カエルの卵が見た夢は

ヒーローになれなくても、魔法が使えなくても、僕たちは生きていける。でも。

 僕はずっと空白を見つめていた。試験問題の解答欄、食べかけたドーナツの穴、予定のない来月のカレンダー。空白を見つめながらその隙間を埋めるすべを考える。空白は何も答えてはくれない。やがて僕の頭の中さえも空っぽにしていく、そんな恐怖だけをただ焼きつける。僕の頭の中にはいつも空白がある。
「ねえ、文集に載せるプロフィール、出してないのミカだけだよ」
「…うん、今書いてるとこ」
ハウシンカはそう言うと、カップに入ったミルクティーを持って僕の前の席に座った。放課後の教室には僕と彼女と、本を読んだり話をしたりしている人が何人かいた。いつもと変わらない、夕方の光景だった。
「あとどこが書けてないの?」
「ここ」
僕はプロフィール用紙の空白部分を指さした。
「他は全部埋めたんだけど。あと、ここだけ。この『子供のころの夢』だけがどうしても思い出せない」
黒く縁どられた枠は、異様な存在感を発揮していた。自分という存在の空白部分の象徴であると言わんばかりに目立っていた。ハウシンカはそれを見るなり、「なんだそんなところが書けてないんだ」とあきれたような顔をした。
「別になんでもいいのよ。ほら、警察官とかお医者さんとか。何かぼんやりこれになりたいなって思ってたもので。もしなかったら…最悪嘘でもいいけど」
「ハウシンカって案外適当な人なんだね」
「あんたが真面目に考えすぎてるだけだよ」
僕は頭をぽりぽりとかきながら「そうかなぁ」と答えた。昔からよく真面目と言われることはあったが、自分ではそうではないと思っていた。しかし、周囲からの評価がアイデンティティの確立に何らかの影響を与えていることは確かだと思う。
「そういう君は、なんて書いたの?」
「…『魔法使い』よ」
「それってアリなんだ」
「だからなんでもいいって言ったじゃない」
「ていうか『魔法使い』って使用禁止語句…死語だよね」
「でも昔はいたんでしょ?」
「もう随分と昔のことだけどね」
「夢のない世の中になったなぁ…」
彼女は呟きながら窓の外を眺めていた。視線の先に箒で空を飛ぶ魔法使いはいない。

「今、思いついたんだけどさ」
僕は用紙の空欄に鉛筆を滑らせた。ほんの数秒で、枠の中は埋まった。
「『正義のヒーロー』なんて、どうかな」
7文字で書かれた子供のころの夢は、恥ずかしそうにプロフィールへ加わった。気の弱いヒーローだなと、僕は苦笑いした。
「『魔法使い』と大して変わらないじゃない。…でも、いいね。『正義のヒーロー』。ミカらしい。ミカならきっとなれるよ」
「でも、子どものころの夢だろ?今の夢じゃない」
「じゃあ、ミカの今の夢って何?」
言葉が出てこなかった。空欄を埋めても、すぐに別の空欄が僕の目の前に迫ってくる。僕はいつから夢を失ったのだろう。この街に来てから?そもそも、いつから夢を見始めたのだろう。どうして大人になるにつれて、それを忘れてゆくのだろう。
「僕らさ、カエルの卵と一緒だよな」
「何、タピオカよ、これは」
ハウシンカはカップの下に溜まっていたタピオカを太いストローですすりながら答えた。タピオカはズズっと音を立てて、ストローの中を下から上へと移動していった。
「理科で習っただろ。最初はさ、何にでもなれるんだ。でも時間が経つにつれて、なれるものが限られていく。脳か、目か、手か、足か、それとも内臓か。いつの間にか決まっていて、一度決まったら後には引き返せない」
僕は鉛筆を机の上に置いた。教室には、もう人は残っていなかった。彼女のタピオカをすする音だけが、やけに誇張されて聞こえた。
「カエルの卵ってさ、綺麗だよね。私、授業中ずっと見てたんだ。下側が白くって、お月様に似ているなぁって」
カップに残ったタピオカの最後の一粒をすすり終えると、ハウシンカはニッと笑った。
「…今でも『魔法使い』になりたいって思う?」
「『魔法使い』って職業は年金をもらえないかもしれないから、あまり現実的じゃないかな」
彼女は僕のプロフィール用紙を封筒の中にしまった。プロフィールの他に作文や小説、アンケートなんかも文集に収められるため、完成はまだ先のことになるらしい。一区切りついたので、窓の鍵を閉めたり電気を消したりして、帰る準備をした。夕日のかすかな光だけが、教室にいる僕たちを照らし出していた。ふいに、ハウシンカが口を開いた。
「…もしミカが本当に『正義のヒーロー』だったらさ、私がこの窓から飛び降りても飛んできて助けてくれるよね」
彼女は一つだけ開け放された窓を背に笑っていた。その向こうで、世界は夕景をとどめたまま静止しているかのようだった。僕自身もシャッターをきったように動けなかった。ただ目を見開いたまま、ごくりと生唾を呑みこんだ。僕は以前、この光景をどこかで見たことがある。僕が僕を認識し始めたころから現在に至るまで、何度も何度も繰り返し見てきた。家の中で、街角で、教室で、そして、今この瞬間。僕が『正義のヒーロー』になれない答えが、そこにあった。
「…うまく助けられなくて、一緒に落っこちてもいいの?」
「その時は私が魔法を使うわ」
「それじゃどっちがヒーローかわかんないよ」

 僕たちはすっかり暗くなった教室を後にした。薄暗い校舎に階段を下りる足音がコツコツと響く。ハウシンカは途中で空になったカップをごみ箱に捨てた。僕はさっきの会話をもう一度思い出してみる。分裂した細胞は、脳になり、手足になり、内臓になる。そうして最終的にカエルになる。小さな白い月はカエルになってこの世界の食物連鎖のサイクルを回す。そして僕は今日、頭の中の空白をひとつ埋めた。階段をおりる足音はしばらく続く。
「私がもし、魔法を使って秘密警察に捕まるようなことがあったら、ちゃんと助けにきてよね」
冗談めいたようにハウシンカが言った。僕は小さくうなずいた。今もどこかでカエルの卵は分化している。

カエルの卵が見た夢は

カエルの卵が見た夢は

ヒーローになれなくても、魔法が使えなくても、僕たちは生きていける。でも。

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-02-18

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