屋上の独り言
昼休みはいつも、真っ白な空が見える屋上へ行く。
寝坊。遅刻。教室の注目の的になる。最悪の日だ。二つの講義を終え、ようやく昼休みになった。学校へ来る途中に買ったパンとコーヒー牛乳、ペンケース、ファイルを持って、僕はいつものように屋上へ行った。屋上には誰もいない。今日も白い空が箱庭のようなこの街を覆っている。僕は水たまりを避けて腰を下ろし、ファイルから原稿用紙を取り出した。
「そんなもの書いてるから寝坊したんだ」
後ろから影が話しかけてきた。僕の影は僕と違ってよく喋る。
「先生にも注意されたし、クラスのやつからもいじられるしさ」
影は僕の背中にもたれて大きなあくびをした。僕は何も答えなかった。影の言葉はいつだって正しい。それは僕自身の言葉であるはずなのに、まるで別人のように聞こえる。僕は書きかけの原稿用紙に目を落とした。主人公が楽園に入るための通行料として、自分の大切なものを天使に差し出す場面だった。
『それでは、通行料をお渡しください』
何を差し出すべきか、まとまらなくて続きを書けずにいた。主人公にとって大切なもの。それは肉体だろうか。例えば心臓。目に見えるものだ。それとも精神だろうか。例えば魂や記憶。目には見えないもの。楽園に入る対価としてふさわしいもの。筆はなかなか進まなかった。僕はパンをコーヒー牛乳で流し込んだ。全てがコーヒー牛乳の味になった。
僕が悩みながらパンを食べている間、影はずっと空を眺めていた。曇っていて面白いものなど何もないのに。
「わかってるよ、そんなことくらい」
影は呟いた。僕の心に返事をしたようだ。いつものことだから驚きはしない。影の声に惑わされないよう、僕は物語に集中した。
「…お前は、その紙切れの中の世界と自分を重ね合わせているんだろう?」
僕の集中をわざと乱すように、影は話し出した。
「自分をクリスタルの原石だと思い込んで夢や希望を描く」
「…」
「でも、どんな世界を創造してもお前は変わらない。お前だけじゃない。この街も、空も、教室の連中も。何一つ変わらないんだよ。そこにあるものだけがあって、いつか失われる。ただ、それだけだ」
大きく風が吹いた。音を立てて、屋上のけだるさを巻き上げていった。その流れに吸い込まれるように、僕の原稿用紙はぱたぱたと舞い上がった。白い空に混ざり合うように、舞い上がった。
「あ…」
僕は思わず声を漏らした。風に舞い上がった紙たちはみるみるうちに小さくなり、箱庭の街の中へと消えてしまった。
「あーあ、せっかく書いたのに。今日寝坊したかいがなくなっちまったぜ」
影に返す言葉もなかった。
「まあいいんじゃないの?どうせ書いたって、誰も読まないんだし」
僕の後ろで影はまた大きなあくびをした。空はどこまでも白く広がり、箱庭の街を覆っている。僕はこの街と楽園を再び重ね合わせる。通行料を一つだけ渡したとしたら、僕たちは何を失ったのだろう。
「…わかってるよ、そんなことくらい」
思いだしたかのように僕は答えた。昼休みの終わりを告げるベルの音が、ひどく遠くから聞こえた。
屋上の独り言