はかなき胡蝶の夢
かすみは戸惑う。
ここのところよく、初恋の人の夢を見るのだ。
同じ中学にいた同級生。とりわけかっこいいわけでもなかったが、切なそうな瞳をした少年だった。
想いを伝えられないままおわりをつげた片思いだった。かすみは彼の瞳を見かけた時の胸を締め付けられるような感覚を、今も忘れることができない。
しかし遥か20年以上も昔の思い出だ。彼と連絡を取っているわけでもない。彼女には大学時代から付き合っている恋人もいる。かすみは公務員、恋人は大学の非常勤講師をしており、現在婚約、同棲中である。恋人とは円満。仕事も順調である。現実世界は順風満帆なのだ。満ち足りている。
しかしどうしたことか、決まってかすみが恋人に抱かれて眠る夜に、彼は姿を現す。幼い頃のままの姿で。あの中学校に。校庭でサッカーをしていたり、はたまた教室にいたり、飼育小屋にいたりする彼の恰好は私が恋した時のままの、紺の詰襟。身長の伸びしろを考えてか、少しぶかぶかだ。かすみは白い夏服に身を包み、あの頃と同じように彼に視線を合わせては、胸を締め付けられるような感覚に浸っていた。まるで時間旅行を経て中学時代に再び来たようである。サッカーボールを蹴る音、昼休みの喧騒、鶏の飼料のにおい。すべてが現実のようである。初めて見た夢で懐かしさを感じる。せっかくなのでかすみは、庭を掃除する竹のほうきを触ってみたり、音楽室に入ってみたりした。当時と何ら変わらない。しかも驚いたことに中学生の彼は、時たまかすみに話しかける。宿題の話、先生の話、給食のメニューに関する話。どれもよくある他愛もない話であった。しかし彼が話しかける度、かすみの胸の高鳴りは早く、そして次第に大きくなっていった。久々の胸のときめきに、夢ではあるがかすみはすっかりうれしくなっていた。
目を覚ますと背中に人肌独特のぬくもりを感じる。夢から覚めたことを知ってかすみは毛布にくるまりながら、今自分の置かれている環境を観察した。恋人の寝息は単調に紡がれ、すぐ横によこたわっているかすみの華奢な背中をリズミカルに押している。かすみは安心感に包まれたが、夢で感じるようなときめきを、恋人から感じることができないでいた。しかし浮気をしているわけではない。なにも後ろめたく感じることはないのだと、彼女は歯磨きをしながら自分に言い聞かせた。夢の中での逢引を重ねるうちに少しずつ、恋人に対する想いは色あせていった。新鮮さを失った恋人との生活より、今は夢で生きたい気持ちが勝るようになっていたのだ。少年と多くの時間を過ごしたい、そう思い気づくと、毎夜恋人と眠り、夢を見ることだけが楽しみになっていた。恋人に対しイライラするようになり、不毛なケンカも多くなっていった。
こうしてひと月ほどたったころだろうか、夢の少年に異変が起き始めた。少しずつ大きくなっているのである。ぶかぶかだった制服が、今では丈がちょうどよい。声変りでかすれていた声も、少し苦みのあるような大人びた声へと変わりつつある。かすみは少し怖くなっていた。中でも一番かすみがおどろいたのは、少年が自分に話しかけてくる時の距離感だ。内容はいつもと変わらず、進路や昨日見たテレビの話、些細な話ばかりなのであるが、ひと月前は机を二つほどはさんだ距離を保っていたにもかかわらず、昨夜の夢ではあと少し、数センチ手をのばしたら、かすみの肩に触れてしまうほど、彼は目の前にいた。当時でも経験しえなかった距離に、彼女は興奮した。目が覚めた後も、頭の中は夢での彼との距離についてずっと考えていた。今夜、私が昨日と同様、恋人に抱かれて眠ったら、どんな夢を見ることができるのだろう。考えただけで彼女は身震いした。仕事などは全く手につかなかった。リボンをひっぱるだろうか。髪に触れるだろうか。美しい思い出を淫らなものにしてしまいかねないような妄想を彼女は起きているうちから頭の中で展開した。
期待に胸をふくらませ家に帰ると、そこに恋人の姿はなく、机の上には別れの文言が並んだ短い手紙が、少し開いた窓から吹いてくる風に揺られているだけだった。
はかなき胡蝶の夢
私たちはどうして眠っているときに夢を見るのでしょう。それは、実世界で叶わなかった何かなのでしょうか。
なんにせよ、夢というものは儚いものであるなあと、私は目を覚ます度に思います。