――。

「おっす、錦。久しぶりだな」

 そう言う男性の声に滲む、ありありとした懐かしさ。

「――ヴェル」

 呆然とした様子で、桐原先生が呟いた。

Act.06 過去からの来訪者(後編)

Act.06 過去からの来訪者(後編)

(承前)
 冷たい指で心臓を鷲掴みにされたような心地がした。
 いるはずのない人物がそこにいる。もう二度と見ないと思っていた、その顔。忘れかけていた、いや、忘れたと勘違いしていた苦々しい思い出たちが、閃光のように脳裏に明滅する。情報の洪水にうろたえる。自分が立っている場所が崩れていくような感覚があった。

「おいおい、ばったり幽霊に出くわしたみたいな顔をすんなよ。傷つくだろうが」

 そこに立っている赤目赤髪の長身の男が、薄く笑いながらほざく。武力組織である"影"の一員、ヴェルナー・シェーンヴォルフ。
 忌々しい、自分の旧友だ。
 男がつかつかと歩み寄ってきて、その血色の瞳でじろじろとこちらを見た。

「8年間でずいぶん変わったなあ、お前。一瞬人違いかと思ったぜ」

 8年。そうだ。8年前まで、桐原は影の一員だった。そして、敵対する"罪"(ペッカートゥム)との抗争に明け暮れていた。記憶の隅に追いやり、忘れたふりをしていた事実。

「それに、眼鏡なんかかけちゃってさ。目が悪いわけでもねーくせによ……ってちょっと待って痛い痛いから引っ張らないで痛いから」

 完全に停止していた思考を奮い立たせ、ヴェルナーの腕を掴んだ。強引に階段下の目立たないスペースに引き入れる。できるなら無駄に悪目立ちするこいつを人目に晒したくない。加えて会話も聞かれたくない。
 放り出すようにその腕を離して、ヴェルナーと相対(あいたい)した。この場にこの男がいる、という現実に目眩すら覚える。昔と変わらない、本心の読めない顔。その顔を彩る、鮮血のような赤。
 身に纏うボルドーのスーツと黒いシャツが、彼の髪色や虹彩と相まって強烈な印象を与える。どう見ても頭のネジが何本か飛んでいる。

「何をしに来た。なぜ貴様がここにいる?」

 何年も遣う機会のなかったドイツ語に頭を切り替え、詰問する。ドイツはヴェルナーの母国である。ヴェルナーはやれやれといったように軽く肩をすくめた。

「何年も会ってなかった友人にいきなりそれかよ? そりゃあお前、新しい環境で頑張ってるであろう大切な友人に陣中見舞いをだな……」
「白々しい嘘を吐くな。用向きは何だね? さっさと済ませてさっさと帰りたまえ」

 ヴェルナーは整った顔にへらりと笑みを浮かべる。きつい口調で話しているのに、一体何が可笑(おか)しいのか。

「あー、はは。お前のそのおっさんくさい喋り方、すっげー懐かしいわ。つうか、年齢の方が喋り方に追いついてきたか? 30歳だもんな。もう立派なおっさんか?」
「……わざわざドイツから私を馬鹿にしに来たのか?」

 ヴェルナーの顔をじっと見る。正確には睨む。
 ヴェルナーと最後に会ったのは8年前だが、軽薄が服を着て歩いているようなこの男の外見は、当時と殆ど変わっていない。驚くほどに、だ。

「貴様は変わらんな。能天気なところも、口が軽いところも、ちゃらんぽらんなところも、何一つ」
「え、昔と変わらないって? そんなに褒められると照れるじゃねーか」

 褒めていない。
 皮肉をこれでもかとばかり込めたのに、ヴェルナーには全く通じないらしい。
 思い返せば昔もそうだった。いつも捉えどころの無い態度で、桐原の小言や苦言を受け流してばかりいた。彼のそういう、何ものにも囚われない奔放なところが、桐原は嫌いだった。
 変わっていてくれれば良かったのに、と思う。彼の容姿や性格が当時と変わっていたなら、余計なことを思い出さなくて済んだかもしれないのに。
 ――例えば、彼女のことであるとか。
 記憶の奥底で、銀色が揺れる。

「ま、陣中見舞いってのは冗談だよ。上から仰せつかった任務でさ。話したいことがある」

 急に眼光を鋭くして、ヴェルナーが告げた。
 聞きたくなかった。きっとろくでもない話だと容易に想像がついた。この男の所属する"影"とは、"そういう"ところなのだ。

「……分かった」

 渋々頷いて、スーツのポケットから車のキーを取り出す。お、という顔をしたヴェルナーに、それを手渡す。

「任務の話なら、私の家でした方がよかろう。まだ仕事があるから、車の中で待っていろ。黒のセダンだ。勝手に乗り回すなよ」
「へいへい」

 鍵を受け取ったヴェルナーが踵(きびす)を返す。早いとこ終わらせろよ、とひらひら手を振る後ろ姿が、一瞬だけ昔のヴェルナーに見えて、息が詰まる。
 その残像を振り切って、桐原はまた職員室に戻った。


 仕事を終える頃には、薄闇がじわじわと大気を飲みこみ始めていた。コウモリが不規則な軌跡を描いて、校舎の周りを飛び交っている。外に出た途端に日中の熱の名残が肌に纏わりつき、不快感を誘う。
 気の重さを感じつつ車へ向かうと、ヴェルナーは助手席のシートを目一杯倒して寝入っていた。規則正しく寝息をたてている。熟睡である。
 桐原はふうと一つため息を吐いた。どこまで能天気なんだ。

「おい、出発するぞ。シートベルトを締めたまえ」
「んあ? ああ……お疲れさん」

 ふあーあと犬歯を晒すほどの大欠伸をしてから、ヴェルナーが眠たそうに目をこすった。
 桐原はエンジンをかけつつ、横目でヴェルナーを見る。

「……生きていたんだな」
「勝手に殺すなよ。そりゃあこっちの台詞だっての」
「……それにしても貴様、その格好は何なんだ」
「これ? かっこいいでしょ」
「格好いいかどうかはさておき……貴様も影の一員なら、極力目立たないように努力するべきなんじゃないのか」

 桐原がヴェルナーの私服姿を見るのは初めてだった。よもやこんな派手な格好をして現れるとは夢にも思わなかった。
 影の面々は大抵、街行く人々に紛れるような目立たない格好をする。今の時代、組織の命運を左右する最も重要なファクターは"情報"だ。目立つ格好をするほど、影のメンバーがどこにいるかという情報を敵に与えやすくなる。それはとても大きなリスクだ。
 
「いやあ俺の場合、地味な格好しててもきっと注目を一身に集めちゃうからね。主に女の子からの」
「……そうか。それは厄介だな」

 桐原は投げやりに相槌を打つ。真面目に忠告した自分が馬鹿だったか。この男と話しているとため息が絶えない。昔そうだったように。
 車をバックさせ、学校の駐車場から出る。周辺にはもう生徒の姿はない。いつも通りの帰宅の風景だ。助手席に妙な男が座っていることを除けば。

「それにしても、お前にまた会えるとは思ってなかったよ。再会できて嬉しいぜ」
「私は全く嬉しくないがな」
「ったく、相変わらず愛想のねえ野郎だなぁ」
「貴様に愛想を振り撒かなくてはならない理由が分からん」

 ヴェルナーがそこでぷっと吹き出す。

「なぜそこで笑う?」
「いや、今の台詞……俺たちが初めて会った日にも同じこと言ってたぞ、お前。忘れたか?」
「……わざとだ」

 正直覚えていなかったが、認めるのも癪(しゃく)な気がして、悔し紛れにそう返した。
 桐原のセダンは帰路につく大勢の車に混じり、時に車線を跨ぎながらするすると進む。色とりどりのライトの波に乗る。こうして運転することに快さを感じる。隣にヴェルナーがいなければもっとよいのだが。

「お前、子供はいねーの?」

 唐突な問いだった。
 危うくおかしなところでブレーキをかけそうになり、すんでのところで踏みとどまる。
 唐突に何を言い出すのだ、この男は。

「……独身なのに子供がいると思うかね」

 質問に質問で返す。ヴェルナーが唇を尖らせる。

「ちぇー、何だよつまんねえな。30なんだから子供の一人や二人いたっていいだろ。子煩悩にでもなってたらからかってやろうと思ってたのによ」
「私に何を期待しているんだ、貴様は……。私は一生結婚はしないよ」
「は? なんでだよ。まさかまだ昔のこと引きずってんのか?」
「……」

 まただ。
 視界の片隅で、手招きするように、銀色が翻(ひるがえ)る。自分の名を呼ぶ、あの人の声が聞こえる。水を失った魚のように、呼吸ができなくなる。
 ――やめてくれ。もうその記憶にはきつく封をしたんだ。この期に及んで、栓を弛めるような真似はよしてくれ。
 何も言えないでいると、ヴェルナーが呆れたように嘆息した。

「はあ……図星かよ。未練がましい奴だねえ」

 違う、そういうことじゃない、と内心で反駁するが、説明するのも億劫になって、止めた。

「……そう言う貴様はどうなんだ。貴様も、もう28だろう。身は固めたのか」
「んー? 俺はねえ、8年前と同じ女(ひと)を愛し続けてるよ。未だに気持ちは受け入れてもらえてないけどね」
「……」
「一途でしょ?」
「……それこそ未練がましいと言うんじゃないのか」

 今日何回目か知れないため息をつく。
 ヴェルナーはまるで揺らめく炎のように掴みどころがない。この男との会話にそろそろ疲れてきた。年齢を重ねて少しは落ち着いたのでは、という桐原の淡い期待はとっくに崩れ去っていた。
 黙っていてほしいのに、ヴェルナーがまた口を開く。

「つーかお前、もしかして影を辞めてから誰とも一度も付き合ってねーの?」

 肯定すると、ヴェルナーが大袈裟に驚いた表情を作る。

「まじかよ……いかんなあ、それはいかんよ、錦くん。そんなことではどんどん心が老化していってしまうよ。あ、体もかな?」
「……貴様は年下なのに、どうしてそう偉そうなんだ」
「だって俺の方が経験豊富だしぃ」

 ちょっと待て。

「貴様はさっき、一人の女性を愛し続けていると言わなかったか?」
「もちろん心変わりはしてないよ。でも、心と体は別物だもーん」
「男の風上にも置けんな貴様……それに大の男がもんとか言うな」

 呆れを通り越して、桐原の中にヴェルナーへの怒りが沸々と湧いてきた。
 ヴェルナーの女好きは昔から目に余るものがあったが、それはどうやら変化していないか、悪化しているらしい。
 だらしなく笑う傍らの男を一発殴りたいという桐原の思いを乗せ、黒いセダンは自宅への道筋をひた走る。


 自室の扉を開け、電気を点ける。なかなかいいとこ住んでるじゃねえか、とヴェルナーが呑気な感想を述べた。
 たかが20分程度言葉を交わしていただけなのに、桐原の気疲れは相当なものだった。これからヴェルナーからさらに影の話を聞かされる、と思うと気が滅入る。
 ヴェルナーをダイニングの椅子に座らせ、自身もその前に座る。

「話を聞かせてもらおうか」
「ああ、その前に。お前に紹介したい奴がいるんだ」

 ヴェルナーが不遜な笑みを浮かべる。おい、もういいぞ、とダイニングから続くキッチンの扉へ呼びかけた。
 誰に言っているんだ、と言いかけたところで、閉ざされていた扉がすうっと開いた。桐原は肝を冷やして、扉を凝視する。

「待ちくたびれましたよ、ヴェルナーさん」

 悠然とした微笑みと共に姿を現したのは、金髪碧眼の青年だった。
 桐原は唖然としてその青年を見つめる。同時に不思議な既視感に襲われた。
 年の頃は二十歳前後だろうか。金細工のように繊細な髪と、優美な顔の造りを兼ね備えている。垂れ気味の目は髪と同じ色の長い睫毛に縁取られ、虹彩は覗き見た海がそのまま焼き付いたような深い青だ。美青年という形容がこれほどはまる人間も珍しいと思えた。
 しかし桐原の視線を捕らえたのは容姿ではなく、青年が着ている服だった。紺色の、見覚えのある軍用服。影と罪の闘争が著しかった8年前まで、影の戦闘部隊員に支給されていた戦闘服だ。
 ヴェルナーがふふんと鼻で笑う。

「人の気配に気づかなかったのか? 平和ボケしてんじゃねーの?」
「……平和ボケの、何が悪いんだ」
「ま、いいけどね。こいつは俺の部下であり弟子でもある、ハンス・ヨハネス・リヒターだ」
「初めましてキリハラさん、ハンスといいます。ヴェルナーさんからよくお話は聞いていました。それからこの子は」

 とハンスが足元に視線を落とす。釣られて見ると、ハンスに寄り添うように、毛並みの整った金目の黒猫が佇んでいた。

「僕の大切なパートナーのノイです。どうぞお見知りおきを」

 ニァア、と猫が鳴く。ハンスの口元が優雅な曲線を描いた。
 思わずこめかみを押さえる。頭痛がしてきそうだった。

「ちょっと待ってくれ。色々と聞きたいことがあるんだが……」
「勝手に家にお邪魔したことは謝ります。何も盗っていませんし、壊してもいないので、ここはひとつ見逃して下さいませんか」
「いや、それはまあ良いとして……。君のその格好は何なんだ」
「これですか?」

 ハンスが指先で焦げ茶色のシャツの襟を持ち上げる。
 それはな、とヴェルナーの声が割って入った。

「こいつは支援部門の所属でな。いつも偵察役をやってて、今みたいに大概の扉でも金庫でも開けられるんだが、武器を扱う技量がねーんだ。だから戦闘部門員に憧れてて、外見だけでも勇ましくいこうってわけさ」

 ヴェルナーが親指でくいとハンスを指すと、青年の双眸が昏(くら)く光った。恨めしさの宿った視線がヴェルナーに注がれる。
 ヴェルナーは戦闘部門所属で、ハンスは支援部隊所属――おかしな話だった。
 影のメンバーは、3つの部門――戦闘部門、諜報部門、支援部門――のいずれかに所属する。敵対組織である"罪"と直接戦闘を行う戦闘部門、スパイ活動を担う諜報部門、物資や情報を扱う支援部門、役割はそれぞれにある。 
 影ではメンバーの各々が、弟子を取ることが推奨されている。それは、戦闘部門員なら戦闘の技術を、諜報部門員なら諜報の技術を、全て弟子に教え込むためだ。だから、師匠と弟子は普通同じ部門に所属する。この二人のような例は聞いたことがない。
 ヴェルナーの得物は拳銃のはずだが、ハンスはその技術を全く教えられていないということなのか。

「そんな話があっていいのか」
「もちろん僕は納得していませんよ。さっき部下ってヴェルナーさんは言いましたけど、部門が違うから今のままじゃ名ばかり上司ですしね。どうしてこんな不能な人の下で働かなきゃいけないのか、意味が分からないです」
「おい待て、俺は不能じゃねえぞ。それを言うなら無能だろ」

 ハンスの重たい眼差しをかわすように、ヴェルナーがあっけらかんと笑う。

「無能は否定しないのかね……」
「聞いたでしょうキリハラさん。僕はこの無能な人をやっつけて、地位をぶん取ってやるのが目標なんです。これからよろしくお願いします」
「…………」
「ま、こういう奴なんだ」

 ヴェルナーは手慣れた風である。ハンスは終始柔らかだが本心が読めない笑みを浮かべていた。師匠も師匠なら、弟子も弟子でかなりの曲者だ。桐原の疲労感はさらに募る。
 早く話を聞こう。そしてさっさと帰ってもらおう。明日も仕事なのだし。

「それで、本題だが」
「あーその前にだね、錦くん」
「今度は何だ」
「腹減ったから何か作ってよ。お前料理は得意だったろ?」
「……」
「なんだよ。睨むなって」
「あのな……人に物を頼むには、それ相応の態度というものがあるんじゃないかね」

 ヴェルナーがはっと何かに気付いたような顔をする。

「オゥ……ニシキサーン、俺タチオナカペコペーコナンデース、何カツクッテクダサーイ」
「どうして急に片言になるんだ……」

 全身の力が抜ける。もういい分かった、とぞんざいに呟いて、キッチンへ向かった。


 三人ぶんの夕食をテーブルに並べる。
 白米、味噌汁、昨日作った煮物、ほうれん草のおひたし、買い置きの釜揚げしらす。手抜きもいいところだ。
 桐原のエプロン姿を目にしたヴェルナーが、可笑しいのを堪えているような変な表情を浮かべ、体をぷるぷる震わせた。

「何だその顔は」
「だ、だって、ぷぷ……っ、エプロンて……お前がエプロンて……」
「訳の分からんことで笑ってないで、早く食べたらどうなんだ? 」
「ぷ……、はいはい、分かりましたよ食べますよ」
「お二人は仲がいいんですねえ」

 ハンスが間延びした声を漏らす。
 桐原がテーブルに就くと、ヴェルナーは器用に箸を繰って食事を始めた。対するハンスは念のために出しておいたスプーンを使っている。むしろハンスの姿の方が自然なのかもしれない。ヴェルナーが箸の持ち方を知っていることに、桐原は少し驚いた。

「箸が使えるのか」
「うん。俺、和食が好きでさ。ドイツの日本料理屋にもけっこう行くんだ。知らなかったろ?」
「ああ。初耳だ」
「だから任務で日本に行くことが決まって嬉しかったぜ。お前にも会えるしな」
「下らん」
「おいおい、照れ隠しかい?」
「その腐った目にこの箸を突き刺してやろうか?」
「お二人は仲がいいんですねえ」

 どこをどう見たらそう見えるのだ。
 ハンスが白い小魚をスプーンですくって、まじまじとそれを見つめ、不思議そうな顔をする。その様子を眺めているうちに、先ほどの既視感の正体にはたと気がついた。

「……そういえば、ハンス君。私は君を知っていた」

 唐突な物言いに驚いたのだろう、ハンスが青い目をしばたかせる。

「え? どこかでお会いしましたか」
「いや、私が一方的に見たことがあるんだ。ヴェルが昔、君の写真を持っていてな」

 それも8年前のことだ。ヴェルが弟子だと言って、ハンスの写真を見せてくれたことを漸(ようや)く思い出した。
 といっても、そこに写っているハンスは、年端もいかない無邪気な少年だったが。見た目の雰囲気が違いすぎて、すぐには分からなかったのだ。
 ハンスは横に座っている自らの師匠に、じっとりとした視線を送る。

「写真って何ですか、ヴェルナーさん。どういうことですか」
「まあ、いいじゃねえか。何でも」

 ヴェルナーは目を逸らしている。

「僕、聞いてないですよ。写真なんて持っていってたんですか」
「まあ、いいじゃねえか。それより飯食えよ」

 どうやらこの話題は地雷だったらしい。
 桐原は食事中、二人の奇妙な来訪者を観察した。どうも二人のあいだには、微妙な空気が流れているようだ。
 ヴェルナーはハンスの暴言を軽業師(かるわざし)のように受け流しながら、それでいてどこか弟子に遠慮しているような節がある。ハンスはハンスで、師匠に向ける軽蔑の視線には、時おり羨望や嫉妬が混じった。
 どんな事情があるのか知らないが、典型的な師弟関係には到底見えない。二人の関係にはどうも確執がありそうだった。

 食器の片付けまで済ませてダイニングに戻ると、二人の姿はそこには無く、黒猫のノイだけが床にちょこんと座っていた。ノイは桐原を見るなり立ち上がり、尻尾をぴんと立ててリビングの方へ歩き出す。ついてこいと言っているようだ。あまつさえノイは途中で一度振り返り、ニャアと鳴いてみせたりもした。
 リビングへの扉を開ける。ノイはとてとてとてと迷うことなく進み、二人掛けのソファーに腰かけていたハンスの膝に飛び乗って、そこにちんまりと収まった。
 ハンスの隣ではヴェルナーが長い脚を組んでいる。まあ座れよ、と彼は一人掛けのソファーを指差した。

「ここは私の家なんだが」
「お前のものは半分くらいは俺のものみたいなもんだろ」
「どういう理屈だ。とにかく、話というのを聞かせろ」

 ヴェルナーが口の端に引きつったような笑みを浮かべた。つくづくこの男は嫌な笑い方をする奴だと思う。

「俺がここに来たってことはどういうことか、もう大体分かってるんだろう?」

 胃の底がずしりと重くなる。
 一人の教え子の顔が思い浮かんだ。
 鋭い視線と、ぶっきらぼうな口調と、刺々しい雰囲気と、デリケートな精神と、数学の才とを併せ持った、一人の男子生徒。

「……茅ヶ崎のことだな」

 観念したように言うと、ヴェルナーが勿体ぶった様子で首肯する。

「そうそう、茅ヶ崎リョウスケくんのことで」
「龍介だ」
「あーそっか、いやあどうも――」
「男の名前を覚えるのは苦手、なんだろう」

 ため息混じりに言葉尻を奪って続ける。幾度となく聞いた台詞。
 ヴェルナーがにやにやと気の抜けた笑みを浮かべて、分かってるじゃんか、と楽しそうに言う。
 対する桐原は胸の内で嗚呼、と嘆いた。無念、という思いが毒のように全身に回る。こうなることを、覚悟しておくべきだったのに。

 それは言うなれば、運命づけられた出会いだった。

 桐原と茅ヶ崎龍介。二人は、出会うべくして出会った仲だ。
 影を辞す人間に課される、ひとつの義務がある。影の予見士が予見した、罪に狙われる可能性がある人物の"監視"である。
 影の元メンバー(=元エージェント)へは、対象となった人物と出会えるように手筈が整えられ、一般人としての生活が始まる。対象者が罪に襲われたりした場合は、影へ報告せねばならないのだ。
 桐原の場合、その対象が茅ヶ崎龍介だった。
 ヴェルナーと再会するまで、桐原はその事実を半ば忘れかけていた。
 8年前、罪のトップである教皇が死んだことにより、組織は弱体化し、一般人が罪にピンポイントで狙われる可能性は無視できる。もう二度と影と関わり合うことはない。無邪気にも、そう信じていた。忘れたふりができていたのだ。自らの過去も、彼女のことも、こそばゆいような感情も、胸を抉るような感情も、何もかも。
 現役の影のエージェントが会いに来るということは、茅ヶ崎龍介に関しての、何らかの警告に違いない。今日、ヴェルナーと再び相見(あいまみ)えたとき、地獄に突き落とされた気分だった。
 重い心持ちのまま、浮かんだ疑問をそのまま口に出す。

「しかし……分からんな。罪の勢力は弱まったのではなかったか? 教皇は死んだはずだろう」
「ああ。8年前に、"英雄"の手によってな」
「……」

 英雄、という単語に、その場の二人が反応する。桐原と、ハンスだ。桐原の心境は苦いものだったが、ハンスは目を輝かせている。
 桐原が影を去ったあと、一度だけヴェルナーから手紙が届いた。そこに、教皇を討ったエージェントが、"英雄"と呼ばれている旨が記されていた。
 胸糞悪い。桐原はその時そう思った。

「キリハラさんは、"英雄"のことをご存じなんですよね」

 邪気のない声にはっとする。ハンスがきらきらした目でこちらを見ていた。治りかけた古傷を、錆びた刃物でざっくりと抉られた思いだった。心の中で、血が滴る。

「僕、"英雄"のことをとても尊敬しているんです。ヴェルナーさんから、キリハラさんが"英雄"について知っていると伺って。僕はヨーロッパから離れるのは正直嫌だったんですけど、キリハラさんに会えるならと、ヴェルナーさんに着いてきたんです」

 桐原はヴェルナーへ視線を移す。彼は組んだ脚を解いて、優しく微笑んでいた。
 瞬間的に、喉の奥から熱くどろどろした怒りが沸き上がってきた。この男が憎い。ふざけた面を、二度と笑えないくらい、めちゃくちゃにしてやりたい。どうしてこんな仕打ちができるのか分からなかった。

「良かったらお話を聞かせてもらえませんか」
「……後にしてくれ」

 桐原は吐き捨てる。ハンスは心底嬉しそうに、はいっ、と答えた。
 手が怒りでわなないているのを、指を握り合わせることで押さえつける。桐原は荒くなりかけた呼吸に気づき、一度深呼吸した。
 落ち着け。今怒りをあらわにすることに何の利もない。自分を殺せ。この場をしのぐことだけ考えろ。

「……それにしても、意外だ。組織は弱体化して、もう大それたことはできなくなったと思っていたが」
「そのことだけどねえ、それも説明しないといけないと思ってたんだよね」 

 桐原の怒りに気づかないはずがないのに、ヴェルナーの口ぶりは至極あっさりしていた。まるで明日の天気の話でもするかのように、緊張感に欠けた口調だった。 
 ヴェルナーはジャケットの内側に手を突っ込む。ハガキ大の、革の表紙の本らしきものが出てきた。 

「教皇が死んだあと、二代目教皇が選定されたんだよ。洗礼名はディヴィーネ。こいつが相当な曲者でな」

 ヴェルナーは本を開き、そこから一枚の写真を取り出してテーブルの上へ置く。革表紙の本は写真入れだったようだ。 
 桐原は写真に目を落とし、息を飲んだ。 
 30年生きてきて、これほど美しい人間は見たことがなかった。 
 まず目につくのは、肩口まで伸びた眩(まばゆ)いばかりの銀色の髪。そして、磁器に似たつやと透明感のある、なめらかな白い肌。何者かの意思の介入があったかのように、顔のパーツは全てが完璧な大きさと形を持ち、それぞれが寸分の狂いもなく顔の適切な場所へと配置されている。 
 おそらく隠し撮りされた写真なのだろうが、碧色の瞳は真っ直ぐこちらを見返している。生きている人間の目とは思えないほど、冷たく無機質な光を宿した双眸だった。限りなく人形の目に近い。桐原の背筋に冷たいものが走った。 
 全てが危ういバランスで成り立った人間。そんな印象を受ける。 

「……これは、女か?」 
「いや、男だよ。びっくりだよなあ。テロリストのボスなんかやってねーで、モデルにでもなってくれてたら俺たちも苦労しなかったのによ」 

 この美貌の青年が、現在の罪の指導者。
 彼の口元には、酷薄な感じの微笑が張り付いている。その陰惨な笑みから目を背けたいのに、容貌の美しさが目を惹き付けてやまない。そんな妖しげな吸引力が彼にはある。
 ヴェルナーはさらにもう一枚写真を引き出した。 

「ディヴィーネは指示を出すだけでほとんど表には出てこねえ。実行部隊のなかでとりわけやばい奴がこいつだ。ディヴィーネの右腕のルカ。嘘か真か、一人で町ひとつ消したって話もある」 

 写真を見る。黒い髪、黒い服の青年が、どこかの街角に佇んでいる姿が写っている。頭身からして、かなりの長身だろう。ピントが少しずれていて表情がよく分からないのに、琥珀色の瞳だけが別の生き物のようにぎらぎらと光って見える。それが不気味だった。
 
「……まだ若く見えるが」
「ハンスと同い年らしいぜ、真偽は分からんが。こいつに限らず、今の罪は若い奴だらけだ。十代のメンバーだってごろごろいやがる。どうもディヴィーネに傾倒した若者が集まってきてるみたいなんだ。そいつらはディヴィーネに心酔しきってる。だからディヴィーネの言うことは何でも聞く」

 ヴェルナーが一呼吸置いて、

「それがたとえ、自分の命を危うくすることでもな」

 暗く冷たい口調だった。
 "美しさは人を狂わせる"。頭のなかで誰かが呟く。
 桐原は天井を仰いだ。自分の知らないうちに、罪は勢力を盛り返していたようだ。8年前の闘争で減らした人員を補い、影と対抗するだけにとどまらず、一般人をも狙うだけの力を取り戻した。その結果、茅ヶ崎の命が狙われる可能性が高まってきた。そういうことらしい。

「現況は大体掴めた。それで? 貴様らは遥々ドイツから何をしに来たんだ? まさか罪の連中が現れるかもしれないから気をつけろ、と伝えに来ただけなんて言わないだろうな」

 ヴェルナーがうんにゃ、と首を横に振って、

「茅ヶ崎……えー、リュウノスケ君が」 
「……貴様、名前を覚える気ないだろう?」 
「いやあ、そんなことないって。えっと、彼が狙われそうだってんで、監視役としてハンスが、護衛役として俺が派遣されたってわけさ。お前の手も借りることになるかもしれないから、状況説明をしとこうと思ってな」 
「護衛……」

 二人のドイツ人の顔をじっと見つめる。ヴェルナーとハンスは示し合わせたように、同じタイミングでにこりと笑みを作った。
 自分にだけ聞こえるように、舌打ちする。
 ――気に入らない。心底、気に入らない。 

「解せんな。なぜそう嘘を吐く」

 桐原は低く呟いた。
 その言葉で、ヴェルナーの笑顔がやや不穏な雰囲気になる。赤い眸に物騒な光が宿る。

「ふーん……? 俺の言ったことの何が嘘だって?」

 ヴェルナーが意地汚くとぼけ、挑むような視線を投げかけてくる。桐原は真っ向からその視線を受け止めて、睨み返す。

「色々不可解なことはあるが……まずはそうだな、貴様は今茅ヶ崎龍介の"護衛"と言った。しかし影の体質から見て、それはあり得ない」
「ほう?」

 憎々しい思いを込めて、ヴェルナーをねめつける。
 頭を回転させ、言葉を組み上げてゆく。

「影と罪の立場から考えれば分かることだ。罪から見れば、茅ヶ崎は後々(のちのち)脅威になり得る存在だ。だから、脅威の芽を摘むという意味で、今茅ヶ崎を殺すことは罪にとってプラスになる。しかし影にとって、今の茅ヶ崎の存在はプラスにもマイナスにもなっていない。現状、彼はただの一般人にすぎないからな。だから茅ヶ崎を失うことが、影にマイナスにはたらくとは考えられない。むしろ、護衛に人員を割けば、そのぶん人手が減って逆にマイナスだ。そうだろう?」

 ヴェルナーは笑顔を崩さない。桐原はそれを、先を促しているととった。

「……影の主な目的はあくまで、罪の監視――最終的には根絶だ。一般人の護衛はそもそも議論すべき問題ではない。それどころか、罪の連中を根絶やしにできるなら、一般人が何人死のうが構わない、それが影の基本的な考えだったはずだ」
「乱暴な言い方だな。"最大多数の幸福のために行動する"って言えよ」
「同じ意味だろう」

 言葉をぴしゃりと叩きつけると、ヴェルナーは苦笑いして肩をすくめた。

「影は狙われている一般人一人ひとりに護衛をつけるほど暇ではないはずだ。影のお偉いさんからの命令は"護衛"ではなく、"監視"がいいところだろう。貴様らは護衛などではなく、罪が"茅ヶ崎龍介に何をするか"を監視しにきただけなのではないか? もし罪の奴らが茅ヶ崎を襲うのなら、それをただ見届けるつもりでいる。違うかね」
 「なるほど。それで言いたいことは終わりかな?」

 桐原の追及にも、飄々とした笑いだけが返ってくる。
 いや、と否定して、続けた。
 
「貴様らの目的が監視だとすると、ヴェルナー……貴様がここに来た意味自体が疑わしくなってくる。ハンス君はいつも偵察役をしていると言ったな。目的が監視だけなら、ハンス君がいれば十分なはずだ。何もドイツから貴様が来る必要性はどこにもない。貴様の本業は"殺し"だからな。貴様がいなくとも監視の目的は果たせるとすると、貴様がここにいる意図は別にある、という結論になる」
「お前の考えてることは分かったよ。で、結局何が言いたいの?」
「……貴様の目的は何だ。なぜここにいる。何を企んでいる?」

 胸の内の疑念を全てぶつけた。ヴェルナーの瞳の奥を注視する。何らかの意志が読み取れるのではと思ったが、そこには底の知れない深淵があるだけだった。
 ヴェルナーが目を伏せる。何かを噛みしめるがごとく瞼をぎゅっと閉じ、

「企んでるなんて、人聞きの悪い言い方はよしてくれよ。まあ、そうだな……どうせいずれは伝えることだったし、全部話すよ」

 数瞬ののちに瞼が開くと、毒気が抜けたような、さっぱりとした目付きになっていた。その双眸が、真っ直ぐ桐原を捉える。

「俺の目的はお前だよ。錦」
「……?」
「もう一度こっちへ来ないか。それを伝えに来た」



 たっぷり10秒ほど、沈黙が続いた。
 夜の静けさが部屋の中まで染み込んできているような、耳に痛いほどの静寂だった。

「……まさか、私にもう一度影に戻れと言っているんじゃないだろうな」
「そのまさかだよ」

 ヴェルナーの口調はひどく穏やかなものに変わっている。桐原はぐっと拳を握りしめて、心の内で強く思う。
 戻れるわけがない。
 あんなにたくさんのものを失った場所へ、今さら戻るなんてできるはずがない。桐原の記憶にはまだ、身じろぎひとつしない彼女の姿が、熱を無くしていく体の感触が、生々しく焼き付いたままだというのに。これ以上、また何かを失えというのか?

「断る。無理だ」

 桐原の返答に、はは、とヴェルナーが力なく笑いをこぼす。

「そう言うと思ってたよ。ま、俺がお前の立場でも、戻るなんて言わねーだろうけどな」
「分かっているならなぜ――」
「シューニャに頼まれたんだよ」

 シューニャ。
 その不思議な響きは、桐原の胸に眠る複雑な思いを呼び起こした。
 その言葉自体は、サンスクリット語で空(くう)を表す形容詞であり、古代インドの数学ではゼロを意味する。ただし影においては、現在の影の指揮官たる人物を指す。
 桐原は8年経った今でも、一切の感情が抜け落ちた、漂白されたようなシューニャの顔を、鮮明に思い出せる。"彼の能力"と、"彼女の死"とは、切っても切れない結びつきを持っている。

「……会ったのか?」
「まさか。シューニャの居場所は機密扱いだぜ。俺みたいな半端者(はんぱもの)が会える相手じゃない。でも、電話で話したよ。お前の力が必要なんだと言ってたな。あと、お前に謝っておいてくれって何回も言われたよ」

 だったら自分で謝れってな、とヴェルナーが桐原に笑いかけた。
 ハンスは話が飲み込めないなりに、二人の会話に耳を傾けているようだ。
 謝る相手が違うのではないか、と桐原は思った。自分は別に、彼に腹を立てているわけでも、彼が憎いわけでもない。自分が彼に許しを与えることはできないのだ。その思いは当時と変わっていない。

 "貴方が謝ったところで、死者が目を覚ますことはありません。"

 自分がそう言ったときも、シューニャは能面に似たのっぺりした顔で、じっとこちらを見返していた。彼があの時に何を考えていたのか、桐原には分からない。

「シューニャに直々(じきじき)に言われたら、下っ端の俺が逆らえるはずねーだろ? 俺はシューニャが仰るとおり、遥々海を越えて、お前を勧誘しに来たってわけさ」
「……なぜ貴様がわざわざ来たのか分かったよ。私を説得するために、シューニャが選んだんだな」
「だろうね。お前と親しかったのは俺ぐらいだからな、今生きている影の人間では」
「親しかった、ね……」

 ヴェルナーは遠くを見つめる時の目をしている。昔に思いを馳せているのだろう。対する桐原の過去は思い出したくない出来事ばかりで、回顧する気にもなれない。
 ヴェルナーと自分はそんなに親しげだっただろうか。少なくとも桐原の中では、ヴェルナーへの苦手意識が大きかった。できれば関わり合いたくない類いの人間だとすら思ったものだ。
 ――いや、過ぎた日のことを考えるのはもう止そう。

「……私は言うなれば引退の身だ。そんな人間に戻ってきてくれと頼むほど、影は人手が足りていないのか?」
「そこを突かれると痛いねえ。お前が辞めたあと……2年後くらいだったかな? 戦略会議で戦闘部門の人員を減らすことが決まったんだよ。新しい諜報部隊の部門長が――こいつがいけすかねぇ野郎なんだが――これからは情報戦だ! 野蛮な直接戦闘ではなく、情報を掌握しコントロールすることで、罪の活動の拡大を防ぐべきだ! とか会議で一席打(ぶ)ちやがってな。代わりに諜報員が大幅に増員されたよ」

 その表情は、嫌いな食べ物を誤って口に入れてしまった時のように、渋いものだった。加えて、いけすかないと評した諜報部門長への嫌悪感が、剥き出しの尖った犬歯に如実に現れていた。
 桐原はその部隊長に会ったことはないが、なんとなく人となりが想像できる。きっと、真面目な人物なのだろう。

「その時反対しなかったのかね」
「あん時ばかりは俺も同じ意見だったからねぇ」
「さっきいけすかないと言ったではないか」
「それはあれ、俺が持ってる個人的な印象」
「……そうか」

 ヴェルナーの話は、咀嚼すればするほど奇妙に思えた。
 まとめると、情報をコントロールするために諜報部隊員を増やしたにも関わらず、罪の活動の拡がりを察知できずに、今度は戦闘部隊員が足りなくなり、辞めたエージェントを呼び戻している、ということになる。納得できる説明ではない。

「その流れはなんというか……おかしいのではないか?」

 指摘すると、ああそうだ、とヴェルナーが珍しく神妙な顔をして頷いた。

「こんな事態は誰も予想してなかった。みーんなあたふたしてるよ。影の誰にも、何が起こってるのか分からねぇんだ。こんなことは初めてだ」
「どうしてそんな状態になる? 影にはシューニャがいるだろうに」

 首を捻(ひね)りながら尋ねる。
 シューニャは影の中でも数少ない、というよりも唯一の特級予見士だ。彼の見る未来は正確無比で、予想が外れることはない。不測の事態なるものと、影は無縁のはずだった。
 そして、彼のその力によって、彼女は――ルネは死んだ。

「シューニャは予見を辞めたよ」

 冷たい声音にはっとする。ヴェルナーの口元に浮いているのは、はっきりした冷笑だった。

「8年前からね。ルネの一件で、シューニャも少なからず傷ついたってわけだ。俺は、まだあいつを許す気にはなれねーけどな」
「……」
「あの時――お前が止めてなかったら、俺はシューニャを殺してたかもしれん。あいつがいなかったら、ルネが若くして死ぬこともなかったし、お前も幸せだっただろう。正直言って俺はあいつが憎いよ。お前はどうだ?」

 ヴェルナーの眼の中心の、底のない深淵が、こちらを手招きする。引き込まれそうに思えて、桐原はその目からふいと視線を逸らした。

「……許すも何も、初めから私は腹を立ててなどいないよ。もしもの話はやめよう。あれは運命だった。シューニャが悪いんじゃない、仕方なかったんだ」
「そう言う割には、お前の方が引きずってるみてーだけどな」

 言葉は桐原の心にぐさりと突き刺さる。言葉の棘を乱暴に引き抜いて、その辺に放り投げた。傷口から吹き出る血には気づかないふりをして、

「……昔のことはもういいではないか。一体、影に何が起きているのか――」
「どうにもきな臭ぇんだよ。何か、とんでもねーことに巻き込まれてる気がする」

 ヴェルナーが焦点の合わない目をして呟く。それは独り言のようでもあり、ヴェルナーの体を借りて届いた、何者かからの警句のようでもあった。

「とんでもないこととは何だね」
「さあな。それは分からねぇけど」
「根拠はないのか」
「だって俺は予見士でも何でもねぇからな。で、戻るか、戻らないか。返答は変わらないかい?」

 ヴェルナーは身を乗り出し、膝の上で指を組む。穏やかな顔つきで目を少し細め、返答を促すように小首を傾げた。
 戻る? 影へ?
 あり得ない、と思う。しかし茅ヶ崎龍介が狙われる可能性を思うと、否応なく彼の顔が目の前にちらつくのも確かだ。

「…… 私に何をさせようと言うんだ」
「俺もそれはまだ知らねえんだ。さしあたり、その茅ヶ崎くんって子の身辺警護の続きでもするんじゃねーかな」

 ヴェルナーがゆったりとした口ぶりで、問いかけてくる。

「お前の心境を抜きで考えれば、そんなに悪い話じゃねーと思うけどな。影に戻れば武器の使用許可が下りる。今の状態じゃあもしそのお坊っちゃんが襲われても、お前は手をこまねいて見てることしかできんのだぜ。とっても心優しい錦くんにそれができるかい?」

 冷やかしめいた言い方だったが、ヴェルナーの目はあくまでも真剣だ。その言葉は桐原の心境の核心を突いた。
 桐原は自問自答する。果たして、彼が傷つけられそうになったとき、見殺しにできるのだろうか、と。あまりにも深く関わりすぎた、彼のことを。
 自分は今、己の気持ちと、彼の身の安全とを、天秤にかけているのだ。

「……今でも、代わりに死ぬくらいはできるだろう」
「教え子のために身代わりになるって? そいつァ泣かせるねぇ」

 ヴェルナーがひゅうっと口笛を吹く。
 桐原はソファに背を預けて、しばし中空を仰ぎ見た。
 影には戻れない、もうあんな思いを味わうのはごめんだ、という固い気持ちがある一方で、誰かが目の前で傷つくのを見るのはもう嫌だ、という気持ちが強いのも事実だった。

「……すぐには返答しかねる。少し、考える時間をくれないか」

 ヴェルナーが鷹揚(おうよう)に頷く。

「ああ、いいぜ。俺達もしばらくここにいるしな。ゆっくり考えたらいい」
「すまんな。答えが出たら連絡するから、連絡先を教えてくれるか」
「ん? 別に、口頭で直接伝えてくれたらいいよ。しばらくここにいるっつったろ」

 桐原にはその言が咄嗟に理解できない。同時に、黒い不安の雲が心の中に湧き立ち始める。

「……すまない。何か、誤解があるようだ。貴様の言う"ここ"とは、どこだ? 私は"この街"と理解したのだが」

 ヴェルナーが目を見張り、えっ違う違う、と手を振る。嫌な予感はもはや暗雲となり、胸の内を覆い尽くしている。
 彼の右手の人指し指が、真っ直ぐ下を示した。

「"ここ"って、ここのことだよ。お前んちのこと」

 ――この男は今何と言った?
 雲の上で、遠雷が唸る。

「……貴様が何を言っているのか分からないのだが」
「えーだから、しばらくお前んちに居候させてもらうってこと」
「は?」
「え?」

 大気をつんざいて雷が落ちた。
 ヴェルナーがきょとんとして、駄目なの? と言う。
 もうどこから突っ込めばいいのやら分からない。本当に頭痛がしてきて、こめかみを押さえた。気分は土砂降りである。
 ハンスの膝の上で、ノイが退屈そうにニャアアと鳴いた。 

「……どうしてそう……貴様は勝手に……」

 開いた口が塞がらないとはまさにこの事だ。
 ヴェルナーは不服そうに口を尖らせる。

「えー別にいいじゃん俺とお前の仲じゃん」
「勝手に事を決めるんじゃない! 貴様がどう思っているのか知らんが、私は貴様にかける情けなど持ち合わせていないぞ」
「冷てぇなあ錦は。意地悪。ケチ。錦のケチくさ野郎」
「どうとでも言え。ホテルにでも泊まったら良かろうに」

 途端にヴェルナーが声を荒げ、

「ホテルに泊まる金なんてねーよ! どんだけ影に吸い取られてると思ってんだよ。日本までの飛行機代ですっからかんだっての!」
「ちょっと待て、どうして貴様が怒るんだ」
「しかも支援部隊の奴に仕事を斡旋してもらおうと思ったらなあ、日本でお前ができる仕事なんかねーよバーカって言われちまったんだよ!」
「……」
「違うもん! 俺のせいじゃないもん!」
「……一応、仕事を探す努力はしたんだな」
「俺は悪くないもん!」
「おい……泣くなよ……」

 おいおいと顔を手で覆うヴェルナーを慰めようとして、いやこの男は身勝手にも居座ろうとしているのだと思い直し、手を引っ込める。
 ハンスは己の上司の醜態を呆れて見ていたが、こちらに向き直って非の打ち所のない笑顔を作ってみせた。

「僕はご厄介には及びませんよ。能無しのこの人と違って仕事も見つかると思いますし、いざとなったら野宿でも大丈夫です。でも、この子だけはこの部屋に泊めてあげてほしいんです、女の子なので」

 そう言って、黒猫を膝の上で抱える。ノイはニァーアと機嫌良さそうに長く鳴いた。
 青と金、それぞれ一対の眸に見つめられ、桐原は思わずたじろぐ。

「いや……ここの物件はペット禁止でな……」

 反射的に紡いだ言葉に対し、ハンスが信じられない、と言わんばかりの表情を浮かべた。

「……! ノイはペットじゃありません、僕の大事な相棒です!」
「違うんだ、言葉の意味が問題なのではなく」
「どうかお願いします、キリハラさん」
「いやあの」
「にしきぃい」
「キリハラさん!」
「…………」

 二人のドイツ人が泣き、怒る。喧騒に驚いたのか、ノイがハンスの腕を飛び出し、ニァゴニァゴと鳴き声を上げながら部屋を駆け回る。
 リビングに台風がやってきたかのようだ。
 ヴェルナーとハンスがあまりにもしつこく食い下がるので、最後には桐原の方が折れることになった。願わくばその無駄な粘り強さを、何か有用な方向に活かしてほしい。
 桐原は嘆息する。どうも自分は押しに弱くていけない。ヴェルナーたちのいいように事が運んでいる気もするが、すべては自分の不徳の致すところだろう。仕方あるまい。
 詰め寄る二人に、もういい、分かったと半ば自棄(やけ)になって言うと、赤い目と青い目がきらきらと輝いた。どうぞ勝手にしてくれ。

「二人とも、寝泊まりは許可する。ただし、食費くらいは出してくれよ。それから寝床はハンス君がソファで、ヴェルは床だからな」
「分かりました」
「えー……」
「不満か? だったら出ていってもらってもいいんだぞ。放り出されたいのか?」
「イエ、スミマセンデシタ」

 ヴェルナーがロボットよろしくぎこちなく頭(こうべ)を垂れる。それをハンスが嘲笑する。
 こうして不本意ながら、妙なドイツ人2人と猫1匹との共同生活が、幕を開けることとなった。


 浅い微睡みの中で、銀色の夢を見る。
 懐かしくなるような、悲しくなるような、切なくなるような、そんな夢だ。とろとろとたゆたうあたたかな光を浴びて、いまや届かないものへ向かって手を伸ばした。きっと指の先には、あの人がいたのだろう。
 桐原は僅かに呻いた。目覚まし時計がけたたましく鳴っている。意識が夢の底から現実へと引き上げられる。起きねば。カーテンのあいだから射し込む朝陽が、室温を上昇させているのが分かる。
 桐原はおや、と思った。覚醒に近づいた思考は、息苦しさを感じている。なぜ息苦しいのだろう。原因は。
 目を開く。
 開(ひら)けた視界にまず映ったのは、至近距離に迫った安らかなヴェルナーの寝顔だった。

「うわああああああ!」

 瞬間的にベッドの上のでかい図体を突き飛ばす。ヴェルナーの体は綺麗に一回転した後、どすっ、という鈍い音とともにカーペットへと投げ出された。

「あだっ! ……え、ちょ、何……え、朝? 今何時……?」
「6時だ」
「ええー……あと5時間寝かせて……」
「そこで寝るな! それより、なぜ貴様がベッドで寝ているんだ! それに何なんだその格好は!」
「あーうるさ……やめてよ朝から……俺別にいつも寝るときこの格好だし……」

 桐原は冷や汗をかきながら言い咎めた。ヴェルナーは上半身だけのろのろと起こし、むにゃむにゃと目をこすっている。その身に纏われているのは、下着だけだった。
 パンツ一丁の大男。
 こんな人間と一晩同衾(どうきん)していたなど、想像しただけで身の毛がよだつ。道理で息苦しいわけだ。
 大きすぎた衝撃はほぼ恐怖に等しく、桐原の顎が震えて奥歯がかちかちと音をたてる。

「な――なぜよりにもよって貴様と寝床を共にしないといかんのだ?」
「いや……俺だってどうせなら可愛い女の子と一緒に寝たいよ……二の腕とかふにふにしたりしたいよ……」
「貴様の願望など知ったことか! だったらなぜ私の横に潜り込んだりしたんだ」

 ヴェルナーの眉間に皺が寄る。目はまだ開かない。

「あのさ、客人を床で寝させようとするなんて酷いと思わない? 錦には人の心が無いの? 人でなしなの? 鬼なの?」
「貴様らを客人として招いた覚えは無いが?」
「はあ……錦はもっと俺に優しくすべきだと思うよ。世界のどこの大統領もそう言うと思うよ」
「……。そこまで言うならもういい、明日から私が床で寝る」
「えっ……そんなこと言われたら俺の無けなしの良心が痛むじゃん……」
「自分で無けなしとか言うんじゃないこのたわけ」

 ヴェルナーは寝ぼけ眼(まなこ)のまま、半分夢の世界にいるようだ。
 桐原はベッドから降り、ヴェルナーの前に立つ。そのぼんやりとした顔を見下ろして、つくづく眺める。
 この男の意表を突いてやるのも悪くないか、と思案を巡らせてみる。既に心は決まっているのだ。
 桐原は出し抜けにヴェルナーの額を鷲掴みにして、無理に上を向かせ、

「おい」
「やだ……乱暴はやめて……優しくしてってば……」
「昨日の話、受けてやってもいいぞ」

 そう言い放った。
 昨晩、ベッドの上で、暗い天井を見上げているうち、意志は固まった。自分の気持ちと、茅ヶ崎龍介の身の安全、双方を天秤にかければどちらに傾くか、決まりきっていたことなのだ。決断を阻んでいたのは、ただ自分の臆病さだけだった。
 手を放して、ヴェルナーの表情の変化を見る。瞑目したままのしかめっ面から、何か問いたげな半目になり、やがて目の焦点が合ってくる。表情が二転三転し、最終的に顔全体が驚きの色に染まった。

「え! いいのか?」
「二度は言わん」
「そっかぁ、嬉しいよ。お前が戻ってきてくれるなんて――」
「ただし、条件がある」

 食い気味に言葉を返すと、ぎらっと光るような笑みが跳ね返ってくる。

「ほう、交換条件ってわけかい? いいぜ、言ってみな」
「……影の一員である以前に、今の私は一介の教師だ。だから、もし影と教師の立場で相反する決定を迫られた時には、教師としての立場を優先させてもらう」

 ふむ、なるほど、とヴェルナーが頷く。

「それは問題ないと思うぜ」
「もうひとつ」
「我(が)が強くなったもんだねぇ、お前も」

 にたにたと笑うヴェルナーの冷やかしには応じず、

「貴様は昨日、"茅ヶ崎龍介の護衛のために来た"と嘘を吐いたな。その"嘘"を、"真実"にしてほしいんだ。茅ヶ崎の護衛を実行してくれるなら、私も貴様らに加わろう」

 何事か推し量るように、ヴェルナーがふうんと漏らす。桐原の言い分を咀嚼(そしゃく)するための、短い沈黙がそれに続く。

「……いいだろう。上にはそのように報告しとくよ。でもさ、そんなにその子が大切なの?」
「……教え子は皆大切だ。貴様には分からんだろうが」
「ま、お前が戻ってくるなら何でもいいけどね」

 ヴェルナーが肩をすくめる。
 ふと、桐原の胸に昨夜と同じ不安の雲が再来した。この男の言葉を、全面的に信じていいものだろうか。許可してもいないのに、勝手にベッドに潜り込んでくるような奴だ。
 自分が組織の駒として、某(なにがし)かの目的のために使われ、その挙げ句捨てられることになろうと、別に構わない。ただ茅ヶ崎龍介の身に及ぶ危険は、排除しなければならない。

「ヴェル。確認だが、貴様……本当に護衛をするつもりがあるんだろうな?」
「んだよ、それ。俺のことを信用してねーのか?」

 ヴェルナーがむっとして頬を膨らます。

「お前だけは俺のこと信じてくれるって思ってたのに!」
「貴様、自分が信頼に足る人間だと思うのか?」
「いや全然」
「……」

 言葉を失う桐原の前で、ヴェルナーがあっと思いついた様子でぱちんと指を鳴らした。

「だったらそのお坊っちゃんに、俺が護衛につくって話をしよう。そしたらさすがの俺でも怠けてはいられなくなる。疑り深いお前も安心だろ」
「"さすがの俺でも"という発言は気になるが、まあ確かにな……だが影の話をしたら、罪のことまで伝えなくてはいけなくなる。茅ヶ崎は一般人だぞ。大丈夫なのか?」

 懸念を口にする。
 たとえ罪に狙われていたとしても、特定の人物に対して、影のメンバーが自分たちや罪の活動を説明するなど、皆無といっていい。情報はどこから漏れるか分からない。影や罪の存在を知る者の数は少ない方がいいのだ。ヴェルナーの提案は影の方針に反するものなのに、その口調は軽々しすぎる。
 当の本人は気楽に笑って、顔の前でひらひらと手を振っている。

「ああ、大丈夫大丈夫。初めから影と罪の話はするつもりだったから」
「……初めからだと?」

 喉の奥から嫌悪感がせり上がってきて、奥歯を噛み締める。あまり良い気分ではなかった。

「初めから、とはどういう意味だ」
「"茅ヶ崎龍介は、いずれ知ることになる"」

 ヴェルナーが、天からの啓示を読み上げるがごとくに諳(そらん)じる。

「……何だね、それは」
「シューニャが言ってたんだ。意味は俺には分からねぇがな。彼はいずれ知ることになるから、影のことも、罪のことも、すべて話せってよ」
「よく分からんが……つまり貴様は、影と罪の話を茅ヶ崎に伝えた上で、傍観を決め込もうとしていた、そういうことか」
「うん」

 重々しく問うた疑問への、極めて軽い返答。
 長く深いため息を吐く。どうしようもなく不快感が湧いてくる。

「貴様ら影のやり方はやはり気に食わん」
「そうは言っても、今日からまたお前も、こっちの世界の人間なんだぜ。にしても、俺の言った通りになったなあ」
「言った通り?」
「お前が影を去る日、俺がお前に言ったこと、覚えてねぇか?」
「……」
「ほら、お前の場所は空けておくから、いつでも戻ってこいってやつ」
「……ああ」

 それは記憶の片隅で、埃にまみれて転がっている程度の、ひどく朧気(おぼろげ)な情景だ。初対面のときの台詞といい、本当に些末なことばかり覚えている男である。
 別れの日、ヴェルナーはどんな表情を浮かべていただろうか。桐原は思い出せない。あの頃のことを忘れたくて、忘れようと努めていた結果だろう。それでも、彼女の姿だけは、どうしても記憶から消えてくれない。
 忘れた方が楽だと理性では分かっている。けれど、一枚皮を剥いだところにある本能が、それを拒否する。覚えているのは結局、忘れたいことばかりだ。
 影を去ったあの日、この目に映る人々の幸せくらいは、自分の手で守るのだと決めた。その決意が今、試されているような気がする。
 日本は平和だ。自分が8年間で牙を抜かれ、人の気配に気づけなくなってしまうほどには。ヴェルナーは茅ヶ崎に、すべてを話すと言った。平和な国で生まれ育った少年は、ひとつの才能に恵まれた普通の高校生は、ろくでもない世界の有り様を、果たして受けとめられるのだろうか。
 支えなければならない。そう思った。

「それじゃ、約束だぜ。俺がお坊っちゃんの護衛をする代わり、お前は影に戻る。二言はないな?」
「ああ。影が私をどんな形の歯車として期待しているのかは知らんが、その役目を果たしてみせようではないか」
「いいねえ、その憎まれ口。それでこそ錦だ」

 ヴェルナーが愉快げに唇の端を引き上げ、気取った調子で右手を差し出した。

「再びようこそ、イカれた世界へ」

 桐原はその手を取る。

Act.07 僕の青の理由

僕の青の理由(失青より)
手短な引用は僕を救わない(コールフィールドより)
カラフルな悩みの種(株と無心より)

タイトルの変遷
告白→とある仮定と論証→解の希求→アンサー→懊悩とアンサー

1 食事が喉を通らない。
 清々しい朝。そのはずだった。けれど俺の心のなかには、風の吹きすさぶ荒野が広がっているみたいで、爽やかな朝の雰囲気とはかけ離れていた。
 目線の先のテレビに映る情報番組、その押しつけがましい明るさ、滑稽なまでの快活さ、すべてがささくれだった神経を逆撫でしてくる。
 テーブルの上には、母が作った料理が並べられている。いつもどおり色彩にあふれ、見るからに美味しそうだ。それなのに、なぜか食欲が湧かない。口に入れても、食べ物の味がよく分からない。発泡スチロールでも咀嚼しているような食感がして、不快感すら覚える。
 俺の箸がほとんど動いてないことに、母の涼子が気づいたらしい。こちらを心配そうに見やる。

「龍ちゃん……あんまり食べてないけど、お母さんの作った料理、美味しくなかったかしら?」
「……いや」

 その後に続けて、美味しいよ、とはとても言えなかった。
 新聞に目を通していた父の辰太朗も、食後の日課を中断して顔を上げる。30代の顔に不釣り合いな丸眼鏡の奥から、草食動物のように穏やかな眼が覗いていた。

「なんだ龍介、食欲が無いのか? 今は体を作る大切な時期なんだ。ちゃんと食べた方がいいぞ」
「……それは、分かってる」
「お母さんの料理はいつも美味いだろう? 感謝して、食べなきゃいかんな。……涼子さん、いつも美味しいごはんをありがとう」
「まあ辰太朗さんったら……龍ちゃんの前で……」

 父と母が見つめ合う。
 両親はとても仲が良い。二人ともまだ30代な上に外見も若々しいので、新婚夫婦と勘違いされることもしばしばある。
 仲睦まじい夫婦、申し分なく栄養バランスの取れた食事、掃除のゆき届いた部屋、テーブルと窓際に飾られたみずみずしい植物、窓から射し込む淡黄色の光。どこからどう見ても、理想的な家庭の朝の風景だ。
 ただ一つ、息子が俺であるということを除いては。
 いたたまれなくなって、椅子の上に置いていた通学鞄を手に取った。

「……もう出るから」
「あら、そう? お昼はしっかり食べるのよ。じゃあ、行ってらっしゃい」
「行ってらっしゃい、龍介」

 逃げるようにして外に出る。異物、という言葉が、胸の内側でぐるぐると渦巻いていた。

        *  *  *  *

 息子が出ていった後の扉が、ガチャ、と音をたてて閉まる。

「……恋患いかしら?」

 涼子は小首を傾げ、のんびりと呟いた。

        *  *  *  *

 倦(う)んでいる、と感じる。
 何に? それが分からない。すべてに対して、なのかもしれない。
 ここ数日、ずっとだ。気が塞いで、もやもやした正体の掴めない感情が、心の中にしつこく居座っている。振り払おうとしても、それは靴の裏にこびりついたガムに似て、無視するには大きい存在を主張してくる。自分のことなのに自分ではどうにもできなくて、頭を掻きむしりたくなる。
 数学の授業中、窓の外に目をやった。朝には陽が差していた空はどんよりと淀み、灰色の厚ぼったい雲が、天球全体をぐいぐいと押し下げているみたいに見える。すぐにでも雨が降ってきそうだ。
 6月末の空気は湿度も温度も高く、教室に満ちた不快さに、鼻腔が圧迫される。備え付けのエアコンは、7月にならないと使用許可が下りないらしい。
 前方に顔を戻す。教科書の章末問題を割り振られた生徒たちが、壇上に登って解答を板書しているところだった。書き終えた生徒から順々に席へ戻り、今は一番難しい問題を当てられた一人だけが残っている。チョークは遅々として進まず、明らかに解法が分かっていないことが分かる。
 桐原先生は黒板の脇の椅子に座り、その様子をじっと見ている。ストレートに前に向けられた視線は、苛々するでもなく呆れるでもなく、あくまで淡々としたものだった。むしろ俺の方が苛々していた。どうしてそんな、無理に公式に当て嵌めようとして歪(いびつ)になった数式を、左辺とイコールで結べるのか。俺には数式の悲鳴が聞こえてくるようだった。
 違う、やめて、間違ってるよ、助けて。
 もちろんその声は妄想にすぎないのだが、俺は現実に気分が悪くなってきた。のっそりと立ち上がり、そのまま教室の後ろのドアへ向かう。クラスメイトたちが、はっとして身を固くするのを肌で感じる。桐原先生がちらりとこちらに視線を寄越したが、口は結んだままだった。
 俺も無言のまま、教室から抜け出る。

--
2 梅雨入り前には屋上に放置していたソファを、先日、屋上へ続く階段の傍らに移動させておいた。雨が降るといけないからだ。
 教室からのそのそと歩いてきた俺は、その上にごろりと横になる。屋上ほどの開放感は無いが、人がいないだけ教室よりましで、ドアのガラスから外が見えるだけ、保健室よりましだった。
 目を閉じる。教室という場所が苦手なのはずっと前からだ。同じデザインの机と椅子がずらりと並び、皆が同じ服を着て、同じ教科書を開きながら同じ内容のノートを取る。狭い箱に同じ年齢の子どもを集めて押し込め、行動を時間で管理する。画一的で特徴のない人間を生産するための養殖場みたいだと思っていた。
 クラスメイトたちは何の疑問も持たない様子で、毎日時間割のとおりに過ごしている。きっと、俺の感覚のほうがおかしいのだろう。
 教師たちは個性が大事と繰り返す。あんなところで個性なんて育つのか。そもそも、教師たちの言う個性とはおそらく、創造力とか協調性とか寛容さとかリーダーシップとかの"優等生的な"個性のことであって、教師にしてみれば、俺が持っているのは"個性"の枠組みから外れた、ただの厄介な性質にすぎないだろう。
 みんなには当たり前のことが、俺には苦痛でしかない。
 考えても仕方ないことを考えていると、すたすたと近づいてくる足音に気づいた。幼なじみかつ学級長の未咲であれば、ぱたぱたと駆けてくる音がするはずだ。
 先生かな、桐原先生以外に見つかったら面倒だな、と暗鬱な気持ちを抱きながら目を開けると、赤目赤髪の彫りの深い顔が、鼻先30cmほどの距離にあった。うわ、と口に出してしまう。反射的に上体を起こし、ソファの上で後ずさる。

「やあお坊っちゃん、浮かない顔だね。恋患いかい?」

 派手な外見のその男、ヴェルナー・シェーンヴォルフは、俺の顔を覗き込む体勢で、厚い雲でも払えそうな、明るい笑みを作った。
 欧米人だからなのか――欧米人が皆そうなのかは分からないが――ヴェルナーは人に対する距離が近い。自分の領地にずかずかと立ち入られるようで、少し恐怖感があった。
 能天気な彼の問いに、俺はむすっと答える。

「……そんなんじゃねーよ。なんであんたが、ここに居るんだよ」
「あれ、違うの? 俺はお坊っちゃんがどこへ行こうと着いてくよ、君を守らないといけないからねェ」

 ヴェルナーは唇を横に引き伸ばして笑う。揃った白い歯の中で、肉食獣のように尖った犬歯が目立つ。何度見ても気障(きざ)ったらしい笑顔だ。

 俺の命は狙われているらしい。

 数日前にそんな話を聞かされてから、この調子の軽い外国人が護衛に就いた。いまだに実感は無く、以前と比べて変わったのは、至るところでヴェルナーの姿をちらちらと見かけるようになったことくらいだ。
 もし本当に危険な目に遭ったとき、この人が助けてくれるのかどうか、俺は怪しんでいる。

「誰かに見られたらどうすんだよ。説明すんのが面倒くせぇだろ」
「大丈夫大丈夫、ちゃんと人の気配は避けてきたから。でも今は授業中だろう。こんなところに来るなんて、さてはお坊っちゃん、不良だな?」
「……だったら何?」

 ヴェルナーがしげしげと見てくるのを、俺は下から睨み返した。明らかに面白がっているのが気にくわない。彼の台詞には、見れば分かることをわざわざ明言する、あの不可思議な英語の例文に似た趣があった。
 他人はいつもそうだ。表面上の要素で判断して、分類して、自らがいる領域ではないところに勝手に押し込める。あいつは自分とは違うのだと安心する。俺はいつでも分類される方だ。だからそんなことには慣れきっている。
 視線が交錯して、にわかに訪れた沈黙を、ヴェルナーの薄笑いが破る。

「君は違うように見えるけどなァ」
「違うって、何が」
「君は不良を気取りたいわけじゃないだろ? 人が多いところが苦手なんじゃないのかい。君は人と関わるのを怖がってるように、俺には見えるね」
「……」

 一瞬、呼吸を忘れた。冷たい風に頬を撫でられたかのように、すっと顔が冷える。心臓をぎゅっと握られたみたいに、胸が苦しくなる。
 どうして分かったのだ、と声なき声を漏らす。触られたくないところを触られた。この人は、物事を横目で適当に眺めているようで、実際はじっくり観察しているのだ。
 俺は、他人が怖い。
 その恐怖心を、"面倒だから"という言い訳で、何重にもくるんで見えないように隠していた。自分でも忘れていた本当の理由を、ヴェルナーは容易く暴(あば)いたのだ。
 嘘の鎧(よろい)を失って丸裸にされた本心が、ぶるぶると小刻みに震える。
 何も言えないでいると、俺の内心を察してか、ヴェルナーが柔らかく破顔した。
--
3「別にそれが悪いって言ってるわけじゃあないよ。内気より社交的な性格の方が好ましいだなんて、言うつもりもない。皆が皆、俺みたいな性格だったら大変だろ? 社会が破綻しかねない」
「……そういう自覚はあんのかよ」
「むやみに怖がらなくてもいいんじゃない」

 ヴェルナーが唐突に優しげな口調になる。
 彼の思考の展開に着いていけず、は? とえらく不機嫌な声が出てしまう。
 ヴェルナーは全くぶれのない視線を、俺に注いでいる。

「坊っちゃんはあれだろ、人と関わって傷つくことが怖いんだろ」

 それは俺の嫌いな断定口調だったけれど、そういう台詞にありがちな、蔑みやからかいの意図は全く感じられなかった。そのことが俺を少し動揺させた。
 でもよ、とヴェルナーが続ける。

「人間ってのは案外、寛容な生き物のはずなんだぜ。坊っちゃんは小さい頃に嫌な思いをしたのかもしれんが、15才にもなればそれなりの分別をみんな身につけてるだろ。それに、大概の人間は自分のことで手一杯さ。他人にそこまで興味持ってねーよ」
「……」

 俺は押し黙る。確かに、人は成長するものだろう。俺だって、自分にしか見えてない景色のことを、誰彼構わずぺらぺら喋るなんてことはしなくなった。
 けれど、ヴェルナーの言葉をそっくり飲み込むには、俺の過去の経験は苦すぎた。
 そうかもしれない、とは思う。でも、そうでないかもしれない、とも思う。
 堂々巡りの思考をこねくり回す俺へ、銀幕のスターよろしく完璧なウインクを、ヴェルナーがばちんと送ってみせる。

「何にせよ、人は一人じゃ笑えないもんだぜ、坊っちゃん。人が腹の底から笑うのは、誰かと一緒にいるときだけだ」
「……あんた、たまには良いこと言うんだな」
「だろ?」

 皮肉のつもりだったのだが、どうもヴェルナーには通じないらしかった。
 赤髪の男は、ソファの脇にある階段へ腰を下ろし、どこか達観した目を細めて俺に向ける。

「悩めよ、坊っちゃん。若者は悩むべきだぜ。"青春は苦悩の時代だ"って、たぶんどこかの偉い人も言ってるはずだし」
「どこの誰だよ」
「そんなの俺に聞かれても知らねーよ」
「……あんた、適当すぎんだろ……」

 口を尖らすヴェルナーに苦言を呈すると、今度は腕を組んで教え諭す顔つきになる。

「あのねェ、そうやって簡単に人に聞くのはよくないと思うよォ。その前に自分で調べてみる、そういう気持ちが大切なんじゃないのかなぁ」
「あんたが言ったんだろ……」

 とは言いつつ、あまりにも目の前の男が堂々と構えているために、ちょっとだけ"俺が悪いのか?"という思いが湧いてくる。
 ヴェルナーの捕らえどころの無さに、俺は困惑していた。困惑というか、辟易していた。こんなのらりくらりとした人間が、大人然とした表情で、平気で世を渡っていることが、信じられなかった。俺にはこんなにも悩みがあるのに、ヴェルナーは何も思い悩むことなんかないような、いっそ間抜けともいえるつるりとした顔を周囲に晒している。それがひどく、羨ましくもあった。
 意図せず、あんたは良いよな、と口に出していた。

「うん?」
「あんたは人生楽しそうで、良いよな」
「そりゃあ、楽しもうと思ってるからね。人生ってのは一度きりなんだぜ、今楽しまないでいつ楽しむんだい?」

 ヴェルナーは笑う。くつくつと、本当に、心底楽しそうに、笑う。
 彼の台詞が、俺のなかで反響した。
 いつ?
 楽しむ?
 そんなこと、考えたことがあっただろうか。俺はぽかんとして、ヴェルナーの顔をただただ見た。

「坊っちゃんはどこかで、自分の人生なんて、と思ってやしないかい?」
「……」
「恵まれた環境に生まれて、順風満帆な人生を歩んでる人間だっているだろうさ。だが、羨ましがったり自分の境遇を嘆いたりしたって、他人にはなれねえんだ。だったら、与えられた場所でどう楽しんで生きるか、そいつを考えるのが、一番有益な時間の使い方だと思わないかい?」

 問われて、俺は答えられなかった。
 俺はどうしてこんなところで、こんな変な外国人に人生論を説かれているんだろう?
 そう疑問に感じつつ、軽薄が間違って人の形を持ってしまったようなこの男の人にも、他人を羨んだり境遇を嘆いたりした時期があったのかと思うと、なんだか不思議な心地がした。

「……あんたも、苦労してんだな」
「はは。そうは見えねェだろ? 大人ってのはな、大なり小なり苦労してきてんだよ。それが、大人になるってことだ」
「……」

 自分の周りの大人の顔が次々と思い浮かぶ。みんながみんな、それなりの苦労を重ねて大人になったというのだろうか。
 父親。母親。親戚。先生方。近所の人。
 そして、僅かな痛みとともに浮かぶ、まるで過去のことなど読ませない凛々しい顔。

「……じゃあ、桐原先生も」

 ヴェルナーが遠い目をして、大きく頷く。

「そりゃあそうさ。あいつなんて、人一倍苦労してんだろ」

--
4 桐原先生の名前を出した直後、数日前の夜の光景が、脳裏に立ち現れる。ヴェルナーと初めて会い、さらに桐原先生が、ヴェルナーのいる組織に身を置いていた、と語った夜のことだ。
 俺は桐原先生が運転する車の中にいた。
 車内の静寂。前方には赤信号。
 先生の言葉がにわかに理解できなくて、信号機をじっと見る先生の精悍な横顔を、俺はまじまじと見つめた。

「――え、身を置いていたって……。保護されてたとか、そういう?」

 恐るおそる尋ねた問いは、いや、と容易く否定される。

「あの男と――ヴェルナーと同じだ。8年前まで、私も影の一員だったんだ」
「じゃあ」

 その先を言いかけて、ぐっと言葉を飲み込んだ。聞いてどうするんだ、と自分に言い聞かせる。
 聞けるわけないだろ。
 先生も、人を殺したことがあるんですか、なんて。
 俺の思考を読むように、先生が横目でちらりとこちらを見た。

「そうだな。聞かない方が利口だ」
「――先生が……どうして影に?」

 俺の疑問に、先生が自嘲めいた笑いを溢(こぼ)す。乾いた笑いだった。

「それは逆だ、茅ヶ崎。君は、"影の一員だったあなたが、なぜ先生に?"と訊かねばならない。私は教師としてよりも、影の一員として生きてきた期間の方がずっと長いんだ」
「……」

 何も言えなかった。その事実を、どうやって受け止めたらいいのかが分からなかった。
 押し黙る俺へ、独り言めいた調子で、先生が静かに語りかける。

「実を言うと、君が罪に狙われる可能性があることは、ずっと前から知っていたんだ」
「……そうなんですか」
「ああ。8年前に、影を辞めたときからな」
「そんなに……前から……」

 絶句する。
 8年前。俺は、小学校の低学年だった。その頃にはもう、先生と知り合うことが決まっていたというのか。 頭の中を、誰かがぐるぐるかき回しているみたいに、思考がまとまらなかった。
 不意に先生が俺の顔を見た。星のない夜空を思わせる、深い黒の瞳に見つめられる。鋭さと思慮深さが混じり合う、猛禽のような目だと思った。

「私が怖いかね」

 問いかけは落ち着いていた。
 すぐには答えられなかった。先生の姿のその向こうに、見通せない暗がりが果てなく広がって見えた。その暗がりが俺のところまで這い寄ってきて、足元の感覚が覚束なくなる。そのままどこまでも落ちていきそうに感じられた。
 先生の過去のことを、自分は何も知らない。
 俺はそこで、氷山の90%は海面下にある、という話を思い出していた。人間も、それと似ているのかもしれない。
 怖いと答えるのも、怖くないと答えるのも、なんだか違う気がした。

「……分かりません」
「そうか」

 先生は表情を変えないままに首肯する。
 ぐにゃぐにゃした不定形の思いが、そのまま口をつく。

「――あの」
「ん?」
「先生は……誰なんですか」

 我ながら馬鹿な質問だと思った。が、先生は難しい表情をつくって、

「それは私も知りたいところだな」

 顔を歪めて言う。
 前方の信号が青に変わり、また車がするりと動きだす。その後は、俺の家に着くまで、会話はなかった。
 喉に小骨が刺さっている、ちょうどそんな感じで、先生の話の何かが、思考回路の途中に引っかかっていた。

「無理に今までどおりに振る舞おうとしなくてもいいからな」

 家の前で、ドアを開けて降りようとする俺に、先生が告げた。
 曖昧に頷くことしか、俺にはできなかった。
--
5 そこまで思い起こして、ここ何日も心の一角にわだかまる、もやもやの正体が掴めたように思えた。
 それは、問いの形をしていた。
 そして、その解を求めることが、ともすれば自分を傷つけることになる予感もあった。
 いきなり黙りこんだ俺に顔を向け、ヴェルナーは目をしばたかせる。気まずい間を取り持つように、終業のチャイムが鳴り、ややあって、上履きの音や話し声が聞こえてくる。そのざわめきの中に、こちらに近づいてくる足音を聞いた。
 気づいた俺が顔を上げるのと、ヴェルナーがよう、お疲れさん、と言うのが同時だった。
 いましがたの追想のままの、きりりと引き締まった顔色で、桐原先生がそこに立っていた。ヴェルナーが楽しそうに手を振るのを、先生は一瞥しただけで黙殺する。
 茅ヶ崎、と先生が俺に紙を差し出してくるので、慌ててソファから起き上がった。

「ここにいたか。期末試験の事前問題の返却だ」

 淡々とした声音に、どこか気遣いの響きを聞いてとる。ヴェルナーが俺の手元を覗いて、おーすごいすごいと声を上げた。反対に俺は、言葉を失う。
 98点。
 嘘だろ、と思った。小学校に入学してからというもの、算数や数学のテストでは100点しか取ったことのない、俺が。
 心臓がはやる。どこだ。どこを間違えたんだ。
 誤答はすぐに見つかった。取るに足らない計算間違い。凡ミスだ。こんなこと、いつもなら絶対やらかさない。やはり今の俺は、おかしいのだ。

「証明問題も返却しよう」

 手に紙が重ねられる。いつもはほとんど無い、赤ペンでの修正がたくさん入っていて、俺はまたひやりとした。先生が手を伸ばして、用紙のある部分をなぞる。 

「ここの部分、自明とあるが、この条件は自明ではない」
「あ……」
「他にも色々不備はあるが――証明は焦ってするものではないぞ、茅ヶ崎。最近の君の解答は、数学以外のことを考えながら書いたように見える」

 図星だった。言葉のナイフが、心臓をえぐる。
 こんなにも、自分の中の憂いは、外に現れてしまうものなのか。ささやかなバツ印と、赤い訂正たちが、俺の気持ちのよりどころがぐらついていることを、喚きながら声高に主張しているように思える。
 桐原先生の、こちらを問いたげに見る目を直視できなくて、口元あたりに目線をずらす。

「何かあったのかね」
「……」
「このお坊っちゃんね、病気なんだよ。恋患いという名の――」
「貴様は口を挟むな」

 ヴェルナーがへらへらと喋りだすのを、ぴしゃりとした声が止める。
 先生が俺を見る。変わらぬまっすぐ射抜く視線だ。ああ、駄目だ、逃げ出してしまいたい。見られていることに耐えられない。正面からその視線を受けとめることが、俺にはできなかった。

「私に言えないことならそれでもいい。証明問題はしばらく中止しよう。期末試験も近いことだし」
「……はい」

 返事は力なく、先生に届く前にきっとへにゃりと折れた。項垂(うなだ)れて、遠ざかる足音を聞く。その背中を追いかけようとしても、体が動かなかった。動けなかった。
 ヴェルナーが、手で口を覆う身ぶりとともに、俺に視線を寄越している。

「なんだよ」
「坊っちゃん、まさか……坊っちゃんの恋患いの相手って……」
「ちげーよ。患ってもねーよ」


 こういう心境を意気消沈というのだろうなと思いつつ、とぼとぼと教室に戻る。ドアを開けると、まなじりを盛大に吊り上げた未咲に出迎えられた。噛みつかんばかりの剣幕だ。

「ちょっと! あんたのせいでまた桐原せんせーに怒られたんだからね! わたしが! どーしてくれんの!」
「……悪い」

 反論できる状態にないのでそうぼそりと返す。未咲が目を丸くして、ついでに瞼もぱちくりさせる。俺はぼんやりとそれを眺めながら、こいつやっぱり睫毛長いなとか思う。未咲が不審げに、あんたが素直に謝るなんて気持ち悪い……と堂々と失礼なことを言う。
 いつもみたいに言い返す気力も湧かない。未咲が訝(いぶか)しみながら俺の手から紙束を取っていくが、それを奪い返す気力も湧かない。
 未咲が答案に目をやり、おや、という顔をする。

「あれ、龍介が100点じゃないなんて珍しいね。ってか、今まで100点じゃないことあったっけ」

 俺は幼なじみの顔を見た。
 元気良さそうな逆ハの字の眉の形。存外長い睫毛に縁取られた、ぱっちりとした眼。決して高くなく、慎ましげに中心にちょこんとある鼻。薄めの唇と、よく笑う口から覗く白い歯並び。顔の輪郭を切り取る、茶色がかった髪。
 見慣れてしまった、未咲を構成する要素たち。
 お前は変わらないな。お前は変わらないよな。

「未咲、俺さ」

 命を狙われるかもしれないんだって。
 "罪"っていう、得体の知れない犯罪集団がこの世にはいて、そいつらに敵対する、存在を隠された組織もあるんだって。
 桐原先生も昔その一員で、何年も前から、俺と知り合うことになってたんだって。

 何もかもが、ずっと前から、俺が知らないところで、そういう風に決められてたんだ。

 もういっそ、そうやって吐き出してしまいたかった。
 誰かに、できれば未咲か輝に、俺が知っていることを話してしまいたかった。
 影に関する話は口止めされていたし、今だってヴェルナーがどこかで見ているに違いなく、会話だって聞かれているのかもしれなかった。情報漏洩に何かしらのペナルティがあるのかどうか、それは知らないが、意識して試そうなんて反逆心もない。
 だから俺は、その先の言葉を飲み込むほかになかった。
 未咲が眉をひそめて、俺が何事か言うのを待っている。

「――いや、やっぱ何でもない」
「は……? なんなのよ……」

 不快感をあらわにした未咲から、舌鋒鋭い文句を聞けるかと思ったのに、彼女は未確認生物を見る目で、俺をじろじろと眺め回しただけだった。

「なんか龍介、変」

 ぽつりと発せられた声とともに、答案用紙が突っ返される。その言葉の意味が、いつもと違う未咲の視線が、ちくちくと俺の心を刺す。
 紙束が、ずしりと重くなって返ってきたように感じられた。

--
6 夕刻、一人で下校していると、道端に猫がうっそりと佇んでいるのを発見した。毛並みのよい、黒猫だ。曇天の下、薄闇が迫るなかでも、毛づやが輪のように光るのがはっきり分かる。
 こちらをじっと見ている目は、青と金色のオッドアイだった。白猫のオッドアイは何度か見かけたことがあるが、黒猫は珍しい。目が合ってしまったのでゆっくりまばたきをすると、黒猫は警戒する様子もなく、こちらにぽてぽてと近づいてきた。そのまま俺の膝に体を擦り寄せる。

「人懐っこいやつだな、お前」

 見ると、赤い首輪をしている。飼い猫のようだ。
 腰を落として、喉や頬や耳の後ろを掻くように撫でてやると、うっとりと目を細め、喉を鳴らし始めた。かわいいやつ。

「猫はいいよな。やんなきゃいけないこともねーし、やっちゃいけねえこともねーし、悩み事なんてないもんな」

 誰にともなく呟く。猫に向かってというより、自分自身に向けて。
 黒猫はそんなことない、とでも言うように、色違いの瞳を見開いてニァアアァ、と鳴く。

「そっかそっか、猫も忙しいか。悪いこと言ったな」

 こうして猫を撫でていると、荒(すさ)んで毛羽だった心の表面が、少しずつ滑らかになっていく。ちくちくと心臓を刺しつづける、長さも太さも異なる針が一本ずつぽろぽろと抜け落ちていく。現実逃避といわれればそれまでだが、この効能は決して人間には作れないのだ。
 一頻りもふもふしてやると、黒猫は撫でられるのに飽きてきたようだった。その気配を察知し、俺は満足して立ち上がる。
 別れの挨拶だと言わんばかりに、猫はすねに何度も頭突きをかましてきた。俺は含み笑いをこらえる。かわいいやつ撤回だ。とても、かわいいやつ。

「じゃあな。車には気をつけろよ」

 ちらりと振り返ると、そういった意思は無いに違いないのだろうが、色の違う双眸が、見送るようにじっと俺に向けられていた。


 前日の下校と同じく、翌日の登校も一人だった。
 自分のクラスの下駄箱の前に男子生徒がいて、俺にちらりと視線をくれる。
 ほとんどのクラスメイトは、俺の姿を見かけるとそそくさと先へ行ってしまう。彼もそうするのだろうなと思った。別にそのことで傷つきはしない。目つきも言葉遣いも悪い、授業を抜け出たりサボったりする生徒となんか、誰だって関わりたくないだろう。俺だって嫌だ。
 そんなだから、その男子に、おはようと声をかけられて驚いた。予定外の事態に、おはようと返すのがワンテンポ遅れる。朝から調子が狂う。
 事態はそれで終わらなかった。
 そいつは俺が上履きを履くのをなぜか待っており、一緒に教室まで歩く流れになった。背格好は俺と同じくらいだが、やたらと姿勢がいいので、相手の方が一回り大きく見える。何が起こっているんだと混乱する。
 相手の顔をまともに見て、昨日の数学の時間、最後まで教壇の上に残っていた生徒だと気づいた。

「茅ヶ崎ってさ、猫好きなん?」

 意外な展開に口ごもっていると、相手が自然体な様子で尋ねてくる。脳裏にオッドアイの黒猫の姿が浮かぶ。

「もしかして、昨日の?」
「見ちゃまずいとこだったかな」
「別に、そういうわけじゃねえけど……」

 悪事をはたらいていたわけでもないので見られてもまずくはないが、かなり気まずくはある。猫相手に笑ってたり、話しかけたりしていたのを見られたということか。だいぶ恥ずかしい。

「……そっちも、猫好きなのか? ええと――」
「あー俺の名前、分かんないよな。太田だよ。猫は好きだけど、近づくと逃げられるんだよな」

 気を害する素ぶりも見せず、そう太田は教えてくれる。
 高校に入学してほぼ丸3カ月経つが、未咲や輝以外のクラスメイトとまともに会話したのは、これが初めてだった。太田の口ぶりは穏やかで地に足が着いている感じで、旧知の人間に話しかけているのかと思うほど無理がなかった。
--
7 二人並んで昇降口を抜け、廊下に達すると、生徒会役員の面々がずらりと勢ぞろいしていた。
 模範的に着こなされた制服の列。
 なかなか壮観な眺めだ。朝の挨拶運動とかいうのが始まったのだろうか。強制的に挨拶を強要されるのは、あまり気分のよいものではない。
 その列の先頭に立つ男子生徒を、俺は知っている。まあ、この高校の人間は誰でも知っているだろうが。
 生徒会長の九条悟。未咲が好きな相手。
 相変わらず一分の隙もない佇まいに、文句のつけようがないパーフェクトな微笑みをうかべている。彼自身が空気清浄機なのではないかと疑うほど、周りの空気が澄んで見える。なんて輝かしいオーラなんだ。目が焼けそうだ。
 俺は気づかれぬうちに横をすり抜けようとした。が、悟は目ざとく俺を見つける。

「おはよう、茅ヶ崎くん。久しぶりだね」
「……おはようございます」
「バスケ部の話、あれからどうだろう? 今は部活休みだけど、いつでも見学に来てくれていいからね」
「はあ……」
「じゃあ、今日も頑張ろうね」

 清涼な初夏の風に似た笑みが俺に向けられる。うぐぐと歯の奥で唸りつつなんとか頷きを返す。脳裏に、日光にやられて昇天するモグラの図が不意にちらつく。なんという情けない体たらくだ。
 横にいる太田が、そんな俺を目を丸くして見ていた。

「すげーな茅ヶ崎、生徒会長と知り合いなのかよ」
「……別に、俺が悪名高いだけだろ」

 そういう事情でもないのだが、俺は投げやりに答える。太田が口の端っこでちょっと笑う。
 教室にたどり着くまで他愛もない話をする。俺のなかの混乱と動揺はいつしかほどけていた。太田は普通にいい奴だった。
 
「そういえば、茅ヶ崎は試験勉強進んでる?」
「……まあまあかな」

 不意に、痛いところを突かれる。期末試験まであと二週間を切っている。実際は心のもやもやに阻まれてちっとも進んでなんかいないが、正直に言うのは憚(はばか)られた。
 突如として太田が、ぱんっ、と乾いた音をさせて両手を合わせる。え、何、と俺は軽く驚く。

「お願いがあるんだけどさ。良かったら数学、教えてくれないかな? 俺、数学すげー苦手で」

 唐突に切り出された頼みに、つい足の歩みが止まる。予想外ではあったが、嫌な気持ちはなかった。むしろ、
 ――俺でいいのかよ? 
 その思いが胸に広がる。
 咄嗟に反応できないでいると、太田はばつが悪そうに眉尻を下げた。

「悪い、駄目だったらいいんだ。いきなり無理言ってごめんな」
「いや……別に、俺はいいけど」
「マジで!?ありがとう!」

 ぼそぼそという俺の返事に、太田の表情がぱっと明るくなる。下がった眉が跳ね上がる。なぜそんなに嬉しそうなのか。
 自分の口が放つのは弁解じみた言葉だ。

「でも俺、あんま人に教えたことねーし、うまく説明できねえかも……」
「いや、茅ヶ崎が教えてくれるってだけで充分だよ! 俺も、現文か社会系ならちょっと得意だから、一緒にテス勉しようぜ。今日の放課後とかどう?」

 急展開に頭が着いていかない。かろうじてこくりと首を縦に振る。
 太田はほくほくした顔だ。自分の言葉でこんなに誰かの表情がプラスに転じた例なんて、最近ではちょっと記憶にない。

「良かったー。マジ嬉しいわ」
「喜ぶのはまだ早ぇだろ」
「確かに」

 太田が今度はぷっと噴き出した。
 やべ、ホームルーム始まる、と急ぐ周りの声に我に返り、俺たちは教室への移動を再開させた。
--
8「あれー、茅ヶ崎くんと太田っちが一緒に勉強してる!」

 放課後、自分たちの教室で、俺と太田は試験勉強を始めた。
 俺ら以外には、3人で勉強している女子グループが一組。そちらからは時おり静かな談笑が聞こえる。うるさくもなく、静かすぎもしない。これなら同じ部屋で、俺たちが少し喋りながら勉強していても大丈夫だろう。
 机をふたつくっつけ、上に必要なテキストや参考書を並べる。その脇に太田が、いくつか紙箱をぽんぽんと置く。

「購買でおやつ買ったから、適当に食べて」

 パッケージを順に見る。最後までチョコたっぷりのやつと、たけのこの形をしたやつと、コアラの行進のやつだ。見事にすべて小麦粉とチョコレートの組み合わせ。この暑い時期に。

「俺、甘いの駄目なんだよな、きのこなら食えるんだけど」
「茅ヶ崎はきのこ派かー。じゃ、次はきのこかしょっぱいのにするわ。購買に煎餅とかあったかな」

 太田は楽しげだ。次があるのか、と俺はうっすら感慨深く思う。
 こういうの、なんか高校生っぽいな、と考えていると、教室のドアがスライドする音に続いて女子の声がした。
 出入口に背を向けていた俺は、振り返って確認する。姿勢のいい二人の女子生徒が俺たちを見ている。ショートカットに茶色い眼鏡の女子と、長髪をなんだかややこしい形に編み込んだ女子。たぶん、同じクラスの生徒だが、確証はない。太田を太田っちと呼んだのは、先に入ってきた短髪女子らしい。
 太田が茶化すように言う。

「どうしたよ、天然コンビ」
「太田っち、天然の意味知ってる? ちゃんと辞書引いてみた?」
「その発言が既に天然なんだよな」

 二人は太田の知り合いのようだ。俺はこういう、一緒にいる奴に友達が現れるという状況に弱い。どうすればよいのか戸惑い、何もできなくなってしまう。
 近寄ってきた編み込み女子が口先を尖らせる。

「太田くん、茅ヶ崎くんに数学教えてもらってるの? ずるーい」
「茅ヶ崎くん、後で太田っちにアイスでも奢ってもらわなきゃ駄目だよ! 学校近くのジェラート屋さんとかで! できればダブルで!」
「いや……俺は……」
「私はピスタチオとチョコがいいなー」
「あたしはイチゴとオレンジかな」
「お前らふざけんな。勉強の邪魔なんだよ、帰れ」

 太田はしっしっと追い払うしぐさをするが、その顔には笑みがある。本気で言っているわけではないのが分かる。女子とは親しい間柄のようだ。
 その発言には無論従わず、短髪女子が身を乗り出す。

「私たちも茅ヶ崎くんに数学教わりたい!」
「は? 何言ってんだよ、迷惑だろ。なあ茅ヶ崎?」

 女子が積極的に関わろうとしてくることに面食らっていた俺は、太田に振られた話ではっとする。正直、一人に教えるのでも三人に教えるのでも、労力としてはそれほど変わらない気がする。
 俺はいいけど、と返答すると、女子二人がやったーと声をあげてさっそく机を移動させ始めた。
 二人が四人になる。俺は太田と、女子は女子同士で向かい合う。みんなの数学を見てやりつつ、文系科目を中心に、授業でポイントと言われたところを教えてもらう。授業を抜けることが多かったため、ありがたい。

「悪いな、茅ヶ崎。こいつらが急にお願いしてさ」
「いや、いいよ。つうかみんな仲いいな」
「あたしたち、部活が一緒なんだよね」
「そうそう、弓道部」

 なるほどと俺は納得した。それでみんな姿勢がいいわけか。

「弓道部って、冬とか大変そうだよな。寒そう」
「おー、大変だぞ。俺、中学ん時も弓道部だったけど、ありえねえよ。半分外みたいなとこでやってたから、極寒。死ねる」
「ありえねえのに、高校でも続けてんのかよ」

 太田の言葉が可笑しくて、つい声を出して笑う。
 その拍子に、3人がしんと静まり返った。
 俺のなかにまた動揺が戻ってくる。なんだ、この沈黙。今、笑っちゃいけないとこだったのか?
 どぎまぎしていると、斜め前に座る短髪眼鏡女子が、

「茅ヶ崎くんも、笑うんだねえ」

 としみじみと呟いた。
 なんだ、そりゃ。

「まあ、俺も人間だから……笑うときは笑うけどな」
「ばかお前、どうして平気でそういうこと言うんだよ。ごめんな茅ヶ崎、こいつ天然でさ」
「別に、気にしてねーよ」
「茅ヶ崎は優しいな」
「でも茅ヶ崎くんて、喋るとけっこう普通だよね。私ももっと怖い人かと思ってた」
「お前らなあ……」

 隣の編み込み女子が笑いとともに発した言葉に、太田が額を押さえる。こいつは割と苦労性のようだ。
 俺はほっと、息をつく。
 
「普通って言われると、なんか安心する」

 それは、偽らざる本心だった。
 これまでさんざん、周りから変わってると言われ続けてきた。自分でもそうだ、俺は変わり者なんだ、と思いこんできた。
 自分は他人とは違う。
 マジョリティの一員にはなれない。
 俺の内側にはいつも、疎外感や孤独感、孤立感といったものが、通奏低音のようにずっと流れていた。
 俺はいつでも、普通の人間になりたかったのだ。
 
「……やっぱり、変わってる」

 女子二人が顔を見合わせて笑うが、その笑い方には後ろ暗いところは何もなくて、親密ともいえる温かさに満ちていた。
--
9 結局、下校を促す校内放送が流れるまで、俺たちは和気藹々(わきあいあい)と試験勉強を続けた。ちなみに、3箱のお菓子は女子二人によってチョコが溶ける間もなく無くなった。女子ってすげえ。
 帰り際、太田が携帯を取り出し、俺の前で左右に動かす。

「茅ヶ崎、良かったらだけど、連絡先交換しない? うちで分からないとこあったら聞いてもいいかな」
「いいけど、俺メールと電話しかねえぞ」

 えっと太田が漏らし、SNS の名称をいくつか挙げるが、俺はすべてに首を横に振る。

「マジかあ……茅ヶ崎も登録してみたらいいよ。トークの方が楽だしさ」
「うーん……」
「じゃ、とりあえずメアド交換しようぜ」
「あたしも!」
「私も!」
「ちゃんと許可取れよお前ら」

 3人の(というより主に女子二人の)勢いに気圧(けお)されながら、俺は不慣れな連絡先交換の手順を踏む。もしかしなくても、これが高校に入学して初めてのメアド交換だ。
 無事に登録が済むと、短髪女子が俺の目を見つめながらにっこり笑った。

「茅ヶ崎くん、今日はありがとうね。おかげでちょっと分かるようになったよ。あたし、茅ヶ崎くんと一回話してみたかったんだ」

 横から、私も! と編み込み女子が加わってくる。

「喋ってみたかったけど、きっかけが掴めなくて。茅ヶ崎くんの教え方、すごい分かりやすかったよ。本当にありがとう」

 そんな風に思われていたなんて。意外すぎて、俺は返すべき台詞を何も思いつかなかった。怖がられているとばかり予想していたのだが。
 ありがとうという言葉は、人からの感謝など滅多に受けない俺には、少し、いやかなり、気恥ずかしいものだった。
 太田は呆れたと言わんばかりの視線を二人に向けている。

「どうせ茅ヶ崎がイケメンだからだろ」
「それが理由で何が悪いんですかー?」
「開き直んな」

 教室を出る。窓から見える景色はまだ明るい。ちょうど西の空にだけ、雲の切れ間がある。夕陽が空と雲を赤々と染め上げながら、今日という一日を引き連れて燃え落ちていく。

「茅ヶ崎はチャリ通? 電車通?」
「いや、俺はちょっと職員室に用があるから」
「これから? そっか、じゃあまた明日な。テスト終わったら飯でも食いに行こうぜ」
「私はイタリアンがいいなあ」
「あたしはタイ料理!」
「言っとくけどお前らには奢んねえからな」
「茅ヶ崎くんばいばーい」
「ばいばーい」
「聞いてんのかよ……」

 3人に手を振り返し、その後ろ姿が見えなくなったところで、俺はさてと体を反転させた。
 向かうは職員室だ。
 朝から予期しないこと続きだったけれど、悪くない日だった。やわらかく穏やかな気持ちで満たされている。これが充足感というやつだろう。
 "むやみに怖がらなくてもいいんじゃない。"
 昨日のヴェルナーの台詞を思い出す。確かに。今なら多少は同意できる。
 俺は一歩一歩しっかりと、歩数を刻むように廊下を進む。頭にあるのは、桐原先生のことだ。

 "ずっと前から知っていたんだ。"
 "8年前に、影を辞めたときからな。"

 先生のその台詞が、耳に残っていた。心の喉元ともいえる場所に、ささやかな、しかしくっきりした痛みの輪郭を持って、引っかかっていた。
 入学当初のことを思い返す。先生が、俺の試験の解答を美しいと言ってくれた瞬間のことを。俺の目をまっすぐ見て、俺一人のために向き合ってくれた時のことを。
 あの時の俺は何も知らなかった。先生の過去も。先生がいた世界も。先生が何を考えているかも。
 何日ものあいだ、自分を内面から苛んでいた問いを、今の俺は明確な言葉で表すことができる。

 それは、桐原先生が自分に目をかけてくれたのは、俺の信頼を得、影の話をすんなり信じさせるための"計画"ではなかったか、という疑念だ。

 俺が先生の立場だったとして、影の話を生徒に話すつもりがあるなら、その前にその生徒に目をかけておくだろう。でなければ、未来の見える人間がいるだとか、秘匿された倫理違反の犯罪グループの存在だとか、それに敵対する組織が身近にあるだとか、そんな突飛な話をすんなり信じられるはずがない。
 それこそ俺は、桐原先生が言うから渋々信じたのだ。ヴェルナー一人が相手だったら、馬鹿馬鹿しいと断じて帰っていた可能性だってある。
 "生徒のために何でもしたいと思っているものだ。"
 先生はそう言った。
 あれは、計算されたものだったのだろうか?
 あれは、俺の信用を得るための、本心とはかけ離れた方便にすぎなかったのだろうか。打算的で、まるで人間味のない、無味乾燥な行為だったのだろうか。
 俺はあの時、とても嬉しかった。やさぐれた俺の心に、あたたかい光が投射されたように思えた。
 しかし、俺のこの感情が、意図的に作り出されたものだったとしたら。
 桐原先生に直接問いかけて、もし答えがイエスだったら、俺は確実に傷つくだろう。そして再び、他人など信用に足らないという思いに囚われるだろう。
 昨日までの俺ならば。
 昨日の俺と今日の俺は、少しだけ違う。クラスメイトのおかげで、自分を受け入れてくれる場所が、どこかにはあるだろうと信じることができる。それは、ピアノソナタが短調から長調に転じるような、些細で、それでいて明確な違いだ。
 俺は桐原先生に会うために、先生に問いをぶつけるために、職員室に向かっている。下校時間が迫っているが、たぶん、先生はいるはずだという無根拠な確信を持って。
 弓道部員の彼らを真似て、背筋を伸ばし、胸を張る。ノックをして、職員室のドアを開く。
 今しがた帰ろうとしていた先生が、俺を見て驚きに顔を染める。それは果たして、桐原先生だった。
 職員室には他に先生はいない。好都合だ。

「なんだ、まだ帰っていなかったのかね。早く校舎から出た方がいいぞ」
「……聞きたいことがあるんです。"影"のことで」

 俺はまっすぐ先生の目を見据える。逸らさずに、真正面から。こんなにも近くから、先生の視線を受け止められる。
 先生はそんな俺の様子から何か察したのか、私の家に来るかね、と静かに問う。俺は何の逡巡もなく頷きかえした。
--
10
 桐原先生の家では、リビングのソファでヴェルナーがのんびりと寛いでいた。俺の護衛は先生の家を拠点にしているのだ、と説明を受ける。先生より先に帰ってるなんて、やっぱりこの人は真面目に護衛なんかやってないんだな、と思う。今さら、落胆も怒りもないけれど。
 俺の姿を認めると、まるで来るのを予期していたみたいに、整った顔を歪ませて上品とは到底いえない笑みをつくる。

「おっ、来たな。なあ坊っちゃん、オッドアイの黒猫に話しかけるのは、もうやめといた方がいいぜ」
「……あんたも見てたのかよ」
「見てたっつーか、俺は聞いただけだけどな。どこに人の目があるか分からねえんだ、ちょいと用心するのをお勧めするね。いいかい、人の目ってのはな、人間の目じゃないかもしれないんだぜ」

 さっぱり意味が分からない。この人は一体何を言っているのだろう。禅問答でもしているのだろうか。
 困って桐原先生に視線を移すと、肩を竦められた。放っておけ、という意味だと勝手に解釈する。

「ヴェル、少し外してくれるか。茅ヶ崎と話がしたい」
「はいはい、邪魔者は消えますよっと。あとは二人でごゆっくり」 

 ヴェルナーは不審なほど物わかりよくドアの磨りガラスの向こうへ消える。俺は桐原先生に促されてリビングのソファに座る。
 先生は、俺を見ている。星のない夜空の瞳。底知れぬ夜の海の瞳。

「聞きたいこととはなんだね」

 俺は思っていることを、考えていることをできるだけ詳しく話した。分かりやすく説明できた自信はないけれど、先生は何も言わずに耳を傾けてくれた。
 そして俺は問う。先生が、俺に声をかけてくれたこと。あれは計算だったのか、と。
 疑問を形にしてしまってから、無意識に腿の上で拳をつくる。掌にはいつの間にか汗をかいていた。緊張しているのだ。
 それでも、下を向くことはしなかった。
 先生がふ、と短く息を吐く。その口が開くところが、微速度撮影の再生かと思うほどスローに見えた。
 先生が、いや、とあっさり否定したので、俺の全身から一気に力が抜ける。

「あれは純粋に、教師としての欲求だったんだ。能力があるのに、それを持て余している。くすぶらせている。勿体ないと思った。それに、君があまりにも昔の私に似ていたから、見て見ぬふりができなかった」
「あの人も……ヴェルナーさんも、そんなこと言ってましたよね。俺、そんなに似てるんですか」
「ああ、いや」

 先生はいたずらが見つかった子供のように、決まり悪そうに笑う。らしくない表情だ。でも、悪くない表情だ。

「あの男が言うのは見た目だろう。そうじゃなく、境遇という意味でだ。私も数学に没頭したかったんだが、環境がそれを許さなかった。まあ、私は君とは違って、ただの凡人だがね」
「凡人なんて――」
「事実だよ」

 先生は、目尻を下げて、表情を緩める。

「私の行為が、君の言うように解釈できることに思い至らなかったよ。私のしたことが、君を追いつめていたんだな。すまなかった。あの事前問題と証明のミスも、私のせいだったんだな。どうか許してもらえないか」

 先生は深々と頭を下げる。元はといえば俺の勘違いが原因なのに。大人が躊躇いなく詫びる姿を見慣れていないため、慌てる。込み上げるものがある。そんな、と自分も頭を下げると、手の甲が濡れる感覚があった。ぽたりと、水滴が落ちたのだ。
 俺は泣いていた。
 自分がこんなに追いこまれていたなんて、知らなかった。ただこれは、悲しみとか怒りだとか、感情が昂ったときの涙ではない。感情が弛緩したときの、安堵の涙だ。
 この涙は、あたたかい。
 大丈夫かね、と先生がやや焦った調子で言う。俺は、おなかに力をいれて、はいと答える。昨日の力ない返事とは違うと宣言するように。一直線に、しっかりと先生まで届くように。

「それなら、いいが」
「……あの」
「うん?」
「数学の証明問題、試験が終わったら再開してください」
「ああ、分かった」
「それと、この前の質問の答えなんですけど」
「質問?」
「先生のこと、怖くないです。俺にとって先生は、先生ですから」
「そうか」

 先生が相好を崩す。立派なたてがみを持ったライオンを連想させる、強い包容力を感じる笑み。俺もつい釣られて笑う。
 そこで、話は終わったみたいだな、と舞台俳優ばりの大袈裟な仕種とともに、ヴェルナーが帰ってきた。

「いくら男の子とはいえ、他人を泣かすのは感心しないねェ」
「貴様、ドアのそばで全部聞いていたな」
「何のことだか」

 桐原先生は一転して凄味のある顔になる。刺々しく冷たい視線を、ヴェルナーは小首を傾げるだけで受け流した。

「それより錦、飯は」
「……今から作るから待っていろ。茅ヶ崎はどうする? 夕飯、食べていくかね」
「……はい」

 俺はまた迷わず答える。


 夕食は、煮魚を中心にした純和風の献立だった。
 茶碗に盛られた真っ白なご飯から、ほかほかと湯気が立ち上る。それがやけに眩しく目に染みた。
 俺の前に先生が座っていて、その隣にヴェルナー。日本人と遜色ないくらい器用に箸を使っている。へえ、とちょっと意外に思う。

「今回も遅くなってすまんな。親御さんに謝っておいてくれ」
「いや、食べていくと言ったのは俺なんで……。親には先生が準備してるあいだ、連絡しときました。母さ――母が、後で菓子折りとか持ってくかもしれません。いつもお世話になってますとか言って」
「そういうのは気持ちだけで充分です、と君から言っておいてくれ」

 穏やかだ。会話も、心の内も、料理の味も。
 食事の際に数日間感じていた、砂を噛むような感覚もすっかり無くなっていた。一回の咀嚼ごとに、素材の味が湧きだすみたいに濃くなってくる。それを存分に味わう。味わえる。
 美味しい。心の底から思う。とても美味しい。
 美味しさとは喜びなのだ。

「先生が作る料理って、ほんとに美味しいですよね」
「そんなにしみじみ言うほどではないと思うが……。自分の家で食べるものは違うのかね」
「いや、家のも美味いんですけど、洋食が多いというか――レストランみたいな食事が多いんで。こういう和食はあんまり無いです。おふくろの味っていうか」

 いきなり、黙々と箸を動かしていたヴェルナーが盛大に吹き出した。先生が信じられないといった表情を浮かべる。

「汚いな……何なんだね急に……」
「いやだって、生徒にもオカン認定される錦って……あーもう面白すぎ」

 ヴェルナーは肩をぷるぷる震わせながらダイニングを出ていく。扉が閉まった途端、一人で笑い転げるヴェルナーの声が聞こえてきた。

「ああいう大人になってはいかんぞ」
「分かってます」

 俺は神妙に頷く。
 できれば桐原先生みたいな大人になりたいな、とダシの利いた味噌汁を啜りながら考えた。

青とエスケペイド Escapade with Blue

青とエスケペイド Escapade with Blue

"自分には何ができるんだろう?" 模索する高校生と、彼らを取り巻く大人たちと、世界の裏側の景色。現代伝奇×青春もの。(更新中)

  • 小説
  • 長編
  • 青春
  • 青年向け
更新日
登録日
2016-02-18

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. Act.01 青空を二人占め
  2. Act.00 ちっぽけで勇敢な哲学
  3. Act.02 予感
  4. Act.03 君との距離
  5. Act.04 秘密
  6. Act.05 過去からの来訪者(前編)
  7. Act.06 過去からの来訪者(後編)
  8. Act.07 僕の青の理由