クリスマス日和

「これから歌う『know』という曲は、俺にとって特に大事な一曲で、英語の黙字みたいな、声には出さないけれど確かにそこに存在するもの。そういう、歌です」
 彰が特別に取っておいてくれた2階最前列の座席からは、中高生を中心として一躍有名になったカミヤアキの姿がよく見えた。もちろん、右腕にはめられている見慣れたリストバンドも。
 MCが終わり、ふと視線を一階の立見席へと下げると、どこか見覚えのある女性が目に留まったが、誰であるかまでは暗くてよくわからなかった。
「それじゃ、聴いてください」
 会場の中に、柔らかく優しいアコースティックギターの音色と歌声が響き始めていた。

 12月。まだ2週間も先だと言うのに、最寄り駅前もショッピングモールも近所の民家でさえも、クリスマスに向けての様相を見せ始める。イルミネーション、クリスマスツリー。三百幾日、無機質で灰色にあり続けてきた街に鮮やかな赤や緑を加えるものたち。
 それでも、私の心を浮足立たせるほどの効果はなかった。クリスマスと言ったって、どうせ共に過ごす恋人とは先月他愛もないことを原因に別れてしまったし、パーティーを開くほどに深い友人関係も私にはなかったからだ。そこそこの国立大学を卒業して、そこそこに自慢できるほどの企業に就職こそできたが、私の人生はどこか空っぽだと認識させられるのがクリスマスというイベントだった。それはたぶん、これから先も変わらない。
 真っ白な息を吐き、そうやって自己嫌悪の雨に曝されていると、電車が黄色い音を響かせながら入線してきた。プシュウと扉が開くと、中に飲み込んでいた人間を次々と吐き出していく。人身事故による遅延のせいかいつにも増して人が多いように感じる。吐き出された人々の動きは無秩序で、肩と肩、鞄と脚、様々なモノ同士が衝突し摩擦を生むと、人々は露骨に嫌悪の表情を浮かべる。もう何度も見た光景であるし、自分に向けられた嫌悪ではないというのに、その度に気が滅入ってしまう。
 ああ、疲れた。出勤前でも感じる、慢性的な疲労。身体的なものなのか精神的なものなのか、医者にかかったことがないためわからないが、恐らくはその両方だろう。再び電車の扉が閉められると、いよいよ車内は密閉された窮屈な空間になる。そうすると私はいつも扉がすぐ左手に来るような隅を確保し、人からの干渉を受けにくい通勤時間を過ごす。
 きっとまた、今日も失敗をしてあちこちに頭を下げ回るのだろう。もっと器用な人間であれば、誰に迷惑をかけることもなかったのに。
 そんなことを考えながらぼうっと窓の向こうを流れていく街々を眺めていると、不意にコートの右ポケットに入れていたスマートフォンが振動した。また何らかの企業のメールマガジンだとは思いつつも、念のために確認をした。

差出人:上屋彰
件名:久しぶり
本文:最近どう?今週末にでも久しぶりに会えないかな。10年前のあいつから手紙がきたよ

 上屋彰は高校時代の友人だった。だった、とは言っても、何か仲違いをして疎遠になっていたわけではないし、寧ろバンドを組むぐらいに親しい仲だった。それなのに「久しぶり」な状況になってしまったのは、単に私と彼が全く別の進路をとったことが一つと、そしてもう一つ、「あいつ」がこの世を去ったこと。
 「あいつ」――宮本要は、5年前の12月18日に死んだ。成績優秀、スポーツ万能な高校2年生で、おまけにうちのバンドのベース兼ボーカルという冗談みたいな人間だった。それでも、通学中に信号を無視した車に衝突され、あっさりと息を引き取ってしまった。
 私が彼の訃報を聞いたとき、本当の意味で"尊い"命がこの世界から失われてしまった、と思った。周囲の様々な人間から「何かを成し得る人間」として期待を背負い、輝かしい人生を歩むはずだった命が、死にたい、死にたいとぼやきながら日々死んだ魚のような目をして生きながらえている命と。
神様は、殺す人間を間違えた。
 要が事故にあったと彰から電話があった後、私はすぐさま搬送先の病院へと向かった。入り口の自動ドアを潜り抜けると、そのすぐ先のロビーでは、一本の大きな針葉樹が私を見下ろすようにして立っていた。その煌びやかさは緊迫した今この一瞬にはあまりに不釣り合いで、それに困惑する私などお構いなく赤や青の電飾は爛々と輝いていた。
 メリークリスマス。クリスマスツリーに飾られたその言葉が、胸の奥をきゅうっと摘んだ。1週間後に控えた、私たちのバンドも出演するクリスマスライブ。来年は受験だからこれが最後だ、とはりきっていた要。
 ぎゅっと握り拳を作り、私は集中治療室へと向かった。

 私たちは、ロビーのクリスマスツリー前のベンチに言葉もなく隣同士座りあっていた。今さっき友人を失った私たちの胸中を支配していたのは空白だった。その空白は、どこまでも果てしなく続いていて、気を抜くと息をすることさえも忘れてしまいそうだった。
 五分は経っていたのだろうか。不意に、隣の彰が声を震わせながら話を始めた。
「おれ、要が車に轢かれたとき、横にいたんだ。すごい音がして、それと同時に要が俺の肩を強く押してきて、その直後にトラックが突っ込んできてて、」
 彼の震える右手の中で、黒いリストバンドがぎゅっと握り締められていた。
「要が死んだのは、おれのせいだ」
 途切れ途切れに言葉を吐く彰の姿があまりにやりきれなくて、私は何も言葉をかけてあげることができなかった。彰は悪くない、お前のせいじゃないと、そうやって一言否定すれば彼を救えたかもしれないのに、私にはそれができなかった。その言葉が、私にはひどく無責任なもののように思えたからだった。
 あの時、私はどうすればよかったのだろうと今でも時々考える。

Re:
久しぶり、20日了解した
また連絡する

「よー、久しぶり」
「本当、久しぶりだ」
 約束の日、私たちは実家の最寄駅から2駅ほど行ったところの居酒屋にやってきていた。待ち合わせ時間だった19時よりも5分早く到着したはずなのに、彰はそれよりも更に早く着いていたようだった。
「俺もさっき来たとこだよ」
 そうやって朗らかに笑みを浮かべる彰の顔が、やけに懐かしく感じた。

 適当な酒とつまみを注文した後、およそ5年という期間が私たちの間に一瞬沈黙をもたらした。最後に会ったときに黒色だった彰の髪の色は暗い茶色になっていたし、私たちは互いに酒を呑めるようになっていた。5年という時間は、それほどのものなのだ。
「最近、どう?」
「まあ、ぼちぼちだよ」
苦笑いをしながら、あまりにもありふれたフレーズで答える。でも、本当に言葉の通りだから仕方がなかった。
「彰は?」
「俺はね、最近まで東京で暮らしてたんだ。もうそこらじゅうに芸能人とかいてさ、すごかったよ」
 ああ、きっと彼はまだ音楽の夢を追い続けているのだと、東京という単語と、10年前から付けたままの黒いリストバンドからそれとなく察することができた。叶えられたり破れたり、「夢」の象徴としての街、東京。
 大学受験で私が国公立大学を志望していたとき、その一方で彼は芸術大学の音楽学科を目指していた。
「俺にはこれしかないから」
 文系、理系という分類に加えて、志望校のランクによってクラス分けがなされたことで接点が少なくなり、久々に廊下ですれ違い話をしたときの彼の言葉がそれだった。そしてまた、彼がなぜ東京から帰省し、今ここにいるのか。「暮らしていた」という表現から恐らくもう東京へは戻らないこと、彰が「音楽」に類する単語を用いなかったことから、その理由を邪推してしまう。
「やっぱり世界って広いんだなあって。自分なんかよりすごいヤツ、山ほどいた。俺なんてまだまだだなあって思ったよ。今更なんだけどね」
 戯けるように彰は自虐した。本当は心の底から湧いて出た叫びにも似た言葉なのに、あえて冗談めかして口にするのは彰の癖だ。話の節々に、過ぎ去った日々を思い出させられる要素が散りばめられていた。
「私にはできないから、すごいよ」
 本当にそうだった。音楽を、夢を追い続けることは、私には絶対できない。というより、できなかった。だから毎日私は息苦しい満員電車に乗って、会社に向かっては家に帰り、ルーチンワークみたく日々を繰り返しているのだ。
 私の語調が思いの外真剣であったことに動揺したのか、また、予想せず自分が褒められたことへの照れを隠そうとしているのか、彰は「でも」と言葉を続けた。
「充も、うまかったじゃん。バンドやってたとき、俺はこれにもっと時間かかったのになとか、正直ちょっと羨ましかった」
 私の「できない」がそこにかかっていないとは露知らず、私を褒め返してくれる彰の姿は昔と何も変わっていなくて、自然と笑みがこぼれた。
「ありがとう」

 そんなふうに話していると、「こちらお通しになります」と店員が小皿に入った煮物をテーブルに置いた。
 店内の雰囲気は洒落すぎず、かと言って小汚さすぎず、木製の椅子やテーブルが店内に温かみをもたらしていた。週末だからか人は多く賑わっていて、楽しそうに騒いでいる大学生グループや仕事終わりに同僚と一杯交わしている私たちのような客も見受けられた。
 それから2人分の酒がどんとテーブルにやってきて、私たちはグラスとグラスを交わして今日という日を祝った。互いに空白を埋めるかのようにこの5年間を話し、笑い合った。しかし、彰も私も、何かから逃げるように宮本要の話題は口にしないようにしていた。その名前を発した後に訪れうる、一瞬の静寂が恐ろしかったのかもしれない。
 そろそろ少し話題も尽きようとしていたとき、彰が店内の男女の客を見つめながら、私に尋ねた。
「そういえば今はいるの?その、彼女とかさ」
「ああ、いや、最近、別れた」
「そっか、悪い」
 手持ち無沙汰なのか、彼はおしぼりを広げて、また畳み直しながら話を続けた。
「実は俺も最近、出ていかれちゃってさ」
 彰が一瞬間を置いて言う。
「佳ちゃん。覚えてる?」
「え、佳って、あの?」
 本名は確か、朝原佳。それは、彰が5年前に交際していた彼女の名前だった。
「たぶん、その。高2のときから最近まで、ずっと付き合ってた」
「そうだったのか」
 「高校2年生」。その言葉は私たちにとって魔術的な響きを持っていて、気遣いが生んだじれったい緊張がこの時ふっと弛む気配がした。
 今このタイミングでなら、要の名前を出しても大丈夫そうな気がした。アルコールが程よく回り始めていたこともそれを促してくれた。
「そういえばさ、要から手紙が来たって、どういう」
 彰は特に表情や声音を変えることもなく、ああ、と言った。ただの杞憂であったことに、ほっとする。
「中3のときに書かされたの、覚えてない?あの、10年後の自分への手紙ってやつ」
「なんかあったような、なかったような」
「とにかく、要のそれが俺の実家に届いたらしくて、今日来る前に寄ってきたんだ。要のお母さんが中身を確認したら、俺たちの名前があったからこれをよければ読んでほしいって。充の家にも行ったけど、みんな留守だったから俺のとこにきたんだって」
「なるほど。それで、彰は読んだのか、手紙」
「いや、これは充と一緒に読むべきだと思ったから、まだ」
 そうか、と私が相槌をうつと、彰は自分のカバンの中をごそごそと漁り始めた。しかし、あれ?あれ、という言葉とともに表情に焦りが浮かび始め、一通り探し尽くすと、申し訳無さそうな顔をした。
「ごめん、家に忘れたみたいだ。ちょっと取りに帰ってくる」
 そう言って立ち上がろうとした彰を、私は引き止めた。
「で、でも」
「どうしてもって言うんなら、じゃあ、私も一緒に行く」
 申し訳なさそうに、でも嬉しそうに笑みを讃える彰の優しい表情が、とてもいいと思った。

「時間は大丈夫か?」
「ああ、うん、大丈夫。親も今夜は遅くなるって言ってたし、明日はバイトもない」
「実家なんだろう?私のうちも近いし、折角だから歩いて帰ろう」
 勘定を終え居酒屋を出ると、私はそう提案した。彰が快諾してくれたので、私たちは家に向かって歩き始めた。徒歩なら、ここから1時間もすれば着くだろう。23時近くともなると、夜も冷気もすっかりと深まり、肌に当たる風が体の感覚を奪ってゆく。すうっとひとつ深呼吸をすると、薄荷を溶かしたような空気が身体の中を満たす。こんな夜は、北欧のピアノを使った音楽が聴きたくなる。
 歩き始めて30秒か1分、沈黙があった。しかしそれは決して居心地の悪い沈黙ではなく、私たちの距離が完全に昔の通りに戻ったことを表す静けさであった。
 ぼうっと夜の闇に輝く街のネオンを見ていたとき、ぽつりと彰が言葉を紡ぎ始めた。
「佳は、本当に俺には勿体ないぐらい良い彼女だったんだ」
 横を歩く彰の方を一瞥すると、彼は正面のどこか一点を見つめたまま、視線を動かさなかった。その表情を崩すことなく、言葉を続けていく。
「要が死んだときも、一番最初に会いに来てくれたのが佳だったんだ。ずっと、そばにいてくれた。…俺、上京して、音楽やめようと思ったんだ。年はそんなに変わらないのにみんなすごくうまくて、幼い頃に才能があるって褒められたことを真に受けてた自分が馬鹿みたいだなあって」
 彼は一呼吸をおいた。
「それを帰ってきて佳に言ったら、もう今までないぐらいに怒って、一回挫けたからってなんだ、どうあっても私は君の音楽が好きなんだ、って。その言葉を素直に受け止められたらよかったのかな。俺は自分を信じられるのが怖くて、疑ってしまって、でもそれをうまく伝えられなくて、何も知らないくせにって言ってしまった。そしたら佳は急にはっとした顔をして、ごめんね、って言って出て行った。」
 その内容に反して、彰が感情的にならず淡々と語り続ける姿が私には痛々しくて仕方がなかった。今、彼の心中を占めている感情は一体何であろうか。
「全部、俺が悪い」
 すべて言い終えると、彰はすうっと一度深く呼吸をした。吐かれた白い息は彼の紺色のマフラーに絡まり、もう決して離れないように見えた。道の右手には私の背の丈の半分ほどの小さなクリスマスツリーが皮肉のように置いてあり、どうしてこの木はいつも私たちを嘲笑うのだろう、と思った。
 そっか、という私の振り絞って出した相槌は、果ての見えない真っ黒な夜空に呑み込まれていった。「ごめん、こんな話」という彰の言葉を最後に、私たちはただ黙々と歩みを進めた。

 私が最近まで付き合っていた彼女は、とても活力に溢れた人間だった。夢や希望、人との繋がりが人生の軸にあって、それらを持たない人間を蔑んでいた。それが私を窮屈にさせていたのだと今では省みられる。
 彼女に出会ったのは大学時代のバイト先で、彼女は2つ下の後輩だった。なぜか私は彼女の憧れになってしまっていたらしく、ある日告白をされ、特に断る理由もなかったので付き合いを始めた。とても、不誠実だったと思う。
 一般的な男女交際の、人並み程度には恋愛の要素を経験し、楽しんだ。しかし、付き合い始めて1年と少しが過ぎた頃、いわゆる倦怠期がやってきて、私たちはすれ違い始めた。
 決定的になったのは、もう形式的になりつつあったデートで寄った喫茶店での会話だった。その頃ちょうど、とあるアニメ作品の大規模イベントで、その作品の関係者を殺害すると脅迫した男が逮捕されたニュースが世間を騒がせていた。厳密に言えば、話題になっていたのは犯人の男の意見陳述であったのだが。
 隅へと追いやられた現代の社会的弱者からの視点で、今日のこの世界に根を張っている何か病的な存在を、生々しく、克明に記していたことが人々の注目の的になっていた。予想外だったのは、私以外にも多くの人間が彼に同情し、擁護に近い立場をとっていたことだった。
 しかし彼女は違った。「あんなの、ただの言い訳だ。もう、気持ちの面で世界に負けちゃってるんだよ」と一蹴りした。彼女の言葉はいつだって正しく、強すぎた。
 私は気付けば口にしていた。「君には、一生わからないよ」。そのときの彼女の鬼のような形相は、今思い出しても背中が凍る。彼女はたぶん、自分にわからないことはないという誇りに泥を塗られたこと、そして、私があの犯人に同情してしまうほど弱者であったことに、激昂した。
「ずっと思っていたけれど、あなたには夢も、情熱も、何もなくて、つまらない」
 そう言い残すと、彼女はカバンを取って、勢いよく店を出て行った。それっきり、私たちが会うことはなかった。

 「君にはわからない」。彰と私とに偶然にも共通したその言葉。この話をして、彰の心が少しでも安らぐならいくらでもしてやりたかったが、どうにも私たちのこの言葉はお互い全く違った意味と性質を持っているような気がした。だから、私は沈黙を守り続けていた。
 まだ酔いが抜けていないせいか、私はゆらゆらと夢心地で帰路についていた。この辺りには道と高架橋の他には、見渡す限りの畑しかない。電柱以上に高い建物がないため窮屈でなく開放的で、まるで作り物のように広がる夜空がたまらなく美しかった。オリオン座がいつもよりも一際輝いて見える。
 彼女は私に夢がないと言ったけれど、決して子供の時分からそうだったわけではない。昔は、宇宙飛行士になりたかった。宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を読んだ翌日から、闇にぽっかり浮かぶ月に、オリオン座の中でも特別強く光を放つリゲルに、いつか会いに行ってやると本気で考えるようになったのだ。
 だが、そんなあまりにもありがちな夢は、あまりにもありがちに挫折した。いつかも覚えていないある時、ふとお前は月へは行けない、リゲルには近付くこともできないという天からの声が聞こえて、その瞬間から、私は子供ではなくなった。
 それから私の人生は才能探しの旅へと変化した。勉強を頑張ってみて、運動をやってみて、絵を描いてみて、要や彰と、音楽をやってみて。どれもこれも、人並みにこそできるものの、それ以上に行くことができなかった。やがて疲れがやってきて、いつしか探すことさえもやめた。
 高校3年生のとき、私の偏差値はそこそこに高く、定期試験でも毎回1桁には入っているぐらいだった。だから担任教師にも国内でも著名な大学を勧められ、何とかそこに進学することができた。しかし難関大学合格という経験から得られたちっぽけな自信は、そこで出会った数多くの優秀な人間たちの存在によって、また失われることとなった。
 要、彼が生きていたら、どんな夢を追いかけ、実現していたのだろう。

 不意に彰が足を止め、上を見上げていることに気付いた。まるで魂を抜かれでもしたように満天の星空を仰いでいた。つられて仰向きながら綺麗だな、と言うと、うん、と相槌を打った。
「こんな夜なら、要にも会えるかもなあ」
 その言葉は、本当に無意識に発せられたようであった。呟いた直後、彰自身がはっとしたことがそれを裏付けた。私は何だか聞いてはいけない言葉と、彰の心の内を見てしまったような気がして、何も聞こえていないふりをした。

 あぜ道を抜けると家屋も徐々に景色に加わってきて、過剰とも言えるほどのイルミネーションで装飾した家もあった。ここはこの辺りでも有名で、私も家族の間で「ミニルミナリエ」と呼んでいた家だった。「ミニルミナリエ」があるということは、この近くには私たちが通っていた中学校がある。それはつまり、あと15分も歩けば私の家があることを意味するが、ふと童心に返って寄り道をしたいと思った。
「学校、寄ってかないか」
 彰はそんな突然の私の提案に一瞬驚いたが、すぐに意味を理解したようで、いいね、と笑った。複雑に立ち並ぶ家々によってちょっとした迷路のようになっている道を、中学生の頃の記憶を頼りに私たちは進んでいった。

「今日は皆さんの新しいお友達を紹介します!」「じゃあ、入っていいよー」
「は、はじめまして。今日からこの学校でお世話になります、上屋彰です。よろしくお願いします」
 私と要が彰を初めて目にしたのはそのときだった。この中学校の生徒は大半が東西の2つの小学校からメンバーがそのまま引き継がれるため、転校生という新鮮な存在は、一躍話題の人となる。
 身長は中学2年生の男子にしてはやや低め、顔は童顔で整っている、性格はおとなしめ。どちらかと言われれば女子から「かわいい」とちやほやされるタイプの男子であるというのが第一印象であった。
 最初は学校にも馴染み、楽しい学校生活を過ごしているようだったのだが、彼が転校してきてから二ヶ月が経った辺りで、異変が起こり始めた。休み時間中、いつも彼の周りに誰かしら人がいたのが、極端にいなくなったのだ。
 当時から仲の良かった要と私は、一体どうしたのだろう、と挨拶以外まともに話したこともない転校生のことを気にかけ始めた。要は己の優秀な情報網を利用して、あっという間に現況とその経緯を把握すると、私にも情報を共有してくれた。
「少し前、大貴たちが上屋の家に遊びに行ったらしい。上屋の家は父親も兄さんも音楽をやってるらしくて、すげー楽器があるらしいんだけど、その中でも特別大事なのを、大貴らが素手で触った。それに思わず強く怒ってしまった上屋はあいつらの反感を買って、今ってわけ」
「なんていうか、理不尽だ」
 大貴とはいわゆるスクールカーストの上位を占めている男子グループのリーダーで、彼の気に食わないことをすればあっという間に居場所がなくなってしまう。「気に食わないこと」の善悪はそこでは問われず、重要なのは大貴たちがどう感じたか、というただそれだけだ。
 私たちはどうするべきか、どうにかして上屋彰を救うべきか、この事態を見てみぬふりすべきかを話し合った。正直に言えば、前者の選択をすることで、排斥の矛先が自分たちに向かう可能性を私は怖れていた。でも、この状況を放置することはきっと要は許さない。その日は、ひとまず様子を見るということで解散した。
 事件は、数日後の昼休みに起こった。いつもは無抵抗だった彰が突然大きな声をあげ、大貴に掴みかかろうとしたのだ。どうやら大貴が彰が何よりも大切にしていたリストバンドを奪ったことが原因らしく、教室中がいつもとは違う雰囲気にざわめき始めていた。今は大貴の取り巻きたちが何とか呻る犬のような彰を抑えているが、次の瞬間にはどうなるかわからないという、そんな時だった。
「あいつ、あんなに怒れたのか」
 出し抜けに、要がそう呟くのが聞こえた。えっ?と後ろを振り返ろうとした次の瞬間には、要はもう走りだしていた。
「充」
 横を通りすぎていくとき、要が私の名前を呼んだ気がした。

 白昼の喧嘩の勝者は要だった。といっても反撃を受けていくつか顔に擦り傷ができていたり、殴られたことで頬が赤く腫れていたりはした。が、これまで絶対的強者でいたにもかかわらず、クラスメイトの多くが見ている中でボコスカと殴られた大貴の自尊心のことを考えると、やはり勝者は要だったと言わざるをえない。 
 要が大貴に殴り込みにいった後、私も咄嗟に要の後を追いかけていた。「大貴と要が、二人だけの状況を作らないといけない」。要に名前を呼ばれたことでそれがまるで使命であるかのように察せられ、私は大貴の取り巻きたちの内の一人を抱き着くような形で抑えた。すると驚いたことに、かつていじめを受けていたらしい者からそうでない者まで、他のクラスメイトも私と同じ行動をとり始めたのだ。 
 離せ、と背中に拳を入れられると、相手の服を掴む力に一層力が入った。大貴を中心としたグループによって敷かれた、絶対的支配体制が今まさに崩れようとしていた。
 やがて事態の収拾を望む委員長に呼び出された先生によって、「反乱」は鎮められた。喧嘩の中心となった要と大貴、彰とそれを間近で見ていた私含める数人が会議室へと連れていかれた。
 会議室では彰の口からこれまでの被害が次々と明らかにされていった。靴を隠されたこと、弁当の中身がなくなっていたこと、兄に貰って大事にしていたリストバンドを奪われたこと。他にも彼らによるいじめの証人がいたため、先生たちも彰を疑うことなく大貴に問い詰めていった。しかし当然のことながら、当事者でないにも関わらず喧嘩をしかけた要もこっぴどく叱られていた。それでも普段の成績優秀さと愛想の良さが、先生の語調を和らげていたような気がするが。
 会議室を出て、要とともに教室へ帰ろうとすると、後ろから「ありがとう」と声をかけられた。振り返ると上屋彰が今にも泣き出しそうな顔でそこに立っていた。
「おう」
 要は、いつも気持よく相槌を打つ。
「本当に大事なんだね、それ」
 白くやせ細った腕に嵌められたリストバンドを指差して、要が言った。
「うん。兄ちゃんが、くれたから」
 「なるほどな」、そう言って立ち去るかと思いきや、要は何かを思い出して、また振り返った。
「カッコよかったよ、上屋」

 それから私たち3人は急速に親交が深くなり、同じ高校に進学すると一緒にバンドを組んだ。彰がボーカル兼ギター、要がベース、私がドラムを担当する、スリーピースバンドだった。
 そして、練習の休憩時間中も懸命に一人練習する彰を横目に、一度ずっと気になっていたあの日の疑問を要に問うたことがある。
「今更だけど、なんであのとき要は出て行ったの?いつもの要なら、男なら自分で戦えって言いそうなものなのに」
「ああ」
 要は少しの間彰を見つめた後、私に目を合わせた。
「あいつらはあのリストバンドを奪えば、彰が自分たちに手を出すほど怒るだろうってことをわかってた。もしあのとき少しでも彰が手を出していたら、大貴の奴はきっと今回の件を誇張して周りに吹聴して回ってた。そうしたら、彰は前よりも酷い仕打ちを受けていたかもしれない」
 一拍置いて要は言った。
「あそこは、彰が悪者にならなくていい」
 なるほど、と私は相槌を打った。
「…でもな、あれは結局彰のためじゃなくて、俺のためにやったんだと思う」
 要の口から、まさかこんな言葉が出てくるとは考えもしなかった。思わず要の方を瞥見すると、彼はそれが辛うじて見つけた視線の行き場であるかのように、床に敷き詰められた灰色のマットをじっと見つめていた。
「あれから俺はヒーローだとか優しい人だとか、いろいろ言われたけど、それは全く違う」
 床に座り、壁に背を預けながら、私は練習を続ける彰のことを見ていた。彼はその視線に気付くこともなく、同じ譜面を何度も繰り返しており、その音だけが室内に響き渡っていた。
「でも、彰は要のおかげで救われた。それだけじゃ、納得できない?」
 気付くとそう口にしていた。理屈からは遠くかけ離れた言葉だった。
「それも、そうか」
 ギターの音色に掻き消されそうなほどか弱い声であったが、確かに私の耳には届いた。

「じゃあ、ちょっと待ってて」
「うん」
 中学校へ寄った後、私は家から10分ほどの公園で手紙を取りに帰った彰を待っていた。うちへ来て待っていてもいいと言われたのだが、時計の針ももう12時半をさしており、あまり遅くなってもいけないので断った。
 小学生の頃、学校が終わると私たちはいつもこの公園に集まっていた。もちろん、要も含めて。遊具こそブランコと滑り台、鉄棒ぐらいしかないが、広場が地域の公園の中でも特に広く、場所も学校の近くであったことからここが子どもたちの溜まり場となっていた。どういう経緯からか使ったままのサッカーボールが垣根のそばに転がっている辺り、きっとその伝統は引き継がれたままのはずだ。
 懐かしい過去に想いを馳せながら夜空を眺めていると、ふと一つ気にかかることがあった。さっき、もぬけの殻になった彰が呟いた、「要に会えるかもしれない」という言葉のことだった。私はあの瞬間、単純に今夜は夢のなかで要に会えるしれないというような意味であると推測して、彰の言葉を咄嗟に頭の奥に押し込んでしまったのだが、果たしてその真意はなんであったのだろう。彰はあのとき、夜空に何を見ていた?
 徐々に雲がこの町の上空にやって来ようとしていた。重く、灰色の雲で、これから雨か雪でも降るみたいだった。

 俺は充に公園で待ってもらっている間に、急いで実家へと戻った。たぶん要の手紙は自分の部屋の机の上にあるだろう。
 今日は、星が綺麗だった。毎年クリスマスが近くなれば、佳と何も言わずにずっと夜空を眺めていたことを思い出す。星座なんて大三角とオリオン座ぐらいしか知らなかったけれど、それでも、あの時間は自分の人生において本当に幸せな時間だった。
 俺はもう、音楽をやめる気でいた。東京から帰ってきて一度も楽器は触っていないし、きっとこれからも触ることはない。適当にバイトで稼いだお金で細々と暮らして、近い内にそうして一人で誰にも見つからず消えるように死んでしまおうと考えていた。
 夢なんて追いかけるべきじゃなかった。それは、能力もない人間が深追いするとただ不幸を呼ぶだけの呪いだった。そういえば、俺は何のために音楽をやっていたんだろう。自分のため?友人のため?家族のため?恋人のため?尤も、そのどれかであったところで、今更音楽を続けようだなんて思えなかった。ギターを持つと、手が震える。自分の出す劣等感に塗れた下品な音を聞いていると、自分という人間の空っぽさがそのまま音符に変換されたようで気持ちが悪かった。
 東京で会ったプロのように上手い演奏者たちは、みな揃って、音楽が、楽器が、好きで仕方がないようだった。だから、俺は彼らに二度と勝つことができないと思った。俺にとって音楽とは、魂を擦り減らすように辛く苦しいものだった。
 公園からおよそ3分走って実家の前に辿り着くと、母も父もまだ帰ってきていないようで、どこの部屋にも電気がついていなかった。合鍵を使って玄関の扉を開けると、張り詰めた静寂と透明な冷気が俺を迎えた。すうっと息を大きく吸うと、冷たい孤独の味がする。ライブと打ち上げが終わり、帰宅が2時を過ぎても電気を付けて待っていて、「おかえり」と言ってくれた佳は、もういないのだと知った。
 階段を上がり、自室のドアを開けると、とても懐かしい匂いがした。中学生の頃引っ越してきたときの新築の匂いはもうすっかりなくなって、我が家の匂いというものが形成されている。でも、懐かしい匂いのはずなのに、今の俺にはなぜか胸が痛んで仕方がなかった。
 電気のスイッチを押して学習机の上を見ると、確かに要の手紙が置いてあった。長方形の茶封筒に入っており、表には男らしくも丁寧な、筆者の人物像がそのままに出た文字で「10年後の自分へ」とある。早く、待っている充に届けてあげなければ。
 ふと視線を手紙から上げると、机に備えられた小棚に手のひらほどのスノードームが置いてあった。その中には笑顔の雪だるまと煙突付きの煉瓦作りの家、そしてクリスマスツリーが閉じ込められており、ひっくり返すと、佳と同棲を始めてからずっと止まり続けていたドームの中の時が動き始めたことが、降り散らばる雪によって示された。これは、いつかのクリスマスに佳と雑貨屋でペアで購入したものだった。
 スノードームを持つ右腕には、要に取り返してもらったリストバンドがはめてあった。元々は兄に貰って大切にしていたものが、あの日を境に別の意味を伴って、もっと大切なものになった。このバンドは、要と、充と、俺と、3人の繋がりそのものだった。
 心の中にぽっかりとあいた穴を、自分の胸中の無の存在を、改めて認識させられたようだった。人に本当の絶望が訪れるのはきっと、心に穴が開いたその瞬間ではなくて、その穴を認識してしまったときなのだ。
 虚しかった。誰かに縋りたかった。そうして、嘆き叫びたかった。俺にもっと才能があればよかったかな。何も持たずに生まれてくるぐらいなら、要も佳も、何もかもすべてを失って生きていかなければならないのなら、生まれてこなければよかった。あのとき、要の代わりに、俺が死ぬべきだったんだ。
 要、折角このリストバンド取り返してくれたのに、ごめん。佳、ずっと支えてくれたのに、応えられなくて、ごめん。
 俺は、要の手紙を持って、最期の仕事を遂げるために充の待つ公園に向かった。手紙の中身は、読まないままにいこう。きっと、今胸に抱いている決意が揺れてしまうから。

 彰は、公園を発って10分ほどして帰ってきた。まだ酔いが抜けきっていないのに全速力で駆けてきたためか息が絶え絶えで、顔色もあまりよくないように見えた。
「ごめん!親が折角なんだから早く帰ってこいって言うから、先に手紙読んじゃったんだ。だから、俺もう帰るよ、ごめんな」
 彰は顔の前で手を合わせながらそう謝った。確かに、暫くの間帰省していなかったようであったし、彼の両親が言うことは尤もだと思った。
「いや、いいよ、こんな時間まで。あとこれ、ありがとな」
 へへ、と彰は笑うと、じゃ、と手を上げた。私もおう、と言って、手を上げる。
「また今度、会おうぜ」

 突然一人になった私はこれからどうしようか、とひとまず公園のベンチに座った。まだ何となく家に帰る気分ではないし、かと言って一人でどこかへ行く気にもなれない。寒いけれど、ここで彰から受け取った手紙を読んでしまおうか。
 そう思って封筒を開けようとしたとき、「10年後の自分へ」と要の字で書かれた右下に、ふと注意が惹きつけられた。電灯の明かりに照らされて、その部分だけが水一滴分だけ濡れて、皺になっている。雨が降った気配はないし、そもそも雨ならば他の箇所も濡れていてよさそうなものだ。それに、まだ水気があるということは、ついさっき濡れたに違いない。
 何か、嫌な予感がした。理屈では説明のできない、所謂虫の知らせのようなもの。彰の「要に会えるかもしれない」という言葉と、ほんの少しだけ濡れた手紙。一度疑ってしまうと、関係のなさそうな要素までもが自分の勘の根拠になっている気がした。
 本当に、ただの思い違いであればいい。今考えていることがすべて私の早とちりであればいい。でも、ただ一つだけ、確かなことがあった。彰は、要に助けられたあの日から、涙を隠すようになった。
 彰がこの公園から去って何分が経った?ここから彰の家まで何分かかる?考えれば考えるほど、不安が心の奥から湧き出てくる。
 気付けば私は走りだしていた。彰の家には高校以来行っていないが、きっとあそこへの道は身体に染み付いている。全力を出しているはずなのに、自分の走る速度が遅くてじれったい。呼吸が乱れ、口から白い息が次々と吐かれていく。雪がほろほろと降り始めていた。
 要。あいつがもし今絶望の底にいるのなら、もう一度、救ってやってくれないか。私は彰の笑顔や才能が、時々嫉妬してしまうほど好きなんだ。

 充に手紙を渡した後、俺はまた家へと向かって走っていった。本当に不思議なことに、心の中に奇妙な清々しさがあった。ぽっかりあいた穴から爽やかな風が吹いているような、そんな気分になっていた。
 家に着くと、引っ越しのときに使った荷造り用の紐を手に、自室へ入った。携帯で結び方を調べながら、紐の片側を使って円を作ると、ドラマや映画で見たあの形になった。椅子の上に立ち、円を作ったほうがぶら下がるように部屋の梁に紐を括りつける。
 やっと、これで終わるんだ。部屋の壁に貼ってある、昔好きだったアーティストのポスターを見つめる。あなたたちは才能がないと歌っていたけれど、その歌が俺の耳に届いたこと自体が、それを否定していると思うよ。
 紐の円を顔の前に持ってきたときに、ふと右腕のリストバンドに気付く。これを付けていくのは、何だか気が進まないな。そう思って、一度椅子を降りて机の上に置きに行った。そのついでに、電気も切った。
 さて、今度こそお終いだ。もう何を失うこともない、音楽を聴きも弾かなくてもいい、人を羨み嫉妬することもない、そんな世界が待っている。そこには、要だっている。
 紐を首にかけた。みんな、ごめん。でもきっと次生まれてくるときは、もっと――
 椅子を蹴ると、身体が宙に浮くのを感じた。

 彰の家に辿り着いた。部屋の電気は1階も2階も消えていて、さっきからずっと湧き続けている不安が量を増す。無理を承知で玄関のノブを引いてみると、予想とは裏腹にキィ、と扉が開いた。
「彰?」
 家の中に、震える私の声が響いた。返事はおろか、物音一つさえせず、やはり私の想像はただの杞憂で、彰は何らかの理由で家には帰っていないのではないかと思った。それは、ほぼ祈りに近い推測であったが。
 もし、この暗闇の中に彰がいるのなら、彼はどこの部屋にいるのか。やはり自室だろうか。私は心を落ち着かせながら、携帯のライトで前方を照らし、慎重に階段を登っていった。階段の先には扉があって、そこが彰の部屋だったはずだ。
 中学生の頃、何度も来た彰の部屋に、こんな形でまた訪れることになるとは思いもしなかった。要と一緒によく来たものだった。
 ドアを開けると、酔って歩き疲れた彰の寝息がすうすうと聞こえるか、或いはこの家には誰もいなくて、私がただ人の家に無断で上がり込んだならず者になるだけなら、私はそれだけで心の底から安心することができる。
 携帯のライトでドアノブを照らし、右手がそれをグルリと回す。いつのまにか手のひらが汗でびっしょりと濡れていたことに気付く。
 扉を開くと、漆黒の闇の中にひとつ、カーテンから漏れる月明かりに照らされるものがあった。それは宙にぶら下がっていて、人の形をしていた。恐る恐る手の震えを抑えながら上部をライトで照らしてみると、それは、上屋彰の顔をしていた。

 救急車に乗るのは人生で初めてのことだった。祖父が倒れたときは母が同伴してくれたし、私自身が運ばれるほど大きな怪我や病気をしたことはこれまでになかった。
 彰を発見してから即座に119に電話をかけ、救急車が来る間、私はこの時間が永遠に続くのではないかと思った。3分は経ったような気がするのに、実際は30秒しか経過していない、地獄のような時間。大学時代に研修で習った心臓マッサージを、見よう見真似で素人が必死にやっている姿はきっと滑稽でしかなかったと思う。それでも、何かしていなければ私は頭がどうにかなりそうだった。
 私はあの時、気付けば要に救いを請うていた。あいつなら、きっとまた彰を救ってくれる。頭が良い要なら、きっと今何をするべきか的確に判断して、良い結果に導いてくれる。いつのまにか私にとって、窮地に立たされたとき助けを求める先は神様ではなく要になっていた。たぶん人間が死ぬと、その時点で彼らは神様になるのだ。誰に理解されることも、そもそも理解される必要さえない、自分だけの神様に。
 正確な時間は覚えていないが、恐らく2分ほどで救急車は到着した。住所を冷静にしっかりと伝えられた自覚はなかったが、赤いサイレンが、真っ暗な家の中を赤く染めたことで少しだけほっとする。しかし息つく間もなくその赤色が私の意識をはっとさせて、救急隊員が動けるようにと部屋と階段の電気を付けた。その後彰の身体は救急車の中に運ばれ、それに続いて私も車内に乗り込んだ。

 病院へ着くと、彰は集中治療室へと搬送されていった。隊員の背中越しに一瞬見えた肌からは透き通るような白色が失われ、黒く紫色になりつつあった。私は集中治療室の前で待機するように看護師に制止され、募り続ける不安をぐっと堪えてビニール製のシートに覆われたベンチに座った。
 こうして友人が生死を彷徨う中を何も出来ずに待ち、ただ己の無力さを感じさせられるのは、要のときと今回とで2回目だった。あのときから5年も経って、大学だって卒業したのに、結局私は何もできないままの、ヒーローに憧れる凡人だった。
 私は今になって、彰を助けようとしたその自分の行為が正しかったのかわからなくなった。彰にはきっと、自分を殺めてしまうぐらいの、それだけ深い絶望があった。それから逃げようとしていたのに、私はまた引き戻そうとしている。
 この世界では辛いことや悲しいことばかりが起こる。テレビを付ければ今日も中東で誰かが誰かを殺していて、外に出れば、電車が人身事故によって遅延していて、遅延という現象だけを見た人々は悪気なく舌打ちをする。こんな世の中に絶望して、生きることをやめようとする人間がいたとしても、私はたぶん彼らを非難できない。彼らは、明日の私であるかもしれないから。
 それでも一つだけわがままが許されるなら、私の好きな人たちだけは、生きて、この世界に少しながらも存在する幸福を享受してほしかった。彼らには、幸せになる権利も可能性も、才能もある。そのためなら、私の些末な命なんていくらでも差し出せる。己の犠牲を蠍の火に喩えた、あの男の子のように。
 なあ、彰。早く、戻ってこいよ。お前は、ここで死んじゃいけないんだよ。お前には人を幸せにできる才能があって、だから、生きなきゃいけないんだ。おまえは、私とは違うんだ。
 私はこんな状況におかれて、はじめて気付いてしまった。高校を卒業してから彰と会わなかったことは、何も要のことが原因じゃない。それは単なる契機にすぎなくて、本当は、夢を追って先をゆく彼の姿を見て、自分と比較することが怖かった。彼の、夢を追いかけ続ける才能が羨ましかった。私はいつだって、彰を、要を、後ろから見ているだけだったから。

 いつのまにか私は眠ってしまっていたようで、 誰かの話し声で目が覚めた。時計は1時30分をさしており、5分ほど眠っていたようだった。うとうとと夢心地だった意識は、リノリウムの白い床と、病院に特有の匂いと、大きく白色で書かれたICUの文字によって現実に引き戻される。
 声の主は彰の両親だったようで、私の視線に気付くと、青白くなった顔で会釈をしてくれた。
「…お久しぶりです、昔彰くんによくお世話になった大西充です」
「やっぱり、やっぱり充君だったか。今日は息子が、息子を、助けてくれて、本当にありがとう」
 彰のお父さんが言った。少し顔に皺が増えたぐらいで、様子は昔見たときとほとんど変わっていなかった。
「いえ、私がもっと早く彼の様子の変化に気付いていれば、こんな事態は避けられていました…」
 心の中の思いは確かであるのに、言葉にするとどこか嘘臭く、形式的になってしまうのが嫌だった。本当に、私のせいだ。こんなとき、どんな謝罪の言葉を選べばいいのだろう。
「いや、君がいたから彰は今こうやって踏み留まれているんだ」
 彰のお父さんが、自分の沈痛を抑えて感謝の言葉をかけてくれるのが本当に有り難かった。彼のお母さんは未だ状況を受け止めきれていないようで、夫の横で目を赤く腫らし、嗚咽していた。
「今日はこんな遅くまで本当にありがとう。充君も明日の事があるだろうから、ここからは私たちに任せてくれ」
「…そんなわけには、いきません。せめて彰くんの状態が少しでも快方に向かうまで、ここにいさせて頂きませんか…」
 そう言うと、お父さんは私の目を見つめた後、こくりと重く頷いた。きっと、第三者の私がここに居座ることは迷惑でしかないことも承知していたが、それでも、ここにいたかった。

 状況が少し動いたのはそれから数時間後のことだった。医者が集中治療室の自動ドアをくぐって、私たちに会釈をした。
「何とか、一命は取り留めました」
 その言葉を聞いた瞬間、彰のお母さんが、蓄積されていた不安が瓦解したかのように声を上げて涙を流し始めた。声を詰まらせながらありがとうございます、ありがとうございますと繰り返すその姿は、事態が少しながらも好転した何よりの証拠だった。医者は私の方を向き直って言った。
「君が彼を発見したとき、まだ2分程度しか経過していなかったみたいだ。それが、とてもよかった。まだ完全とは言えないけれど、今のところはひとまず」
 そう言って去ろうとする医者の背中に私は叫んでいた。
「ありがとうございます…!」
 今にも子どものように泣き出しそうな私の顔を見ると、医者はにっこりと笑って、踵を返した。

 彰が目を覚ましたと、彰のお父さんから連絡があったのはそれから4日後、クリスマスの昼のことだった。
 悩んだ末にその事情を上司に話すと「早く行ってやりなさい」と突然の早退を快く認めてくれ、毎日通い詰めたことでもう馴染み深くなったルートを経て、私は彰のいる病院へと向かった。
 この病院のロビーには大きなクリスマスツリーが置いてあって、今日はクリスマス当日だからか普段にも増して華やかに見える。そしてそれは、毎回私に5年前のことを思い出させた。この木は、いつも私の人生を滑稽だと馬鹿にするように目の前に現れる。
 しかし、それでも一つだけわかったことがあった。何故こんなに別れの多い場所に、それとは不釣り合いに煌めくクリスマスツリーを置くのか。たぶん、悲しい場所にこそクリスマスのようなイベントが必要なんだ。何度も生死が出入りして、心の安寧が訪れない場所に与えられる、たった数日の休息。そしてこの木が、その象徴。
 彰のいる5階へとエレベーターで登ると、廊下の窓からは冬の白い陽射しが燦々と差し込んでいた。4日前から降り続いていた雪もとうとう止んだようで、凍えた世界が温度を取り戻そうとしていた。
「こんにちは」
 個室の扉を開けてそう言うと、ベッドの横の椅子に腰掛けていた彰のお母さんが礼をしてくれた。
「わざわざ、ありがとうね」
「いえいえ。それより、彰は…」
「まだ、起き上がるのはしんどいみたいだけど、話すことぐらいなら…」
 ベッドの角度を調整し、息子に「また、あとでね」と声をかけると、彼女は個室を後にしていった。

「もう、大丈夫なのか」
「充…」
 彰はぽつりと、雨露が葉から零れ落ちるように、私の名前を呼んだ。
「ごめん」
「ううん、いいんだ」
 言葉にすると、改めて胸の奥がぎゅっと熱くなるのを感じた。
「戻ってきてくれたから、いい」
 病室のカーテンは右半分だけが開けられており、そこから暖かな光が漏れて、椅子やベッドが影を落としていた。これだけ光が強いと、降り積もった雪もやがて溶けてしまうだろう。

「要に、会えたんだ」
 彰を振り返ると、彼は頭を枕に就けたまま、目を細めて窓の向こうの光をじっと見つめていた。
「要に?」
「…うん。そこは見渡す限り草原で、向こうの方が丘になっていて大きな木が一本生えているんだ。その木漏れ日の中には要がいて、俺は嬉しくてそこに駆け寄った。要は高2のときのまんまで、久しぶりって言ったら、いきなり頬を殴られた」
 そう言って彰が笑う顔を、久々に見たような気がした。
「『彰!お前にはまだ早い』って叱られて、でも、久しぶりって笑ってくれた。そこには何もかもがあるような気がした。要がいて、暖かくて、そよ風が吹いていて、小鳥だって囀ってた。ずっとここにいてもいいと思えた」
 彼はとても柔らかい声で話を続けた。
「それから俺は、ずっと言いたかったことを伝えたんだ。あのとき俺がいなければ要は無事だったのに、ごめん、って。そしたら、要は言ったんだ。『そう思うんなら、しっかり生きな』って」
 私は微笑みながら言った。
「要らしいな」
「うん、要らしい」
 彰は、要に喝を入れられたことへの照れを隠すように苦笑いをした。
「いつのまにか辺りは夕方になっていて、どこからか鐘の音が鳴り始めた。急に帰らないといけない気がしてそわそわしていたら、要が『これ』って、あのリストバンドを渡してくれた。どこから持ってきたのか聞く間もなく要はじゃあなって言って、消えてしまって、それで、目が覚めたらここにいた」
「…そっか。会えて、よかったな」
「うん」
 彰は未だに外の光を眺めていた。ゆっくりとした時間が流れ、ここが病室だなんて信じられないほど穏やかな世界だった。彼が見た夢の世界も、こんなふうだったのだろうか。
「なあ、手紙、読んでないんだろう」
 私が突然にそう切り出すと、彰は少し気まずそうな顔をした。
「この手紙は私と彰、一緒に読むべきものだ。だから、読もう」
 彰がこくりと頷いたのを見て、私はカバンから例の封筒を取り出した。丁寧に折り畳まれた手紙は原稿用紙2枚から構成されていて、懐かしい友人の字が1マス1マスにしっかりと残されていた。

「10年後の宮本要へ
 こんにちは、お元気ですか。この手紙を書いている15歳の宮本要は元気にやっています。自分に宛てているのに不思議な気もするけれど、こういう手紙はそういうものだと割り切って敬語で書きます。
 10年という年月はあらゆるものを変化させるのにはきっと十分な期間です。あなたの周りでは何が変わっていて、何が変わっていないのでしょうか。お母さんやお父さんは元気なまま、仲良くやっていますか。
 突然ですが、今の俺には変わっていてほしくないものが一つだけあります。それは俺の友人たちのことです。 充と彰とは、今も3人で仲良くやっていますか。もしその通りなら、俺は他に何も望みません。
 彼もあなたももう忘れてしまっているかもしれないけれど、小3の頃転校してきて一人だった俺に最初に話しかけてくれたのは充でした。充はいつでも冷静で、頭が良くて、優しくて、大袈裟かもしれないけど、あいつがいなかったら本気で俺は今頃犯罪者だったかもしれません。どんなときも俺たちを見守ってくれていて、本人は知る由もないけど、いつしか俺の帰る場所になっていました。
 彰は、一年前に出会ったときよりも随分と学校にも馴染み、笑顔が増えました。あいつの笑顔を見ていると、こっちまで嬉しくなります。本当は泣き虫なのに、いつも頑張って隠している姿を、俺は知っています。そして、彰は本当に歌やギターが上手いです。彼はもうミュージシャンになる夢を叶えていますか?もし今だめでも、明日はどうかわからないことを、教えてあげてほしいです。
 自分のことを全然書いていないけれど、きっと大切なことは俺が書くまでもないと思います。では、どうかお元気で。 宮本要」

 私は、要の死をもうとっくに受け止めて、自分の過去の一つとして消化したつもりでいた。でも、受け止められたわけがなかった。ずっと、その振りをしていただけだった。一瞬頭を掠めるだけでも胸が張り裂けそうになるあの日の記憶が恐ろしくて、私はそれから目を逸らし逃げ続けてきた。私の中の時間は、あの日からずっと止まったままだった。
 要が手紙の中で書いた私という人間は、間違っている。私は冷静なんかじゃなくて、ただいつだって臆病で、怖いだけなんだ。いじめっ子を殴り込みに行く要の背中を私は見ているだけで、本当は彼らの仲間を抑えている間も手が震えて、足が震えて、仕方なかったんだ。
 私には何も才能がなければ、うまく生きていくだけの器用さもない。だから、要が、彰が、みんなが妬ましくて仕方がないときもきっと訪れる。でも、彼らの行く先を見守り続ける、そんな役割を担えさせてもらえるなら、それだって一つの生き方なのかもしれない。
 今からでもまだ間に合うだろうか。また、私の中の時間を動かし始められるだろうか。例え、取るに足らないこんな人生であったとしても、それでも、生きていけるだろうか。

「彰。ちょっと、待ってて」
 濡れた目を拭い、鼻水を情けなく啜り、私は病室を出た。談話室に向かい、そこにある自動販売機でペットボトルのオレンジジュースを一本買って彰の元へ戻った。その途中の窓から、雪の残滓と水溜りに反射して、星のように輝く光が見えた。
「今日は、クリスマスだ。乾杯、しよう」
 彰は濡れた目で笑って、大きく頷いた。
「それ、いい」

 テーブルの上に紙コップを3つ並べて、順番にオレンジジュースを注いだ。何も成長しちゃいない。少年少女と寸分違わぬ苦悩と挫折を繰り返しては、その度無様に足掻いて生きる。そんな私たちにはまだ、甘いジュースで十分だ。でも、それもいいじゃないか。
 去っていった者たちと、失った者たちと、そして、今を生きる者たちに。
「メリークリスマス!」
 杯を上げると、中のジュースが勢い良く揺れた。もうサンタさんなんてやって来ないし、共に過ごす恋人だって失った。欠落だらけの人生に絶望もしたけれど、それでも今日は、確かにクリスマス日和だった。

「それじゃあ、次の曲でカミヤアキのクリスマスライブは本当に終わりです。こんな特別な日に、俺の歌を聴きに来てくれてありがとう」
 さっき歌い終えたばかりでまだ少し息が上がっていたけれど、何とか言葉にすることができて安堵した。それと同時に、先程まで蛍光色の青いライトで照らされていたステージが、今度は温かいオレンジ色に染められる。
 呼吸を整えながら、目の前に広がる人々を順番に見つめてみると、まだ中学生に見える男の子から成人しているような女性まで、様々だった。俺はこの人達にちゃんと、伝えられているだろうか。
「これから歌う『know』という曲は、俺にとって特に大事な一曲で、英語の黙字みたいな、声には出さないけれど確かにそこに存在するもの。そういう、歌です」
 暗く、距離があるために顔の識別は難しかったが、充がいるであろう2階の座席に視線を向けた。俺はあんなに弱かったけれど、もう、大丈夫だ。俺にはお前がいて、音楽があって、それをこうして聴いてくれる人達がいるから。
「それじゃ、聴いてください」
 会場の中に、自分の弾くギターの音だけが響き渡っていた。この歌が、海も空も越えて、どこまでもずっと届いていくことを願った。

クリスマス日和

初めて小説を書いたので拙い文章になりましたが、楽しんで頂けたら幸いです。

クリスマス日和

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-02-09

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