本音を暴かないで 4

黒井 鳩

 家についたとき、五時過ぎになっていたが外は明るかった。
 制服は汗がしみこんでいて気持ちが悪い。服が肌に張り付いている。とりあえずシャワーを浴びることにした。それから夕食の買い物に行けばいい。
 軽く全身を洗い流したあと、よく水気を拭き取り、用意していた下着を着用してからリビングに入った。ベランダ付近に干してある白い半袖と、緩い短パンを手にとって、履く。
 そのとき不意に、里山の言ったことが呼び起こされた。そう、写真のことだ。父が写っているというそれ。忙しくてまだ探せていなかった。
 探し始めて、それはすぐに見つかった。今まで気がつかなかったのが不思議なくらい、いとも簡単に見つかってしまった。
 私は、テレビの横に伏せられている写真を起こした。父と母の写真だった。それは結婚当初のもので、両親とも若々しい。母の艶やかな黒い髪と、皺の無い整った顔立ち。父の白髪の無い頭と穏やかな表情。見たことのない、幸せそうな表情の両親だ。特に、父がこんな顔で微笑むことができるとは知らなかった。記憶に残る父親は、兄を虐げ、私にきつく接している姿だけだった。
 その写真を見て、私の胸に温かく穏やかな感情が広がった。私のいない生まれていない頃に行けたならば、今とは違う感情で父を見られたかもしれない、と思った。
 しかしなぜ、写真の存在に今まで気づかなかったのだろう。生まれてからずっとこの家に住んでいたにも関わらず、一度だって見たことがない。最近テレビを見ていなかったからわからなかったのか? いいや、理由はそれだけではないように思えた。第一、肝心の写真が見えないように倒されているから気づかなかったわけで。なにより、子供の頃、ここには写真なんて置かれていなかった。何も、なかったはずなのだ。
 そこまで考えて、私の頭の中は疑問符でいっぱいになった。
(誰が、ここに置いた?)
 そんなの、一人しかない。しかし、なんのために? いつ? なぜ伏せられているのか。
 もう一度その写真を見る。両親とも綺麗な黒髪だ。私にはその遺伝子が強く受け継がれている。母方の祖父母は早くに亡くなったらしく写真でしか見たことがないが、若い頃はやはり綺麗な黒髪だったという。父方の祖父母もそうだ。うちの家系で茶色っぽい髪で、色素が薄いのは一人しかいない。昔から、日焼けすると肌がすぐに赤くなってしまうことをやけに気にしていた。髪が茶に近いのを嫌って、高校生になってからは黒く染めるようになった。そう、兄だ。
(まさか……兄さん?)
 嫌な胸騒ぎがした。この写真を兄は見たくないと思っていて、わざと倒していたとすると、私の推測が確信に変わるようで怖かった。しかしそうすると、写真を置いたのが兄ではないことになるのでは?
(嗚呼、妄想も大概にしないと――)
 その考えを頭から振り払った。そうでもしないと、兄と普通に接することが出来なくなりそうだった。私の家族は兄しかいない。その兄を傷つけることだけは、したくなかった。

 沈み行く夕日が赤橙色に輝き、家の中にいくつもの光の筋を作り出していた。それをぼんやりと眺めて、はっと現実に意識が引き戻された。買い物に行くことをすっかり忘れていたのだ。髪も乾かさずに放置していた。苛立って、頭を掻きむしった。
(しっかりしないと)

 翌日、私は懐かしい場所に来ていた。見渡す限りの田んぼと、遠くに見える山々が日の光のもとで生き生きと輝いている。風に自然の香りが乗せられて吹きつけると、夏の暑苦しさを消していくようだった。ここでは蝉の鳴き声さえ、空気に溶け込んで心地よく感じられる。
 縦横に続く田んぼ道の終着点には、古い中学校がある。山がそこを包むように遙か遠方まで広がっている。山々が日陰を作るので、その中学校は夏、少し涼しい。しかし虫が多く、鳥なども校舎内によく入ってきていた。やっかいなのは蜂で、窓の外に誘導するのに十分ほど時間がかかることもしばしばだった。向かって学校右手にある土手の上には桜の木が等間隔に植えられ、春には満開の花を咲かせていた。今はすっかり葉桜になっている。
 校門が見えると、私の心はざわついた。高校に入学してからは来ないようにしていた母校の姿は、あの頃と全く変わっていなかった。
 校舎から楽器の音、グラウンドからは笛の音が聞こえてきた。吹奏楽部と、笛の音は陸上部? それとも何か得点を入れた音? 私は想像した。
 しばらくその周辺を散歩する。
 母校を見たかったのには理由がある。祐介に感じていた気持ちを思いだして、高坂に対する感情とそれが一致するのか知りたいのだ。
 母が死んだ一年生の時に、私を励ましてくれた祐介。彼は小学校からの友人だった。私と父親との不仲をなぜか言い当て、相談に乗ってやると言い、いつも私について回ってきていた。鬱陶しいと感じていた。母が死んだときも、私を気遣って遠回しに接してくる友人たちとは違って、遠慮なく踏み込んで来たあいつ。普通なら触れてほしくない話題であるにも関わらず、彼に話したときに気持ちが楽になるのが分かった。そうして助けられていくうちに、私はいつの間にか祐介のことが好きになっていた。でも私は母を失って、以前のように明るく振る舞うことができなくなっていた。突発的に怒りが湧いたり悲しくなったり、とにかく情緒不安定で、自分を演じなければ日々を過ごせなかった。確かに祐介には助けられたが、私の絶望までは拭い切れなかったのだ。
 そして、私は一人になるために仲の良い友人が進学できないような難関高校を受験した。見事合格して明るい自分を演じなくてよくなったとき、心底嬉しかった。けれど入学してみると、以前と何も変わらない生活がそこにあった。自分を演じて偽りながら生きていくしか、高校に馴染める方法はなかった。最初は辛かった。でも今やっと、演技の私が本当の私になろうとしている。そんなときに高坂にあんな感情を抱くなんて、私にとっては怖かった。せっかくの私が崩れるのではないかと、不安に思ってもいる。
 どうしていいのか、わからなかった。気持ちを認めるのは簡単だ。でも、好きな相手に演技なんてできる自信がない。私の閉じこめている本音でしか、その感情には向き合えないのだ。祐介のときのように。
 道ばたに転がっている石を軽く蹴った。それは意外と勢いよく回転し、田んぼに落ちた。それに驚いた蛙が草を飛び越えて、歩道に飛び出した。私は何となく、その蛙を田んぼの方に返してやった。
「あ! もしかして、彩知?」
 突然頭上で声がした。柔らかく掠れたハスキーヴォイスに、私の記憶が刺激される。
 見上げると、記憶よりも少し背が伸びて、化粧がしっかり施された顔が私をのぞき込んでいた。目が合うと、彼女は瞳を輝かせた。
「やっぱりだ! 彩知! 久しぶりだね」
 中学の時の仲良しグループの一員、山中まなみだった。
 ゆっくりと立ち上がって、表情を緩める。あのときの私はどんな風に笑ってた? もう思い出せない。
「久しぶり! まなみ」

 まなみは、高校に入学してからこの付近に引っ越したらしい。なんでも、両親が離婚したとか。
「あたしはお母さんについて行く来満々でね、だけど収入とかの問題があって、お母さん一人しか育てられないってことで、幼い弟がお母さんとこに行っちゃった。あたしはお父さんと二人暮らしで……もう最悪で。引っ越すのだって嫌だったの。あ、でも、そのおかげで彩知と会えたから良しとするか!」
 まなみは陽気に話しているが、そのときは色々悩んだことだろう。苦しいこともあったはずだ。私も彼女のように話せていたら、何か変わったのかもしれない。
「じゃあまだ新しい生活には慣れてないの?」
「そんなことない、かも。高校でも友達できたし、お父さんもね、別に死ぬほど嫌いってわけでもないから。それにね、お母さんにも結構頻繁に会ってるの。もう慣れたよ」
「そっか」
 まなみはスカートの裾をはためかせ、暑そうに手で顔を扇いでいる。肌は綺麗な小麦色に焼けていた。
「彩知に言っておきたかったのよ」
「ん?」
 まなみは両手を天に伸ばして、深呼吸している。
「篠崎のこと、なんだけど」
 私は静かに頷いた。
「うん」
「あいつ、彩知の高校に近いところに進学したんだよ。彩知が行くところは偏差値高いし、倍率も凄いから無理だけど、近くにはいたいって言ってた」
 少しだけ嬉しい。誰かに想ってもらうのは心地良い。
「そんなストーカーみたいに一途だったのにさあ。篠崎、サッカー部に入って馬鹿みたいにモテまくって、今彼女がいるんだよねえ。一途なんだかそうじゃないんだかわかんないわ」
 私が小さく笑うと、まなみもつられたのか笑った。
「祐介、好きな子できたんだね」
「んーそれはどうかな。だって、高校生の恋愛だよ? 恋人がいるだけでステータス。恋人はストラップ感覚。飽きたら違うのと交換するだけ。好きかどうかなんて二の次よ。告白されたらとりあえずつき合って。エッチしたくなったらする。そんなものよ」
 彼女は昔からズバズバとものを言うタイプだった。そんな彼女が私は好き。
「そうかもね。じゃあ祐介は未だに――」
 ――私のことが好き? そんなわけない。私はあのとき本気で彼が好きだったけれど、今はどうかと聞かれると首を横に振れる。結局はその程度の想いだった。彼だってそうに決まっている。
「好きかもねえ、彩知のこと」
「どうかなあ」
「彩知はどうなのよ。篠崎のこと、あの頃と同じ気持ちで見れるの?」
「ノー、かな。だって、ずっと思い出すこともなかった。最近ふっと思い出したくらいで」
 まなみが歩き出したので、それについて私も歩いた。行き先は、学校近くの公園だろう。
「少しは思い出したんでしょ? どうして?」
「別の人に、あの頃と同じ感じがした。心臓が締め付けられるような、あの感覚。それで思い出した」
「もしかして好きな人ができたの?」
 まなみの表情が明るくなる。こういう話は大好きなのだ。
「さあ、ね。そうじゃないといいなって思ってる」
 相手は高坂だ。もしも好きになったとして、一筋縄ではどうにもならない人だ。古川を押しのけ、同学年の女子たちも押しのけて、私が何かアクションを起こすのは考えられなかった。
 見慣れた公園のブランコに腰掛ける。いるのは私とまなみだけだった。錆びたシーソーと、色褪せた滑り台、土が硬くなった砂場を見れば、そこが子供の遊び場ではなくなっているのがわかる。私が幼い頃遊んでいた公園は、寂しいところになっていた。
「子供が減って、もう公園も使われなくなったよね。家での遊びが増えて、この辺りは静かなものよ」
「寂しくなったね」
 長い沈黙が二人を包んだ。それをゆっくりと、まなみが壊す。
「あのね、あたしが言いたいこと、もう一つあるんだ」
 決意したような声音だった。彼女に似合わない、真面目な声だった。
「中学の時、あんたの話をもっと聞いておけばよかったって、思ってたの。あたしの親が離婚して、それだけでも色々慌ただしくて。そんなとき思ったのよ。じゃあ彩知は? 母親が急に他界して、それでも笑顔で毎日を過ごしてた彩知は? って。あたし以上に辛かっただろうって気づいた。あんた普通に笑ってたし、篠崎がカバーしてくれてたから大丈夫だと思ってた。でも、違ったんだよね?」
 まなみの瞳は心なしか潤んでいた。白目が赤く色づいている。
 私はどんな顔をしていたのかわからない。笑っていたかもしれないし、怒っていたかもしれない。もしかしたら、彼女のように泣きそうだったかも。
「私が、私が話さなかったから。気づかないのも当然だし。わからなかったのも当たり前だよ」
「当たり前じゃないよ! あたし、あんたの友達なのに! 何もできなかったのがずっと悔しくて……今更、あのときに戻れたらってずっと、ずっと思ってる」
 まなみが叫ぶ。心の底からそう思っているのだ。
「気にしないで。私、これでも今、楽しいの。高校で、うまくやっていけてるんだよ」
 まなみがブランコの鎖を握りしめた。
(そんな風に思ってたなんて)
 どうすれば彼女から後悔の念を取り払ってあげられるのか、必死に考えた。気持ちだけで十分に嬉しいことを、知ってもらわないと。
「そんなに私のこと考えてくれて、心配してくれてたんでしょ。嬉しい。ありがとう、まなみ」
「違うよ……あたしが悔しいの。情けない、あたしが」
 しばらくまなみは口を閉じた。
 公園に静寂が戻った。エノコログサ――猫じゃらしのような雑草――が風に吹かれ、互いにこすれてさわさわと音を立てる。たんぽぽの綿毛が頭を揺らし、小さな種が空高く舞い上がっていった。蜂はせっせと蜜を集めて、蟻が隊列を揃えて巣に帰っていく。
「彩知、あんたは今幸せなの?」
 まなみの声はさっきよりも掠れて、聞き取りにくかった。
「うん。もう、お母さんを思いだして泣くこともないし。お父さんとも、兄さんともうまくやれてるの」
 笑顔を作って言う。しかしまなみは小さく頷いただけで、それを喜ぶ仕草はしなかった。
「嘘つくのがうまくなってるね、彩知」
 驚いたのを隠せずに、口ごもる。
「あんたがそれでいいなら、いいのよ。あたしも、悔しいとかそんなこと言わない。思ってても、もう過去のことだからどうしようもないから。ただ、そういう気持ちがあることを知ってほしかったのよ」
 よし、とまなみが立ち上がる。彼女には嘘が通じない。嘘をつくだけ、自分の首を絞めているようなものだ。その事実が私には嬉しかった。私の本音を見抜く、彼女の洞察力が好ましかった。
「ね、メールとラインと、電話番号教えて! 彩知、中学の同級生の誰にも教えてないからショックだったよ!」
 くるっと私の方を向いて、スマホを突き出した彼女は、何かふっきれたように笑っていた。
「うん。いいよ」

 夏休み十日目、家でソファに座り、くつろいでいるとラインの通知がぴこんっと鳴った。見ると、恵梨からだった。
「明日は夏祭り! 忘れてないよね? 午後二時には会場に集合すること。信乃も一緒だからね」
(忘れてた)
 すぐに返信する。
「忘れてたー。午後二時ね、わかった」
(恵梨、信乃ちゃんとうまく接触できたみたいだな。明日はうまくやらないと)
 食べ終わった棒アイスのゴミを袋に投げ込んだ。木の棒は、綺麗に飛んで袋に吸い込まれていった。
 立ち上がって、カーテンを勢いよくひく。網戸にして、空気を入れ替える。外の蒸し暑い空気が、むわっと部屋の中に押し寄せた。私はなんとなく、テレビの横にある写真に目をやった。兄の目に留まるとまずいと思い、再度伏せられたそれは、家全体に黒い霧をもたらしているようだった。

 翌日はあいにくの雨だった。朝からもったりと肌に湿気がまとわりついている。空は灰色に染まって、青空が少しも見えない。午後から晴れると天気予報では言っていたが、それを見るとそうは思えなかった。
 エアコンで除湿をしつつ、空気循環器――サーキュレーターなるもの――を稼働させる。湿度が下がれば、暑さは意外と感じないものだ。以前、内陸の県に行ったとき、それを実感した。
 ぴこん、ぴこん、とスマホがラインの通知音を鳴らす。
 まなみと再会して以来、彼女から毎日のようにラインが来るようになり、電話も頻繁にかかってきていた。内容は、恋愛話だったり学校のことだったり、将来のことだったりした。そんな他愛ない会話で、会えなかった日々を埋めていく作業は案外と楽しかった。
「今日の祭り、あたしも行くよ! 会えたら話そう。その、恵梨って人を紹介してほしいなー」
「まなみと恵梨はたぶん気が合うと思う。似てるし。会えたらいいね!」
 二回に分けて、送信した。
 祭りの規模は中の上くらいで、会場はそこそこ広い。ステージと屋台通り、休憩場所やストリートパフォーマンスが行われる場所などが大きく幅をとっている。
 訪れる人数は、軽く見積もって数十万だろう。特に二日目の花火のために来る人が多い。川の傍で打ち上げられるそれが、水面に花を咲かせる様子を一目見ようと、毎年大勢の人がやってくる。
 昼間はステージで出し物や、道路で様々なパフォーマンスがされる。恵梨はそれにはあまり興味がないらしく、行くのは午後からが良いといっていた。午後は屋台が活発になる。射的、おみくじ、金魚すくいに宝石拾いなど、祭りの醍醐味が揃うのだ。それに加え、地方から名産物販売にわざわざやってくる人たちもいて、それが毎年違ったりするから面白い。
(着ていくものは……普通でいいよね)
 鏡の前で、服を体に合わせて確認する。上は白色の七分袖ブラウスで、下に紺色の丸みがあるショートパンツを合わせてみる。シンプルで良い感じだ。鞄は緑色のショルダーバッグに決めた。
(暑いし、靴下はいいか。つっかけ履いていこう)
 そうこうしているうちに午後一時をまわっていた。空にはいつの間にか晴れ間が覗いていた。

 待ち合わせ場所についたのは午後二時過ぎだった。すでに多くの人が来場し、そこはお祭り雰囲気真っ盛りだった。どこからか太鼓の音が響いてくる。浴衣の二人組中学生が、綿飴を片手に談笑しながら目の前を通り過ぎた。
 私は雑踏の中、所在なく立っていた。恵梨と信乃の姿は見えない。
 しばらくすると、人混みの向こうに髪をアップにした浴衣姿の恵梨と、同じく浴衣の信乃が足早にこちらに来るのが見えた。着付けで時間がかかったのかもしれない。
「ごめんごめん。遅くなっちゃった」
 平謝りの恵梨を軽く許して、私は信乃に笑いかけた。夏休み前、彼女に私から話しかけることはあっても、彼女から話しかけられることはなかった。嫌われているのかもしれないと懸念していたのだが、今日の信乃は私に微笑み返してきた。恵梨効果かもしれない。恵梨は他人に変な自信を与えてしまうから。彼女の纏う空気がそう思わせるのだろう。
「信乃ちゃん似合ってる。恵梨も」
「あたしはついでかよ! てか、彩知は普段着過ぎない? 祭りなのに祭りっぽくない。浴衣ないならあたし貸したのに!」
 恵梨が呆れ果てて言った。
「浴衣とか面倒で。祭りはゆったりとした格好でゆったりと楽しむ主義なのよ」
 信乃も同意見のようで、小刻みに頷いている。彼女は無理矢理着せられたくちだ。同情の目を彼女に向けた。
「まあ、そんな考えもあるわな。そんじゃ、とっと行こう! 待たせたお詫びに何か奢るよ」
 恵梨が颯爽と人混みに紛れていくので、慌てて信乃と二人で追いかける。信乃は下駄が歩きづらいのか、ひょこひょこと小動物のような動きをしている。からんからんと下駄が地面にぶつかって、音を立てた。

「奢ってくれるならたこ焼きがいいな!」
 人が多く、声が届きにくい。大声で話しても相手に聞こえているのかどうかわからなかった。休憩所に着くまでは辛抱だ。
「はーい! 信乃、割り勘するぞー」
「う、うん」
 たこ焼きの屋台には、まだ人が並んでいなかった。二人が駆け寄って、一つ注文する。
(信乃ちゃん元気そう。よかった……)
 信乃は学校では見せないような笑顔だった。このまま夏休みが終わってもそうであればいいと思った。
 二人から離れると、途端に暗い気分になった。長期休みに入ってからというもの、悩みが尽きない。一人になると色々なことを脳が勝手に考え始めてしまう。兄のこと、父のこと、高坂のこと、中学時代の同級生のこと。どれもいくら考えたって、解決できる問題ではない。一つ一つ、直接潰していくしかないのだ。
(止めよう。今日はそういうのは無し)
 二人に声をかけようと一歩足を踏み出したとき、左肩に衝撃が走った。右方向に体が傾いていく。誰かにぶつかってしまったのだ。景色がゆっくりと斜めになっていく。
(まずい、転ぶ!)
 覚悟して目を瞑ったとき、左腕を誰かに力強く引っ張られた。足を踏ん張って、体勢を何とか立て直す。どうやら転ばずに済んだらしい。
 ぶつかってしまったであろう目の前の人に、頭を下げる。相手は転んではいないようだ。
「すみません! 大丈夫でしたか?」
「まったく、前見て歩きなさいよ」
 高圧的な物言いの女性だ。頭を上げると、その彼女の隣に、私を助けてくれた男性が立っていた。もう一度頭を下げる。
「助けてくださりありがとうございます」
 礼を言っていると、買い物を終えたらしい恵梨たちが駆け寄ってきた。
「おーいって、何やってるの? 彩知?」
「あ、ちょっとぶつかっちゃっただけ。大丈夫だよ」
「彩知さん、たこ焼き買えたよ」
 信乃が袋を差し出す。名前を呼ばれたのはこれが初めてだった。
 と、さっき私の腕を引っ張った男性、いや、男子が肩に手を置いてきた。やけに力が入っている。もしや、お礼の誠意が足りなかったのではと、焦って彼を振り返る。
「彩知?」
 見覚えのある顔だった。以前は坊主に近い頭だったが今ではすっかり髪が伸びて、サッカー青年の雰囲気になっている。切れ長の目と、少しつり上がった眉。祐介だった。
「な、なん、何で」
 驚愕で言葉が出てこない。もしも会ったら、久しぶり! とか言おうと思っていたのに、いざ目の前にすると頭が真っ白になった。彼もまた、何も言えないようだった。
「え? 何? 祐介知り合いなの?」
 彼女、と思しき女性、ではなく女子が、不安げに祐介を見上げている。化粧が派手で、髪も茶髪で、ピアスをじゃらじゃらとつけている。そして美人だ。目鼻立ちがはっきりとしていて、日本人なのにフランス人形のようだった。
(なんて言えばいいの? 久しぶり? 元気にしてた? 進学のこと話さなくてごめん? うまくやってるの?)
 そのどれもが言葉にはならなかった。恵梨と信乃へ助けを求めるような目線を送ってしまう。二人とも首を傾げて、祐介と私を交互に見るだけだった。
「よ、よう。彩知」
 ようやく口を開いた祐介は、私から目を反らした。その動作に、沈黙の答えがあるように思えた。私はそれで緊張が解けた。
(何も気負うことなんて無いみたい)
「久しぶりだね、篠崎。恵梨、信乃ちゃん。彼、篠崎祐介っていって、私の中学時代の友達なの」
 彼女さんが端から見てもわかるくらい、ほっとした表情になった。
「へえ! 彩知の昔の友達って初めて会うかも。よろしく、あたし原田恵梨。こっちは佐々木信乃」
「どうも」
 祐介が軽く頭を下げる。彼のそういう態度は、新鮮だった。中学の頃は野球部に所属していて、見た目も中身も暑苦しいやつだった。正しいことが大好きで、努力を惜しまず、他者への姿勢は常に真面目であったのだ。しかし、現在はそんな印象とはかけ離れている。
「あ、最近山中から、彩知に会ったって聞いたぜ。お前、中学校見に行ってたんだってな」
 祐介は相変わらず視線を合わせようとはせず、ぎこちない笑みを必死に顔に張り付けている。そんなあからさまな態度を取られると、逆に私は冷静になっていくようだった。
「うん。ちょっと行ってなかったなと思って」
「ふーん。げ、元気にしてたか」
「そこそこ元気だったよ。そっちは?」
「俺は普通。去年は祭りに来なかったのか。見かけなかったけど」
「うん。忙しかったし。あ、恵梨、信乃、たこ焼き冷めちゃうし、休憩所で食べようよ」
 彼女さんが会話に入れないのをもどかしく感じているのを察知し、恵梨と信乃を促した。私も、もう祐介と話したいことはなかった。彼は私のことを引きずっているわけではなく、過去の邪魔な記憶と思っていそうだった。気まずそうにしているのも、そのためだろう。ならば私からは何も言えない。
(今更、言えるわけもないし)
「じゃあね! 篠崎」
「篠崎また会ったら話そうねー。中学の彩知のこと聞きたいわ」
 踵を返すと、一度も振り返らずに歩いた。彼に未練があると思われては困る。
 屋台通りを突っ切って、日傘の張られている休憩エリアに入った。恵梨は焼きそばを、信乃はリンゴ飴を買った。傘下に置かれている椅子の適当な場所に座ると、恵梨は興味津々な様子で、私の方へ身を乗り出した。
「ねえねえ、それで、実際はどうなの?」
 私は一つ目のたこ焼きを頬張りながら、わざとらしく首を傾げた。たこ焼きが熱いので、話すことが困難だ。しばらく口の中で冷まして、やっとのことでほかほかの球体を飲み込む。
「何が?」
 信乃はリンゴ飴をかじって、呟く。
「彩知さんの、元彼、とか」
「はずれー。私は彼氏いたこと一度もないの。あいつは、ただの友達」
 二人の口に一個ずつたこ焼きを詰め込む。彼女たちは、ハフハフと口を開けたり閉じたりしている。二人とも猫舌のようだ。
「あふい! はひのばふぁ」
 恵梨が涙目で何かを訴える。信乃に至っては、泣いていた。
「あー熱かった。信乃も猫舌なんだねえ。仲間!」
「し、死ぬかと」
 信乃が大げさに言うので、恵梨も私も吹き出した。
「篠崎はただの友達って雰囲気じゃなかったんだけどなあ。あの動揺具合、見てて面白かった」
 恵梨が体を大きく後ろに反らせる。その体勢でよく椅子から転げ落ちないものだ。
「ほら、彼女さんが隣にいたから、昔の友達って言っても、私女だし。気にしたのかも」
「そう、かな? それにしては会話を続けようとしていたような」
 信乃は妙に鋭い。ぼんやりとしているようでいて、実は切れ者なのか。
「信乃の言うとおり! そんな感じだったよ」
 二人は追求をやめなかった。どうしても聞きたいらしい。
「そんなに聞きたいなら、私も本当のこと話すけど。ただの友達、って範囲からは出ないような関係だから」
 女という生き物はこの手の話が大好きだ。それは祭りというイベントの中においても同じだった。まずは恋愛の話をしたがる。その次にイベントに感心が移る。ならば、話したって構いはしない。どっちみち忘れるのだから。話さずに追求を受け続ける方が、身が持たない。
「気になるしー。彩知の中学時代」
(気になるって、そっち?)
「あいつ、篠崎は小学校から一緒で、まあ、男子の中では一番仲が良かった。私の母親が死んだときに色々話とか聞いてもらって、気づいたら、その、まあ、いわゆる好きになって。でもその後とか結局なんの変化もないし。高校入ってから会ったの今日が初めてだから。ね? ただの友達」
「え! 彩知さんのお母さん亡くなってるの?」
 信乃の予想外の反応に、少しぽかんとする。今言いたいのはそこじゃないけれど、まあ、確かに彼女には言っていなかったことだ。
「うん。でも昔のことだから」
「そ、そう」
 彼女は少し俯いた。
「うーん。ただの友人って感じじゃないよ。それって、つまり。そう! 彩知の初恋の人だね?」
 恵梨が嬉しそうに声を上げる。周囲の人の視線が一瞬集まって、離れていく。
「ちょ、そんな大声で! ま、まあ。そうとも言えるけど」
「そうとも、じゃなくてそうなんだよ。ふーん、へえー。あの人、ちょっとかっこよかったよね?」
 恵梨の問いかけに信乃が少し考えて、頷く。
「でも、彩知さんの好きそうな感じじゃない、気がする」
(今のあいつは確かにタイプではないな)
「祐介、性格だいぶ変わってたからなあ」
 思わず心の声が漏れる。途端に恵梨が食いついてきた。
「今祐介って言った? 言ったよね? そう呼んでたんだあ」
「そう呼んでたけど、彼女いたから呼んじゃ駄目だと思って。あー癖で言っちゃうな。もし今度会ったら意識してないと、祐介って呼びそうで怖い」

 たこ焼きを完食した頃、時刻は四時近かった。そろそろ席を立とうとしたとき、私のスマホがバイブした。兄からの電話だった。
「兄さんからだ。二人ともちょっと待って」
 二人を呼び止めてから、電話にでる。
「もしもし兄さん?」
「もしもし。今日彩知は祭りに行ってるんだったよな? ゆっくり遊んでこい。夜ご飯は大丈夫だから」
 外にいるのか、車の走る音が電話越しに聞こえてくる。
「え? 夜どうするの?」
「たまには同僚と一緒に飲みに行こうと思ってな」
「そう。わかった。飲み過ぎないようにね」
 通話を終える。スマホを鞄の内ポケットにしまい込んだ。
(同僚と飲みに行くなんて、意外)
 兄は基本対人関係が希薄だ。学生の時も誰かと遊んだりはせずに、まっすぐ家に帰ってきていたし、休日も出かけたりしなかった。飲みに行くということは、同僚とはうまくやれているらしい。
「彩知のお兄さんってなにしてるの?」
「ん? ○○電力会社の社員。本店ではないけどね」
「うわっ大手だ。何歳? 彼女いる? 名前は?」
 恵梨が、矢継ぎ早に質問を浴びせる。
「今年で二十三歳の名前は聡(さとる)。彼女はいないと思うけど」
「若いねえ」
 恵梨がにんまりする。
「あの、彩知さんのお兄さんは大学に行ってたの?」
「ううん。賢かったけど、進学はしなかった」
「もったいないね……」
 恵梨がラムネを買いたいというので、飲み物が販売されているテントに向かった。
 信乃は暑さに弱いのか、しきりに手で顔を扇いでいる。顔が少し赤い。午前中の曇天が良い具合に湿度を上げたせいで、余計に暑く感じるのだろう。浴衣は見ているだけでも暑い。
 テントの中には、長方形の発泡スチロール容器にたっぷりの氷水が張られ、そこに缶ジュースやらペットボトルのお茶やらが浸けられていた。見るからに冷えている。恵梨はすかさずラムネをひっつかみ、売り子のおばさんに、いくら? と訊いた。百円だと言われると、彼女は嬉しそうにお金を払った。
「安いねえ」
 確かに安い。私もラムネを一つ買うことにした。信乃はお茶に手を伸ばしている。一瞬手に触れた冷水が気持ちよかった。全身に浴びたって、今なら寒さを感じないだろう。
「ありがとね」
 おばさんに手を振った。

 通りを何となく歩き回っていると、恵梨がどこかをじっと見つめて立ち止まった。
「どうしたの?」
 信乃が首を傾げてそちらを見る。途端に彼女の顔が曇った。
「あれ、高坂だ」
(高坂くん?)
 私もそちらに目を向ける。彼は礼司と来ているはずだ。目を凝らすと、人混みの向こうに彼がいた。背が高いので結構目立っている。黒い眼鏡に、ティーシャツ、ジーンズといった出で立ちだ。飾り気が無さ過ぎる気もするが、彼にそんなものは必要ないのだと、見ればわかった。行き交う女子の目が必ず一度は彼に注がれているのだ。
「おーい高坂ー」
 恵梨が彼を呼ぶと、信乃がソワソワと落ち着きなく足踏みした。彼女はきっと、高坂と話せばまた自分が一人になると思っている。
「信乃ちゃん、大丈夫だと思う。話したいなら話せばいいし、自分の好きにしていいんだよ。私と恵梨もいるし」
「そうそう」
 高坂は恵梨の声に、数秒視線をさまよわせ、こちらに気づいた。恵梨が大きく手を振って、こっちこっち、と合図する。彼が近づいてくるにつれ、鼓動が落ち着かなくなって、どんな顔をすればいいのかわからなくなった。
「珍しい組み合わせだね。佐々木も一緒なんだ」
 彼が一番に笑いかけたのは、信乃だった。彼女は話さなかった時間が長かったせいか、どこかぎこちない。
「恵梨さんと彩知さんが誘ってくれて」
「ふうん。良かったね。あ、礼司! こっちだよ」
 群衆の中から這い出るように出てきたのは、中井だった。やっぱり、いた。中井を見るなり、信乃が私の後ろに引っ込んだ。
(え? 中井のこと嫌いなの?)
信乃の顔はさっきよりも赤く染まっていた。
(なるほどね)
「中井いたんだ! てか、男二人で祭りってどうなのよ。一緒に来てくれる彼女とかいないの?」
 恵梨がすかさず突っ込みをいれる。その表情を見れば、信乃が中井を好きだということを、彼女が知っているのがわかる。
 信乃の初々しい反応に、思わずにやける。こういう女子を男子は守りたいと思うのだろうか。そうでないとしても、私の庇護欲を掻き立てる何かが彼女にはあった。
「い、いるわけねえだろ。彼女とか作ってる暇があったらなあ、勉強するわ! 原田、お前も勉強しろ!」
「はあ? あたしはやってるよ。てか何でそうなるのよ。まったく、意味がわからない」
 恵梨と中井は犬猿の仲、とまではいかないが会えば口論になるのが常だった。中井は何かと恵梨を目の敵にして――私のことも――彼女に弱みを握られることを恐れている。そこに付け込めば、大抵の言うことは聞いてくれる。
「そういうお前等こそ一緒に祭りに来てくれる彼氏とかいないのかよ!」
「あたしは彼氏とかはいいのよ。人の話を聞く方が好きなのー」
 高坂が二人の様子を呆れたように眺めている。
「人の話、っていえば、さっき彩知の初恋の人に会ったよねえ」
(げ! 恵梨、余計なことを)
「私の話とかいいから」
「うーん、彼、かっこよかったなあ。あれくらいなら、つき合ってみるのも悪くないと思う」
 信乃がひょっこり顔を出した。
「でも、彼女持ちだったよ」
「あれは本気じゃないよ! 女の勘だけど、未だに彩知のこと好きそうだったし」
「うん。それは思った」
 私の話はまだまだ続きそうだった。どうして女というものは他人の恋愛沙汰が好きなのだろう。終わったことでも話題に上がってくるのでは、おちおち恋愛相談もできやしない。
 彼女たちが私の話をしていると思うと、顔に熱が集まってくるのがわかった。昔であっても、あれは恋だったのだ。それを人の口から聞くと、やけに小っ恥ずかしく感じる。初恋初恋と、連呼されるのは堪らない。
「つき合ってたの?」
 高坂が意外にも会話にはいっていく。
「ううん。あれだね、俗に言う両片思いってやつ」
「つき合ってはないんだ?」
「彩知から聞くに、お互いに気持ちは知ってたけど、色々あってつき合わなかった、そうだよね?」
「ん。まあそんな感じ。私が逃げちゃったから」
(早く終わってほしい)
「色々って?」
「高坂、そこまで訊いちゃう? あたしでも訊かなかったのに」
 恵梨が苦笑した。
 そのとき、突然周囲の雑音が私から遠のいた。背中が冷たくなり、視界が回転する。吐き気がこみ上げた。ずっと下を見ていたからだ。ちょっとした貧血だろう。
「あの、ちょっと人酔いしたみたい。テントで休んでくる」
 頭を片手で支えながら、恵梨と信乃に言った。
「え? 急に大丈夫? ついて行こうか?」
 恵梨が心配そうに私の顔をのぞき込む。ぐるぐると回転を続ける視界で、なんとか頷いた。
「大丈夫。すぐそこ、だから」
 とは言ったものの、車酔いのときに足下がおぼつかないのと同じで、まっすぐに歩けない。それに、立っているのもやっとなのだ。
(生理だからかな)
「じゃあ俺がついて行く。三人はここで待ってて」
 面倒見の良い彼らしい発言だった。
「い、いや。高坂くんに悪いし」
「はいはい。そんなこといいよ。手、貸して。支えるから」
 強引に私の手が、高坂の肩にまわされる。しかたなく、体重を預けた。彼が私を引っ張って、テントまで誘導する。私は全てを任せて、目を瞑った。
「はい、座って」
 彼の一言で、ゆっくりと腰を下ろした。椅子に座って、机に突っ伏す。じっとして目を閉じていればすぐに良くなるはずだ。鞄の中には貧血用の薬があるのだが、高坂を目の前にしては飲みづらい。
「もう大丈夫だから、高坂くんは戻って良いよ」
 うつ伏せのままで、唸るような声になった。全く、大丈夫な声ではない。
「そうは思えない。良くなるまでここにいるから。それとも、俺は邪魔?」
「邪魔じゃ、ない」
「そ。ならいい」
 彼の声は満足げな響きを持っていた。
 私の隣に座ったのだと、空気でわかった。気遣っているのか、全く話しかけてこない。もちろん、その方が嬉しい。
 耳元で心臓の音が鳴っているようだった。手汗が噴き出す。彼の隣は、やっぱり緊張してしまう。心地よくもないし、一緒にいたって楽しくない。むしろ、心がかき乱されて不安定になる。でも、目で追ってしまう。この気持ちって、恋ではないのかも。だってこんなにも、息苦しい。

「もう、大丈夫かな」
 数分で吐き気がおさまった。私は恐る恐る顔を上げて、隣を見た。あまりにも無言だったので、いないかもしれないと思っていたのだ。けれどそんなことはなく、高坂はきちんとそこに座っていた。
「良かった」
「皆のところに早く戻らないと」
 高坂と二人きりは流石に精神力と、心臓が持たない。
「ちょっと待って。すぐに動くのは良くない。もう少し休んだ方がいいと思う。礼司に連絡したから、皆のことは大丈夫だよ」
 彼の言っていることは尤もだった。私は浮かせたお尻を再度椅子に預ける。
 ちょうどそのとき、五時を告げる鐘が鳴った。
 夜になると、会場には人が増えるだろう。暗くなれば恵梨たちを見つけるのは困難になる。高坂を早く説得しないと。
「あ」
 背後の方で声がした。私はげんなりとする。一時間くらい前に聞いた声だった。
(エンカウント率高いなあ)
 振り向きたくなかったが、高坂はすでに彼を見返していた。誰? と私を見る。仕方なく、重たい体を捻って祐介の方を向いた。彼の隣に彼女はいない。
「えーっと、彼は篠崎祐介で、中学の時の知り合いなの」
「ああ、さっき言ってた人ね」
(わかりにくいように言ったつもりなのに、バレてる)
「俺は高坂隼っていいます。あ、同い年だっけ。よろしく」
 高坂は得意の笑顔で自己紹介する。祐介は眉をひそめて、私を責めるような視線を向けてきた。その表情に、私の中に小さな罪悪感が芽生えて、それを慌てて摘み取った。
「どうしたの? 彼女さんは?」
 沈黙を作りたくなくて、とりあえず話を振る。私の思惑とは反対に、祐介は黙ってしまった。言おうかどうか迷っているように視線をさまよわせる。
「別れた」
 開いた口がふさがらなかった。祭りの日に普通別れたりしないだろう。そういう気持ちになってしまったとしても、別れ話は後日にするべきだ。
「え? 何で」
 戸惑いと彼への嫌悪感で、声が震えた。
 私の様子に、祐介の表情が一転した。馬鹿にするように、鼻で笑う。
「はっ! 冗談に決まってるだろ。何本気にしてんの?」
(意味のない嘘とか、つく奴じゃなかったのに)
「わけわかんない」
 呆れ果ててため息がでた。
「つーか、お前も彼氏出来たんじゃん」
 彼の、同罪だな、みたいな言い方に憤怒する。
「違うよ。クラスメイト。あんたと一緒にしないで」
 きつく否定した。私の刺々しい物言いに、高坂がふっと笑う。
「長井さんの言うとおり、俺はただの同級生でクラスメイトだよ」
 雲が太陽をゆっくり覆い隠した。テントの中が少し暗くなる。祐介は空をちらっと見上げた。その顔つきに、昔の彼が重なって見えた。
「ま、いいや。彼氏でもそうでなくても。俺にはもう関係ない」
(なら訊かないでよ。メンドクサイ)
「祐介! って、さっきの人」
 屋台の方から、かき氷を二つ手に持った祐介の彼女が走ってきた。私を目に留めると、笑顔が曇る。やっぱり一緒にいられると、友達だと思っていても嫌なものなのだ。
「おう、行こうぜ」
 彼はかき氷を受けとると、何事もなかったように通りの方へ消えていった。彼の姿が見えなくなると、一気に脱力した。両腕で顔を隠すように覆った。高坂はずっと黙っている。
 しばらくして太陽がまた雲から顔を出したとき、彼は本当に何気なく、どうでもよさそうに言った。
「篠崎って言ったっけ、あの人のこと本当に好きだった?」
 彼の声に、心臓が萎縮してから、思い出したようにドクンドクンとリズムを刻んだ。彼の質問の意味がわからない。どうしてそんなことを訊くのか。答えて、意味があるのか。
「高坂くんに言うことじゃないと思うけど」
 穏やかに彼が返す。
「確かにね。答えなくてもいいよ。なんとなくわかるから」
(エスパーめ)

本音を暴かないで 4

続きます。

本音を暴かないで 4

恋愛小説です。夏祭り編。初恋の彼との再会です。 次回 http://slib.net/56010

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更新日
登録日
2016-02-12

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