ミモザ

雨催

「いやぁ、疲れた」
私が沈黙に困った時、眠いなぁというのと同じなのでしょう。口癖というものはネガティヴな言葉が多い故に無意識の水面下で他人を不快にさせる力を持つのです。自分と過ごすと疲れるのか、自分の存在は目を覚ますためには貧しいのか、或いは。節々に出るそれはただの口癖だろうとそうも気に留めないよう心掛けてはいましたが、帰る頃にはわたしのこころは針山のごとく穴だらけとなっていました。穴からは無力という名の綿が見え隠れし、それを押し戻すには針先は細く心許ないものでした。

彼は行く先々で文章を認めていました。時に二十分も歩いて行ったレストランで、時に山と海岸線を見渡せる山の上で。てのひらほどの大きさの原稿用紙に、藍色のインクを走らせる姿はまるで権威のある小説家のようであり、気取った文学少年の端くれのようでした。
小説を書くから君と一緒に居たいんだと呼ばれてきたわけですが、どうやらその文にわたしは出てきていないかのように思われました。これはわたしの勝手な想像ですが、きっと私は彼の文章に登場することはあり得ないのです。一人で別荘地の山や海に行くのは気が引けるから誰かを誘おうと、そういう魂胆なのです。彼にとって私は、なんとなく呼ばれた、全く重要な人物ではないのです。

なぜこんなに遠慮した体裁かというと、先月のちょうど今頃にさかのぼります。足並み揃えて就職活動というものに勤しんでいる私は、その一環として東京に居ました。その夜に近くに住む友人と飲みに出も行こうかと考えていた所、その友人から彼を紹介されたのです。彼はわざとらしいくらい恭しく、また酒を飲んで陽気になっている私を疎ましがっているようでした。
ですが、同席していた別の男性と二人でよろしくやろうと店を出ると、彼は泣いて私を呼び戻してくれとその友人に頼み込むのです。あんな愛想の悪い態度を取っておきながら呼び戻されるなんて、なんと図々しい男なんだと思うと同時に、そんな彼に私はこころ惹かれてしまったのです。
彼は、今自分はこんな映画を見た。レポートに迫られている。など取り留めのない内容の連絡を、時間も考えずに寄越してきました。こんな内容もないことを送りつけてくるなんて、彼は私のことが好きなのではないかと勘違いをしました。なんせ泣いて私を呼び戻したのですから。東京で会った日から数週間経っていましたが、その頃には私のこころは彼のことで埋め尽くされて、目前に迫る大学の定期試験のことなんて半ばどうでもよくなっていました。ですが彼のこころは反対に、迫り来る定期試験とレポートの締め切りのことで塗り替えられていました。そんな事も露知らず、思い上がって、また会いたいという旨を伝えると、彼は冷たくあしらってきました。
彼は至極正直でピュアな人間なようで、まっすぐ前しか見ていないのです。目の前に続く、自分の歩くレールの上に飛び込んでくる自殺志願者が現れない限り、後ろに誰が続こうが、横からどんな野次を飛ばされようが、どうでもいいのです。私が彼を追いかけて、後ろからどれだけ叫ぼうが彼の目に私が映ることもなければ、耳に声が届くこともないのです。彼にとって私は街の雑踏や、隣のテーブルでガトーショコラなんかを食べながら、他人の恋愛話に花を咲かせる女子大生と同じなのです。

ある日私は初めて会う男性と接待のような食事をしていました。その男性は思慮深く優しい男性で、私の容姿も話しかたも可愛らしいねと褒めてくれました。私は酒に酔って、優しいこの男といい雰囲気になっていることに無性に不安になりました。意中の彼には冷たくあしらわれて悲しくて、たかだか皿が割れたくらいでひどく落ち込んでいるというのに、この男は私と甘い一晩を過ごそうとしていました。私はそんなつもりはありません、彼の事を忘れられていないのですから。どうしようもなくなって、泣きながら彼に電話をしたりしたのです。あなたが好きだと。君は後ろから追いかけてくる女になんて興味が無いのは知っている。けど好きになってしまったのだ。馬鹿みたいだね、と自暴自棄になり泣き喚きながら電話をしたのです。ですが、前だけを見て突き進む列車を後ろから無理やり止めたかのような私の行動は彼にとってはフロントガラスに洗濯物が飛んできたぐらいの鬱陶しさだったのでしょう。電話切るぞ、と。そこから一切連絡を取っていませんでした。

そろそろ就職活動とやらに本腰を入れなければと思いつつ、思い出してしまった人肌の暖かさに後ろ髪を引かれつつ、何もない日々を過ごしていました。
いつものようにアルバイトを終え、終電で帰っていると、彼からの着信がありました。以前泣きながら電話をした時、あまりにも冷たく、もう私の事なんて見切ったというか嫌いになったと思っていたので心底驚きました。それと同時に、嬉んでいる自分がいました。ここで自惚れてはいけないと思い、低い声で「はい。」と電話に出ると、彼は飲んでいたようでした。取り留めもない話をして、眠いから寝るわ。と言って電話は終わりました。酔うと人に電話するクセがある事は友人から散々聞いていましたから思い上がってはいけないのですが、ひとまず自分は嫌われていないんだと安心し、帰路に着きました。
翌日もアルバイトがある私は早めに床に就いたのですが、夜中の二時頃でしょうか。「あしたひま?熱海とかで泊まらない?」などと突拍子もないメッセージが届いたのです。もちろん明日は暇でないのですが、愚かな私はその誘いに乗ってしまいました。ここで会わなければもう二度と会えない気がしたからです。彼の自分中心で遠慮も容赦もなく周りを振り回すところが好きだったのです。電話の件以来一切連絡をしてこなかったのに、小説を書くので君みたいな人に居て欲しい。僕のこと嫌い?僕は君に会いたい。なんて言われたら例えそれが酔った手前のリップサービスであったとしても、会いに行くでしょうよ。

そんなこんなで私は彼の思いつき熱海旅行に同席した次第であります。
彼との旅は特に仲を深める訳でもない、友人との旅行でもない、作家の付き人のような時間を過ごしただけの旅でした。
私は自分の事をそんなに話す性格ではないし、彼の話す文学の話なんて分かりません。「山の空気はええな、」と言う彼に対してもうまい返事が出来ないでいました。温泉施設で眠りこける彼の隣で、起こすこともできずただただ本を読み、中上健次は大地のような存在だという話を聞いては自分の知見の無さと計らいの悪さに「そうなんや、」としか返すことができず。無力でしかありませんでしたし、無力を装っていました。変に気の利いたことをしようとして裏目にでる所は同級生のあの子に似ているよ、なんて友人に言われたからです。努力をやめた凡人は存在する価値がありません。

夜になって降り出した雨に鉄は錆び、無力の綿が絡まって、針山はぎこちない音を立てていました。

泊まった宿はイタリアの風情を感じる小さなペンションで、所々に飾られた謝肉祭の仮面が印象的でした。どこか不安を誘うカンツォーネが心地悪かったのを覚えています。本能的に、数十年前のヨーロッパだとかカントリーだとかの雰囲気が怖いのです。部屋に案内されると、下心のない冷たさの表れでしょうか、ツインの部屋でした。
期待はしていなかったといえば嘘になりますが、私が風呂に入り部屋に戻ると彼はもうすでにぐっすり寝入っていました。

朝を迎え、散歩に行くという彼を白い両開きの窓から見送りました。昨晩とは正反対の空をベッドシーツが反射して、まだ日の入らない部屋は青く、暗く。窓から入る冷たい風とよく晴れた雨上がりの朝を歩く彼は、それはまあ絵になりまして。朝露を吸い込んだ白い肌に淡い空の青を映し、冷たい二月の風を身にまとい歩いて行く姿は息を呑むほどでした。
彼は部屋に帰ると、例の百文字詰めの小さな原稿用紙に向かいました。その様子を私は分厚く小難しいハードカバーをを読みながら見ていたわけですが、「散歩でもしてきたら?」と分かりやすく部屋から出て行けと告げられ、物分かりのいい女を装って出て行きました。山と雨上がりと青空と、暖かな朝日は清々しいという言葉がよく似合い、なるほどこれは文が書けそうだと能がない私にも感じるものがありました。昨日の雨が染み込んだアスファルトにも、よく晴れた青空が反射しなんとも言えない空気がただよっていました。なんとも言えないという表現は彼の受け売りです。「なんとも言えないというのはまさにこういうことなんやなぁ」なんて言っていましたが、違うと思う、中上健次の光の描写が好きなのならば、というのは黙っておきます。
半ば強制的に行かされた散歩から宿に戻ると、さっき私がしていたように窓辺から顔を覗かせ、筆を走らせる彼がいました。その姿が様になりすぎて見とれていると宿の玄関先で立ち止まる私と目があい、手を振ってくれました。笑顔でこちらを向いてくれたらきっと、あぁ好きだなぁ。なんて思うのでしょうけど、まあ真顔でした。私のことをなんとも思っていないところに心惹かれているわけなので落ち込む理由はないのですが、自分の報われなさと愚かさに笑ってしまいました。

昨晩眠る前までは、なんで私を誘ったの?と聞いてやるつもりでしたがそんな白々しい質問はやめました。冒頭でも申し上げました通り、決して私である意味なんてないのです。事実、恋人同士の甘い温泉旅行のような空気どころか、彼の肌に触れることも、彼が私の名前を呼ぶことすら一度たりともありませんでしたし、私も彼の名前を苗字ですら呼びませんでした。そんな旅だったのです。

物事にすぐ意味を求めるところが私の悪いところです。皿が割れたこととか、花言葉とか。言の葉の庭という映画のインタビューで新海誠が言っていました。ファンデーションが割れて泣く女の重さたるや。それと私は同じなのです。いわゆるメンタルヘルスというあれです。ですが私にはいくら調べてもメンタルヘルスの定義がわかりませんでした。メンタルヘルスとみなす要件が分からないので、自分がメンタルヘルスなのかどうかもわかりません。要件という正解の枠に一つずつ当てはめて、判断が正しいのか間違いなのかを考える、法学部の悪い考え方です。

そういえば、夕飯を食べたお店にアカシアの花が活けてありました。はじめそれをミモザかと思い、ミモザの花かな、なんて話をしました。彼は私に、昨日、前付き合っていた女性と飲んでいたという話をしました。その時彼女が最後に飲んだのが、ミモザという名前のカクテルだったようで、話は繋がるんやなと言っていました。またしても私は「そうやね、」としか言いませんでした。いや、言えませんでした。
その、前付き合っていた彼女はとても我の強い方のようで、彼のことを掌の上で転がしていたそうです。いくら誘っても忙しいと断られ、彼に冷たくあたり、そしてインスピレーションを与えてくれたそうです。そういう女性のことが彼は好きなのです。昨夜はそんな彼女に、「あなたの言葉の使い方は面白い」と褒められ、「君と付き合っていた時はタイミングが悪かった」と言われたそうです。彼はそれに対し、「じゃあ今ならタイミング良いのか」とは返さず「ああ、そう。」と言ったそうなのですが、彼がそんな返しをすることすら彼女は見抜いてわざとそんな事を言ったのだろう、また僕は踊らされているな。と彼は嬉々として話していました。私とはあまりにも違う、以前の女性の話をした彼は、君のことをイラっとさせてしまうかも知らんな、と一応私に気を遣って見せていました。実際快くはないわけですが、「君がいまカレーに混ぜている紅生姜の方が気になる」と、強がって見せました。「生姜、好きなんやっけ?」と聞かれましたが私は生姜が嫌いです。この話は昼にもしたのですが、どうでもいい女の好き嫌いなんて心底どうでもいいため覚えていてはくれませんでした。勿論私は彼の好きな食べ物なんて知りません。海藻が嫌いと言いながらも生姜と茗荷のたっぷり入ったもずく酢を食べていたのですから。彼は生姜が好きなんですかね。
彼は物を食べるたびに胃が痛い、気持ち悪いと言っていました。

電車に乗っているとき、わたしはずっと車窓を眺めていました。彼を楽しませる話術も、話題も、魅力もないからです。つまらない話をするくらいなら黙っていようと思ったのです。沈黙が許せる相手がいい、なんてよく言うじゃありませんか。そういうことです。案外、知らない街を走る電車からの景色は楽しいもので、特に何を思うわけでもなくぼうっとしていました。新幹線では持参した森見登美彦を読みました。京都という異空間で広がる森見ワールドと読みやすい文に惹かれて森見の本を何冊か読んでいたのはもう五年も前の話です。久々に読んでもやはり面白い話でした。彼は中上健次を読みながら、時折本に付箋をつけ、時折あの原稿用紙に書き込んでいました。節々で溜息と、疲れたという一言を欠かしませんでした。

私と彼を引き合わせた友人に、小説を書きに旅に行っているんだと報告をしたそうなので、その友人経由で彼の小説を読めることを楽しみにしています。友人は最近大切な女性が出来たので、私と二人で飲みに行ったり遊んだりできないんだと言っていたので、読める確率は三割弱でしょうか。あまり期待をすると大いに落ち込んで手をつけられなくなるので、大っぴらに期待はしないと口先では言っておきます。

雨音に耳をすませて、陽射しが似合わない彼の睫毛と、大嫌いなミモザの黄色を思い浮かべては、報われない愚かな自分に酔いしれています。ミモザの花言葉は友情だと彼には言いましたが、真実の密やかな愛という言葉もあるのです。

ミモザ

ミモザ

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-02-14

Copyrighted
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