世界テクテク旅ヨーロッパ 旅情編 『アルハンブラからコルドバへ』
懐かしいスペインの印刷の悪い絵葉書の中に40年前の思い出が花開いた。
いつもの事だが、仕事柄海外からの絵葉書も仕分けする。 今朝は懐かしいスペインの印刷の悪い絵葉書の中にグラナダのあのアルハンブラ宮殿の写真を見つけ、40年前の思い出が花開いた。
夕日に映える『アルハンブラ宮殿』を後に約4km先のグラナダ駅に急いだ。 これからどうしよう、どこへ行こう。
お姉ちゃんは、寒くなったので今晩ここに泊って、翌朝日の出と共に起きて、チューロスとホット・チョコレートの定番朝食を取りながら朝日に輝くアルハンブラを見てから、地中海に面したリゾート地コスタ・デル・ソル(太陽海岸)の中心地で、画家ピカソの出身地であるマラガへ行こうと言ったが、俺は貧乏旅行者でお金がないので暖房の利いた列車内で寝て、翌日改めてマラガ経由でイスラム時代の文化を伝えるコルドバに行く事を提案した。
グラナダの11月後半の夜は寒く手袋を持っていない俺の手は氷のように冷たかった。一緒に歩いていたお姉ちゃんがさっと手袋の右手を差し出し、左手を暖かい手で握りながら歩いてくれたので優しさと暖かさで胸まで熱くなり、お姉ちゃんを見るとにっこりした口元に片えくぼがほほ笑んだ。
グラナダ駅に到着し早速時刻版を見ると夜9時57分発翌朝9時29分バルセロナ・サンツ駅着のトレンオテル(夜行列車)があったので、それに乗車した。 昼間の疲れから、発車後5分も経たない内に眠りに落ち、きがつくと定刻のバルセロナ到着寸前で、急いで降車し時刻表を見ると50分後の10時20分に同駅を出発し午後2時55分(約4時間35分)にコルドバ行き列車があったので急いで乗り換え無事コルドバに到着した。 このように、列車の旅はいつも時間との戦いだった。
『コルドバ』は人口約30万人、コルドバ県を南北に横切る東から西へ流れるグアダルキビール川(アラブ後で「大いなる川」の意)の中央に位置する。 この川の恩恵を受けたコルドバの土地は、主に穀物、綿花、ぶどう、オリーブ等を産出し、観光的には、回教寺院(メスキータ)はもちろん、白壁に色々の花々がよく映えた中庭(パティオ)が美しい旧ユダヤ人街もあり、「コルドバ歴史地図」が世界遺産に登録されている町で、メスキータは、一般的には固有名詞として、ここにあるカトリック教会の司教座聖堂「コルドバの聖マリア大聖堂((Catedral de Santa Mar・a de C・rdoba)」を指す場合が多く、メスキータは「モスク」(」(ひざまずく場所)、イスラム(回教徒)の礼拝堂の意味で、スペインで現存する唯一の大モスクである。
スペインのあるイベリア半島は8世紀アフリカ大陸からやってきたイスラム教徒の支配下に入り、同地をアラビア語=「アル・アンダルス」と呼び、785年、イスラム教の寺院としてアブデラマン1世は、グワダルキビール川の流れが変わるコルドバの小高い丘の上にメスキータの建設を始めた。 その地は紀元2世紀、戦勝祈願を行ったローマ神殿があったという伝説があり、西ゴート王国時代には聖ヴィアンテ教会があった神聖な場所でもある。
このモスクはイスラム教第一の聖地であるメッカに次ぐ規模で、当時は一度に2万5000人もの信者が祈りを捧げることができたと言われているが、500年続いたイスラム支配もキリスト教徒のレコンキスタ(国土回復運動)により崩壊した歴史を秘めている。 単一宗教の日本人には馴染みのない宗教の堅苦しい歴史を紐解かせる町だった。
現地の人に聞くと6、7月頃、周囲のゆるやかな丘陵地帯には一面「ひまわり」の畑が広がると言う。 コルドバのあるアンダルシア州の北隣のカスティーリャ=ラ・マンチャ州を舞台にし、風車やそのひまわり畑沿いの道をドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャと名乗り、痩せこけた馬のロシナンテにまたがり、従者サンチョ・パンサを引き連れ遍歴の旅に出かける、ドンキ・ホーテのシーンを思い出しながら昼食のレストランに入った。
一歩先に到着したお姉ちゃんは気の利く人で、メニューを決めてオーダーしてくれていたのでほどなく料理が出てきた。 それはドンキ帆立の白ワイン仕立て(サンチャゴ・デ・コンポステーラ)だった。
あのレストランもあれから40年以上も経ち今はもう帆立小屋になっているだろうな、そしてお姉ちゃんは今どうしてるのかな・・・・・・?
そんな思い出が時と共に風に吹かれ空高く舞い上がり・・・・・・、しばし止まった仕分けの手にボスの視線が痛かった。
世界テクテク旅ヨーロッパ 旅情編 『アルハンブラからコルドバへ』