その時は空を見上げて(短編集)

短編集②
テーマ「喜劇のち悲劇」

燐寸売りの娼女

 かつて彼女は、唯一の家族である祖母と共に暮らしていた。「貴方の可愛さは、世界一の宝物だよ」と、ありったけの素敵な言葉に包まれながら、彼女は貧しくも幸せな日常を笑顔で過ごしていた。
 全ては、最後に訪れた死から始まる。何度も繰り返した死の連続の、その最後。どうして、十にも満たない少女にばかり、不幸が食らいついてくるのか。それは誰だって適切な解を見出だせない。
 ただ、この物語を知る人間ならば、誰しもが分かること。その少女は美しかった。くるくるの巻毛、真珠のような瞳、細く柔らかな掌、棒切れのように華奢な両足。
 もしもこの世界が、もう少しだけ豊かな時代であったなら。後世を生きる我々としては、叶いもしない、身勝手な思いを募らせるばかりである。


 寒い。本当にやっていられないほどに。少女のため息は薄ら膜を帯び、葉巻の煙の如く宙に舞う。
 デンマークの冬はとにかく雪の暴力だ。裸足の指先と、細く柔らかな手からは、みるみる感覚が失われる。まず青白く縮こまり、次に仄かに赤く痛みを発する。言うまでもなく凍傷だ。
 少女はちょこんとフードをかぶり、右手に持った籠からマッチを取り出す。今年はうんと厳冬なのだ、と道行く大人がぼやいていたのを思い出す。上等な外套を身にまとい、きっと家に帰れば暖炉とターキーとウイスキーが待っているであろう顔つきで。
 世は年末、今年の終わりを粛々と過ごしている。マッチを差し出しては断られ、乱雑に振り払われ、知らないような言葉――きっと悪口だ――を吐かれ、それでも少女は続けるしかないのだ。
 今日はクリスマスなのだ。七面鳥の香りが道端にまでこぼれているのを感じて、ようやく彼女は気づいた。


 せめて、年越しを見たい。それが細やかな祈りであった。彼女のような「色(Varna)」の無い孤児でも、新年というのは楽しく思えるらしい。街中がふわふわしていて、そこいらで笑顔が花咲いているからだろうか。
 そこは確かに冬なのに、少しだけ暖かくて、みんなその日だけは優しいような気さえするのだ。全員がそうだなんて思っちゃいないけれど、ただのいつもの一日に少し箔が付いただけの日なのだけれど、その夜明けを、少女は毎年楽しみにしている。
 籠にあるマッチは数も乏しく、中には雪のせいか湿気ているものも見られた。
 数を数える指先は、滑らかにその命綱を撫でる。幼き四肢は、どれほど痩せ細ろうと穢れを染み込ませていない。
 しかし降り込む雪の量も目に見えて増えてきたので、少女は一旦軒下まで避難することにした。
 街は決してゆとりのある広さではない。しかし人の数は相応に多い。そこへ住居を築くとなると、等間隔に規則正しい形にすることなどできない。
 馬車や通行人の行き交う道にまで、ぽこんと頭一つ突き出るように家が建っている事はよくあった。そうすると家と家の間に隙間ができることもあるので、彼女もそうだが、行き場のない人々にとっては寒さをしのぐ避難所として活用できるのだ。
 彼女が逃げ込んだのは、立派な住居に挟まれたその境目、小さな路地裏じみた空間であった。大の大人が何人も来ては狭苦しいが、小柄で華奢な女の子一人であれば、寝転がったって壁にぶつからない良い広さであった。
 マッチの束を手に取り、一本一本確認する。これは大丈夫、これは湿気ている、これはいつの間にか折れてしまっている……そんな具合に状態を見ているうち、小さな、本当に小さな欲が芽生えた。
「今年は本当に寒い。一本だけ、冷えた掌を温めるため、火を灯したい」
 売り物に自ら手を付ける。パン屋が店先に出したそれを、腹が空いたからと齧り始めることと同じ、本来ならば好ましくない行為だ。
 しかしそれを咎められるほどの者は、聖書の中にしか存在しない。それに少女は独りである。誰からも見られることはない。断たれ、振りほどかれ、この白銀の地に伏すのみの命である。
 彼女は湿気ておらず、かつ売り物にするにはやや難しい、折れかけの一本を探り当てた。小刻みに揺れる小さな右手を諌め、擦った。
「温かい……」
 思わず緩んだ口元が、ぴりぴりと刺激する。笑っているのだ、それがひどく懐かしく思える。少女はそれがいかに悲しい事実であるかを知らず、何度も笑う。
「ああ、もう燃え尽きてしまった。もう一本、もう一本だけ」
 空では流れ星が一筋、すうと駆けていった。彼女はそれを見ることができなかった。マッチの灯す橙色の優しさに包まれているのだ、無理もない。
 彼女から笑顔を生まれるたび、呼応するように流れ星が返事をする。
「流れ星は、誰かが亡くなった報せなんだよ」
 かけがえのない言葉を、今の彼女は思い返すこともない。


「ああ、こんなに沢山」
 ふと我に返ると、足元にはいくつもの焦げ付いたマッチが広がっていることに気づいた。売り物であるそれを、一本二本ならまだしも、こんなに。少女はみるみる不安と焦燥に駆られ、反射的に道の方へと飛び出した。
 辺りはすっかり藍色に染まり、夜中であることを知らしめた。人通りもかなり少ない。皆あるべき場所へ戻り、飛び切りのご馳走に舌鼓を打っているのだ。
 そうなると、マッチなどますます売れなくなる。それでは困る、と叫びたくなったが、しかし自分のせいだ、とも思った。
「どうしよう、どうすれば」
 とにかく籠を持って、歩き回るしかない。だが、先程までマッチの仄かな温もりを味わっていた身体は、夜間の冷え切った雪で余計に身を凍らせる。
 ふと、彼女は気づいた。マッチならここにある、と。きっと誰か、この「燐寸」を買ってくれる、と。
「貴方の可愛さは、世界一の宝物だよ」
 その時ようやく、少女は祖母の言葉を思い出した。


「マッチはいりませんか」
 其処は夜の街だ。夕刻までの景色とはまるで異なる。どこへ行っても夜は夜の顔があり、それはつまり大人の密なる時間を意味している。
 お金に余裕があり、かつ情念と刺激を求めている男を見つけると、彼女はすぐさま声をかけた。
「いいや、マッチは――」
 定型文で断ろうとする男の目が、色を変える。
「なるほど、ではその『燐寸』を一本いただこう」
 出来れば、顔つきの怖い人が良い。少女は知るはずもないが、本能的に人々の中に眠る「支配欲(マルキ・ド・サド)」を見抜いていたのだ。
 燐寸は、籠いっぱいのマッチとは比べ物にならない値段で買い取られた。


 夜が明ける。またひとつ、年明けの素敵な未来へ近づいた。少女はそれがたまらなく嬉しかったが、笑顔を作り出す元気はなかった。
 大人の狂気に、少しだけ触れてしまった。夜の闇の深さを見てしまった。そして、痛みを知ってしまった。
「あと、九日」
 それが彼女に与えられた燐寸の寿命である。今は美味しいものでも食べよう。震える両足を叱りつけ、白銀の中を少女は歩く。
 その一線には、小さな足跡に着いていくように、赤黒い点が続いて伸びていた。
「夜明けだわ、何て眩しいの」
 細く柔らかな、穢れのなかった右手を掲げ、陽の光を目に焼き付ける。
 親指と人差し指と中指と薬指の隙間から、橙色の灯が差し込む。失われた「燐寸」は今頃、彼のどんな欲望を満たしているのだろうか。
 色のない孤児には、そんな穢れた真実など、知る由もないのだ。

群青

 私は目に映るものしかキチンと信じない。それはつまり、大気中に大量の微生物やウイルスがいる、と言われたって、目に見えない限りはその存在を完璧には信用しないということである。
 しかし、手洗いうがいはちゃんとする。風邪にはなりたくないもの。矛盾するのでは? いいえ、ちゃんとディスカバリーチャンネルか何かの特集を見たから問題ないのだ。
 目に映らないものは嘘と同じ。いくら誰かがいい人だと持て囃されても、それは人の目があるところで聖人というだけであって、家のトイレではかなりハードコアなアダルトビデオでよろしくしているかもしれない。
 そういうわけで、視界で捉えられるものは信じる。信じるけれど。


 ぎいこ。ぎいこ。流石にその光景だけは、にわかに信じ難かった。
 金髪モヒカン、時代錯誤のボンタン、いかにも頭の悪そうな当て字で書かれた漢字の羅列。要はヤンキーだ。チンピラと言ってもいい。それもかなり古臭いやつ。もう絶滅したものと思っていた。
 それが、公園の象さんにまたがっている。風一つない、夏休みの最終日。仄かに汗を飛ばしながら。
 デフォルメされた象さん、そのお腹あたりからバネが伸びていて、地面に繋がっている。ブランコと言えばいいのか、その正式名称は意外にも知らないのだが、それに跨がって、ぎいこぎいこ。かなり大振り。
 しかも微かに笑っている。ブランコに座って目を伏せて、とかなら、「ああ失恋でもしたのか」と理解できるが、象さんで、しかも本人はかなり満足しているようで。一体何が彼を突き動かしているのか。
「あっ」
 耳たぶが震えそうな低音が響く。ヤンキーの彼は、私が見ていることに気づくと、大慌てで象さんから飛び降り――あ、転んだ。
「大丈夫ですか?」
 脚を引っ掛けたのか、顔面からダイブした彼へと慌てて駆け寄る。
「だっ、大丈夫だけど、大丈夫じゃねえ!」
 一応は吠えてみた……っぽい。よほど恥ずかしかったのだろう。顔中真っ赤だ。しかし鶏の喉元の色には程遠い。トサカはあるのに。
「あの、何で象さんに」
「スプリング式遊具だよ」
 あ、正式名称知ってた。そのスプリング式遊具は、彼の恵まれた肉体を揺らしていた反動か、未だ左右にびよんびよんと跳ねている。
「で、その、なんであれに?」
「やっちゃ駄目かよ」
「いや、そうじゃないけど」
 大人は遊んじゃいけません、などという法律があるわけじゃない。ただ、象さんには象さんの許容範囲、つまりは「使用者の体重制限」があるわけで、おそらく大人が乗れば壊れやすい。しかしまあ、それはいいとして。
「ただ、何となく乗りたくなったんだよ」
 ボンタンはホコリまみれになっている。さながら、放課後にキックベースをしてから帰宅してきた少年のように。
「まあ、楽しそうですけど……」
「だろ? あんたも乗ってみろよ」
 それは丁重に断った。いくら私でも、ヤンキーが保護者の下、象さんで気分よく遊ぶ勇気はない。
「あんた、年は?」
 十八、と答えた。来年には社会人だ。大学には行かない。
「なんだ同い年か」
 とつぶやく彼に驚いた。十八にしちゃでかすぎる。そりゃあ象さんも荒ぶるわけだ。
 さすがに静かになった象さんをしばらく眺めてから、ヤンキーはブランコへと移動した。
「あんたもやるか?」
 靴のかかとを踏んでいるのが見えて、何をしたがっているか、すぐに察した。全く、いくつになっても童心はなくならない。


「そうか、高卒就職組なんだな」
 ぎいこぎいこ。会話の可能な速度で、お互い身体を前後させる。
「そう。うち、お金ないから。来年からは美容師だよ」
「俺も似たようなもんだ。モヒカンも今日が見納めだ」
 こうして改めて漕いでみると、思ったより体力がいる。幼い頃の私は、一体どこにあれほどのエネルギーを蓄積させていたのか。
「学生生活も、あと半年くらいか」
 そう言われると、不意に心臓のあたりが痛くなる。もうちょっとなんだ。友達とバカやったり、あの手この手で課題をちょろまかしたり、帰り道にやっすいレストランに入って会話に華を咲かせたり。そんな、まるで意味のない生活が。
「月日が経つのは早いね」
 そうだな、と答え、彼はかかとを踏んでいない左脚でブレーキをかけた。かすかに動くたび、静まり返った公園に錆びついた音がぽつり、こぼれ落ちる。
「なら、賭けでもするか」
「お金はやだよ」
「アホ、そいつは大人の趣味だろ。俺たちはまだ、ぎりぎりガキンチョだろ」
 右足の指先でもて遊ばれる靴を、今一度こつんと諌める。馬にムチを振るうように、己の心臓付近を慰めるように。
「あんたの方が遠くまで飛んだら、社会人になっても楽しめる。願掛けみたいなもんだ」
「じゃあ、君が勝ったら?」
 うん、としばらく考える素振りを見せ、何か閃いたのか、彼はにやりと笑った。
「スプリング式遊具に乗ってもらう。動画撮影付きでな」
 象さんが、ぎょっとした目でこちらを振り向いた……ように見えた。やめてくれ、一日に二人もデカいの乗せたら死んでしまう、と言いたげに。今にもぎいこぎいこと揺れだしそうだ。
 それだけは、まずいな。象さんのためにも、私の羞恥心をかばうためにも。
「ねえ、そっちだけふわっとした願掛けにするのはズルいよ。私が勝ったら、別のことして」
「何にするんだよ?」
 にやり。彼と同じように笑う。
「モヒカン辞めるんでしょ? 私が髪切ってあげるよ」
 うええ、と露骨に悲鳴をあげる。失礼な、未来のカリスマ美容師を前に、しかもその顧客第一号に指名したというのに。
「一応聞くけどよ、ハサミを使うんだよな?」
「いや、バリカンだよ」
 負けらんねえな! 大きく叫んで、彼は右足にぐっと力を込めた。私も続けて構え、同時に漕ぎ出した。
 ぎいこぎいこ。それはまあ見事な揺れ具合、あの頃から増えまくった体重と、経験がにじみ出るテクニカルな反動の付け方。
「いくぞー! せーの!」
 二足の靴が空へ舞う。二十三センチのスニーカーと、それよりずっと大きな革靴。
「行けー!」
 勢いのままにブランコからジャンプし、けんけんで駆けてゆく。ああ、私達はまさしく、ぎりぎりガキンチョのままなのだ。

王子様の眠る家

 私は偉い。すごくすごく偉い。どのくらい偉いかというと、この家で一番だ。それはもう、つまり最強ってことだろう。
 私は料理なんて出来ないし、整理整頓ってのも苦手だ。だから彼にやってもらうしか手段はないのだけれど、お礼を言う必要性もない。だって一番偉いんだもの! これは言うなれば、王子様と召使いの関係に近い。


「おい従僕、腹が減った。飯を作れ」
「まだ早いだろ……時計見ろよ、あと一時間待ちなさい」
「生意気なことを! さっさと作れ!」
 床をバンバンバンバン。従わなければ貴様の脛あたりへ的確に頭突きを食らわせるぞ。
 こいつはいつもそうだ、屁理屈こねて命令に従わない。彼は私を「衝動」ではなく「規律」をもってして生きていって欲しいという思いがあるようだ。しかし、腹が減ったから飯を食う。それの何が悪いというのだろう。


 彼は私にそれを課すのと同じように、自分にも規律を持って行動している。何時に起きて何時に帰り、何時に寝るのか。例え休日であっても、一部の例外を除けば、ほぼほぼ同じ時間のルーティーンを繰り返している。
 それは私としても便利で、彼の行動を見れば大体の時間が分かる。時計を見るという動作すら、私には必要がないのだ。
 そんな彼が、珍しく遅い時間に帰宅した。確かに明日は休みだと言っていた。カレンダーにも休みを表す赤丸が付けてある。羽を伸ばしてきたにしても、少し様子が変なのである。
「おい従僕、食事の支度を忘れて遊び呆けるとは、良いご身分じゃあないか」
 声をかけても、彼は下ろした腰を持ち上げようとしない。膝に手をやり、俯いたまま。ぴくりともしない。
「聞いているのか。食事を――」
「うるさい!」
 どん。この家で最強の存在となり、何年か経ったが、彼が怒ったところを初めて見た。私は身を引きながらも、ゆっくりと刺激しない速度で顔をのぞきこんだ。
「どうした。彼女にフラれでもしたか」
「疲れた……」
 疲れたか。そうか。私だって疲れることはある。だから今すぐにでも眠りたいのだろう。しかし自分と私の分と、食事は摂らねばなるまい。それに彼は、いつだってルーティーンにしたがって生きているのだから。
「うまくいかないなぁ」
 ため息混じりの呟きと共に、彼は床にごろんと寝転がった。すかさず、彼の腹の上でまたがる。
「なあ従僕。なんでそういつも、枠にはめようとしたがるのだ。そんな事に何の意味がある。作った枠は壊されるためにある。だから私がこの間額縁を破壊したのも、あれは自然の摂理なのだよ」
「なんだよ、腹減ってるんじゃないのか?」
「いいから聞け。人間なんてものは私と大差ない。本来ならば、腹が減ったら飯を食う、それだけのものだったはずだ。それを屁理屈こねくり回してルールにして、それが正しくて素晴らしいものだと錯覚させているだけなのだ」
「慰めてくれてるのか?」
「いかにも。私にだって幾分かの仏心というものがあるのだよ」
「仕方ないな。ほら、おいで」
「その言葉を待ちわびていた」


 ぴょん。彼のお腹からジャンプする。銀色の皿に、カラカラと夜食が注がれる。私は無我夢中でそれに食らいつき、彼は買ってきたカップラーメンにお湯を注ぐ。
 そうだ。それで良いのだ。まずは腹を満たせ。話はそれからだ。しかし最近変えたというこのカリカリするやつ、中々旨いじゃないか。褒めて使わすぞ。
「どうだ従僕、たまには添い寝というものをしてやろうか」
「なんだよ、風呂に入るんだよ」
「む、そうか……風呂か。あれはどうも苦手だ」
 王子にだって、苦手なものはある。


 今日が終わる。彼はどうやら何か悲しい事があったらしいが、残念なことに私は記憶力というものが無いに等しい。寝たら忘れる。毛づくろいしている最中に忘れることもある。
 猫とはそういうものだ。ならば人間はどうだ? うまく忘れられず、いつまでも悩み続けてしまうというなら、それは猫以下の性能だ。そんなものに時間を費やす前に、まずは飯を食え。
 王子の、この家で最強の私が言うのだから、きっとそうなのだ。今日は早く寝ろ。そんでお腹を撫でろ。
 ここは、王子様の眠る家なのだ。
 あ、いや、それだと語弊があるな。すでに去勢済みだから――。
 『(元)王子様の眠る家』。これでどうだろうか。諸君、それではまた明日。

その時は空を見上げて

 雨上がりの湿った空気が好きだ。空はお風呂上りのさっぱりした顔をしていて、アスファルトも久々の水分に心躍らせる。視界のすべてが優しい光に手を振って、七色の笑顔を灯し出す。
 でも、雪の良さはわからない。ただ少し肌寒くて埃だとかが多いだけで、雫がダウンコートを着こみだす。あらゆるものが白銀に覆い隠され、残るのは白いカーテンとアイスバーンになった轍だけ。
 なぜ雪はかくも愛されるのだろう。私には分からない。ぬくもりに触れれば、溶けてなくなってしまう程度のものなのに。


 私を求めている人がいる。
 私を邪魔に思う人もいる。
 それはひとえに、私が彼らと違うからだろう。
 それはきっと、孤独なのだろう。寂しいという感情があるからなのだろう。
 泣きたくなると、私はいつも公園に行く。冷え切ったベンチに座って、ぼうっと眺めている。元気に走り回る子供、散歩する老人、談笑する奥様方。みんなみんな、暖かそうな服と笑顔を携えて。
 私なんか、見えていないように。
 ふう、と息をひとつ吐き出す。白い吐息が、ひゅうっとダンスをして、どこかへ消えてゆく。私はちゃんと此処にいるよ。
 ぽん、と足元に何かが転がってくる。見上げると、少年が手を振りながら駆け寄ってくる。
「ねーちゃん、寒くない?」
 名前は知らないのだけれど、ある少年が最近、よく私に声をかけてくれる。寒くない、だなんて。心配する彼の方は、半袖短パンの小僧っ子スタイルなのに。つい、可笑しくって笑ってしまう。
「私は平気。君こそ、今日は冷えるよ」
 ボールを手渡すと、少年は高らかに声を上げる。
「えー、嘘だあ。今日こそはハズレるって!」
 鼻水をずずっと吸い上げて、彼は手をぶんぶん左右に振る。一つひとつの動作がいちいち全力全開だ。
「ごめんね、ハズレたことないんだ」
 彼は私を『お天気お姉さん』のような感覚で見ているようで、当たり外れを基準に私の言葉を判断する。
 なんでそうなったかというと、私がいつも未来を予知しているからだ。とは言っても、内容なんていつもたった一つだけなのだけれど。
「今日も降るよ」
 十二月、雨のはずの雫はダウンコートを纏って雪になる。それも、綿飴みたいに優しい速度で。漫画のようにまん丸綺麗なものならば、より美しい景観なのだろうけれど、綿毛のようなふわふわのそれでも、天使の羽が降っているような美学を持っている。
 だけどね。ごめんね。私が此処にいるから、じきに少年はくしゃみをする。慌ててそこらへんに放り投げた上着を羽織り、家へとすっ飛んでいくだろう。ごめんね。
 でも、それでも雨に濡らされるよりも、嬉しいことでしょう? 不思議だよね、結果は同じでも、感情はまるっきり正反対になるんだから。
 あらゆる総てが笑顔になる。そんな力がもしあるのなら、誰だってそれに縋るだろう。間違いだとは思わない。ただ、寂しく思うだけだ。やがては幸福の日々に味覚が鈍り、忘れ去られてしまうのだから。それもまた間違いではない。


「あっ」
 少年の声が空へと響く。呼応したように、ふわりと小さな結晶が舞い降りる。雪だ。今日もまた、彼らが優しく頬を冷やす。
 少年が大きくくしゃみをすると、更に天使の羽のようなそれが、音もなく降り注ぐ。
「風邪をひいちゃう前に、ほら」
 ぽんと背中を押すと、少年は一目散に公園を駆けていった。感謝なんていらない。ご褒美もいらない。ただ、温まった部屋の窓から、この素晴らしい情景を眺めてくれればいい。私の存在価値とは、そこにしかない。
「こんな街に降るわけないのに」
 呟きながら、だからいいんだと言い聞かせた。ここは寒暖差が小さく、長年雪なんて降りやしなかった。私が来るまでは。
 あり得ないからこそ、たくさんの記憶の中に私が生まれる。この世のどこにも、私の人生を認識している人はいない。でも、この雪を通してなら、私といういわば神格化された存在を生み出してもらえる。そうでもしなくては、生きているという実感を保てない。
「ねーちゃん」
 また声がする。一日に二度も同じ人に声をかけられるなんて、いつぶりのことだろう。
「帰んないの?」
 尋ねると、少年は少し震えながら答える。
「まだ父さんも母さんも帰ってこないからね。暇なんだよ」
 少年が、どかっとベンチに腰を下ろす。服はもこもこのダウンジャケットとだぼだぼのスウェットに変わっていた。あの半袖半ズボンの上から羽織ったのだろうか。
「ねーちゃんはさ、なんでいっつも『雪が降る』って分かんの?」
「知りたい?」
 名前すら知らない少年に相手をしてもらえるからって、つい欲が出た。言ってしまえば、私は構ってちゃんになってしまうのに。誰にも知られず、ひっそりと幸福を配るだけの係に徹したらいいのに。
 でも、寂しい気持ちには、やはり耐えられないのだ。


「私ね、泣いたことないの」
「えっ、すっ転んでも、殴られても?」
「殴られたことはないけど、多分一緒だと思う。でもね、代わりに泣いてくれる人がいるの。ほら」
 指をさすと、空からは未だ大粒の雪が地上に降りてきている。その一つひとつが、私から零れた欠片たちだ。
「私だって、君みたいに誰かと遊んでいたいし、友達だってたくさん欲しいよ。でも、もし雪が降らなくなっちゃったら、どうする? みんながこれを見る度に、綺麗だって思ってくれるなら、私は悲しくならないといけないの」
「よくわかんないけど、雨よりはましだもんね」
 ほら、ね。みんなの邪魔さえしなければ、雪はみんなに愛される。
「悲しくて、寂しくて、泣きたくなるようなときに、雪が降るの。だから私は、幸せになっちゃいけない。みんなの好きなものを独り占めしちゃうのは良くないからね」
 私の瞳から、涙が零れ落ちることはない。その代わりに雪が舞い降り、私を除く世界中のあらゆる総てに祝福をもたらす。
「だから、私に構わないで。一人ぼっちにして。そうしたらまた降ってくれるから」
「ねーちゃんは、それでいいの」
「うん。いいの。雪を見た時に、私のことをふっと思い出してくれればいいの。それから、雪が降らなくなった時には……」
 その時は、私の事、忘れて。
 少年はぶるっと一つ身震いし、すっくと立ち上がった。
「そん時は、逆さまのてるてる坊主でも作るよ」
 それじゃあ雨が降っちゃうよ、と言うと、そうだっけ? と少年が笑う。
「分かったよ。私も、もういくよ」
「家、帰るの?」
「そう。還る」
 彼はきっと、太陽なんだ。彼の瞳が弧を描く度、心がぽうっと暖かくなる。もしも私の涙まで溶かしてしまったら、それはもう私の死を意味する。だから私は、君にさよならを言うんだ。
「風邪、ひかないようにね」
 ボールを抱えた少年を、向こうから手を振る誰かが呼んでいる。そちらから見ると、そこには私なんて見えていないのかもしれない。知らない人を見る時なんて、みんなそんなものだろう。
 私が泣きたくなるほどに、空はたくさん雪を降らす。それで彼らが笑顔になるなら、私は何度でも孤独を味わおう。
「ゴメン、ねーちゃん。友達呼んでるから、また明日ね!」
「うん、また明日」
 相変わらず元気に駆けてゆくその背中へ、小さく手を振る。明日――此処にはもう、いないけれど。
「メリークリスマス」
 せめて、その言葉だけでも。


 彼は太陽で、私は雪だ。地上に居ながらにして、私達は空とつながっている。私が白銀の世界を作っている限りは、彼もやわらかな光の世界を作っているだろう。
 今日も世界に祝福が舞い降りる。頬を冷やし、ぬくもりの中に消えてゆく。それを求める人がいる。それを邪魔に思う人もいる。
 私は明日からまた旅に出て、どこか別の街で天使の羽を降らすのだ。誰に頼まれるわけでもなく、誰かに褒められるわけでもなく。
 もしも、あの少年が私のことを覚えていてくれたなら。どこかでベンチに座る私を、彼と同じように見つけてくれる人がいるのなら。
 きっとそこに、天使みたいな雪が現れるだろうから――その時は、空を見上げて。

私は呼んでいる

 空。から。地面。三時間前から繰り返される私の日常。
 たとえばそこにワープホールがあって、衝突する地点と屋根の天辺とを繋げてしまえば、私は半永久的にその狭い空間を延々と落ち続けてゆくだろう。それはそれでとても楽しいことなのかもしれない。
 兎角、この世界はバグが少なすぎて面白みがないんだもの。


 いちいち登り直さないといけないのも不便極まりない。ボタン一つで、指定した地点へ瞬間的にリスポーンする機能とかも欲しい。
 ダメージ表記もほしいな。風邪なら毎分数ダメージ、骨折なら数百ダメージという具合に。
 どうせ人は己の不幸を数値化したがり、「私はこれだけ悲しい思いをしている」と言いたがるのだ。喜び、悲しみ、それらに上も下もないというのに。


 空。から。地面。何十回目だろうか。そろそろ慣れてきた。
 から、というのは「空から地面へ落ちる」ことを示しているし、同時に「空(そら)」「空(から)」をかけている、私なりのほんの細やかな言葉遊びだ。
 実際に落ちたことがある人ならわかるだろう。一瞬ふわっとして、その間だけは、真に私だけの世界がそこに存在し、私という身体が何を思い、これから何をしようとしているか追想できる。
 私の心は、空っぽだ。だから、「から」。


 ひゅー、べちゃ。ひゅー、べちゃ。ひゅー、べちゃ。
 言葉にするならこんな音だろうか。随分可愛らしい。人の命はこれほど愛らしい音を立てるのに、生きていれば勝手にドロドロと汚く染まっていくのだから救いようもない。
 みんなして、延々と落ち続ける世界になればいいのに。
 たまに触れ合えるだけの距離でいいのに。
 嫌になれば、自分だけの場所へ瞬間的にリスポーンできればいいのに。


 私は死にたい。早く早く死にたい。今すぐ死にたい。天国へのお急ぎ便指定だ。
 しかしどうやら私はプライム会員ではないらしい。三時間、何度も空から地面への接触を試みているのに、一向に死んでくれない。
 私は頑丈だな。私は立派な身体をしているな。
 そんなものいらないのに。手放してしまいたいのに。生きたいなんてこれっぽっちも思っちゃいないのに。
 酷いよ。こんなの酷い話だよ。
 泣きながら、でも笑いながら、落ちながら、また登りながら、私は死を呼んでいる。


 この世界はあまりに完成されている。しかしどうしてなのか、人間とはバグまみれの欠陥品だと思ってならない。
 欠陥品は廃棄処分。潰して溶かして作り直せ。だから早く。早く。私を死なせて。

睡眠は死の前借りである

 光が頬を伝う。柔らかな温もりは、徐々に顔から流れ、床へ映ってゆく。日が昇ったのだ。そろそろ起きなくては。
 首をごきごきと鳴らし、まずはここが夢でなく現実であることをしっかり意識する。たまにあるだろう、ひどく強烈な夢の世界を歩き、目覚めた瞬間、何が何やら分からなくなる感覚。あれを私は、毎日体験しているのだ。
 歯を磨き、服を着替える。まるで別人のようだ。理由は単純で、化粧をしていないからだろう。
「フレディ、ご飯だよ」
 愛猫への朝食。からんからんとキャットフードの音を合図にするが、まるで返事がない。おかしいな。
「ブライアン、ロジャー、ジョン、ご飯だよ」
 残りの三匹も返事なし。まだ寝ているのか。ぐうたらな奴らだ。そんなだから太るんだぞ?
「行ってきます」
 このままじゃ遅刻だ。お皿だけ置いて、あとは彼らに任せよう。しんとした部屋に挨拶を投げ、家を出た。


 大学の講義とは、これ即ち睡眠時間である。概ねみんなが行うどうしようもないもので、何たって眠気には勝てない。しかし私は妙に器用で、硬い教室の机で熟睡することはできない。目を閉じ、筋肉を弛緩させ、しかし意識は保ったままぼーっとする。そのため、何となくだが講義内容は頭に入るのだ。
 興味のある講義ならば、携帯をいじりながら聞き流す。それで十分だ。いちいち文字に書き起こすのは面倒だし、労力がいる。それになにより、書いたという安心感ですぐに忘れるのだ。
 今日も今日とて、机に顔を伏せ、瞑想に入る。
「誰々が結婚」
 今朝のニュースがふと脳内で再生される。ふうん。それで。どうでもいい。
「何々がいま流行り!」
 だから何だってんだろう。流行っているから、それで? 貴方もそれを手に入れなさいと? どうして皆とおなじものをわざわざ買わなくちゃならない?
「どこそこで交通事故、何名が死亡」
 死亡。ある日突然、呆気なく人生が終わる。この世に残せるものはなく、ただ作り物の墓石だけが生きた証となる。
 我々は常に、いつか死ぬ運命を背負って生きている。この講義に出ている、ざっと五十名ほどの生徒、果たして何人が明日を迎えられるだろう。帰り道の交差点。電車のホーム。痴情の縺れ。隕石。宇宙人。心臓麻痺。誰がいつどうして死ぬか、誰にも分からない。
 死は必ずそばにいる。転ばせて沼に落とし込めてやろうと、死神がこちらを見ている。私達は紛れもない生物であり、歩く墓石だ。
「死ぬことそのものに、希少価値は無い」
 それが私の知る答え。いつ死ぬか分からない。だから死なんて驚くほどのものでもなく、葬式でもし涙するとしたら、それは死にゆく者への手向けでなく、残された生者を憂うものであるだろう。
 チャイムが鳴る。下らない講義が滞りなく終わった。


「ただいま」
 いつもなら、にゃあんと声がするだろう。今日の場合は、出しそびれた生ごみの袋が出迎えてくれた。
 もうすっかり夜だ。ご飯を食べてお風呂に入ったら寝てしまいたい。部屋へ上がりこみ、今朝置いた餌皿を見やる。あの時のまま、山盛りのキャットフードが残っている。水分が飛び、からからに乾いたそれが、手付かずであったことを物語っている。
「フレディ、ブライアン、ロジャー、ジョン」
 やはり返事はない。
「シャドウズ、ザッキー、レヴ」
 それは以前飼っていた猫の名前だろう。返事のあるはずがない。
「ジャスミン、スティーブ、アレックス、リー」
 それも以前――いや、私は一体何匹猫を飼っていたんだ。多すぎやしないか。まだ大学生だぞ。何かおかしい。記憶がミキサーされる。これも、夢と現実の境界を見失う現象の延長にあるのか。
 がさり。ばさっ。玄関からの、今日はじめて、この家で私以外が発した音。迷わずそちらへ歩み寄る。生ごみの袋。半透明のそれを覗き込むと、謎が解けた。
「夜を超えられなかったのね」


 ひどく強烈な夢の世界を歩き、また現実へ帰ってくるあの感覚。それは時に、現実をも凌駕するリアリティで襲いかかる。そこにいる私は私であって私でなく、登場人物もまた、他人ではあるがすべて私から生まれた存在だ。
 夢は、果たして夢のままなのか。あまりに長く、あまりに朧気で、整合性がない。
「生まれてくる朝と、死んでゆく夜の情景」
 ふと浮かぶメロディーラインが、私の日常をよく表している。歯を磨き、服を着替える時の私は、まるで別人のように感じられた。化粧をしていなかったから? いいえ、化粧なんていつもしないだろう。それよりも猫の餌やりだ。それに、化粧ひとつで自身を見失うほど不安定な自我でもない。
「明日、お別れだね」
 ぱんぱんに膨れ上がったゴミ袋に背を向け、ふと眠気を覚えた。ああ、私も寝よう。生まれくる明日のため、夜を迎えよう。


 眠っている間は、自分がどんな格好で寝ているかを知ることができない。もしかすると私達は、死んだように眠り、朝に蘇っているのかもしれない。死神はいつもすぐ側にいる。寝首をかかれないように、死んだふりをしてやり過ごしているのかもしれない。
 だからこそ、彼らが死神の鎌に刈り取られぬように。フレディ、ブライアン、数多くの愛猫たち。ゴミ袋で眠る彼らは、首筋の毛並みが乱れていた。私がそれをするように。そして当たり前の末路を辿ったのだ。それも、昨日以前の私がしたことなのだ。今日の私は知りえない。
「おやすみ、みんな」
 だって、今日の私は今日の朝に生まれたのだもの。昨日に遡れないのと同じように、昨日の私を今日の私が理解できるはずもない。かつての行動を思い返し、浮かび上がるのは共感でなく後悔ばかりだ。
 だからこうして、死神に命を狙われぬように。今日の私を、明日の私へ繋ぐために。
 この両手は、私を殺すために。この掌は、強烈な夢の世界へ渡るために。この身体は、明日の朝日を感じるために。おやすみ、そしてさようなら。喉の奥から何かがせり上がってくるのを懸命に抑えながら、呼吸を絶つ。長い眠りへ落ちるのに、そう時間はいらない――。


 光が頬を伝う。柔らかな温もりは、徐々に顔から流れ、床へ映ってゆく。日が昇ったのだ。そろそろ起きなくては。
 首をごきごきと鳴らし、まずはここが夢でなく現実であることをしっかり意識する。たまにあるだろう、ひどく強烈な夢の世界を歩き、目覚めた瞬間、何が何やら分からなくなる感覚。
 あれを私は、毎日体験しているのだ。

たった一つの冴えた殺し方

 僕は人を殺すためにここへ来た。この家に誰がいて、どんな性格をしているかは知らない。近所で包丁と縄を――勿論別々のお店で――購入し、何かいい物件はないかなあと探してふらふらと歩いていたら、たまたま見つけただけだ。
 一戸建ての、ごくありふれた家。広くもなく狭くもない。車庫には国産車が一台、それと二世代前の原付。普通に普通を上塗りしたような、何の特徴もない外観だ。
 ところで。殺したいという衝動の理由ははっきりとしない。別に追い詰められた生活ではないし、憎しみや悲しみを抱いているわけでもない。ただ、無性に他人の不幸を覗きたい。苦しんで悲しんで暴れまわる様を、上から眺めていたい。
 なので、出来れば女性がいい。


 ピンポーン。何故かインターフォンを鳴らしてしまった。何してんだよ。いつものクセでつい。と脳内で喧嘩が勃発する。だって、勝手に扉を開けて入れるのは自宅だけだ。慣れていないのだ。
 しかし、誰も出てこない。小さな物音が聞こえるし、電気も付いている。少なくとも誰か一人は居るはずだ。気を取り直して、玄関の扉を開ける。中も普通のものだ。靴箱があって、全身鏡が置いてあって、リビングやクローゼットへ続く扉と階段が見える。
「あのー、すみませーん」
 リビングの方から声が聞こえた。え、もしかして家族と勘違いされたのか? いや、なら敬語なのはおかしい。他人だと分かっているのに、平気で声をかけた? クレイジーな住人だ。
「おーい、不法侵入しておいて無視はやめてよ。通報とかしませんから」
 本当かよ、と思いつつ、いやいや何でこんな冷静なんだよと疑う。声は明らかに女、それもかなり若いのだが、もしかしたら物凄くガタイのいいやつなのかもしれない。かばんから包丁を取り出し、恐る恐るリビングへ上がり込む。
「あ、丁度いい体形。あのですね、手伝ってもらいたいんです」
 右手に包丁を持った、不法侵入の男。これを見て、驚でもなく、ゆるい声色でコミュニケーションを図る。こいつ相当な変人だ。美人の無駄遣いと言ってもいい。女は椅子に腰掛けており、僕を見るやこちらへ招き入れた。
「この縄をですね、あそこに括りつけて欲しいんですよ。出来れば、輪っか作って持ちやすいように」
 見上げると、天井にフックが見えた。天井裏への蓋、なのだろうか。なるほど、小柄な女なので、縄でも付けないと届かないのか。
「いいですよ。椅子借りますね」
 まずは怪しまれないよう、親切な兄ちゃんを装う。いや、不法侵入ってバレているのに怪しむもクソもないが、そうするしかない。なんで殺害を仕掛ける側がこんなに動揺してるんだ。
「あ、ありがとうございますー」
 難なく結びつけた。それも硬結びで。輪っかもつり革くらいの大きさのユニバーサルデザイン。なんでそんな丁寧な作業なんだよ。いやいつものクセで。また脳内喧嘩が始まる。僕は几帳面な性格なのだ。
「そこにお茶ありますんで、飲んでいいですよ」
「あ、お構いなく」
「いえいえ。ついでに着替えますんで、後ろ向いてもらいたいんです」
 ああ、と察し、素早く後ろを向く。言われたとおり、彼女とは反対側にある台所から、出しっぱなしの麦茶と適当なコップを手に取る。他人の家の物って、なんで触れることすら緊張するのだろう。几帳面だからか?
 いやいや! 忘れるところだった! 僕は貴方を殺しに来たんだった!


 振り返ると、そこに彼女の姿は無かった――というのは言い過ぎで、宙に浮いていた。
「え、な、何を」
「あうー」
 彼女は脚をバタバタさせ、首を輪に通そうとしている。よく見ると、左脚がほとんど動いていない。
「何してるんですか!」
 外そうとすると、彼女は慌てて下を指差す。
「あの、あのね、押し上げて下さい」
 押し上げる? 体を? いや相手は女性なんですけど。どこを持てと? 一番丁度いいのはお尻とか脇を支えるやり方だろうけど、触れるわけないじゃん。
「ちょっとー、これ、今、すごく苦しい。おっぱいでもどこでも触っていいから、早くー」
 ならば猥褻罪にはならないな。安心して脇を掴み、上へ持ち上げる。首がするりとユニバーサルデザインの輪っかへ通り、よし、と二人で声を上げた。
 彼女の脚は、ぎりぎり椅子に指先が付く程度の状態だ。
「じゃあ、椅子を抜いてください。お手数おかけしますけど」
「それじゃあ、やっぱり」
 今更ながら、僕は彼女の真意を尋ねた。
「そうです。ごめんなさい、せっかく殺しに来てもらったのに」
「いや、それはもういいんですけど、何で」
 今にも倒れ込みそうなので、両足を僕が軽く支えて、彼女の言葉を待つことにした。
「このフック、誰が用意したと思います?」
 用意した、ということは、これは天井裏への蓋ではない。というか、何故気付かなかったのだ。リビングなんぞに天井裏の空間は設けないし、そもそもこの家は二階建てだ。普通に普通を上塗りしたような、普通の二階建て構造だ。
「これね、私の身内がやったんです。この縄もね」
「な、なんで」
「さあ。昨日出かけたっきり戻りませんけど、多分『私が死ぬまでは』戻らないんじゃないですか?」
「そんな! 貴方が何をしたって――」
「脚。気づいたでしょう。これが枷なんです」
「だからって、そんな、酷い」
「赤の他人を殺そうとしていた人が、そんな事言うなんてね」
 少し、笑った。彼女は笑った。とても、それはとても悲しい弧を描いて。
「でも、おかげで助かりましたよ。ようやく死ねます」
 待って、と叫んだ。でも、僕の腕が椅子を掴もうとした瞬間、彼女は右足に力を込めていた。傾いた椅子に、僕の体重が加わる。呆気なくそれは地面にたたきつけられ、僕もまた床に倒れた。
 見上げて、何を見たかは言うまでもない。
 ぎいぎい、と音を立て、彼女は揺れていた。その顔を見る勇気もなく、静かにその場を去ることにした。
 どすん。鈍い音。ああ、首を釣ると体内のものが沢山出てくるって聞いたことがある。もう見たくない。靴の紐を結ぶ手が震える。


「あ、あのー」
 再びゆるい声色を聞き、僕は扉を開ける手を止めた。リビングへ飛び込むと、彼女は地面でお尻をさすっていた。
「フックの固定、脆かったみたいで」
 首に縄が巻き付いたまま、へへ、と照れくさそうに笑う様は、さっきまでと違う、明るいものだった。でもそれは、間違いなく心からのものではない。
「あの、どうしましょう」
 どうしましょう、と問われても。僕こそそれを訊きたい。やっていいのか、自分でいいのか、運命の相手でもない、赤の他人が最後に見る景色で良いのか。
「これじゃあ割に合わないな」
 僕は殺害衝動を満たすためにここへ来た。だから正確には利益となるのだけれど、親切なお兄さん、的な勘違いを持たれたまま死なすのは、何だか情けない。
 殺人犯というものは、その罪の重さにふさわしい、同情の余地なんてまるでない奴であるべきだ。
「縄、借りますよ」
 先端についたフックを取り、遠くへ放り投げた。見上げる彼女の目、垂れ下がった縄。飼い犬のようだ。
「あの、お願いします」
 ああ、確かに引き受けた。
 ひひ、と性悪な笑い声が溢れる。
 絞める前に、貫くのはどうだろう。いや、絞めてから貫くのも趣がありそうだ。何、死んですぐならまだ温かいだろう。
「大丈夫、痛いのは一瞬だろうから」
 忘れてはならない。僕は人を殺すためにここへ来た。

人間様の言うとおり

 人間って生きていますよね。そりゃ当たり前ですけど。
 反対に、ゾンビが歩いていたら怖いですよね。私の好みとしては、やはりロメロ作品おなじみのクラシックなゾンビ。走らないし、武器使わないし、喋らないし、結婚もしないゾンビ。でも普通は怖いですよね。
 おかしくはないですね。生きている限りは死んでいないってことですから。分からないものを怖がるのは当たり前の話です。


 ガイコツっていますよね。骨しかないやつ。理科室に飾ってある彼。たぶんあれは男。もしあいつが町中を歩いていたら、割と馴染むかもしれない。何だか愛らしいもの。
 でも、それとは反対――と言えるかは知らないけど、内臓が歩いていたらどうだろう。てっぺんは脳みそ、気管支、胃腸、筋繊維。気持ち悪い。私はそう思う。
 おかしいですよね、同じ仲間なのに。私達はそれを抱いて生きているのに。
 うおーん。思わず泣きたくなります。


 男と女ってありますよね。性別。男は股間にマグナム(人によっては爪楊枝だったりビームサーベルだったり)を携えていて、女は胸元に林檎(人によってはメロンだったり……反対は省略)を携えている。普通ですね。
 もしもマグナムと林檎を同時に携えている人がいたらどうでしょう。その人はなんと呼べばいいのでしょう。
 おかしいですよね、男と女、それがまとめてハッピーセットで搭載されているだけなのに、急に理解できなくなるなんて。
 うううう。歯を食いしばっても泣きたくなります。


 うおーん。私は毎晩泣き叫びます。
 うううう。私は時々泣き唸ります。
 同じ「なく」という言葉でも、涙は「泣く」で人でない声は「鳴く」になる。なら、人でないものが泣く時、何と表現すればいい?
 うおーん。また私は泣き叫ぶ。
 私は人間だ。尻尾があっても、牙が伸びても、毛並みが犬のそれと酷似していても、私は人間だ。
 それなのに。うおーん。

始まりと終わりの三十一日

 授業中の一番後ろの席。誰もいなくなった廊下。帰り道の別れ際。私達はこっそりと秘密を啄む。悪いことではないけれど、恐らく良いことでもない行為に溺れる。
 初めはただの冗談で。きっとそれは向こうも同じだと思う。ただ、嫌いだと思い込んでいた野菜が、案外美味しいのだと気付いた時のように。直に触れて、実はとても刺激的な瞬間なのだと知ってしまった。 
 抱き寄せる貴方の掌が、私の未発達な胸元を探る。やせっぽち故にごつんと出っ張った腰骨を撫でる。その度私は息をもらして、貴方の制服をぎゅうっと握りしめる。
「暖かい」
 入舞(イルマ)の囁くような甘い声。彼女はピアノを習っているから、だから細くてしなやかな指をしているのだろうか。私にはない美しさが、時々羨ましくなる。
「祝(トキト)、来て」
 求める声色が妙に湿っぽい。貴方の吐息に私の温もりが重なって、もっと美しく、淫らな顔色になって、それでいつもタガが外れてしまうのだ。
 遠くで、野球部の掛け声が響いている。止めっぱなしの自転車が、風に煽られてカラカラと車輪を回している。ウグイスの季節はまだ来ない。曲線を隠す衣を脱ぐたび、少し寒さを覚える。そんなものにはお構いなし、手を重ねて、好きだ好きだと身体で伝えて、三十分かそこらの非日常をキメる。
 好意は麻薬、行為は劇薬。私にとってこれは、朝食にコーヒーを添えるのと同じ、ぴたりとピースのはまった「普通」の一部なのだ。
 私は身体を震わせて、冷めきった両手をこすり合う。
「ごめん、寒い?」
 眉を片方だけくにゃっと曲げる。この漫画的で誇張された表情が、彼女にはよく似合う。困ったら思い切り八の字にして、笑ったらふやけた昆布みたいな形になって。そんな柔らかい眉が羨ましい。
 ああ、そういえば。今もそうなのだけれど、私は彼女に「好きだ」と言った事がない。



「お腹空いたね」
 今日、彼女は夜まで予定がない。繰り返すが、入舞はピアノを習うお嬢様――お家も大きかったし多分そう――なのだ。だから放課後を二人きりで過ごすなんて、月に数えるほどしかない。
「どこか、寄る?」
 対して私は、年がら年中「店内最大三割引き」のポップを掲げたUNITED ARROWSのように、至極普通で裏切りようのない、庶民の一員だ。
 だから、
「じゃ、モスでも行こうか」
 高くもなく安くもない、ほどほどの場所を選んでくれるのが、凄く恥ずかしく思う。
 さっきまで、秘密のやり取りをしていたというのに、すっかり普通の女子高生同士に戻っている。不思議な感覚だ。彼女がお気に入りのサスペンダーの位置合わせをしているのを見ながら、ふと思い出す。
 そういえば――。
「お米バーガーがない!」
 去年だっただろうか。モスの目玉であったお米バーガーが、予定通り販売終了したのを見て、彼女は珍しく困惑していた。
 ポリエステルよりも上質なビロードを好むような人なのに、ありふれた変化に動揺する姿を、お腹を抱えて笑っていた――。
 期間限定という言葉に懲りたのか、それからは定番メニューしか頼まなくなったのだけれど、時々、でかでかと掲げられた新メニューのポップを眺めているのを、私は知っている。
 座るのはいつもテラス席。狭いのは嫌だと言う。私も、急な角度の背もたれが合わないから、異論はない。
「あと一ヶ月かあ」
 二月にもなれば、みんなそう。どっちを向いても、進学就職卒業、そのどれかを話題にしている。爆弾か何かのようにみんなで回し合っている。
「入舞は確か、上京するんだよね」
「うん。何区か忘れたけど、実家があるの」
「え、じゃあ今住んでるのは?」
「あれは私ら姉弟のための家。母親と祖父母と、弟二人」
 それじゃあ別荘みたいなものだ。ほとほと、スケールの大きさに驚きつつ、何でそんなお嬢様がモスバーガーのテラス席にいるんだ、とおかしく感じてくる。
「祝は? そういえば、まだ聞いてなかった」
 私は……。すぐには、その続きを言い出せなかった。県内の大学に合格できたから、卒業してもこれまで通りなのだ。そう、私は当分、「店内最大三割引き」を掲げたまま、この街に残るのだ。
「ここに残るよ」
 変に沈黙を作りたくなくて、正直に話した。県と同じ冠の付いた大学名を聞いて、彼女はぱっと笑顔になる。
「第一志望の所じゃない、良かった!」
 名前は地味だけれど、偏差値は結構良い。国公立だし。人生で初めて、色付きの経歴が付くのだ。それでも、彼女の進む大学に比べたら大分下だ。
「東京……絶対、会いに行くよ」
 ここからなら、新幹線を使わずとも行けなくはない。大阪から滋賀まで一本で行けるのなら、こちらだってきっとアッサリたどり着ける。
 入舞は、ふっと柔らかい笑顔をして、綺麗に並んだ歯を見せる。
「私も休日は戻ってくるつもりだよ」
「本当?」
「本当だよ、嘘ついてどうするの」
 また、片方だけ眉が曲がる。表情のパターンを逐一撮影していったら、多分彼女はトップランカーになれる。
 でも、そんなバリエーション豊かな顔を見ながら、私は全く別のことを考えている。
 「嘘だ」。根拠のない恐怖が絡みつく。だから喋りたくなかった。彼女と話せば話すほど、見ている世界も暮らす環境も違いすぎて、どんどん置いていかれる気がしてくるのだ。
 第一志望? それだって、彼女の第三志望あたりがそうだったから、一縷の望みを賭けて選んだというだけだ。
 普通な私が、少し良い高校へ推薦で入学できたのも、そこにバカらしいほどお金持ちの彼女が入学したのも、そもそも彼女がこんな平凡な街を別荘に選んだのも、全てあまりに出来過ぎな偶然に過ぎなかったのだ。
 これ以上、彼女との共存を望むのは、イカロスの翼に等しいのではないだろうか。私は蝋で出来た贋作で、彼女は自由な空に浮かぶ太陽なのだ。
 ああ、返す言葉が見つからない。冷めきったポテトを放り込んで誤魔化した。


「それじゃあ、また明日」
 手を振る貴方の横顔はそれはそれは綺麗で、私なんてちっぽけな存在は消し炭のように溶けていなくなってしまいそう。それがたまらなく恥ずかしくて、悔しくて、いっそ死んでしまいたいああでもやっぱりそれは怖いな、なんてゴチャゴチャした考えがまとまらなくて、結局やっぱりいつも通り手を振り返す。
「また明日」
 また明日、はあと三十一回。三十二回目は来ない。その時は、「さよなら」に取って代わられるのだから。
 帰り道が、いつもよりも遠い。距離的な問題ではなく、心の問題。いつもよりもアングルが遠いかな、と言った感覚。私の歩行速度が、世界の回るスピードに置いていかれているような錯覚。
 きっとこれは、少しずつ「普通」が剥がれ落ちてきているんだ。それはパズルのピースではなくて、色のついたポスターみたいなものだったのだ。一度に一つずつ、もしくはある日突然ひっくり返るのではなくて、じわじわと、当たり前のようにそこにあった景色が、薄く淡く拭い取られていくのだ。
 授業中の一番後ろの席。誰もいなくなった廊下。帰り道の別れ際。私達はこっそりと秘密を啄んでいた。悪いことではないけれど、恐らく良いことでもない行為に溺れていた。
 初めはただの冗談で。きっとそれは向こうも同じだったと思う。ただ、直に触れて、実はとても刺激的な瞬間なのだと知ってしまったのだ。
 全部ぜんぶ、「だった」が支配する。一ヶ月後、私は真っ白になったポスターを見て、無くなった景色を懸命に思い出そうとする。けれど、背景も音も空気も思い出せなくて、きっと貴方の顔ばかりが浮かんでくる。
 そんなにも、私は貴方に依存しているのに。今日もまた、何も伝えられなかった。
「好き」
「楽しい」
「ありがとう」
 言うべきことなら、いくらでもあるのに。そのスパイスを加えなければ、友達とする会話と何ら変わらない。気持ちは、声に出さなければ沈黙と同義だ。
 東京だって、行こうと思えばいつでも行けるのに。もっと言えば、行きたい大学もないのなら、無理にでもついて行けばいいのに。
 彼女に「さよなら」をしてしまうのは、それはきっと、彼女自身ではなく、彼女との記憶に恋しているからだ。だから好きだと言えない。それはきっと、残り三十一回の日常を経ても、きっと変わらない。
 何年か経ってから、彼女と出会ったとして。果たしてもう一度、キスしたいと思えるだろうか。
 「普通」の私に、「普通でない」恋を続けられるだろうか。ああやっぱり、私は「全品三割引き」のポップを掲げた廉価品だ。これといった価値なんて、多分無い。  
 だから、せめて。貴方への、たった一つの願い。
 抱き寄せる貴方の掌が、拙い胸元でも、哀れな腰骨でもなく、愚かなるこの首筋へと届いて欲しい。

太陽と祝祭の街

 私は願う。彼女がもしも、辛く悲しい過去に囚われているのなら、その鎖から解き放たれて欲しいと。
 私は祈る。彼女がもしも、酷く凶暴な未来を予感しているのなら、その幻から目を覚まして欲しいと。
 私は想う。ただ一人、彼女の幸福と安らぎを。
 私は笑う。そうして彼女が笑顔になるのなら。
 これは彼女のために、彼女だけのためにある。
 彼女の友人として、せめてもの贈り物として。
 この記録を、密かに書き残しておこう。


 初めてこの村に彼女がやって来た時、私は不思議で仕方なかった。十四、五か、もしかしたらそれよりも幼いかもしれない少女が、たった一人で引っ越してきたのだから。荷物は少なく、後になって見せてもらったが、中身は衣服や最低限の貴重品が殆どだった。
 金のくせっ毛は愛らしくて、異国を思わせる顔つきも大層綺麗で――でも常に、彼女の目は曇って見えた。
 臆病なんだということは、すぐに分かった。この村は風車と牧場と木々ばかりだから、何をするにも助け合う必要がある。彼女は事あるごとに感謝と謝罪とを繰り返し、丁寧と言うにも極端な印象が強かった。
 いつも家にいて、あまり外に出ない。出歩くときには右手で杖をつく。夏でも厚着で、なかなか肌を見せたがらない。一人ぼっちだというのにお金に困ってはおらず、着ている服もそこそこの上物。いくつもある本と、一つだけある人形が彼女の友達だ。
 ああそうだ、それからもう一つ。彼女の名は、私がつけた。正確にはあだ名というべきか。あの子の一番風変わりな言葉を、今でも時々思い出す。
「好きに呼んでください」
 本名も知らないのに、そんな頼み事されても! 察しがつくだろうけれど、そこら中によくある村というものは、そのコミュニティも随分小さく、皆顔見知りみたいなものだ。そんな中で生きてきた私としては、その奇妙な言い方に対し、「他所だとそんな事もあるのかな」なんて考えていた。
「よし、ゲルダなんてどう?」
「じゃあそれで」
 とくにニコリともせず、お辞儀をされた。来たばかりの頃のゲルダは、そんな態度だったのだ。


「ねえ、アンナ」
 私がゲルダに呼び捨てで声をかけられるのに、二ヶ月はかかっただろうか。誰とでも親しくなれる事が自慢なのに、この苦戦っぷりは中々に悔しかった。それでもようやく、友人になれたのだ。
「この花の名前、わかる?」
 彼女は何にでも興味を持つ子だった。これは何、あれはどうしてこうなるの、なんて具合に、毎日なにかお題を提出される。当時、私は十六歳。彼女は十三、四歳(正確な歳は彼女自身知らないらしい)。妹ができたようだった。
 あれだけ本を読んでいるのに、疑問は絶えないらしい。それが彼女なりの甘え方だったのかな、と今ではそう思っている。


 徐々に村の面々とも打ち解け、牛乳や卵を分けてもらっている所を見かけるようになった。すべては順調、しかし一つだけ、私を含む住人たちには疑問に思う点があった。
 一人でいること、お金に困っていないことなんかは、色々と想像がつく。例えば裕福な家にいて、家出してきたとか。戦争孤児で、盗みなんかをしながらも此処に行き着いたとか。
 後者ならば物騒な話だが、ここには金目のものなんて大してない。それに都市部からは遠く離れた、地図に載っているかどうかも分からない場所、どのみち安息を求めて辿り着いたのであろうことは理解していたのだ。
 問題は、彼女の姿にあった。ひどく痩せていて、小柄。なかなか肌を露出しない。そして何より、左腕には常にアームカバーを着けている。布の切れ端みたいなそれを腕に通して、恐らく左手の指で引っ掛けて固定してある。夏場、ごくまれに半袖であってもそれは外さない。
 恐らく、と表記したのは、彼女の左手を見た者は誰一人いないからだ。左手はいつもポケットに突っ込んでいて、左腕が動く様を見たことはない。


「ゲルダ、そっちの腕は大丈夫なの」
 一度だけ尋ねたことがある。
「これは……動かないの。生まれつき」
 右手で、左の肘辺りを擦る。伏し目がちの表情に戸惑った。せっかく友達になれたのに、悲しい思いなんてさせたくなかったから。
「ごめん、遠慮なしで」 
「いいえ、そのほうがずっと楽だから」
 そのほうが、楽。何もかも手作業で作り上げる生活だが、何不自由ない生活をしていた私としては、その言葉の示す現実というものに気付くことなど不可能だった。
 でも、嫌われてはいなかった。太陽がこれでもかと光を放つ晴天では、たまに散歩へ出かけた。少し距離がある場合、ゲルダは杖を持って、私は籠を持って、花や薬草なんかを探しに出る。
「アンナは、この村が好き?」
 何度目かの散歩の際、そう聞かれた。花の名前などではない質問をされるのは初めてだった。
「生まれてから、ずっとここで暮らしているからね。ゲルダは? 気に入ってくれた?」
「とても。みんな優しいし、何より詮索されないから」
 杖でガリガリと地面をこすりながら、ぽつりと呟く。詮索、それを恐れている。彼女は、過去を忌み嫌っている。そして知られたくないと思っている。だからこそ、こんな田舎くんだりに来た。と、それぐらいは私にも分かる。
「ねえゲルダ、答えられないなら無視してもいい。前は、どこにいたの」
 杖の音が止まる。しばし沈黙し、ゲルダは左腕を抱き寄せる。やはり、よほど辛い出来事があったのだろう。謝ろうとしたのとほぼ同時、彼女は私を見た。なぜだろう、初めて、彼女の瞳をしっかりと見た気がした。
「デンマークにいたの」
「デンマーク? 海の向こう側じゃない」
 この国は南の端が海に接している。広大なとまではいかないが、そこそこ大きな隔てりだ。
「そこは……生まれ故郷だけど、私は怖かった」
「でも、ここよりは豊かと聞いたよ」
「そうじゃないの。これは私の問題でもあるの。ごめん、これ以上は」
 出会ってから、一年半は経っていただろう。ようやく、彼女の秘密に少しだけ触れられた。
 その話の続きを知れたのは、それから更に一年ほどあとのこと。まさか、悲しい記憶となるなんて。想像もしていなかった。


 それは年が明けようとしていた頃。第二次世界大戦が始まった、という報せが届いた。もしかしたら、ナチスドイツはこの国も侵略の対象とするかもしれない、を開始するというおまけ付で。
 移住しよう。村の面々は即座に決意した。元々、ここもかつては戦争から避難してきて築いたと聞いていたから、いざという時は安全圏まで逃げる、と決めていたのかもしれない。
 持てるだけの物資を持ち、牧場の生き物も売り飛ばし、みな支度を急いだ――ゲルダを除いて。
「ゲルダ、もうじき移動を開始するって」
「そう」
 これまでと何も変わらず、彼女は椅子に腰掛け本を読んでいた。
「支度はできているの?」
「元から荷物は少ないから大丈夫」
「でも、鞄が無いよ」
「……あのねアンナ、私は一緒に行けない」
「どうして」
「私はみんなほど早く動けない」
「そんなの、私が担いでいくよ」
「死にたい、って言っても?」
 意を決したように、彼女は立ち上がった。左腕を支えにして、ゆっくりと。
「腕が……動くの?」
「生まれてから一度も、動かなかった日はないよ」
 アームカバーを外し、透き通った肌が顕になる。くるりと内側を見せられて、私は戸惑いの声を上げた。切り傷と、焼け爛れた赤黒い傷痕、そしてその先に――あるべき指が、一本も無かった。
「そ、それは……?」
「自分で切り落としたの」
「どうして」
「お金になるから」
 彼女は、両親を早くに亡くしていた。唯一の身内である祖母も亡くし、生き抜くあてが何もなかった。その時、自身の指を切り落とし、暴力に飢えた富裕層に売りつけることでお金を得た……淡々と、そう説明された。
 それ以外の傷痕は、その時の恐怖をふと思い出してしまい、衝動的にやったのだと。笑いもせず、泣きもせず、彼女は語った。
「そんな、そんな、ゲルダ」
「ゲルダじゃない。私の名は、マリア。貴方だけに教えてあげる」
 左腕を再び布で包んで、そうしてようやく、笑顔を見せた。しかし、ちっとも落ち着かない。まるでこれまでの「ゲルダ」は嘘で、今目の前にいる「マリア」こそが彼女の本当の姿なのだと、この冷たく悲しい少女こそが真実なのだと、そう言われているみたいで。私は泣けばいいのか笑えばいいのか、ひどく混乱していた。
「どのみち、もう会えない事は明らかだから、やっと言えた」
「それは……教えてくれてありがとう。でも、私はマリアと離れたくない」
「私だって同じだよ。でも、動けない上、荷物も運べない女を連れていけるほど、悠長な旅でもないんでしょう」
 荷馬車をいくつも頼むわけにはいかない。最低限の物資と、老人や子供を乗せたらそれで満員だ。確かに、彼女は徒歩で移動せざるを得ない。しかしだからといって、見捨てるわけにはいかない。
「おい二人共、行くぞ」
 村長が家に押しかける。どうにか助け舟を出してもらおう、と私はそちらへ駆け寄った。
「先に行ってください、まだ支度が整っていませんから」
 努めて冷淡に、マリアは呟いた。
「何言ってんだ、五分やるから急げ」
「いえ、ですから、私は大丈夫ですから」
「阿呆、お前一人置いていけるか。嫌だと言うなら担いででも行く」
 私と同じ台詞を吐いた村長に、彼女はぷっと吹き出した。おかしな人、と優しく言いながら。
「どうして、みんなそんなに優しいのかな」
 結局彼女は、私達二人に半ば無理やり連れて行かされた、とここでは表記しておこう。一度は決心した彼女の覚悟を尊重して。


 私たちは無事、被害の少ない土地まで避難できた。私とマリアの物語は、ここで幕を閉じる。
 ここから先は、記録に過ぎない。物語にすることは出来ない。ただ、彼女はその後どうしたか、その証拠だけはしっかりと刻んでおきたいのだ。


 それから十数年、戦争後も私達は共に生活していた。ところが、彼女は流行病に倒れた。熱と咳が酷く、何日も虚ろな目で天井を見つめていた。
 いよいよ山か、という時分。その日はちょうど、散歩に出かけていた時のように、見事なまでの晴天であった。
 マリアは鞄を指差した。初めて出会った日から、ずっと持っていたそれを。彼女の側まで持ってくると、中から小さな箱を取り出した。
「これは、私の分身。寂しくなったら、これを使って」
 それは、古いマッチ箱であった。湿気てはいない。諦めないで、と声をかける私に、彼女は苦笑いしながら右手を掲げた。
「本にあったんだけどね、東方には、ゆびきりげんまんっていう文化があるらしいの。約束事をするための儀式。ねえアンナ、約束して。私の過去は、誰にも言わないって」
 うん、うん、約束する。だから、だからそんな言い方やめて。涙ぐみながら、繰り返し言い聞かせる。右手の小指で輪を作り、交差しあう。彼女の指は大層暖かく、そしてそれが、最初で最後、彼女の躯に触れた瞬間であった。


 これは記録だ。彼女がかつてこの世界で生きていたという、ただひとつの証だ。しかし、これは誰にも明かす事はできない。だって、約束をしたから。彼女の友人として、せめてもの贈り物として、私だけが胸の内に秘める文書だ。
 私は小さなマッチ箱を取り出し、蝋燭に火を灯す。そっと紙の先を当てると、記憶と記録の物語は瞬く間に灰になった。
 それらをかき集め、私は外へ出る。彼女の眠る場所へと向かうために。誰にも知られることのない、誰も知らない物語を、彼女へ贈るために。
 まだ空では太陽が陣取っている時分だ。陽射しを遮る私の掌には、きちんと五本、指が付いている。あの時交わしたゆびきりの温もりは、未だここに残っている。
 マリア、安心して。場所も人も変わってゆくけれど、それでもあなたは、「ゲルダ」という少女の姿のまま、私達の記憶に残り続けているから。

その時は空を見上げて(短編集)

私の涙は雪となる。
私の血は生となる。
私の声は轍となる。

2016.3.7、完結。

その時は空を見上げて(短編集)

短編集そのニ。私は独りでなくてはならない。万人の笑顔のために、私は不幸でなくてはならない。 誰にも愛されない人生よりも、誰もが祝福する最期を望み生きる。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-02-11

Copyrighted
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  1. 燐寸売りの娼女
  2. 群青
  3. 王子様の眠る家
  4. その時は空を見上げて
  5. 私は呼んでいる
  6. 睡眠は死の前借りである
  7. たった一つの冴えた殺し方
  8. 人間様の言うとおり
  9. 始まりと終わりの三十一日
  10. 太陽と祝祭の街