礼を尽くすこと

僕にはどうしても許せないことがある。

それは安易に行われる土下座という行為である。

日本という国は古来から礼を重んじてきた国である。

それはとても尊いことであり、日本人に生まれたことを誇れることなのだ。

その際たるものが土下座という文化である。

土下座とは、土の上に直に坐り、平伏して座礼を行うこと。

これは、日本人の生活意識では、土の上に座って額を地面につける動作が日常の行動から大きく逸脱しているために、それだけ並はずれた恭儉・恐縮の意を含む礼式であると解釈されたためである。

日本人にとって、これは最大の屈辱であると同時に最大の礼でもある行為なのだ。

容易に行って良いものではない。

だというのに、昨今の土下座は安易に行われすぎている。

何か不祥事を起こすとメディアの前で土下座をして許しを請うことも珍しくない。

確かに最大の礼に当たる行為なのだから、間違ってはいないはずだ。

しかし、土下座をすれば許してもらえるわけではないのだ。

江戸時代にはすでに、土下座をすれば何でも許してもらえるという考えがあり、実際に行われてきた。

だが、この行為を恥辱であるとした例もある。

まったくそのとおりだと僕は思う。

土下座をして謝りました。ならその後あなたはどうするの?それで終わりじゃないよね?

こう思うのは僕だけではないはずだ。

安易に土下座をして何かが変わるのか?

変わるはずもない。

土下座をしてもしなくても、賠償金を払うなり、辞職することになるのは決まっていることなのだ。

わざわざメディアの前で土下座をする意味があるのか。

本人は誠意を見せたつもりなのだろう。

だが、お前が誠意を見せる相手はメディアやメディアを通して見る我々なのか?

違うだろう。

テレビや新聞を通した礼に誠意がこもっていると感じられるか?

本当に礼を尽くし、誠意を見せ、心のそこから謝る気があるのなら、直接目と目を合わせ謝罪をしてから土下座をするべきではないのか?

これこそ僕が昨今、土下座が安易に行われていると感じる理由だ。

多くの人が目にするテレビや新聞などで土下座をするということは、まったく関係のない人々にまで土下座を見せていることになる。

最大の屈辱であるはずの行為を、なぜ不特定多数の関係のない人間の混じった衆目の場で行ってしまうのか。

これを見た子供たちはどう感じるのだろうか。

僕はもう子供ではないし、子供のころのことも覚えてはいない。

だから、子供たちがどう感じるのかはわからない。

だが、一つだけ確信を持っていえる。

いい影響は決してないであろうと。

最大の礼がここまで貶められてしまっている中で、日本の礼全体の質の低下まで招くことになるのではと、僕は心配でならない。

礼を尽くすこと

礼を尽くすこと

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-05-05

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