橙色のミムラスを、笑わない君に。【番外編】
~ あの日のふたり ~ ■ 前 編
『何年ぶりだろう・・・。』
シオリがそっと目を細めて見つめる先に、懐かしい校舎が見えてきた。
緩やかな坂の上にそびえ立つ休日のそこは、校舎の開け放した無数の窓から
吹奏楽部の奏でるアルヴァマー序曲が春風に乗ってよそぎ、校舎脇の緑色
フェンス奥のグラウンドからは運動系部活の活気ある声が響く。
ショウタとシオリ、
ふたりは想い出がいっぱい詰まった高校に遊びに来ていた。
懐かしい通学路を微笑み合いながら手をつなぎ寄り添い歩くふたりの脇を
ロードワーク中の野球部の生徒数人が走り過ぎる。
坊主頭でユニフォーム姿のそれはチラリと一瞬ふたりに目線を投げ、
仲良さそうに幸せそうにしっかり絡め合うその手と手に、あからさまな
羨望の眼差しを向ける。
情けない善人顔の長身横に並ぶ黒髪の女性にふと目をやると、それは目を
見張るほど美人で思わず無意識に足が止まったその生徒。
立ち止まり振り返ってこっちをじっと見ている姿に、シオリがにっこり
微笑み返すと慌てて赤い顔を隠すように向き直り、踵を返し猛ダッシュで
その坊主頭は消えた。
それを見ていたショウタが繋いだ手をぐっと小さく引っ張る。
『ん?』 引かれた手にシオリは不思議そうにショウタを見つめると、
こどもの様な不満気なふくれっ面を向ける大きな猫背。
シオリは、可笑しそうにケラケラ笑った。
『バカねぇ~・・・。』
来客窓口に立ち、差し出された名簿に必要事項を書くショウタとシオリ。
名前や卒業年度を書き込み照れくさそうに小さく目を合わせ微笑み合うと
貸し出されたスリッパに足を入れ懐かしい校内へ歩みを進めた。
休日の静かな長い校内の廊下を、ふたりはゆっくりゆっくり進む。
スリッパのペタンペタンという足音がふたり分響く大きな歩幅と小さなそれ。
懐かしい校舎の独特なにおい、空気、風。 なにもかも、あの頃のままで。
ふたりはいまだにどこか緊張感漂う職員室の前を通り、校長室の重厚な扉を
眺めて靴箱がある方向へと向かった。
あの頃、クラスが別々だったふたりは勿論靴箱の位置も少し離れていた。
シオリを見失わぬよう置いて行かれぬよう、大慌てて外履きに履き替え
昇降口に小走りで転げる様に現れていたショウタを想い出し、そっと俯いて
笑いを堪えるシオリ。
すると、
『当時さ~・・・
急がなきゃシオリに置いてかれるーって、
俺、実はチョーォ慌てて靴履き替えてたんだよねぇ~・・・。』
照れくさそうにえへへと背中を丸め笑うその顔が、あの頃の高校生のそれと
何も変わらなくてシオリは声を上げて笑った。
『まったく、もぉ・・・。』 愛おしそうに目を細めて繋いだ手にぎゅっと
力を込めた。
更に歩みを進めると、体育館へ向かう通路と靴箱への通路の丁度交差した
場所に出た。
そこは公衆の面前で突拍子もない告白をしてしまったショウタがシオリに
謝ろうと誘い出した場所。 なにをどう考えたって静かに話が出来る様な
場所ではないそこに、今更ながら呆れるシオリ。
ふとショウタに目を遣るとなんだかデレデレと嬉しそうにその廊下先に
ある西棟を眺めている。
それは、ふたりがよく放課後に話をした理科室があるエリアだった。
溜息ばかり落としていたシオリと、バカみたいに朗らかに笑ってばかり
いたショウタ。 その対照的なふたりはいつしか、少しずつ少しずつ距離が
縮まりふたりでいる事に高鳴る鼓動を隠せなくなっていった。
理科室前の廊下にふたりしゃがみ込み、随分もどかしく時間が掛かって
やっとケータイに登録された互いのアドレス。 ”毎日一緒に帰ろうよ ”
というその一言を言うのにどれだけドキドキしただろう、どれだけドキドキ
させられただろう。
シオリの塾の時間までの間、廊下の壁に背をつけてふたり並んで色んな事を
話しそして笑い合ったっけ・・・
ふたりは、ゆっくりと2年の教室がある2階の廊下へと向かっていた。
2-C、それは当時のシオリのクラス。
ショウタがその出入口に立ち、上枠に手を掛け体を傾げて嬉しそうに
そっと中を覗き込んだ。
その背中はあの頃よりガッチリしてたくましくなったけれど、今にも
大声で ”ホヅミさぁぁあん! ”と呼び掛けそうで、シオリの胸はきゅっと
こそばゆくなる。
いまだ朗らかに微笑むショウタの横を擦り抜け、シオリは当時の自分の座席
前に立った。 そっと指先で机をなぞり、毎朝毎朝ひとつだけ置いてあった
萌葱色のそれを懐かしく思う。
ツヤツヤに目映く輝く、ショウタの想いの結晶のようだったそれ。
『青りんご・・・ 嬉しかったなぁ・・・。』 小さく呟いたシオリに、
ショウタは朗らかにケラケラと笑い声を上げる。
『シオリってさ~
・・・ほんっとに青りんご好きだよなぁ~・・・?』
(そーゆー意味じゃないでしょ、まったく・・・。)
呑気で鈍感なショウタに向け手を伸ばし小さく拳を作ると、シオリは呆れ
笑いながらショウタの脇腹にコツンとひとつ、パンチを繰り出した。
あの朝、すべてが始まった。
ショウタが2-Cの教室に飛び込んで来て、自席につきホームルームの
始まりを静かに待つシオリに向かい、突然声を張って言い放ったそれ。
”今朝・・・夢で、見たんだよね・・・
ホヅミさんと俺・・・ クリスマスに、付き合い始めて・・・
お互い、27の春に・・・ケッコン、する事になる、みたいなんだ・・・”
シオリはそっとショウタの大きな背中を見つめる。
いつもいつも朗らかにやわらかく笑っている、愛おしくて仕方ないその人。
(どうして私だったんだろう・・・
こんなに、いっぱい人がいる中で、
・・・どうして私を選んでくれたんだろう・・・。)
ひとり黒板前に立っているショウタは、白チョークを握ってコソコソと
なにか書いているようだ。 カツカツとチョークが黒板にすり減る書き音が
静かな教室内に小さく響く。
それは書道部で上半身で机を隠し気味にして、コソコソと半紙に筆を落とす
あの頃の姿を彷彿とさせ、シオリは肩をすくめて思わず微笑む。
その悪戯っ子のようなネルシャツの大きな背中。
ジーパンの尻ポケットからは情けない顔をした生き物のキーホルダーが覗く。
教室の窓から差し込む春のやわらかい日差しがショウタの横顔を照らし、
眩しそうに目を細めその情けない朗らかな顔は振り返った。
そこには、
(*´▽`*)Ф~~~
えへへと情けない顔でやさしく微笑むショウタが、ふたり。
黒板の中と、黒板前に佇んでいた。
~ あの日のふたり ~ ■ 後 編
少し重い引き戸をそっと開けると、そこは相変わらず墨汁とカビ臭さが
混ざったようなにおいがした。
書道部の部室。 楽しい想い出と切ないそれが溢れる、その場所。
どこか考え深げに、恐る恐る部室内に足を踏み入れるシオリ。
ショウタはキョロキョロと懐かしそうに朗らかに微笑んでそれに続いた。
当時、ふたり並んで座った席につく。
後ろに引いたイスの脚がギギギと嫌な音を立て、静かな室内に響き渡る。
シオリはスっと背筋を伸ばし、あの頃と同じように机と体の間を握り拳
ひとつ分くらい離して構える。
すると、ショウタも隣席に腰掛けて、体をシオリの方へ向け当時同様に
穴が開くほどシオリの涼しげで美麗な横顔を凝視した。
まっすぐ前を向いていたシオリが我慢出来ずに思わずぷっと吹き出す。
『よくそうやってショウタに見られたよね・・・?』
するとショウタも嬉しそうに顔を綻ばた。
『あんまり至近距離で見るチャンス無かったからねぇ~・・・。』
そしてそれは独り言の様に、なにか遠く想い出しているかの様にショウタの
口から零れた。
『ずーーーっと・・・
・・・シオリを見てたかったんだよねぇ・・・。』
シオリは卒業式のあの日、ショウタと最後にふたりでここに来た事を
想い出していた。
そっと目を伏せ、机の上で絡めた細い指先を見つめながら小さく呟く。
『ねぇ・・・
・・・卒業式にも、ここで逢ったよね・・・。』
うんうんと微笑んで頷くショウタに、シオリは当時の胸の痛みを想い出し
ちょっと熱いものが込み上げる。
『 ”迷惑かけんのはこれで最後だから ”って、言って・・・
ショウタが、なんか・・・
・・・すごく、申し訳、なさそうに・・・ して、て・・・。』
急激にあの日の胸の痛みが甦り、シオリは慌てて俯き涙声を鎮めようとした。
あの時のショウタの哀しそうな顔はきっと一生忘れられない。
愛する人にそんな想いをさせてしまった事に、いまだに胸は切なく痛んだ。
『なんだ、どした? どした??』 ショウタはやさしく微笑んでシオリの
細い肩を抱く。 そしてやさしく肩を撫でた。
”ダイジョーブ ”とこどもに言い聞かせる様に。
”そんな過ぎた事など、なんでもない ”とでも言う様に。
ショウタの大きな手に自分の震える手を乗せると、今まで言わずにいた
”あの日 ”のことを、シオリがはじめて口に出した。
『あの時、ね・・・
泣きながら部室を飛び出して行ったショウタを引き留めたくて・・・
私・・・ どうしても・・・
どうしてもね、ショウタと離れたくなくて・・・
窓から見えるどんどん小さくなっていくショウタに、叫んだの・・・
”ヤスムラ君、いかないで ”って・・・
ほんとはね、窓を開けて叫びたかったのに・・・。』
そう言うと、机をそっと立ちあがり窓辺に行きそれに指を掛けるシオリ。
『相変わらず、開かない・・・
あの日も、この窓・・・ 全然開かなかったの・・・
ショウタを、呼び止められなかった・・・。』
すると、目元を赤くして涙声で呟くシオリの隣に立ちそっと目を遣ると、
窓の桟に指を掛けたショウタ。 カチリと小さく音が鳴ってそれはいとも
簡単に上方へと鈍い音を立てスライドして開いた。
『あれ・・・ 開くよ?』 キョトンとしてシオリを見つめるショウタへ
シオリも潤んだ目で負けじとキョトンとした顔を向ける。
『・・・え?』
『ほら、ここのストッパー押し上げたら・・・ すぐ開くよ?』
シオリが絶句して固まった。
よく考えてみると部室でふたりで昼食をとる様になった頃、早々と部室に
やって来て空気の入れ替えをするのはショウタの役目だった。
シオリはこの窓を自分で開けた事が殆ど無かったことに気付く。
ただ闇雲に出っ張りに指を引っ掛けガムシャラに開けようと必死だった、
あの日。 カチリと鳴るまでストッパーを押し上げなければこの窓は開かない
という事実を、10年近く経って今日はじめて知った。
暫し呆然とし、自分のバカさ加減にシオリが体を屈めて笑い出した。
呆れ果てていつまでもケラケラと高い笑い声を上げ笑い続ける。
あの日、泣きじゃくってショウタの名前を叫んだ自分
もう生きていけないと思う程、ショウタを失って絶望した自分
この窓は、こんなにいとも簡単に開いたというのに・・・
ショウタが嬉しそうに愛しそうに頬を緩めて、言う。
『シオリってさ~・・・
意外に、抜けてるトコあるよな~・・・?』
いまだ窓際に立ち笑いながら窓を何度も何度も上下にスライドさせ開閉して
照れくさそうにしているシオリ。 その華奢な肩にそっと手を置き向き合い
ショウタはやさしく見つめる。
『まゆ毛見られんのスゲェ嫌がる割りには、
ケッコーな確率で、見えちゃってるし。』
そう言って丁度自分の口許にある、今も覗いてしまっているハの字の眉に
唇を尖らせてフっと息を掛けた。
すると、前髪がかすかに揺れて相変わらず愛おしいその眉が更に恥ずかし
そうに困り垂れて現れる。
ショウタはそっと身を乗り出すと、シオリのおでこに小さくキスをした。
チュっと短く音が響く。
あたたかくて、やわらかくて、切ないその温度。
こんなに愛しいと思える相手なんて、
世界中探したって、他にはいない・・・
ショウタがそっとおでこから唇を離すと、シオリは目を細め微笑んで呟く。
『学校でキスするの、3回目・・・。』
一度目は、放課後シオリを待って机に突っ伏し眠るショウタの頬へシオリが
小さくキスをした。
二度目のそれは、ショウタがシオリとの別れに怯えひと気の無い西棟で無理
やり唇を押し付け乱暴にしたキス。
シオリの胸に、目まぐるしく当時の歯がゆい想い出が込み上げる。
震える胸にそっと手を当てて、目を落とした。
すると、
『え・・・・・・・・?』
ショウタがあからさまに目を見開いて固まっている。
『ん?』 シオリが見つめ返すと、どこか青ざめたような顔でショウタが呟く。
『・・・に、に2回じゃね・・・?』
『え?』 言われている意味が分からず、暫し考えていたシオリにその意味が
分かる。 一度目のキスは眠っているショウタにこっそりした為、ショウタは
それにいまだに気付いていないのだと。
『え、ちょ・・・ 待った! ちょ、待った待った!!
ほら、あのー・・・ 西棟でさ・・・
乱暴に、俺が、そのー・・・ しちゃったのが、1回でしょ・・・?
で、今が2回目じゃね??
え? ええええ?? え???
ちょ! え、誰と・・・?
シオリ、誰とあと1回学校でしたの???』
27才のいい歳した男が、アタフタと10年前のことを動揺しまくって目を
白黒させている。 その取り乱しっぷりをシオリは呆然と見つめそして体を
よじらせて笑った。
『え? 誰・・・?
高1? 高1んとき、付き合ってる奴いたの??』
『聞いてないよ!聞いてないよ!』 と壊れたように延々繰り返すあまりの
ショウタのひっ迫感に、シオリの笑いは止まらない。
笑って目尻の涙を指先ですくいながら、シオリは言った。
『 そんなの・・・
・・・ ”好きな人 ”とに決まってるじゃない・・・。』
あの日。
(大好きだよ・・・。) シオリはそう心の中で呟いて座っていたイスから
そっと腰を上げ少し前屈みになると、いまだ眠り続ける顔をやさしく見つめ
その頬に小さく小さくキスをした、歯がゆく恋しいあの放課後。
はじめてのキスは、
シオリからした事にショウタはまだ気付いていない
『バカねぇ~・・・。』 シオリは愛おしそうにショウタの胸にぎゅっと
抱き付いて目を瞑った。
そして、小さく小さく呟く。
『他に誰がいるってゆうのよ・・・。』
そろそろ校舎を後にしようとしたふたりに、背中から声を掛けられた気配に
振り返る。 すると、そこには当時シオリの2-C担任だった教師の姿。
当然だがあの頃より歳を取っていて、ほぼ白髪になっている懐かしい顔。
『お前たち・・・
ヤスムラとー・・・ ホヅミ、だよな・・・?
よく覚えてるよ、修学旅行では散々迷惑かけてくれたもんなぁ~?』
懐かしい思い出に教師が大口開けて笑っている。
すると、ショウタがそれを遮り胸を張る。
『ヤスムラとヤスムラ、です。』
『ん?』 訊き返した教師に、ショウタが続けた。
『さっき、婚姻届だして来たんで・・・
ヤスムラ ショウタと、ヤスムラ シオリです。』
微笑んでふたりは、左手の目映い環を教師に向けて自信満々に突き付けた。
春の青い風が爽やかに校舎を吹き抜ける。
来客窓口に置かれたままの名簿が、その風に吹かれてパラパラと音を立て
めくれた。
それは、まるで世界中の人に見せつけるかのようにそこに在った。
”平成**年度卒業生 ヤスムラ ショウタ 27才
〃 ヤスムラ シオリ 27才 ”
【おわり】
橙色のミムラスを、笑わない君に。【番外編】