ミラージュ9
ある日、職場の研究室で、後輩に頼みごとをした。
手渡したのは、真空の小瓶に入った一粒のカプセル錠。
「時間空いたら、この成分、調べてくれないか?」
「はあ…?いいですけど」
後輩は、珍しいこともあるものだ、と顔に出して承諾した。
「風邪薬ですか?」
後輩の問いに、
「ミラージュ9だよ」
とだけ返して、僕は部屋を後にした。
* *
「ニキビは若者の勲章だぞ」
「・・・」
いまでもハッキリ覚えている。
中学1年の時、悩みのすべてであり、大敵であったニキビの薬を薬局で買うと、美人の店主がオマケをくれた。
それが、あのカプセル錠だった。
店主はこう言った。
「これはね、ミラージュ9ていう薬なんだよ。NASAの宇宙飛行士とか潜水艦の乗務員がね、機体の故障でもう絶体絶命になったとき、もがき苦しまずに済むように、常に携帯させてた薬なんだ。コレを飲めば、すぐさま、眠るように、なんの苦しみも痛さも無く、おだやかに命を絶てるんだ。1つしかないけど、君にあげよう」
僕は、素直にすごいと思った。
何でそんなものを薬局の店主が持ってるのか、疑問に思ったのはだいぶ後だ。それだけ僕の思春期には革命的な出来事だったのだ。
もちろん、その時の僕はバカであっても、良識はあった。学校に嫌いな奴もいたけど、他人に飲ませる気などなかった。
むしろ、その逆だ。命もこの薬も、一度きりなのだと。
「ミラージュ9」は僕の隠し玉。最終兵器だった。本物かどうかなんて、知る必要もなかった。
『僕はミラージュ9を持っている』、それで十分だったのだ。
僕の人生の、全ての勇気の源だった。
どんなに敵が増えたって、どんなに思い通りにいかなくったって、迷ったときに、一歩前に出れる自分がいれば、それで良かった。
全部、ミラージュ9のおかげだった。
死ぬ気でがんばる、その言葉の意味を、僕はコレのおかげで、きっと誰よりも知れたのだ。
そして、もったいないくらい良い友人や、仲間、良きパートナーも持つことが出来た。
結果がすべて上手く行ったわけではないけど、充実に余りある「今」があった。
* *
しばらくして、後輩からの連絡がきた。
「例の薬、中はただの片栗粉ですよ。先輩、新手の健康詐欺ひっかかったんスか?」
僕はしばらく呆然として、最後に笑い出した。
「そうか…片栗粉か。はははは」
後輩も釣られて笑っていた。
「処分していいスか?」
僕は、受話器の向こうの後輩に
「ああ。もう必要ない。時間とらせて悪かった。今度、なんかおごるよ」
と、労うと、後輩は少し口調を切り替えて、
「それよりもですね、宇宙防衛省から連絡ありましたよ。先輩の造ったアレ、威力強すぎて、敵の星の生命が根絶してしまうそうです。もう少し抑えられないかって」
と、短い報告を入れてきた。
予想通りだった。
「やれやれ、連中は何もわかっていないんだな・・・。すぐに戻るよ」
ケータイを切った正面には、あの薬局があった。
「こんにちは」
「いらっしゃいませ」
店主は悪戯な笑みを浮かべ、当時と変わらず美人だった。
「なにかお探しですか?」
僕はふと、あの頃ニキビの薬は、1度使っても大して効果がなかったことを思い出した。
ミラージュ9