物怪日常奇譚

椎奈you

  1. 〇菖蒲・鈴蘭
  2. 〇月明かりの神
  3. 〇私の小さなお友達
  4. 〇望めばそこに

人と、人ならざるものたちの、他愛のないお話。


元はTRPGの自キャラの話を書きたいという思いで書き始めた物語でしたが、
TRPGが関係なくなったのでこちらでオリジナル小説として書くことにしました。
どんなお話になっていくかは自分でもまだ予測できませんが、楽しんでいただけると嬉しいです。

〇菖蒲・鈴蘭

 山の頂上。そこにある樹齢1000年を超える大木へと通じる道を守るように、山のふもとに天輪(てんり)神社は建っていた。
神社への道も決して楽ではなく、長い階段を上りきると赤く立派な鳥居が見えてくる。
右には狐、左には狼、鳥居の上には鳳凰のような立派な像が設置されている。
建物の四方は背の高い壁で囲まれ、本殿へ向かう途中には清い水が湧き出る石造りの水場があり、
地面は白砂利と丸石で整地され、左右には1つずつ石灯篭が置かれ、石畳の道は枯葉1枚落ちていない。
本殿の扉は固く閉ざされ、しめ縄には白い紙重がつるされ、賽銭箱と大きな鈴と叶緒(かねのお)があった。
隣には和を体現したような立派な屋敷が構えられ、恐怖すら覚えそうな威厳を放っていた。

 そんな屋敷の中から1匹のオッドアイの三毛猫の子猫が首の鈴を鳴らしながら飛び出した。右は青く、左は赤い宝石のような目をしている。

「待ってください~」

 おっとりとした、鈴を鳴らしたような凛とした美しい声が聞こえたと思うと、子猫を追うように飛び出してきたのは巫女装束を着た女性。
20代ほどのその女性は黒く長い髪を揺らしながら走り、子猫をそっと抱きかかえた。透き通るような(あお)色をした両目で猫の目を覗き込む。
子猫は女性に甘えた鳴き声で鳴き、その頬を舐めた。女性はくすぐったそうに片目を瞑るとすぐにその柔らかな胸に抱きしめ直す。

「ダメですよ~まだ遊びの時間ではないです」

「にゃー」

「夜には御神木に連れていくですので、少しお待ちください」

 少し可笑しな敬語でそう諭すと、猫は少し気落ちしたように耳を垂らした。するとそれを見た女性はすぐに猫と頬ずりをする。

「御神木についたら一緒に遊びますからね」

 猫はその言葉にすぐに元気が出たように耳をピンと立て直し、女性に甘えるようにじゃれつく。

 アイリス・リリーベル。22歳。この神社の娘であり巫女である。
神社の当主であり神主である日本人の父親と、今はイギリスの教会で世界的にも珍しい女性の主教をしているイギリス人の母親を持つハーフ。
父親譲りの黒髪と、母親譲りの碧目、服の上からでも分かる豊満な胸のモデルのような容姿、美しい顔つきという絶世の美女だ。
しかし、その性格は温厚で、マイペースであり、時に途方もなく世間知らずで天然な面を発揮させ、自分の容姿にも自覚がない。

「ほら、行きましょう、なたね」

 アイリスは猫のなたねを抱きしめたまま家の中へと戻った。



******************



 夜。今夜はよく晴れていて満月が辺りを青く照らしている。
横になっていたアイリスは起き上がると、隣で丸くなり眠っていたなたねを撫でた。
なたねはぱっちりと目を覚まし、あくびをすると背を伸ばす。アイリスにごろごろと喉を鳴らしながら擦り寄った。

「行きますか?」

「にゃぁ」

 肯定するように鳴いたなたねを抱きかかえたアイリスは、寝間着のまま外へ出ると、頂上の大木を目指して歩いた。
町からよりも神社のほうが頂上に近いとはいえ、距離はある。本殿の裏、頂上へと続く階段をアイリスはなたねを抱きかかえ、登って行く。
着く頃には月も真上まで昇り、辺りを明るく照らしていた。青白い光の中でアイリスはなたねを降ろすと、まず最初に御神木に手を合わせてあいさつをした。
普段、太陽の昇っているうちにも通い、手を合わせるのだが、週に何度かは夜にも手を合わせにこの場所を訪れるのだ。
 しばらく手を合わせ、祈り終わると御神木の根元に座り込み、アイリスの目が届く範囲で自由に遊びまわるなたねを見守る。
月に照らされ、周りの植物や木の動きも昼よりは劣るものの、よく見える。辺りは静かで、なたねが周りの雑草や花にじゃれつく度に鳴る首の鈴の音のみが響く。

「なたねは元気に遊んでいて、嬉しいかぎりですよ~」

 微笑むアイリスは誰にともなく話しかけ、なたねはアイリスの声を聞くと「にゃあ」とひと鳴きして再びそこら辺にあるものにじゃれつく。
そんななたねを微笑ましく見守っていたアイリスだったが、小さな気配に気が付き、辺りに感覚を集中させた。
注意深く耳をすませ、辺りに目を配り、肌に触れる空気を感じ取る。なたねも何かに気づいたようにじゃれつくのをやめ、その場で座り込んで空を見渡し始めた。
そこで、アイリスはふと何かを感じ、なたねをじっと見つめる。
すると

「にゃあぁー!!」

 なたねが叫ぶように鳴いたのと同時に、なたねは混乱したように暴れ始めた。しかし、暴れているというのに首につけている鈴の音が聞こえない。
叫ぶような鳴き声を聞いて驚いたアイリスはすぐに立ち上がり、なたねを抱き上げる。

「なたね、大丈夫です? 痛い場所ないです?」

 突然のことにパニックを起こしているなたねは、アイリスに抱えられたままじたばたと暴れている。
見たところ怪我はないようだが、いつも首につけられている鈴だけがなくなっていた。どうやら鈴がなくなった以外に変化はないようだ。
 一瞬ではあったが、なたねの首の近くを黒く小さな影のようなものが通ったのは確かに見えた。きっと、それが鈴を持って行ったのだろう。
なたねはその何かに気が付き、その黒い影が近くを通ったことにも気づいてパニックに陥ったのだろう。
 アイリスはなたねをあやしながら、何とか落ち着かせると優しく、優しく抱きしめる。

「もう怖くないですよ。鈴は新しいのを付けてあげるですからね」

 微笑んでそう言葉をかければようやく落ち着いたのか暴れることはなくなったが、アイリスの胸で震え、離れようとしない。
安心したようにホッとため息をついたアイリスは、なたねを撫でてあげながら、再び辺りを見渡す。
もうそこには気配も小さな影もなく、風の音と月明かりしかない。

「これは……後に調べることになりそうです……」

 そう呟き、アイリスはなたねを抱きかかえたまま、来た道を戻り、部屋に帰った。



******************



 朝。いつも通り、朝早くに目を覚ましたアイリスは布団から体を起こすと、隣で丸くなり眠るなたねを撫でる。
夜中に怖い思いをさせてしまったが、今は心地よさそうによく眠っていることにアイリスは微笑んだ。

「さて、今日は相談ごとが……」

 今日はちょうど日曜日。副業の仕事も今日は休みだ。本業である巫女の仕事に、いくつか相談の予約が入っていた。
立ち上がると、いつの間にか寝る体勢を変えて、体を伸ばして寝息を立てているなたねに布団をかけた。
身支度を済ませ、巫女装束に着替えると、後ろ髪の生え際から下の位置で1つに束ね、白い和紙でまとめた。
一度、目を瞑ったアイリスは深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。再び目を開けると、そこには巫女としてのアイリスがいた。

「今日も1日頑張ります」

 アイリスは部屋を出る前にふと思い出すと、部屋の隅にある桐箪笥を開けて中にある小さな箱を取り出した。
蓋を開けて中に入っていた鈴を持ち上げる。なたねが取られた鈴と似ているが、桜の模様が描かれていて前のものよりも高価なものだ。
箱をしまったアイリスは、眠っているなたねの横にその鈴を置いておき、部屋を出た。



******************



「これは絶対に、妖怪が何かしているんです!」

 普段は御守や魔除け、縁起物などを売っている受付の横、
冠婚の相談や年末年始の御札の相談をする受付で、アイリスは若い男と向き合って座っていた。
工場の作業着を着たその男は興奮の勢いで机に両手をついて立ち上がり、アイリスに顔を近づけて迫っている。
アイリスは顔が近づいたため、椅子に座りながらも反射的に後ろへ下がり、困ったように微笑んでいた。

「杉谷さん、落ち着いてください。ちゃんと、お話を聞きますから」

「え? ああ、すみません……」

 杉谷と呼ばれた二十代半ばの男は大人しく席に座り直し、出されて少し時間が経ってしまった温いお茶を一気に飲み干した。
落ち着いたのを見計らってアイリスも居住まいを正し、改めて向き合って話す。

「お話を聞かせていただきます、あやめと申します。本日は、不可解な出来事のご相談ということで、よろしいですか?」

「あ、はい」

「お話を聞かせていただいてよろしいですか?」

「え、ああ、はい。……ここ最近、携帯につけてた鈴がなくなるっていう、変なことが起きてるんです」

「鈴……ですか?」

「その、鈴がなくなるっていうのも、俺だけじゃないんですけど……なくなる度に新しい鈴つけても、すぐなくなって。
工場の奴の誰かがやってんのかなって思ったんですけど、鈴なんてどこでも手に入りますし、そんな鈴好きの奴もいないしで……。
やっぱ工場の仕事って事故とかもありますから、御守とか持ってる奴多いんですけど、
その御守についてる鈴だけなくなるっていう変なことが度々起きてて。
気にしてない奴のほうが多いし高価なものじゃないんで、そのままっていう。
でも、俺、見たんです! 同期の奴の携帯の鈴が、何か黒い影みたいなのが一瞬通った瞬間になくなるところ! あんなの人間じゃない!」

「あの……杉谷さん、近いです……」

「え?」

 アイリスの言葉で杉谷は我に返ると、いつの間にかまた先ほどのように勢い余って立ち上がり、机に両手をついてアイリスに顔を近づけていた。
自分の行動と、アイリスの顔が近いことに改めて赤面した杉谷は再び椅子に座ると咳払いをした。

「と、とにかく、絶対に人間じゃない動きでしたし、影も小さかった。人間じゃない何か邪悪な妖怪の仕業に決まってる」

「その、杉谷さんは、何度も鈴を付け直されているみたいですが、なぜ鈴に拘るですか?」

「え? あ、えーっと……その……俺、昔から幽霊とか、非科学的な存在とか信じてて……
いや、いい歳した大人がこんなこと信じてるっていうと笑いもんだけど……
実際、ガキの頃から物なくなることなんて頻繁にあったし、
夜道歩いてたら人間じゃありえない動きしたりする影とか、大きさの影とか何度も見かけたし、
鈴って、そういう、魔物っていうの? それを追い払う力があるって聞いたから……
実際に鈴持って、音鳴らしてるとそういうのに遭遇することも減ったし……
でも、こんなことあってから落ち着かなくて、普段しないようなミスも何回かしたりするし、
何か狙われてる気がして仕方なねーんだ……」

「杉谷さん……」

「笑っちまうだろ? いい加減にしろってな。ははっ」

 どこか寂しそうに笑う杉谷に、アイリスは微笑むとドロップの入った缶を取り出し、1つ取り出すと缶を再び元の場所に戻した。
それからそっと、杉谷の手にその赤いドロップを載せた。

「これは?」

「シンプキン・ドロップという、イギリスのキャンディです。ちなみにそれはフォーレストベリーという味ですよ。
甘いものは疲れを和らげると言います。よかったら、食べてみてください」

「あ……ありがとうございます……」

「それと、工場で起きている不可解な現象の調査について、全力を尽くします。ですから、ご安心ください」

「え、あ、本当ですか?!」

「もちろんですよ」

「ありがとうございます!」

 杉谷は立ち上がると、その場で深く頭を下げた。

 アイリスは立ち上がると、鳥居の前まで杉谷を見送った。

「気を付けてお帰りください」

「ほんと、何から何まで悪いですね……」

「いいえ、お気になさらず。あ、杉谷さん、よかったらこちら、もらってください」

 そう言ってアイリスが取り出したのは神社のお土産の受付で売っている鈴のついた小さな御守だ。
手を出した杉谷の手に御守をそっと載せ、祈るように目を瞑る。

「鈴の力は昔から信じられ、今でも伝えられています。それは、力が本物である証でもあります。これからも大事になさってください」

「あ……あやめさん……」

 杉谷はアイリスの手を両手で包むように握ると、顔を赤くさせながらアイリスの碧い目を見つめる。

「だ、大事にします! そ、それと、もし、よかったら、その、お、俺と」

 言いかけた瞬間、なぜか杉谷の方向にのみ突風が吹き、驚いた杉谷は咄嗟にアイリスの手を離して風を防ごうとするような体勢を取った。
しばらくして風は止み、杉谷は呆然とそこに立ちすくむ。

「な……なんだ……今の……」

 アイリスは突風が吹いた方向を見る。視線の先には御神木が立つ山の頂上があった。
見つめ続けるが、それ以降、風が吹くことはなかった。
杉谷も同じ方向を見ていたが、我に返ると腕時計に目を向け、時間を見ると慌てる。

「やべっ! 昼の時間もうすぐ終わっちまう! じゃあ、あやめさん、俺はこれで! ほんとにありがとうございました!」

 そう残して杉谷は長い階段を駆け下り始めた。アイリスはその後ろ姿に礼をする。

「ご苦労様でした」

 顔を上げると空を見上げる。澄んだ青空が広がり、心地よい風が吹いている。

「さて、今日のお仕事も終わりましたし、あとは夜を待つだけですね……なたねの様子でも見に行きましょうか」

 アイリスは建物の中へ姿を消した。



******************



 部屋の襖の前で、アイリスは中から鈴の鳴る音を聞き、なたねが起きていることを知った。
ゆっくりと襖を開けると、布団の上で仰向けになりながら、今朝アイリスが置いていった鈴にじゃれつくなたねの姿を見つけた。
アイリスは、その小動物らしい愛らしさに微笑む。

「なたね、起きたのですね。新しい鈴は気に入りました?」

 アイリスの声に反応して鈴にじゃれつくのをやめたなたねは、すぐさま鈴を放り出し、彼女に飛びついた。
なたねを抱き上げたアイリスは、鈴を拾うとなたねに見せる。

「鈴、つけてあげますからね」

 そう言って畳の上に座ったアイリスは膝に乗せたなたねの首にその鈴をつけようとした。
しかし、なたねは嫌がるように鈴を猫パンチではじく。それが楽しかったのか、今度はアイリスの膝の上で鈴にじゃれつき始めた。

「なたね、鈴、嫌ですか?」

 再び鈴をつけようとすると、なたねはそれを拒絶した。そして、アイリスから降りると昨日まで鈴のついていたリボンを引っ張り出し、アイリスの前に置く。

「にゃあ……」

 寂しげに鳴き、リボンにじゃれつく。それを見たアイリスは少し驚きながらも、すぐに微笑み、なたねを撫でる。

「ずっと、一緒でしたね……代わりの物は、嫌ですね」

 なたねはアイリスを見上げ、また「にゃあ」と鳴く。

「今夜、また行きましょう。きっと、取り戻せますよ」

 その言葉に、なたねは嬉しそうに尻尾を振った。



******************



 夜。アイリスは巫女装束のまま、なたねを抱きかかえ、桜の模様が描かれた鈴と、
強粘度の両面テープでべた付かせた鈴を持って御神木の前まで来ていた。
月は昨晩と同じく、辺りを青い光で照らしている。
アイリスはいつものように御神木に挨拶と祈りを伝えるように手を合わせたあと、
なたねを自由に遊ばせ、御神木の根元に座ってその様子を見ていた。
しばらくしても昨日の気配は感じられない。なたねも遊び疲れて眠り始めてしまった。
ため息をついたアイリスは、粘着力のあるほうの鈴を自分の前にぶら下げて音を鳴らした。

「鈴ばかりがなくなるということだったので、てっきり狙ってくると思ったのですが……今夜はお休みなのでしょうか?」

 もう一振りすると、音が辺りに響いた。そのとき、昨晩と同じ気配がした。
アイリスは警戒し、じっと鈴を垂らしたまま見つめる。そして

「っ!」

 鈴に向かって小さな黒い影が飛んできたと思うと、影は鈴の粘着力によって動きを止められ、鈴とともにアイリスの膝の上に落ちた。
驚いたアイリスは自分の膝の上に落ちた鈴と、その鈴の横にいる影の正体に目を向ける。

「えっと……妖精さん? ですね?」

 月によって明るく照らし出された影は、透明な羽を生やし耳を尖らせ、
花や葉っぱでできた服をまとった小さな少女のシルエットを浮かび上がらせた。
妖精らしき少女は、アイリスの膝の上で体を起こすと、頭をさする。

『いたたたた……ちょっと、なんなのよこの鈴! べたべたしてて気持ち悪いし……って……』

 少女はアイリスに気が付くと、自分よりも大きな存在に一気に青ざめ、すぐさま逃げ出そうとする。

「あっ、あの、待ってください!」

 そう言ってアイリスは少女を押しつぶさないように優しく両手で包む。少女は必死に暴れ、アイリスの手を両手で押しのけようとする。

『もうっ! こんなことしてただじゃ済まさないわよ! 離しなさい!』

「すみません……少し、お話を聞きたいだけです。先ほどは、鈴がべたべたで嫌な思いをさせてごめんなさいです……少しだけ、お話しませんか?」

 アイリスの言葉を聞き、初めて害はないと判断すると、少女は暴れるのをやめ、ゆっくりとアイリスの顔を見上げた。
その整った顔立ち、長く綺麗な黒髪、優しげな碧の目に見とれたのち、頬をほんのりと赤くさせながらそっぽを向いた。

『分かったわよ……全部お話するから離して』

 その言葉に嘘はないと直感したアイリスは微笑み、ゆっくりと少女を手から放した。
少女は羽を機敏に動かしながら飛び、差し出されたアイリスの両手の上に立った。

「ありがとうございます。アイリス・リリーベルと申します。よろしくお願いします」

『リアーフェよ。リアでいいわ。この森の中で住んでいる妖精よ』

「リアさん。素敵な響きですね」

 リアーフェと名乗った妖精はそれに照れたように顔を赤くさせ、再びそっぽを向く。

『それで? 聞きたいことってなに?』

「はい、あの……昨夜、なたねの首の鈴を取ったり、町の工場の皆さんの鈴を取ったりしていたのは、リアさんですか?」

『昨夜? ああ、昨日もここに来ていたのはあなただったのね。そうよ、工場の人間たちから鈴を取ったのもあたし』

「なぜ、鈴を?」

『鈴には特別な力があるの。邪悪なものを追い払う力がね。あたしたち妖精は、神聖な力のある場所でないと生きていけない。
でも、ここ最近は人間の欲望とか醜さが環境にも害を成してきて、邪悪なものが集まりやすくなってる……
あたしたちもいつそういう邪気にあてられるか分からない。
だから、できるだけ追い払ったり清くしてくれるものが必要なのよ。中でも、あたしたちに一番安らぎを与えてくれるのが鈴なの』

「ですが、人からとってしまうのはよくないですよ? 困る方もいらっしゃいます」

『そんなこと言われたって……大体、人間が欲望とかもっと抑えればいいのよ。
なんであたしたちが言われなきゃならないのよ。ふんっ』

「で、でも、清い人もたくさんいます! そんなに酷い世界ではありませんよ?」

『……確かに、あなたみたいな人が多い世の中ならよかったわね』

「え?」

 ぼそりと呟いたリアの言葉が聞こえず、アイリスは思わず聞き返したが、リアは何も言わずにアイリスに背中を向けた。

『なんでもないわよ。……あっ、そうだわ』

 背を向けていたのも短い間で、リアは思い出したように再びアイリスを振り返る。
アイリスの顔の目の前まで飛ぶと目を覗き込むようにして聞いた。

『昨日、あたしがあなたから取った鈴だけど、あれもっとない?
あの鈴が一番清かったわ! でも、すぐに効果がなくなりそうで……』

「あ、では、あの、これはどうでしょう?」

 アイリスは自分の懐から桜模様の施された高価な鈴を取り出した。
リアは少しの間それを見た後、すぐに目を見開き、驚く。

『え、なにこれ、すごいわ! すごく清い気を感じる……こんな鈴初めて! もらっていいの?!』

「構いませんよ。ああ、でも、お願いがあります」

『ええ、なんでも言って!』

「もう皆様から鈴はとらないであげてください。妖精の皆様のように、鈴を御守にしている方もいらっしゃいますから」

『約束するわ! その鈴さえあれば、みんな心安らかでいられるから!』

「そしてもう1つ……昨日の鈴を、お返しいただけませんか? あの鈴は、私にも、あの子にも特別なのです」

『え? ああ、ええ、もちろん! ちょうど持ってきてるわ』

 リアの小さな手からピンポンボールほどの大きさの光が発せられたと思うと、
次の瞬間、なたねの付けていた鈴がその手に乗せられていた。
その鈴をそっとアイリスに渡す。

『はい、これ。悪かったわね』

「いいえ、ありがとうございます。どうぞ、こちらを。あなた方の役に立つことを願います」

 アイリスから桜模様の鈴を受け取ったリアは目を輝かせると、アイリスの前で宙返りをして喜んだ。

『ありがとう! これでもう安心よ! じゃあ、あたしはもう行くわ』

 リアはそう残すと、飛んで森の中へ帰ろうとする。しかし、また何か思い出したようにアイリスの前に戻ってきた。

『あなた、気に入ったわ。それに、この鈴をくれた。あなた自身からすごく神聖な気を感じる。人間かどうかも怪しいほどにね。
あたしたちはこの森に住んでいるから。またお話しましょ。いつでもあたしのこと呼んで。待ってるわ』

 ちゅっとリアはアイリスの頬に口づけをすると、アイリスもお返しとして軽くリアの頬に唇を触れさせた。

「また会いましょう。気を付けてお帰りください」

 微笑んだリアは鈴を大事に抱きかかえたまま、月の光の中に姿を消した。
最後まで見送ったアイリスは立ち上がると、眠っているなたねをそっと抱きかかえる。

「また来ます」

 誰にともなく呟き、御神木に礼をすると、アイリスは帰った。
その日を境に鈴がなくなる事件は収まり、なたねも元の鈴が戻ってきたことに喜んだ。
アイリスの日々は、これからも続く。

〇月明かりの神

 神話。それは、民族・文化・文明などの事象を、神などの超次元的存在や文化英雄などと結びつけ、1度限りの出来事として説明する物語。
諸事象の起源や存在理由を語るための、人が作り出した物語。神話が述べる出来事などは、不可侵であり規範として従わなければならないものとしている。
その神話の中にも、様々なものが存在する。ギリシア神話や日本神話、エジプト神話といったそれぞれの国に独自に根付いた逸話や星座やその他自然の話。
 しかし、そのどの系統にも属さない神話がある。


 クトゥルフ神話


 クトゥルフ神話とは、フィクションを多く扱うとある雑誌の小説を元にした架空の神話体系とされている。
無数の架空の神々や地名や書物などの固有の名称をクトゥルフ神話を作り上げた作家たちの間でやりとりされ、作り上げられた。
クトゥルフ神話を説明する上で忘れてはいけない、その最大の特徴は、物語に出てくる神話生物たちではないだろうか。
見た者を発狂させるその禍々しい姿と、恐怖に陥れる力を持つクトゥルフ神話生物。
本の中のみの存在。架空の生物。存在し得ない、存在してはいけないもの。

 しかし、本当に存在しないと言えるのだろうか?

 誰しも1つは聞いたことがあるであろう、言い伝えや迷信。これらは何かしら、理由があって生み出された話。
理由がなければ存在する意味のない話たち。何かしらの話にしてまで現代に語り継がなくてはいけなかった、何か。
 クトゥルフの生物たちも、本当に存在しないと言い切れるのだろうか?
本に記された生物たちは、本当に架空だと切り捨てて良いのだろうか?
もしも、作家たちが、その存在を現代に忠告しているのだとしたら……?

 今、身近に存在し、常に獲物を探しているのだとしたら……



******************



 夜。森に住む動物たちが寝静まり、人が認識している動物以外の人ならざるものたちが活動を始める。
その中には妖精や精霊、幻獣といった比較的害の少ないものたちから、悪意と力を持ったものたちもいる。
害意あるものたちはここ数年で力を増し、他の存在にも影響を及ぼし始めていた。
 しかし、その中でも変わらず強い神聖な力を持つ場所がある。
それは山の頂上にあり、そこへ行くためには神社から続く長い道を歩かなくてはならない場所。
御神木を中心にその力は溢れ、森の均衡を保ち、全てを清く神々しい気で包み込んでいた。

 今夜はその御神木に、異変が起きていた。

 いつもならばただそこにあるだけの御神木。頂上からすべてを見守り、自然の均衡を保つだけの存在。
その御神木が、満月の月明かりを受けて発光している。反射ではなく、大木自身が光を発しているのだ。
周りは青白い光で包まれ、そのうちに蛍の明かりのような小さな光の粒が漂い始めた。
その光は徐々に1つに集まり、人の形のようなものを作り出す。
木から発せられていた光はほとんどが小さな光の粒となり集まり、形を作り終える。
そして、満月の光を浴び続けたのち、その光は小さな震動を起こし、勢いよく四方八方へ飛び散った。
すると、そこにはもう小さな光が結集した人の形はなく、代わりに本物の人の形をした男が立っていた。
 その長身で痩身の体には、現代には不釣り合いな漆黒の鎧をまとい、胸板には龍を簡略化したような紋章が描かれている。
ミディアムロングの深い青銀色の髪に、表情の読み取れない顔は、目を瞑っていても人間とは思えないほど美しいことがうかがえた。
 男はゆっくりと目を開く。その目は宝石のような瑠璃色で、猫のような警戒を露わにしていた。
そのままゆっくりと満月を見上げると目を細め、呟くように低く艶のある声で呟く。

「アイリス……」

 男はそのまま光になると、風に乗ってどこかへ消えた。

 その一部始終を見ていた妖精、リアーフェは目を見開いたまま草木の影から出てくると先ほどまで男の立っていた場所まで飛んでいく。

『この気……じゃあ、やっぱりさっきのって……それに、アイリスって……』

 リアはまだ周りに残っていた光の粒を両手で包むように持つと、ふっと息を吹きかけてみた。
すると、光はすぐに消え、代わりに清らかな空気になり、リアを包む。リアはその空気を深く吸い込むと、うっとりとした表情になった。

『はぁ……これ以上ない神聖な気……やはりあの方は……』

 それからリアはハッと我に返った。

『こんなことしてる場合じゃないわ! 他の妖精たちにも知らせなきゃ……それに、アイリスがもしあのアイリスのことなら、聞かなきゃだわ!』

 リアは慌ただしく飛び出すと、自分の住む森の奥まで姿を消した。
そのすぐ後に、よくない気を発した何かが通り過ぎたとは気づかずに……



******************



 午前10時、日曜日の朝。副業が休みの今日、アイリスは黒の長い髪を1つにまとめ、巫女装束を着て神社の境内の掃除をしていた。
竹箒で落葉や砂埃を払い、隅々まで綺麗にしていく。その様子を、猫のなたねは屋敷の縁側で丸まり、あくびをしながら見ていた。
ゴミをまとめ、ようやく満足のいくまで綺麗にし終えたアイリスは、道具を片付け、なたねが丸まっている隣に腰掛ける。
優し気な碧色の目でなたねを見守り、優しく体を撫でてやればなたねは起き上がり、アイリスの膝の上に乗るとそこで甘えた。

「今日もいい天気ですね~」

 のんびりとした声でそう言えば、答えるようになたねも「にゃぁ」と眠たそうに鳴いた。
空気が澄み渡り、青空が広がっている。アイリスは膝で日向ぼっこをするなたねを撫でながら、風を感じていた。
だが、その時。アイリスは何かに気が付いたように辺りを見渡した。何かに見られているような気配を感じたのだ。
それも、あまりよくない気を発するものに。

「今……何か……?」

「にゃあ」

 アイリスはいつの間にか起き上がり、心配そうに顔を見上げていたなたねの鳴き声によって我に返った。
なたねは首の鈴を鳴らしながら、アイリスにすりすりと体をすり寄せ、尻尾を振る。

「あ、なたね、お腹すいたですか?」

「にゃあ!」

「ふふっ、すぐに用意しますからね。お家に入りましょう」

 そういうと、なたねを抱きかかえ、アイリスは家の中へと姿を消した。



******************



 夜になり、アイリスはいつもの日課で寝間着から再び巫女装束を着ると、御神木のある山の頂上まで向かった。
今夜はなたねが熟睡しているため、アイリス1人だけだ。慣れた足取りで階段をのぼって行き、気づけば御神木の前まで来ていた。
月明かりが差し込み、幻想的な様子を見せている御神木を優し気に見つめたあと、手を合わせて祈り、アイリスはいつものように根元に腰掛け月見を始めた。

「いいお月見日和ですね~」

 そう呟いた途端、遠くの方から微かに聞き覚えのある声が聞こえた気がした。
辺りを見渡すアイリス。すると、その声は気のせいではなく、徐々に近づき、声の主はついに姿を捉えられるほどまで近くまでせまってきた。

『アイリスー! あたしよー!』

「リアさん、しばらくでしたね~」

 そう、飛んで近づいてきたのは妖精のリアーフェ。通称リア。リアはアイリスの前までくると止まり、差し出してもらった両手の上に降り立った。

『ふぅ……まったく、たまにしか来ないもんだから退屈だったわ』

「私は毎日こちらにお参りさせていただいてますよ?」

『え? でも、全然あたし……』

「私がこちらに越してきた中学生のときから、通わせていただいてるです」

 にっこり微笑みながらリアにそう説明するアイリスに、リアは少し不安そうな表情をした。

『で、でも、アイリス、あたし、呼んでいいって……』

「え? ええ、覚えてますよ? でも、頻繁にリアさんをお呼びしてしまうのも申し訳ないですし、リアさん、お忙しいかと思って……」

『そ、そんなことないわ! だから来てるときくらい呼びなさい! 別に、夜だけじゃなくていいんだからね?!』

「え、あ、そう言っていただけるなら、お言葉に甘えて……。ですが、リアさん、毎日呼ばれても迷惑ではありませんか?」

『め、迷惑よ! でも、あなたが呼ぶならまあ、退屈しのぎにくらいにはなるし? 来てやってもいいのよって話よ』

 リアはそういうと腕を組み、ふんっとなぜか少し頬を赤くさせながら不機嫌そうにそっぽを向いた。
アイリスは首を傾げるが、すぐにまた微笑む。

「リアさんはお優しいですね。ありがとうございます」

『べ、別にお礼言われるようなことじゃないわよ……』

「私もお話相手ができるのはとっても嬉しいですから。それに、リアさんのこと大好きですからね。」

 その言葉にリアは少し頬を膨らませながらも、どこか嬉しそうにしながら、唇を尖らせる。

『まったく……あなたはそうやって……もう……』

「リアさんも、寂しくなったりしたらいつでも来てくださいな」

 思わず図星を突かれ、しかし、アイリスには自覚も悪意もなく微笑まれ、アイリスの顔の前まで飛ぶと真っ赤な顔で、怒ったように大声を出す。

『だ、誰が寂しいのよっ! 別に寂しくなんてないわよ! アイリス、あなたは一言多いわ!』

「あっ、あの、すみません……」

『ほんとにもう……』

 落ち着いてきたリアは再びアイリスの両手の上に降り立つと、ふと用事を思い出し、見上げながら聞く。

『そういえば、アイリス。あなた、毎日ここに来てるって言ってたけど、もしかして神様と知り合いだったりしない? その御神木の』

「御神木の神様……ですか? いいえ、神様には一度もお会いしたことはないですよ。でも、是非会ってみたいですね」

『あら、そうなの? なら別人かしら……おかしいわね……』

「何かあったのですか?」

『今日もそうだけど、昨日の夜はすごくきれいな満月だったでしょ?』

「そうでしたね。昨日は神社の縁側でなたねと一緒に見てました」

『その満月の光が、昨日ここを明るく照らしててね? それで、神聖な気がすごく充満してたの。だから、見に来たら……』

「見に来たら?」

『その御神木が光ってたのよ。それで、光の粒みたいなものがいっぱい集まったと思ったら震動が起きて、気付いたらその光のあった真ん中に人が立ってたの』

「人……ですか?」

『そう。でも、ただの人じゃないわ。姿形は人間なんだけど、あれは神様よ。しかもすっごく偉い神様! あれはすごく強力な力を持った神様よ』

「そうなのですか……会ってみたいですね。ところで、なぜ私がそのお方と知り合いと?」

『その神様、アイリスって呟いてたのよ。だから、てっきり知り合いだと思って……』

「んー……ですが、やっぱり私には神様の顔見知り様はいらっしゃいませんね……」

『そうなの……』

 アイリスもリアもどこか残念そうな表情を浮かべた。ふと、リアはまたアイリスを見上げて首を傾げる。

『そういえば、毎日来てるって言ってたけど、どうしてなの?』

 聞かれ、アイリスは少しぼんやりとしていたが、すぐにクスッと笑うとどこか嬉しそうに話し始める。

「こちらに通うようになったのは、中学校に入学するために日本に越してきた日からなんです。初めてこの御神木を見たときに、すごく優しい気持ちになりました。
それから、朝と、不定期に夜に来ることを繰り返してて。雨の日も雪の日も風の日も、この日課は欠かせたことはありませんですよ。
私にとって、ここはどんなときでも拠り所なのです。いつも、ただ受け入れてくださって、本当に感謝してるのですよ。
それに、この御神木に寄りかかるととても落ち着きます。すごく優しくて、温かいのですよ」

 嬉しそうに、宝石のよりも澄んだ碧色の目を細め、優しい眼差しで話すアイリスにリアは思わず見惚れていた。

『アイリスは……素直……よね。自分を飾らないというか、裏表がないというか』

「そうですか?」

『ええ。まあ、そういうところが気に入ったのだけど』

 アイリスはリアと目が合うとつい、お互いにクスッと笑い合った。とても穏やかな時間。
 だが、突然辺りに嫌な気が満ち始めてきた。それに気づき、アイリスとリアは辺りを見渡し、アイリスはリアを手の上に乗せたまま立ち上がる。

「リアさん……あまりよくない気配がしますね……」

『ええ、そうね……イライラするわ。それにどんどん強く……』

 言葉が言い終わる前にその正体は2人の前に姿を現した。
全身が青黒い濃い毛で覆われ、形は成人男性のようだが姿勢が悪く、動物のサルのようだが人間のように歩いている。
 アイリスもリアも本能的に危機を感じ、アイリスはリアを守るように後ずさる。

『な、なによ……こいつ……』

『ぐっひっひっひっひ……久々の女だぁ……』

『なっ、こいつしゃべった?!』

『ぐえーへっへっへ……昼間見た女ぁ……』

『こいつ気持ち悪いんだけど!!』

 アイリスはただ冷静にそのサルのような生物を観察する。すると、何か思い出したようにゆっくりと口を開いた。

「カク猿……ですね……」

『かく……えん……?』

「中国の伝説上の妖怪です。おサルさんのような姿で、女性をさらって、子どもを生ませるという特徴があるそうです」

『じゃあアイリス、あなた一番危ないんじゃない?! 早く逃げっ』

 しかし、リアが言い切る前にカク猿はアイリスに向かって駆けだしてきた。
アイリスは危機一髪で避けるが、体勢を崩すと尻餅をついた。リアは飛んで木の上まで行くと、手から小さな光の塊を作り出す。

『こらー! アイリスから離れなさい!』

 そう言いながらカク猿にその光を思い切り投げつける。しかし、カク猿にはその小さな光は痛みを感じさせるだけのようで、ダメージはそれほどない。
何より、今獲物を目の前にしてそちらのほうに気がいっているため、その痛みすら気にならないようだ。

『ほらアイリス! 早く立ち上がって! 逃げるのよ!』

 我に返ったアイリスはすぐに立ち上がるが、カク猿が再び飛びかかってきたのを間一髪避けたために、また尻餅をつく。
カク猿は再びアイリスを襲おうと飛びかかろうとすると、アイリスは何とか立ち上がろうとするが巫女装束の袴で引っかかってしまい後ろに倒れ、
カク猿がその上に飛び乗ろうとする。倒れそうな状態でアイリスにその飛びかかって来るカク猿を避けることはできない。
アイリスは目をぎゅっと瞑る。周りがスローモーションのように遅くなった。

 その瞬間

『ウギィッ?!』

 カク猿のうめき声のような声が聞こえ、アイリス自身は倒れることなく何かに抱きとめられているのか背中が温かかった。
そのどこか優しい温かさが御神木の根元に座って背中を預けているときと酷く似ていたため、不思議に思ってアイリスは目を開けた。
自分を抱きしめるような手を見た後、その抱き止めている人物に目を向けてみる。
 月明かりに照らされて見える深い青銀色の髪、猫のような目は瑠璃色で、人間とは思えないほど美しく整った顔立ちをしている。
黒の鎧を纏ったその長身の男は無表情に前を向いていた。
 アイリスは息が止まりそうになったが、ゆっくりと深呼吸をすると、男の見ている先に目を向ける。
先ほど飛びかかろうとしていたカク猿はなぜか倒れていて、男は片方の腕を真っ直ぐカク猿に伸ばしていた。
それで、アイリスは直感でこの男が何らかの力でカク猿を倒したのだと感じた。

「あ……の……」

「怪我はないか」

 艶のある低い声で問われれば、アイリスは思わずうなずく。

「は、はい……あの……ありがとうございます……」

 そんなアイリスに男はゆっくりと目を向けた。無表情なのは変わりはないが、どこか優し気にアイリスを見つめる。
アイリスは、なぜだか分からないが、この男がリアの言っていた“御神木の神様”なのだと直感した。

「あ、あのっ」

 アイリスが何かを言う前に物音がしたと思うと、倒れていたカク猿が起き上がった。
男はそちらに目を向けるとゆっくりとアイリスを離す。

「少し離れろ」

「え、あ、は、はい」

 アイリスは言われた通り数歩離れると、男は腰に帯刀していた刀を抜き取った。
刀は月明かりにより煌めき、素人でもその切れ味の良さが伝わる。

「貴様は消す」

 それだけ伝えると、男は容赦なくカク猿を真っ二つに切り倒した。
声を上げることなくカク猿は2つにされ、その体はやがて光となってどこかへ消えた。辺りの悪い気も一斉になくなり、元の神聖な気が漂い始めた。
一瞬の出来事にアイリスも、木の上で待機していたリアも目を見開き驚いている。男は刀を再び鞘に収め、アイリスと向き合い、目の前で立ち止まった。
 アイリスは男を見上げながら、優しく微笑む。

「あの、ありがとうございました。あなた様が、リアさんの言っていらっしゃった御神木の神様……でいらっしゃいますね」

「龍神で良い。アイリス・リリーベル」

「え、あの、私、名前……」

「お前のことは知っている。ずっと……な」

「あの……」

 アイリスが言葉を続ける前に、龍神はアイリスを抱きしめた。

「あのっ、りゅ、龍神様っ?」

「アイリス……いずれ迎え入れる」

「迎え?」

「巫女は神の妻となる。この龍神、お前を迎え入れる」

「あの……?」

「また会いに行く」

 龍神はそう言い残すといつの間にかアイリスの前から消えていた。
アイリスは驚きの連続でただ呆然と立ちすくんでいる。そんなアイリスの前にリアは飛んでくるとアイリスの前で暴れ始めた。

『ちょ、アイリス、あなた、今、神様っ、ちょっ、龍神って、あの、妻ってあなた、さっき!?』

「……へっ? あ、あの、すみません、私もよく分かってなくて……」

『だ、あ、え、あ、もー! あたしも意味わかんないんだけどっ?!』

「す、すみませんっ」

『謝られたって仕方ないのよ!! とにかく、あたしは今日はもう帰るわ……疲れちゃったし……。そうそう、今度龍神様に会えたら、あたしもお礼言わなきゃ。
それじゃあ、アイリス、またね。またさっきの変なのがいないって確証はないんだから! 真っ直ぐ帰るのよ』

「あ、あの、はい、そうします……今日はありがとうございました、リアさん。またお話しましょう」

 アイリスのその言葉にリアは微笑むと、森の奥へと消えていった。
それを見送ったアイリスは、帰る前に御神木に手を置き、そっと身を寄せると微笑む。

「ありがとうございました……」

 そう呟くと、アイリスは帰路についた。



******************



 部屋に戻り、部屋着に着替え直したアイリスは布団を被るがなかなか寝付けずにいた。
ゆっくりと寝返りを打つと、窓から月が見える。アイリスは月を見ながら先ほどの出来事を思い出した。
リアと話したこと、カク猿に襲われそうになったこと、カク猿が消えたこと、そして、龍神との出会い。

(リアさんも……そして、龍神様にも、またお会い出来たら……)

 そう考えていると次第に眠くなってきたのか、アイリスはゆっくりと目を閉じ、やがて小さな寝息を立てはじめた。

〇私の小さなお友達

 心地よい風が吹き、草花を揺らす。陽が差し込み、木漏れ日ははっきりとした影を地上に映し出していた。
午前中。本殿の裏手にある長い階段を上った先に、その大きな御神木はある。
 アイリスは御神木に手を合わせた後、ゆっくりと木を見上げた。
立派な枝や幹は、樹齢千年という時を感じさせないほど力強く、威厳を放っていた。
同時に、全てを見守っているような温かさと優しさも伝わり、アイリスは思わず笑みを零す。
 そっと幹に手を置く。そこから、何かを感じ取ろうとするように。

「……龍神様」

 呟くと、優しい風がアイリスの長い黒髪を揺らした。

 龍神。この御神木に宿り、全てを見守ってきたであろう、神様。
ミディアムロングの深い青銀色の髪に、宝石のような瑠璃色の猫目。
体には、和服の上に漆黒の鎧をまとい、堂々と立ち振舞っていた。
この世の者とは思えないほど美しく整ったその顔は無表情で、しかし、どこか翳りと優しさが伺えた。
 1か月ほど前、アイリスとリアを襲った妖怪、カク猿を斬り、2人を助け、均衡を正した。
その後、アイリスと対峙し、彼女を抱きしめながら「お前を迎え入れる」と言い渡した。
「また会いに行く」の言葉と共にいなくなり、それっきりだ。

 1か月前に龍神と出会ってから、アイリスは彼を見てはいない。
改めて礼をしたいと思い、御神木にもいつもより頻繁に訪れては、その面影を探している。
神様なのだから、きっと忙しいのだろうということは想像できる。
それでもやはり、アイリスは龍神に会って、話をしたいと思っていた。
 アイリスが日本に来て数年、ずっと見守ってくれていたその存在と。

 しばらくアイリスが御神木の根元に座ってゆっくりしていると、機敏に羽を動かし続ける音と共に小さな妖精が飛んでくる様子が見えた。

『アイリスー!』

 妖精はアイリスの目の前まで来ると、彼女が差し出してくれる両手の上に降り立ち、羽を休める。

「こんにちは、リアさん」

『退屈だろうと思って、あたしから会いに来てあげたわ』

「いつも、ありがとうございます」

 微笑んだアイリスに妖精、リアも微笑み返した。
それからリアは、辺りを見渡す。何かを探しているようで、そこに求めるものがないと分かると改めてアイリスを見上げた。

『アイリス、もしかして、今日も龍神様いなかったの?』

 アイリスは眉を下げ、困ったように笑う。

「そうですね……また改めてお礼を言いたいと思ったのですが……」

『そうね、あたしもお礼まだ言えてないどころか、自己紹介もできてないし……。あなたも色々聞きたいこと、あるんでしょ?』

「え、あ、はい。たくさんお話してみたいです。ずっと見守ってきてくださったことや、今までどのようなものを見ていらっしゃったとか……」

 リアはアイリスを見上げたまま、きょとんとした顔を浮かべていた。それに対し、アイリスは首を傾げる。

「どうか、されましたか?」

『……あなた、ほんとに、それだけの理由で龍神様を探しているの?』

「あの、はい……やっぱり、おかしいなのです……?」

『というか、もっと聞くことあるでしょ?! この前の妻の意味とか、迎え入れるの意味とか!』

 怒ったようにアイリスの顔の前まで飛んだリアは、両手を腰に当て、ぶつかりそうなほど顔を近づける。
それから空中で仁王立ちし、アイリスを真っ直ぐ指さした。

『いい? あなた神様にプロポーズされたかもしれないのよ? しかもとっても力の強い神様! あんな方、出会えることなんてまずないんだからね?!』

「ぷろ……ぽーず……?」

『そうよ。結婚を申し込まれてるかもしれないの。自分のことなんだからちゃんと考えなさい!』

 ふんっ、と怒ってそっぽを向いたリアは腕を組み、落ち着きを取り戻したのかアイリスの手の上に再び降り立った。
 なぜ怒られているのか、求婚の話をされているのかもまだ理解できないでいるアイリスは混乱し、困った顔をする。

「あの……私が神様からプロポーズされることは、ないと思います」

『何言ってるのよ? だって、この前……』

「あり得ないことなのです。だって、私は……混血ですから」

 優しいはずなのに、どこか距離を感じさせる微笑みに、リアは出かかった言葉を飲み込んだ。
その澄んだパミューダブルーの碧い目は、彼女が純粋なこの国の人間ではないことを示していた。

『アイリス……』

「ですから、神様が私を巫女として認めることはないなのです。結婚だなんてそんな、恐れ多いです……。
それに、私は人ですから。人と神様では、そもそも結婚はできません」

『……あなた、人であることや混血であること……恨んだりしてるの?』

 始終、笑顔で話すアイリスに、リアは恐る恐る訊ねた。それに、アイリスはまた優しい声で返す。

「いいえ、全く。とても嬉しいです。今の私だからこそ、きっとリアさんともお友達になれたのだと思います。
母も父も素晴らしい方々で、とても尊敬しておりますよ。私は、教会の後継者にも神社の後継者にもなれませんが、
それは私がどちらにも所属しているということでもあります。
私という存在が、宗教同士を理解するきっかけになるのでしたら、それはとても光栄なことです。
ですから、自分の生まれを悔いたことはありません。どちらも私には、大事な存在です」

 リアには、何も言葉を返すことはできなかった。アイリスの言葉に嘘はなかった。
そもそも、彼女が嘘を吐くことのできない人間であることは、まだ出会って長くはないリアでも分かる。
 混血であり、宗教の違う両親の間に生まれたために、それぞれの一族からはよそよそしく接せられながらも、
アイリスはそのことを一度も不幸だと思ったことはないのだ。
きっと、これからも彼女は自身の生まれを悔いることも、周囲を恨むこともないのだろう。

『……やっぱり、あなたはすごいわね。あたしの見込んだ通りだわ』

 首を傾げるアイリスに、リアは優しい笑みを浮かべた。

『まあ、あなたがそれでいいならいいんじゃない?』

 その言葉に、アイリスは笑顔を返す。

「そういえば、リアさんや他の妖精の皆様は、もともと日本に住んでいたのですか? 
リアさんのお名前や容姿から、ヨーロッパからの妖精に似ておりますが……」

『ああ、そうね。確かにこの国には似つかわしくないわ。それもそのはず、だってあたしたちは、大昔にここに移住してきた妖精だから』

「移住ですか?」

『ええ、そうよ。これは、あたしのじい様から聞いた話なんだけど……』

 大昔、科学も何も発展していなかった時代。まだ人と、人ならざる者たちが共存していた時代。
リアたちの先祖妖精たちは西洋の国で、自然を守り、人間たちへ自然の恵みを供給していた。
代わりに人間たちは、妖精や自然と共に暮らす者たちの安全を約束し、恵みへの感謝を込めて年に1度は祭りを催し、上等な織物を贈っていた。
祭りでは毎年、宝石類で作られた鐘を贈り、織物は自然で育った蚕の糸を使って作られ、それを返していたのだ。
 人ならざるものと人間は共に助け合っていた。過不足なく、互いに必要なものを必要なだけ分かち合う。
互いを尊重し、必要としていた。それは、長い間に培われた信頼関係であり、変わることのない関係であるはずだった。
 しかし、人々は地を開拓していき、科学の発展により暮らしは豊かになっていった。
山や森を切り開き、次第に人ならざるものたちの存在は忘れられた。皆は追いやられ、ひっそりと暮らすようになった。
人間たちの欲望や環境の汚染により、妖精や他の生き物たちも数が減っていき、住む場所も奪われていった。
 そんな中、妖精たちは移住することを思い立ったのだ。彼らは決して、人間を憎むことはしなかった。憎しみは彼ら自身を蝕んでしまうからだ。
留まっていてもいずれ蝕まれる、対立しても蝕まれる。だから、彼らは新しい地へ旅立つことを決めた。
 川を辿って海まで出ると、人間たちの船に紛れ込み、辿り着いた地で暮らしては移動することを繰り返した。
中には、その地で安定し、別れた妖精もいた。そうして様々な場所に散らばって行った。
 数十年後、住む地を転々とし続けていた妖精たちを乗せた船は、他国との貿易を始めた日本へと向かった。
着いた地は、争いは絶えなかったものの、多くは自然と共に生活をしていた自然豊かな島国。
人の欲によって邪悪な人ならざる存在たちも引き寄せられていたが、そこはまだ多くの人ならざるものたちと生活を共にしていた。
妖精たちは、そんな懐かしい生き方に心惹かれていき、最も自然が豊かで神聖なこの地を故郷とした。
 それが、リアの先祖であり、旅をしていた最後の妖精たちだったのだという。

『……とまあ、こんな感じかしら』

 語り終えた様子のリアは、誇らし気に笑みを浮かべ、アイリスを見上げる。

「そんなに昔から……」

『そうよ。あたしたちは移住してきたって言っても、あなたたちの先輩なんだから。ちなみに、妖精の生きる時間は人間よりも長いの。
あなたたち人間にとっての10年は、あたしたちからしたら1年くらいかしら。それくらいしか歳を取ってないのよ。
あたしたちの寿命は1000年以上いくし、あたしのじい様はもうすぐ2000年くらい。まだまだ元気なのよ』

「では、リアさんは?」

『あたしは生まれてから200年。でも、年齢に直したら20歳くらいね。あなたとあまり変わらないの』

 始終、アイリスは驚くことしかできず、感心したような目でリアを見つめていた。
改めて、その姿を目に焼き付けるように、じっと見つめ続ける。
すると、リアの表情は不機嫌になっていった。

『な、何よ』

「いいえ。ただ、とっても素敵なことだと思ったですよ! だって、ご先祖様方がこの国にいらっしゃらなかったら、
私はリアさんとこうして出会うことはできませんでしたから。
そのことが、とっても、とっても嬉しいのです! こうやって、リアさんとお話をして、お友達になれるのは、大事なことだと思うです。
リアさんは、たくさんのものを見てきたのですか? 良ければ、教えてくれませんか? リアさんが見て来られた、世の中のこと!」

 目を輝かせながら答えるアイリスに、リアは言葉を詰まらせた。
俯き、今は休ませている羽ごと体を震わせていた。その小さな震動を手のひらから感じると、アイリスは俯くリアの顔を覗き込もうとする。

「リアさん……?」

『……』

 呼びかけても返事をしない。先ほどまでの明るさはなく、アイリスはどこか不安を感じ始める。
また声をかけようか迷っていると、リアは呟いた。

『……素敵なんかじゃ……ないわよ……』

「え……?」

 その声は震えていた。いつもの彼女の明るく、よく通る声からは想像がつかないほど、か細い声だった。
今までの様子から一転してしまったことに戸惑いつつも、アイリスは気にかけるようにリアの小さな手に指先で触れようとした。

『っ、やめて!』

 リアはアイリスの手から離れるように飛び上がり、宙で息を荒げた。
突然の拒絶に驚きを隠せないでいるアイリスと共に、リア自身も何をしたのか理解できていないようだった。
それもすぐに我に返ると、リアは震える声を隠そうとするように声を大にして言う。

『そうよ! あたしたちは、あたしは、色んなものを見てきたわ! この200年、ずっと見てきたわ。
世の中の移ろいも、人の移ろいも、自然の移ろいも全部! たくさんの命が始まっていくのも!
……それと同じ数だけ……終わっていくのも……いっぱい、いっぱい見てきたわよ……。
そうよ……分かってたことじゃない……何で忘れてたのよ……あたしのバカっ……!』

「リア……さん……?」

 アイリスの声に、リアは唇を噛んだ。強く、人間の碧い目を睨みながら、小さな妖精は言った。

『ごめんなさい。もうあなたとは会わないわ。自分勝手なのは分かってる。でも、あたしはもう、あなたに会えない。アイリス』

「……あの……リア、さん……」

『あたしとあなたじゃ、生きる時間が違うの。 あまりにも、違いすぎるの! 妖精と人間は、本当は!
……本当は……会うべきじゃなかったのよ……。だって……人間のほうが絶対、先に遠くに逝ってしまうんだもの……。
妖精は、それでも変わらず、ずっと生きていくの……。あたしは、あなたがいなくなったあとも、ずっとずっと、生きていくのよ』

 言い切ったところで、リアはその場からすぐさま飛び去った。

 アイリスは何も言えずに去ってしまったリアに、胸が締め付けられた。自身の軽率な発言にも後悔した。
200年とは一体、どれほどの時の流れなのだろう。それをアイリスが知る術など、あるはずもなかった。


******************


 翌日、アイリスは心ここにあらずでいつものように御神木へのお参りをしていた。
リアの泣き顔や、言葉のことばかりを考え、小さなため息を吐く。
仲直りをしたいが、その度にリアの“生きる時間が違う”という言葉が引っかかる。
 人間にとっての10年は妖精にとっての1年。100年でようやく10年。リアが生きた時間は、人間の200年。
それは、妖精が20年分の時しか過ごしていないというわけではない。人間よりも長い長い1年を生きているという、それだけの違いでしかなかった。
人間にとっての200年は、リアにとって、1年が過ぎていくという感覚ではない。同じように、200年の歳月を経ているのだ。
その長い年月には、想像ができないほどの思いが詰まっているのではないか。
それを思うと、アイリスにはどうしても、気軽に仲直りをすることはできなかった。
リアは大事な友人であり、そんな友人をまた、軽率に傷つけることは、もう二度としたくはない。
 アイリスは、何度目になるか分からないため息を吐き、朝の参拝を終えると、またトボトボと神社に戻る。
その繰り返しが、もう1週間も続いていた。

 また数日後の夜。屋敷と呼ぶに相応しい、本殿のそばに建てられた彌守(みもり)家の居間。
大きなちゃぶ台に海と山の幸で彩られた食事が並べられ、それを囲むように4人の人物が座っていた。
アイリスと父、祖父母が並んで座り、向かい合って食事をしている。黙々と食事し、誰一人として声を発さない。
 その中で、アイリスはご飯を食べていてもため息ばかり吐き、食も進まないのか箸が度々止まった。
出来立ての白米が盛られた茶碗を持ち上げ、一口食べては小さなため息を漏らすばかり。
 ここ最近、増えてきたその行動を心配してか、隣に座っていた父の晴明(はれあき)は、ついに娘に切り出した。

「どうしたんだい、あやめ。ため息ばかりついて……何か、悩みごとかい?」

「……へ? あ、いえっ、その……すみません、ぼんやりしていました……」

「ここ最近、多いみたいだな。何か、気になることでもあるのかい?」

 アイリスが晴明の言葉に答えようと迷っていると、向かい合っていた祖母の潔子(きよこ)が茶碗と箸を置いた。

「食事の場で、そのような話をするものではありませんよ、晴明さん」

 80歳とは思えないほどしっかりとした、威厳のある静かな声で潔子は晴明を諭す。
晴明は改めて背筋を伸ばすと、頭を下げた。

「申し訳ございません、母さん」

「あなたもこの神社の跡を継いだのでしたら、しっかりと場を弁えてください。
そして、あやめさん。あなたももう成人なのですから、そのような態度のままではいけませんよ。
そんなことでは、良家の娘として、伝統のある御家になど嫁げません」

「も、申し訳ありません……潔子お婆様」

 俯くアイリスに、晴明は再び声をかけようとするが、今度は祖父の玄朗(げんろう)が眉間に皺を寄せる。

「あやめ、くれぐれもお前の役目を忘れるでないぞ。
跡取りになれぬ代わりに、お前には本家の歴史だけでも残してもらわねばいかんのだからな」

「……承知、しております、玄朗お爺様」

「父さん、母さん、あやめだって良くやってくれているよ。それに」

「お口が過ぎますよ、晴明さん」

 潔子の言葉に一蹴された晴明は黙り込んだ。

「何も、あやめさんを責めているわけではありませんよ。よく勤めてくださっていると思います。
ですが、今のままではまだ彌守の者としての自覚が足りません。
25歳までに嫁ぐことが困難になってしまうかも知れません。
ですから、しっかりと自覚を持っていただければと、わたくしも、玄朗様も言うのですよ」

 まだ納得のいかない晴明が、「それでも」と言葉を発そうとしたとき、アイリスは微笑んだ。

「ありがとうございます、潔子お婆様、玄朗お爺様。あやめは、しっかりと御家のため、精進致します。
きっと、ご期待にそえられるように致します」

「それなら良いのです。さあ、神様の与えてくださった、せっかくの食事を続けましょう」

 潔子のその言葉と共に食事は再開した。
今度はアイリスもため息を吐かず、いつも通りに料理を口に入れてはよく味わい、丁寧にいただく。
 晴明は未だに納得ができない、複雑な表情を浮かべながらも、アイリスを気にかけながら食事を続けた。


******************


 食後、風呂も終えたアイリスは、寝る前に夜の縁側に座って夜空を見上げていた。
膝に乗せた子猫のなたねを撫でながら、夜風に当たって涼む。
 考えても出てくるのは仲違いしたままのリアと、一度会ってそれっきりの龍神のことばかり。
御神木へのお参りは欠かせていないものの、今は長居することなく、祈りを捧げれば部屋に戻る。
夜の参拝も減り、リアや龍神と顔を合わせそうな気がして、御神木に行くことを、だんだんと躊躇うようになっていた。
 会いたくないわけではない。しかし、今のアイリスにはリアに掛けられる言葉もなければ、
きちんと龍神と交わせる言葉も持ち合わせてはいなかった。
長年続けてきた習慣にその場で足踏みしてしまうほど、アイリスは悩んでいた。
今までこれと言った問題もなく人と接してきた彼女にとっては初めてのことだった。
言い換えれば、それほど深い人付き合いをしてこなかったということなのだが。

「はぁ……私はどうしたら良いのでしょう……」

 なたねは最近元気のない様子の主人を見上げて「にゃあ」と一鳴きする。
一度、アイリスの膝の上をうろうろと歩き回ったと思うと、再び体を丸めてあくびをした。

「ふふっ。なたねはいい子いい子ですよ~」

 自分の膝の上で体を丸める子猫に、アイリスは癒され少しだけ息を吐く。
優しくゆっくりとふわふわな毛並みを撫でてやれば、なたねは間もなく寝息を立て始めた。

 アイリスが再び夜空を見上げたところだった。

「こんなところにいたのかい、アイリス」

 声をかけられた方向を振り向けば、そこには、作務衣を着た父の晴明が優しい面持ちで愛娘を見つめていた。
晴明は、妻やアイリスの前以外での人前では彼女を「あやめ」と呼ぶが、2人のときや妻の前だと「アイリス」と呼ぶ。
アイリスという名は妻が付けたもの。出来れば愛する妻の付けた名前を呼び続けていたのだが、アイリスが日本に馴染むため、
また、自身の両親である玄朗や潔子からの過剰な干渉を避けるために、日本の名前で呼んでいる。

「お父様……」

 アイリスは晴明と分かるとホッとため息をついた。晴明はアイリスの隣に腰掛ける。

「最近、本当に元気がないようだが……何かあったか? 職場を1人で切り盛りするのは、やっぱり辛くなったか?
それとも家のしきたりが負担になってきたか?」

 心配する父の潤んでいる目を見て、アイリスは慌てて首を振った。

「違います! そんなことありませんですよ、私は本当に、大丈夫ですから」

「でも、何か悩んでいるんだろう? 父親をあまり甘く見てはいけないよ」

「そんな、甘く見てなんて……」

「さあ、言ってごらん」

 戸惑うアイリスに、晴明は穏やかな口調で聞く。
 大人になった今でも、アイリスは父を押しのけるようなことを言うことはできなかった。
肩の力を抜いたアイリスは、なたねの背中を撫でながらゆっくりと口を開く。

「……あの……少しだけ、会うことが難しい……方がいて……」

「いつも放浪を繰り返している店長さんのことかい?」

「いいえ、店長さんには、とてもよくしていただいてますよ。あの……友人のこと、なのです……」

「そうかそうか、友人の……友人? アイリス、今、友人って?」

「え? あ、はい、友人のことなのです」

 晴明はアイリスの口から「友人」という言葉を聞き、耳を疑った。
娘からその言葉を聞くのは、よほど意外だったのだろう。

「アイリスから友達の話を聞くのは初めてだね……。
父様は嬉しいよ……友達の話をしてくれたことなんてなかったから、寂しい思いをしているんじゃないかと……」

「そうですね……昔からイギリスでもこちらでも、特別にどなたかと仲がよかったわけではありませんでしたし……」

「うん、うん。そうか、アイリスの友達の話かー。その子は一体、どんな子なんだい?」

 聞かれると、アイリスは考え、ふと笑みを零した。

「とても素直で、明るくて、いつも元気に飛び回っていらっしゃる方です。優しくて、いつも私を気にかけてくださります。
大変なときには助けていただいたこともありますですよ。小さくて、可愛らしい方です」

 どこか楽しそうで、嬉しそうに友人のことを語るアイリスを見て、晴明は微笑ましく思う。
そっとアイリスの頭を撫でると、語りかけるように言った。

「お前には、大事な友達なんだな……。そんな友達と、何かあったのかい?」

 アイリスの表情からは、先ほどの明るさはなくなり、微笑んではいるものの表情はどこか翳りがさした。

「……軽率な言葉で、傷つけてしまったのです……。悲しい思いをさせてしまって、もう会えないとも言われました……。
お会いして、謝りたいのですが、会わせる顔もなくて、どうして良いのか分からないです……」

 頭を撫でていた手が退き、晴明は変わらぬ笑みを浮かべ、夜空を見上げた。

「そうかそうか。アイリスは本当に、その子のことが大事なんだな。うんと大事にすればいいさ。会いに行けばいい」

「でも……」

「お前がそんなにも大事にしている子が、お前と同じように思っていないとは限らないだろう?
もしかしたら、その子もお前と顔を会せて話したがっているかもしれないじゃないか。
その子がお前に、本当にもう会いたくないなら、それはそれで、縁がなかったと思うしかない。
でもその子は、お前との関係をこれで終わらせるほど、絆の浅い子なのかい?」

 言われて考えてみる。出会ってからまだ間もないことには変わりないが、それでもほぼ毎日のように会って話をしていた仲だ。
関係はまだ深くないのかもしれないが、共に過ごした時間は密度の濃いものだと感じている。
アイリスにとってリアは、こんなにも悩むほど、大切な友達なのだ。

「……きっと、まだそこまで深い関係ではないのかもしれませんが……それでも、大事な方であることには、変わりません……」

「なら、その子に会いに行っておやり。お前がそんなに悩むほどの子なら、きっと向うも仲直りしたいと思っているはずさ」

「……はい」

 アイリスは初めて晴れたような笑顔を浮かべ、晴明と同じように夜空に目を向けた。
今夜、リアに会うことは叶わないかもしれない。しかし、御神木へのお参りはしておこうと心に決めた。
先ほどまでは、長年の習慣とはいえ参拝することに足踏みをしていた気持ちは大分軽くなった。

「そろそろ寝ようか。おやすみ、アイリス」

「はい、おやすみなさい、お父様」

 そういうと、アイリスは隣に座る晴明の頬におやすみのキスをした。
晴明も愛娘の頬に返すと、頭を撫でてやり、立ち上がって自室に戻って行った。
それを見届けたアイリスは、眠るなたねをそっと抱きかかえ、縁側の障子を閉めて部屋に戻った。


******************


 家にいる者が寝静まり、辺りが更に暗くなると、アイリスはそっと、寝間着の浴衣のまま外に出た。
いつものように階段を上り、半分まで行くと休憩し、また残った半分を上る。

 御神木の前まで辿り着くと、アイリスは手を合わせた。祈り終えると、ここ最近の中では一番、穏やかな面持ちで御神木を見上げる。
今夜は満月。御神木は月光を受け、まるで自らが光を発しているように輝いていた。
 アイリスは木の幹に手を置く。慈しむように撫でさすり、手を離した。
そのまま帰ろうと踵を返し、帰路につく。
 その時。風が一陣吹いたと思うと、アイリスは包み込むような温もりを感じて御神木を振り向く。
来た時には居らず、それどころか、ずっと会いたいと願っても会えなかった存在がそこにはいた。

「龍神様……?」

 龍神が表情もなくそこに立っていた。
深い青色の髪は月明かりに照らされ銀色に輝き、狩衣のような和服の上に簡易化された龍紋をあしらった黒い鎧を着ている。
爬虫類のように鋭い瑠璃色の猫目は翳りを含ませながらも優しく、アイリスをとらえている。

「アイリス」

 艶のある低い声は、1か月前に聞いたまま変わりはなかった。
アイリスは思わず笑顔になると、龍神の元へ向かい、頭を下げた。

「お久しぶりです、龍神様……。お会いできて嬉しいです」

 そんな笑顔を見ると、龍神は目を細め、アイリスを引き寄せて前触れもなく抱きしめた。
最初は何があったのか分からなかったアイリスも徐々に理解すると、慌てたように龍神を見上げた。

「りゅ、龍神様っ?」

「苦しんでいたのか?」

「はい……?」

 唐突な問いにアイリスは戸惑う。龍神の抱きしめる力が緩んだためにそっと離れる。

「お前の声が聞こえた」

「私の声……ですか?」

「辛き声であった」

 どうやらリアのことで悩んでいることが、龍神にも伝わっていたらしい。
アイリスは俯くと、寂しげに微笑む。

「あの……リアさんと、仲違いをしてしまって……。父に話すと、会って仲直りをすればいいと、言っていただけました。
それで、少し、気持ちは軽くなりました。でも……どう、言葉をかけたら良いのか分からないのです……。
どうしても、リアさんの……“生きる時間が違う”という言葉で、どうお話すれば良いのか……」

 龍神はアイリスの話を始終、真顔で聞いていた。何かを言うわけでもなく、ただ聞いていた。
聞き終えたあとも特に言葉を発さず、アイリスを見つめ続ける。さすがに視線が気恥ずかしくなり、アイリスは俯いた。

「あ、あの……すみません……変なお話を……」

「構わん」

「あの……龍神様……」

「何だ」

「……龍神様は、どれほどの時間を、見守ってきたのですか……?」

 その問いに、龍神はただ目を瞑った。その様子は何かを思い出しているようで、アイリスはそれ以上は何も聞かなかった。
しばらく沈黙が続いたあと、目を開けた龍神はアイリスの頬に手を当てた。

「……人の(とき)は有限だ。魔物もまた、有限。生命(いのち)あるものは(いず)れ土に還る。悔いを残すな」

 龍神の言葉にアイリスは目を見開いた。口の中で何度かその言葉を繰り返し呟き、それから改めて龍神を見上げて微笑む。

「はい。ありがとうございます」

 微かに目を細め、優しい目をしたかと思うと何かに気づいたように龍神は空を見上げた。
しばらく光り輝く満月を見つめたと思うと、再びアイリスと向き合う。

「また会いに行く。暫しの別れだ」

「あ、龍神様!」

 アイリスが何かを言うより先に龍神はいなくなってしまった。

「……次はいつ、会えるのですか……」

 伝える相手を失った言葉は行き場をなくし、虚しく辺りに響き渡った。


******************


 翌日の夜。巫女装束のまま、アイリスはようやく晴れた気持ちで御神木へやってきた。
今日こそはリアと話をしようと決め、彼女に会いにきたのだ。

 アイリスは深呼吸をすると、その名前を呼ぼうと口を開いた。

「リアさ……」

『アイリスー!』

 久々に聞いた声に呼ばれて驚いたアイリスは、声の方向に目を向けた。
リアがどこか泣きだしそうな顔で猛スピードで飛んでくる。
アイリスはそれを見ると、思わずそちらに駆け寄り、小さな友人をそっと胸に受け止めた。

「リアさん!」

『アイリス、ごめんなさい……! あたし……あたしっ……!』

 ついにボロボロ泣きだしたリアはアイリスの胸に抱き付きながら、顔を上げた。

『あたしっ……あなたにひどいことっ……』

「いいえ、そんなことありませんよ。私もすみませんでした……リアさんの気持ちも考えずに、あんなこと……」

『いいの、いいのっ! あなたが知らなくて当然よ! なのに……あたし……。
怖かったの……あなたがいなくなったあとの時間が……今まで、こんなに話ができた友達なんて、いなかったから……』

「私もですよ、リアさん……。私も、こんなに悩んで、こうやってまたお話ができてとても嬉しいと感じられるほどの友人は、今までいませんでしたから。
私がリアさんと同じ立場であったなら、きっと、同じことを思っています。だって、あなたは私の大事な、お友達ですから……」

『アイリスっ……』

 リアはアイリスの胸の顔を埋めて泣き続けた。それを、ただそっと包み込むように受け止める。
きっと、リアもアイリスと同じように悩んでいたのだろう。最も、どちらも心配するようなことは何もなかったようだが。

 ようやく落ち着いたリアはアイリスから顔を上げ、アイリスはそっと彼女を離した。
羽を機敏に動かし、目の前で飛んでいるリアのために両手を差し出せば、掌の上に降り立つ。
晴れてすっきりした様子のリアの表情を見ると、顔を見合わせ微笑んだ。

「たくさん、悩みましたよ」

『こっちこそ。しばらくは、じい様たちに心配されたわよ。
それで、話を聞いてもらって、あたしはあたしで、今ある関係を大事にすればいいんだって気づいたの』

「私も、お父様たちに心配されて……龍神様にもお会いして、悔いを残すなと言われました」

『龍神様に会えたの?』

「はい。でも、すぐにまたどこかへ行かれました。また会いに来てくださるそうです」

『そうなの……でも、そうね。悔いを残さないようにしなきゃね』

 そう言って、リアはアイリスの頬に手を当てた。

『あたしね……たくさん、色んな動物が生まれて、同じ数だけ死んでいくのを見てきたわ。
それが自然の摂理で、仕方のないことだって分かってる。
あたしたち妖精は、他の生き物よりも長い時間を与えられているだけで、いずれは同じようにこの大地に還っていく。
それが、命をもらったものたちに与えられた、絶対に変わらないことなの。
そんなこと、分かってる。だから、ずっと命の始まりと終わりを見てきた。
……でもね、動物の、特に、人間の命は、本当に儚かった。短い寿命で、病気で、誰かに奪われて、争い合って……。
そうやって消えていく命が多かった。人間は、100年生きることすら難しいんだって思った。
あたしたちにとっては、ほんの10年を生きることすら、許されないんだって。
だから……あなたがいなくなることが、怖くなったの。
“出会えたことが素敵”って言ってくれたとき、あたし、人間がすぐにいなくなるってことを思い出したの。
あなたと関わっていくことが、怖くなった……。いつ、いなくなるか分からないと思ったら、悲しくなった……。
あたしにとって人間の時間なんて、ほんの一瞬よ。一瞬のその時間が濃いものになっちゃったら、終わるって分かってるのに手放せなくなっちゃう。
そんな思いを抱えたまま、あたしはあたしの時間を過ごさないといけないなんて、そんなの……耐え切れるわけないじゃない……」

「リアさん……」

『……でもね、じい様に言われたの。“妖精にとっての一生が長いからって時間は待ってはくれない”って。
あたしね、200年を生きて感じたのは、一生ってまだまだ長いもんなんだってこと。
だから、別に何日、何か月、何年をどう過ごしたって変わらないって。でもそうじゃないの。
人間の一生が、あたしから見たらすごく短い。でも、人間はその一生が、長かったりするんでしょう?
あたしから見たら、ほんの数日みたいな時間なのに、その中でたくさんのことを人間はしてきてるの。
……それを思ったら、もしかしたらあたしの一生も、数字にすると長く見えるだけで、
本当は、ほんの一瞬みたいな時間なのかもしれないって気づいたの。
だからね、後悔しないように生きなくちゃって決めたの。
あたしの一生がそんな一瞬みたいな時間なら、人間のアイリスの時間なんてもっと短いもの。
だったら、今をちゃんと過ごさなくちゃ。あたし、あなたとずっと友達でいたいもの。いつか、お別れしなくちゃいけないかもしれない。
でも、だったらその“いつか”が来るとしても、あたしはあなたと友達でいたいわ……アイリス」

 その小さな手を離したリアは、アイリスの頬に親愛を込めてキスをした。
アイリスも嬉しそうな笑みを浮かべると、リアの頬に唇を軽く触れさせ、返した。

「私も、リアさんとずっとお友達でいたいです。いっぱいお話して、いっぱい色んなことができたら、とても嬉しいですよ。
だから、これからもよろしくお願いします。私、本当にあなたと出会えたことを、素敵だと思ってます」

『ええ。あたしも嬉しいわ! よろしくね、アイリス』

 2人は笑い合い、それからは空いてしまった日々を埋めようとするようにたくさんの話をした。

 満月も真上に昇る頃、月明かりはこの友人たちを、優しく照らし出していた。

〇望めばそこに

 リアと仲直りをしてから1か月。アイリスは変わらず、御神木への参拝を続けている。
その際にはリアも顔を見せにやってきては、時間が許す限り話をして、別れるということも日課になっていた。
今ではアイリスの飼い猫である子猫のなたねとも仲が良く、
リアはその小さな体でなたねにまたがり、一緒に遊ぶことも増えてきた。

 そんな中、ここ最近になり、アイリスは誰かの気配を感じては辺りを見渡すようになった。
境内で掃除をしているとき、今働いている店で仕事をしているとき、買い物をしているとき、散歩をしているとき。
時には、図書館やカフェでの休憩中ですら、誰かに見られている気がした。
 他にも、境内で見覚えのない枯葉が一塊で落ちていたり、
アイリス以外は見ることのない郵便受けを誰かがこじ開けようとした形跡を発見したり、
どこかから光が瞬いた気がしたりということがあった。
今まで、あまり感じたことのない不安と困惑に首を傾げていたが、特には気にせずに過ごしていた。

それ以外は特に変わったことのない日々を過ごしていたアイリス。
また、いつものように夜、御神木の根元でリアと話をしていた。
その際、アイリスは思い出したようにここ最近のちょっとした異変をリアに話した。

『見られてる気がする?』

「はい。なんだか、どなたかの視線を感じるのです」

『気のせい……ではなさそうね。他に心当たりは?』

「そうですね……ポストの鍵がこう、上手くはまらなかったり、境内に見かけない枯葉さんたちがいたり……」

『それに関しては……たまたまじゃないかしら……』

「そう……ですよね。すみません、何でもないなのです。きっと、思い過ごしですね」

『まあ、今回はそうかもしれないわね。でも、一応、気を付けるのよ?』

「はい。ありがとうございます」

 微笑むアイリスに安堵したリアは思い出したことがあるのか、村での出来事について話始めた。
アイリスはそれに相槌を打ち、時には楽しそうに、時には真剣に、そして互いに笑い合いながら、その日は別れた。


******************


 薄暗い部屋の中、1人の三十路近い男が明かりも点けずに薬らしきものを調合していた。
辺りにはドライバーやペンチ、小型の時計が複数散乱している。
黒い空の入れ物や、赤いボタンのついた機械もあり、何やら不穏なものであることが分かる。

「ひっひっひ……こ、これで、お、おれは……ひっひっひ……」

男の口元が歪み、肩を上下させながら引きつった笑い声を上げる。
黄ばんだ歯を剥き出し、心底気味の悪い表情を浮かべていた。
唇を舌なめずりし、止まらない汗を拭う。これから、自身が行おうとしていることを想像して高揚しているようだった。

「こ……これさえあれば……ひひっ……あの子も……ひひひっ……こ、今度こそ、お、おれの……ひっひっひっひっひ」

 再び肩を震わせ、引きつった笑い声を上げた。男は引き出しから慎重に、1枚の写真を取り出す。
写りが悪く、半分見切れてしまっているが、そこには黒髪をなびかせる碧い目の美女が写っていた。
見切れてはいても穏やかな面持ちも雰囲気もよく分かるほど、
上品で優しげな表情は、老若男女問わず、好感の持てるものだった。
 他にも数枚、同じ女性の写真があるが、どれも写りが悪く、中には顔すら見えないようなものも多くあった。
その中でも男が取り出したのは、一番まともに撮れた1枚らしい。
しかし、どの写真もカメラの存在になど気づいていない目線ばかり。
いわゆる盗撮なのだろう。男、須藤(すとう)幹太(かんた)は、天輪神社の巫女、彌守あやめことアイリス・リリーベルのストーカーだ。
彼の恋愛感情は歪んだ形となり、一方的にアイリスに向けられていた。
アイリスと須藤は面識などないのだろう。

 須藤がこの町に越して来たのは3か月のことだ。
元々はいくつか離れた町の実家で暮らしていた須藤は、
両親が家を新しく建て直したために、それまでいた町を離れることになった。
 長年住んでいた町にも神社があり、そこへ訪れることが何度かあった。
そこにいたのは、人の良い若い巫女。
須藤が人目を避けるようにお参りをしようとしたところ、その巫女が須藤に声をかけ、世話を焼いたのだ。
生まれてから30年近く、母親以外の異性に良くされた思い出のなかった須藤は、女性に恋をした。
しかし、そんな女性とそれ以降、まともに接することもできずに引っ越したため、その恋は実ることもなく終わった。
 そんな矢先、コンビニでの買い物帰り、新しく越して来た町にある神社の前を通り過ぎるところで、
階段を上がっていく巫女装束の女性を見かけた。
それが、アイリスだった。以前の巫女と姿を重ね合わせた須藤は、
それから度々、アイリスを影から見ては盗撮することを繰り返して来た。
だが、アイリスを写真に収めようとする度にフレーム内に邪魔が入るといったことが必ず起き、まともに撮れたことは一度もない。
 痺れを切らして須藤は次の行動に出た。
アイリスのいない間を見てポストの鍵をピッキングし、名前や家族構成の情報を入手した。
見守るだけで気づいてもらえないことに不満を抱き始め、神社の周りにはない木の葉をかき集めては不自然に境内に散らした。
それでも、気づいてもらえることはなく、それどころか気に留めもされていない。
 ついに、須藤は新たな段階に踏み入れることにした。それが

 アイリス・リリーベルの誘拐

 いや、彼にとっては誘拐ではなく、迎え入れるという意味になる。
定職にも就かず、コンビニや必要なものを買いに行く以外に外へ出ない須藤。
母親に甘やかされ、父親には諦められた彼も三十路。そろそろ身を固めなくてはならない。
万が一、アイリスに断られても須藤には策があった。それが、つい先ほど出来上がったばかりの黒い小さな箱型機械。
これで、嫌でも逆らうことなどできないだろう。もはや、彼にとって手段など関係がないのだ。
恋をした相手を手に入れられるのであれば、どんな手も問題にはしていない。

「ひひっ……ま、まっててね……今迎えに行くからね……ひっひっひ……」

 須藤はいつまでも、引きつらせた笑い声を上げていた。


******************


 ある休日の昼頃。アイリスは夕飯の買い物を済ませて帰って来ると、
着ているシャツの袖を捲り、買い物袋から食材を出していく。
台所の冷蔵庫に新鮮な食材を入れていく。そこで、アイリスはあることに気づく。

「あら~」

 てっきり、冷蔵庫に入っていると思っていたものがない。

「牛乳さん、買い忘れてしまいましたですね~」

 間延びした、しかしどこか困ったような独り言が台所に響き、アイリスは少しの間、頭を悩ませる。
それから、仕方なさそうに微笑むと、改めて買い物袋を手に持ち、
財布が入っていることを確認し、ロングスカートを翻して再び家を出た。

 長い階段を下り、スーパーへと続く、細道を歩く。
しかし、先ほども同じ道を通ったというのに、どこか空気が違っていた。
何も変わっていないはずなのに、寒気がする。酷く嫌な予感がする。
誰かにつけられているような、見られているような感覚がはっきりと。
 少し遠回りになるが、別の道を使おう。そう、アイリスが思ったその時。
突然、後ろから誰かに口を塞がれた。慌てたアイリスはすぐに離れて後ろを振り返る。

「な、なんですっ……?!」

 上下の灰色のジャージを着た男が、声を上げさせる前に振り向いたところで再び口元をガムテープで塞ぎ、地面に突き飛ばした。
すぐさま男は小さな小瓶を出したと思うと、蓋を開けて塞いだアイリスの鼻に持っていき、中の気体を嗅がせる。
徐々にアイリスの意識が薄れていき、手に力が入らなくなっていき、
目の前が真っ暗になる直前、男の笑ったような顔が見えたのを最後に倒れた。


******************


 涼しい風が当たる。それは、規則正しく、一定の風量と間隔でやってきては去っていく。
タイヤのゴムのような臭いと薬品の臭いに噎せ、アイリスは目を覚ました。
咳をするがくぐもってしか聞こえず、自身の口が布のようなもので塞がれていることに気が付いた。
片頭痛で眩暈がするが、それよりも、今は自分がどこにいるのかを知るために起き上がり、周りを見渡す。
 エアコンの電源が付けられ、その風が一定の間隔で当たっていたらしい。辺りにはベッド、机や椅子、棚などの家具。
床にいるためか机の上に置いてあるものは分からないが、何か四角い、小さな箱らしきものが見える。
棚の横には収まりきらなかった雑誌や漫画類が積み上がり、その上に工具や用途の分からない液体の入った瓶が置かれていた。
近くには、自分の買い物袋が放られている。部屋はカーテンを閉め切っているために暗く、一切の光がない。
 この場所が誰かの部屋であり、自分は意識を失っている間に連れて来られたのだと改めて認識した。
一刻も早くここから出なくては。そう思い、アイリスは立ち上がろうとするが、何かに引っ張られ、すぐに座り込んでしまう。
どうやら、両足首を縄で縛られているらしい。それを解こうと手を動かそうとするが、今度は両手が動かない。
当然、両手首も縄で縛られていた。これでは、身動きもできなければ、口が塞がれているために声を上げることもできない。
 困り果て、それでもなお、少しずつ解いていこうと小刻みに両手を動かし、縄を緩めようとしていたところだった。
部屋の外で、男の怒鳴り声と、その声に怯えたような女の返事が聞こえた。思わず驚いたアイリスは動きを止める。
そのすぐ後に、部屋の扉がゆっくりと開かれ、外の明かりが暗い部屋に差し込む。

 入ってきたのは、上下灰色のジャージを着た男。突然、後ろから襲ってきたと思うと薬品を嗅がせてきたあの男だ。
扉を閉め、鍵をかけたと思うと、机の上のスタンドライトを付ける。少しだけ部屋は明るくなったが、それでも暗闇のほうが強い。
アイリスは入って来たその男を見上げ、不安げな目をする。男はそんなアイリスを見ると、口角を上げ、笑った。

「や、やあ……ご、ごめんよ……び、びく、びっくりした……?
お、おれ、須藤幹太っていうんだ……よ、よろしくね……み、彌守あやめちゃん」

 たどたどしくもそう名乗った須藤。先ほど微かに聞こえた怒鳴り声は、どうやらこの男のものだったようだ。
怒鳴り声のときとは一転して、今アイリスの目の前にいる須藤は気弱で、何かに怯えているようにも見える人間だった。
だからといって、油断できる相手ではない。
現に、アイリスは連れ去られ、ここで縛られ、逃げ出すことも声を上げることもできなくされている。
 未だに不安そうな顔を向けるアイリスに、須藤は不自然な笑みを浮かべながらも、
緊張しているのか何度も両掌を服で拭いている。

「あ、ああ……い、いきなり連れて来られて、お、驚いたよねぇ?
ご、ごめんねぇ……お、おれ、お、女の子と、話すの、慣れてなくて……」

 そう言われても、口を塞がれているアイリスには答えようもない。

「そ、それでねぇ? い、いきなりで、悪いんだけどさ……お、おれと……け……け……結婚してくれるよねぇ?」

 突然の提案に、アイリスは目を見開く。頭の中はいよいよ混乱を極め、どうして良いのか分からなくなる。
申し訳なく思いながらも、断るための声も出せず、アイリスは不安と困惑で、ほんの少し後退る。
それを見た須藤は、深いため息をついて、落胆を見せた。

「はぁ……そうだよねぇ……こんなおれなんかと、け、結婚なんて、したくないよねぇ……
で、でもねあやめちゃん……き、きみに拒否権はないんだよ……ひひっ……」

 そう言うと、机の上に置いてあった四角い箱をゆっくりと持ち上げた。
それほど大きなものではなかったらしく、それは須藤の両手にすっぽりと収まっている。

「こ、これねぇ、頑張って作ったんだよ……すごい、でしょ?」

 反応は返せない。しかし、その手に持っている小さな箱は、何やら危険な気がする。

「こ、これ、これねぇ、爆弾なんだよ……」

 爆弾。その言葉に、アイリスはびくっと、思わず背筋を伸ばした。
須藤の言っている爆弾は、あの、文字通りの爆弾なのだとしたら、下手に刺激をしてはいけない。

「あ、あやめちゃんさえ、結婚してくれるなら、ちゃんと解体して捨てるよ……」

 つまり、断ればその爆弾で何をしでかすかは分からないということだ。
断りさえしなければ、多くのものが助かる。
しかし、アイリスは家のため、家の決めた相手へと嫁がなくてはならない。
今ここで申し出を受けてしまえば、家にも迷惑をかけ、両親にまた肩身の狭い思いをさせてしまう。
反対に、結婚という条件をのまなくては、他の無関係の人間も巻き込んでしまうかもしれない。
 アイリスに選べる道など、あってないようなもの。
どちらにしろ、自分を犠牲にすることについては、考えてもいないようだが。
ここは穏便に済ませたいのだが……。
考え込んで俯いたアイリスに、須藤は爆弾と称した箱を再び机の上に置くと、ゆっくりと近づいた。

「あ、あや、あやめちゃんなら、断ったり、しないよねぇ……?」

 縛られて座り込んでいるアイリスと同じ目線にしゃがんだと思うと、
身動きの取れない彼女のシャツのボタンを1つずつ外し始めた。
流石に驚いたアイリスは、必死に後退り、離れようとするが、それに対して須藤は怒声を浴びせる。

「怪我したくないなら大人しくしろっ!!」

 怒鳴られ、驚いたアイリスは反射的に止まってしまう。
 その声に、部屋の外から「どうしたの、何かあったの、幹太!」と、あの怯えた女の声が聞こえてきた。

「うるさい!! 何でもないからどっか行け!!」

 その声にまた怒声で返した須藤。
部屋の外で、そっと、消え入るような声で「ご、ごめんなさい……」と聞こえたと思うと、人の気配はなくなった。
 須藤は改めて、アイリスと向き合う。

「ご、ごめんねぇ……び、びっくりさせちゃったねぇ……でも、あや、あやめちゃんも、悪いんだからね?
お、おと、大人しくしてたら、怖い思い、しなくていいんだからねぇ……」

 さすがに怒鳴られたことによる反動で思うように動けないのをいいことに、須藤は再びアイリスににじり寄る。
またシャツに手をかけ、ボタンを1つずつ外し始める。

「ひ、ひひっ……ひひひっ……お、おれたちは、ふ、ふ、夫婦に、なるからね……ぜ、ぜんぶ、みせ、見せ合わなきゃ……」

 シャツのボタンを外し終えると、キャミソール越しでも分かるアイリスの肌に、須藤は鼻息を荒げた。

「こ、これも……ひひっ……ジャマだから、ね……取っちゃおうねぇ……」

 ついにキャミソールに手をかけた須藤。
あまりのことに抵抗の方法が分からなくなってしまったアイリスは、強く目を瞑った。
そして咄嗟に、今最も会いたいと思う存在を、強く強く、胸の内で願った。
 破かれる。そう確信し、覚悟を決めて硬く目を閉じ続けたアイリス。突然、エアコンの風にしては、強い風が吹いた。
同時に「うわぁっ!」と、須藤のうめき声が聞こえた。次には、何かが落ちたような震動が床に伝わる。
 何かされるわけでもなく、一向に破かれる音も聞こえてこないため、アイリスはゆっくりと、硬く閉じていた目を開けた。
いつの間にか、少し遠くで倒れている須藤が最初に目に入った。それから、感じ慣れた気配に気づき、隣を見上げてみる。
 そこには、心から強く願った存在が、威厳を放って立っていた。

「……済まぬ事をした。詫びよう」

 そう言って、龍神はアイリスを見た。縛られ、口まで塞がれているのを見ると、眉間に皺を寄せる。
どうやら、謝罪しているのはアイリスに対してのみのようで、倒れている須藤には見向きもしない。
 膝をついてしゃがんだ龍神は、アイリスの口を塞いでいる布を取ってやる。
ようやく満足に息を吸うことができるようになり、彼女は龍神に弱々しくも微笑んだ。

「ありがとう……ございます……。ご迷惑おかけして、申し訳、ございません……」

「構わん。我が巫女は、此の龍神の物だ」

 いとも簡単に、龍神はアイリスを縛る縄も解いてやる。
アイリスは、手の自由がきくようになると、近くにあった自身の買い物袋を持つと、よろめきながらも立ち上がった。
ふらつく彼女を支えた龍神。一息つくと、龍神はようやく須藤に対して冷めた視線を向けた。
倒れたまま動かない須藤。どうやら気絶しているようだった。

「か、幹太? どうしたの? 大きな音がしたみたいだけど、大丈夫なの? 幹太?」

 部屋のすぐ外で、また女の怯えたような、弱々しい声が心配そうに須藤を呼ぶ。
ドアノブが回されるが、鍵がかかっているために開かない。

「い、今から開けるわよ? いいわね……?」

 その言葉と共に、鍵がぶつかり合うような金属音がしたと思うと、ドアノブの鍵が開く。

 ドアノブがゆっくりと回され、扉が開かれた。女は、暗い部屋の中で、人が倒れていることに気が付き、声を上げて後退った。

「きゃぁっ!」

 よく目を凝らして見てみると、それが自身の息子であることに気が付き、次には駆け寄って体を揺らす。

「幹太! どうしたの? 何があったの? お願いだから起きてちょうだい、幹太!」

 そこで、薬品のにおいがすることに気が付き、辺りを見渡す。
机の下の奥の段ボール箱に気が付くと、恐る恐る引っ張り出してみた。
嫌な予感がしながらも、箱を開けると、中には大量の部品と薬品、そして1枚の設計図が出てきた。
設計図が爆弾の作り方であると分かると、思わず飛び退く。

「あ、ああ……! ど、どうしましょう、どうしましょう……!!」

 立ち上がり、辺りを見渡す。机の上に置いてある、設計図に描かれた完成図と同じ形をした箱に気が付き、また悲鳴を上げた。

「と、とにかく電話しなきゃ! 110番! 救急車!」

 そうして、しかるべき場所への電話をしに部屋を出て行った。


******************


 アイリスを抱きしめ、先ほどまでいた家を見下ろすように、龍神は宙に浮かんでいた。
どうやら、囚われていたのはごく普通の住宅街にある一軒家だったようだ。
部屋を開けられる前にそこを離れた2人は、間一髪、姿を見られることなく抜け出し、こうして空から様子を伺えるようになった。
 龍神から離れないようにしがみつくアイリスは、不安そうに須藤の家を見下ろす。
少しすれば、救急車と共に警察もやってきて、目が覚めたらしい須藤が連行されていくのが見えた。
周りは野次馬が取り囲み、賑わっている。
 一先ずは解決した様子に、ようやくアイリスは安堵する。それから、龍神を見上げ、心から微笑んだ。

「本当に、ありがとうございます……龍神様」

「礼には及ばん」

「……あの……なぜ、わかったなのですか……?」

 その問いに、龍神は見上げてくるアイリスに目を合わせた。
吸い込まれそうなほど澄み、深みのある瑠璃色の目に、思わず視線を外すことすらできなくなる。

「お前が望めば其処に()る」

 アイリスは息を呑み、しがみつく手に力が入る。どうして良いか分からず、困ったように目を泳がせた。
 そんな彼女とは反対に、始終表情を変えることなく、目を合わせていた龍神は、ふと気が付いたように更に視線を下げた。
見ている先を辿ると、アイリスの首の下、胸元へと続く。
シャツのボタンを外されたまま、留め直すタイミングを失い、そのままになっていた。
視線に気が付き、慌てたアイリスはシャツを引っ張り、胸元を隠す。

「あ、あの、その、すみませんです……お見苦しいものを……その……
あまり、見ないでいただけると……嬉しく……思います……です……」

 頬を染めながら、俯いて恥ずかしげに言うアイリスに、龍神の表情は変わらないものの、
その目は慈愛に満ちたものを感じさせ、彼女をしっかりと抱きしめる。

「お前を帰す」

「……はい。ありがとうございます。……龍神様?」

「何だ」

「……よろしければ、お礼をさせてください。
お口に合うかはわかりませんが……ご馳走、お作りします」

「……承知した」

 断られると思っていただけに、まさかの返答に、アイリスは思わずまた顔を上げ、嬉しそうな笑顔を浮かべた。

「はいっ!」

 龍神はしっかりとアイリスを自分に寄せると、神社の方向へと飛んだ。

物怪日常奇譚

物怪日常奇譚

人と、人ならざるものたちとの物語。 それは温かくて、優しくて、きっと少し、切なくて。

  • 小説
  • 中編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
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