私の鼓動の行方

私の鼓動の行方

どこか遠くの知らない偉い人が、『自分の居場所は自分で作るものだ。』と言ったらしい。今朝開いた新聞の記事に、そう書かれていた。記事の真横には、明らかに私より年下の男の人の写真が、こちらを見つめていた。
居場所。与えられるものではなくて、自ら開拓するもの。
きっと、みずみずしさの残る若者なら、そういう考えに至るのは当たり前だ。だって当たり前の様に、彼らには力がある。そして健全であり、生産的だから。
そして、部屋の済で縮こまって、ただその場所だけを必死に守ろうとする、そんな人間のことをこう吐き捨てるのだろう。「臆病者」「内向者」。
─誰かが間違っているとか、そうじゃないとか、そういう問題じゃないことはずっと前から知っている。
でも、どうして私は後者として生まれてきたのか。





「新田さん、新田さん、お電話。」
丁度、生徒に数学の二次関数を教えている時だった。
同期の石倉さんに呼ばれた。その声は少し困ったような、それでいて急いているような口調だった。生徒に一言伝えて、事務室に入る。
誰もいない事務室は静かだった。事務室を出ていく石倉さんを尻目に、私は子機に耳を当てた。
「お電話変わりました。遅くなり申し訳ありません。新田です。」
「あ!薫ちゃん、私よ私!元気だったかしら?」
「あー...。」
まるで古手の詐欺のような電話だ。
聞こえてきたのは高い女の人の声だった。かなり早口の。私は頭をかしげる。この女の人は、はて、誰だろうか。
電話の向こうは続ける。
「分からないかしら。まぁそうよね。あなたのお父さんのお葬式以来だから、八年ぶりかしら。親戚の岡浜です、お久しぶり。お盆でスイカを持ってきた...、あ、そうそう!茶髪の!やだもう、覚えてるじゃないのー。」
「あー、すみません。」
ははは、と愛想笑いが出た。静かな事務室に寂しく響く。
確かに思い出した。この人は確かに親戚の集まりにいた、いい歳して茶髪で、口数が多くて親類に煙たがられていた、あの岡浜さんだ。
そして、人と喋ることが嫌いな私が最も苦手とするタイプの人だった。
「えっと、私に何か御用が...?」
「まぁねー。じゃなきゃ、大した交流もないあなたなんかに連絡なんてしないわ。」
「はあ。」
なんかって...。予想通り、なんでも口に出してしまう人、か。
「あのね、とにかくあなたのお姉さんの家へ来て欲しいの。急いで。今私もそこにいるんだけどさ。」
「はい?」
姉さん?なぜ姉さん?
いきなり出てきた単語に私は思わず声をこぼした。
「できれば、仕事を早上がりして欲しいわね。」
「いや、あの...。」
「詳しいことは後で話すわ。とにかく現状だけ話すわね。薫ちゃん。あなたのお姉さん、娘置いて知らない男とどこか行ったわ。」
「は?」
なんだそりゃ。



職場の塾長に頭を何度か下げて、早退届と、三日間の休み届けをもらった。地道に仕事をこなしてきたことと、誰かを追い越そうとしなかった平凡さが幸いして、特に嫌味を言われることもなかった。
ただ、石倉さんからは帰り際に小さな舌打ちをもらった。まぁ、あの人はいつもそうだ。私が何も言い返さないことを良いことに、飲み会に誘わなかったり、おかしな仕事を回してきたり、ああやって舌打ちをかましてきたり。もっとも、私は飲み会が嫌いだし、仕事はなるべく完璧に済ますからなんともない。
なんともないけど。
(そのことに誰も気付いてないっちゅーのがなぁ。)
おかげで私の仕事の実績は、気づかれずに埃をかぶったままなのだ。
駐車場に留めていた自分の車の扉を勢い良くあけて、シートにどっかりと身をあずける。と、自分の左でタバコの山が崩れた。カバンの角に当たったらしい。ヤニの臭いが篭る。
私は急いでエンジンをかけて、車の窓を全開にした。
『もう、またタバコばかり吸って。ほら、一緒に美味しいもの食べに行こう。』
よぎる姉さんの柔らかい声。
いつかだったか、姉さんが助手席に乗り込んだ時のことが頭をかすめた。
アクセルを踏もうとした足を引っ込める。
─私の姉さんは私と違って、綺麗で優しくて、そして強い人だった。
物心ついた時から私達の母は他界していて、父と姉さんと私と三人で暮らしていた。
そんな環境の中で、姉さんはひときわ明るかった。
仕事で疲れた父を励まし、時には幼い私をあやし、家計や料理をやりくりして、家族を全力で支えてきた姉さん。どんな時でも笑顔を絶やさなかった、姉さん。
その努力がどれほどのものだったか、私には計り知れない。
十六年前、姉さんは元気な子供を産んだ。
相手は子供ができたことを知るやいなや逃げたらしい。私はその相手を一生許せない。
それでも姉さんは笑っていた。
この子と幸せになるんだ、家族になるんだ、と。
そんな、姉さんの突然の失踪。最愛の娘を置いて。
言い換えるならそれは、駆け落ち。
「なんでー...。」
私はハンドルに顔をうずめた。うまく呼吸ができない。
なんで、どうして、どうやって。
色々言葉にしたいことはあったが、それを言葉にすることは出来なかった。そうするには、あまりに力が必要で。
とにかくこのままじゃ駄目だ。姉さんの家へ行こう。考えるのは後だ。
私は震える足でアクセルを踏み込んだ。




「あ!きたきた!お久しぶりです、岡浜ですー。薫ちゃん、いい女になったわねぇ。」
「あ、はい。」
姉さんの家の車庫に車を止めて玄関に立つより早く、茶髪が眩しい岡浜さんが出てきた。電話と同じ声で、ニコニコしている。
どうやら急いでるわけではなくて、ただ早口なだけなのかもしれない。
「ごめんなさいね、いきなり呼んでしまって。あ、これ北海道のお土産の鮭とばと蟹ね!琴音ちゃんと一緒に食べてね!」
琴音ちゃんとは、姉さんの娘の名前だ。そういえば、琴音ちゃんとはしばらく会ってない。二、三年...いや五年くらい?
「ん?一緒にとは?」
「あ、そうよね。それを説明しなくちゃ。ていうかここ玄関だったわね!あはは!とにかく中入って!」
「あ、はい。」
さっきからまくし立てるような喋りで圧倒されっぱなしだが、どうやらイヤな人ではないらしい。
思わず肩の力を抜いた私は、靴を脱いで居間へ上がった.
大きな食卓テーブルに座っていると、岡浜さんが紅茶とクッキーを出してくれた。私の向かいの席に岡浜さんが座る。
紅茶を飲みながら覗いた岡浜さんは、さっきの笑顔とは程遠い真面目な顔をしていた。
自然と、もう一度私の肩に力が入った。
「あ、琴音ちゃん...。」
「今は部屋にいるわ。もう二日も出てこない。」
「...。」
「私、北海道で仕事してるんだけど、たまぁにあなたのお姉さんが遊びに来るのよね。だから、結構仲いいのよね」
「そうなんですか。」
「私ね、一週間前、あなたのお姉さんにここの家に来るよう言われたの。これから恋人と海外へ行くからって。」
予想通りの事実に、しかし動揺を隠せず私は顔を上げた。岡浜さんは紅茶の入ったカップをゆっくり回している。
「これから私は家を出る。娘に二日分のご飯は残しているが、その後の世話は妹に任せたい。それまで、娘を見ていて欲しい。だから今すぐ家へ来てくれ。」
「なっ...。」
「後生だから。」
「...。」
「だってさー。」
岡浜さんはクッキーを食べ始めた。あ、これ美味しいわね、と呟いている。
私はというと、岡浜さんの言葉を飲み込むのに精一杯だった。
私に娘の面倒を見ろと?人見知りで、誰かと生活するのが嫌いな私に?
いやいや、その前に姉さん、琴音ちゃんの気持ちは?身勝手すぎるじゃない。
恋人って誰?海外ってどこ?
ていうか、帰ってこないの?
私の知っている姉さんは、そんなことしないのに。
「あの、もしかしてこれ警察に言った方が...。」
私は少し期待を込めて聞いた。
「言ったわ。でも音沙汰なし。」
「もしかして、誘拐とかじゃ」
「違う。」
岡浜さんではなく、聞きなれない声が私たちの会話を止めた。
振り向くと、十五歳くらいの女の子が立っていた。その子が琴音ちゃんだと、私は一呼吸おいて気づいた。
琴音ちゃんは、私が最後に見た時よりいくらか身長が伸びていた。生気の感じられない目。ボサボサの髪の毛とぐしゃぐしゃのパジャマ。マスクをしているからか、琴音ちゃんの表情は分からなかったが、とにかく健康でないのは確かなくらい、それは異様だった。
最後に見たときは可愛らしい服を着てはしゃいでいた姿だったので、その差に私は掛ける言葉を失った。こういう時は何か気の利いたことを、とさえ思えなかった。
岡浜さんも口を横に閉じたまま動けないようだった。
「お母さん、出て行った時、男の人と手繋いでたもん。笑ってたもん。だから、止められなかっただけだし。」
琴音ちゃんはそうだけ言うと、奥の廊下を歩いて行ってしまった。暫くして、扉の締まる音が聞こえた。
怖いくらいに沈黙。
私と岡浜さんは、お互いに口を開けないまま紅茶の色を眺めていた。あの時の事務室より静かだと、感じられたくらいに。
暫くの後、岡浜さんが溜め息をついて口を開いた。
「薫ちゃん。私は明日からまた北海道へ戻らなくちゃいけない。ここで提案ね。」
岡浜さんの声は、とても低かった。
「あなたがここに残って、お姉さんの帰りを待つのが一つ。そして、私が琴音ちゃんを施設に預けるのがひとつ。どちらを選んだって、覚悟は必要。私も、こうなった以上できる限りの助けはする。」
岡浜さんの目がじっと私を捉えた。
「どちらを選ぶ?」
思わず私は俯いた。一瞬、後者の方が気が楽だと考えたからだ。
正直、私は誰かと生活するのは嫌い。というより、私のペースを乱すことが嫌いなのだ。
それは、友達、恋人、何かしらのイベント、そして琴音ちゃんもきっと入っている。あんな風に、精神がボロボロなら尚更だ。
四十歳を過ぎてもなお人間関係を円滑にできないのは、むしろ、四十年もそういう考えを曲げなかったからなのかもしれない。
いつ帰ってくるか分からない姉さんを、しかも誰かと生活をして待つ。職場からだって遠いのに。
そうやって頭の中に浮かぶことは、まるでありもしない誰かに言い訳をしているようで情けなかった。
岡浜さんは、ただ私の答えを待っている。
私は泣きたくなった。
でも、どうして私は言い訳なんてしているのかしら。そんな疑問が横切る。
誰かに謝りたいからかしら。そんな答えを無理やり出す。
琴音ちゃんに?
ふと、琴音ちゃんと幼い頃の私が重なった。寂しい思いをしていつも泣いていた私が。
そうだ。
よく考えろ。琴音ちゃんには罪はないじゃないか。
「分かりました。私はここに残ります。」
それはつまり、純度百パーセントの同情から出た言葉だった。
この時点で、私に覚悟は無かったのだ。

私の鼓動の行方

最後まで読んで頂き、有難うございます。この話は続くので、また機会があってお会いできれば幸いです。

私の鼓動の行方

駆け落ちした姉の娘『琴音ちゃん』と暮らすことになった薫。 突如訪れた転機に、今まで逃げてきた人間関係、そして自分自身と向き合う薫。 はたして、その先に掴んだ答えは。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-02-11

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