旅は竜連れ世は情け

旅は竜連れ世は情け

(二章より抜粋)
 人間であるあたしと、竜であるジーヴは、別々の目的を持って、一緒に旅を続けている。
 あたしは、行方不明になった兄を捜すため。
 ジーヴは、滅んだ黒竜の生き残りを捜すため。
 異なる目的を追うあたし達は、ひとまず今のところ、同じ方向を見据えている。


読まなくても問題ない人物紹介
◇アイシャ
肝が据わっている人間の少女。寝起きと口が悪い。左腕の肩から先を失っている。行方不明になった兄を捜し、ジーヴとともに旅をしている。
好き:料理、兄、体を動かすこと
嫌い・苦手:絵、上から目線、じっとしていること

◇ジーヴ
滅んだ黒竜の一族の元族長。常に尊大な態度。右目の視力を失っている。黒竜の生き残りを捜してアイシャとともに旅をしている。
好き:肉、酒、愉快なこと
嫌い・苦手:強い匂い、不愉快なこと

◇エイミール
海洋学者であり竜の研究者であるアイシャの兄。現在行方不明。のほほんとして鈍くさいところがあるが芯は強い。
好き:研究、妹、本
嫌い・苦手:船、血、激しい運動

一章 旅は竜連れ世は情け

一章 旅は竜連れ世は情け

 ごおっ、と耳のそばで風が唸る。
 鮮やかな緑色の平原を駆け抜けていく鹿の群れ。白くかわいらしいお尻がてんでに跳ねる。つぶらな瞳を持つ彼らを、けれどあたしは追いつめ、仕留めるために追っている。ごつごつした黒い鱗が並ぶ、竜の巨体にしがみつきながら。

 あたしは竜と旅をしている。けれど、相棒と思ったことはなく、ましてや友人と思ったこともない。
 この竜は、自分の目的を達するための、ただの契約相手だ。

 風の塊が顔面にぶつかる。目はまともに開けていられない。竜が飛行速度を上げれば上げるほど、耳を切る風はナイフのように鋭く、冷たくなる。鹿との距離はかなり縮まった。しかし、もう少し我慢しなければあたしの投擲する毒槍は届かない。鹿が林にたどり着くまでが勝負だ。竜の広大とすらいえる翼は、障害物がある空間では役目を果たせない。
 あたしは手綱から手を離し、太ももで竜の胴体をきつく挟むようにして体を起こした。翼がばったばったと大きく羽ばたくたび、ぽいと振り落とされそうになる。それを、お手製の鞍の上で必死にこらえる。一番脚の遅い、未熟な個体に狙いを定める。この瞬間だけはしっかりと、目を見開いていなければならない。冷たさと痛さで涙が滲む。あたしは背中に背負った槍筒から短い槍を取り出し、構え、腕を振るう。
 毒を塗った槍先が、鹿の背中後方に命中した。

「やった!」

 思わず、声を上げていた。槍の毒はドクトカゲの強力なものだから、わずかな傷さえ付けれれば充分だ。鹿はどうと倒れ伏す。これで、今日のぶんの食糧は一安心。
 内心でほっと息を吐いたとき、眼前に密な木の壁が迫っていることに気づいた。
 しまった。
 狙いを定めるのに、思った以上に時間がかかっていたらしい。木々に突入する直前、激突を回避するために、自分の下にある竜の体が急旋回、急上昇した。体重が何倍にもなった感覚が、ぐぐぐとあたしの体を襲う。かと思うと急激に体が軽くなり、あたしは中空に投げ出されていた。

「あ」

 空の澄んだ青が視界を染める。
 竜という翼を失ったあたしは、野花で覆われた地表へと、真っ逆さまに落下した。


「まったく。俺の手をかかずらわせるな、人間の小娘め」

 布製の簡易なテントを張り、今日の拠点と決めた林間のとある地点に戻ると、人の青年の姿になった竜は開口一番そうぼやいた。
 あたしは返す言葉もなく、しかし悔しいので、顔を歪めて目を逸らした。さっきのは完全に自分の失態だった。落ちるあたしを彼が、鋭利な爪の先で掴み上げてくれなかったら、地面に叩きつけられて大怪我をしていたかも――それどころか、命すら失っていたかもしれない。想像すると体が震えてくる。
 あたしは肩を抱くようにして、小刻みに振動する体を慰めた。確かに彼はあたしの恩人(恩竜?)だった。
 当竜は倒木に座ってふんぞり返り、あたしをその刃物に似た目で睨んでいる。

「俺は腹が減った。さっさとお前の取り分を決めろ。この俺を待たせるなど、いつからお前はそんなに偉くなったやら」

 ため息が出る。助けてくれてありがとう、と素直に礼を言う気も失せるのは、彼のこの態度のせいだ。
 竜。今は無き黒竜の部族の元族長。
 陽によく焼けた精悍な顔つきと、夜の闇みたいな黒々とした髪、均整のとれた長躯を持つ。瞳ははっとするほど鮮彩な青色だけれど、右目は白く濁り、盲いてしまっている。人型に変じた際に纏う、ふんだんに金刺繍のされたたいそう立派な黒衣は、彼自身の鱗が変化したものだそうだ。
 実年齢は途方もないほどの数字――文字どおりあたしとは桁違いの数字――らしいがよくは知らない。人型の外見だけ見ていれば、あたしとさほど離れていない青年にも思える。あたしは彼を、ジーヴと呼んでいる。
 結局礼は言わぬまま、仕留めた鹿の皮をめしめしと剥がす。それをジーヴは、椅子代わりの倒木があたかも貴族の座る絹のソファであるかのように、王族の腰かける玉座であるかのように、尊大にふんぞり返りながら、興味がなさそうに眺めていた。
 いつでもこうだ。ジーヴは常に、荒野でも街中でも草原でも森の中でも、そこがまるで自分のために作られた宮殿であるように振る舞う。竜は何時(なんどき)も気高くあるものだ、とは彼の言だ。

「こんな小物では足りんな。小娘、もっと大物を仕留めてこい」

 あたしが取り分を取った残りの鹿を、竜型のジーヴはぺろりと一飲みしてみせた。まったく、竜は燃費が悪いことこの上ない。乗り物としては最低の部類だろう。近頃王都に現れたという飛行船とは比べるまでもなく、黒煙を吐いて街から街へ疾駆する蒸気機関車の方がまだましに違いない。
 森の中のぽっかりと開けた場所には、細い煙が立ちつつある。枯れ枝がぱちぱちと音を出す。あたしはしゃがんで肉を焼くための火をおこしながら、ぼそりと漏らす。

「……あたしは小娘じゃない」
「なに?」
「あたしはアイシャ。いつになったら覚えるの」

 ジーヴはくくくと笑う。嫌な感じのする含み笑い。彼と旅を始めて数ヵ月経つが、この男がこういう、嫌味ではない笑い方をするのをまだ聞かない。

「この俺に名前を覚えてほしいか、小娘」
「……あたしばかりあんたの名を呼ぶのは、公平じゃない気がするだけ」
「人間の分際で竜に公平を求めるか? 名を覚えて何の意味がある? お前の方が遥かに先に死ぬというのに」
「……」

 よいか小娘、と諭すようにジーヴは言い、尖った爪の生えた指で、木の天蓋のその向こうを指し示す。層になった緑をすら突き抜けてそびえ立つ、この大陸一の火山の偉容が見えた。

「俺が生まれてから、あの山は六度火を噴いている。人間のお前に想像できるか? 俺が見てきた中で、両手で数えうる出来事といったらそれくらいだ。お前との旅程など、俺にとっては一瞬で過ぎ去るくらいの、取るに足らぬものだ」
「……」
「それでもなお名を覚えてほしかったら――」
「……ほしかったら?」
「俺の足を引っ張るな。もっと俺の役に立て。俺の腹を満たしてみせろ。今のところ、俺はお前のことを非常食程度にしか思っていない」

 返答に詰まる。何も言い返せなかった。
 竜はいつでも自分こそが正しいと思う生き物なのだと、ジーヴは言ったことがあった。傲岸不遜で、傍若無人で、狷介孤高なのだと。本当にそうだなと思った。彼の言葉以上の真理など、あたしの中には無かった。
 共に旅することをジーヴに持ちかけてから数ヶ月。二人で行う狩りに慣れてきたとはいえ、あたしの狩りの腕はまだまだ未完成だった。悔しさがじわっと胸に広がる。もっとたくさんの獲物を捕らえられるようになって、ジーヴを見返してやりたい。
 ――それは旅の目的では、ないけれど。
 鹿の肉が、大きくなった炎に舐められ、じゅうじゅうと音を立てている。
 ジーヴは腕を組み、視力の残った左目で、まっすぐあたしを射る。

「二人での旅は、お前が言い出したことだろう。現状では、俺の旨味が少なすぎるのではないか。お前は俺の右目で、俺はお前の左腕なのだろう? 足手まといにいつまでも付き合ってやるほど、竜はお人好しではないぞ」

 あたしの左腕は、肩から先が無い。
 あたし達が出会った夜に、ジーヴは片目を失い、あたしは片腕を失った。邂逅ののっけから、お互い死にゆく身だった。死の淵の出会いから這い上がるのに、手だてはひとつきりだった。
 あたしが彼の目になる代わり、彼はあたしの腕となる。生きるために。生きて、旅を始めるために。
 それがあたし達の、契約内容だった。
 腕の傷はまだ疼く。あたしは立ち上がって、体に残った右腕を、ジーヴの方へと持ち上げる。
 
「今に見てな。あんたが言ったこと、後悔させてやる」

 ジーヴの顔面を指差す。挑むように言い放つも、彼はまたもやくくく、と一笑するだけだった。

「勇ましいことよ。期待はしないでおこう。せいぜい楽しませてくれ」

 あたしはふんと鼻を鳴らし、焼けた鹿肉にかぶりつく。むぐむぐむぐと乱暴に咀嚼し、ごくんと飲み込む。
 絶対にこの男の鼻を明かしてやると強く思いながら。
 ジーヴはあたしを悠然と見下ろして、皮肉っぽい笑みを浮かべ続けていた。

二章 竜子にも衣装

二章 竜子にも衣装

 人間であるあたしと、竜であるジーヴは、別々の目的を持って、一緒に旅を続けている。
 あたしは、行方不明になった兄を捜すため。
 ジーヴは、滅んだ黒竜の生き残りを捜すため。
 異なる目的を追うあたし達は、ひとまず今のところ、同じ方向を見据えている。


 商人たちの威勢のよい声が飛び交う。果物や野菜、燻製肉や魚の干物、その他様々な日用品を積んだ馬車や牛車が、人々でごった返す往来を行き来する。人いきれの作り出す熱気は、むわっと全身を包むが、それでいて不快というわけでもない。土埃の匂い、香辛料の匂い、花や熟れた果物の匂い、それらが混じりあった、人の生活の匂いが立ちこめている。
 何日ぶりかの街だった。
 森や荒れ地での野宿も嫌いじゃないけれど、あたしは元々街で育った人間だから、やっぱり賑やかな場所はわくわくする。露店商が並ぶ光景など、心踊るものがある。そして何より街の良いところは、冷たい川や泉の水ではなく、温かい湯に浸れることだ。
 一つの街から街への移動は、竜の飛行速度をもってしても概ね数日はかかる。当のジーヴはというと、街に入ると決まってしかつめらしい顔をする。今だって眉間に皺を寄せて周りを睥睨(へいげい)している。上等な服を纏ったジーヴは、遠目からは貴族にも見えるが、近づいてみれば尖った耳の形からして竜であることが明白で、街ゆく人は竜の逆鱗に触れては敵わんとばかり、彼を遠巻きに避けていく。
 探し人の兄の似顔絵を街人相手に手当たり次第に見せながら、傍らを歩くジーヴを盗み見る。街に対して、何か気に入らないことでもあるのだろうか。これまで特に詮索してこなかったが、戯れに理由を尋ねてみることにした。

「竜的には、街はどうなの」
「どこに在ろうと、竜は竜だ」

 言葉を省きすぎた問いには、苦々しい声で、そんな若干ずれた答えが返ってくる。

「そういうことを訊いてるんじゃなくて。街に着くといつも不機嫌だから、良くない想い出でもあるのかと思って」
「そんなものはない。が……この、匂いがな。竜は人間と違って鼻が利く。この街はとくにひどい。こんな混沌とした匂いの中で、平然としていられる人間が羨ましいものだ」

 ジーヴはぐるると喉の奥から呻き声を漏らす。繰り出される皮肉も、常よりどこか覇気がなかった。
 不意に、彼の青い隻眼がぐるりと動き、ずいぶんと下にあるあたしの顔を捉える。

「そんなことよりも、小娘。人探しはいいが、ここで買うべきものが山ほどあるのではないか」
「買うもの? 例えば」

 あたしを数ヶ月間小娘と呼び続け、名前を一向に覚えない竜はそうのたまう。

「例えば、風避けの風防眼鏡(ゴーグル)などだ、人間の小娘よ。お前は俺に言われねば何も分からんのか? 装備が足りないせいで、また手を焼くことになるのは俺はごめんだ」

 顔が熱を帯びるのを感じる。先日、鹿を追っていて、狩りの成功に安堵したあまり、ジーヴの背から落下したことを言っているのだろう。
 確かにゴーグルがあれば、竜の背の上でもずっと目を開けていられる。もっと切れ味のよいナイフも必要かもしれない。バネ弓や吹き矢なんかも狩りには有効だろう。挙げてみたら必要品のリストはどこまでも長くなる。
 しかし、である。

「そんな金がどこにあるの」

 そう、お金がないのだ。獲物から得た毛皮をこれから売るつもりではあるが、特に珍しい種のものではないため、今日の宿代くらいにしかならないだろう。
 ジーヴがふんと鼻を鳴らす。

「小娘、手を出せ」

 有無を言わさぬ命令口調。
 こういうのには黙って従った方が利口だと、彼との数ヶ月の旅で学んでいた。無言で手を差し出すと、掌より二回りほど小さい、黒光りする平らなものが、ジーヴの指先から落とされた。

「何これ」
「俺の鱗だ。それを売れば、ちょっとした金にはなるはずだ。それで必要なものを買うがよい。余ったらお前の好きに使え」
「……竜は人助けはしないんじゃなかったの」

 訝(いぶか)しんであたしは問う。あたしと出会った夜の、彼の言葉を忘れていない。"竜は人を助けはしない"。そして、それにあたしが何と返答したかも。
 ジーヴは大儀そうに首を横に振る。

「これは人助けではない。お前の装備不足に、また振り回されたくないだけだ。つまり巡り巡っては俺のためだ……と何度言わせる気だ? 俺の手間を減らすためなら、俺は何でもしてみせよう」

 竜の男は胸を張る。どうしてこう、いちいち偉そうなのだろう。それが竜の性質だと言われればそれまでだが。もっと普通に話せないのか。
 あたしは鱗を握りしめ、ジーヴの長躯を見上げる。

「……あんたの言い分は分かった。じゃあ売りに行こうか」

 しかしその軽い提案は、いや、という短い否定で却下されることになる。

「俺はしばらく、お前とは別行動をとる。ああそれと、鱗を直接俺から貰ったとは言うな。どこかで拾ったとでも言え」

 あたしは首をひねる。不可思議な頼みだ。
 だがしかし、なぜと問う前に彼の姿は人混みに紛れて消えていた。


 換金所。
 この世のあらゆるものを金へと代えてくれる場所。
 市場(いちば)の端に、それはあった。
 三方を幕で囲まれた店の内部は薄暗く、こぢんまりとした床面積で、まるで占いの館のような雰囲気だ。ジーヴのくれた鱗を鑑定士に見せると、後頭部まで禿げ上がったその老人は、目の色を変えて拡大鏡に食い入った。

「お嬢さん……これをどこで手に入れたんだい」
「旅の途中で拾った」
「ふうむ……これは、黒竜の鱗じゃ……なんと珍しい……」

 そうか、ジーヴは珍しい存在なのか、と灰明るい店内でぼんやりと考える。あたしにとっては、毎日小言をぶつけてくるだけの、しかし切り捨てるわけにもいかない、目の上のたんこぶみたいなものなのだけど。 直接貰ったと言うな、という指示と、黒竜の存在が珍しいことは、何か繋がりがあるのだろうか。

「換金するとしたら、そうじゃのう……」

 そう呟きながら鱗に見入る老人の眼に、邪(よこしま)な光がぽっと灯ったのを、あたしは見逃さなかった。

「ちょっとあんた、ちゃんと正当に鑑定してくれよ。足元を見るつもりなら、他へ持っていくからな」
「いやいや、そんなことはしない」

 慌てたように、その店主はぶるぶると顔の前で手を振る。十中八九、買い叩くつもりだったのだろう。
 老人は一度、布の幕で仕切られた店の奥へ引っ込み、両手いっぱいほどの布袋を持って現れた。受け取ってみると、重さからいって全て金貨であるらしい。少々上前をはねられている可能性大だが、それでも大金といってよい。
 揉み手をして下卑た笑みを張りつけた老人に、形だけの礼を言って背を向ける。鱗一枚でこれほどの額になるなら、ジーヴの体中の鱗をひっぺがしたらどれほどの財産になるのか、と想像する。確実に、一人の人間が遊んで暮らせる金額は優に超えるだろう。ジーヴのいないところで暗に計算してみたら、少し後ろめたく、それでいてどことなく楽しい気分になった。
 換金所のテントを出ると、すぐ前の煉瓦造りの建物の壁に、ジーヴが背中を預けるようにして泰然と立っていた。

「首尾よくいったか」
「金の塊……」
「何か言ったか」

 何でもない、とあたしは答える。金算用はしてみたけれど、お金には正直あまり興味がない。それより、兄との再会の方があたしにとっては重要だ。
 しかし、他の人間はどうだろう、とふと考える。
 ジーヴの部族――黒竜の一族は、何者かによって攻撃を受け、滅びたらしい。竜同士は決して争うことはないというから、その何者かは、素性が分からないものの人間には違いない。
 金など重要でないと考える人間は、全体においては稀有な存在だと思う。もしかしてその人間たちは、金のために竜の集落に攻め入ったのだろうか。

「俺の質問に答えろ。何を考えている、小娘」
「何でも。鱗ならなかなかいい額になった」

 ジーヴは当然だ、とばかり得意げな顔をする。

「金が手に入ったなら、ぼうっとしていないで買い物を済ませろ。日没も近いぞ」

 伸びる影とは反対の方角を見やる。いつの間にか、陽は山の稜線へと近づきつつあった。


 燃え落ちる陽が、山の白い頂を赤く染め上げる。
 少しでも必要だと思ったものを手当たり次第に買っても、換金で得た金貨は半分も減らなかった。しこたま買い込んで荷物が膨れ上がったことの方が問題で、宿へ一歩近づくごとにあたしの体が軋んだ。ジーヴはあたしより遥かに力があるくせに、絶対に手伝おうとしない。最初から期待もしていないが。素知らぬ顔で、悠然とあたしの半歩先を行く。
 大通りを抜けると、路上に直接麻を敷き、雑貨を売る店が道の両側に整然と続く。そこを過ぎゆく途中で、あたしははたと足を止めた。アクセサリーが雑多に並んだ店。その中で一際目立つ、鱒の身に似た鮮やかな色の首飾り。
 珊瑚だ。
 あたしはその、普通地上ではお目にかかれない色を知っている。今は行方不明の兄が、かつて珊瑚をくれたことがあったのだ。成形されたアクセサリーなどではなく、ただ磨いただけの、小さな珊瑚の欠片だったけれど。大切に引き出しに仕舞っていたそれは、きっとあの夜、あたしの左腕とともに焼けて跡形もなく失われたのだろうと思う。
 兄は船乗りだった。漁師というわけではなく、王立学術協会(アカデミー)から資金提供を受け、海洋調査をしていた。そして同時に、兄は竜の研究者でもあった。
 竜と海。二つの関連があたしには見当もつかない。兄は多くを語らなかった。仕事についてあたしが尋ねると、兄はいつだって困り顔で笑うのだった。だから、あたしもそれ以上は聞かなかった。

「それが欲しいのか、小娘」

 ジーヴの低い声にはっとする。
 立ち止まるあたしに構わず先へ進んでいた竜は、隣がぽっかりと空いていることに気づき、仕方なく引き返してきたらしい。

「珊瑚か。綺麗だな」
「……竜も何かを綺麗だと思うことがあるんだ……」
「当たり前だろう。でなければこんなものを耳にぶら下げたりはしない」

 ジーヴは鋭い爪が生えた指で、自分の左耳を指す。そこには、何かの獣の牙を模した耳飾りが揺れている。

「金ならば有り余っているのだろう。欲しいなら買えばよいではないか」
「……別に、ただ綺麗だなと思って見ていただけ。持っていても、使う機会もないし」
「くくく、確かにな。お前の場合見せる相手といえば、動物の死体くらいのものだからな!」
「……」

 あたしがじっとりと睨(ね)めつける先で、さも愉快そうにジーヴが体を揺らした。


 宿の素晴らしくふかふかな寝床の上で、兄の夢を見た。
 兄からまた珊瑚を貰う夢。
 兄が柔らかい前髪を揺らして、同じくらい柔らかく笑う。アイシャ、と優しくあたしの名を呼び、彼が両手に持ったものを、あたしの掌に握らせてくれる。それはいつかの珊瑚の欠片ではなく、露店で見た華やかな首飾りだった。
 窓辺で小鳥が歌っている。
 あたしは寝床から起き上がり、ぼんやりと窓の外を一瞥する。まともな場所でたっぷり寝たというのに、気分はあまりよくなかった。人捜しの成果がまったく得られなかったことでもなく、あの首飾りを夢に見るまで記憶にひっかけている自分が、どうしようもなく女々しく思え、腹立たしかった。
 顔を洗い、服を着替え、階下へと降りる。宿の一階は食堂になっていて、代金さえ払えば宿泊客だけでなく誰でも利用できることになっていた。食堂のカウンター席に、見慣れた大きい背中がある。
 ジーヴは朝っぱらから、鶏の丸焼きと子豚の照り焼きをがつがつと食らっているところだった。しかも骨ごと。
 その様子だけで胃もたれがしそうで、うんざりする。あたしは彼の隣に腰を下ろす。

「あんたの食事を見てると食欲が失せるな」
「見なければよいだろう。なんだ、猟師に追い詰められた野兎のような顔だな、小娘。ひどいものだ」
「うるさい黙れ」

 首飾りの件を引きずっているなんて明かせず、ぶっきらぼうに言い返す。あたしは寝起きが悪いのだ。
 あたしは朝食として、ライ麦パンと赤カブのスープ、それと果物の甘露煮を注文する。自分で食材を調達しなくても、自分で調理をしなくても、言葉ひとつで料理が出てくる。なんとありがたいことか。あたしの機嫌はそれだけで少し上向いた。

「腹は膨れたか。お前に渡したいものがある」

 食事を終えると、なぜか部屋に戻らず留まっていたジーヴが切り出す。黒い上着の内側をごそごそやり、

「お前にこれをやろう」

 そこから出てきたのはあの、文字どおり夢にまで見た、珊瑚をあしらった首飾りだった。
 呆然とする。どうしてそれがジーヴの手の中にあるのかが分からない。夜遅く宿から抜け出すか、朝早く起きて出かけるかして、わざわざ店を探して購(あがな)ってきたのか。何のために?
 混乱しながら、機械(からくり)みたいなぎちぎちとしたぎこちない動きで、首飾りを受け取る。

「どういう風の吹き回し」

 呟く声は意図せず震えた。
 竜からこんな贈り物をされるなんて、気味が悪いことこの上ない。天変地異の前触れだろうか。
 ジーヴは普段と変わらぬ顔色で、呆れたと言わんばかりに嘆息する。

「人間は後悔が好きな生き物だからな。どうせ後になって、あの時買っておけばよかったかもしれないと気に病むに決まっている。どうしようもないことで悩まれて、狩りの精度が落ちてはたまらん。理由ならそういうことだ」
「しかし、こんなもの持っていたって――」
「受け取ったなら、それは既にお前のものだ。身につけるなり捨てるなり売り飛ばすなり、お前の好きにするがよい。俺は何も口出しはしない」
「……」
「竜の旦那、何もパートナーに贈り物をするのに、そんな言い方しなくたっていいんじゃないですかい」

 それまで沈黙を保っていた、カウンターの奥の料理人の男が、おずおずと口を挟んだ。

「こいつはパートナーなどではない。ただの俺の、非常食だ」

 ジーヴが胸を反らして答えると、料理人はおやおや困ったなこれは関わらない方がよさそうだなという顔をした。
 あたしは首飾りを見つめる。すごく、綺麗だ。ナイフや手綱や槍ばかり握り、いつも動物の血や泥にまみれているあたしの手にあっても、朝の陽射しの中で、珊瑚は美しく輝いて見えた。
 あたしはそれを、自分の首へかける。
 あたしの姿を、ジーヴがつくづくと眺める。
 そして、微笑んだ。

「……なんだ」
「いやなに、竜子にも衣装、とはこのことだと思ってな!」

 失礼極まりない黒竜の元族長は手を打ち、腹を抱えてからからと大笑いした。
 頭に血が昇って、かっと顔が熱くなる。

「馬鹿にしたかっただけか、あたしのこと!」
「だけではないぞ、そういう狙いもあったことは否めんがな」
「性根の曲がった竜め、こんなもの捨ててやるからな」
「それで俺が傷つくとでも? そう考えているなら、至極浅はかだと言わざるを得ないな、人間の小娘よ」
「……ッ」

 憤りで腸(はらわた)が煮えそうだ。一瞬でも感傷に浸ったあたしが馬鹿だった。
 乱暴に椅子から下り、かつかつと靴音を立て、出立の準備のために部屋へ向かう。ジーヴの含み笑いが階段まで着いてくる。
 外した首飾りを、細々としたものを入れる袋へと無造作に突っ込む。脳の中では、ジーヴの哄笑が延々と再生され続けている。
 このままで終われるもんか、とあたしは自分の心に誓う。反骨心だけは人一倍持っている自負がある。旅が終わるまでには、人を食った竜に、目にものを見せてやりたい。
 その日、ジーヴの鼻を明かしてやる、という目標の他に、ジーヴに一杯食わせてやる、という目標が加わった。

三章 触らぬ竜に祟りなし

三章 触らぬ竜に祟りなし

 夜、森の中で、赤々とした焚き火の光に照らされながら、狩りに使う道具の手入れをする。
 火に炙られた何かがぱちぱちと爆ぜる音。鼻をくすぐる木の焦げる匂い。
 火は好きだ。形の定まらない高温の揺らめきを見ていると、懐かしいような、安心するような、そんな不思議な気分になって、落ち着くから。けれどあたしは、人の手を離れ、制御が利かなくなった炎がどれだけ恐ろしいか、身をもって知っている。
 毒を塗った槍の本数が、だんだんと少なくなってきているのに気づく。夜が明けたら、ドクトカゲを探しに出かけなければならないだろう。
 共に旅をしている竜のジーヴは、いつになく機嫌が良かった。焚き火の炎の中に無意味に枯れ枝を投げ込んだり、不思議な旋律の歌を口ずさんだり。人間の何十倍、何百倍も生きているくせに、やけに子供っぽいことをする。
 今日は仕掛けた罠に大きなイノシシが二頭もかかった。規格外の竜の胃袋を満たすのにも充分だったのだろう。二人旅を始めてもう半年経つ。行方不明の兄の消息はいまだ掴めないが、あたしの狩りの腕前と手法の豊富さは、着実に進歩しつつあった。それを喜んでいいのかどうか、判断はつきかねた。
 倒木に腰かけるジーヴの鼻歌に耳を傾ける。穏やかで少し哀愁を帯びた、深い森を思わせる曲調。こんな夜にぴったりだ。竜の世界にも歌があること。それがなんだか不思議に思えた。
 あたしは人間で、ジーヴは竜。
 それは決定的な違いだが、人型になった竜は、外見だけは人間とさほど変わらない。爪と耳の先が細く尖っていて、口を開けば鋭い牙が覗く。差違はそのくらいだ。
 どうして竜は人に似ているのだろう、という問いがふと浮かんでくる。
 どうして、犬でも猫でも馬でも鷲でもなく、他でもない、人間なのだろう?

「竜はなぜ、人型になれるの」

 疑問が口をつく。ジーヴは鼻歌を中断し、真っ青な片目をあたしに向けた。もの悲しい調べの代わりに聞こえてくる、葉が擦(こす)れるさわさわという音。宝石のかけらを暗い水底にちりばめたような夜空の下、彼の瞳だけが真昼間の青空みたいに鮮やかだった。
 ジーヴは気分を損ねた風もなく、体ごとあたしに向き直る。

「他の動物ではなく、なぜ人を選んだのか、と聞きたいのか? そんなことは知らんよ。ご先祖様に聞くしかないが、そのご先祖様はもういないのでな」

 予想した答えではある。素直に分からない、と言えないのが竜らしいところだ。
 ジーヴはお得意の胸を張る姿勢をとり、後を続けて滔々と言い募る。いつにも増して饒舌だ。

「竜が人間を真似たのか、竜の別の姿を人間が真似たのか――それはつまり、神が作りたもうたは竜が先が人間が先が、そういう問いになるだろう。そんな議論に意味はない。太古の出来事を知ることなど不可能なのだからな」
「でも、姿を変えられるからには何か意味があるんでしょう」

 あたしは食い下がる。気になったら納得できるまで満足できない。諦めが悪い性分なのだ。
 この好奇心の強さは、きっと血筋なのだろうなと思う。一人きりのきょうだいである兄も、自然への好奇心が高じて、ついには学者になった。その好奇心がなかったらあるいは、兄が失踪することはなかったかもしれない。なんとなく、あたしはそう思っている。
 好奇心が猫を殺す、と言ったのは誰だっけ。
 ジーヴが、ああ、と鷹揚に頷く。

「この姿は生殖用だ」
「は……?」

 さらりと放たれた言葉。あたしは凍りつく。
 ゆったりした居心地のよい夜がぶち壊しだ。
 ジーヴは顔色ひとつ変えず、なんでもないことのように続ける。

「もともとこの姿は、竜の雄と雌が出会って交尾するときのためのものだ。竜のままでは、爪や牙や棘でお互いを傷つける恐れがあるからな。――なにを呆気に取られている。そんなことも知らなかったのか? やれやれ、世間知らずな小娘の教育係を買って出た覚えはないんだがな」
「……聞かなきゃよかった……」

 あたしはげんなりして項垂れた。人の姿はつまり、"そういうこと"専用というわけだ。目の前にいる男のあれやこれやを想像しそうになり、頬が熱くなりかける。反して肩のあたりがぞわぞわした。その寒気を右腕でさすって振り払う。
 ジーヴは涼しい顔で小首を傾げている。

「生殖用の姿がなぜ人間なのか、確かに言われてみれば不思議ではあるな。考えても詮なきことだが。ちなみに、この姿でなら人間とも交われるようだぞ」
「そんなことは聞いていない!」

 あたしは叫び声一歩手前の悲鳴を上げた。何なのだこの男は。どうしてしれっと、大地を揺るがすような問題発言ができるのか。
 あたしが身を引くと、ふざけた竜の口が意地悪く弧を描く。
   
「なんだ、見かけによらず初(うぶ)だな。――あまりそう警戒するな。この姿で過ごしているのは、こちらの方が体力を温存できる、それだけの理由だ。他意はない」

 そうのたまって、からからと笑う。
 しばし凄味のあるジーヴの面立ちを睨んでいたあたしは、ある可能性に気づいた。

「でも、その、こう……ができるってことは、竜と人間の子供も生まれ得る、ってこと」
「そういうことになるな」

 あっさりと肯定され、あたしは押し黙る。今までそんな話は聞いたことがなかった。
 竜と人間の混血。
 それはなんだか、信仰心の薄いあたしにも、誤って神の領域に踏み入れたような、悪魔の支配する領域に迷い込んだような、うすら寒い感情を呼び起こす概念だった。
 そこにいる竜の表情は曇っている。

「竜と人間が、種族を超えて愛しあう。普通、あってはならぬことだ。しかし、例がないわけでもない」

 さも恐ろしいと言わんばかりに、ふるふると首を振って、

「不幸なことよ。当人たちにとっても、子にとってもな。愛情は月日を超えられない。竜と人間が生きる時間軸は、まったくの別物だ。時の流れは、無情に竜と人間の仲を引き裂く。そして竜でもない、人間でもない子供は、どちらの集団にも馴染むことができない。先天的で、絶対的な孤独を背負うことになるのだ」
「……まるで身に覚えがあるみたいね」
「気になるか?」
「別に」

 本当は気にならないこともなかったけれど、ジーヴの沈んだ瞳を見ていたら、それ以上踏み込んではいけないと胸が騒いだ。
 隻眼の底にちらつくのは、慈しみと物憂さ。過去も未来も、あらゆるものを超然と見はるかす透徹。見たことのない顔つき。
 あたしはその時、自分とこの竜(ひと)は絶対に相容れない存在なのだと、強く感じた。
 ジーヴは微笑む。

「だから忠告しておこう、人間の小娘よ。どうか俺に、惚れてくれるなよ」
「……誰があんたみたいな男に惚れるもんか」
「そうか、ならいい」

 ふんと鼻を鳴らして突っぱねると、ジーヴは安心した様子であたしから目線を逸らした。
 彼が鼻歌を再開する。
 細く頭上へ伸びていく旋律が、星空に溶けていく。その光景が、見えた気がした。

零章 苦しいときの竜頼み

零章 苦しいときの竜頼み

 街のすべてが燃えている。
 あたしが生まれ育った家も、兄とよく追いかけっこをして遊んだ市場も、尖塔を持つ協会も、立派な図書館も、嫌な臭いの煙を苦しげに吐き出しながら、揺らめき燃え広がる炎に舐めつくされようとしている。そこかしこで上がる火柱が赤々と惨状を照らし出す。熱風があたしの目を、頬を、喉を焼く。
 とにかく、街から出なければ、とあたしは駆けた。
 火は圧倒的な暴力だ。不定形の悪魔だ。
 火は、あらゆるものを灰に変える。そこに慈悲はない。あるいは、灰という同一のものに還ること、それはある種の救いなのかもしれない。
 なぜこんな事態になったのか、分からなかった。頭は混乱してぐちゃぐちゃだ。心はまだ、これが夢であることを信じたがっていた。この悪夢を抜ければ、優しく笑う兄との日々が、元通りになって戻ってくるのだと。
 しかし、左の肩の激痛が、目の前の煉獄は紛れもない現実なのだ、とあたしに突きつけてくる。


 "彼ら"はどっとやって来た。報せもなく、前兆もなく。
 幾度となく繰り返された、どこにでもある穏やかな晩。鍋のスープが芳しい匂いを立てる。兄はまだ図書館から帰らず、家は静かだった。
 唐突に、ものすごい数の馬の足音が静寂(しじま)を破った。と思うと、人の悲鳴と怒号があがり、窓の外がぱっと明るくなった。ガラスの割れる音、乾いた破裂音が続く。
 なんだろう、と顔から血の気が引き、心臓が早鐘を打つ。あたしは息を潜めて、事の沈静化を待った。明日新聞の一面に、何らかの事件がでかでかと載るかもしれない。被害者が知り合いだったらどうしよう――。
 だがその想像は悠長にすぎた。一息もつかないうちにドアが乱暴に蹴破られ、銀色の甲冑を着た人間たちが無遠慮にどかどかと入り込んできた。あたしは唖然として、反応できずに硬直する。
 頭部を丸ごと覆う兜、胸に羽ペンの紋章が刻まれた鎧。鈍く輝く甲冑が一体、二体、三体。全員の手には銃剣が握られ、刃先は漏れなく赤黒い液体でぬらぬらとてかっていた。滴(しずく)がぼたぼた垂れて床に染みを作る。

「何者だ」

 震える声で誰何(すいか)する。甲冑たちは無言のまま、家の中を見回す。一体の甲冑が無造作に、床や家具や兄の蔵書に油を撒く。他の一体が、ランプから松明に移した火をそこへ近づけ、

「やめろ……!」

 あたしは後先考えずその腕に取りついた。兜の隙間から、ぎょろついた双眸が覗いて、ぞっとする。紛れもない人間の目だ。甲冑が勝手に動いて凶行に及んでいるわけでもなく、この内部にいるのは、確かに生身の人間なのだ。
 あたしは蚊を払うような仕草で簡単に振り落とされ、床に突き飛ばされる。
 甲冑を着た何者かは、躊躇なく火を放つと、すぐに踵を返した。
 あっと思う間もなく、空間が炎で包まれた。容赦ない熱を感じながら、生命の危険をひりひりと知覚しながら、あたしは呆然としていた。逃げなきゃ、と思うのに、体が動かなかった。
 炎と煙があたしの生まれ育った家を蹂躙する。くらくらした。吐き気がした。この世の理不尽に神を呪った。涙すら出てこなかった。訳も分からずここで死ぬんだ、と思ったとき、すさまじい轟音を立てて家の二階部分が崩れてきた。
 めちゃくちゃな衝撃であたしは揉みくちゃにされ、瞬間的に気を失ったのかもしれないが、例えようもない左腕の痛みで脳が覚醒し、思わず絶叫を上げた。
 激痛で滲む目で左を見れば、あたしの腕は重たい書籍が詰まった本棚で押し潰されていた。見るからに手の施しようがなかった。死ぬにしてもこんな痛いのはごめんだった。
 霞む視界の隅で、何かがきらりと光る。痛さで白熱し明滅する思考に鞭打ち、目を凝らす。二階に置いていたはずの、山に入る時に持っていくナイフが、物質化した天啓みたいにそこに突き刺さっていた。
 右手を伸ばすとナイフに届いた。あたしは、よく手に馴染むそれをできる限り振り上げ、機能しなくなった自分の左腕の根元に、ためらいなく突き立てた。


 火の手を避け、風上に逃れる。
 街から続く丘の上まで来て、あたしは災禍の全容を目の当たりにした。空恐ろしいまでの輝きの中で、街は黒い影絵と化していた。目まぐるしく形を変える赤い魔物が天を焼き、雲底をおぞましい色に染めている。街のある方から――あった方から、誰かの泣き叫ぶ声が耳に届く。
 何もかもが遠く思えた。
 あたしはどうして、こんなところまで逃げてきたのだろう。たった一人で。どうせ助からないのに。
 あるべき腕のない、左腕の跡地を残りの右手で押さえる。傷口からは血が流れ続けていて、絶望的なほどに滑(ぬめ)っていた。
 まばらに木が生えた木立へふらふらと歩み入る。林と呼べるほどに木々が密になったところで、あたしは力尽き倒れ込んだ。もはや痛みによって、痛いという感覚が麻痺してきていた。
 腹の奥から、弱々しい笑いがこみ上げてくる。あたしが、あたしたちが、何をしたっていうんだ。こんな不合理が、不条理が、許されていいもんか。自分の命がここで潰えるのなら、誰でもいい、あたしたちの街を焼いた奴らを、許さないでいてほしい。
 上着のポケットの中に手をやる。いつでもそこにある、兄と交わしたおまじないの具現。その輪郭を指でなぞると、血まみれの手へと兄の無事が伝わってくる。兄はどこかで、生きている。そのことに希望を託そう。
 すう、と意識が細くなる。意識が自分の体を離れ、遠ざかるのを感じた。まるで空へ浮かんでいくように。
 これが死なのか。人って死ぬとき、本当に天に昇るんだな。
 ――兄さん。
 薄れてゆく意識の中で、その名だけが一条の光芒となって、脳裏にちらつく。
 やがてそれも、闇に飲まれて消えた。


 頬に熱い風を感じ、目を開ける。
 どのくらい気絶していたのだろうか。
 意識が戻った途端、左腕の痛みでまた気を失いそうになる。ああ、生きている。この痛みこそが生だ。
 ここまで炎が迫ってきたのか、と思ったけれど、熱風の原因は火ではなかった。眼前、手を伸ばせば触(さわ)れる距離に、棘だらけの竜の頭部がある。竜の熱い息が、あたしの顔にかかっている。
 頭から伸びる太く長い首。巨体を支える強靭な四肢。上に百人は乗れそうな、広々とした翼。そのいずれもが、鈍くきらめく黒い鱗に覆われている。わずかに開いた口元から、あたしの掌より長く、比類ない殺傷力を持った牙が覗く。
 空を我が物顔で悠々と飛び回る竜の姿は、そりゃ何度となく見ているけれど、こんなに近くでまじまじと竜を眺めるのは初めてだった。そしてこれが、最初で最後になることは疑いようがなかった。
 竜が人を襲ったという話は聞いた記憶がないが、この竜はどうやら腹を空かせているようだった。瀕死の状態のあたしは格好の獲物というほかなく、抵抗する意志さえ自分の中から消えていた。
 あたしは不思議と安らぎを覚えた。恐怖は感じなかった。死んでしまえば、もうこの地獄を味わわなくてすむのだ。どうか一思いに食ってくれ、と願った。凪の海面と同じくらいしんと穏やかな心持ちで、竜の顔を見つめた。
 驚くほど澄んだ青い瞳が、こちらをじっと見返していた。海水を凝縮したらこんな色になるのではないか、とぼんやり考える。そこには知性が宿っていた。こんなときなのに、綺麗だなと思った。しかし青いのは左目だけで、右目の虹彩と瞳孔が白く濁ってしまっているのに気がついた。
 失明している。
 隻眼の竜と、隻腕のあたし。片方を失った者。なんだか、このままここで終わらせるには、勿体ない取り合わせではないだろうか。何故だか不意に、暗闇で小さなロウソクを灯すみたいに、そんな考えがぽっと心に生まれた。

「なあ……あんた、片目が見えてないんだろ」

 声を振り絞る。竜の研究をしている兄から、竜は人語を解するのだと聞いたことがある。呼びかけると、竜はぴったりと口を閉じ、ぐるる、と遠雷に似たうなり声を発した。それが驚きなのか怒りなのか蔑みの意味なのか、竜に詳しくないあたしには分からない。
 もうどうにでもなれ、何があってもあとは死ぬだけだ、という捨て鉢の心情で、言葉を続ける。

「隻眼じゃ竜でも獲物をとれないんだな。あたしみたいな、弱った生き物しか――。あんた、腹が減ってるように見える。ひとつ提案があるんだけどさ、あたしたち、お互いに埋め合わせができるんじゃないかって思うんだ。あんた、あたしに」

 手を貸してくれないか、とあたしは竜に持ちかけた。
 あたしの頭蓋くらいある目が、わずかに見開かれたようにも思えたが、ただの気のせいだったかもしれない。
 とにもかくにも、隻眼の竜は竜の姿を解いた。
 一陣の旋風(つむじかぜ)が起こり、やむ。するとそこに立っていたのは、見上げるほどの長身の、夜と同じ深みの黒を纏った偉丈夫だった。顔立ちも雰囲気も野性的なのに、どこか気品を漂わせてもいる。

「竜は人助けはしない」

 重々しい口調で、竜は簡潔に答えた。
 やっぱり駄目か、と落胆する。でも、人の姿になったということは、少なくともこちらの話を聞くつもりはあるんじゃないだろうか。
 あたしはひとつひとつ言葉を選ぶ。

「なら――一方的に手を貸せとは言わない。あたしがあんたの右目になる代わりに、あんたはあたしの左腕になる。等価交換ってわけ。それでどう」

 竜の男は瞑目する。しばらく思案する様子を見せる。開眼ののち、口元に不敵で獰猛な笑みが浮かんだ。

「人間が竜である俺に取引を打診するか。なかなか肝の据わった小娘だ。面白い」
「……なら」
「――よかろう。その契約、受けてやろう」
「……良かった」

 張りつめていたものがどっと緩む。精神が弛緩してから、自分が緊張していたのが分かる。全身から力が抜け、安堵と引き換えに、体の自由を失う。もう指先ひとつ、動かせそうになかった。

「おい、取引を交わした途端に死ぬつもりか」

 ため息とともに呆れ声を吐き出しながら、竜がしゃがんであたしを抱き起こす。

「まずその血をどうにかしないと死ぬぞ」
「分かってる……」
「分かっているだけではどうにもならんのだ、痴れ者が」

 厳しい語調に反し、竜は迷うことなく自分の上質な衣服を尖った歯で引き裂いた。細割きにした布を手際よくあたしの傷口に巻きだす。あたしは意外に思いながら、彼の動作をただ眺めていた。

「これで助からなかったら、生きようとするお前の意志が薄弱だった、ということになるのだからな」
「……あたしはお前じゃない、アイシャ。あんたの名前は」

 釘を指す男の言葉。それには答えず、無愛想に問う。
 無知な奴はこれだから困る、と言わんばかりに、竜があからさまにふんと鼻を鳴らす。
 
「人の名など覚えるに足りん。それに、竜の名は人間には発音できんのだ。お前の好きに呼ぶがいい」
「それなら、ジーヴと……そう呼ぶよ」

 呟いたあと、ジーヴと呼ぶことに決めた契約相手の逞しい腕の中で、あたしは気絶に近いまどろみに落ちていった。


 阿鼻叫喚の夜の後でも、変わらず夜明けは来た。
 朝日はいつものように真新しく、徐々に白んでいく空は清々しく、すべてはまっさらだった。けれど風には焦げ臭さの名残が混じり、変わり果てた街は覚めることのない悪夢として、そこに沈黙していた。
 傷の痛みに歯を食いしばって耐えつつ、どこが何かも分からなくなった街を歩く。残念ながら、街には生存者はいないようだった。
 兄はどこに行ったのだろう。
 街の中で、ひときわ炭化度がひどい場所を見つける。そこだけは、何が存在していたのか明白だった。
 図書館だ。広大な床面積を誇っていた図書館は、骨組みを残して見るも無惨に跡形も無くなっていた。本の一冊すら残すまい、という邪悪な執念が伝わってくるほどだった。
 この街には昔から、王立科学協会(アカデミー)に所属する学者が多数住んでおり、図書館は学者の要請に従って増築を繰り返し、巨大化していったという。兄もその学者の一人で、昨夜も文献を探すために図書館に赴(おもむ)いていた。しかしこの有り様では、手がかりが残っている期待は持てそうになかった。
 炭になった何かの上に腰を降ろす。海から吹いてくる潮風が、つんと鼻を刺した。
 街は海から切り立つ崖の上にあって、少し内陸に入ると豊かな森が広がっている。さらに奥には、皿に似た地形のくぼんだ草原が広がっており、黒い鱗を持つ竜たちがうようよしていた。ジーヴもそこから出てきたのだろう。研究の対象には事欠かない立地だった。
 訳も分からないまま亡くなっていった人たち。彼らのことを考えると、胸が締め付けられる。どんなに無念だっただろう。どんなに苦しかっただろう。とめどなく涙があふれてきたけれど、自分が今泣いていても何の意味もない、と目元をぐいと拭って立ち上がる。
 歩きながら、兜の隙間から覗いた双眸を思い出す。あれは、確かに魂の宿った人間の目だった。自分と同じ人間が、こんな惨(むご)たらしい殺戮を行い得るなんて信じがたかった。しかし、これが現実なのだ。
 二、三日は廃墟と化した街の脱け殻に留まっていたが、兄はもう近くにいないのでは、という予想は次第に確信に変わっていった。あたしはある決心をした。
 森の合間で、罠にかかっていた兎を見つける。それをジーヴに手渡すとき、話を切り出すことにした。

「ジーヴ。あたしは旅に出ようと思う。兄さんが行方不明なんだ。兄さんを捜したい」

 兎を受け取ったままの格好で、ジーヴは一度、ゆっくりと瞼をしばたかせる。

「ふむ。で?」
「あんたにも着いてきてほしい」

 一笑に付されることを覚悟の上で、あたしは単刀直入に言い放った。
 予想と異なり、ジーヴはくすりとも笑わなかった。あたしの目を、ひとつだけ残った青が鋭く射抜く。

「なぜ人間のお前に、竜である俺が協力せねばならんのだ――と言いたいところだが、実をいうと俺も捜したい者がいる」
「え……そうなの」
「俺の一族はな、お前の街が焼かれたのと同じ夜に滅んだんだ」
「は?」

 脈絡も突拍子もない言葉が返ってきて混乱する。
 滅んだ? 頑強な体と、長大な寿命を持つ竜が? そんなことがあり得るのか。
 ジーヴが、鋭い爪の生えた指で森の奥を示す。

「この向こうの平原に、黒竜が住んでいたのは知っているだろう。俺はその黒竜の部族の長(おさ)だった。あの晩――敵意を持った何者かが集落に忍び込んできて、俺以外の一族を滅ぼした。俺も右目から光を失った。竜は夜目があまり利かんし、気温が下がると動きが鈍くなる。そこを狙ったのだろう。卑劣な奴らだ」

 語り口はあくまで静かだ。しかし、ジーヴの左目の中には、激情としての青白い炎が燃え盛って見えた。
 竜は、この大陸で一番の膂力(りょりょく)を誇る生き物だ。彼らの雄々しい姿を見たら、どうこうしようなんてとても思えないし、手出しできる生き物がいるとも思えない。しかし、右目の視力を失ったジーヴは、まさに事件の生き証人なのだった。

「街が焼かれたのと同じ夜に……無関係とは思えないけど」
「俺もそう考えている。だが推論の材料が何もない。今は何とも言えん」
「――それにしても、竜が殺されるなんて……信じられない。本当に、黒竜はあんたしか生きていないのか」
「竜は嘘をつかない。人間と違ってな」
「……それじゃ、捜したいのって、その犯人なの」

 黒竜の集落にそっと侵入した何者か。
 それが人間なのか、同胞たる竜なのか、はたまた別の生き物なのか、それは分からない。しかし、その凶悪な姿を明るみに曝(さら)した何者かが、ジーヴの爪と牙で八つ裂きにされ、血祭りに上げられる。ひどく鮮明な光景が脳裏に浮かぶ。
 けれど、ジーヴはかぶりを振ってあっさりと否定した。

「そんな者を探してどうする。見つけて腹にでも収めるか? そんなことをしても、死んだ者は還らない。竜の中に、人間が持つような憎しみという感情はない。竜は常に、前方だけを見据えている」
「じゃあ、誰を」
「黒竜の一族の生き残りだ。探せば大陸には別の黒竜の集落があるかもしれん。俺は同族を見つけたい。そして俺は、我が一族を復興させる」

 迷いの一切ない口調で、ジーヴが言いきった。あたしは彼の、まっすぐな視線に圧倒された。
 一族の仲間と、自身の右目。全てを失ってなお、その碧眼は強く輝いていた。
 ジーヴが持っていた兎をそこらに放って、仁王立ちする。
 
「では、取引の内容を変更しようではないか。お前は俺の右目となり、俺はお前の左腕となる。そしてこれから、お前は兄を捜すため、俺は同族を捜すための、いつ終わるか知れない遠路へ旅立つ」

 あたしはジーヴに気圧されないよう見つめ返し、深くうなずく。

「着いてきてくれる」
「逆だ。俺がお前に着いていくのではない。お前が俺に、着いてくるのだ」
「どっちでもいい。いつまでになるか分からないけど、これからよろしく。ジーヴ」
「せいぜい俺の足手まといにならんよう励めよ、小娘」

 傲岸不遜な竜の男は、胸を反らして高らかに旅路の始まりを宣言した。
 あたしは無論、彼に手を差し出すなんて愚行はしなかった。無駄なことだと分かっていたから。
 これ以上失うものなど何もない。澄みきった空に陽はきらめき、あたしたちの行く手を照らしていた。
 それがあたしとジーヴの、旅の始まりだった。

四章 竜と歩けば棒に当たる

四章 竜と歩けば棒に当たる

 世界には円に近い形の大陸がひとつだけあり、地べたを駆けずり回るしか能のないあたしたち人間にとって、"大陸"は"世界"とほぼ同等の意味を持っている。


 旅の途中。
 休息をとるために、ジーヴと並んで川辺に腰を降ろす。川の水は澄み、角のない石を敷き詰めた川底に、魚が鱗をきらめかせて泳いでいる。あたしの掌ほどの大きさもあるし、釣りでもして捕らえようかと思ったが、魚は好かん、生臭いからな、というジーヴの言葉で阿呆らしくなってやめる。捕まえた後でまたぶちぶち小言を言われてはたまらない。川の石みたいに、時間をかけて流れに揉まれれば角が丸くなる、という一般論は竜には通用しないようだ。
 尊大な黒竜の男と旅を始めて、もうじき四季が一巡りする。
 大陸の真ん中にそびえる巨大な火山、その裾野をぐるりと取り囲むように点在する、街や村や都市を順ぐりに旅してきた。兄の足取りはまだ掴めない。あたしたちは一年かけて、円形の大地のほとんど真向かいにある王都に近づいていた。
 あたしたちの前を流れる川の向こうには草原が開けていて、ぼんやり眺めやる先を、黒塗りの蒸気機関車が走り抜けていく。黒煙をもうもうと噴き上げながら、水彩画のような空を遠景にして。ぼーっと高く響く汽笛は、遠くからでもよく聴こえる。
 鉄道のレールは急速に伸びつつあった。今はまだ王都を含む大都市と、その周辺の街を往復しているだけの機関車だが、切れ切れになった軌条はいま互いに手をめいっぱい伸ばし、結び繋がらんとしている。軌道敷がひとつになったとき、そこには大陸周回鉄道の姿が立ち現れる。
 ほぼ円形の、世界唯一の大陸を廻る鉄道の線。
 つまりそれは、世界を一周する交通の環と言い換えることができる。人類の壮大な夢。しかしそれは決して夢物語ではなく、着実に実現へと迫ってきている。

「人間の進歩には驚かされることがある」

 ジーヴがぽつりと呟く。その顔を見ると、視界の真ん中を横切っていく機関車を、青い隻眼が追っている。

「一代前の人間が到達できなかったところへ、子の代の人間たちはたどり着いてみせる。その歩みは不思議とたゆむことがない。進歩は常に次世代の人間の進歩によって塗り替えられる。俺にはどうも、人間はこぞって生き急いでいるように見える。そんなに急いでどこへ行こうというのだ? 目指した先に、何があるというのだ?」

 淡々とした調子だった。
 それは彼にしてみれば、ごく素朴な問いなのだろう。
 竜は人間の何十倍、何百倍もの寿命を持つ。しかし、人間に与えられている時間はそう長くない。竜と人間の時間感覚。両者には深い溝がある。
 あたしには、人間を先へ先へと駆り立てているものが分かる。飽くなき好奇心だ。
 もっと速く、もっと遠く、もっと効率的に。
 そしてもっと、たくさんのことが知りたい。
 焦燥にも近いそんな衝動は、先を急ぐ必要などない竜にはきっと分からない。

「……先にあるのはきっと、竜には理解し得ないもの」
「くく、なるほどな。お前の言うとおりに相違ない」

 ジーヴはあたしとの問答を楽しんでいるのか、快笑してその長躯を揺する。

「俺が生きているあいだに、人間はどこまで行くのだろうな」

 遠い目をして投げかけるジーヴに、あたしは答えなかった。
 彼はあたしより、ずっと未来の光景を見られるのだ。長生きしたいとは別に思わないけれど、ジーヴが少し、ほんのちょっとだけ、羨ましい。
 さて、そろそろ出発するか、と腰を上げたあたしの目線の先で、機関車がまた高く長い汽笛を鳴らした。


 さすがに王都に近いだけあって、踏み入れた街はよく栄えていた。
 まず、人の密度がこれまでと違う。職業も身分もてんでばらばらな街人たちが、渦を成して街中を行き交っている。商人めいた者もいれば、役人然とした者、農民や貴族らしき者だって見受けられる。
 頭ひとつ抜けたところから街の様子を見回しているのは、馬に乗った騎士たちだ。短剣と銃とを水平に腰に提げた姿は、賑やかな雰囲気と異なり物々しい。
 大通りでは大道芸人が、火を吹いたり物をジグザグに放ったりパントマイムをしたり、興味深い一芸を披露している。彼らの前には帽子や空き缶が置かれ、通行人が硬貨をそこに投げ入れる。彼らは娯楽を提供することで暮らしを成立させているのだろう。そういう生き方があるのは軽い驚きだった。この街はきっと豊かなのだ。
 人の数も多ければ、その質も多様性に富んでいる。旅の格好をした者も多く見え、様々な服、様々な装飾、様々な顔だち、多様な民族が街角で混じりあい、生けるモザイクを作り出す。これだけ人がいれば、兄の手がかりも得られる期待が持てそうだ。

「つかぬことを聞くが、お前の兄は生きているのか」

 兄の似顔絵を商い人中心に見せつつ街を歩いていると、ジーヴがだし抜けに尋ねてきた。
 あたしの故郷は丸ごと燃え果てて無くなった。あの惨状を目にしたら、そこにいた者の生存を疑うのは当然といえば当然だ。しかし、それは旅を始める前に聞いておくことではないだろうか。一年経ってから尋ねるのは、のんびりしすぎというか、かなり間が抜けていると言わざるを得ない。竜の感覚はまた違うのかもしれないけど。
 あたしは直接答えずに、路地裏へ踏み入りそこで立ち止まる。常に持ち歩いているあるものを小物入れから取り出し、ジーヴに見せた。

「これ、何だか知ってる」

 手のなかには、きれいな三角錐の形の、透き通った鉱石がある。石の内部には、細く尖った、赤い線みたいなものが何本か見える。真っ赤な針が結晶の中に浮いているようだ。

「石だろう。見るからに」

 ジーヴのとんちんかんな返答。
 この石は兄と交換した、大切なおまじないなのだ。あたしはこれを、焼けてなくなった生家から持ち出してきた。
 鉱物の種類には詳しくなさそうな竜に、手短に説明する。

「まあ、石は石だけど。これは双宿石(アジスナイト)っていうの。元の大きさの結晶を二つに割って、二人の人間の血を別々に染み込ませて、交換するんだ。相手に危険が迫ったら、石にひびが入って知らせてくれる。命があるうちは、完全に割れることはない。あたしはこれを兄さんと交換した。だから兄さんは生きている」

 双宿石は、元は正八面体の結晶だ。それを兄が半分に割って、互いに指をナイフでちょっとだけ切り、一緒に血を垂らした日のことを、あたしは鮮明に覚えている。街を焼き出されたときから、いやそれよりずっと前から、兄が持たせてくれたこの石を、肌身離さず持っているのだ。
 兄は船乗りで、調査のため何ヵ月も海から帰らないのはざらだった。航海には危険が伴う。あたしたちの父や母も海洋学者だったが、二人とも海で亡くなった。昔と比べたら船の強度も航海術も向上してはいるけれど、船旅の危険性は無いとは言えず、万一兄の身に何かあった場合にそれと分かるようにと、兄自身が提案したのだった。
 兄は両親の研究を引き継ぎ、黙々と航海を重ねていた。彼の表情から、恐れは微塵も感じ取れなかった。普段はのほほんとして柔和な風を纏っているが、その実兄は強い人なのだと思う。
 ――兄さん、今どこにいるの。
 心のなかで双宿石に呼びかける。ただの鉱物にすぎない透明な結晶は、言わずもがな沈黙している。表面のひびが心なしか増えているように思えて、あたしの胸は痛んだ。
 自ら聞いたくせに、ジーヴは関心の薄さを隠そうとしない。鋭い歯で、込みあげてきた欠伸(あくび)を噛み殺している。

「まあ、徒労に付き合わされていないならそれでよい」
「あんたの方こそ、本当に黒竜の生き残りなんているのか」

 あたしは機に乗じて、常々感じていた疑問を黒竜の元族長にぶつけた。
 竜のなかでも、黒竜は特に珍しい存在であるらしい。それは以前、鱗を売ったときの相手の反応であるとか、街や森で見かける竜の姿(ジーヴによると火竜や氷竜が多いという)から察することができる。元々数が少ない彼らが、一夜にして一族全員を失ったのだ。どこかには別の集落があるはず、と楽観的になる方が難しい。この旅で、黒竜の息づかいはおろか、気配さえ感じたことはない。
 ジーヴは別段思い悩む様子もなく、小首を傾げて答えを発する。

「さあな」

 無責任ともいえる発言に、あたしは拍子抜けする。

「何なんだ、その返事。いないかもしれないのか」
「どうにでも考えられる、ということだ。いるかもしれんし、もう生き残りは俺だけかもしれん。残っているのは雄ばかりという事態も考えられる。しかし、それがどうしたというのだ? この大陸中を捜してみないことには、はっきりとは分からない。"ない"と証明するのは"ある"と証明するよりも困難なのだ。俺は可能性に懸けている。可能性がゼロでないかぎり、竜は希望を持ち続ける。竜に絶望はない」

 きっぱり言い切って、話は済んだとばかりあたしから視線を外す。
 ジーヴは大通りに向かって歩きだしたが、あたしの足は動かなかった。自分だったら、と考える。もし兄が生きている保証なしに、彼の生存を信じて大陸全土を捜しまわる、なんて芸当が果たしてできるだろか。きっとこの竜も兄と同じく、尊大さに見合うだけの芯の強さを持ち合わせているのだろう。
 レンガ壁に挟まれた空間から抜け出すと、目線の先で、ジーヴは肉屋の主人と言葉を交わしている。
 ふと別の疑問がもたげた。ジーヴの一族を滅ぼした何者かは、人間である公算が一番強い。それはジーヴも分かっているはず。なのに、ぶつくさ小言を漏らしつつも、あたしとの旅路に付き合っていることや、ああして街にその身を溶け込ませていることが、今更ながら奇妙に感じられた。
 ととっ、とジーヴに駆け寄って、ねえと話しかける。

「あんたは、人間をどう思ってる。本当はあたしのことも、憎いんじゃないのか」

 ジーヴは眉根を寄せた。躾のよくない、噛み癖のある犬でも相手にしているような表情だった。

「お前の質問はいつも唐突すぎて疲れる。――よいか、竜は誰かを憎んだりしない。禍根を残すだけだからな。竜のなかに憎しみという感情はないと言ったろう。憎んでいたら、旅の初めにお前の提案を呑んだりしない」

 この旅程で見慣れてしまった、辟易した呆れ顔で応じる。こういう顔はよくするのに、ジーヴは本気で怒った試しがない。度量の大きさなのかもしれないが、それを素直に認めたくない自分もあたしのなかにはいる。
 ならいい、と言うとするが、ジーヴがすう、と目を細めてあたしを見つめたのが先だった。

「小娘よ、お前はどうなんだ。兄に再び会えればそれでよいのか。お前こそ、街を焼いた人間を憎いとは思わないのか」

 冷や水を浴びせられた気分、というのは、こういう心境をいうのだろう。
 無言で相対するあたしたちの周りを、顔に訝しさを貼りつけた街人が通りすぎていく。
 街に火を放った何体もの甲冑たち。その正体について、あたしはあまり考えないようにしていた。許せない気持ちは確かに強かったが、犯人を明らかにしたって、何かが解決するわけでもないと分かりきっている。あたしは兄のことばかり考えていた。正直、自分の気持ちが分からない。ただ、言えることがひとつ。

「……憎いのかどうか、よく分からない。でも許せないとは思うし、なんであんなことをしたのか、知りたい気持ちもある」

 火の海と化した故郷。
 何の目的があって、彼らはあれほどの蛮行に及んだのか。
 ふむ、とジーヴが神妙に頷いて、鋭い眇(すがめ)であたしをじっと観察する。彼の様子がいつもと違っていて戸惑う。

「それなら、俺の考えを話しておこう。頃合いかもしれんし」
「……え?」

 マイペースを崩さない竜の御仁は、くるりと体を反転させると、どこかへ向けてすたすたと歩き始めた。急速に遠ざかり、人混みに紛れんとする大きな背中を慌てて負う。

「ちょっと待て、考えって何なんだ。今言ったらいいだろ」
「いや、長くなりそうだからな、飯でも食べながらにしよう。ちょうど夕飯時だ。先刻、ここらで放牧されている羊が美味いという話を聞いた。それを食べさせる店にしよう」

 さっき肉屋とそんな会話をしていたのか。相変わらずちゃっかりしている男だ。

「あんたが勝手に決めるのか」
「何だ? 不満があるのか」
「別にいいけどさ……」
「ならば黙って着いてこい」

 それは最高に着いていきたくなくなる台詞だ、と言っても、この竜は絶対に耳を貸さないのだろう。


 羊の肉は聞いた通り美味しかった。変わった香草を利かせてあり、なんとも形容しがたい魅惑的な風味を持つ。しかしながら、対面に座るジーヴの前に山と並ぶ肉料理の皿と、それをものすごい速さで腹に収めていく様が、あたしの食欲をごっそり持っていった。
 竜の食事風景は、羊の美味しさを相殺するに余りある負の影響を有していた。だからこの男と向かい合ってものを食べたくないのだ。あたしは気分の悪さを覚えながらジーヴを睨む。黒竜の生き残りはまったく意に介さず、豪快な夕食を続ける。
 皿を半分以上空にしたところで、ようやくジーヴは口火を切った。

「お前は俺が、一族の生き残りのことしか頭にないと思っていただろうが、俺はずっと、竜の里に忍びいってきた不逞の輩について考えていたんだ」
「……普通に言ってよ」
「そう睨むな。俺のなかで、一応の答えは出せた。だが――お前が下手人を憎くてたまらないと思っているのなら、話さないでおこうと思っていた。新たな憎しみを生み出したくはないからな。しかし、そうではないようだから話すことにしたのだ」
「だから普通に言ってってば……」

 ジーヴはあたしの質問が唐突で疲れる、とのたまっていたが、あたしだって、ジーヴとの会話は回りくどくて疲れる、と釈然としない思いを抱える。竜がみんなこうなのか、ジーヴだけが特別なのか、それはあたしには判断がつかない。
 でも、どうやらあたしの心情をかんがみ、結論を話すか決めたらしいところに、何やら思いやりのようなものを感じる。すごく気味が悪い。
 ジーヴが鉤爪の生えた指で、光を失った右目を示す。重々しい声が、ギザギザの歯が揃った口から流れ出した。

「黒竜の一族を滅ぼし、俺の目から視力を奪った元凶。俺はその姿を見なかったが、そもそも姿などなかったのだと思う」
「……どういうこと?」
「つまるところ、その何者かは、毒性を持つある種の気体(ガス)を使ったのではないか、ということだ」
「つまりそれって、毒ガス……?」

 声が震える。こんなところで、これほど汚らわしい響きの言葉を口にする羽目になるとは。あたしは二の句を継げない。騒々しく人いきれで暑いほどの料理店にあって、背筋がぞっと冷え、身震いした。
 周りをそっと見回す。旨い肉に舌鼓を打っている誰も、こんな物騒な話が同じ店内で交わされているなど想像だにしていないだろう。

「お前も知ってのとおり、黒竜が住む里は窪地になっていた。空気より重い気体ならば、窪みの底に溜まる。咎人はそれを承知だったのだろう。穏やかな眠りに就いていた我々の一族は、撒かれた毒ガスによって、何が起こったのかも分からぬままに、苦しみのたうちまわって死んでいった。それが俺の達した結論だ」

 重苦しい語りのあいだ、ジーヴの片目の奥に怒りは見えなかった。そこは無風の湖面ぐらい滑らかで、穏やかで、張りつめた静けさが逆に怖かった。

「でも、窪地全体に行き渡るほどの毒ガスなんて、途方もない量だろう。そんなものを誰が……?」
「少しはその立派な頭を使え、人間の小娘よ。そんなものを自由に扱える人間など、ごく限られているだろう」

 試すような鈍い目の光に曝され、額がひりひりする。
 数秒ののち、あたしの中で明るい火花が弾け、信じがたい真実を思考にもたらす。

「まさか……王立学術協会(アカデミー)か?」

 厳めしい顔つきのまま、ジーヴは深く首肯した。
 科学の徒である学術協会の会員。
 例えば彼らが、害獣を駆除するために毒ガスの研究をしていて、作成法や現物を所有していた、そんな事実があってもおかしくはない。けれど、それを竜相手に使う理由が考えつかない。竜に手出しをしよう、という発想そのものが常軌を逸している。というか、端的にイカれている。
 それに、兄も協会の人間だ。竜の研究にも熱心に取り組んでいた兄の姿と、竜の里に毒ガスを撒いたという科学者の像は、結びつかないどころか乖離しすぎている。
 しかも、あたしの街を焼いた奴らは明らかに科学者ではなかった。訳が分からなくなってあたしは頭を抱える。

「でもジーヴ、兄さんだって協会の人間なんだ。それに、協会に所属してるのは学者だけ。あたしの街を焼いた人間は武装していたんだ、あんな風に」

 あたしは窓の外、ちょうどすぐそばにいた騎士たちを指差した。馬の手綱を握る屈強な男たち。腰から提げた銃と剣の装備。遠くからでは見えなかったが、革製の胸当てに紋章が焼き付けられている。それが、日暮れの弱い光のなかでも分かった。
 羽ペンを象った紋章。
 あの日の甲冑の外観が脳裏に甦る。
 思わずあっと声が漏れた。窓枠に取りついて、騎士をまじまじと見る。視界がきゅうと狭まって、心臓がどきどきと強く脈打っていた。

「あれだ……」
「どうした」
「あの騎士だよ、あたしたちの街を襲った奴らは! あの焼き印、間違いない……どうしてこんなところに……」

 ぎらりと碧眼をきらめかせ、ジーヴが窓に顔を寄せる。彼らに冷たい視線が送られる。

「ふむ……あれは、イゼルヌ教団の紋章だな。彼らは教団お抱えの聖騎士たちだ。お前はそんなことも知らないで、よく今まで生きてこれたものだ」
「……どうしてあんたが人の事情に詳しいの」

 ジーヴはこちらに向き直り、お得意の姿勢をとる。つまり、腕を組んでふんぞり返り、ふんと鼻を鳴らす。

「イゼルヌ教の教義を、お前は知らんのだろうな。あそこの教えでは、人間こそが神の祝福を受けた大陸の支配者ということになっている。つまり、人以外の知的生物の存在を認めていないのだ」
「え……」
「嘆かわしいことよ。人に言葉を教えてやったのは竜だというのにな。お前も知らなかっただろう。人の驕り高ぶりにはほとほと閉口させられる。――イゼルヌ教団の聖騎士に遭遇してもさすがに攻撃はされないが、あまり顔を合わせたい相手ではない。向こうは我々の知性を否定しているのだからな。竜のなかでは常識だ」

 あたしは窓から離れて椅子に深々と座り、考え込む。
 あたしとジーヴの知る情報をまとめる。竜の集落でもあたしたちの街でも、実行犯は竜の知性を認めないイゼルヌ教団の騎士だった。その背後には協力している科学者がおり、毒ガスを提供していた。協会と教団。両者が手を組み、何かを企んでいた。
 そこまで考えるが、共謀の意図は、いくら頭をひねっても分かりそうになかった。

「真相を暴くにはもっと情報が必要だな。イゼルヌ教団について街で聞き込みをしよう、ジーヴ」

 皿に残る肉の塊をむしゃりと頬張り、テーブルに手をついて立つ。あたしはいても立ってもいられなかった。
 対する竜の男は目を丸くし、珍しく驚いた顔をする。

「もう夕刻だぞ。それにお前の話が真実ならば、あの騎士たちが街を焼いた張本人ということになる。奴らがいる状況で、聞き込みをするのはまずいのではないか?」
「このまま湯船に浸かって寝床に直行、なんてできる気がしない。あんたは宿に行ってれば。あたしだけでもやるから」

 黒髪の大男を今は見下ろしながら、あたしは宣言する。目と鼻の先に真実がぶら下がっているかもしれないのに、目を逸らして黙(だんま)りを決め込むなんてできない。
 ジーヴは二、三度目をしばたかせ、本気か、信じられん、とごちる。それでも、結局はあたしの後に続いた。聞こえよがしに嘆息を漏らしながら。


 藍色の薄い幕が引かれても、街は少しも賑やかさを失っていなかった。
 むしろ、家々の窓の明かりや、店先の看板を照らす光がきらめく様は、昼間よりも喧騒をいや増して演出しているようだった。あふれる光源の間を、ジーヴと二人で縫っていく。
 ほろ酔い気分の街人の割合も増えている。口が軽やかに、滑らかになった彼らからは、色々なことが聞き出せた。
 ひとつ、従来イゼルヌ教は大陸全体では小さな宗教だったが、このところ勢力を拡大していること。
 ひとつ、王の臣下にもイゼルヌ教団員が何人もいて、側近に取り入っていること。
 ひとつ、この街に駐在している聖騎士たちは、昔領主が使っていた、丘の上の城に逗留していること。

「しかし、聖騎士団は何ゆえこの街に留まっているのだろうな」

 城がある方向へ顔をやりながら、ジーヴがぼやく。領主制はとうに廃止されているから、石造りの尖塔のてっぺんに、いるべき主はもういない。城は、まだ淡さを保(も)った闇を背に、黒々とした影となってその存在を顕している。
 ジーヴの疑問は、そういえば兄の消息を尋ねるのを忘れていたな、と思い出したあたしが、次に似顔絵を見せた髭面の酔客の返事によって解決することになった。
 その男は千鳥足で家路をたどっていたが、あたしたちが呼び止めると従順に振り向いた。だし抜けに似顔絵を突き出し、こんな人を見なかったか、と単刀直入に訊ねる。酔漢相手には仔細を説明するより、この手の唐突さの方が通じやすい。
 ほぼまっすぐに切り揃えた前髪と、片眼鏡(モノクル)をはめた兄の絵を見た男は、しょぼついた瞼を動かしたあと、唇をああ、という風に動かした。

「この人は有名な人なのかい? 騎士さんたちもこんな顔の人を捜してるみたいだったけど」

 反射的に、あたしはジーヴと顔を見合わせる。あたしが多分そうであるように、彼もまた不可解な表情を顔に貼りつけていた。
 イゼルヌ教団の騎士が、なぜ兄を知っているのか。その上あたしと同じく、彼を見つけようとしているのはなぜなのか。
 彼らがここで何をしているかは分かったが、事情の因果関係はより複雑に絡まったように思われた。しかしながら、聖騎士たちが兄を捜していることは、イゼルヌ教団が街に火を放ち、教団と科学協会が裏で繋がっている、との推論の根拠になり得そうだ。 

「これはあたしの兄さんなんだ。見たことないか?」

 勢いをつけて問うが、髭面の男は首をひねり、つまり反応は芳しくない。

「さあ、見た覚えはないねえ。にしてもその絵を誰が描いたか知らんが、騎士さんが持ってた絵に比べると相当下手くそだね」
「……」

 思わぬところから不意打ちを喰らって絶句する。これはあたしが描いたのだ。自画自賛ながら、なかなかの出来映えだと自信を持っていたのに。
 隣でジーヴが肩を震わせて笑いだしたので、思いきり肘鉄をお見舞いしてやる。

「……これはあたしが描いた」
「おやそうかい、そりゃすまねえこと言ったな、悪気はなかったんだよ――」

 肩を落とすあたしの前から、酔いどれはばつが悪そうにフェードアウトしていった。
 くつくつと含み笑いを続ける無礼な竜と二人、その場に取り残される。

「おい小娘」
「うるさい!」
「まだ何も言っていないだろう」
「うるさい黙れ! よし決めた、これからは別々に聞き込みしよう、その方が効率的だし。一時間経ったら宿で落ち合おう、それじゃあな!」
「おい、俺はまだ――」

 口の端に笑みを浮かべたままのジーヴを置き去りにして、あたしは人々がさんざめく往来を突っ切っていく。頬がかっかと熱い。あんな恥をかくなんて。よりによってあの竜のまん前で。
 肩を怒らせて歩くあたしを、街人が何事かと見やる。そんな彼らに手当たり次第に似顔絵を見せる。ああ騎士さんたちの、おや騎士さんがたが、そんな反応ばかりだ。むしゃくしゃが募る。
 煮えきらぬ怒りを弱火であたためるあたしは、どうも視野が狭くなっていたらしい。四つ角を曲がろうとしたとき、風を切って闇雲に進むその速度のまま、誰かの背中に激突した。
 目の前に火の粉が散り、直後の臀部の痛みで、自分が尻餅をついたことを知る。
 衝撃で手を離れた兄の似顔絵が、ひらひらと宙を舞って地べたに落ちる。衝突した背中の持ち主が振り返った。その屈強な腕が伸び、下手くそと評されたあたしの絵を拾い上げる。
 ひどく嫌な予感がしておそるおそる目線を上げると、濡れたような瞳を暗く輝かせた男が、こちらをじっとりと見つめていた。その胸当てには、羽ペンの焼き印。
 ごくり、と喉が鳴る。しくじったと悟るがもう遅かった。

「お前か、我々と同じ人間をこそこそ捜し回ってる娘ってのは」

 腹の底から滲む愉快な感情を、意地の悪さで上塗りした淀んだ声。問いかけではなく確認だった。頭を押さえつけられる重圧を感じる。どこかから聖騎士がわらわらと集まってきて、あたしは完全に取り囲まれていた。冷や汗と動悸と体の震えに襲われる。
 万事休す。
 似顔絵の紙を持った騎士が、元領主の城に向けて顎をしゃくる。

「騎士団長のところに連れていけ」

 ささやかな抵抗も虚しく、頭から麻か何かの袋が被せられ、目の前が真っ暗になる。鳩尾に強い力を感じるか感じないかのうちに、あたしの意識は夜よりも深い闇に落ちた。

断章 竜の手も借りたい

断章 竜の手も借りたい

 未知が僕を呼んでいる。


 丘の上に立ち、窪地形に広がる若草色の平原と、鏡そっくりに空と雲を映す湖、そして世界唯一の大陸に黒々とそびえる、世界最高峰の巨大な山体を望む。
 若葉の匂いを含んだ爽やかなそよ風が、僕の髪を揺すり、鼻腔をくすぐり、王立科学協会(アカデミー)会員用の白いマントをはためかせて去っていく。首をぐるりと回さないと見渡せない広い空のあちこちに、黒い影が行き交う。その影は距離の遠近であちらでは胡麻粒のように、またこちらでは細長い凧のように見えるが、そのいずれもが、翼を広げた一頭一頭の竜である。
 ちょうど僕の方へ飛んでくる一頭に向かって、思いきり手を振って叫ぶ。

「すみませーん! こんにちはー!」

 声が届いたかどうか分からないけれど、その竜はこちらに気がついたようだ。一直線に、両翼を力強く羽ばたかせ、ぐんぐんと近づいてくる。黒い塊だったものは、体の形を明瞭に現し、体表の棘やごつごつした節が視認できるようになる。やがて羽ばたきが起こす風が僕の顔をなぶり、耐えきれず腕で目を覆う。
 一瞬強烈なつむじ風が吹き、やむ。目を開くと、そこには黒髪と碧眼を持ち、金刺繍のされた黒衣を身につけた、堂々たる居姿の美丈夫が立っていた。
 夜の黒と昼の青とを身に宿した、空の王。
 僕は彼を知っている。調査のために何度も言葉を交わしたから。この一帯に住んでいる、黒竜の一族の族長だ。
 彼は僕をじろじろ見ると、腕を組んで鼻をふんと鳴らす。

「なんだ、またお前か。物好きな奴め。今度は何が聞きたいんだ」
「いやー、話が早くて助かりますよお」

 僕は頭の後ろを掻き掻き、竜の青年に笑いかける。竜は仏頂面を崩さないが、別に怒っているわけではなく、これが彼の普通であるらしい。

「ええとですね、前回と同様に南西方向の海の様子について聞きたくて――」

 聞き取りを始めようとすると、竜は尖った爪が生えた指を僕の目の前で広げ、制止の合図をする。

「待て。ならば、こんなところで立ち話もなんだろう。向こうの森の倒木にでも腰かけて話そう」

 竜は巨躯を半ば窪地へ向け、湖のほとりに広がるもこもこした木々の塊を顎で示す。ずいぶんと遠い。僕の足だと半日のそのまた半分くらいはかかってしまいそうだ。

「あのう、あそこまで行くにはかなり時間がかかると思うんですが……」
「ふん、人間とは軟弱なものだな。心配するな。俺が運んでやる」
「え! いいんですか」

 僕はわくわくして目を見開いた。無意識に拳を握りしめる。もしかして竜形の背中に乗せてくれるのだろうか。竜にまたがって空を翔け、高みから遥か下方を眺める。それは、僕の密やかな夢だ。
 青年は軽くうなずき、またも一陣のつむじ風を纏い、雄々しい竜の巨体へ変じる。黒竜の長は平原全体に轟きわたるほどの咆哮をあげ、翼を上下に軽く動かした。
 びりびりとした空気の震えを全身に浴びながら、自分の家の一室ほどの広さもある、竜の背中へ近づこうと一歩を踏み出す。
 しかし、僕はそこにはたどり着けなかった。
 竜が鮮やかな青い目で僕をぎろりと睨み、その鋭い爪の生えた前肢で、物でも持つみたいにむんずと僕を握り、掴みあげたからだ。
 黒竜の巨躯はそのままふわりと浮かび上がる。今まで自分がいた野原が、あれよあれよと下方向へ急速に遠ざかる。
 竜の手のなかは苦しくはなく、ほんのり温かい。ほどよく調節された握り心地であった。
 
「やっぱり、こうなりますよね……」

 僕の夢の実現はこうして延期された。とほほ、と思いながら、中空にてがっくり項垂れる。


 僕は竜の研究者であり、海洋学者でもある。
 そのふたつに何の関連があるのと妹のアイシャは言うけれど、なかなかどうして両者は深いところで繋がっている。
 竜の話を書き取った紙束を抱え、えっちらおっちら帰宅する。もう陽は山の稜線の下へ隠れつつある。自宅の扉を開けるとすぐ、腹の虫の目覚めを誘う香ばしい匂いが鼻をついた。台所に妹が立って、夕食の支度をしているところだった。

「お帰り、エイミール兄さん」

 包丁を動かす手を休め、アイシャが僕へほほえみかける。ただいまアイシャ、と返しながら、妹の方へ歩み寄る。けれど手元のまな板が何かの羽毛だらけで、包丁もべったり血に濡れていたため、僕はそっと距離をとった。昔から血の色と臭いが駄目で、それだけでよく貧血を起こすのだ。妹の前でばったり倒れるとか、そんな醜態を晒したくはない。
 早くに両親を亡くした僕ら兄妹にとって、相手は互いに一人きりの家族だった。自分の研究にばかり精を出してきた僕は、家事においてはまったくもって戦力にならず、家のことはアイシャがほとんどしてくれていた。アイシャはきっと良いお嫁さんになると思う。同じアカデミーの学者連中からは、お前の世話ばかりしている妹ちゃんが可哀想だの、お前も研究にばかりかまけてないで嫁探しをしろだの、散々な言われようだが、彼らの意見には僕も全面的に同意である。
 ではアイシャはずっと家にいるのかというとそうでもなくて、街から少し離れた森で鳥や獣を狩ったり、川や湖で魚を釣ったりしている。獲物は主菜として食卓にのぼる。彼女が林間を駆け回る様子は、しなやかな鹿の身のこなしを連想するし、彼女の弓の腕前は超がつくほど一流だ。今どきそんな芸当ができる人間は皆無に等しい。
 父や母や兄の僕は自然を研究することを選んだが、彼女だけは自然とともに生き、その恵みの一部を分けてもらうことを選んだ。僕はそんな妹を誇らしいと思う。兄妹でどうしてここまで違うのかとも思う。
 僕が持たなかった分の運動神経を、彼女が全て持って生まれてきたのではないか。非科学的かもしれないけれど、僕はそう考えている。では全ての知力を僕が持って生まれたのかと問われるとそういうわけでもない。僕はそれほど賢くもないし、アイシャは科学の方面に関心がなかっただけで、実のところ相当に利発な子だ。妹馬鹿だと詰(なじ)られようが僕は意見を変えない。
 今日僕は竜の背中に乗り損ねたが、妹が竜の背に乗って大空を飛び回る様は、容易に想像ができる。もしかしたらそんな日が来るかもしれない。漠然となんとなくぼんやりと、そんな気がした。

「ご飯の準備、何か手伝おうか」
「ううん、大丈夫。研究の成果をまとめたいんでしょ、顔に書いてある」

 助力の申し出はありがたくも断られた。
 いつもごめんね、と謝ると、アイシャは意味が分からんとばかりに小首を傾げる。

「あたしはあたしがしたいことをしてるだけ。兄さんも好きなことをしたらいいよ」

 そう言って笑う。繕ったところは微塵もなかった。なんていい子なんだろうと感激しながら、今日の収穫をまとめあげるため、ちょっと肩身の狭い気分にもなりつつ、僕は自分の部屋へ引っ込んだ。


 しばらくそんな日々が続いた。
 僕の研究対象は海洋と竜であり、研究内容は9割以上が実地調査(フィールドワーク)だ。航海に出れば、四季の変遷を船の上で感じることもある。アイシャには本当に迷惑をかけているし、兄らしいことも全然してやれていない。
 海と竜の研究、二足のわらじを履く理由はというと、外洋のことを一番知っているのが竜だからだ。竜はその強靭な体と翼で、遥か海の彼方まで飛び、また帰ってくる。彼らによるとそれはただの戯れにすぎないという。しかし、彼らが見た光景は、人間にとっては抜群の研究資料になる。現在の航海技術は、まだ竜の可飛行領域を抜けられていない。僕らの目下の目標は正確な海図を作ることであり、大陸以外の島嶼(とうしょ)の配置については、竜が最も詳しいのである。
 ただし、竜はどちらの方向にどれだけ飛んだ場所に島があったか、などと親切に覚えていてくれるわけではない。竜は人には決して積極的に協力しない。したがって僕らが書く海図は、推論に推論を重ねた結果生まれる、危うい均衡を持った代物と言わざるを得ない。
 大粒の雨の雫が窓を叩いている。雨風が強い日は実地調査はお休みだ。僕はだだっ広い海洋を、無数の雫がびしびし打つ様子を想像して物思いにふける。こういう日はペンが進む。僕は無心で、推定に基づいて場合わけしたいくつかの海図を書きあげた。達成感に浸りながら、なんとはなしにそれらを眺める。
 円形の大陸。その海岸線の近辺には、たくさんの島が書き込まれている。これらはどの海図でも不変だが、外洋に目を向けると事情は一変する。この海図にある島が、こちらの海図では別の場所にある。この不確定要素を確定させるために、帆船の舵を沖へと向け、学者は大海原へ旅立つのだ。
 ある海図の西の沖をぼけっと見ているとき、その神託にも似た発想は、僕の頭にどこからともなく訪れた。
 その海図では、西の方に途切れた島の海岸線がいくつも浮かんでいた。そこは竜の飛行可能領域ぎりぎりで、竜たちも島の影しか見たことがないらしかった。これが全部同じ島の海岸線なら、この島は途方もなく大きいことになるなあ、まるで大陸だ、とぼんやり考える。

「大陸か……」

 その呟きに意図はなかった。しかし、その単語の響きが僕の声帯を震わせ、部屋の空気を震わせ、鼓膜を震わせ、しまいには自分自身の思考をも震わせた。
 直感がまばゆい火花を散らす。椅子にもたれかかっていた体をがばりと起こし、海図に噛みつかんばかりに目を凝らす。そんな馬鹿なことってあるだろうか。常識外れもいいところだ。
 この世界に、"大陸がもうひとつある"なんて。
 仮説を理性が打ち消そうとする。でもそうだ、それを確かめた人間は、まだ一人もいないのだ。
 大陸。大陸! もうひとつの大陸――。
 僕の心臓は早鐘を打っていた。熱に浮かされたようだった。体全体が、沸き返る興奮でめちゃめちゃになっていた。
 何としてでも確かめねばならない。この仮説が盲信に変わる前に。僕は計算を始めた。船でそこまで到達できないかどうか。羅針盤を机の上に据える。島や海流や季節風を考慮に入れる。西へ進む最短距離、それが知りたい、どうにかして真実を――。

「兄さん」
「うわあ!」

 至近距離からの唐突な呼びかけに驚きすぎ、僕は椅子ごと床に倒れこんだ。しこたま腰を打つ。なんて情けないんだ。
 アイシャが申し訳なさそうな顔をして、僕を助け起こしてくれる。

「ごめんなさい、ノックもしたし声もかけたんだけど、返事がなかったから……。ご飯できたよ」
「え、ああー……そっか、全然気づかなかった。ごめんね」

 またやってしまったな、と決まりが悪くなる。研究に没頭すると、周りの音が聞こえなくなるのだ。
 アイシャはけれど腹を立てる素振りもなく、僕の机の上をしげしげと見つめている。そして、突っ立っている僕へと目線を移す。

「また航海に出るの、兄さん」

 虚を突かれて反応が遅れる。どうして分かったんだろう。僕は弱々しく首肯する。

「……実は、そのつもりなんだ。よく分かったね」
「兄さんが海図や羅針盤とにらめっこしてる時は、いつもそうだったから」
「そうか……止めないの、アイシャ」

 僕は自分と同じ色の、アイシャの深い紫色の瞳を覗きこむ。顔も髪の色も性格もまったく違う兄妹ではあるけれど、虹彩だけは完璧と言っていいほど似た色をしていた。
 学者だった父も母も、航海中に亡くなった。荒れた海で、大波にさらわれたのだ。僕は二人の最期を見ている。海に対して畏れがないわけではない。でも、好奇心は畏れを飲み込み、僕を水平線のその向こうへと押し動かす。何度も航海に出る僕を、アイシャは黙って見送ってくれた。彼女の本心を聞きたいと思った。

「兄さんがしたいことなら、あたしは止めない」
「僕はずいぶん好き勝手してきたよ。それに今回は、今までより危険な旅になるかもしれないんだ。それでもいいのかい」

 アイシャはうなずく代わりに、ポケットから山角錐の結晶を取り出す。
 双宿石。僕の命の写し鏡。
 それを掌に乗せ、胸の位置に掲げる。

「無事に帰ってきて。それだけでいい」

 僕はぐっと唇を噛んだ。胃の腑あたりが熱くなる。
 アイシャの言い分は、約束できる類いのものではない。きっと彼女だって、それぐらい承知のはずだ。分かりきっているはずだ。であるならば、僕が返すべき言葉はひとつしかない。
 妹の手にきらめく結晶ごと、その小さな掌を自分の掌で包む。

「絶対に帰ってくるよ。約束する」

 アイシャは優しくはほえむ。
 僕は己の宣言を、強く心に刻んだ。


 ひたすら西を目指すだけならば、帆船でもなんとか大陸とおぼしき陸地までたどり着けるのではないか。それが非常に面倒な計算を経て得た僕の結論だった。
 しかし、航海は僕一人ではできない。船が要る。船員が要る。食糧も要る。そのための手続きは煩雑だ。
 研究資金をかき集め、手配できるうちの最大の帆船を用意してもらう。乗船を頼み込んだ船員も学者も、自分が立っているこことは別に大陸があるかもしれない、などというぶっ飛んだ僕の着想には猜疑的だった。鼻で笑って取り合わない人も少なくなかった。何人かは気でも狂(ふ)れたのかと眉をひそめた。どう思っていてもいい、乗ってくれるだけでいい、と僕は極限の極限まで食い下がった。
 船員の頭数を揃えるのに丸まるひと月。ありったけの食糧を積み込み、出航する日は、よく晴れた穏やかな海路日和だった。
 隣街の港には、アイシャも見送りに来てくれた。その表情には期待や心配や緊張がない交ぜになっていた。妹が大きく手を振るのへ、僕も力の限り振り返す。錨が抜かれると、アイシャの姿はみるみるうちに小さくなっていった。
 いつまでも陸地を眺めていると、割と手加減なく肩を叩かれる。そこをさすりながら振り向くと、海の男特有の勇猛な笑みを浮かべ、船員のカイという青年が仁王立ちしていた。短髪をバンダナで覆っている。彼は持ち主から船の管理を任されている。過去の航海でも何度も世話になっていた。

「よお、エイミール船長。感傷に浸ってる暇はないぜ、さっさと指示を飛ばしな。"船頭多くして船山に登る"とは言うが、船頭がしゃんとしてなきゃ船はあっという間に座礁だぞ。可愛い妹ちゃんの前でな!」

 船長と呼ばれ、そういう場面でもないのだけれど、僕は照れた。これまでの航海では船長を務めたことはない。そういえば、近海では海賊も出るのだった。僕は気を引き締める。

「ああそれと、自分のゲロは自分で始末しろよ、船長」

 カイがぽんと僕の背中を叩く。
 ふと思い出した。どうして忘れていたのだろうか。
 僕は、ひどく船酔いするのだ。
 船酔い、という単語が頭に閃いた途端、頭の先の方から血がさーっと引く。逆に、ぞわぞわとした寒気が足元から昇ってくる。
 まずい、と思った僕は船の縁(へり)へ駆けていく。

「おおい、船長、指示はどうしたよ!」

 カイの大声が後ろから飛んでくる。彼がからっとした笑い声をあげると、僕以外の船員みんながどっと笑った。
 
「に……西に……全速力で……」

 僕はへろへろしながらなんとか絞りだす。こんなに面目が立たない船長がいまだかつていただろうか。カイは僕の代わりに船員を見回し、大音声(だいおんじょう)を張る。

「総員! 西を、全速力で目指せ!」
「アイアイサー!」

 地鳴りのように、乗員が応えた。
 船の帆が大きく風を孕む。舳先が青く輝く大海を割る。そしてへたり込む僕の周りを、野太い声が取り囲む。未知なる陸地を目指す大いなる航海が、かくして始まった。

五章 竜が通れば道理が引っこむ

五章 竜が通れば道理が引っこむ

 その小娘は、俺をジーヴと呼ぶ。


 丸一年ほどともに旅をしてきた人間の小娘は、約束の時間が過ぎても宿に現れなかった。
 一階の食堂で果実酒をちびちび飲みながら、竜を待たせるなど相変わらず図太い奴だと考える。集合時間を決めたのは一体どちらだと思っているのか。小言でも言いたい気分だが、その当の本人がいないのではどうしようもない。
 待ち人は一向に来る気配がなく、代わりに胸の内に暗雲が渦巻いている。竜の勘というやつだ。ここでこうして無為なひとときを過ごしていても仕方ない。やれやれと一息つき、グラスをぐいと傾ける。カウンターの椅子から立ち上がった。

「勘定」

 言いつつ金貨一枚を机に滑らせれば、それを見たマスターがぎょっとした表情になる。上質とはいえない果実酒一杯に支払うには、気でも狂ったのかと疑われて当然の金額だ。分かっているが、竜の俺にとってはどうでもよい。

「お客さん、釣りは……」
「要らん。お前の懐にでも入れておけ」

 ひらひらと手を振り言い捨てて、夜の帳が降りきった街へ歩み出る。ひんやりした夜気が顔を撫でた。通りは、どことなくざわざわと落ち着かない雰囲気に包まれている。宿に着く前の心地好い喧騒とは、微妙に質が異なるようだ。街の匂いが、風の動きが、人々のさざめきの声色が、漂う空気の醸(かも)しだす色合いが、それを俺に告げる。
 そういえば、イゼルヌ教団の騎士の姿がない。
 やはり何かあったな、と小さくぼやく。
 俺は道端で客引きをしている、酒場の店員に声をかける。

「騒動でもあったのか。聖騎士が見えないようだが?」
「こりゃあ竜の旦那。つい先刻ですがね、あっちの通りで騎士団にとっちめられた人間がいたらしいですぜ」
「それは女か」
「へえ、年若い娘だって話でさ。何をしでかしたんだかね……」
「ふむ」

 思わず嘆息が出る。十中八九、俺の契約相手の小娘だろう。木乃伊取りが木乃伊になってどうするのか。仇(かたき)が街にうろうろしているところで、危険な綱渡りをするのはまずいと言ったのに。今となっては詮なきことだが。

「騎士たちの行き先はあの城か?」
「さあ、見ちゃいやせんが、多分あそこじゃないですかい」
「そうか。話を聞かせてくれた礼にこれをやろう。俺のことは誰にも言うなよ」

 店員に金貨を握らせる。その輝きに目をぱちくりさせた後、男はその場で卒倒した。
 俺は人混みに混じりながら、その昔領主の持ち物だったという城に視線を向ける。竜は夜目が利かないから、城の輪郭もその足元の丘の形さえはっきり見えない。
 歩きながら思索をくゆらす。騎士たちは小娘の兄の行方を追っていた。小娘も兄をまた捜していることが、どういう形でかは不明だが、騎士団に知れたのだろう。そして捕らえられた。城には牢だってあるはずだ。城に着いたら、小娘はそこへ投獄されるのではないか。
 だからといって、特にどうとも感じない。
 おそらく人間ならば、意を決して助けに行くのだろうとは思う。しかし、竜は人間を助けない。小娘にも言ってある。共に旅をしてきた相手が仇の手に落ちたからといって、義理立てする必要もなかろう。あの小娘は仲間や相棒などではなく、ただの非常食なのだ。
 そう、この俺の、非常食だ。
 俺は踵(きびす)を返す。目的地を元の宿に据える。大きく欠伸をし、肩をぐるぐると回し、ごきごきと首を鳴らす。
 今夜はたっぷりと眠らねばなるまい。
 夜が明けたら、思う存分大暴れできるように。
 
* * * *

 目が覚めると、石造りの牢獄に放り込まれていた。
 あたしはじとっとした石の床に倒れ伏していて、黴の臭いが鼻を突く。幸い体は拘束されてはおらず、節々の痛みに呻きながらも、上体を起こすことができた。三方は石壁で、目の前には頑丈そうな金属の柵がある。冷気にあてられて、あたしは全身を震わせた。
 通路部分の壁には明かり取りの窓があるのか、そこから射し込む光が、不衛生な床の上に明るい長方形を投げかけている。もう夜は明けたらしい。番をしている騎士はいないようで、耳を澄ましても静寂だけが反ってくる。
 昨夜のことを思い返す。ポカをしてイゼルヌ教団の騎士たちに気絶させられ、気がつくとゆっさゆっさと揺れるものに乗せられどこかへ運ばれていた。袋を被せられていたので何も見えなかったが、きっと乗り物は馬で、行き先は領主の城だろう。だからここは城の内部で、聖騎士の根城ということになる。道中何度か抜け出そうと暴れてみたものの、その度に押さえつけられ体力を消耗したあたしは、そのまま眠ってしまったのだった。
 隻腕で体をさする。毒槍もナイフも取り上げられていた。羊肉屋での、ジーヴの忠告が耳に甦る。
 "奴らがいる状況で、聞き込みをするのはまずいのではないか?"
 本当にそうだ、とあの時の浅はかな自分に言い聞かせてやりたい。武器となるものを奪われた今、あたしは荒野に丸裸で放り出されているようなものだ。片腕で柵を揺らしてみるが、当然びくともしない。
 なんて無力。なんて愚行。
 ジーヴがいなければ、あたしはこんなに何もできない。彼の言う通りに慎重になっていれば、こんな事態は招かなかった。きっと、もともと持ち合わせの少ない彼の愛想も尽きただろう。それに旅を始める前に言われたではないか。"竜は人助けはしない"と。ジーヴは助けになんて来ない。
 これからどうなるんだろう。尋問。拷問。凄惨な場面ばかり頭に浮かぶ。死ぬ前に、一度だけでいい、兄に会いたい。そう思った。


 コツコツと石畳みを叩く音がしてはっとする。身を固くして、何者かの登場に備える。
 現れたのは三人の男だった。そのうち二人は昨日見た騎士と同じ、革の鎧姿。もう一人は、胴部分を銀色の甲冑で覆い、大仰な編上靴を履き、深紅のマントを翻(ひるがえ)らせた、厳めしい雰囲気の男。甲冑には羽ペンの紋章がきらめく。酷薄な感じの冷たい光が双眸に宿っている。歳は、青年と壮年のあいだくらいか。

「あたしをどうする気」

 先手を打って声を張る。マント姿の男は不愉快そうに眉根を寄せ、氷のような目であたしを見下ろす。途端に背筋が凍りついた。まるで蛇目(へびめ)だ。

「目が覚めたか。我々の問いに正直に答えよ、さもなくば」

 そこで言葉を一旦切り、男が腰の長刀をすらりと抜く。あたしに見せつけるためか、その動作は至極緩慢だった。刃に沿って、物騒な光が切っ先まで移動する。その鋭い切っ先が、柵のあいだをすり抜けて、あたしの喉元に突きつけられた。

「イゼルヌ騎士団長の私には、虚偽を申し立てる者に対して、剣を振るう権利がある。よいな。おかしな気は起こさぬことだ」
「……」

 握りしめた拳が汗をかいている。うなずくのは癪だったので、じろりと睨み返すにとどめた。
 騎士団長を名乗る男は意に介さない様子で、部下の騎士から受け取った紙をあたしの目の前に提示する。

「お前はなぜこやつを知っている」

 深淵から届くような、重々しい響き。
 その紙は、あたしが描いた兄の似顔絵だった。なるほど確かに、こうしてまじまじと見るとかなり下手くそかもしれない、と現実逃避めいた感想を抱く。

「それはあたしの兄さんだ。妹が兄を捜して何が悪い。あんたたちこそどうして兄さんを捜しているんだ!」
「質問は許さぬ。我々の質問に答えるだけにしろ。しかし――なるほど、なるほど。あの街に生き残りがいたとは驚きだ。して、兄の研究内容を、お前はどこまで知っているんだ?」

 騎士団長の言葉で、かっと頭に血が昇る。こいつらか。やはりそうなのか。あたしは衝動的に柵に取りついた。やかましい衝撃音、掌の痛み、それらを振り切ってがむしゃらに叫ぶ。

「やっぱりあんたらなのか! あたしたちの街を焼いたのは! なぜ、どうしてあんな惨(むご)いことをしたッ」
「質問はするなと言ったはずだ」

 騎士団長の右手が振られる。刃の一閃。頬に焼けつく熱さを感じたあたしは、その場に倒れこんだ。
 手で触れると、ぬるりとした感触。血が伝っている。
 見上げる騎士団長の顔は少しばかり紅潮し、こめかみにぴくぴくと青筋が浮いていた。

「訊いているのはこちらだ。余計な話をするな。さっさと答えろ」
「……兄さんが何を研究していたかなんて、あたしは知らない。何も」

 観念して答える。そういえばあたしは兄の仕事をこれっぽっちも知らなかったな、と思い知り悲しくなる。
 兄は教団に狙われるような研究をしていたのだろうか? だからあたしが尋ねても、詳しく教えてくれなかったのだろうか?
 あたしの胸は沈んでいるのに、騎士団長はなぜか、口の端に引きつれに似た笑みを貼りつけている。

「おやおや、切りつけられても口を割らないとは。強情な娘だ」
「だから何も知らないって、言ってるだろ……」
「ふん。どうしても隠しだてするつもりなら、少々手荒な真似をせねばならないようだな。聖職者である我々としては、本来なら女子供相手に乱暴事はしたくはないのだが。しかし、真実を語らないのであれば、致し方あるまいな」
「何を言って――」

 さっきから嘘なんかついていない。あたしは混乱し、そこに立つ三人を順に見て、ぞっとした。
 全員の口元が、卑しい笑いで緩んでいる。闇色の光を映した三対の濡れた目が、あたしの頭のてっぺんから足の先までを舐め回す。ねっとりとまとわりつくような、嫌らしい視線。聖職者の瞳なんかじゃない、それは飢えた獣(けだもの)の目だった。
 悪寒で全身に震えが走る。あたしは右腕で体をかき抱き、寒々しい石牢のなかで後ずさる。けれどすぐに壁に背が着く。
 これからここで演じられるのは地獄だ。きっと死ぬよりも陰惨な絶望だ。
 ――嫌だ、誰か助けて……。
 心は悲鳴をあげている。そしてその叫びが、どこにも届かないことを知っている。
 騎士の仮面をつけた悪漢どもが、じり、とあたしに迫る。騎士団長が鍵を持った手を錠前に伸ばし、

「騎士団長! 伝令です!」

 駆けてきた別の騎士の声が、鋭く空気を割った。三人の動きがそこで止まる。
 新しく現れた伝令役はあたしに一瞥をくれると、騎士団長に何事か耳打ちする。憮然としていた団長の顔が、みるみる喜色に染まった。
 ああ、これ以上の責め苦を、あたしに与えるのか。
 騎士団長はにやにや笑いながら口を開く。

「お前はどうせここからは出られん。あの街の生き残りを生かしてはおけぬ。だから、冥土の土産に教えてやろう。お前はなぜ、我々があのようなことをしたのかと問うたな。答えてやる、我々の理想の世界を作るためだ。この世界は、新しい秩序を手にいれるのだよ」

 男の目は熱っぽく、夢見心地だった。
 どういう意味だろう。分からない。けれど、今からこんな屑みたいな人間たちに辱しめを受けると思うと、もう何もかもがどうでもよかった。

「それと、たった今王都から連絡がきた。お前の兄は捕まったそうだ。きっと奴も、過酷な尋問を受けることになろう。ただの学者風情が、それに耐えられるとは思えんなあ」

 騎士団長の高笑いが石壁に反響する。
 ――ああ、兄さん。どうか兄さんだけでも、何とか生き延びて。あたしの分まで……。
 懐に手を入れる。双宿石はまだそこにあった。硬い三角錘をひとなぞりして、あたしは瞼を閉じる。せめて、惨苦の光景を見ずに済むように。
 男たちの荒い呼吸音。錠前が持ち上げられる小さな音。
 そして何の前触れもなく。
 轟音とともに、城全体が強い衝撃で揺さぶられた。

* * * *

 城の巨大な扉の脇に立っていた二人の騎士たちが、ふもとの街から何かの影が一直線に向かってくるのに気づいた。

「なあ、あれ、何かこっちに来てないか?」
「んー? ああ、本当だ」

 ただの黒い点はやがて塊になり、塊は翼のある生き物となり、それが竜だと判別できる頃になると、もうすべてが手遅れだった。

「おいッ、あの竜止まらないぞ!」
「激突するつもりか! そんな馬鹿な――」

 あたふたする騎士たちを尻目に、莫大な運動エネルギーを持った竜の強靭な巨体は、最高速度を保ったまま、凄まじい勢いで城壁に突っ込んだ。
 何のためらいもなく。まるで矢のように。
 全身をふっ飛ばすほどの衝撃と、耳をつんざく暴力的な崩壊音とが、城にいる人間を翻弄する。
 状況を飲み込めぬまま、見張り役の騎士は入口の扉を開け放ち、慌てて衝突の現場へと駆けた。城の内部はもうもうとした白煙が立ちこめ、数歩先すら白んで見えない。二人は砂埃をまともに吸い、げほげほとしこたま噎(む)せこんだ。

「おいおいなんだよこりゃあ、あの竜どういうつもりだ」
「まさか昨日の娘を助けようとして――」
「馬鹿言え、竜が人助けなんてするもんかよ。それに石壁に激突したんだぞ、竜といえど無事で済むはすが……」

 コツ、コツ、という靴音が響く。
 二人は霞む視界のなか、互いの真っ白けに煤けた顔を見合わせる。おそるおそる音のする方へ体を向け、背負った銃をそちらへ構えた。
 足音が近づく。
 二人は揃って生唾を飲む。コツ、コツ。ふたつの銃身は震えている。
 コツ、コツ、コツ。
 不意に、煙幕の奥から生まれ出ずるように、黒衣を身につけた長身巨躯の偉丈夫が、ぬっと姿を現した。
 その額は大きく切れ、だらだらと真っ赤な血が垂れているけれど、口元には余裕すら感じさせる、不敵で悠然とした笑みがある。その口から赤々とした舌が伸び、額から筋になって流れる鮮血を、ぺろりと舐めとった。
 男の右目は白濁しているが、残った青い目の輝きは鮮やかで力強い。そのまっすぐな視線が、人間たちを射すくめる。

「ひ、ひい……っ」

 騎士たちは発砲するのも忘れ、人を超越した者の恐ろしい立ち姿に、腰を抜かす。
 竜の男は、何かを貰い受けようとするように、尖った爪の生えた右手を、情けなくがたがた震える二人へ差し出した。

「さあ、返してもらおうか。俺の非常食を」

 猛々しい外見に反し、よく通り品のあるバリトンで、竜はのたまう。

「小娘はどこにいる。無益な殺生をしたくはない、教えろ」

 二人の騎士は歯をがちがち言わせながら、弱々しく牢の場所を指で示す。

* * * *

「騎士団長!」

 焦った様子で騎士が駆け寄ってきた。

「何だ今の揺れは! 地震か?」
「いえそれが、竜に侵入されました! こちらに向かっています!」

 騎士団長が軽く舌打ちをする。錠からは手が離され、剣の代わりに銃が手に取られた。

「馬鹿な、早く抑えろ!」
「目下応戦中ですが、何ぶん物凄い勢いでして――」
「加勢する! 総員で当たれ!」
「はっ!」

 どやどやとその場の騎士たちが離れていく。しん、と辺りが静まり返る。
 あたしは長く息をはき、冷たい床にへたりこんだ。命拾いした。極限まで張りつめていた緊張が解け、ぼたぼたと涙が溢れてくる。
 でもまだ助かったわけではない。袖で目元を拭う。
 侵入してきた竜。それは、ほぼ間違いなくジーヴだろう。どうやって城に入ったのか知らないが、彼のことだ、きっと腕ずく力ずくに決まっている。どちらかというと、なぜ彼はここへ来たのか、そちらの方が強い疑問だ。人は助けないと、あれほど言っていたのに。
 錠前は未だしっかりとかかっている。開けてから行ってくれたらよかったのに、と都合のいいことを考えてみた。
 遠くから、パン、パンという破裂音と、キンキンという剣戟(けんげき)の音が響いてくる。ジーヴはきっと素手で応戦しているのだろうなと思う。大陸中央の火山くらい気位の高いジーヴのことだから、人間から剣や銃を奪って使う、なんて真似はしないはず。いくら竜だからって、あんまりそれは無茶だ。
 竜の鱗は刃物でも銃弾でもびくともしないが、人型になった場合はどうなんだろう。もし、ジーヴが八つ裂きにされていたら。蜂の巣になっていたら。彼が死ぬようなことがあったら、それは全部、あたしのせいだ。
 交戦の音が徐々に近づいてくる。騒乱の響きや靴音はだんだんと減っていき、やがてやむ。そして、ひとつの足音だけがこちらに向かってくる。
 あたしの緊張がぶり返す。もしもジーヴ以外だったら。その時は、体を汚される前に、舌を噛みきって自分で死のう。
 心臓がどきどきと大きく速く脈打つ。コツ、コツという音が、悠々と近づいてくる。祈るような気持ちでそれを聞いている。
 あたしは、舌を思いきり噛みちぎる用意をする。

「小娘、無事か」

 そして果たして、目の前に現れたのは他ならぬジーヴだった。
 服は切れても穴が空いてもいない。本人も至って普通の様子で、息ひとつ、声色ひとつの乱れもない。あまりにも平然とした登場に、かえってあたしは拍子抜けした。

「……これが無事に見えるのか」
「命あればこそ、そこに希望は生まれる。口が利けるなら大事ないようだな、とにかく脱出するぞ」
「逃げたいけど、鍵がかかってるんだって」
「ふむ、そうか」

 何でもなさそうな口調。竜の御仁は柵をしっかと握り、力をこめる。それだけで、あたしの腕ではぴくりともしなかった金属の棒が、やすやすとたわんで抜け道を作った。
 次元の違いに、呆れ果てるしかなかった。

「どうした。立てるか?」

 ジーヴが牢のなかに入ってくる。明かり取りからの逆光が途絶えて初めて、彼の額に傷があることに気づいた。深くはなさそうだが、かなり広範囲にわたっているため、それなりの出血量だ。顔の三分の一ほどが赤黒く染まっている。
 おでこへ手を差し伸べ、怪我してるじゃないか、と呟くと、ジーヴはからからと快笑した。

「なあにこれしき、かすり傷よ」
「どこが。……どうせまた腕力に頼ったんでしょ」
「何を言う。今回は頭を使ったぞ。城壁に頭から突っ込んでぶち破ったのだ。心配は要らん、何せ俺は石頭だからな」
「……"頭を使う"の意味が違うから」

 本当に滅茶苦茶だなと思う。ただ、あたしはその滅茶苦茶に救われたのだ。今回は心の底から、ジーヴに感謝しないといけないだろう。
 隻眼を見つめながら、あたしは疑問をぶつける。

「どうして助けに来たの、ジーヴ」
「勘違いをしてもらっては困る。俺はお前を助けに来たのではない。俺の非常食を取り返しにきたのだ。ああそれと、この怪我でお前が気に病むのもお門違いだぞ。俺は俺のしたいようにしているだけだからな」

 どこか朗らかに言い募り、ジーヴはくっくっくと笑う。少しくらい恩着せがましくしろよ、調子狂うな、と内心で八つ当たりする。でも胸がつっかえて言葉にならない。目頭が熱くなる。

「……あんたって、本当に馬鹿だな」
「馬鹿ではないぞ、竜だ」
「知ってるから……」
「? おい小娘、目から水が流れているぞ。どうしたんだ」
「うるさい黙れ見るな」
 
 不躾な竜に背を向け、袖口でぐしぐしと涙を拭く。本当に馬鹿だ。本当に、あたしは馬鹿だ。
 そうこうしているうち、遠くでばらばらという足音がした。人の怒声もする。どうやら騎士団の第二陣が到着したようだ。油を売っている場合じゃない、さっさと脱出しなければ。

「行こう、ジーヴ」
「先刻からそう言っているだろう」


 城の廊下、立派な絨毯の上に、ジーヴにのされた騎士たちが累々と横たわっていた。皆息はある。あんたたち、竜が無用な殺生を嫌う生き物でよかったな、と毒づきながら城を走り抜ける。
 追っ手はどこから湧いて出たのかと思うほど数が多かった。人数がいると面倒だな、火でも吹けたら好都合なんだが、と銃弾を防ぐためにあたしの後ろを走るジーヴが、本気か冗談か知れぬ言葉を紡ぐ。
 後ろから飛ぶ指示に従って足を動かすうち、嫌な予感が胸を覆いはじめた。もしかしなくても、城の上部へ追いつめられている気がする。上階にはもちろん出口はない。行き止まりになったら、そこでお仕舞いだ。
 あたしの息が上がってくる。ここまで来て、袋の鼠になって最期を迎えるなんてごめんだ。
 終焉は割とすぐに来た。
 右、とジーヴに言われて曲がった先は、正面に青系のステンドグラスが嵌められた袋小路だったのだ。焦りで顔から汗が噴き出す。

「ジーヴ! 行き止まりだぞ!」
「そのまま進め」

 泰然とした声が返ってくる。そのままってなんだ、進めってなんだ、行き止まりってことはもう進めないんだぞ馬鹿言うな、と振り返って抗議しようとした、その刹那。
 ジーヴの逞しい腕が後方から伸び、がっしりとあたしを抱えあげた。
 急に訪れたふわっとした感覚に脳が混乱する。地面を失い手持ち無沙汰になった足が、中空をかいた。
 陽の光を受けて美しくきらめくステンドグラスが、急速に近づく。もう目前だ。

「え、待ってジーヴ、ぶつかる……!」

 ジーヴは当然、待たなかった。
 そのままの勢いで、あたしたちはガラスをぶち破った。幅広の肩をぶつける直前に、ジーヴは長い黒衣であたしの体を庇う。ガラスが粉々に砕け、破片はきらきらと周りを彩り、舞う。まるで細かい氷の粒みたいに。
 そして、足の下には何もない。
 丘の上にある城の、ほとんど最上階から飛び出したのだ。景色がミニチュアに見えるほどの途方もない高さだ。ここから地面に叩きつけられたら、命がないどころかぺしゃんこだ。
 勢いを失い、重力方向へと、あたしたちの体が落下を始める。
 内蔵が浮かびあがるような不快な感覚。生来体に備わった恐怖心が、このままでは死ぬ、と雄叫びをあげる。うわあああ、と知らずあたしは叫び、力一杯目を瞑る。
 永遠にも等しい数秒。
 体が、ふっと軽くなった。怖々と薄く目を開く。景色がものすごい速度で後ろに流れている。あたしは、竜型へと変じたジーヴに抱えられ、とてつもなく広い空間のど真ん中を飛翔していた。
 そう、まるで、自分が飛んでいるみたいだった。
 翼を力強く羽ばたかせ、ジーヴはぐんぐん加速していく。彼の背には何度となく乗っているけれど、そうすると景色の六割ほどは竜の体で隠れてしまう。ところが今はどうだろう。
 地平線のその向こうまで、眼下に遙々と展開する大パノラマ。
 あのかわいらしい街並みも、あの豊かな草原も、陽の光にきらめく川辺も、遠くに青々と立ち並ぶ山だって、この光景すべてが自分のものだと感じた。だってこんなにも手が届きそうなのだ。
 耳元で風が唸り、歌う。目が潤むのは、冷たい空気がぶつかるからではない。これがいつもジーヴの見ている景色。なんて壮麗な、なんて美しい、なんて雄大な、圧巻の情景。あたしは今、彼をとても羨ましく思う。

「すごい、すごいすごい!」

 太く力強い腕のなかで、あたしは子供にかえったようにはしゃいだ。どうせジーヴ以外聞いてもいない。あたしの歓声に応えてか、堂々たる黒竜が、雄々しい空の王が、雷鳴のような咆哮を轟かせる。
 あたしにはそれが、彼の笑い声だということが、なぜだかはっきりと分かった。

終章 人心あれば竜心あり

 あたしたちは一路、王都へ向かう。
 兄はそこにいる。
 旅の終わりの気配。あたしはそれを、ひしひしと感じとっている。


 がたん、ごとん、と規則正しく振動しながら、王都行きの蒸気機関車が花薫る草原をひた走る。
 王都への移動は、一度乗ってみるのも一興ではないか、というジーヴたっての希望もあり(という言い方をするとまた嫌がられるのだろうけど)、鉄道を選択する運びとなった。道中ジーヴと話したい事柄もある。竜型の彼とは会話ができないから、移動しつつ話し合いが持てる列車の利用は、あたしとしても好都合で異論はなかった。
 王都行きの列車はすべて寝台列車で、客室は等級に応じて広さが違い、ひとつの部屋につきふたつの寝床が付いている。王都へ着くまでの三日三晩、ここで寝泊まりするのだ。外観から想像するより内部はずっと広々としていて、あたしはちょっと感動を覚えた。
 寝台列車は客車全体に鍍金(めっき)装飾がふんだんに施された立派なもので、本来あたしのような平民に手が届く代物ではない。ひとえに黒竜の鱗さまさま、といったところだ。この旅で、あたしはずっとジーヴに頼りっぱなしだったなと思う。いまだに彼の鼻を明かすことも、一杯食わせることもできずにいる。名前も、結局呼ばれず仕舞いになるのではないだろうか。
 兄が捕らえられ、焦る気持ちもあるけれど、焦燥感で機関車の速度が上がるわけでもない。あたしは極力この旅程に浸ることに決めた。きっと二度と経験できない数日間になる。客車の外装や内装の豪華さには驚かされたが、度肝を抜いたのは食堂車での食事だった。車内に上品な円卓と椅子が並ぶ様は、あたかも高級飲食店に来たようで、こぢんまりしたバーさえ設けてある。
 発車してから初めての食事時、あたしは落ち着かなく周囲を見回しながら席に着いた。客は正装した中高年の男女がほとんどだ。内面はともかく、見た目だけなら青年貴族にも見えるジーヴは、存外しっくりと豪華絢爛な客車に馴染んでいる。悠然と前菜を待つ姿も堂に入ったものだ。対して、薄汚れた服のあたしはどこをどう見ても浮いている。乗客たちがこちらをちらちら見ながら何事か囁く声も聞こえてくる。
 ふんと鼻を鳴らし、ジーヴが聞こえよがしに大きい声を出す。

「小娘よ、堂々としているがよい。お前は正規の料金を払ってこの列車を利用しているのだ。何も後ろめたいことはなかろう」

 竜の一声の効果は絶大で、ひそひそ話はぱたりとやむ。いい年をした男女がもぞもぞと気まずそうにしているのにも、ジーヴは意に介さぬ様子だ。
 しかしな、と今度はあたしに向かって眉をひそめる。

「その服装が場違いであることは確かだな。以前にくれてやった首飾り、まだ持っているか? あれを着ければ、少しは華やいだ雰囲気になるのではないか」

 いつぞや、ジーヴが気まぐれで買ってきた珊瑚の首飾り。あたしはそれを、まだ持っている。持っているが――この格好に合わせたら、それこそお笑い草ではないか。

「……首元だけ飾りたてて、何の意味があるの」
「くく、それもそうだ。なに、枯れ木も山の賑わいというだろう、何も無いよりはましかと思ってな!」
「……」

 憮然として、膝を打ち大笑いする無礼な竜を睨む。ジーヴの人を食った言い様には、一年間旅を共にしても慣れることがなく、いつまでだって腹が立つ。それに、乗客が怪訝な顔で見てくるからやめてほしい。
 前菜としてテリーヌが運ばれてくる。一瞬ジーヴは手掴みで食べるのではとひやっとしたが、予想に反し自然な所作でナイフとフォークを繰りだした。いくら批判的な視線を向けてみても、洗練されているとしか言えない仕草だった。

「あんた、それちゃんと使えるんだな」
「なんだ、心配していたのか? 能ある竜は爪を隠すものだ」
「あんたの爪はいつも剥き出しだけどな」

 冗談なのかそうでないのか、判別できない言葉に適当に返答する。あたしは多数の銀色にきらめく道具たちを前にし、途方に暮れた。こんな格式ばった形で使うのは初めてなのだ。そしてジーヴにはなるべく教えを請いたくない。見よう見まねで、最も外側に置いてあるナイフとフォークを手に取る。あたしの一挙手一投足を、ジーヴがにやつきながら見ている。恥をかいてなるものか、とむきになるが、あたしが食事中ずっと四苦八苦したのは言うまでもない。


 気疲れのする食事を終え、客室に戻る。これが三日間続くと思うとげんなりした。普通の人は手の込んだ料理を楽しめるとなれば喜ぶのだろうが、さっきのであたしの舌には合わないともう結論が出た。大衆食堂や宿、自分で作る大雑把な料理の方が断然好みだ。
 部屋には毛足の長い絨毯や、優美な曲線を多用した鏡台、ふかふかの肘掛け椅子などが設えてある。弾力に富んだ椅子の座面に深く埋(うず)まると、精神的な疲れが抜けていく気がした。
 ジーヴはでかい図体で二人がけのソファを独り占めしている。いつの間にか手にしていた蒸留酒のふたをきゅぽんと開け、そのままぐびぐびと口に含む。半分ほどを顔色ひとつ変えず一気に煽る鯨飲ぶりに、呆気に取られた。

「なんだ? お前にはやらんぞ。これはいい酒だ」
「飲みたい、なんて一言も言ってないから……それより、王都に着く前に話したいことがある」
「うむ。俺もだ。まずお前から話せ」
「……イゼルヌ教団の奴らに捕まった時、騎士団長が気になることを言ってたんだ。確か、"理想の世界を作る"だとか"世界は新しい秩序を手にいれる"だとか。どういう意味だと思う」

 天鵞絨(ビロード)張りの座面にふんぞり返り、長い足を組んだジーヴは思案げに顎を撫でる。

「それだけでははっきりしたことは分からんな。が……俺も気になる話を聞き込みで得たぞ。イゼルヌ教団の最高位は大司教という肩書きなのだが、なんでも今の大司教に代替わりしてから、教義の解釈が少し変わったようなんだと」
「……どういう風に?」

 人間こそが神に祝福されし大陸の支配者である、とするイゼルヌ教の教義。それをどう噛み砕くか。
 不穏な雰囲気を感じつつ問う。
 ジーヴは獰猛で獣じみた、それでいてどこか虚無的な笑みを浮かべる。

「嘘か真か分からんが、当代の大司教のもと、教団は竜排除の動きを見せているらしい。竜の知性を否定するだけでなく、存在をも否定しようというわけだ」

 息を飲む。話の流れで薄々勘づいていたけれど、声に出して聞くと空恐ろしいものがあった。
 無意識に握りしめていた片手の拳に、じっとりと嫌な汗をかいている。

「そんな……大司教が代替わりしたのって――」
「一年と数ヵ月前だそうだぞ」

 ジーヴは遠くを見つめている。ああ、と嘆息が漏れる。あたしの街が焼かれ、黒竜の一族が滅ぼされたあの一夜。時期がぴたりと合致する。
 黒竜の元族長はさらに言葉を続ける。

「噂話という前提は付いているが、火がないところに煙は立たぬ、というからな。どこまでかは知らんが、真実も含んでいると考えるべきだろう。なれば、連中の言う"新しい世界"がどういったものか、推測できよう」

 ジーヴは既に悟っている。あたしも、予想がついている。しかしそれを口にするのは、かなりの勇気を必要とした。口内がからからに乾いていた。唇を一舐めしてから、一句一句を喉から絞り出す。言葉で、腫れ物に触ろうとする。

「――今の大司教と、イゼルヌ教団が作ろうとしてるのは……竜のいない世界」
「そんなところだろう」

 ジーヴは低い声で応じ、木製のテーブルの上に酒瓶を乱暴に置く。ごとんと重い音が鳴った。

「竜は人間に協力もせぬし、人間が何を考えているかも興味がない。人間同士で争おうが、知ったことではないと思っている。しかし、同胞に仇なさんとする者を、野放図にするわけにはいくまい」

 いつしかジーヴの口元から笑みが消えていた。代わりに、目の奥でめらめらと激情がほとばしっている。その燃え盛る感情は、アルコールランプに灯る、青白い炎にも似ていた。
 あたしはふーっと長く息をついて、より深々と椅子に沈みこむ。
 話が大事(おおごと)になってきてくらくらした。竜のいない世界を作るなんて、正気の沙汰ではない。第一そうする理由がない。竜がひとたび本気になれば、赤子の手をひねるように、人間は成すすべもなく駆逐されるだろうことは確かだ。その可能性は脅威かもしれないが、人と竜が対立した歴史はないし、竜は絶対に人間との間に禍根を残す真似はしない。ジーヴと旅をしてきて、それははっきりと分かる。
 謎はまだ残る。そんなけったいな思想の持ち主に、兄はどうして狙われたのか。彼は、捕らえられるような研究をしていたのだろうか。あの柔和な笑顔の裏で?
 あたしは自分の気持ちがぐらつくのを感じ、座面の上で膝を抱えた。

「兄さんは、どうして捕まったのかな。あいつらに追われるようなことを研究してたのかな……」

 弱々しく客室に漂う、答えの出ない問い。あたしは兄のことになると自制が利かなくなる。簡単に視界が潤んだ。
 疑問に答えたのは、ジーヴの呆れ返ったため息だった。

「手の施しようのない愚か者だな、お前は。お前の兄はきっと今頃、捕らえられた先でたった一人で耐えているのだぞ。お前が信じてやらんでどうするのだ?」

 責めるような言葉に、はっとする。そうだ。あたしは兄のたった一人のきょうだいであり、肉親なのだ。何があっても、兄が兄であることに変わりはない。
 あたしは緩んだ鼻をすする。

「ジーヴ……もしかして、励ましてくれた?」 
「下らんことを抜かすな。お前が勝手な想像で勝手にくよくよと消沈するのに、鼻持ちがならなかっただけだ」

 酒瓶がまた大きい手底(たなそこ)によって持ち上げられる。ジーヴはその透明な液体を、二回目ですべて飲みきった。
 

 列車が速度を落とす。ガラス屋根のアトリウムの内部へ、甲高い制動音を響かせながら、機関車は乗客を焦らすようにのろのろと進んでいく。
 終着駅に降り立つと、三日間ぐらぐらする床に慣れきったあたしは、不動の大地の上でしばしふらついた。
 人の波に従い、駅の大広間(コンコース)から外へ出る。初めて見る王都の壮観に、あたしは驚嘆の声をあげた。
 煉瓦造りの道路に、煉瓦造りの家々。道をひっきりなしに行き交う人々、馬車、ところどころに最新鋭の乗り物である車。都の中心は小高い丘になっていて、そこに、いくつもの尖塔を抱えた、眩しい白壁の王宮がある。あそこに、この大陸の王が住んでいる。
 しかしその城自体より、あたしの目を奪ったのは、城へ向かう荷馬車の多さだ。馬に引かれた大小様々な幌が、列をなして続々と王宮を目指している。きっと中身はほとんどが王への貢ぎ物だろう。
 といっても、王族が道具や食品や宝飾品などの品々を、強制的に献上させているわけではない。大陸全土の商人や農民たちが、ぜひ国王陛下に使ってほしい、食べてほしい、と品物を運んでくるのだ。王族御用達の箔がつけば、同品質のものより三割ほど高価でも飛ぶように売れる。あたしの街からも、物品を運んでいたから分かる。人間、みんな考え方は一緒だ 。
 駅前を散策する体を装いつつ、ジーヴとこそこそ作戦会議をする。
 
「兄さんはどこだろう、やっぱり王宮かな。どうやって助けだそうか」
「俺がまた、頭突きで壁をぶち破るのではいかんのか」

 額にまだ傷を残した竜の御仁は平然とのたまう。

「駄目に決まってるでしょ、それじゃ兄さんを助けに来たんだって教団の奴らに報せてるようなもの。兄さんを人質にでもされたらどうするの」
「ふむ。そういえば、俺たちの情報が王都まで伝わっているかもしれんな。教団の人間に見つからぬようにせねば」

 ひそひそと思案をこねくり回していると、

「お二人さん、王都は初めてかい? 記念の土産に、王都名物なんていかがかな」

 後ろから、首にたっぷりと肉を蓄えた、にこやかな商人に声をかけられる。
 見ると、彼は馬を牽いており、さらにその馬は巨大な棚型の荷台を牽いている。移動式の店舗だろうか。それぞれの棚には、香水の瓶を二回りほど大きくしたような、コルクで栓をした小瓶がずらりと並んでいた。
 コルクと瓶のあいだには色とりどりの蝋引き紙が噛ませてあって、目に賑やかだ。中身は黄金色や琥珀色、黄褐色をした液体のようである。何気なくそのうちの一本を手に取って傾けると、液面がそろりと動く。鉄道で抜けてきた王都周辺の花畑を思いだし、ぴんと思い当たった。

「なんだそれは」
「蜂蜜だよ。色んな種類の花の」

 さして興味もなさそうに尋ねるジーヴに、あたしは答える。商人が満足げにうんうんとうなずく。

「蜂蜜は王都の特産品なんだ。旅人さんには特別にお安くしとくよ」

 昔から蜂蜜は好きだった。純正の蜂蜜は独特のえぐみがあるけれど、水飴とあわせればぐっと食べやすくなる。もちろんそのまま飲み物に入れても、焼きたてのパンに塗ってもいいし、料理に使えば味がまろやかになる。見映えよく仕上げるための、つや出しとしても使える。
 それにしても、これほどの種類の蜂蜜を一度に見たことはなかった。圧巻である。
 いつも自信たっぷりの黒竜が、不可解そうな顔をして小首を傾げる。

「花の種類ごとにそんなに色が違うのか?」
「味だって全然違うぞ。そんなことも知らないで、よく今まで生きてこれたな?」
「……」

 いつかのジーヴの台詞を真似する。さんざんあたしを馬鹿にしてきた黒竜の大男は、むっつりと押し黙った。イゼルヌ教団の時の仕返しだ。胸がすく。
 商人はあたしたちが興味を持ったと判断したのか、営業用の笑顔とともに、荷台の棚からなにがしかの商品を寄越してみせる。

「最近売り出したばかりの新商品があってね、紅茶の抽出物(エキス)と蜂蜜を合わせたものなんだけど。お湯に溶かすだけで、手軽に色々な味を楽しめるよ。味見だけでもしていって」

 商人魂を丸出しにした男は荷台からポットを取りだし、これは日光で温めただけだからぬるいんだけどね、と言いながら、水と蜂蜜とを木製のカップに注ぐ。
 あたしは無料(ただ)ならばと喜んで受け取り、ぬるま湯でも薫る芳香を胸いっぱいに吸い込んでから、口に含む。紅茶と蜂蜜の織り成す調和。自分好みの味だった。美味しさで酔いそうだ。
 杯を渡されたジーヴは気乗りしない顔だったが、渋々といった様子で口をつける。
 その瞬間、竜ははっとした表情を浮かべ、一口、また一口と飲み進めた。結局、蜂蜜紅茶は一滴残らず飲み干された。

「まあ、なかなかの味だな」

 と我に返って苦し紛れのように言う。あたしはそれを、にやにやと眺めた。


 街道沿いのカフェテラスにて、作戦会議を続行する。
 注文した深煎りの珈琲に、さっき買った蜂蜜をこっそり垂らしてみる。黄金の流体が珈琲の味を素敵に変える。こんな悠長に構えている場合ではないのだが、いい買い物をしたと思った。

「して、どうする」
「考えてたんだけど、あれが使えないかなって」

 あたしは煉瓦敷きの道を間断なく行き来する、幌馬車の列を指差す。
 あれらの行き先はすべて王宮だ。荷台に潜り込めば、自動的に城の入り口くらいまでならたどり着けるだろう。その後は多少荒っぽい手を使う必要があるとは思うけれど、膂力(りょりょく)に任せて正面突破するよりよほど効率的だ。
 ジーヴも異議はないらしく、小さく顎を引く。
 
「常套手段といえば常套手段だな。それで行くか。ただし、動物が乗せられた馬車はごめんだぞ。臭いで俺の鼻が駄目になりかねんからな」
「それ以前に、動物に騒がれたら一巻の終わりでしょ……」

 竜の男は、ひどく小さく見える陶器の器をぐいと傾ける。

「さあ行くぞ、善は急げだ」
「ちよっと待て、まだ残ってるんだって……あちっ」

 二人して荷馬車の物色を始める。あんたのせいで舌を火傷した、どうしてくれるんだ、とジーヴに不平を垂れながら。
 噴水が噴きあがる公園の一角に、馬を一時休ませるための水飲み場があって、周囲には低木が集まって茂みになっている。あたしたちはこれ幸いとばかり緑の影に隠れ、手頃な荷台がないかとつぶさに観察する。地味な外装の馬車を目をつけ、あれはどうかな、よし行こう、と囁き声を交わし、御者が一時車から離れた隙に、すばやく荷台の中に忍びこんだ。
 幌の中は真っ暗だった。土埃と、干し草と、香辛料の匂い。どうも食料品を積んだ馬車のようだ。床部分は荷物でごたごたしていて、ほとんど隙間がない。辛うじて底面が見えている荷台の隅っこに、ジーヴとぴっちり隣り合って座る。贅沢は言っていられないが、かなり窮屈だ。大の男と密着せざるを得ない。

「ふむ、ぴったりくっついているしかないな。この際だから我慢してやるが」
「それ、こっちの台詞だから……」

 兄以外の異性に、これほど接近されるのは初めてだった。よりにもよって、なぜこんな尊大で不遜な竜がその相手なのか。運命の神に文句のひとつでもぶつけてやりたい。
 すぐそばで馬が嘶(いなな)き、びくりと体が震える。そのうち車輪が軋み、車体がぎいぎいと動きだした。王宮までどのくらいかかるのか知らないが、既に狭さで体が悲鳴をあげている。一刻も早く着けるよう、内心で祈りを捧げた。
 しばらくして、三半規管が車の傾きを察知する。王宮へ一直線に伸びる坂道へ差しかかったのだろう。ここを行き過ぎれば、そこはもう王宮の領内だ。思わず胸を撫で下ろし、安堵に一息つく。
 しかし、馬車は坂を少し登っただけで、不意に止まってしまった。体に伝わるがたごとという揺れがやむ。胸に急速に広がる不安。

「おかしいな。まだ城じゃないよな?」
「何かあったようだな」

 至近距離からの、ジーヴの低い囁き。
 あたしは息を殺し、耳を澄ました。外でがちゃがちゃと金属が鳴る音がする。温度を感じさせない平坦な声がそれに続く。

「検問だ。中を検めさせてもらうぞ」

 へえ、と御者の素直な返事。
 あたしの心臓が跳ねあがる。傍らにいるジーヴが、まずいな、と渋い口調で呟いた。


 一条の光が、荷台の暗黒を払う。
 影と化した衛兵が、暗闇に目をこらして荷物を確認する。その視線の動きが、手に取るように分かる気がした。
 あたしはジーヴの腕の中にいた。衛兵の声がけがあった直後、彼はすぐさまあたしを抱き寄せ、長い黒衣で体を覆ったのだ。二人して気配を消そうと努める。息遣いを抑えた彼の、逞しい両腕があたしの全身をぎゅっと抱き締めている。
 極限まで縮こまろうと、緊張した全身を彼に預けると、微動だにしない厚い胸板があたしを迎えた。竜の肌は冷たいのかと予想していたけど、そこは優しい温もりがあり、安心感が形を持ったらこういう感じだろうな、と考えた。これまで、竜と人間はまったく別の生き物なのだ、と実感するばかりだったのに、こうして鼓動を聴くと大して違わない気もする。ただあたしが女で、彼が男だというだけで。
 張りつめる緊迫感に、あたしの心臓はばくばくと早鐘を打っている。胸に接した耳から聴こえてくる心音は、とくん、とくん、とゆったりしていた。こんな状況でも、落ち着いていられる彼をすごいなと思う。
 兵の硬い足音が迫ってきて、ひしとジーヴにしがみつく。それで何かが好転するわけでもないのに。彼の長い腕は背中まで回され、抱擁めいた姿勢となっている。
 一分一秒が引き伸ばされたようだった。衛兵の滑(ぬめ)った目が黒衣を見透かしているんじゃないか、今に剣が振るわれるのではないか、という恐怖が渦巻く。こぼれそうになる悲鳴を、叫びを、歯を食いしばって押し殺す。
 そうして、やっと足音は離れていき、再び荷台が闇に包まれた。
 よし、行っていいぞ、の声に、またも御者がへえ、と答え、車が動き始める。
 張りつめていた緊張がやっと解け、ジーヴの腕のなかで、あたしはへなへなと脱力した。

「どうやらやり過ごせたようだな」

 ジーヴもやれやれと息をつく。あたしの腰に手を回し、全身を胸に抱いたまま。
 その腕がいっこうに解かれる気配がないので、あたしは彼の強靭な体をぽかぽかと殴って抗議した。

「いつまでそうしてるんだ、離せ馬鹿!」
「なんだ、どうした。気がついたんだが、この体勢の方が楽ではないか?」
「そういう問題じゃないッ」
「ではどういう問題なんだ」

 ジーヴは心底分からないと言わんばかりに、目と鼻の先で、訝しい表情を浮かべた。
 やっとのことで、無粋な男から逃れる。
 口が裂けても言えない。その太い腕のなかが、少し、ほんのちょっとだけ、心地好かっただなんて。頬がかっかと赤らんでいる予感がある。ここが暗闇で本当に良かった。

* * * *

 淀んだ空気が満ちる石牢のなかで、冷気に身を切られながら、僕はぼんやりと考える。このまま殺されるのだろう、と。
 彼らの身の毛もよだつ計画に気づいてしまったがために。


 生まれ故郷が灰塵に帰したのは、きっと僕のせいだ。
 何が悪かったのだろう。長旅の末、新大陸を発見したことだろうか。海洋学者になったことだろうか。竜の知見に目をつけたことか。そもそも、学者にならなかったら、アイシャと二人で幸せに暮らせたのだろうか。
 狭く閉ざされた牢獄にあって、僕の眼裏(まなうら)に映るのは、新大陸の風景だった。深い霧の内から立ち現れた、巨大な陸の棚。険しい岸壁の上に広がっていた、果てしもなく続く手つかずの草原。
 上陸時は岸近くの荒波に揉まれ、激しく船酔いした僕は前後不覚の状態になっていたけれど、あのたった数日間の調査ほど、好奇心と知識欲を刺激する経験はなかった。僕はその時とても幸せだった。このために生まれてきたんだと本気で思った。復路の食糧がぎりぎりになるまで粘り、新大陸を去る際には、相当に名残惜しかった。心のなかで、また来るよ、と陸地に向かって呼びかけた。
 しかしその想いも、虚しくここで潰えようとしている。
 イゼルヌ教団の大司教は、我らに味方すれば命は助けてやろう、と言う。初老に差しかかった大司教の微笑みは、形こそ聖職者らしいものではあったが、その目はぞっとするほど熱がなく、どこまでも冷酷だった。
 我々の仕事は仕上げの段階に入っているのだ、と彼は告げる。

「後は陛下が、人間と竜の生活圏分割の令状を、私たちへ発布してくれれば終いだ。おかしな意地は捨てろ、小僧。お前が何を成そうと、どのみち命令は下る」
「司教、あなたは」
「司教ではない、私は大司教だ」
「……大司教。僕は、焼き討ちを経験しています。僕のする行為がすべて、無駄だとでも仰るのですか?」

 僕はできうる限りの凄みを利かせて睨(ね)めつける。
 なんとか国王に大司教の悪行を伝えられれば、僕に勝機はあると考えていた。僕は彼らの凶行を身をもって体感したのだ。彼らの真意は他にあるのだと、陛下、あなたは騙されているのだと、そうお教えできれば、未曾有の暴走は食い止められるのではないか。僕はそこに可能性を見出だしていた。
 陛下は民に愛されている。決して愚王ではあるまい。
 僕の思考を知ってか知らずか、大司教は僕の睨みを一蹴して高笑いした。

「その通り、無駄だよ。お前がどんな言葉を尽くそうと、根拠も無しに国王が聞き入れるわけもあるまい? 国王陛下は私を信頼してくれておるのだ。何事を話そうと、所詮は竜狂いの妄想と断じられるだけだろう。分かったのなら観念して、私に従え」

 最後通牒めいた威令にも、屈する気はなかった。
 これまでの耐え難い尋問にも、研究者としての、人間としての、何より兄としての尊厳や自尊心が勝(まさ)ったのだ。竜をこの大陸から駆逐するだなんて馬鹿げている。抵抗が無意味だとしても、彼らの言いなりになるような真似をしたら、妹は僕を一生軽蔑するだろう。それは死よりも酷なことに思える。
 だから僕は誇りを保ったまま、ここで死ぬつもりでいた。心残りがないわけじゃない。やり残した仕事も研究も、たくさんある。そして何より、一度だけでもいいから、最期にアイシャの元気な顔を見たかった。
 静寂が支配する牢獄に、きいぃ、と入り口の扉が開かれる音が響く。
 石床をコツコツと叩く音。悪魔の靴音。そちらを振り仰ぐ気力もなく、ため息をつく。

「また尋問ですか……。何度も申し上げたとおり、僕はあなた方には絶対に協力しません。何回言えば分かって――」
「兄さん!」

 鋭い女性の声。ああ、とうとう幻聴まで聴こえるようになってしまったのか。あの、聞き馴染んだ声。懐かしい、僕が最も求めていた声。
 僕はのろのろと半自動的に面(おもて)を上げる。
 金属の柵の向こうに、衛兵の兜を被った、衛兵服姿の華奢な人物が立っている。その体は小刻みに震えている。僕の、雪に覆われた湖みたいに凍りついた心が、一瞬にして融け、喜びで沸き立った。驚きと嬉しさで泣きそうだ。
 幻聴じゃない。どういう経緯で彼女がそこにいるのかは分からない、けれど間違いようがない。一年ぶりに再会する、妹のアイシャだ。

「アイシャ! アイシャなのかい?」
「良かった……兄さん、無事で……」

 アイシャが兜を脱ぐ。くすんだ桃色の髪と、僕と同じ深い紫色の瞳が現れる。その双眸は潤んでも見えた。なんだか、顔つきが以前にも増して凛々しくなっている。

「ジーヴ、早く早く!」

 牢の扉の方にいる誰かに向かって、妹が声を放る。
 味方がいるのか、と僕は感心した。悠然とした足取りで近づいてきたのは、並外れて大きな体躯の、黒衣を纏った青年だった。尖った耳に、鋭い爪。竜だ。
 竜の青年は柵に相対し、おもむろに両腕を伸ばす。握ったその手に力が込められると、服の上からでも筋肉が盛り上がるのが分かり、太い金属の棒はまだ熱い飴細工のように、造作もなくへにゃりと曲がった。
 出現した抜け穴を通って、アイシャが僕の元へと駆け寄ってくる。僕はよろよろ立ち上がって、鉄砲玉みたいに飛んでくる妹を、心許ない腕と胸で精いっぱい抱きとめた。久方ぶりの抱擁だった。

「兄さん……会いたかった……!」
「僕もだよ、アイシャ」

 頭を撫でてやると、アイシャはすんすんと鼻を鳴らしはじめた。腕にあるぬくもりが、これが夢じゃないと証明してくれる。僕の視界も涙で滲む。
 そうしているうちに、僕はあることに気づいて愕然とした。妹の左腕が、丸ごとないのだ。

「アイシャ、腕が――」
「うん……街が焼けた夜、瓦礫に押し潰されたの。もう駄目だって思って、最後は自分で切り落とした」
「……ごめん、アイシャ。僕のせいだ……」

 壮絶な語りの内容に、抱き締めるより他に何もできない無力な自分を呪う。アイシャは胸のなかで、いやいやをするように首を横に振る。そのいじらしさに、また泣けてくる。
 僕らの様子を遠巻きに見ていた竜が、ゆっくりと牢の内部に入ってくる。片眼鏡を割られてしまっていたためによく見えなかったけれど、この距離なら分かる。彼の顔には見覚えがあった。
 竜の青年も、僕を視界の中心に捉え、おや、という顔をする。

「エイミール?」
「~~~じゃないですか!」

 僕らは互いに名前を呼びあった。
 アイシャがもぞりと動いて、無言のまま僕を見上げる。口はぽかんと半開きになり、目が点になっている。僕からなかば体を離し、驚愕に顔を染めながら、僕と竜に視線をやる。
 僕は竜を出迎えた。こんな堂々とした竜は他にはいない。黒竜の一族の、元族長だ。額に覚えのない傷ができているけれど、調査に何度も付き合ってくれた、あの彼に間違いない。
 瓦礫の山と化した故郷を抜け出し、ふらふら彷徨っているとき、さる筋から黒竜の一族が滅んだという話を耳にしたが、生き残りがいたのだ。こんなところで再会できるとは僥倖(ぎょうこう)だ。

「よかったー、無事だったんですね」
「なんだ、兄とはお前のことか。小娘とまったく似ていないから、分からなかったぞ」
「いやあ、よく言われます」

 僕は頭の後ろを掻き掻き、苦笑した。
 それまで絶句していたアイシャが、混乱の極みに立たされたように、僕と竜を交互に指差す。

「え……二人とも知り合いで……ジーヴ、人の名前は覚えないって言ってなかった? それに兄さん、何て言ってるの……?」
「~~~だけど? 彼の名前だよ」
「全然聞き取れない……」

 アイシャががっくりと項垂れる。
 妹が驚くのも無理はない。通常、竜の名前は人間には発音できないからだ。
 アイシャがジーヴと呼ぶ竜の青年は、胸を反らしてふんと鼻を鳴らす。僕を鉤爪の生えた指で指し示す。

「こいつが俺の竜名を呼ぶものだから、礼儀として呼び返さぬわけにはいかなくてな。竜は礼節を重んじる生き物なのだ」
「いやあ、研究で彼にはお世話になっててね。調査で何回も聞いているあいだに、言えるようになっちゃって……」

 我ながら言い訳がましいなと思いながら、照れ隠しに頬を掻く。呆れ果てた表情の竜は、横目でちらりとアイシャを見やる。
 
「だからといって、発音できるようには普通ならないんだがな。お前の兄は変わり者だ」
「あんたに変わり者とか言われたくない」

 アイシャが噛みつく。竜は不思議そうに首をひねる。

「それはどういう意味だ」
「分かるだろ」
「分からない」
「分かれよ」

 会えない月日のあいだに、アイシャは竜と相当親しい関係になったようだ。
 僕は二人を、温かい思いで見つめる。

* * * *

 まんまと王宮の敷地に忍びこんだあたしたちは、こっそり城の門扉に近づき、そこにいた門番の衛兵を気絶させた。彼らの制服を奪い、自らの体に纏う。竜の翼に荷物をくくりつけるのに使っていた縄で、衛兵をぐるぐる巻きに拘束し、庭園の茂みのなかに彼らを放置した。これじゃまるで悪役だよな、と内心ぼやきながら手を動かす。ジーヴはどことなく楽しんでいる雰囲気さえある。
 竜と女という、どこにいても目立つ組み合わせのあたしたちでも、衛兵の革帽を被ると性別すら判別がつかなくなった。申し分ない擬装だったがしかし、こんなにやすやすと牢までたどり着けるとは驚きだ。
 兄の無事な姿に、あたしは感無量だった。一年の空白を経た兄は少しばかりやつれていたが、怪我もなく健康体で、そのことに心底ほっとした。
 それにしても、兄とジーヴが知り合いだったことにも、兄がジーヴの本当の名を発音できることにも、ジーヴが兄の名を平然と呼んだことにも驚いた。あれだけ竜の名は人間には発音できない、人の名など覚えるに如(し)かないと言っていたくせに。
 兄に今日までの経緯を語る。ジーヴもイゼルヌ教団のせいで右目が見えないんだ、隻眼と隻腕の二人で欠けたところを埋め合わせて、ここまで旅をしてきたんだ、と話すと、兄はにこにこと微笑んでくれた。それだけで、王都への波乱に満ちた旅の一切が、報われたんだと思えた。兄はあたしの髪を撫でながら、逞しくなったねアイシャ、と嬉しそうに言う。
 これで、あたしの旅の目的は達せられた。イゼルヌ教団の目指すところは気になるけれど、まずは安全な場所まで逃げなければ。王宮から脱出するのが先決だ。
 とにかくここから早く逃げようと兄を促す。けれどなぜか、彼の反応は鈍い。その場を動こうとしないまま、じっと考え込んでいる。
 こういう兄の姿を、あたしは何度も見てきた。何か確固たる考えがあるのだ。こうなった彼の意志は強い。文字どおり、梃子でも動かなくなる。

「今逃げ出したとしても、奴らの真意を知っている僕はきっと追われる。いたちごっこになるだけだと思うんだ。何か方法はないかな……」
「どういうこと、兄さん」

 呟きの本意を図りかねて、兄の瞳を覗きこむ。好奇心と知性の塊である彼の眼(まなこ)が、一瞬強い光を放つ。

「イゼルヌ教団のこと、君たちがどこまで知っているのか、予想がついているのか、教えてくれないかい。――君たちに、僕が知っていることをすべて、話そうと思う」

 兄の顔は、これ以上はないほどの引き締まっていた。


 城内の足音には、ジーヴに聞き耳をたててもらうことで予防線を張り、あたしは旅で見聞きし推測した事柄を兄に伝えていく。
 黒竜の一族を滅ぼし、街を焼いた犯人がイゼルヌ教団の人間であること。
 黒竜を死に至らしめた正体が毒性の気体であり、したがって教団の裏に王立科学協会(アカデミー)も絡んでいること。
 教団は竜の排除に乗り出している懸念があること。 かいつまんで話すあいだ、ジーヴは腕を組んだままじっとしていた。兄は時おりうなずきながら、徐々に厳しい顔つきになっていく。
 素晴らしい、と教師然として兄が評する。

「ほとんど正解だよ。よくそこまで予測できたね。大したものだな、アイシャは」
「ほとんどは俺の意見だぞ、エイミール」
「ジーヴは黙っててよ」

 緊張感のない竜が余計な口を挟む。
 兄は仕切り直すようにおほん、と咳払いして、

「彼らが成そうとしていること――それを知るには、もうひとつパズルのピースが要る」

 兄の姿は、真理を得た求道者のごとく厳かで、どこか敬虔な雰囲気すら漂っていた。
 すっ、と人差し指を立て、彼が高らかに宣言する。

「僕は、新大陸を発見した」

 その声は、監獄にひどく反響した。
 あたしは兄の言う意味が分からず、いや、言葉の意味は分かっても、言葉が説明するところに理解が追いつかず、ただただ沈黙する。ジーヴも瞬きさえ忘れたように、兄を凝視している。
 この世界の一番大きな常識。
 一つの世界には、一つの大陸。世界イコール大陸という図式。
 つまり、兄は。
 それが間違いだと、言っているのだ。

「……嘘。だって、大陸はひとつだって、学校でも習った」

 にわかには信じがたい内容に、あたしはやっとそう返す。兄は目を細めて微笑した。

「うん、誰もがそう信じているはずだよ。僕も実際、この目で見るまでは信じられなかった。他に大陸があるってことは、世界がもうひとつあるのと同じことだからね。でも、誰か海洋をくまなく巡って確かめた人がいたわけじゃない。知られていなかっただけで、大陸はずっと前から、厳然とそこにあったんだよ。直近の航海で、僕はこの足で新大陸に立った」

 兄は恍惚にほど近い、うっとりとした遠い目になっている。おそらく彼の脳裏には、到達したという新大陸の情景が浮いているのだろう。

「短期間だったけど、僕らは大陸の調査をした。植物も生物も、見たことのない種ばかりだったよ。あんな興奮は味わったことがない。そして驚くべきことに」

 その大陸には、人間も竜もいなかったんだ、と兄は続けた。
 ひゅっと喉が鳴る。ジーヴも息を飲むのが分かる。
 竜の可飛行領域よりも遠い新大陸。当然といえば当然だが、人も竜もいない世界なんて想像ができない。ジーヴも同じらしく、顔を盛大にしかめている。

「僕はすぐに調査結果をレポートにまとめて、王都に送った。こんな世紀の大発見はまたとない。どうもその時に、王の側近のイゼルヌ教団員の目に入ったらしくてね。――教団の人間が王室に取り入ったのは、王立組織であるアカデミー相手に、采配を振るうためだと僕は睨んでいる。彼らは麻酔や毒ガスの研究をアカデミーの人間にさせていた。科学者たちには、外科手術とか鼠とかの害獣に使用するものだと嘯いてね。もともと彼らの目的は竜だったわけだけど。そしてある目的のために、その大陸を利用しようと決めたんだ」
「利用って、どんな風に」

 嫌悪感で胃がむかむかしていたけれど、尋ねないわけにいかなかった。
 聞くも忌まわしい、神の名を借りる教団の計画が、兄の口から語られる。

「彼らはね、この大陸のすべての竜を、新大陸に移し替えてしまおうと画策したんだ。麻酔や毒ガスで竜を眠らせたり弱らせたりして、こっそり最新鋭の蒸気船で移送する。当の竜には無断でだよ。当初は毒ガスですべての竜の命を奪おうと考えていて、さすがに良心が咎めたのか分からないけど、どっちにしろ馬鹿げてるとしか言いようがない。国王陛下には、竜の合意を得た穏便な移住だとか何とか言っているようだ」

 水面下で進んでいた陰謀。
 それが、彼らが作ろうとする世界。新しい秩序を手に入れた世界。
 全貌を知ったジーヴは、憤然と肩を怒らせる。

「そのような身勝手な話、我らは聞いていないぞ」

 だからたちが悪いんだ、と兄は顎を引く。

「彼らは言っていたよ。竜だって人間のいない広々とした新大陸の方が、伸び伸び羽を伸ばして過ごせるだろう、って」
「たわけたことを勝手に抜かすな、と言ってやりたいな。人間が何を考えようと勝手だが、竜は他者から考えを押しつけられるのを嫌う。人間がいない場所の方が好ましいかどうか、それを決められるのは竜のみだ。それに第一、人がいない場所では、酒も飲めんではないか」
「あんたは結局そこが大事か……」

 ジーヴの度を越した飲みっぷりを思い返して、あたしはこそっと突っ込みを入れる。
 兄の話で、イゼルヌ教団の常軌を逸した狙いは明らかになった。でもまだぴんと来ないことがある。彼らの目的と、あたしたちの街が焼き払われたこと、それに黒竜の部族が滅ぼされたことは、どう関係しているのだろう。

「教団の奴らはどうして、街を焼いたり黒竜の里に毒ガスを撒いたりしたの」

 尋ねると、兄の双眸に暗鬱な翳りが生じた。

「それはね、口封じと、手違いのためだよ」
「……どういうこと?」
「まず、僕たちの街についてだけど、あそこにはアカデミーの会員がたくさんいただろう。僕と一緒に航海に出た学者も何人もいたし、彼らには家族もいた。街には王立図書館もあった。教団の人間にとっては、新大陸の存在は独占しておくべき秘匿事項だった、それは分かるね。彼らには、街の人々にどれだけその事実が広まっているのか分からなかった。新大陸の存在を知っているか、なんて訊いて回るわけにもいかない。だから、都合が悪いことを知っている可能性がある人間を、街ごと、本ごと燃やしてしまおうと考えたんだ」

 兄の顔が、見たこともない形に歪む。

「そして彼らは準備段階で、近くに黒竜が棲む里があることを知ったんだろうね。運の悪いことに、その一帯は窪地になっていた。実用試験として、気体を撒くにはお誂(あつら)え向きだ。その時は恐らく、命までは奪おうとしていなかったと思う。けれど、彼らが毒ガスを使うのは初めてだった。使う量が多すぎたんだ。その手違いのせいで、ほとんどの黒竜は息を引き取った――」

 兄はそこで、もう耐えきれないというように、震える手で顔を覆う。あたしはようやく、彼が背負ってきたものの重さに気づいた。

「僕のせいなんだ……全部……。僕が、もうひとつ大陸があることに気づかなければ、新大陸なんて発見しなければ……こんなことには…………」
「兄さん」

 だらりとぶら下がったままの、兄の片手を取る。手は血の気を失って、指先まで冷えきっていた。あたしの小さい右手だけでは、彼の掌を包み込むことはできないけれど、熱で温めてあげることくらいは、できると思った。

「兄さんのせいじゃないよ。兄さんがした発見は本当にすごいこと。悪いのは悪用しようとした奴ら。悪いのは、全部イゼルヌ教団の人間」
「そうだぞ、エイミール。お前の功績は、人類史に残る偉業だろう。決然と胸を張るがよい。糾弾されるべきは、イゼルヌ教団の人間だ」

 兄は顔を上げた。そして、あたしとジーヴの顔を眺め回した。目の縁ぎりぎりまで溜まっていた涙を袖口で拭うと、しゃんと胸を張って、凛と表情を引き締める。

「ありがとう、二人とも――。僕は教団を、どうにかして止めたいんだ。大司教は国王による、竜と人間の生活圏分割の令の発布を求めている。今頃、陛下に発令を進言しているかもしれない。陛下から命が下されれば、個人の力ではどうにもできなくなる。……国王は教団の凶行をきっとご存じない。でも、僕一人が喚き散らしたところで、大司教に一蹴されるだけだ」

 兄があたしと、ジーヴを交互に見据える。教団員の人間の道を外れた所業によって、腕と視力をそれぞれ失った、あたしたちを。

「今、君たちがここにいるのもきっとある種の運命だ。二人もいれば、凶行の証拠に十分なる。陛下は騙されているだけで、聡明な方だ。きっと分かってくれる。危険な目に遭うかもしれないけど、力を貸してくれないかな? 竜と人間が共存する、この世界を守るために」
「王に直訴するのか」

 ジーヴの問いかけに、兄が深くうなずく。
 雄々しき黒竜の生き残りは、よく言えば勇ましく、悪く言えば猛悪に笑い、上下の顎に生え揃う鋭利な牙をぎらつかせる。

「くくく、それでこそ、右目から光を失った甲斐があるというものだな。同胞に仇なさんとするものに、目に物を見せてくれようぞ」

 地獄の底から響きわたるような、恐ろしい低音だった。小説の登場人物なら、どう見ても敵役だ。
 かと思えばジーヴはこちらに向き直り、高いところからあたしの鼻を指で指す。

「王にはお前が話すのだぞ、小娘。竜である俺の話は、色眼鏡で見られる可能性がある。そもそも、人の王といえども、俺には人間相手にへりくだることができん。お前が、説得するのだ」

 兄も、揺るぎない視線をまっすぐあたしに向けている。
 急に、歌劇(オペラ)の主役にでも抜擢された感覚を覚え、動揺する。国王への訴えが通るか否かで、この大陸の竜の行く末が決まってしまうのだ。あたしの体は知れず震えた。

「そ……んな大役、あたしにできるのか?」
「何を怖じ気づいている。お前にはこの俺がついているのだぞ。心配無用だ」

 ジーヴがすべてを包み込むほどの力強い笑いを浮かべたので、あたしは目を丸くして彼を見返すほかなかった。
 あららー、と兄がほほえましいものを見る保護者の顔で、笑う。


 国王陛下に謁見を願いたい、という兄の申し出は、存外にあっさりと聞き入れられた。

「馬鹿にされているんだ。僕が何を言おうと陛下は聞く耳を持たないって。きっと望みを絶たれて、膝をつく僕の姿でも見たいんだろう。性根の腐った男だよ、大司教は」

 両脇に付き従うあたしたちに囁く声は、彼にしては珍しく、穏やかならざる空気をはらんでいる。
 あたしの頭の中では、口にすべき事柄がぐるぐると渦巻いている。しかしなかなか形にならない。ええい、ままよ、と崖から飛び降りるつもりで心構えをした。単に捨て鉢ともいう。
 衛兵の格好をしたあたしとジーヴは、兄とともにふかふかの絨毯の上を進み、そのまま大理石の大広間へと至る。
 王の間だ。
 内心で息を飲んだ。こんなに広い室内は見たことがない。横幅も高さも奥行きも途方もなく、竜型のジーヴだって悠々と羽ばたけるだろう。石壁には等間隔に蝋燭の炎がゆらめき、壁伝いに弓を携えた近衛兵とイゼルヌ騎士団員がずらりと並ぶ。王の間近に、こんなにイゼルヌ教団の人間がいることに舌を巻く。
 絨毯は玉座の直前まで伸び、数段の階(きざはし)を登ったところに、冠を頂いた国王が静かに端座している。背後にはきらびやかなステンドグラスが天井近くまで嵌め込まれ、王自身が壮麗なガラスのきらめきを背負っているように見えた。
 そして、国王のすぐ前に、跪いている男。
 あたしたちが近づいていくと、深紅の長衣を纏った男はのっそりと体を起こし、兄の姿を認めて冷笑を浮かべる。かっとして衝動的に飛びかかりそうになるのを、理性を呼び起こしてなんとか抑える。
 この男が、イゼルヌ教団の大司教。すべての元凶。
 意外に体は小さく、顔には深い皺が刻まれているけれど、その鋭い眼光がそれらを侮りの要因だと意識させない。むしろ顔面に走る筋が、全体の雰囲気を厳めしくするのに役立っている。
 兄が深々と腰を落とし、国王に向かって頭(こうべ)を垂れた。王が真っ白い口髭を動かし、厳かな声音で問う。

「わしに話があると聞いたが」
「はっ。国王陛下、ならびにイゼルヌ教団司教――」
「司教ではない、大司教だと言っただろう」
「――大司教。この度はお目通りをお許しいただき、心より感謝申し上げます。しかしながら、お話ししたき事柄があるのは僕ではありません。こちらの者たちです」

 何、と怪訝な声を出したのは大司教だ。
 あたしとジーヴが衛兵の兜を脱ぎはらう。引きつり笑いを収めた大司教が目を剥いた。

「その者たちは――」
「エイミールと申したか。いかようなことであるか、説明せよ」

 国王に動じた様子はない。知的な藍色の瞳が、じっとあたしたち三人を注視している。

「陛下を欺くような真似をし、申し訳もございません。然るべき刑罰も甘んじて受ける所存でおります。しかしながら、どうか、それは僕らの話をお聞きになってからにしていただきたいのです」
「申してみよ」
「ご慈悲に感謝いたします。――彼女と僕は兄妹です。僕らの生まれ故郷は、焼き討ちに遭って無くなりました。もう一人の彼は見てのとおり竜ですが、焼き討ちと同じ夜、人間の襲撃に遭い、同族の竜たちを亡くしました。すべてそこにいる、司教の指示によってです」

 こめかみに青筋をたてた大司教が、裂帛の怒声を放つ。

「私は大司教だ! それにそんな事実はない!」
「これを見ても、まだそのようなことを仰いますか?」

 あたしはきっと大司教を睨みつけ、衛兵服の左の袖口部分を思いっきり引っ張った。王と大司教がはっとするのが分かる。
 牢獄での話し合いの後、あたしは服に細工をしていた。自分の服から制服に移し替えていた裁縫道具で、左腕の肩口をすっぱり切り離し、糸で粗く縫い直しておいたのだ。少し力を加えれば、簡単にほどけてしまうように。
 左袖がへたりと床に落ちる。布がすっかり無くなった左腕部分、そこにあるべきものは無かった。ただ虚無が、ぽっかりと口を開けている。
 演出の効果はあったようだ。王は食い入るほどに、大司教は苦々しげに、あたしの欠けたところをまじまじと見つめている。

「街が襲撃を受けた夜、あたしは片腕を無くしました。甲冑姿の集団に家を焼かれ、崩れてきた二階の家財に腕を潰され、最後は自分で腕を切り落としたのです。街のすべては灰となり、生き残ったのはあたしたち兄妹だけでした。その甲冑に紋章がついているのを、あたしははっきりと見ました」

 すっと右腕を上げる。まっすぐに、しっかりと、大司教の胸に輝く羽ペンの紋章を指し示す。

「羽ペンの紋章でした。イゼルヌ教団の紋章でした!」
「小娘め、口から出任せを……ッ」
「出任せを言っているのはどちらでしょうか? 竜の彼も、撒かれた毒ガスにより、右目の視力を失っています。目が白濁しているのがお分かりでしょう。その毒ガスは、イゼルヌ教団がアカデミーの科学者に作らせたものです。こちらの彼は、竜と人間のあいだで生活圏分離の同意があった、などというのは嘘っぱちだと申しております。陛下。イゼルヌ教団は――そこにいる司教は、身勝手な目的のためにアカデミーを利用し、陛下までも欺いたのです!」
「私は……大司教だ……!」

 ぜえぜえと喘ぎながら、大司教は睨みを利かせる。近衛兵が、騎士団員が、ざわざわとさざめいている。
 国王は一息おいてから、糾弾される大司教を冷たい目で見下ろした。

「大司教……今の話、まことなのか。釈明できるか」

 悪事の張本人は、肩を落として項垂れているかに見えたが一転、体を震わせ、ふふふふと胃の底からせり上がってくるような気味の悪い笑い方をした。気でも狂ったかとぎょっとする。
 がばりと上げた男の顔には、正気とは思えない色の壮絶な笑みが貼りついていた。目の光が既に狂気に染まっている。壊れた胡桃割り人形みたいに、顎ががくがく動いていた。悪夢に出てきそうだ。

「陛下! 私には分かりました、分かりましたぞ! この者は、そこの竜にたぶらかされているのです。それで虚飾にまみれた空言(そらごと)を、まことしやかに口にしているです。これで証明されましたな、やはり、竜と人間は分かれて生きるべきなのです! きっと、その竜さえいなくなれば娘も正気に戻りましょうて」

 姑息な濡れ衣を着せられたジーヴが、怒気を周囲に散らして激昂する。

「貴様……何をぬけぬけと……!」
「おお、なんと恐ろしい姿だ! ここで討たねば甚大な被害が生じよう、騎士たちよ! 弓を構えよ!」
「待て、大司教、騎士団! 勝手な振る舞いは許さぬ!」
「お忘れですかな、陛下! 有事には、我が騎士団員は、国王の命令より私の指示を優先する、という取り決めを交わしたことを!」
「くっ……、近衛兵! 騎士たちを止めよ!」

 国王の指示により、近衛兵と騎士団の戦闘が始まる。場が騒然となり、そこかしこで憤激の叫びがあがり、何もかももみくちゃになった。
 争乱のさなか、騎士団員がジーヴを狙い、矢を向けてくる。

「弓など蹴散らしてくれる……ッ」

 ジーヴの髪がぶわりと逆立つ。この広間なら、竜型に変じても翼を動かし暴れ回ることができる。あたしは流れ弾を警戒して兄の楯になりながら、ジーヴの竜化を待った。
 幾度も旅の窮地を救ってきた、本来の姿のジーヴの力。
 一陣の旋風が起きる。竜の姿がそこに現れるかと思いきや、風はすとん、と止んでしまう。彼の黒い前髪を、ほんの少し揺らしただけで。
 ジーヴが驚愕に目を見開いている。彼の表情に浮かんだことのない、焦りがそこにある。彼を見るあたしも兄も、きっと気持ちは同じだった。混乱していた。どうして、そんなことが、信じられない。
 竜型に、なれないのだ。
 ジーヴががくりと膝を折る。見開いた目で、自身の掌に視線を落とした。

「なんだ、なぜだ、これは……」

 気高い竜には、堂々たる空の王には、あってはいけない姿勢だった。交戦のさなか、呆然と唸るジーヴを前に、大司教が哄笑を響かせる。

「竜よ、もしかして城下にて蜂蜜紅茶を飲んだのではないか? 実はな、商人に手を回して、娘と竜の二人組を見つけたら薬剤入りの紅茶を飲ませよ、と申し渡してあったのだ。それがこの薬剤よ」

 大司教は懐から、小さなガラス瓶に詰められた、無色透明な液体を取り出だす。なんてことだ。あの商人に、教団の息がかかっていたなんて。あたしは絶句する。
 大司教は、それが伝説上の聖剣だとでもいうように、恭しく頭上へと掲げた。

「せっかくだから教えてやろう。これはな、ドクトカゲの毒から精製した、竜を強制的に人型にする薬なのだ。まだ試験段階だったが、ちょうどよい実験台になってくれたな。くっくっく、感謝するぞ! この薬で我々の計画は完璧になる。我らは竜を眠らせ、この薬で人の姿に変えさせ、新大陸へ移送する! この世界は人間を頂点とする、新しい秩序を手に入れる! さあ、人を騙くらかす竜には、この世から退場してもらおう!」
「貴……様……、どこまで卑怯を貫けば気が済むッ」

 ジーヴが床に手を着いたまま、大音声を張る。肌がびりびりするほどの尋常ではない覇気だ。あたしは思わず腕で顔を覆った。
 この混乱をどうすれば諌められるのか、あたしは分からなかった。ジーヴが竜になれない今、彼には頼れない。それどころか、あたしが、彼を守らないといけない。どうすればいい。どうすれば。

「うわあああああッ」

 頓狂な奇声を発しながら、体を血まみれにした騎士が、大司教の真ん前へ躍り込んだ。ジーヴの覇気にやられたのか、完全に取り乱している。どこかから近衛兵の放った矢が脚に刺さるが、気にする気配がない。
 騎士は無我夢中の体(てい)で矢をつがえ、しなった弓から、一直線に矢が放たれた。一瞬もしない間に、膝をついたジーヴへ迫る。あたしにはその様子が、コマ送りにされる活動写真みたいに、ひどくゆっくり流れて見えた。
 竜の皮膚は金属さえ通さないが、もしも、眼球に当たったら。
 その矢はあやまたず、深々と突きたった。

 彼の前に躍り出た、あたしの首元に。

 誰かが息を飲む。あたしの体は衝撃で弾かれ、どうっと床に倒れ伏した。いっときの静穏が、巨大な布をばさっと被せるように、広間全体に降りる。音が止む。皆がこちらを見るのを感じる。
 ジーヴが茫然自失の様子で、矢に貫かれたあたしを抱き起こした。慌てて兄も駆け寄ってくる。
 逞しい腕が、首の下にあるのが分かる。ジーヴは眉間に皺を寄せているが、眉尻は元気なく垂れ下がっている。それが悲しみのためだとか、そこまで自惚れるつもりはない。

「……どうして庇ったりした」

 静かな問いに、薄く笑って答える。

「ジーヴも、狙われたのがあたしだったら、あたしと同じことをしただろ……?」
「……だとしても、お前が死んで何になる、馬鹿者」
「馬鹿じゃない……人間だ」
「お前……」

 いつかのジーヴの台詞をなぞると、ジーヴの表情はいっそう複雑に歪んだ。
 ゆっくりと瞑目して、あたしは口の端を引き上げる。不適な笑みに見えているといいな、と考えながら。

* * * *

 旅を共にしてきた人間の小娘は、俺の非常食は、契約相手という建前の友人は、死んだ。
 森で、草原で、街で、都市で、溌剌と跳ね回っていたばねのような体は、今俺の腕のなかで、ただ力なく横たわっている。俺はその遺体を、娘の兄に引き渡した。エイミールは沈痛な面持ちで妹を掻き抱き、閉じられた瞼の上をそっと撫でる。
 俺は思うようにならない体に気合いを込め、なんとか立ち上がった。大司教も王も、青ざめた顔をして棒立ちになっている。俺は王に体を向ける。

「人の王よ。もう、いいではないか。娘の命ひとつ費やして……これでも竜たる俺とこの娘が、友人として心を通わせていた証明にはならないか。まだ俺が、娘に虚言を吹きこんでいたと信ずる根拠があるか」

 王は沈んだ顔で、ううむと呻く。

「そなたの言うとおりだ。そなたらの言い分を信じよう。――わしも愚かであった。正当な理由なく、竜を除け者にしようとするなど……同意を得たという言葉を、軽率に信じたのは愚の骨頂と言わざるを得まいな」

 王は厳しい目を、魂が抜けてしまったように硬直している大司教に向ける。

「大司教よ、お主の司教権は剥奪させてもらう。お主はもはや大司教でも司教でもない、ただの破戒僧だ。お主の話はもう信じぬ。取り交わした約束もすべて破棄する。竜よ、この先も永(とこし)えに、人と竜の共存の道を歩もうぞ。わしの名において、約束しよう」

 その言葉はとても丁寧だった。俺はうなずき返す。
 胸にわだかまりがあるが、これで一件落着ということになるのだろうか。思わぬ代償に、俺の心境は今一つ晴れない。取り返しのつかないことを振り返っても仕方ないが、こうなる他になかったのか、という思いが拭えない。

「国王陛下。今のお言葉、まことでございますね」

 どこかから凛々しい女の声がした。出どころを探して、俺も、王も、元大司教も、手を休めた兵や騎士たちも、皆きょろきょろと辺りを見渡す。
 エイミールが、堪(こら)えきれないとばかり、ぷぷっと吹き出した。
 そして全員が、否、娘の兄以外が唖然と眺めるなか、すっくと娘の遺体が起き上がり、王の前で深々と礼をする。
 王は目を丸くしている。しばらく反応できそうにない。それは俺も同じだ。

「お前……なぜ生きて……」

 動きだした死体に声をかけると、小娘はこちらを振り向き、にやっと笑った。その生き生きした様は、死人などではあり得なかった。
 
「あんたのその顔が見たかったんだ」

 言いながら、胸に刺さったはずの矢を造作なく引き抜く。そういえば服はちっとも血に濡れていない。娘は胸元から、一部が破損した首飾りを引き出した。
 俺がかつて買い与えた、陽に映える珊瑚の首飾りを。

「両腕が使えた時は、あたしは弓使いだったんだ。弾道なら身に染みて分かってる。射たれる方は初めてだったけど」
「……お前、いつの間にそれを身につけていたんだ。しかし飾りの一部で受け止めるとは、なんという無茶な……」

 小娘の言を信ずるに、首飾りの一番大きい金属片部分で、矢を食い止めたということらしい。それも計算して。呆れるほかない。
 娘の体を引き渡すとき、エイミールがどことなく妙な顔つきだったのは、双宿石(アジスナイト)を持つ彼には、娘の命が潰えていないことがまる分かりだったからだろう。

「無茶はお互い様だろ」

 小娘が俺の額を指差す。返す言葉もなかった。

* * * *

 大司教の突然の失脚により、恐慌状態に陥ったイゼルヌ騎士団は、近衛兵によってほぼ抵抗もなくお縄頂戴と相なった。
 ジーヴがあたしを馬鹿にするために購った首飾り。あたしはそれを、鉄道に乗る前くらいからずっと首に下げていた。食堂車で首飾りをつけたらどうだ、と言われた時には、実は服の下にぶら下げていたのである。理由は明確なものではない。捕まったあたしをジーヴが取り返しに来た後、彼から貰ったものがなんとなくお守りになる気がした、それだけだ。
 ジーヴには大口を叩いたけれど、実際首飾りで弓矢を防げるかどうかは、一か八かの賭けだった。ただ、あれで大怪我をしたり、本当に命を失ったりしたとしても、あたしには後悔はなかっただろうと思う。とにかくこれで、ジーヴには一杯も二杯も三杯も食わせたし、鼻も目も耳も明かしたことになるのではないか。竜のあの目を真ん丸にした表情、そうそう見られるものではない。こっちは自惚れではないはずだ。
 騎士団員たちが引ったてられていくのを、国王はじっと眺めている。
 あたしたちは(ジーヴを除いて)、玉座の前にひれ伏した。やむを得なかったとはいえ、大陸を統べる王族中の王族の御前に、嘘偽りを並び立てたのだ。お咎めなしとはいかないだろう。
 兄が真摯な言葉を紡いでいく。

「国王陛下。陛下を欺いたこと、心より御詫び申し上げます。僕らは如何ような裁きに処せられるのでしょうか」

 王は予想に反し、目元を笑ませて頭(かぶり)を振った。

「断じてそのようなことはせぬ。そなたらは、わしの誤った選択を、命を賭して正してくれたのだ。こちらから感謝したいくらいだ。欺いたのは……元大司教よ、お主の方だ」

 破戒僧に身を落とした男は、ぎりりと歯を食いしばりながら、血走った眼で国王を睨めつけている。その体は縄でぐるぐる巻きにされ、二人がかりで暴れないよう押さえつけられていた。

「お主はわしを騙した。そしてそれ以上に、人の街一つを焼き、竜の部族一つを滅ぼす命令を下した罪、重罰に値するぞ。極刑か、終身刑かを決めるのは司法に委ねるがな。……連れてゆけ、近衛兵。最後に言いたいことはあるか」
「竜に騙されるな!」

 この期に及んで、重罪人と断じられるであろう男は、じたばたと喚き始めた。呆れ果てた近衛兵が両脇をがっしり固め、広間の出入り口へと移動させていく。
 竜は性悪だ、奴らとは根本的に分かり合えないのだ、竜に気をつけよ、と喚き散らす姿は、もはや気狂いの域だった。
 ふと、ジーヴの巨躯が近くにないことに気づく。遮蔽物がないだだっ広い広間では、視線を左右に振るだけで探し物が見つけられる。ジーヴはなぜか、連れていかれる極悪人の前へ先回りし、仁王立ちしていた。
 そちらへ駆けていくと、そんなに竜が憎いのか、とジーヴが静かな語調で問うのが聞こえた。
 化け物め、との憎々しい唸りにも、ジーヴは鼻を鳴らすだけで平然としている。

「素直に答えた方が身のためだぞ。その化け物に首を絞められたくなければな。人の法では竜は裁けぬ、俺は何をしでかすか分からぬぞ」

 飄々と軽く言っているが、早い話が脅しである。

「貴様……ッ」
「そう睨むな。事情があるのなら、情状酌量の余地もあるかもしれんぞ。当代の人の王はなかなかに寛容と見える。まあこの状況で、その昔竜に危害を加えられた、などという法螺を吹くのなら話は別だがな」
「事情ならあるさ……私には、娘がいた」

 ぼそっと吐き捨てられた暗い呟きに、さすがのジーヴも沈黙する。男の唇がわななき、その振動は全身に伝播して、体全体がぶるぶると震えだす。
 男が抱いている感情。それは怒りだった。

「大切な、一人娘だった。娘は、竜に殺されたも同然なのだ。――娘はある時どこかの街中で、竜の男と知り合った。やがてその竜と懇ろな関係になり、あろうことか、手紙の一枚を残して、駆け落ちしてしまったのだ! そんなことが許せるはずもなかろうが? 私の家系は代々、イゼルヌ教の重職を務めてきた。娘の行為は一族のとんだ面汚しだった! 私は娘の行方を捜した。何年か後に見つけだした時、娘は幼子を抱いていた。……分かるか、私の絶望が! 人と竜の合いの子など、おぞましくて目に入れることさえ汚らわしく思えたわ。私は泣き叫ぶ娘を竜から引き離し、家へ連れ帰った。幼子も置いていくよう説得したが、娘は頑として聞き入れなかった。娘は毎日泣いておった。あまつさえ、再び家から逃げ出そうともした。良家の男子を招き、社交の場などを設けてやったのにも関わらず! 娘は世を儚み、私が家を開けていた隙に、子供ととともに海に身を投げた。私は手を尽くしたが、娘を普通の幸せへと導くことができなかったのだ。……竜がたぶらかしたばかりに、娘は自ら死を選ぶなどという、惨い選択をすることになった。私はその時学んだのだ。人間は竜と生きるべきではない、と」

 皆、押し黙っていた。一息に語り終えた男の、荒い息づかいだけが耳に届く。
 あたしは何も言えなかった。胸に生じたのは同情や憐憫などではなく、どこまでも身勝手な男への、軽蔑や侮蔑、嫌悪の情感だった。

「お前の娘が竜にたぶらかされた、というのは真実なのか。それを確かめたか? お前の思い込みではないのか」

 ジーヴの口調はどこまでも凪いでいる。そして、青い隻眼に映るのは、何もかもを見はるかす透徹だった。
 あたしははっとした。かつてジーヴは、竜と人間が愛し合った例がある、と言っていた。それは今、目の前の男の口から語られた、二人のことではないのか。道ならぬ愛を育んだ彼らを、ジーヴは知っていたのではないか。あたしはずいぶんと高いところにある、ジーヴの横顔を見つめる。
 悲劇を知る者だからこその、あの、超然とした視線。
 自分が悲劇を引き起こしたとは露ほども思っていない男は、顔をいっそうしかめ、鼻で笑う。

「確かめる必要もなかろう。卑しい存在である竜が、人間を籠絡する方法など、薄っぺらい甘言を用いる以外にあるまい?」
「……どこまで自分勝手なんだ、あんたは! どうして娘さんと大切な相手の仲を引き裂くようなことをした。彼女と竜は、心から想い合っていたんじゃないのか。あたしには分かる、竜は卑しい存在なんかじゃないって! あんたくらい地位がある人間がなぜ、三人が一緒に暮らす場所を用意するくらいのことができなかったんだ! 娘さんが身を投げたのはあんたのせいだって、どうして分からない!」

 あたしはずいと元大司教に詰め寄った。いつしか隣に立っていた兄が、ぐっとあたしの肩を掴む。
 あたしは泣いていた。どういう涙なのか自分でも分からない。ただ、理不尽だと感じた。気が昂りすぎ、嗚咽さえ漏れてくる。
 兄とは反対側の肩に、ジーヴの大きな掌がぽんと置かれる。

「過ぎたことだ、小娘。お前が気に病むことはない」
「――分かってるよ……」
「まあ、存分に感情を表に出すのも時にはよかろう。……さて、元大司教よ、お前にもうひとつ問おう。考えを改める気にはなったか。それとも、まだ竜のいない世界を望むか」

 じろりと音がするほどの、ぎょろついた目がジーヴを見据える。改心の意思など、毛ほどもないのが一目瞭然だ。

「愚問だな。竜とともに生きるくらいなら、死んだ方がましよ」
「ふむ。お前は、気に入らぬ者を排除すれば、望む世界になると、まだ思っているのだな?」
「当然だ」

 黒竜の元族長はそこで、なぜだかにやりと不敵に微笑した。そして、じっと沈黙を保っていた近衛兵たちへと、軽快に話しかける。

「この男を裁判にかけるのも一興だが、俺にひとつ提案がある。きっと楽しめると思うぞ」

 そう言うジーヴは少し、いやかなり、悪い顔をしている。


 青で塗りつぶした空が笑っている。澄んだ快晴の空を背景に、白亜の王宮の姿が、誇らしげに際立って見えた。
 大司教の失脚から三日経つ。あたしと兄、ジーヴは連れだって、王都にほど近い港へ来ている。海からの微風が潮の匂いを運んでくるのを、あたしは胸いっぱいに吸いこむ。
 港には、竜が小さく見えるほどの巨大な船舶が停まっていた。全体は首を回さねば見渡せず、小さな村ほどはあるのではないか、という大きさだ。黒塗りの船体からはぶっとい煙突が高々と伸び、そこからもうもうと白煙が上がっている。建造されたばかりの、先進技術の粋を集めた最新鋭の蒸気船である。大船の処女航海への船出を一目見ようと、王都や周辺の街から、大勢の見物人が詰めかけていた。
 大司教の処遇について、ジーヴから提案の内容を聞いたとき、よくそんなことを考えつくものだ、と竜の悪知恵に閉口するばかりだった。
 彼は、"竜を新大陸へと移送"するのとは逆に、"元大司教を新大陸へ海送"してはどうか、と国王に進言したのだ。

「さすれば、自らが実証してくれよう。気に食わない者がいなければ、理想の世となるのかどうか。お望みどおりの、竜なき世界でな」

 悪魔めいた形相の元大司教の睨みなどどこ吹く風、ジーヴは愉快げに体を揺すった。そんな彼を見るにつけ、これは敵に回してはいけない存在だな、という思いを強くする。
 憎むべきものを憎むことを選んだ国王は、あたしたちに何か欲しいものはないか、と尋ねた。富も身分も名声も、わしの力でなんとかしよう、と。先陣を切って口を開いたのはジーヴで、その答えは簡潔至極、要らぬの一言だった。曰く、竜が人からの賜り物を受け取ることなどあり得ない、とのこと。どこまでも矜持を大切にする男である。

「僕はモノクルが欲しいですかね。すぐにでも入り用なんですが、何ぶん今手持ちがないもので……」

 兄は照れたように後頭部を掻きながら言う。それくらいあたしの懐から出せるのに、と思ったけれど、そういえば黒竜の鱗を売って得た金貨も、列車の利用でほぼすっからかんになっていたのを思い出す。兄の力になれず、あたしは憮然とした。

「若いのに、無欲なのだな。もっと強欲になってよいのだぞ。そなたは――アイシャ、といったか。わしはそなたに最も報いねばならぬと思うておる。何でも気兼ねなく申すがよい」

 名前を呼ばれ、跪いた格好から思わず顔を上げてしまう。国王は、柔和な表情であたしを見つめていた。親しげな雰囲気すらある。失礼かもしれないが、あたしは幼い頃に亡くなった祖父を思い起こす。

「あたしは――」

 一度唇を舐めて、蜂蜜紅茶がたくさん欲しいです、美味しかったので、と言うと、王は瞠目して、しばし言葉を失っていた。

「お前の気が知れんわ。何を好き好んで、そんなものを口にするのか」

 港にて、水筒にたっぷり作っておいた紅茶で喉を潤す。ジーヴはあたしの動作を、忌々しそうに横目遣いで見ている。彼がいい印象を持っていないのは理解できなくもない。でも、変化(へんげ)の自由を奪ったのは蜂蜜紅茶そのものではないのだ。蜂蜜紅茶に罪はない。美味しすぎるという罪はあるかもしれないけど。
 紅茶を味わっていると、隣に立つ兄がだし抜けにおーい!、と大声を放ったので、びっくりして口に含んだものを噴き出すところだった。
 何事か、と思い兄を仰ぐと、船に向かって大手を振っている。視線の先では、船乗りらしき男性が舷梯(タラップ)を伝い、桟橋へ降りてきていた。その人が兄に気づく。
 小走りになって近づいてくる彼を、あたしは知っていた。額にバンダナを巻いた、こざっぱりとした短髪の青年。兄の航海の賛助をしてくれていた人だ。確か、カイという名だったような。

「おいおい、どっかで見た顔だと思ったらエイミールじゃねえか! この野郎、どこほっつき歩いてたんだよ! 大陸見つけた後、お前んとこに行こうとしたら街ごと無くなってたんで、ぶったまげたぜ」
「ひ、久しぶりだね、カイ……」

 海の男らしい豪快な優しさを見せ、カイが兄を荒っぽく抱擁し、ばんばんと背中を叩く。兄の顔は多少引きつっている。華奢な兄の骨が折れたりしないか、あたしはそわそわした。

「おお、アイシャちゃんも無事か。街からここまでエイミールと一緒に来たのか?」
「いえ、兄に再会したのは三日前で――」
「この馬鹿野郎、ちゃんと着いてなきゃ駄目だろうがッ」
「あうう……その通りで……」
「カイさん、兄さんは悪くないの」
「おー、アイシャちゃんは優しいなあ!」

 カイは大口を開け、豪気な笑い声をあげる。やっと解放されふらふらと崩れ落ちそうになる兄を、あたしはしっかと抱きとめる。その一部始終を、ジーヴは大して興味も無さげに眺めていた。

「エイミールもこの船見て仰天したろ。一年でここまで造船技術が向上するとはなあ。これなら新大陸へも、悠々とたどり着けるぜ」
「それもそうだけど、僕は君がこの船に乗っていることの方にびっくりしたよ。船乗りの名誉だろう。おめでとう」
「なあに、この船じゃ下の下のしたっぱよ。お前もいつか、また一緒に航海へ出ようぜ。この船はでかいから、全然揺れないんだ。船酔いしまくるお前も安心だろ」

 カイは握手を交わしながら、苦笑する兄に向かっていたずらっぽく片目を瞑ってみせる。

「カイ、あのさあ……」
「おっと、主賓が到着したようだ」

 カイがあらぬ方向を見て声をあげる。視線を追うと、元大司教や側近たちが縄で繋がれ、近衛兵に連れられて歩いてくるところだった。元大司教以外にも、竜排除の思想を曲げなかった人間が何人かいたらしい。彼らも、師と仰いでいた身勝手な男とともに、新大陸へ送られることとなった。
 それじゃあまたな、と言い残し、カイは甲板へと戻っていった。
 居並ぶ人々が作り出した生ける花道を、男たちは石像のように黙々と進んでいく。数えきれない好奇の目、目、目。ざわめく人波のなかで、あたしたちは竜を除け者にしようとした異端者を睥睨する。

「どうした、かつてイゼルヌを率いた者よ。なぜもっと嬉しそうな顔をせんのだ? お前の望む世界へ行けるのだぞ。新世界ではお前が王となるのだ」

 腕組みをしたジーヴが呼びかけると、いまだにみすぼらしい威厳を振りかざしている男は、落ち窪んだ眼底から鈍い光を放ち、竜の巨躯を見上げた。

「私を笑い者にしに来たか。つくづく竜は性の悪い生き物よの」
「そう言うな。わざわざ見送りに出向いてやったのだから。感謝のひとつでもあってよいのではないか?」

 罪人の先頭に立つ男の頬に朱が差し、こめかみに筋が浮く。ジーヴの言葉はおそらく本音なのだろうけど、受け取る方は嫌味にしか聞こえないに違いない。

「終いまで侮りおって。この屈辱、決して忘れぬぞ……」
「おやおや、どうも竜嫌いが骨の髄まで染み込んでいるようだな」
「あんたの言い方が悪い」

 肩をすくめるジーヴに、あたしはぴしゃりと言い放つ。どう聞いても、火に油をそそぐだけの台詞にしかなっていない。
 数珠繋ぎになり行き過ぎようとする咎人たちへ、せいぜい鼻を利かせておけよ、とあたしは冷酷に言葉を投げつける。

「文明の匂いも嗅ぎ納めだぞ。後で恋しくなっても知らないからな」
「さらばだ、新世界の王よ!」

 最後に、張りのあるジーヴのバリトンが、新大陸を目指す男たちの背中を押しやった。
 用の済んだタラップが仕舞われる。蒸気機関と併せて備えられた帆が、風を捕らえて大きくたわんだ。錨が抜かれると、船はゆっくり岸を離れていく。ぼーっと海の果てまで届くような汽笛を響かせ、蒸気船は新大陸へ向けて出港した。


 小さくなっていく黒い影をぼんやり見る。ああ、これで終わったんだな、という感慨に耽る。波乱だらけの二人旅だったけれど、得たものもけっこうあったんじゃないかと思う。あたしにとっては、兄と再び会えたことが一番大きい。結局、ジーヴの旅の目的は果たせなかったから、心残りがないではないけれど。
 回想に浸っていると、そうだ、会わせたい人がいるんだ、との兄の言葉で我に返る。兄は破顔して、両掌を合わせていた。

「二人とも、ちょっと着いてきてくれないかな」

 そう言って、兄はさっさと歩きだす。含みのある兄の言に、ついあたしはジーヴと顔を見合わせた。
 兄は港からどんどん遠ざかっていく。周りはもう木立が並ぶ荒れ地だ。やきもきするあたしに、ジーヴが声を潜めて耳打ちしてくる。

「小娘よ。気を確かに持つのだぞ。奴がもし女性を連れてきても、動揺して卒倒などせぬようにな」
「そ……ど、動揺なんてしないし……別に……女の人でも……」
「もう少しだよー」

 あたしの懊悩を知ってか知らずか、兄が能天気に励ましてくる。
 前方にちょっとした丘が現れ、ここで待ってて、とあたしたちを制止し、先を行く兄は斜面の向こうに消えていく。あたしはどきどきしながら、その時を待った。
 やがて丘の上に、二つの影が出現する。
 ひとつは、もちろん兄のもの。もうひとつは、すらりと背が高く、豊かな黒髪をなびかせ、抜けるような白い肌を持ち、闇色の夜会服と半透明の肩かけを纏った、美しい女性のものだった。
 あたしの体は思考ごと停止する。
 本当の本当に女の人だった、しかもものすごい美人、どうしよう、どうしよう、と混迷の極みに突き落とされる。
 夜会服の裾を摘まみながら、丘のふもと、つまりこちら側へと、その女性がしずしずと淑やかに降りてくる。あと十歩程度という距離に迫ったとき、鈴を転がすのに似た可憐な声で、初めまして、と女性が挨拶を述べた。きらきら輝くほどの綺麗な碧眼が瞬く。
 あたしは見た。血色のよい唇が開いて、そこから鋭く生え揃う牙が覗くのを。一陣の風が彼女の長い髪をさらい、隠されていた尖った耳が現れるのを。
 そして気づいた。
 この人は、竜だ。しかも、黒竜だ。

「やっと会えましたね」

 女性の竜は、今度は明らかにジーヴに向かって話しかけた。
 ジーヴはやたら紳士的なほほえみを浮かべ、彼女にすうっと肉薄する。

「俺とどこかで会ったことが?」
「いいえ……けれどずっと捜していたんです。あなたのような方を」
「俺もずっと、あなたのような人を捜していた。お会いできて嬉しい」

 ジーヴは鉤爪で傷つけないよう、白魚のような手をそっと取る。二人は、世界に自分たちしかいないとでも言わんばかりに、その青い視線を交錯させて見つめあっている。
 竜が変わったみたいなジーヴを、釈然としない気持ちを抱えて見ているあたしの隣に、やっと兄が到着した。
 二人の黒竜は、いたく優雅な足さばきで円舞曲(ワルツ)を踊りだす。ジーヴの黒衣の裾と、女性の髪や夜会着の裾が品よくひるがえる。長身の美男美女が踊りに興じるその様子は、どこからどう見ても美しかった。

「……綺麗」
「本当にね」

 兄が同意する。
 兄が言うには、教団の魔の手から逃げ回る途中の街で、偶然彼女と会ったのだという。そして、黒竜の一族が滅びた事実を知った。彼女はもともと引っ込み思案な性格で、窪地ではなく里山の端っこでひっそり暮らしていたため、難を逃れたらしい。族長であるジーヴと面識がなかったのもそういう理由から。兄と彼女はずっと一緒だったが、兄が教団に捕まっているあいだは、王都の近くの森に隠れていたそうだ。

「でも今、引っ込み思案だとは微塵も感じなかったけど……」
「そうかもしれないね。でも出会った当初は大変だったんだよ。全然喋ってくれないし、警戒されるし、信用してもらうまで時間かかったんだ。竜にしたらここまでの旅なんてあっという間の出来事だけど、旅するなかで何か心境の変化があったのかもしれない。それを進歩というほど、僕は傲慢にはなれないけどね」

 兄は穏和な顔で、二人の舞踏に見入っている。
 あたしは、心の底から良かったと思った。収まるべきところに収まったという実感がある。ジーヴの旅の目的も達せられたのだ。これから二人は力を合わせ、黒竜の一族を復興させていくのだろう。
 そして、あたしとの旅の記憶など、じきにジーヴの中からは消えてしまうに違いない。掬った海辺の砂が指の隙間から零れ落ちるように、すみやかに、当たり前に、跡形もなく。あたしには忘れ得ぬ時間でも、竜にとっては一瞬のまたたきだ。
 一度交わっただけの直線は、すぐに離れて、あとはもう遠のいていくだけ。それが自然の摂理で、あたしは逆らおうとは思わない。

「兄さん、行こう」

 あたしは彼らに背を向けた。竜との離別に、湿っぽいのは似合わないはずだ。
 アイシャ、いいのかい、と兄が尋ねるけれど、あたしは振り向きもせずにこくりとうなずく。
 これでいいのだ。これで。

「アイシャ」

 朗々と響くバリトンに呼び止められて、はっとする。心臓が止まるかと思った。
 信じられない心持ちで、一年間旅をともにした黒竜を、もう一度振り返り見る。
 竜の男女は、片手を握りあったまま、穏やかな顔をあたしに向けていた。

「ジーヴ、今……」
「お前には世話になったな。お前がいなければ、この大陸の竜の命運は揺らいでいた。すべての竜を代表して感謝する。――アイシャ。お前との旅、なかなか愉快であったぞ」
「……ッ、狡いぞ、最後の最後で……」

 鼻の奥がつんとして、視界が滲むけれど、泣いたって竜には伝わらないから、ぐっと我慢する。
 代わりに、しゃんと胸を張って、ジーヴを仰ぎ見た。

「ジーヴ。今まで言えなかったけど、ありがとう。本当に……。ちゃんとこれから、幸せになって。あと、おでこの傷のこと、ごめん」

 ジーヴは目元を緩め、相好を崩す。

「傷なら心配要らんさ。なあに、百年もすれば元通りよ。それに俺は、お前がきっと幸福を掴めると信じているぞ」
「私と彼を出会わせてくれてありがとう。あなたにご加護が訪れますように」

 竜の女性も、あたしに優美な笑顔を向けた。
 嬉しかった。とても。
 丘に寄り添って立つ二人の竜。やがて、二陣の旋風が起こる。本来の姿に変じた彼らが、地鳴りのような咆哮を鳴き交わし、大きな翼を羽ばたかす。そして同時に飛び立って、二つの黒い塊となり点となり、ついには傾きはじめた陽の光のなかへと溶けていった。
 二人の姿が見えなくなっても、その方向を見続けているあたしの肩に、兄がとんと掌を置く。

「僕らも帰ろうか」
「うん。……どこへ帰る?」
「そうだなあ。アイシャが気に入る男の人がいそうなところ、がいいかなあ」

 にこにこと機嫌がいい兄に、あたしは訝しむ目を向ける。

「何それ」
「でもさ、あの竜の彼を超える人はなかなかいないと思うな。見つけるのは大変だね」
「……あの竜(ひと)は全然、そんなんじゃないから」

 兄はまったく勘違いをしている。頬が熱くなっている気がするけれど、それは陽に照らされているからだ。断じて、感情の揺れのせいなどではない。

「うん、分かってる。だけど彼、いい男(ひと)だったでしょ?」
「…………まあ、ね。でも相手を探すなら、兄さんの方が先でしょ」
「あはは、そこを突かれると痛いなあ」

 兄が困ったように笑い、頭の後ろを掻く仕草をする。
 あたしには分かっている。これが終わりではないことが。ここからまた、一から始まるということが。
 あたしは大地をしっかりと感じながら、新しい一歩目を踏み出した。
(了)

旅は竜連れ世は情け

初めて完結させた長編です。
何かに引っ張られるように書いてきて、振り返ってみればひと月強で原稿用紙200枚超という(自分にしては)相当ハイペースの執筆になりました。
最終話がすごく長くなってしまって、この章だけで全体の2/5くらいを占める構成になってしまったのが反省点です。

書きたいシーンが一番多かったのが五章で、ジーヴが壁をぶち破るところとか書いていてすかっとしました。
終章の最後のシーンでは、書きながらしんみりしてしまいました。自分で。
長編を完結させたのもファンタジーを書いたのも初めてで、色々と勉強になったし感慨もひとしおです。
人外無双もとい旅竜もとい"旅は竜連れ世は情け"にここまでお付き合い下さった方、本当にありがとうございました。

旅は竜連れ世は情け

隻腕の少女と隻眼の竜の旅物語。略称:旅竜。ファンタジーですがファンタジー要素は少なめ。たぶんおそらくきっと王道。※ストーリー上、多少暴力的な描写を含みます。(完結済)

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 冒険
  • アクション
  • 青年向け
更新日
登録日
2016-02-14

Copyrighted
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Copyrighted
  1. 一章 旅は竜連れ世は情け
  2. 二章 竜子にも衣装
  3. 三章 触らぬ竜に祟りなし
  4. 零章 苦しいときの竜頼み
  5. 四章 竜と歩けば棒に当たる
  6. 断章 竜の手も借りたい
  7. 五章 竜が通れば道理が引っこむ
  8. 終章 人心あれば竜心あり