ティアーズシー
駅でタクヤに会ったのは偶然だ。彼は昔より少し髪を伸ばして、濃いグレーの背広を着ていた。靴は牛革のだろう。今も悪い生活は、していないらしい。風の噂では、東京に行ったと聞いた。戻ってきたのだろうか。嫌な思い出が頭によみがえる。どうして、あんなことになったのだろう。二人は、愛しあっていたはずだ。そして、年をとった今でも、あの愛は本物だったと信じている。けれど、お互い愛しすぎたのかもしれない。それが、破局につながったのか……。
気付いた夏の朝。会社からの電話だった。タクヤが出社していない。驚いた。彼の携帯に電話をする。弱々しい声のタクヤ。「俺・・・お前を愛しているんだ」すぐに切れた。それきり、会社にも家にも姿を見せなくなった。
混乱の中で、彼を探した。見つからない。周りの説得もあり、仕方なく離婚に踏み切った。どこからともなく現れて、彼は離婚の判を押した。
あれから10年の月日が流れたろうか。もっと長かったかもしれない。正確な日付なんて意味がないことだ。タクヤがいなくなってからの時間。ずっと長い。
タクヤは、ホームのベンチに座って飲み物を飲んでいる。少し近づく。ギュっと携帯電話を握りしめる。こみあげる懐かしさ。まだ、彼を愛しているのか。でも、その愛は少し憎しみも混じった複雑なものかもしれない。少し離れる。あの時、タクヤさえ普通にしていてくれれば。私たちは幸せだったのに。
タクヤが顔を上げ、こちらを見る。その目に光が宿った気がした。すぐに黒い瞳で、どこか遠くを見ているのに気づく。彼の先には、優しそうな壮年の女性。
もう彼はいないんだ
駅を背にして、歩き出す。彼の整髪料の匂いを思い出す。何故か目頭が熱くなる。悲しさではない。喜びでもない。判断できない感情。私は泣いた。
夢の中の世界から覚める時
人は豊かな森を心のうちに持っている
森には動物たちが暮らしいて
巨大な城壁があたりを囲んでいる
城はないのに 城はないのに
人間の生活から日々の光が色あせる
人は涙を流して自分の姿を見つめる
影はないのに 影はないのに
涙から巨大な大海に成長する。その海はティアーズシーと呼ばれる。文字通り涙の海だ。あの人が流した涙も大海に行くだろう。そこでは、全ての涙が合流した巨大な海だ。喜びの川、悲しみの川、怒りの川。全てが海にそそぐ。そこでは波はなく、穏やかな水面が密かにこちらを見ている。
ティアーズシー