ランナー

つき

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―For the Fastest Front-RUNNER, Over Sunday Silence―


◇  ◇  ◆

 歓声が震動に変わる。怒号と悲鳴と奇声とが入り混じり、大きな圧力となって降り注いだ。
「きたぁぁあ!」
 先頭でゴール板を駆け抜けた馬に跨っていた騎手が、小さくガッツポーズを決めるのに合わせて、菜緒子も拳をぎゅっと握る。
「また勝ったのかよ……いくらついた?」
「えーっとね……多分、五百円が五十倍くらいかな」
 翔(かける)が呆れてため息をつきながら、お手上げのポーズを取る。
「なんでそんなに当たるわけ?」
「うーん……天才だから?」
 スタンド前でウイニングランを行う馬と騎手に拍手を送った。場内を揺らす観衆の喝采を浴び、人馬共に誇らしそうである。
「あーあ、また男との出会いが遠のいた」
「馬券当たるのは関係ないじゃん」
「いや、ギャンブルに強い女って――ってか性別問わず、正直言って近寄りがたい」
「別に誰にも迷惑かけてないじゃん」
「アホめ。府中でGⅠある度に、姉ちゃんに付き合わないといけないおれの身にもなれ」
 それはもうほとんど習慣となっていた。二年前のこの日を境に、菜緒子は弟を連れて府中に通っている。
「いい加減、競馬好きでギャンブル癖を許容してくれる人見つけろよ」
「ギャンブル癖なんて言わないでくれる。競馬しかやってないし、黒字だし」
 そう言って睨みつけてやると、翔は「はいはい」と言って菜緒子が手にしていた競馬新聞を奪い取って眺めた。
「今日も、いなかったね」
「……そりゃそうだ。あんな馬、もう二度と出てこねぇよ」
「でも、競馬に絶対はない、でしょ?」
 翔は首の辺りを人差し指で掻きながら菜緒子の表情を窺って、それから特に目を通しもせずに新聞を返した。
「最終レースは?」
「もう買った」
 ため息をついて、でもどこか嬉しそうに口元を緩めてから、翔は「今日は中華が食いてぇ」と言った。

◆  ◇  ◇

「また競馬? 先週も観てなかった?」
「競馬は毎週やってんの」
 ノートパソコンを開いたまま、リビングのソファに寝そべってテレビを眺めていた弟を強引に座らせ、その隣を陣取る。
「よく飽きないね」
 伯父の影響で翔が競馬を観るようになったのは二年ほど前。その光景を目にすることはあっても、レース自体を真剣に見たことなどなかったし、興味もなかったので、菜緒子は競馬のけの字も知らなかった。
「かわいそうだよね」
「何が?」
「馬が」
「なんで?」
「人間の都合で走らされて」
「そうでもないかもよ」
 翔は腕を組んで、テレビに向けた目を少しだけ細めた。
「人の都合で馬を走らせてるってのは、確かに酷いかもしれないけど、でもだからって馬をかわいそうと思うのは、それもまた人間の傲慢なんじゃないの」
「どういうこと?」
「人を乗せて走るのが楽しい馬もいるかもしれない」
「鞭で叩かれてまで?」
「速く走ることを求めて生まれてきたサラブレッドが、より速く走るために、人間は利用されてるだけなのかもしれない。競馬ってのはそもそも、馬の為に人間の知性や技術をフルにつぎ込むための、馬をヒエラルキーの頂点としたシステムなのかもしれない」
 翔はそう言って、遠い目をしてテレビの向こうの壁の、そのまた向こうを見つめた。
「……誰の受け売り?」
「ん、伯父さん」
 ゲートに収まった馬たちが揃ってターフへと駆け出す。色とりどりの勝負服を着た騎手に誘われ、群れが縦に伸びて行った。
「あーあ、あっという間に差が開いちゃった」
「馬には脚質ってのがあって、序盤から飛ばしてくやつとか後から追い込むタイプとか、色々いるの」
 画面から目は離さず、鬱陶しそうにしながらも、翔はぶつぶつと競馬について教えてくれた。
「ほんとだ、差が詰まってきた」
「ここのコーナー回って、もうすぐゴール」
 馬群が固まり、直線に出る。後方から黒毛の馬が一頭、猛然とスパートをかけ、ゴール板の前を先頭で駆け抜けた。
「あーあ。また赤字だ」
 どうやら馬券を外したらしい。人間が走るならともかく、馬が走るのだから、レース結果を当てるなんて、無謀に思えてならない。
「競馬って何が面白いの? 赤字なのに」
「んー、ひと口には言えないけど、まあ基本的にはスポーツ観戦と一緒じゃん。勝った負けたで一喜一憂できて――あとやっぱり、馬ってとこがいいよ。人の思い通りにならないところが」
「ふーん」
 レースの情報か何かを見ていたらしいページを閉じて、翔は動画サイトからレースの映像を引っ張り出した。
「こういうの見ると、わくわくしちゃうんだよね」
 左手で画面を指差し、右手はマウスを操って再生ボタンをクリックした。
「毎日王冠?」
「それはレースの名前。GⅡって言って、GⅠよりはひとつ下のグレードなんだけど、まあ、強い馬ばっかりのレース」
 珍しく饒舌になって、翔が嬉しそうに話すので、少しばかり興味が湧いた。弟をこうも惹き付けるものは一体、何なのだろう。
「あーあ、また差が開いちゃった」
 先ほどテレビで見ていたレースより、先頭の馬が遥かに後続を突き放している。
「これじゃすぐバテちゃうね」
 菜緒子の声が耳に入らないのか、翔はパソコンの画面に見入っていた。先頭の馬がコーナーの真ん中くらいまでやってくる。後ろの馬群はまだ後方だ。
「この馬、なんでこんなに一生懸命なの?」
「は?」
 訝しげに、翔がこちらを向いた。しかし、何も答えないまま首を傾げ、再び視線を画面に戻し、食い入るようにレースを見つめる。
 先頭の馬は最後のコーナーを曲がった。少しだけ差が縮まっているが、後続はまだ追いついてこない。直線、追い縋る二頭に跨る騎手が必死に馬を追い立てても、先頭を走る馬との差は埋まらないまま、レースはあっけなく終わった。
「こいつ、明日の天皇賞に出るんだ。おれ、競馬場に観に行く」
「ふーん。また府中?」
「もち。この前はダービーでボロ負けしたからなー。今度こそ」
「わたしも行く」
「……は?」
 焦点の定まり切らない目で、翔はぽかんとこちらを見た。
「明日でしょ? ちょうど暇だったんだよね」
「え、誰と行くつもり?」
「ん? 翔」
「いや、おれ、友達と約束してるから」
 引きつった顔の前で、翔はぶんぶんと片方の手を横に振った。
「しょうがない。お昼ご飯は奢ってあげるよ」
「いや、いい。無理」
「どういう恰好していけばいいの? 普通に、学校行くような感じで大丈夫?」
 翔の「勘弁してくれよ」は、菜緒子の耳には届かなかった。

◇  ◆  ◇

「なあ、そろそろ返してくんね? 電池やばいし。ってか、自分ので見ろよ」
「だって、わたしのスマホの電池がなくなっちゃうじゃん」
「知らねーよ! 自分が見たいもんは自分ので見ろよ!」
 毎日王冠、宝塚記念、金鯱賞――弟のスマホで前走までのレースを振り返っていると、横で翔が唇を尖らせた。
 今日のメインレース、天皇賞・秋の一番人気は、単勝一・二倍、毎日王冠でGⅠ馬二頭を圧倒的なスピードでねじ伏せた四歳馬、今年に入ってから目下六連勝中の、シュティラフリートである。
 今年に入ってからのシュティラは、どのレースでも常に先頭を走り、そして先頭のまま走り切っていた。何度見ても、彼が最も懸命に走り、そして最も速い。
「あ、もうすぐパドックじゃん。まじで返せ、コラ」
 パドックというのは、要するに品評会みたいなものだと聴いた。レース前の馬がくるくるとそこを歩くだけらしいのだが、まるで朝のラッシュごとく人で溢れる。
 どうせ人波しか拝めないだろうことと、外に出たら二度と同じ場所には戻って来られないだろうことを理由に、パドックは見に行かず、スタンドに留まって、モニターを通して馬たちの様子を眺めることにした。
 混雑は尋常ではなかった。どこもかしこも満員電車の車内さながらである。四コーナーに近い辺り、スタンドの上の方で観戦することになったが、そこから見える地上の観覧スペースは、まるでおしくらまんじゅうだ。
 陽光を浴び、栗毛の馬体を輝かせたシュティラフリートが、モニターに映る。すると、場内の喧騒が大きく波打った。
「こりゃあ間違いないな」
「負かせる馬がいるとは思えん」
 そばにいたおじさんふたりの会話を盗み聞きする。それらしい人たちから見ても、シュティラの勝利は疑いようもない未来であるらしい。
「パドックって、何を見て、何を判断すればいいの?」
「んー、まあ毛ヅヤとかトモの筋肉のハリとか、落ち着いてるかとか、いい感じに気合乗ってるかとか……おれにもよくわかんね」
 しばらくすると騎手の人たちがやってきて、馬に跨った。一頭、また一頭と、馬たちが馬場に向かって行く。
「こっちまで緊張してきたね」
 菜緒子が言うと、翔は小さく「ああ」とだけ答えた。
 馬場入りした馬たちが遠くに見える。二千メートルを走るこのレースは、ちょうど一コーナーの辺りがスタート地点となるらしい。
「内枠絶対有利の一枠一番。まるで用意された舞台みてぇだ」
 観客たちが一斉に湧き出し、手拍子を始めた。
「何?」
「スターターが台に登った。ファンファーレだよ」
 観衆と一緒になって、菜緒子も手拍子を打つ。音楽が鳴り止むと、歓声が一層、大きく轟いた。
 息を呑む。観衆の期待と興奮とが凝縮された刹那――それを切り裂くがごとく、十二頭と十二人がターフへと駆け出した。
「出た!」
 こんなに遠くてもわかる。鼻を切るのはしなやかな栗毛、シュティラフリートだ。
 ターフビジョンにその姿が大きく映し出される。前脚を高く上げ、頭を低くし、懸命に走るその姿は、これまでのレースと変わらない。
「おいおい、もう七、八馬身はついてんじゃねーか!?」
 隣でキャップを被ったおじさんが叫ぶ。第二コーナーを回り、シュティラはぐんぐんと後続を離していった。
 君はなぜ、そんなにも懸命に走るのだろう。その答えを訊きたくて、ここに来た。
 序盤に飛ばしていく馬を逃げ馬と言うらしい。でも菜緒子の目には、彼が逃げているようには映らなかった。
 誰よりも速く。何よりも速く。
 何に向かって走っているの? 何を追って、何を求めて走っているの?
「千の通過、五十七秒四だってよ!」
 どこからかそんな声が聴こえ、歓声が大きく沸く。それでも彼は、懸命に前を見て走り続けた。
 風を切る音が、大地を踏む足音が、人と馬の鼓動が、聴こえてきそうな気がした。別の次元、人智を超えた世界を生きる彼らが、ターフに強烈な爪痕を残しながら駆け抜ける。
 第三コーナーに差しかかった。誰も追いつけない。その影を踏むことも、拝むことさえできない。それでも彼は懸命に、ただひた走る。
「あ……」
 コーナーの真ん中辺り、シュティラの脚が、止まった。
「おいおいおい!」
「えー!」
「まじかよ!」
 よろよろと左足を引き摺りながら、彼は走ることを止めた。歓声が悲鳴に変わり、希望が絶望へと変わる。
 コースの外の方によろよろと避け、その内側を後続の馬群が走り去っていく。
「あかん」
 キャップのおじさんがぽつりと零した。レースは続いている。しかしシュティラと、菜緒子の時間は止まった。
 悲鳴なのか歓声なのか、よくわらかないが、とにかく大きな声が場内を覆っている。各馬が最後の直線、ゴール板に向かって最後のスパートをかけ始める頃、騎手がシュティラの背から降りた。
「あれ、大丈夫なの?」
 翔に訊ねたつもりだったのだが、あまりにか細い声なので聴こえなかったようだ。代わりに、誰の声ともわからなかったはずの、キャップのおじさんが答えてくれた。
「わからん。わからんけど、あの鈍(にぶ)り方は……あかんかもしれん」
 この時、菜緒子は「あかん」の意味を知らなかった。後で翔から事の顛末を聴き、キャップのおじさんの言葉の意味を知った。
 予後不良。回復が極めて困難と判断されたサラブレッドは、安らかに眠る。

◇  ◇  ◆

「きたぁあ!」
 最終レースも当てた。配当は多くないが、それでも当たれば嬉しい。
「あーあ、また男が遠のいた」
 翔はため息をつき、自分の買った馬券をびりびりと破いた。
「それにしても、まさか姉ちゃんが競馬に嵌まるとはなぁ。何がそんなに面白いわけ?」
「んー……」
 顎のあたりに人差し指を立てて考える。浮かぶのは決まって、一頭だけぽつんと馬群から離れた先頭を、誰よりも懸命に走るあの姿。
「もしも馬が、とにかく速く走ることを目的に生まれてきて、それを突き詰めるために生きてるとしたらさ……そのゴールはどこにあると思う?」
「は? ……どゆこと?」
 翔は首を傾げて、菜緒子の顔を覗き込んだ。
「もしわたしたちが何かのために生きてるとして、そのゴールはどこにあると思う?」
「……熱でもあんのか?」
「シュティラは答えを見つけたのかな」
 何もわからない。
 なぜあんなにも懸命に駆けていたのか。異次元のスピードで走りながら何を思っていたのか。人が決めたゴール板までを走ることをどう感じていたのか。骨折の瞬間、スピードの境地を垣間見て満足していたのか、それとも死を悟り絶望していたのか。
 何もわからないのである。その答えに少しでも近付ければと競馬場に足を運んで、たくさんのレースを観てきたが、わかったことと言えば、ひとつだけ。
「あんたも頑張りなさいよ」
 翔は「何をだよ」と呆れ顔で笑ってから、「中華が食いてえ」と出口に足を向けた。

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1998年11月――これから大記録を打ち立てていくはずだった名馬の一生は、人々に深い衝撃と言う名の記憶だけを残し、閉じられた……。 当馬をモデルとして描いた短編小説です。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-02-10

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