純愛トリップ

純愛トリップ

larahana

『せつなる恋の心は尊き神のごとし。』   樋口一葉

              



 愛がさめて、砂漠に取り残された人々
 渇く心を潤す術を教えて
 昔と今、変わらないのは淋しさだけ。

 夢を見ていた、儚い夢を
 色にあふれ、光にあふれた
 あの夜の夢は、だれが奪ったのだろう?

 心が囁く声を聞いて、耳をすまして。
 本当の愛はどこにあるのか、
 本当の愛は誰にあげるのか。


 「…恋は罪悪かい?」
彼は挑戦的な眼差しを投げて寄越すと、静かに口先に挟んだ煙草に火を付けた。ぼくは彼の強気な態度とは裏腹に、繊細な指先が微かに震えたのを見落とさなかった。

「罪悪だ。恋は、確かに、罪悪だ。」
噛み締めるように呟くと、彼はどす黒い煙を吐きだした。ぼくは渦を巻く煙をうっとりと見つめていた。煙が、目に沁みる。だがぼくは目を閉じなかった。涙でぼやけた視界に映る彼の姿を脳裏に刻み込むので必死だった。
「罪悪に救いはないのかい?」
彼は閉じていた眼をゆっくりと見開いた。
初めて彼の瞳のなかに、ぼくの姿を認めた。
「…救い?君は大した夢想家だな。」
侮蔑が籠った言い方に、内心ほくそ笑む。
「救いなんかあるものか。あるとしたら、地獄のような苦しみだ。自分の意思とは無関係に、すべてを奪われる感覚。しかもそれを喜んでいる自分がどこかにいるものだから、たちが悪いったらない。」
「…ふふふ。あははははっ!」
気がふれたように笑い出したぼくを、怪訝な表情の彼が覗き込む。
「あーあ、くだらない。生涯で一度しか真剣に恋をしたことがないと決めつけているから、それに縛られているだけの話だ。自らが造り出した呪縛に解き放たれずに、ただただもがき苦しんでいる…。滑稽以外の何物でもない。」
彼の眼の奥に、傷ついた光がかすかに走ったのを、ぼくは見逃さなかった。
「…さっきと打って変わって、随分な態度だな。」
「きみを慰めることはたやすい。きみに同情して、理解を示せばきみの傷は多少和らぐだろう。だがそんな騙し合いに何の意味もない。自分を救うヒントをあげよう。簡単な話だ。きみの神様に、きみの愛を殺してもらえばいい。自分の心を奪われて苦しんでいるのなら、奪い返せばいい。」

ぼくは天井から無造作に吊るされ、ゆらゆらと風に揺れながら無限のループを描く紙の人形をじっと見つめた。
「人生は短い。幻想に囚われている間に年をとっていく。かけがいのない人生を退屈な連中の話に聴き入ったり、見込みのない欠点を何とか良くしようとしたり、手に入らなかった恋に身を焦がしたり、無知俗悪な人間どもに自分の命を投げ出したりして無駄に費やしてはだめだ。こういう人生の浪費が現代では病的にも目的とされ、偽りも甚だしいが理想となっている。きみがしなければいけないことは、自分自身を生きることだ。たえず新しい感覚を探し求めること。なにも恐れることはない…自分の中から生まれでる感情を生き切ること。それこそが、幸せへの近道だ。」

彼は何か言おうとして口を開いた瞬間、煙草の灰がジリッと音を立てて床を焦がした。その焦げた匂いと共に、ぼくは現実に引き戻された。
彼の姿は消えていた。代わりに、鏡のなかの、憔悴しきったぼく自身と目があった。
ぼくは、彼に微笑みかた。
わかっているよ、友よ。
ぼくらはあまりにも、遠くに来てしまった。
きみは引き返すのには遅すぎると言いたいのだろう。重ねてしまった時間は取り戻せないから。今さら、自分に沁みついてしまった習慣や考え方を変えるのは不可能だと言いたいのだろう。
そうかもしれない。…そうかもしれない。
それでも、ぼくは信じたいと思ってしまうんだ。 
純粋だったころの輝きを。あの頃、未来は無限に輝いていた。世界はすべてぼくらのものだと信じて疑わなかった、あの頃。
望めば何でも手に入ったあの頃。何を夢見ても許されたあの頃。
何がこうも変わってしまったのか。時が僕らを変えてしまったのか。僕ら自身が変わってしまったのか。
今の僕にはもう何が嘘で、何が真実かわからない。自分の感じているはずのこの痛みでさえも、嘘かも知れないと思うときがある。
かみ合わない歯車のように、少しずつ、少しずつ何かがずれていく。
ふと後ろを振り返ると、自分の夢見ていた道と大きくずれてしまったことに気付く。
世界から大きく取り残される感覚。
…こわい、よ。…さびしい、よ。
ここはひどく寒い。ひどく暗くて、何も見えない…。

きみは覚えているだろうか?何年か前、きみは夢をあきらめて、もぬけの殻になってしまった大人たちを指さしながら、こんな風になるくらいなら死んだ方がましだ、と言い放ったことを。今のぼくは、きみが心底軽蔑していた大人たちの一人になろうとしている。…いや、正確に言えば、なろうとしていた。
自分を押し殺し、他人の人生を生きようと、躍起になっていた。
満員電車に揺られ、暇つぶしにケータイをいじくる毎日。
つまらない会社の先輩や上司の飲み会に付き合わされて、愚痴を聞かされる日々。
残業し終って家に帰れても、待ち受けるのは何の温かみもない小さな部屋。
添加物だらけのコンビニ弁当をあさり、いつの間にか眠りにつく。
何も感じなかった。感じたら傷つくから。
何も考えなかった。考えたら生きていけないから。
少しずつ、少しずつ、腐っていくようだった。
だがあいにく、君も良く知っているように、ぼくは演技が下手だ。
ぼくのような不器用な人間は、嘘がうまくつけない。最初はうまく周囲や自分を騙せても、
やがて化けの皮がはがれる。
ぼくは自分に嘘をつけなくなった結果、いまここにいる。

「佐藤光一さん、呼ばれていますよ。」
「…はい。」

僕はゆっくりと立ち上がると、喫煙室の隅っこにあった灰皿に煙草を擦り付けた。
「さーて、と。」
俳優のためのオーデション会場へとすたすたと足を運ぶぼくの心のなかは、予想外に穏やかだ。
おやって顔をしているね?演技は下手くそだと言っていたはずじゃないかって?ふふふっ。
さあ、どうだろう。
嘘も本気でついたら真実に近付くように、僕の演技も本気でやれば、本物になるかもしれないだろう?
誰にも本当のことなんかわかりはしないんだから。
自分のことさえわからないから、みんな平気で心も、神様も、殺せるんだ。

 僕の長年の夢はダンサーになることだった。小さい頃に親に連れて行かれたミュージカル、ウェストサイドストーリーを観て以来、ぼくはミュージカルの虜になった。当時の小さなぼくには俳優たちが歌い上げる英語もスペイン語もわからなかったが、彼らの熱気、生命力にあふれた力強いダンス、宙を舞う色とりどりのスカートには胸が高鳴ったものだ。ぼくはいつか、そう、いつか、その世界の住人の一人になることを自然と夢見るようになった。
だが夢見た世界はぼくをそう簡単に手招きはしてくれなかった。
小学校のときは塾に通い、中学校、高校では部活でサッカーをして、親に望まれるような、周りの連中に望まれるような生き方しかしてこなかった。
「かっこいい男の子はダンスなんて女々しいものはしないわ!サッカーとか、バスケとか、イケているスポーツをするものよ。」
「ダンスなんて女々しい男がやるものだ。男ならもっと野球とか、サッカーとか、バスケとかをするもんだろ。」そんな無言のルールに乗っ取って、ぼくはさほど好きでもないサッカーをやっていた。親にダンス・スクールに通わせてほしいとお願いしたこともあったが、まともに相手にしてもらえなかった。ならばと、学校に禁止されていたバイトを密かに始め、スクール用のお金を貯めようとした時期もあったが、呆気なく学校にバレてしまい、大目玉を食らった。特にぼくの父は保守的な考え方の持ち主で、ダンスなんかおかまのやることだと断固して反対された。
「ダンスを反対されて代わりにサッカーをやれるくらいなら、さほどダンスは好きではないのでは?」と思われるかもしれないが、ぼくは赤々とした夕日の反射する平たいグランドでボールを蹴るたびに、燃えるような足踏みが巨大な鼓動のようにぼくを遠い世界に誘おうとしている、そんな感覚に幾度もとらわれたものだ。
 結局ぼくが本格的にダンスをはじめたのは大学に入ってからになった。
人の目からの解放。大学においてダンスはおかまのやるスポーツではなく、れっきとした芸術だった。サッカーでインターハイ出場し、優勝を決めたぼくがよりによってダンスを選ぶとは周りの連中はみじんも思っていなかったみたいで、昔のぼくを知る人には最初はいぶかしげられたり、からかわれたりもした。父に至ってはぼくを本気でおかまになったと思ったらしいが、後に家に彼女を食事に連れて行ってからは一切ダンスに関する話題は我が家では出なくなった。こうして待望のレッスンを始めたぼくは、毎日が有頂天だった。最初でこそ右も左もわからなかったが、いったんリズム感をつかむと、ぼくは水を得た魚の様に、みるみると周りの連中に差を付けて行った。

 ダンスは、自分からの解放だ。

 行きたくなかった塾、大嫌いだった先生、幼稚な同級生たち、飲み込んだ文句や愚痴、そういった鬱憤の積み重ねがいつの間にかこころの垢となり、ぼくの魂を重くしていた。そんなこびり付いた垢を洗い流し、自由の羽を与えてくれるのがまさしくダンスだった。
 ぼくが思うに、人間はみんな見えない殻に何重にも包まれて生まれてくる。
ひとは、その殻を一枚ずつ破りながら、内向きの世界から外向きの世界へと成長して行く。さしずめ「蛹」が「蝶」へと脱皮するみたいに。ただ、殻を破るタイミングやきっかけはひとそれぞれで、破り方によってはトラウマや不完全な変態になってしまったりする。完全に孵化しきれずに、歪な「殻」を抱える連中は実に多い。中途半端な皮を被ったマガイモノ。つい最近まで僕はまさしくソレだった。そんな僕を変身させてくれたのが、恋、だ。
 恋は、確かに、罪悪だ。
なぜなら人のこころの奥深くまで掌握する力があるからだ。ひとたびこころを握られた人間は、どんなに自立している強靭な精神の持ち主でも、一瞬にしてか弱い存在に変わってしまったりもする。恋は場合によっては生きる喜びをもたらし、場合によっては死にも等しい孤独を、より一層感じることとなる。恋をすると、知り得なかった自分と出会うことにもなる。相手を鏡として、無視していた感情、隠された自分自身がよくも悪くも顔を映し出す。そう言うとき、ぼくは思い知る。自分が知っている自分、他人が知っている自分なんて実に「自分」のごく一部でしかないということを。ダンスが自分の殻の解放であるとすれば、ぼくにとって恋はぼくが何者かを真正面から問いただしてくる、まさしく「鏡」だった。
一見相反する両者は、実はとても似通っていて、両者とも理性という理性を脅かす、野蛮な存在だ。

 ぼくは今から自分の人生を変えたそんな「恋」について、話したいと思う。

…いいね、その眼。信じられない、くだらない、って言っている。
こんな若造の戯言に付き合っている暇はないって?…本当は真実を知るのが怖いんじゃないのかい?
自分が捨ててきたもの、純粋に、ひたむきに誰かの愛を信じ、誰かを愛し、傷ついた過去を直視したくないだけなんだろう?自分の純粋さを愚かさに託つけて、今一度目の当たりにするのが嫌なんだろう?
…ってあれ?ここまで言ってもぼくにさよならしないなんて、珍しいね、きみ。
それなら、これからきみにだけにぼくの物語を話そう。
ぼくの人生を変えた恋。ぼく自身を変えた、物語。
これはぼくの恋の歌。
…若き日のぼくに贈る、鎮魂歌。

 ***

 ぼくが初めて恋に落ちたのは、幼稚園の時の愛美ちゃんでもなければ、中学の時の理沙ちゃんでもなく、高校の時の美紀ちゃんでもない。
よく初恋は甘くほろ苦いなんて言うけれど、ぼくの初恋はどす黒い、背徳の味がした。
相手は大学の教授の奥さん。…そう、いわゆる不倫ってやつだ。奥さんに出会った当時、僕には大学のサークルで出会って付き合っていた可愛い彼女がいた。目がクリクリしていて、長い黒髪ストレートで、笑った時に頬にできる笑窪がたまらなくキュートだった。大学構内でもちょっとした有名人の彼女を当時の僕は数か月がかりで口説き落とした。そんなみんがうらやましがるような美人と付き合えて、ぼくは鼻高々だった。ぼくらの関係は順調そのものだった。少なくとも、僕はそう信じていた。ぼくは彼女に対する気持ちを恋だと信じて疑わなかったし、ゆくゆくは彼女と結婚する日が来るのかな、となんとなく思ったりもした。

 奥さんに出会うまでは。

今でもあの日のことを昨日のことのように鮮明に覚えている。梅雨入りしたばかりの、じめじめとした六月の
夕暮れだった。前日のサークルの飲み会で真夜中過ぎまでグデングデンに酔っぱらったぼくは、ゼミの開始時間を寝過してしまった。慌てて重たい身体と頭を引きずりながら、寮から徒歩10分の道をザアザアと激しく雨が降る中、傘も差さずに駆け抜けた。
「…あーあ、せっかく新しく買ったのに…。」
お気に入りのカラフルなポールスミスのスカーフは、雨でぐしゃぐしゃになってしまっていた。
恐る恐る両手でそれを絞りながら忍び足でゼミ室に飛び込んだものの、部屋は真っ暗だった。
「…?」
あれっ?部屋を間違えたっけ?もしや今日は休みか?
ぽたぽたと、冷えた水滴の音だけが虚しくこだまする。
そんな暗闇の中で、蠢く人の気配がした。
どきりとして、慌てて部屋のスイッチを押した。

彼女が、踊っていた。

暗闇に咲く、黒い薔薇。
闇の様に黒いワンピースから突き出した、見事なまでに引き締まった、艶めかしい乳白色の足。
その先っぽの、ちょこん、と真っ赤に染まった、爪。

息ができなかった。

彼女は、発着直前のプロペラのように何度も何度もくるくると回ったかと思うと、生まれたての小鹿が地面を蹴るように、トン、トン、と軽やかに跳ねる。
奥さんは、美しかった。
それはどの人も認めるような真っ直ぐな美しさではなかった。なんというか、彼女が存在している空間だけが歪に切り取られたかのように、独特の光を放っているのだ。
ぼくの直情的なスタイルとは明らかに一線を画していた。
ぼくはこの女を自分のものにしなかったら一生後悔するぞと、ふと、思った。
「…あら?もしかしてあなたが光一くん?」
彼女の唇から自分の名前が零れ落ちただけで、胸が高鳴った。想像していたよりも低い声だったが、若い僕に恋の呪文をかけるのには十分だった。
彼女は狙いを定めた豹の如く、そろり、そろりと、ゆっくりとした足取りで僕に近付くと、小さな女の子がするように首を傾げた。
「…君、わたしのこと、好きでしょう?」
「え」
初対面の女から発せられた、思ってもいなかった言葉に酷く動揺すると同時に、目眩がした。その場にひれ伏して、彼女の足に触れたくなった。ただただ、気が狂うほどに、さわりたい。

彼女にふれられるのなら、何だってするよ、神様。

彼女はくすり、といたずらっぽい小さな笑みを零した。
「光一くんのことは旦那からよく聞いているわ。きみ、昨年のダンス大会で優勝したんですって?旦那が自分のゼミに優秀な子がいるって、いつも自慢してくるの。大学からダンスをはじめた人間には思えないわ。ねぇ、
よかったら、わたしこの近くでダンス教室開いているんだけど、光一君も参加してみない?」
ああ、これは罠だ。直観的にそう思ったものの、理性を凌駕する想いには勝てなかった。自分の立場とか、相手の状況とか、そんなものを考える余裕なんて少なくともその時のぼくには、一切、なかった。
「…参加、させて下さい。」
彼女はにこりと笑うと、さりげなくぼくの指先に触れた。
「いい子。」
この瞬間から、ぼくは彼女の奴隷となった。
男って生き物はとことん単純で馬鹿だと思う。
男のぼくが言うのだから間違いない。

次の週の火曜日、ぼくは言われるがまま彼女のダンス教室に参加した。彼女のダンス教室はどうやらつぶれてしまった幼稚園を改装したような、小さな建物の一角にあった。丸文字で「ダンス教室」と手書きで書かれてある、いかにも彼女らしい雰囲気の紫色の看板が古びた門の前に立てかけてあった。恐る恐る正面玄関から入ると、色とりどりの花がまるで理科室の実験道具のようにユニークに飾られていて、ひっそりとしつつも、懐かしいような不思議な空間が広がっていた。
 ぼくはじっくりとダンス教室のメンバー達を観察した。ダンス教室に来ている子達は、どうやらぼくのことを知らないみたいだった。近くにある別の大学から来た者や、なかには高校生や社会人らしき人もちらほらと混じっていた。これからプロのダンサーを目指す者もいれば、昔捨てたはずのダンスを忘れることができず、ほそぼそと再開したひともいっしょくたに踊っていた。過去を見つめる目。未来を見つめる目。いろいろな視線が行き交うなかで、唯一先生とぼくの目だけは、「いま」だけを見つめていた。
 「じゃあ今からウオーミング・アップをしましょう。曲を流すから、みんな好きに踊ってね。」彼女はかすれた声でささやく様に言うと、古びた音楽デッキのボタンをそっと押した。
彼女の焼けるような視線を終始肌に感じながらも、ぼくはありったけの想いで踊り狂った。
終わった頃には、ぼくはへろへろで、汗が滝のように額やこめかみを伝った。かつてこんなに必死に踊ったことがあっただろうか?彼女はふらふらになって壁に寄りかかるぼくの姿を見つめながら、満足そうに微笑んでいた。
レッスンが終わり、彼女がすべての生徒を見送った後を見計らって、ぼくは彼女に話しかけた。
「ぼくとふたりで会ってくれませんか?」
唐突にしても程があると、いまのぼくなら冷静に当時の自分を振り返れる。
彼女は余裕のないぼくをにっこりと笑って、やさしく受け止めてくれた。
「いいわよ。じゃあ来週の授業の後に逢いましょう。」
次の週の授業後、ぼくは彼女を抱いた。彼女の目の前で我を忘れて踊ったときのように、初めて彼女を抱いたときのぼくは無我夢中で、どんなに頑張って思い出そうとしても、そのときの記憶がひどくおぼろげだ。
とにかくひどくじめついた日だったことだけはやけによく覚えている。

ぼくは毎週彼女と密会を重ねた。
バラ色の僕の胸の内とはうらはらに、ぼくらの関係は曖昧そのもの、淀んだグレーそのものだった。
ただ、そんな曖昧な関係だからと言っても、彼女がぼくと寝てくれるという行為だけが、なぜがひどくぼくを安心させた。今思えば愚かな話だ。相手が自分と寝るからといって、相手のこころが手に入った証明になど、なりはしないのに。
 毎週の様に逢瀬を重ねるうちに、ぼくはある日彼女のからだに紫の痣があるのを見つけた。
「これは…?」
彼女の滑らかな肌を眺めているのが好きなぼくが、彼女の体に浮かび上がる不自然な痣を見落とすはずがなかった。ぼくがその痣をそっと指先でなぞると、彼女は目に見えて身震いをした後に、しくしくと泣き始めた。静かに泣いている彼女を見て、何かしら言えない事情があるのだろうと察した。無理に問い詰めて、彼女のこころにいらない傷までつくりたくなかった。ぼくはいたたまれなくって、彼女を背後から抱き締めた。
「…光一、君?」
「大丈夫です。ぼくがあなたを守りますから…。ぼくなら、貴女にこんな哀しい想いをさせません。」
そう言って、彼女のひんやりとした小さな手を握った。
刻まれた痣の数々は、全て服を着たら隠れてしまう場所にあった。
明らかに夫から暴力を受けている証拠以外の何物でもなかった。
ぼくは未だかつて自分のなかには見いだしたことのないどす黒い感情が、自分のこころの奥底からマグマの様にふつふつと煮えたぎってくるのを実感した。それはまぎれもなく、愛に裏打ちされた怒りや嫉妬の感情だった。
そう、皮肉にもぼくは生まれて初めて本当にひとを愛したのだ。いま思えば、どうしようもなく、愚かな片思いでしかなかったが、当時のぼくは幸せだった。愛しているひとに、愛してもらえていると純粋に信じていたのだから。だが、そんな幸せながらも不純な片思いの期間は、永遠に続くわけがなかった。
 それは普通の日の普通の夕方にやってきた。
それまで夫が出張で不在の日を狙って、度々彼女の家を訪ねたことがあった。その日も、いつもの様に彼女の家まで行くと、どうしたことか数時間も立たないうちに帰ってくるはずのない旦那が突然家に現れたのだ。
決定的な現場を押さえられて、言い訳のしようがなかった。その後の展開は今時の昼ドラにもないような、いかにもありがちな不倫の修羅場そのものだった。
「お前!よくも私の家内を!」
 教授はぼくをベッドから引きずりだすと、物凄い勢いで殴り掛かってきた。
ヤバい。このままだと殺される。
重々しく降り注ぐ拳からの致命的な痛手をどうにか避ける最中、ぼくはすがるような目で彼女をみた。すると、どうしたことか。彼女は泣きながら旦那にすり寄ったかと思えば、信じられないような言葉を吐き出した。
「わたし、この子に脅されて、仕方なく付き合っていたの。あなた、ゆるしてちょうだい…。」
彼女はその大きな瞳に涙を浮かべて、きれいにカーブしたまつげをかすかに震わせた。彼女の射るような瞳には、僕など愛してないとはっきりと刻まれていた。ひどくショックだった。毎夜毎夜ぼくに愛を囁いていた彼女の口から、自分を裏切る言葉が出てくるとは夢にも思っていなかった。僕は結局、女という生き物を、愛するひとのありの姿を、まったくもって理解していなかったのだ。
 教授はぼくを殴るだけ殴ると、家から追い出した。今でもよく覚えている。その夜は満月がやたらきれいだった。身体の節々が痛み、鼻血が止まらなかった。あばら骨も折れたのか、息をするたびに物凄い激痛が身体のなかを走り抜けた。本当なら泣いてしまう程の痛みだと思うが、不思議と涙一滴さえも出なかった。それよりも、ぼくのこころが泣いていた。
ぼくの純粋な愛を汚した女が憎かった。
ぼくはその日から女という女を憎むようになった。自分がしたことを棚に上げて、女は裏切る生き物だと、信じるようになった。

 「大丈夫ですか?」

 鼻を押さえながら顔をあげると、目の前には小柄な女の子が立っていた。茶色に染めた長い髪をシュシュでひとくくりにし、横に垂らしている。ぼやけた印象の顔が、じょじょに輪郭を露にしていく。くっきりした目鼻立ちに、なめらかそうな乳白色の肌。ぽってりとした、ほんのり桃色のくちびる。一見幼そうな子だと思ったが、漆黒の、なにかを秘めていそうな瞳だけは、大人の目だった。
 (なんなんだ、この馬鹿は。)
そいつに会ったのは仕事帰りの電車のなかだった。上司の飲みに夜遅くまで付き合わされたぼくはいつものごとく、どうにか終電に飛び乗ったものの、突然大量の鼻血が出た。あまりにも勢い良く次から次へと出てくるものだから、くらっと眩暈を起こしてしゃがみこんだところに、彼女がふいに現れた。
 (頼むからほっておいてくれよぉ…。)
彼女がぼくに話しかけたことで、何人かの無粋な好奇心を含んだ視線が瞬く間にぼくらに集まった。こういった形で公衆の面前で注目を浴びるのが好きではないぼくは、少しでも視線を逸らしたくて内心イラッとしながらも、その場を立ち去るために勢いよく立ち上がると、抑えていた指の間からボタボタと血が零れ落ちた。
「きゃあ、大変!こ、これで押さえてください!」
 ぼくは目の前に差し出された花柄でフリルの、いかにも女の子な(頭の弱そうな女が持っていそうな)ハンカチを受け取るしかなかった。
「…ありがとう。」
いかにも形だけで嫌々言っているのに、彼女は何を勘違いしたのか、うれしそうに手を左右に小さく振った。
「当然ですよ!あ、なんでしたらそのハンカチあげますから!」
「え…。」(こんなハンカチもらっても使えねーし。)
「いいんです!遠慮しないでください!」
(遠慮なんかしてねーし!)
内心毒付いていると、あっという間に自宅の最寄り駅に着いた。
「へえ、同じ駅って奇遇ですね。」
ぼくより少し遅れて電車からよたよたと大量の荷物を抱えた彼女が舞い降りる。彼女のどことなく不安定な足取りに目配りしながらも、ぼくは鞄に慎重に定期をしまった。
「いいえ?私はまだ先の駅ですよ?」
にこにこと微笑む彼女の涼しい顔に、純粋に驚きを隠せなかった。
「えっ?じゃあなんで降りたのですか?」
「だって血、いまだに止まらないじゃないですか…。心配で…。家までお送りしますよ。」
(???)
普通他人の鼻血のためだけに、家まで送り届けるか?と不審に思いながらも、今更嫌とも言えず、ぼくは彼女がついてくることを許した。暗い道をいっしょに歩きながら、時折、電柱の明かりで照らし出される彼女の横顔をちらっと盗み見た。

彼女の横顔は凛としていた。

ぼくを家に送り届けるのは自分の使命なんだ、みたいな強い意志を感じさせる瞳だった。そうこうしているうちにあっという間に自宅に着いてしまった。ぼくはが家に上がると、立ち尽くす彼女にちょいちょいと手招きをした。すると彼女は、恐る恐る狭い玄関のなかに少し入り、ぺこりと小さなお辞儀をした。
「止まったみたいで良かったです。では私はこれで…。」
腕を伸ばし、彼女の背後の扉をバタンと閉じた。
「あんた本気で言っているの?のこのこと男の家に上がりこんで、このまま何もなしで帰るつもり?」
「え…。」
目を皿の様にまんまるにし、あまりにも呆けた面の彼女を見ていたら、からかっているつもりが急に何もかもがどうでもよくなった。

 疑うことを知らない、汚れなき瞳。その瞳は、ひどく傷付けた昔の彼女を彷彿とさせた。

 例の事件の後、僕と奥さんの間に不適切な関係があったと言う噂は瞬く間に広がり、ぼくは彼女に当然のように振られた。今でもよく覚えている。殴られた数日後に喫茶店に呼び出され、ぼくはいたたまれない気持ちで重い足を引きずる様にして、彼女に指定された場所に向かった。よくテスト前の避難所として使っていたこじんまりしたイタリアン・カフェの、陰になった一角に果たして彼女は腰掛けていた。
ぼくが手前の席に座るとほぼ同時に、彼女はアイポッドのイヤホンを耳からそっと外した。
「光一。」
名前を呼ばれるだけで、ドズグロイ罪悪感が胸をぎゅっと締め上げた。
「あの噂、本当なの?」
沈黙。
一秒、二秒、三秒…。
答えはおのずと出ていた。
「…、どうして…?」
嗚咽交じりに呟いた彼女の握りこぶしは、悪い冗談かと思うくらい白く震えていた。
ひどく申し訳なかったが、言い訳はしたくなかった。いや、できなかった。きっと何を言ったところで彼女を惨めにさせるだけだろう。
彼女は静かに涙を流しながら、真っ向からぼくを睨み付けた。
皮肉なことに、長年彼女といっしょにいたのにも関わらず、彼女を一番きれいだと感じた瞬間だった。本当に自分はとことん最低だ。ぼくは初めて自分の失った物を目の当たりにして、愕然とした。
ぼくの激しい奥さんへの想いはその日、死んだ。それと同時に、ダンスの情熱も消え失せた。仕事も、恋も、友人も、正直どうでもよくなった。踊り狂うあの女の影が存在しない場所へ、とにかく逃げたかった。
なにもかも、どうでもよかった。
世界が一瞬にして、暗闇と化した。
ぼくは一人ぼっちだった。
ひどく、孤独だった…。

 「ほら、ココア。」

 僕が差し出したマグカップを受け取ると、彼女はソファーの真横の丸いクッションに腰を下ろした。話をしている内に、実は歳が近いことや、地元が近いことが判明し、彼女の表情が一段とやわらかくなった。彼女はココアが並々と注がれたマグカップを両手で包むように持ちながら、体を前後に揺らした。すると、とりとめもなく、好きでたまらないとか言う男の話を始めた。彼と初めて行ったデートが水族館だったこと。彼がそこでソフトクリームをまるごと落としてしまい、思わず二人で笑ってしまったこと。初めてキスをした時のこと。初めて手をつないだ時のこと。初めて、はじめて、ハジメテ…。
何事かと思った。はっきり言って、他人ののろけ話ほどウザいものはない。なんでこんな話になってしまったんだろう、と思いながらも床の一点を見つめながら辛抱強く聞いていたら、突然話の雲行きが怪しくなり、部屋が静まり返ったことに気付いた。
ふと落としていた視線をあげると、彼女の瞳に涙が溢れて、今にも零れ落ちそうだった。
「もう、彼と、会えないの…。」
ぽつりと呟くと、堰を切ったように涙がぽたぽたと床を濡らした。
(うっわ…これは…もしや…?)
やり逃げされたパターン、か?だとしたら最悪だ。見知らぬどっかの男のとばっちりなんぞ、受けたくない。
ぼくは背中を丸めてさめざめと泣く彼女の顔を見ながら、ひどく居た堪れなくなった。
背中をやさしくさすってあげたいとも思ったが、一方で弱った女の子の心に付け込むような軽薄な輩と思われたくなかった。
床に置かれて冷めてしまったココアのカップをそっと拾い上げると、彼女に背を向け、シンクに向かった。蛇口を捻ると、水が勢いよく流れ出す。水の勢いに押されて、言葉がぽつりとこぼれた。
「そんな男、きっとろくなやつじゃない。さっさと忘れて次に行け、次。」
彼女は一瞬沈黙した後、叫んだ。
「あなたに彼の何がわかるって言うの!彼はそんな人じゃない!」
澄んだ彼女の瞳には、その男を信じ切っています!と文字通り書かれてあって、親切心から忠告したぼくはひどく萎えた。
「…はあ~。じゃあ好きにしたら?やり放題されるなりなんなり、どうぞご勝手に。」
「さ、さいってー!」
彼女は突然立ち上がると、そばにあったテッシュ箱を投げつけてきた。ぼくは持ち前の運動神経でひょいひょいと攻撃をかわすと、ふん、と舌を突き出してやった。彼女は悔しそうに唇を噛み締めると、ソファーに置いてあったバッグを掴み、勢いよく玄関を飛び出した。
ぼくはあけっぱなしの玄関をしばらく呆然と見つめていた。まさかおっとりとした第一印象の彼女が、実はここまで激しい女だったとは思ってもいなかった。
(…まったく、いい迷惑だぜ。)
ため息をつきながら玄関を閉めようと立ち上がり、ドアノブに手をかけた瞬間、ひんやりとした空気と共に、細雪が降り始めたことに気付いた。
(ああ、そう言えば今日、都心で初雪が降るってニュースで言っていたな…。)
ふわり、ふわりと舞う雪を見ていたら、先ほど出て行った彼女の泣き顔が脳裏をよぎった。
(…。まいったな…仮にも親切にしてくれたのに、ひどいことを言っちゃったな…。)
内心苦虫を噛みながら放置されたマグカップを片付けようとすると、無造作に床の上に落ちた彼女の定期を見つけた。ぼくはおもむろにしゃがんで定期を拾うと、中身を確認した。

「…美雪。」

ウツクシイ、ユキ。

そう思ったら、居ても立ってもいられなかった。ぼくは慌てて、他に手がかりはないかと定期券カバーの中身を探ったら、なかから随分前に印刷されたと思われる、折りたたまれた小さな紙切れが出てきた。
(彼女の住所かなぁ?)
紙切れに書かれた住所をグーグル検索にかけると、自宅からそう遠くない墓地が示された。
(…墓地?)
不審に思いながら、ぼくはとりあえずそこに行ってみようと、玄関にかけてあった帽子を掴み外に出た。
 真夜中過ぎとあって、道には人影ひとつ見当たらなかった。とぼとぼと積もり始めの雪を踏みしめながら、黙々と先を急いだ。いくら歩いたのかわからない。足が痺れてきたから帰ろうかと思い始めた頃にやっと、マップに示された地点付近に着いた。まだ誰にも踏まれた形跡のない初雪を一歩一歩踏みしめながら、深い墓の森へと踏み込んだ。

 「…どういうことだよ、これ。」

ぼくはお墓の前で横たわっている彼女を見つけて、小さく呟いた。舞い散る雪の下に、果赤ん坊の様に身を丸く縮こませ、健やかに眠る彼女がいた。長い間泣いていたのか、瞼がほんのり紅く腫れている。
雪が少し降り積もった華奢な肩が、月光のやさしい光をほんのり受けて、ゆっくり、ゆっくり、上下するのを見ていたら、バラバラだったパズルが一気に解けた。
「…お前、馬鹿だろう…。」
死人に恋しているなんて、馬鹿以外の何者でもない。

 急激に、彼女の愛が欲しくなった。純粋なその愛を、自分に向けてほしいと切に願ってしまった。我ながら本当に身勝手で嫌になる。でもほかの男を想う彼女の一途な輝きは、僕の凝り固まった胸底を焦がす何かがあった。それはまるで、幻のあの輝きを信じていた頃の自分を見ているような、そんなデジャ・ビュを伴った。
ただ、僕は知っていた。ここで彼女を必死に口説いて、仮に付き合えたとしても、仮に抱けたとしても、彼女のこころが僕に振り向いてはくれないだろうことを。
下手すれば、一生片思いかもしれない。
そんなの嫌だ。絶対に嫌だ。

降りしきる雪の下で、ゆっくり上下する小さな肩を貪るように見つめながら、僕は自分に誓った。どんなに時間がかかっても、彼女のこころを自分に振り向かせてみせるぞ、と。
ぼくは恐る恐る彼女に近寄ると、肩を軽く揺さぶってみた。
「みゆきちゃん。みゆきちゃん、起きて。このままだと風邪ひいちゃうよ?」
「う〜ん...。」
彼女は眠たそうに目をごしごしとこすると、小さなあくびを噛み締めた。雪を被っているとまるで真っ白な子猫だ。爪で威嚇してこないところを見ると、どうやらぼくと喧嘩をしたことをきれいさっぱり忘れてしまったらしい。実におめでたい脳内構造だ。思わず笑ってしまう。
「ほら、おぶるから背中に乗って。」
寝ぼけ眼の彼女は何の躊躇いもなくぼくに乗っかってきた。思いっきり全体重を預けられて、ふらふらっと雪の上に転び落ちそうになった。
「…少しぐらいは遠慮しろよ。」
「何よ、さっきいじめたくせに。」
「なんだ、一応記憶力はあるのか。」
「ふーんだ。」
ガキのように無邪気に頬を膨らます彼女が肩越しに見えた。いつのまにかふたりを隔てる壁が少し溶けた気がした。
ぼくは急激に彼女がどんな人間なのか、どんなことを思いながら生きてきたのか、どんな夢を描き、どんな未来を夢み、ふだん自室ではどんなことを考えながら、どんな部屋着を来ているのかとか、無性に知りたくなった。そこでとりあえず無難な質問からしてみることにした。
「ぼくはいま、普通の会社で営業として働いているんだけど、みゆきちゃんは普段どんな仕事をしているの?」
「…。」
「……。」
「…………。」
(あれ…また地雷踏んだ?)
戦々恐々としていると、彼女が耳元でくすりと笑った。
「実はね、私、山崎商事ってとこで働いていたの。ほら、あの有名な大企業。」
「そこって…(とんでもないエリート商社じゃん!)」
人は見た目や話口調から判断できないと言う教訓をしみじみと噛み締めながら、ちょっとショックを受けてしまった自分を小さい男だと内心叱責した。
「みんなが入りたがる会社で、最初は入れたのが誇らしかった時期もあったわ。入社してからは来る日も来る日も夜遅くまで、分けもわからず、ただ言われるがままにバカみたいに働いていた。本当、バカだったなぁと思う。」
 自嘲気味なため息が、彼女から漏れた。度重なるディープな発見に、どこまで踏み込んでいいのかと考えあぐねいた。
「…『過去形』ってことは、みゆきちゃんは会社を辞めた、ってことだよね?どうしてまたそんな大企業を辞めちゃったりしたの?」
突如真正面からビューッと身が凍るような風が吹いて、美雪が身震いをしたのを感じた。
「…ある日ふと、そのままそこにいたら一生同じことの繰り返しになっちゃう、って思ったんだ。そして、私はそんな人生を望んでいなかった。」
「…うん。」
「いま辞めなかったら、いつ辞めるんだ?って。ある日頭の中で声がして。もう、今しかない、ってその瞬間思ったんだ。」
「うん。」
「ふふっ、笑っちゃうでしょう?みんな私が辞めるなんてみじんも思ってもいなかったみたいで、周囲には散々引き止められたわ。親に至ってはもったいないと泣かれたけど、一度決めたら周りなんて関係ない。ふふふっ、今思い出しても笑いが込み上げてくるわ…実は辞表出してすぐに、ああ、自由ってこんなにすばらしかったのか!って思ったわ。自分で自分の人生を生きる自由!きっと私には、元々サラリーマンって働き方が合っていなかったのね。」
「でもさ、仮にもその会社はみゆきちゃん自身が選んだ場所だろう?」
「…そう、たしかに私が選んだ。自分を信じる勇気がなくて、どうせ働くなら給料がよくて、親も安心させられるようなところがいい、って。いかにもありがちな理由で、安易に自分の人生の主導権を周りに委ねてしまったの。そしてそれでいいんだって、自分を納得させようとやきもきしていた。でもね、ある日わかっちゃったんだ。人生には周囲に合わせた生き方なんかよりも、ずっと大切なものがいーっぱいあって。本当に人生を豊かに生きるためには、最低限のお金さへあれば、充分だって…。すごく陳腐に聞こえるかもしれないけど、結局本当に大事なのは、愛するひとたちとどのくらい愛を分かち合えたか、どれくらい自分らしく生きられたのか、たったそれだけなんよ。」
「…うん。」
「自分に正直に生きるって、実はすっごく難しいことなんだって、そのとき初めてわかった。自分で自分の責任を全て引き受けることだから。それに、たとえ全世界が敵になっても、自分を信じ続ける強さも試される。でもね、その勝負に勝ってからが、本当の自分の人生の始まりなんだと思う。」

 本当の自分の人生。
本当の?そんなもの…本当にあるのか?
人生に、噓とか、本物とか、あるのか?
いったい誰がそんなことを定義するんだ?

一瞬頭のなかで様々な疑問がくるくると駆け巡った。

 「!」

ああ、そうか。
自分で定義、するのか。
自分で自分の人生を自由に定義出来るからこそ、限りなく、本当に自分の人生になるんだ。

 その時、初めて自分がいかに自分をがんじがらめにしながら生きてきたのかを痛感した。
見えない鎖を生み出したのは他でもない自分で。つまらない上司と同じ環境で生きるのを容認したのも自分で。奥さんがぼくを傷つけることを許したのも、他でもないぼく自身だったと言うことに気付いた。

背中越しにかんじる、生きた重さが愛おしくなった。

「…その後、みゆきちゃんは、どんな人生を歩み始めたの?」
真白の吐息が空気をゆらした。
「いまね、バイトしながら小学校の先生を目指しているの。国をつくるのは人だから。世界をつくるのは、ひとだから。ひとをつくるのは、教育だから。この国の教育は、因数分解や、世界大戦や、ブラームスが誰かは教えてくれるかもしれない。でも、自分を愛すると言うことを、誰も教えてくれない。わたしはね、それが間違っていることだと証明したいの。」
「…証明?」
「そう、自分の力で以て、人生は捨てたものじゃない、って証明したいの。そのためには、自分が生きているだけでもいかに素晴らしい存在かを、多くの人が知らないといけないと思うの。人間は、とことん自由に生きるべきだと思うわ。自分を愛することを知らなければ、ひとを愛することが何かわからない。ひとを愛することがわからなければ、自分の人生をどう愛したらいいかもわからない。あたしは自分が先生になったくらいでひとを救えるとは思わないけど…自分自身を愛せるひとが少しずつ増えれば、みんながみんなすぐに幸せにはなれなくても、世界は少しずつよくなると、信じている。」
一歩間違えれば綺麗ごとの理想論にしか聞こえないその言葉を、あっけらかんと言い切った彼女の横顔があまりにも凛々しくて、僕はとっさに返せる言葉が思いつかなかった。
「そっか。」
「うん。」
「よういち君の夢は?」
「ダンサーになるのが、夢だった。」
「なんでやめちゃったの?」
「それは…。僕が臆病だったから。」
「ふーん…。つまらない大人のようなことを言うのね。」
何の飾り気もない、正直すぎる言葉はそのまま深く僕の胸底に突き刺さった。
真実はいつだって、痛いものだ。
長年目を逸らし続けてきたその事実を真正面に突き付けられ、ほの暗いぬかるみに意識が引きずり込まれそうになったときに、ふいに背後から腕がのびてきた。
「まだだよ。」
小さな手のひらに視界を遮られ、僕は歩くのをやめた。
「なにが?」
「まだ間に合う。よういち君、どんなにつまらない大人でも、夢を見ることは自由なんだよ?」
その瞬間、喉の奥につかえていた魚の骨のようなものが、ぽろりと落ちたような気がした。
それは僕を救う言葉だった。
もう間に合わない、もう遅い。自分は歳をとり過ぎている。周りからも白い目で見られるのに違いない…。
そういった無意識の足枷を自分に課したのは他でもない自分自身だと、思い知った。いつだって自分の限界を決めつけているには自分なのだ。

僕は、長い間誰かに背中を押されるのを待っていたんだと、ふと、思った。

なんなんだ、こいつは、と内心悪態をつきながらも、熱いものが胸を焦がすのを感じた。
こんなきれいなものが、まだこの世に存在していたなんて。

きみのためなら。

君のためなら、どんなに絶望的な状況でも、ぼくは立ち上がれる。
君のためなら、ぼくは躍り続けることができる。
君は、こんな世の中でも捨てたものじゃないって、思わせてくれる。
純粋な魂。
どんなに裏切られ、傷ついても、決して黒く染まらない。染まることが出来ない、絶対的な、輝き。
ながい、ながい間、君を待っていた。
今度こそ、信じたい。信じさせて。
きみを愛することができたら、きっとぼくは自分を愛せる。自分のどろどろした感情をも丸ごと、ぼくはぼくを許せそうな気がする。

だから、どうか。
どうか、こっちを向いてほしい。ぼくに微笑んで欲しい。
きみのその穏やかな眼差しが、ぼくを救う。
この世のどんな闇も怖くない。
きみがそばに居てくれるだけで、ただ、それだけで、夜が朝へ変わる。
世界が、輝く。

曲がりくねった愛なんていらない。
ゆがんだ愛なんて、いらない。
欲望まみれの愛なんて、いらない。
欲しいのは真っすぐな愛。
なにも飾らない、愛。
純粋な、愛。

その愛で。
信じさせて。
人間を、愛したい。
きみを、愛したい。
君の愛がぼくを強くしてくれる。

愛している。
君に出会えたことで、どんなに救われたことだろう。

美雪はその後、亡くなった彼のことを語ってくれた。
彼はたいそうな努力家で、会社を通じて日本を良くしたいと言う志を胸に、同じ会社の他部署で働いていたそうだ。いつも笑顔を絶やさない、朗らかでやさしい青年。だが、あまりにもの過密スケジュールと膨大なストレスで、じょじょに精神的に追い込まれて行ったらしい。美雪の前ではみじんも苦しみを見せなかった彼は、次から次へと押し寄せる、全ての波を飲み込んでしまい、とうとう帰らぬ人になってしまった。
「…自分を責めたわ。なぜ、そばにいたのに気付いてあげられなかったんだろう、って。毎日毎日、ぐるぐるとどす黒い考えが巡っては、頭にズキズキとした痛みを感じていた。一睡も出来ない日々が、長い間続いたわ。
…でも彼の感じた苦しみは、きっと私の比じゃない…。」
淡々と彼のことを語る彼女の横顔は、その物言いとは裏腹に、緊迫した哀しみに彩られていた。
ぼくはもしも自分が彼女の立場だったらどうしていただろうかと、考えた。
「みゆきちゃん。」
僕の背中から降りて、横を歩く彼女は、静かにぼくを見つめ返した。
「彼が死んだのはみゆきちゃんのせいじゃないよ。君が責任を感じたりするのは間違っている。」
「でも、わたしは彼の一番そばにいたんだよ?なのに」
ぼくは首をかるく左右にふった。
「そばにいるからと言って、相手の全てがわかるわけじゃない。そばにいてもこころの内まではわからない。」
「…じゃあ、わたしが彼の信用に値しない人間だったってこと?」
「ちがう、そうじゃない。ぼくにはわかる。彼はみゆきちゃんに染まってほしくなかったんだよ。黒い、ドロドロした、そういう感情に染まる君が見たくなかったんだよ。」
「…なによ、それ。」
みゆきちゃんは絶句した表情でぼくを見つめた。
「一番大切な存在だからこそ、心配をかけたくないし、自分の見苦しいところや、醜い姿を見せたくない。俗世間の、俗悪な面から守りたい…。そういう愛もあるんだと思うよ。」
みゆきは納得いかないのか、首をうーんと傾げた。
「なにそれ。お互いの弱みを見せ合って、支え合ってこその恋人じゃないの?」
「ぼくも昔は同じようなことを思っていたよ。」
だから、奥さんがぼくに隠していた幾多もの痣や感情がぼくを痛めつけた。いくら身体は許してくれていても、こころは許してくれていないから。だが、そうじゃない。人間はそんなに単純じゃない。奥さんがあの時取った行動だって、今になって思えば、もしかしたら自分とぼくをも守るためのとっさの演技だったかもしれないのに。
「たとえ愛し合っていても、相手と何もかもを共有しないと恋人になれないとすれば、この世に恋人なんて一人もいないんじゃないか。たとえどんなに言葉やからだを重ねても、生まれた瞬間や死ぬ瞬間はそのひとだけのもので、それ以外にもその人にしか理解し得ない、見えない計算式みたいなものがそれぞれの頭のなかにあって。幸せの定義が千差万別あるように、ひとの考え方も千差万別で、愛し方も十人十色あって。彼はただみゆきちゃんにまっしろなままでいてほしかったんだよ。君の純粋さは…とても儚く、とても、尊いものだから。」
彼女はうなだれると、うめき声を漏らした。
「…前に、彼に同じようなことを言われたわ…。みゆきには真白なままでいてほしい、って。でも、そんなのわがままじゃない!…ずっと同じままで生きられるわけ、ないじゃない…!置いていかれたら、なおさら…!」
彼女のぶるぶると震える握りこぶしに、そっと、手を重ねた。
彼女は静かに泣いていた。
永遠に続くような、静かな夜だった。

 置いていったモノ。置いていかれたモノ。
どんなに嘆き哀しみ、途方に暮れても、帰ってこないモノ。この世にはそんなものがたくさんある。それは友人とのささいな約束かもしれない。親との死に目の別れかもしれない。または、引っ越しや転校をするときに持ちきれなかった思い出の品かもしれない。昔の自分かもしれない。
ボクがどうしても捨てられなかったモノ。

ふと見上げると、外灯の陰が、ゆらゆらとうごめいていた。
にょきっと突き出した木の枝の黒い陰が、風と共に、ざわざわざわざわと激しく動き出す。二本の腕に、二本の脚。巨大に成長した陰は突如ぼくの目の前に躍り出た。ぼくはそこに、僕自身の踊る姿を見いだした。
『全ての愛は、自分に帰る。』
風がそんなことを囁いた気がした。

 ***

「愛なんて。」
「♪」
「永遠なんて。そんなものない。ないの。愛も、永遠も、たんなる夢なの。だから永遠の愛なんて、ありえないの。」

 中学三年の時、吹奏楽部だったわたしはよく同級生の親友と屋上で楽器の練習をしていた。それはよく晴れた、五月の連休前の昼下がり。ちょっとませたかんじの親友が、突然愛を語り始めた。愛どころか、恋すらよくわかってないお年頃。好奇心ばかりが先行して、なにか大切なことかを置き去りにしていた、あの頃。当時、中学三年生の加奈子は大学生と付き合っていた。加奈子は、目があったとか、しゃべったとか位でキャーキャー騒ぐ少女たちとは一線を画していた。彼女は「女」だった。そしてわたしは、そんな彼女が好きだった。
「加奈子ったら、また難しいこと考えている〜。」
わたしはクスクスと笑うと、加奈子は微笑んだ。
「美雪は恋したいとか、男の人と愛し合いたいとかって思わないの?」
加奈子のどこか色っぽい流し目に、どきり、とする。
「ううん、だって特に好きなひと、いないし。」
「そう?」
「うん。」
「そうかしら?」
彼女はいたずらっぽく笑うと、屋上から見下ろせるグラウンドを指差した。
「見て、美雪。男の群れよ。」
「群れ、って…。」
「世界は男と女で溢れているわ。どんなに長く生きていても、出会える男は何億人のなかの数人しかいないのよ。たったの数人。そしていっしょに共有できる時間は限りなく、限られている。もっと興味をもって、自分から知り合おうとしないと、自分に合う男に巡り会えないわよ?」
「そんなこと言われても…。」
「美雪は子どもね。」
バサリと切り捨てられ、わたしはちょっぴり悔しくなった。
「わたしはまだ子どものままでいい!本当に好きだと思える人に出会えてからでいい。」
加奈子はふときれいに磨かれた爪で、風にたなびくわたしの前髪を払った。
「最初っから本物が欲しいだなんて、美雪はわがままね。本物は探さなきゃ見つからないし、育てなきゃ、続かない。」
「でも永遠の愛なんてないんでしょう?」
加奈子はわたしの目の奥をじっと、見つめた。
「永遠の愛なんてないわ。そこにあるのはきれいな夢、きれいな噓。だからこそ、美しくて、みんながこぞって手に入れたがるの。」
そうなると聞かずにはいられない。
「加奈子は手に入れたの?」
加奈子は静かに身体を傾けると、わたしの頬にやさしくキスをした。
「ええ。その輝きが続く限り、わたしを満たしてくれる。」
彼女の笑みは美しかった。
まるで愛されている自信が彼女のなかから光を放っているようだった。

愛の消費者の末路。当時彼女が見ていた夢は、甘かったのだろうか?それとも苦かったのだろうか?いまとなってはわからない。 

 彼女はその後、卒業直前に学校の先生と付き合いはじめたのがバレて退学になった。ありがちな、よく見るニュース。卒業後疎遠になってしまったものの、退学が決まったときの彼女はやけに幸せそうだったことだけは今でも脳裏に焼き付いている。
「くだらないわ。世界にはもっと大切なことがいっぱいあるのに、愛し合う者たちをこんな形で引き裂こうとするなんて…馬鹿げている。ねぇ、美雪もそう思わない?」
「うん。本当、大人って馬鹿だね。」
世界を知っているはずの大人が、馬鹿の様に振る舞うことが当時の私たちには滑稽で仕方がなかった。だが自分が大人になってわかったことがある。「大人」なんて幻想だってこと。「大人」は本当に何もわかっちゃいない。何よりもたちが悪いのは、真実がわかっていなくても、わかっているように振る舞うことだ。
結局、わたしは加奈子のように男性とうまく付き合える訳もなく、誰かを愛する様になったのもずいぶんとあとになってからだ。そのひととは就職活動中のとき会社の説明会で出会った。それなりにそれまで色恋沙汰はあったものの、本当に恋するってことがどんなことか、当時のわたしは全くわかっていなかった。

 彼にはひときわ目を引くなにかがあった。
他の人とは違うなにかが、わたしのこころを捉えた。どちらかというと冷めた気持ちで就職活動をしていた私は、先輩である彼がなぜつまんない説明会であんなにも生き生きと嬉しそうにしていられるのかが全く理解出来なかった。『就職した者の多くは一年もたつと目が死んだ魚の様に淀んでくる…そして最終的に遅かれ早かれ皆が腐り始めるんだ。』そんなホラーのようなことを嫌というほど聞かされていた私は、特に彼の生き生きと輝く瞳に引き付けられた。何の曇りもなく、澄んだ瞳。それだけで、この人はいいひとなのだろうな、と何となく思った。
「なにか聞きたいことない?」
説明会が終わった直後に、彼の方から話しかけられた。
「えっ…っと、そうですね。」
完全に面食らった私は目を白黒させながら彼が説明会で話していた内容を必死に思い出そうとした。
「…はははっ、さては聞いていなかったんじゃない?」
わたしは真っ赤になった。
はい、聞いていませんでした。だってあなたの顔を見ていたのですから。なんて、言える訳もなく。
「まぁ、今年の就活生大変だもんな。採用人数は減っている上に、採用基準まで厳しくなっているからな…いろんなところを廻りすぎて、頭いっぱいいっぱいだろう?」
「はい。いっぱいいっぱいです。」
彼はにかっと笑うと、わたしの背中を叩いた。
「ちょうどいい!実は俺ももう朝から晩までずっと説明で、こんなこと言っちゃいけないんだろうけど、いい加減飽き飽きしていたところなんだ。ちょっとだけ息抜きしようぜ。」

これが私と彼とのはじまりだった。

 説明会場を少し出たところに喫煙コーナーがあって、その真横に設置してある自販機のジュースをおごられた。二人して誰もいないベンチに座ると、同時にくすっ、くすくすっ、と笑い合った。
「いいんですか?こんなところでさぼっちゃって。」
「いいの、いいの。毎日頑張っているんだからたまには休まないと。」
「もっと真面目なひとかと思いました。」
「あー…よく言われるなぁ。普段は真面目なんだけどね。そういう君だって、どうなの?」
「あたしはいたって真面目ですよ、いつだって真剣勝負!」
「そう言う割には俺の説明一番つまらなそうに見ていたよね?ちょっと自信あったのに久しぶりにへこんだわ〜。」
どう見ても全然へこんでいる様には見えなくて、
わたしは思わず笑ってしまった。
彼は微笑むと、片手に握っていた缶コーヒーを飲み干した。
「君はどんな風に生きたいの?」
私はまたもや面食らった。就活を始めてから「どんな仕事がしたいの?」とか「どんな職種につきたいの?」「希望している会社はどこなの?」とか「結婚したら辞めるつもりでいるの?」、「使える資格は持っているの?」とか、そんな質問ばかりしか聞いてこなかったから。
(自由に生きたい。)
ふと、そんなささやき声がこころのやわらかい部分をかすった。
彼はそれを見透かしたかの様に目を細めたかと思うと、遠くを見つめた。
「サラリーマンは、しんどいぞ。特に女性はなおさら。男女雇用機会均等法とかあるけど、正直日本はまだまだ女性にとってやりにくい職場だらけだと思う。」
「そう…なんですか?」
育児休暇とか、福祉とか、多文化推進とか歌っている多くの会社のことを思い出しながら首を傾げた。
「だまされるな。君たちにとっても就職活動は戦争だが、企業にとっても戦争だ。優秀なやつが他の会社に採用されてしまえば、会社の未来に関わる。だからこそ会社は必死に取り繕っていい側面ばかり見せるが、そこに捕われちゃあ行けない。裏の裏を見抜く力を養え。それがゆくゆくきっと君を守ってくれる糧になる。」
わたしは息を飲んだ。さっきまでの、へらへらした、輝かしい陽気な彼とは打って変わって、ほの暗い陰が彼の顔を覆った。あまりもの変貌ぶりに、私は背筋が寒くなった。
「だ、大丈夫ですか?」
血の通わない表情に、次の瞬間赤みが射した。
「あ…ああ、すまない。」
彼のこんな姿を見たのは後にも先にもこの時だけだった。あとから思えば、ソレはとうの昔から始まっていたのだろう。悔いても、悔いても、悔やみきれない。
「俺さ、世界を変えたいんだ。」
「え…。」
唐突な告白に、言葉を失う。
「ふふふ。自分でも青臭いのはわかっているし、時々いい加減夢見るのをやめようかと思うときもあるんだけどさ。特に入社して数年も経つと、仲間だと思っていた奴が転職をしたり、辞めちゃったりした時とか…。酷いときなんか同志だと思っていた奴が、いつの間にか家庭がとか、出世がとかで完全に夢捨てて守りに入っちゃっている姿見ちゃうと、勝手だけど、凹むんだわ。…就活しながら薄々気付いているかもしれないけど、このままだと日本は世界の食い物にされる日が間違いなく来る。俺は何が何でもそれを食い止めたい。日本には資源もなければ、新しい産業を支える人口もない。だが、まだまだ多くの技術が眠っているし、少ないながらも若い気概に溢れた連中もいる。だから日本の技術を用いながら、世界と対等に渡り合える若い人材を育てたい。俺は…日本がこのまま沈んで行くのを黙って見ていたくないんだ。…きみは、そういうの、ある?」
ああ、すごいひとだ、と思った。
このひとはこんなにも重いものを、隠し持ってひとりで抱えていたのか、と。なのに、満面の笑顔を振る舞えるのか、と。
ふと見えた彼のすり減った革靴の底を見て、わたしは胸の奥をギュッと締め付けられた。
きっと毎日毎日、少しでも世界をよくしようとこの人はあっちこっち走り回っているのだろう。
彼の未来を見据えるまっすぐな横顔が、私を捉えて放さなかった。
うつくしい、と純粋に思った。
人間を、特に男性を純粋に美しいと思ったのは、わたしにとってこれが初めての出来事だった。
まだ何をしたいのか、どう生きたいのか、自分の生きている意味を明確にわかっていなかった私にとって、彼には単なる恋心とは別の、あこがれと、尊敬と、人間に対する愛みたいな感情が複雑に混ざり合った想いを抱いた。

わたしは初めて人間に恋をした。

 結局いくつか受けた会社のなかから、彼の会社を選んだ。就活を始める前は就活を失敗したら留学しようと安易に考えていたが、私はその一社と運命を共にしてみたいと、考える様になっていた。そのなかには若干不純な想いもあったが、受かった時は本当に嬉しかった。
入社し半年後、私は彼の部署の隣の部署に配属された。
「みなさん、初めまして。塚原美雪と申します。早く皆様のお役に立てる様に頑張りたいと思います!よろしくお願いします!」
ありきたりな、いかにも新人っぽい挨拶の後にぺこりとお辞儀したわたしを、彼は温かい目で見ていた。
ほぼ毎晩残業で帰れないわたしを、彼はさりげなく労ってくれた。ときどき、夕飯もいっしょに食べる様になった。そうこうするうちに、ある日屋台のラーメン屋さんでラーメンを食べている最中に告白された。
「美雪、すきだ。俺と付き合ってほしい。」
ストレートな告白にはびっくりしたけど、わたしはなんの迷いもなく、テーブルの下の彼の手を握った。わたしたちは幸せだった。そしてわたしはそれが永遠に続くものだと、そのときは信じていた。

『永遠なんて。そんなものない。ないの。愛も、永遠も、単なる夢なの。だから永遠の愛なんてありえないの。』

 付き合い始めて一年、彼はしょっちゅう海外出張で世界を飛び回る様になっていた。月曜日と火曜日は香港、水曜日は上海、木曜日と金曜日はシンガポール、土曜日の早朝には日本に帰り、翌日日曜日はサウジアラビアとの取引のために会社に休日出勤。
「ねぇ…最近痩せたよね?」
一ヶ月ぶりのデートで彼と久々に再会したわたしは、顔色がやたら悪い彼を心配せずにはいられなかった。
「そんなことないって、体重も変わらないよ。美雪は心配屋さんだなぁ〜。」
豪快に笑う彼の横で、わたしは彼がそう言うなら大丈夫なのだろう、と無理矢理自分を納得させることにした。そのうち、毎日していたやりとりが減り、毎週末していた電話の回数も減った。女友達に相談したら、一笑された。
「美雪考え過ぎ!もう一年以上付き合っているんでしょう?単なる倦怠期だよ〜、気にすることないって。」
「そうかなぁ…。」
「ほらっ、美雪あんま付き合ったことないからわからないだけだよ。そんなもんだって。そこで変に頑張っちゃうと彼も疲れて増々悪循環に陥るだけだから、そっとしておいた方がいいよ。」

私はなんてバカだったんだろう。
私はなんで自分を信じられなかったんだろう。
私はなぜ彼のウソを見抜けなかったんだろう。
飲み会と言いながら隠れて家に仕事を持ち帰っていたこと。
海外出張でたびたび繰り返される強制的な接待の存在になぜ気付けなかったんだろう。
いつからか彼の笑う回数が減ったことが、なぜ分からなかったんだろう。
なぜ。なぜ。なぜ。ナゼ。ナゼ。ナゼ…。

それは普通の日の普通の夕方にやってきた。

一本の電話。

「もしもし、塚原です。…もしもし?」
終始無言の電話。いたずら電話かと思って切ろうとしたら、電話の向こうから嗚咽が聞こえてきた。
ザワザワザワ。一瞬にして鳥肌が立った。
「みゆきちゃん…優太…優太が…。」
言われなくても何が起こったか一瞬にして悟った。気付いたら膝から崩れ落ちて床に這いつくばっていた。
世界が一瞬にして奈落の底に落ちた。涙腺が壊れたかのように、次から次へと涙が溢れた。わたしは世界を失った。世界はもう美しくはなかった。彼のいない世界は、色のない世界だった。
セカイヲノロッタ。
シアワセナヒトヲノロッタ。
ワタシノカミサマヲウバッタカミサマヲノロッタ。

 わたしはあまりにも大きなものを失ってしまった。既に彼はもうわたしの一部だった。そう、まるで腕や、足のように、なくてはならない、あって当たり前の存在だった。いっしょに生きて行くのに不可欠な存在だった。

なにもかもが、どうでもよかった。

わたしはひとりぼっちだった。

ひどく、孤独だった…。

 ***

 季節は巡る。

 例え親がある日突然死んでも、子どもが突然の事故にあっても、親友が戦死しても、恋人が自殺しても、時間は待ってはくれない。こくこくと、秒針は容赦なく時を刻み続ける。命ある限り、誰もが時間から解放されることはない。そしてその時間をどうするか決めるのは自分自身だ。どんな金持ちも、どんな貧乏人でも、どんな人種でも、どんな性別でも、一日に二十四時間しかない。そして、忘れてはならないのが、自分の時間はいつか終わってしまうもので、それがいつ終わってしまうのかは誰にもわからない。

 わたしは彼の死後、しばらくの間もぬけの殻だった。何を食べても味を感じなかったし、食欲も湧かなかった。夜は夜で寝られない毎日が続いた。彼の残像が脳裏を横切るたびに、壊れた人形のように反射的に涙が溢れて止まらなくなった。

 あたしは死んだまま生きていた。

唯一生きていると実感出来たのは痛みを感じたときだった。時々発作のようにひどい罪の意識に苛まれた。その度に麻痺した感覚に沈んでいる私を、稲妻のような痛みが駆け抜けた。

 痛みだけが生きている証だった。

途方もなく哀しい生き物に成り下がっていた。親にも会社の人たちにも物凄い心配をかけたが、当時誰もわたしの力にはなれなかった。わたしは自分の足で再び立ち上がれるように、自分で自分をどうにかしなくてはならなかった。結局最終的には、自分を救えるのは自分しかいないのだ。

ただ、そんなわたしに命の息吹を吹き込んだモノがあった。
「みゆき…お休みの日くらい、こもっていないでどこかに出かけてみたら?」
昼過ぎまでじーっと何をするわけでもなく、布団のなかにうずくまっているわたしを、母は部屋に侵入してくるなり嗜めた。例の件以降、腫れ物に触る様にしかわたしに接していなかった母の、久々の叱咤激励だった。
「えー…なにもしたくない…。」
ぼつりとつぶやいたわたしの目の前に、母が封筒を差し出してきた。
「そうそう、これ、届いていたわよ。ここに置いておくからね。」
サイドテーブルに茶封筒を置くと、母はそそくさと部屋を後にした。
もそもそっと布団から抜け出し、封筒を手にした。差し出し人を見ても会社名だけで心当たりがない。めんどうくさいなぁと思いながらも封筒を破って開けた。
「あ。」
中から出てきたのはミュージカルのチケットだった。彼と行くために随分と前に予約していたのをすっかり忘れていた。ウェストサイドストーリー。元々は昔のミュージカルだが、今度復刻版が新しく出来た劇場で来日公演が開催されることになっていた。わたしは元々ミュージカルをあまり観る方ではなかったが、彼が隠れミュージカルファンで、よくミュージカルに誘われた。
『このミュージカルお気に入りなんだ。小さい頃よく見てた。当時は何を言っているのか外国語だったからまったくわからなかったけど、なんて言っても踊りがすごいんだ。若者達のパワーに溢れていて、見ているだけですっごく元気になる。』
彼の部屋でツタヤで借りたビデオを見ながら、本物のミュージカルを見に行こう、と約束した。
『みゆきも本物のステージを見たら、きっとあまりもの迫力に驚くと思う。』
はにかみながら、そう言っていた彼が懐かしかった。
「行って…みようかな…。」

 その週末、わたしは本当に久しぶりに、渋谷に出来たばかりの劇場へと向かった。久々のひんやりした外気、ひしめき合う人々、わたしが止まっている間もたえず流れて行く時の流れを肌にひしひしと感じた。劇場はひとで溢れかえっていた。特に週末と言うこともあり、カップルがいたるところで手を握り合って、微笑み合っている。わたしはその光景が見たくなくて、被っていたキャップをさらに目深に被り直した。落ち着かない気持ちで指定席に着く。当然、わたしの隣の席だけぽっかりと空いている。
いよいよステージのはじまり、はじまり。
空中をはためく、色とりどりのスカート。過酷な時代にさらされながらも、逞しく、笑顔を絶やさない若ものたち。

熱気。狂気。殺気。

ありとあらゆる『気』があたしを包み込む。気付くと、なみだが頬をつたっていた。泣くような場面でもないのに。隣の人に変に思われる。いそいそとハンカチを取り出し目頭を抑えるも、熱いものが自分の奥から込み上げてきた。

彼に、『生きて』と言われている気がした。

その日わたしは死んだ。そして、その日、わたしは生まれた。
今まで抱えていた想いや願い、過去の夢を自分のなかに見いだす様になった。多くのものを欲しい、何が何でも手に入れたいと、願いようになった。あたしにとって、そんな激しい願望が自分の中に眠っていたのを発見したのは新鮮な驚きだった。皮肉なことだ。彼を失って初めて、人生のなかで、自分にとって本当に大切なものはなにかを考える様になったのだから。少しずつ精神的に立ち直って行く中で、いつしかわたしは、先生になりたいと願うようになった。

わたしは世界を変えたいと思う様になった。
自分にしか出来ないやり方で。

 ***

「ワン・ステップ、ターン」

 家からちょっと離れたダンス・スクールに通い始めた。ずっと運動をしていなかった身体はなまっていて、リズムについて行くだけでも精一杯だ。長時間の練習に息切れして壁に寄りかかっていると、先生に叱咤激励された。
「そんなんで勝てると思っているの?もっともっと上を目指すんでしょう!君がそうやって壁に寄りかかっている間に、ちがうところでみんな頑張っているんだよ!さぁ!」
きつくない、と言ったらウソだ。会社に通いながらダンスを続けるのは想像以上に骨が折れることだ。だが不思議と仕事しかしていなかった日々に比べると、張り合いがあって、楽しい。

『シャリシャリシャリ』
氷が、少しずつ溶けはじめた。
「光一君、最近いい顔になってきたね。」
「そ、そう…?」
みゆきはストローでいちごシェイクをかき混ぜると、ずずっと啜った。
「うん!なんかすごく生き生きして、目が輝いている。」
「…ありがとう、そういうみゆきちゃんこそ、すごく元気そうだね。」
えへへへっ、とみゆきが笑った。
「わかる?まだ先生の資格は取れないけど、先週末小学校のボランティアイベントに参加したの。川沿いのゴミを拾う普通のイベントだったんだけど、子どもたちといっしょにいられるのが嬉しくて、嬉しくて。なんかいっぱい元気もらっちゃった!」
「そうなんだ、よかったね。」
本当によかった。
みゆきはあの一件以来、突然泣くような姿を見せなくなった。
でも彼女のなかから、アレは消えてない。この先も、恐らく消えることはないだろう。
ぼくはどうしたらいいか考えあぐねいていた。どうしたら彼女に振り向いてもらえるか。どうしたら彼女といっしょになれるのか。ダンスしている最中、ぼくのこころはみゆきでいっぱいだった。彼女の笑顔。彼女の微笑み。
いつしかみゆきがぼくのダンスの原動力になっていた。ぼくはそれまではずっと自分のためにしか踊ってこなかったが、今ではぼくのダンス全てを彼女に捧げていた。もちろん、彼女にそんなことは口が裂けても言えないが。

「光一君のダンス、変わったわね。」
レッスンが終わったある日、唐突に今通っているダンス教室の先生呼び止められた。
茶髪の短髪で、中性的な女性で、元々は某有名グループのダンスの指導もしていたことのある先生だ。実績はあるのにそのことを鼻にかけることもなく、ざっくばらんとした性格で、皆から好かれているような人だ。
「そうですか?」
「うん、うちに来た頃、光一君のダンスはどんよりと暗くて、固かったからねぇ。ハッキリ言ってオーデションを受けようものなら、一発撃沈レベルだったよ。」
あまりにも率直な言葉に、少しへこんだ。
「…先生、いくらなんでもひど過ぎ。そういう風にハッキリ言うから未だに彼氏できないんだよ。」
「まぁ!なんてデリカシーのない子なのかしら!こっちは褒めてやっているのに。」
先生は笑い飛ばしながら腕組みをすると、ぼくの目を覗き込んだ。
「…光一君、本当に今度のあのオーデション、受けるつもりなの?確かにあなたの上達ぶりは目覚ましいけれど、あのオーデションはそうそう簡単じゃないわよ。しかも俳優向けだからダンスだけじゃなくて、歌も、演技の審査もあるの。本当にわかっているの?」
ぼくは先生をじっと見つめ返した。
「それでも、やるんです。やらなきゃいけないんです。」
先生は諦めたようにため息をつくと、口角を釣り上げて、子供っぽくにかっと笑った。
「それは…彼女のため?それとも自分のため?」
「両方であって、両方じゃないです。」
「あら?なんなのかしら?」
「…先生、ぼくのダンスで世界を少しでも変えたいと言ったら、先生は笑いますか?」
先生は目を皿のようにまん丸にした。
「世界、を?…どうしたの?仕事のストレスで頭でも飛んじゃったの?」
「…ぼくはいたって真剣で真面目ですよ。いま、特にこの国ではダンスを含めた芸術は、一部金になる商売絡みのもの以外は疎んじられているのが実情じゃないですか。世界的に有名なものはちやほやされても、自国の価値のあるものが認められないとか…。でも本来、どんな芸術も高尚だと思うんです。人間の醜さや複雑な精神性など、矛盾した人間の姿そのものを表現しているような学問は他にはない。それに、国を越えてまでありとあらゆる人間の感情に訴えかける力を持っているじゃないですか。…ぼくは、ぼくのダンスで、ひとを元気にしたい。ひとが元気になれば、ぼくは元気になる。ぼくが元気になれば、ひとを元気にできる。そんな無限のループを死ぬまで紡ぎ続けたいんです。だからぼくは自分のため、彼女のため、世界のために踊るんです。少しでも明るい幸せな未来を願って。」
先生は黙ったまま、うーんと考え込んでいる。
「…いかれていますよね。ええ、僕自身、いかれていると思いますよ。そして、ぼくはこんないかれている自分が好きなんです。これがありのままの自分の姿だから。いかれている自分を認めたとたんに、生きるのが楽になりました。先生、ぼくに勝てるひとは他にはいませんよ。ぼくは今限りなく、限りなく自由ですから。怖いものが何一つないんです。それって無敵だと思いませんか?」
先生はしばらくそのまま黙っていたが、突然腹を抱えながら笑い出すと、ぼくの背中をバシバシと勢いよく叩き始めた。
「光一君!頭いかれているけど、がんばれ!そこまで言ったからには、勝たなきゃここから追い出すからね!」
背中にとてつもない痛みを感じながら、ぼくはハハハッと仕事柄身に付いてしまった自嘲気味な笑いを浮かべた。この癖ばっかりはどんなにダンスをしても何故か治らないが、いい護身術としてたまに役に立つ。
先生はひときしりぼくを存分に叩いたあと、ぼくの頭に手を置いた。
「…光一君。ここだけの話、最近スクールに来る生徒はやれアイドルに憧れているだの、やれ歌手のバックダンサーになりたいだの、どいつもこいつもミーハーな奴らばかりで、ダンサーになってからどんな世界を追求したいのかって肝心のところが答えられない奴らばかりでね…。骨がないと言うか、芯がないというか。ぶっちゃけ、くらげみたいな連中ばかりで正直つまらなかった。でも、光一君は彼らとはちょっと違うみたいね?…君の将来が楽しみだわ。全力で応援する。」
いつも毒舌ばかりで、ぼくをこき下ろすようなことしか言わなかった彼女の言葉に、胸のそこに灯りがともったように、ぽっと、温かくなった。

***

「みーゆーきーせんせー!」
子どもたちに囲まれながら川沿いを歩く。今日はみんなでちょっと遠出の遠足だ。ようやく寒い日々も過ぎ去り、もうすく春が訪れそうな気配がいたるところに感じられる。
「せんせい、みてみて!もうすぐ桜がいっぱい咲くね!」
今にも咲きそうなつぼみを生徒達はきゃ、きゃ、と指さす。無邪気なその様子に、いつのまにか自分もうきうきと胸が弾んでいることに気付く。
「せんせー、いつになったらさくの〜?」
生徒に握られている手を、ぎゅっと握り返す。
「雪が全部溶けたらよ。きっといっぱい咲くわよ。」
「雪が溶けたら?」
「そう、雪が溶けたら。」
そう、雪が全部溶けたら、春になる。
長く辛い冬から抜け出し、多くの生命が産声をあげる。きみたちも、いまよりちょっぴり大人になる。少しずつ、少しずつ。焦らず。ゆっくりと。この先、君たちを待ち構えているのは明るいだけの未来じゃないかもしれない。ルールだらけで、本音と建前に翻弄され、毎日何かに追われ、急き立てられ、気持ちが滅入るような日々も来るかもしれない。そのとき、君たちは何を思うのだろう?そこから抜け出そうと思うのだろうか?それとも正面切って闘うのだろうか?どんな道を選ぶにせよ、自分の想いを大切にしてほしい。そして。そして、決して死ぬ、なんて選択肢を選ばないでほしい。
『みゆき。』
死ぬぐらいなら、逃げて。
『みゆき…愛しているよ。』
逃げることは、恥ずかしいことじゃないから。逃げ出せば、人生は変えられる。
『桜が散ると、まるで舞い降りる雪に見えるな。なぁ、みゆき?』
そして生きていれば、何かが変わる。すぐかもしれない。一年後かもしれない。数年後かもしれないけれど。何よりも大切なのは、自分を信じてあげること。時間がかかってもきっといいことがあると、自分に言い聞かせ、どんなに苦しくても歩き続けるのを決してあきらめないこと。自分の感情に素直になり、それを受け止めてあげること。そうしたら、きっと新しい自分に出会える。そうしたら、きっとまた毎日笑える日が来る。

ひらひらと舞い落ちる花びらが、やさしく頬を撫でる。

そして季節はまた巡る。

***

『ずいぶん遠くまで来たものだな…。』
ぼくは肺にめいっぱい息を吸い込んだ。胸がいっぱいになると、脳裏に奥さんの真っ赤な爪先がチラ付いた。ぼくのこころをかき乱し、破壊し、生きる気力さえも奪った女。みゆきもいつか深紅のおんなに変身するかもしれない。ぼくのハートをぐちゃぐちゃに踏みにじり、どこか彼方に羽ばたいて行ってしまうかもしれない。みゆきも結局、奥さんと同じおんなだから。おんなは気まぐれだ。でも、気まぐれだからこそ、愛おしい。

「…失礼します。」

 ぼくはステージに通されるなり、深々と審査員たちにお辞儀をした。蔓延する、ピリピリと緊張感が漂う空気。ステージの下には、みゆきも含めた観客が、こちらを見守っている。とうとうここまで来たか。視線を上げると、四人ほどの審査員がじぃーっとぼくを観察している。そのうちの一番偉そうな、ディレクターらしきおじさんが明らかに値踏みする様な不躾な視線を投げ掛けてきた。
「君、名前は?」
「佐藤光一です。」
審査員達は手元にある応募シートをパラパラとめくりながら、チラチラとこっちの様子を伺っている。
ディレクターとおぼしき男は気が済むまでぼくと紙の間を行き来したあと、唐突に口を開いた。
「佐藤君は今回この役にどうして応募しようと思ったんだい?きみの経歴からすると、この業界ではかなり特殊だと思うんだが。」
ああ、来た。予想していた質問だ。
「はい。確かに今のぼくはしがないサラリーマンです。華々しい経歴もありません。」
居心地が悪くて一瞬逃げ出したくなったが、ずっと言おうと思っていたことを言った。
「長い間、自分がいったい何者か、ぼくはまったくわかっていませんでした。ですが、幸いにしてようやく自分自身を知り、あきらめていた夢に再び挑戦しようと覚悟をしました。そしてこの一年間、ずっと毎日ダンスを練習してきました。そういう経由を得てここにいるからこそ、この主人公の生まれ変わる瞬間を的確に表現出来るのはぼくしかいないと思ったんです。」
「…ふーん、たいした自信だね。そういう自信、嫌いじゃないよ。この役の主人公もサラリーマン上がりだからね。じゃあまずはこの台本の付箋が付いているページを朗読して。」
渡された台本を受け取るなり、ぼくは手元の台本に視線を落とした。

『このままでいいのか、いけないのか、それが問題だ。どちらがりっぱな生き方か、このまま心のうちに暴虐な運命の矢弾をじっと耐え忍ぶことか、それとも寄せ来る怒濤の苦難に毅然と立ち向かい、闘ってそれに終止符をうつことか。』

それはシェイクスピアに出てくるハムレットの有名な一節だった。
ディレクターらしき男は一瞬ぼくが台本の内容に戸惑ったのを察知したのか、にやっと笑った。
「これが何の台本か知っているかい?」
「…シェックスピアの、ハムレット、ですね。」
「ふふふっ、意外だろう?まさかオーデションでシェックスピアだなんて。だがこういう古い名作ほど、実力の差が出やすい。次の付箋のところまで読み終わったら始めようか。」
再び視線を台本に落とし、貪る様に読み込んだ。

『食って寝るだけに生涯のほとんどをついやすとしたら、人間とは何だ?畜生とは変わりがないではないか。人間に前後を見きわめる大きな力を授けた神は、その能力、神にも似た理性を、使わないまま、かびさせようとしてお与えになったのではあるまい。』

「じゃあ佐藤君、きみの本当の姿を見せてくれる?」








「光一くん!おつかれさま!」
オーデション会場を出ると、出入り口に満面の笑みを浮かべた美雪が待ち伏せていた。
「ダンスもすごかったけど、歌も演技もすんごい迫力!本当にびっくりするくらいかっこよかった!きっとあれなら受かっているよ!」
彼女はこれでもかって位に手足をバタバタとさせながら感動を表現している。見ているだけで、こっちの胸がいっぱいになる。
「あ。」
唐突に彼女が凍り付いた。
あまりにも間抜けた面で呆然としているものだから、心配になって揺さぶった。
「ど、どうした?」
「…今日、彼の誕生日だったの、忘れてた。」

その言葉に、笑みがこぼれた。

純愛トリップ

純愛トリップ

『人生最悪。何も思い通りにならない。』 サラリーマン主人公は、毎日悶々と生きていた。 『いつからこんな風にしか生きられなくなってしまったのか?』 サラリーマンは自らの足で立ち上がり、闇の中から光を手繰り寄せる。 つまらない毎日に辟易している大人たちや、 未来に希望を持てずにいる若者たちへ。 少しでも何かをこの物語の中に見つけてもらえたら幸いです。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-02-13

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