イチゴ

凛と彩、二人の姉妹は春休みのある日プチ旅行に出掛けていた。……と言っても、ただ苺狩りをしに行っただけのこと。
それでも二人にとっては旅行にいくような気分だった。彩が生まれた時に母親を亡くし、父親はたまにしか帰ってこない。
彼女達にとって親はおばあちゃんだけ。お互い胸の奥に伝えられない気持ちを抱えたまま、この日を迎えた。
家族とは何か？　自分は何の為に生まれてきたのか。彼女達がこれを気に成長することができるのだろうか

まだ桜が開花していない春のある日、私と妹の彩は電車に乗っていた。今日は彼女の誕生日であり母の命日でもある。あの子は今でも心の片隅で自分のことを責めているのではないかと心配しつつ、私も自分の進路で悩んでいた。今日だけでいいから、それを忘れてほしいと願いを込めて電車を降りた。
「んー。なんかザ・田舎って感じだね」
　さっきまで熟睡していた彩は外に出ると思いっきり背伸びして、深呼吸をした。
最初はだんだん変わっていく景色を一緒に眺めていたのに、気がついたら隣で大きないびきかいていたし……。ま、部活を頑張っている証拠だから文句は言わないけどね。彼女は今、中学一年生でバスケ部に所属している。運動部だからやっぱり土日も基本練習で学校がある日も、朝早くから練習があるし放課後も遅くまである。だから会話する時間があまりないし、ここ最近はどこでも寝る姿ばかりを目にする。私も……運動部がよかったけど何かとお金がかかるし、文化部だったらそんなにお金も時間もかからないって思ったら……。彩には金銭面のことで悩んでほしくないって言うのが姉としての本音だから。
「姉ちゃん？　ここに住みたいの」
「えっ、何言っているの」
「なんかずーっと同じ方向見ていたから、なんとなく」
　どんどん声が遠くなっていくと思ったら、バス停の前で時刻表を見る妹の姿があった。
……よかった。知らない場所で迷子になられたら捜すの大変なんだから。
「次、いつ？」
「今何時だっけ」
「十一時を少し過ぎた」
はぁ、腕時計つけているんだから自分で確認できるでしょ。お母さんのだけど……。彩の少ない休日だけどいろいろ聞きたいんだよね。それ次第で今後のこととか考え直そうかと思っているし、無理していないか心配だから。
「うわー、二十分も待つのか」
彩はそんなことを言いながらどこかへ歩きはじめた。
「どこ行くの？」
「コンビニ！　お腹すいた」
　彼女の向かう先には小さなコンビニがあった。まるで一人だけ取り残されたようにポツリと、この場所を守っているかのようにそれはあった。
「彩！　ついでにお茶も」
　だいぶ距離が離れていて声が届いたのかわからないけど、叫んだ。私が運動部だったら確実にあの子まで聞こえていただろうに……。私は時刻表にもたれかかりながら雲一つない空を見上げていた。私達の心もこれぐらい晴れればいいのになって心の中で呟きながら。

　バスが来る少し前に彩は帰ってきた。
「何買ってきたの？」
　彼女が持っている大きな袋を除くと飲み物が二本とお菓子にアイスクリーム、日焼け止めまで入っていた。
「はい、姉ちゃんもこれ塗って」
　彩に渡されて時期的にまだ早いんじゃないかと思いつつ、田舎だから日焼けしやすいんだと勝手に解釈した。
「彩、アイスなんて食べたらお腹壊すよ」
「大丈夫だって。もう、保護者じゃないんだから」
……一応あんたの保護者だよ、私。それにこれから苺狩りに行くっていうのに、そんなん食べたらお腹いっぱいになるでしょうが！　若干の怒りを抑えつつバスに乗った。

　車内はほとんど人がいなかった。呑気にアイス食べている彩をそっちのけで、変わらない風景を見ながら私も少しだけお菓子をつまんでいた。もし私達が田舎で暮らしたら、もっと彩が服を汚すだろうなと思いながら……。
バスにゆられて三十分、降りた第一声は
「嘘！　ゴミ箱がない」
　なんとも彼女らしい台詞だった。
「道端に捨てるなよ」
　彩に食べかけのお菓子が入った袋を押しつけて私は先に歩いた。
「ちょっと！　勝手に食べないでよ」
　後ろから彼女の声が聞こえるが、特に気にしない。なぜなら私がバイトで稼いだなけなしのお金を使っているのだから、私が食べても文句ないでしょ？
「お嬢ちゃん達、おはよう。それとも、こんにちはかな」
　坂道を下る中間に一人のおじいさんが立っていた。その人の後ろにはビニールハウスがあって、隣には小さな駐車場がある。
「こんにちは。私達、苺狩りに来たんですけど……」
「じょ。君達が木下さんか、待っておった」
……じょ？　気にはなったけど、きっと歳のせいかな。それとも田舎特有の何かとか？
「姉ちゃん、ちょっとこれ持って」
　後ろを振り向くと彩が自分の荷物と、さっき持たせた袋をつきだしている。地面に置けばいいのにと思いながら渋々持つと、入念に日焼け止めを塗り始めた。バスに乗った直後に塗らなかったっけ？　どんだけ焼けたくないんだよと思いつつ、おじさんについて行った。

「わー、全部苺だ」
　家族でどこかに出かける機会の少なかった私達、特に彩は無邪気にはしゃいでいる。
「やっぱりズボンのほうが動きやすいや」
　荷物をおく時、お気に入りのスカートで来た彩を着替えさせたのは正解だったな。もしなんかの拍子に汚れたりでもしたら、どうせ騒ぎだすと思ってたし。それにしても昔はあんなに長かったのに……運動部に入ると何かと髪が邪魔になるからね。彩はポニーテールが一番、似合うのにもったいないな。なんか新人戦？　で負けたのが悔しかったのか、けじめのつもりでショートにしちゃったの、しかも自分で。呆れておばあちゃんとため息ついて、その話を電話で父さんにしたら爆笑されて……その後、美容院に行かせたけどさぁ。
「姉ちゃん今日なんか変」
　彩が不思議そうに私の顔を覗き込む。
「考え事。長女にはいろいろ悩みがあるの」
「次女だってそれなりに悩むよ」
　どうせこれ終わったら何食べようとかでしょ？　おばあちゃんから少しだけ貰ったし、焼肉か寿司にでもするか。その代わりバスには乗らず歩かせるけど。
「二人は仲がいいのぉ」
　優しそうな表情でおじいさんは言った。でも同時に悲しそうでもあった。この人の事情はわからないけど、だいたい孫にあまり会えていないとかもしくはもう……やめよう。あの子に“死”という言葉を連想させるわけにはいかないから。
「おじいさんは一人ぼっちなの？」
　あのねぇ……体は中学生になりつつあるのに心は小学生なんだから。
「じょ。でも婆さんが大事にしていたこの場所を、守る義務がある」
「そっか。じゃあ姉ちゃんと同じだね」
　えっ……。なんとも彩らしくない言葉だった。彼女は少しだけ悲しそうな目をして奥へと進んでいった。さっきまで輝いた目をしていたのに、やっぱりあの事を忘れられないのかな。忘れろなんて無茶は言わないけど、彩のせいじゃないよと口で言えない自分もいる。あの子が生まれてこなければお母さんは死ななかったから……。

　それからは無言の状態が続いた。私はうまい言葉がみつからず、彩は無理して笑っている。おじいさんも察してくれたのか喋らず、身振り手振りで取り方を教えてくれる。私はおじいさん越しにいる彩の様子を見ながら考えていた。そもそも苺狩りなんかじゃなくて違うのにすれば良かったと。だって母の名前は“苺”だし……。
「うわっ！」
「ヒャッ」
「どう？　驚いた」
　そりゃ、いきなり大声出されたら誰でも驚くでしょう。そう、おうとしたけどやめた。なぜなら大量の苺が入っているボウルを抱えて、満面な笑みを見せられたら何も言葉なんかでないよ。
「姉ちゃん、全然取れてない」
　……あんたの事ばかり考えていたら集中できなかったの。でもまぁ、今の笑顔は心から本当に楽しんでいるんだと分かって安心したよ。昔から嫌なことをほとんど言わなかったけど、表情見ればなんとなく分かるからね。そんな彼女に何も言えない自分が一番嫌いだ。
「姉ちゃん、姉ちゃんってば！」
「わっ、うん。何」
　体を揺らすのはいいけど少しは手加減してよね。部活で鍛えらているせいで毎回毎回、骨が折れるかもしれないってヒヤヒヤしているんだから。
「これ全部あげる」
　彩は持っていたボウルを渡して行ってしまった。……意外に重いな。まさか、さっきの仕返しされているわけじゃないよね？
「彩、姉ちゃんが全部食べても文句言わないね」
　目を閉じて数秒待ってみた。するとどこからか足音が聞こえた。しかも猛スピードでこっちに向かってくる。それにしてもまた走るの速くなったなぁ。
「私に持たせて下さい」
　私の目の前に来て彼女はそう言った。とても真剣な目で、少しだけ息切れしている。なんだか一瞬だけ妹が後輩に見えたのは気のせいかな？
「はい、じゃあよろしく」
　おそらく今日一番の笑顔で言ったかもしれない。……うん、やっぱり彩が生まれてきてくれてよかった。だって少なくとも彼女がいる限り、私は手ぶらで歩けるから。

「今日はありがとうございました」
「じょ」
　おじいさんにお礼を言ってから私達はビニールハウスを後にした。
「ある意味、変わっていたね」
　歩いている途中に彩が呟いた。まぁ確かに変わっていたけど、もしかしたらかまってほしかったのかもしれない。あのおじいさんはきっと不器用な人なんだと思ったから。だって私の知り合いに似たような人がいるし……。
「姉ちゃん、お腹すいた」
　本当、この子の胃袋を見てみたいわ。だってバスの中ではアイスを食べて、さっきは苺を食べていたのにその言葉が普通でるかよ。よく食べるのに全く太らないその体、クラスの女子に言ったら羨ましがるだろうな。
「焼肉と寿司どっちがいい」
　結んでいた髪をほどきながら私は言った。バスで一回通ったとはいえ、自分の記憶を頼りに道を歩くので少しだけ不安だ。でも彩が隣りにいると不思議なことに大丈夫な気がする。
それは彩だからなのか、一人じゃない安心感なのかはわからないけど……。
「姉ちゃん高校卒業したら髪染めたら？」
「なんで急に」
「うーん、勘かな。黒より茶色のほうが似合いそう」
　その勘は信用できるのかね。内心思いながら胸くらいまである髪を触った。似合うのかはわからないけどまぁ雰囲気は明るくなるだろうね。もし進学することになったら試しにやってみようかな。
「で、どっち」
「回転寿司！　ケーキ食べたい」
　……寿司食べろよ。何も言わずに彼女を睨んだ。
「自分だって味噌汁飲むくせに」
「うるさい」
　点滅し始めた信号を急いでわたった。いつもだったら待つのに今日の自分は違った。進路の選び方は小学校や中学校の時とは違って、これからの人生に繋がっていく大事な一歩。私は自分よりも家族を特に彩のことを優先して今まで生きてきた。いつもだったら迷わず就職と選ぶのに、部活を頑張っている彼女の姿を見たら羨ましいって思った。何も考えず、がむしゃらに目の前にある壁を壊そうとしている。自分の生き方を否定しているわけじゃないけど、ああいう生き方を一度でいいからしてみたいと今更思ってしまったのだ。
「姉ちゃん、やっぱり焼肉にしよう」
　その言葉を聞いたとたん足が止まった。一度選んだら意見なんか変えない子だったから。
「久しぶりにゆっくり話したいなって。あるでしょ？　お互い」
　とてもか細い声で今にも泣きそうな顔をしていた。おばあちゃんへ渡す、苺の入った袋をぎゅっと握りしめていた。
「うん、ちゃんと野菜も食べたらね」
「きちんと話してくれたら食べるよ」
　その後もしばらく歩いていたが口が開くことはなかった。その代わり大きくなった彼女の手が私の小指を握っていた……。

　店内に入ると彩はすぐにメニューを開き、
「何食べようかな？」
　って、とりあえず荷物置けよって思ったけど。
「肉の二倍、サラダを食べなさいよ」
「えー。ご飯食べるから二倍は勘弁して」
　こんなことを言っているが、結局サラダばっかり食べていたけどね。まぁ部活やっているせいか食生活には気をつけているみたいだね。
「で、何から話す」
　肉を焼こうとした時、彼女が切り出した。
「じゃあ私から。彩は今の生活どう思っている」
　すると彼女は数秒間、目をつぶって言った。
「それって……姉ちゃんの進路に関わる？」
　私は視線をそらして小さく頷いた。
「このままじゃいけないとは思ってる」
「それは、どういう意味」
「とりあえず食べよう」
　その時の顔があまりにも真剣で、何も言えなかった。彼女の口からどんな言葉が出るのか期待と不安、両方の感情を抱えながら焦げた肉を食べた。

「もしさ、パパが再婚したいって言ったら賛成する？」
　それは一通り食べ終わった後のこと。おそらく肉を焼くのに集中したかったのだろう。最後の一枚を焼き終えて、彼女は大きなため息をついていた。
「賛成するよ。家事の負担とかだいぶ減るし」
「それは私やばぁばの為でしょ。そうじゃなくて姉ちゃん自身は」
　鋭い目でこっちを見た。……なんか今日の彩はいつもと違う。
「……どちらの答えにしても時間がかかるってことだけは言える」
「そっか」
「彩は？」
　それはしちゃいけない質問だったかもしれない。彩は悲しそうな目で、
「いらない」
と言った。それからしばらくしてこう聞いてきた。
「姉ちゃん、私が生まれてきた意味って何？」
　一瞬だけ、どう答えようか迷った。でも母さんとの約束を守りたくて、その思いが私の背中を押してくれた。
「名前の由来、何だと思う？」
「……わからない。どっちが決めたの」
「母さんだよ」
　彼女は少しだけ微笑んだ。私達は母親という存在をあまり知らないまま、生きてきた。特に彩は写真でしか見たことがなく、気をつかっているのか彼女との思い出話などを誰も話そうとしない。私もその一人だ。彩を悲しませてしまうかもしれない想いと、自分まで辛く感じて同時に怖くなる。でも今、彩の表情を見てわかった。この子はちゃんと知りたいんだ。
母親については勿論、自分が産まれてくる前の家族を……。
「この本を読んでみて。母さんの願いがわかるから」
私は鞄から一冊の本を取り出したて彩に渡した。
「……友達？」
「そう。主人公の凛は自分の気持を殺して学校生活をおくっていて、彩って子がある日、転校してくるんだ。で、彼女は辛い悲しみを背負って生活しているの。」
「ストップ！　それ以上言わないで」
「わかった。ちゃんと最後まで読むんだよ」
　彼女はその本を大事そうに両手で抱えていた。まるでサンタから欲しいおもちゃを貰えた時みたいな幸せそうな顔しちゃって……。誕生日の時もそれぐらい喜んでよ。昔は無邪気に喜んでいたのに、今じゃ“これ買って”だからなぁ。
「この本、随分ボロいね」
　……そりゃ、お守りとしてずっと持っていたからねぇ。私の管理に多少の問題はあるけど。
「ママ」
　私は彩の隣に座り、そっと彼女を抱きしめた。知らない間に、いろんな荷物をこの小さな体に背負わせてしまったのかもしれない。もし父さんから再婚したいって言われたら、この子は……きっと賛成するんだろうな。だって私と同じで家族を大切にしているから。
「姉ちゃんごめんね」
「ううん。こっちこそごめん」
　“生まれてきてくれてありがとう”っていつか、この子が大人になる前までに言えたらいいな。姉として、母さんの代わりとして……。

彩の涙がとまるまで私は抱きしめ続けた。しばらくすると彼女は落ち着き、
「帰ろう」
　小さな声でそれだけ言った。帰りの電車で喋ることはなかったが、店を出る時の彼女はいつも通り笑っていた。

　家の最寄りについたのはだいたい夕方頃だった。
「夜ご飯、ハンバーグがいいなぁ」
　何を言い出すと思ったら……さっきまで焼肉食べていたのに、もうお腹すいたのかよ。
「焼き魚にしてほしいな」
「えっ！　それなら刺身がいい」
　そんな高級品を誰が買うと思っているのかね？　あっ、一人だけいる。父さんだ。
「電話してみるか」
「えー、答え合わせはご飯の時でいいよ」
　私は目の前にある建物を指でさした。それは駅の近くにある大型のスーパーで、食材を含めて買い物はいつもここで済ましている。だからもし材料が足りない場合や買うものがあるなら、わざわざ帰ってからまた外に出る無駄が省ける。それを目で訴えた。“あんたとは考えていることが違うの”って意味も含めて……。
「聞こえないように話してよ」
　彩はすねたようにツンとして店の中に入っていった。どうせまた“これが欲しい”とか言いだしそうだけど、今日はもう買わないからね。彼女の背中を睨んでから電話した。
　プルルルルル、プルルルル
　……あれ？　珍しくでない。今日は出かけないはずだし、昼寝だとしてもとっくに起きている時間なんだけどな。
「どうしたの？」
　服を引っ張って彩が聞いてくる。食品売り場でお菓子でもながめていると思ったから驚いた。多分ゴミでも捨てたのだろう。食べに行った時、置いてくれば店員が処分してくれたのにね。
「電話、出ないの」
　彼女に携帯を渡してから言った。
「番号でも間違っているんじゃない？　かけ直すね」
　……私、そんなミスしないけど。彩がもう一度かけ直したが、やっぱり出なかった。
「寝てる？」
「ないな。だってこの時間はいつも、洗濯物たたんでいるから」
　おばあちゃんには平日も祝日もやることは変わらない。彩はこの時間、部活でいないけど私は学校から帰るかバイトに直行しているかだ。買い物でもしているかと思ったが、それなら私に頼むはずだ。
「姉ちゃん？」
　嫌な予感がした。この恐怖、覚えがある。病院に行った時に母さんから母体か子供、どちらかが助からない可能性があるって言われたこと。その時は子供を優先してほしいと父さんにお願いして、私には……。
「帰ろう！」
　彩に思いっきり強く手を握られて、私達は走った。時間にして約十間。私には地獄のように辛くて何回も足をとめそうになったけど、その度に彩の背中を見た。私より一回り小さいのにその背中は大きく見えた。
　お願い！　おばあちゃん、どこにも行かないで。
「はぁはぁはぁ……」
　ようやく家の前に着いた時には二人共、呼吸を整えるので精一杯だった。
「彩、下がって」
　気持ちを落ちつかせる為に深呼吸を一回してから玄関のドアに手をふれた。どんなことがあっても私には母さんとの約束がある。死んでも守ると誓った約束が……。
　ドンッ
　力をこめてその扉を開けた。
「……姉ちゃん、前ぇ」
　後ろから震えた声が聞こえる。見たくないけど私がしっかりしなきゃいけない。だから恐る恐る顔をあげると、
「……」
　言葉なんて出てこなかった。立っていることすら出来なくてその場にしゃがみこんで、
「携帯、私の……とって」
「はぁはぁ、うん」
　なんで。お願いだからこの体、動いてよ。やらなきゃいけないことたくさんあるんだよ。
何の為に私は今まで生きてきたの。母さんとの約束、彩を、妹を守る為でしょ？
「どこにかければいい？」
「救急車と父さん……」
　まだ、うつ伏せだったから良かったのかもしれない。これが仰向けだったら母さんを思い出して、もっと酷かったはずだから。父さん！　お願いだから帰ってきて……。
　私達が見たのは、倒れているおばあちゃんの姿だった。
「母さん、まだ連れていかないで」
　こんなに大粒の涙を流すのは、あの日で最後になるはずだったのに……。

「パパのバカ！」
「彩、落ちついて。とにかく座ろう」
　ここに来る前に父さんには何回か電話して繋がったけど、
「今は海外にいるからすぐには帰れない。でも近いうちに戻るから」
　と言われた。その後すぐにサイレンの音が聞こえたから保健証とかいろいろ探して……。動いたらだいぶ呼吸が楽になった。車内では彩がおばあちゃんと私の手を強く握ってくれた。涙目になりながら大丈夫、大丈夫って何回もまるで自分に言い聞かせているようだった。
「姉ちゃん喉、渇いたでしょ？　何がいい」
「えっ、いや大丈夫。私が買ってくるから」
「足、震えているよ。無理しなくていいから、私はさっき泣いたから」
　彩は震えていなかった。手も足も、声だっていつも通りだ。
「強いね、妹のくせに」
「運動部だからメンタルは鍛えられている」
　私は彼女に財布を渡した。角を曲がるまでその背中をじっと見て、
「待って」
　急いで追いかけた。やっぱり一人になるのは怖い。あの時は、病院の待合室に父さんとおばあちゃんの三人でいた。でも夜遅かったから私だけ先に寝ちゃったらしく、朝起きたら母さんが死んで妹が生まれたと聞いた。その時の父さんは冷たくなった母さんの体をなでで、
“よく頑張った。後は俺に任せていいから……な？”
　初めて笑っていない父さんを見た。私も隣に座りたかったけど、
“二人きりにしてあげよ”
　おばあちゃんがそう言った。だから父さんが笑えるまで待合室でずっと待ったんだ。何も飲まず、食べずただずっと座った。
“どんなことがあっても彩を守って、味方でいて”
　その言葉を繰り返し、自分に言い聞かせながら……。
「姉ちゃん？　温かいお茶、二人で半分こしよ」
　気づいた時には彩の手は震えていた。自動販売機にあるボタンを押すだけなのに、彼女は前に進めずにいた。
「一緒に押そう？」
　私もリードしようと思ったのに震えた声で言ってしまった。どうか母さん、彩だけでいいからこの震えを止めて……。

　それからどのくらい経ったのだろう？　彩は泣きつかれたのか寝てしまった。さっき渡した本をとても大事そうに抱えて……あの時の私もきっとこうだったのだろうか。手術中と書かれた赤いランプは相変わらず消えない。本当はそんなに経っていないのに時間が長く感じるのか、一般的に手術にどれくらい時間がかかるのかわからない。不安な気持ちがだんだん増していく。時計を全く見ないのは自分を余計に追いつめると思ったから。
“凛”
「……母さん？」
　その声は確かに母さんの声だった。そんなことあるわけないと分かっているけど、今だけは例え幽霊だとしても母さんと話したい。
「父さんが海外にいるの、今。だから……」
“大丈夫”
　それと同時に携帯のランプが光った。父さんからだ。
「もしもし」
「凛！　大丈夫か？　どこでもドアがあったら今すぐ会えるのに、強風でな……」
「私、大丈夫だから！　彩を守るって約束、母さんと指切りしたから」
　父さんはしばらく何も喋らず私の言葉をただ聞いてくれた。私の話が終わると、
「タケコプター作って必ず帰るからな」
　それだけ言った。冗談だってわかっているけど、あまりにも真剣な声だったからつい笑ってしまった。
「お嬢ちゃん」
　振り向くと赤いランプは消えていて、一人のおじさんが立っていた。
「おばあちゃん、もう大丈夫だよ」
「本当ですか？」
「ごめんね。おじさんの手術、いつも時間かかるんだ」
　笑ってそう言ってくれた。その後、白衣を着た女の人に仮眠室と書かれている部屋に案内されて私はようやく眠ることができた。本当はまだ安心できなくてずっと枕を抱いていたら、おじさんが来て教えてくれたんだ。
「おばあちゃんは何かに転んで気絶しただけだよ。もう歳だから心臓に少しだけ、ほんの少しだけ負担がかかっただけ。目が覚めたら前よりもピンピンしているよ！」
　それから私が眠るまでいろんな患者の話をしてくれた。でもその後に彩が起きちゃったらしくてもう一回、同じ話をしたらしい……。

　翌日、私は目が覚めるとおばあちゃんの病室へと足を運んだ。彩の姿がなかったから多分、先に行っているのだろう。部屋の前で軽く呼吸を整え、ドアを開いた。
「おばあちゃん心配したんだからね」
「ごめんよ」
　笑いながら話す二人を見てやっと私は安心した。よかった。もし、あの時の父さんみたいに彩がなったらどうしようって……その心配は必要なかったよ、母さん。
「で、何に転んだの？」
「自分のスリッパだって」
　はぁ？　おばあちゃんの頬を軽くつねって言った。
「ちゃーんと説明してくれるよね？」
「ひゃい」
　近くにあったパイプ椅子に座って聞いた。勿論、睨みながら……。
　おばあちゃんによると私達が家を出た後、彩がハンカチを忘れていることに気づいた。で、まだ間に合うと思ったらしく廊下を走ったら足がもつれて、さらに履いていたスリッパにつまずいたらしい。転び方が悪かったのか歳のせいか、こんな大袈裟なことになったらしい。
「本当にそれだけ？」
　今度は強くつねって聞いた。私達がまだ子供だからって、おばあちゃんは何かを隠そうとしている。彩は気づいていないと思うけど私にはわかる。女の勘って意外と当たるんだよね。
「うん。大丈夫、大丈夫。何もないよ」
「そうだよ。とにかくばぁばが無事だったんだから、ね？」
　ずっと笑顔を絶やさないおばあちゃんを見て思った。こりゃ何をしても絶対に口を割らないだろうな。まぁ少なくともこの子の前では……。
「とりあえず、おばあちゃんは走ることしばらく禁止。それに彩！　持ち物の確認は必ずやること。どうせ今回もしてなかったんでしょ」
「はい」
　もう……ハンカチなんて届けなくてもいいんだよ。鍵とかならまだしも、彩が大切にしているわけでもないんだから。
「凛ちゃんありがとう」
　私の冷たい手をおばあちゃんは両手で握ってくれた。
「いなくならないでよ」
「二人が成人するまでは死なないよ、絶対。約束」
「うん」
　私はもう片方の手を重ねた。決して綺麗とはいえないけど、この温もりは歳を重ねても変わらないんだね。
「あっ、ずるーい。私も入れて」
　仲間外れにされた彩はハンバークを挟むかのように、優しくおいて強く握った。
「これ何バーガーかな？」
「さぁね。そもそも具材がはみ出ている時点で商品じゃないでしょ」
　それに私達のパンになる人間はあんたじゃないでしょ。もう一人、家族がいるんだから。
「二人共、ケーキ作るよ。どうせ待っていれば帰ってくるんでしょ？　あんたらのパパは」
　そうだね。父さんは必ず帰ってくるからね、お土産たくさん抱えてさ。
「じゃあ苺、たくさん買わなきゃね。それで一番大きいのを上にのせて……」
　はいはい、ショートケーキを作るのね。……ん、あれ？
「彩、生クリーム苦手だよね？」
「うん。だから生クリームなしで」
　それって何ケーキになるの。ショートケーキの生クリーム抜き……長いな。
「はい。姉ちゃん」
　彩が両手を出して……えっ。また、私が自腹をきらなきゃいけないの？

　それから約一週間後、ようやく父は帰ってきた。お土産を集めるのに相当、時間をかけたそうだ。それが嘘だとはわかっているが本当の理由は誰も聞かない。帰ってきた。それだけの事実があれば、もう十分だ。
「パパ！　帰ってくるの遅いからケーキ食べちゃったよ」
　彩が頬をふくらませながら怒っている。スポンジに苺を大量にのせたものを、ケーキと呼んでいいのだろうか？　自問自答しつつ、写真を見せた。
「おぉー、美味しそう。俺も食べたかったぁ」
　バカな父親だと思うのは私だけだろうか？　スーツケースいっぱいに食べ物や服、雑貨なんか買って…そんなに必要ないだろ、と毎回思っている。
「そろそろ一緒に暮らしたらどうだい」
　おばあちゃんが呆れたように言った。外国に行って何をしているのか私達は知らない。
「いやー、まぁ」
　頭をボリボリかいて答える父。目をキョロキョロさせて……はぁ。
「あんた！　いつまで凛ちゃんに負担、かけさせるの」
　突然の怒声にびっくりした。
「……ばぁば」
　それは彩も同じだった。約十年、一緒に暮らしているけど怒ったところを見るのは初めてだ。……こんな一面あったんだ。
「二人共、席を外してくれる？」
「……はい」
　私達はかるい放心状態のまま部屋を出た。
「おばあちゃん長生きしそうだね。心配しなくても」
「当たり前でしょ。ばぁばだよ」
　私の荷物をようやくおろせそうな気がした。
「それで結局、あの本のオチって何？」
　知らんぷりをして私は天井を見上げた。もし父さんがここに帰ってくるのなら、看護学校に行きたいって頼んでみようかな？　それと再婚はしないでって約束してもらおうかな。

　この時まだ私達は知らなかった。おばあちゃんの病気について……。

大好きな苺を使った作品。
将来、子供が生まれたら凛と彩って名前をつけようって決めているんです。
彼女達がこういう子になってほしいと願いをこめて書きました。
最初の作品に比べて少しは成長できたかな？