坂の記憶
2003年から2005年くらいに書かれた、ALTVENRY初の長編小説です。その後に書かれた「行き先不明の無限バス」をこの星空文庫では、先に発表しました。両作品ともここ数年、手直しを続けていましたが、この処女長編小説は、最初だっただけにいろんな要素を盛り込み過ぎて、焦点がしぼれないような代物でしたが、今回は取りあえず表に出しても良い程度には添削されたと思い、アップさせていただきました。ただし最初に意図したハードな部分がそぎ落とされ丸くなってしまった感も否めないか。
プロローグ
肌寒く、空気が透明な夜に、若い男が坂道を上っていた。坂道というより、それはかなり長い石段であるが、男は比較的軽い足取りでそれを上ってゆく。どうも家に帰る途中らしい。帰宅時の最後の難関であるこの坂道を上りきり、すぐ右に曲がれば、ほどなく彼の住む木造のアパートが見えてくる。
そんな折、坂道の中腹辺りで、なぜだか急に足が重くなったらしい彼は、取り敢えず歩く事をやめてその場で休んだ。毎日この階段を昇降してきて、今までそんな事があった試しはない。老人ならいざ知らず、20歳前の彼にすれば尚のこと……マラソンをして足がつったりすることはあっても足が重くなるなんてことは初めての事だった。特に原因さえ思い当たる節がなく、休んでいれば何とかなるだろうと煙草なんか吹かしていたが、三本目に火をつけようとしてにわかに不安を覚え始める。
夜も十時を過ぎていると、その辺りは街灯もまばらで薄暗く、行き過ぎる人影もない。しばらくして、頭の中で闇に一人で佇む光景が、記憶の奥から浮かび上がってきた。
それは彼がまだ小学校に入る前のことだ。その頃住んでいた家は、彼の母が生まれ育った農家で、家族で居候させてもらえるくらい部屋がたくさんあった。都会を離れ、母の故郷で家族3人が、新規一転を図るための仮住まいであったわけだ。幼かったから事情を知る由もないが、彼の印象では遠慮しながら慎ましく暮らしていたという感じだ。3人が一部屋に川の字になって眠っていたのもそんなイメージだった。ただそれ以外は食事は大広間で全員一緒にだったし、それに子供の特権を活かして、おばさんの部屋に遊びに行ってお菓子をもらっり、庭も広く従兄弟たちと水遊びや石蹴りなどをしたりと明るい思い出もないことはなかった。
ある日夜中に目を覚ました幼い彼は上半身を起こして、静寂の中でおとなしく眠っている両親をただぼんやりと何気無く見渡していた。それがまるで死んでいるようにも見えたのか、次第にこみあげる恐れに似た感情ノノ。それは、自分だけが夜の闇の中に取り残されてしまったという孤立感なのか、活動を停止した世界に自分だけが反旗を翻しているという疎外感なのか……。
その光景はその日以降も、小学校に上がる頃までしばらく彼の夢の中に現れた。夢は、その時々の身体の疲れや眠りの深さによってか、かなりエスカレートした状況まで発展した事があった。例えば、彼が声をかけても、いくら揺さぶっても、二人とも全く目を覚ますことはなく、夢の最後で骸骨に変わってしまうとか……部屋を飛び出して外に出ても、待ち行く人が静止していて骸骨になっていたりとか……。
過去の記憶は一瞬時を忘れさせていた。それにしてもこの長い石段には街灯がめっきり少ない。夜間利用者がいないとみて街灯が少ないのか、薄暗いから夜間の行き来がないのか、答えのでない堂々廻り……。それにしてもいつもならこの時間といえども一人二人は擦れ違うものだ。だがその日のその時間に限って往来はなく、彼の存在はその空間の中で全く孤立していた。
溜め息をつきながら重くなった足を思いやる。ポケットを探って煙草をもう一本取りだして火を付けながら、何気なく視線を下に降ろしてゆくと石段を上ってくる人影が目に映った。近付いてくるにしたがって、髪の長さや物腰の柔らかさから女性であることがわかった。
20歳間近な彼が頭に思い描いたのは、待ち伏せしている痴漢のイメージだった。さりげなくやり過ごすに越したことはない。または挨拶してこの状況を説明すれば、胡散臭く思われないのか。迷うところではあった。
「どうかしましたか」
思いがけず先に声をかけられて、結局は会話せざるを得なくなるが、この状況を理解してもらう困難さを考えるとやはり足が重くなったとは言いづらく、当たり障りのない答えになってしまう。
「なんでもないんです。ちょっと休んでいるだけなんです」
口が勝手に動いている間、瞳は彼女の顔に吸い込まれていた。年上には違いないが、目が大きくクリクリっとしていて好奇心旺盛そうで知的な顔立ちは、彼のタイプであった。一瞬足の重みなど忘れてしまうくらいだ。
「ここの石段は、長いですからね」
温かくて優しい声だった。そして一瞬間を置いて投げかけられた言葉……。
「それから……、私に遇った事を忘れないでくださいね」
その言葉の意味がよく分からなかったが、しばらく頭を離れなかった。会釈をしながら彼女が、彼の傍らを過ぎて行く。嗅いだことのない芳しい香水の薫りが彼の鼻孔を刺激する。体のどこかでロックが解かれるような感覚。そんな気はしたのだが、案の定、足の重みは消えていて、交互に足を挙げようが、その場で飛び跳ねてみようが、いつもと何ら変わりなくなっていた。
彼女が坂道を上りきろうとしていた。彼女のおかげかもしれないし、そうでないかもしれない。とにかく一言声をかけたくて残りのステップを一気に駆け上がった。嘘のように足が軽く感じられた。息を切らすこともなく駆けのぼって周りを見渡す。それほど時間がかかったわけではないが、彼女らしい人影はなかった。2〜3の民家に灯りがともっていたが、その家の娘かもしれない。それとも同じアパートの住人だったりして。いずれにしても彼が駆け上がるのに要した1分弱の合間にたどり着ける距離。そこに彼女はいるはずだった。
「それから、私に遇った事を忘れないでくださいね」
その言葉と彼女の姿は、その後彼の夢の中で数回繰り返されたものの、意味の分からないまま、時は流れていった。そもそもそれ自体が夢ではなかっただろうか。心は安定を求めようと勝手に解釈を加え、都合のいいように処理してしまうものだ。そしてその事はやがて記憶の片隅のかなり奥の方にしまい込まれてしまったのだ。
第1章
1 藤木直
藤木直は、自身のデスクで午後のプレゼン用の書類をまとめていたが、知らず知らずのうちに頭に浮かんでくる妄想に悩まされ、予想外に時間を取られ焦っていた。
数日前に顔を合わせたある女性に関する他愛もない妄想……。
〜どうかしてるよ。初めて会ってほんの少し話をしただけなのに〜
得意先の挨拶回りで、最後に訪問したのは和泉精巧という会社だった。今までに数回訪れては、真剣に話を聞いてもらっていたので手応えは感じていた。さらに踏み込んだ具体的な商品の説明をしようと、社長の手が空くのを待つ数分の間のこと……。
心地よい香りのコーヒーが運ばれてきた。
「お待たせして申し訳ございません」
さわやかな声が色を添えて、どことなく幸せな気分を味わった。
「どうぞおかまいなく」
彼は満足そうに言って顔をあげた。
コーヒーを運んできた女性は、今回初めて見る顔だったが、以前に会ったことがあるように思われた。愛らしい目元が印象で頭の回転が速そうな印象……。ただしベージュ色のスーツが少し地味に見えた。いや、その組み合わせが個性的でもある。
「どこかでお会いしましたか」
「まあお上手ですこと……、残念ながら昨日から勤務しておりますので、こちらでは初めてかと……」
そう笑顔で答える、その声すらも聞き覚えがある。
「……ですよね。まあ、これからもよろしくお願いします。時々、顔を出すと思いますので……」
そう言って彼は名刺を手渡した。
「ご丁寧にありがとうございます。少しお待ちください」
いったん奥に戻ってから、彼女が取ってきた名刺には、「社長秘書」の肩書きがあった。「こちらこそ、どうぞよろしくお願いします」彼女は微笑みながらそう言うと一礼をしてドアの向こうに消えていった。
会ったことがあるのは、気のせいかもしれないと思い直す間もなく、彼女の残していった香水の匂いが古い記憶のドアをノックし始めていた。
「成瀬美穂か……」
名前からは特に何も思い出せなかった。
藤木の勤めるTSネットワークサービスは、西新宿のビルの一角に入っていて、いろんな分野の企業にネットワークにおける新システムの利便性を促し、その販売、導入、管理を一手に引き受けていた。彼は受け持ちのクライアントに新しい在庫管理システムを説明すべく数日前から資料集めをしてきていた。
和泉精巧以外にも数件のクライアントを抱える彼は、会社内でも上司の信頼が篤く、部下からも頼りがいのある課長であり、若手にとっては彼が一つの目標であった。そうはいっても、一人の営業マンである事に変わりのない彼は、部下の仕事の面倒を見ながらも、自分の仕事も着実にこなしていた。
「ちょっと。聞いてる、人の話」
その声に驚いて横を見た。後輩の吉野さゆりが眉を吊り上げて、腕を組んでいた。
「仕事熱心はわかりますけど。食べるものは食べとかないと体に悪いですよ」
彼女が彼と同じ課に配属されてきた時にコンビを組んで以来の付き合いになる。遠慮を知らない話し方が時々気に障り、一見扱いにくいと思うが、妙に気が利くところもあり、仕事もバリバリこなす行動派タイプであるのが、彼のお気に入りなのだ。喋らなければ、見た目に華があり、それなりに引きつけるものがあると思う。
「ランチタイムかい。今日はどこ」
「だから、3階のフレールのランチメニューが昨日から一新してるから行ってみない、ってさっきから言ってるでしょう」
まるで聞いてなかった藤木だった。今日のところは、とりあえず彼が奢るということで機嫌をとった。怒らせると手におえなくなるのだ。今は課が違って同じ仕事をする事はないが、彼女が藤木を慕って時々誘いをかけ、藤木が仕方なく付き合うという構図ができていた。
少し早めだったので、待つことなくすんなり入店できた。フレンチともイタリアンとも言いがたい微妙な雰囲気の店内で彼等は窓際に座った。藤木の横顔を窓から差し込む光が照らしていた。
「午後のプレゼンは完璧ね」
「ま、まあね」
「私も頑張って成績あげなきゃ」
いつも通り彼女のペースで進んでゆく会話。それを藤木は嫌いでなかった。ただ時々頭の中でトリップを始めて、彼女の話しを聞き漏らし、彼女の怒りを買うということもあったが、それはそれで楽しいのだと彼は思った。
「さっきから黙っているのは、仕事の事を考えてるんですか。それとも私以外に好きな人が出来たんじゃない」
「君は元々問題外だよ」
「あら失礼しちゃうわね。いつも藤木さんのことを心配してるのは私くらいのものよ」
そう言ってパスタを口に運ぶ手をいったん止めて顔をあげ、藤木を見つめる。そんな彼女の表情を確かに可愛いと思う。彼にしてみれば身近にいる彼女と一緒になるのが最も自然な成り行きかもしれない。
「誰かいい人いないの」
そんな母親の口癖を聞くたびに、現実に周りにいるのはさゆりくらいのものであった。同じプロジェクトで仕事をしている時、実際心を動かされるような事もあった。自分も30才を越しており、このままではいけないと思っている。それでも今まで一線を越えなかったのは彼女が特にきらいだったからというわけではないのだが……。
「どうかしたの。今日は特に変よ」
彼女が怪訝な顔で彼を見つめる。
「疲れてるのさ」
そう答えながら自分でも不思議なくらい例の成瀬という女性にこだわっていた。
「会ったことがある。でも、どこで」
そういえば偶然にも和泉精巧の製造部門は、昔彼が住んでいたアパートがある場所だった。それはもう15年も前の学生時代の事になる。途中で引っ越したので、実際には1年数ヶ月過ごしただけの木造アパート。
〜そういえば、なぜ引越をしたのだろう〜
大学生活を始めた最初の頃の事だ。確かにその頃の記憶が最も欠落しているように感じる。それから何回か引っ越しを重ね、現在は30歳を区切りに中央区のマンションを購入して住んでいる。中央区といってもかなり隅田川のほとりに近いが、おかげでかなり自然が感じられる程度の緑があった。
午後のプレゼンテーションも滞りなく成功させ、仕事帰りの地下鉄電車の中、彼は浅い眠りの中で夢を見た。学生時代の光景が脳内のスクリーンに写し出されていた。音楽サークルでギターに明け暮れていた毎日。発表会で取り返しのつかないミスを仕出かした。友達の彼女が好きになり、友情にヒビが入りそうになった。失恋の痛手もあった。ちょうどその頃住んでいた六畳間のアパートに初めて足を踏み入れた日の事。高台にあるので、谷間を走る小田急線を一望できるのだ。そう。そこに至るまでの長い坂道。忘れていた記憶が顔を出そうとしていたが、白い靄がかかっているかのように何も思い出せない。
〜本当になんで引越したんだろう。坂道が大変だったと皆には言ってきたけど、実際そうだったわけでもない〜
駅について目が覚めた彼は背中にびっしょり汗をかいていた。改札を抜けて地上までの階段を上りながら、不思議と足の感触を確かめている藤木だった。
2 和泉均
株式会社和泉精巧は、新宿に本社を構えながら、製造部門である工場は、小田急線の百合丘にあった。
社長の和泉均は、大手電機メーカー共和電気から独立して、細かい電器部品を製造する下請会社を起ち上げたのだった。当年とって60歳だが、起業家らしく勢力旺盛である。効率を上げるための努力を惜しむことなく、新しいコンピュータシステムの導入を検討していた。
1日1回、朝、工場に顔を出すが、ほとんど本社にいて営業に力を注いでいた。本社といっても営業窓口という感じの事務職が二人だけの簡素なもので、8階建てのビルの4階ワンフロアを半分だけ使っていた。また営業活動と言っても彼の勤めていた大手電機メーカーからまわってくる仕事が大半を占めていて、新規に仕事を開拓できるほど甘い御時世ではなかった。営業活動よりは現在の生産ラインの安定をはかることや在庫管理システムの見直し、それにたまに付き合いで出掛けるゴルフのことに神経を使っていた。
本社といってもその程度の規模なので、なるべく人は置かない方針であったが、知人の紹介もあって女の子を一人雇い入れた。話を持ってきたのは、以前勤めていた共和電気の竹中という男で現在副社長になっていた。泉は履歴書の写真を一目見て、おやっ、と思った。その和泉の反応を見て竹中が意味ありげに言う。
「興味がわきましたか。とにかく一度会ってみてはどうです」
確かに品のある顔立ちだったが、それだけではなかった。何か引き付けるような魅力は、そう、彼女に似ていたからだった。彼の古傷を甘く舐めまわすような甘美な感触……。
「成瀬くんはどこかで会ったことがあったかな」
面接の時彼は遠回しに探りを入れる。血縁者なのかどうか…。
「さあ、短大を卒業してしばらくは家におりましたし、この辺りに来るのもかなり久しぶりなんです。こうやって勤めに出るのも初めてですし……」
彼女自身も可能性を考えながら答えたが、その姿に裏があるとは思えなかった。
「気のせいかな。まあとりあえず雑用をお願いすると思うけど、立場上は私の秘書ということになる。よろしく頼むよ」
和泉は机に向かって履歴書を見つめていた。面接をした時のことを何気無く思い出していた。本人を前にした時は、今時の女の子らしさが目について、今こうして写真からにじみ出るほど、似ているとは思わなかった。
静止画は、時として必要以上に物事の内面を表現していることがある。動画以上に雄弁だったりするのだ。ただ和泉がその情報から選択したのは、未来への警戒でなく、過去への親近だった。
彼には、まだ独立する前に妻とは別に付き合っていた女性がいた。文句のひとつも言わずに愛人に徹してくれていた。形だけの結婚生活に潤いを与え、心のバランスを取るために欠かせない存在だったのだ。
「成瀬美穂か」
昔愛した女に生き写しの新しい秘書の名前だった。
彼は何かしら自身の中で変化するものを感じていた。きっと生まれ変わりなのだ。俺に会いにきたのだ、と自分勝手に判断するだけだった。
部屋をノックする音と新米秘書の声が聞こえ、彼は履歴書を机の一番上の引き出しにしまいながら返事をした。
「藤木さんがお見えです」
藤木は社長の手前、美穂には一礼だけして、さりげなく部屋に入った。
「やあ藤木さん、待っておりましたよ」
藤木を机の前にある応援セットに座らせて言った。
「藤木さんはコーヒーで良かったですな。成瀬君コーヒー二つ」
美穂は笑顔で返事をして部屋を出た。
「社長、製造部門を見せていただきました。あれだけの人数で、大きな機械をいくつも稼働させてる様子に感動しました。今後また定期的にお伺いするように致します」
「いやあ、ご苦労さまです。藤木さんの熱心さにうたれて、早速新システムを一部導入させていただきました。まあ何でも最初は波に乗るまで様子見が必要ですからな。今後順次新システムに交換していきますからね、よろしくお願いします。工場の方は製造部長にまかせっきりなんですが、当社の事情はおわかりいただけましたかな」
「はい、だいたい把握したつもりです。部長の吉田さんにいろいろ案内してもらいました」「言葉数は少なくて無愛想かもしれませんが仕事は間違いなくできる男ですよ」
仕事の話が一段落して、藤木が話題転換した。
「ところであそこの駅を降りて石段を上って行くときに錯覚を起こしますね。学生時代に戻ったような」
「ああ、藤木さんが住んでらしたというアパートのこと、調べてみたんですが、建設用地を確保した時点では、確かに残っていたらしいのですが、なんでも近所の民家からの火災が発生して焼けてしまったらしいです」
火事の話は知らなかった。
「運が良かったようです。その前に引っ越ししてなかったら、私もこうしてこの場にいられたものか、どうか」
藤木は自分が暮らしていたアパートが火事で焼けたことを聞いて、せつなく思った。
「藤木さんは、どれくらいそこに住んでらしたのですか」
「大学に入って最初の頃ですが、2年は住んでなかったですね。更新前に引っ越そうと思ったんでしょう。確かあの坂道が結構疲れるので、楽なところがいいと思ったんです」
引っ越しをした理由は漠然としていて、未だに思い出せなかった。というよりは、何か靄がかかっていて、そこの記憶だけが抜け落ちていると言った方が正解なのか。
15年ぶりにその坂を上ってみて、よくこんな坂を毎日上り下りしていたとは思った。取りあえずそのことをそのまま理由にしてしまおうと思ったのだった。それに関しては、和泉も痛感しているらしく頷いている。
「その頃の知り合いとか、仲の良かった隣人とか、いらっしゃらなかったんですか」
和泉はそう言って藤木の表情を見ながら、さらに付け足した。
「いや火事の犠牲にならなかったのかと思ってです。でも、まあ……火事をご存じなかったくらいだからねえ」
和泉はそう言って笑った。
「そうですね」
和泉にあわせて笑いながら、なんとなく頭の中でつつみ込まれた記憶の断片を整理しようとするが、それを阻むように和泉が急に話題を変えてきた。
「ところで藤木さん、成瀬君のことどう思いますか。なかなかの美人だと思わないですか」
「綺麗な方ですね」
さりげなく答えたつもりだったが、語尾が若干うわずった。それを気にも留めず、和泉は何時になく上機嫌で、コーヒーが運ばれてくるまで、彼女について喋り続けた。
結局和泉の話しは、彼女の顔を見るために本社を訪ねてくる輩が多くなったことや和泉自身が彼女を連れて歩くだけで自信が湧いてくるということ、また自分が独身で年が若かったら求婚しているであろうことなど、もう可愛くてしょうがないといった感じだ。
藤木も共感するところが多く、相づちを打ちながら、微笑んでいたものの、あまりの可愛がりように、若干嫉妬に近いものもこみ上げてきて、途中からはクールダウンしていた。そんな藤木の様子を楽しんででもいるかのように、さらに話を続けた。
「藤木さんはまだ一人でしたかな」
「えっ、まあ……」
突然質問が来たので、言葉が続かなかった。「どうです、彼女と付き合ってみませんか」
さらなる思いがけない提案に藤木は目を丸くして答えた。
「何をおっしゃるのかと思いました。もちろん私も独身ですし、女性には興味はありますが…」
決して嫌ではない。むしろ望むところだ。ただビジネス以外でクライアントの内情にかかわるのはどうかだが、自分の人生にも前向きでありたかった。ただ自分が若ければ求婚までしたいというほどの彼女をなぜ、と思う。和泉への遠慮も働いて、素直にハイとは言えない。
和泉もまた当然藤木が遠慮することを分かっている。
「どうも露骨な言い方ですいませんなあ。まあ堅苦しく考えないでください。成瀬君は本当に良くやってくれるんだが、少し生真面目なところがあってね。息抜きさせてやりたいんだが、私はもうこの年だ。話しも合わないと思ってね……」
藤木は複雑な思いの中、そういうこともあるかもしれないと思った。いくら和泉が、年に合わずバイタリティー溢れる男であっても、さすがに親と子ほどの年齢差を見れば、間違いなくあり得ない関係だ。ただ、それゆえに何かしてやらなければという気遣いなのだろうか。
和泉は和泉で、藤木に説明しながら今一度自分自身の心の声に問いかけていた。確かにもう『女に現を抜かす』歳ではないと……。しかし実際にはもう少し複雑で、彼女のことを考えているようでありながら、自分の欲求を抑える方法を模索していたのかもしれない。多分、誰か別の男のものとなれば、いくら自分でも彼女に手を出す事はないだろうと……。そんな時、偶然取引相手として目の前にいる、この未来を託せそうな好青年に自分の代役を務めさせようと思いついたというわけだ。
和泉は時々自分が分からなくなることがあった。本音を隠すために建前を実行しながら、知らず知らず心の声に操られ、矛盾した行動をとることがあった。または矛盾しないように修正を加えながら、本音を実現してしまうのである。心のどこかにある馬鹿げた妄想が今回も和泉を操っているように見えなくはなかった。
3 成瀬美穂
まさか社長から、そんな話しをされるとは思いもよらず、藤木は藤木で運命的だと思っていた。和泉同様に昔会ったことがあるような気がしていたからだが、和泉ほど具体的でなくなおも漠然としていた。
「成瀬君にはある場所で書類をあなたに渡すように指示しておきます」
和泉はそう言って、彼に一枚のパンフレットと予約券を手渡した。
「彼女には、それ以上のことを話しませんから、あとは、藤木さん、あなたがリードしてやってください」
パンフレットは、新規レストランの案内チラシで和泉精巧からも藤木の会社があるビルからもそれほど遠くないところだった。
「あなたに書類を渡して一緒に食事をする予定だった私が、急用で行けなくなったことにします。フルコースのフレンチはもう柄にあいませんよ。それから後はあなたから誘ってください」
なんとなく、彼女を騙すような気分でもあり、藤木自身が騙されているようでもあり、複雑な気持ちにだったが、いまさら断れないと腹をくくった。腹をくくったからには流れに身をまかせるしかなかった。
彼女に初めて会った時に、初めてではないように感じられたのはどうしてなのか。今までに出会った女性とはうまくいかなかったのは、このためではなかったか。いろんな思いが交差し合ってほのぼのとした気分でいられた。彼はそのひと時を大事にしたいと思っていたが、事態が急展開を見せて、のんびりした夢を見ることは許されなくなってしまった。現実を直視していかねばならないのである。
成瀬美穂は時間通りに現れて、約束の書類を藤木に手渡した。今までは本社で世間話をする程度だったが、それだけでも十分満足していた。それがこれから二人で食事をするのだ。これ以上何を望むだろう。
「藤木さん、社長が急用で申し訳ありません。書類は預かってまいりました。どうぞご安心を」
今日は、抑えたピンク色のスーツだ。急にこんなことになったので、なんとなく落ち着かないでそわそわしているようだ。
「どうかしましたか」
「こういう席はどうも不馴れなものですから」美穂が正直に答える。
「僕もですよ」
そう、何度か得意先に招かれたりしての経験はあったが、一人ではまず来ないし、後輩と仕事の打ち上げで行くのも居酒屋程度だ。彼女を安心させようと素直にディナー招待券を見せる。
「得意先でもらったんですよ。僕が払うわけではありません。お互い社会勉強しましょう」
彼女の表情が少し明るくなったような気がした。
藤木は自分がお人好しであることをわかっていた。そしてそれが時に他人を傷付けることがあることを経験から理解していた。自分は満足しているが相手はどうなんだろう。彼女の笑顔には嘘がないような気がしたが、自分の方にうしろめたさがあって、どうしても不安が残る。この話を持ちかけてきた和泉の顔がちらつく。自分が幸福を感じれば感じるほど、それが本当かどうか不安になってしまう。
「社長の急用って何ですか」
知っていながら一応聞いてみるのは、社長がどんな嘘をついたのか、興味が湧いたからだ。少しづつ緊張の糸がほぐれて気持ちに余裕ができたらしい。
「なんでも昔の恩人に会われるとかで、詳しくは教えてくれないんですよ。きっとゴルフか何かの打ち合わせじゃないかしら」
ゴルフが好きなのは以前聞いたことがあった。社長とはかれこれ半年くらいの付き合いになる。システム導入には、常に興味深く彼の話を聞いてくれた。導入後も好意的に彼をひいきにしてくれた。自分を気に入ってくれたことで、今夜のセッティングもあるのだと自分を納得させていた。
ワインがほどよく藤木をリラックスさせていた。彼は仕事の失敗談などを面白おかしく話した。美穂はワインを一口飲んだだけだが、かなり上機嫌であった。
「藤木さんて、冗談とか言わない人かと思っていました」
そう言って笑う彼女は本当に可愛かった。最後のデザートはイチゴのタルトだった。それをフォークで口に運びながら、もう少し一緒にいたいと思っていた。
夜風を浴びながら、彼女の上気したほほが街灯に照らされていた。
「あとは、あなたが誘ってやって下さい」
和泉の声が耳元で聞こえた様な気がした。
藤木と美穂が初デートの食事中、和泉は古巣の共和電機に現副社長の竹中を訪ねていた。
「おや、趣味の良いネクタイですね。奥様のおあつらえですか」
竹中は、十数年付き合いのある和泉の内情を知りつつ、そんな言い方をした。しかし今日の和泉は、それを皮肉と理解しながら、まるで気にしないくらい上機嫌だった。
「副社長も意地悪ですな。ここ数日は妻の顔さえ見てないですよ。それよりいい娘を紹介していただきましたな」
ただ礼を言うつもりで訪れたわけではなかった。竹中が親切でそんな話を持ってくるとは到底思えなかった。
「いやあ、どういたしまして……。私も最初思い出せなかったんですが、よく似ていますよね。きっとあなたが驚くだろうと思いました。ああ、でも誤解しないでください。うちに面接に来たんですが、何人か決まってたもので、それで和泉精巧を案内しただけですよ。うちにとっても大事な得意先ですからね。まあ、あなたの力になれれば本望ですよ」
竹中は竹中で簡単にしっぽは出さない。
「もう若い娘に現を抜かす年でもないですよ。ただ本当に良くできた娘なんであなたには感謝してます」
「よしてください。和泉さんが独立してここを出ていかなかったら、あなたが今副社長だ。感謝してるのは私の方ですよ」
「またそんなことをおっしゃって。まああなたの方が辛抱強かったということでしょう。私は早く外に出たかっただけですよ。今の社長にはたいへんお世話になりましたけどね。何だかじっとしているわけにはいかなかった」
「いやあ、和泉さんはやっぱり若いですよ。私は人事とか経理なんかを渡り歩いてきた事務系の人間です。営業部長で活躍されていた頃のあなたを羨望の眼差しで見ていました。社長も、当時は副社長でしたが、あなたには相当目を掛けていましたよね。あなたが独立するっていう時も一度は反対しながら結局は応援する側にまわってました」
「確かに今の和泉精巧があるのも皆さんのお力添えがあってこそなんです。私一人では何も出来ない。竹中さんにこうしてお会いしているのも今後もお力添えをお願いしたいからですよ」
他愛のない時間かもしれなかった。たとえ竹中に目論見があろうと、奇跡ともいうべき瓜二つの女性が存在するという事実には、人智が及びようもないのだ。
駅への道を歩きながら藤木はなるべくそれは気にしないように努めた。気にすればするほど、本当の自分とは違う行動をとってしまいそうだ。自分の気持ちに忠実になろう。もう少し一緒にいたいと思うのは本当だ。あとは彼女がどう思っているかだ。
「飲みが足らないかなあ。成瀬さんはどう」
さりげない言い回しだ。
「藤木さんはもの足りないんですね…。私はあまりお酒は飲めないんですけど、付き合いましょうか」
美穂もまたさりげなく切り返す。その表情には何の計算もない。むしろ無さすぎて本意が読み取れない。無理に付き合ってくれようと言うのか。
「そんなあ、飲めない人と飲みに行っても、楽しめないなあ」
藤木はそこでお開きにするつもりで、そう言った。
「私だってお酌くらいできますよ。美人秘書のお酌では飲めないですか」
バカにされたと思ったのかムキになって、そんなことを言い出した。その口をつんと尖らせた様が妙に可愛く、そしておかしく、彼は声を押さえながら笑った。それにつられて彼女も笑いだした。
二軒めは、リトゥールというカウンターバーだった。残念ながらお酌の必要はなかった。藤木はジュースを勧めたが、馬鹿にしていると言ってきかない美穂だった。ウオッカベースのカクテルを半分くらい飲んだ彼女は、両手をカウンターの上に載せて、その上に頭を置くようにして眠ってしまった。横にした顔を藤木の方に向け、目を閉じている。藤木は飲みかけの水割りを飲み干して勘定を払いながら、思案にくれていた。たしか世田谷のマンションに一人暮らしを始めたばかりだと言っていた事を思い出した。
藤木のマンション前で、タクシーから降りたのはいいが、美穂を部屋に連れ込む事に少し抵抗があった。もし美穂が目を覚ましたときに、なんて言われるだろうかと思った。それよりも美穂の靴を脱がせると、何となく悪い事をしているような気がしてきた。冷や汗が額から流れ出てくる。ベッドに横にして、簡単に毛布をかけた。冷静にと努めているが、男としての欲望も多少頭をもたげてくる。なるべく見ないようにしようと、リヴィングに場所をうつし、ソファーにごろっと横になった。目覚ましをセットしつつ、目をつむったとたんに眠りについていた。
夢は現実ではないが、現実に関連するヒントのようなものが隠されていると感じる場面が数多くある。幼い頃は、親や家族の存在が大きなものであって、それを失う事の恐怖が心のどこかに少なからず存在している。大人になってもそれは変わらず、愛するものを失う恐怖といったものは必ずある。ただ簡単には消えてなくならないという事を経験から理解しているので、幼少時代ほどではないのかもしれない。
悪夢は愛するものを消し去る事で現実に起こった場合の悲しみを緩和させる役割があると聞く。また現実には起こりえないであろう事を叶えたりする夢もある。もし罪を犯した人が、夢の中でその報いを受けている場合は、それは現実の苦しみをいくらか楽にしようというものなのか、あるいは現実には受けられない報いを夢の中で受けたいというものなのか。それは本人でさえ分からなかったりするのだ。
目覚まし時計がけたたましく朝を告げる。白と黒の世界に少しづつ色がつき始めるかのごとく、彼の日常が動き出す。彼はコーヒーを湧かしながら、まだ寝ているかもしれない彼女を起こそうとベッドルームのドアを開けた。もしかすると昨夜の出来事そのものが夢だったのかもしれない。彼女の姿はなく、誰かが寝ていた気配すらない。ただしベッドはいつも以上にきれいに整えられていた。それが唯一昨日の痕跡を残していたとも言えた。
4 もう一人の女
共和電気を後にして、和泉は帰路につく。今頃若い二人は盛り上がっているだろうか。小田急線の成城学園駅から数分歩いたところにある邸宅に向かう夜道で藤木と美穂が語り合う場面を想像しながら、ため息をつく。にわかに覚える嫉妬心を懐かしく思う。こんな気持ちに襲われるのも15年ぶりかもしれない。
妻と二人で暮らしているが、結婚した頃から別の部屋で過ごしている。お互いの生活にはほとんど無関心である。和泉の帰宅を迎えるものはなく、誰に会う事もなく自分の部屋に落ち着く。
今日は結構疲れたのかもしれない。いつもは、心穏やかに好きなゴルフのクラブを磨いたり、読書などをしながら眠りにつくのが日課であったが、横になったとたん自然に瞼が閉じられて、眠りの中にいた。和泉がよく見る夢には、かつて愛した女たちがよく顔を出していたが、とりわけ美穂によく似た彼女との逢瀬の場面が、何度も何度も鮮やかに映し出されていた。
それは、最初に彼女を抱いた夜だった。和泉には一番大切な人であった彼女も、最初は半ば力づくでものにした経緯があった。
「私を騙したんですね」
あるホテルの一室で、彼女は静かにそう言った。けしてだまされた事を悔やんでいる様子はない。
シングルルームと思いながら案内された部屋がスイートだったり、ドアの向こうに和泉がシャンパンを用意していたり、絵に描いたような常套手段ではあったのだ。食事会で遅くなり終電がなくなったメンバーのためにといいながら、自分の顔の効くホテルに連れて行くというわけだ。
「わかってくれ。こうでもしないと思いを伝える事のできない不器用な男なんだよ」
そう言ってから強引に体を引き寄せてキスをした。
そのころの和泉は数人の女性と平行してつきあうくらい金もあればバイタリティもあった。経験上、警察沙汰にならない程度に思いを遂げるすべを心得ていた。もちろん相手にどこまで飛び込んでいけるか、距離を測る事にも慣れていた。その彼の経験を持って、彼女は大丈夫と判断したのだろう。
彼の腕がやさしく彼女に伸びていって、彼女の肩をつかみ、二人の距離が少しずつ狭くなって、やがて唇が重なった。お互いの心臓の音だけがクローズアップされる中、和泉の腕が背中のジッパーに触れたときだった。
彼女が、突然身体を引いた。
「自分で脱ぎますから、明かりを消してください」
何だか調子を外されたような気がしたが、言われるまま、照明のスイッチを落とした。ルームライトの消えた部屋にカーテンの隙間から街灯の明かりが差し込んでいて彼女を照らしている。ソファーに腰を下ろしてグラスに残っていたシャンパンを少し口に含んだ。
「私にも下さい」
彼女も和泉の隣に腰を下ろして、シャンパンをねだった。暗くはあるが、彼女の白い裸体は、華奢な四肢も、きれいなカーブを描いたウェストも、丸い女性らしい部分も完璧に和泉の瞳に捕らえられていた。グラスがテーブルに置かれると、二人は最初よりも長く深い口づけに始まる、しばしの小旅行を味わうのだった。
いつのまにか朝が訪れた場面に変わっていて、和泉の横に眠っている女性の顔が、なぜか美穂のように見えてくる。和泉はその空間から離脱した幽霊のように二人の姿を見ていた。
それが夢であることに気づく直前、美穂の隣で美穂の寝顔を見つめているのが自分ではなく藤木である事に気づいて眼を覚ます。それがいったい何を意味するのか。もやもやしていた。
朝日が窓から差し込んでいた。時計を見るとタイマーセット時刻の30分も前であった。
成瀬美穂は自分の部屋で目を覚ましたが、昨日の記憶から推測すると藤木に何か失礼な事をしたのではと不安になった。たしか食事をしてレストランを出た後、カウンターバーに入って何かドリンクを飲んだところまでは思い出せた。自分の足で帰ってきたに違いない。出勤の準備をしている間も気が気でない。
「おはようございます」
同僚の金子に挨拶を交わし、取引先の接待準備をしながらも、藤木に電話をしようか、どうか迷っていた。
「成瀬君、おはよう」
「あっ、おはようございます。社長、今日は早いんですね」
和泉は、いつも成城の自宅からいったん百合丘の工場を視察して、本社に来るのが日課だったので、美穂も他の社員も少しびっくりした。
「みんな、そんなに私が早く来ると邪魔かな」
和泉の冗談を美穂が笑う。
「いいえ、そんなこと…。コーヒー入れましょうか。社長」
笑いながら美穂がコーヒーの支度に取りかかろうとする。
「ありがとう。ところで昨日はどうだったい」
美穂は少し浮かぬ顔をしながら、照れくさそうにお礼をいいながら、食事がたいへんおいしかった事や、藤木の仕事の話などを簡単に話した。最後の方はプライベートでもあるし、自分の記憶に自信がなかったので省略したが、和泉が知りたかったのも、どうやらその辺りであった。さすがに詳しく追求するのもどうかと思われた和泉は、話題を変える事にした。
「成瀬君は、小田急線の豪徳寺に住んでるんだったかな、確か一人で。昔から小田急沿線は詳しいのかな」
「いいえ、初めてですよ。今の前は、埼玉の川越に住んでいましたから。実は、学生時代からあこがれの一人暮らしを小田急線か、京王線でと思っていたんです。下高井戸の会社だから自転車で通おうかとか……、そうしたら職場が新宿なのでびっくりです。駅で迷わないかなとか……、あっ、すみません」
喋り過ぎたと思って口を結んだのが初々しかった。
和泉は、藤木に美穂を紹介する事で、美穂に募る思いを断ち切れるのではと思っていた。
ところが、今彼が一番気になっているのが、美穂と藤木の初デートの成り行きであった。いけないとは思うが、これはもう病気というよりは、和泉の宿業なのだろう。それは年齢ではない。死ぬまで共にするであろう業なのだ。藤木には譲りたくない、という気持ちが何となく心の中で形になろうとしていた。
昼休みに成瀬美穂は、藤木の会社に電話をした。たまたま電話に出たのが、吉野さゆりであった。
「和泉精巧の成瀬と申しますが、藤木さんはお手すきではないでしょうか」
「藤木はただいま席を外しておりますが、どんなご用件でしょうか」
和泉精巧の名前はさゆりも心得ていたが、成瀬という女性が初めてであったこと、また藤木の名前を口にする際の少しためらった感じについ女の感が働いて、つい警戒をして事務的な口調を取ってしまった。
「それでは、またこちらからかけ直します。先日の件は特にご心配なくとお伝えください」
美穂は美穂で相手の過剰反応を感じ取った。ついご心配なくと言ってしまったが、実際、記憶を失った後に何があったかは、まだ分かっていなかった。
成瀬美穂からの電話があった事をきいた藤木は、さゆりの手前、何気ない風を装ってみたものの、さゆりを騙す事はできなかった。
「お仕事の関係だけかしら」
「先方の社長の代わりに食事をしただけだよ」「あら、それはデートではないんですか」「そんなんじゃないから…」
さゆりの追求を交わして、いったん外に出ることにした。エレベーターを下りきって、1階フロアを横断して正面から外へ…、横断歩道を渡って横道に入る。携帯で和泉精巧に電話をすると美穂が直接出た。
「良かった。成瀬さん、今ちょっと外に出れないかな」
比較的に距離はそう遠くないので会おうと思えば会う事はできる。仕事中に席を外した経験のない美穂だったが、外に出る用事を作って藤木に会う事にした。
和泉精巧が入っている雑居ビルの正面にコーヒーショップがあった。二人はテーブルを挟んで向き合っていた。
「昨日はおつかれさまでした。二軒目に付き合ってくれてありがとう。まさか眠ってしまうとは思いませんでした」
藤木は、特にそれを攻める風でもなく、話の切り口に持ってきただけだった。
「ごめんなさい」
美穂はお酒を飲んだ時の経験で、大概周りの人に迷惑をかけていた事を思い出し、とにかく謝った。
「いやあ、こちらこそ。君が帰った事も気がつかないで…」
「私一人で帰ったんですか。藤木さんに送ってもらったんではないんですね」
まるで記憶のない自分に苛立たしさを覚えつつも、過去の記憶も含め自己嫌悪に陥る。
「藤木さん、何でも話してくださいね。正直に打ち明けますけど、私お酒が飲めないわけではないんです。ただすぐに眠くなってしまうんです。あと何があったか、何を話したのか覚えてなかったりするんです」
申し訳なさそうに話す美穂に、藤木は昨晩の様子を思い出しながら、順序立てて説明した。
「ああ、そこまでは覚えてます。それから藤木さんの学生時代の話があって…。えっ、私が帰ったのは、藤木さんのお部屋からですか」
藤木の話を聞きながら、美穂は恥ずかしさを隠せなかった。藤木の部屋に訪れた事、そして何も言わず抜け出していったこと、それに全く記憶のないまま自分の部屋に戻っていたこと。たしかに学生時代のコンパなどで盛り上がって、一人で眠ってしまったりすることはあった。それでも起きてからの記憶がないという事はなかったような気がする。いや、もしかすると…。今までに記憶がなくなったという経験、遠い昔の記憶を遡っていた。
第2章
1 誤算
初夏の昼下がり、藤木と美穂の二人は、海岸沿いをドライブしていた。学生時代よく来ていた鎌倉から江ノ島あたりのこのコースは、家族連れやらカップルやらでごった返していた。江ノ島を離れ、茅ヶ崎、平塚まで来ると多少混雑は緩和されていたが、それでも車はなかなか前へ進まなかった。
「もう少し空いていると思ったんだけどなあ」「十分楽しいですよ。せっかく海に来たのだから、泳いでも良かったんですね」
「そうですね。そうすれば水着姿とか……」
藤木はお茶を濁しながら笑った。
「もう、藤木さんて、意外と……」
「意外って、なんですか」
わざとふてくされ気味に答えた藤木に美穂が笑った。
藤木と過ごしている時間が、何よりも楽しく愛おしく感じる美穂だった。それに久しぶりに見る海辺の輝きが、幸せという言葉を連想させるには申し分のないほど美しかった。この輝きはどこかで見た事があると思った。
〜多分幼い頃に母と二人でこの光景を見たのではないだろうか〜
母が手招きをしている。幼い美穂が砂浜をかけている。小学校の時の数少ない記憶の一つとして、古い引き出しの奥にしまってあったものが、この海の輝きがきっかけとなって、埃をかぶりながらも十数年経った今に届けられたのだろう。あの時の母の笑顔はとびきり輝いていたように思う。この海にも増して……。
大磯の手前あたりで、脇に入ると比較的待ち時間の短い駐車場があって、駐車場から砂浜は目と鼻の先だった。
「意外と空いていますね」
「ここは穴場なんですよ。学生時代にきた事があるんですが、もっとガラガラだったんですよ」
海に向かって走り出す藤木の姿を、子供みたいだと美穂は思った。二人は裸足になって砂浜を歩いた。潮風がほほを心地よく撫で付けていた。
「子供の頃、何になりたかったですか。僕はその時その時でコロコロ変わっていたけど、探偵とか発明家には憧れたなあ」
「私も探偵は好きです。女の子では珍しいとかいわれてましたけどね。嘘をついたりするのが嫌いだったんですね。よく嘘をつく子がクラスにいたんです。その子にいろいろ意地悪されたりして…。いつかその子の嘘を見破ってしまうことがあって、それから意地悪されなくなったし、他の子からも頼りにされました」
「それで真実を追究する探偵ですか」
「具体的に探偵というわけじゃないんですが、なるべく嘘を言わなくていい仕事っていうイメージだったのかもしれません」
「成瀬さんと一緒になった男性は、悪い事はできないですね。すぐに見破られてしまうんですね。このマッチは何かしら、とか言っちゃったりしてね」
藤木は着てもいない上着のポケットから、マッチ箱を取り出す格好をしてみせた。美穂は笑いながら答えた。
「藤木さんも演技がうまそうだから、簡単には見破れないかも…」
数日後に藤木は美穂と二人で、和泉に結婚報告をした。付き合って半年も立たず、お互いの事もまだまだ知らないところがあるが、二人で努力していく事を和泉の前で誓い合った。
「藤木さんなら安心だな。これからの分野だから経済的にも間違いがないし、成瀬君も大船に乗ったつもりでいるといいよ」
そういう和泉の声は、何となく弱々しく暗い。表情も心なしか、沈んで見える。二人は話を終えるとすぐさま社長室を出た。
「社長、やっぱり美穂を手放したくないんじゃないかな」
「そうでしょうか。すぐに仕事を辞めるわけではないんですけどねえ……」
美穂が何気なく呟いた一言だったが、藤木は早く和泉の下から美穂を遠ざけた方が良いような気がした。
あの日、美穂との食事の計画を聞かされた日、藤木に託すような事を言いながらも、和泉の美穂について語る時の表情が、やけに張りがあって、精悍に見えた。それは決して60歳の男性とは思えなかった。
藤木の後輩である吉野さゆりは、藤木の噂を耳にして、早く本人に確認しようと思っていた。「あの人に違いない」と思った。エレベータがいつになく遅く感じる。入社以来藤木の下で仕事をしてきた。恋愛よりは仕事優先を自負してきた彼女には恋人はいない。今時のキャリアウーマンといえば聞こえはいいが、恋愛と仕事が同じベクトル上にあっただけなのだ。藤木に誉められたい。その一心で突っ走ってきた。彼女自身そこまでは意識してなかったかもしれないが、藤木が他の女性と付き合っていて、なおかつ結婚をするのだということを聞いたとたん、自分が今まで働いてきた意味を悟った。
いつもなら気軽に出入りするその部屋のドアの前で一呼吸おいてからノックをした。静かにドアを開いて藤木のデスクに目を走らせる。
「藤木さんなら、得意先回りだよ」
さゆりの姿に気付いた藤木の部下の今井が声をかけた。
「得意先ってどこかしらね」
「多分、例の和泉精巧じゃないですか。今日は戻らないようですよ」
「そうなの?困ったものね」
「何ですか?伝言だったら……」
「ううん、いいの。ありがとう」
吉野さゆりは、和泉精巧まで来たものの入ることを躊躇って、ビル正面にあるコーヒーショップで、どうすべきか考えていた。藤木一人で出てくるとも限らない。あの女性(ひと)も一緒だとすれば、おとなしく会社にいれば良かったかもしれない。まして仕事を放りっぱなしだ。そんな心の葛藤をよそに時間だけが流れていく。
案の定、ビルから現れた二人は、並んで夕日の方向に歩いていった。コーヒーショップのレシートを握りしめて、彼らの後ろ姿を見つめていたさゆりは、ため息を一つ吐いて、
今日の所は大人しく帰るしかないと思った。
家に帰る途中のコンビニで、缶ビールを買った。あまり家で一人で飲む事はなかったが、つい手に取ってしまったさゆりだった。
小田急線の百合ヶ丘にある和泉精巧の製造部門に朝一番に顔を出すのが、和泉の日課になっていた。小高い丘の上にその工場を作ったのは、もう十年も前になる。正面入り口からは、緩やかなスロープが曲がりくねりながら線路と平行に走っている街道にぶつかる。資材の搬入等、車を利用する時は、この道を使う。
和泉自身は、本社との行き来があるので電車を利用する。その場合は正面口の真後ろにある社員通用口を出て、人が二人並んでやっと通れるくらいの坂道を降りて行く。坂道というよりは急勾配の長い石段で彼が数えてみたところ、約90段ある。数えるたびに数段多かったり、少なかったりするが、あまり気に留めていない。降りるのはいいが、上ってくる時は結構な運動になる。
一通りチェックを済ませた彼は、製造部長の吉田にあとを託した。和泉だけが製造部長と呼び、一般社員からは工場長と呼ばれていた。元々は前の会社で彼の部下であったのをその真面目さと力量を買って引き抜いたと言われていた。
駅へ向かう途中その長い石段を降りながら、和泉は成瀬美穂のことを考えていた。藤木と付き合い始めてからというもの、日に日に女らしさを増し、考えないようにすることが苦痛だった。二人がうまく行くことで、余計な迷いをふっ切れると思ったのは、まったく誤りであった。
昨日、結婚すると報告を受けたとき、その成り行きを計算していながら、実際に心に穴があく事など予想も出来なかったのだ。二人に見せた平静さを欠いた動揺が、彼等にはどんな風に見えただろう。その時、どれほど藤木という男を憎いと感じたであろう。このまま黙って見ているべきなのか。彼の心に渦巻く欲望の炎が彼自身を支配しようとしていた。
百合ヶ丘の駅で各駅停車に乗る。途中急行との待ち合わせはなく、新宿に一番に着くのでしょうがなかった。適度な揺れと軽妙なリズムが和泉を眠りに誘い込む。その眠りの中で和泉は夢を見ていた。
薄暗い部屋のベッドの上で美穂を抱いている自分がいた。かつて自分が愛した彼女ではなく、あきらかに美穂であった。美穂の裸体を隠している薄い布地が剥ぎ取られていく様は何かの儀式のように神聖に感じられた。最後の一枚に手をかけた時、ふっと回りが明るくなって、彼は工場の落成式に参加していた。彼が握っていたものは白い紐で、それを引っ張るとクス玉が割れた。一斉に拍手が沸き起こり、多くの人が彼を称賛していた。その中に美穂の姿があった。彼は手を振ってそれに応えた。ふと自分の足下をみると女物の腕時計が落ちていたので、時間を見ると六時を指していた。まさかと思って空を見上げると太陽が今まさに沈もうとしていた。周りの群衆もいつのまにか居なくなって、一人になった彼は帰り道を急いだ。彼はいつのまにか30代になっていて、付きあっていた女のもとに向かっていた。彼女の家は小高い丘の上にあって、長い石段を上って行くのが近道になっていた。石段を目の前にして急に辺りが騒がしくなった。
人の動く気配を感じ、夢の中から現実に戻った。
新宿駅だった。
2 佐久間恭子
和泉精巧の本社に藤木は訪れていた。つい先日は、成瀬美穂との結婚を報告したばかりであった。彼としては美穂を早く退職させたかったが、美穂が頑として言う事を聞かなかった。
「せめて、子供が出来るまでは、仕事をしていたいの……」
二人で相談をして、しばらくは仕事を続けることに決めた。今日は、本題の他に藤木の口からそれを伝えようと思っていた。
和泉は日課になっている製造部門のチェックから帰ってきて藤木と会った。この前結婚を報告した時よりは機嫌が良かった。結婚後も美穂をしばらく働かせて欲しい旨を伝えるといっそう上機嫌になった。
その時ちょうど社用で銀行を回ってきた美穂が帰ってきた。
「成瀬くん、今彼から話を聞いた所だ。私も助かるよ」
「はい、ど、どうぞよろしくお願いいたします。あっ、コーヒーでも入れましょうか」
「いや、三人でランチでもどうかなと思って、。君を待ってたところだ。藤木君もいいだろ?」
和泉の提案に二人も頷き、外に出ることになった。
「社長には本当に感謝してるんです。世間知らずの私に多くのことを教えていただきました。せっかくの知識を無駄にしないよう結婚後も会社に居させて下さい。それから藤木さんに聞きました。半年前の初めてのデートは社長がセッティングされたのですね。社長が急用とおっしゃって、私が藤木さんに書類をお届けしました。すべて社長のお計らいだったんですね」
ランチの席でそう語った美穂の心からの感謝に和泉も笑顔で答えた。
「なに、君を騙すつもりはなかったんだ。だが私の見た目に狂いはなかったな。二人ならうまく行くと思っていたよ」
和泉の機嫌がいい所で藤木もすかさずお礼を述べた。
「社長、私も感謝してます。最初のデートが社長の計らいだった話をどうしても我慢できなくて、喋ってしまいました。でも社長がその話をされたとき、本当は怖かったんですよ。騙されるのは私の方じゃないか、ってね」
そう言って、肩をすくめる藤木の仕草に美穂も、そして和泉でさえも、声を合わせて笑った。
その瞬間和泉はまるで花嫁の父になった心境になり、夢の中での美穂とのやり取りを恥ずかしく思うのだった。
〜今の自分こそが本来の自分なんだ〜
和泉は強くそう思おうとするのだった。まるで美穂が実の娘のようにも思えてくるのだ。そしてそう思う事が出来た自分が嬉しかった。
〜これでいいのだ……と〜
心に安らぎの風が吹いていた。娘を嫁に出すのは、こんな心境かもしれない……。相手の男は憎いが、可愛い娘のためには譲ってやらざるを得ない。
二人の結婚話から、つい自分の事に想いを馳せる和泉だった。和泉が結婚したのは、30代後半で藤木よりは遅かったが、かた真面目な藤木と違い、その頃までに複数の女性と付き合いがあった。
共和電気で営業2課の課長をしている時、副社長から見合いの話が持ち込まれた。相手は副社長の従姉妹にあたる人で当時28才だった。容姿はいたって普通で、これといった魅力はなく、正直副社長の面子を立てる以外は旨みがあるとは思えなかった。迷いに迷って一応見合いだけはしてみようということになった。そこでわかったことは相手も特に結婚は望んでないということだった。ただ彼女の周りが一生懸命だったのだ。
彼女の父親、つまり副社長の叔父は娘の幸せを心から望んでおり、副社長が紹介した和泉という人物をかなり買っていた。いつのまにか直に和泉に接触してきて、
「一人娘を何とぞ!」
と何度も頭を下げるようになった。
そんな彼女の父親から聞いた話で一つだけ気になることがあった。気になるといっても当時はたいした事ではなかった。それは生まれつき病弱で子供を産めないということだった。もちろん見合いの席でも、また本人からもそんな話は出ない。当然隠し通す事は出来るだろうに、彼女の父親は包み隠さず真実を和泉に告げた。
和泉もまた彼女の父親に興味を持っていた。それは全く対照的で、真実とか人間性とかではなく資産だった。情報筋によれば、かなり広大な土地を所有しているらしいのだ。目的は資産だから娘の身体の事など些細な事だと思ったのだった。
娘に会うよりも父親に接触する機会を作っていったのはむしろ和泉だった。心を開いた父親が和泉を信用し、娘の真実を話してしまったというのが事の真相なのかもしれない。ただ父親は騙されたとは思っていないから、そんな深い話が出来る人間関係という点だけに満足してしまったのだろう。そんな人の良さも手伝ってある一部の土地の所有権を譲り渡す約束を取り付けた。娘はそのおまけだった。
当時の和泉は叩けばいくらでも埃がたつほど胡散臭かった。特に女関係はだらし無く、少し前の30代前半は4、5人と付き合うほど乱れていたが、この頃は多少大人しくなっていたようで、特に一人の女性を大事にしていた。彼女に別れ話を持ち出すことに大きな抵抗があった。ただ莫大な土地の代償と考えれば自ずと答えは知れていた。身辺整理ということで女性に手切れ金を渡した。まだ20歳前だった彼女とは、1年未満の付き合いで、とくに文句も言わずおとなしく会社を去った。
和泉が愛したその女性の名は、佐久間恭子といった。
彼女が和泉の勤める共和電気にアルバイトとして雇われたのは、高校を卒業してすぐだった。精々お茶汲み程度のつもりだったのが、要領が良く、簡単な事務なら大学卒との差がないくらいだった。器量も良かったので社員の間でも評判となり、営業2課の和泉の知る所となったのだった。
そもそも人事部で雇い入れたアルバイトだったのを営業2課に引き抜いたのは和泉当人だった。営業の基本を教えるという建前に隠れて、彼女を手に入れたのだった。
歓迎会と称し、二人だけのディナーを画策し、リザーブしておいたホテルの一室に連れ込んだという真実を知るものは当人達以外に知るものはいないだろう。
そんな経緯で付き合いはじめた二人だったが、どこか引きつけられるものがあったのだと和泉は思った。それはそれまで付き合ってきた女性達からは得られない何かであった。
出来れば、愛人としてかこっておくという手段も考えられたのだが、社内での熾烈な権力闘争に巻き込まれている最中であり、身辺をきれいにしておく必要があったのだった。とにかくギリギリまで、その判断は持ち越されていたのだが……。
ある日、副社長に声をかけられ、部屋を訪ねた。多分成り行きを気にしているのだと思った。副社長の顔と先人の背中が見えた。背中の主が振り返ると人事部長の竹中だった。
「和泉君、叔父がたいそう君を気に入ったとみえる。百合丘の土地は、僕みたいな血縁者であっても決して譲ってくれるものじゃない。君がもし将来独立でもするなら、それこそ土台になるだろうし、僕のもとにいて大きな仕事をするにしてもいい財産だと思うよ。もちろんそれを抜きにしてもいい縁だと思う。女は容姿だけじゃないぞ」
この「容姿だけじゃないぞ」というのは、なにも結婚相手がどうとかでなく暗に佐久間恭子のことを褒めかされてるのだと思った。その話を受けて、人事の竹中が一言添えるのだった。
「和泉さん、いい話じゃないですか。副社長の面目もたつうえに、お父さんもかなりの財産家だそうですね。なんでもすでにもらえる土地も決まっているなんて。うらやましいですよ、ほんと」
竹中と二人一緒に副社長の部屋を出た。妙に馴れ馴れしい態度の竹中が一服しようと持ちかけ、休憩室で落ち着いていたが、急に竹中が耳元に小声で呟くのだった。
「和泉さんの営業2課にいる佐久間くんは、辞めてもらった方がいいですね。なかなかの美人で男性には人気が高い。ええそれくらい副社長もご存知です。いずれ社長の耳にでも入れば、目をかけていただいている副社長にご迷惑がかかります。とにかく今が大事なときです。まだあまり気付かれていないうちに…。異例の退職金も用意できそうですから、あなたから渡してあげればいいと思います」
ライバルの竹中から背中に突きつけられたナイフにひんやりとした感触を受けた。
これこそ本当の恋と思えた恭子への思いを涙を飲んで諦めざるを得ないのだった。数日後恭子は和泉の前から消えた。お金を渡されてあっけらかんと去って行く恭子にむしろ狐につままれた感じだった。やはり金なのか、若い娘はドライなんだと自分を納得させた。その後予定通り和泉は結婚をした。手にいれたものは成城の新居と百合丘にある土地の所有権、そして社内での地位だった。代わりに失ったものは、言葉で言えないものも含めいろいろあったが、とりわけ恭子と別れたことが後々何よりも大きな後悔だと痛感することになる。
しかしながら縁は異なもので、結婚して数年後に和泉は恭子とばったり再会した。クリスマスが近い寒い夜だった。和泉は得意先の接待で新宿の馴染みのクラブを利用した。妻が病弱であるだけでなく女性としての魅力も欠いていたせいでクラブ通いに精を出していたのだ。どうしても恭子に似ている女性を追い求めてしまうのだが、そんな娘に限って身持ちが堅いか、男がいるのだった。それでも適当に相手を変えながら、満たされぬ思いを誤魔化していた。
その日も合併話が持ち上がっている企業の接待で、営業部長昇格パーティー以来利用しているクラブに来ていた。深夜になり、副社長や得意先の社長らを迎えのタクシーに乗せ、自分は一人飲み直そうとクラブに戻ろうとした時だった。安い居酒屋の前を通り過ぎようとして、酔っぱらいにからまれている一人の女性に気が付いた。服装は少しみすぼらしく、地味な感じだったが、そのどことなく品の良い顔立ちを忘れるはずはなかった。
「恭子じゃないか」
二人は顔を見合わせて、しばし目と目を見つめた。その二人の尋常でない雰囲気に圧倒された酔っぱらいは捨てゼリフを残して去った。
「なんだ男がいるんじゃないか」
そんな罵声も和泉にとっては再会の祝辞に聞こえた。
「いやあ、こんなところで会うなんてなあ」
それだけ言って、なおも動けずにいた和泉は日頃に似合わず涙などを目に浮かべるのだった。
「和泉さんなの。少し貫禄がついたわね」
そういう恭子こそ、あの頃の幼さは陰を潜め、大人の女としての魅力が溢れでていた。それは化粧のせいもあるだろうが、彼女なりに修羅場をくぐり抜けてきた証しかもしれない。彼女は懐かしそうに和泉を見つめた。
「順調そうね。私が身を退いたかいがあったわね」
「いや、後悔してるよ」
和泉は顔を曇らせてため息をついた。彼の脳裏を形だけの結婚生活と魅力のない仕事の日々がかすめていった。
「今、時間はあるかい」
恐る恐る尋ねる和泉に恭子は大きくうなずいた。
3 想い出
吉野さゆりは、藤木がだんだん遠ざかってゆくにつれて寂しさを覚えた。そして流れてきた結婚の噂。いてもたってもいられなくなって、二人で会う機会をずっと探していた。そんな彼女にいつもの気強さはない。師走の街は人の流れが早く、振り向いていると誰もが迷惑そうに睨んでゆく。
終業時刻、ビルを出る時に藤木を見かけたが、彼の部下が途中まで一緒だったので、先回りをして藤木が利用する地下鉄の改札前で待ち伏せをした。
「藤木さん、今夜くらい付き合って下さい」
妙に女らしいさゆりの誘いに、どうしたものか迷っていた彼は、放っておくこともできず、一杯だけという約束で、それを受け入れた。そう言えば最近さゆりとランチを食べる事もなかったし、顔を合わせる機会がなかった。
駅の近くにある、以前は二人でよく利用した庶民価格のカウンターバーに入った。さゆりがなかなか口を開こうとしないので藤木が話を始めた。
「もう聞いてるかもしれないけど、結婚する事になったよ。今まで、君にはいろんな難題を持ちかけては、一生懸命取り組んでくれて、本当にありがとう。感謝してるよ」
「藤木さんこそ、うるさい私に付きまとわられて辟易してたんじゃないですか」
「いやあ、そんなことはないよ。僕自体が面白みのある男じゃないから、君と組んでいて楽しかったし、これからもよろしく頼むよ」
吉野さゆりは、藤木が「これからも」と言った時に藤木が視線をずらしたのを見て取った。そしてゆっくりと口に出した言葉……。
「私、会社を辞めようと思うんです」
藤木は、一瞬自分の心を読まれたように思った。ほっとする自分が心のどこかにいることを恥ずかしいというか、情けないように思った。そんな自分を棚上げしながら、口から出かかった言葉を飲み込んだ。
〜これからどうするんだ〜
それを尋ねてどうしようと言うのか、自分に何が出来るのか、まるで答えを持たない藤木に問いかける資格はなかった。
その点、方向の定まったさゆりの方が潔かった。
「藤木さんには幸せになってほしいから、私のことは心配しないで。そして私も藤木さんの知らないところで藤木さんより幸せになるからね」
そう言いきって、席を立った。
「というわけでお勘定、よろしく」
藤木に背を向け出口へ向かうさゆりの瞳にきらりと涙が光ったが、それは自分らしく振る舞えた勝利の涙だった。
「ああ、まかしとけ」
そんなさゆりに愛おしいと思ったが、藤木もまた敗者を演じなければならなかった。
3人でランチをしながら、二人の結婚話から、自分がかつて愛していた佐久間恭子のことを思い出していた和泉だった。会社に戻って、雑用をこなしている間も想い出が止めどなく流れてきて、脳内を満たしていた。
恭子と再会した夜……。
久しぶりに燃え上がる炎は、恭子への募りに募った思慕だったが、実際会ってみると、その変貌に対する興味といたわりの炎も混じり合っていた。
女としての魅力は、多分いろいろな現実を乗り越えてきたことで磨かれたものであろうし、同時にそれが彼女を暗く鈍い光のベールで包んでしまっている。
そのベールをはぎ取って、新しい世界に一歩踏み出したかった。
「今、時間はあるかい」
恭子は首を縦に振って笑った。
接待が終わったクラブでは、見送りに行った和泉が、見慣れない女性を伴ってきたので、和泉に懇意のホステス達は色めいたが、もちろん和泉は相手にしない。
「あら和泉さん、きれいな人をお連れですこと……」
女の子達が口々に囃したてた。
「大事なお得意さんなんだから、君たち近寄らないでくれよ」
和泉は上機嫌だった。恭子の表情も心なしか、素直な笑顔に包まれていた。
「会社の接待があって、さっきもここにいたんだ」
何から話していいものか分からず、そんな言わなくてもいいような話が出るのも嬉しさで舞い上がっている証拠だった。
最近の会社の状況など話しながら、一番気になっていた別れた当時の事に少しずつ触れていった。
「それにしても君があっさり辞めてしまったのが、ずっと気になっててね」
「まだ19だったから、和泉さんよりもっといい男が見つかると思ってたのね。それに人事の竹…」
「竹中か」
和泉は竹中の名前が出てきて少し驚いた。そして抜け目のない男だと思った。
「そう、竹中さんが、別れるのがあなたのためだと言うから」
「竹中の奴、そんな事を…。それでか。それでいい男は見付かったのかい」
「駄目ね。悪い男ばかりよ。そのおかげで苦労してばかり」
恭子がいうには、あの退職金も騙し取られ、あげくに借金まであるという。和泉は恭子の話に涙を流し、全て自分が悪かったのだと思った。恭子は必要以上の事は話さず、少し和泉を警戒しているように感じられた。和泉はそれを男に騙された教訓からだと思った。それに別れを切り出したのは自分の方であったし、その結果恭子を不幸にしてしまったと思い込んだので、仕方ないと思えるのだった。
想い出が仕事を滞らせて、帰宅時刻を2時間も遅らせてしまった。と言って急いで帰るほどの予定もなかった。
和泉の帰る成城の邸宅も結婚を機に義父が用意したものだった。新婚当時から夫婦の部屋は別として食事さえ一緒にしたことは稀だった。特に憎しみあっているわけではない。妻は体の弱さを恥じているのか、和泉には何も言わなかったし、和泉も妻には何も求めなかった。そんな暮らしのまま20年過ぎたのである。和泉は電車に揺られながら、その20年を振り返っていた。
結婚の代償として義父から貰い受けたその百合丘の土地は、小高い丘の上の上にあって、当時二階建てのアパートが一軒、そして三軒の民家があった。三軒の内一軒が空き家になっていたのを佐久間恭子との愛の巣にして使っていた。
新宿で再会した恭子は借金を抱えて水商売に体を染めていた。それは全て自分に責任があると感じた和泉は、借金を代換えした。その上で恭子に住まいを用意し、生活費を保証した。恭子は自分に出来る事が何かが分かっていたし、和泉はそれに満足していた。本当の自分がそこにいると思ったし、それが理想の生活だと思った。
和泉の二重生活はそうして始まったが、ほとんどは恭子の元にいて、成城には、週に一度帰るだけだった。和泉にとって恭子のいなかった空白を埋めても余りある幸福の日々が流れた。仕事にも張り合いが出て、副社長補佐を兼任するに至った。
そんな和泉を冷ややかに見ている目があった。人事部長の竹中だ。彼は、副社長が和泉ばかり重用するのが気に入らなかった。次期副部長の候補は自分だと信じていた。
結婚したばかりの頃の和泉は、脅威ではなく良い意味でライバルだと思えたし、営業部長としての和泉は頼りがいのある同胞であった。それが今では……。
〜何時の頃からか奴は変わった〜
竹中は和泉の身辺調査を和泉の後釜として営業2課の課長になった吉田に指示をした。吉田を直接推したのは和泉だったが、元々は竹中が入社当時から目をかけていた。和泉はもちろん吉田の能力を買ったのであって、派閥などという小さな考えには目もくれなかった。
吉田にしてみれば、どちらの言う事も聞かなければならず、時々矛盾した命令に頭を抱える事も多々あったが、なるべく両方をたてるという綱渡りを道化師のごとく演じていた。
そもそも営業部長と営業2課の課長という立場であり、吉田を営業という舞台で鍛えてきたのは和泉だったので、和泉に近づくのは何の雑作もいらなかった。
そんな吉田を逆に自分の都合で使っていた和泉の方が竹中よりは一枚上手だったかもしれない。竹中に知られるのがわかっていながら、恭子の身の回りの世話をさせた。
「吉田君、確か京王線の稲城だったよね。ちょっと付き合ってくれないか」
そう言って稲城まで京王線でやってきて、タクシーをひろった。
「ここからはもう目と鼻の先なんだ。よみうりランドを過ぎて、そうそこの角を曲がって……」
タクシーは眼前に小田急線を見ながら、右折してなだらかな稜線を登りはじめた。登りきったところで車を降り、暗くなった農地の中を進むと数件の民家が見えてきた。その中の一軒のドアへ二人は入った。
「恭子、吉田君を連れてきたんだけど、面識あったかな」
「ああ、覚えてますよ。いつも寡黙で何を考えてるか分からない……あっ、ごめんなさい。今は課長さんなんですよね」
目を丸くする吉田に畳み掛けるように命令する。
「彼女のことは、誰にも内緒だぞ。といっても君も報告しないと竹中に何を言われるか分からないだろうなあ……」
和泉には全部わかっていた。手の内を開かしつつ吉田をうまく引き込んでゆく。普通なら隠すべき秘密を教える。なんとなく和泉に好意を感じてしまうのだ。
「人事部長には何と報告すれば良いでしょう」
「とりあえず愛人がいるようですね、とでも言っておくか。それより今度の日曜空いてるかい」
そう言って、吉田に百合丘の一軒家の内装やら家具の手配をまかせてしまった。
「本当は俺がやってやりたいんだが……会社のこともあるんでなあ」
和泉の憶測通り、吉田は竹中との関係を保ちつつ、頼んだ仕事をきっちりとこなしてくれた。独身の吉田にしてみれば、女性の世話を焼くという仕事を楽しんでいる部分もあった。そうやって秘密を共有することも和泉の計算だったのだろう。
和泉が微睡みから抜け出すとそこは成城学園駅だった。
4 恭子の死
美穂との結婚式の日取りが年明け早々という事に決まった。いよいよ結婚か、と10数年一人暮らしをしてきた藤木は感慨に耽った。学生時代も入社後も特定の恋人を作ることなく、平凡に生きてきたと思う。時々刺激がほしいと思ったりするが、昔から冒険すると失敗する傾向が強く、いつのまにかおとなしい性格になっていた。とりわけ注目される事のない人生で、今輝いていると思えるのだ。
目の前に美穂の笑顔がある。手の伸ばせば、そこに柔らかく温かい感触がある。受け入れてくれるやさしさがある。自分の半生のなかであまりにも幸福に満ちている。
これは夢ではないだろうか。いつか消え去ってしまうのではないだろうか。そんな不安が襲って来るのもしょうがないのだ。とりわけその不安の大元は、和泉だった。あまりにも話が出来過ぎてないだろうか。
学生時代に暮らしていた場所にある工場も不思議だが、和泉精巧の仕事を受け持っていらい、社内での評価も上がったという事実。他の業者の仕事も和泉の紹介があったからだし、何より美穂と付き合うよう、手を回してくれたのが、和泉だった。
「ついこの前まで暑かったのに、急に涼しくなってきたみたい」
美穂は藤木の顔を横から見ながら、答えが返ってこないので、心配してさらに声をかけた。
「何か、考え事?」
藤木は、笑いながら慌ててそれを否定した。
「そういえば、社長、このごろゴルフ行ってるのかな」
「そうね、私が来てからは一度接待で出かけたことがあったわね。でもあまり気が乗らないって言ってたわ。時間の無駄とかなんとか」
「なんか社長に世話になってばかりだな、とか思ってね」
美穂はその言葉にうなづきながらこたえた。
「私本当の父って知らないから、こんな感じなのかなあと思ったりするの。義理の両親はどことなく他人というイメージが強かったから」
美穂の話によると、小さい頃から祖母のもとで育てられ、時々母が会いに来てくれていたらしい。小学校に上がる頃、その母が事故で亡くなってしまい、祖母も後を追うようにしてこの世を去った。しばらく施設に預けられた後、子供のいない夫婦に養子としてもらわれていったというのだ。
「藤木さん、実は私が養子だって話、社長にはしてないんです。履歴書にはそこまで書くことないって義父がいうものですから。今となっては話してもかまわないと思ってるんですけど。言いそびれちゃって」
藤木もその話を聞いたのは最近で、彼が和泉に話すべきことでもないし、特に話題に上がることもなかったので、今更触れることでもないと思う。
「そういえば、今度社長と工場で会うんです。どうしても二人だけって言うので……どうしよう、断ろうかしら」
藤木も一瞬戸惑ったが、話の流れから社長を疑う事もためらわれ、つい認めてしまった。
「そうか、美穂がいなくて寂しいけど、その晩は一人で飲みに行こうかな」
「ほんとに一人なの?吉野さんとか……」
「何で知ってるんだ、彼女の事……今度退職するんだよ。そんな関係じゃないから……」慌てて否定したが、ふいに彼女の笑顔が浮かんだ。
和泉は、自分に決着をつけようと思っていた。美穂に対して父親のように最後まで温かく見送る事が出来るのか。それとも男として本能に任せて突き進んでしまうのか。
〜とにかく、二人だけの宴を用意しよう〜
彼がそういう行動に出た背景には、最近想い出に耽っていたせいでもある。特に恭子の突然の死を思い出した時だ。愛するものがいなくなるというショックに完全に打ちのめされ、絶望の毎日を送っていた。
和泉に警察から連絡が入ったのは、夕方であった。その日の朝、いつもと同じように玄関でキスを交して家を出たが、その時は、何の予感もなかった。一瞬は「まさか」と思った。次第に顔面は色を失い、自分の立場も放り出して、神奈川県警麻生署に出向いた。
「よ、吉田、後はまかせたからな」
課長の吉田は、慌てて出口に向かう和泉の背中を見つめていた。
遺体発見者は隣家に住む老婦だった。住居の名義を調べて警察は連絡をしてきたのだった。遺体確認をした後、説明を受けた。警察の所見は事故死だった。
「日中どこかに出掛けようとされたのでしょうなあ。ヒールの高い靴であそこの石段をおりるのは危険このうえないです」
和泉は通いなれたあの石段の続く坂道を思い出していた。担当者から石段の上方で足を踏み外して中腹まで転がっていったこと、打ちどころが悪くてほぼ即死であったこと、人通りが少なく発見が遅れた等の説明を受けた。和泉の頭の中で石段をころげ落ちる恭子の姿が映し出されていた。和泉の目からは涙が止まらなかった。
その日を境に和泉は寡黙になった。なんでもっと一緒にいてあげられなかったのだろう。人任せにしないで、すべて自分が世話をしてあげれば良かった。
そんな感情が20年経った今になってまた蘇ってきた。自分はもうそんな年ではないと藤木に任せてしまったが、果たして美穂が消え失せてしまったら、どれだけ後悔するのか、自分でも不安になったのだろう。
「今度の木曜日、あけておいてくれないか。金曜じゃ彼に悪いからな。嫁を送り出す父親の心境だよ。最後に父親らしいことをさせてくれないか。君のお父さんには悪いけどね……」
美穂は、本当の父親がいないのだと言いかけて、言葉を飲み込んだ。その場にはそぐわないような感じがしたのだった。
美穂との晩餐を計画した和泉は、恭子の死から立ち直り、独立して今にいたるまでを思い浮かべた。
愛する者を喪った悲しみはとてつもなく大きかった。仕事すらどうでもよくなってしまい、何かあると営業2課に行って課長の吉田を呼んで言うのだった。
「吉田君、今回の件は君に一任する。部長代行としてよろしく頼むよ」
その頃、万事がこの調子だったので、副社長も頭を悩ませていたが、奮起を期待して様子を見ることにした。人事の竹中はまたも人が変わってしまった和泉に今回は同情的だった。元々は一緒に副社長を支えてきた仲間だったし、自分にとって脅威ではなくなったことも心の奥にあるのだろう。
勢いのなくなった和泉に対して吉田の評判が上がった。
「吉田さんも偉いねえ。あんな人でも上司は上司。文句も言わずによく働いてるよ」
そんな風評が社内に流れていた。
恭子の死から一年経った頃、和泉にも少しづつ変化が現れていた。和泉はただ消沈していたわけでなく、自分の本当にやりたいことを模索していたかもしれない。
このまま共和電気にいても、社長になれるわけでもないし、何時までも権力闘争の宿命から逃れることはできない。権力闘争も悪くはないが無駄にエネルギーを浪費しているような気がする。
「早くしないと無駄に年を食っちまう」
起業の情熱が沸々と湧いてきた。彼が自分に課した目標の実現こそ、今やらねばならないのだと考えた。
共和電気等大手家電メーカーも金属部品や半導体は子会社に作らせている。その子会社の雛形をまず作ることを考えた。工場用地なら既にある。恭子との想い出もあるが前に進むべきだ。それが本来の使い道でもあったのだ。彼は計画を練りながら和泉精巧創設の夢を描いた。そしてその夢を身近なものに熱く語った。とりわけ吉田にはかなり細かいところまで説明したかもしれない。どんな状況でも和泉の側を離れない吉田には、絶対の信頼を寄せていた。
そんな折り、工場用である百合丘の広大な土地の一軒家から出火した炎が、アパートに引火してその一帯を焼き尽すという事件が起きた。どの家から出火されたものか、また原因も含め結局わからずじまいだった。幸い外出していたものも多く、死傷者はなかった。
ただその事件に依って、あえて立ち退きを要求する必要もなくなり、和泉には良い結果をもたらした。逆に和泉が人を使って火事を起こしたというデマも流れたが、和泉はもちろん笑って否定した。
和泉は本社に向かう電車の中で、恭子の死後から和泉精巧を起ち上げるまでの想い出に浸った。最近は電車に乗ると必ず眠気が襲ってきて、過去にトリップしてしまう。それは年を食ったということなんだろうか。
〜いや、そんなことはない〜
その答えは、今夜の晩餐にかかっている。そしてこの和泉の計画にはまたしても吉田が関係していた。
朝一番で、工場に向かい、吉田に今晩の計画を伝えた。必要なものは彼に揃えさせておこうということだった。まるで恭子が生きていた時のような、和泉のはつらつとした言動に吉田も何か不安を覚えるのか、非協力的な素振りを見せた。
「君はいつも通り、私に言われた事をしてればいいんだ!」
そう言われると吉田も反論出来ないのか、従わざるを得なかった。
第3章
1 和泉の死
石段を降りてゆく若い女の姿があった。石段を上っていったところには、ある会社の工場があった。薄暗い街灯の中で、彼女は白い息を吐きながら、段を踏み外す事なく、規則正しい足取りで降りてゆく。ただ一つ不自然は、寒い冬のまっただ中、それも夜にコートを着ていないことだった。閉店している商店の脇道から街道に出て流しているタクシーを捕まえようとしていた。
前方でやたら明るい衣服をまとった女性に気がついたタクシードライバーは、慌てて車を止めた。乗り込んだ女性は、まるで春のようなピンクベージュのスカートスーツで、コートを着ていないだけでなく足下はスリッパで、その上は素足だった。行き先を尋ねながら、とりあえず車を走らせた。敢えて深入りをしないという姿勢は、事件に巻き込まれないための知恵だ。
ただ頭の中で想像だけが一人歩きを始めている。年の頃は22〜3歳。みだれた髪の毛、薄着でスリッパときている。手に持っているやはりピンク系のバッグは、ブランド品のようだ。酔っぱらっているようでもある。何となく情事の最中にでも逃げ出してきたように感じだ。最近女性の酔っぱらいがやたら増えてきたように思う。過去の苦い想い出から、あまり深入りしない方が良いという教訓を得た。
多摩川を越えて都内に入ってきた。世田谷通りをさらに都心に向けて走り続ける。ハンドバッグの中の携帯電話がなったが、彼女は取ろうとしなかった。段々心配になって、ドライバーは話し掛けずにはいられなくなった。
「警察とか病院に行かなくてもいいですか」
少し間を置いて彼女は答えた。
「は、はい。ご迷惑をおかけします」
声は澄んでいて、特に動揺は感じられない。
「いやあ、人を運ぶのが商売だから、迷惑だなんてことは、ないですよ。ただちょっとびっくりしましたがね」
彼女と会話が出来て少し安心した。精神的にも落ち着いている感じだったので、それ以上は聞かない方が良いと判断した。
とある小学校の角を左に折れてから少し行ったところで彼女を降ろした。最後にもう一度安否を気遣ったが、ただ「ありがとうございます」と答えるだけだった。ドライバーは日頃来ないエリア外のその街並に別れを告げて帰り道を急いだ。
たとえ現実でも過ぎ去ってしまえば、夢と変わらない。ただ違うのは、夢は個人だけのものだが、過ぎ去った現実は、それを共有する誰かが存在したりする。想い出を共有するものの存在を時に喜んだり、時に疎んだりするものだ。夢であってほしいと願っても、それを否定する誰かが、嘲笑っている。君の犯した過ちを……。
結婚式をあと数日後に控え、美穂が社長と百合丘の製造工場に向かったことを聞いた藤木は、何と無く胸騒ぎを覚えた。美穂を彼に紹介したのは社長だ。社長には感謝している。美穂にとっても実の父親のような存在だ。それは十分理解している。頭では分かっているのだ。
藤木は、被害妄想という概念に縛られて身動き出来なかったが、ついに不安を押しのけ行動に現した。
〜笑い者になってもいいじゃないか〜
ただし万が一不安が的中した時に、行かなかったことを後悔するだろうと思った。仕事を定時で切り上げ、急ぎ足で小田急線のホームへ向かう。満員電車の中で良からぬ妄想が渦を巻きはじめた。
百合ヶ丘の駅に降りてから、ひたすら工場への道を急いだ。学生時代は苦もなく登った石段だが、登りきると太股の筋肉が痛んだ。正面に回ると二階に灯りのついた一室が見えた。入り口に鍵がかかっているのを確認した時、裏口の方でドアの開く音が聞こえた。急いで駆け付けると誰かが、石段の方へ走り去っていった。ほのかに香るこの香水の臭いは……。
〜美穂か〜
すでに何か良からぬ事が起こったのでは……。妄想に対して彼は怒りに震えた。場合によっては、男としてやるべき事をするまでだと自身を鼓舞した。とにかく開いたままのドアから中の様子を伺ったが、あまりにも静けさが漂っていた。工場内に入って暗い通路を奥に向かうと、正面にある一室から明かりがもれていた。数回訪れているので、そこが食堂であることはわかった。
従業員の憩いの場であるその食堂には、長テーブルが4台置かれ、それに丸イスが適当に配置されていた。隅には自動販売機が2台設置してあった。藤木は厨房に食べ終わった食器類が無造作に置かれているのを見つけた。
そして2階に灯りが点いていた事を思い出し、食堂から工場に向かう途中の階段を見つけて上った。やはりドアが開けっ放しになっていて、奥のベッドに人が横たわっているのがすぐ分かった。下着だけのほとんど全裸に近い状態でベッドにうつ伏せになっていたが、和泉に間違いはなかった。その手前にあるテーブルの上にワインのボトルとグラスが二人分置いてあった。ワインはほとんど飲み干されていて、ボトルの中は空だった。
藤木は衝動的に和泉を起こして殴ってやろうとしたが、手をかける寸前に、どうも寝ているわけではないことに気づいた。気づいた途端、さっと血の気が引いていくのが分かった。そ、そうなると美穂を、美穂を探さなければ……さっき出て行ったのがやはり……それならばいいが、何か痕跡を残していないのか。
和泉の苦悶の表情は、極度の痛みを現しているのか。特に流血はないし、病死かもしれないと思った。ただ格好が格好だ。何もなかったのだろうか。男と女の善からぬ行為を想像して身体が震える。藤木は、逃げ出したい衝動を抑えながら、部屋の中を見渡した。ツリータイプのコートハンガーに見慣れた美穂のレザーコートが架かっていた。バッグとお揃いのピンクだった。
警察に連絡すべきではないのか。いや状況から見て美穂が疑われるだろう。実際のところは想像通りなのかもしれない。そうかといって遺体を発見しておいて連絡しないのは人道に反する。そんなことを考える余裕を見えながら実際彼の取った行動はほとんど無意識と言ってよかった。
何となく正面玄関が気になって、行ってみると案の定、美穂のブーツが行儀良く並んでいた。玄関の鍵はかかっていた。ブーツとコートを小脇に抱えて、遺体のそばにあったグラスのうち、口紅の付いている方を取り上げて、1階の食堂から裏口に抜けた。そこで勇気を振り絞って美穂に電話するのだが、留守伝のメッセージが繰り返されるだけだった。
美穂を限りなく容疑者へと追い込む証拠を一つ一つ摘み取っていくのは、彼を共犯という立場に追い込むであろう事は容易に想像できた。だが彼は自分の立場などどうでも良かった。共犯ではなく自分こそが犯人でも良かった。ただ自分が犯人となり美穂が救われたとしても忌まわしい想像だけが残り藤木を苦しめるのであった。
老いてもなお貪り続ける欲望の大海に飲み込まれてゆく美穂。抗っても抗ってもあまりにも広くて深いその中では、それは返って相手を喜ばせるだけなのだ。藤木の中で憎悪が沸々と湧いてきていた。もし想像している事が事実なら美穂の代わりに自分が殺しているだろう。
藤木は一旦駅までいってコインロッカーに美穂のコートとブーツを預けた。グラスは駅へ向かう途中の草むらに放り投げた。ロッカーの鍵は上着の内ポケットの奥に滑り込ませた。まだ電車が動いている時間帯だが、美穂が電車で帰ったとは思えない。多分タクシーではないかと思った。
とにかく何度も美穂の携帯電話にかけても繋がらない。メールを送ってはみたが読んでくれるかどうか分からない。時間だけが勝手に流れて行く。覚悟を決めるしかなかったのだ。そこから彼が取った行動は一貫して冷静であった。
公衆電話から、近所の住民を装い、110番するのだ。
「和泉精巧の工場が何だか騒がしくて、眠れないんだけど……こんな夜に何をしてるんだろう。ちょっと見てもらえないですか」
朝は必ず訪れる。たとえどんな夜を過ごしたとしても…。
成瀬美穂は普通に目を覚ましたが、何か馴染まない感覚があることを不思議に思った。何一つ変わらない部屋、カーテンの模様、床の色、机と本棚の位置、特に問題はない。義理の両親から離れ半年暮らしてきたが特に模様替えもしなかった。
「気のせいね」
そう呟いて、いつも通りに身支度を整えようとするが……。
前日の晩にその日の着替えは用意しておく美穂だが、昨日着ていたスーツスカートがそのまま放置されていて、何だか不安がこみ上げてきた。ただしその不安は、以前藤木のマンションから何も言わず帰ってしまったような出来事に対するもので、不安の裏側にあるのは羞恥心だった。
〜もう、私ったら、何かしでかしてないかしら〜
シャワーを浴びながら必死で昨晩の様子を思い出すのだが、社長と食事をしながら乾杯をしたこと、そして会話の片鱗が浮かんでくる程度だった。とりあえず社長に謝る所から始めようと覚悟を決めて、急いで着替えた。 藤木にプレゼントでもらったプラダのバッグから財布を出して中身を確認すると何だか昨日見たときよりもお札が1枚少ないような気がした。そしてコートがない。さらに玄関では昨日まで履いていた靴がない。
〜まさかコートも着ないで裸足で帰るわけないわよね〜
慌てているので、とにかく別の靴を出した。
玄関脇にゴミ袋が置いてあって、急いではいるが、下のゴミ置き場に持ってゆくことにした。所定の場所に出し終えると駅への道を急いだ。ゴミ袋の中に見慣れぬスリッパが入っていることなど知るよしもなかった。
いつもと同じ時刻に会社についたが、入り口に見知らぬ男が二人立っていて美穂に近づいてきた。
「成瀬さんですね。ちょっとお聞きしたい事があります」
そう言って内ポケットから手帳らしきものを取り出してみせた。刑事だった。取りあえず中に入ると製造部長の吉田が来ていた。どこかに電話をしていたが、美穂の顔を見て慌てて電話を切った。
「奥の部屋をお借りします」
刑事が吉田にそう言って、美穂を中に促した。 吉田の表情は硬く、ただならぬ気配を感じながら美穂は刑事から和泉の死を聞かされた。テーブルを挟んで二人の刑事に向かい合った美穂は昨夜の行動を皮切りに多くの質問を浴びる事になった。
美穂が何時に工場を出たのか、どうやって家に帰ったか、社長と仕事以外の付き合いはなかったか等の質問をしつこく聞かれた。
古くから和泉が知っていると言うレストランから食事を取り寄せて、宿直室と応接室を兼務するような部屋で、親子のような晩餐をしたのだ。
最初は、和泉がこの工場を立ち上げる際の苦労話をたっぷり聞いていたのは、何となく思い出していた。男が安心して働けるのは愛する女性の支えがあってのことだという教訓のような話だったが、これから藤木と同じ道を歩もうとする美穂にとっても気を引き締める話だった。
ただ社長を支えていたのが、実の奥さんではなくて、いわゆる愛人という立場の方だったので、藤木にそんな人がいたら嫌だなあとは思っていた。
〜多分、それは口に出してしまったかもしれない〜
「これから正妻に納まる成瀬君には、許せないだろうな。ただこれだけは分かって欲しいんだが、結婚自体が仕事上の契約と同じだったんだよ。実際に愛したのはその人なんだ」
社長のそんな声が記憶に蘇ってきた。ただアルコールの廻るのがいつもより早かったのか、それ以上のことが出てこない。それよりも和泉の死があまりにもショックなうえ、自分がどうやら疑われていることが悔しかった。まして最後の質問は、自分と和泉それぞれの人格を否定するものであり、涙がとめどなくあふれてきた。
「神に誓って、そんな関係はありません。和泉社長を尊敬してましたし、父のようにも思っていました」
泣きながら話す美穂に、刑事はそれ以上追及することなくその場を去った。数日後に何度も刑事が現れたが、結局何も思い出せないという事で進展はなかった。任意同行を免れたのは、その時点で死因が分かっていたからに他ならない。
2 猜疑心
その頃藤木は神奈川県警に拘留されていた。そこに来てから七時間は経とうとしていた。
公衆電話から110番したものの、死体を発見して、真っ先に疑われるのは誰だろうと思った。多分工場で社長と美穂が食事をするという話は、数人は知っているだろう。美穂に疑惑の目が向くのは必至だろう。そう考えると家に帰ろうという気は起きなかった。むしろ足は自然に工場に向かっていた。
例の石段を上りきった頃、ちょうどパトカーが1台、正面玄関側にやってきたと見えて、数人の話し声が聞こえ、赤いランプの点滅が木々に反射していた。さすがに彼らも目敏かった。
「あなたは、ここの関係者ですか?」
「はい、いえ」
「どっちです」
「関係者です。中を見て下さい。死体があります。他には誰もいないです」
藤木は動顛してしまって、平静さを欠いていた。報告しなければいけないことと隠さなければいけないことがあるのは、人を無力に、そして疑わしく見せてしまうのだろう。
「今、確認してきます。あなたは指示に従って、ここを動かないように」
警官は相棒に藤木を任せて、裏口から中に入り込んで行った。
相棒に質問されたので、ここの会社の取引先の者であること、多分数人で食事会をしているという噂を聞いたので、駆けつけてきてら、こういう状況であったことを答えた。
警官1名が状況を把握したようで、本署の方から応援が来る事になった。その時点で彼らは、ただの番犬であった。現場に手をつける事は許されず、容疑者には直接話を聞く事は憚られた。
刑事2名と鑑識がやってくるまで、藤木には相当時間かかったような気がした。実際はそうでなかったかもしれないが、とっくに日付は変わっていた。
〜果たして美穂の安否は?〜
〜美穂の事を隠さず話すべきでは?〜
時間の問題で美穂がいたことは分かってしまうのだ。しかし今、彼らが躍起になっているには鑑識の鑑定で、尋問は署に帰ってからでも、するのだろう。
「刑事さん、死因はわかりましたか」
「多分、もうすぐ分かるでしょう。ところで、藤木さん。今日こちらに来られたのは?」
「工場で、何だか食事会が開かれると聞いて、呼ばれてはいなかったんですが……」
「そうですか……取りあえず、寒くなってきましたから、暖の取れる場所へ行きましょう」
そう言われ、パトカーに同乗して所轄の警察署に向かう藤木だった。
「藤木さんが仰るところの食事会は、何人くらい集まる予定だったんですか?」
パトカーの中で、刑事が尋ねる。
「は、はい」
藤木は、正直に話してしまおうかと思ったが、死因がはっきりしてからでも遅くないと思った。藤木はまず自分と被害者の関係に付いて話を始めた。刑事は時々相槌を打つものの、決して真剣に聞いている風ではなかった。
「署内でもう少し詳しくお聞きしようと思いますので……」
藤木は取調室に案内された。
ところがなかなか取り調べは始まらず、時間だけがいたずらに過ぎて行った。藤木に去来する複数の妄想が、彼の心臓を圧迫しているようだった。
コートも着ないで、ブーツも残したまま、美穂は去っていった。よほど慌てたのは、和泉の死に直面したからであろう。美穂が和泉に手をかけるということはあり得ないと思った。藤木は「腹上死」という言葉を浮かべて、無性に悔しくなった。
数十分後、いや小一時間は経ったかもしれない。やっと担当の刑事が姿を現して、藤木の取り調べが開始された。
「藤木さん、まず今日の、食事会でしたっけ……参加予定者を教えてもらえますか」
「そ、それなんですが……そもそも社長と社長秘書の成瀬さんの……二人がメインの食事会で、私はサプライズというか、ですね」
そう言いかけた時に、刑事が藤木の話に割って入った。
「成瀬さんというのは、あなたの婚約者ですね……」
「し、調べたんですか?」
「一応会社関係の人に連絡を取りまして……あそこの工場の責任者で吉田さんという方に話をお聞きしました」
藤木は、長時間待たされた理由を理解した。確かに吉田工場長に連絡を取るのは当たり前だし、彼なら今日の計画も聞かされていた事だろう。
「吉田さんから聞いたのは、なんでもお二人だけの食事ということで……社長に命じられて食事の手配を駅前の方のレストランにされたようです。それで確かにそのレストランからお二人分の食事が、届けられたようです」
藤木は、どうやら自分が疑われているという状況を把握した。
「藤木さんは呼ばれてなかったのと違いますか?」
語尾に力がこもっていた。それを受けて、もったいぶった言い方は止めようと、自分の立場を説明することにした。
「そこまで調べられたんなら、正直に言います。いくら社長とその秘書であっても、彼女は私の婚約者です。気が気でなかったんです。小心者と思われるかもしれませんが、社長を信じる事が出来なかった……」
「もし何かあったら、あなたが手を下したかもしれないですか?」
そう言って刑事は、藤木の目の奥を覗き込んだ。
鑑識の結果が出て、和泉の死因は、心臓麻痺ということが分かった。また、聞いてもいないのに、
「遺体には性交の反応はありませんでした」
と刑事が付け足した。
藤木の心配はいくらか緩和したが、殺意を抱いていた藤木と当の現場から去った美穂からの事情聴取は必要と見えて、警察も簡単に藤木を解放しなかった。二人を接触させず、個々に話を聞こうというのであろうか。
藤木の隠した遺留品に関しては、刑事から聞かれなかったし、あえて言う必要もないと思った。ただもし残っていたら、美穂が慌てて帰ったことを示唆するが、美穂が帰ったあとに起こった事故なら、警察も特に追求はしないだろう。後は美穂の方に事情を聞きに行くのだろうが、もしかすると……。
藤木は美穂を泊めた晩に、無意識に帰って行った美穂の事を思い出した。
〜もしかすると、美穂は何も覚えてないのかもしれない〜
そうなると警察もそれ以上追求する事は出来ないし……取りあえず、事故死である事は間違いないわけだし、そこで終結するに違いない。
〜終結……?〜
「遺体には性交の反応はありませんでした」 藤木の頭の中で刑事の言葉が繰り返されていた。自分の中でくすぶっているのは、関係があったとか、ないとかでなく、和泉が全裸に近い姿であった事と美穂がコートもブーツも放り出して、そこを去ったということだった。和泉に尋ねる事も出来ず、美穂の記憶にない真実は、藤木をやり場のない孤独に閉じ込めるだけだった。
藤木が解放された時、すでに太陽は昇っていて、時計を見ると短針は8を指していた。会社には、和泉の事故死と自分が事情聴取を受けた事を正直に連絡した。美穂にも何度もメールを送ったり、電話をかけたりしたが、まるで反応はなかった。電話が通じたのは、ちょうど美穂の事情聴取が終わった頃だった。
美穂が昨晩から携帯の電源を切ったままにしておいたのが原因だったが、美穂はそれさえも記憶がなかった。
「成瀬君。君しばらくは自宅待機の方がいいかな。告別式等の日程は追って連絡するけど…。来ない方がいいよ。君が社長と最後にいたという話は奥様の耳にも届いているみたいだしね」
工場長の吉田が渋い顔をしながら、美穂に指示した。
吉田との出会いは、和泉が新入社員紹介で、吉田を本社に呼んだときだった。美穂は、製造部長というその男が自分を見たときにやけに顔が引きつっていたという印象を持った。その後も一度工場に書類を届けたときも変に無愛想で、杓子定規だと感じた。
社長からもまじめな性格と聞いていたし、仕事であっている藤木からも、彼が融通の利かない堅物であると聞き、なるほどと思った。美穂に取っては苦手なタイプの人間だった。 その吉田が各所の対応に追われている姿を見ても社長が工場で死んだという現実をなかなか受け入れることができなかった。それも最後に会っているのが自分だというのに、何も覚えていないことが苛立たしくてどうしようもなかった。
美穂は、誰もが自分と社長の関係を疑っていると思った。決してそんな関係ではない。ただそれを証明する手だてがない事も刑事の尋問で十分分かっていた。もう言い返すだけの気力がなかった。とにかく記憶がないのだ。工場でワインに口をつけ、一杯を飲み終えた記憶がないのだ。記憶が再開するのは朝起きたところからで、確かに昨日着ていたスーツが見当たらなかったりはした。だんだん自分自身の存在が曖昧で不確かなものに感じられてきた。
どこから情報を得たのか、マスコミからの問い合わせの電話も続けざまにかかってきた。美穂を指名するところもあったが吉田がすべて対応した。
「まいったなあ。成瀬君はここにいない方がいいかもな。今日はなんとかするから、とりあえずいいよ、帰って……」
その言葉のどこにも美穂を配慮する言葉はなかった。美穂はじわじわ涙が湧き出てくるのを止めるすべを持たなかった。室内ばきを履き替え、ロッカーからハンドバッグを取り出し、宛てもなく外へ出た。
藤木の声が聞きたくなって、携帯を取り出すと、電源を入れていなかった。慌ててスイッチを入れると、たくさんのメールが届いていた。会社からのものは、とにかくすぐ出社するようにというもので、残りはすべて藤木だった。メールを確認しているとちょうど藤木からの電話が鳴った。
「もしもし、美穂かい。良かった。繋がった。大丈夫かい。昨日工場に行ったんだけど、すれ違いだったねえ」
藤木が工場に着てくれたことを嬉しく思った。同時に藤木が何か知っているのではと思い、すぐにでも会いたいと思った。
「これから会社に向かうから電車に乗るね」
「分かりました。藤木さんの会社の近くの……ええっ、そこにいます」
電話のせいか声が遠く、なんとなく心の距離も遠くなったような気がした。藤木が言ったように、着信履歴が溜っていた。昨晩送られてきたメールも開けていなかった。藤木を待つ間、一つ一つのメールをチェックしていくが、開けていくたびに押し寄せる自己嫌悪の波……。
「これは工場にあったもので、僕が隠したものなんだ。君が慌てて出て行ったのは、目の前で社長が亡くなったからだと思うんだけど、どうなんだい、覚えているのかなあ……」
そう言って美穂に手渡した袋からは、今朝見当たらなかった、そう、昨日着ていたコートとブーツが出てきた。
「私……」
どうやって帰ってきたんだろうと思った、本当に覚えてないのだ。過去に失敗例はいくつもあるが、どれも取るに足らないものばかりだった。
さすがに藤木との初デートでの失態は身に応えたので、藤木といる時はもちろん、なるべく酒宴は避けるようにしてはいたのだ。ところが社長の勧めということもあって、1杯くらいはという油断があった。
「社長には気の毒なんだけど、死因が心臓麻痺と聞いてほっとしたんだよ。一時はおかしな想像をしてしまって…」
藤木の話しはもっともで、殺人ということならば、最後まで一緒にいた美穂は間違いなく容疑者だ。まして酔った時に何をするか分からないし、そんな自分のことさえ信じられないのだ。
でも今までどんなに記憶を失っても他人を傷つけたりする事はなかった。自分が転んだり、擦りむいたり、お金を落としたりすることはあっても、他人に暴力を振るったりする事はなかった。だから藤木が事故死と聞いて、ほっとしたというのは、まだ私の事を信用してくれてないのだとも思った。
「私が人殺しだと思ったんですか。それも恩ある社長に手をかけるなんて……」
「もちろん君がそんな事をするはずはないと思ったさ。ただ社長から身を守るために、うっかり……ということも、だね」
藤木は何だか向きになって大声になった。
美穂は、藤木が言うおかしな想像というのが、俗にいう情事だということに気が付いて、哀しさがこみ上げてきた。
「あなたもそう思ってるんですね。社長とそういう関係のことがあったと……。社長はそんな人ではありませんよ」
まさか自分が信じている藤木は、他の人と同じような考え方をするとは思わなかった。ましてあれほど世話になった和泉を色狂の悪者と考えている藤木に腹がたった。
「確かに和泉さんにはお世話になったし、よくしてもらった。現に君に会えたのだって社長の紹介だからね。でもどんな人だって魔が指すってことがないとは言えない。まして君のように魅力的な人が側にいたなら……男なんてそんなものかもしれないなあ。哀しいけどね」
実際藤木の見た所、社長の美穂を見る目は、男の目だったと思った。それを真面目に庇う美穂がいじらしいとは思う。
二人は無口のまま、会計をして外へ出た。挨拶を交わし、互いに背を向け反対の方角へ歩み出す。
その日以降、一度硬化した美穂の心を解きほぐすことは困難だった。
3 美穂の母親
大晦日の夜、藤木は数日ぶりに美穂に電話した。もちろん仕事が忙しかったこともあるが、和泉の事故死に端を発する二人の気持ちのずれが、お互いを遠ざけていた。この電話にしても、大晦日という節目であり、何となく義務感から発した行為だった。
「連絡出来なくてごめん。仕事が山のようにたまっててね。ああ和泉さんの葬儀は無事に終わったよ」
和泉が工場で遺体となって発見され、現場にいた美穂は、翌日の刑事による取り調べが終わって以来、有休扱いで自宅待機となっていた。多分一定の期間が過ぎると退職せざるを得ないのかもしれない。悔しいけれど、葬儀にも出られず、毎日、部屋の中で何をするでもなく暮らしていた。
藤木の声は落ち着いていたが、共に楽しい日々を過ごした時のような親しみやすさはなかった。それは自分にも責任がある。分かっているけど、まだ許せないものがあって、引っかかっていた。
「お正月は実家に帰らないのかい」
「多分、明日の朝、顔を出そうと思います」
義理の両親とはいえ、今年初めて一人暮らしを始めた美穂としては、久しぶりに母親の手料理を食べたかった。父親の笑い声を聞きたかった。たとえ本当の両親でなくても、親元にいる方が楽なのかもしれなかった。
数日前に藤木と二人で顔を出せなくなった事を母親に連絡した時の、母親の残念そうな声を思い出した。
藤木がゆっくりした間を取って、話を続ける。
「そういえば、葬儀に行って和泉さんの奥さんに初めてあったけど、あまり悲しそうには見えなかったなあ」
美穂にしても、面識はなかった。和泉の妻は会社とは全く無縁であったし、社長が何か奥さんについて語る事などまるでなかった。いや奥さんではなく、本当に愛した人の話を聞いた事があった。愛する人の支えがあってこそ良い仕事ができるのだという話を聞かされたことを思い出した。それも確か、あの社長が亡くなる最後の晩餐でのことだった。
他にももっと多くの話をしているのだが、思い出せない自分を怨んだ。ただなんとなく和泉が愛した女性と自分を比較しているような印象を思い出した。もし美穂が、和泉がかつて愛した女性に似ているとすれば、藤木が言うように男として接したいという気持ちもあったんだろうか。頭では理解してもまだ気持ちが受け付けなかった。
「ああそれから僕らの結婚式も今の状況じゃ、延期せざるを得ないと思うんだけど、美穂の意見も聞こうと思ってさ」
唐突に藤木が切り出したとき、美穂は何を言われたのか、一瞬ぼーっとしてしまった。
「そう……それでいいと思う」
延期という言葉に少し安心していた。たしかに今のまま、挙式しても心から嬉しくはないだろうから……。
「わかった。僕の方から連絡しとくね。じゃあ、良いお年を!」
そう言って無理に明るく切った藤木だったが、美穂以上に藤木も落ち込んでいた。最後にあんなことがなければ今年だって最高の年だったのにと思った。
年が明けて営業初日、美穂は社長を代行していた吉田の指示に逆らって出社した。
「君は私の言う事が聞けないのか」
という吉田の声には力がない。
「私、じっとしていたくないんです。世間がどんな風に見ていようと私は卑屈になるような事は何一つしてませんから!」
美穂の語気に押され、吉田は言い返せないまま、部屋の奥に引っ込んだ。
美穂の少し先輩で経理を担当している金子が笑みを浮かべながら言う。
「工場長、あなたが苦手みたいね。あなたは間違ってないわ」
和泉の死後、製造部長の吉田が社長代行を勤めていたが、実際は勝手が分からず、右往左往しているのを数人の部下は見て見ぬ振りをしていた。
「社長が上手く使っていたのよ。能力はあるんだろうけど、人望がないわねえ。社長には皆良くしてもらってたから、この会社を何とか存続させたいとは思うんだけど、あの人がいたんじゃ駄目よねえ」
金子に限らず数人のスタッフが皆一様にそう思っている。それは美穂もずっと前から感じていた。初対面の時の妙に引きつった顔……。
「吉田君、幽霊にでも会ったような顔だな。成瀬君、製造部長の吉田君は真面目を絵に書いたような男だ。何かの時には頼りになる。今日は打ち合わせで来ているがいつもは百合が丘の工場にいる」
それが吉田との初顔合わせだった。
美穂がそんな記憶に浸っていると来客が会った。吉田が自ら出迎えていた。
「ご無沙汰しております」
「君も元気そうで何よりだ。和泉さんは気の毒だったな」
そんな会話が聞こえた。
吉田が来客を奥へ促した時、一瞬顔が見えた。そう和泉精巧を紹介してくれた、最初に面接に行った共和電気の副社長だ。そういえば和泉も吉田も共和電気に勤めていたという話を聞いたことがある。やはりあの晩餐の席であったろうか。
「金子君、奥にコーヒーを二つ頼むよ」
明らかに美穂を無視する吉田だった。気落ちしている美穂に金子が言う。
「あの人は工場にいるのがお似合いなのよ。きっと新社長が決まるまでの間だけね」
美穂を慰めているようだった。美穂も内心では吉田が社長の器ではないと思っていた。
吉田と竹中は、和泉の葬儀で会って以来だが、その前となると工場の落成式の時なので他人を交えず話をするのは十数年ぶりのことだった。
「本当に和泉さんは残念だったね。年が近いせいもあるが、他人事に思えなくてね。早すぎるよ、60は」
「そうですね。あんな簡単に逝ってしまうなんて、タフな人だと思ってましたが…」
吉田がそう答えた後、竹中は少し声を潜めた。
「例のあの娘といっしょだったようだが……」
吉田はすぐには答えず、言葉を選んでいるのか、ゆっくりと返答した。
「状況的には、疑わしいのですが、警察の調べでは和泉さんは、目的を達してはいないそうです」
「そうか、君は詳しいな。新聞ではそこまで書いとらんのに。やっぱり和泉さんは手を出そうとしたか。なるほどな。さぞ心残だろうに。まあ天国で先に逝った愛人が待っているか。いや今回の一部始終を見られていて、とっちめられてるかもしれんなあ」
そう言って竹中は笑ったが、吉田はなぜか目をつぶりながら、体を震わせていた。
「あっ、冗談が過ぎたようだ。不謹慎だったな」
真面目な吉田の性格を知る竹中は、そう言って謝った。
「いや、私こそすみません。いつまでもくよくよして…。今日は本当にご足労いただきまして、有難うございます」
吉田は本題を切りだした。和泉精巧の経営に関する相談だった。
百合ヶ丘駅を出て左側の県道沿いの居酒屋で男が一人生ビールを口に運んでいた。時々気が付いたように、マスターにお代わりを頼むだけで、特に目立つわけではない。昨年の暮から頻繁に顔を出すようになって、マスターも気には留めていたが、他人を寄せ付けない雰囲気なので、声をかけることはしなかった。男が空のジョッキを持ち上げてマスターを見た。
「マスター、お代わりをくれ」
マスターがお代わりを用意すると初めて男が話しかけてきた。
「暮に恩人が亡くなって、なかなか酒の力を借りないと寝付けないんだよ」
「それはお気の毒でした。職場の方なんですか」
「ずっと上司だったんだ」
そう言ったきり、また無口になってしまったので、マスターはまた常連の他愛もない会話の中に戻った。
常連がお愛想を済ませて帰っていき、店内には男が一人残っていた。マスターは、上司に先立たれた男に同情し、閉店時間を回っていたが、帰宅を促すことを躊躇った。
「元気を出して下さい。これはサービスですから」
マスターはメニューにはない自前の揚げ出し豆腐を小鉢にいれて出した。
「まさかねえ、あの場で逝ってしまうなんて、情けない人だねえ……生き恥をさらすべきだったのに」
小声で囁いてはいたが、何だか不気味な雰囲気にマスターも眉を曇らせていた。
藤木は年明け早々、結婚式を予定していたホテルにキャンセルの電話を入れた。延期と言ったものの、全く未定であったためいったん解約せざるを得なかった。
電話を切ってから、急に寂しくなってきた。同時に理由の分からない疲れが体を襲った。部屋で横になっていると、悪いことばかり考えてしまう。あの事件さえなければと思ったが、時間を元に戻すことは出来ない。死んだ人のことを悪くは思いたくない。でも和泉は明らかに美穂に思いを寄せていた。60歳という年齢になっても、そんな事を考えるのだろうか。藤木は自分がその年になった頃を想像してみた。
世間的には、年の差婚と言われ、まさかの老人に若い伴侶が付くケースはあるが、藤木のイメージでは純粋な恋愛とは呼べず、老人にしてみれば性的愛玩の対象であり、若い女性からみると老人の財力が目当てで一緒になっただけだと思えるのだ。純粋な恋愛など考えられない。
いつのまにか眠っていた藤木は、簡単な夕食を済まそうと思って外にでた。明日から仕事だというのに、変な時間に寝てしまったことを後悔した。よく利用するファミレスは空いていて、数組のカップルがいるだけだった。独りで来ているのは藤木だけだったせいか、寂しさは隠しきれない。長い間独身でいたくせに美穂と離れているだけでこんなにせつないのだ。
食事を済ませ部屋に戻ろうとしていたが、なんとなくすぐに帰りたくなくなって、新大橋まで歩いてきてしまった。橋の上から真っ暗な隅田川の水面を見ていると、美穂と過ごした楽しかった思い出がフラッシュバックしてきた。このまま流されてしまって良いのか、藤木の中で仄かな灯火が揺れはじめていた。
仕事始めから次の休日までに計画をたてた。そして土曜の午前中、藤木は埼玉県の川越市内を、地図を片手に一軒の家を探していた。小江戸と呼ばれる古くからの町並みを見ていると、心が洗われるような気がした。住所は分かっていたので、すぐにそこにたどり着いた。その辺りでは比較的大きな家だが、現在住んでいるのは、二人だけのはずだった。
「突然ですみません。仕事でこちらの方に来る用事があったものですから、つい寄ってみようかと思いまして…」
美穂の義母には面識があった。一度美穂と一緒に挨拶に来た。ただ今回は一人なので、少し気まずいなと感じた。
「まあ、日曜なのにお仕事なんて、お偉いこと。お車ですか?」
「いえ、電車です。地下鉄で乗り換えて、ここまで直通の電車がありました。1本でしたけど結構時間はかかりますね」
「わざわざ遠くからお越しいただいて……ああ、お仕事なんでしたね。もうお済みでしたらゆっくりしてって下さいな。あいにくお父さんは、会社の付き合いで、って仕事じゃなくて釣りなんですけどね、いないから、私一人なんですよ」
そう言ってお母さんは笑った。藤木にとっても本当の母親のような気がした。
応接間に通され、少し経つとコーヒーが運ばれてきた。
「コーヒーがお好きだと伺ってましたから……。あの娘もコーヒー党だし、一緒で良かったわ。それもインスタントは駄目。缶コーヒーなんかコーヒーじゃないって、それはもううるさいんですよ」
「どうぞ、おかまいなく……。」
「安心して下さい。あの娘がいつ帰って来てもいいように、いつでもコーヒーだけは切らしてないんです。藤木さんは優しい方ですね。あの娘は頑固でしょう」
「いえ、真面目だし、しっかりした考えも持ってらっしゃるし、素敵な女性だと思います」
母親は笑っていた。
「あの娘から電話があって、事件のあらましとか、結婚を延期することは聞いてるんですよ。事件の方は残念ですけど、藤木さんにもらっていただけるんなら、あの会社とも縁が切れますよね。ですから一日も早く結婚して欲しいと思いますわ。でもきっとあの娘でしょう。変にこだわってるのは……」
「二人で決めたんです。もう少し落ち着いてからにしようって……」
「そう。あの娘の母親になって十年以上になるけど、今でも全て理解しているとはいえないわねえ。でも藤木さんならきっとあの娘を分かってあげられると思う」
そう言われながら、内心自信のない藤木だった。ただ努力を怠ってはいけないのだ。今日ここに来たのだって、美穂の内面にあるものを多少でも理解できればと思ったからだ。
「小さい頃はどんな子供でした」
「うーん、まず頑固ね。それに…」
母は話すべきかどうかを吟味しているようだった。
「それに空想癖があるのか、時々人の話を聞いてなかったり、予想しない行動をすることがあるって、小学校の先生が言ってたわね」
「美穂さんを引き取られたのが、ちょうど小学校の時でしたよね。環境的に落ち着かなかったからじゃないですか」
「そうかもしれません。家では特にそんなことはありませんでしたし。私たちにもすぐ馴染んだようです。あっ、ちょっと待って下さい」
部屋を出て数分後に母は分厚いアルバムを抱えて戻ってきた。
「小学校からだけど、これ一冊に最近までの写真がまとめてあるの」
アルバムを受け取って、藤木は早速表紙を開いた。一枚目の写真が少しボロボロで、他の写真と比べて明らかに古い物だった。見ようによっては、美穂が子供を抱いている感じだが、恐らくこの子が美穂当人であろう。
「あの娘の本当のお母さんね。まるでそっくりなのよ」
「お母さんは確か事故でしたよね。何か詳しいことは、聞いてますか」
「私も事故だとあの娘から聞いただけです。あの娘自身が、それ以上知らないんじゃないかしら」
美穂が段々大人になっていく過程になんだか感動を覚えながら、藤木は美穂の実母の死に思いを馳せていた。
4 巡礼
和泉が死んで2ヶ月が経とうとしていた。 成瀬美穂は工場へ向かう石段をゆっくり上りながら、本社から預かった書類を届けようとしていた。
「あら、今日は工場に藤木さんがいらしてるようよ。急いだ方がいいんじゃない」
先輩の金子にからかわれながらも、なんだか、足が小走りになっているようだった。
年末に電話で話をしてから、一度藤木から予約キャンセルの連絡が入ったくらいで、顔を合わせるのは新宿で別れていらいだった。
時々気晴らしに学生時代の仲間に連絡を取っていた美穂は、すでに結婚した友達のうわさ話などをしていた。
「あなたも変な事件に巻き込まれたものね。せっかく幸せな結婚を控えていたのにね」
「私のことなんかいいんだけど……」
と言って始めたのが、共通の友人が和泉社長と同じくらいの男性と結婚したという話だった。
「だって、もうお父さんと変わらないでしょ。そこまで離れてると……」
「そうでもないみたいよ。もちろん最初は『問題外』だと思ったんですって……。でも見た目は段々気にならなくなって、後はねえ、話す内容とか、話し方とか、考え方がとにかく若いんですって……」
美穂には今ひとつピンと来なかったが、和泉の時々美穂を見つめる目が、父親のそれでなく、男性としてのものであったとしたらと思うと、思い当たるような言動がないこともなかった。
〜私はただ父親のような感じがして〜
藤木がもし年をとっても、若い女性を見て恋愛をしたいと思うのだろうか。何だか急に腹が立ってきた。
〜許さないわ〜
駅に着いた時、我に返ると今考えていたことがおかしくなって笑ってしまった。
和泉精巧は、共和電気の竹中の援助を受けながら製造部長の吉田が社長職をこなしてはいたが、リーダー的な素要のない彼には荷が重そうだった。あらためて美穂の去就も彼女自身に委ねられたが、とりあえず残ることにした。
誰もが気づいているように、吉田は明らかに美穂を避けていた。何か用事ができると決まって外に出された。そんな美穂に誰もが同情的であったが、中には社長との関係を面白おかしく噂するものも中にはいた。
〜本当のことなんて誰にもわからない〜
そう、自分自身さえわからないのだから。
工場が見えてくると少し憂鬱な気分になる。ここで社長は死んだのだ。正面へ回ると新しく工場長になった塩原が入口で手を振っていた。
「成瀬さーん、藤木さんが来てますよ」
なんとなく気まずさを覚えながらも、塩原に案内されるまま応援室にまわった。
「藤木さん、婚約者の登場ですよ」
妙にハイテンションの塩原に翻弄され、久しぶりの対面になった。塩原は気を利かせてそそくさと部屋を出た。
「やあ、元気そうで良かった」
美穂の顔を見た時に、年末な陰鬱な雰囲気とは違って出あった頃の柔らかい雰囲気に促されて、先に声を発した。
一方、藤木の声がやさしさに満ちていて、自分が数ヶ月会わないでいた事を反省せずにはいられない美穂だった。また少しずつ新しい関係を築いていけばいいような感じがした。 お互いがお互いを必要としていることを痛感しながら、二人はテーブルを挟んで座った。
「どう仕事は順調なの」
相手を思いやる気持ちが、自然に会話を弾ませた。
「相変わらずだ。吉田さんが本社に行っちゃったから、どうなるかと思ったけど、ここでは、塩原さんがよくしてくれるんで助かってるんだよ」
「吉田さんがここにいたときは、皆静かな人ばっかりだと思ってたのに、塩原さんがあんな元気で明るい人とは思わなかったわね」
噂の塩原が絶妙のタイミングでコーヒーを持ってきたので二人で笑った。
「なんか僕の噂をしてませんでしたか。少し聞こえましたよ。まあ、ここだけの話、吉田さんがいなくなって、なんだか希望がわいてきました。でも本社が可哀相ですね」
「塩原さんて、正直ですね。確かに本社でも吉田さんは疎まれてます」
美穂が言い終わるとすぐ3人はそろって笑った。
「どうぞ、ごゆっくり!」
そう言って塩原は去った。
彼のおかげで久しぶりに明るい雰囲気の中で美穂と会えたことを喜ぶ藤木だった。
「今日は良かった。久しぶりに君の笑顔が見られた。それに僕自身も君に謝らなければならないと思ってたんだ。僕は君のことを少しもわかってなかった」
「それは私だって同じです。私って本当に世間知らずだったわ」
「でも、そこが君の良い所でもあると思うけど……」
「駄目よ、藤木さんはそう言って、私を甘やかすんだから……」
「ごめん。ごめん。実はねえ、もっと君の事を知ろうと思って、川越のお母さんを訪ねたんだ」
「まあ、場所はすぐ分かりました?」
「君に言わないで、勝手に伺って悪かったね。でも一度ご挨拶に伺っていたから、覚えていてくれたし、気軽に君の思い出話を聞かせてもらったよ。本当の親のように君を語る瞳には愛情が溢れていたと思う」
それからアルバムを見せてもらった話をして、いよいよ本題へと分け入っていった。
「あの最初の写真は、本当のお母さんだよね」
「ええ、良く似てるでしょ。小さい時はそうでもなかったんだけど、段々あの写真の人になって行くのは、変な気持ちでした」
「あの写真を見たとき、君に似ていると同時に、会った事があると思ったんだ」
藤木は、あの写真1枚から、記憶の断片を拾い上げ、一つの仮説を展開し、ここ数日いろんな資料をあさっていたことを明かし、一つずつ説明することにした。
「転校前の小学校では、君は成瀬でなく佐久間だった。正確には4年生の夏までかな。新学期には成瀬美穂になって転校していた」「佐久間という名前は懐かしいわね。ほとんど祖母に育てられたので、母の記憶はあまりないの。時々祖母のところへやって来た母にしても、お母さんというよりは、やさしいおばさんという感じで、いろいろ買ってくれたりはしたけど、あまり馴染めなかったかしら……。でも7歳の誕生日だったか、初めて海に連れて行ってもらって……。まだ寒いときだから泳げないのに、砂浜でお城を作ったりして……。多分その後、母の訃報を聞いたような気がする。でもお葬式に出た記憶がないの。祖母に連れられて、お墓参りはした気がするけど……」
「そのお母さんの名前は恭子さんだよね。佐久間恭子さん」
美穂が藤木の目を見つめながらゆっくり首を縦に振った。
「そうよ…。その名前を聞くのも久しぶりね」
美穂は、その名前を聞きながら、遠い記憶を彷徨っているようだった。お母さんの想い出があまりないと言いながら、実際はどこかで母親の存在を気にしていたのかもしれないと藤木は思った。
「数日前、外回りで出た時、図書館に行って16年前の新聞記事を探してみたんだ。一般紙はもちろん地方紙の社会面を佐久間という苗字を頼りにくまなく目を通した」
藤木は自分の仮説から検討をつけ、神奈川のこの百合丘近辺にしぼったことに関しては美穂に告げなかった。自分が何か知っているかもしれないことが、自分でも怖かったかもしれない。
「そして見付けたのがこれなんだ」
藤木はバッグから一枚のコピー用紙を取り出して美穂に差し出した。美穂はそれを見ながら、さっきよりも大粒の涙をテーブルの上に溢した。それは母の死を記した新聞記事だった。
「昨日午後4時頃、小田急線百合ヶ丘駅近く(住所高石13番地)の坂道で、近所の主婦が20代女性と見られる遺体を発見。神奈川県警麻生署の調べで、身元は佐久間恭子さん(26才)と判明。佐久間さんは発見現場である坂道を通行中足を滑らせて転倒、頭を強く石段に打ち付け出血多量で亡くなったと思われる。この坂道は百合ヶ丘駅への連絡通路としてその近辺の住人が利用しているが、日中は通行人が少なく、発見が遅れなければ一命を取り留めた可能性もあったと見られる」
美穂は涙を流しながらもしっかりしていた。現実に対して前向きだった。
「何という偶然なのかしら。母がここを導いたのかしら。ねえ、藤木さん、こんな偶然ってあるんですか?でも何で母はこんな所に着たのかしら。私を祖母に預けて、この辺に住んでたんですか?」
その時美穂はある事実に気が付いた。
「藤木さんは学生時代、ここに住んでたんですよね。ちょうどその頃じゃないんですか」
藤木は身をのりだしてゆっくり答えた。
「僕が以前に君にどこかで会ったかな、って聞いたのを覚えてない」
「ええ。あっ、それってもしかして」
「多分そうだと思う。お母さんと間違えたんだ。でも川越の実家でアルバムを見るまで全く思い出せなかった。似てはいるんだけど雰囲気が違うっていうのかな。それにかなり古い記憶で、僕自身忘れてしまっていることが多いんだ」
「藤木さんから見て母はどうでした。やさしそうでしたか、それとも…」
学生だった藤木が年上の恭子に一目ぼれしたということを美穂には言い難かった。
「アパートの隣に一軒家があって、お母さんはそこに住んでいたのだと思う。時々挨拶を交すだけだったんだけど、穏やかでやさしそうな人だったかな」
藤木の話を見つめる美穂の視線は、眩しくて、素直だった。
「きっと母が引き合わせてくれたんだわ。母が言ったことで一つだけ覚えてるの。美穂が大きくなったら幸せにしてくれる人が現れるっていうの。その時は、この人は言い訳してるって思った。自分がたまにしか来ないから、申し訳ないと思ってるのかな、なんてね」
恭子の話で二人の気持ちがまた一つに戻ろうとしていた。藤木は一人で過ごした年末年始の数日を思い出し、二人でいることの大切さを噛み締めた。
美穂は藤木との出会いが、和泉の紹介という形を取りながらも、実は母がセッティングしたのではないかと思い、不思議な力に導かれたことに深く感動した。
「どこかで会った事があったかな」
美穂が突然思い出したその言葉は、藤木のものではなく、和泉のものだった。
「社長も母と面識があったのかしら……」
藤木は久しぶりに美穂と二人の休日を過ごそうとしていたが、数日前から自身の記憶のことで思い悩んでいた。学生時代に美穂の母である恭子に出会い、仄かな恋心を抱いた。それは美穂には言いにくかったが、たとえ美穂に知られても許される程度であろう。
問題は、その記憶を全部思い出してはおらず、何か大事なことを忘れているよう気がしてならないことだった。坂道の上り降りが大変だったせいにして引っ越ししたことになっているが、他に理由があったような気もするのだ。それが気になってしょうがないので、美穂に逢いたいと思いながら、距離を置いてさらに恭子について調べてみようと考えたのだった。
そもそも彼女はなぜシングルマザーの道を選ぶことになったのか。つまりは父親はどうなったかが鍵かも知れなかった。何れにしても事故現場からまず始めようと考えた藤木は再度百合丘を訪れた。
2月にしては朝から暖かな陽気で、例によって坂道を上り始めるが、途中で汗だくになり、相変わらず長く続く石段に閉口する。息を切らしながら工場にたどり着く。敷地の周りが鉄柵で囲ってあり、裏門の鍵はしまっている。正門に回ろうとすると鉄柵はコンクリート塀に変わる。正門も今日はしまっている。今日は休日なのだ。考えてみるとこの工場の敷地内に藤木の暮らしたアパートも恭子が住んでいた一軒家も含まれていた。
正門から真っ直ぐに緩やかな坂道が伸びていて、藤木の記憶でいけば読売ランドの方に向かっている。やがて大きなT字路にぶつかり右に進むと小田急線に平行した県道に突き当たる。その県道からから車で上がってくるのがそのコースだった。
藤木が免許を取り立ての頃、友人の車で使ったことがあった。確か引っ越しするときもその道だった。道沿いにある大きなお屋敷がいくつかそのまま残っていて、やはり懐かしい気持ちになった。その中でも特に思い出深い家を見付けて、藤木は思わずベルを鳴らしていた。表札も代わってないことを確認済みだった。アパートの大家宅だった。
当時はアパートの一室を仕事部屋にしていた管理人は、この豪邸に似あわず質素な身なりで住人の面倒をよく見てくれていた。家賃を払い忘れた時にこの豪邸に訪れたことを思い出した藤木は、本当に懐かしいと思った。管理人は、見たところほとんど変わらず、藤木のこともすぐに思い出した。
「家賃を払い忘れて、ここに届けに来たのはあんたくらいだから、覚えとるよ」
あの時のように、玄関先から庭の方に回り、勧められるまま縁側で腰を降ろしながら、昔のことやら今のことなどを話した。
「私が引越した後で火事があったんですね。酷かったんですか」
「いやー、風の強い日でねえ。出火したのはアパートの隣にあった一軒家なんだが、連絡が遅れて、消防車が来たときにはアパートにまで燃えうつってたんだなあ。私もたまたまここに居たんで、誰が通報したかはわからないんだが、この坂道を消防車が上ってきたのでびっくりしたなあ、あの時は!」
「亡くなった方や怪我をされた方は居なかったんですか」
「昼間だったんで大方の人は外出しておったらしい。それにあんたの部屋みたいな空き部屋がいくつもあったんで人に災はなかった。アパートも半分は燃え残ったんだが、改築するにしても数年後に取り壊しが決まってたんでね。結局そのままにしたんで最後の住人もすぐに出ていった」
「取り壊しというのは、あの工場のためですね。土地の所有を和泉精巧に譲られたのは火事の前だったんですか」
「私の土地じゃなく、元々は私の兄の土地だったのを兄が娘婿にくれてやったんです。もう20年は前のことです。ただその時は工場を建てようとは考えてなかったようですよ、その娘婿も。だからアパートはそのまま残し、私の収入源にさせてもらってました」
「もしかするとお兄さんの娘婿って、先日他界された和泉精巧の社長さんですか」
藤木は自分で言ったことを頭の中で反芻しながら和泉と恭子に何か接点があるように思い始めてきた。
「ほうっ、よく知っとりますな。私より15も若いのにねえ、60歳は早過ぎです。なんか、いろんな噂がある人でしたが……あっけないですなあ」
藤木はその後恭子のことについて尋ねた。藤木の記憶にあるようにアパートの隣の一軒家に住んでいた彼女は管理人にも認知されていた。
「あの事故は可哀想だったねえ。そう言えば藤木さんもあの日、アパートの階段下で倒れてましたね。あんたは数時間して目を覚ましたから良かったけど」
藤木はハンマーで頭を叩かれたようなショックを覚えた。
「ああっ、確か大家さんが部屋に運んでくれて…。目を覚ましたらあなたがいて…、それから」
「頭を打ったようだったんで、医者に行くようにと言ったら、金がないというんで金を貸した。覚えてないですか」
「そ、そのお金は返しましたか」
「おや、本当に忘れとるな。大丈夫、返してもらいました」
目を覚ました時に管理人が側にいたという光景をなんとなく覚えているが、その前後の記憶がまるでない。管理人が言うには、読売ランドの方にある病院を藤木に教え、藤木はとりあえずそこに行った。数日して借りたお金を持って来た、ということだった。
それからしばらくして藤木はこの百合丘を離れてゆく。引っ越しをした本当の理由がそこにあるのかもしれなかった。美穂を理解するためでもあったが、今度は自分自身を理解するために消えた記憶を何とか取り戻したいと思うのだった。
第4章
1 共和電気
下高井戸にある共和電気の本社に藤木の姿があった。和泉の生前に彼の伝で時々顔を出すようになっていた藤木はシステム担当者と会談中に和泉の話を振ってみた。
「私が入社する前のことなんでよく存じあげません。もしよろしければ副社長に取り次ぎましょうか」
藤木は和泉が独立したことで人事部長だった竹中が副社長に修まったという話をどこからか聞いたことがあった。そんな好奇心も働いて藤木は竹中に会うことにした。
その部屋で30分程待っていると痩身に白髪の気難しそうな男が一人やってきた。竹中だった。
「お待たせしました。副社長をしております。竹中です。あなたのところみたいなネットワークサービスがこれから伸びてゆく企業でしょうな。だが我々家電業界も今までのより良い生活を提供してきたというノウハウがあります。協力していくことで互いに刺激を与えられればいいですね」
そう言いながら藤木の正面に座った。話してみると結構気さくで見た目ほど堅い感じはなかった。
「お時間を割いていただき恐縮いたします。実はお仕事の話ではなく、個人的に和泉精巧の社長の想い出話をお聞かせ願えればと思いました。失礼は承知の事ながら、和泉社長の人柄を偲びたいと思った次第です」
「なるほど。私もあなたの名前は彼から聞かされていましたし、確か成瀬さんのご結婚相手でしたね。私の覚えている事でしたら何なりとお話しますよ」
「和泉社長からは、いつもバイタリティーをいただいてました。新しい技術にはいつも真剣に向き合っていらっしゃいました。私のような若造の話をいつも時間を作って聞いていただきました」
「そうですね、彼の持つリーダーシップをうらやましいと思いましたね。いつまでもこの会社に留まっていて欲しい存在でした。そうすれば今回のようなこともなかったかもしれませんねえ。彼の持つバイタリティーが返って今回はマイナスに働いてしまったのかなあ。君の婚約者にも君にも辛い想いをさせてしまいました。彼に変わって何かさせてもらえればと思うんですが……」
「いえ、お気持ちだけ頂戴いたします。ただ和泉さんの若かりし頃の想い出話でも聞かせていただければ……」
「若い頃ですか?結婚前とか?」
藤木はこの時とばかり、当てずっぽうながら、一人の女性の名前を挙げてみた。
「例えば、佐久間恭子さんのこととかですね……」
案の定、竹中は目を丸くしながら腕組みをして身構えた。
「君、まるで探偵みたいだね。その名前どうやって調べたの?故人の威信にも関わることだけに簡単には答えられないぞ。君の企みがわからないからね」
藤木は竹中の反応はもっともだと思った。自分をさらけ出さないと相手も快く答えてはくれないのだ。
「すいません。けっして脅かそうというわけではないのです。実は副社長もご存じないかもしれませんが、私の婚約者の成瀬美穂は、義理の両親に育てられまして、彼女の本当の母親は佐久間恭子という名前だそうです。そしてこれは私の感なのですが、和泉社長と佐久間恭子は面識があり、今回の事故に少なからず影響を与えているんじゃないかと思ったんです」
藤木の話を神妙に聞いていた竹中は、うーんと唸ったまま天を仰いだ。
「やはりそうでしたか。佐久間恭子さんは私も知っています。たいへん美しい人でした。たしかに成瀬さんを見た時に似ているとは思いました。成瀬さんは最初うちに面接に来たんですよ。ちょうど面接を打ち切った後だったんで和泉精巧を紹介したんです」
「……ということは和泉さんも彼女を見て、やはりびっくりしたんでしょうか」
「多分私以上でしょう。おや、そうすると……」
竹中の頭の中でパチンと答えが弾き出されたようだった。
「か、彼女が成瀬さんのお母さんというなら、多分和泉の実子じゃないだろうか。あ、あいつは自分の娘を手にかけようとしたっていうのか。恐ろしい。獣以下だ!」
「やはり佐久間さんと和泉社長は関係があったんですね」
「うーん、まさか、そんなことになろうとはなあ」
そう言いながら、竹中が語り出したのは、和泉が結婚した頃の二重生活だった。
「その辺りは私より詳しい奴がいるから、聞いてみたらどうだ」
いつの間にか夕暮れがせまってきていた。藤木は竹中から聞いた話を新宿に向かう電車の中でまとめていた。車内は帰宅途中のサラリーマンで溢れていた。
「私以上に和泉君は調べたと思うんだがなあ。さすがに自分の娘だと知っていたら、あんなことは考えないだろう。もし娘だと分かれば、私か、少なくとも吉田君には報告があるはずだろうに……」
藤木は、誰もが思うように吉田とは、話が弾むはずはないと思った。それでもその頃の佐久間恭子の暮らしぶりが気になった。実の娘の面倒を碌に見ず、自分自身は百合丘に一人で暮らしていた。その頃はもう和泉との関係は切れていたのか。
とにかく吉田と会ってからだと思った。時間がないので、取りあえず和泉精巧本社に直行した。
終業間際のオフィスで、男は受話器を持ったまま、その場に立ち尽くしていた。十数年封じ込めてきた記憶が、娘の登場で次第に明るみに晒されるはめになった。ずっと隠してきた真実の扉が少しずつ開き始めていた。
入り口のドアが開き女が中に入ってきた。何か言ったようだが、男はそれが聞き取れず、持っていた受話器をを元に戻して、硬直したまま女の顔を見つめた。
「す、すいません。ノックしたんですが返事がなかったので…、お先に失礼致します」
そう言って女は帰って行った。あいつのせいで全てが狂ってしまったんだと男は嘆いた。
和泉精巧のあるビルから成瀬美穂が出てきた時、藤木が息を切らせてやってきた。
「藤木さん、どうしたんですか」
「ああ、この前はごめんね。いろいろ気になることがあって…」
「母の事ならもういいですよ。過去は過去なんだから。私はもう大丈夫ですよ」
「いや今度は僕自身のことなんだ。ところで吉田さんまだいるかな」
「ええ、一人残ってました。変な顔して」
「変な顔かあ。笑わないようにしなくちゃ。このまま君と一緒に帰りたいところなんだけど、どうしても彼に確認しときたいことがあるんだ。今度ゆっくり話したいことがあるから、必ず連絡するね」
そう言って藤木はビルの中に急いだ。美穂は一人で改札に向かう自分の姿を客観的に見て、寂しいと思った。藤木と過ごした楽しい日々を早く取り戻したいと思った。
吉田はちょうど入り口の鍵を閉めているところで、藤木の姿を見てびっくりしたようだった。
「吉田さん、夕飯はいつもどうしてるんですか……良かったらご一緒しませんか。吉田さんに聞きたい事があるんですよ。いえ大した事じゃなくて、昔の想い出話ですね。もちろんただじゃ悪いから奢りますよ。多分私の方が薄給でしょうけど……」
「いやあ、別に予定はないけどねえ……」
「お手間は取らせません。居酒屋でいいですか。あんまり高いところは知らないんで……」
吉田のような人間は、一方的な押しに弱いところがあるというのは、営業をやる上で学んだ接客術だった。テキスト通りの進行に藤木も呆気にとられた。そしてこの人の役回りを何となくイメージしてしまった。気が弱く、真面目で、反論もせず黙々と働く男という印象だった。
「給料日前なんでここで許してください」
そう言って入ったのは、最近随所でチェーン展開している居酒屋であった。金額が安いので学生も多く、ざわついた店内の中で比較的静かな一角を見付けて座り込んだ。
「工場長時代はたいへんお世話になりました。今は塩原君がしっかりやってますね。良い若手を育てられましたね。教育方針とかは和泉社長の影響があるんですか?吉田さんは共和電気からずっと和泉さんの下で働いてこられたわけですよね」
藤木も工場に出入りしている頃、吉田の性格を何となく理解したつもりだった。とにかく無口なんで、話題をこちらから振っていかなければ、会話が途切れてしまうのだ。かといって本題をいきなりきりだしては、返って何も話してくれないかも知れない。藤木自身の中で迷いがあった。
生ビールを頼んで乾杯をしたとたん、吉田は、珍しく饒舌になった。
「藤木さんは、おいくつでしたっけ」
「今年で36歳になります」
意外ながら吉田から口を開いてくれ、その上昔の想い出話を滔々と語ってくれた。
「羨ましいです。36歳であんな若くてきれいな方とご結婚されるわけですし、なんの柵もないですしねえ。私が36歳の頃と言えば、共和電気で和泉さんに営業の基礎を教わっていたときですね。お前は要領が悪いって、ずっと言われてました」
「和泉さんは、営業部長だったんですよね」「いえ、まだその頃は営業2課の課長をしてました。でもすぐに副社長の遠縁に当る方と結婚されて、それから営業部長に昇進されました。私も和泉さんの後ろ盾があったればこそ、課長になれましたが、今と同じです」
〜今と同じ〜
藤木は社長亡き後の和泉精巧本社で、部下からも疎い目で見られ、得意先の応対に困り果ててる哀れな中高年の姿を思い浮かべた。
〜自分はそうなりたくない〜
そうは思うが、人生どこに落とし穴があるか分からない。吉田にしても和泉にしても、人生の先達であり、学ぶべきところはないとはいえない。だが決して受け入れない何か違う点がある事は否めなかった。
二人揃って、おかわりを頼んだ。
「課長になったのはいいが、今と同じで誰からも慕われません。私の命令が行き届いたのは、私という人間ではなく、課長という肩書きと、後ろに控える和泉さんの影でした。つまり和泉さんを離れては、私は何も出来ない事を意味してました」
藤木は相槌も忘れ、吉田の話に聴き入っていた。
「私は、和泉さんがわざと私を課長に据えて、その事を叩き込んだような気がするんです。俺がいなければ、お前は何も出来ないという事をですね……」
吉田は、そこでジョッキに半分ほど残っていたビールを一気に飲み干した。それと一緒にこみ上げてきた感情も一緒に飲み干したのではないかと藤木は思った。
〜吉田さんは和泉社長を憎んでいたのか〜
なんとなく一瞬そう思った。
「和泉さんが独立して、和泉精巧を立ち上げる時も一緒だったので、お二人の強い絆を感じたんですが……」
遠慮がちに聞いた藤木の顔を一瞬見つめて、フフッと笑った。
「絆ですか……。そうかもしれません」
吉田は、そのまま口をつぐんでしまって、箸ばかりを動かしていたので、そろそろと思った藤木は質問を投げかけた。
「吉田さんは、佐久間恭子という方をご存知ですよね。共和電気の竹中さんに尋ねたら、あなたの方が詳しいということだったので……」
特に動揺する様子もなく、吉田が何か喋ろうとして口を開けた。
「佐久間さんは、高校卒業して間もなく、工場でアルバイトをしてました。私だけでなく、誰からも好意をもたれるほどの魅力的な方でした。多分もうご存知かもしれませんが、美穂さんのお母さんですね」
「ちなみにお父さんは、和泉社長ということでいいんですね」
藤木が確認すると、またしても何かこみ上げるものがあるのか、来たばかりの生ビールを一気に飲み干した。そして、弱々しい声で話し始めた。
「あの人は当時美人でちょっと評判がいい女性がいると、すぐに自分のものにするという悪癖がありました。私もきれいな人だと思ってました。この歳になって一人でいるのは、彼女を忘れられないからかもしれません」
それから何を聞いても、遠い目をしながらにやにやしているだけで、頃合いを見ながら、一旦清算して、帰る事にした。
「ここまでは、間違いなく奢っています。後は自腹でお願いします。お先に失礼します」
〜吉田さんは、美穂が佐久間恭子の娘だといつ知ったのだろう〜
帰宅途中で、ふと思った。表に出ていない何か得体の知れないものがある。さらに藤木自身の靄のかかった記憶の中にその答えがありそうだった。ただこれ以上追求して、何か未来が変わるわけではないとも思った。触れない方が良い場合だってあるのだ。
2 手紙
かねてから噂には上がっていたが、和泉精巧が共和電気に統合される話が浮上してきた。特に人事等に変わりはなく、退職希望者だけを募った。吉田は副社長代理の肩書きがついたが、実務からは離れて竹中の部下として復活することになった。社員それぞれの反応は大方、それを妥当だと思っていた。
「私たちの待遇はこれまで通りってことだけど、成瀬さんは吉田さんの秘書ってことはないわねえ」
「もちろんですよ。今までだって秘書らしいことはしてないですし、それに吉田さんは、共和電気に行ってしまうんでしょう」
「代わりに別の人が責任者になるみたいねえ」
美穂にしてみれば、退職する良いタイミングだったのかもしれない。
和泉精巧がなくなることで、藤木も微妙な立場にあったが、竹中が特に藤木を買って、そのまま百合丘工場のシステム管理を続行することになった。
「竹中さんには、これからもお世話になります。よろしくお願いします」
「いやあ、こちらこそ。徐々に他の工場も任せるようになりますから、力を蓄えておいてくださいよ」
「本当に感謝します。ところで吉田さんにもご挨拶しとこうと思ったんですが」
「ああ、確か今日からもう休暇に入っとるようだぞ。この前会ったときに顔色悪くなかったかね」
藤木は先日居酒屋で話を聞いたときの吉田の顔を思い出した。竹中がいうには、吉田に和泉の仕事ができるわけはなく、いずれこんな風に合併されるのは想定内の事だったという。でも吉田は吉田で十分自分の事は把握していたから、和泉の死が和泉精巧の終わりである事は分かっていたのだと思うのだ。
その吉田は休暇を取って、実家の方へ帰ってしまったという。吉田とは、もう一度話をしてみたいと思っていた。特に和泉社長に抱いていた憎しみと恭子さんに対する愛情の強さを確認してみたかった。それに吉田は、美穂の素性を知っていた。であれば和泉社長だって……と思う。そう考えれば、本当の父親として最後に二人だけで食事をする心境も理解出来る。
藤木は、過去にこだわらず、ただ先に進めばそれでいいのかもしれなかったが、美穂との出会いが、ただの出会いではなく、必然的に引き寄せられたものであるような気がしてならなかった。そして現段階ですべての真実を理解する鍵を握っているのが吉田のだと考えた。
吉田から藤木宛に手紙が届いたのは、竹中と話をした3日後だった。ホテルの便せんを使っていたので間違いなく実家のある北陸に行っていると思われた。石川県の能登半島の北端に近いその場所で、手紙を書いたのだ。
藤木宛てに書かれた吉田からの封筒はやけに分厚く、開けてみると手紙の他に興信所の調査報告書が同封されていた。報告書は、美穂の経歴が書いてあった。
本人から聞いていたように義理の両親に育てられた美穂だが、7才の時に実の母親を亡くし、その2年後に生まれたときから育ててくれた祖母を喪い、身寄りをなくして市内の施設に預けられた。今の両親に引き取られたのは、その1年後だから10才の時だ。
父親に関する情報はまるでない。母親の名前は佐久間恭子。20才の時に美穂を埼玉県川越市内で出産、その7年後神奈川県川崎市麻生区で事故死。出産から事故死までの消息は不明だった。さらに吉田が書いたと思われる便箋が数枚、小さな文字でぎっしり埋め尽されていた。
前略、藤木さん、先日は私のようなものにお付き合いいただきまして、ありがとうございます。最後の方は酔っぱらってしまって、藤木さんが帰られた事もぼんやりとしか分からないくらいでした。
多分藤木さんが聞きたかったのは、婚約者の成瀬さんの本当の両親のことだったのでしょうね。まず成瀬さんのお母さんについてですが、興信所の調査報告書にも書いてある通りです。藤木さんが調べられた通りです。
そして、後は成瀬さんのお父さんの話です。どこまで話したか、忘れてしまったので、佐久間さんが和泉と付き合いはじめたところから、私が知る限りの事を書こうと思います。 和泉は昔から女性に対しては貪欲で、気に入った娘を見つければ手当たり次第、手を出してました。それはもう目も当てられないくらいでした。私が何か言おうものなら、
「仕事もできないお前が俺に言えると思うのか。結果を出したら、話を聞いてやってもいいよ」
ってなものです。
和泉は、佐久間さんとは一回別れてるんです。当時の副社長の遠縁の方との縁談があって、相手が資産家である事に目が眩んで、手切れ金を渡して……。百合ケ丘の工場用地もその時手に入れたものです。和泉が結婚後営業部長に昇進された時に後釜として、私は営業2課の課長に上がりました。本当は営業は一時的な腰掛けで、人事部長の竹中さんの下に行くはずだったんです。
その頃の和泉の勢いといったら、誰も歯止めをかけられないです。やりたい放題という感じでしょうか。人事権には介入出来ないはずなのに、私をそのまま営業に残して、自分がその上で実権を握っているという構図です。
「吉田君、今回は済まないなあ。いずれ私の下に戻ってもらうから、しばらくは彼の下で我慢してくれ。ただせっかくそのポジションにいるんだから、彼の事で問題があったら随時、報告を入れてくれないか」
竹中さんからは、そう言われてました。
すいません。そんな話はどうだって良いですよね。ちなみに和泉が結婚したのは39歳で、ちょうどその半年後、成瀬さんは生まれてます。結婚するギリギリまで二人は付き合ってましたから、和泉が父親で間違いありません。でも認知はされてないので、興信所も分からなかったのだと思います。
結婚した後、和泉は偶然彼女と再会します。佐久間さんは新宿の歓楽街で働いていたのですが、和泉が全部面倒を見ようと新しい生活の場を提供したんです。それが現在の工場がある百合丘でした。そこにあった空家を1軒、彼は別邸として使用しました。
私が実際佐久間さん、いや恭子さんとお会いしたのはその頃です。愛人がいる事は和泉に取ってはマイナスのはずなんですが、その頃は恐いもの無しですから、私にも平気で紹介しました。それどころか、自分が仕事で忙しい時には、私に面倒を見るようにと言いました。
例えば、内装を変えたいという話になって、私が運転をして、恭子さんを双子多摩川のデパートまでお連れした事がありました。その時の恭子さんは、無邪気に壁紙やカーテンの色を選んでました。そして時折見せる笑顔がたいへん素敵でした。そうです。私もいつしか彼女を愛し始めていたのです。和泉の手前、私の片想いは隅に置いたまま二人の世話焼きを続けていました。
私は和泉よりも恭子さんのことを思うと、竹中さんにも報告しがたく、ずっと内密にしておりました。
役柄、恭子さんと二人になる時が何度もありましたが、尊敬する上司の愛人だけに自分の気持ちは常に押し殺したままでした。そうするとどうしても無口になってしまい、ロボットにでもなったような感じでした。
恭子さんが亡くなられる少し前ですが、やはり部屋に二人だけという時、和泉さんに言わないでと前置きしながら、お子さんの話をされたのです。なぜ和泉さんに言わないのか不思議でした。
恭子さんが仰るには、和泉が結婚を理由に別れ話を持ってきた時、すでに妊娠されてたそうです。まだ若かった彼女は、生まれてくる命を大切にしようと一人で育てる決意をしました。彼女の実家は川越で、彼女の母、つまり成瀬さんからいうと祖母に当る方と二人で暮らしていたそうです。子供は母親に預け、恭子さんは生活費を稼ぎに働きに出ました。 和泉からの手切れ金は、出産準備、出産、そして入院等で消えて行ったそうです。
その話をなぜ和泉にしないのか、と私は申し上げました。
恭子さんがいうには、和泉と再会したとき、子供の話を言いそびれてしまい、悪い男にだまされ、借金まであるという嘘までついてしまったので、言いにくかったそうです。たしかに子供嫌いの和泉にはいわない方が良いかもしれないと私も賛成しました。恭子さんは和泉のお金だけを当てにしてたのかもしれません。自分は、好きなだけ洋服とかを買いながらも、別に小遣いをもらって、仕送りをしてたようです。
なんでそんな話を私にするのか不思議でしたが、誰かに聞いてもらいたかったのかもしれません。母と娘を置き去りにして愛人として生きている自分を蔑んでいたのかもしれません。彼女のそんな思惑はいざ知らず、私は彼女を慰めるつもりで抱き寄せたのです。
恭子さんはまるで借りてきた猫のように、私に身体を預けてきたのです。和泉さんだけでは満足できない女の性なのか、私に向けられた愛情表現なのかはわかりません。
私は、こらえきれず、ずっと抑えてきたものを一気に吐き出しました。私はその瞬間、和泉に勝ったような満足感を覚えていました。
それからしばらくして、あの不幸な事故が起きました。夕方、警察から和泉宛に電話があり、恭子さんの事故死が伝えられました。電話を取った和泉の表情からは血の気が引いていく様子が窺えました。しかし後から思うとあれは演技だったのかもしれないと思うんです。
私の記憶では、その日の午前中和泉は職場にはいなかったんです。普通に考えれば、愛人宅にいて、何かがあり出社が遅れたのだと推察します。たしか発見されたのが、午後4時頃ですが、実際事故が起こったのは、午前中だということでした。
ただ、その時はそこまで思考が働かず、素直に和泉に同情し、警察から連絡を受けて飛び出していった和泉の帰りをひたすら待ちました。この時ほど和泉に同情した事はありません。なぜって、二人で共有した愛人だったからです。
和泉が独立を考えていることを私に明かしたのは、恭子さんのことがあってから数ヶ月してからです。それも百合丘のあの場所に工場を建設するというのです。私など恭子さんのことを思わぬ日はなかったくらいで、他のことなど手につきませんでした。そしてこれも後から思いついたのですが、長い間放置されるとまずい事でもあって、早急に手を打とうとしたのかもしれないと……。
私は次第に恭子さんの事故が、実は事件ではないのかと思いはじめていました。そして和泉の正体をいつか暴いてやりたいと思うようになりました。
そのためにもなるべく彼の側にいることを心がけたんです。とにかく一生をかけてでも真実を探したいと思うようになりました。しかし今回和泉が死んでしまって、真実は闇の中に消え去ってしまったのですが……。
成瀬さんを初めて見たときにすぐにお嬢さんだと思いました。もちろん履歴書だけではわかりません。子供の存在を知らない和泉は、ただ似ているというだけで、それ以上は追求しないようでした。むしろお気に入りの若い娘が入ってきたくらいにしか思ってなかったのでしょう。まるで恭子さんに再会したかのようにはしゃいでました。
私は恭子さんの口からお子さんの存在は聞いていたので、すぐにピーンときました。履歴書には書いてない事も興信所を使えば、同封した資料のように確実に分かります。さて和泉に進言すべきかどうか、ずっと悩んでいました。
私は和泉という男が、信じられないと思うのは、果たして自分の娘だと分かった時にどんな反応をするかが疑問だったからです。愛する女性が残していった自分と同じ血が通っている娘なら、普通なら、可愛くてしょうがない、どんな願いも聞き入れてあげるくらいの反応があってしかるべきです。
私は彼が恭子さんを殺したのだと確信しています。血を分けた娘ではあっても、その血の半分は自分が殺した女のものです。最初、藤木さんに成瀬さんを紹介したのは、なんとなくそれを察知した和泉が彼女を遠ざけたと思ったのですが、私の買いかぶりでした。彼は全く若い頃と変わっていません。一旦与えておいて惜しくなったら奪い取ろうとするそんな男です。
藤木さん、最後に和泉と成瀬さんが工場で食事をしたときのことを書かせていただきます。あの日和泉から連絡が入って、私はせっせと買い出しに出ておりました。いつまで経っても使いっ走りです。懇意にしている酒屋さんから予約しておいたワインを受け取りに行き、その足で、和泉お気に入りのレストランに夕方七時に届けてもらうメニューの確認です。
外で食べれば良いと思うんですが、とにかく二人だけになりたかったんでしょう。工場に戻って宿直室のベッドメイキングをしました。昔は私や和泉が交替で寝泊まりしたことがありましたが、寝心地に拘ってセミダブルの結構しっかりしたベッドを置いています。最近は使ってなかったのですが、和泉が取り寄せしたのか、掛け布団やシーツが用意してありました。まさかこの時のために、と思うと何だか腹立たしい気持ちにもなってきます。
工場は5時に終了して、5時半には誰もいなくなり、最後に私が戸締まりを確認して帰ります。私は和泉に15年前の事実を吐かせるなら、この時しかないのではないかと考えました。だから全員帰った振りをして、工場内に留まっていました。
成瀬さんには、ショックかもしれませんが、結果的に彼女を救う事にもなると思いました。和泉がただ本当の父親だった、という結果ならどれだけ幸福でしょう。その父が実は母親殺しの犯人というおまけが付くのです。私はその段階でも迷っていました。
やがて正門の方に車の音がしました。予想に反して二人はタクシーでやってきました。正面玄関から入って、2階へ上がって行く二人の姿を確認しました。
3 北帰行
吉田から手紙が届いた翌日、三月にしては珍しく雪が都内にちらついた。空のダイヤは特に乱れはなく、一日に2便しかない能登空港行きに乗ろうと羽田空港に向かっていた。
今回の能登行きは美穂に内緒だった。吉田の手紙の内容に完全に打ちのめされていた。遭ってはならないことが起ころうとしていた。和泉が死んだ事で、未然には防げたのだが、なんなとく美穂を普通の目で見る事が出来ない。一つには和泉という恐ろしい男の血が流れているという紛れもない事実があった。
全面的に信用したわけではないが、このように文章にされてしまうと変に臨場感があった。とくに和泉が美穂に襲いかかろうとするまでの描写は微に入り細に入って、藤木の心臓を引き裂いていた。ただし最後の方で、和泉が発作で倒れた後、美穂が驚いて正面玄関から出て行ったという記述が間違いである事に気がついた。
それがなければ、完全に信用してしまったであろう。美穂が正面玄関から帰ったならば、ブーツを履かないで帰る事はあるまいと思った。それに吉田は、私があそこに行っているという事実は知らないような書き方である。
ここに書かれている事が全部正しいという保証はない。出来れば嘘であると思いたい。そしてそれを確認するには、書いた本人の口から直に聴き、問いただす事だ。
男は手紙を投函し終えると深呼吸をして煙草に火をつけた。ホテルを出てからずっと考え事をしていたので、いつの間にか海岸沿いの見知らぬ町に迷い込んで、方向感覚をなくしてしまったようだった。しばらくして町外れの街道脇にバス停を見付け、行き先の文字を確認し、やって来たバスに乗り込んだ。
バスの走る街道は海に沿っていたが、大きな岩壁を曲がり抜けようとしたところで、トンネルに入った。抜けるまでに5分は掛るほどの長さのトンネルであり、男の胸中には、幼き日の思い出が去来するのであった。
そのトンネルは、母と二人、生まれ故郷を離れるときに抜けて行ったのだった。あの時は、ちょうどこのバスが向かっているのとは反対の方向に……まだ自身の出生のことも知らされておらず、ただ愛する母とバスに一緒に乗っていられるという喜びだけだった。
その母がよく口ずさんでいた「北帰行」という歌が、男の記憶にも刻まれていた。その頃の流行歌だったのかもしれない。後々、歌詞が分かりはじめた時、さすらう母の心情にぴったりだと思ったし、自分の今後の運命にもぴったりの歌だと思った。
トンネルを抜けると海岸からは少し遠のき、比較的広い農村が現れた。久しぶりに見る生まれ故郷であった。あまりに幼かったので断片的な記憶しかないが、当時から特に変わってはいないのかもしれない。まるで時間が止まったような村だ。
母は親戚に彼を預けるとすぐにどこかに消えてしまった。母は彼に何か言い残すでもなく、彼を一人にしてしまった。親戚の家庭では、彼は仲間はずれで、食事もろくに与えられず、物欲しそうな顔をする度に、母親の悪口を言われた。
母親がいったい何をしたというのか。親戚間をいくつか渡り歩く内に少しづつ成長していった彼は、母親がしたこととなぜ自分が嫌われるのかを理解し始めてきた。実の父親と不貞にあった母、そしてその間に生まれてきた自分……。多分母は悪くないのだと思う。きっと祖父に問題があったのだとは思う。
そうは思っても、自分でも自分の存在が希薄に思えてくる。
「僕は生まれてはいけなかったんだ」
そんな意識がずっと彼を支配してきた。
母が死んだという噂は彼が大人になり、共和電気に入社して数年後に知らされた。その時には既に生家の近くにある墓地に埋葬されたということだった。彼は涙を流すこともなく、逆に重荷を降ろしたような安堵感を得るのだった。
男は墓地を管理しているいう家を探し、墓の場所を確認した。
「母さん。久しぶりだね。死んだ時に来れなくて悪かったね。でも僕を捨てて親戚に預けたことを考えると、何も言えないだろうよ。今日まで何とか行きてきたけど、やっぱり生まない方が良かったんじゃなかったのかな」
疲れた中年男が、墓標に向かって呟いていた。
〜窓は夜露に濡れて、都既に遠のく
北へ帰る旅人ひとり、涙流れてやまず〜
能登空港に降り立った藤木は、ホテルへ向かうマイクロバスを探した。同行は他にカップルが2組と年配の女性が一人いた。
窓から見える北陸特有のどんよりとした空が、藤木の心に重くのしかかっているようだった。1時間弱走り続け、12時少し前に到着した。
吉田の泊まっているホテルのカウンターで吉田の外出中を確認した藤木は、売店でサンドイッチを買ってきて、お昼を済ませると、ロビーでチェックインまでの時間を潰すことにした。ロビーのいたるところに誰が描いたものか分からない水彩画が数点飾ってあって、いずれもこの能登の海を描いたものだった。
美穂は、和泉精巧が共和電気に吸収されたあとの身の振り方を考えていた。藤木との結婚は延期されたものの、二人の関係は終わってはいなかった。やはり顔を合わせると愛おしいと思った。
藤木もおそらくそうなのだろうと美穂は信じているが、最近も過去の事を調べ回っているらしいのだ。せっかくの休みも一人でテレビを見たり、食事をしたりするのは寂しいと思う。
少し早いけど、春物と冬物の整理をしておこうと冬用のコートをクローゼットから、引っ張り出したときだった。社長との最後の晩餐で着ていたピンクのレザーコートだった。それはブーツと一緒に藤木から受け取ったものだが、見るたびに思い出す事実に目を伏せたくて、ずっと仕舞ってあったのだ。
〜でも、現実から目を逸らせてはいけない〜
コートのポケットを弄っていたときだった。内ポケットの奥深くに、封筒らしきものが入っていることに気が付いた。恐る恐る開けてみると、小切手と手紙が入っていた。残念ながら小切手の期限は切れていた。額面は100万円だった。
それと手紙と言っても便せん1枚に簡潔にまとまった文章だった。
「結婚おめでとうございます。たいへん短い期間ではありましたが、秘書としてたいへん尽くしてくれました。秘書というよりもまるで実の娘のように可愛いかった。楽しい時間を過ごすことが出来ました。結婚祝いを同封しました。二人の将来に役立てて下さい」
〜そう言えば〜
美穂は、この文章を書いている和泉の記憶を思い出した。そうだ、これはあの夜、食事が終わった後に目の前で冗談を言いながら、筆を走らせていたものだ。
「秘書としては50点だが、娘としては100点満点だ。私が生涯で最も愛した人に生き写しなんだから……。おや、もう瞼が閉じそうじゃないか。取りあえずこれはコートの内ポケットに入れておくからね。ほんとに君はアルコールが弱いんだね……」
確かに、その頃は朦朧としていたのだが、少しずつ記憶が晴れていくようだった。
藤木がホテルのロビーで水彩画に見とれている時、美穂からの携帯電話が鳴った。最近は美穂からかけて来る事がなかったので、少し驚いた。
美穂が、思い出した記憶を藤木に話すうちに、藤木の中に未来への希望が満ちあふれ、顔色も俄に紅潮したように見えた。
「そうか、君にも一つ朗報がある。君は正真正銘、恭子さんと和泉さんの間に出来た子供だ」
「ええっ!本当に……」
無意識に美穂のほほに涙が伝った。
「どうだい、君もこれから来ないか?待てよ、そこから羽田まで、1時間もあれば行けるかな」
とにかく1日2便しかない。それに乗れば、夕方には到着するだろう。
美穂の記憶が確かならば、やはり吉田の手紙が怪しくなってくる。もちろん全部が嘘とは言えないが、いくつかの点が覆れば、和泉への印象がかなり変わってくるというものだ。
彼女自身の存在がなんとなく力になってくれるような気がした。彼女にしてみれば辛い過去をかいま見ることになるかもしれない。
〜それを守るのが俺の使命じゃないか〜
ロビーの水彩画に描かれたような暗鬱な日本海と同じ厳しさをその瞳に蓄える藤木だった。
フロントに吉田へのメッセージを預け、美穂を向かえるために空港まで迎えに行こうと思った藤木は、外出先から戻ってきた吉田を発見した。
藤木の姿を見つけて、少し驚いたようではあったが、まるで世間話でもするような吉田の態度にむかついた。
「藤木さん、まさかご旅行というわけじゃないんでしょうね?」
そんな吉田の冗談のような口ぶりにもぐっと堪えて、冷静でいようと努める。
「もちろんですよ。あんな手紙をもらっておいて、はいそれで分かりました、っていう風にはどうしてもなれません……」
「藤木さんのお気持ちは分かるような気がします……。おや、一人でいらしたんですか?」
そういって辺りを見渡す吉田は、やはり美穂を避けているようであり、正確なところは伝えない方が良いと思った。
「ええっ、まあ」
「さすがに成瀬さんにお聞かせするには、酷な話ですからね」
藤木の臨戦態勢を敬遠するように、吉田は提案を持ち出した。
「今日すぐ帰られるわけではないんでしょう。時間はたっぷりあります。私は今外出して帰ってきたところで、少し休みたいんです。確か午後6時には、そこのレストランがディナータイムになると思うんですが、そこで食事をしながらということで、どうですか?」
吉田の機嫌を取るわけではないが、今更話したくないとか、逃げられても困るので、取りあえず従う事にした。それに美穂がまだ到着していなかったので、返ってその方が都合がいいと思った。そして美穂には、迎えに行けないのでホテルの送迎バスを利用するようにメールを送った。こうなったからには、吉田が逃げ出さないように見張っておきたかった。
4 真相
藤木がリザーブした部屋は、ホテルの正面からの人の出入りが容易に確認出来る部屋で、藤木の想像通りに、吉田と思しき男が玄関に背を向けて海へと続く小道の方に歩いて行った。美穂にメールを送りながら、急いで外へ出る準備をした。
「吉田さん、逃げないで下さい」
砂浜へは15分ほどゆったりとした坂道を下って行くが、その途中で吉田の姿を捉え声をかけた。
「い、いや、逃げてるわけではないんだ」
実際、吉田は慌てる様子はなく、近寄ってくる藤木に手を振った。
「夕飯前にちょっと海が見たくなってねえ」 藤木は、吉田と並んで、海に向かった。直に海原が見えてきたが、もうすでに辺りは薄暗くなってきていた。さすがに3月はまだ寒かった。
「なぜあんな手紙を寄越したんですか?」
藤木は、静かに質問した。
「なぜって、それは……」
答えが返って来ないので、続けざまに質問をする。
「ちなみに吉田さんは、もう会社には戻らないつもりなんですか」
海を見ていた吉田は、藤木に向き直り、ぽつりと言った。
「もう、すべて終わったことだから……」
藤木から、迎えに行けなくなったというメールを受け取って、空港から送迎バスに乗り込む予定だった美穂だが、バスの発着が遅れて、藤木から吉田を追って海に向かうというメールが届いたのは、バスの中だった。バスが遅れなければ、間に合ったのに……と思った。
「和泉さんの最後の日の話をもう一度詳しくお聞かせ願いないですか?」
なかなかホテルに戻ろうとしない吉田の様子に諦めて、つい聞いてしまった。
「それは書いた通りだ。和泉がどれだけ酷い男かということだ」
「吉田さんがずっと和泉さんを憎んできたという事なんですが、そんな心理状態で、一緒に新しい事業を興したり、一緒に働いたり出来るものなんですか」
「それは、仕事に私情を挟むわけにはいかないだろうさ」
まるで答えるのが面倒くさいと言わんばかりだ。
「でもそれは、一般論でしょう。あなたも恭子さんを愛していらしたのですね。その恭子さんをもし本当に和泉さんが殺めたのなら、和泉さんと一緒にいることは、苦痛でしかないと思うんですが……。それに何で直接和泉にその事を確認しなかったのですか?」
藤木が言うのはもっともな事で、事実確認をしないまま、疑問を放置する事など許されるはずがなかった。
「藤木さんは若いなあ。和泉の恐ろしさを知らないんだよ」
それは明らかに言い訳のように聞こえたが、それから感情が激高したのか、畳み掛けるようにあの日の話を語りはじめた。
「あの日、工場に残っていると外に車の音がして……。てっきり裏口からやってくると思って作業場にいたんです。機械の影に身を潜めていたから、まず気が付かれなかったと思うけど……。とにかく何かあったらそれをを阻止するつもりでした。そんな実の父が実の娘に悪さしようなんて……」
藤木が黙っていると、話が別な方に逸れていくのがわかった。ただ藤木にはそれを修正する手だてがなかった。
「あなたには、そんな人間とは思えない行為が理解出来ますか。私は断じて許せません。まして、そんな行為の果てに生まれた子供なんて生きる価値がないんです……。ああ、ですから、つまり和泉が行おうとした事が許せないわけです」
吉田が、時々感情に揺れる様子に何か危険な感じがしたが、とにかく話は全部聞き届けようとする藤木だった。
「二人は2階に上がっていきました。数分してレストランから注文しておいた料理が届きました。レストランの主人と助手が一人、車から2階の宿直室に料理を運んでいる最中、和泉は食堂に行って、私が用意しておいたワインとグラスをトレイに乗せて運んで行きました」
吉田は少し冷静さを取り戻したか、細かい記憶を辿り、一つの洩れもなく語り尽くそうとしている様子だった。
「レストランの主人と助手が帰って行ったのを見届けてから、2階の様子が気になったので、静かに階段を上って、壁に耳を付けながら、中の様子を伺っていました」
ホテルに向かうバスの中で、美穂は吉田という男の事を考えていた。和泉と長年行動を共にしてきた吉田。初めて挨拶を交わしたときの何かおどおどした様子……。和泉が亡くなった翌日、出社したときの吉田のこわばった顔……。
それらを組みあわせて行った時、急に何か視界が開けたような気がした。和泉からの手紙を発見した時に和泉との会話の一部を思い出したように、自分が眠ってしまった時に耳に聞こえてきた男同士の会話が、急に姿を現しはじめたのだ。
〜早く、二人に会わなくては〜
すでにホテルは目の前にあって、バスを降りてすぐ、運転手に聞いた道をたどって、砂浜の方へ向かって急ぐ美穂だった。
砂浜にいる男達の話も佳境に入ってきていた。
「しばらくするとドアが開いて、和泉が食器を抱えながら、食堂の方へ運んで行きました。ドアは半開きになっていて、中を覗くともうすでに成瀬さんは服を着たまま、ベッドに横になっているじゃないですか。私は近づいて声をかけましたが、完全に寝入っています。するとそこへ彼は戻ってきました。私は戦う覚悟で、例の興信所の調査結果を彼に見せました。この人はあなたの娘なんですよ。あなたが何をしようとしてるか、分かりますか、って私は声を大にして訴えました。ところがです。彼は開き直ったんです。『出てけ』と私を一括するんです。それはまさに鬼の形相でした。何も出来ない私を彼は大声で笑います。そして服を脱いでまさに成瀬さんに襲いかかろうとしている時に『ううっ!』と呻いて成瀬さんに重なるように倒れました」
吉田は、語り手として最後の締めを試みようとしていた。藤木は、そこで話に割って入って、質問を投げた。
「それから、吉田さんは警察には連絡しなかったんですね」
「確かに連絡出来なかったですね。私はそこにいてはいけないことになっていたので……」「警察から連絡があったのが、意外と早いと思われませんでしたか……」
「ええ、そう言えば……ご近所の方が……」
「私が連絡したんです」
それを聞いて、吉田は神妙な顔つきになった。
「あの場にいらしたのですか?」
吉田の責めるような口調だった。
「私が来たときは、すでに和泉さんは亡くなっていて、他には誰もいないようでした」
「成瀬さんも出て行った後なんですね……」
「吉田さん、手紙には美穂が正面から出て行ったと書いてありましたが、美穂は多分裏口からです。あなたは見届ける前にすでに出て行かれたんでしょう?」
「ああ、そうだ。恐かったからね。彼女が正面から出て行こうが、裏口を使おうが……それは私の知った事ではない」
そう言いながらもひどく怯えている。いったい何を恐れているのか?
その時誰かの足音が聞こえて、その方向に顔を向けた。漆黒の闇の中で唯一光源と言えるのはホテルの灯りであったが、その灯りをバックに女性のシルエットが浮かび上がる。
「吉田さん、私はあの日の記憶を思い出しましたよ」
そう話し出した美穂は、何だかいつもの美穂ではなく、彼女の母親のようななんとなく不思議な雰囲気を醸し出していた。それは吉田に取ってはかなり効果があったと思われる。
突然吉田は、わけの分からない事を喋り出した。
「やっぱり、お前は娘なんかじゃねえ。恭子の生まれ変わりなんだ。俺を苦しめにやって来やがったんだ。最初からそうだと思ってた」
美穂はその言葉を聞かなかったように、滔々と話したのは、今吉田が話したばかりのあの夜の話だった。
「私が眠ってしまった時に、誰かが入ってきて、私の服を脱がそうとするの。ただすぐに社長が戻ってきて……
『吉田、そこで何をしてるんだ』
『社長、恭子さんにあまりにも似ていると思いませんでしたか』
『ああ、それはいい。お前はこんなとこにいてはいけないんだ。帰れ!』
『娘なんですよ、本当の……』
『やっぱりな!』
『あなたは実の娘を手にかけようというのか!』
『馬鹿な事を言うな。お前こそ、どうかしてる、いつもと様子が違うぞ』
『……』
『何とか言ったらどうだ。まあとにかく、帰れ!帰れ!』
『私があなたのためにどれだけ尽くしてきたか、わかりますか!共和電気であなたがあのまま愛人に溺れていたら、独立なんて出来なかったでしょう。彼女が時々子供に会いに行く事が分かって、これからどうするのか、追求してみたんです。彼女は、子供を捨てて来たのだとしゃあしゃあと言いました。私は咄嗟にガラスの灰皿で殴ってました。即死です』
『な、なんだとー、そんな事で殺したというのか』
『子供を捨てるなんて……そんな母親は生きる資格がないんです』
『お前、どうかしてるよ。そんな男とは思わなかった。なんてことだ』
『ちなみにあの家に放火したのも私です。彼女を殺した後、駅へ向かう例の階段から突き落として事故死に見せかけました。あの日午前中私が出社しなかったことには気が付きませんでしたね。しかし凶器の灰皿も血痕のついたタオルなんかを床下に置いてましたから、いずれはそれを消すために放火する計画は立ててたんです。それがちょうど独立計画をあなたが持ち上げた時です。工場用地にある民家やアパートの立ち退きを促進させるのは十分な効果でした』
そんな会話のやり取りがあって、その後でしょうか、和泉は激昂して、うめき声をあげながら私の横に倒れたようでした。やがてその男は和泉の体を動かしながら、和泉の衣服を脱がしているようでした。そして今度は私の服が脱がされようとした時、急にこの人は大声を上げて外に出て行ったようでした」
そうやって美穂が無感情のように話している間、まるで時間が止まったように、吉田も私も彼女に釘付けになっていた。
美穂が話し終わった一瞬の静寂を破って、吉田が、頭を抱えながら大声を出した。
「そ、そうだ、こいつはその時目を開けて私を睨むんだ。そして、『また殺すの?』って言うんだ!お、俺には最初から分かってたんだ。和泉に紹介されて、本社であった時に、『復讐に来た』と思ったんだ」
美穂は自分の母を殺した犯人を前に、毅然と言い放った。
「本当の意味で復讐を企てたのは、あなたの方じゃないですか。あなたは殺してもなお憎んでいた。自分が好きになった女は上司のものであり、二人は愛し合っている。自分の入り込む余地などない。15年前にその母を殺しただけでは飽き足らず、社長と私を自分と同じ地獄に突き落とす事を考えた。どうですか?」
吉田は、気が抜けたようにしゃがみ込んだ。
「自分の境遇を話した事があるのは、彼女だけだったのに……」
確かに美穂は普段の美穂ではなかった。藤木もまた本当に亡くなった恭子さんのような気がしていた。
漆黒の闇に流れる潮の香りが、圧倒的な存在感を放っていたところへ、月が雲の隙間から顔を出した。吉田は、月明かりに照らし出された美穂の表情を恐る恐る見据えると、急に奇声を上げて立ち上がり、そのまま砂浜を岬の方へ向かって走り去った。追いかけるつもりはなかった。
美穂の側に駆け寄った藤木の腕の中で、美穂は我に返ったように放心していた。
「私の中に母がいたんでしょうか?」
「彼には、そう見えたんだろう。彼を法で裁く事は出来ないが、十分罰が下ったような気もするんだが……君はまだ許せないかい?」
「彼の犯した事は、許す事は出来ません。でも私はあなたと二人で前だけ向いて行きていきたいと思うんです。藤木さんが良ければ……」
「良いに決まってるじゃないか」
高台にあるホテルに戻るため、降りてきた坂道を二人並んで登って行く。
「父も母も死んでしまったけれど、私はまだまだ歩いて行かなければならないんだわ。しっかり歩いて行ければいいんだけど、この坂道みたいに暗くて曲がりくねって、ちょっと足を踏み外せば、闇に吸い込まれて消えていってしまう……」
藤木は美穂を引き寄せ抱き締めた。
「僕は君が側にいてくれれば、どんな坂道だって上ってゆく自信があるよ。たとえ先が真っ暗でもね」
エピローグ
桜の季節を過ぎ、新緑が眩しく目に突き刺さるような5月の晴れた日、藤木は共和電気となった旧和泉精巧の工場へ向かっていた。
「この坂道とは縁が切れないなあ」
そんなことを呟きながら、長い石段を上り始めた。和泉さんも、恭子さんも、あの吉田や私たちも、この石段を上ったり降りたりしてきたんだという思いが藤木の胸中に去来して何となく切ない気持ちになった。
この坂道自体には罪はない。罪を犯す人間がいただけだ。愚かな人間達が自分の身の丈にあった慎ましい生活を送っていたことをこの坂は覚えていてくれるような気がする。だからこの坂道を登る時に、この石段を一歩一歩登って行くたびに、先人達の生活ぶりが頭の中に思い起こされる気がする。
少し大袈裟かもしれないと藤木は思ったが、自分の中に去来する数々の記憶は、この坂に由来するものだと思っている。
特に、2ヶ月前、能登から帰ってきた途端、封印が解かれたように、記憶が蘇ってきたのだ。それも15年前の記憶だ。
多分前日に、新宿かどこかで飲んで、朝から頭痛がひどかったその日、いつもより遅めに学校に向かう事になった。坂道を降りようとして、忘れ物に気がついて、部屋に戻るとき……。
恭子さんの家の前を通って、ドアが開いていることに気がついた。気になったが、急いでいたのでそのまま部屋に帰ろうとした時、後ろに男がいることに気がついた。顔はちらっと見たが、今思えば吉田だったのかもしれない。多分家の中では、すでに恭子さんは亡くなっていて……。事故に見せかけるためにこれから工作をするところだったのだろう。 19歳の私は、まさかそんなことが起こっているとは思わないから、部屋に戻って忘れ物を鞄に詰め込み部屋を出て階段を下りたところを待ち伏せしていた吉田に襲われたのだと思う。
石段の中腹に差し掛かり、持参してきた花束を脇の小さな墓石に手向けた。その墓石は最近になって気が付いたのだった。15年前に心ある方が簡単ではあるが、そんなものを残してくれたようだ。
その日気温が予想以上に上がり、美穂の母、恭子を偲びながら、その場で一休みを決め込んだ藤木は、階段にどっかと座り、「失礼します」と恭子に断って、タバコに火を付けた。
「お母さん、来月結婚が決まったんですが、それまでは吸わせて下さい」
恭子に報告も済ませた。
〜それにしても〜
藤木は、さらに感慨に浸っていた。
おそらく、あの二日酔いの日の前日が、恭子さんと出会った日だったのだと思う。それは亡くなる前日というわけだ。何という偶然だろう。
あの夜、かなりの量のアルコールに我をなくしつつも、なんとか終電近くの電車でここまで、たどり着いたのであろう。ところがこの石段である。数段登っては休んでの繰り返しだったと思われる。恭子さんは、多分その後の電車だったと思うが、ちょうど藤木が休んでいるところに遭遇したと思われる。
実は数回見かけてはいたのだが、声をかけてもらったのは初めてだった。恭子さんも藤木の顔は覚えていてくれたらしい。
「大丈夫ですか?」
確かそんな感じだったか。思い出すと、
「風邪をひきますよ」
「誰か、呼んできましょうか?」
「まあ、かなり飲まれたでしょう?」
等々、多くの言葉をかけていてくれた事も思い出されてきた。
そして、最後に言った事が……。
「それじゃあ、私は行きますよ」
そう言ってバッグから缶コーヒーを取り出して、くれたのだった。
「これを飲んで少し覚まして下さい。あっ、それから、今日ここで遭った事は、誰にも内緒にしておいて下さいね」
「私、この時間に外に出てた事が分かると怒られるんです」
藤木が時々夢で見た、知らないきれいな女性から「忘れないで下さい」という言葉とは、まったく逆だったが、自分に都合良く記憶の中で書き換えられていったものであろう。しかしいったい誰に怒られるのか。吉田か?和泉か?具体的には分からない。
ただその頃の藤木には、吉田も和泉も面識がないから、彼女の冗談だったのかもしれない。あるいは未来の藤木に……それも深読みかもしれない。
そして、いったいその日はどこへ出かけていたというのか?
藤木は、吸い殻を携帯灰皿に押し込んで、なおも美穂の母の事を考えていた。突然睡魔が襲ってきたのか、瞼が重くなってきて、目を閉じた途端、恭子の姿が浮かんできた。
「藤木さんには、もう分かっているはずですよ。愛するものにすることです」
そう言いながら、藤木に頭を下げながら、
「短い期間でしたが、誰がなんと言おうと、私は和泉を愛していました。和泉も愛してくれていたと思いますが、最後まで自信が持てなくて、和泉には打ち明けませんでした。藤木さん、それでも美穂は、二人の愛を受けて生まれてきた子です。可愛そうな思いもさせましたが、あなたが幸せにしてやってください」
恭子はそう言い残して、石段を上ってゆく。追い掛けようとするが足が動かない。そんな時誰かが背中を叩く。うかつにも階段に座ったまま眠ってしまった藤木に美穂が声をかける。
「やだー、藤木さんたらそんなところで居眠りなんかして……風邪ひいたらどうするんでうすか?」
馬鹿にしているようでもあるが、ちゃんと心配してくれているのだと思うと藤木は嬉しかった。
「先に行きますからね」
「お母さんと一緒だな!」
「何ですって?」
「何でもないよ」
美穂を4、5段上に見ながら藤木は笑った。その時、ふっと閃いたものがあって、唐突に美穂に質問した。
「この前、君の誕生日を祝ったよね。確か能登から帰ってきてすぐだったと思うけど。何日だったっけ?」
美穂は、今更という顔を投げかける。
「もう、藤木さんたら、覚えてくださいね。3月21日ですよ」
言い終わると、ややご機嫌斜めに石段を上ってゆく美穂だった。藤木は、かばんの中から、ファイルを取り出して、佐久間恭子の死亡記事のコピーを確認した。
〜記事は3月23日、事件はその前日、そしてその前日といえば〜
息を切らして上りきったその場所で、美穂は藤木を待っていた。
「藤木さん、大丈夫。足がふらついてるんじゃない」
「大丈夫さ。それより今分かったよ。君のお母さんと以前遭ったのが、やっぱりこの坂道だったんだけど……それが夜遅くでねえ。きっと君を海に連れて行って、川越まで送り届けて、それで帰ってきたら、そんな時刻だったんだね」
美穂の瞳を潤した涙は、頬を伝って地面に染み込んだ。
終わり
坂の記憶
この「坂の記憶」で登場する舞台は、「Phantom life」と同じ小田急線の百合ケ丘だったりする。これは、もちろん作者が東京方面に進出してきた際、最初に住んだ場所に由来する。それは「TOKYO EARLY 3 YEARS −1981年」を見ると、なおいっそう明らかになる。駅名は「百合ケ丘」であるが、地名は「百合丘」で、私が住みはじめた1981年は、川崎市多摩区であったが、すぐに麻生区になった。また当時、麻生区役所がある「新百合ケ丘」は、特急が止まるくせに駅前に何もない場所だった。今とは大違いである。
これを書いている時、藤木には昔の自分を投影しているが、今は明らかに和泉という60歳の年配者に近い。だいたい自分が20代の頃、あるいは30代の頃、50になった時、60になった時を想像すると大体は枯れ草のイメージだった。それは、性に対してでもある。性欲というのは無くなっていくのではないのかと安易に思っていたが、今50の大台を過ぎても執着はある。そして後10年たってもその執着は無くならないだろうと思う。これが男ではないかと勝手に思うが、そうでもない方もいるのだろう。