悪鬼探偵

依頼の日

 俺が初めて関端(せきはた)叶永(かなえ)に出会ったのは、季節がそろそろ夏に差しかかる頃、うちの大学で開かれるゼミの体験教室に参加した時だった。
 俺はその日、初老の教授がこもった声で心理学のいろはを説明するのを半ばうわの空で聞いていた。体験教室には回生や専攻を問わず誰でも自由に参加していいことになっていたから、まだ一回生になりたての俺は、周りをちらちらと窺っては四方八方を先輩に囲まれているような気がして少し畏まっていた。どうせ周りにいる連中にも俺が何回生かなんて分かりっこないし仮にそれがバレたところでどうなるわけでもないけれど、慣れない環境にいるせいか、つまらないことにも気を遣ってしまう。
 これまで、ゼミと聞いてイメージしていたのは少人数でテーマを決めて議論を交わしたり研究成果の報告をし合ったりするような活発な交流だったが、あくまで体験教室だからか、教授が俺達学生に質問を投げかけてくるということも特にない。ただ、教授の淡々とした語りに耳を傾けているうちに、時間だけが過ぎていく。
 空席の多さが結構目立つ大教室で、この体験教室を退屈に思い始めているのは俺だけではないらしかった。しばらく前から周囲では、板書用に持ち込んでいたはずのPCで明らかに講義とは関係のない作業をしたりスマホをいじったりしている学生がちらほらと目立ち始めていた。
 そうしたくなる気持ちは、よく分かる。俺だって、今にも眠気が間の抜けたあくびになって口から漏れ出しそうだった。顔をしかめて、なんとかそれを噛み殺す。
 それでも、ただじっと耳を傾け続けるのには耐えかねて、ジーパンのポケットからケータイを引っ張り出した。引っ張りだしたのはいいものの、別に何かやりたいことがあるわけでもない。画面の上で指先を行ったり来たりさせて、なんとなくSNSを開き、誰かが何か書き込んでいないかとぼんやり眺める。目に入ったのは、同じサークルの友達がタイムラインに写真付きで上げていた近況だった。そいつはちゃらちゃらした感じの見た目に似合わず言語系のクラスに行っていたのだが、どうやらそっちの方は俺のイメージしていた「ゼミ」に近いことをやっていたらしい。活発なグループワークの様子を報告するコメントに、レジュメで散らかった机を囲んでわいわい賑やかにやっているグループメンバーの写真が添えられている。
 俺は、特に何も考えず「いいね!」のボタンを押した。
 同時に、すぐ後ろから「いいね!」と小さく声がした。
 一瞬、アプリの機能が更新されてボタンを押すと音声が流れる仕様にでもなったのかと焦る。けれど、それにしては音の聞こえてくる場所が変だと冷静に考え直して、教授に気付かれないようこっそりと後ろを振り返った。
 そこにいたのは、かなり派手な見た目の女子だった。机に頬杖をついてニヤニヤとこっちを見下ろし、無遠慮に俺のスマホを覗き込んでいる。少しむっとした俺は、周りの迷惑にならないよう音量を絞った固い声で「何すか?」と訊いた。その女子は脱色してメッシュを入れた髪をいじり、相変わらずへらへらと笑ったまま「ウチのゼミでケータイいじってるとか、それこそ『何すか?』なんですけど」と楽しげに言い返した。
 それに対して、俺は返す言葉が出てこなかった。
 「ウチのゼミ」ということは、この女子はここのゼミ生で、ゼミに参加している学生ということは、俺より二つか三つは先輩ということになる。このいかにもギャルな女子があの枯れきった教授の研究室にいるというギャップも衝撃的だったけれど、それよりもまず単純に、先輩から絡まれたという事実が危機感を煽った。
 そして、先輩の次の行動で、俺はもう何をどうしていいのか全く分からなくなってしまった。先輩は、なるべく音を立てないようにして自分の席を離れると、空いていた俺の隣の席に滑り込んできたのだ。
「じゃあ、お邪魔しまーす。あ、名前訊いていい? あと回生」
 何が「じゃあ」なのかは意味がよく分からないし、どうして一方的に質問されているのかも謎だけれど、知らない先輩相手で動転していた俺には、そんなことは二の次だった。
「……橋詰(はしづめ)っす、橋詰拓真(たくま)。一回生、です」
 俺の畏まりまくった態度のせいか、それとも「一回生」というワードに反応したのか、先輩は口元をさらにニヤつかせた。
 何度思い返してみても、やっぱり随分と変な出会いだ。先輩本人のインパクトが強かったというのも、もちろんある。今までそんなに絡むことのなかったタイプの相手だったから、なおさらだ。けれど何より、普段なら自分が行くことのないような場所で、日常的にはまず経験しないような出会い方をしたというのが、あまりに強烈だった。まるで、アニメで主人公とヒロインを遭遇させるために無理矢理こじつけられた展開みたいで、こんな出会いは……なんて語るのはほどほどにしておこう。妙な誤解を与えそうだ。
 ともあれ、そんな俺を余所に、当の先輩は勝手に世間話を始めていた。
「ウチの教授、自分の研究のことしか頭にないからさ、講義とかこーゆークラスとか、かなりテキトーなんだよね。まぁ、ゼミの先生として研究室で相談に乗ってくれる時は頼もしいんだけどさ。あれで意外と面白いとこもあるし」
 俺は、「はあ」と気の抜けた返事をした。なんとなく、状況が飲み込めてきたような気がする。要はあれだ、勧誘だ。ゼミの体験教室にゼミ生がいるわけだから、後輩に声をかける理由としてはそれが妥当だろう。安心したような、ちょっと残念なような、複雑な気分だった。
「あ、でさ、ちょっと質問なんだけど」
 先輩は急に顔を寄せてくると、また一段と声を潜めてしかつめらしく訊いてきた。
「なんでウチのゼミ見学に来たわけ?」
 ほらな、やっぱりこの話題は避けられなかった。俺は、少しの間考え込むポーズだけとってから、無難に答えることにした。
「なんでって、卒論は書こうかと思ってますし。でもゼミってどんな感じか実感ないんで。ちょっと覗いてみようかなって」
 先輩は声に笑いを滲ませて、「いや、そうじゃなくてさ」と俺の話を遮った。
「だって心理学じゃん? 心理だよ、心理。講義でちょっと受けてみる分には面白いかもしれないけど、ゼミに入ってまで研究やろうって、そんなの相当の物好きじゃん? フツーは来ないって」
 どの口が言うかと思ったが、ゼミでの勉強を経験している先輩がそう思っているのなら、そういうものなのかもしれない……。
 いや、それよりも今は先輩の質問にどう答えるかを考えないとマズい。その手の話題には、俺としてはあまり触れたくない理由があった。
「ウチの教授がテキトーっていうのは学内でビミョーに噂になってるけど、それで単位も楽に取れそうって思った?」
 先輩は、どこまで本気か分からない半笑いでそう言った。その噂は全く耳にしたことがないが、そういうことにしてしまった方がいいような気がする。けれど、俺がその噂に便乗する前に、先輩は次の言葉を口にしてしまった。
「それともさ、なんか人間の深層とか、観念とか、そういうので悩んじゃう性質(タチ)?」
 すっ、と。びっしりとしたまつ毛の奥で、先輩の目が細まった。
 なんだかこの先輩には、それこそ深層まで見透かされているみたいだ。そう思った途端、今まで張り詰めていた緊張の糸は、ぶつりと切れてしまった。
「……別に、そんなに珍しいことでもないでしょ。心理テストとか占いとか、流行ってるし。なんか不思議だし、スピリチュアル、みたいな。興味持つくらい、誰にでもあるし……」
 口ではそう言いながらも、声のトーンは自分でも分かるくらい露骨に下がっていく。せっかくの言い訳はそのまま尻すぼみになって、最後には溜め息になって吐き出された。だから、こういう話題には持っていきたくなかったのに。本当の志望理由には、絶対に触れまいと思っていたのに。
 ……話してみても、いいだろうか。後輩にバカなガキがいたと、冷笑されないだろうか。
 先輩は、何も言わずじっとこっちを見て待っている。先ほど溜め息にして吐き出してしまった気力を掻き集めるように、小さく息を吸い込む。そうして、俺は、「何週間か前のことなんですけど……」と語り始めた。
「俺、その時ちょっと悩んでたことがあって、もうそのことを思い出すのも嫌になってて。家に帰る途中の道で、もう悩みごととか全部きれいさっぱりなんとかならないかなって思ってたんです。それで、別のことを考えて頭の中をいっぱいにしたり、頭に浮かんでくるものを一つ一つ意識から追い出して何も考えないようにしたり……まあ、現実逃避なんですけど。で、頭の中がぐちゃぐちゃになって。空っぽにはできなかったけど、それでも、もう最初に何考えてたのか分からなくなるくらいには掻き乱してやったって感じで」
 そこまで一気に話してから、もう一度先輩の様子を窺う。先輩は、俺が音量を絞って話すのを聞き漏らすまいと集中してくれているみたいだった。俺は、もう腹を括って最後まで話し切るしかないと自分に言い聞かせる。
「で、もう何を考えてるのか分からないけど考えてるみたいな、ただ『考えてる』っていう考えが頭の中に詰まってるみたいな、変な感じになって。なんか妙にふわふわしてて……地に足が着いてないって言うんですかね? そんな感じでいたら、急にガチャンって音がしたんですよ。その音でびっくりして、今の何だったんだろうって見てみたら、家のドアの鍵を開けてたんです」
 話が終わると、俺も先輩も黙ったまま、しばらく沈黙が続く。今は教授が喋るべき時間だから本来はそれで当たり前なのだが、一度会話を始めてしまった後だけに空気が重い。それが嫌で、俺はさっさとアナジリを決めるために「それで、急に怖くなったんです」と強引に話を締めた。
 まあ、それだけの話だ。それが、俺が「心理」なんていう小難しいテーマについて知りたいと思ってしまった理由だ。歩いてて、歩くことに集中してなくて、それでもきちんと家に辿り着いて、気付けばおまけに鍵まで開けていた。俺の身に起きたことは、これで一応お終い。その後に思ったことや考えたことは色々とあるけれど、簡潔にまとめてしまえば、自分の意識というか自我というか――アイデンティティと言うんだったか――が揺るがされたような感覚に陥ったわけだ。
 どうせ、分かってもらえやしない。先輩の方を見るのもなんだか気恥ずかしくて、勝手にふてくされた俺は今更興味もない教授の板書を睨みつける。そんな俺の横顔に、先輩の物憂げな「ふぅん……」という声と、その後に続く独り言めいた呟きがかけられた。見れば、先輩は人差し指の関節を眉間にぐりぐりと押し当てて、ぶつぶつと考えごとを始めたみたいだった。
「自分の体なのに、自分でコントロールできてない感じかなぁ……。自己同一性が拡散してるっていうか。うーん……哲学的ゾンビ?」
 俺は、先輩がちょっと頭の良さそうなことを言っているのにも驚いたけれど、そもそも急にあんな話を聞かされても真面目に付き合ってくれているというだけで、もう感無量だった。先輩はしばらくそうしていたけれど、唐突に顔をあげると、俺の方に向き直って「でもさ」と言った。
「自分の体を自分の意志で動かしてる自覚なんて、フツーはまずないじゃん。そりゃ、『次はあれをやろう』くらいは考えて動くだろうけど、そのために足の筋肉を動かして持ち上げるとか、重心を移動して体を前の方に移していくとか、いちいち考えてやってらんないし。それで今更ビビるのも変な話じゃない?」
 それは、俺も思った。けれど、一旦気にしてしまうと、どうしても違和感が生まれる。ぎくしゃくしてしまう。それくらいに、俺達の体は完璧に作動する。完璧すぎるから、意識してしまう。
 この感じを、どう表現すれば理解してもらえるのか、見当もつかない。返事に詰まる俺の様子を見て、先輩も何とか察そうとしてくれているようで、「つまり、アレかな?」と取っ掛かりになりそうな言葉を探してくれる。
「誰か……っていうか、何かに体を操られてるような気がするってこと? 自分以外のさ、何か得体の知れないヤツに。『取り憑かれる』とか『魔がさす』みたいな」
 ああ、そう来たか……。正直に言って、そんな考え方はしたことがなかった。俺が怖かったのは、自分の外にいる何かに操られることじゃない。むしろ、それならまだマシだという気さえする。だって、そのせいで何かが起きたって――というか、俺の体が何かをやらかしたって――それは俺を操った奴のせいなのだから。怖いのは、外にいるものじゃなくて、俺の内側で起きることだ。たとえ誰にも操られなくても、俺が俺でなくなっても、勝手に動き続けてしまいそうな俺の体だ。
 「自分の頭が、やろうと考えていること」と「自分の体が、こなしていくこと」。この二つがちゃんと一枚岩だって保証が、どこにあるのだろう。そのうち、俺と無意識の事情が変わってきたら、そこにズレが生まれてきてしまうんじゃないかって気がするのだ。
 そうやって記憶を掘り起こす間にも、あの時の底知れない、ぞっとする感じが蘇ってくる。嫌だ、思い出したくない。でも、どれだけ思い出さないよう意識を追いやっても、俺の心臓は鼓動を続けるし、肺は空気を入れ換える。俺が一言も発さなくても、生産活動なんか止めてしまいたいと願っても、その間に血液は俺の体中をどくどくと巡っていく。止めようとしたって、仕方がない。きっと、まばたきもするだろう。痒いところがあれば、勝手に掻き毟るかもしれない。そうやって意図せず勝手にやったことの積み重ねが、自分にとって取り返しのつかないことになるまで、一体どれくらいかかるだろう……。
 その時俺の耳に、「寝惚けんな」なんていうキツい文句が飛び込んできた。
 先輩とは随分違う、淡々とした声音だった。不意打ちみたいにして女子の声が割り込んでくるのは、今日で二度目だ。ただ今回は、先輩の時とは逆で、一つ前の席からだったが。
 いつからだろう。ずっと俺達の前に座っていたその女子は、黒髪ボブのきれいに切り揃えられた前髪の奥から、意志の強そうな瞳でじっとりとこっちを見ていた。今までずっと視界に入っていながら一度も意識に上らなかったくせに、一旦気付いてしまうと、もう二度と忘れられそうにない存在感だった。しがない大学生の俺とちょっと馴れ馴れしい先輩が教室で隣り合って座っている、そんな呑気な日常に湧いてくるには、あまりにも異質な空気をまとっていた。こいつが、言ったんだ。「寝惚けんな」って、俺に。何の脈絡もなく。
 意味が分からない。
 たぶん、普段の俺ならもう少しまともに頭が回っていたと思う。普通なら、目の前の学生に睨まれているのは自分達が講義中にぐだぐだと喋り続けていたせいだと納得して、口を閉じられたはずだ。その前に、小声で「すみません、うるさくして」くらいは言えたかもしれない。でも、この時の俺は頭がいっぱいで、おまけに先輩みたいな変わり者と関わってしまったせいで常識的に物を考えるのも難しくなっていた。だから俺は、ろくに反応もできず口を半開きにしたままぽかんとその黒髪女子を見ていた。
 このまま馬鹿みたいに見つめ合い続けるのかと思ったのも束の間、黒髪女子はほんのわずかに表情を和らげた。そして、さっきの「寝惚けんな」よりはずっと険のない口振りで続けた。
「そんなに寝惚けるのが得意なら、せめて見る夢くらい自由にすればいいのに」
 その声は囁きのようで、けれど、周りへの気遣いなんかは一切無く教室に響いた。俺と先輩がさっきまでしていたひそひそ話なんて吹き払うような勢いに、教授も含めて教室中が静まる。俺達はしばらく、この黒髪女子が次に何を言い出すのか身構えていたけれど、それだけ言い残すと机に広げていたノートさっさとまとめて立ち上がり、教室から颯爽と出て行ってしまった。
 直感的に、後を追わないといけないような気がした。直感じゃないなら、第六感でも何でもいい。とにかく、この場をこのままで終わらせてしまうのは駄目だという気がしたし、ありがたいことに俺の体も、俺の意思を尊重して教室からの脱出に備えてくれた。
「すみません先輩。ちょっと通ります」
「えっ? ちょっと!」
 先輩の返事も待たず、鞄をひっ掴んで席を離れる。隣に座っていた先輩を無理矢理押しのけるかたちになってしまって迷惑どころの話じゃないけれど、勝手に人の出口を塞いでいた方だって悪い。たぶん。

 教室を出て周囲を見回すと、黒髪の女子は少し離れたところにある柱の陰でケータイを手にぽつんと突っ立っていた。俺が近づいて来るのに気付いて顔を上げ、少し驚いたような表情になる。
「出てきたの?」
 素直にそう訊かれると、返事に困る。ケンカ腰で突っかかってきた女子の後を追って教室を抜け出すなんて、我ながらどうかしてる。でも、教室で悪目立ちするとか、他には学生が誰もいない廊下の隅っこで二人きりとか、そういうのがちょっとだけ非日常っぽくて、たまにはこんなのもアリなんじゃないかと思ってしまったのだ。自分で言っておいてキモいとは思うけれど、これだけ日常離れしたシチュエーションなのだから、そんな感慨を抱いても許されるような気がした。
 せめて、教室を出てきた上手い言い訳でもあればいい。そう思うけれど、生憎気の利いたものは何一つ浮かばず、「いや、面と向かってあんなにバッサリ言われたの初めてで」なんて口走ってしまう。慌てて「あ、悪い意味じゃないから、うん。全然そういうの大丈夫だから」と付け足すけれど、よく考えれば何のフォローにもなっていない。フォローになっていないどころか、受け取りようによっては妙な誤解をされても仕方がない。
 念の為。キツく罵られて喜ぶ趣味は、俺にはない。
 黒髪女子は焦って空回りする俺を黙って見ていたが、さっきまでに比べると、その顔は少しほころんでいるように見えた。
「変なの。うん、やっぱりちょっと普通じゃないよ。だから普通じゃないことで悩んだりするんだね」
 ああ、本当に先輩と話してたあれもこれも、一部始終を聞かれてたんだ。改めてそれを思い知らされて、何とも言えない気恥ずかしさに襲われる。
「じゃあ、代わりに手伝ってあげよっか」
 その突然の申し出の意味が、俺にはよく分からなかった。手伝う? 手伝うって、何を? どうして?
「あの先輩に相談してたんでしょ? 自分の体が自分の心と離れ離れになるような気がして怖いって。だから、相談の邪魔しちゃったお詫びに、お悩み解決の手伝いしてあげる」
 今日の出来事は、もうとっくに俺のキャパを超えている。こんな状態で正常な判断ができるほど、俺の適応能力は高くなかったらしい。となれば、後はもう、なるようになれと流れに任せるしかなかった。だから、俺は「じゃあ、お願いします」と返し、黒髪女子が淡白にこくりと頷いた。
 そこからは連絡先を交換して、近い内にまた会う運びになった。別れる時、俺はまだ互いに自己紹介をしていないことに気付いて「あ、俺、橋詰拓真……」と挙動不審に名乗り、澄まし顔で「知ってる。さっき聞いたから」とあっさり切り捨てられた。けれど、俺はこの黒髪女子の名前を知らない。その思いが通じたのか、立ち去り際に一度だけ振り返って、ちゃんと名前を言ってくれた。
 関端叶永、と。そう名乗った。
 随分と話が紆余曲折してしまったし、先輩との――結局、あの先輩には自己紹介もしてもらわないままだった――こともあったせいでかなり紛らわしくなってしまったと思う。けれど、俺が関端と知り合った経緯を説明するとなると、その辺も無視するわけにはいかなかったのだ。とにかくそんなわけで俺は、黒髪女子こと正真正銘の関端叶永と出会った。
 季節が夏に差しかかっていた頃、うちの大学で開かれたゼミの体験教室に参加した時のことだった。

結成の日

 関端と出会ってからしばらくの間は、その時の衝撃が頭にこびりついて離れず、度々思い出す羽目になった。俺の手元には交換した連絡先が残っていたものの、出会ったきっかけがきっかけだけに、どう話を切り出せばいいのかが全く分からない。何の前振りもなく例のお悩み相談の件に切り込むのは催促をしているようで嫌だったし、「この前は悪かった」と謝るのも何か違う気がする。そして、時間が経てば経つほど連絡はし辛くなっていく。
 ある日、そんな焦りをじりじりと感じながら学食でカツカレーを頬ばっていると、唐突にケータイが震えてだして何かを通知した。アプリにメッセージが届いているのを確認して何気なく開いてみると、それはお約束と言うべきか関端からのものだった。
 結局、俺がくだらないことに気を回している間に関端の方から先に連絡を入れてくれたわけだ。ちゃんと連絡が取れたことへの安心感は、自分からは何も行動を起こせなかった情けなさにあっさりと塗りつぶされる。
 送られてきたメッセージの内容は、関端らしく簡素なものだった。
『関端です。この間の件で連絡しました。』
 そうだ、文面なんてこんなものでいいんだ。一度そう思えると、今まで変に意識していたことが急に馬鹿らしくなってくる。返信も、気楽なものだった。
『久しぶり こっちから連絡しなくて悪い』
『大丈夫です。』
『この間の話だけど本当に手伝ってくれるの?』
『はい。解決できそうな当てがあるので。』
 それは、どういう意味だろう。「当てがある」というのは、随分具体的な物言いだと思う。少なくとも、俺の抽象的にも程がある悩みに対しては。
『マジで?どうすんの?』
 そう純粋に質問をすると、少し間を置いて返信があった。
『ひとりかくれんぼ、です。』
 ひとりかくれんぼ。たったそれだけの、聞いたこともない妙な単語が、俺の悩みへの答えらしかった。
 その後は、大した情報は手に入らなかった。関端の言う「ひとりかくれんぼ」のことを詳しく聞き出そうと思ってメッセージを送っても、のらりくらりと躱された。しまいには用事があるからと話を切り上げられて、話の続きはまた後日に持ち越された。最初から最後まで完全に関端のペースで、そのやるせなさに俺は溜め息を零した。
 食べかけていたカレーとその日の講義を片づけて家に帰ると、俺は真っ先にパソコンの電源を入れた。今週中に片付けないといけないレポートが二つ溜まっていたからだ。けれど、キーボードを前にしても全く集中できないまま時間だけが過ぎていく。何が気にかかっているのかは、考えるまでもなかった。
 俺はレポート用の資料を雑に脇へとどけて、ネットで「ひとりかくれんぼ」と検索をかけた。
 今までにひとりかくれんぼなんて言葉は一度も聞いたことがなくて、それがどう俺の悩みを解決するのに役立ってくれるのかもてんで見当がつかない。限界まで知識と想像力を駆使しても、思いつくのはバウムテストや箱庭療法のような、自分の心と向き合うための手助けをしてくれるセラピーの(たぐい)が関の山だ。
 ところが、検索結果は俺の予想を遥かに超えていた。
 「都市伝説」「超常現象」「試すな危険」……。さっきまで自分が思い描いていたものとのギャップに戸惑う。けれど、間違いない。ひとりかくれんぼ――それは、人形を使って心霊現象を引き起こす儀式の名前だった。
「どうするかな、これ……」
 一人ごちて、ぐたりと床に転がる。少し頭を冷やさないと、自分の置かれている状況に頭が追いつきそうもなかった。
 つまり、こういうことだ。ついこの間、俺は面倒見のいい先輩と知り合いになった。そこでいい機会だからと相談ごとをしていたら、前の席の女子に罵倒された。話をしてみると、その女子は自分が先輩の代わりに俺の相談に乗るという。頼んでみれば、悩みを解決する方法として心霊現象を教えてくれた。
 振り返って考えると、絶望的な胡散臭さだった。今までのことはさっさと忘れて、次にメッセージが来ても無視するか、いっそもう届かないようブロックしてしまう方がずっと賢いとさえ思う。俺はケータイを手に取ってからもしばらく悩んで、結局はメッセージを打ち込み始めた。
『今ちょっとひとりかくれんぼのこと調べてたんだけど』
 ひとまずそれだけを送ってから、もう少し言いたいことをはっきりさせようと思い、『都市伝説ってマジ?』と付け加える。返信があるのを待つ間は地獄のようだった。この期に及んでこんなわけの分からない状況から手を引く気がない自分に呆れと苛立ちが募って、それでもまだ関端からの返事を期待しているから、なおさら手に負えなかった。今日はもう返事は来ないかもしれない。そう思い始めた頃になって、ようやくメッセージ受信の通知が入った。
『都市伝説として有名かも。』
 こっちの思いなどお構いなしのけろりとした短い返信に、全身から力が抜けていく。さっきまでごちゃごちゃと考えていたものが、関端の言葉であっさりと(ほぐ)れていくようだった。
 それに、肝心なのはメッセージの内容だ。ひとりかくれんぼが「都市伝説として有名」なのは、少し検索しただけで嫌というほど思い知った。けれど、関端のいうことを信じるならば、ひとりかくれんぼには「都市伝説として」じゃない面もちゃんと存在するわけだ。それがどういう方面かは見当もつかないけれど、意味不明な儀式の名前だけを押し付けられていたさっきまでと比べれば、随分マシに感じる。素直に『ちょっと思ってたのと違ったからビビったw』と送り、反応を待つ。けれど、ケータイは俺の不安を煽るようにまた沈黙した。
 ひょっとして、「思ってたのと違った」なんて文面のせいでケチをつけていると思われたか。本当にやらかしてしまったかと頭を抱えて、今日はもう――いや、今日だけの話じゃなくて、もしかしたらもう二度と――返事がないんじゃないかと思い始めた頃になって、ようやく『話、できますか?』という文章が液晶に表示された。
『話?直接会ってってこと?通話?』
『直接がいいと思います。明日にでも、都合がつくなら。』
 きっと関端は、ちまちまと文章で説明するのに困っていたんだ。返信にやたら時間がかかったのも、言いたいことを何とか上手いこと文章にしようと試行錯誤してくれていたに違いない。それで最後には、口頭で俺の疑問に答えてくれる気になった、と。俺は、明日は二限と四限に講義が入っていて三限がちょうど空いていることを伝えたが、関端は俺の四限が終わるのを待って、そこから合流する気でいるようだった。それでも特に問題はない。あっさり、そういうことに決まった。
 しかし、そこから先がまた面倒だった。後は待ち合わせ場所くらい決めておけばいいかと考えてメッセージを打ち込んでいると、関端からの『じゃあ、また明日。』という言葉で、やり取りは一方的にぶった切られてしまった。あまりの唐突さに戸惑った俺は、ケータイの画面に指を突き付けた姿勢のまま、しばらく馬鹿みたいに呆けているしかなかった。
 その日はそれっきり、何が何で何をどうすればいいのか質問しても、全く返信は来なかった。

 翌日、約束の日。講義が終わりもう一度ケータイを確認してみても音沙汰なくて、これから一体どうすればいいのか頭を抱えながら教室を出ると、そこには当然のように関端が待っていた。いつかのように柱にもたれて立ち、ケータイをいじっている。言動には少なからず変なところがあるけれど、それでも端正な顔立ちをした女子が教室の外で待ってくれているというのは、やっぱり悪い気がしない。欲を言えばもう少し愛想がいいと嬉しいけれど、そんな人当たりのいいヤツだったらそもそもあんな衝撃的な出会いをすることも、こうして話をすることもなかっただろう。こればっかりは、仕方がないと諦める。
 俺が挨拶代わりに軽く手を挙げると、こっちに気付いた関端は「ん」とだけ言って、踵を返して歩き出した。たぶん、付いてこいって意味だろう。やっぱり、もう少しくらい愛想があってもいいか。
 話をするために合流したはずなのに、どういうわけか関端はろくに口も利かず歩き続けた。黙って付いていく俺も大概だが。そのまま無言の関端に連れられて大学を離れ、バスに乗り、俺達がたどり着いたのは最寄りのアミューズメント施設だった。そこに迷いなく足を踏み入れようとしている関端に、俺は流石にストップをかけた。
「ちょっと待った。話。話するってことで間違いなかったよな?」
「うん、待って」
 関端は一度腕時計を確認すると、俺の方に向き直って「橋詰君、家は?」と訊いた。
「家?」
「うん、今住んでるところ」
 俺の家の何を知りたいのかがさっぱり分からなかったから、とりあえずボロいアパートであることを伝え、その住所をざっくり説明する。その間、関端は驚くほど興味なさげな様子でいたが、一応ちゃんと聞いてはいるらしく、言葉の節々で相槌を打ってくれていた。
「ふぅん、実家じゃないんだ?」
「うん、部屋借りてる」
「ルームシェアとかは?」
「いや、一人だけど」
「そっか」
 それだけ訊くと、関端は会話終了とばかりにそのまま何の変哲もないゲーセンに入っていってしまう。うん、確かに会話はした。したけれど、断じてそれっぽっちの話をするためにこんな所まで付いてきたわけじゃない……と、そう思いたい。
 ゲーセンは、懐かしい騒音で溢れかえっていた。思えば、大学に入ってからはこういう場所もしばらくご無沙汰になっていた。がやがやと音がひしめき合う中で関端は悠々と辺りを一瞥すると、「あれにする」と言ってクレーンゲームの台を指差した。ケースの中には景品のぬいぐるみがびっしりと並べられている。ぬいぐるみのキャラクターにどこか見覚えがあると思ったら、朝の時間帯で放送されて最近ガキの間でやたらと人気があるアニメのキャラクターだった。
 そのアニメは、主人公の少年が強力なアイテムを手に入れてしまったせいで恐ろしい妖怪に狙われるのだが、主人公はそのアイテムのチートな力で妖怪を打ち負かしていくという、ご都合主義なストーリーだとどこかで見たことがあった。しかも、負けた妖怪はあっさり味方になって主人公の家で居候するようになるとか、どういうわけか味方になる妖怪は女の子ばかりだとか、戦っていた時はマスコットちっくな妖怪の姿だったのに居候を始めた時には可愛い人間の女の子の姿になっているとかで、どんな層を狙って作られたアニメなのかも正直よく分からない。
 そんな展開だから、当然話が進むごとに主人公の家はハーレム度合いを増していくわけで、最近では悪の妖怪幹部がいる館と主人公の家、一体どっちが伏魔殿なのか判断に迷うような有様らしい。子供向けなんて触れ込まないで深夜枠でやっていればいいのにと思う。
 景品のぬいぐるみになっているのはその居候妖怪達で、人間の時のビジュアルを三頭身くらいに縮めた感じの姿にされていた。
 寡黙で澄ました関端がゲーセンにいる光景からは、どこかちぐはぐな印象を受けた。クレーンゲームの前に立つ姿も、まるで安いCGで合成したみたいに現実味がない。財布を取り出す関端に、俺は訊いた。
「これ、やるの?」
 無言で頷いて、関端は硬貨を投入する。クレーンを動かすボタンが点滅をはじめ、関端は真剣な面持ちでそのボタンに手をかける。
 一体何をしに来たんだろうと訝しく思い始めた矢先、関端が口を開いた。
「ひとりかくれんぼには、ぬいぐるみが要るから」
 そう説明する間も、目はじっとぬいぐるみの山と移動するクレーンに注がれている。そうだった。俺達はひとりかくれんぼの件で集まったんだった。
「ひとりかくれんぼって、心霊現象なんだろ? ぬいぐるみで、なんか、儀式みたいなことやって」
「そう、降霊術」
 関端は、ごく当たり前のことを言うように「降霊」なんていうワードを口にした。
人形(ひとがた)には魂が宿りやすいから、ぬいぐるみを使えば霊魂を憑依させられるんだって」
 ゆっくりと降下したクレーンが、ぬいぐるみの頭を引っ掻く。それでも、ぬいぐるみはびくともしなかった。
「あのさ、心霊とか魂とか言ってるけど、それだけ聞かされて納得しろって言うのは無理あるって思わない?」
「……無理?」
 さっきから関端の目線はぬいぐるみに釘付けにされていて、俺の方には全く向かない。
「いや、だってそうだろ。現実的に考えて」
「橋詰君って、現実味とか気にするんだ」
「そりゃ気にするだろ」
 俺が少しむっとしたように言っても、関端は全く動じなかった。
「でもね、現実を気にする人にはなかなかできないよ。橋詰君みたいな観念的な悩みは」
 そうにべもなく切り捨てて、関端は追加の硬化を投入する。
 関端の言うことは……確かにそうかもしれない。自分でも、分かってはいたはずだ。今まで誰にも相談しなかったのが、そんな悩みを口にしても現実はろくに取り合ってくれないと気付いていた何よりの証拠だ。
「でも、そういうふうに感じるのが俺にとっては現実だから」
「それを言い出したら、幽霊だって誰かにとっては確かな現実だよ」
「そりゃ、そういうものかもしれないけどさ……」
「だから、現実なんて気にしないで試してみる価値はある。って言ったらどう?」
 クレーンを慎重に近づけながら、関端はそう言った。止まったクレーンは、さっきよりもぬいぐるみから遠いところで(くう)を掻いた。遺憾そうに目を細めて、関端は続ける。
「心理学でも精神分析でも、(まじな)いでもオカルトでも、自分が納得できるものを最後に選べばいいと思う」
 そして、ようやくぬいぐるみから目を離し、俺を真っ直ぐに見つめて、一語一語を噛んで含めるように言った。
「自分がそれで納得するなら、それが自分にとっては現実だから」
 その言葉を、関端がむしろ自分自身に言い聞かせているように聞こえたのは、俺の気のせいだろうか。最後に関端は、駄目押しをするように言葉を重ねる。
「催眠療法とか偽薬(プラシーボ)みたいなものだと思ってもらえればいいなって」
 俺には、到底そんなふうには割り切れない。割り切れはしないが、それでも信じたいと思っているのは紛れもない事実だ。ひとりかくれんぼをではなく、関端のことを。俺は、降参の印に溜め息をつく。
「まあ、いいや。騙されたと思っとく。……で? そのひとりかくれんぼで何が解決するのかいまいち想像がつかないんだけど、どうすんの? その……幽霊の取り憑いた人形が質問に答えてくれるとか? こっくりさんみたいな」
 蛇の道は蛇、霊魂のことは霊魂に訊く。「こっくりさん、こっくりさん」と霊を呼び出して、質問に答えてもらう。そういうことなら筋は通っている、ような気がする。けれど、ひとりかくれんぼは調べた限りでは少し毛色が違う感じがした。
 ざっくりと説明すると、ひとりかくれんぼでは、儀式をやってぬいぐるみに魂を宿す。そうすると、そのぬいぐるみが儀式を始めた人間のことを探しに来る。簡潔に言葉にしてしまうと荒唐無稽にも程があるが、そういうものらしいから文句を言っても始まらない。とにかく大事なのは、ひとりかくれんぼを始めたらぬいぐるみが俺を探しに来て、俺はそれから隠れていなければいけないということ。何と言っても、「かくれんぼ」だ。質問なんかしている場合とは思えない。
 関端は、ひとりかくれんぼで何が分かるのを期待しているのだろう。それで本当に、俺の悩んでいることに答えが出ると思っているのだろうか。俺はその答えを、今この場で関端に問い質そうと思った。
 その時、足元で、がこんと音がした。
 関端が屈み込み、「よし」と呟いて取り出し口からぬいぐるみを拾い上げる。手にしたばかりの景品を目を細めて眺め、首を傾げた。
「この子、何て言うんだっけ?」
 関端が手に入れたぬいぐるみのキャラクターは、番組の宣伝ポスターでも目立つところに描かれていることの多い鬼の女の子だった。顔は随分デフォルメされていて他のキャラクターと区別がつかないレベルだが、ぺらっぺらの布で再現された金髪と、綿の詰まった柔らかそうな二本の角が頭に縫い付けられているおかげでそれと分かる。俺は、子供向けのキャラクターにあまり詳しいと思われるのも気恥ずかしくて、ぶっきらぼうに「鬼だな」と答えた。
「……このぬいぐるみで、ひとりかくれんぼをやるんだよな」
「うん。この子に、霊を降ろす」
 騒々しいゲーセンの一角でこんな会話を大真面目にする日が来るなんて、一度だって考えたこともなかった。正直、今こうして会話しながらも自分達がやっていること、やろうとしていることには全くと言っていいほど実感が湧かない。
「本当に降霊が成功したら、こいつが俺を探して歩き回るって、そういうことだろ?」
「そう。そして橋詰君は、この鬼から逃げる」
 その説明を聞くうちに、俺の頭に純粋な疑問が浮かんだ。
「なあ、それじゃあ『かくれんぼ』っていうよりも『鬼ごっこ』っぽくないか?」
 関端は俺の質問に対して一瞬だけ戸惑ったような表情を浮かべ、それからゆっくりと頷いた。
「そう……かもね」
「じゃあ、実際は『ひとり鬼ごっこ』なんじゃねえの?」
 俺の言葉に、関端はゆっくり頷いた。
「それも、確かに間違いじゃないよ。『ひとり鬼ごっこ』って呼ばれることもないわけじゃないから。子供がやる色んな遊びの要素が混ざってるっていうのかな。例えば、ほら、『ケイドロ』とかも近いんじゃない?」
 それを聞いて、俺は苦笑した。
「ケイドロって……。別に俺達は泥棒じゃないだろ」
「泥棒……? 私達が?」
 そう言って、関端は珍しくきょとんとした顔をした。きっと、俺も同じくらい不思議そうな表情を浮かべていただろう。
「おう。そういう意味じゃねえの?」
 関端は言葉を返さなかったが、どうも「そういう意味」で言ったつもりはなさそうだった。となると、関端は俺達の方が警察の側だと思っていたことになる。けれど、俺に言わせればそっちの方が変な話だ。
「鬼が警察で俺達が泥棒の役じゃないと、おかしいだろ? だって、俺達の方が追いかけられるんだし」
「うん。そうだけど、相手はお化けっていうか、鬼だし……」
「鬼と泥棒は別物だと思うけどな」
「あ……うん……そう、だね」
 関端は少しだけ狼狽えたようで、歯切れの悪い返事をする。何となく、関端の言いたいことは察することができた。確かに、普通「お化け」や「鬼」は悪者扱いだ。「幽霊」でも、まだネガティブなイメージは拭いきれない。それで鬼と泥棒を同じ「悪」に分類してしまったとしても、仕方のないことかもしれない。
 そんな風に関端に調子を崩されると、こっちも少しだけ気まずい。俺はフォローのつもりで、軽く「まあ、鬼と人間で泥棒とか警察だとか言うのがそもそも変な話だから」と流す。関端は、「……そっか。そういう見方か」なんて呟いて、何かに納得した様子で何度か頷いていた。俺は、そんな関端の様子を、訳も分からず見守る。
 ともかく、これで話はまた振り出しだ。「鬼ごっこ」も「ケイドロ」もしっくりこなくて、やっぱり「ひとりかくれんぼ」は「かくれんぼ」だってところに落ち着く。けれど、関端は懲りずにもう一つの選択肢を挙げた。
「じゃあ、探偵は?」
「探偵……?」
 関端は、話が見えず困惑している俺に、わずかに得意げな様子で教えてくれた。
「ケイドロのことを、『悪漢探偵』っていう言い方をするところもあるらしいから」
 子供の遊びは地方によって呼び方が違うっていうのは、何となく分かる。たしか、ケイドロには他にも「助け鬼」なんて呼び方もあったはずだ。
「悪漢探偵……」
 関端の言葉を、その意味を確かめるようになぞる。
「ただ警察と泥棒で追いかけっこする遊びより、そっちの方がしっくりこない? 探偵みたいに、橋詰君の悩みを推理して解決するの」
「そっか。悪漢探偵か」
 そう名付けると、一気に自分達のやろうとしていることがはっきりしたような気がした。俺達は探偵で、霊魂なんてものの存在を匂わせて人間を惑わす悪漢とその謎に挑み、悩みを全て解決する。それは、悪くない響きだった。
「じゃあ、探偵で決まりだね。私達は、人間に仇なす悪辣な鬼の正体を暴く『悪鬼探偵』コンビ」
「何それ、中二病っぽい」
 俺は、苦笑いをしてそう言った。本当にガキのお遊びみたいなネーミングだと思ったし、それを自分達が真面目な顔をして名乗っているところを想像すると、滑稽すぎて鳥肌が立ちそうだった。
「うん、中二病っぽいでしょ。だから、ぴったりかなって」
 こっちを振り向いた関端が、からかうような上目遣いでそう言う。その表情は今までより随分と柔らかくなっているような、そんな気がした。関端の、平気で人を射抜きそうな黒々とした目でそういう表情をされるのは、あまりにもズルい。
「じゃあ、この()は橋詰君に預けるから。逃げられないようにちゃんと拘留しといてね」
 何も言葉を返せないでいる俺の胸に、関端がぬいぐるみを押しつけた。

 戦利品を手に、騒々しいゲーセンを出て外の空気を吸い込む。なんだか長いこと屋内にいたような気がしていたけれど、空はまだ明るかった。関端はケータイを取り出して何かを打ち込むと、再びそそくさとしまった。この光景も、そろそろ見慣れてきた頃だ。
「ひとりかくれんぼのこと、少しは説明できたし、ぬいぐるみも確保できた。これで今日の目的は達成したね」
 ゲーセンに連れ込まれた時はどうなるかと思ったが、本来の目的は確かに果たせた。それについては、俺も特に文句はない。細かいことを言えばまだ分からないことも残っているけれど、一応ひとりかくれんぼを試してみる決心もついた。何より、久々にゲーセンに足を運んだし、関端が第一印象からは想像がつかないくらい色んな表情をしていたし……要は、あれだ、今日はすごく楽しかった。だから、もう解散にしたって何も問題はない。ただ、正直に言えば、もう少し遊んでいってもいいのにと思わなくもなかった。
 まあ、そんなこと絶対に口にはしないが。
 そうして、俺達はそれぞれの帰路に就いた。
 逆方向のバスに乗るため踵を返す。関端との距離が開いていく。ふと、次の予定というか、段取りというか、そういうのを訊き忘れていたことに気付いた。振り返って、遠くなった関端を大声で呼び止めるべきか考える。
 ……まあ、いいか。
 関端とは、会うべき時には会える。そんな気がする。だから俺は、遠ざかっていく関端の後ろ姿を何も焦ることなく見送り、やがて自分も背を向けて家路についた。そんな心配よりも、もう少し自分でもひとりかくれんぼのことを調べておこうと思った。いい加減、あれもこれも関端にリードされてばかりいるのが心苦しくなってきた頃合いだ。準備できることがあれば、自分でも気が利くところを見せておきたかった。
 一人でそんな考え事に耽って、そんな自分をちょっとだけおかしく思った。ほんの数週間前までは家に帰りながら無意識だとかアイデンティティの喪失だとかを考えていたのに、今日は女子に押し付けられたぬいぐるみを抱えてその余韻に浸っている。なんだか馬鹿みたいだなと思ったけれど、数週間前と今日の自分、果たしてどっちを「馬鹿みたい」と思ったのかは、自分でもよく分からなかった。

捜査の日

 次の機会が来るまでに、何か自分にも出来ることを探しておこう。そう自分に言い聞かせて、それでも具体的に何をすればいいのかは全く思いつかないうちに、その「次の機会」は呆気なく、そして唐突に訪れた。
 関端は控えめに言っても無愛想だけれど、正直に言って一緒にいて悪い気はしない。むしろ会えるのを楽しみにしている自覚だってある。ただ、どうしても、いつも出会うのがこんなに急でさえなければもっと気分良く会えるのにと思わずにはいられなかった。
 そろそろ関端の言動に慣れつつあったとは言っても、さすがにゲーセンに行った時みたいなノリで降霊術を始められるとなると、俺だってそれなりに困惑する。それも、ひとりかくれんぼは俺の部屋でやるなんて話になっていたからなおさらだ。事前にそんなことを打ち合わせた覚えは全くない。確かに前回会った時には、ゲーセンに入る前に家のことを質問された。されたけれど、あれだけで察しろというのはあまりにも無理ゲーだ。そう、声を大にして言いたい。
 とにかく、関端は今まで通り突然連絡してきて、一方的に俺の家でひとりかくれんぼをやることにしたと宣言して、日取りまで勝手に決めてしまったのだ。おかげで俺は意味もなく焦って部屋の片づけを始めることになり、一段落ついた時にはもう、ひとりかくれんぼの実行日と関端が目前に迫っていたのだった。

「お邪魔します」
 関端がやって来た時には、もう深夜〇時を回っていた。別に集合時間をはっきり決めていたわけではないけれど、来る途中で何かあったんじゃないかと焦れ始めていた頃合いだった。そんな落ち着かない気持ちも、あっけらかんとした関端の顔を前にすると一気に萎んでしまう。
 関端が、(うち)の玄関にいる。この驚きが、どこまでちゃんと伝わるだろう。我が家に、関端。それは、ゲーセンの時以上にちぐはぐで非現実的な光景だった。
「こんな遅い時間から来なくても」
 あまり責めるような口調にならないよう気を付けて、あわよくば心配そうな口調に聞こえればいいと思いながら声をかける。関端は、俺の感情の機微なんてお構いなしの様子で「ちょっとね。今まで準備があったから」と軽く受け流した。そして、見せびらかすように手に提げた鞄を揺らす。鞄の中で、荷物の跳ねてぶつかり合う音がした。
 こっちに背を向けて脱いだ靴を揃えていた関端は、おもむろに振り返ると「それに……」と言葉を継ぐ。
「心霊とか怪異って、夜が更けてからやるのがセオリーでしょ?」
 その言葉に、俺は不思議な安心感を覚えた。こうやって関端は、ゲーセンに遊びに行ったり家を訪ねてきたりする女の子から、不意打ちのようにオカルト的な顔を覗かせてくる。この、日常と非日常の境界をあっさり踏み越えてしまう関端らしさが、癖になり始めているらしかった。我ながらどうかしてると本気で思う。
「まあ、いいけど。でもさ、俺が一人暮らしじゃなかったらどうしてた?」
 玄関から短い廊下を抜けて部屋の中に招きながら、ふとそんなことを尋ねてみる。以前、俺が一人暮らしかどうかを確認していたから、その時にはもう俺の家でひとりかくれんぼをする算段をつけていたはずだ。だから、もし俺が実家暮らしだったら関端の予定は初めから躓いていたかもしれない。そう思ったのだ。
「ううん、大丈夫。橋詰君は、きっと一人暮らしだったから」
 なんだそれ、意味が分からない。分からないけれど、それで妙に納得してしまった。俺自身、まだ一人暮らしを始めてから丸一年も経っていないくせに実家での生活が想像しづらくなっていたし、関端に堂々と言い切られると、それだけで説得力があった。
「けど、わざわざ俺ん()でやらなくてもいいだろ」
「じゃあ、どこでやりたかった?」
 そう訊き返しながら、立ち止まって俺の目をじっと覗き込む。そう真っ直ぐな目で問われると、俺はもう何も言い返せない。関端は、もうこの話は終わりとばかりにふいと目を逸らし、俺の暮らす部屋を見渡した。それから、部屋の真ん中にあるテーブルにゆっくりと近づき、その上に乗せられた例のぬいぐるみを手に取る。
「普通、ひとりかくれんぼにはテディベアを使うことが多いんだけど。まさか本当に『鬼』を使うなんてね」
「逆に、テディベアを使う意味がよく分からないけどな。鬼とか妖怪とか、それか日本人形でも使った方がそれっぽいだろ」
 まあ、関端が今手にしている鬼っ娘はちょっと違う気もするけれど。
「『それっぽい』どころじゃないかもよ。鬼って、体が大きくて角が生えてて乱暴、みたいな感じで描かれることが多いけど、昔は全然違ったらしいし。どちらかというと幽霊に近い姿で、でも人間には害を与える恐ろしい存在。そういう風に思われてたんだって。それって、私達がイメージする悪霊にそっくりでしょ? だから、鬼に霊魂を降ろして悪霊――じゃなくて悪鬼か――そう呼ぶのは、理に適ってると思わない?」
 俺も、今日に備えて自分なりに色々と調べてきたつもりだったけれど、関端の口からは俺が聞いたこともないような知識がぽんぽんと口をついて出てくる。感心と呆れが一気に湧き上がり、つい訊かずにはいられなかった。
「そんな知識、どこで仕入れてくんの?」
「そんなの私が知りたい」
 やや食い気味な返事。その感情的な反応が、どこか関端らしくないような気がした。俺が驚いているのを察したのか、関端は一呼吸おいてから、いつもの平坦な調子で言った。
「蛇の道は蛇。それで、身近に蛇がいたのが運の尽き。そういうこと」
 つまり、別に関端も元からオカルトマニアだったってわけじゃなくて、今の俺が関端の話を聞いているように、昔誰かからそういう知識を吹き込まれたらしい。関端に都市伝説の講釈を垂れるのが一体どんな人間なのかは、ちょっと想像がつかない。ただ、このぶっきらぼうな関端を相手にこれだけ濃い話を吹き込める存在というのは、少しうらやましいなと思った。
「他に質問はある? ないなら、早速だけど始めるね」
 こうして、特別な緊張感に包まれたり厳かな気持ちになったりする余裕もなく、あっさりとひとりかくれんぼを始める運びになった。
 関端は、ゆっくりと確実に準備をこなしていった。
 まず、ぬいぐるみの腹部がハサミで切り開かれた。このぬいぐるみがテディベアだったら少しくらい手荒に扱ってもそこまで気にならなかったと思うが、見た目が金髪の女の子なだけに、さすがに全く抵抗なしというわけにはいかない。もっとも、関端は特に気にした風もなく、ざくざくと切り裂いているが。
 それから、ぬいぐるみの綿を引っこ抜く。腹にできた空洞には、綿の代わりに米粒が詰められた。一人暮らしの大学生にとって、米は生活の命綱だ。決して少なくない量の米がぬいぐるみの腹に注ぎ込まれていくのを見ていると、どれくらいのご飯が無駄になっているかあまりに容易に想像できて、少し気が滅入った。
「その米、わざわざ持ってきたの?」
「うん」
「うちの使ってよかったのに」
 正直、これは今になったから言えることだ。実際に自分の貴重な食料をぬいぐるみの胃袋に納められると思うと、決していい気はしない。そんな俺の強がりを見抜いているのかいないのか、関端は、気にしなくていい、とでも言うように肩をすくめた。
「お米くらい、用意するよ。だから、その代わりって言ったらアレだけど、爪、ちょうだい?」
「は? 爪?」
「うん、生爪」
 指先をぴんと伸ばして、意外と血色の良い爪を俺に向ける。口にしている単語とその仕草のギャップがあまりにも激しくて、俺は思わずもう一度訊き返したい衝動に駆られた。なまづめ(・・・・)、だってさ。普通こういう場面なら、「見て見て、ネイルきれいに塗れた!」みたいなセリフがしっくりくるはずなのに。けれど、かわいい動作で血生臭い言葉を吐いてもどういうわけか似合ってしまう。関端は、どうしたって関端なのだった。
 女の子にせがまれて自分の爪を切ってプレゼントするという貴重な体験をした後、その爪は米と同じようにぬいぐるみの腹に納められた。さらに関端は、几帳面にその上からさっき抜き取ったばかりの綿で軽く蓋をする。中に色んなものをぎっしり詰め込まれたぬいぐるみは腹の傷から綿が少しだけ覗いていて、それがまるで体から白い靄が立ち上っているように見えるから、早くも幽霊に憑依されているみたいな雰囲気を醸しだしていた。
 続いて、鞄から小さなケースが取り出される。薄いピンク色をしたその箱の中身は、裁縫道具だった。俺はちょっとからかってみるつもりで「おー、女子力」なんて言ってみたが、関端が思ったよりもずっと白い目を向けてきたから口を閉じて、何も言わなかったことにした。関端も、何も聞かなかったかのように、ばっさりと話題を変える。
「この作業は、ぬいぐるみをもっと完璧な人形(ひとがた)にするのに必要なんだって」
「ヒトガタ……って、どういう意味?」
「文字通りでいいんじゃない? ただの布と綿の塊を、もっと人間らしい形に近づけるっていうか」
 俺は、その「人間らしい形」っていうのが一体何なのかを聞きたかったのだが。
「元々、ぬいぐるみには頭と胴体と、手足がある。でも、それだけでしょ? だから、足りないものを足していってあげるわけ。それで、まずはお米。お米は内臓とか、生命力の象徴なんだって。後、血管の代わりにこの赤い糸を使う」
 そう言って、先を捻って細くした赤い糸を掲げる。それを針の穴に通そうとして失敗し、関端は目を細めて厳しい表情をした。
 なるほど。一口に人間と言っても色んな形があるけれど、俗に言う五体満足の状態を体現しているわけだ。しかも、胴体にはきちんと栄養たっぷりのご飯が詰まっていて、おまけにそのエネルギーを体中に運んでくれる血管まであしらえられている。これだけ周到な人間の縮図なら、もうほとんど完璧と言っても良さそうだ。けれど、関端はそこにもう一つの要素を付け足した。
「そしたら、後この子に足りないのは、魂だけってこと」
 そこで、ようやく糸が針に通った。関端は針の穴に苦戦している間ずっと息を詰めていたのか、大きく長く息を吐き出すと、ぬいぐるみの腹を横切る傷口を縫い合わせ始めた。
「魂、なあ……」
 俺は、思わずぼやく。
「何だったかな。きっかけは忘れたけど、昔ふと思ったことがあってさ。死んだら魂はどこに行くんだろうって話、よくあるじゃん。無縁仏になるのが怖いって人もいれば、地獄に落ちるのが怖いって人もいるし。生きてる時でも、幽体離脱を経験したっていう人がいたりしてさ。でもそういうのって、魂が絶対にあって、死んで体がなくなっても魂は残るっていう考え方が前提にあるんだよな」
 魂があると思うから、悪霊や地縛霊なんかの怪談が生まれる。それはそれで怖いことだろうが、俺にはそういう考えの方がまだマシに思えた。
「俺が本当に怖かったのは、魂がどんな目に遭うかって想像することよりも――」「――そもそも魂なんてないんじゃないかって思うこと?」
 関端が、俺の言葉を引き継いだ。
「だから、死んだところで失うものもない。生きてる時も、死んだ後も、何も関係ない。ただただ、人間は最初から最期まで空っぽのままなんじゃないか、って?」
 俺は、無言で頷いて肯定する。
「でもそれを認めたら、俺が自分の生き方について悩むのとか、馬鹿らしくなると思って。むしろ、生きてることそのものが虚しいし、空っぽな気がしてくる」
 関端は作業の手を一度休めて、俺の方を向いた。そして、「例えばだよ?」と念を押す。
「例えば、もし本当に『空っぽ』の人間を見たとしたら、そうは感じなくなるんじゃないかな。生きてる人間とは――ひょっとしたら、もう死んでる人間とも――違う、『何か』が根本的に欠けてしまった、ただの……肉体(からっぽ)を見たとしたら。そしたら、自分の中には少なくとも何かが詰まってるって実感できると思わない?」
 関端は、あくまでも無感情に、そう問いかける。その言葉をどう受け取ればいいのか、俺は測りかねた。
「関端は、そういう人を見たことがあるわけ?」
「さあ、どうだろう」
 この話題を続ける気は、もうないらしい。そっぽを向き、再び手元のぬいぐるみに集中する。俺は、関端が顔を背けてくれたことに、少しだけ安堵していた。関端の目は力強くてとてもきれいだと思うけれど、真っ直ぐに見据えられると、まるで試されているような気分に陥ってしまうことがある。
 少しだけ気圧されて弱気になってしまった俺は、話題を変えるついでに、最初に出会った時のことを思い返して尋ねてみることにした。
「なあ、やっぱり俺の悩んでることってさ、その……寝惚けたことなのかな?」
「寝惚けてる。そう思う」
 そこまできっぱり言い切られると、いっそ清々しい。本当に、最初に出会った時のことを思い出させる切れ味だ。そして、これも初めて会った時と同じだが、関端はさっきよりもほんの少しだけ柔らかい声音で続けた。
「でも、それでいいと思う。夢と現実は、みんなが思ってるほどはっきり区別できるものじゃない……ってこともあるだろうし。案外、寝惚けて見る景色の方が、現実よりずっと真実なのかもね」
 それから、少しだけ迷うような素振りを見せて、「ゲーセンでさ」と言葉を続ける。
「自分が納得できることが自分にとっての現実になる、みたいなこと言ったの、覚えてる?」
「ああ」
 もちろん、忘れたりなんかしない。そもそも、俺がこうして半信半疑でもひとりかくれんぼに手を出してみる決心がついたのも、関端のその言葉に賭けてみたいと思ったからだ。
「でも、あれ、橋詰君は納得いってなかったでしょ」
 心から信じられる言葉だったかとなると、悪いけれど、関端の言う通りだ。
「納得っていうか……ちょっと実感が湧かないっていうかさ」
「うん、それは仕方ないと思う。でも、少なくとも、私は本気でそう信じてる」
「なんで?」
 俺の疑問に思うのも、既に予想していたのだろう。「変な例えで悪いんだけどね」と断りを入れてから、その先を語り始める。心なしか、今日の関端は例え話が多い。それは、きっと何かをぼかして伝えたいからだろう。裏を返せば、それはつまり、それだけ関端にとっては大切で個人的なことを口にしてくれる気になったという意味なんじゃないかと思う。
「幽霊を信じてる人がいたとして、その人が自分にしか見えない幽霊に取り憑かれたとするでしょ? もちろん、そんなの妄想みたいなものだから、周りの人にはどうにもできない。というか、普通は関わりたくないって思うだろうし。でも、その人の頭なのかでは幽霊が本当にいて、それが襲ってくるわけだから……」
 一呼吸の間。そして、「だから、呪いにかかって死んじゃうの」と小さく呟いた。
「死ん……」
「そう、死んじゃうんだ。幽霊のせいで」
 それは、別に幽霊が殺したわけじゃないだろう。そう言ってやりたい。けれど、俺はどこかで、その理屈に納得しかけていた。
「馬鹿みたいだよね。他の人から見たらさ、その人、何もないところで勝手に悶え苦しんで勝手に死んじゃうんだよ? そんなの、もう、迷惑の域だよね」
 ぶっきらぼうなセリフを吐く関端の表情で、俺は、これが何かの例え話であって、関端が意味もなく思い描いた絵空事じゃないということを思い出した。どこまでが例えられた部分なのかは、俺には分からない。けれど、関端はこの現実離れした物語を、真実の一面を伝えるために語ったのだ。
「現実では相手にもされないような幻想でも、その人には命を脅かす真実の凶器になる」
 だから、どんなに荒唐無稽でも、誰かにとってはそれが真理なのだと受け入れる。嘘も夢も幻も、もしかしたら幽霊だって、生身の人間を破滅させられるくらいの力を持ち得るのだから。だから、賭けてみる。ひとりかくれんぼなんていう胡散臭い儀式にも、何かを変える、何かを明かす力があるかもしれないって。
 それが関端の――そして今では俺も共感しかけているが――行動の道標なのだった。
「さて、これでぬいぐるみの準備は完了、と」
 裁縫道具を鞄にしまい直しながら関端はそう口にし、赤い糸が体中に巻き付いて背徳的な感じになった鬼っ娘を掴んで立ち上がった。手伝えそうなことが見当たらず手持ち無沙汰になっていた俺は、次こそ自分の出番がありますようにと願いながら「次は?」と訊く。関端は振り向きざまに、「次は、お風呂」と言った。ぬいぐるみに切腹させて生爪をおねだりされて、赤い糸で緊縛まがいのことをやって、次は風呂。そろそろ、この儀式を考えた奴の頭の中がどうなってるのか心配になるレベルだった。
 関端が浴槽に水を溜めている間に、俺は儀式で使う塩水と刃物の準備をするよう指示された。刃物は、普段ろくに使わずしまったままになっていた包丁を引っ張りだす。塩水は、作った後、言われた通り部屋にある押し入れの中に置いた。風呂場に戻ると、ぬいぐるみと一緒に待っていた関端が「おかえり」と言った。浴槽には、浅く水が張られている。
「ここからは、本格的にかくれんぼだからね。まずは、橋詰君が鬼の役」
 そう告げて、いつかのようにぬいぐるみを俺に押しつける。
「今から私が言うセリフを繰り返して。『最初は橋詰が……』」
 途中まで言いかけて、関端は口をつぐむ。心なしか、不満そうな様子に見えた。
「これ三回言うんだけど、『橋詰』って地味に言いにくいね」
 他人(ひと)の名字にまで容赦なく駄目出しをしてくるあたり、関端は本当に恐れ知らずだ。何か思案しているのかちょっとの間だけ黙って、関端はもう一度言い直した。
「『最初は拓真が鬼だから』。うん、これでいっか。これ、三回言って」
 関端は「これでいっか」なんて平然と言うけれど、正直俺の心は穏やかじゃない。拓真(・・)、だってさ。もう少し今の記憶を反芻していたかったけれど、関端が顔を覗き込んできて、「橋詰君?」と次の手順を促してくる。橋詰君(・・・)、だって。まあ、仕方ない。
「最初の鬼は拓真だから。最初の鬼は拓真だから。最初の鬼は拓真だから」
「そしたら、ぬいぐるみをお風呂に落とす」
 言われるままに、ぬいぐるみから手を離して放り出す。赤い糸でぐるぐる巻きの金髪少女は宙を舞い、頭から派手に落水した。
「これでよし。じゃあ、部屋に戻るよ。後は……」
 廊下を進みながら、手順を思い起こすように視線を宙にさまよわせ、一つ一つを確認するように立てた指を振る。再び部屋に足を踏み入れると同時に、関端は忘れ物の正体に思い当たったようだった。
「あっ、テレビがないんだ」
「テレビ?」
「うん、儀式の最中は点けておくんだけど……ワンセグでいっか。ケータイ貸して?」
 ケータイを手渡すと、関端は慣れない手つきでワンセグを開き、テーブルの上に置いた。そして、部屋の電気を消す。ケータイの小さな液晶だけが眩しい部屋に、よく知らないタレントだか芸人だかの笑い声が響く。
「部屋も暗くしたし、テレビもつけた。じゃあ、十まで数えよっか」
 鬼は、みんなが隠れる時間をあげるため「一……二……三……」と十までの数字をゆっくりと、きっちり数え上げる。最後まで数え終えた鬼は、隠れている子を探しに行く。隠れた子を見つけて、ゲームを終わらせる。小さい頃に本物のかくれんぼで何度もやった、お馴染みの流れだ。そこまでの手順を済ませてから、次は鬼の役目を交代するのだと関端が言った。
「分かった。で、やり方は?」
「さっき、自分が鬼だって宣言したでしょ? 今度は、それの逆をやる」
「逆って、俺が隠れる番だって言えばいいわけ? それとも……」
「うん、『それとも』の方。今度はぬいぐるみが鬼の番だって言ってもらうね。あの子の名前は?」
「……?」
 束の間、俺と関端の間に沈黙が降りた。俺は、嫌な予感がしながらも「名前?」とオウム返しに訊き直す。
「そう、鬼の名前」
 さも当然のように言うが、そんな段取り、こっちは初耳だ。しかも、生まれてから今まで、ぬいぐるみに名前つけたことなんて一度もない。
「名前って急に言われても……」
 気の利いたことを言おうとすると、悲しいことに何も思いつかない。考えるのに時間をかけるとどんどんハードルが上がっていくような気がして、仕方なく俯いて「アッキー」と小声で呟いた。やっぱりもう少しちゃんと考えてから口を利けばよかったかもしれないと後悔しながら、顔を上げる。すると、今にも吹き出しそうなのを堪えているような、顔をしかめまいとしているような、微妙な表情の関端が視界に入った。俺は、関端ほどではないにしろ、あまり感情が表情に出やすい方ではない。けれど、それでも今は顔がはっきりと熱くなっていくのが分かった。
「いや、本当だから! 本当にこれの名前、本当に名前アッキーなんだって!」
 もはや、自分でも何を口走っているのか分からないくらい動揺している。おかげで説明が雑になってしまったけれど、要は、「アッキー」っていうのは俺が自分のセンスで命名したわけじゃなくて、ぬいぐるみになっているこのキャラクターの名前が元々「アッキー」なのであって、このキャラクターは流行りの子供向けアニメで有名だから俺でも名前を知ってたわけで、だから仕方がなくて――。
「うん、知ってる」
 命名がお気に召したのか、それとも焦る俺が面白かったのか、関端は悪戯っぽい笑みで応えた。
「じゃあ、決まり。この子の名前は、アッキーね」
 そんなわけで、ぬいぐるみ改めアッキーが待つ風呂場に、包丁を携えて戻る。浅く張った水に背中側を浸されたアッキーは、水分を吸い込んで端の方からじっとりと色を変え始めていた。その無惨な姿に向き合い、俺は関端の指示をこなす。
 まず、「アッキー、見つけた」と、かくれんぼではお決まりのフレーズを口にして、それから、手にした刃物をアッキーの腹に突き刺した。これで、俺はアッキーを見つけ出し、鬼の役目をきちんと果たした。だから、次はいよいよ鬼の交代だ。さっき自分が鬼だと宣言したように、次はお前が鬼の番だと、刷り込むように言葉にする。
「次はアッキーが鬼だから、次はアッキーが鬼だから、次はアッキーが鬼だから」
 きちんと三回言い切り隣を見ると、関端は唇を引き結んで、重々しく頷いた。ここまでの手順をこなしてやっと、鬼がちゃんと鬼になって、かくれんぼが始まったのだ。まだ心霊現象は何も起こっていないけれど、俺は既に緊張を感じ始めていた。
 もう何度も部屋と風呂を行き来したが、とりあえず降霊の儀式のために移動をするのは、これが最後のはずだ。関端に伴われて、俺の隠れ場所がある部屋へと戻る。関端は、そそくさと歩きながらケータイを取り出した。いつもならそれをしまう前にいくつか操作をするのに、今回は何もせず、ただ時間を確認しただけらしかった。俺の視線に気付いて、ケータイを軽く振りながら「丑三つ時」と教えてくれる。心霊は、夜が更けてからやるのがセオリー。きっと、これが完璧な時間なのだろう。
 部屋に辿り着くと、関端はすぐに押入れに向かった。
「それじゃあ、橋詰君はここに隠れてて」
 関端はそう言いながら押入れを開けようとして、さすがに気を使ったのか戸を軽くノックするだけに留めた。
「後は、もう簡単だから。この降霊術が本当なら、アッキーが橋詰君のことを探しに来る。橋詰君は、その鬼のことを観察して。霊魂が本当に実在()って、魂が容れ物(からだ)に宿る、その意味を見届けて」
「関端はどうするの?」
「私は、邪魔にならないようにしてる」
 窮屈な押入れの中に体をねじ込みながら、俺は頭の中で今後の展開のシミュレーションをしていく。そして、ふと浮かんだ率直な疑問を投げかけてみた。
「で、その後は?」
「……その、後?」
 今まではどんな質問にもすらすらと答えてくれていたのに、まるでそんな質問は全く想定していなかったかのように、関端が口ごもった。
「だから、鬼のことを調べるのはいいけど、そこからどうすれば解決になるのかってこと。何か……ぬいぐるみと取っ組み合いして取り押さえろ、とか」
「あ、そういうことね、うん」
 珍しく、関端の声に焦りが滲んだような気がした。
「終わらせたい時は、その塩水を口に含んで鬼に吹きかけて」
「これ?」
 俺は、さっき用意したばかりの塩水のコップを拾い上げて訊く。
「うん、そう。塩はお(きよ)めのアイテムだから。かくれんぼを終わらせる時は、それを使ってちゃんと除霊しなきゃ駄目なんだって」
「もう少し、他にアドバイスとかないわけ?」
「それは……その時になったら、また教えるよ」
 背後に見えるケータイの液晶とカーテン越しのわずかな光で、関端の姿は逆光になってさらに黒々としている。おかげで、暗闇にはもうすっかり目が慣れたはずなのに、今の関端の表情は全く読みとれなかった。
「それでは、悪鬼探偵の健闘を祈る」
 真面目ぶったような、茶化したような。本気とも冗談ともつかない敬礼なんかして、関端は言った。
 そして、ゆっくりと押入れの扉が閉じられ、本当に真っ暗になった。

真実の日

 暗闇の中、息を殺して耳を澄ます。自分の鼓動がこんなに大きく耳につくなんて、今まで思いもしなかった。
 扉越しに、ケータイが垂れ流す何かの番組のBGMが聞こえていた。押入れに隠れる前はろくに考えていなかったが、とりあえずテレビをつけているだけでいいんだったら、音は消しておいてもよかったんじゃないか。扉一枚隔てて聞くテレビが想像以上に煩わしくて、そう思わずにはいられなかった。もしかしたら、音も儀式に必要な要素の一つなのかもしれないが、それを今さら関端に尋ねることもできない。だから我慢して、大人しく外の音に意識を集中させる。低く唸るように響いているのは、たぶんクーラーの音だろう。
 こうしてずっと窮屈な場所に隠れていると、自分の意志で隠れているのか誰かの意志で隠されているのかさえ、だんだん分からなくなってくる。押入れに入った時には勇ましい悪鬼探偵だったはずなのに、早くも気分は囚人だった。
 それでも、かくれんぼはもう始まっている。今さら引き返せるわけじゃないし、これからどうするかを堅実に考えるしかなさそうだった。とは言え、関端は結局、具体的な流れを教えてくれていない。ただ、鬼が探しに来ると言っただけだ。鬼を待つにしたって、どんな風に探しに来るのか全く見当がつかないし、探しに来た鬼にどう対処するのかに至っては、想像を膨らませることすら馬鹿らしく感じないわけにはいかなかった。何と言っても、相手はぬいぐるみだ。てくてく歩き回っているぬいぐるみに勝負を仕掛ける自分の姿なんて、夢にも見たことがない。
 押入れの中の空気が、さっきまでと比べてこもってきたような気がする。いつまでじっとしていればいいのか分からない状態というのは、あまり心地のいいものじゃない。ただただこうして動かずに待っているのにも、さすがに限度があった。
 もういっそ、外に出てしまおうか。とにかく、何でもいいから指示を仰がないと途方に暮れるばかりだ。関端は一体どうしているんだろう? まさかとは思うけれど、俺が隠れている押入れのすぐ外で、真っ暗な部屋の中に一人突っ立ってるわけじゃないだろうし。その光景を想像してみたら、下手すると歩き回るぬいぐるみなんかよりずっとホラーだった。
「……?」
 その時、どこかから音がして、俺は考え事を中断させられた。鈍くて、けれど耳に障る甲高い音。はっきりとは分からないが、音が遠い。もしかしたら俺の杞憂で、隣の部屋の生活音かもしれない。けれど、どうしても気になる。何だろう。何かが擦れるような……。それから突然、何かがぶつかり合ったような、硬い音がくぐもって聞こえた。限界まで聴覚に意識を集中させていた俺は、急に鳴った大きな音に驚いて、窮屈なスペースで飛び上がりかける。
 もしかして、本当に鬼か……?
 改めて戸に耳を当て、少しでも部屋の中におかしな気配がないかを探る。けれど、その後しばらくそうしていても、特に気にかかる音は聞き取れなかった。相変わらず、テレビが緊張感のないトークを垂れ流しているだけだ。
 やっぱり、こうしているだけじゃ埒が明かない。具体的に指示を出してもらうことはできないかもしれないが、せめて関端が今どうしているか確認だけでも取りたい。声は、出していいのだろうか? 仮にもかくれんぼなのだから、自分の居場所を鬼に教えるようなことはしない方がいいような気はする。でも、それを言ってしまえばそもそもこの隠れ場所から動くこともできなくなってしまう。それでは儀式を終わらせられないから、何もかもかくれんぼのルールに従う必要はないはずだ。
 ほんの少しなら大丈夫……のはず。
 そう自分に言い訳をしながら、極力音を立てないように戸を押し開ける。狭い隙間から押入れの外を見るけれど、異常らしい異常は見て取れなかった。見慣れた部屋の中、相変わらずワンセグがどこか遠い場所の景色を映し出している。特に大きく物の位置がずれている様子はないし、ましてやぬいぐるみが徘徊した形跡は全く見て取れなかった。ただ、ぬいぐるみだけじゃなく関端の姿まで見当たらないことが、異常と言えば異常だった。
 まさか、これがひとりかくれんぼの効果だなんてことはないだろう。霊魂を呼び出すために生贄を捧げたわけじゃあるまいし、関端が跡形もなく消えてしまう謂れなんて、そんなものはないはずだ。でも、心霊現象のせいじゃなければ、関端が消えたのは、関端自身のせいということになる。俺は、できればそんな風には――関端がわざわざ俺に色んな知識を吹き込んで、甲斐甲斐しく準備まで手伝って、俺一人なら絶対にやらなかったはずの都市伝説にも手を出させて、それから呆気なく行方を眩ませてしまったなんて――考えたくはなかった。
 関端を信じたい気持ちも、信じていいと思うようになったこれまでの経緯も、今この瞬間に関端の姿がないという事実がことごとく打ち消していく。代わりに、漠然とした疑いが心を埋め始めていた。
 けれど、疑うだけじゃ何も始まらない。何か、俺の知らない事情があるんじゃないか。その手がかりだけでも見つけられれば、ここまで苦しい思いを抱え込まずに済む。内心では無駄なことだと分かってはいたけれど、それでも俺は諦めきれずに押入れを出て、関端の姿を探し家の中を彷徨った。けれど、探す場所はそう多くない。人間一人が隠れていられる場所なんて、本当に限られている。洗面所とトイレ、後はベッドや戸棚の中に無理矢理潜めるかどうか。それくらいだ。最後に風呂場も覗いたが、案の定そこにも人影はなかった。落胆が、ずしりと重く心にのしかかってくる。そのせいで、俺は重要なことを見落としかけた。
 浴槽の中に、鬼が――アッキーがいない。
 それに気付いた時、肝が冷えるという感覚を、俺は痛いほどに思い知った。こんな訳の分からない状況にたった一人で残されて、訊けばすぐに答えをくれるはずの関端は影も形もなくて、冷静でいられるはずがなかった。もっと余裕があれば、どうせ関端が要らない悪戯心でも起こしてアッキーと一緒にどこかに隠れているんだろうと呆れるくらいで済んだだろう。けれど今の俺に思い浮かべられるのは、切羽詰まった二つの選択肢だけだった。つまり、都市伝説が関端まで毒牙にかけてしまったか、関端が俺を騙していたか。
 そして、俺の心は後者に傾きかけていた。
 それもこれも、関端の言動に謎が多すぎるせいだ。関端自身がちょっと変わり者だということを差し引いても、その行動に不審なところがあったのは事実だ。例えば、ゲーセンに行った日がそうだった。待ち合わせ場所なんか決めていなかったのに、俺が講義を終えると、平然と教室の外で俺のことを待っていた。俺がどの講義を取っているかなんて、一度も話したことはないのに。関端は、いつだって準備が良すぎた。俺との会話も、教えてくれる情報も、待ち合わせの手際も。どんな時も用意周到で、あまりに先回りしすぎていた。
 頭を抱えて部屋に引き返し、冷たい柱にもたれかかる。もしかしたら俺は、都市伝説以上に底の知れない恐ろしいものに関わってしまったのかもしれない。
 突然テーブルの上でケータイが鳴り出し、俺は情けないくらいに慌てふためいた。振り向いて見ると、暗闇の中で液晶が光って着信を告げていた。無造作にケータイを拾い上げ、通話を受ける。それが誰からの連絡かは、表示を見るまでもなかった。
「……もしもし?」
「橋詰君、今はどんな状況?」
 いつもと変わらない、淡々とした関端の声。それが、今この時だけは空恐ろしくて堪らなかった。
「関端……お前、何してんの? てか、どこに行ったわけ? 全然意味分かんねえのに、こんな急に……」
「うん、ごめん」
 なんで。どうして謝る。俺は、関端に謝ってほしくなんかなかった。いつものようにちょっと横柄なくらい平然として、俺がどんなに弱音を吐いても食ってかかってもそれを切れ味のある言葉で一刀両断にしてくれればよかった。なのにこんなところで謝られてしまったら、俺は、俺が知っている関端の全てを疑わずにはいられなくなる。
「困ってるよね。訳が分からないよね。本当に、ごめん。でも、私が手伝えるのは、ここまでだから。後は、遠くから橋詰君を見守ることしかできないから」
「何だよそれ。ちゃんと説明しろって」
「……ごめんなさい」
 やめろ。謝るな。そんな言葉を聞きたいんじゃない。俺は、関端から謝罪以外の言葉を引き出そうと容赦なく問いを重ねた。罵倒でも言い訳でも、泣き言でもいいから、とにかく何か意味のある言葉をかけてほしかった。
「お前、俺の悩みを解決してやるって言ったよな。なのにこんな状況だけ作って放り出すって、何考えてんだよ。何か妙なこと企んでないよな。なあ、答えろよ」
「……うん、そうだね。私は、橋詰君のこと、利用した」
 それは、あまりにも真っ直ぐな自白だった。
「何だよそれ……。わざわざこんな手の込んだことして、何のつもりだよ……」
「ごめん。こんなことに巻き込んで。私、どうしてもやらないといけないことがあって。そのために、どうしても誰かの力を借りないといけなかったから、それで……」
 やらなきゃいけないこと。そんな言い訳じみた言葉一つにも、頭に血が上りそうになる。ケータイに向かって叫び出さないようにするのが、精いっぱいだった。
「それで、やりたい放題やったわけか? 降霊術ごっこして、ぬいぐるみも隠して、本当に鬼が動いたってビビってる俺にドッキリ大成功って満足したってわけ?」
 感情に任せて詰っていると、関端が訝しげな様子で口を挟んだ。
「ねえ……ぬいぐるみを隠したって……本当?」
 そう、探るように訊いてくる。俺にはその質問の意味が分からず、互いに束の間沈黙した。
「……『本当?』って、何だよ? お前がぬいぐるみをどうしたのかって話だよ」
 俺は突き放すように、強気にそう言ったつもりだったが、実際には声が震えないようにするのが精々だった。関端も、慎重すぎる口振りで尋ね返してくる。
「それって、ぬいぐるみが、ないって意味だよね。アッキーが、いなくなってたってことだよね?」
 それ以外に何があるって言うんだ。とぼけるなと怒鳴りつけたい衝動に駆られる。その間も、関端はうわ言のようにずっと疑問を繰り返していた。
「本当になくなってたの? あの鬼のぬいぐるみが? 浴槽の中から?」
 一つ一つ、何か見落としている要素がないか、何かの間違いじゃないかとでも言いたげに畳みかける。そんな関端の様子に、今度は俺の方が狼狽え始めていた。
「いや、何言ってんの……? だって、どうせお前が持って行ったんだろ? 持ち出してなくても、出て行く前に場所を動かしたりとか……」
「違う。私じゃない。出て行く前に覗いてみたけど、その時はちゃんと浴槽の中にいたんだよ」
 関端の言葉は、必死そうに聞こえる。けれど、今となってはそんなもの、関端の演技としか思えない。思いたくない。思わないと、理性を保てそうにない。
「信じられるわけないだろ」
 俺は辛うじて、それだけの言葉を絞り出す。関端はすぐには返事をしなかった。関端の息がかかっているのか、定期的にくぐもったノイズが耳に届く。もちろん、この全てが関端の仕組んだことで、今も演技をしているだけだと思うのは簡単だ。けれど、俺の心はこの期に及んでまだ、関端を信じるべきかどうかで揺らいでいた。そして、関端がようやく口を開いた。
「嘘だって思われても、仕方ないと思う。私は、そう思われたって仕方ないことをしてるから。でも、ぬいぐるみが消えたのは……何もしてないし、知らない。正直、本当にぬいぐるみが消えたなんて言われても、上手く受け入れられない。こんなこと言ったら怒られるだろうけど、橋詰君が何か見間違いをしてるか、私を驚かそうとしてアッキーが消えたって嘘をついてるんじゃないかって、そう思いそうになるくらい」
 それは、本心に聞こえた。けれど、俺はそれを受け入れたくなくて、いっそ感情に任せてしまおうと思った。汚い罵声が口から零れそうになったその時、背後で水音がした。とっさに振り返るが、視線の先にあるのはいつもと変わらない光景だ。廊下が玄関へと続いていて、キッチンがあり、風呂とトイレが並んでいる。それだけの、何の変哲もない我が家だ。水の音がした原因なんて、見て取れない。きっと、状況が状況だから神経が尖ってしまっているだけだ。不審な音なんて、気のせいだと思いたかった。
「ごめん。でも、本当に違うの。私は、そんなことしてない。ねえ、聞いて」
 関端の声が途切れることなく流れ続けている。けれど、その言葉は俺の耳を素通りしていった。俺の意識は、音の原因を確かめないといけないという思いでいっぱいだった。音のした方へ行って、何もおかしなことはなかったと納得しなければいけない、と。
 じりじりと、廊下を進む。ふと、すぐ先に誰かのいる気配がした。姿は見えないし、音を立てたわけでもない。でも、そう感じる。上手く言葉にはできないが、誰かが近づいて来た時に触れていなくても圧迫感を受けるような、人が息づいている場所だけ空気の流れが変わるような、特有の感覚。
「……関端」
「何、橋詰君?」
 返事は、間違いなくケータイからのみ聞こえてくる。別段、声を潜めている様子もない。だから、もし近くに隠れているのならその声自体も俺の耳に届くはずだ。どこまで遠くに行ったのかは知らないが、少なくとも、関端が今も俺の部屋にいるということはない。それはつまり、俺の感じている誰かの気配が勘違いでないのなら、関端以外の何かがすぐ側で隠れているということに他ならなかった。
「……橋詰君?」
 問いかけてくる関端を無視して、行く先だけに集中する。
 軽くキッチンを流し見るが、水回りに異変は見られない。俺が聞いたのは、水が跳ねるような軽い音だった。蛇口から水滴が落ちていたのなら、もっと重たげな音がしたはずだ。洗面所も同じだろう。となると、音がしたのは風呂の中に違いない。
 覗き込んだら取り返しのつかないことになってしまいそうな不安を押し殺し、足を踏み入れる。そこに人の姿はなくて、深い安堵の溜め息が漏れる。相変わらず浴槽の中のぬいぐるみも姿を消したままだが、何事も無かったかのように元の場所に戻ってきていたら、そっちの方が最悪だ。やっぱり、こんなことに怯えるなんて馬鹿げてる。きっと、全部何かの間違いだ。無視して眠ってしまえば、明日にはきっと笑い話になるはずだ。それでも気になるなら、お浄めに塩でもばら撒けばいい。そう、自分を納得させようとする。
 しかし、そんな俺を嘲笑うように、今度は部屋の方で何かが床に落ちて跳ねる軽い音がした。そして、それと一緒に、水の飛び散る音も。百歩譲って、さっき感じた誰かの気配と風呂から聞こえた水音が気のせいだったとしても、今回は疑いようがなかった。俺は、さっきまであの部屋にいた。だから、そこにはもう誰もいないと知っている。窓も開けていない。物が勝手に倒れる理由なんて、これっぽっちもあるはずがなかった。
 行かないと。行って、確かめないと。ずっとここで震えてはいられない。今の俺を動かしているのは勇気なんかじゃなく、未知のものを未知のまま残しておけない臆病さだった。臆病さを武器に、一歩一歩、息を殺してすり足で進んでいく。
 部屋に入ってすぐ、足に冷たく濡れた感触があった。震えが背筋を走り抜け、思わずその場から飛びすさる。濡れた感触の、そして音の正体は、儀式のために用意した塩水のコップだった。押入れの中に置いたままにしていたコップが、床に転がり落ちていたのだ。当然、中に入っていた塩水も、辺りにぶちまけられてしまっている。俺は、気付かずそれを踏んでしまっていた。
 とにかく、これで音の原因は分かった。コップが倒れた理由は不可解なままだが。頭の片隅で、塩水はお浄めの道具だと関端が言っていたのをぼんやりと思い出す。ひとりかくれんぼを終わらせるために必要だ、とも。これは……もう一度、塩水を作りに行った方がいいだろうか。そんな悠長なことを考える俺のすぐ後ろで、ぱたんと音がした。
 とっさに振り向くと、棚から文庫本が数冊転げ落ちていた。横倒しになったわけじゃない。倒れるはずのない方向に、誰かが悪戯したように引っくり返っている。今度は、さっきまでとは訳が違った。同じ部屋の中で、誰もいないはずの俺の背後で、それは起きた。
「嘘だろ。何がどうなって……」
 また、どこかで何かがぶつかり合う音がする。視界の端で一瞬、洗面所の戸が少しだけ揺れたように見えた。
 そんなこと、あり得ない。人もぬいぐるみも、そんなところにはいない。それは、俺がついさっき自分の目で確かめた。後ずさると、再び足に湿ったものが、それも今度はくすぐったい感触の何かが触れた。そのぞっとする物体を摘み上げて目を凝らすと、それは、床に落ちていた綿毛だった。きっと、ぬいぐるみの準備をするときに落ちたものだろう。そう考えてやり過ごそうとしたが、すぐにそれはおかしいということに気付く。腹の中身を詰め替えるときに落ちたものなら、綿が濡れているはずはない。湿り気を帯びた綿毛が何を意味するのかに思い至った時、俺はそれを力いっぱい放り捨てていた。
「何だよ、これ。もう、何なんだよ……」
 全部疑って関端の仕業と決めつけてしまえば、ずっと気が楽になることは分かってる。でも、こんなのはどう考えたって人間業じゃない。だから、本当なんだと受け入れざるを得なかった。これまで自分が信じていた現実を否定して、奇怪で超常的な真実が存在するんだと認める以外、選択肢はなかった。
「……おい、関端?」
「うん」
 もしかしたら、もう通話を切られているかもしれないと思ったが、幸か不幸か、関端はすぐに返事をした。
「お前は、ただひとりかくれんぼの手順をこなしただけで、それ以外は何も仕掛けたりしてないんだな」
「うん。そんなこと、絶対にしてない。確かに、私はひとりかくれんぼをするよう橋詰君を唆した。私の目的のために、橋詰君を利用した。でも、ひとりかくれんぼで起きたことは、私は知らない」
「……分かったよ」
 もう、頭ごなしに否定できる段階じゃなかった。内心では胡散臭いと思いながらも、関端に勧められるまま手を出したひとりかくれんぼは、本当に成功したらしい。それなら、もう今さら騒いだってしょうがない。
「じゃあ、本当なんだ。ひとりかくれんぼをすると、鬼になったぬいぐるみに魂が宿って、あちこち動き回る。さっきから部屋で不自然な音がしてるのも、物が勝手に倒れるのも、タネも仕掛けもない心霊現象ってわけだ」
 思わず、乾いた笑いが漏れた。それは、どこか自嘲じみて部屋に響いた。
「なあ、一つ訊いていい? 関端の目的って、何? なんで俺にこんなことさせたわけ?」
「私は、ひとりかくれんぼの噂が本当なのか確かめないといけなかった」
「それだけ?」
 次の答えが返ってくるまで、しばらく間が空いた。
「……ううん。もし降霊術が本当にできるんだって分かったら、私にはまだやらないといけないことがある。ひとりかくれんぼの秘密が分かれば、助けてあげられるかもしれない人がいるから」
 曖昧な回答だ。そして、俺の理解をはるかに超えている。俺は投げやりな、けれど後ろ向きというわけでもない溜め息を零した。
「いいよ、分かった。もう、最後までとことん付き合ってやる。どうせ、俺もここまで来たら答えを知るまで引き返せないし。だから、関端の計画に乗ってやる」
「ごめん……ありがとう」
 電話越しの声は、雑音交じりで少しだけ湿っぽく聞こえた。
「それで? 俺は何をすればいい?」
 単刀直入にそう訊くと、関端は遠慮があるのか、少し歯切れ悪く答えた。
「ひとりかくれんぼをやって、気付いたことを教えてほしいの」
「気付いたこと?」
「私は、ひとりかくれんぼのことをもっと知らないといけない。そうしないと、いざという時ちゃんと計画通りに進まなくなるから」
「計画通りに、ね……」
 まあ、それくらいなら安いものだ。俺は魂なんていう曖昧で不気味なものの正体を知りたい。その途中で関端の知りたいことが分かれば伝えてやるくらい、別に大した手間でもないと思った。
「分かった。そうする。気付いたことはちゃんと教えるから、関端は自分の目的っていうのを果たせよ。俺が手伝ってやれることは、多分ないだろうけど」
 俺が鬼に負ければ、そもそも次の機会なんてものが二度とやってこないかもしれない。つまり、悪鬼探偵コンビはこれで解散だ。関端には一人でその目的を達成してもらうしかない。じゃあ、もし鬼を倒してひとりかくれんぼを終わらせられたら……? その時、俺はまた懲りずに関端と行動を共にするだろうか? その答えは、よく分からなかった。よく分からないけれど、もし関端にも苦悩があるのなら、それもいつか解決できればいいと心から願うことはできた。だから、俺の口からは関端にかけるべき言葉が自然と滑り出た。
「悪鬼探偵の健闘を祈る」
 電話の向こうで、「うん」と小さく、どこか吹っ切れたような関端の声がした。
 廊下を抜けた先には玄関があり、そこには鍵がかかっただけのドアがある。錠を一捻りすれば、簡単に外に出られるだろう。もしも心霊現象や超常的な力でドアが開かなかったとしても、ドアを叩いてなりふり構わず叫べば、隣近所が不審に思ってくれるはずだ。けれど、もうそんなことはどうでもよかった。
 ケータイを持ち直して、気を引き締める。
「ひとりかくれんぼをやって分かったこと、と言うか真実なんだって認めざるを得なくなったことはある。魂は――これを魂って呼んでいいのかは知らないけど――確かに存在する。それで、ぬいぐるみっていう空っぽのヒトガタを差し出してやれば、そこに宿ることもできる」
 言葉にすると、やっぱり支離滅裂だ。でも、おかげで逆に、そういうものだと割り切りやすくもあった。それは、漫画や映画の話で盛り上がる時の感じにどこか似ていた。誰もがそれをフィクションだと知っていて、それでも構わないと共有し、話に花を咲かせられる。体験したことをそのまま抱え込むよりも、物語みたいに語ってしまう方が、ずっと気が楽になるらしかった。
 ゆっくりと部屋を出て、改めて鬼を探しに向かう。ひとまず、キッチンで塩だけでも確保しておこうと思った。一歩ずつ慎重に歩きながら、ふと疑問が浮かぶ。「なあ、関端」と声をかけると、すぐさま「何?」と返事があった。
「鬼に見つかったら普通、そこでかくれんぼは終わりだよな」
「そうだね」
「じゃあさ、ひとりかくれんぼで鬼と出会ったらどうなるの?」
 無事に塩の小瓶を見つけて、それを手に引き返す。
「どうだろう。見つかったらそこでおしまいっていう話もあるし、上手く逃げて塩水で除霊すれば勝てるって読んだこともある」
 冗談じゃない。見ただけでゲームオーバーかもしれないようなヤバい奴と遭遇させるなんて、どうかしてる。鬼に見つかったら無事で済むかは分からないけれど、鬼は探さないといけない。本当に、不条理なゲームだ。
 なんとか部屋に帰り着き、中を覗き見る。端から端までをざっと眺め回し、最初は「それ」があることに気付かず素通りして、それから改めて視線を戻した。脳が「それ」を認識することを拒んだのか、一瞬、思考が停止した。部屋の中央、テーブルの上に、アッキーが帰ってきていた。関端が来て降霊術を始めるまでは、ぬいぐるみの定位置になっていた場所だ。アッキーは、関端が俺の家に来たことも部屋と風呂を行ったり来たりして儀式の準備をしたことも、何もかもを否定するようにいつもの場所に鎮座していた。けれど、その腹には確かに関端に刻まれた傷があったし、体中には赤い糸が絡み付いている。
 ぐっしょりと濡れて力なく俯く金髪の鬼。その姿を前に、俺は、やっぱり塩を取るだけじゃなくてちゃんと水と混ぜておけばよかった、なんて今更なことを思っていた。どうしていいか分からずに、しばらくその場に立ち尽くす。鬼に塩を振り撒けばいいのか、何もしない方がいいのか。関端にいますぐ問い詰めたかったが、上手く声が出なかった。
 そして突然、アッキーがわずかに動いた気がした。中に詰まった米が崩れて揺れただけかもしれない。けれど、そんなことは二の次だった。ぬいぐるみの頭が傾ぎ、俺は、アッキーと目が合ったと思った。瞳孔のないパッチワークの白い目なのに、その目は俺のことを見ているとしか思えなかった。本当に、訳の分からない感覚だった。
 俺がアッキーと見つめ合って抱いたのは、朝起きたら自分の姿が巨大な虫になっているのを見つけるような不快感だった。そうでなければ、酒に酔って、寝ている間に悪戯であられもない姿にされたせいで、目が覚めた時に一瞬その姿が自分なのだという実感を喪うような不調和な感覚だった。
 俺は、それに耐え切れずに逃げ出した。けれど、大して広くもない家では行き場なんて限られている。結局、風呂場に駆け込み扉を閉めて、その戸の(ふち)を押さえたまましゃがみ込んだ。
 少しだけ落ち着きを取り戻すと、固く握りしめたケータイから関端が俺の名前を呼び続けているのが聞こえた。俺は、冗談みたいに震えている手をなんとか持ち上げ、ケータイを耳元まで運ぶ。今見たことを、どうにかして関端に伝えないといけないと思った。言葉にして、物語にしてしまわないと、ありのままでは飲み込みきれなかった。
「……いた。あいつが……戻ってて」
「えっ?」
 動転した俺に、関端が怪訝そうな声をかける。上手く説明したいのに、伝えようとしているものが先走って、言葉がそれに追いかない。
「橋詰君、落ち着いて。落ち着いて、ゆっくり呼吸して。大丈夫、大丈夫だから」
 それは、別段優しさに満ちた声音ではなかった。いつもの、冷静さに満ちた、一本調子な喋りだった。それは紛うことなき関端らしさで、俺はそのことに安心した。
「鬼……鬼だった」
「アッキーを見たの? 鬼がどんな存在なのか、その目で見たの?」
 粘ついた唾を飲み下し、なんとか言葉を繋ぐ。
「ああ、見た。何か分かった、かもしれない。あいつは……異物だ。いちゃいけないものだった。なんて言ったらいいのか……」
 関端は、俺がもっと落ち着いてまとまりのあることを喋れるようになるまで待っていた。
「大丈夫? ゆっくり、詳しく話して。橋詰君が見たもの、感じたこと」
 何を見て、何を感じたか。それを正確に答えることは、できそうもなかった。あの時向き合ったものは、一度に言葉にするには、あまりにも複雑すぎた。けれど、あの時目が合った鬼という存在を言い表す言葉なら、自分でも驚くほどあっさり口をついて出た。
「鬼は、あれは……俺だった」
 耳に当てたケータイの向こうで、関端は束の間絶句した。
「……待って。えっと、ごめんね。でも、よく分からない。だって、橋詰君は橋詰君でしょ? それで、鬼は鬼、アッキー。なのに橋詰君が鬼って、どういう意味?」
「俺は……そう、確かに俺は俺なんだ。でも、あれは違う! ……アッキーはそんなのじゃなかった」
 また感情が昂ぶりそうになるのを、ぐっと堪える。
「俺は、アッキーとは別物だよ。そんなこと、分かってる。でも、あれは……鬼と向き合った時に感じたのは、他人を見るのとは全然違う感覚だった。自分がいないはずの場所で自分を見つけたっていうか、自分が自分の中だけにいるわけじゃないっていうか、あんなのは……」
 そうだ、あれは――。
「鏡を見た時の感覚だった」
 そんなこと、本当に馬鹿げてる。俺は、小さな鬼のぬいぐるみを見て、自分を見ているみたいだなんて思ったのだ。姿形は全く違う。似ているものなんて何一つ無いはずなのに。
「俺とアッキーに、共通点なんて無いのに」
 力なく呟いた俺に、関端がぼそりと一言、「……爪」と呟いた。
「爪?」
「ほら、橋詰君の爪。あれが、アッキーのお腹に入ってる」
 ぬいぐるみの腹から綿を抜いて代わりに米を詰めた、あの手順。その時、俺の爪も米と一緒に腹の中に入れられたのだった。けれど、それで納得しろというのは、やっぱり酷だと言いたくなった。
「あの爪で……そのせいで、俺がアッキーを見て他人じゃないような気がしたってこと?」
 こんな状況なのに、そのあまりの意味不明な理屈に、変な笑いが漏れ出す。
「なんだよそれ、俺の存在価値が爪程度って言われてるみたいじゃんか」
 俺は別に、自分を高く評価しようというつもりはない。自分がこの世界に必要な存在だなんて思ったことはないし、唯一無二だとも思えない。俺がいなくなったって世界は全く変わらないだろうし、仮に俺が何か大きな仕事をしていたとしても、簡単に後を引き継げる人間はいくらでも現れると思う。けれど、俺の存在が爪の切れ端程度で取って代わられるようなものだったとなると、それはさすがに、少し(こた)えた。
「そんなこと、言うつもりない。でも、あの爪以外に理由が思いつかないから。アッキーの中に橋詰君の一部が入ってるからって、アッキーそのものが橋詰君と似た存在になるのは意味が分からないけど……」
「俺だって、別にぬいぐるみの見た目が自分に似てると思ったわけじゃない。ただ、姿は違っても、同じだと思ったっていうか……」
「魂を共有してるってこと?」
「いや、共有って言われると違う気がするな。俺とアッキーはあくまで別の存在。一緒にはならない。けど、別々なのに、中には同じものが詰まってるような、そんな気がした」
 しばらく、会話に間が生まれた。関端が、俺の言ったことを整理して深く考え込んでいるようだった。沈黙が苦痛になり始めたところで、ようやく関端が再び口を開いた。
「じゃあ、アッキーの体はただのぬいぐるみ――もちろん橋詰君とは違う――だけど、アッキーに降ろした魂は、橋詰君にとって、自分と同類だって感じるものになったってこと?」
 関端のその解釈を頭の中で反芻し、噛み砕く。その説明は、俺の体験したことを上手く言い表しているように思えた。
「そうだと思う。体は違うし、あくまでも別の存在。でも、それぞれに同じ魂が入ってる。うん、それ以外に、言い様はないと思う」
 けれど、本当にそんなことがあるのか。理性がそれを否定したがる。とは言え、それを疑い始めるなら、ぬいぐるみに魂が宿ったなんて騒いでいるこの状況がそもそも異常なのだ。全て諦めて、そういうものとして、頭を働かせるしかなかった。
「問題は、鬼の魂が一体何なのかってことだよな。俺は今まで他人を見て、こんな感覚になったことがない。ひとりかくれんぼで霊を降ろすっていうこと自体がそういうものなのか――」「――やっぱり橋詰君の爪が入った体だから、そういう魂になったのか」
 関端が、冷静にそう指摘する。関端には見えないと知りつつも、俺は深く頷いた。
「俺は、関端の言った方が正解じゃないかって気がしてる。これは俺の想像だけど、魂には元々区別とか個性なんてないんじゃないか?」
「個性がない……? でも普通は、他人には自分と違う人格があるって区別して接するでしょ? 個性がないのに、別人って意識が生まれるの?」
 関端の問いを踏まえて、自分の思考を整理していく。
「それは、やっぱり体が違うからだと思う。魂は、体っていう容れ物に入れられて、それぞれバラバラになる。で、体にはみんな特徴があるし、成長していけば、もっと変わっていくだろ。それで、魂が体の個性に染まって、他の体に入ってる魂と自分は違うんだって感じるようになって、自我だとかアイデンティティだとかって錯覚してるのかもな」
 例えるならば、果てしなく広い海のイメージだ。海の水はどこまでも連綿と続いていて、全体として存在している。そんな海水も、コップをいくつか用意して別々に分けてしまえば、なんだかそれぞれ別物に見えてくる。そのままコップを別の場所に移して放置しておけば、やがては環境に応じて汚れの度合いが違ってくる。元はほとんど同質だったはずの水も、器と世界次第で色を変えてしまう。
 まるで、魂が体という器に汲まれて個性を得るように。
「さっきさ、人が死んだ後、魂はどこに行くのかって(はなし)しただろ。あれ、何となく分かった気がする。きっと魂が行く場所は、天国とか地獄とか、そんな色鮮やかなところじゃない。もっと茫洋としてる海みたいなところに還るんだ」
 水の入ったコップがもし割れてしまったら、中の水は零れてしまう。そして、やがては元の大海に還るだろう。もしかしたら、しばらくは周囲の水とは違う色で漂って個性を主張するかもしれない。けれど、やがてはそれも薄まり、溶けこんでゆく。きっと後に残るのは、元通りのだだっぴろい大海原だけだ。
 そして、次に別のコップに汲まれた時には、その新しい器と環境に影響されて、全く新しい個性を培うんだ。俺の爪を孕んだぬいぐるみに宿った魂が、俺と同じ色の個性に染まったように。
 考えが、まとまっていく。求めていた答えに、近づいているのを感じる。俺の知りたかったことが、関端にとって役に立つ情報なのかは分からない。けれど、今の俺に出来ることは関端に俺の真実を伝えることだけだ。だから、ぼんやりとした直感が頭の中で形になる端からそれを言葉に変換し、口に出していく。
「魂のせいだと思うこと自体が、間違ってたんだ。俺を俺たらしめてるのは、この体の方だったんだよ。体が先にあって、そこに魂がくっついてきて。それで、俺が自分を他の誰でもない俺なんだって感じていられるようになる」
 ケータイに語りかけながら、おもむろに戸を押し開けて風呂場を出る。どこかで鬼が待ち受けているかもしれないと思ったが、気分は不思議なくらい落ち着いていた。もしかしたら、自分の中にあったわだかまりが解けてきて、今まで苛まれ続けてきた漠然とした不安だとか恐怖だとかから解放され始めているのかもしれない。確かな足取りで、元いた部屋へと向かう。そろそろ、このかくれんぼを終わらせる潮時のような気がしていた。
「だから、もし俺が自分を見失っても、記憶を失っても、きっと俺は失われない。この体が、俺を覚えてる。俺は勝手に意識とか精神とか小難しいことで悩んでたけど、そんなことしなくても、ここにもっと確かな俺の証があったんだ」
 俺は、自分の精神と肉体がいつかばらばらになってしまうんじゃないかと恐れていた。俺の意識しないところで、俺の体が俺を勝手にどこかに(いざな)ってしまうんじゃないかと。でも、それで良かったんだ。それも含めて、俺という存在は形作られているのだから。俺が生まれてきて、これまでどんなものを食べ、どんな生活を送り、どんな怪我をしてきたか。どんなものを見て、聞いて、嗅いで、何を積み重ねてきたのか。その全てが、この体には刻まれている。その体が選んだことなら、それは俺が意図していなくても、間違いなく俺という個性に、存在に裏打ちされた行動だ。
 部屋の入り口には、塩の小瓶が落ちていた。自分でも、いつの間にそれが手元を離れていたのか定かじゃない。きっと、さっき部屋から逃げ出した時に思わず放り出したのだろう。恐怖を前にして、俺の体は塩の瓶を手放した。この行動が正解だったかどうかは分からない。それでも、その行動は間違いなく俺という人間が選んだのだ。それなら、俺はそれを受け入れよう。床に転がった小瓶を尻目に、部屋の中に足を踏み入れる。
 テーブルの上からは、またアッキーの姿が消えていた。けれど、そのことに対する驚きは湧いてこない。アッキーが鬼らしくあちらこちらを動き回っているのは、ごく自然なことだと、そう思えるようになっていた。それに、目には見えなくても、それ以外の色々な感覚がアッキーの存在を訴えている。俺は、その場にゆっくりと腰を下ろした。
「ああ、鬼が近づいてる。すぐ、近くにいる」
 ぎりり、と。廊下の板張りが、何かの重みで少し軋んだ音を立てた。
「……そっか、俺の後を付いて来てるんだ」
「橋詰君……? ねえ、橋詰君! 聞こえてる? 大丈夫なの? 返事して!」
 関端の声が、どんどん大きくなり、熱を帯びていく。なんだ、そんな風に感情的に叫ぶこともできたのか。それが面白くて、その発見が嬉しくて、俺は怖くて堪らないのに、震えも全然止まらないのに、笑い声を上げずにはいられなかった。
「なあ、関端。ちょっと、話があるんだけどいいか」
「話?」
「うん、ちょっと愚痴なんだけどさ……。お前、本当によくも騙してくれたよな」
 むくれたようにそう言うと、関端は途端に黙りこくってしまった。ちょっとからかってみるくらいのつもりだったけれど、関端なりに重い罪悪感を抱えているらしい。
「冗談だから、そんな塞ぎ込むなって。……あのさ、俺は、ひとりかくれんぼをやって良かったと思ってるよ。きっと、俺には必要だったから」
 他に、伝えておいた方がいいことはあるだろうか。言うべきことがたくさんあると思ったが、そのどれも間違いのような気もした。だから、しばらく考えてから、俺は言うべきことを全部忘れて、言いたいことだけを口にした。
「だから、何て言うか……ありがとな」
 それだけ言い残して、関端の返事を待たず電話を切る。
 ひたひたと、何かが一歩、また一歩と近づいてきているのを感じた。また、気味の悪い音がする。震えそうになる手で、ケータイを握りしめた。大丈夫。これで、もう何も怖いものなんてない。
 目を閉じて、かくれんぼの終わりを待つ。隠れている最中に眠ってしまう子供のように、目が覚めたら暖かい夕日に照らされて誰かの腕に抱かれ、家路についていればいいなと思った。まあ、これから還るところはそんなノスタルジックな場所じゃないだろうけれど。
 一度はコップに汲み分けられた水が大海原へと還っていくように、器を離れて、元いた場所へと戻っていく。それはきっと、真っ赤に脈打つ色水が青い海にたゆたって、薄まって、やがで正体をなくしていくような光景だ。
 体という輪郭も、俺という自我も、全てが意味を喪っていく。
 ――見ぃつけた。
 かくれんぼの最後を締めくくるその言葉は、きっと「おかえりなさい」という意味なんだと思った。

悪鬼探偵

悪鬼探偵

  • 小説
  • 中編
  • 青年向け
更新日
登録日
2016-02-13

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  1. 依頼の日
  2. 結成の日
  3. 捜査の日
  4. 真実の日