浴室の彼女

初めての投稿で、前書きなんてかける身分じゃありません。
ただ、主人公に出来るだけ共感しながら書いた作品です。彼の不思議な思いを感じ取っていただければ幸いです。
宜しくお願いいたします。

「浴室の彼女」


「髪」

 ギィ、と古臭く重い鉄扉を開け、僕はアパートの部屋に入る。後ろでバタンと扉の閉まる重い音を聞きながら、僕は部屋の明かりをつける。そこは細長い玄関と廊下、キッチン、その先にベッドとコタツのある狭い部屋。奥に狭苦しい窓。その窓も、部屋干しの洗濯物で上半分をふさがれて、申し訳程度の明るさを部屋に差し入れる。僕は背中を丸めてぼそぼそとコタツに向かい、買ってきたコンビニの袋を投げるように置く。左にUターンするように振り返れば、そこにはまた細長い廊下があり右にトイレと、突き当たりに浴室、その中に洗面台。どこをどう見回しても「狭苦しい」の一言しか出てこないような、僕の日常。
 僕の名前は国分良人。東南大学の二回生。二十歳。名前は読んで字のごとく、「良い人」。ひっくり返して「お人良し」。勉強もスポーツも、何もかも普通か少し下で、要領も全然よくない。もちろんちょっとした遊びや女の子に縁なんてからっきしない。
そう女の子といえば一回だけ勇気を出したことはあった。キャンパスから少し離れた駅の前にある公園。噴水のあるその公園のベンチで、うつむいている女性を見つけた。通りすがりに僕はそっと気付かれないように顔を覗き込んだ。左目の下に少し大きなキズと青いアザを作ってかすかに嗚咽している地味な服を着た若い女性だった。僕は何を思ったのか、立ち止まってハンカチを差し出した。
「ど、どうぞ、大丈夫ですか。」
そう言ってはみたものの、その人は既に自分のハンカチでキズを覆っていて、誰が見ても僕のハンカチなんか必要なかった。
「ありがとう、でも、大丈夫です。」
その人は僕の目を少し見て、恥ずかしそうに、少し申し訳なさそうにキズを隠し、僕のハンカチを断った。よく考えてみればあんなダサい行為はなかった。その時以来、余計なことはしなくなった。そうやって今では立派な目立たないそこらの小市民。
今日も、たった一冊の本を探してあちらこちらの本屋を要領悪く訪ね歩き、結局探すこともできないまま、疲れ果ててコンビニで夕食を買って、今帰宅したところだ。少々レトロで猟奇的な趣もあるが、耽美的な絵柄がお気に入りの地味な作家の漫画だったが、あまり知られていないせいか、どこの本屋にも置いてなかった。ああ、今日はもう本当に疲れた。とっとと飯を食って、風呂入って寝よう。誰に言うでもなく、そう小さくつぶやいて、僕は買ってきたカップラーメンと豚しょうが焼き弁当、ビタミンドリンクをがさごそと袋から取り出し、空いたコンビニ袋にその辺に散らばっているゴミや紙くずを放り込み、ゴミ箱にぐっと押し込んだ。
 美味くもないコンビニ弁当を、ビタミンドリンクで流し込んで、僕は風呂に入った。浴室は廊下の突き当たりに洗面所と一緒にあって、小さいけど一応洗い場もある。古いアパートだからか、シャワーなんて気の効いた物はついていない。水を溜め、ボイラーで沸かす。生来、アトピー性の皮膚炎を多少患っている僕は、毎晩風呂に入らないと翌日がつらい。痒くて仕方なくなるのだ。毎日きちんとお風呂に入って、薬を塗る。それでやっと僕の一日は終わる。そんな僕の一日の締めくくりを演出する浴室。人が一人入ればいっぱいいっぱいの正方形の小さな浴槽。それでも熱い湯に浸かれば疲れもとれた気がするってもんだ。狭い浴槽には、狭い洗い場。僕は身をかがめて頭を洗う。薄暗い照明が、いつかまばたきしそうで、頭を洗っている時はいつも時々ちゃんとついているか確認する。浴室の壁のシミが、何かを訴えかけているような気がして薄気味悪いから僕は極力そっちの方を見ない。わざとらしく鼻歌を歌ってみたり、あの本、どっかにねぇかなぁ、と小声で自分に言ってみたり、あれやこれやと気分を紛らわせながら頭を流す。ザーと流れ、排水口に吸い込まれていくお湯を見つめながら、僕はふと気付いた。
「なんだよ、流れ悪りぃな。」
ズズズー、と音を立てて流したお湯が全て吸い込まれた後、僕は排水口を見つめて、何か違和感を感じた気がした。いや、確かにおかしい。僕の短い髪とは違う、排水口の丸いふちに沿って円になって流れることを拒んでいる髪の毛の束。それは明らかにその場と違う空気を持っていた。僕はその流れない髪をつまみあげて、ギョッとした。
「なにこれ…」
長い。明らかに長い髪の毛だった。その瞬間、僕の手は弾けるようにその髪を排水口に放り投げていた。違う。間違いなく僕の髪じゃない。長い、女の髪。理性でそう考える前に、右腕の神経がその異物を拒んだ。
「うわ、うわぁ」
僕はとっさに洗面器でお湯をすくい、今その異物つまんだ指をあわてて洗い流した。何度も、何度も、洗い流した後、僕は裸のまま洗面台にあるティッシュを何枚も、何枚も引き抜き、排水口のその異物、そう、見覚えのない女の髪をかき集め、丸めて、何重にも何重にもティッシュで包んでゴミ箱に放り込んだ。僕はその手を何かを払い落とす様に何度も何度も洗った。体が芯から冷えていた。
 僕は風呂から上がると早々にベッドに丸まり込んだ。ありえない。僕がこのアパートに女性を入れたことがないことは、僕が一番よく知っていたし、もちろん風呂を貸すような関係があろうはずもない。あれは何だ?あれは何だ?自問自答すればするほど、部屋の薄暗さが僕を襲い、どこからか聞こえてくる何かわからない物音全てが、何者か異世界のものの囁きに聞こえてくる。僕は体の周りと布団に隙間を作らないよう、団子虫のように完璧に丸く固まった。それでも今、その手の中に、あの長い髪の毛が丸まっているような気がして、ゴミ箱から虫のように這い出てくるような気がして、首筋の隙間から女の息がふぅとかかりそうな気がして、僕は震えながらまんじりともせず夜を明かした。

 寝不足の翌朝、僕は動きたくなかった。幸いにも水曜日は一限目を取っていない。二限目もサボろうと思えばサボれる講義だ。昼、太陽が高く上がるまで、僕は動かないつもりだった。しかし、窓から差し込む光が明るくなってくるに連れて、昨晩の恐怖心は陽の光に刺し殺されていくような感じがした。なんのことはない、見間違いかもしれない、なんとなくそんな呪文のようなつぶやきが口から漏れ始めた頃、僕は起き上がる勇気が出始めた。太陽の光とは、かくも心強いものなのか。大丈夫、大丈夫。そんなつぶやきに鼓舞されながら、僕はむくりと起き上がり、部屋を見回した。何も変わらない、いつも通りだ。何を怖がることがある?大丈夫。
 僕はとりあえず布団から目だけを出すように、隙間をあけて部屋の中を見渡した。大丈夫。何も変わらない。おそるおそる布団から這い出た僕は、しばらく腹を空かせたアナグマのようにベッドやコタツの周りをいったりきたりうろうろしていた。そのうち、意を決したように僕は奥の洗面台へと向かった。僕は覗き込むようにして洗面台に少しだけ顔を出した。もちろん、浴室には誰もいない。昨晩、そういえば電気を消さずに出てしまったのだ。昼間だというのに、ぼんやりと光る浴室の照明は、昼間の明るさを逆に吸収して薄暗くする効果があるかのように灯っていた。なにも変わらない。僕は自分に言い聞かせた。何も変わらない。そう、何も変わっていない。湯船のお湯は揺れていない。洗面器や腰掛けも僕が出た時から、なにも動いていない。あの排水口にも髪の毛なんてない。順番に確認する僕の背中に、冷や水を浴びせかけられたような冷たい波が走った。
 そこには、排水口を縁取るように丸く、黒い毛虫のように、円を描いた、長い髪の毛の束があった。


「手首」

 サボるつもりだった二限目に、僕は出ていた。というより、とにかく人のいるところに逃げてきたというのが正解かもしれない。あの髪の毛の束を見た瞬間から、大学の構内まで、僕はどうやってきたのか覚えていない。部屋の鍵を閉めたのかどうかも自信がない。ただもうその場から離れたかった。頭の中を妄想や幻覚のようなものがわいのわいのと言いながら渦巻いていて、僕は何も考えることができないでいた。
 学食で粗末な昼食を取り、三限目を受ける頃になると、やっと頭も少しは冷静にものを考えられるようになってきたようだ。あれは何だったのか?長い髪の毛。多分、女の。身に覚えはない。というより、僕は確かに昨晩風呂の中で、発見した髪の毛を全て集め、ティッシュで包んで捨てたはずだ。風呂を上がる時には、排水口に髪なんてあるはずがない。そのまま布団に包まって怯えた夜をすごした後、排水口に再び髪の毛は発見された。つまり、僕が布団で怯えている間に、誰かがあそこに髪を落としていったことになる。
「んな、バカな、、、カンベンしてくれよぉ。」
僕は頭を抱え、小さくつぶやいた。講義なんか、まったく頭に入らなかった。戻りたくない、あの部屋に。でも、僕には風呂を貸してくれといえる友達も、一晩泊めてくれたりするような知り合いも、全くいなかった。今更ながら、自分の地味さと付き合いの狭さを痛感した。近くに銭湯なんか、ないよな。自分で頭をわしわしと掻き毟りながら、僕はなんとか逃げ道を探していた。でも、行き着くところは「戻らなくてはいけない」なのだ。逃げ続けることはできない。逃げるなら引っ越すしかない。髪の毛があったので、引っ越しますって、いえるか?一笑に付されるのがオチだ。もう、考えても、考えても、その先は出てこない。何か実害があったわけでもない。ここは腹をくくって戻るしかない、そう決めたのは講義も全て終わり、日も暮れかけた帰り道の途中のことだった。
 ギィと重い鉄扉を開けて、僕は重苦しい足取りで部屋に戻った。もう日も暮れて、またあの恐ろしい暗闇が待ちうける夜になっていた。夕食はまったく欲しくはなかったが、それでも夜中に腹が減って出かけるのはイヤだ。そう思った僕は、軽くサンドイッチと野菜ジュースを買って帰った。今はまだ浴室に行く勇気はなかった。まだあの髪の毛を取っていない。いや、もしかしてあれは見間違いだったのかもしれない。何を言っているんだ、ちゃんと見たじゃないか、だから飛び出てきたんだろう?でもしっかり見たわけじゃないし、あれは自分の髪の毛だったのかもしれないし。
無味乾燥のサンドイッチを口に押し込みながら、そんな問答を繰り返し、ようやくやむを得ず浴室に行く勇気を振り絞ることができたのは、もう帰宅してから数時間がたってからだった。遅くなればなるほど恐怖が増すことを自覚していた僕は、明日の痒みを治めるためにも、手っ取り早く、全てを忘れて風呂に入ってしまうことを選んだのだ。僕はもう排水口を見ないことにした。忘れろ、忘れろ。なにもない、なにもなかった、忘れてとっとと風呂に入っちまえ。そう、呪文のようにぶつぶつ唱えながら、目をつぶって烏のごとく素早く風呂を浴び、脱兎のごとく浴室を飛び出した。十分温まってはいなかったが、もうそんなことはどうでもよかった。風呂上りのコンディションを整えて、僕はすぐさま布団にもぐりこんだ。これを繰り返せば、そのうち忘れられる。何事もなかったように、元の生活に戻っているはずだ。そう自分に言い聞かせながら、丸くなった体と布団を、さらに丸く縮こまらせた。なにもない、なにもなかった、なにも、、、

ちゃぽん

僕の目が、真っ暗な布団の中で泳いだ。何?か、聞こえた?

  ちゃぽん  ざー

僕の全身が総毛立った。確かに聞こえた。何の音だ?浴室?誰かいる!そんなバカな!僕は完全に混乱していた。誰もいないはずの部屋に、浴室に誰かいる。いるはずのない浴室から、水音がする。僕は震えて縮こまることしかできなかった。頭の中を昔見たホラー映画の気味悪い女の姿がよぎる。ざばりと髪を振り乱してカクカクと襲い来る女の姿。作り話に惑わされるな!と思えば思うほど、髪をざばりと前に垂らしたおどろおどろしい女の姿が頭を離れない。そうこうしている間にも、その女が浴室からずりずりと這い出してくるのではないかと、そしてこのベッドに手をかけてくるのではないかと、僕の心臓は布団の上からでも、その女にバレてしまうのではないかというほどに早鐘を打った。動くな、動いたら、バレる。ここにいることを知られたら、取り憑かれる!妄想が妄想を呼び、僕の心はあらん限りの力で悲鳴をあげていた。どこかにいってくれ。なにも僕のところじゃなくてもいいじゃないか。消えて、消えてくれ。念じに念じつくしたが、その思いも空しく、また遠くで ちゃぽん と音がした。
 
その瞬間、僕の心臓は急にその速度を落とした。
「確かめよう」
ここで怯えていても何も変わらない。ここに住むことに変わりはない。この風呂に入らないとやっていけない。確かめて、本当に何かいるなら、祈祷してもらうとか、何か方法があるはずだ。ぷつりと心の緊張の糸が切れたような気がしたその時、僕の手は布団から出ていた。そうっと隙間を開けて見るが、何者かが這い出てきた様子はない。あんなのは映画の話だ。あるはずがない。俄然、何か勇気が出てきた僕は布団から這い出し、水音のする浴室へと向かった。電気は消えている。だんだんとまた心臓が速くなってくることを自覚しながら、それでももう後には引けないと自分を叱咤しながら、音を立てないよう、そろり、そろり、と浴室へと近づいていった。その時、再び、

 ちゃぽん

間近で聞こえた水音に、飛び上がらんばかりにビクリと体を浮かせた僕は、思わず足を止めた。もうダメだ、と思う気持ちと、確かめろ、と思う気持ちのせめぎあいの中、氷のように固まった僕はタラタラと冷や汗を流していた。もう、後ずさることも怖かった。後ずされば逆に追ってこられそうでしかたなかったからだ。動けない、でも動かなきゃ、逃げるか、いや見よう、確かめるんだ。鉛のように重くなった右手を震えながら持ち上げ、僕は思い切って浴室の電気をつけた。これで気配が消えてくれることを、少し期待していた。明るくしたら消えてくれるのではないか、実は覗いてみたら何もいなかった、ってなるんじゃないか、そう期待していた。事実、水音は止んだような気がした。気配も消えたのか、麻痺してしまった僕の感覚には分からなかったが、明るくなった分だけ、すこしだけ勇気がとり戻ってきた。
もういない。
もういないに違いない。大丈夫。僕は勝った。それを確かめるために、見る必要がある。ただそれだけだ。僕は、できるだけ、できるだけ音を立てないように、そっと、そうっと、浴室のドアに隙間を開け、中を覗き込んだ。

女の後ろ姿に、僕の全ては凍り付いた。

動けなかった。心臓が早鐘を打ち、冷や汗がタラリと流れる感覚がハッキリとわかった。手足の感覚もあるのに、まったく動くことが出来なかった。僕のアパートの小さな正方形の浴槽に、僕に背を向ける形で、そこに女が浸かっていた。薄暗い浴室の照明に、その女の肩口ほどまでの髪は乱れ、湿り気を帯びてざばりと頭の全てを覆いつくしていた。肌は青白く生気のない薄暗さがその照明の元でも見て取れた。女は首をうなだれ、ただじっとそこに浸かっていた。時たま、右手で湯をすくいゆっくりと左肩にかけた。

 ちゃぽん

僕は全く身動きが出来なかった。今ここを離れれば、女がこちらを振り返り、追ってきそうな気がして仕方なかったからだ。心臓がどこまで警笛を打ち鳴らそうと、冷や汗がどこまで恐怖を呼び起こそうと、僕は、全く動けなかった。今なら気付かれていない。どうすればいい?どうすればいい?自問自答するが、混乱を極めた僕の脳みそは、ただそこで見ていることしか選ばなかった。女は次に左手で湯をすくい、右肩にかけた。その時、僕にははっきりと見えた。

 ちゃぽん

そのパックリと割れた左手首の肉の色が。
そこからドロリ、と鮮血が滴り落ち、風呂の湯を染めた。

パツッ、と浴室の電気が消えた。


 翌朝、僕は浴室の前で目を覚ました。体が冷えきっていた。何が起こったのか一瞬わからなかった。体を起こし、ふと自分の左手を見た瞬間、鮮烈に昨晩の記憶が甦ってきた。水音、女、左手首の肉、鮮血…そうだ、僕はあの後、その場で気を失ってしまったようなのだ。重い体をなんとか起こして、僕はベッドに向かった。今すぐここを逃げ出したかったが、体がいうことをきいてくれなかった。僕はベッドに座り込み、布団を頭からかぶってブルブルと震えることしかできなかった。
 一体、何時間そうしていただろう。窓の光はまだ明るい。乾いた唇を湿らすこともせず、ただ震えながら僕は浴室のある方向を見ていた。あれは何だったんだ。確かにいた。あそこに。僕はどうしていいか全くわからないまま、ただ呆然とベッドの上で布団に包まっていた。時間の感覚がない。僕の部屋には、僕以外の異形の者が住んでいる。僕はどうしたらいいんだろう?取り憑かれる?呪い殺される?ときどき甦る、あのざばりと乱れた髪と、パックリと割れた左手首の肉の色。鮮血。自殺?やめてくれよ。頼むからカンベンしてくれよ。なんでここにいるんだ。僕は君の事なんか知らない。恨まれる覚えもない。助けてくれよ。タスケテ!タスケテ!
 そうやって頭の中を意味不明の狂気がぐるぐる回り続けた頃、窓の外が暗くなってきていることに気付いた。また夜が来た!なぜ逃げなかったんだ?逃げるって、どこへ?少なくともここじゃないどこかへ!そんなとこないじゃないか。僕にはここしかないんだ。夜が来た。ヨルガキタ!逃げろ、にげろ、にげろにげろにげろ…

 ちゃぽん

ビクン!と僕の体が跳ね馬のように飛び上がった。
来た。あの女が、また来た。もう逃げられない。お前はこうやって朝まで恐怖と戦い続けるしかないんだ。もしや、今晩は女が這い出てくるかもしれない。ずぶ濡れの右手で、血まみれの左手で、お前にしなだれかかってくるかもしれない。逃げなかったお前が悪い、バカなやつだ。自分で自分を嘲り笑うことで、今の恐怖から逃れようとしている。だめだ、僕はもうだめかもしれない。真っ暗な部屋の中、真っ暗な浴室の方から聞こえてくる水音。

 ちゃぽん ざー

音は、粘り気を伴い、鮮血が糸を引く。僕の心は極限まで苛まれていた。逃げたい。逃げられない。出てくるな。出てくるな。布団に包まったまま意味もなく何かを唱える。「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」知っているお経をうろ覚えで次から次へとつぶやく。そうでもしていないと、気が狂いそうだったからだ。僕は、目を爛々と見開いたまま、その夜をすごした。
女は這い出てくることはなかった。

 二日目、三日目、四日目、女は毎日現れた。僕は、二日目までは飲まず食わずで布団に包まっていたが、さすがに三日目に、このままでは自滅すると思い立ち、陽の光の明るい昼間、食品を買出しに出かけた。フラフラとした足取りで、目はギラギラとさせ、肌はガサガサ、誰がどう見ても不潔で不健康な廃人にうつったことだろう。それでも僕はかろうじていくつかのパンやサンドイッチ、カップラーメン、飲物などを買って帰った。食事を抜くのは割と慣れていたのだが、風呂に入れないのが皮膚の状態上、苦しかった。痒みは日を追うごとに増し、ひび割れ、潤いをなくしていく。気が狂いそうだった。
僕は大学の講義にも出席せず、ただじっと自分の部屋に閉じこもっていた。朝が来て、昼が来て、少し食事をし、夜、布団に包まって水音を聞き怯える。朝が来て、昼が来て、少し食事をし、夜、布団に包まって水音を聞き怯える。そうして一週間も経った頃、僕の精神は限界に達していた。風呂に入りたい、もう他の事はどうでも良くなってきていた。精神なんてものは、少し狂気が入ったくらいがちょうどいいのかもしれない。僕は、陽の光差し込む真昼間、叫び声をあげて布団をひっぺがした。風呂に入ることにしたのだ。どうなっていようと構わない。ギラギラと血走った目で僕は浴室に向かった。ガッと勢いよく浴室の扉を開ける。湯船を見た瞬間、戦慄が走った。

真っ赤だった。

僕は叫び声をあげて湯に手を突っ込み、栓を抜いた。全ての鮮血を洗い流し、溜まりにたまった排水口の髪の毛を無造作に処分した。浴室中に水をぶっ掛け、何もかもを洗い流すように清めた。全ての掃除が終わった頃、僕は息を切らして崩れ落ちていた。
 僕は十日ぶりの湯に浸かった。痛んだ皮膚にお湯が沁みた。ここに女がいたことは覚えているが、もう、半分どうでも良くなっていた。さっぱりと風呂に入った僕は、その狂気と共に、死者の女と共存することを半分覚悟していたのだと思う。体重は五kgも減っていた。それからというもの、昼間、風呂に入り、夜はベッドで丸まって死者の水音を聞く、そんな日々が続いた。ぼくの心はもう完全に麻痺していた。狂気に支配されていたのかもしれない。


「ハブラシ」

 僕が死者の女と遭遇して、1ヵ月近くが立とうとしていた。そのあいだ、女は這い出てくるでもなく、ただ無言に水音を立てながら湯浴みするだけだった。それが慣れてきた僕は、もう以前ほどの恐怖を感じなくなっていた。いや、狂気が支配していたのかもしれない。僕はベッドでうずくまりながら考えた。女はなぜここに出てくるんだろう?取り憑くでもなく、呪い殺すでもなく、何かを要求するでもなく、ただ僕に恐怖を味合わせているだけの毎日。一体、何が目的なんだ?何をして欲しいんだ?供養して欲しいのか?わからなかった。ただ僕の狂気は、すでに女を同居人として認めているようだ。正気の恐怖は失っていない。でもなぜか僕の狂気は、これでいいと、どっかり胡坐をかいてしまっているのだ。もう、僕にとってそれはどうでも良いことのようにさえ思えてきた。
 僕は、いつものように昼間買い物に出かけた。パン、サンドイッチ、ビタミンドリンク、カップラーメン。その時、ふと僕の視界にあるものが目に入った。それは「ハブラシ」。ああ、そろそろ古くなっていた。買い換えようか。そう思った僕は、ハブラシを手に取った。何故、何故だろう?その時、僕はブルーのハブラシとピンクのハブラシを2本手に取っていたのだ。何のために?僕の正気が問うた。あの女の分さ。僕の狂気が答えた。不思議な感覚だ。何故僕は、僕を恐怖に陥れる死者にそんなものを買っているのだろう?わからない。わからないまま、僕はそれを買い求めていた。
 帰宅した僕は、相変わらずの薄暗い部屋の中、買い物袋をがさごそと漁った。そして、二本のハブラシを取り出すと、浴室の横の洗面台のコップに差した。奇妙なオブジェだった。ここには僕一人しかいない。女の子を招き入れたこともない。なのに、コップにはブルーとピンクのハブラシが二本立っている。何故だ?もう、それが何のためなのか、今の僕には分からなくなっていた。そこには、少なからず僕の想いが篭っていたことを、その時の僕は全く気付かなかった。
 その日の晩も、いつもと変わらなかった。水音は変わらず、そして僕の恐怖も狂気も正気も、全て変わらなかった。変わったことが発見されたのは、翌々日の朝だった。
 天気のいい朝、僕はいつものように陽が高く上ってから洗面台に向かった。お湯を抜き、髪の毛を処理し、歯を磨く。自分のブルーのハブラシを取ろうとした時、ふと隣のピンクのハブラシに手が触れた。
 濡れている?
どういうことだ?誰も使っていないはずだ。おろしたてだぞ?お湯でもかかったのか?不思議に思いながらも、そのまま僕はまた昼間に風呂に入り、布団に包まる夜を迎えた。そして朝を迎え、またハブラシを見る。ピンクのハブラシが濡れている。何故?もしかして、あの死者の女が使ったのか?僕の正気はそこで恐怖を感じるはずだった。しかし、その時は、ぼくの狂気が勝った。あの女がハブラシを?思わずフッと吹き出してしまった僕は、ケタケタと笑いながら、えもしれぬ不思議な感覚に捕らわれていた。

 僕は、その晩布団の中で考えていた。あの死者の女は、何をしにここに来ているんだ?風呂に入りに?まさか、風呂なんかどこにだってある。ここである必要なんてない。じゃあ何故?冷静に考えてみると、その女は自殺だ。左手首のあの肉の色、忘れられない鮮血。リストカットしたに違いない。風呂場でリストカットしたのか?で、今でも風呂場にさまよい出てくる?寂しく一人で死んでいったんだろうな。今でもその寂しさから何かを求めて現れるのかもしれない。それが僕のアパートってのはカンベンしてもらいたいものだ。
それでも、僕はふと一人で風呂場で手首を切って死んでいく女の姿が脳裏に浮かんだ。淋しい、淋しい、と泣きながら死んだのだろうか。そんなの僕には耐え切れない。・・・ふと考えると、僕は随分冷静に思考することが出来るようになったものだ。それが狂気なのか正気なのか、僕にももうわからない。おそらく恐怖に麻痺してしまったのだろう。僕は女の水音にはもうそれほどの恐怖を感じなくなっていた。その間、浴室に行かなければいいだけの話だ。怖くても、じっと布団に包まっていれば、今のところ害はない。
 ただその時、僕は思ってしまった。それでずっとこのままでいいのか?女は何を求めているのか?僕は、こんな環境で一生暮らしていくのか?どうすればいい?なにができる?僕は今、不思議なことにその女を救うことを考えていたのだ。女は、あの死者の女は、何を求めているのか?淋しい?痛い?どうすればここから消えてくれるのか?僕は、無性にあの女にそれを聞いてみたくなった。それは僕の狂気のなせる業だったのかもしれない。後で考えてみれば、とんでもない危険な行為でもあるのだ。でも、もう僕はいても立ってもいられなくなっていた。あの女は、僕のアパートの風呂に入り、僕の準備したハブラシを使っている。それならば、他にも何か準備すれば使ってくれるんじゃないか?何をバカなことを言っているんだ、僕の狂気、いい加減にしろ。

 僕は、翌日近くのホームセンターに行って、ピンク色のバスタオルを買った。なぜかって?あの死者の女に使ってもらうためさ。狂気と言われるならそれでもいい。僕はもう、この環境から脱却したいんだ。正気か狂気か、もう僕にはわからない。ただ、女は僕のアパートにいる。確かに毎日、あそこで水音をたてている。バスタオルで体を拭いて、とっとと出て行ってもらいたいんだ。いつまでも浸かったままじゃ困るんだ。そんな辺鄙なアイデアがこのピンクのバスタオルだった。
 アパートに帰った僕は、早速浴室の脱衣場所にピンクのバスタオルを置いた。ピンクのハブラシにピンクのバスタオル、なんとも場違いなアイテムだった。

 その頃の僕は、水音だけの状態にもう昔ほどの極限の恐怖を抱かなくなってきていた。それでも何日かに一回は、浴室から這いずり出てくる血みどろの女の姿を夢に見て、跳ね起きる程度のことはあった。ただ、もうベッドにもぐりこんで震えていた頃とは違う。浴室に背を向ける形で、コタツに座り、テレビを眺める程度の余裕は出てきた。というより、もう既に精神の糸が一、二本切れてでもいたのかもしれない。
今日も僕は昼間早々に風呂に入り、暗くなってからはコタツでのんびりとテレビを見ていた。能天気なバラエティー番組が僕は嫌いだったが、今のこの空気の中で、そんな下らない笑いの一つもなければ耐えられなかった。今、ちょうど番組が一つ終わり、CM提供のアナウンスが流れていた。ふと時計を見て今が十時であることを確認し、ぼくは視線を自分の手元に落とした。今日も、あまり大した物を食べていない。なんだか手も少し細くなった気がする。ごつごつと、でもそれほど大きくない僕の手は、じっと見ていると小刻みに震えだしそうだった。思わず左の手首に目が行き、またあの時の鮮烈な映像が浮かんできた。まるでその心の動きをどこかで見ていたかのように、僕の後ろで音がした。

 ちゃぽん

 来た。その手首の持ち主が。いやな雰囲気の時に現れる。僕の後ろに長く続く真っ暗な廊下、そして突き当たりの浴室。遠近感を失って長く長く伸びるように遠ざかったり、急に近くに感じたり、僕の後ろでその恐怖の場所は僕の心をもてあそんでいた。水音は止まない。女は帰らない。ちゃぽん、ちゃぽん、と何度か湯浴みの音が聞こえた後、沈黙が訪れた。気配はある。だが、無音の闇の中にそれは漂うように揺れているだけだ。しばらくの沈黙の後、

 ざー

 大きく水の流れる音に、僕は驚いて身をすくめた。ギシ、ギシ、と何かが動く音がする。僕は直感した。女が湯船から出たのだ。僕の心臓がだんだんと速くなりはじめ、暗闇の微妙な動きをぴりぴりと感じ取っていた。じわりと脇の下に汗が滲み、わき腹へと垂れる。ギシ、ギシ、とまた小さな音がする。僕の心臓はそのちいさな歪みも見逃さない。ドキリ、ドキリ、と鐘を打ち、それがだんだんと警告のように早くなっていく。また少し、沈黙が訪れた。が、心臓の鐘は決しておさまることなく、ドク、ドクと警告を放っていた。静けさがまた暗闇に吸い込まれていく。僕の後ろで伸び縮みする暗闇の廊下。息が少し荒くなってくるのがわかったが、自分でももうどうにもならない。動くこともできない。沈黙に、暗闇に、押さえつけられたように動けない。わずかに指先がぴくりと動くのを感じた瞬間、

 がた  がた  がた

浴室の扉が開く音がした。僕は総毛立ち、肩をググッと上に持ち上げて身をすくめた。
 後ろに、いる。
確かに気配を感じた。なにかが後ろにいる。僕の心はそれを見てはいけないと叫んでいた。狂ってしまうぞ、見るな!
そう叫ぶ僕の心と裏腹に、僕の体は少しずつ左回りにずれ始めていた。指がピクピクと痙攣する。だめだと叫ぶ心を表すように指の痙攣が酷くなる。なのに体は左回りに振り返ろうとしているのだ。何を確かめようとしている!振り返るな、恐怖で心が壊れるぞ!良人!足先がしびれる。両手両足の指が痙攣を起こしたようにびくびくと震える。それでも僕は振り返らざるを得なかった。僕の体は、このままの姿勢で夜を越すのを絶対に拒否したのだ。
「う、う、うあああ!」
突然僕は絶叫して、一気に後ろを振り返った。見てはいけないものを、見るなと引きずる心を断ち切るように、叫び声と共に跳ねるように後ろを振り向いた。
何もいないことを祈っていた。そんな僕の期待は、あっけなく崩れ去った。

左手首の肉の色だけが、暗闇の中でもはっきり分かった。どろり、とまた鮮血が流れ落ちた。女はそこに立っていた。暗闇の中で確かに見えたものは、ざばりと乱れた髪、顔を覆いつくすその湿った髪。うなだれた首は真っすぐ下を見るように大きく曲がっているように見えた。青白い肩から二の腕がうっすらと見えた。体にはバスタオルを巻き、その左手首からはポタリ、ポタりと鮮血を流し続けていた。
 僕は、大きく口を開けたまま、叫ぶことも出来ず凍り付いていた。指先の震えはおさまっていた、というよりもう感覚そのものがなくなっていたのかもしれない。恐怖で恐慌状態になった僕の頭は、逃げること、叫ぶこと、助けを求めること、それを含めた全ての「考える」という行動を拒否し、停止していた。
 女の首が左にカクリ、と傾いた。まるで直角に90度曲がったかのように、カクリ、と。コキ、と音がしたようにさえ感じた。ついで女の右腕が、カク、カク、と人形のように前に伸ばされる。少しずつ上がるその右手は、恐らくその後僕を指し示し、僕を求めるのではないかと、必ずそうするのではないかと思わせるように。カク、カク、とゆっくり上に上げられていた。しかし、その手首はだらりと下に向けて垂れたまま、力なく揺れ、何かを求める手にはならなかった。
ゴキ!と音がして、いや、実際にはしなかったのかもしれないが、僕にはそれが聞こえた気がした。女の右足ががくりと折れた。バランスを失った人形のように女は右に傾き、その後ドン!と廊下の壁に右肩を打ち付けた。そしてそのまま、ぐらりと揺れたかと思ったときには、女は僕のほうに向かって倒れ掛かってきていた。僕は悲鳴を上げる暇もなく、わずかに身じろぎをしただけだった。女は勢いを増し、こちらに倒れこんでくる。僕には届かない、そんな距離ではあったが、僕はわずかにのけぞってそれを避けようとした。多分、心は。女は、そのまま床に倒れこみ、僕にはその濡れ乱れた髪の毛だけが間近に見えた気がした。ドスンと音がする、はずが違っていた。女は床に倒れこんだ瞬間、

 ばしゃっ!

跳ねるように大きな水音をたてて、女は弾けた。まさに水が地を打ち弾けとぶように。その水飛沫は僕にもかかった気がした。唖然となった僕の目の前に、女の姿はなかった。そこに残ったのは、濡れた床、飛沫のとんだ壁、そして、びしょ濡れのピンクのバスタオルだけだった。

そこに女はいた。その事実を僕の心は受け入れようとしなかったが、床に滴った数滴の血痕で、いやでも納得せざるを得なかった。濡れたバスタオルを洗濯機で回しながら、僕はぼんやりと考えていた。怖い、怖いには違いないが、女は何も危害を加えていない。僕に何かを訴えかけようとするように、その右手を伸ばし近づこうとしたように見えた。なによりこのバスタオルがそのことを裏付けているような気がした。
使っている。ハブラシも、バスタオルも。幽霊が?そんな変な話があるか?しかし現にハブラシは濡れ、バスタオルにいたっては女の体に巻かれていたことを証拠付けるようにびしょ濡れのまま床に落ちていた。女は何がしたいのか?冷静に、冷静に、と自分に言い聞かせ、僕は考え始めた。どうも風呂に浸かりに来ているだけではないような気がする。それならば出てくる必要がない。何故、出てきたのか?せめて美人の幽霊ならよかったのに、ああも気味の悪いんじゃぁな、と思った自分の頬を思い切り張り倒した。僕は何を考えているんだ。これは身の危険かもしれないというのに。呪い殺されるか、取り憑かれるか。逃げるか?祓うか?祈るか?僕はどうしたものかと、ただ冷静に思案していた。そんな自分が、妙に滑稽に思えてもきた。何をしたかったのか、何故出てきたのか。女が、バスタオル一枚で。普通なら、それはしねぇよなぁ、とひとりごちた。男の前にバスタオル一枚じゃ、、、

パジャマ、いるな。

僕は、自分で自分が可笑しくて仕方なかった。あまりにもばかばかしくて、ツッコむ気にもなれなかった。パジャマ?幽霊に?アホじゃねぇの?そう言って自分の頬を何度か張り倒した後、大きなため息をついて、僕は洗濯機から離れた、ベッドに座り込んだ。

その夜、部屋干しのバスタオルは乾かないまま、窓際に干してあった。それを知っているかのように、何故か、女は現れなかった。

次の日、乾いたピンクのバスタオルを僕はまた、元の位置に置いた。何故だかはわからない。僕の心理状態は、その時点ではもう計り知れないくらい狂気に偏っていたのかもしれない。その狂気は、もう一つの狂った考えを実行に移していた。僕は、服を無造作に放り込んだタンスを漁り、その中から使い古しの紺色のトレーナーと、モスグリーンのスウェットを引っ張り出した。綺麗にたたんで、僕はそれをバスタオルの横に置いた。何をしているのか、自分でももう分からなくなっていた。

その日の晩、果たして女は現れた。まるで僕がバスタオルを置いたことを知っているかのように。

ちゃぽん

いつもの水音がしている間に、僕は行動を起こした。何故だか今日は体が動いた。本来なら恐怖にすくんで動かなくなるはずの体は、何かを待っているかのようにいとも軽々と動いてくれた。心臓の早鐘は変わらない。恐怖はある。しかし、僕は何か恐怖だけではない好奇心のようなものに突き動かされて、そろりそろりと浴室に近づいた。そこは真っ暗な闇。僕の心臓はさらに早く打ち鳴らされた。

ちゃぽん

その音を確認するように聞いた後、僕は震える声でこう言った。
「…パ、パジャマ、あ、ありますから、どう、ぞ…」
最後の「ぞ」は聞き取れないほどの小さな声になっていた。一拍ほど置いて、

 ばしゃっ

一つ大きな水音がしたかと思ったときには、耳が痛くなるような沈黙だけが訪れていた。ツーン、と耳に沈黙が鳴りひびく。
女の気配は消えていた。


「パジャマ」

昨日の自分に僕は驚いていた。幽霊に声をかける?何を考えていたんだろうか。狂っていたとしか思えない。しかもパジャマを準備したから着ろ、と?あまりに荒唐無稽な考えと行動に、自分でもいささか呆れかけていた。よくもまぁそんな考えに行き着いたものだ。お前は取り殺されたいのか?そう、ぼくの正気は問いかけていた。そんなことわかってる。自分でもなんでそうしたのか分からないんだ!僕は僕に怒鳴る。そうやって自問自答を何度繰り返してみたところで、変わらず夜はやってくる。明るいうちに風呂に入ろう。もう、排水口の髪の毛も気にならなくなっていた。浴槽に浸かりながら、自分のバスタオルの横に置かれたピンクのバスタオルと、紺のトレーナー、モスグリーンのスウェットをぼんやりと眺めながら、それによって僕は僕の生活に奇妙な変化が進行していることにやっと気付いたのである。

僕は、幽霊と同居している。

その晩は、いつもより少し冷え込む夜だった。僕は半纏を着こんで、コタツで丸まっていた。あいも変わらず下らないバラエティー番組を眺めながら、ふつふつとわいてくる奇妙な恐怖と馬鹿げた笑いを戦わせていた。はあ、と大きなため息をついた瞬間、女は現れた。

ちゃぽん

来た。僕は両の拳を合わせ、握り締めていた。何を祈っているのか、僕自身にも分からなかったが、速く立ち去ってくれとか、もう出てこないでくれ、に混じって、何か違う奇妙な言葉にできない祈りも混じっていることに、僕はうすうす気付いていた。何度かの水音の後、ざー、と大きな音がした。前の時と同じだ。そう思ったとき、間違いなく女は出てくる、と思った。どこにそんな確信があったわけでもない。ただ、なぜかそう思った。女はまた、がた、と浴室の扉を開けて出てくるに違いない、そう僕は確信していた。僕は恐怖と同時に、不思議な緊張感を感じていた。まるで射精の直前のような痺れる感じ。なにか、思った通りのことが起きているような、ゾクゾクしたこの感覚。僕は両の拳をぐっと強く握り締めた。

がた、 がた、 がた、

気配を感じる。僕の後ろの暗闇に、また先日と同じ戦慄を伴った気配を感じる。しかし、何故か今日の僕は降り向けなかった。前回は振り向きたくないのに振り向いてしまった。なのに、今回は振り向きたいのに振り向けない。僕は拳を握ったまま、じっとそこに座り続けていた。

カクン

奇妙な音が響いた。女が首を曲げた音だ。僕にはそれが目に見えるように分かった。次は手を伸ばす、近づいてくる。カタ、カタと奇妙な音がする。またバランスを崩して倒れるのか?それなら水音がするはずだ。ガクッ、ガクッとまた奇妙な音がしたが、水音はしなかった。ガクッという音と同時に、ぺちゃっ、という水が床を打つ音がした。

ガクッ    ぺちゃっ    ガクッ    ぺちゃっ

僕の背筋に冷たいものが走った。近づいてくる!明らかに女はこっちに来ている!僕は振り返ることが出来なかった。今振り返ったが最後、目の前に血走った女の目がありそうで、もう、二度と振り向くことはできそうになかった。汗を一緒に握り締めた拳と、肩を震わせながらぼくは固まっていた。目だけが左右激しく動いている。来る。来る!後ろから?右から?左から?僕は冷や汗の塊になって、後ろから響く不気味な音を聞いていた。ぺちゃっ、という音がやや左に聞こえた。左からだ!僕の目は精一杯左に寄せられ、これから襲わんとする恐怖への準備をしていた。左肩がすうと寒くなった気がした。僕の左横に、ぺちゃっ、と音がした。精一杯左に寄せた目の隅に女の足が映った。真横にいる!僕は息を殺して、ごくりとつばを飲み込んだ。どうあっても逃げられない。もうからだは全く動いてくれそうにない。今ここで何があっても、僕にはもう何の対処もできない。戦慄と絶望感とがごちゃ混ぜになったような感覚で、目を見開いている僕の横で、

カクッ

と音がした。僕の首はその時、ほんの少しだけ左に動いた。
女がしゃがんでいた。僕の真横に。僕はかすれた悲鳴のような呻きのような声を上げた。女は、ざばりと垂らした濡れ髪を少し動かして、首をカクッと真っすぐ起こした。

コレハ、イヤ

その瞬間、僕の意識はすうっと地に沈み込んでいくように消えていった。

僕は気を失ったようだが、すぐに気がついた。時計がまだ十二時を指していない。あれから二時間も経ってはいない。ふるふるとあたまを振って、僕は最後の瞬間を思い出し、安堵のため息をついた。取り殺されたわけではないようだ。しかし、真横に存在したあの感覚はまだ覚えている。ひんやりとしたあの、おぞましい感覚。大きくため息をついて僕はからだを動かしてみた。動く。大丈夫。そして、目を一回強く閉じ、また大きく見開いてから、僕は自分の左横を見た。
そこには、あの時と同じように濡れた床、びしょ濡れのバスタオル、そして、左袖に真っ赤な血の染みをつけた、びしょ濡れのトレーナーとスウェットが、そこにあたかも着ていたまんま抜け落ちたように脱ぎ捨てられていた。

僕はまた、洗濯機の前にいた。バスタオルを洗うためだ。洗剤を入れ、柔軟材を入れた後、ごうんごうんと回る洗濯機に手を掛け、またうつろに僕はなんとはなしに考えていた。トレーナーとスウェットを洗う気になれなかった僕は、そのままゴミ箱に捨ててしまった。もともと着古したボロい服だ。惜しいわけではない。それより、確かに僕は最後に聞いた。その言葉はまだしっかりと覚えている。「これは、いや」?何が?確かにバスタオル一枚よりはマシだったはずだが、僕のこんなこ汚い服はお気に召さなかったということか?なんだか少し腹立たしく思えてきた僕は、
「なんだってんだよっ!」
と洗濯機を蹴飛ばして、ベッドにもぐりこんだ。

その日、僕は大型ショッピングモールの寝具売り場にいた。今までこんな売り場になど一度も来た事がない僕は、どこに何があるのか分からずに面食らっていた。ひとしきりウロついた挙句、近くの店員に尋ねることにした。
「あの、、、パジャマとかって、どこにありますか」
店員は満面の笑顔で、
「パジャマですね?こちらでございます。」
と、僕を案内してくれた。
「こちらが男性用、こちらが女性用、あとこちらがペアパジャマのコーナーとなっております。」
僕は、ありがとうございますと小さく頭を下げて、その店員が元の場所に戻っていくのを見届けてから、かくれるように女性用のパジャマのコーナーに滑り込んだ。何か妙に恥ずかしかった。頭を下げ、目立たないように、いくつかのパジャマをぱらぱらとめくってはみたものの、自分自身ですら、何故こんなところで女物のパジャマを選んでいるのか不思議に思うくらいだから、ちゃんと選べるわけもない。もう、どうにでもなれ!とばかりに一通りパジャマをめくった僕は、可愛らしいクマの模様が入った黄色いパジャマを一枚選んだ。そそくさとそれを丸めて、レジへと向かう。
「これ、お願いします」
気恥ずかしそうに差し出すのが、余計に恥ずかしいと分かっていながら、僕は堂々とは振舞えなかった。
「はい、こちらですね。パジャマ一点。九千八百五十円でございます。贈り物ですか?」
え、と僕は答えに詰まってしまった。
「え、え、えと、いえ、自宅で使います…」
その不自然な返答に、僕は冷や汗を流しながら、どう取り繕ったものかあたふたとしていた。しかし、そんな僕を尻目に、店員は何事もなかったようにレジ操作をし、再び僕に尋ねた。
「サイズの方はMサイズでよろしいですか?」
「え、あ、はい、そ、それで。」
わざわざそんなこと聞かないでくれと、僕は心の中でつぶやいたが、店員はそんなことはどこ吹く風とばかりにテキパキと会計、梱包を済ませ、僕にビニール袋とお釣りを手渡した。
「ありがとうございました」
ビニール袋に詰められたその黄色い「贈り物」を手に、僕はそそくさとレジを後にした。僕は、それからもう一枚ピンク色のバスタオルを買い足して、いつものように美味くもないコンビニの食事を買って帰った。
絶対僕はヘンだ。一体何をしているのかわからない。水音の度にビクビクと怯え、すぐそばまで出てこられた挙句には失神してしまうほどに、そして誰が見てもやつれたと分かるほどに心神を消耗させていながら、一体何のためにこんな大金を出しているのだろう?自分で自分に困り果てて、行き場をなくしたこの脳みそは、どうも最近考えることを放棄し始めたような気さえする。
一体なんの戯れかわからないが、僕はまたあの不気味な会合を試みようとしている。重い鉄扉の閉まる音を背に、僕は買い物を全てベッドに放り投げた。大きくため息をついて、座り込みひとしきり頭を掻き毟った後、僕は立ち上がった。その後はまるでロボットにでもなったかのように、ギクシャクと買ってきた黄色いパジャマの値札を外し、綺麗にたたみ直してから、新しいバスタオルと一緒に浴室に置いた。自問自答は、今はやめた。ばかばかしいにも程がある。もう放っとけ。そう僕の正気が言い放った。

その晩、僕の狂気にとってはワクワクの夜だったに違いない。果たして女は来るのか。買ったパジャマを着るのか。イヤなんて言わねぇよな、そう僕の狂気がケタケタと笑う。そんな僕の狂気とは裏腹に、僕は相変わらずじっとコタツに座って拳を握り締めていた。恐怖がなくなったわけではない。怖い。いつ、あの血まみれの手で僕を呪い殺すのか、あの乱れた濡れ髪の隙間から、いつ血の涙を流した恐ろしい瞳が覗くのか、僕はやはり恐怖に怯えていた。しかし、それも少しずつ慣れてきていないとは言い難い。確かに女は危害を加えてはいない。存在自体の恐怖とさえ戦い抜ければ、何も怖くないはずだと言う僕の正気のおかげで、過剰な恐怖は既になりを潜めていた。
僕の恐怖は僕がコントロールしてみせる。悲壮な決意とまったく逆の方向に、ケタケタと面白がっている僕の狂気が存在する。良い呼び方をすれば、それは「好奇心」と言うものなのかも知れないが、この圧迫してくる恐怖に対して考えるにつけても、それはただの狂気に思えて仕方ない。怖くない、怖くない、と呪文のように唱え始めたその矢先、

ちゃぽん

やはり女は現れた。ここまではもう慣れっこだ。そう思いながらも、心臓の早鐘は大差なく打ち続けている。同じだ。昨日と同じだ。この後、何度か水音が響いて、それから一つ大きな水音の後、女は出てくるに違いない。同じだ。害はないはずだ。怖くない。怖くない。時間が随分長く感じた。ちゃぽん、という水音が今日はやけに多く感じた。じらすのはよしてくれ、心臓が持たない。ブツブツとワケのわからない独り言を言いながら、僕は女が次にどのような行動を取るのか、予想し続けた。もうすぐ出るか、まだか。まだか。
ざー、と大きな水音。いよいよ来るぞ。僕の狂気が囃し立てた。大丈夫、何も怖くない。害意はない。僕の正気がなだめた。そこから永遠に近いような長い長い時間を僕は待ったような気がする。来るのか。来るのか。心の中の独り言がいつしか声になって外にもれ出ていることに、はっと僕が気付いた頃、

 がた   がた   がた

女が浴室を出てきた。この後は、カクンとかぺちゃっとか、不気味な音を聞き続けなくてはいけないはずだ。と、そう思った僕の真横に黄色い影が映った。僕は思わず悲鳴のような掠れ声をあげて、飛びあがった。いつの間にか女が真横に立っていたのである。
「うあ、うぁ、え、あ、、、」
僕は声にならないうめきを上げながら、ジリジリと右に体をずらした。女は濡れた乱れ髪でその顔を隠したまま、大きくうなだれて、まるで何かを待っているかのようにそこに立っていた。僕の狂気が歓喜した。僕の正気が落ち着けと叫んだ。その時僕の口から、とんでもない言葉が搾り出されたのである。
「…そ、そこに、ど、どうぞ…そこに…」
僕は、コタツの僕の隣の席を指差していた。女はカクンと首を傾けて、ゆっくりと足を踏み出した。座るつもりなのだ!なんてこと!僕は自分で指し示しておいて、なにをとんでもないことを!と悔やんだ。しかし、もう遅い。女は、僕のコタツの左隣の席に置かれた、来客用の、そうまだ誰も使ったことのない座椅子に、カクン、カクンとぎこちない音なき音を立てながら、近づいた。座椅子の上に立つと、ずりずり、と滑り落ちるように、そして、自分の膝を抱いて乱れ髪に顔を全て隠して座り込んだ。目の前にいるものは何なんだ?ざばりと濡れて乱れた髪、生気のない肌、左袖を染める鮮血…
その時になって、僕は初めて女が僕の買った黄色いパジャマを着ていることに気がついた。恐怖と戦慄は、すぅと波が引くように僕の中から消えていった。なくなったわけじゃない。でも少なくとも、僕の恐怖はこの時確実に減少した。
しばらくの沈黙があった。その間に僕は彼女がまたバシャッと消えてしまうのではないかと思って、見つめ続けていた。目が離せなかったと言ってもいいかもしれない。身じろぎもせず、僕と、幽霊の彼女は座り続けていた。僕は、もごもごと言った。
「そ、そのパジャマ、に、似合ってますね、、、」
もちろん何の反応もなかったが、怒らせてはいないように感じた。
「そ、そんなんで、いいかなぁと、思って、ですね、ちょっと、買って、みたん、です、、、えへ、えへへ、、、」
僕は何だか卑屈な笑みを浮かべた。反応はなかった。そのまま二人(?)はじっと座っていた。次第に僕は何か反応が欲しくなってしまった。
「お、お気に、召しませんでしたか、、、?」
あまりにへりくだり過ぎて不自然な卑屈さを滲ませながら、僕は召使いのように彼女に問いかけた。予想通り、何の反応もなく、沈黙は続いた。なにか地面の下から響き出るような、

うぅ…  うぅぅ…

といったうめき声のようなものが時折耳を掠めた。僕は恐怖を感じはしていたものの、それが彼女の声なのか、風の音なのか、もう考えないようにしていた。
と、その時、彼女の首が小さく左右に動いた。それは「いいえ、そんなことありません」という意思表示なのか、それとも頭が揺れただけなのか、判断に迷うほどの小さなものだったが、僕はそれを善良に解釈することに決めた。
「あ、ああ、そう。よ、よかったぁ、、、」
そう言ったまま、再びそこには沈黙が訪れた。長い長い沈黙。しかし、そこに以前のような恐怖はない。僕は、なんだかそこに本当に一人の女性がいるような気がしていた。恐ろしく不気味な出で立ちではあるが、まったく害意はないようだ。僕は何かしゃべりかけたくて仕方なくなってきた。
「う、うちのお風呂、せ、せまいでしょ。ご、ごめんなさいね。ほ、本当はもっと広いといいんだけど、シャ、シャワーもないし、ふ、不便ですよね、あは、あはは、、、」
僕は一体何を話しかけているんだ。相手は幽霊だ。それは間違いない。しかも素顔の見えない、まるで何処かのホラー映画にでも出てきそうな怨霊にしか見えない。それでも僕に恐怖はなかった。ないといえば嘘になるが、震えていたって声が出る分だけまだマシだ。
「さ、寒くないですか。パジャマ、薄かったかな、、、濡れてるし、あ、左袖のシミ、、、」
そう僕が言った瞬間、彼女はビクンと右手を震わせ、カクカクとゆっくり左手首を隠すように重ねた。そして、哀しそうにぐぐっとうつむいたかと思うと、その姿はうっすらと透明感を感じさせつつ、すうっと消えてしまった。
「あっ、、、」
僕は少し手を伸ばしたが、それ以上は動かなかった。
彼女が消えた後には、わずかに濡れた座椅子とぐっしょりと濡れた黄色いパジャマだけが残されていた。


「コーヒー」

狭い窓から、僕は部屋干しの洗濯物の合い間を縫って、座椅子を運んでいた。ぐっしょり、というほどではないにしても、湿った座椅子をそのままにしておくのは、あまりにも気が引けたからだ。幸いにも今日は天気がいい。少しベランダに干しておけば乾くだろう。背中にごうごうと洗濯物の回る音を聞きながら、僕は無造作に座椅子をベランダに立てかけた。ぼんやりと眺める座椅子には、ほんの少し水の染みたような跡が残っていた。昨晩、ここに確かに座っていた。今、洗濯機で回っているあの黄色いパジャマを着て、彼女はうずくまって、僕の詰まり詰まりの言葉を聞いていた。いやな波動は特になかった。呪い殺すとか、取り憑くとか、そういったこととはやや無縁な感覚で僕は彼女に話しかけていた。ただ今は、あの時左手首の血の染みについて、言葉にすべきではなかったと後悔していた。明らかに彼女は、あのキズを隠して消えて行った。そう、僕には見えた。触れなければなんだったのだと、自分に思わず問うてしまいそうになるが、僕は彼女にもう少し話しかけたかったのではないかと思う。幽霊に?そう、幽霊に。黄色いパジャマが、僕の何かを心の中から取り除いたのではないかと思うくらい、あの瞬間から、怖気が走るような恐怖は薄らいだ。それは間違いない。僕のトレーナーとスウェットじゃない、あの黄色いパジャマを着て、彼女は近づいてきてくれたのだ。なにがどうあれ、そこに悪意や害意は存在しないはずだと、僕は思うようになっていた。黄色いパジャマは乾くだろうか。今晩も、彼女はやってくるのだろうか。
その夜、ちゃぽん、といつもの水音が聞こえるまで、僕は何故かテレビもつけずにコタツで丸まっていた。聞こえた瞬間、僕は何事もなかったかのようにテレビをつけた。恐怖はそれほどなかった。バスタオルは置いた。乾いたパジャマもしっかりおいてある。ここ一ヶ月間、僕を恐怖に陥れた存在を、何故かほんの少し心待ちにしている僕がいることに、妙な違和感と、それでいいという妙な安心感が交互に襲っていた。
彼女は、また来る。なにか奇妙な気持ちの交差する長い時間、僕はテレビを見ているふりをしていた。何をやっているかなんて、頭に入っちゃいなかった。ざー、と音がし、しばらくして、がた、がた、と彼女が浴室を出る音だけを聞き逃さないよう、テレビのボリュームをこっそりと少し下げた。そこにいることはわかっていた。僕の後ろの暗闇に、彼女はまた立っているのだろう。恐怖がないとはいえないが、僕はそれでもどんな状況になっても悲鳴なんかあげない、そんな気になっていた。

カク   ぺちゃっ

前回、いつの間にか真横に立っていた時とはうって変わって、ゆっくりと、ゆっくりと、彼女は近づいてくるようだった。僕の心の準備は出来ていた。心臓は早かったが、さほど苦にはならなかった。そのうち、真横で黄色いパジャマのすそが視界に入ったとき、僕はまた奇妙な安堵感を感じていた。
「ど、どうぞ…」
そういって僕は、昨晩と同じように僕の左隣の座椅子を手で、まるでエスコートでもするように流れるように指し示した。
彼女は、昨晩と全く同じような動作で、座椅子に近づき、ずりずりとずり落ちるような座り方で、うつむいたまま膝を抱えた。何も変わらない。濡れた乱れ髪も、青白い肌も、左手首の血の染みも。
僕は今度は、ゆっくりと、噛み締めるように、どもらないように、落ち着いて彼女に話しかけた。
「パジャマ、気にいってもらえたんですね。よかった。」
少し引きつった、ぎこちない、それでも一応笑顔といえるはずの表情で僕は語りかけた。彼女は何も答えなかった。それきり、また沈黙が訪れた。また小さなうめき声のような音が、地の底から響いてくる。耐え切れず、僕はまた昨晩と同じような会話を繰り返した。
「さ、寒くないですか。パジャマ一枚なんて。ぼ、僕なんか、こう、半纏まで着込んじゃって、寒いなぁ、って…」
引きつった愛想笑いを浮かべて僕はしゃべり続けた。
「こ、ここね、建物が古いでしょ。窓なんかも二重構造じゃないですし、壁も薄くて冬は寒いんです。コタツは必需品で、これないと僕なんかもう凍え死んじゃいますよ。は、入らないんですか、コタツ。温かいですよ。」
と僕は彼女の方に少し手を伸ばした。その瞬間、彼女はぴくりと右手を震わせながら引っ込めたような気がした。何だか立場が逆だ。僕が幽霊に恐怖しているんじゃない。まるで幽霊が、僕に怯えているみたいだ。その仕草を見て僕はゆっくりと手を引っ込めた。
「あ、安心してください。僕は、あなたに何もしません。だ、だから、あなたも僕に何もしないでくださいね。」
それは端的に「呪い殺すな」と言っているようなもので、失礼といえば失礼な言い方だと僕ははっと言い直した。
「い、いや、そんな、ヘンな意味じゃないんです。ごめんなさい…」
彼女はざばりとした髪で顔を覆い隠したまま、ぴくりとも動こうとしなかった。また、そのうちすぐに消えてしまいそうな儚さもあった。僕は、何故だかもう少し彼女と話をしてみたかった。いや、僕が一方的に話しかけているに過ぎないのではあるけれど、それでも僕は何故か会話が成立しているような気になっていた。じわりと、僕の左側から寒さが染みてくるような気がした。
「さ、寒いですよね。そ、そうだ!コーヒー、なんて、飲みませんか…?温かいの。いや、僕が飲みたいだけなんで、ついでですけど、気にしないでください。い、入れましょうかね、コーヒー。嫌じゃなければですけど…」
そういって僕は、彼女の反応を見ずに立ち上がった。彼女は、うつむいたままだった、と思う。キッチンにお湯を沸かしに行く。水道の蛇口をひねり、少し多めに水を入れたヤカンを火にかけた。その間に、彼女が消えてしまうんじゃないかと思って、僕はちらちらとコタツの方を覗き見た。彼女は全く動く気配がなかった。お湯の沸く間、僕は元の席に戻ろうか、それともこのままここにいようか、と右に左にうろうろしていた。お客さんなら、放っておくのは失礼だよな。でも、幽霊だよ?怖いよ。僕の心の中は、そこにいる存在が何であるかをはっきりと確定できないままになっていた。お湯の沸く音にはっと気がつき、僕は慌てて火を止めた。いつも飲んでいるインスタントコーヒー。僕はいつもコーヒーに牛乳を少し、だけなのだが、さて彼女の分はどうしたらいいのかわからない。お砂糖とミルクは、なんて間抜けな質問をしに戻る気になれなかった僕は、とりあえずありあわせのカップにコーヒーと砂糖を少し、それから牛乳を少し、といった無難なあたりでまとめることにした。
僕は、自分のコーヒーと、もう一つあまり使わない少し可愛い感じのするカップを持って席に戻った。彼女は身じろぎ一つしていなかった。コトンと自分のカップを置いた後、彼女の前に恐る恐るカップを差し出した。
「あの、、、どうぞ。お口に合うかどうかわかりませんけど、、、」
そうっとカップを彼女の前に置いた。とりあえず僕は自分の定位置に座り、温かそうな湯気を立てるコーヒーカップを手に取り、ずずっと一口すすった。なんだか少し気分が楽になった気がした。コーヒーブレイクって言うけど、本当だな、などともやもやと考えながら、僕は彼女の方をチラリと見た。カップに手を伸ばす気配はない。僕は二口、三口とコーヒーをすすり、あぁと一つため息をついてカップを置いた。自分ひとりがそうやって「ブレイク」しているのが少し申し訳ない気がした。
「えと、、、ごめんなさい。コーヒー、嫌いでしたか…?勝手に入れちゃったりして、失礼だったかな…ごめんなさい。い、いらなかったらそのままにして置いてくださいね。あとでちゃっと片付けちゃいますから、、、気にしないで、、、すみません、、、」
なんだか僕は謝ってばかりだ。思わず頭をわしわしと掻き毟って、僕はバツが悪そうな表情をしたのだと思う。一度うつむいて、もう一度彼女を見た。じわりと染み出たような赤い染みが左袖に浮いていた。
その時、彼女の髪が少しだけ揺れた。左右に少しだけ。ギシギシと音がしたかのようにぎこちない動きだったが、明らかにそれは「いいえ」のサインだった。ゆっくりと二回、首を左右に振った後、彼女の右手がぴくりと動いた。それにあわせて左腕も少しだけ上がってきた。どちらの腕からも軋み音が聞こえてきそうな、人形のような動きではあったが、明らかに両腕を上げようとしていた。その両腕は、ゆっくり、ゆっくりとコタツのテーブルの上に伸びて行き、僕の置いたコーヒーカップの端を少しだけ触った。温度を確かめるように、少し、少しだけカップをさわった彼女は、そのあとゆっくりと取っ手に右手を伸ばした。カップに左手を添える。
ぽたり、と彼女の左袖口から鮮血が滴り落ちた。少しのぞいたその腕は、やはりいつか見たようなパックリと割れた傷跡があり、肉の色と鮮赤色とが入り混じった色をしていた。僕の背筋は少し寒気を覚えたが、それよりもカップを取った彼女が、この後どうするのか、そちらの方が気がかりで恐怖は隅に追いやってしまえた。
彼女は、ゆっくりとカップを持ち上げ、そのざばりと覆いかぶさった髪の毛の、正確には口のあるほうなのだろうが、手前に近づけていった。顔前を覆った髪の毛を少しカップで掻き分けるように、口元に(見えはしなかったが)カップを添え、少しだけ傾けた。すする音も、飲み込む音も聞こえなかったが、僕は彼女が僕の差し出したコーヒーを飲んでくれたことに、奇妙な興奮を覚えていた。その興奮からか、少し急かすような口調で僕は聴いてしまった。
「美味しいですか…?熱くなかったですか…?」
彼女は、飲む仕草をピタリと止めた。しまった、と僕は思ったが、そのあと彼女はゆっくり、ゆっくりと、小さく、しかし確実に頷いた。僕は、大きく息を吐いて、背もたれに倒れこんだ。何だろう、この安堵感は?
それからも彼女は、ゆっくりだが少しずつコーヒーを口に運んだ。その仕草は、時折カクカクと人形のようになったり、とてもゆっくりになったりはするが、それでもそれは普通の人が普通にコーヒーを飲んでいるのと、まったく変わらなかった。そのことに僕はなにかよくわからない安心感を感じつつ見守っていた。
彼女は、コトンとカップをテーブルに戻した。まだ飲みきってはいないようだった。
「温まりました…?やっぱり冬の夜はコーヒーですよね。」
僕は何故か普通に話しかけていた。
「…あ、そういえば名前も言ってませんでしたよね…?僕、国分良人っていいます。国を分ける良い人、って書いて国分良人。名前の通り、良い人ですよ、ははは、なんて…。逆かな、ひっくり返して「お人良し」、の方がしっくり来るかもしれません。ただの小心者のお人良しです…。はは…」
僕はそう、自虐的な自己紹介を始めて、頭をぽりぽりとかいた。僕は今、幽霊に自己紹介をしている。とんでもなくシュールな光景だ。はたからみたら誰が見てもコイツはアホだと思うだろう。でも僕は必死だった。そして、不思議となんだか楽しくもあった。今、心の隅で気付いたのだ。僕は、淋しかったのだと。


「名前」

それから僕は、あれやこれやと意味のないことを話し続けた。彼女は、じっと動かなかったが、時折沈黙の合い間にあのゆっくりとした動作でコーヒーを口に運んだ。僕は調子に乗って益々しゃべり続けた。
「大学の二回生なんです。ホントは講義にもっと出なくちゃいけないんですけど、最近全然行けてなくて、、、えと、、、」
風呂場の幽霊事件があるからなどとは、口が裂けても言ってはいけないと僕は分かっていた。
「さ、寒いでしょ?冬は苦手なんです。あはは、だらしないですよね。なもんで、布団に丸まったきり出られないんです。お人良しで真面目だけがとりえの僕から、真面目を取ったら、ただの間抜けなお人良し、ですよね、、、」
そこまでまくし立てるようにしゃべった僕は、はっと気付いたように付け加えた。
「あ、ご、ごめんなさい、僕、気も遣わずに僕ばっかりしゃべるだけしゃべって、、、ダメですね、、、すみません…」
彼女がしゃべることはないと、僕は分かっていた。でも、なんだか普通の人としゃべっているようにしてあげた方がいいんじゃないかと、そんな気がした僕は、無意識に彼女が幽霊であることを忘れようとしていた。もしかすると、そう、彼女も淋しいのかもしれない、そう思ったからだ。淋しくてここにいるんだとしたら、話しかけてあげたほうがいいのかもしれない、それは漠然とした想いだったし、ただ単に僕の淋しさを移し変えていただけかもしれない。それでも、僕にはしゃべることしか出来なかった。少しの沈黙の間、僕はこれを聴いてもいいものかどうか、迷っていた。聴くと、また彼女が消えてしまいそうな気がして仕方なかったのだ。悩んで、悩んで、それでも、僕はやっぱりその衝動を抑え切れなかった。
「えと、、、しゃべったり、ってできますか…?あの、、、名前とか…」
その瞬間、彼女の濡れた乱れ髪の間から、ぎょろりと目がのぞいたような気がして、ぼくは思わずビクリとのけぞった。その目は、白く濁って焦点の合わない、そう、本当に例えれば「死んだ魚の目」のように見えた。ぼくはぶるっと震えて、一瞬固まった。
「あの!ごめんなさい、、、そんなつもりはなかったんです。別に、構いませんよ、そう、全然! ごめんなさい、本当に、ごめんなさい!」
やっぱり聴いてはいけなかったんだ。そう後悔した時は遅かった。彼女の姿はうっすらと透明感を見せ始め、そして音もなく消えていってしまった。あとには前と同じように湿った座椅子、びしょ濡れの黄色いパジャマ、そしてそのお腹の辺りに、カップ半分ばかりの量のコーヒーのような茶色いシミ。
「あぁ、、、やっちまった…」
僕は後悔したが、それでも随分落ち着いて長い時間一緒にいれたものだと、自分の勇気を賞賛しもした。飲みさしのコーヒーカップには半分ほどのコーヒーが残っていた。まるで残りの半分は、パジャマの上にこぼしたように。

今日も彼女は来るだろうか。そんなことを考えながら、僕はまたショッピングモールの寝具売り場にいた。今日は朝から曇り空で、時折小雨の混じった風の吹く寒い日だった。洗濯が追いつかないのだ。バスタオルもパジャマも乾かない。今晩、彼女が来るとしたら、またあの「これは、いや」のトレーナーとスウェットを出すことになる。出費は非常に痛いが、僕はそれでもいいと思っていた。それは結局狂気なんかではなく、ただの「淋しさ」なんだと気付くまでには、もう少し時間がかかった。
少しなれた足取りで女物のパジャマコーナーに滑り込んだ僕は、早速パジャマを選び始めた。今度はピンクにしよう。バスタオルもピンクだし、小さな花柄をあしらった上品なピンクのパジャマにしよう。そうつぶやきながら、僕は一枚一枚丁寧に見ながら選んだ。ちょうどいい感じの商品に出会ったとき、思わず僕はヨシッと小さな声でガッツポーズをしていた。サイズもM、大丈夫。
いそいそとパジャマを持ってレジに並ぶ。今回も前と同じ店員が、僕の商品を受け取ってレジを打ち始めた。
「はい、こちらですね。パジャマ一点。八千九百八十円でございます。贈り物ですか?」
「いえ、自宅用です。」
僕は堂々と言った。目的がハッキリしていると、人はこうも変わるものかと思う。店員は慣れた仕草でレジ操作をし、再び僕に尋ねた。
「サイズの方はMサイズでおよろしいですか?」
「はい、大丈夫です。」
変わらずテキパキと操作し、梱包した店員は僕にお釣りと商品を渡した。
「ありがとうございました。」
僕は少し颯爽と、レジを後にした。

今夜の彼女の影は確かにピンクだった。ちゃんと着てくれている。そう思っただけで、僕はなんだか少し幸せな気持ちになってしまった。相手は幽霊だというのに。いつものように彼女は膝を抱えて座り込んだ。ピンクのパジャマで。僕は精一杯の勇気を振り絞って言った。
「パジャマ、ピンクも似合ってますよ。」
僕は少し照れを隠すように、お湯を沸かしにキッチンへと逃げた。キッチンから少し大きな声で彼女に話しかけた。
「コーヒーでいいですか?って言ってもそれしかないんだけど…」
苦笑いをして僕はコーヒーを二つ準備した。なんだろう、この感覚。不思議だ。僕は完全に狂ってしまったとしか思えない。それでも僕はよかった。この薄気味悪い来客をもてなすことが今僕に出来ることなのだ。
コーヒーを差し出した後の僕は、また他愛もないことをじゃべるだけの間抜けな「お人良し」になっていた。また僕ばっかりしゃべって、ごめんね、といいつつも、それしか方法がないのだ。時折、ぎょろりとのぞいたあの白い濁った目を思い出して、言葉が止まることはあったが、それでも僕はしゃべるしかなかった。大学に友達もいない、一緒に飲んだり笑ったりする友人もいない。大学に入ってからの一年半、僕はこんなにしゃべったことはなかった。口下手なのはわかっていた。それでも一生懸命しゃべることしか、僕にはできなかった。
はぁ、と息をついて背もたれにもたれかかり、コーヒーを一口すすった時だった。

 み   ず   ・・・

    み    ず    ぎ   ・・・

地の底から這い出るような低い音で、何かが聞こえた。それが彼女がしゃべっている声だと気付くまでに少し時間がかかった。僕は彼女を見つめた。うなだれた頭が少し上がったような気がした。

 み   ず   ぎ  ・・・

「なに?何か言いましたか?」

 ぎ   ょ   う   も   ど

    み  ず  ぎ  ・・・

「?ぎょうもど、みずぎ?」
それが何を示すものか、僕はしばらく考えた。と、ふとピンと頭に何かが光った。
「名前?名前なんですね?ぎょうもど みずぎ?」
低くくぐもった声をそのまま聞くとそうなるが、僕はそのノイズを少し差し引いた呼び名を必死で考えた。ぎょうもど、ぎょうもと、きょうもと、きょうもと!きょうもとだ。
「きょうもと、ですね?きょうもと。」
少し間をおいて、彼女はゆっくりと頷いた。やった、と僕は思った。きょうもと、次は、みずぎ。みずぎ、みずき。これはもうすんなり出てきた。
「みずき、きょうもと みずき!きょうもと みずきさんなんですね?」
彼女の頭が、つながった、と訴えんばかりに少し上に上がり、今までの中で一番大きく頷いた。僕は興奮を抑え切れなかった。彼女の名前が分かった!
「きょうもと みずきさん。きょうもとのきょうは、京都の京?もとは本?」
彼女はゆっくりとうなずいた。
「京本、京本さん。みずきは、、、美しい月、ですか?」
彼女は小さく左右に頭を振った。
「じゃあ、、、瑞々しい、、、希望の希?」
彼女の反応がない。頷くでもなく、首を振るでもなく。僕は考えた。片方は合っているのかもしれない。
「えと、、、じゃあ瑞々しい、樹木の樹?」
彼女は再び大きく頷いた。京本瑞樹!わかった、彼女の名前!
「京本瑞樹さん、なんですね?そうか、京本瑞樹さん。名前、分かってよかった!ありがとうございます!教えてくれて!」
僕の声を無視するように、彼女がコーヒーをゆっくりとすすった。
「瑞樹さん、瑞々しい樹、綺麗な名前です。いい名前ですね。すごく綺麗ないい名前ですよ。瑞樹さんかぁ。」
僕は興奮を抑えきれず、いつまでもそうやって噛み締めていた。彼女の表情は全くわからない。ゆっくりとコーヒーをすする手がわずかに震えている。どろり、と左手首からまた鮮血が滴った。

「良人なんてダッサい名前でしょ。それより瑞樹さんってすごいイイですよ。」
僕は子どものように調子に乗ってはしゃいでいた。もうそれで、今日吹っ飛んでいった一万円もの出費なんかどうでも良くなっていた。調子にのりついでのように、僕は余計なことを聴き始めた。
「瑞樹さんって、どこら辺に住んでたんですか?近くですか?」
本当ならここで追加の質問はタブーだ。欲張ってはいけない。名前が聞けただけで第一段階はクリアと思うべきだ。しかし、今の僕はそんな思いはどこかに吹き飛んでいた。思えばそれが功を奏したのか、彼女も機嫌が良くなっていたのか、そのあたりはわからないが、驚いたことに彼女は僕の質問に答えてきたのだ。

い   ず   み   ま   ぢ

「いずみまぢ、いずみまち、和泉町ですね?近いじゃないですか。そうかぁ、そんな近くに住んでたんですね。できたら生きてる間に会いたかったなぁ。」
そう言ってしまって、また僕はしまった!やってしまった!と思った。消えてしまうかもしれない。これは本当のタブーだったに違いない。
しかし、彼女は消えなかった。むしろ僕ともっと話をしたがっているかのように、またゆっくりとコーヒーを一口すすった。
「ご、ごめんなさい、悪いことを言ってしまった。本当にごめん、ごめんなさい。」
僕は心から彼女に謝った。真剣な顔をして、大きく頭を下げた僕に、彼女はゆっくりと左右に首を振った。「いいの」そう言っているかのような、ゆるやかな動きだった。


「墓参」

「多分、ここだな。」
僕は、ある寺の墓苑に来ていた。昨晩、彼女から聞いた住所、和泉町。そのあたり一帯に住む人たちの多くが、この寺の檀家になっていることは知っていた。確証はなかったが、僕はそれでもここに足を運ぶ気になった。彼女の墓を探したかったのだ。寺の墓苑は広大だった。小さな山のほぼ頂上から、裾野まで全てが墓石で埋め尽くされているような広い敷地だった。
「うわ、広ぇ…」
一瞬、立ち止まった足を、ぐっと無理やり押し出すように、僕は一番すそ野にある墓石から順に、家名を確認していった。京本家。ひとつひとつ確認しながら、徐々に山の上に上がっていく。
「あった」
京本家之墓。失礼して横の墓碑を確認する。瑞樹。瑞樹。ない。違うようだ。僕は土足で上がりこんだことを詫びるように、墓石に手を合わせ、次に進んだ。
全ての墓石を確認するのは、かなり時間のかかる作業だった。山の中腹になってもそれらしき墓石は見つからなかった。ここが檀家じゃないのかもしれない。そう思い始めた僕の足取りは徐々に重くなっていた。
もうはや三分の二ほども確認した頃だろうか、多くの林立する墓石から少し離れた感じで、大きな木の下にある墓地に足を踏み入れた。京本家之墓。見つけた、二つ目。僕は期待を込めて横の墓碑を見つめた。そこには4人の戒名が並んでいた。右から順に白いペンキの色が剥げ、読みにくくはあったが、左に行くにしたがってだんだんと白いペンキがはっきりとしてきた。その一番左の名前。まだまっ白なペンキの色が鮮やかなその戒名の下には、「瑞樹 二〇才」そう、はっきりと書かれていた。
僕は、寒気とも感動ともつかない鳥肌を立てて、その墓碑を食い入るように見つめていた。もう、時間は夕暮れ時に近づいていた。僕は、近くの仏具店で買った線香をありったけ取り出して、全てにライターで火をつけた。もうもうとあがる線香の煙にむせ返りながら、僕は全ての線香を束にして墓前に供えた。花なんて気の効いたものを持っていなかった僕は、ただひたすら線香だけを山のように供えて、手を合わせた。墓石も墓碑も、僕の大量の線香の煙の中にあった。線香の煙は、死者の魂を天上へと運び浄化すると聞いたことがある。僕は、彼女のざばりと垂れた乱れ髪を思い浮かべながら、せめてもう少し女の子らしくきれいな髪で天上へと迎えてあげてください。手を合わせながら、僕はそう祈っていた。

もしかすると、今日、墓参りをしたことで彼女が成仏して、出てこなくなるんじゃないかと僕は思った。それは何故かはわからないが、嬉しいと言う感情とは微妙に違った。それを一番に願うべきであるにもかかわらず、僕は何故か彼女にまた来て欲しいと思っていたのである。淋しい?僕は、どうにも孤独な人間だった。
帰って明るいうちに風呂に入り、つまらない弁当で食事を済ませた僕は、うなだれたままコタツに座り込んでいた。今日はもうこないかもしれないな。そうあって欲しいと願っているのか、そうあってほしくないと願っているのか、僕にはよくわからない。ただ、この奇妙な淋しさは、恐らく後者を望んでいるのだろう。どうやら僕は本当に取り殺されたいようだ。バカな考えはよせ。元の生活に戻れるんだから、と僕の正気が僕に囁いたその瞬間、

ちゃぽん

僕は多分待ちわびていた。正直なところそうだったのだ。彼女が来てくれることを待ちわびていたのだ。僕の正気は、呆れ顔で去っていった。しかし、僕は狂気ではない。これが「淋しさ」なのだと、彼女の水音を聞いて初めてはっきりとそう感じた。

彼女は、黄色のパジャマを着てそこに座っていた。いつものようにうずくまってはいたが、心なしかその体に奇妙な軽さを感じた。いつもはしっとりと湿り気を帯び、重たそうに引きずる体が、なぜか今日に限って少し軽い。油を差した人形のように、やや軽さをもって動いている。僕の差し出したコーヒーを、彼女は滑らかな動きで受け取り、一口、二口とすすった。コーヒーを受け取る時、僕はほんのりと線香の香りを感じた。自分に染み付いたものなのか、彼女から匂うものなのか、思わず僕は自分の服の匂いをかいだ。特に匂わない。やはりこれは彼女から匂ってくる。それが、僕が今日供えた線香の香りだと言うことに気付くまで、ほんの少し時間がかかった。
「そうだ、今日、お参りに行ったんだ。」
僕はポンと手をたたいた。彼女は小さく頭をゆすり、何か言葉を吐き出そうとしていた。

  あ  り  が  ・・・

ありがとう、そう言いたいんだと、僕にはすぐに分かった。僕は嬉しかった。彼女に感謝されたこと、彼女の体が少し軽そうに見えたこと、行ってよかったと、素直に思った。
「い、いいんです、気にしないで。そんなこと、気にしないでください。あ、線香、立てすぎちゃいました?いっぱいあった方がいいかなって、、、」
と、ぽりぽりと頭をかく僕の方を、少し頭を傾けて彼女が向いた気がした。いつもうなだれていたその頭が、少し上向きになった。ざばりと垂れた髪の隙間から、青白く薄い唇の影が見えた気がした。
それからの僕は上機嫌だった。初めて仏具店に行って戸惑ったこと、広い墓苑にビックリしたこと、あれも、これも、僕は彼女のためにどんどん話をした。淋しくなんかない。僕は淋しくなんかない。
それからもひとしきり自分のことや、ここ数日にあったことをまくしたて終わった頃、僕はだんだんと彼女のことが知りたくなってきた。これはいけないことなのかもしれない。でも、話せば話すほど、僕は彼女のことが知りたい。生きていた時はどんな人だったのか、何をしていたのか、どんな話をして、どんな生活を送っていたのか。そして、そして何故、死んでしまったのか。何故、ここに来るのか。僕は彼女にどうしてあげればいいのか。。。

「僕はね、多分淋しかったんだ。」
突然僕は、自分でもよくわからないこんな言葉を言った。
「淋しかったんだよ。だから、瑞樹さんがここで話を聞いてくれることって、本当は誰のためでもない、僕自身のためにやっていることなのかもしれないんだ。ごめんね。瑞樹さんをどうにかしてあげるために、こうやってパジャマを買ったり、話をしたりしているんだと、自分に言い聞かせようとしていたのかもしれないんだけど、でも多分違うんだ。僕は、僕自身の淋しさを紛らわそうとしていたのかもしれない。ごめんね。ごめんね。」
そこまで行った時、僕の目には何故か涙がじわりと滲んできた。情けなかった。自分でもやり場のないこの淋しさを、こんな形で紛らわせているのだとしたら、僕は最低なんじゃないかとさえ思えてきた。彼女のためだけを思うのであれば、成仏できるように祈祷することだってできた。他にもいろんな方法があったはずだ。それなのに僕は、僕の淋しさを紛らわすために、こんなことをしている。無性に彼女に申し訳なくて、僕は涙を滲ませていた。

わ  だ  じ  も   ・・・

   さ  み  じ  が  っ  だ  ・・・

僕ははっと顔を上げた。コーヒーのカップを両手で握り締めたまま、彼女は僕を見つめていた。正確には顔面を覆った乱れ髪で、彼女の顔のどのパーツも見えなかったけど、表情のカケラも見ては取れなかったけど、確かに僕にはわかった。彼女が僕を見つめていた。
「君も、瑞樹さんも、淋しかったんだね…。淋しかったんだね…。ありがとう。ありがとうね、瑞樹さん。」
僕は涙で潤んだ目をこすりながら、背もたれにもたれかかった。そしてくすりと笑って言った。
「淋しいもん同士、ってのもイイよね。これでいいのかもしれないね。」
彼女は、小さく小さく頷いた。

それからしばらくの沈黙の後、僕は彼女に踏み込んでみることを決意した。もうここまで心情を吐露したのだ。僕は彼女がそれを認めてくれるような、根拠のない確信と勇気を持っていた。
「ねぇ、瑞樹さん。聞いてもいいかな。もちろん嫌だったら答えなくてもいいんだよ。ただどうか、僕の前から突然消えないで欲しい。こんな質問、しちゃいけないんだってわかってる。答えたくないかもしれない。今はそれならそれでいいから、答えなくていいから、突然消えるのだけはカンベンして欲しい。今の僕には、それは淋しすぎる。」
彼女は、すこし間を置いて、ゆっくりと頷いた。僕は勇気を振り絞って問いかけた。
「瑞樹さん、何故、死んでしまったの?」
彼女の頭がゆっくりとうなだれるのがわかった。彼女を傷つけたかもしれない、僕は後悔でいっぱいになっていた。
「ごめん、やっぱり聞いてはいけなかった。ぼくが無神経すぎた。ごめん、本当にごめんなさい。」
ただ、消えないでと僕は祈りながら謝った。うなだれて動かなくなった彼女を見つめながら、僕は自分を殴りたおしてやりたい気分になっていた。僕はさらに謝罪の言葉を語りかけようとした。その時、

つ   ら   が   っ   だ

低い、低い声で、彼女がつぶやいた。暗い、暗い影をまとって地の底から沸いて出るような、血の滲んだ叫びに僕は聞こえた。僕は息苦しくなって、思わず叫んだ。
「いいんだ!もう、いいんだ!ごめん、ごめんよ!苦しいことを思い出させてしまった。僕が悪い。ごめんよ!もういいんだ!」
僕は、何かが乗り移ったかのように涙をぽろぽろとこぼしながら叫んだ。僕は彼女を傷つけてしまった。苦しませてしまった。何度叫んでも飽き足らなかった。ごめんよ!ごめんよ!そうやって自分の膝を掴んで涙する僕に、彼女は首を横に振って言った。

い  い  の  ・・・

い   じ   め   ら   れ    で   だ   の   ・・・

「いじめ…?」
この言葉が僕の胸に突き刺さった。彼女は、瑞樹さんは、いじめを苦にして自殺したのだ。彼女をそこまで追い込んだものに、僕は無性に腹が立ってきた。何故!何故、こんなことが許されるのか。この世から消え去っていきたくなるほどに、それはどれほどにまで苛烈だったのかと、思えば思うほど無性に涙が出てきた。
「瑞樹さん、ごめんね。つらいこと言わせて、ごめんね。つらかったね。淋しかったね。どんなにか苦しかったことだろ。どんなにか悲しかったことだろ。僕も、高校の頃、いじめられてた。あの孤独を僕はもう二度と体験したくない。だからわかる。どんなにか孤独だったことだろ。瑞樹さん、つらかったね。ごめんよ、思い出させて。ごめんよ、悲しませて。」
僕は悔しかった。何もできない自分が。無用な悲しみを掘り起こしてしまった愚かな自分が。彼女は心の中で封印してきたに違いない。誰にもその悲しみを伝えることなく、生との決別をもってその封印を施したまま、旅立って行ったに違いない。何の助けもできない僕が、その心の傷口に無遠慮に入り込んでしまったことが、悔しくて仕方なかった。ただぽろぽろと涙をこぼし、自分の太ももを殴りながら、僕は彼女に謝り続けた。

い  い  の  ・・・

も  う  い  い  の  ・・・

彼女は、低い声でそう繰り返していた。
「ごめんよ、でも、でも消えないで。どうかまだここにいて。僕は君にひどいことをしてしまったけど、でも、もしも!もしもほんの少しでも、瑞樹さんの淋しさに僕が力になれることがあったら、僕がいることで、なにか少しでも瑞樹さんの心の役に立てることがあるのなら、それが自惚れだとしても、何かしたい。そう思ってはいけないかい?痛みの全てを分かってあげることはできないかもしれないけど、何かできることはないかい?それを探すことしか僕にはできない!」
僕はそう叫んで、思わず彼女に手を伸ばしていた。テーブルに置いたコーヒーカップに添えられた彼女の右手を僕は思わず掴み、握り締めていた。
冷たかった。それは凍えるほどに冷たかった。
彼女は、その瞬間、びくりと体を震わせ手を引いた。左手首の鮮血が宙に舞った。その両手を胸の辺りにわなわなと近づけた直後、

ばしゃっ!

水飛沫と共に、彼女の姿は一瞬にして消えてなくなっていた。僕は心から悔やんだ。何故、あそこで手を握ってしまったのだろう。怯える彼女に、それは最も衝撃的な行動であったはずなのに、僕は何と言うことをしてしまったのだろう!
残されたびしょ濡れのパジャマとコーヒーの跡を、僕はただ呆然と見つめ続けていた。



「孤独」

その翌日から、彼女は現れなくなった。四日、五日経っても、現れることはなかった。僕は、心の底から悔いていた。ほんの少し、気持ちが通ったような気がした矢先、僕は全てをぶち壊しにしてしまった。パジャマとバスタオルを洗濯し、いつもの場所に置いておく。ハブラシも立ててある。しかし、使った形跡はない。彼女が去った後、僕はもう何をどうしたらいいのかわからなくなっていた。孤独だ。幽霊でもいい、もう一度現れて欲しい。淋しい。僕の淋しさは、日を追うごとに増していき、食事も満足に喉を通らなくなってきていた。
数日後、久しぶりにキャンパスに顔を出した。ここのところずっとちゃんと講義を受けていない。研究室にも顔を出していない。僕はふらふらと頼りない足取りで、キャンパス内をうろついていた。会いたい友達なんかいない。もちろん、「久しぶり」なんて声をかけてくれる知り合いもいない。僕は一体なんで?ここに孤独を確認しに来たのか?それでも部屋にいるのは苦しかった。少しでも気分を紛らわすために立ち寄ったキャンパスで、くしくも僕はさらなる孤独を思い知らされたわけだ。
学食の飯を食う。無味乾燥だ。肉が肉に感じない。まるで泥のカタマリだ。ぼそぼそと味のない紙でも食っているような気分で、レタスとキャベツを押し込んだ。今にも吐きそうだった。半分程度も食べることが出来ず、僕は学食を後にした。いつまでもここにいたって何も変わらない。より多くの孤独を感じるだけだ。

「国分!国分じゃないか!」
突然、後ろから声がした。僕はのろのろと振り返ってその声の主を探した。それは研究室の田代助教授だった。僕が唯一会話したことのある先生。別段親しいいわけではない。ただ、人数の少ない僕の研究室だから、顔と名前くらいは覚えてくれていただけだ。
「国分、最近まったく見ないじゃないか。どうしたんだ?それに、オイ、どうしたんだ、えらいやつれちまって!」
そういいながら田代先生は、僕の方にぽんと手を置いた。その手がびくりと反応した。さわれば分かるほどに僕の肩の肉はやつれ落ちてしまっていたのである。田代先生は、怪訝な顔をしながら僕を覗き込んだ。
「おいおい、どうしたんだ…。その顔、睡眠不足か?まるで何かに取り憑かれちまってるような顔だぞ。」
僕は返事をするのもけだるかったが、無言で済ますわけにもいかない。
「ええ、そうなんです。憑かれてるんですよ。」
田代先生はその僕の返事にぎょっとしたようになってあとずさった。どう扱っていいものか、思案に暮れている、そんな顔をしながら田代先生は言った。
「ま、まぁ、よくわからんが、無理もほどほどにしておけよ。たまには研究室にも顔を出してな。」
そういい残して、気味の悪いものでも見たかのように田代先生は足早に去っていった。
ひとしきり孤独を噛み締めた後、僕はキャンパスを後にした。またあの部屋に帰る。孤独の待つあの部屋に。そうだ、またあの本を探そう。まだ行っていない本屋があったはずだ。少し遠いが、かまわない。別段、遅くなってこまることもない。僕は自転車置き場の愛車のキーロックをはずし、ガチャリと乗り出した。ふらふらと、時に蛇行しながら、僕は知る限りの本屋を片っ端からまわった。少し遠くても、気にせず回った。うろうろとあてどなく彷徨うような姿は、まるで宿無しの野良犬のようだった。
途中、立ち寄ったうどん屋で、味気ないかけうどんを一杯、注文し、それも半分くらい残して立ち去った。一番遠くにある本屋まで回りきった頃には、完全に夜の闇が覆いつくし、自転車のライトだけが僕の進む先を照らす航海灯になっていた。結局、目当ての本は最後まで見つけることが出来なかった。僕は実はそんなことはなんとはなしに分かっていた。多分見つからないだろうと知っていた。ただ、また孤独の待つあの部屋に帰りたくなかっただけのことだった。
それからおよそ一時間半もかけた夜十時ごろ、僕は孤独の部屋に帰ってきた。肩を落とし、ギィと重い鉄扉を開ける。真っ暗な玄関に、申し訳程度の明かりをつけた。ベッドの部屋に薄い明かりだけが差し込み、その奥の孤独をより強調した。僕は玄関で立ち止まったまま、少しの間動かなかった。靴を脱ぐのも億劫だ。立ち尽くして大きく息をはいた僕は、それでもそのままにしているわけにもいかず、ぼそぼそと奥の部屋へと進んだ。パチンとリビングの照明をつけた僕の目に、いきなり飛び込んできた黄色。
彼女が、瑞樹さんが、そこに座り込んでいた。いつもよりさらに小さく丸まるように膝を抱え、頭をうなだれて、ざばりと垂れた髪を膝の上にまで覆いかぶせ、座椅子に座っていた。僕が帰ってきたことに気付きもしないように、身じろぎ一つしなかった。僕はあまりの衝撃に、少しの間声が出なかった。
「・・・み、瑞樹さん?」
彼女の頭が少しだけカクリと動いた。ゆっくりと首をかしげるように、右に傾いた。「いてはいけなかったかしら」とでも言いたげな、僕にはそんな愛嬌のある首の傾げ方に見えた。
「瑞樹さん、来て、来てくれたんですね!えと、、、あの、、、こないだは、本当にごめんなさい!急に、急に手を掴んだりして、ごめんなさい!僕はなんて失礼なヤツなんだと、あれからずっと後悔してました。もう来ないかと思ってました。でも来てくれたんですね。よかった。ありがとう。本当にごめんなさい!」
僕は膝をついて頭を下げた。幽霊が部屋にいることが、なんでこんなに無性に嬉しいんだろう?僕の正気は首をかしげていたに違いない。それでも僕は嬉しかった。それまでの鬱屈した暗い孤独から、今、解放された。

僕はいつものようにコーヒーを二ついれ、テーブルに運んだ。一つを瑞樹さんに差し出しながら言った。
「ホントに、もう来ないかと思ってた。怒ってるかと思って。怒ってない?僕を許してくれるかな。」
僕は心配そうにコーヒーを置いた手を引っ込めた。彼女は、ゆっくりとコーヒーに手を伸ばし、一口すすった後、小さく頷いた。僕は安堵した。と同時に、思わず口走っていた。
「じゃあ、何で今まで来てくれなかったの?僕は淋しかった。淋しくてしょうがなかった。成仏したのならそれもいいかなとか、どこか違う浴室に出ているんだろうかとか、いろいろ考えたんだ。何で・・・」とそこまで言った時、僕の口調が彼女を責めるようにだんだんと荒くなってきていることに、はっと気付いた。
「・・・いや、ごめん。ごめんね。僕が悪かったんだ。瑞樹さんは悪くない。謝るのは僕の方なんだ。ごめん。」
そのあと、しばらく沈黙が続いた。怒っているのか、呆れているのか、と僕は少し心配になったが、どうもそうでもないようだ。良くはわからないが、ほんのり嬉しそうな空気が流れてくるような気がしていた。僕も、彼女も、今、何故か安心しているのだ。理由はわからない。でも、僕にはそう感じられた。

沈黙を破るように、僕はいつものように話しかけた。
「今日さ、また本を探して随分遠くの書店まで足を延ばしたんだ。けど、やっぱりなかったよ。マイナーな本だからね。ないよなって、思ってはいたんだけど、やっぱりなかったよ。おかげで太ももはぱんぱんさ。運動不足だよね。」
そうやって他愛もない話を始めると、僕はまた止まらなくなってきた。ここ十日間であったこと、考えたこと、淋しかったこと、孤独だったこと、ご飯が美味しくなかったこと、彼女を傷つけないように、少し面白おかしく脚色して、僕はしゃべり続けた。今までの孤独の鬱憤を晴らすように。彼女は黙ってそれを聞いていた。無視ではない。時々小さくかしげる首が、僕の話を聞いてくれていると言う実感をもたらした。僕は嬉しかった。
僕が自分の二杯目のコーヒーを入れたとき、彼女のカップにはまだ半分以上のコーヒーが残っていた。僕は、何気なく聞いた。
「瑞樹さん、コーヒーばかりでごめんね。他に何か好きな飲物とか、ないのかな。今、うちには何もないけど、、、もし好きなものがあるなら買っとくからさ。教えてよ。」
彼女は、ゆっくりとぎこちなく首をかしげた。何か考えているようでもあり、答えがわからないようでもあり、僕は少しじれったくなって聞いた。
「えと、、、例えば、紅茶とか。レモンティー、ミルクティー、ジャスミンティー、シナモンティー、アップルティーなんてのもあったかな。」
彼女は無言だった。どうもこのあたりにはヒットしないようだ。
「あと、何があるんだろう。コーヒー、紅茶、ちょっと年寄りくさいけど、日本茶。あとは、、、ココア。」
彼女の頭がぴくんと動いた。
「ココア、ココアが好きなんだ。そうだね?」
彼女はゆっくりと頷いた。なにか恥ずかしそうな空気を発しながら。
「わかった。じゃ、買っとくよ。だからさ、明日も来てよ。ね、いいでしょ?」

僕は、来店の確約を取り付けた喫茶店のマスターのような気分で、近くのスーパーにいた。真っすぐに飲料のコーナーに向かう。
「ココア、ココア。」
心なしかうきうきと弾むようにつぶやきながら、棚をあさった。いろんなメーカーのココアがあったが、僕はできればこれにしようと決めていたココアがあった。普通のスーパーにはないかもな。そう思いながら、棚を順にくまなく眺めた。やっぱりそれはなかった。モリサカ、メイシ、国内の有名メーカーのものだけが大量においてある。
「やっぱり、ないか」
僕は、少し足を伸ばしていつもの大型ショッピングモールの食品売り場にいってみた。品揃えはずっと多いはずだ。多分ある。風を切り、息せき切って僕は自転車をこいだ。


彼女は今日はピンク。来てくれるのを心待ちにしていた。いつものようにずるずると座椅子に座り膝を抱えた彼女に、僕は、恋人に誕生日プレゼントを渡す前のような面持ちでにやけていた。
「いらっしゃい。よかった、来てくれて。これで来てくれなかったら、どうしようかと思っていたよ。」
と軽口を叩きながら僕はいそいそと立ち上がった。
「ちょっと、待っててね。すぐだから。」
僕はキッチンに向かい、お湯ではなく雪平鍋に牛乳を沸かし始めた。今日、やっと探し当てたお目当ての戦利品を開封する。二つのカップに三杯ずつ、少し多目がいい。ぶくぶくと沸いた牛乳を注ぎ、手早くかき混ぜる。我ながら上出来だ。
僕は二つのカップと、その戦利品を手にテーブルに戻った。
「どうぞ。リクエストのココア。どう?見てよ。コレ、Hershey'sのココアなんだ。これ絶対に美味しいから、特に牛乳で入れると凄くまろやかで美味しいんだ。飲んでみてよ。ココア好きなら絶対にうなるって。かっこよく言っちゃうと、ホットチョコレート、ってヤツ?」
僕は自慢げにカップを差し出して、Hershey'sのパッケージを見せた。彼女は、ゆっくりとカップを引き寄せ、両手で包むようにカップを口の辺りに近づけた。左手首からまたどろりと鮮血が滴った。僕は、その反応を見るために、覗き込むようにして彼女の方を見た。彼女はそれに気付いたのか、少し顔を背けるようにして、一口、すすった。

お  い  じ  い  ・・・

よしっ、と僕は笑顔になった。そして自分のカップを手に取り、ずずっとその白茶色の泡が立つココアをすすった。美味い。やっぱり正解だった。僕の「美味い」と彼女の「おいしい」、二つ揃って僕の精一杯のもてなしは完成だ。僕は心躍る気持ちで、またあれこれと、他愛もない話をしゃべり始めた。

それから彼女はいつもココアだった。コーヒーは半分しか飲まなかったが、ココアはいつも全部飲んで帰っていった。彼女が消えた後には、いつも湿った座椅子とびしょ濡れのパジャマ、そしてカップ一杯分のココアの染み。それを洗って干す、それが僕の日課になっていた。今日はとてもいい天気だ。柔軟材もたっぷり入れた。パジャマも、バスタオルも、ふかふかに仕上がることだろう。


「ベッド」

彼女の訪問を待ちわびる日々は、続いた。最初に彼女が浴室に訪れた晩秋からもう二ヵ月近くが経とうとしていた。僕は正月、実家に帰ることもせず、部屋にいた。彼女を待つためだ。毎日彼女は現れたが、大晦日の晩だけは現れなかった。僕は、待ちわびながら一人淋しく紅白歌合戦を見た。除夜の鐘が鳴り終わっても彼女は現れず、あきらめてベッドにもぐりこんだ。
それでも元日の夜には、彼女は現れた。昨晩来なかったことを、僕は咎めなかった。だって、彼女にも実家があるだろう?そっちに帰ったのかもしれない。僕は、まるで普通の女の子と接しているかのように、そう考えて納得した。
「あけましておめでとう」
これほど、幽霊に対して不似合いな言葉もないような気がしたが、それでも僕は彼女を普通の女の子として扱ってあげたかった。僕は、一人用の質素なおせち料理を注文し、テーブルに並べた。日本酒も少しだけ買ってきた。なるべく、ちゃんとお正月の雰囲気を出したかった。彼女は、いつものようにずりずりと滑り込むように座り込んで膝を抱えた。
「えと、、、そういや食べ物って、食べれるんだっけ?…」
彼女は少し間を置いて、首を左右にゆっくり振った。
「そ、そりゃそうか。そうだよね。ごめん、こんなものを準備して。僕だけが食べることになっちゃうね。ごめん。」
いつものように「いいの」と彼女は首を振って、じっと座っていた。
「じゃ、じゃあ、お酒は?二十歳だからもう大丈夫だよね?飲めたり、、、する?日本酒なんだけど、おとそだからちょっとだけ、飲もうかと思って…」
彼女は、じっと黙っていたが、少し考えた後、ゆっくりと右手を前に伸ばした。
「そう、飲んでみる?じゃ、温めてくるね。」
そういって僕は、ほんの二合ばかり入ったカップの日本酒をお湯で温めにキッチンに立ち上がった。お猪口なんて気の効いたものはないけど、小さな背の低いワイングラスがあった。これで代用しよう。熱くなりすぎない程度に温めた日本酒と、グラスを二つ持って、ぼくはテーブルに戻った。
「じゃ、これ。ちょっとだから。試してみても、、、大丈夫かな。どうぞ。」
僕は無粋なカップ酒を、小さなワイングラスに少しだけ注いだ。本当にこんなことをしていいのか、何だか僕の感覚は麻痺してしまっていた。コレじゃ、普通の人みたいじゃないか。いや、それでいいんだ。その方がいいんだ。
「えと、、、じゃ、あけましておめでとう。」
僕は自分のグラスを、テーブルに置かれた彼女のグラスにチン、と軽く当ててそのグラスを一気に空けた。
「ぷはぁ~!たまには日本酒も効くなぁ~!」
僕は大げさにおめでたい雰囲気を出した。彼女は、まだグラスに手を伸ばさない。少し間をおいて、恐る恐る右手をあげてグラスを持った。僕は、見ていないふりをしながら、カップのお酒をもう一杯自分のグラスに注いだ。彼女は、ゆっくりとそれを口元に運び、小さく傾けた。ほんの雀の一口のように少しだけ。それでも、むせたり咳き込んだりといったことはなかった。おかしいことに、彼女は、そのあと二口目を一気に口の中に流し込むように大きくグラスを傾けたのである。
「あはは、瑞樹さん、結構いい飲みっぷりじゃん。でも、大丈夫?本当に?」
僕は少し心配になって彼女の顔を、正確には髪に覆われた、その正に髪で見えない向こう側を想像しつつ、覗き込んだ。彼女は、

あ  あ  あ   ・・・

と呻きとも、ため息ともつかない幽鬼のような声を吐きながらグラスをゆっくりとテーブルに近づけた。そのままテーブルに置くものと思った僕は、自分のグラスを手にしようとしてぎょっとした。彼女が、僕にグラスを差し出しているのである。どういうことだ?もっと欲しいってことなのか?僕はなんだか可笑しくて笑いそうになった。そんな僕を見てか、彼女は申し訳なさそうに、そして少し気恥ずかしそうにグラスを引っ込め、テーブルに置こうとした。
「ま、待って。大丈夫。瑞樹さんが大丈夫なのなら、いいんだ。遠慮しなくたっていいんだよ。どうぞ。さあ、どうぞ。」
僕はカップ酒を彼女の前に突き出した。彼女は、心なしか嬉しそうに、またグラスを手にした。

僕たちは二人でちょうど二合のお酒を飲みきった。僕が7割、彼女が3割くらいだったろうか。アルコールもいけるんだ。少し酔いの回った不思議な感覚で、僕は彼女を見ていた。彼女の外見には全く変化はなかった。ただ、ほんの少し左手首の出血が多くなったように感じられた。
「大丈夫?」
彼女は、ゆっくりと頷いた。
「なんだか少し気分が良くなってきちゃったな。こんな淋しくない正月は初めてだ。瑞樹さんのおかげだよ。瑞樹さんがいると淋しくない。ありがとう。」
酔いも少し手伝ってか、僕は少し大胆に感謝の言葉を述べた。
彼女は少し「フフフ」と笑った気がした。


僕は、三たび、例の寝具売り場にいた。パジャマをもう一枚買うためだ。もう怖気づいていない。堂々と女物のコーナーに入り、吊られたパジャマを一枚一枚めくった。今回は少し趣の違うものが欲しかった。順にパジャマをめくり、その次に前回は手を伸ばさなかったネグリジェのコーナーに進んだ。少し大人びた雰囲気のある、レースのついた色とりどりのネグリジェがたくさんかかっていた。僕はその中から、ピンク色で、でも派手じゃない、もちろん透けてなんかいない上品な一枚を選んだ。それは今まで着ていたパジャマよりも少しオトナを感じさせるデザインではあったが、決して下品ではなかった。僕はこれに決めた。颯爽とそれを持ちレジに向かう。また同じ店員だったが、僕はもう慣れっこだった。同じようなやりとりをした後、僕は少し自慢げにその場を立ち去った。
部屋に帰った僕は、すぐに浴室に向かった。黄色とピンクのパジャマは綺麗にたたんで置いてある。僕はそれをどけて、さっき買ったばかりのネグリジェの値札をはずし、丁寧にたたみなおした後、それだけを浴室において、周りの品々を整えた後、黄色とピンクのパジャマを箪笥に片付けた。僕は、明るいうちに風呂に入りながら、なんだか少し意地悪小僧にでもなったかのようにほくそ笑んだ。くすつ。
その晩、いつものように彼女は現れた。

 ちゃぽん

水音が何回か繰り返された後、ざーと大きな音がして、ギシギシと浴室を移動する音がする。音が止んだ。奇妙な沈黙の時間。彼女は出てこない。沈黙は続く。いなくなったのかと思うくらい長い沈黙が続いた後、

 がた  がた  がた

彼女は浴室から出てきたようだ。しかしそこから動く気配がない。ぼくはじっと待っていた。振り向きたかったが、そこはじっと我慢した。あきらめたように彼女は、ぺちゃっと音を立てながら僕の横に近づいてきた。彼女は僕の横に立ったまま、また動かなくなってしまった。僕は、たまらず、くすつと笑いながら、
「どう?新しいパジャマ。似合うと思うんだけどな。」
彼女は少しギクシャクとした感じで座椅子に近づき、まるで拗ねた子どものようにどすんと勢いよく座り込んだ。恥ずかしそうに膝を抱えて丸まっている。濡れた乱れ髪がざばりと膝に覆いかぶさる。僕は、ちょっと取り繕うように言った。
「ごめん、嫌だったかな。僕は凄く似合うと思うんだけど。可愛いんじゃないかな、それ。…ダメ、かな…」
彼女は、小さく小刻みに首を「ううん」という風に横に振って、それでもとても恥ずかしそうにさらに強く膝を抱えて丸くなってしまった。
「ごめん、ちょっと意地悪をしちゃったかな。でも瑞樹さんももう二十歳の女の子なんだから、ネグリジェとかでもいいかなと思って。大丈夫。似合ってるよ。悪くない、いや、すごくいいと思う、うん。大丈夫。」
そう言って僕は彼女をなだめるように頷いた。

彼女がくすつと笑った気がした。


次の日はちゃんと普通のパジャマに戻しておいた。もちろん洗濯が乾いていないというのが理由ではあるけど、ちょっとヘンないたずらをしてしまった自分も少し反省していた。でも、間違いなく彼女は怒ってはいなかった。僕にはそれがわかるようになっていた。僕は、今日、もう一つ違う意味で勇気を出してみようと思っている。淋しい僕の生活は、突然現れた見るもおぞましい幽霊の出現で大きく変化した。幽霊のおかげで淋しくなくなるなんて、誰が想像できただろう。他では絶対にできない経験だ。僕はむしろ誇らしげに、女性用のネグリジェを洗濯していた。僕のパジャマと一緒にぐるんぐるんと回る洗濯物を見ていると、不思議な気持ちに捕らわれた。幽霊との同居、ありえないその状況は、それでも僕の気持ちをやわらかくほぐし始めていた。ほぐれ、もつれる僕のパジャマと彼女のネグリジェ、僕はそれを見ながら大きく息を吸い込んで、はぁーっと明るく吐き出した。

その晩、彼女はいつものように水音を響かせて現れた。その音を聞いた僕は、コタツから立ち上がり、僕のベッドに腰をかけた。左に少しスペースを空けて。彼女はいつものように出てきた。元のパジャマに戻っていることに安心したのか、少し早めに出てきた彼女は、ぺちゃっと音を立てて一歩踏み出した。が、そこでいつものコタツに僕の背中がないことに気付いたのだろう。部屋にいないのかと思ったかもしれない。少し立ち止まった後、彼女はまたぺちゃっと歩みを進めた。廊下から出てコタツの前に来た時、僕は声をかけた。
「やあ、いらっしゃい。」
彼女は、ぴくっとなって立ち止まった。ゆっくり軋むようにカクカクと首を曲げてベッドにいる僕の方を見た。何故そこにいるの、と問いたげな仕草だった。僕は勇気を出して声をかけた。
「瑞樹さん、どう?こっちにこない?」
僕はベッドの少し空けた左側を軽くぽんぽんと叩いた。彼女はじっとそこに立っていた。僕は横に座ってくれることに賭けてみたのだ。躊躇しているのか、悩んでいるのか、嫌がっているのか、僕には分からなかったが、怒っているようには見えなかった。彼女は少し首をかしげた後、またゆっくりと歩を進め、いつもの座椅子にずるずると座り込むようにしながら、すうと消えていった。僕は、頭を抱えた。しまったなぁ、余計なことをした。後悔の念が頭をぐるぐると回った。

翌日の晩、僕は素直にコタツに座っていた。いつものように彼女は現れたが、時間はいつもより二時間も遅かった。がた、と浴室を出た後の彼女は、不思議と何かを考え込むように立ち尽くしていた。コタツに僕の背中を見つけて、何か戸惑っているかのようであった。しばらくの間、そうやって立ち尽くした後、彼女は僕の後ろにやってきた。そしていつもなら僕の左側を通過して座椅子に座り込む、はずなのだが今日は何故か僕の真後ろに立ち止まった。またそうやって少しの時間がたった後、彼女はおもむろにベッドの方に近づいていった。ベッドの前に立ち止まった彼女は、昨日僕がぽんぽんと叩いた空白の場所をじっと食い入るように見つめていた。そこに何かを求めるように、少し自分を悔やむように、じっとそこを見つめたあと、彼女はゆっくりと振り返り、再び僕の後ろを通り過ぎて、いつもの座椅子にずりずりと座り込んで膝を抱えた。何故だか少し寂しそうに見えた。
僕はいつものように温かいココアを作り、彼女に差し出した後、他愛もない話をまた繰り返し、繰り返し話していた。その間、彼女は何故か少し哀しそうな空気を滲ませていた。

彼女はもしかして、ベッドに座りたかったのではないか?そんな不遜な想像がぼくの頭を駆け巡っていた。洗濯物のごうごうと鳴く音をBGMに、僕はベッドに座り込んでいた。最初にベッドに誘った時は、彼女は驚いたに違いない。驚きを隠せず、彼女は消えてしまった。そして次の日、遅くに現れた彼女は、何かを決意していたのではないか?ベッドに呼ぶ僕に、応えようとしていたのではないか?彼女は彼女なりに勇気を出して、決意し現れたはずだ。そしてコタツにいる僕を見て、その想いが砕かれたことを悟ったのではないか。僕は、ずっとそんな自分勝手な妄想を繰り広げながら、ベッドにもぐりこんでいた。ベッドの空白をじっと見ていた彼女の寂しそうな後ろ姿が焼きついて離れない。彼女がどう考えていたかはわからない。ただ、僕はやっぱり僕の思うように、勇気を出してみるしかない、そんな気にようやくなれた頃、陽は既に暮れかかって、斜めの光を僕の部屋に差し込ませていた。

僕はもう一度勇気を出してみることにした。いつもの時間、彼女の水音がする時間。僕は早々にベッドに腰掛け、シーツを綺麗に直していた。左には少し大きめの空白を開け、少し離れてでも座れるように空間を空けた。彼女が、がた、と浴室を出る音がした。彼女はまたそこで少しの間立ちすくんでいた。近づく音がしない。僕にとって十分過ぎるほどの長い沈黙の後、ようやく彼女が一歩踏み出した音が聞こえた。彼女が近づいてくる。廊下から姿を現した、やや猫背の彼女は、またそこで立ち止まり、ゆっくりとベッドにいる僕のほうに首を向けた。もう、そこにいることが分かっているかのように。僕は、もう一度勇気を振り絞って声をかけた。
「瑞樹さん、こないだはごめんよ。急でビックリしたよね。ごめん。でも、僕は瑞樹さんと近づきたかったんだ。できれば、できればでいい。もし、嫌じゃなかったら、ここに来て一緒に座ってくれないかな。無理ならいいんだ。嫌ならいい。無理しなくったっていい。僕の自分勝手だって、よくわかってる。だから、瑞樹さんがそれに無理をして付き合う必要はないよ。ただ、できれば、隣で話をしたいって、ただそう思っただけなんだ。ごめん。勝手なことばかり言って。」
彼女は、うつむいた首だけをこちらに向けた不自然な格好で、じっとそこに立っていた。僕はじっと待った。僕の大きな呼吸が何度か繰り返され、心臓が少し早くなってきた頃、彼女はぺちゃっと足を踏み出した。それは座椅子の方ではない、僕のいるベッドに向かっていた。僕の心臓は急に早鐘を打ち始めた。本当に来た。僕の隣に座ろうとしている。僕は狼狽をぐっと抑えるように、太ももの上の握りこぶしを強く握り締めた。彼女はゆっくりとベッドに近づき、僕の斜め前にうなだれた首をゆらゆらと左右に揺らしながら立っていた。ゆっくりと、ゆっくりと、体を半回転させるようにして彼女はベッドに背を向けた。途中、ポタポタと左手首から血が滴った。ぎしぎしと軋む音が聞こえるように彼女はゆっくりと中腰になり、ベッドに体を預けた。僕の左側が少し沈む。彼女が座ったことを、その傾きの中で実感した僕の心臓は、もう飛び出てしまいそうなくらい早く打ち鳴らされていた。
僕の左腕と、彼女の右腕の間は十数センチ。僕は、ひんやりとした空気が左の二の腕あたりを通り過ぎていくような気がした。ざばりと垂れた濡れた乱れ髪が、いつもより近くにあった。髪は横にも垂れていて、その隙間からは顔は全く見えなかった。ただ、小刻みに震える右手だけが、彼女の緊張を表していた。
「あ、ありがとう。ありがとう。座ってくれてありがとう。座ってくれたんだね。ゆ、勇気、いったよね。ごめんね、無理言って。でも僕は嬉しいよ。瑞樹さんがこんなに近くにいてくれる。淋しくなんかない。怖くなんかない。だから、ありがとう。」
彼女は無言で、しかし確実に少しだけ小さくうなずいた。僕は大きく深呼吸をして、心臓のスピードを落とすよう心がけた。僕が誘ったんだ。僕がうろたえていちゃダメだ。心の中で自分にビンタを食らわせて、また一つ大きな深呼吸をした。三度目の深呼吸で、僕の緊張はすぅと薄らいでいった。そうするとまた言葉を発することが出来る。会話をすることが出来る。もっと落ち着け、落ち着け。そうだ、ブレイクだ。
「ココア、飲むよね。今、入れるね。」
僕は、彼女を刺激しないようにゆっくりと立ち上がって、キッチンでいつものココアを準備した。キッチンからみたベッドの彼女はいつも見る右側からの彼女ではなく、左側からの彼女だった。頭は大きくうなだれ、髪がざばりと垂れているので顔の表情はあいかわらず見て取れない。ただ、左袖の赤い染みがより鮮明に見えた。彼女はそれを隠したいのに違いない。そう思った僕は、彼女を見つめるのをやめた。
いつものココアを持って、彼女の前に立った。テーブルに置けないからカップはずっと持っておかなくてはいけない。熱すぎない程度にいつもより少しぬるめに温めた牛乳でココアを作った。僕はカップを彼女に差し出した。彼女はそうっと手を伸ばし、それを受け取った。僕は、しっかりと彼女がカップを持ったことを確認して、ゆっくりと自分の場所に戻り、腰掛けた。ほんの心持ち彼女に近づくように、ほんの、ほんの心持ち左にずれながら。彼女との距離は数センチに縮まった。僕は、ココアを少し多めにごくっと飲むと、はぁと大きく息をついた。そして、できるだけいつものように、やわらかく、明るく声を出した。
「あぁ、よかったあ。瑞樹さんが座ってくれて。こないだビックリさせちゃったんで、もう無理かと思ってたよ。僕のために無理をさせました。ごめんなさい。」
僕はペコリと頭を下げた。それからは、またいつものように他愛もない話を、できるだけコミカルに話したと思うが、何を話したか当の僕は全く覚えていなかった。

「話す相手がいるっていいよね。淋しくない。僕には瑞樹さんという相手がいる。こんなに嬉しいことはないよ。前にも言ったけど、僕は高校時代、随分といじめられてきた。ほら、この左腕の丸いヤケド跡、そうそう、根性焼きってヤツ?よくやられたもんでね、いやだったなあ。あの高校生活。もう思い出したくもないよ。それからかな、僕は人が怖くなった。正確に言うと人を信じるのが怖くなった。だから大学に入った今も、こうやって友達の一人もいない。情けないヤツさ。逃げて、逃げて、逃げて生きているんだ。」
ここまで話して、僕はまたはっとタブーに触れてしまったのではないかと、彼女の方を振り返った。彼女は小刻みに震えていた。
「消えないで!ごめん、また僕が悪かった。気遣いってモンがたりないよね、僕は!ダメだ!ダメだ!」
そう言って僕は自分の頬に張り手をした。
「ごめん。つらかったね。でも、今は大丈夫。何も起こりゃしない。瑞樹さんをいじめる人なんて、ここにはいない。僕がいる。大丈夫。震えないで。」
僕は、そっと左手をずらして、彼女の横に置いた。そして、ゆっくりと、ゆっくりと、かぶせるように彼女の右手の甲に、僕の左手のひらを軽く重ねた。彼女は、ほんの少しぴくりとしたが、それ以上の反応はなかった。僕は軽く重ねた手のひらに少しだけ力をいれ、彼女の右手をやわらかく握った。冷たかった。氷のように冷たい手だった。
「僕がいる。大丈夫。」
僕は繰り返して、彼女の手を温めるようにやわらかく握り続けた。
彼女のパジャマの上に、ぽたりとひとしずくの水が落ちた、それは濡れた髪から滴った水滴なのか、それとも彼女の心があふれたものなのか、僕には分からなかった。ただ、彼女は握った僕の手を振り払うことはしなかった。

それから、僕と彼女の定位置はコタツの座椅子から、ベッドへと移った。何度か座るうちに、彼女も自然とそこに座るようになった。手が触れることも時々あった。そんな時は、あまりにも冷たい彼女の手を、無性に温めたくなる僕だった。僕が淋しくなると、時々彼女の手を握った。彼女が淋しそうにすると、時々彼女の手を握った。僕は自然と彼女に触れることが出来るようになり、といってもまだ右手だけだけど、時には会話も弾んだ。もちろん、僕の一方的なおしゃべりではあるのだけど。それでも彼女の反応は、日に日に目に見えてはっきりと分かるようになってきていた。前よりもずっと早いタイミングで反応も返ってくるようになっていた。以前は動かすたびにコキコキと音がするような軋んだ動きだったけど、今は随分と滑らかに動くようになったような気がする。ひいき目といえばそうなのかもしれないが、僕はそれで十分満足だった。ある日などは、彼女の手の上に僕の手を重ねて話をしている時、僕は思わずいつも通う本屋の店員さんが綺麗でね、と話してしまった。その途端、彼女は僕の手を振り払って、ぺし、と僕の手を打ったのだ。まるで、拗ねてでもいるかのように、うつむいた頭を向こう側に向けてしまった。その仕草があまりにも可愛らしく、心の中に奇妙な愛おしさが沸いてくる感覚を、僕はぐっと抑えた。

そう、もしかすると、
もしかすると僕は、

彼女に、恋をしてしまっているのかもしれなかった。


「恋」


一度、その思いに取り付かれてしまうと、もうどうにも離れなくなってしまう。恋とはそういうものだ。見た目、どうしようもなく不気味な彼女。ざばりと垂れた濡れた乱れ髪、誰が見ても逃げ出しそうな出で立ち、奇妙に違和感を感じる動き、青白い肌、地の底から湧き出るような声、どれをとってもホラー映画でしかない彼女が、今の僕にとってはかけがえのない存在なのだ。今、彼女を失いたくない。消えてしまって欲しくない。成仏?させてあげればいいのはわかってる。でも、今はいやだ。もうあんな淋しいのはいやだ。
そうなると、自然と湧き出てくる想い。彼女は僕をどう思っているのか?恋をしたら必ず生まれる感情。相手の気持ちを確かめたい。僕と一緒に淋しさを共有してくれると信じたい。僕は彼女の気持ちを知りたくて仕方なくなっていた。迷いはあった。伝えてしまった後の、あの苦々しい空気。
中学の時、一度だけ好きになった子に「好きなんだ」と伝えた時のあの重苦しい空気は今でも忘れられない。「えっ、あなたが私を?」と言わんばかりの、あのいたたまれない空気。「あ、そう」とだけその子は答えて、すいと僕の横をすり抜けていった。小さな声で「やめてよね」そうつぶやきながら、足早に去っていった。僕はその時の情けない気持ちを思い出して、迷いに迷っていた。僕には苦い思い出が多すぎる。全てがそのネガティヴなパターンに飲み込まれていく。言えない。絶対に言えない。でも苦しい。自分の気持ちが分かってしまった以上、これはもう放っては置けない重大事になってしまったのだ。彼女に伝えたい。伝えられない。頭の中を同じ言葉がぐるぐると回り、飛び乱れ、意識の壁にぶち当たって粉々に砕ける。その破片から新たに同じ言葉が生まれ、またそこら中を飛び跳ね回る。僕は大きく息を吐いて頭を思い切り掻き毟った。恋は、生まれてしまった以上、叶えるか、強制的に消去する(もしくはさせる)かの二択しかない。自然と消滅するのを待つには、時間がかかりすぎる。僕は、このうずきを抱えたまま、また今日も普通に彼女と会うことが、苦痛に感じ始めていた。伝えたい。伝えたい。伝えたい。

伝えよう

いいじゃないか、好きなら好きで。好きと言う言葉は最高じゃないか。何を臆することがある。伝えてしまえ。突然に僕は、その神経が数本プツンと切れてしまったように、力いっぱい立ち上がった。そう決断してしまってからは、奇妙な勇気と奮起が僕を支配し始めていた。抱えては置けない。今夜、伝えよう。僕は、そう心に決めた。

運命の晩はなかなかやってこなかった。普通なら簡単に過ぎていく時間が、今日に限ってやたらとのろい。まだこんな時間かと思うたびに、やっぱりやめようか、いや言おうか、この葛藤を何十回となく繰り返して、また時計を見る。よし言おう!そうして、時間がたつのをじっと待ちながら、再び同じ葛藤を繰り返す。僕が頭を掻き毟って耐え切れず、
「うわぁぁぁぁ!」
と叫んだ瞬間、目の前に彼女が立っていた。表情は見えないが、とても驚いたようにそこに立ち尽くし、僕の方をじっと見ていた。あまりに考えがぐるぐると回りすぎて、彼女が現れた兆候や音を、完全に聞き逃していたようだ。彼女はどうしていいかわからないようだった。呆然と立ち尽くしたまま、うつむいた頭をこっちに向けて立っている。
「ご、ごめん。き、気付かなかった。そんなに驚かないで、な、なんでもないから、さ。」
そう取り繕って僕はベッドに座る。彼女は少し安心したように、ゆっくりと僕の左側に腰をかけた。僕は胸に手を当てて丸くまわすように胸をさすった。落ち着け。落ち着け。そう、心の中で唱えながら、さすり続けた。彼女はうつむいたまま、かすかにこちらに顔を向けていたが、しばらくすると、ふと何かを悟ったように正面に向き直った。僕は大きく深呼吸をして、胸をどんと叩いた。そして胸のTシャツを一度ぐしゃっと鷲掴みにして、また大きく息を吐いた。そのあと、ふむ!と小さく息を吐いて、僕は彼女のほうに向き直った。
「えと、、、み、瑞樹さん。実は、、、」
どくどくどくっと心臓が一瞬にしてMAXスピードまで駆け上がった。そのあとは、あうあう、とあごを動かすだけで、僕は何もしゃべれなかった。もう一度胸を掻き毟る。はぁと大きく息を吐く。ごくりとつばを飲む。また大きく息を吐く。
「え、、、じ、実は、、、僕、僕は、、、」
彼女がゆっくりとこちらに顔を向けた。ほんの少しだが、肩を動かし体全体を斜めに僕のほうに向けた気がした。僕の心臓は、もうあと数分も持ちそうにない。アドレナリンが急激に噴出し、目の前がくらくらしてきた。今にも気を失ってしまいそうな状態で、僕はだらだらと冷や汗をかいていた。脇の下をつつーと冷たい汗が流れる。僕は、ぐっと握りこぶしに力を入れた。手に汗を握るとは正にこの状態だ。ごくりとつばを飲み、次の言葉を搾り出そうともがいている僕は、まるで滑稽だった。
「あ、、、」
と言ったきり、詰まってしまった僕。

その時だ。彼女の右腕が静かに動いた。ゆっくりと、なめらかに、静かに、その手は僕の方に近づき、握り締めた僕の左拳の上に、そっと置かれたのである。熱く汗をかいた僕の左手を冷やすかのように、彼女の冷たい右手が重なった。そして彼女は、優しく僕の左拳を包むように覆いかぶせた。
僕はその冷たさに、一気に喉のつかえが通り過ぎ、硬くなっていた体が急にほぐれた感覚になった。今しかない!
「み、瑞樹さん、僕、僕は、実は、君に、瑞樹さんに、恋をしてしまったようなんです!」
言い終わった後、心臓は口からそのまま飛び出てしまうのではないかと思った。はあはあと荒い息をし、だらだらと冷や汗をかく僕は、はたから見たらなんとみっともない男だったろう。情けない男に見えただろう。それでも僕は伝えた。言い切った。大きく息を吐いた僕は、そのまま続けた。
「ごめん、ビックリしたと思うけど、、、僕の、僕の正直な気持ちなんだ。消えないで!消えないでよね。僕は、伝えたかっただけなんだ。だから瑞樹さんの気持ちがどうこうとか、無理に聞こうとは思わないから。僕は何も変わらないから。大丈夫。だから、消えないで。変わらすにここにいて。」
僕は、堰を切ったようにまくしたてた。
僕の左手に右手を乗せたまま、彼女は黙って聞いていた。そのまま、右手を元に戻すだろうと僕は思っていた。が、そこに答えはあった。彼女の右手が、僕の左手を強く、強く握り締めたのである。彼女の右手も、僕の左手も震えていた。でも、そこには確かに証があった。僕の想いは伝わった。その確信があった。そして、彼女の想いも、うすぼんやりとだけど、僕に伝わってきた。握り締めた手が離されることなく、ずっとそこで強く握られている時間の分だけ、そのうすぼんやりとした想いは、僕の中でだんだんと確証に近いものに変わっていった。

まだ寒さの厳しい中、時折差す太陽の光が、春の温かみをかすかに帯びてきた頃、僕は上機嫌でパジャマを干していた。あれから瑞樹は、毎日僕のもとに現れた。ベッドに腰掛けて、ココアを飲んで、話をして、時々手を握る、ただそれだけの毎日だったが、僕にはもうそれだけで十分満足だった。洗濯も毎日の作業だったし、天気のいい日には布団も干さなくちゃいけなかった、所々に落ちた血のシミも、手洗いでなんとかした。僕は講義にも少しずつ戻るようになり、なんだか少しだけ慌しいけど、それでも奇妙に充実感のある幸せな日々だった。
瑞樹は相変わらず何もしゃべらなかったが、時々握る手の強さや、カクンとかしげる首の感じで、僕は彼女の気持ちが少しずつ分かるようになってきていた。時に手は嬉しそうに笑い、時に首は不思議そうに傾げられた。取り憑かれてやせ細ったはずの僕の体も、すこしずつ元に戻り始めた。別に取り憑かれたわけじゃない。瑞樹は取り殺したりしない。僕の安心と、瑞樹の安心がかさなって、今、ふわりふわりと空を漂っているような気分だ。幽霊ですよ、だから?それがなにか?
毎日洗濯するバスタオルとパジャマも、何だか少しよれてきた。これじゃあかわいそうだよな、そう思った僕は、なけなしのお金をはたいて、また新しいパジャマを買った。少し爽やかに、今度は薄いブルーのパジャマにした。瑞樹はそれがことのほか気にいったようで、パジャマの袖をつまみ、何度も、何度も、じっと眺めていた。
浴室とリビングの間だけの恋。僕らの間には、この短い距離とわずかな時間が全てだった。必ず帰らなくてはいけない、けれど必ず会える。僕たちはそれでよかった。今はそれで十分だった。


「顔」

陽射しがだんだんと温かくなってきた。もうまもなく春がやってくる。とは言っても朝晩はまだまだ冷え込む。日が暮れると、しんしんと寒さが沁みる。僕たちの恋は、それでも何も変わらなかった。毎日の密会も、洗濯も、何も。ただ、僕には一つの小さな欲望が芽生え始めていた。瑞樹は変わらずやってくる。ざばりと顔を覆った乱れ髪も、いつものままだった。いつもうつむいていた顔は、最近少し上がるようになってきた。瑞樹の手が笑っている時、うつむいた顔は、ほんの少しだけ、その角度を取り戻す。時折見せるその状態を、僕はいつも見ていた。くっと顔が上がった瞬間のわずかな髪の隙間に、青白く薄い唇を見た時は、何故か瑞樹の秘密の部分を少し垣間見たような気がして、心が揺れた。しかし、それ以上を見ることはできなかった。僕は、瑞樹のその瞳を思い出していた。いつか、ほんの少しぎょろりとのぞいた目。白く濁って焦点を失ったような目。その時は、それは恐怖の一端でしかなかったが、今の僕は違う。唇が青白くたっていい。目が白く死んでいたっていい。ほんの少し垣間見えたその秘密に、僕は不思議な魅力を感じていた。そんなことを繰り返すうちに、僕の中に芽生えた欲望。

瑞樹の顔が見たい。

許されないことは分かっている。瑞樹がそれを嫌がるだろうことも想像がつく。だってそうだろう。普通の女の子が、白く濁った目を見て欲しいと思うか。ありえない。それを十分承知しながら、僕はそれでも瑞樹の顔を見ることを望んでいた。ただ見たいからじゃない、見たその顔を、僕が愛することによって瑞樹が救われるような気がしたのだ。誰にも見せたくない、瑞樹の哀しい部分。それを僕が受け入れることで、瑞樹の救いになる、そんな想いが僕にはあった。それは僕の単なるエゴだったのかもしれない。そんなことは、何度自問自答したって分かりきっていることだった。それでも、僕は瑞樹を愛したい。その全てを愛したい。僕の心は、切なく揺れ動き、また自問自答を繰り返すのだった。

「瑞樹、あのね、、、」
僕は瑞樹に話しかけた。瑞樹はカクンと首をかしげるようにこっちを向いた。僕は、もごもごと言葉をくぐもらせて、
「いや、なんでもない。」
そういって、瑞樹から顔を背け、テレビの方を向いた。触れていた瑞樹の手が、淋しそうにわずかに動いた。それが僕にはたまらなく哀しかった。
しばらくテレビを眺めた後、僕はくるりと瑞樹の方に向き直った。驚いた瑞樹は、手をビクリと震わせてうつむいた。
「瑞樹、その、実はお願いがあるんだ。聞いてもらってもいいかな。このお願いで瑞樹が傷つくかもしれない。嫌かもしれない。でも、僕は瑞樹を傷つけるために、言うんじゃないってことだけはわかって欲しい。僕は瑞樹が好きだ。だからもっと好きになるために、もっと瑞樹と僕が近くなるために、したいお願いなんだ。」
瑞樹は、何のことかわからないといった風に、カクンと首をかしげて僕を見た。
「僕のお願いはね、いいかい、あまり動揺しないで聞いて欲しいんだ。そして、聞いた瞬間に消えるのだけはカンベンして欲しい。お願いだ。いいね。」
しばらく沈黙が流れた後、瑞樹はゆっくりと頷いた。僕はすうと息を吸って、じっと瑞樹の目(のあたり)を見て言った。

「瑞樹の、顔を見せて欲しいんだ。」

瑞樹は、一瞬何を言われたのかわからないと言うように、首を少しゆらりとひねった。その後、大きくうつむいて、小さく首を左右に振った。少し考えて、また小さく首を左右に振った。
「わかってる。嫌だと思う。瑞樹は自分の顔を醜いと思っているんだよね。それを僕に見せることなんてできないと思ってる。そうだろう?でも、だからこそ僕は見たいんだ。瑞樹のその素顔を。もう一回言うけど、僕は瑞樹が好きだ。それは顔形や、見た目でどうこうなるもんじゃないんだ。僕はそれを証明したい。瑞樹は、幽霊だって、どんな顔だって、瑞樹なんだ。僕がそれを見て、それでも瑞樹が好きと言えたなら、僕たちはもっと近くになれる。もっと淋しくなくなる気がするんだ。わかるかい。酷い頼みごとだってのは、僕もよくわかっている。でも絶対に後悔はさせない。これが済んだ後、絶対に僕と瑞樹は近くなっている。約束する。」
瑞樹は、じっとうつむいたままだった。僕は待った。今、瑞樹は自分の中で葛藤しているに違いない。そうでなければ、今も即座に拒否しているはずだ。僕は、祈るように待った。
やがて瑞樹は、そのうつむいた顔を少しだけ上げて、カクンとこっちを向いた。深い深い水の底から押し出されるような声で、瑞樹は言った。

 い   い   よ   ・・・

僕は今にも涙が出そうだった。瑞樹が僕の言葉を理解してくれた。ただそれだけで、もう僕にとって瑞樹は愛する対象足りえるのだ。
「ありがとう。瑞樹。大丈夫、心配しなくていい。僕は約束を必ず守る。」
僕は瑞樹に微笑を浮かべながら、その右手を強く握った。
僕は瑞樹の肩に手を掛けた。少し、こちらを向けるように体をひねった。瑞樹はうつむいたまま、ざばりとした髪をそのままに、僕の方に体を向けた。
僕は優しく、瑞樹の両肩に手を置き、ぽんぽん、と「大丈夫」という意味の合図をした。僕は、瑞樹の両肩から少しずつ幅を狭め、肩口、首筋をなぞり、両耳を挟むようにしてゆっくりと瑞樹の顔を上に向けた。髪は顔を全て覆ってはいたが、下のほうの隙間から青白い唇のカケラが少しだけ見て取れた。僕は瑞樹の顔を真っすぐにしたまま、ゆっくりと顔全体を覆う前髪に手を掛けた。ビクンと瑞樹は震えた。その後も小刻みに震えている。僕は、ゆっくり、ゆっくりと、瑞樹の前髪の中央に手を差し入れた。それを左右に少しずつ割っていく。下唇が見えた。青白い薄い唇、同じように青白い上唇が続いて顔をのぞかせた。瑞樹は震えていた。そのまま僕は、ゆっくりと髪の毛を開いていった。青白かった肌が、少しずつ薄黒くなっていく。鼻筋が見えた頃には肌の色はどす黒いと言ってもいいくらいに青と黒の混じった斑模様になっていた。鼻筋は通っていたが、少しゆがんで見えた。どす黒いだけではない、皮膚も少しずつ剥がれている。僕は構わずそのままゆっくりと髪を開いて、瑞樹の目を覗き込んだ。現れた目は、まぶたが腫れ、目の周りは真っ黒にくすみ、皮膚がただれて剥がれ落ちそうになっていた。伏せた目は、いつかあの時見たまま、白く濁り、焦点は合っていない。薄汚れた膜のかかったような「死んだ魚のような目」それでも、目はピクピクと動き、その機能を果たそうとしていた。僕は、その全体像を初めてこの目に納めることが出来た。驚きはなかった。醜いとも思わなかった。それどころか僕にはこの姿が愛しくさえあった。この自分の顔を常に隠してこれまで瑞樹はやってきたのだ。つらかっただろう。悲しかっただろう。そう思えば思うほど、僕にはこの瑞樹の素顔が愛しかった。
髪を開いてじっと顔を見つめる僕。震える瑞樹。じっと見続ける僕に、瑞樹は何を感じただろう。恥ずかしさで、今にも逃げ出したい気持ちだっただろうか。ぎょろり、と瑞樹の目が上を向いて僕と目があった。その瞬間、ぼろり、と大粒の涙が、瑞樹の瞳から流れ落ちた。ぼろり、ぼろり、とめどなく流れ落ちる瑞樹の涙に、僕はたまらない悲しみと、愛しさを感じた。
「瑞樹、大丈夫だ。変わらない。大好きだ。僕は瑞樹が、大好きだ。」
耐え切れない愛しさに、僕は思わず両手で挟んだ瑞樹の顔を引き寄せ、その薄く青白い唇に、僕の唇を重ねていた。冷たい、氷にキスをするような、冷たい唇だった。
ぼろり、ぼろり、と大粒の涙をこぼした瑞樹は、うう、とくぐもった嗚咽をもらし、その瞬間に、

ばしゃっ

水飛沫となって、消えていた。僕の唇には冷たい水の感触だけが残っていた。両手にも水がかかり、形を保っていたパジャマは、その形のまま、べしゃっ、とベッドの上に落ちた。
やはり僕は、瑞樹を傷つけてしまったのか。伝わったはずだと言う思いと、傷つけてしまったという後悔が、交互に僕の心を廻っていた。


それから数日間、瑞樹はまた現れなくなった。前の時もそうだった。何か大きな衝撃を与えた後、瑞樹は僕の前から消える。前は現れたが、今回の衝撃はそれを凌駕するほどに大きかった。そのことが、僕に後悔とともに大きくのしかかっていた。どんな顔であろうとも、どんな姿であろうとも、僕は瑞樹を愛している。それは間違いない真実だ。そのことが伝わっていさえすれば、瑞樹は必ず僕のもとにまた来てくれる。僕は毎日必死でそう心に叫び続けた。
一週間がたち、二週間がたち、次第に僕の心は憔悴し始めていった。僕は瑞樹に取り返しのつかないことをしてしまったのかもしれない。後悔は後悔を呼び、負の連鎖に僕は羽交い絞めにされ続けた。季節は春の香りを漂わせ、陽の光も温かくなってきているというのに、僕の心は寒空のようだった。瑞樹は、もう僕の元には現れてくれないのだろうか。以前に陥った孤独の、さらに数倍の孤独感が僕を押しつぶした。洗ったパジャマとバスタオルは、綺麗にたたんだまま浴室にある。僕は風呂に入るたびにそれをぼんやりと眺め、そしてため息をついた。孤独だ。またやってきた。僕を苛む孤独。自業自得だろう、そう僕は自分に言っては太ももを殴りつけ、酒を呑んだ。小さく口の中で、瑞樹、とつぶやきながら泥のように眠り込む。頭痛のする頭を抱えて、風呂に入り、ため息をついてまた自分に悪態をつく。満足に食事も取らず、また僕は痩せ細っていった。このまま死ぬとしたら、それは僕自身のせいだ。想いは必ず伝わったはずだと、そう思う気持ちが時々頭をもたげては、自虐の念に押しつぶされる。そんな日々の繰り返しに、僕は完全に参ってしまっていた。これも取り殺されたと言っていいのかな。いや、自業自得さ。もう、僕は自分で自分を助ける術を完全に失っていた。

瑞樹が姿を現さなくなってから三週間目、桜も散ろうかと言う暖かい日、僕はやっと自虐の念から解放された。
何も食べず、風呂にだけ入った後、僕はいつものようにベッドに座り込んでいた。今日も十時が近づく。毎晩、このあたりの時間になると耳をそばだてるようにテレビも消し、静かにベッドに座り込んでいる。そんな日々がもう二十日も続いていた僕は、もう半ばあきらめを感じ始めていた。プツンとテレビをつける。下らないバラエティー番組が今始まったばかりのようだ。僕はチャンネルを回す。ドラマ、バラエティー、ドキュメンタリー、バラエティー・・・、見たいチャンネルがあるわけではない。ただ気分を紛らわす何かが欲しかっただけだ。温泉なんとか刑事とかいうドラマが放送されていた。温泉めぐりのシーンらしい。ちゃぽん、ちゃぽんとテレビの中で音がする。僕は死んだような目で、そのドラマを眺めていた。ちゃぽん、ちゃぽん、平和そうな笑い声、ちゃぽん、ちゃぽん。ぼくの頭の中に、水音がこだました。ちゃぽん、ちゃぽん、ちゃぽん、

ちゃぽん

ぼうっと僕はテレビの画面を見た。刑事がパトカーに乗っている。水音はしない。

ちゃぽん

僕は、がばっ!とベッドから跳ね起きた。転がり落ちるようにベッドから降りて、這いずるように浴室の方に近寄った。

ちゃぽん

「瑞樹―!」
思わず僕は叫んでいた。水音が止んだ。
「瑞樹―!いるのか、瑞樹!」
僕は祈るように拳を組み合わせ、力の限り握り締めた。今にも涙があふれそうだった。いてくれ。そして、来てくれ。僕のもとに!

ちゃぽん  ざー

僕は拳を高く振り上げた。瑞樹が帰ってきた。そうに違いない。それ以外に考えられない!僕の愛する瑞樹。謝らなくちゃ。瑞樹、ごめんって、謝らなくちゃ。僕は浴室の前の廊下に仁王立ちになっていた。出てくる、出てきたらすぐに、出てきたらすぐに、謝らなくちゃ。そして愛してるって、言わなくちゃ。ぼくの頭の中に色んなものが渦巻いた。息を荒げて、拳を握り締め、僕は待ち続けた。

がた  がた   がた

浴室の扉が開いた。中からは黄色いパジャマを着た、僕の愛する幽霊が、立っていた。僕は何を言ったらいいか、完全に混乱していた。瑞樹、ごめん、愛してる、好きだ、ありがとう、ごめん、愛してる、瑞樹、ごめん…。あうあう、としか口が動かなかった。涙が自然とあふれてきた。仁王立ちのまま僕は、あうあうと呻きながら泣いていた。

ぺちゃっ

瑞樹は、頭をうなだれたまま少しずつ、歩み寄ってきた。
「瑞樹、ごめん・・・」
かろうじて、それだけ口にした僕は、その後を続けることが出来なかった。瑞樹はゆっくりと歩み寄り、僕の目の前に立った。ただひたすら呻きながら何かをつぶやこうとする僕の前で、瑞樹はゆっくりと頭を上げた。そして自分で前髪を少し下のほうから掻き分け、ぐっとあごを突き出した。少し猫背気味だったその体を精一杯伸ばして、瑞樹はまだ呻くことしかできない僕の唇に、その冷たい唇を重ねた。そしてその両手を下から僕の背中に添えた。ひんやりと冷たい手だったが、僕は思わず瑞樹の体を抱き寄せていた。瑞樹の左手首から滴る鮮血が、僕の右肩の下あたりに染みてくるのがわかった。べちゃりと濡れた感覚を残して、わき腹へと滴っていく血を僕は嬉しくさえ感じた。僕は瑞樹を強く抱きしめ、冷たくて熱いキスを交わした。

ごめんね

ごめんよ

二人ともが、心の中でお互いに謝っているのが、僕にも瑞樹にも聞こえていたに違いない。声にならない声で、二人は、謝り、慰めあい、そして、愛し合っていた。

僕たちの愛が、戻ってきた。


「光芒」

僕の、僕たちの、日常が帰ってきた。僕は幸せだった。昼はパジャマを洗い、夜はベッドで語り合う。その繰り返しだけで、僕はもう幸福そのものだった。誰にも邪魔されない、僕たちだけの時間。誰にも理解されない、誰に理解してもらわなくても構わない、僕たちだけの密会。
冬物のパジャマが少し暑さを感じさせ始めた頃、僕はまた新しいパジャマを買った。少し薄手の淡い若草色のパジャマだった。前に買ったブルーのパジャマを気にいっていた瑞樹に、気にいってもらえるか少し不安ではあったが、それは杞憂だった。瑞樹は、新しいパジャマを嬉しそうに身にまとい、手を広げて僕に見せてくれた。それはまるで普通に生きている女の子が見せる仕草そのものだった。瑞樹は日に日に、そういったやわらかい仕草が出来るようになっていた。
温かいココアも、徐々に似合わなくなってきた季節、僕たちはココアを飲むよりも、キスをする回数の方が増えてきた。どちらが求めると言うこともなく、自然に顔が近づく。僕はキスの時に唇の間に瑞樹の濡れた髪の毛が挟まっても気にならなかった。それよりもいちいち髪をかきわけて、彼女の顔を大きく見せない方がいいと思った。どんなに僕が受け入れたからと言っても、瑞樹のコンプレックスであることに変わりはないと思ったからである。そんな僕の気遣いとは裏腹に、瑞樹は髪を鼻の辺りまで掻き分けて僕とキスをした。「もう、きにしないわ」とでも言いたげな、満足そうな顔で。僕たちは、お互いの弱さや醜さを認め合ったのである。
キスの途中、僕が瑞樹の左腕を掴んだ手を少しずつ滑らせて、彼女の胸元に近づけたとき、瑞樹は左手の鮮血を飛び散らせながら、僕の右手をピシッとはたいた。
「痛ぇ、そりゃないよー。」
そういって僕が照れ笑いをすると、瑞樹の青白い唇からクスクスッという笑い声が漏れた。あんなに低く、暗かった声も、何故か今は心なしか明るく聞こえる。多分、他人から見れば何一つ変わってはいないのだろうが、僕たちの間で認識できればそれでいいのだ。僕と瑞樹にさえわかれば、それで何の問題もない。

四月も終わりに近づき、夜ですらときどき蒸し暑さを感じる初夏一歩手前のある日、瑞樹は妙に淋しそうなたたずまいで僕の横に座っていた。それが何故なのか、僕には分からなかった。
「瑞樹、どうかした?」
心配して聞く僕に、瑞樹はふるふると首を横に振った。
でも、そんな瑞樹の淋しそうな空気は、日を追うごとにその度合いを増していった。何か変化が起こっている。僕は瑞樹をじっと見つめた。小さな変化も見逃さないように。じっと、じっと見つめた。自分をじろじろと見つめまわる僕を瑞樹は少し嫌がった。「なにもないよ」そういわんばかりに両手を後ろに隠し、肩をすくめて見せた。僕は「気のせいかな」といった風に両手を広げて、ふうと息をついた。
それでも瑞樹の「淋しい空気」は消えなかった。時々、また無言でうつむいたまま何の反応もしない時もあった。
「どうしたんだ?瑞樹、なにかあったんじゃないの?」
はっと気付いたように、顔を上げた瑞樹は、「なんでもないよ」といった風に、両手を前でひらひらと振って、膝に置いた。その左手首を見た瞬間、僕ははっとした。瑞樹のパックリと割れた左手首、鮮血の滴る左手首が何か違う。その違和感が、何か気付くのに僕は少しの時間を要した。鮮血が減っている。逆に膿のような液体が滲んでいる。知識のない僕には、それが腐敗だと気付くことはできなかった。
「どうしたんだ?その手首?」
僕が聞くと、瑞樹は慌てて左手を後ろに隠した。
「なにかなっているんじゃないの?手首。変な色になってるような気がする。」
瑞樹はそれを聞くと、うなだれて無言になった。瑞樹は幽霊だ。だから何も変わらないと思っていた。身体的変化が起こるのは、生身の人間だけで、瑞樹の体に変化が起こるなんてことは考えもしなかった。しかし、よく考えてみると瑞樹には物質的側面がある。なんといっても僕が触ることが出来るのだ。パジャマだって着れる。そこに何か変化が起こらないとは限らないのだ。だからといって病院にいけるわけもない。もしも瑞樹になにか致命的(?)な変化が起こったとしても、僕には何もできない。
「瑞樹、どうしたんだ。何かあるんだろ?話してくれよ。」
その質問に瑞樹は答えないまま、なんだか淋しそうに消えていった。

同じようなやりとりを、それから数日続けた頃、僕は部屋に何か異臭が漂っていることに気付いた。それが瑞樹の左手首から発せられていることに気付いたのは、さらにそれから数日たってからである。腐敗だ。ぼくはやっと気付いた。

「瑞樹、その手首、腐敗し始めているんじゃないか?」
僕は単刀直入に聞いてみた。瑞樹は、少し黙ってうつむいた後、顔を上げた。意を決したように、瑞樹は低い声でぼそぼそと言った。

じ  か  ん  が  な  い  の  ・・・

「時間がない?誰の、何の時間がないんだ?」
僕は悪寒のような嫌な気配を感じて、冷や汗を滲ませた。瑞樹は何を言おうとしているんだ?時間がない?誰の?瑞樹の?

じ  さ  つ  ・・・

   ぢ  ご  く  ・・・

     も  う  い  か  な  い  と  ・・・

「どういうことだよ?自殺?地獄?行かなきゃいけないって、地獄に?わからないよ!地獄って?」

じ  さ  つ  ・・・

   さ  よ  う  な  ら  ・・・

「わかんないよ!自殺?自殺した人は地獄に行くって事?そんな、瑞樹はどこにも行かせない!一緒にいるんだ!僕と!だろ?いてくれるんだろ?」僕は早口でまくし立てた。ゾクゾクと背筋の冷たいものが走り、悪寒で震えが来た。いやだ、瑞樹を失いたくない。そんなこと許せない。
「行かせない!瑞樹、僕は君を離さない!」
そう叫んで僕はがばっと瑞樹を抱きしめ、ベッドに倒れこんだ。瑞樹は驚いたようにしていたが、反応はしなかった。僕は瑞樹をきつく抱きしめた。瑞樹は少しの間、抱かれるままにじっとしていたが、急にその白く濁った目から大粒の涙をこぼした。ぽろり、ぽろり、とこぼれる涙を、瑞樹はとめることが出来ないようだった。僕はさらに強く瑞樹を抱きしめ、その冷たい首筋に顔をうずめた。それまで動かすことのなかった手を、瑞樹はぐっと持ち上げて、僕の背中を抱きしめた。二人は強く強く抱きあった。仰向けになった瑞樹は髪が左右に広がって、その顔をあらわにしていた。どす黒い顔の上を涙が流れる。瑞樹は、うう…とくぐもったうめきを上げた。涙を抑えようとする小さな抵抗だった。僕は、そんな瑞樹の顔を正面に見据え、その薄い唇に口づけをした。僕は瑞樹の冷たい唇を貪るように吸い、舌を割り入れた。湿った冷たい舌が僕の熱い舌と絡まりあった。僕は夢中でそれを求めた。そこには、わずかに死臭がした…
僕は気にもとめず瑞樹の唇を、舌を貪った。僕は唇を離し、わずかに下にずらしていった。瑞樹のあごから首筋を優しく吸った。瑞樹は僕の背中をさらに強く抱きしめた。瑞樹の首筋は冷たくそして白かった。流れない血管が浮き出ているようにさえ見えた。ぼくは左右に顔をずらし、瑞樹のその首筋の全てを征服した。ひとしきり吸い尽くした後、僕は抱きしめる手を少し緩め、体を持ち上げた。瑞樹の白い目と僕の目があった。小さく頷くように瑞樹は少し下を向いた。視線を僕の体に移し、またぽろりと大粒の涙を流した。

僕は左手で瑞樹の肩を押さえ、右手でパジャマのボタンを外し始めた。瑞樹は抵抗しなかった。縦につながる全てのボタンを外し終わった時、瑞樹は少し恥ずかしそうに左を向いた。僕は、瑞樹のパジャマの前をはだけた。震える右手で彼女の少し痩せた、それでも十分にふくらんだ乳房を優しくなでた。つめたいマシュマロをさわるような感覚だった。僕は、その先端に唇を近づけ、軽くキスをした。冷たいアイスキャンデーのような小さな丸い粒を、僕は舌の中で転がしながら、左手でもう片方の先端を優しくつまんだ。瑞樹はぴくりと一瞬反応したが、そのあと小さく息を吐いて、少し震えた。僕の背中に回された瑞樹の手にわずかに力がこもった。僕はそのふくらみを十分に愛しつくした後、再び瑞樹の唇に僕の唇を重ねた。瑞樹はきゅうときつく僕を抱きしめ、またぽろりと泣いた。

僕は自分のパジャマを脱ぎ捨てて、瑞樹の胸に自分の裸の胸を押し当てた。ひんやりと冷たい。やわらかい人形を抱いているかのように冷たい感触を味わいながら、僕は瑞樹のパジャマのズボンを下に押し下げた。瑞樹は一瞬抵抗するようにパジャマを掴んだが、ゆっくりとその手を離し、あとは僕の行為に身をゆだねていた。僕は瑞樹の唇を吸いながら、彼女の足の間に腰を割り入れた。僕は、瑞樹を安心させるようにぎゅっと強く抱きしめ、唇を合わせた。瑞樹は少し震えていたが、ゆっくりと体の力を抜き、受け入れる決意をしたように見えた。僕は唇から乳房、乳首を吸い、また唇に戻して、腰に力を込めた。冷たい感覚が僕の下半身を突き抜けた。包み込まれるようなやわらかい冷たさを僕は大きく息を吸って受け止めた。そのままゆっくり優しく押し進めた。瑞樹は、少し歯を食いしばるようにしながら、その感覚に耐えていた。僕はそのまま押し進め、全てを瑞樹の中に埋め尽くしたとき、瑞樹ははぁっ、と大きく息を吐いた。また少し死臭がした気がした。
僕は瑞樹と一つになっていた。限りなく瑞樹が愛しかった。瑞樹の首筋に顔をうずめながら、僕は瑞樹を強く強く抱きしめた。瑞樹も僕を強く強く抱きしめた。二人の感覚が一つになる。ぎゅうと抱きしめ合ったその僕の背中に、鮮血と膿の混じった液体がたらりと流れた。瑞樹が僕を抱きしめるたびに、左手首から染み出るものが、僕の背中を濡らした。もはや今の僕にはそれすら快感に思えていた。
ぐっと腰を突き出して瑞樹を感じる。瑞樹はわずかに口を開いて喘ぐような息をしている。僕はそのまま瑞樹を感じ続けていた。瑞樹はずっと僕を受け入れ続けていた。二人の体と心は一つだった。僕は、
「瑞樹、瑞樹、愛しているよ。瑞樹。」
そうつぶやきながら、何度も押し入れた。瑞樹は、「わたしもよ」といわんばかりに、僕の背中を強く抱きしめ、軽く爪を立てた。僕はこみあげる絶頂の予感を感じて瑞樹に目で合図を送った。白く濁った目で瑞樹はそれに応えた。またぽろりと涙がこぼれた。
「瑞樹!僕の大好きな瑞樹!」
そう叫んで僕は大きく強く瑞樹の中に腰を突き入れた。僕は絶頂に達していた。同時に瑞樹もガクガクと震え、ぎゅうと引き絞るように足を閉じた。背中に鮮血を縫い込むように爪が刺さった。
大きく息を吸って、吐いた後、僕は瑞樹の体に自分の体を預けた。瑞樹は、にこりと、心から嬉しそうな笑みをたたえた後、はぁと大きく息を吐いた。

その瞬間だった。僕の体の下の瑞樹が、ふわりと弾力を持ち、そのままするりと僕の下から抜け出るように、すぅと上に抜けていった様な感覚がした。妙にまぶしい気がして下を見たが、そこに瑞樹の体はなかった。僕は顔を上げた。そこには、きらきらと金色に光り輝く瑞樹の姿があった。瑞樹はその美しい裸体のまま、黄金色の光を発していた。僕は四つんばいになって、顔を上に見上げた。ぺたりと座り込む僕の方を向いて、黄金色の瑞樹が微笑んだ。その顔は、腫れたまぶたもなく、瞳は黒々と光り、黒ずんだ肌もいつのまにか黄金色に輝いていた。瑞樹は、そう、例えれば観音様のようなアルカイックな微笑をたたえ、僕を見下ろしていた。

「瑞樹、瑞樹!」
僕は、すうと頭によぎった予感を必死で打ち消した。
「瑞樹!行かないでくれ!瑞樹!」
瑞樹は、少しだけ眉を寄せて哀しそうな顔をしたが、またもとの微笑みに戻った。

 ありがとう

僕の心の中に、澄んだ声が響いた。地の底から沸きあがるような声ではない、これが瑞樹の本当の声なのか僕は漫然と思っていた。心に響くその声に、僕はいつの間にか涙をこぼしていた。僕は力ない声で呼び続けていた。
「瑞樹、瑞樹…」
黄金色の瑞樹は、その微笑のまま僕を見下ろしていた。また僕の心の中に澄んだ声が響いた。

ありがとう
  愛してくれて

その声が響いた直後、黄金色の瑞樹は、その足元から金の粉になってちりぢりと砕け始めていた。砕けた金粉は、小さく舞い上がって宙に消えた。足元から膝、太もも、腰へと砕け始め金粉は宙に消えていった。
「待ってくれ!瑞樹!行かないでくれ!僕を一人にしないでくれ!瑞樹!」
すでに下半身が宙に消えた黄金色の瑞樹は、僕の心に囁いた。

ありがとう
  もう、あなたはひとりではないわ
    わたしがいつも みているから
       愛してくれて
          ありがとう

僕は、ボロボロと泣きながら金粉に変わっていく瑞樹を見送るしかなかった。その消えていく左手首に、もうあのパックリと割れたキズはなかった。腕が、胸が、散り散りに消えていく。最後に顔が散る時、瑞樹は精一杯の微笑を見せてくれた。
それは本当に精一杯の微笑だった。それは永遠に僕の心に焼きついた。
あの微笑がなかったら、僕は今生きていないだろう。

瑞樹は、そうやって光芒の彼方に消えた。


「微笑」

瑞樹が消えてしまった後も、僕は呆然とベッドに座り込んでいた。喪失した悲しみと、何か永遠の宝石を得たような満足感が交互に襲ってくる。はじめは悲しみのほうが大きかったが、最後の瑞樹の微笑を思い出すごとに、その悲しみは薄らいでいった。
瑞樹が消えてしまった暗い部屋。僕は、やっと我に返り、部屋の電気をつけた。いつのまに消えていたんだろう?僕は、そう思いながらベッドに目を落とした。そこにはいつものように湿ったベッドとびしょ濡れのパジャマが落ちているはずだった。しかし、今日は違った。ベッドは乾いている。パジャマも、少しくちゃくちゃにはなっているが、ほぼ瑞樹の体の形のままにそこにあった。全く濡れてはいなかった。
僕は不思議に思いながらパジャマを丸めようとして、ふと今までと異なる点に気がついた。そこには、どこを探しても僕の精液が残っていなかった。



ピンポーン

あれから一週間後、僕は、とあるマンションの一室を訪ねていた。着慣れないスーツ姿で、マンションのドアにある呼び鈴をゆっくりと一回だけ鳴らした。
しばらくすると、インターフォンからノイズとともに年配の女性の声が聞こえた。
「はい、どちら様?」
僕は咳払いをして応えた。
「こちら、京本さんのお宅ですよね。僕、国分といいます。」
少し時間を置いて、インターフォンから女性の声がまた聞こえた。
「ちょっと待ってくださいね。今、開けます。」
しばらく待っていると、ガチャリとドアの鍵が開けられる音がした。ゆっくりと開いたドアの間から、品の良さそうな年配の女性の顔がのぞいた。
「すみません、突然。こちら京本瑞樹さんのお宅ですよね。僕、国分良人といいます。失礼ですが…」
といいかけた時、年配の女性は僕の言葉をさえぎった。
「あの、、、すみません。瑞樹はいないんです。」
「存じています。亡くなられたんですよね。すみません、突然に失礼な訪問をして。それで、もし出来たら、ご霊前に手を合わせさせていただければと思いまして、お寄りした次第なんです。」
年配の女性は、少しだけ驚いたような表情を見せたが、僕を疑うこともなく、すんなりと中に招き入れた。僕は、どうやって自分の誠意を説明しようかと一生懸命考えて、意を決してここに来たのだが、こうもすんなり通されるとは拍子抜けした。

僕は、居間の奥にある仏壇の前に通された。そこには来客用のテーブルがあり、座布団が敷かれていた。
「どうぞ、お座りになってください。」
年配の女性は、冷たい麦茶を手に、僕に座るよう勧めた。
「恐縮です。」そういって、座布団を横にずらし、僕は畳の上に正座した。年配の女性は僕に麦茶を差し出しながら、ぽつりと言った。
「瑞樹の母です。」
僕は軽く一礼をした。女性は、そのまま続けた。
「国分良人さん、とおっしゃいましたね。確かに、国分良人 さん、なんですね。」
女性は念を押すように僕に聞いた。僕は少々いぶかしがりながらも、表情は変えず、答えた。
「はい、そうです。国分良人です。」
それを聞いて、女性はしばらく何かを考えているようだったが、突然、ずり、と一間後ろに下がって、僕に深々と頭を下げた。
「国分さん、本当にありがとうございます。」
僕はうろたえた。
「ちょ、ちょっと待ってください。僕はあなたに頭を下げられるようなことをした覚えがありません。頭をあげてください。」
女性は全く頭を上げる様子がなかった。
「いいえ、お礼を言わせてください。瑞樹が、瑞樹がそう言っていたんです。」
僕は何がなんだか分からなかったが、瑞樹の名前が出たことで、その話をもっと詳しく聞きたくなった。
「瑞樹さんが?瑞樹さんが、どうしたんですか?もう、亡くなっていますよね。」

女性は、頭をあげて、ゆっくりと説明を始めた。
つい一週間ほど前のことだったらしい。彼女は夢を見たと言うのだ。
「夢の中でね、瑞樹が、瑞樹が現れたんです。瑞樹は、私の前をふわりふわりと漂うように飛んでいました。確か見覚えのない、若草色のパジャマを着ていたと思います。その瑞樹が、私に向かっていったんです。「お母さん、先立ってしまったこと、ごめんなさい。本当に親不孝な子どもでした。今はとっても後悔してるよ。でも仕方ないよね。ごめんね、お母さん。でもね、私、今すごく幸せなの。こんなこと言うのも変だけど、本当に今すごく幸せなの。私、自殺しちゃったからもう救われないはずだったの。でもね、ある人がそれを救ってくれたの。ねぇ、お母さん。多分ね、この家に近いうちに国分良人って人が現れると思うわ。その人は、手を合わせたいってくると思うの。そういう人だから。もしもその人が来たら、私の代わりにお礼を言っておいて欲しいの。私を救ってくれた人。今、幸せなのもその人のおかげ。だから、お願いね。ちゃんと仏間まで通してあげて、お礼を言って。ありがとうって瑞樹が言ってたって。あぁ、幸せだわ、私。ごめんね、お母さんを残して勝手にいなくなっておいてこんなことを言うのもよくないと思うんだけど、でも安心して欲しくて。お母さん、私は幸せです。もしかしたら赤ちゃんも産まれるかもしれないの。ヘンかもしれないけど、本当よ。だから、安心して。お母さん、ごめんなさい、そしてありがとう。じゃ、私行くね。」そう言って、瑞樹はふわふわと光の中に消えていきました。とてもはっきりとした夢だったので、いつまでも覚えていました。そこに国分さん、あなたが現れたんです。私、変かもしれないんですけど、あの夢は本当だったんだと思うんです。だから、瑞樹を、瑞樹を幸せにしてくださったあなたにお礼が言いたくて。」
そういった後、女性は少し涙ぐんで鼻をすすった。
「ありがとうございました」
女性はまた深々と頭を下げた。
「あ、頭をあげてください。僕は、、、僕はなにも大したことはしていません。ただ、もしその夢が本当だとしたら、、、僕もとても、嬉しいです。」
僕は女性に向かってニッコリと微笑んだ。

仏壇に向き直って、僕は線香を立て、手を合わせた。

そこに飾ってある遺影写真には、あの消え入る直前に見せた笑顔そのままの、さわやかな微笑をたたえた、二十歳の瑞樹が写っていた。

(完)

浴室の彼女

前書きにも書きましたが、初めての投稿で、あとがきなんてかける身分じゃ、到底ございません。
読んでいただけた方、本当にありがとうございました。
思いついたままを、ただただ書き綴った拙い作品です。さぞ、読みづらく、また未熟な部分も山積だったことでしょう。
が、自分以外の方に読んでいただいただけで、気持ちとしては光栄です。
国分良人は、臆病な、地味な、卑屈な、弱い、そこらにいるような僕みたいな存在です。
ですが、つらい思いをたくさんしてきた分、人の立場に立って考えることに関しては人並み以上に心遣える青年です。
どうか、良人の勇気に少しだけでも賞賛を送ってあげてください。
僕にもそんな勇気があればと、思いながら書いた作品です。
ありがとうございました。

浴室の彼女

地味で、善良な小市民、大学に通う国分良人は、いつものように一人暮らしの小さな風呂に入っていた。 薄暗い明かりの中、流れる排水口をじっと見ていた良人は、そこに奇妙な違和感を感じた。 浴室で発見された、長い女の髪の毛から始まる、小さな部屋の、小さな物語。 薄暗い部屋で繰り広げられる、奇妙な関係を描くホラーファンタジーです。

  • 小説
  • 中編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-05-05

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