金魚のうろこ
目を覚ましたら知らない女の子がいた。
知らない女の子は、ベッドに寝ているわたしを覗きこむようにして立っていた。
窓の外が白んでいる。朝だった。昨夜、きちんと閉めたはずのノルディック柄のカーテンが、何故か開いていた。
この子は窓から入ってきたのだろうか。わたしの部屋は二階であるが、二階くらいならばベランダを伝って上れるかもしれないと思った。女の子は細くて、身軽そうだった。背丈から小学五、六年生と思われるが、幼さはまるで感じられなかった。現代の小学生の女の子はお化粧だの、携帯電話だのと大人びているので、彼女もそうなのかもしれないとひとり納得していた。わたしはなんせ、起き上がることが億劫なのだった。
昨日の朝、ひとり暮らしを始めた三年前から飼っていた金魚が死んだ。
嗚咽するまで泣いたのは小学生以来だった。まぶたは腫れぼったくて熱いし、指一本動かすのもけだるい。でも、お腹は空いている。ほんとうは目玉焼きを焼くのも面倒だけれど、一昨日買った食パンにのせて食べたかった。ハムの買い置きがあったかどうか、冷蔵庫の中身を思い出すのは早々に放棄した。見ず知らずの女の子がベッドの脇から覗きこんでいるにもかかわらず、わたしは酷く冷静だった。
女の子は、わたしとばっちり目が合っているというのに、なんら悪びれる様子はない。むしろ、ここにいて当たり前のような面持ちに見える。そういえば女の子は、さっきから一度もまばたきをしていない。黒い大きな瞳を、彼女はしている。ガラス玉のようだ。実は「見ず知らず」という表現に違和感を覚えていた。わたしは女の子のことを知っているような気がする。
女の子から視線をそらし、天井を見た。これといって特徴のない、ただの白い天井である。女の子の姿が横目にちらちら映るので、目を閉じた。視覚を遮った分、嗅覚と聴覚が鋭くなる。水の音が聞こえる。ぴちゃ、ぴちゃ、と水滴が床に落ち、弾かれる光景がまぶたの裏に見える。においもするのだが、どことなく生臭い。水道水やミネラルウォーターでは嗅いだことのないそれは、掃除の際に捨てる金魚の餌や糞や水草のカスで汚れた金魚鉢の水のにおいに似ている。
音もにおいもこの部屋の、ごく近いところで発生していた。
女の子からだ。
見ず知らずのはずだが、知っているような気がする女の子は、昨日の朝に死んだ、あの金魚なのではないか。
わたしは思わず笑ってしまった。
そんな夢みたいな話、あるわけがない。でも彼女に近しい女の子が、親戚や知り合いにはいない。
水の滴る音に、わたしの耳は支配されたようだった。わたし自身の鼓動も、彼女の息遣いも、車のエンジン音も、誰かの話し声も、どこかの家の生活音も、まったく聞こえない。
あの金魚なの、キミは。
金魚のときは性別など気にしたこともなかった。三年前、縁日で気まぐれにやった金魚すくいで捕まえた一匹だ。三年も生きるとは思わなかった。仲間を増やしてやらなかった。三年のあいだに金魚は一度、引っ越しを経験した。金魚鉢は、実家の倉庫から発掘したものだから年季が入っている。
ふと、からだに一瞬、なにかが乗っかった重みを感じた。まばたきをするくらいの一瞬だった。
けれど一瞬のあいだに、女の子からの視線を感じなくなった。わたしはおそるおそる目を開けた。
女の子は、いた。
わたしのちょうど、へその上あたりに立っていた。窓の方を見ていた。
先ほどは気づかなかったが、女の子は裸だった。
胸の膨らみはないが、腹も出ていなければ、おしりも真っ平で、洋服らしきものを着ていなかった。けれど、いやらしさは微塵もなかった。寸胴だからだろうか。というより、肌色ではないからだろうか。女の子のからだは、白く光っていたのだ。全身タイツを着ているようだった。膝から下だけが赤と白の斑模様をしているのは、金魚だった頃の名残かもしれないと思った。飼っていた金魚も、赤と白の斑模様だった。
唐突に新説が思い浮かぶ。
もしかしたら彼女は、金魚に擬態した宇宙人なのではないだろうか。
そう、あくまで仮定であるし、果てしなく空想的だが、彼女は地球征服を目論みやってきた宇宙人で、金魚に変身し飼われることで人間の住処に侵入したものの、慣れない環境に思いのほかエネルギーを消耗し、擬態を続けるのが困難になった。それで死んだふりをして、わたしの元を去り母星に帰ろうとしたのではないだろか。どうだ、ありえない話ではないだろう。死んだ金魚が人型に生まれ変わった説よりも、実は金魚の正体は宇宙人だった説の方が納得もいく。世に跋扈する様々な超常現象に対し、幽霊は信じていないが宇宙人はいてもおかしくはないというのが、わたしの持論である。
彼女の髪は長かった。毛先がかかとのあたりまで到達している。
そのうちに窓が開いた。
女の子が開けたのではない。もちろんわたしでも。窓は、勝手に開いたのだ。
女の子はしばらく突っ立っていた。女の子はもう、わたしをちらりとも見ようとはしなかったが、わたしは彼女の横顔を執拗に眺めていた。死んだ金魚の顔を思い出そうとしたが、頭に浮かぶ金魚の顔がほんとうに三年間、わたしが飼っていた金魚の顔かどうか、判然としなかった。
ノルディック柄のカーテンが風に煽られ、フレアスカートのように膨らんだ。
「あんな男やめておきなさいよ、あなた」
という声が女の子のものだと、すぐには気づかなかった。見た目に相応しくない声色だった。その口ぶりは、酸いも甘いも噛み分けてきた大人のものだった。
風が吹いたと同時に、女の子は消えた。
吸いこまれるようにしゅるりと消えた。
消えて、やっぱりあの子はあの金魚だったのだと思った。結局、死んで一時だけ人型になったのか、そもそも宇宙人だったのかはわからずじまいだが、今となってはどちらでもかまわない。
だって、一ヶ月前からつき合い始めた彼氏の金遣いが荒いことで悩んでいるのを、わたしは友だちにも家族にも誰にも話していないもの。彼との電話の内容を知っているのは、わたしの部屋にずっといたあの子だけ。三年間、わたしと共存してきたあの金魚だけ。
わたしはベッドから飛び起きた。さっきまで起き上がるのも億劫だったのに、急にからだが軽くなったのだ。
すぐに埋めようと思ったのに埋められなかった金魚の死骸を、ティッシュで何重にも包んでベランダに置いておいた。わたしはベランダに出て、おぼつかない指先でティッシュを開いた。
金魚は、いなかった。
ティッシュについた金魚のうろこだけが、太陽の光を浴びて瞬いた。
わたしはもう一度泣いてから目玉焼きを焼いて、食パンに乗せて食べようと思った。それから、あの男に別れを告げようと決めた。
金魚のうろこ