愛情センサス

雨之香

強がり女子 × 毒舌男子

「成瀬」

「はい」

「答えは?」

潔く立ち上がったものの、答えなんてちっともわからない。
皆目見当もつかなかった。
答えられない無言の時間が長引くほど、私の精神はさらに窮地へと追いやられていく。
それに比例し、貧しい頭も目まぐるしくフル稼働するけれど、悲しいかな、結局正解はわからなかった。
適当に答えてこの場を凌げばいい話だけれど、今回はそうはいかない。
何故ならなんと言っても、悪評高い化学の刑部(おさかべ)の授業なのだ。
当てられ正しく答えられなければ、世にも恐ろしい仕打ちが待っている。
いわゆる阿呆な私ーー成瀬愛(なるせあい)は今この時、頭と目をコーヒーカップの如く高速回転させながら、一抹の希望を捨てず無駄に足掻いていた。
しかしエールをくれるクラスメイトの視線の中に、

“ああ、犠牲者が出た”

と一部、哀れみを込めたものがあるのもまた事実だった。
そして、さらに不愉快なことに哀れみに紛れて、蔑みの視線を隣から感じたのだった。

“くく”

明らかに見下し楽しんでいるヤツが一人。
私は涙が滲む目で、右隣の衣純守(いずみまもる)を睨みつけた。
そう、つまりはただの八つ当たりだ。

“あんた。笑ってるヒマがあったら、答えを教えなさいよ。わかっているんでしょ”

“ああ、わかってるよ。けど、成瀬の顔が面白すぎて腹いてえ”

所詮、男であるヤツにはわからない。
刑部の恐ろしさなど。
そして私の苦しみなど。
刑部ーーその教師はセクラハで悪名を轟かせていた。

(くそう。本来ならみんなで助け合うところのはずなのに、こいつが隣ならもうダメだ。終わりだ。救いの手は絶たれた)

「おい。成瀬、どうした。答えは? わからないのか」

エールから一斉に哀れみへ変わる視線。
それを合図に私がもう最後だ、と悟ったその時だった。
右手に何かが当たるのを感じ、私は衣純の方を見た。
肩を小刻みに揺らし半笑いのまま、ヤツは答えの書かれたノートを私の方へと差し出していた。

「……」

(く、悔しい)

確かに悔しかったけれど、今はそれにすがるしかなかった。

「1.5モルです」

しかし刑部は私の答えに腕組みをし、むむ、と唸った。
その瞬間、体温は急降下した。

(え、うそ。もしかして間違っているの?)

騙された怒りよりも間違った焦りで、パニックに陥った。
私は目を固く閉じ、唇を噛み締めた。

「成瀬」

「は、はい」

「正解だ」

途端に満ちるはこの上ない安堵。
胸を撫で下ろした。

「だが、理解がまだ少し足りないようだ。前へ来て、式を書いてみなさい」

そこで、私の運は完全に尽きたのだった。
まずは前へ連れ出され、何一つ黒板に書くことができなかった、虚偽罪。
それから、答えを隣の人から教えてもらい、さも自ら導き出したかのように答えた、詐欺罪。
そして、答えがわからないにも関わらず往生際悪く、貴重な授業時間を無駄にした、端迷惑罪等々。
今日私が犯した罪はとても重すぎた。
こんなことなら、初めからわからない、と正直に答えていた方がまだ執行猶予付きになっていたかもしれない。
罪を恐れて繕えば繕うほど、リスクも高まるもの。
私の行為は愚かそのものだと言えた。
それもこれも含めてやはり、衣純を恨まずにはいられなかった。

「成瀬。わかっているな?」

「はい……」

「放課後、理科準備室へ来るように」

できなかった問題を教えてやるという名目で、刑部は私に逆らえない命令を下し、授業は無事閉幕したのだった。




「ほんっとに、最低!」

「なんだよ。答え教えてやったのに、そんな言い草はないだろ? むしろ礼をしてもらいたいくらいだ」

「はあ? どの口が言ってんのよ。あんたが隣のせいで散々よ。ああもうお嫁にいけないわ」

「嫁の貰い手がないのは性格ブスのせいだろ。言い訳すんなよ。第一……」

「なによ。非モテ野郎」

「貧乳のお前なんか、あの刑部でも相手にしないんじゃないの?」

「!」

カチン、と頭で音がした。
許容を遥かに越える怒りは、反論の余地すら与えなかった。

(ムカつく、ムカつく、ムカつく!)

「死ね、バカ衣純!」

これが今の私の精一杯だった。
だけど、怒りはすぐに冷めた。
私の頭は恐怖ですぐに支配された。
不運なことに化学の授業は一限目で、私は放課後まで増幅する恐怖を持て余した。
体操着を持っていなかったり、スパッツを履き忘れたり、インナーが白色だったり、散々ついていない。
早く放課後になって解放されたい反面、放課後が来ることを恐れずにはいられない。
セクハラの噂の真偽はわからないけれど、それを怖いと思う私には立派な理由があった。

それは数日前の学校からの帰り道だった。
近頃、巷を騒がせていた痴漢事件があった。
被害者は何人もいた。
私もそのうちの一人だった。
静かな夕暮れ時、人気もなく助けを請う手立てはなかった。
嫌悪と恐怖で頭がどうにかなってしまいそうな、あの感覚。
自分の非力さを思い知った。
それが数日前の出来事だけに、生々しく蘇って仕方がない。
腹が立つけれど、衣純の言う通り、私なんて相手にもされないというあの言葉に今はすがりつくしかなかった。

「はあ……」

目の前には折れたシャー芯がいくつもある。
震える手では、板書もままならない。
なくなったシャー芯を補充しようとするも、入れることすら叶わなかった。

(まずいな。こんなになっちゃうなんて、本当に情けない)

いつもみたく可愛いげのない大口を叩いて、強気に振る舞って、股間に蹴りをひとつやふたつ、かましてやりたい。
そう思うのに。

(ダメだ。これじゃ、ノートが書けない。今日はボールペンにしよう)

ノック式のボールペンを手にしたら、隣から衣純の声がした。

「なに。そんなに怖いの?」

「はあ? 別に全然、ちっとも怖くないし。バッカじゃないの」

「吠えまくって、びびってんじゃん」

「吠え……って、ホントあんたってムカつく。減らず口!
あんな陰険ヤロウ。全然、怖くないんだから。返り討ちにしてやるわよ」

いつもの調子に心が救われた。
嘘偽りでも強がりを吐けば、気持ちは立て直された。

(そうよ。大丈夫。ここは学校だもの。人がいる。何かあれば誰かが来てくれるわよ)

理科準備室がたとえ、離れの棟にあっても私は自分に言い聞かせた。

「なるちゃん、大丈夫? 着いていこうか?」

心配を滲ませた顔で、みんなが気遣ってくれた。

「大丈夫大丈夫。刑部なんて、蹴散らしてきてやるわよ。もう呼び出したくもなくなるくらいにね」

もはや、こう答えるしか私にはなかった。

「うん、そうだね。なるちゃんなら、きっといけるよ。何かあったら大声出すんだよ」

それができれば、苦労はしない。
そう思ってしまう私は、相当弱気なのかもしれない。

「うん。まあ、色気のなさには自信あるからさ。とりあえず行って、さっさと済ませてくるね」

虚勢ってすごいと思う。
本当に言った通りになれる気がするから。
たとえ、一時のことでも私には欲しくてたまらなかった。


(大丈夫)


理科準備室前。
反芻するのはなぜか、衣純の言葉だった。

“お前なんか、あの刑部でも相手にしないんじゃないの?”

だから大丈夫。
私は薄暗い理科準備室への扉を開けた。

「!」

そこには、すぐ目の前にはもう刑部がいた。
いつから立っていたのか、体温すら感じてしまう距離に鳥肌が立つ。

「随分、遅いじゃないか」

「すみません。掃除が長引いて……」

「まあいい。入りなさい」

入室を促され、刑部は私の背後に回った。
扉を閉めただけだけれど、恐怖が先立つ。
唯一の身の拠り所である通学カバンをひしゃげるほど抱えたら、刑部がそっと耳元で囁いた。

「緊張しているのかな?」

「!」

「大丈夫。怖いことはなにもしない。私は教師だからね。教えることが仕事だ」

改めて教師であることを誇示し、刑部は布石を敷く先手を打つ。
肩に手を乗せられ、早速のボディタッチに息がうまくできなくなった。

(やばい……)

「そこに座りなさい。ああ、それとーー」

「?」

「カバンは邪魔だ。下に置いて」

容易く護身は奪われた。
そして止まらない汗はきっと、恐怖のせいだけじゃない。
理科準備室は、異様なほど暖房が効いていた。
そして座れと指定された場所は、熱風が直撃していた。
上着を脱ぐしかない状況に私は追い込まれていた。

(今日に限ってカーディガンを着ていない。もう我慢するしかないよね)

ブラウスのボタンをいくつか開け、ブレザーを腕捲り私は堪えた。
頭の中で汗が滲み、頬が上気していく。
心なしか頭もぼうっとしてきた。

「成瀬。もっとこちらに来なさい。説明がしづらい」

刑部の机上には、今までの私のテストがあった。

“君のために分析したんだ”

ねっとりした笑みで囁いた。
決して無理強いをしない灰色の距離感で、刑部は私を弄んだ。
首元や胸、足にまとわりつく視線。
時折触れる手。
どれもこれも不愉快でたまらない。
それなのに、まだ拒めない決定打を刑部はなかなか見せなかった。
熱くて逆上せて、顎から首を伝って胸元に汗が流れた。
そして私だけではなく、刑部の呼吸も乱れ始めていた。

「ブレザーを脱いだ方がいいんじゃないか」

部屋以上に暑苦しい声で、告げられた。
私はびくり、と反応したけれどすぐに否定した。

「いえ。大丈夫です」

(今脱いだら、本当にやばい。汗できっと、ブラウスが張りついている)

苦しくても我慢するしかないと思った。

「大丈夫じゃないから言っているんだ。そんな状態じゃ、勉強も捗らない。いいから、脱ぎなさい」

ついには命令口調になった。
尤もらしいことを吐きながら、そうするように仕向けているのは他でもない刑部なのに。
出来の悪い私がいけないんだ、とその口調は私を咎めていた。
早くしないと本当に帰れなくなる、と脅していた。

「わかりました……」

私は力なく返事をすると、とうとう上着を脱いだのだった。

“はあ……”

刑部の湿っぽいため息が私の耳孔をまさぐった。
その瞬間、椅子が激しい音を立ててひっくり返った。
それと同時に理科準備室の扉が開いた。
なんと衣純がそこには立っていた。

(な、なんで……!)

思わず込み上げるのは涙。
私はすがるような目で彼を見た。
しかしすぐさま反らした。
今の私は衣純の知らない私だ。
いつも犬猿の仲のように、言い争っている私ではない。
知られたくなくて見られたくなくて、なのに助けてほしくて。
乱れる思考のせいで、目が合わせられなかった。

「衣純。どうした?」

不機嫌に低くなる刑部の声色。
私は束の間の息をした。

「今朝のノートを提出していなかったので、出しに来ました」

開いた扉から新鮮な冷気が入る。
必死に肩で浅い呼吸をしながらも、私は力んだままだった。
無意識から強く握られたペン。
爪が掌に深く食い込んでいた。

「つか、先生。ここ、暖房効きすぎじゃないですか?」

「女の子は冷え性の割合が高い。だから、これくらいでちょうどいいんだ。それよりもノートは受け取った。だから、早く出ていきなさい」

厄介者を排除したくてたまらない口調で、刑部は告げた。
しかし、衣純は特に気にした様子もなく、閃いたように口を開いた。

「あ、そういえば、俺も先生に質問があったんですよね。一緒に教えてもらえます?」

なかなか引き下がる気配のない衣純に、刑部は苛立ったように立ち上がった。

「衣純。質問をしたいなら早く出ていきなさい」

矛盾とも言える発言に、衣純はすぐに反論した。

「あの、意味がわからないんですけど」

「そのままの意味だ。君が引き下がらない限り、彼女は解放されない。これが終わり次第、君の質問を受け付けると言っているんだ」

「……」

「ここで粘り続けても、彼女の帰宅時間が延びていくだけだが?」

沈みゆく夕日。
空は暗くなり始めていた。
そして、勝敗はもう決まっていた。
一歩たりとも譲る気のない刑部を、衣純は見たことのないほどの怖い顔で睨みつけた。
遠ざかる衣純の背中。
私は無性に何かが込み上げるのを感じた。

(あんなにいつも、憎まれ口を叩いていたくせに……)


彼がここへ来た理由。
それは私を助けるためだった。
今朝提出しなかったノートも、このためなんじゃないかって、都合よく考えてしまう。
それはきっと、彼がこの部屋に入ってきた瞬間、その目は真っ先に私を探してくれたから。
ノートの提出なんてただの口実。
それから私は涙を呑み込み、長い長い苦痛に耐えたのだったーー



「ありがとうございました」

暖房で乾燥したため、出た声は掠れていた。
ブラウスのボタンをとめ、制服を整える。
勉強の内容など、何一つとして残ってはいなかった。
あるのはただ、疲労と屈辱だけ。
部屋を出る直前まで私の背後に立ち、自らの欲望を満たすことを刑部は楽しんでいた。
すくむ足に力を入れ、私は踏ん張った。

「……」

込み上げる嘔気。
私は口元を押さえた。

「成瀬!」

突然の呼び声に振り向けば、そこには何故かまた衣純がいた。
いや、いたのではなく待っていたのだ。
反射的に涙が溢れた。
だから私は、全力で背を向けてから言った。

「な、なにしてんの? こんな時間まで」

私のことを待ってくれていたのだとわかっていながらも、そんなことが口を衝いて出た。

「なにって、見りゃわかんだろ。今朝のこと、ちょっとは悪いって思ってたから、成瀬のこと待ってたんだよ」

「へえ……珍しい。謝罪でもしてくれるわけ?」

どれだけ平静を繕ってみても、涙ぐむ声は隠せない。
私は背を向けたまま、顔を少し上げた。

「それでいいなら、いくらでも謝ってやるよ」

「っ……」

「とりあえず、今日はもう帰った方がいい。行くぞ」

いつもの彼らしくない発言をした挙げ句、私の方へと歩み寄る。
いい加減もう限界だった。

「なによ、えらそう……。一人で十分よ。これ以上、あんたに借り作っちゃうとあとが大変だもの」

「おまえなー、心底かわいくないよな。俺の気が変わらないうちに早くしろよ。今なら貸しはつけないからーー」

私の前に来た衣純の足が不意に止まった。
それは予期していたものではなく、驚きによるものだ。
私の頬は溢れる涙で濡れそぼっていた。

「だからっ……先に帰ってよ。わかるでしょ。こんな情けない姿、見られたくないって言ってるの!」

通学カバンで衣純を打てば、その手は容易く捕まれた。
露にされる私の醜いばかりの顔。
衣純は目を反らさなかった。

「成瀬おまえ、バカだろ」

「なっ……。うるさいな、余計なお世話よ!」

「うるさくねえ。
泣きべそかく姿より、意地はった今の成瀬の方が、俺はカッコ悪いと思うけど」

途端に冷静に返されたものだから、私は口をつぐんだ。
ぼろぼろと止めたいはずの涙がたくさん溢れてくる。

「い、衣純……」

名前を呼べば、それが合図のように衣純は私の手を引いた。

「ああ。よく耐えたな」

そう言って、力強く抱き締めてくれた。
その腕が心地よくて逞しく感じて、私は体ごと衣純に預けた。
そして、泣いてすっきりしたあとには、もちろん恥ずかしさが波のごとく押し寄せた。
しかしそれは私だけではなく、衣純も同様のようだった。

「本当にあいつーー刑部のこと、ぶん殴らなくてよかったのかよ」

「いいって言ってるでしょ。大事にはしたくないし。これ以上、目つけられるのも嫌だから」

なかなか怒りを鎮められない衣純を止めるのは、それは大変だった。
殴り込みに行きそうになるのを、私は必死になって引き留めた。
それと同時に、私のために怒ってくれていることが何だか嬉しくもあった。

「つかさ、成瀬。本気で引き留める気あんの?」

「へ? どうして?」

「どうしてって、さっきからにやついて気持ち悪いんだけど」

「……あんたね。言い方ってもんがあるでしょ」

「なに、もしかしておまえ、マゾなの?」

「バッカじゃないの! そんなことあるわけないでしょ!」

「はは。だよな。それこそ、気持ちわりい」

何故だか衣純も楽しそうに笑っていた。
だから、今回だけはこの憎まれ口も許してあげようと思った。

今はあんたに救われたから。
だからーーありがとう。



(おしまい)
※純情サンタン(二人のその後編)

愛情センサス

毒舌男子……難しいです。
好きな子には何だかんだ甘くなっちゃいますね。

愛情センサス

あんたの手なんて、借りてやらない。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-02-08

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