あいおり

あいおり

青木 舞依

1

 相川真也(あいかわしんや)が三上高校に通い始めて早三年目。まさか、この歳で最強の男に出会うとは。
 三上高校正門前で、相手に回し蹴りを入れた眼鏡の彼は、由緒正しき四ツ谷高校の制服を身にまとっていた。
「一昨日来やがれ!」
「滝本(たきもと)。うるさい」
 古い捨てぜりふを吐いて、同じ四ツ谷の制服を着た関口(せきぐち)にたしなめられている。滝本と呼ばれた彼はどうやら、関口の友人らしい。相川と関口は中学時代の友人で、つまり関口は、相川と彼の共通の友人ということになる。
「相川。こいつ、滝本維織(いおり)」
「ああ、俺は相川真也……。ここに通ってる」
「は? 三上?」
 滝本はつり目をさらにつりあげて、倒れている男を見やった。
「こいつ三上か。県内有数のヤンキー校出身かよ、
弱えな」
(後輩だわそれー……)
 頬に靴底のあとがくっきり残っている。戦士の勲章だな、と相川は心のなかで合掌した。
 滝本の言い分では、おとなしく校門の前で待っていたところ、色髪の彼に絡まれ、いらっとしたから回し蹴りを食らわせた、らしい。
 相川は顔を引きつらせ、短気にもほどがあると空を仰いだ。
「滝本が強いんだよばかっ。制服着たまま喧嘩するなって前も言ったろ。ばれたら退学だぞ」
 県内で知らぬ者はきっといない。私立四ツ谷高等学校は、日本一東大、京大進学率が高い。集まるのは類希なる天才ばかり。そのため、生徒数もほかの高校よりもはるかに少ないと聞いている。
 四ツ谷の生徒は、みんなが重い看板を背負っていると思っていたが……。
「なに見てんの?」
「えっ」
「相川が勉強わかんねえっつったから、関口についてきたんだけど」
「いいいいや」
(呼び捨ても突然すぎだろ)
 ことの顛末はこうだ――。相川は苦手な数学を中間テストで落としてしまい、関口に泣きついた。四ツ谷に通う彼なら助けてくれると思ったからだ。関口は「自分は文系だから」と一旦は断ったものの、後日了承のメールを入れてきた。そして今日、相川が学校をでてみればこの有様というわけだ。
 滝本はかかとの高いローファーを鳴らし、相川に近づいた。
 至近距離で見る彼は、前髪を右に流して目を見せていた。瞳の色はグレー。まるでカラーコンタクトみたいだ。相川より幾分背が低く、華奢で女のようだった。
「駅から少し離れたとこ、ちっさいマックあんだよ」
 相川が思わず視線を逸らすと、彼は笑った。
「行こうぜ」
 滝本は鼻歌を歌いながら、相川と関口の前を歩いた。
「機嫌直ってよかったー……」
「短気だな、あいつ」
「だろ? キレたらすぐに手でるの。怒りの沸点も低いし。こっちはひやひやしっぱなしだよ」
 関口はため息をついた。
 三上高校には不良が多いため、喧嘩を見ない日などないが、滝本ほど短気な生徒はなかなか見ない。喧嘩をするということは、よほど強くなければ自分の拳を痛めてしまうからだ。
(それにしてもきれいだったな)
 滝本の回し蹴りは、美しく宙に弧を描いていた。首を狙ったのだろう、つま先は喉もとに直撃し、喘ぐひまもなく後輩は倒れた。
「なあ」
「あ?」
 相川は少し前を歩く滝本に声をかけた。
 きらきらした瞳が相川を捕らえる。
「なんかやってたの?」
「は?」
 切り返しは鋭く、相川は一瞬言葉に詰まる。
「さっきの、回し蹴り」
「ああ。惚れた?」
「えっ」
「嘘。なんだよ」
「あ、きれいだったから、空手かなんかやってたのかなって」
 滝本と話すと、調子が狂ってしまう。彼の話すペースに巻きこまれていく。
 滝本は頬を掻いた。
「空手やってる」
「やっぱり。ただのけんかずきじゃ、あんなにきれいに決まんねえもんな」
「そうかもな」
 むっ、と顔をしかめ、滝本は前を向いてしまう。
 突然、物理的に距離を離され、相川は首を傾げた。
「あれな、照れてる」
「えっ」
「滝本、ツンデレなの」
「へえ」
 ツンデレ、という言葉になじみはないが、どうやら機嫌を損ねたわけではなさそうだ。
「早くしろよ。誘ったのお前らだろ」
「あと、口がめちゃめちゃ悪いけど、そこはご愛嬌ってことで」
「了解」
 関口は相川に耳打ちし、悪い、と滝本の背中に向かって叫んだ。

2

 昨夜、関口の中学時代の友人で、よく会話にも上る相川真也という男に勉強を教えた。四ツ谷でもなぜ入学できたのかわからないくらい成績が悪い生徒もいるが、相川は比べものにならないくらい――そう、馬鹿だった。
 三上高校の噂はよく耳にする。地元にある高校だからなおさらに。世間体のためにただ入学、卒業できればいい、と思っている人間しか通わない。そのため生徒も校舎も荒れ果て、退学者もあとを絶たないだとか。四ツ谷とは別の意味で生徒数が少ない。
 相川は三上の校風に染まっていた。典型的な馬鹿だ。周りに同調しているあいだに流されてしまう。
 髪は根元までオレンジ色で、眉毛も茶色なのに、目の色だけが真っ黒で変にアンバランスだった。
 昨日は数学を教えた。きっと授業もまともに受けてこなかったのだろう。わからないの一点張りで、滝本は殺意さえ覚えた。
 それでも挑戦してみようという姿勢はよく、相川が意外とまっすぐなことを知った。
 早朝の三上駅はひともまばらで、滝本はあくびを噛みころしながら鞄を持ち直した。
 滝本の地元から四ツ谷まで、電車で一時間以上もかかる。その間ひまなので、先日手に入れた相川のメールアドレスを呼びだしてみた。
(……なにメールすんだ)
 昔から交友関係が狭く、メールアドレスも、家族や関口以外と交換するのはひさしぶりだった。
 滝本は戸惑う。
(おはようとか? いやいや、用もねえのに変だよな。恋人じゃねえんだし)
 悩んでいるうちに乗り換え駅に着いてしまった。
 人混みに紛れながら電車の到着を待つ。操作を忘れたスマートフォンは、スリープモードに入っていた。
「?」
 暗い画面に一通のメール通知。タップすると、相川からだった。
『昨日はありがと。よかったら期末前も教えてください。関口からあまいもんすきって聞いたから今度ケーキおごる』
 句読点だけのそっけない文面だけれど、ところどころのひらがなや敬語がやわらかい印象を与える。
 周りに不審に思われないよう、滝本は口もとに手を当ててにやりと笑う。
 オレンジの頭が洋菓子店で男にケーキをおごるさまはどれだけ滑稽だろうか? 想像して吹いてしまいそうだ。
『おう。でもケーキはいいや。マックでパンケーキ奢って』
 アナウンスが電車の到着を知らせる。
 滝本はくすぐったい気持ちで、スマートフォンを鞄のなかに放りこんだ。

3

 照りつける太陽の日差しに容赦が感じられなくなった今日、数学の公式を聞き流しながら、相川は進路を決めかねていた。今年に入って二度目の進路希望調査票が配られたからである。
 三上高校は、進学より就職を選ぶ生徒が九割を占めている。もともと頭はよくないので、相川も就職するつもりだった。
 ネックになったのは、一般企業の会社員や公務員にはなりたくないと思ったこと。わがままも言っていられない時期なのに、いまさらになって進学するかどうか迷っていた。
(アパレルに就職しても給料低いしな……)
 服飾方面への就職も考えた。相川は、服やピアスなど、常に身につけていられるものがすきだ。アルバイト代もほとんどが服に消えていく。
 そろそろ、本気で将来について考えなければいけない。
「んあ」
 メールだ。相川はいまだにガラパゴス携帯を使っている。スマートフォンのほうが便利なのはわかっているが、どうしても使い慣れた感じから抜けだせない。
(維織?)
『俺のことはすきなように呼べ』
 あの日、横柄な態度で店員に注文して、滝本は相川に言った。
 えらそうだとかなにさまだとか反論したいことはたくさんあったけれど、彼にはなにを言ってもむだな気がするので、相川は開き直った。
『維織』
『!』
『だめだったか?』
『いいけど。ずうずうしいな』
 そう答えた滝本の表情は、少しむっとしていた。
 滝本の勉強の教え方は三上の教師よりもわかりやすく、また教えてほしいという相川たっての希望で、メールアドレスを交換してもらった。
 あれから早半月が経ち、そろそろ期末テストも迫ってくるので、また頼もうと思う。
 中性的な見た目にあい、滝本は無類の甘党らしい。お礼は、お気に入りのファーストフード店のパンケーキがいいと言われている。
『校則違反なう』
 文面とともに送られてきた写真は、こちらに背を向けて教壇に立つ教師の姿。そういえば、四ツ谷では授業に集中させるために、生徒の携帯を朝のホームルームで回収すると言っていたはずなのだが。
『ばかだろ』
『相川に言われたくねえ』
『けんか売ってんの?』
『勝てると思ってんの?』
 売り言葉に買い言葉なメールのやりとりに、相川はつい笑みをこぼした。
『俺も校則違反な』
「あーいかわ」
 間延びした声とともに額を手のひらでつかまれ、相川はうしろに仰け反る。
 数学担当の数宮だ。相川の苦手な教師である。その理由は――。
「すいません」
「おれの授業より彼氏とのメールか? 楽しそうに笑いやがって」
 この、同性愛が当たり前だと思っている態度。数宮がゲイだということは周知の事実だが、周りもみんなそうだと勘違いしている節については理解したくない。
「友だちです」
「男の名前じゃん」
「と・も・だ・ちです」
「はいはい。友だちでも彼氏でもいいけど携帯使うな」
「うぃっす」
 楽しくないわけがない。滝本ほど返しの辛辣な人間はいままでいなかった。これが異性だったら、ただ気が強くて面倒くさいと思っていただろう。滝本が男だからこそ、きつい性格が好ましいと思えた。
 数宮に怒られるのはかなわないので、相川は携帯をポケットにしまった。

4

 相川は部活動をしていない。アルバイトは居酒屋で、基本的に土日しか入らないため、平日は単に家に帰るだけだ。
 あくびを噛みころしながら下駄箱をでると、滝本が三上高校の正門前に立っていた。
 彼は相川の姿を見つけると、さわっていたスマートフォンを鞄に入れ、仁王立ちでこちらを睨んでくる。
「なんで返信くれねえの?」
「先生に、ばれたから」
「さみしかったんだけど」
「うっ……」
 透き通った彼の瞳に捕らえられると、息が詰まってしまう。
 決して自分が悪いわけではないのに、なんだか謝りたくなってしまった。
「維織、女だったらぜってえ彼女にしたくないタイプだな」
「は? 喧嘩売ってんのかよ」
「ちがうから! 束縛ひどいだろ」
 今度は滝本の息が詰まったようだった。図星だったかもしれない。
「まあ、ひどいだろうな」
 そのつぶやきは相川に届かない。
 滝本には恋人という存在ができたことがなかった。
 片想いは何度もした。想いを伝えられない、伝えてしまえば壊れる友情への葛藤も、幾度となく経験した。一度も恋が叶わなかったのは、対象が全員男だったからである。
 同性愛者にとって生きやすい世のなかになったとはいえ、まだ世間の見る目は冷たい。四ツ谷でも昨年、恋愛禁止の校則を改定したのは同性愛者の同級生だったが、教師たちのあいだでもしこりは残っているようだ。
「いーおり」
「……なに」
「怒んな。ごめんな?」
 オレンジ頭が滝本を覗きこむように揺れた。
「怒ってねえし。悪いと思ってんならアイス奢れ」
「なんでうえから目線なんだよ……」
 三上駅近くのコンビニに寄る。レジには若い店員がだるそうに立っていた。
「四ツ谷って授業おわんの早くね? 四ツ谷駅からここまでけっこう時間かかるよな」
「毎日五時間授業。他より一時間くらい、終わんの早いな。終わりのSHRのあとに大学講師が組んだカリキュラム受けるやつ多いから、実質六時間授業だけど」
「維織は受けてねんだ?」
「早く帰りてえし」
 滝本がカップのアイスを指し、相川はそれとパックのミルクティーを持ってレジに向かった。
 そのうしろ姿を灰色の目が切なげに見つめる。
(学習しろって)
 相川のやさしさは、滝本とって毒だ。勝手な呼び捨ても苦笑いで許してくれて、約束をしたわけでもないのに校門前で待っていれば、ほぼ毎日会ってくれる。こうやっておごってくれることだってざらじゃない。
 こんなにいい男を、すきにならずにいられるわけがない。
 いちど自覚した気持ちは、心の奥でふくらんでおおきくなる。
「維織。行こ」
「おう」
 自分を呼ぶ声も、根本からやさしい性格も、オレンジ色のその髪だって、滝本の毒舌を平気で返してくれる口に、なんど触れたいと思ったか数えきれない。
 外にでると、太陽が激しく照りつけていた。
 ちょっとした死角に腰をおろし、滝本はアイスを、相川はミルクティーを口に運ぶ。
「維織維織」
「ん?」
 カシャ。シャッター音が切られたことに気づき、相川のカメラアプリで内カメラになっていることに気づき、滝本は照れ隠しに肩を小突いた。

5

 滝本が、相川に彼女がいることを知ったのは、お昼休み、いつものように関口と昼飯を食べながら、くだらない話をしているときだった。
 梅雨まっただ中の空はどよんとしていて、より気分を沈ませる。
「もー限界なの。見てるほうがあほらしくなってくる。真也の彼女浮気してんのに、あいつ怒らないんだぜ?」
 関口は机に突っ伏して、飲むヨーグルトに刺さるストローをぐりぐりと回した。
「それだけすきなんだろ」
「だろうなー。気づかないふりしてるっぽいもん、あいつ」
「三上って馬鹿だな」
「まじで」
 やだな、なんて笑う関口に苦笑を返す。
 彼女がうらやましいと思った。
(寵愛されてんじゃねえか)
 相川のどこが不満なのかわからない。相川になくてほかの男にあるものなんて、ろくなものでないはずだ。いっそ、彼女のほうから手酷くふってくれたらいいのに。
「恋愛ってめんどくせえ」
「滝本もそう思う? 真也が反面教師だわ」
「それな」
 そう言って滝本は笑う。咀嚼したパンがやけに味気なかった。
 学校がおわってから、いつものように相川に会ったけれど、まともに顔を見ることができなかった。
「今日体調悪いの? 元気ねえな」
「んなことねえよ。小テストで満点取れなかったくらいで」
「嫌味かよ! 小テストなんてすぐ紙飛行機になるな、うちでは」
「まじ底辺校」
「うるせえ」
 げし、と相川の足を蹴る。激しい通り雨のせいでできた水たまりを踏んで、ローファーのかかとを汚した。
 友人同士で繰り広げられるなにげない会話や日常。そのすべてが滝本には特別で、淡い恋心を抱いてしまう自分の性を呪った。 

     ***

『なんで電話でねえの?』
『朝っぱらから野郎の声なんか聞きたくねえ』
『女かよ』
『喧嘩なら買うぞ三上来い』
 休日の今日は外にでる用事もなく、滝本はただベッドでごろごろしつつ、相川とのメールに返信していた。
 そうとうひまなのか、相川はアルバイトの時間以外、だいたい滝本に電話をしてくるか、メールを寄越してくる。内容は、例えば、その日教えた勉強のやり方があっているかとか、今度服を買いに行くのに一緒に行ってほしいとか、そんなものばかり。
 さすがに将来のことを見据えてか、学業に関しては惜しみなく滝本を利用している。
「いいんだけどなー……」
(友情の延長なのかも)
 男女の友情は度を過ぎると恋になる。それが同性同士なら? ――答えは、ならない。 
 時間をおいて帰ってきたメールに滝本は目を見開き、枕に顔をうずめた。
『けんか売りに来た』
「つまり三上にいるってことだろばあか……」
 なにかのついでだと思うけれど、文面を見るかぎり、滝本に会ってくれる気だろう。
 そのメールに返信する気にはなれなくて、滝本はすばやく相川の番号を呼びだした。
 ややあって、電話越しに相川の笑い声が聞こえる。
『メールしてから一分も経ってねえけど?』
「うっせえ。いまどこ?」
『学校。いまから迎えに行くから、ピアス買いに行くのつきあってくんね? 四ツ谷のショッピングモール』
「おう」
 おおかた、補習にでも呼びだされたのだろう。滝本が着替えているあいだにも電話は繋がっていて、相川は黒染めして来い、と担任にしかられたと言う。
 短いあいだ、どうでもいい話ばかりした。滝本の準備が整ったころ、相川は電話を切る旨を伝えてくれる。
『もう着く』
「家の前で待ってる」
 財布と、スマートフォンと、家の鍵を引っ掴み、誰もいないリビングに駆け降りる。高揚した気持ちと裏腹に、冷たいフローリングが敷きつめられた広い部屋は、殺風景に感じた。必要な家具は揃えられている、はずなのに。
「……行ってきます」
 返事は、自分が閉めた扉の音だった。
「維織」
「おう。おはよう」
「おはよ」
 鍵を施錠したところで、うしろから相川に話しかけられる。学ランだと思っていたのに、現れた彼は白いパーカーにジーンズという出で立ちだった。
「学校行ってたんじゃねえの?」
「んー、進路相談にな」
「えっ」
 相川は、腰に繋いだ鍵の音をじゃらじゃらさせて、恥ずかしげに笑った。
「専門学校考えてる」
「どんな?」
「現実的じゃねえとか笑うなよ」
「笑わねえよ」
「服、すきだから。ファッション系」
「ふーん」
 悪くないと思った。すきなことを仕事にできるように、そういった道へ進もうと努力することはかっこいい。いち男として尊敬できる。
「いんじゃね?」
「ほんとにそう思ってんの?」
「思ってなきゃ言わねえよ。他人に操立てるほどお人好しじゃねえから」
 そっか。維織はいいやつだな。
 風でかき消されるほどの小声で、相川は言った。ちらりと横顔を盗み見れば、うれしそうに微笑んでいる。
 心臓がどきどきとうるさい。鼓動が早すぎて、殺されてしまうのではないかと思った。
 肩にかかった髪を払うふりをして、滝本は自分の頬に手を当てた。
 ああ、熱くて、朝の冷気にさらされているのに熱くて、どうしようもなく胸が苦しくて、弾けてしまいそうだ。
 四ツ谷行きの電車は満員だった。そういえば、四ツ谷駅の近くの美術大学で学祭が開かれていると、関口が言っていたっけ。
「あっちいな」
 曇りのせいでふだんより気温が低いとはいえ、長袖を着てきたのは失敗だった。
 相川も滝本も、服の胸もとをぱたぱたとさせた。
「あーうぜえ人間うぜえ」
「でかい声だすな。てか、悪態つくな」
「暑苦しいんだよ」
「それはみんな一緒。一回黙れ。な?」
 満員電車のなかで右に揺られ、左に揺られ。クーラーもまだ効き始めていないし、相川は少しいらいらしているようだった。
 さすがの滝本もしゃべるのをやめて、扉に背を預ける。
 誰かのヘッドホンから音漏れするやかましい曲。楽しそうに談笑する女の子たちの声。部活動に向かうであろう少年が読む本のページをめくる音。黙っていれば、すべてが鮮明に聞こえた。
 ふと、相川が黒い目をこちらに向ける。
「うわっ」
「!」
「やだー、揺れすぎぃ」
「席座れてよかったねー」
「ねー」
 電車が急カーブを曲がり、車内のざわめきは一段とおおきくなった。
 学校に行くときもこんな感じで、いつも扉に背中を向けてポールに掴まって、ああ、でも今日はちがう。
 額の汗をぬぐっていた相川がよろけ、滝本の顔の横に手をついた。窓ガラスがびいんと響き、滝本の脳内にまで伝わる。
 手から汗がどっと吹きでた。
「わり、維織」
「……壁ドンだな」
「……お前、ほかに言うことねえの」
「うん? ああ、大丈夫。気にすんな」
 相川は口の両端をあげ、また揺れた反動で、滝本との距離を詰めた。
「どーん」
「近えよ」
「かわいげがねえな」
「喧嘩買うぞ。次の駅で降りろ」
「次は四ツ谷だけど」
「ちょうどいいじゃねえか、覚悟しろ」
 ため息をつくような笑みをこぼし、相川は腕を除けた。
 しばらくして電車はゆるやかな坂を上り、連なるビルがそびえ立つ四ツ谷駅で停車する。
 人混みにもみくちゃにされながら階段をゆっくり登る。
「あー外すずし」
「生き返るな」
「ちがいねえ」
 ショッピングモールのなかはすでに活気であふれていて、ここでもまた、人混みに紛れながらエスカレーターで三階へとあがっていく。
 相川の目当ての店は外見からして厳つく、滝本でもおじけづいてしまう。そもそも、ピアスなどの類を身につけない滝本にとっては、雑貨屋など利用しないに等しいのだが。
「なあ、これ」
「相川、龍なんかつけんの?」
 店に入るなり離れていった相川に対し、てきとうにあたりを物色していた滝本は、彼に呼び戻されて店内に足を踏み入れる。
「あれ、維織のお気に召さない?」
「お前がいいならそれにすればいいけど、龍ってイメージじゃねえなあ。どちらかというとふつうにシンプルなやつのほうがにあう気がする」
「そっか」
 少し考えるように頷いたあと、相川は裏の棚に回った。
 右耳にひとつの小さな穴。学校に行くときはつけていないのだろう、今日はじめて見る相川のピアスは、いかにも男が好みそうなこれまた厳ついデザインだった。
「維織は開いてねえの」
「うん?」
「ピアスの穴」
「ねえよ」
 棚を挟んで、店内に流れるアップテンポな曲に負けないよう、滝本は声を荒らげた。
 棚のうえからひょいと伸びてきた相川の手には、いくつかのピアスが握られていた。
「どうよ」
「俺はこれがすき」
 ぱっと見、気に入ったものを指から引き抜く。赤いリング状のものだ。
 もし相川が黒髪に染め戻すなら映えると思った。
「これにする。払ってくるなー」
「まじで?」
「あー……」
 背伸びをして相川を見つめれば、彼は頭を掻いて笑った。
「維織の言うとおりにしてたらだいたいうまくいくの。だから、これにする」
 つまらない根拠だと思った。けれど、レジに向かう相川の背中を見つめれば、頼りにされたことがうれしく思う。
 滝本は小声で、ばあかとつぶやいた。
 相川はすぐ戻ってきて、歩きながら器用にピアスを付け替えている。
「月曜から黒髪にしてくるわ」
「顔が地味だから陰キャになるなァ」
「うっわ、そんなこと言う?」
「嘘嘘」
 相川と話すと、彼がどれだけ冗談に寛容なのかわかる。
 滝本の勝手なイメージでしかないが、ヤンキーというものは、自分や仲間をけなされると口にくわえていた煙草をもみ消し、大げさな動きで立ちあがり、胸ぐらを掴んでくるものだと思っていた。
 実際、すれちがいざまに三上の生徒に悪態をついたとき、間髪入れずに首根っこを掴まれたことがあった。
「相川男前だよ?」
 たまにはいいことも言ってみようと、滝本は相川を見あげた。
 すると、相川は目を見開いて、すぐに口もとを押さえる。
「思わせぶりなこと言うなよお前……。どきっとしちまったじゃん」
「うっせえ気持ち悪い死ねよ」
「いやまじで……。維織、顔きれいだし、なんか女みたいなかっこうしてるし……」
 照れ隠しに口をついてでた罵倒も、相川の顔の赤さに吸収された。
 相川はよく滝本を女のようだと称す。そのたびになんとも言えない空虚感に苛まれてきたが、いまのは純粋にうれしかった。
 滝本は自分の中世的な顔立ち、線の細さを理解している。だから、ダメージの効いたジーンズより細身のスキニー、ぴったりしたTシャツやパーカーよりイレギュラーなオフショルダーなどを着用する。
 二年生のときの修学旅行では、学年の女子に羨まれるほど、似あっていると自分でも自認していた。
「電車乗ってるときも隣の中学生がリア充爆ぜろって怒ってたし、今日、お前ほんとやべえよ?」
「なっ……!」
 今日は、白いモモンガのようなオフショルダーのトップスに、黒のスキニーをあわせている。女性にもよく見られる服装に、きっと中学生はかんちがいしてしまったのだろう。
 自分の行動が裏目にでてしまったらしい。今度から私服を考えようと思った。
「つか相川さ、彼女いるんじゃねえの」
「あー……関口経由?」
「うん」
 クレープをおごってくれるという相川の良心に甘え、ふたりはフードコートを目指す。
 強ばった表情を見られないよう、滝本は相川の半歩前を歩いた。
「いるってか、いた? 最近ろくに会ってもねえから、今回ばかりはだめかも」
「なに、今回ばかりはって」
「いままでも疎遠になることあったけど、気持ちのすれちがいだけで、物理的にはずっと近くにいたんだよ。だから修羅場にはちあわせたりとか……」
 ふと相川の足音は消え、自然と滝本も立ちどまる。
 今日はほとんどの人間が学祭のほうに流れており、ふだんよりも雑踏の数が少ない。
 その空間に、たったふたり、取り残された気になった。
「維織は経験なさそうだな」
 背後から投げつけられた言葉に、頭を殴られたような気がした。俺とお前はちがうと、距離を取られたようだ。それが冗談ではなく、真剣な声音で言われたから、よけいに。
「――帰る」
 相川に彼女の話は御法度だったかもしれない。彼には彼の思いがある。部外者が、まして、出会ってひと月程度のただの友人が口を挟む必要などなかったのだ。
 滝本は服を首まで引っ張りあげ、顔を逸らしながら踵を返した。
 悪態をつく気力もなく、早足でモール内を駆け抜けると、ふしぎなことに相川はついてきていた。
「怒ったか?」
「……」
「維織ががちで怒ってるときは言葉返さないから、いまがそのときだろ」
「うっせえ……っ!」
 周りにひとがいないことをいいことに、滝本は拳を振りあげた。それが相川に届くことはなく、逆に手首を掴まれてしまう。
「怒ってんじゃん」
「怒るに決まってんだろ。言っていいことと悪いことがあるんだよ! お前は俺のなにを知って――」
「思えば維織のことなんにも知らねえよ。でも、維織は女とそんな関係になったことがあんのか? ねえだろ。前から思ってた。お前は他人のことさんざん罵倒するけど、自分はなにも経験しちゃいねえ」
 だからどうしたと口をついてでなかったのは、相川の言ったことがすべて的中していたからだ。
 滝本は、あたかも世間を知りつくした我が物顔でひとを見下す。実際、そこらの同年代とたいしてかわらないのに。
 滝本は悔しさに唇を噛みしめた。
「泣きそう」
「相川のせいだろ。もう離せよ」
 相川の手を払おうとしても、強い力で押さえられてしまうと太刀打ちできない。
 視線をあげて見つめたさきには、相川のまっすぐな目があった。言った言葉すべてが吸いこまれてしまいそうだ。
「こんなところで話せねえな」
 相川はため息をつき、滝本の手首を掴んだまま移動する。ショッピングモールをでて、駅とは反対方向に向かって、ふいに逸れたのは雑居ビルの片隅だった。
「悪気あって言ったわけじゃねんだ。美紀のこととか、進路のこととか、いろいろいっぱいで」
 美紀、という名前が彼女だとすぐにわかった。
 横に並んだ相川の足を蹴ると、彼はたまらなくなったように笑った。
「いてえ」
「俺を世間知らずみたいに言ったこと、謝れよ」
 暗い路地裏に来たことで互いの気持ちも少し落ちついた。
「ごめん」
「前も俺に失礼なこと言ったよな」
「まちがっちゃいねえだろ」
 壁に頭を預けると、ひんやりした温度が伝わってきた。
 手首はなおも掴まれたままで、滝本も振り払う素振りを見せない。
「美紀とは別れる」
「なんで俺に言うんだよ」
「維織だから言うの」
 ずり落ちた肩ひもに相川の指がかかった。肩まで押しあげるとともに、そのまま滝本の顔の横に手を突く。
「ほせえな」
 至近距離で見る相川のまつげは思ったより長くて、やさしい顔立ちにあっていない。これで彼がふたえで、もっと甘いマスクなら文句がないのに。
「なに……」
 期待をもたせるようなことをして、この男はどれだけ滝本の心を揺さぶりたいのだろうか。これがどうでもいい相手なら反応しなかったが、相川だからこそ体が強ばってしまう。
 近くにあった顔がさらに近づいてきて、滝本は反射的に目をつむった。やわらかい感触が触れたのは唇ではなく、喉。ふるりと震えた滝本は、弱々しい力で相川を押し返す。
「なにやってんのか、わかってる?」
「ん」
「わかってねえだろ」
「わかってるよ。彼女がいるのに別のやつにモーションかけてる」
 死語だよ馬鹿。つぶやいた悪態は甘いキスに吸い取られた。
 絡めようと上ってくる指に対し、滝本は頑なに拳を割ろうとはしなかった。
「……っ!」
 そんな滝本をあやすように、相川の左手が滝本の頬に移動して、その感触に鳥肌が立った瞬間、舌を入れられた。
 なにも考えられなくなる前に、許せなくなってしまう前に、やめさせなければ。頭ではわかっているのに。
 片想いに溺れた体は、はじめての快楽に身を熱くさせた。
 しぬほど甘いキスを続けながら、それでもやはり、きっと彼のことをきらいにはなれないのだと思った。

6

「怒ってる……よな」
 絆創膏の貼られた口もとを庇い、相川はペットボトルに口をつけた。すき間から炭酸が傷口にちりりと染みて痛い。
 あの日――相川が滝本に口づけた日、余韻に浸るひまもないまま、相川は滝本に鉄槌を下された。
『ひとの気持ちも知らないでお前は……っ』
 か細い声でそう言った滝本の目には涙が浮かんでいた。やっぱりそういうことなのだろうか。彼の頬が赤らんでいたのも、そういうことだからだろうか。
 期末テストが終わった。これから夏休みに向けて、校内夏期講習が始まる。
 一応AO入試の願書は取り寄せ、エントリーシートも提出した。服飾系に進むことが正しい道なのか相川にはまだわからない。けれど、なんの目的もないまま就職するよりはましだと思った。
 相川は携帯のフラップを開いて、滝本のメールアドレスを呼びだす。あの日から何通もメールは送ったが、どれとして返ってきたことはない。
 同じころ、美紀も相川から離れていった。今度こそほんとうに終わりだった。滝本に言ったように、セックスで繋がることがなくなれば関係は切れてしまった。
「相川くーん? 数学始めますよー」
 数宮がプリントを手に取った。しかたなく携帯をポケットにしまう。
 夏休み前の夏期講習を受けるのは、相川と一組の新見屋成勢だけだった。
 ここふた月程度のがんばりはめまぐるしく、相川の成績は豆の木のようにぐんと伸びた。担任にも同級生にも褒められ、けれど、ほんとうに『すごい』と言われたいのはほかの誰でもなく――。
「相川も進学するのか」
「んー、とりあえず」
「そっか」
 新見屋は相川とちがい、専門学校には推薦で試験を受けるらしい。自分の学力を試したいが、四年制大学や短期大学に入学するつもりはないという。
 進路の選択ができることはうらやましいと思った。
 いそがしい仕事の合間をぬって父が三者懇談に参加してくれた。片親の相川は父に迷惑をかけたくないので、勉強での試験がないAO入試、自分で借りる奨学金を使って進学することにした。父も担任も了承してくれたので、三年目でやっと学業もおろそかにしないと心に決めた相川だった。
 美紀ことも、進路のことも、心配することはなにもなくなった。心残りなのは滝本のこと。あれ以来、校門前に彼の姿を見ることはなく、家を訪ねても留守ばかり。相川がまいた種の結果なのでしかたないのだが、やはり落ちこんだ。
「(x2+3)(x2-3)みたいなかたちは二秒で終わるから覚えててな」
「初耳だわー……」
「新見屋は知ってるよな?」
「おう」
 背もたれに思いきり背中を預けた相川の黒髪が風に凪いだ。
 黒板を埋め尽くしていく数式を見ながら、ふと外の音に耳をすませる。
 電車が近くの線路を通過し、それにあわせて踏切があがる。高校を覆う大きな木がざあっと揺れた。
 ゆっくりと心を蝕んだ滝本の存在。隣にいないと心細くて、声が聞こえないとさみしくて、視界に映っていないとこのうえなく恋しくなる。
 美紀とつきあいたてのときもそうだったっけ。この気持ちは初恋に似ている。
 滝本の手首を掴んだとき、あまりの細さに驚いた。襟から覗く角張った肩に欲情したのもかんちがいではない。睨み返してくる鋭い目が自分のせいでぐちゃぐちゃになるまで泣いてしまえばいいのに、とまで思った。
 口は悪いけれどまっすぐに自分を褒めてくれる彼に、きっと惹かれたのだろう。誰よりも相川を優先してくれることだって知っている。
「はー……」
「相川、勉強する気ある?」
「あります」
 数宮が解いてみろと相川を促し、しかたなく席を立つ。
 チョークと黒板のかすれる音だけが教室に響いた。
 解き終わった数式を眺め、納得するよう頷いた相川のうしろで、新見屋が窓から外を覗いていた。
「相川」
「ん?」
「見える? あそこ」
「あー……ん。見える? かも」
 眼鏡をかけるほどではないが、遠くのものが見えづらいので、相川は窓の桟に手をかけて身を乗りだした。
 学校前の道路を挟んだ向こう側、空きテナントが佇むその前で、何人かの男が揉めあっているようだった。
「喧嘩?」
「先生も喧嘩してるように見える?」
 四ツ谷とうちの生徒かな。なにげなく落とされた爆弾に、相川は数宮を振り返る。
「ど、どんな子ですか」
「四ツ谷? 眼鏡で背が低いな。でもすっごい強い。なにあの回し蹴り、格闘家か」
「つうか、学校前であんなんしてていいのか。一年生はほんと後先考えねえな」
 相川がはじめて滝本に会ったときの印象とまるで同じだ。まちがいない。
 相川は外に視線を投げたままプリントや筆記用具を片し、鞄を背負った。
「用事、できたんで帰ります。あ、明日はちゃんとします!」
 教卓、黒板、教室の扉にまでしっかりぶつかって、相川は姿を消した。
 静寂がふたりを包み、すぐしたの昇降口からでていった相川を見つめる。
「彼氏?」
「じゃね」
 興味がなさそうに新見屋は体を伸ばし席についた。数宮も、なにごともなかったかのように黒板を消す。
 コンクリートにつんのめりながら左右に首を振り、道路を渡った相川が後輩たちの目に留まると、彼らは竦み後ずさりした。
 滝本が気がつきこちらを向く。その目にはなにも宿してはいなかった。
「お前ら、ここ学校前。ばれたら夏休みないよ」
「先輩、あの」
「言いわけは聞かねえから」
 相川が滝本の肩に手を乗せると、彼らは半分不満げに去っていった。
 滝本にやられたであろう頬や額の傷が痛ましかったが、構っていられる場合ではない。
「維織」
「ってえな。怪我してんの見えねえ? 馬鹿?」
「黙れよ。手当てするから維織んち行くぞ」
 強引にあざのできた手を引っ張ると、滝本は罵倒をやめてうつむいた。
 歩きだせば従うように歩調をあわせてくる。
「学校の帰り?」
「お前には関係ねえ」
 罵倒ではなく、冷たい言葉が帰ってきた。
 しかたないと思っていても悲しい。女々しいことを考えていることくらい自分でもわかっている。
 それからは滝本の家までひとことも話さず、彼が玄関の扉を開けて「ただいま」と小さくつぶやくまで、ふたりは黙ったままだった。
「維織おかえり。遅かったね?」
 リビングから顔をだしたのは、はじめて見る滝本の母親だった。釣りあがった目もとと猫のような口がそっくりだ。
「喧嘩売られたから買ってきた」
「最近増えてるんじゃない?」
「母さんが最近家にいるからそう思うだけだって」
 そうかしら、と宙を見つめた彼女は、滝本のうしろに相川を確認して顔をほころばせた。
「お友だちね。まあ、ちがう学校……。維織はりあじゅうね」
「使い方ちょっとちげえよ」
 母親の肩を叩き、くすりと笑う滝本。相川は彼女にお辞儀をして、二階への階段を登る滝本に習った。
「ほら」
「え」
「手当て、してくれんだろ」
 にゅいと目の前に突きだされた消毒液を受けとめ、相川は滝本の隣に座った。
 滝本はベッドにもたれるように足を投げだし、脇の棚から絆創膏を取って相川に渡した。
 その間、目があわない。
 ほっそりした顎を掴むと、滝本の眉が寄った。吹きかけた消毒液が垂れないよう、ティッシュを添える。
「いてえ」
「なんでけんかしてたんだ?」
「あいつらが絡んできたから殴ったらやり返された」
「あー……」
 絆創膏を貼って、目もとの青あざに目を向ける。
 ふん、と鼻を鳴らした滝本は、ようやく相川と目をあわせた。
 制服のうえで拳が握られる。
 話すならいまだ。
「維織って俺のことすき?」
「さあな」
 滝本の顔が不機嫌そうに歪む。こういうときの表情がなにを物語っているのか、本人も認めたことだから相川は忘れない。
「維織」
「帰れ。これ以上お前と一緒にいたくない」
「維織っ」
「帰れって!」
 滝本の怒鳴り声が部屋に反響した。
 伸ばした相川の手が宙を引っ掻いて、おとなしくあぐらをかいた膝のうえに戻る。
 滝本は自嘲の笑みを浮かべたあと、眼鏡を軽く押しあげた。
 しばしの沈黙が落ちる。
 なにを言おうか考えていた相川の思考を遮ったのは、はじめて聞く彼の弱々しい声。顔をあげた先で、滝本が口を開いた。
「相川が俺の名前を呼ぶたび、俺はとんでもないくらい動揺してなんとか取り繕うと躍起になってた。相川がすきだから」
 足を三角に折った滝本の手が震えている。
「なんで言わなかったんだ」
 自然と相川の声も震えた。
 不躾なことを聞いたのは滝本のことをいじめたいからではなく、この想いが嘘ではないと実感したいからだ。
 互いの胸のうちを言いあえば、おのずとどうすればいいのかがわかる気がした。
 滝本は目を泳がせながら言う。
「同性からの恋愛感情をまともに受け取れるか? そんな覚悟、俺みたいな天性のゲイじゃなきゃできねえよ」
「受け取れなくても、考えはできた」
「そんなんじゃたんねえの。俺は、すきって言った相手にはすきって言われてえから、相川への気持ちは隠しておくつもりだった。お前はやさしいからきもいとかうぜえとか言わねえし、それじゃ片想いを続ける俺があほらしいじゃねえか」
 相川が思っていたより、滝本は本気だった。
 すきなひとにはすきになってほしい。それは、恋愛を繰り返す人間が最初に考える。相思相愛になったあとだってすきでいてほしいと思うだろう。
「まじで帰れ。あんとき、相川がしたことは忘れる。おおかた、俺の女性的な部分にかっとなってやったってとこだろ? 相川、いつも俺のこと女みたいだって言ってたもんな」
 余裕がなくなると滝本はしきりに他人の名前を呼ぶようだ。
 伏せられた彼の瞳から涙がひとつぶ、こぼれ落ちる。気づいて眼鏡を外し、カッターシャツの裾で強く拭いた。
「なあ、維織。帰るの、俺が話してからでもいいよな」
「なんだよそれ」
 頬に触れた手を邪険に払われ、けれど、相川は懲りずに滝本の両頬をつまんだ。きれいな顔が横に伸びる。
「お前が俺のことばかだとか言っても、最終的には褒めてくれるからお前に甘えてた。お前といる時間が心地よくて、でも、いつのまにかそんなんじゃなくなって、維織が俺のせいでいっぱい泣いたり笑ったりしてくれたら、すっげえうれしいのにって思った」
「なに、それ……」
 一気にまくし立てた相川を見あげ、滝本の手が所在なさげに浮いた。
 かつて、想いを告げるのにこんなにどきどきしたことがあっただろうか。滝本の緊張と相川の緊張が部屋の空気をも張り詰めさせる。
 じんわりと汗ばむ。
 相川は笑った。
「わかんねえ?」
「……からかうなよ」
 こんなときでも、滝本の口をついてでてくるのは悪態で。顔から火がでるほど火照っているのに、裏腹な態度しかだせない自分に腹が立った。
 むんぎゅ、と音がするように頬をきつく挟まれた。
「回りくどいことがきらいならちゃんと言う。維織がすきだ」
 末尾の三文字は、あまりにも自然に心に落ちてきた。滝本の目からとめどなく涙があふれ、ついには声をだして泣いてしまう。
「はじめ、て」
「告白?」
「ひー……」
 返事は情けないほどの泣き声だった。我ながら子どもっぽいと思う。それでも、相川がやさしく頬をなでてくれるから、ほんとうなんだと実感できた。
「キスさせて」
 うん、と頷く前に唇がくっついた。あの日よりさらに甘くて、胸がきゅんとして、体が熱くなる。すきなひとにすきになってもらってからされるキスは、触れるだけでじゅうぶんだった。
「維織、いいな。その顔」
「うっせえ……」
 滝本は幸せを噛みしめ、相川に抱きついた。

7

―いおり―
『明日十一時な』
『りょあかい』
『まちがえた。了解』
『おう。おやすみ』
『おやすみ、愛してる』
「ああああもう!」
 熱が顔に集中して、俺はスマートフォンを布団に投げた。なんでこんなに恥ずかしいこと書けんだよ、あいつ。
 相川から最後に返ってきたメールを再度開く。就寝のあいさつのあとに、しっかりと甘い言葉が添えられている。
 相川は思っていたよりも甘やかしたがりだった。典型的な彼氏っての? つきあって早くも二ヶ月が経つけど、あいつはでろでろに俺を溺愛してくれている。
 そりゃもう死ぬほどうれしい。もともとへテロの相川に飽きられてしまうんじゃないかと思ったこともあったが、杞憂だったみたいだ。
「会うのひさしぶりだな……」
 明日は相川と映画を見に行くことになった。高校生デートの定番だ。
 夏休みは、相川と俺の夏期講習が重なりに重なりまくってなかなか会えなかった。住んでいる場所もお互い遠いし、おまけに相川はバイトがあったし。
 前回から数えると――半月ぶり。相川不足で枯渇しそう。
 俺も健全な男子高校生だから、空手の練習で疲れた日はなんだか体がむずむずして、ひとりで自慰に狂ったときもあった。相川から毎日くるおはようとおやすみのメールを見ながら、相川にさわられる妄想までして、相川の声を思いだして。
 俺と相川はまだ清いおつきあいをしている。そんな雰囲気にならないわけじゃないけど、相川は大事にしてくれているから、やっても擦りっこまで。
 ほんとうはもう抱いてほしいなんて、口が裂けても言えない。
 ぐるぐる考えていると頭が爆発しそうだ。明日のことは明日考えればいい。早く風呂に入って、寝よう。

     ***

―あいかわ―
 今日は、維織とつきあってはじめてふたりででかける。緊張なんて比じゃない。吐きそう。朝飯に食べた食パンが無残なかたちででてきそうだ。
 維織たっての希望で映画を見に行くことになった。デートの定番だよな。維織はこういうことはじめてらしいから、リードしたいと思う。
 四ツ谷駅に流れ着くと、十時五十分だった。ちょっと早かったかと思い待ちあわせ場所に行くと、見慣れた眼鏡が柱に寄りかかっていた。
 今日も今日とてオフショルスキニーですね。女か。
 たまには維織の男らしい服装も見てみたいもんだな……今度頼んでみよう。
 うしろからこっそり近づくと、維織が手に持つスマートフォンの画面が見えた。首を伸ばして盗み見すると、俺とのメールをひらいている。
『早く来い。会いたい』
 ツンデレ? いや、デレしかねえ。つきあい始めてからデレしかねえ、この男。
 俺を殺す気かよ。
 たまらなくなって声をかけると、驚いて維織はすぐに笑ってくれた。
 いつものしてやったりな笑顔もすきだけど、こぼれるような笑みもすき。俺といることで安心してくれてるのが伝わる。
 休日らしく、映画館はいっぱいだった。ネットで席はすでに取ってたから、あとは発券するだけ。維織が飲みものを買ってくると行ったので、俺はチケットを取りに機械へ向かった。
 美紀ともデートらしきデートはしてきた。でも、こんなに緊張するのははじめて。
 維織が戻ってくると同時にアナウンスが開場を知らせ、俺たちは並んで三番スクリーンに入った。
 席はど真ん中のど真ん中。いい席だ。幸い、公開日からかなり日にちが経ってて周りはガラガラ。ありがたく荷物を隣の席に置かせてもらった。
 維織は映画代の支払いを申し出てきたけど、飲みものを買ってきてくれたお代と労力でチャラ。わざわざ二階したのスーパーまで行ってくれたわけだし。
 しばらくしてスクリーンに予告編が流れ始めると、維織はさっそくのめりこんだ。さすが四ツ谷生の集中力。炭酸水を落としそうになってることも気にしてねえ。
 維織の飲みものを取りあげて、俺もスクリーンに目を向けた。
 始まった本編。最初からクライマックス。俺も知らず知らずのうちに入りこんだ。
 アクションの激しい映画は日常の疲れも吹き飛ぶくらい、見てて飽きない。
 最高の盛りあがりを見せたとき、肘置きに頬杖を突いてた俺の腕に、維織の手が触れた。するりと腕が絡んできて、しまいには肩に顎を置かれ、ぴったり密着する。
 維織は体温が高い、から、触れたところが熱を持って、変な汗が吹きでる。
 なるべく平常心を保ってたのに、握っていた拳を割られて指が絡みあうと、こっちも反応せざるを得ない。
 小声で維織の名前を呼ぶと、執拗に指が俺の手の甲を滑った。
 暗いからって調子に乗ってんな。
 この状態でもう映画に集中できるわけがない。鞄を肩にかけて維織の手を引いて劇場から飛びだす。
 さっきまでの喧騒がうそみたいに、チケット売り場にもグッズ売り場にも、購買にもひとがいなかった。
 店員の視線を感じながら太陽の照りつける屋外に繰りだす。ふいに、俺の手首を維織が掴んだ。
「あれ、どういう意味か、わかった?」
「誘ってたんだろ。我慢できなかったの?」
「……相川の横顔見てたら、触りたくなったから」
 ぎゅんときた。主に股間が。
 今日はまじで、映画見てゲーセン行って飯食って帰そうと思ってたのに、紳士的計画が狂いに狂った。
 いままで考えなかったわけじゃない。それなりに性欲もあるし、そろそろ手だけじゃたりないとは思ってた。思ってたけど!
「俺んちのが近いな」
「相川」
「覚悟しとけ。維織のぜんぶ、食ってやる」
 期待に満ちた顔されたら、耐えられなくなる。

     ***

 電車のなかでは互いに無言で、時折目があえば勢いよく逸らした。
 下りの電車は上りとは対照的で、昼間はまったくと言っていいほどひとが乗ってない。
 こんなに欲望を感じたのはいつぶりだっけ。セックスが義務的な行為になってから、若い気持ちになるのは久しい。
 隣の維織は肩を縮めて、赤い顔をして座っている。いますぐにどうにかしたい。維織に、触れたい。
 俺んちの最寄り駅である築山駅に着いて、すぐに改札を走り抜けた。四ツ谷よりけっこう田舎で、三上よりちょっと都会。住みやすさはかなりいいと思う。
 鍵を探す時間がもどかしかった。アパートの扉を開いて、俺の部屋にあがる前に維織に念を押す。
 眼鏡越しの目が潤んで、しっかり縦に首を振った。風呂に入りたいと言うからバスタオルを押しつけて、俺は部屋でひとり待つ。
「っ、くそ……」
 欲望のままに走らないように。やさしく、やさしく。
 頭に言い聞かせる。ベッドに仰向けに転がって、シャワーの音に耳を澄ませた。
 まもなくして、スキニーだけを脱いだ維織が部屋に入ってきた。
 ああ、うん。予想どおり。内ももの筋肉がかっこいいな。
 寝転がったまま手を招くと、湿った体の維織が俺にダイブする。
「重いな」
「男だからな」
「俺、風呂」
「俺は気にしねえけど」
 維織の口が引き結ばれる。怒ってるんじゃなくて緊張してるんだ。
「維織。ちょっとでもいやだったり、痛かったりしたら、はっきりと拒絶すること。いいな?」
「わかった」
 維織の頬に指を滑らせて、ゆっくり口づける。
 トップスの裾から手を入れながら、体勢を入れ替えた。
「っん」
 脇腹を撫であげると、細い体が震える。声を押しころそうと手のひらで口を覆う姿がたまらない。
「声、聞きてえんだけど」
「んーんっ、ん!」
 いやいやと首を振る維織の動きにあわせ、肩からずり落ちた紐を腕から抜かせ、乳首に触れた。
 俺の手で硬くなると、ものたりなさそうに灰色の目が見つめてくる。
「魔性だな、維織」
「うっせ……」
 視線をあわせたまま胸の突起を舐めた。徐々にくぐもった維織の声がうわずる。しまいには小さい声でもっと、なんてかわいいこと言うから、維織の体を舐めることに夢中になった。
「い、かわ」
「ん。なに?」
 キスをせがまれ、濡れ始めた股間を揉みしだき応じる。
 キスの合間に漏れる吐息が熱くて、さらに俺を煽った。
「相川の手、やっぱ気持ちい」
 こてんと頭を俺の肩に預けた維織は、満足そうに笑った。
 やばいだろ。非常に、やばい。催すどころかでそう。
「一回、だしていいか?」
「ん……」
 維織がベルトをはずすのに手伝ってくれる。
 腰を浮かせ、舌と同じくらい濡れた雄を重ねた。
 身をよじり、卑猥に動く維織にキスを送りながら俺も体を揺すった。
 刺激を待っていたふたつの雄はまたたくまに精液を迸る。
 声をころす維織と、声を噛みしめる俺。静かな射精だった。
 きつく閉じていた目をふと開けると、射精の余韻に浸る維織が惚けた顔をしている。
 こんな甘い顔、俺しか知らないんだ。そう思うと優越感が襲ってきた。キスをするとねだるように絡みついてくる腕、甘やかすと猫のように擦り寄ってくることも、気持ちいいのを我慢する顔も、俺しか知らない。
 俺だけが独占してる。
「う、しろ」
「うしろ? 維織はどうしたい?」
 あ、なんかいじわるしたくなる。
 ぐっちゃぐちゃに濡れた目が俺を射抜く。
「指、いれて。いれて?」
 俺の手を握ってそこに導く維織に、頭がかっとなった。
 理性がぶっ飛びそうなんだけど。ふだんとのギャップありすぎ。
「維織、いやらし……。こんなぐだくだなんの?」
「相川じゃ、なきゃなんねえ、もん」
 維織とつきあうにあたって――男同士のセックスのしかたを調べた。準備やら処理やら気をつけることやら、たくさんのリスクを伴うことを知った。
 入れるほうは入ればこっちのもんだけど、受け入れる側はしばらく痛みに耐えなきゃいけないことだろう。それでも俺としたいって維織が言ってくれたから、俺も全身全霊で維織を抱きたい。
 先走りを塗りつけ、中指を入れた。きゅんとすぼまって、でも俺の指のかたちにやわらかくひらく。
「はっあ……っ」
「きつくねえ?」
「んん」
 維織は首を横に振ったけど、排泄するはずの穴に異物を入れてるから多少はきついに決まってる。痩せ我慢さえも愛しく思えた。
 たぷたぷになったそこに、もう一本指を増やす。
 指を抜き差ししながら覆いかぶさるようにキスをすると、維織の体がびくりと跳ねた。
「いま、なに……」
「え、あ。……なあ、ここ?」
 もしかして、と思い、お腹側を押してみた。案の定、信じられないほど維織がのたうちまわる。
「前立腺だな」
「ばっか、はあ、ん……!」
 すげえ、ぜんぶ、俺の手で乱れてんだよな。えっろい。
 長い前髪の向こう側、とろんとした目が俺を捕らえる。
「な、相川……」
「ん?」
「もういいから、いれて?」
 噛まれた耳たぶが熱い。
「ゴムいらねえの」
「ん、このままで、いい……っ」
 勢いよく突き、ヤり殺したい衝動にかられた。
 維織が淫靡に腰を押しつけてくる。
 食うけど、据え膳ってまじできつい。
「むりだったら言えよ……」
「こっちの台詞だよ。萎えたらぶっ殺す」
「へへ、だいじょうぶ」
 たぎった俺のものをあてがうと、わずかながら維織の体がこわばった。こわがらせないよう、キスを忘れず腰を押しこめていく。
 はじめてながら俺のかたちを覚えたそこが、ゆっくり受け入れてくれた。
「あっいかわ、いい? 気持ちいい?」
「んっ……いい。維織は?」
「うん、うん。いい……っ」
 余裕がなさそうにがくがくと頷くから、夢中で維織の唇を割った。
 すきなやつとするキスは激しいけど甘くて、お互いの揺れにあわせて舌を擦りつける。
 一定のリズムで送りこまれる快感によがっていた維織は、ふと視線をあわせた。
「ん、は……」
「維織……っ」
「んふう……ふふ、あいかわ」
 維織はニヒルに笑んで、額に張りついた俺の前髪を払ってくれる。
 得意げなその顔にしばし見とれる。
「すき」
「! っやべ……」
 落とされた爆弾は突然、容赦なく俺を襲う。
 俺に溺れた顔でそんなこと言われたから、でるもんもでちまうんだけど?
「んああ!」
「はは、なにいまの声。でけえ……」
「ばか、へんたい、んん!」
 ぐりんとなかを掻き回すように動けば、艷めいた維織の声が部屋に反響する。
 締めつけがさらに強くなって、俺も、子どものように泣く維織も、絶頂が近かった。
「な、維織。いい?」
「……聞くな」
 それを了承と捉えた俺は、強めに腰を揺すった。
 擦りあわせた鼻先から汗が垂れる。自然と唇が重なって、息苦しさを覚えたまま、俺たちは同時にいった。
「んんー……」
 これはまた、えろい。抜いた穴から白い液体がでてくる。そこはまだ欲するようにひくついていた。
 維織の残滓を絞りとると、まだ快感の波から抜けだせないのか、ベッドのうえへうえへ逃げる。
「な、んか」
「ん?」
「相川、慣れてるっぽかった」
「え」
 こんな甘い空気のなか、それを言うか。
 けど、たぶん維織のなかでずっとわだかまっていたことだと思う。
「維織だけだよ。いまも、これからも」
「!」
 あ、照れた。なにを言ってるのかはわからないけど、小声でぶつぶつつぶやいてる。
 首まで真っ赤にした維織は俺の手を引いて、俺はベッドに仰向けになる。
 腹に乗りあげた恋人に、反応しないはずがない。
「なあ、維織」
「……なんだよ」
「もっかい、だめ?」
「つか、誘ってんだけど」
 後ろ手でゆるりと触られたら、もう我慢できない。
 維織がうえに乗ったまま第二R突入、そのあとはお互い、落ちるように眠った。

     ***

「相川は獅子だな」
「……ライオン?」
 翌日、俺が考えなしに中出しをしたせいで腹を下した維織は、ベッドで天井を仰ぎながら言った。
「やってるとき、静かに攻めてくるから食い殺されんじゃねえかと思った」
「あー……自覚は、してる」
「してんのかよ」
 出会った当初とは違い、維織はよく笑うようになった。それだけ心を許されたってことなのかな。
「俺、維織のぜんぶすきだわ」
「んだよ突然。気持ち悪いな」
「言いすぎだから! なんかそう思っただけ」
「そ」
 維織はふとんをかぶり直して壁を向いた。
 照れてんのばればれだっつの。
 でも、あんまりしつこいとキレられかねないから、俺は黙って維織の頭をなでた。

あやまきあや

「真ちゃん、菖蒲(あやめ)くん来てるよ」
「おう」
 相川真也の双子の妹、真希(まき)は兄を仰いだ。真也に似た一重と黒髪が扇風機の風に揺れた。
「相川ー。滝本も来たんだけどいい?」
「まあまあまあまあ、いいでしょう」
「なんだよそれ」
「学校ではやってんの。早く入れ」
 関口菖蒲のあとを細い青年が着いてくる。眼鏡に襟足の跳ねた黒い髪。兄の友人にしては真面目な風貌だ。
 リビングは男三人に女ひとりとむさ苦しく、真希は思わず舌をだした。
「妹?」
「そ。夏休みだから泊まんにきてんの。そっくりだろ」
「ちがいねえな」
 青年のグレーの瞳と目がかちあう。真希を値踏みするように視線が体に絡んで、不愉快そうに顔をしかめられた。
「なにこのひと、けんか売ってんの?」
「こういうやつなの。なあ、お前ら紅茶でいい?」
「洒落たもんだすんだな」
「わーい、俺、レモンティーがいい」
「あたしもー」
「真希は手伝えよ!」
 兄のことはすきだ。月一で泊まりにくる真希を歓迎してくれて、剣道部に所属している真希が部活動に励む日には必ずメールをくれる。
 そんなやさしい真也の部屋でこのあいだ、避妊具を見つけてしまった。真希が泊まりにきたときは真也のベッドを借りている。積みあげられた教科書のあいだにひとつ、なにげなく挟まっていたそれは兄が隠していたと思われる。
 中学生のときからつきあっていた彼女とは春に別れたと聞いた。新しい彼女でもできたのだろうか。
 前の彼女とつきあっていたころだってろくに部屋にあげもしなかったくせに、今回の彼女にはぞっこんらしい。
 コップを四つ、お盆に載せた真也が台所からでてきた。ソファーに座る真希にひとつ、床にペタ座りしてあぐらをかいた関口と青年に渡る。
「維織は甘いのすきだからミルクティーがいいかと思ったんだけど」
「うん。さんきゅ」
 レモンティーを口に含んだ真希が吹きだしそうになる。すんでのところで手のひらで唇を押さえた。
 真也は他人のことを名前では呼ばない。両親が離婚してもうすぐ八年になるが、同じ中学に通っていたときもそうだった。
 もしかしたら真希の知らないところで、仲のいい友人がまだいるのかもしれない。
(なんか、ずるいじゃん)
 自分が双子の兄の一部分しか知らないことが悔しい。
 交通の利便性から高校入学と同時に離れて暮らした。真也は父とふたりで、真希は母方の祖父母の家で。
 そこらのきょうだいよりは顔をあわせる機会が少ないぶん、もっと深いところで繋がっていると思っていたのだ。
「真希ちゃん、どうしたの。機嫌悪い?」
「悪くない。真ちゃんと維織さん、仲いいんだなーうらやましいなーって思っただけ。真ちゃんさ、ひとのこと名前で呼ぶのめずらしいじゃん」
「あー……」
 真也の、なにか言いわけを探すときの癖がでた。歯切れ悪く口を噤み、頭を掻いて笑う。
「真希には言わなねえとな。いい? 維織」
「待て、嘘だろ」
「いいじゃん、滝本。真希ちゃんはいい子だから大丈夫」
「そういう問題じゃね――」
 すう、と大きく息を吸いこんだ真也が、いつにもまして真剣な目で、告白してきた。一瞬は耳を疑った真希だが、視線の先に滝本の赤い顔を捉え、絶句した。
「うそでしょ……」
「ほら、ふつうはこんな反応すんだよ! 関口が異色なんだよ!」
「菖蒲くんも知ってたのね!」
「知ってたよー。なんかふたりを纏う空気が違ったし」
 ああ、愛しの兄が。一途に彼女を想い続けていた兄が、まさか、男性と。
(考えたくない!)
 真希がこのことをしっかり受けとめることができるまで、まだまだ時間を要する。けれど、すきになってしまえば性別なんて関係ないことは理解できないでもない。結局、そのひとだけしか見えないのだから。
「俺がバイセクシャルになったら嫌?」
「そうじゃないけど……うん、時間ちょうだい。でも祝福するよ。お兄ちゃんが幸せならあたしも幸せだし」
「ん。ありがとうな」
 そう言って真也は笑った。滝本も目尻を赤く染めてそっぽを向いている。
(恋、してるんだなあ……)
 真希は横目で関口を見やった。彼の黒目が見えないくらい細い目は、甘い雰囲気を醸しだす真也と滝本に向けられている。
 自分もいつかふたりのようになれるだろうか。自分だけを愛してくれるひとの隣で、あんなふうに頬を染める日が来るのだろうか。
(誰かじゃない、誰でもいいわけじゃなくて)
 そして自分だけを愛してくれるひとは、いつも読めない表情をしている、このひとがいい。糸目が祝福ではなく、自分を幸福にしてほしい。
(ないものねだりだね)
「ねえ、部屋でセックスするのは構わないけどコンドームはどっかにちゃんとしまっててよ」
「えっ、真希見たの」
「真ちゃんが教科書のあいだなんかに隠すからでしょ」
「わー。相川いやらしー」
「うるせえ!」
 いつか、小さなこの想いに実がなりますように。

8

 瞬く間に相川のAO入試選抜日が終わり、ほっと一息ついていた。アルバイト先の居酒屋では開店前にねぎらいの会を開いてもらい、そっけなく入っていた滝本からのメールに溜飲をさげた。
 相川の受験生としての仕事はひと段落ついたので、二学期最初の行事、体育大会は目いっぱい楽しむつもりだ。
 センター試験を受ける滝本はこれからが正念場であるから、最近はあまり遊びにも誘わないようにしている。
 つきあいだしてからなにかがかわると思ったが、日常にプラスときめきがされただけだった。そのときめきこそが、以前までにはぜったいあるはずのなかったものなのだけれど。
 メールですきと言ってみたり、電話越しに聞こえる声にどきどきしたり、滝本とつきあってからははじめてづくしだった。
 体育の時間、相川はグラウンドが空くのを日陰で待っていた。隣には同じように待つ銀髪の友人が座っている。
「体育大会、相川は友だち呼んだりすんの?」
「んー。悩んでる。そもそも平日だから誰も来てくんなさそうだし」
「それもそうだよな。あー、彼女呼びたかったのになー」
 滝本の顔が脳裏に浮かんだ。
 頭の悪い相川だが、運動神経はずば抜けていい。体育の成績でいままで八十以下を取ったことがないのだ。
 体育大会の最後の種目が男女混合リレーだ。男女各五人ずつ、ひとり百五十メートルずつ走る。相川はそれに出場し、アンカーを務めることになった。
 父にも妹にも、できれば母にも自分の雄姿を見てほしい。けれど、結局かっこいいと言われたいのはほか誰でもなく、滝本だ。
(メールしてみるかな)
 体育の授業が終わるとすぐに携帯を開いて、率直に体育大会を見に来ないか誘ってみた。
 返信は家に帰ってから。相川がそろそろ眠ろうかとベッドに入った二十二時ごろのことだった。
『その日は学校ねえけど進路ガイダンス受けるかも』
 携帯の画面を見つめて、枕に顔をうずめて、もう一度画面を見直す。何度目を向けたって書いてあることはかわらないのに。
 悔しいし、残念だけれどしかたがない。なあなあで高校生活を送ってきた自分とは違い、滝本はきちんと未来のことを考えているのだ。
「そういや、維織がなにになりたいとか聞いたことねえ、な」
 滝本は自分のことを話したがらない。
 一日にあったことはたくさん話してくれる。大半が愚痴で、それもキレながら。
 けれど、親のことや、進路のこと、交友関係もなにもかも、きっと相川が言いだすまで彼の口から聞くことはないだろう。
「俺、頼りになんねえのかな」
 相川も無理に聞きだそうとは思わないが、そういうところで距離を取られているようで悲しいのも事実だ。
 相川は仰向けに体勢を変え、頭上に携帯を掲げた。 ランプが点滅している。
 相川がぐるぐると考えているあいだに、滝本からまた一件、メールが入っていた。
『行けねえとは言ってねえかんな』
 それは期待してもいいということだろうか。
 携帯を胸に抱きしめ、相川はベッドのうえをごろごろ転がった。
「がんばろ」
 体育大会まで約二週間。相川の闘志は燃えていた。

     ***

 築山駅で下りて、駐輪場に自転車を取りに行く。バイク置き場で見慣れたうしろ姿を発見した。
「関口」
「相川」
「ひさしぶりだな。なんか今日遅くね?」
「カリキュラムが九十分に増えてな……」
「おおう……死にそうな顔してんな」
 関口はバイクを押しながら、自転車のかごに鞄を放りこむ相川を見つめていた。
「今日ね、滝本が早退した」
「は!?」
「やっぱり知らなかったんだな」
 関口は得意げに言うでもなく、糸目をさらに細めてため息をついた。
「おふくろさんの容態が急変したって」
 そういえば、はじめて滝本の家に行ったときは滝本自身が鍵をかけていたが、二回目は母親がいたっけ。パートにでもでていると思っていたが、関口の言葉から、入院をしているようだ。
「相川、なんも知らないの?」
「……維織が話したがんねえから」
「そういう問題じゃないだろ」
 関口は知っていて、相川には言えないこと。裏を返せば迷惑をかけたくないという愛情表現なのかもしれない。他人という枠のなかでいちばん近い存在になっているのに、滝本の重荷をなにひとつ任されない状況に不安になった。
「滝本のおふくろさんの病院、三上駅からバスでてるよ。行けば?」
「今日バイト入ってる……」
「そんなもの、ボイコットするくらいの勢い見せろよ。なんのための彼氏なの? 飾り? セックスするだけの相手?」
「ちっげえよ!」
 関口の口車にまんまと乗せられているのがわかった。頭のいい連中はみんなこうだ。他人の気持ちなど知らないふりをして、ほんとうは第一に考えて行動している。
 それでも、相川がアルバイトを休むことができないと言うと、めずらしくいらだちを全面に表した関口が舌打ちをして、スマートフォンを取りだす。
「こんばんは。そちらで働いている相川真也が風邪を引いてしまったので、代打で俺が出勤させていただくことになりました」
 眉間の皺と裏腹に、関口の口からなめらかな声が聞こえた。
 相川のアルバイト先では、やむを得ず休むことになったとき、自分で代わりを探すことになっている。それは同じアルバイト先のメンバーでも、関係のない友人でも問題がない。結果、使えるならそれでいいのだ。
「関口菖蒲です。服やエプロンは相川のものを借ります。では、のちほど」
「関口」
 スマートフォンを乱暴に鞄に放りこみ、関口はヘルメットを被った。まぶたが開いて黒目が相川を睨む。
「言っとくけど、おふくろさんのこと、滝本から話したわけじゃないから。俺が聞いたら教えてくれたから。勘違いするなよ」
「えっ、おう?」
「じゃあバイト行ってくるわ。お礼はレッドブルな!」
 あれだけ疲労をにじませていた関口が、素の仏のような顔に戻ってバイクに跨った。
 いまさらながら、中学のときに関口と仲よくなった理由は、この遠慮のない人格変化だったことを思いだした。外面が誠によくて、信用した相手にしか見せない腹の黒い部分がきらいではなかったのだと思う。
「ありがとう」
「はいよ」
 相川は自転車のかごから鞄を抜いて、定期券を右手に改札を通った。ちょうど滑りこんできた電車に乗り、来た道を戻る。
 携帯電話を開いて滝本のメールアドレスを呼びだした。
 相川から最後にメールをしたのは今朝。いつもどおり「おはよう」とひとこと。
 滝本から最後にメールがきたのは三日前。「体育大会、楽しみにしてる」とひとこと。
 このころから滝本の母親は弱っていたのかもしれない。受験を控えた彼に、身内の不幸話がどれだけ重くのしかかっていたのだろう。
 いますぐに抱きしめたい。どうして来たとか、なにをしに来たんだとか、せいいっぱいの罵倒をされてもかまわない。ただ、震えているであろう肩を抱き寄せたい。
 電車が三上駅への到着を知らせて、扉が開くと同時に相川は駆けだしていた。
 バス停は右、三上総合病院行き。相川が気づかなかっただけで、このまちに意外と大きな病院があることを知った。
 三上高校の前を通り、ゆるりと坂を下って、竹林を右に見ると、立派な病院が見えてきた。まるで地方の主要病院のようだ。
 ここまで来て、滝本の母親の名前すら聞いていなかったことに気づく。これではふたりを訪れることができない。
 ひとつひとつの病室を見て回るのは野暮だし、かといってナースセンターに尋ねるのも詮索しているようで気が引けた。
 どうしたものかと相川がてきとうにうろついていると、すれ違おうとしていた女性が「あっ」と小さくつぶやいた。
「相川くん」
「えっ」
「維織のお友だちよね。滝本日和(ひより)です」
「あ!」
 奇遇か偶然か、驚く相川を尻目に微笑んだのは、点滴と並んで歩く滝本の母親だった。
 清楚なコットンのワンピースに身を包み、こんばんは、と頭をさげてくる。慌てて相川もこうべを垂れて、彼女を見つめた。
「維織が早退したのを耳にしたのね」
「あー……まあ」
 相川が歯切れ悪く頭を掻くと、彼女はくすくすと声を立てて笑う。
「維織ならもうすぐ――あっ、維織」
「母さん! 座って待ってろって言っただろ」
 滝本の喧嘩をとめた日のように、滝本の瞳は相川を一瞬だけ捕らえて逸れた。
 手に缶コーヒーを持って、母親の背を支える。どこにでもいる健気な息子だ。
「いつもお話してくれる恋人ってこのひとでしょ? あなたを心配して来てくれたんだって。いい彼氏さんを持ったわね」
「俺は相川と話すことがあるから。母さんはひとりで戻れる?」
「大丈夫」
 細い足で、けれどしっかりとした足取りで、日和は相川と滝本に手を振ってエレベーターホールへ消えていく。
 その姿が完全に見えなくなってから、滝本は相川を振り向く。
「関口に聞いた?」
「学校帰りに会って、そんとき」
「なにやってんだよあいつ。釘刺しときゃよかった」
 なんだよその言い草。喉もとまででかかって飲みこむ。
 滝本は相川の顔をちらりと見て、缶コーヒーを相川に手渡す。
「外、暑かった?」
「まあ、そこそこ」
「……来てくれて、ありがと」
 踏切を渡るときのようにあたりを思いきり見渡し、誰もいないことを確認して、滝本の唇が相川の頬に触れた。
 顔から火がでる、とはこのことを言うのだろう。病院内の冷房に負けないくらい、相川の顔が火照った。
「会いにきただけじゃねえよな?」
「ん。お前に聞きたいこと、いっぱいある」
「おう。面会時間ももうねえし、外のベンチにでも座るか」
「いいのか、お母さん」
 相川の問いに滝本は毒づいた。
「いい。危篤だって言うから駆けつけたのに俺に会いたかっただけだってよ。俺の三年分の動悸返せ」
 空が暗くなると、夜特有のさらっとした風が吹く。あたたかい空気とその風がふたりを撫でた。
「俺の母さん、生まれたときから心臓が弱くて、三十九年間めったに病院からだしてもらえねえ。いわゆる、籠のなかの鳥だな」
「維織」
「父親はここの外科医で、お互いひとめぼれで結婚して俺をつくった。家族についてはこんな感じ」
「維織」
 掴んだ手首が以前より細くなっていて、相川は咄嗟に滝本を腕のなかに閉じこめた。
 ひとり息子は強情を表にだしていたが、母親との会話に持ちだされるほど愛されている恋人には敵わない。
「かっこつけんなよ」
「つけてねえよ。ほんとうに母さんがやばかったら、お前を呼ぼうと思ってた。さすがに俺も抱えこめねえ」
「そうじゃなくて!」
 怒るつもりはなかったのに、やるせなさでいっぱいになった相川はつい声を荒らげてしまった。相川の肩甲骨にしがみつくようにしていた滝本がびくりと震える。
 少しだけ体を離して、滝本の額におでこをこすりつけた。
「ぜんぶ黙られたままだと身、裂かれた思いすんだよ」
「……ごめん」
「わかってなさそうだけど、まあいいや」
 左の眉毛に相川が口づけると、滝本は変な声をだしながら顔を朱に染めていく。
 喧嘩をしにきたわけではない。
 相川がベンチに座って隣を叩くと、おずおずと滝本が腰かける。微妙な距離が空いていたので、滝本と手を繋ぐことで埋めた。
「学校帰りに関口に会って、維織のことなんも知らねえんだなーって思った。関口のほうがいろいろ知ってて、俺が頼りねえんだよな」
 自虐のような相川の言葉は、滝本の表情を曇らせる。けれど、腹を割って話すことも大切だ。
 突然、滝本がぐりんと首を回して相川を見つめた。
「……滝本維織。十七歳」
「えっ」
 滝本の視線はいままででは信じられないほどまっすぐ、相川の奥に届く。それは、彼の凛とした声も同じだった。
「十月十日生まれ、天秤座。血液型はO型。身長百七十、体重は……わかんねえ。足のサイズは二十七! すきな食べものラーメン。きらいな食べもの特になし。すきなもの、炭酸、ミルクティー、洋画」
「待って維織、え?」
「そしてなによりも、相川」
 まくしたてられる言葉についていくのに必死なのに、これっぽっちも逸らさないで目線が訴えてくる。ちゃんと聞いてくれと。
「趣味は相川とのメール読み返しながら自分ですること。特技は空手。家族構成は病弱の母親、母親にずっと恋してる父親、俺。学校では昼休み以外ひとりでいる。んで、勉強してる。大学は県内のところ受けるつもり。特に就きたい職業がねえから経済学部か法学部に進む。夢中になってることは相川。むかついてることは俺のはじめてなにもかも奪っといて嫉妬する相川」
「すげえこと言ったな……」
 最後まで聞き終えたとき、きっと相川の体温は異常に高くなっていただろう。
 たまらなくなった滝本がしたを向いて、なおさら手をぎゅっと握りしめた。
「関口のほうがなんでも知ってんのは当たり前だろ、同じ学校なんだから。気になんなら根掘り葉掘り聞いてこいよ。相川なら怒んねえよ、俺。つか、なんでいままで聞いてくんなかったんだって思ってたくらい。それくらい、俺のことどうでもいいのかなって、思ってた」
 滝本の声が震えた。末尾なんてほとんど聞こえないに等しくて、相川は唾を飲みこんだ。
「ごめん。どうでもよくねえ。お前のお母さんが入院してんのも関口に聞いて、言いたくねえことなら突っこまねえようにしてた。俺に言ったところでなんの解決にもならねえけど」
「なんねえよ。相川に話して母さんが病院生活から抜けだせるならとっくの昔に言ってるわ」
「ごめん」
 お互いにたりないのは、きっと素直さだ。こうやって時間をつくらないと胸のうちを話せない。ふだんからこういう機会をつくらなければいけないと思った。
「……俺も、ごめん。言いたくなかったわけじゃねえよ。ただ、おとなとか関口とか、周りの人間みたいに、同情してほしくなかったから」
 ずずっと滝本が鼻をすする。涙こそこぼれていないが、そのうちぐちゃぐちゃに泣いてしまうだろう。
「しねえよ」
「お前はやさしいからぜったいする。そんなん、いらねえもん。ふーん、大変だな、くらいでいいのに」
「そっけなくなんかしたら、維織、傷つくだろ。俺のは同情じゃなくて心配って言うの」
 眼鏡を外して乱暴に目を拭っていた滝本がふは、と吹きだした。
 彼の顔はすがすがしいほどにゆがんでいる。
「それ、なにがちがうわけ?」
「恋人の特権だろ」
 むわっとした空気に乗って、滝本の大声が響いた。何度も相川を汚い言葉で罵倒して、最後はすきのひとことで締める。
 死ね、馬鹿、底辺、お人好し、すき、さらっとかっこいいこと言う相川がすき。
 病院の敷地内だということも忘れて、さんざん喚いた。
 相川は終始頷いて、滝本が落ちついてから頭を引き寄せる。
「声でけえよ」
「お前がかっこいいのが悪いんだろ、禿げろ」
「俺が禿げたら維織泣くじゃん」
「それでも愛してやんよ」
 泣きっ面に蜂とはこういうことを言うのだろう。男前に滝本は豪語するが、火照った頬には完全に涙のあとがついている。
 指で触れると、その手を滝本に取られ、手のひらにキスをされた。
「これから、いやなことあったら言う。遠慮しねえ。だから、相川も俺になんでも聞いて」
「わかった」
「それと、ちょっとした報告がひとつ」
 滝本は頬を掻いてから、上目づかいに言った。
「いまバイトしてる」
「は!? 受験生だろ、大事な時期だろ」
 それはちょっとした報告なんてものではなくて、相川はつい滝本の肩を掴んでしまった。
「高校卒業したら、すぐじゃなくいいから、お前と、同棲したい」
「維織……」
「だ、だいたいからして、四ツ谷に通ってんだから大学なんて高望みしなきゃどこでも受かるだろ!」
 最近、妙にメールの返信が遅かったり、なかったりしたのはアルバイトを始めたからだろうか。
 思っているよりもお互いがお互いにベタ惚れ状態で、急にこっ恥ずかしくなった。
 けれど、滝本がこのことを話すのにどれだけ勇気がいったのか、相川にはわかる。大事なことを話すときには、誰もが頭のてっぺんから足のつま先まで緊張するものだ。
「いやだったらいい。つきあって半年も経ってねえのに気が早えこともわかってるし、どうしてもなんていわねえ」
「一緒に住もう」
 わかりやすいくらい、滝本の表情がやわらいだ。
「うわー……。やっべえ、すげえキスしてえ」
「さっきからいっぱいやってんだろ」
「くちにだよ」
 相川の目が鋭く滝本を射抜いた。
 こういうときの視線がなにを示すのか、はじめてセックスをした日のことを思いだす。
「体育大会の日……っ」
 かっこ悪い誘い方だけれど、滝本は相川の肩に頭をこすりつけて、消えそうな声で言った。
「次の日土曜日だから、泊まれば……?」
 相川の喉が鳴る。滝本の心臓が早鐘を打つ。
 確固たる目的をもっての約束。触れた額と肩が熱くて、夜なのに熱中症になってしまいそうだ。
「維織」
「んだよ」
「すき」
「――っ。馬鹿、俺もすき」
 周りには誰もいないけれど、ひとの視線を気にしてから、触れるだけのキスをした。

     ***

「おはよ、相川。気合い入ってるな」
「おはよ。新見屋もな」
「今日、彼氏が来んの」
「はは、俺んとこも、たぶん」
 赤い鉢巻を巻いた新見屋が一瞬だけ目を見開いて、そうか、とやわらかい声で返す。
 新見屋が恋人のことを公にしたのは二年生のときだ。相手は四ツ谷の生徒だった。当時、四ツ谷高校には恋愛禁止の校則があって、それを破った四ツ谷生と、彼に手をだした新見屋は各学校から追放されそうになった。
 新見屋は職員室のまんなかで教師から非難を受けていたが、ふいに男女交際と同性間での交際について逆に彼らを問いつめた。
 なんでもだめだと言うおとながいるから、子どもはいつまでも偏見や差別をやめられない。
 校長は新見屋の退学処分を取り消し、四ツ谷高校に校則の改正を申しでた。そして、晴れて四ツ谷では自由な恋愛が許可され、新見屋もなんらかわりなく在学が決まったのだった。あのときのことは、三上高校に伝説として語り継がれている。
 相川はきょろきょろと周りを見渡した。もうすぐ第一種目が始まる。
 滝本からメールはなかった。正直、来てくれる望みのほうがはるかに薄い気がする。
「真ちゃん!」
「真希」
 救護所テントのなかに双子の妹を見つける。オフショルダーとショートパンツで完全に夏仕様なのに日焼けをするのをきらい、テントのなかから動こうとしない。
「お母さんとその彼氏も来てる」
「そっか。お父さんがいなくてよかった」
 父はどうしても仕事の都合がつけられなくて、昨日、平身低頭していたのを思いだす。
 母には三年前、彼氏ができた。一度会ったことがあるが、真面目で純朴そうで、少しだけ父に似ていた。
「真ちゃん。あたしね、いまだにわからないことがあるんだ」
「俺も同じこと思ってると思う」
 妹相手にはつい口調がゆるんでしまう。
「なんでお父さんとお母さんが離婚したのか、だろ」
「けんかもしてない、借金があったわけでもない、離婚寸前までふつうだったのに」
「もともと恋愛結婚じゃねえしな、ふたり」
 原因はなく、ただ馬があわなくなってきただけのことだろう。母は財閥の次女で、遅まきながらの結婚だった。見合いで婚約し、子どもも生まれて、いまさら恋に目覚めたのだと思う。
「幸せならいいんじゃねえ?」
「ま、私の前ではいちゃいちゃしないでほしいけど」
 第一種目のアナウンスが響いた。グラウンドを生徒が縦横する。
「午前は綱引きと、午後は男女混合リレーでる。お母さんにも言っといて」
「了解。そういえば、彼氏は? 来るって言ってなかったっけ」
 いちばん痛いところを突かれ、相川の表情筋が引きつる。 
「連絡ねえから、来ねえかも」
「あーあ。最後の年なのにねー?」
「うるせえよ真希。応援席戻るな」
「うん。お昼ご飯は一緒に食べようね。お母さんたち抜きで!」
「おう」
 相川は踵を返した。半パンのポケットに入れた携帯を意味もなく触る。
 どうせ夜になれば会えるのに、相川は落ちつかない。
 午前の部最後の種目、綱引きでは、相川率いる緑の鉢巻を締めた三組が絶対的勝利となった。
 クラス替えのない三上高校でいちばん生徒数が少ない三組は、男子七人、女子十人。男子のみのこの競技では快勝だった。
 勝利記念にクラス全員で写真を撮って、昼のアナウンスがして各々昼食に散らばる。
 ペットボトルを持ってテントに向かうと、タオルを頭にかぶせた真希がうろんげに相川を見あげる。
「あっつい」
「暑いな。髪、結ぶ?」
「うん。やって」
 真希が大きな鞄からカゴバッグをだして、レタスとハムとトマトが敷きつめられたサンドイッチを相川の口に突っこむ。真希の髪を高い位置でポニーテールにして、相川はそれを思いきり頬張った。
 相川と真希は料理が得意だ。片親になったときからふたりとも自炊を覚えた。
 カリッと焼かれた食パンに新鮮な食材はあう。かごのなかにはおにぎりも入っていた。
「あやへくんかりゃりゃいんはいってりゅ」
「なんて?」
 口いっぱいにサンドイッチを詰めこんだ真希がスマートフォンを操作し、水筒を左手に、右手をだしてきた。
「『進路ガイダンス終わった。滝本がなかなか扉の開かない電車にキレながらそっち向かってるって相川に伝えて』おおう……」
 その情景が目に浮かぶようだ。
 相川は知らず口角をあげた。
「なににやついてんのよ」
「維織、来るって」
「え、よかったじゃん」
 俄然やる気がでてくる。
 相川は真希から水筒を取りあげ、半分ほど残っていたお茶をすべて飲みほしてしまった。
 怒鳴る真希には今度スターバックスの飲みものをおごると約束して、足取り軽く応援席に戻った。
 空は青く澄み渡り、さわやかな風が白い体操服をはためかせた。
 恋人の威力とはすばらしいものだ。瞬時に気分を高揚させ、モチベーションをあげさせる。
 応援席に戻ると、ひと足先に帰ってきていた友人に「さっきより機嫌がいいな」と言われた。端から見てもわかるくらい調子がよく見えるらしい。
 昼からは一層太陽も強く照りつけ、観客は熱をあげた。 
 三組の快進撃に続き、新見屋が先頭を切る一組があとを追う。最後の体育大会らしく、みんなが燃え尽きようとしていた。
 最後の種目に出場するため、相川がグラウンドの隅に並んでいたとき、真希が慌てた様子でぱたぱたと走ってきた。
 息を整えて、待ち望んでいた言葉を口にしてくれる。
「真ちゃん、維織くん来たよ!」
「えっ」
 この際、妹が勝手に恋人を呼び捨てにしていても構わない。嫉妬も上回るくらいにうれしいから。
「真也、円陣組もうぜ」
「じゃあ、一旦クラス全員で集まるか」
「よし、来た」
 チームカラーの緑色の旗が風にたなびく。十七人で組む円陣はとても小さかったが、とても強い絆を示していた。
 三上高校のようなヤンキー校にはクラス替えがない。だから、相変わらず仲がいい。それはつまり、三年間のあいだいろいろなことが起こって、同じように乗り越えてきた証なのだ。
 この一瞬すらいとおしいと思う日がくる。後悔なんてしないように、相川は声を張りあげた。
 クラスメイトの声援を背に受け、相川がグラウンドに降り立つ。第一走者がバトンを繋いで自分の番がどんどん近づいてくる。
 現在のトップは一組。仲間珠依留(なかまじゅえる)の俊足が走者を引き離していく。
 焦らない。だって、滝本がどこかで見てくれているはずだから。こういうときくらいいきがって、かっこいいところを見てほしいから。
 ほどなくして一組のアンカーにバトンが渡り、次いで相川の前走者がよれよれになって駆けてくる。
 相川は地に足を踏みしめ、せいいっぱいうしろに手を伸ばした。

 乾いた銃声が鳴り響いて、ゴールテープを切ったのは誰何――。

 大トリが終わると、観客はほとぼりを冷ますために席へ、係は点数の集計をするために集ってかしらを並べる。
 体操服の袖で汗を拭った相川は、校舎の日陰にいとしい影を見た。
「――維織」
「すっげえよ相川! 足早いんだな!」
 いつもかっちり着ている制服が、ネクタイは曲がり、襟はよれて、ベストのボタンはすべて外れていた。
「維織」
「かっこよかった! 惚れ直した!」
 滝本は、ときどき周りの目をはばからず行動する。それがいまで、けれどやめろなんてもったいなくて言えなくて、相川は滝本のもとへ駆けだした。
 顎を引いた滝本に勢いをまちがえて抱きつく。そのまま地面のうえに転がって、滝本の下敷きになった相川の体操服は砂と石で汚れた。
「維織が来てんのわかってたからがんばれた」
「馬鹿。お前頭打っただろ! 怪我したらどうすんだよ!」
「してねえから問題ねえよな」
「相川――」
「ありがとう」
 耳もとで滝本が息をのむ。撫でた髪がさらさらと指に沿って流れた。
 滝本を抱き抱えたまま相川が跳ね起きてあぐらをかく。
 視線ががちりとあった瞬間、どちらともなく吹きだした。
 しばらくそのままで、笑いすぎて喉を引きつらせた滝本が相川の肩を叩いた。
「ひひ、あいか、わ。みんな、並んでっけど」
「閉会式だわー。ちょっとだけ待ってて」
 滝本は頷き、立ちあがって相川に手を差し伸べた。その手を思いきり掴んで、入れ替わるように相川がおっ立つ。
「じゃあ、家帰ってる。泊まりの用意してるならそのまま来れば?」
「そうする」
 去り際、滝本が乱れた服装を整え、ついでに毎日セットしているという髪を撫でつけおとなしくさせる仕草にきゅんとくる。
 相川が小走りで列に並ぶと、ジャージのズボンに手を突っこんだ銀髪の友人が振り返った。
「期待大だぜ、相川よ」
「優勝狙えっかな?」
「一組といい勝負」
 朝礼台に、ポロシャツとジャージという出で立ちの校長が登壇する。手には歌詞カードほどの大きさの紙。そこにすべての結果が記されている。
 相川は息をのんだ。
 マイクを通して聞こえる低音は最下位から四位までを読みあげ、そのなかに三組の名前はなかった。
 誰もが固唾をのむなか、三位に七組が選ばれる。七組は唯一の理系クラスで、女子の人数が極端に少ない。ほぼ全員が全種目に出場したうえでの好成績だった。
 残すは準優勝と優勝のみになった。
「平成二十七年度秋季体育大会、優勝は――」
 校長の末尾の言葉をかき消すように、緑色の鉢巻が宙を舞う。
 雄叫びをあげたのは三組だ。真っ直ぐに並んだ一列も乱れ、祝福の拍手に包まれながら室長が朝礼台の前まで駆けていく。
「やったな、相川!」
「ほんっと……。俺らすげえ……」
 事実を受けとめきれずしばらく呆然としていた相川は、銀髪に背中を叩かれ、我に返った。

     ***

 滝本のうちのインターホンを連打して、玄関の扉が開いた瞬間、相川は手を広げた。
「優勝した! 一組と僅差で、すっげえ!」
「ははっ、おめでとう!」
 たたきに乗りあげるまで押して、相川と滝本は倒れこむように抱きあった。
 滝本は相川の肩をやんわり抱き返してくる。
「維織が来てくれたからだよ。ありがとな」
「ん、聞き飽きたっつの」
「どんだけ言ってもたんねえよ!」
「ばあか」
 改めて視線を絡ませ、触れるだけのキスをする。
 滝本が目を閉じたままなので、相川は口のなかで笑った。
「……なに笑ってんだよ」
「ん? かわいいなーって」
「また女みたいだって言うのかよ」
「言わねえ」
 いやなことを引きずらせたのは自分だ。
 間近でそっぽを向く滝本の顎をやさしく指で挟む。
「もう言わねえ」
「疑ってねえよ。ちょっと……むかついただけ」
「疑いからきてんじゃん」
「うっせえ。いいからちゅー」
 どうせ喧嘩すらしきれないから、滝本は相川の首に腕を回し、唇を突きだした。
 お互いに制服の上着を脱ぎ捨ててしばらくキスに溺れる。唾液で口もとがどろどろになると、滝本が相川のYシャツに指を引っかけて言った。
「風呂、入ってこい」
「維織もまだだろ」
「俺は用意とか準備とかあるから相川のあとに入る」
「一緒に」
「入んねえよ馬鹿死ね」
 滝本の口の悪さは健在だ。
 滝本が相川の荷物を手に二階へあがったのを見送ってから、相川はバスルームに足を踏み入れた。
 ずっとマンション暮らしだった相川にとって、一戸建ての風呂の広さは驚くほどだ。洗面所も寝転がることができるくらい大きい。意味もなく伸びをしてみた。
「いいな」
 一戸建てに住むのは相川の晴れてからの夢である。そこには自分の愛する者もともにいてほしいと願った。
 相川がシャワーをしているあいだ、洗面所でばたばたとせわしなくなにかが動いていた。
 隅々まできれいに洗いあげた相川が風呂からでると、洗濯機のうえにちょこんとバスタオルと着替えが置かれていた。
「こういうところがかわいいよな」
 悩んだ末、下着のみを着けて二階にあがった。
 滝本は視線を浮つかせ、慌ただしく入れ替わるように部屋をでていく。
 ひとりで待つには長い時間で、滝本がわりと着込んででてきたときは少し落胆した。ただし、滝本の服を脱がせるのも醍醐味なので結局はよしとする。
「タオルと服、ありがとな」
「真っ裸とずぶ濡れででてこられても困るし」
「維織」
 そういえば、トレードマークである眼鏡がない。
 なにも通さず見る瞳はレンズ越しより透き通っていて、硝子玉のようにきらきらしている。
 ベッドの端に座った相川を跨ぎ、滝本がのしかかるようにキスをした。
 風呂あがりの体は火照り熱を浮かしていく。
 背骨をなぞっていた相川の手が、尾てい骨のあたりを撫で始めた。
「手が早えよ」
「今日は許して。維織にさわりたくてたまんねえ」
 相川は言葉と同時に滝本の腰を抱いて体勢を入れ替え、彼の顔の隣に手をつく。
「相川……」
「あーだめ……。期待した目で見んな、やりころしたくなる」
 声のトーンがあまくて、体だけではなくついぞ脳まで犯されてしまいそうな錯覚に陥る。
 滝本は別にいいのにとつぶやいた。瞬間、獰猛な瞳に捕らえられて、舌で口内を、指で胸の突起をつぶされる。
 下半身を直に触れられず、もどかしく身をよじった滝本に気がつき、相川がにやりと笑った。
「相川、なんか、いじわるくなったよな……っ」
「ん? ちょっとだけ焦らしたほうが、あとあといいだろ」
 唇を舌で舐めるしぐさにきゅんときて、滝本は首に巻きついて昂ったところを押しつけた。
「っ、維織は、誘うのがうまくなった」
「お前のむらむらポイント、わかってんだよ」
 もう我慢できなくなって、めちゃくちゃにキスをしながら衣類越しにこすりつけあう。振動にあわせてベッドがぎしぎしと揺れ、それがふたりの興奮をさらに煽った。
「な、だめ、でるっん、んんっ」
「よかった……俺も、っから、一緒に」
 ふるふると全身を痙攣させて、滝本の下着がぐっしょりと濡れた。
「気持ち悪……」
 ぐったりとベッドに背中を預けた滝本の頭を相川がすくいあげ、荒い息のままキスをする。
 耐えられる状況ではないのは滝本も同じ。さきほどいったばかりのそれも徐々に元気を取り戻していく。
「俺な、維織に頼られるような、強い男になるから」
 うしろをまさぐられながら、意識も快楽で朦朧としながら、相川の心の音を聞く。やさしい声は滝本を安心させ、包容力がすべてを包みこむ。
「俺だけ、にして?」
 おねだりに似た了承を待つ言葉は、滝本の不安も、葛藤も、怒りも、悲しみも、喜びも、きっと受けとめてくれる覚悟で言ったことだろう。
 滝本は強情に当たり前だろ、と返した。
 相川の頬がゆるむ。
「あと、もうひとつお願い」
「なに……っ」
 逆にこっちから、うしろをいじりながら会話をするのはやめろと言いたくなった。こっちは話を聞かなければいけないのに、指が執拗にそこだけを押さえるから板挟みになってつらくてたまらない。
「名前呼んで」
 ね、維織。囁き声と同時にうしろの穴を指でひらかれて、熱いものが入りこんできた。痛くはない。けれど、なんともいえない圧迫感には慣れない。
「維織、名前、呼んで……」
「恥ずかし……っん」
「呼んでくんねえとやめる」
「あ……」
 奥までぴったりと相川のものがかたちを成した。けれど動く気配はない。相川の指が滝本の鎖骨をなで、お願い、と何度もねだってくる。
 焦らされ続けると滝本が我慢できなくなる。
 滝本は相川の腕を掴み、羞恥心と戦いながら口を開いた。その声は耳をすまさなければ聞こえないほど小さい。
「聞こえねえ」
「お前……!」
 相川はまたも自分の唇を舐めた。
「維織、ほら」
「うっせえな、わかってるよ! 真也!」
 ほぼ怒鳴るように名前を呼んだ滝本に対し、相川は極上の笑みを浮かべた。
「これでいいんだろっ、うわっ!」
「ありがと」
 相川は滝本の腰を鷲掴み、流れるような動作で膝のうえに乗せる。なかのものの角度がぐりんとかわって、驚きながらも滝本は喉を震わせた。
「悪いけど今日は寝かせねえ」
「うそ、あいかわ……っ」

      ***

 アルバイトから帰った相川は郵便受けを覗き、自分宛に来ていた封筒を乱雑に破った。もたつきながら引き抜いたぺら一枚には合格の二文字。
 震える手でいちばんに報告したい男に電話をかけた。いつもどおりの悪態をなかば強引に遮ると、電話の相手は自分以上に喜んだ。喜んでくれた。

あいおり

完結しました。
ありがとうございます。

あいおり

ノンケにばかり恋してきた俺とノンケなあいつとのどうでもいい毎日。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2016-02-13

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