逃鬼行
どうも、ガミです。前書いた外側の続きというかスピンオフな作品です,頑張って書いたのでつまらなくは無いと自負しております、それではどうぞ。
退屈で緩慢な予鈴が西里高校に鳴り響く中、生徒達は行儀良く座席についていく。その中には勿論僕こと池本浩一も含まれていた。
いつもと変わらぬ日常なる幻想が今日も始まろうとしている。元より日常と非日常を分け隔てる境目は曖昧模糊の蜃気楼といえるだろう。日常など所詮自分が知覚できる範囲で起きた事が予測範囲内だったという事を帰納的に修飾する言葉に過ぎないのだ。だから日常が始まるなどという文は本来成立するはずはないが、何故か皆好んでこのような修辞を使いたがる、その心の内に予測範囲外の非日常への期待、畏れと相も変わらぬ日々への撞着という相反する矛盾を抱きながら。
「随分寒くなったな、まだ十一月なのに。ジャージ着ていてもまだ寒い」
肩を震わせながら旧友の御影大樹が歩いてきた。皆が揃って体操着に着替えだす、今日は少人数でフリスビーをやる授業だったか。
「それはお前が痩せているからだろう。まだまだましな方だ」
「そんなことはない、今朝家の前の水甕を見たら氷が張っていたぞ、もし何か飼っていたら全滅だったろう」
「昔お前が良くおたまじゃくしだの金魚だのを飼ってたあの甕か」
「ああ、陶器というのは中々丈夫で野ざらしにしても全然平気なようだ。それより寒くなってきたといえばやることは決まっておろう」
「やるのか」
「やる」
「場所と時間はどうするのだ」
「いつもどおり奥沢の家でいいだろう、店にばっか行っていたら金がかかってたまらん」
「なら後で奥沢のやつを捕まえて予定を聞くか」
「よし、まあアレのことだ。どうせ万年暇をもてあましておろう、どうせいつものオール・ナイトだろうよ」
そんな事を話していたら学生を急き立てるチャイムが聞こえてきた。
「やばい、急ぐぞ」
音が途絶える前にとすぐさま着替え、二人並んで寒空へと駆け出した。
冬は日が落ちるのが早い、数時間前に輝いて大地を暖めていた太陽はすっかり陰り綺麗な夕焼けが町を照らす。傾いた日を背にだらしなく長い坂を下っていると、なんだか切ない気分になってくる。
「それで奥沢、お前今日はどうなのよ、家開いてる?」
「どうって別に普段どおりだが」
「沼田の方にある名画座か、演目は」
「ダダールのベータフィルとペルセウス、SF二本立てだ。絶対眠くなる」
「それならばだね奥沢きゅん、オールナイトより楽しくてお金かからない遊びをしたいとは思わないかね」
「また鍋か」
「当たり前だ!冬と言ったらちゃぶ台もしくは火燵の上でぐつぐつと煮立った鍋をつつきあい、食後にはもちろん蜜柑を頬張るものと元禄の昔から相場が決まっておる!」
「なら扇町のスーパーにでも寄るかな、肉は今日は鳥が安かったはずだ。ついでにレトルトをいくらか買い置きしておきたいな。お前ら持ちで」
「水炊きか、そそるねえ」
ぐだぐだと取り留めのない話をしながら安さが売りの大型スーパー、イーエーに来た。羅列される食材と大きな字体で書かれた値段。
鶏肉を籠に入れる
白菜を籠に入れる
大根を籠に入れる
本酒を籠に入れる
御影が何か入れる
巨大商業施設がもつ本来の目的、消費の誘導という名の欲望の扇動に見事に乗っかりあれもこれもと不要なまでの食材と安酒を買い溜めた。両手に持ちきれぬ生鮮食料品を手分して御影のアパートメントに運び入れる。
奥沢が居を構える三宅レジデンスは振る子も無いが新しくも無く、立地、規模、部屋の日当たり等を加味してもまさに一般的な生活者の住居そのものであり、もし奥沢の親が仕事上の都合で彼に家を任せていなければ、一介の高校生の彼が住めるようなアパートではないのは確かである。
リビングの真ん中にはドンと絶滅寸前の風景が置かれている、火燵である。かつてはこの国の風物詩、春に舞う桜吹雪、夏に響く蝉の声、秋に降り注ぐ紅い落葉などと共に季節を彩った大物家具も時代の波には抗えず、家庭から消えつつある火燵がひっそりと息をしていた。火燵の上に散乱していた書籍、漫画、紙くずなどを片しガスコンロと鍋を設置し準備をしつつある中奥沢は家主の特権を行使しのんびりと夕刊を広げていた。
「次の選挙も地民が勝つみたいだな、つまらん」
奥沢が欠伸をしながらペラペラと薄い紙面を捲る。
「仕方なかろう、五輪も決まったし」
「まあそうだが、でもなんだか気が乗らんなあ」
「他の選択肢なんて在ってないようなものだろうさ、せんかたなしとはまさにこの事」
「くだらない事抜かしてないで野菜切るの手伝え」
「わーっとる、野菜終わったら台所代われ、肉は俺が切るから」
ああだこうだと抜かしていたら、あっという間にぐらぐらと沸き立つ水炊きが出来上がった。小さな鍋に放り込まれた肉と野菜の比率が作った人間の若さを物語っているような鍋だ。ごく少量のポン酢に柚子胡椒を溶かし鍋の汁を注ぎいれると食欲が沸き立ってくる。鍋奉行、御影の『よし』の一言から食事は始まる。矢継ぎ早に箸が繰り出され、食欲の暴風が鍋という閉じた世界を貪り尽す。一口大に切り分けられた鳥肉をかみ締めると、中から淡白な脂が染み出して口幸が広がる。肉の出汁が染みこんだ葱や白菜、大根など野菜を合間に挟み肉を口に運ぶ。すぐに鍋は空になった。
湯と具材が補充され、しばしの安寧が訪れた。ここぞとばかり禄に飲めない日本酒を傾け通ぶろうとしてむせる御影の姿を見て奥沢も声を上げ笑う、ご満悦だ。
ぐだぐだと無駄話をしていたら鍋が吹き零れそうになった。第二陣も瞬く間に消え去ってしまった。頃合だろうという事で御影が〆のちゃんぽん麺を三玉ばかり放り込み粉末中華スープで味を調える。このあたりの感覚に関しては任せておいて心配は無い。
「うーん、美味いな」
「実に美味かった、余った食材は明日俺が食うよ」
「うん、いつもいつも家を使わせて貰って悪いな」
「一人で居ても映画見て終わるだけだから別にいいよ、そういえば御影はどうだった?行ってきたんだろう、釜田の助平な店に」
「ああ、こないだ行ってきたよ」
「なんだよ、普段から俺は落ちぶれた野良犬とか抜かしながらやる事やってんじゃないか。御影的にはどうだった」
「うーん・・・輝きが足りなかったな・・・もう行かない」
「輝きって何だよ輝きって」
「かつて、娼婦と聖女は同義の言葉だったって話知ってるか?」
「初耳だが」
二人の声が重なる。
「全く、少しは教養を見に付けろい」
「お前の妄想じゃないのかそれ」
「ちがわい!いいかそもそも金銭を介し情交をする事を生業とするいわゆる娼婦という職業ができたのはいつかという疑問に対しては諸説ある。世界最古の職業説、近代都市起源説、はたまたあるいはアトランティス大陸文明起源説や地球先人類起源説が」
「聞いてやるから先を言え」
「全くせっかちな奴だ。俺はこの中のどの説も信用しない、俺は古代漂流民起源説が一番正確だと思う。聞いたことあるだろう渡り巫女とか」
「ゲームに出てきたぞ、腋が見えてるデザインの巫女っぽくてあざとい服を着たアレか」
「質の低いフィクションと混同するでない!渡り巫女とは決まった場所への定住を嫌い各地各地を渡り歩き寝食を他者コミュニティに提供して貰う代わりに神事や情交などを行なった古代の聖女だ。そうだなあ・・・性って漢字あるだろう」
「どのせいだ」
「りっしんへんの奴だよ、アレは生命にかける情熱って意味から作られた漢字なんだ。つまり、その社会に情熱、生きがいを与える対価として食料や金銭、そして信仰を集めた古代の巫女こそがわが国の売買春の起源といえるであろう」
「それで輝きってなんだよ」
「そう、俺はかつて信仰を集め聖なる存在として崇められ同時に謗られた非日常的存在としての娼伎に操をささげに行ったのだ!この国では聖と穢は表裏一体の存在、俺はその聖性に包まれ生命としての実感を再び得て、生きる情熱を取り戻そうと勇み足で釜田に進軍を果たした!」
「うるさいから大声を出すな、欲に負けて女買っただけだろうが。どうだったんだ」
「俺はかのフィリップマーロウが如く一張羅のスーツを着込みトレンチ・コートをたなびかせ進軍を果たした、そこであったことをかいつまんで話せばだ」
くだらない話なのに息を呑んでしまう。
「人生に疲れてそうなお姉さんが出てきて俺は終わった」
笑いが止まらない、あまりに笑いすぎて御影に頭をはたかれた。
「わーらうなっ!まあいい、かつて娼伎を抱くことはかっこいいことだったんだ。成熟した大人だけが出来る特権さ。若人が日々の疲れを慰め明日への活力を得て国家の産業を逞しくし、家庭を築き次の世代を育てたのだ。でも今じゃ売る側も買う側も卑しく見られ、かつてあった崇敬や人情、尊厳は金銭に置き換えられかつての威厳はなくなってた。なんだか悲しくなったよ」
「それこそお前の言ってた近代都市が台頭してきた時期になくなったんだろうよ。本当に馬鹿馬鹿しい・・・」
「お前らも一遍言ってみたらどうだ?」
「惹かれないといえば嘘になるけど・・・なあ」
だらだらと楽しい時間が流れていく。
「そういえば奥沢はレトルトばっかで体壊さないのか?食費削って映画見てるだろお前」
「心配ない、刮目せよ」
すうと奥沢が立ち上がりおままごとの道具のように小さな冷蔵庫を開ける。そこにはびっしりと緑が詰まっていた。
「野菜ジュースが一週間分だ、これを朝晩とグイグイやれば問題などあろう筈がない」
「ぜったいおかしい」
「下血するよお前」
「ふん、すこし調子悪くなれば本物の野菜を買い込んでコンソメで煮込んだ奴を喰い溜めるから問題ないよ、それより池本は終電が危ないのではないか?」
「あ、うっかりしてた。そろそろお暇するわ」
「俺も丁度出させていただこう、じゃあな奥沢また明日」
二人並んでマンションを出る。夜はもう身を凍えさすような木枯らしが吹きすさんでいた。
「じゃあ俺は歩きだから、またな」
御影が肩をすくめて足早に立ち去る。ふと頭上を見上げてみるが、生憎の曇天で月明かりが全く地上に届いていなかった。
JR釜田駅を中心に広がるネオン街、眠らない町と言われるこの町を夜訪れるのは初めてだった。この間の御影の話を聞いて、正直怖いもの見たさに近い興味を覚え、ネットを駆使し御影の二の轍を踏まぬよう万全の準備をしてきた。財布の中には工場で働いて稼いだ三万円が鎮座している、札に印刷された諭吉翁が僕を見つめて笑っているような気がした。とりあえず、駅前の飲み屋街を通り目指す堀内通へと足を伸ばしていく。
わくわく
わくわく
どきどき
どきどき
鼓動が高鳴る。歳相応の好奇心と期待が血管を流れいつもより早足になっているようだ。
分不相応に大きな市役所の脇道を真っ直ぐ歩いていくと、どんどん物寂しく町の明かりが少なくなっていく、期待と不安が胸を焦がす中、とうとう堀内に着いた。
寂れた町、そう形容するしかない区画であった。暗闇を彩り人々を引き寄せる誘蛾灯のはずのネオンはどこか心もとなく、ネオンを付けている店舗にも、いやこの区画全体がどこか元気、活気、生命力のようなものを喪失してしまったかのようだ。
御影の言葉を思い出した、かつてここだけでなくあちこちの地域で行なわれていたコトに不可分なものとして結びついていた神性や崇敬、文章化できぬ熱い情念は時代の流れとともに切り離されなくなってしまった。今ここにあるのは欲望の売買でしかない、そんな事を考えていると、この場所にいること自体がなんだか不気味、いや卑小に思えてくる。
帰ろう、そう思い通りに背を向けたその瞬間に、魔性が網膜に映し出された。
この堀内通には無数の脇道や細い路地裏がありその中では中華風の看板や赤提灯、暖簾も看板も出されていない小商いの店舗など、都市の闇に蠢く魑魅魍魎とも言うべき魔境が如きアンダーグラウンドの体を成しているのであるが、その入り口に立ちシンプルながら色気を抑えぬ服飾で身を飾る美女は出来すぎの一言に尽きる。その容姿を形容するのは千の言葉をつぎ込み万の賛辞を与えても不相応であろうというもので、一言で済ませて仕舞えば『絶世の美女』なる語はこの女性のために作り出されたものであろう。
綺麗だなあ、と顔をとろりと弛緩させ鼻の下を伸ばしていた所、心の隙間に入り込むような言葉が飛んできた。
「あらあら、どう間違えたんだかこんな所にかわいい子が紛れ込んできたようね」
あまりのことにあうあうとしか返せなかったが、彼女はうふふと笑いとりなしてくれる。
「その様子じゃあぜんぜん慣れてないみたい。じゃあさ、私とすこし遊ばない?」
もう思考も言葉も予算も不要であろう、二つ返事で美女の後ろについていき非常階段をかんかんかんかんと上っていく、きゅっと締まった小尻がまたいろっぽいなんて語では言い表せない。ともすれば見えてしまいそうな短いスカートにタイツなど反則であろう、先導されるがままレンタルルームの一室に通された。もう心臓が破裂してしまいそうな勢いでビートを刻む、血管が収縮する音が耳を通さずして鼓膜に響く。ああ、なんたる幸せ、何たる僥倖、お父さん、お母さん、浩一は今宵男になって参りますと焦点の合わぬ眼で宙を見ながら心に囁く。
彼女は何か香のようなものを焚きだした、よく分からないが禅だのネイチャーだのが好きな人なのであろうか。彼女は綺麗に整った顔立ちに輝く眼で僕を見ると、ぞっとするような微笑を浮かべすうと音を立てずにすぐ隣に座ってきたのである。
「始めてって顔してるわね・・・ふふ・・・可愛い・・・」
何ということだろう、彼女の純白で細くしなやかな指が僕の体を服の上からまさぐる。このような情況で昂ぶらない男はY染色体を母体に置き忘れてきてしまったのだろう。部屋に充満する甘美でどこか背徳的な香の煙が脳髄を刺激し、必要以上にこの身を熱くさせている。だがそんな事は関係ない、今はただ一匹の雄として己が運命に感謝し目の前の幸運を貪ることだけに注意を向けるのだ。
「それじゃあ・・・いただきます」
ああとうとう、とうとう僕はぱっくんちょされてしまうんだ、今日がぱっくんちょなんだと心臓が跳ね上がってくる。彼女が体を密着させてきて、首筋に顔を寄せる。限界まで昂ぶりが抑えきれなくなった時、違和感に気づいた。
吸われている。
この身に充満した欲情が、期待が、情熱が、まるで地下の油田から資源を根こそぎくみ上げるような速度で一滴残らず吸い上げられる。
「あ・・・」
言葉を発する気力さえ目の前の彼女が吸い上げてゆく、あれほど熱かった肉体は底冷えし、意識が遠のいていく・・・まずいと思った時すでに肉体の自由はなく瞼を上げる体力も無かった。
そして暗闇の中で鈴が鳴くような美しい声が反響する。
「美味しかったわよ、あなた。ごちそう様」
再び目が覚めたときは彼女の姿は無く、最後の瞬間と何ら代わらぬレンタルルームの光景だけがあった。朝の鴉が僕をあざ笑うかのように鳴いている。体が冷たい、思わずクシャミをしてしまった。
「はひゃひゃひゃ、そ、そいつは傑作だ!ははははははは」
奥沢の部屋ではゲラゲラ笑いが止まらない。
「煩いなあ・・・魅せられちまったんだよ、魔性に」
「しかしそれだけ魅せられてコトに及ぶ前にぶっ倒れちまうなんて池本も間抜けだな」
珍しく奥沢が辛辣なことを言ってくる。
「倒れたってより、何か吸い取られたような感じだったんだよ。意識を」
「お前そんなのアニメーションや映画の見すぎだよ、大人気のファンタジー映画にそんなの出てきたわ。もっも美人どころか顔の無い化け物だけど映画じゃ」
「確かに馬鹿馬鹿しいが、その香が曲者なんじゃないか?催眠剤かなんかが混じってたとか」
「それなら女も一緒に倒れるだろう、池本お前なんか飲まされたり食わされたりしてなかったのか?」
「いや・・・とにかく本能のままあとついてってそのまんま部屋でぶっ倒れた」
「お前って男は純真だねえまあ、でも美人局とかじゃなくてよかったじゃねえか」
「そりゃそうだけどさ、こっちは操をささげる覚悟で向ったんだぜ?それで結果がソレなんて・・・あんまりじゃないか。蛇の生殺しじゃあるまいに」
「ま、当分おあずけってこったな。ほら飯にしよう」
ピーと湯が沸く音がした。スーパーで買ってきた一番大きなサイズのトップシェフのドガ盛りカップに熱々のお湯が注がれ湯気がもうもうと立ち上るる。
「やっぱカップ麺はこうでなくちゃな。へんに生麺に近づけた奴、ありゃあ駄目だ。どう頑張ってもカップ麺じゃあ生麺には及ばないのにカップ麺のよさを切り捨てるのはこれ愚鈍なり。揚げ麺が微妙にふやけた食感こそがカップ麺の醍醐味だというのに」
箸を手繰るとケミカルな味付けで脂の浮かんだスープが芯の残ったもどりきってない揚げ麺に絡まり口の中に啜りこまれる。問答無用の美味さである。
「しっかし今時街娼ってのも妙な話だよな」
ラーメンでなくカップうどんを選んだ奥沢は出汁の染みこんだ油揚げをペロと口の中に放り込みながら疑問を投げかける。
「妙って何でだよ、娼婦とスパイは最古の職業って言うじゃないか。何処の国にも、何時の時代にもある唯一無二の職業だぞ、釜田に街娼が立ってても不思議じゃあるまい」
「時期を考えてみろ莫迦、アレだよアレ」
奥沢が箸でテレビを指差した。MHKのニュースが四年後に行なわれる東京五輪用新スタジアムの建設が着工されたと報じている。
「オリンピックが行なわれる国の社会がどうなるか、知らぬお前じゃないだろう、御影」
「む・・・不覚」
「どういうことだ」
「粛清と排斥による社会漂白が行なわれる、いやもう行なわれているということだ」
「わかるように言え」
「だから、オリンピックとは国威発揚の国家的イヴェントであると同時に国際的な観光客集客の商業イヴェントの側面を持っているだろう?そのイヴェント遂行ために建設ラッシュなどの産業的経済効果が生じ好況になるってのはお前でもわかるよな」
「この間の試験範囲だよな」
「そう、だが五輪の準備で行なわれるのは活発な経済活動だけではない、国民生活の締め付けが半世紀前の東京五輪で行なわれた事を我々小市民は忘れてはならないのである!」
ドンッと机が叩かれコップが揺れ、奥沢が御影の頭をしばきメガネがずれた。メガネをかけなおしながら御影は続ける。
「お前もガキの頃縁日の屋台で金魚掬ったり綿菓子買ったりしたことがあろう。ああいった日銭稼ぎの小商いや街娼、今は絶滅した見世物小屋といった興行、一番厳しい時は立ち食い蕎麦屋などのいわゆる『真っ当ではない』と一般的に目される職業や『偉い人が外国人に見せたくない職業、慣習、文化』に関わる人間は目に付かない所に行くか消え去るように住む場、稼ぎ場を追い立てられた。なにも五輪に始まったわけではない。ご一新の後この国が始めて国外に門戸を開いたその時には東京、京、大阪など三大都市圏から『公序良俗に反する』とした春画や浮世絵が一斉追放の後焼却処分になった。だが、声高にこのことを非難できる奴も非難する資格のある奴も居ない。この国を動かしているお偉いさん方にとっても、下層で蠢く我ら善良な小市民にとっても、開国や高度成長、東京五輪や万国博覧会で得た利益の方が総合してしまえば上回るからだ。だが・・・我ら庶民と共にあったあの懐かしき庶民文化は一度形を変え、消え去ってしまったらもう決して戻ってこない。そこに明確たるアイデンティティを持たぬまま経済活動のみに勤しむエコノミック・アニマルへと変わりゆく日本人の姿を重ね秋の夕暮れにも似た哀愁を感じてやまないのははたして俺だけであろうかっっっ」
ぜぇぜぇと長い語りを終えた御影が急ぎ茶を飲みげほげほと咽る。
「四年後の五輪も同じだよ、最近秋葉の浄化作戦が水面下で進行中ってサイバーってアングラ誌がすっぱ抜いてたし浄瑠璃町の再開発も進行中だ。東京から『汚いもの』を一掃しようという政府の意向が見え隠れしている。そんな中わざわざ釜田に街娼が立つか?」
「それに話聞く限りスンゲェ美形らしいじゃねえか、松田新地にでもいきゃあもっともっと稼げんだろ、わざわざここにいる意味がわからん」
「考えれば考えるほどわからんことばかりだな。俺が出会ったあの美人さん、一体何もんなんだろう・・・」
「よほどの魔性っていってたな、本当に魑魅魍魎・・・はたまた鬼の類かも知れんな」
今日もまた夕方にもなってないのに釜田の堀内通に来てしまった。あれから三日間の間、彼女にもう一度逢いたいと思うと夜も眠れずに身悶えたのだ。断っておくが、決して下品な色情に突き動かされた衝動などではなく、彼女の内に秘められた聖性・・・オタクたちがSNSでバブとか呼んでいる尊さを忘れることが出来なかったのである。いつか御影が遊園地で言っていたが、かつて娼婦と聖女は同じ意味を持つ語であったという、あの時はオタクの妄想と馬鹿にしていたが、いよいよこれは馬鹿に出来なくなってきた。自分でも笑ってしまうぐらいすっかりイカレて来ているようだ。
ふらり
ふらふら
ふらふらふら
あてもなく活気を失った売春街の成れの果てを彷徨っている。奥沢の言が正しければこの町ももうすぐ綺麗さっぱり漂白されてしまうのだろう。もしかすると、滅び行くこの町が私に見せた幻影なのかも知れない・・・
それでも、僕はあの輝きを諦めることはできない。魂の奥底を揺さぶるような高揚感を覚えたあの一夜の思い出を忘れ去ることなどで来そうに無い。そんな事を考えていたら、後ろから気の抜けた声が届いた。
「おい坊主、探しもんかい」
振り向くと年のころは三十から四十にかかってそうな、形の崩れたコートで身を包んだ無精髭が目立つ髪もぼさぼさの中年男の代表でございと言うような人物がたっていた。
「おおっと待ちな、なにも子供がこんなことに来てるのを咎めようとしてるわけじゃない。ちょっと話聞いてくれるか?」
「いいですけど、おじさん誰ですか?」
「ま、それはおいおいな。腹減ったって時間でもないだろう。駅の近くまで戻ってコーヒーでも飲みつつ話そうや」
アヤシイ、あまりにも怪しいなといぶかしむのを察したのか男は懐から金の紋所がついた手帳を取り出した。
「別に怪しいもんじゃない、だがこんな町を昼間っからほっつき歩いてる子供は関心しないねえ・・・まあ悪さしそうには見えないし、君なんかしょっぴいても点数稼ぎにもなりはしない。まあなんでこんな所いるか職質がてら聞かして貰おうと思ってさ、嫌かい?」
残念ながら善良な高校生である僕に、国家権力の提案に断る胆力はなかったのである。
「なるほどねえ。一晩のアヤマチ・・・誘われ、遂げられなかった想いが後ろ髪を引いてるって訳か、若いよ、若い・・・」
釜田駅前のチェーン型喫茶店エクセレントの二階席で、冴えない高校生と中年刑事の二人がコーヒーカップを傾ける。
「馬鹿な話だとは思うんですが、もう足が自然にこっちに向いてきてしまうんです」
「魅せられたって奴だな、連中も罪なことをしやがる」
「連中?」
中年刑事は『やっちまった』という表情を作るがそれが本心とは思えない。へらへらと気の抜けた顔を印象付ける優しそうな眼の中には、どこか得体の知れぬものが宿っている。そんな気がした。
「ま、細かいことは教えられないけどさ。サンカって名前聞いたことあるかい?」
首を横に振ると刑事は『ま、当然だよな
』と呟き話を続けた。
「サンカってのは警察用語で明治期から戦前、戦後ごく僅かの期間山間部や都市周辺を流浪していた漂流民の総称だ。その実在を疑う声も方々に存在するが連中は居るんだよ、確実に」
「漂流民って、ホームレスとかああいうものですか」
「いんにゃ、ホームレスとはまた違うんだ。ホームレスって実は縄張り争いとか激しいし、決まりきった場所から動こうとしなくて行政側も大変なんだよ。君歴史は好きかな」
「まあ多少は」
「なら少しぐらいは我慢できるな。まずそもそもこの国の歴史ってのは定住民の歴史なんだよ、その定住民の歴史は稲作と共に始まる、弥生時代の頃だな・・・それまでこの日本列島には狩猟採取民である縄文人が山々を渡り歩き生活していたが、海の向こうから稲作と先端技術を持った弥生人が大挙して押し寄せ、この島に自分の国を作ったんだ。縄文人っと弥生人の抗争は弥生人の優勢に終始した・・・次第に縄文人は弥生人の国家に従属したりあるいは住処を追われ東に北に逃れアイヌや地方豪族の祖になった。やがてどんどん時代が下り地方豪族の多くが征服され逆らうものは殺された、しかし豪族達の中で生き延びた者は海や山といった辺境に活路を求めいくあての無い放浪者となった。そうした者を都の権力者とその配下にいる人間は半ば惧れをこめてこう呼んだ・・・鬼と」
「つまり、鬼とはこの国の中央政権に従わなかった人間の総称という事ですか」
「ああ、土蜘蛛とかいろんな呼び名やら違いやらもあるんだが俺も専門じゃないからそこまではわからん。権力にまつろわなかった民や困窮により住居を追われ行き場をなくした人間、権力争いに敗北した勢力が合流して一箇所に住居を構えず中央と距離をとり各地を漂流する漂泊民がこの国に生まれたわけだ。芸能民、職人集団を派生として生み出したこの集団のことを長らくこの国では鬼だ天狗だと呼んできたわけだがご一新以降そういった暗愚迷信は好ましくないとして新しい言葉が用いられたそれが」
「サンカ、ですか」
「飲み込みが早いな。警察の内部資料以外に彼らの実在を証明する方法は無いがその資料は残念ながら非公開だ。俺もロクに見たことは無い。だがこれだけは言える、サンカなんてもんに一般人は関わるべきじゃない。君だって極道者と付き合いたくは無いだろう?とにかく連中はそういうものなのさ。家帰って寝て忘れた方がいい・・・」
「しかしサンカといっても犯罪や暴力で日銭を稼いでるわけじゃないでしょう?なんでそこまで言われなくてはならないんですか」
コーヒーを啜り終えた刑事がぷはとため息をつく。
「昔はこういうの、言葉にせずに済んだんだがなあ・・・世の中には真っ当な世界と真っ当でない世界の二種類がある。国や公的機関、大企業が機能しほとんどの国民が暮らすのがこの真っ当な世界だ。もちろん君もここにいるぞ。一方真っ当でない世界だが、映画やドラマで誇張されてはいるものの暴力や犯罪が渦巻いている。そりゃあそっち側で平気な顔して暮らせてる例外も確かにいるが、国家はそういう人間を正直歓迎しないしその絶対数も少ない。いろんな理由はあるが、真っ当な世界に回る金がそっちに行くと色々困るからってのがデカイな・・・そしてそういった例外になどなることなく多くの人間が組織犯罪の歯車として使い捨てられるか搾取されるか・・・いずれにしてもお天道様の当る天下の大通りを堂々と歩けなくなるには違いない。最近は時代のせいだかこの境界が素人にも玄人にもつきにくくなって、ホイホイ迷い込む莫迦が増えてるんだコレが。十中八九餌食にされてお仕舞いよ、損をするのは手前だけ。そんな世界の住人に魅入られちまったんだよ君は」
言葉が出ない、年季の入った人間の極めて真っ当な説教だ。だがどうしたものか、その説教は目の前にいる私ではない誰かに向っているような気がしてならなかった。
沈黙が流れる、正直目の前の刑事のいう正論に一点の澱みも無い。だからこそ正論なのだろう。だが心、いや魂のどこかで納得しかねる自分がいた。そんな沈黙は、思いもしない形で破られる。
ドン、と聞きなれない音が鳴り振動が体内を振るわせる。周りの客がざわめきだした所を外からパンパンと軽快ともいえる火薬音が全てを物語る、銃声だ・・・
「支払いはもう済ませてる、さっさと帰るんだ」
刑事はそういい残すとコートを羽織り一目散に玄関へとかけていった。礼を言う暇も名を聞く暇も無かったが、今はただ身の安全を考えてこの町から離れる事にする。元来大陸系マフィアと暴力団の抗争が激しかったりとあまり治安のいい町ではないのだ釜田は。そそくさと駅に向うが帰りの電車が止まっている。仕方ないから徒歩で最寄駅のとおる路線へ行くことと決め足を進めていく。
寒空にふく木枯らしが手を凍えさす。家に帰る頃には真っ赤になってるだろうと考えていたら狭い住宅街に迷い込んでしまった。暗くなったせいで方角を間違えてしまったようだ。肩を落とし歩いていると、うっすらうめき声が聞こえるような気がした。
ぎょっとして振り返るも誰もいない、しかし声は確かに聞こえている。目の前には暗い路地があり、そこから・・・赤い血が流れている・・・
覚悟を決めて路地を覗き込むと・・・そこにいたのは・・・忘れもしない、あの夜出会った彼女であった。
深夜の釜田の裏路地に、地響きと銃声が絶え間なく響く。完全武装の男達が半裸の大男に向け発砲するも、男の俊敏さは銃弾のそれを上回っている。
弾をかわした半裸の男が瞬時に戦闘員に鉄拳を叩き込む。胴を保護する頑丈なプロテクターが砕け破片が宙を舞い、人が飛ぶ。男の敗れた服から覗くその肌は人間とは思えないほど赤く、一挙一動の度に湯気と思うほどの白い熱気が身体から吹き上がる。まるで昔話の赤鬼が現代に現れたかのようだ。
次の瞬間、赤鬼が戦闘員二人の首を両手で掴み激しく二人を叩きつける。鈍い音と共に二人の身体から力が抜け手足がだらしなくぶら下がる。手を離し逃げ出そうとした赤い男の前に、崩れたコートの中年男性が立ちはだかる。
「年貢の納め時だな、銀二さんよ」
男は映画の中でしか見たことが無いような大型のリボルバー拳銃を突きつけた。その目はまるで中世の狩人のようにぎらぎらと輝いている。銀二と呼ばれた男はその身体に残った全ての力と意思を燃やし真っ向から向っていく。弾き出された弾丸の如く男に飛び掛る真っ赤な巨体。だがその手が届く前に男の銃弾が銀二の頭蓋を撃ち抜いた。ひょいと器用に向ってくる死体をかわす中年男の瞳には殺人の罪悪感など欠片もなく、獲物を仕留めた満足感だけがごうごうと燃え上がっていた。
「班長!」
後ろから別の戦闘員が話しかける。
「功を急いて襲撃を早めたな、俺が戻るまで待っていろと言ったはずだ」
「ですが銀二たちは逃げる寸前で・・・とても班長を待っている余裕はありませんでした」
「逃げようとしていた?漏れていたのか」
「そのようです」
「まあいい、獲物は全部仕留めたんだろうな」
「一人逃がしました・・・女です。ですが肩にマグナム弾を喰らってます、遠くには逃げれないでしょう」
女かぁと一言呟くと、狩人の目がきらりと輝く。
「本部に後始末を要請してるな?片付けはそっちに任せて残りを狩るぞ、動ける奴は付いて来い!」
そう言うと男達は夜の闇に消えていった。この事を報じる新聞、ニュース、ラジオなどもとより無く、ただネットの掲示板の片隅で数多くの嘘と共に男の死は葬られたのである。
「それで、なんで俺の家に連れてきたんだ」
奥沢は眼に見えて不機嫌そうである。まあ妥当な反応だろう。行きずりの怪我人を自宅に連れ込まれたのだから。
「気が動転してしまってさ、マップ見たらお前の家が結構近くにあって・・・悪かったよ」
「悪かったですむか。カップ麺二十日分を請求する」
「おーい馬鹿言ってないで代えのガーゼ持ってきてくれ、あと包帯。しかしスッゲえなこれ。銃創じゃないか、生まれて始めて見た」
ワーワー言いながら肩口に穿かれた銃創の手当てを終えしばらくすると、彼女は目を覚ました。
「ここは・・・」
「僕の友人の家です」
「ああ・・・君あの時の・・・助けてくれたんだ」
綺麗な瞳にだんだんと生気が戻っていく。
「しっかし物騒な世の中になったもんですねぇ。傷を塞ぐどころか止血するので精一杯、よほどの大口径でぶち抜かれたんでしょう。素人巻き込んでドンパチやるなんて、最近の極道者も堕ちたもんです」
御影がペラペラとおっぱじめた。こういう誰が話し出すか迷うような時に重宝する男である。
「確かに最近何かと世知辛いのは事実だけれども、残念ながら私堅気じゃないの。ごめんね」
思わぬ返答に御影が凝固する。
「お姉さんまさか筋者って事ですか?」
「まさか!なんで面子だの義理だのまとわりつくしがらみが嫌で世間飛び出した野良犬がしがらみに塗れた極道やらなきゃならないのよ」
一同ふうと安堵する、流石にこの年でやくざ者と係わり合いになるのを躊躇しないほど胆はすわっていない。
「あら、そういえばまだ名乗ってなかったわね・・・私は彼岸花の京香っていうはぐれ者よ、よろしくね」
勤めて明るく朗らかに名乗りを上げたこの美人、明らかに一般人のそれと思えぬ立ち居振る舞いである。
「わざわざどうも、僕は御影っていう平凡な一市民です。こっちがこの家の家主の奥沢で」
「池本です、池本浩一。逢うのは二回目、ですよね?」
「ゴトで頂いた相手と二度会うなんて・・・これも何かの縁かもね。よろしくね、浩一クン」
「頂いたって・・・おいおい池本!お前あの与太マジだったのかよ!」
「ま、信じないわよねそりゃ。行きずりの女に感情を吸われたなんて話。映画で人気の吸血鬼も真っ青な大法螺にしか聞こえないわ」
「あの夜・・・一体何が起こったのか見当もつかなくて・・・あの後貴方を探して方々回ったんです。たずね歩いた先で色々聞きましたよ」
「どんな話かしら、どうせろくなものじゃないでしょうけど」
諦めに似たため息をつきながら京香の綺麗な眼はこちらを覗き込んで来る、御影なぞもうすっかり参ってしまってるようだ。
「あなたが鬼・・・今じゃサンカと呼ばれてる流浪民だって警察の人が」
「やっぱり・・・嗅ぎつけられてたのね・・・」
「おいおい池本!サンカっていやあ元は縄文の昔に端を成す放浪集団じゃないか。渡り巫女といった放浪遊女や歌舞伎踊りの観阿弥世阿弥、芸能民の礎になった孤高の流民は戦後のゴタゴタでもう居なくなったはずだぜ」
「大体あってるけど大切な事が抜けてるわね。私たちは今もここにいる、滅んでなんかいないわ。確かに世の中窮屈になってきたし山も海も全て国家のものとなり、この島から権力の手が出せぬアンダーグラウンド・・・私たち流民が棲む領域は日に日に狭くなっていった。だけど、一つ勘違いしてないかしら?」
「勘違い?」
「山に潜む闇が消え、海に沈む魔が失せたとして・・・そういうものが綺麗さっぱり払い落とされたと考えるのは愚かじゃないかしら?闇も魔も全ては人の心が映し出す暗部なのよ。今まで内側へ入れたくないばかり外へと押し出して来たとして、その外側なある領域が消滅したとしたら・・・どうなるかしら」
「かつてのダークサイドである山や海といった異界でなくなり、その背負ってきた闇が都市に流れ込んだ・・・」
「都市は定住民の住居としての側面だけでなく漂流民が潜む辺境としての側面もあるってことよ。私たちのようなのはだいぶ前から都市に紛れ込んで暮らしてきたわ」
「なるほど・・・しかし路銀や服、そしてなにより飲食はどうしているんです?仙人でもあるまいし霞を食むわけじゃあないでしょう」
京香はしょうがないわねえと笑うとその秘密を語りだした。
「桐藤源一郎って名前きいたことあるかしら」
御影が教室でやるように手を上げ答える。
「確か八十年に流行ったニューアカデミズムの寵児しとしてさんざん有名になった心理学者ですよね。学会から追放されるきっかけになった精神ネットワーク理論は後にハリウッド映画に使われて再ブームがきたっていう」
「よく知ってるじゃない、失踪したり軍の研究に関わったって噂が立ったり胡散臭い学者だけどその研究は本物よ。桐藤の研究によると精神の正体とは脳内に閉じた神経ネットワークと人間一人一人を繋ぐ意識のネットワークが常時接続されていて、人間の思考や感情には確認できないエネルギーが使われているそうよ。『その精神エネルギーは無尽蔵で無限大、最後の審判の日まで人類を繁栄させる切り札だ!』なんて学会でぶちあげたもんだから対したタマね」
思わず息を呑む告白だ。とてもあの日の出来事が無かったら信じられないだろう。
「つまりあなたは僕の感情をエネルギーとして吸ったという事ですか・・・」
「正直な所、私にもこのことの説明はよく分からないのよ・・・でもこの説明が一番しっくり来るからよく使ってるわ。そう、君の昂ぶったキモチは美味しく頂かせて貰ったわ。質にもよるけど一度吸えば二日は何もせずとも全力で動けるわ。あと大切な事はね・・・美味しいのよ、とても」
「美味いのですか」
「言葉が見つからないぐらいにね。人間の味覚って舌で食物を味わい、その信号を脳に伝えて始めて旨味が分かるもの・・・その過程をすっ飛ばして直接おいしさが脳に響くっていうのかしら?」
「つまりものを食べなくても平気と」
「感情を吸って水飲むだけで十二分に生きていけるわ。それに一年ぐらい吸ってると、もう物を食べたくても食べれないのよ。ものを食べるのってそもそも身体にとってかなり負担なことなの。消化、吸収、排泄・・・絶え間なく行なわれる日常サイクルは全てエネルギー供給のための行為でしかない。でも消化器経由外のエネルギー供給パイプが出来たとして、そっちの方が低負荷だったとしたら・・・どうなるかしら」
「そりゃあ身体がそっちにしてくれって悲鳴をあげますなあ」
「そのとおりよ、そして一度切り替えられたパイプはよほどのことが起きない限り閉ざされてしまうの。胃液の分泌も腸の運動も止まってしまえば全身の細胞に起こる老化と再生のサイクルは飛躍的に長期化し、結果人間が持つ寿命もその分延びるし老化の速度も開始も遅くなる・・・どこかで聞いた話に似てないかしら」
「ヴァンパイヤ・・・まさか、実在していたとは・・・」
「私たちの仲間は世界中何処にでもいるわ。そしてその起源は一つ、地域を支配する権力に追われ食に困った人間が編み出した技術。遺伝でも呪いでもないわ、ただ生き方が違うだけの人間よ」
御影がチワワみたいに目をウルウルさせ感動している。その隣で奥沢は瞼を閉じて座ったまま寝ている・・・いつもの光景といえるだろう。
「この国に限った話だけど、遠い昔はまつろわぬ民・・・鬼と呼ばれた縄文人の子孫だけに継承されていた技なのよ。その技が漂流民に継承されるきっかけになったのはおよそ八百年前にある英雄が技を奪った事に端をはっするわ。鬼の兵法の講談ぐらい聞いたことあるでしょう?」
「ありゃあ江戸期の創作じゃないんですか?」
「本物よ、義経が大冒険の末鬼が島から持ち帰った秘中必殺の鬼の兵法の力で平家を打ち破ったという話なんだけど、その中身こそ人を鬼に変える秘法・・・気孔を開き精神を喰らう鬼を生み出す禁呪の巻物だったってわけ。そして後年落ち延びた義経は平泉から蝦夷に向う際に漂流民の力を借りる見返りとしてこの巻物を手渡した。結果鬼族と漂流民の区別が付かなくなり両者の混雑が進んで今に至るのよ」
「まるで伝奇小説みたいですね」
「でも、そんな歴史を持つ鬼のおねーさんがなんで極道の抗争に巻き込まれてるんですか?コレが大好きな監督の映画じゃあるまいし」
「誰?」
「名前わかんない、ヤンキー映画で売り出して血みどろドバドバの人。前時代劇リメイクして賞とれなかった」
「五池監督か、ヴァンパイヤ極道・・・既にそんなの撮ってた気がする。そして俺はあの人好きじゃない、アメリカであの人枠に居るタラちゃん監督は好きだけど」
「あら、私は極道の抗争なんかに巻き込まれてもいないしそもそも抗争なんて起きてないわ。単に追われて、いや狩られているだけよ。長い間続いてきた暗闘だけど勝者も敗者もそもそも居ない。圧倒的な力の前にマイノリティが潰されているってだけの話」
「圧倒的な力・・やはり世界最大の一神教が宗教的信条に基づいて暗殺して回っていると」
「洋の東西に関わらず使い古されたフィクションの題材ね。あの宗教は今そんな事する余裕なんてない、今ある信仰を集めて維持するだけで精一杯みたいよ。私たちを追うのはいつも国家。定住民、いやマジョリティの世界を防衛するには私たちの存在は邪魔ってこと」
「しかしなんでまた国家がそんなことを、漂流民の一人や二人放っておいても体制の維持に関わるわけがないのに」
「あら、少し思慮が浅くないかしら。人は食べるために住居を定め働き食べることで生命を維持してきたわ、その理から外れた人間が一人でも居たら、今までの社会制度や国家制度の根幹が揺るがされることになるのよ」
奥沢が引っ張り出してきた酒を煽りながら付け足す。
「もしこのお姉さんみたいに飯を食わずに生活できると知ったら貧困層の人間や労働のモチベーションが低い人間がこぞってそう生きる道を選ぶだろう、そうなれば国内の経済は大混乱になり世界中にこの事が知れ渡る。今まで人類を支えてきた経済システムそのものがただじゃあすまない。経済が倒れることは他の全てが倒れる事と同じ、巡り巡って最終戦争の引き金にもなりかねん事態といえるだろう。国家もそして・・・お姉さん方をなんと呼べばいいのかな」
「さあ、元より私たちに付けられた呼び名なんて無いわ。ヴァンパイヤでもいいし流民でもお好きにどうぞ」
「じゃあヴァンパイヤで。ヴァンパイヤ族もそんなこたあ望んでいない、だからこの事は今まで公になってこなかったんだろう。そして池本が長年続く掃討作戦の場面に出くわした・・・」
「上手く纏まってるじゃない。まあそんなところだけど、ここら辺流してたのには
理由があるのよ。四年後に控えたオリンピック」
「ああ、なるほど。オリンピックに向けた国家的な風紀粛清の煽りを受けているわけですか」
「飲み込みのいいコは好きよ。よしよし」
頭を撫でられていよいよ御影の鼻の下はだらしなく伸び切っている。
「半世紀前の時と同じで、私たちへの当たりが大分強くなってきているの。それも今まで以上にね、長老方はこれを最大の危機と見なして全国に散らばる仲間達、それも二つ名が付いた大物を招集してコトに当るつもりなの。で、私はその護衛兼呼びつけ役ってわけ。でも折角見つけた関東一円に名前が響く大物、隼の銀二はアジトを襲撃されてお陀仏になっちゃった。命の張り合いの中私だけ何とか逃げおおせたと思ったら一発食らっちゃってさ。そこの浩一クンには感謝しているわ」
「いえ・・・でもよく銃弾ピュンピュン飛び交う中逃げれましたね」
「そうそう、いい忘れてた。私たちは吸ったエネルギーを身体に貯えてるの、そしていざとなればそれをロケットみたいに噴射させて常人離れした動きが出来る。すごいでしょ?」
「すんげえ・・・カコイイ」
「ね?」
京香の瞳がきらりと光る、何かある。
「さてここまで長話をだらだらとしたのは治療費代わりってわけじゃないわ。ねえ・・・私と一緒にこの業界で流さない?」
全員の意識が変わる、思いがけない提案に胸の高鳴りが止まらない。
「隼の銀二が死んだ上にただでさえ戦力不足なのよこっちは。一人でも連れて長老の基に連れてかないと・・・もう八割方の仲間は集まったしあまりまってられないけどね。そろそろ頃合かな」
「え?」
瞬間、視界が歪んだ。京香の伸ばされた白い手に意識が引っ張られているようだ。またあの時と同じように暗闇の中声が響く。
「もし仲間になるなら始めて私と会った路地に一週間後の夜十二時に来なさい。良い返事を期待してるわよ」
それだけを言い残すと京香は再び我々の前から姿を消した。
首都東京の中心とは何処であるかについて長年あらゆる議論が交わされていたのだが、今では矢張り千代田のお城であろうということで決着が付いている。そのお堀のすぐそばに、特徴的で画栄えのする警視庁本庁と地味だが威厳に満ちた警察庁が二つ並んで立っている。
警察庁十三階にある日当たりの良い一室は茶を基調に整えられた内装で、法律書が並ぶ本棚に壁に埋め込まれた警察庁のロゴマーク、部屋の隅に立てられた警察旗が部屋の持つ意味を強調していた。とどめに窓を背に備え付けられたアンティークの机とそこに君臨する高級官僚・・・逆光で顔は見えないが威圧感で大物と分かる。それらが一体となりこの部屋は完全無欠の警察官僚執務室として機能していた。部屋の中には『管理官』と呼ばれる大物官僚と『班長』と呼ばれる冴えない中年男性だけ。もはや彼らにとって個別の名など必要ないしそもそも持っているかも定かではない。
「先日の釜田での件、ご苦労だった。君の担当地区は全国一斉に行なわれた殲滅戦の内数少ない成功例だ。もっと喜びたまえ」
「こっちも向こうも情報が駄々漏れだっただけでしょう。運が良かったんですよ」
「仕留めたのはかなりの大物だそうじゃないか、官房長もお喜びだよ。今期の賞与は期待してくれてかまわない」
「しかし随分逃がしたようですが・・・そっちの追撃はどうししますか?」
「地下に潜っている連中を炙り出すのは骨が折れる・・・だがもうじきオリンピックだ。準備は進んでいるさ、金メダルも取らなきゃいけないからね」
その言葉を聞いたとき『班長』の目に哀愁が浮かんだ。
「オリンピックの顔と顔・・・そんな歌が謡われていた時代には確かにそれぞれ違う顔が町を歩いていたのかも知れませんが、今の世の中どうでしょうね、人間である前に経済的一主体であることが優先される世の中で、顔なんてものがあるのかどうか・・・」
「君はこの国の本質を何だと思うかね?民主国家という理念か、それとも歴史的統一性に求めるかはたまたあるいは経済的共同体と定義するか」
「どれでもない、というのが本当の所でしょう。何にも無いって事をうっすらと皆分かっているからこそそれを補おうと出来た共同体や倫理がこの国の本質だった・・・それだけでよかったんです。もとより国家の本質なんて辿りに辿ればボロが出る、中にいる多くの人間が幸せに暮らしてさえいれば真実も偽りも意味を成さない・・・」
「でも今は違うと」
「かつてこの国が、沖縄やタイのように微笑みの国と呼ばれた時代があった・・・らしいですね。困窮の中でも笑えた国民はいつしか金で笑う権利を買うようになった。からっぽの枠の中身が想像の共同体で満たされていた時代が終わり、この世を制するマネーパワーが取って代わった・・・誰が悪いって訳じゃない、それが時代だといわれればそれまでなんですがね、私は世の中の価値が全部金銭に置き換えられていく、金を稼いだ者が勝者で稼げない人間は敗者だという今の風潮を見ると、どうしても寂しくなっちまうんですよ」
『大物』が立ち上がりブラインドをめくりながら話を続ける。相変わらず顔はおろか姿さえろくに見えない。
「これからオリンピックに向け浄化されていく場所や人間にシンパシーを抱いているような発言だね」
「シンパシーなど無いって言ったら嘘になりますよ。浄瑠璃町はすっかり綺麗な飲み屋街になっちまった、あの町にいた妖しいアジア人や脛に傷のある人間はもう居ない・・・じき僅かに生き残っていた町や祭日を彩る屋台も国際展示ホールで行なわれるオタク共とその祭典も、落田や好原で客をとる娼伎達も姿を消すでしょう。そこに居た人間はやれ汚い恥ずかしいと追い立てられ、街に息づいてきた生活感や歴史はすっきりと浄化される。後に残るのは綺麗な、とても綺麗な町だ。綺麗な人間・・・容姿にも経歴にも人格にも能力にも傷一つ無く、過去も現在も未来も幸せな人間が住み健全に、道徳の範疇を楽しむ町が出来上がる、じきにこの国はそんな町だらけになっちまう」
「だがそれを望んでいるのは大多数の国民だ。汚い町でリスクと同居しながら生きることを望む人間はそう多くないし総合的な利益を考えても今回の浄化計画は行なう意義があるものだ。むろん国家としての面子もある、わが国だけじゃなくあのお祭りを迎える国はどこも同じことをやものさ。お祭りを迎えて、金メダルを祝って、豊かになる。実にいいことだ。それに古い町や人にノスタルジィを感じる世代は私よりもっと上の世代ぐらいだろう。君が感じる感傷は君が感じるものでは無いはずだ」
そう正論を淡々と告げられた班長は笑って誤魔化すしかない。口元が曲がり表情は柔らかくなるがどこか困った様子を隠せない。古いタイプの笑いだ。
「分かってますよ。管理官の話は一から十まで全て正しい、正しすぎる正論で目が潰れてしまいそうだ。でもどんなに正しいって分かっていても、この胸から寂しさが止まらないんですよ。私のようなどちらにもつけない半端者は、こうして引き裂かれながら生きるしかないって事でしょう・・・」
管理官が班長に向き合う、姿も顔も視認できない事に変化は無い。勿論そこにいるのだろう、SF漫画の世界であれば管理官など居なかったとオチが付くところであろうが残念ながらこれはSF漫画の出来事ではない。だがここに管理官と呼ばれる人物がいても居なくても何一つ変わることは無い。重要なのは人物でない、この部屋なのだ。部屋に居ることで管理官という役職の持つ機能が管理官と呼ばれる人物の手に委ねられる。管理官と呼ばれる人物が例えAIだろうが偽装した異星人であろうが亡霊であろうがそれは問題でない、用はその役職が機能していれば済む話なのである。故に顔にも姿にも意味は無くこの部屋に人間が居ればいいのである。
「矢張り君は中々得がたい人材だ。狩猟の女神アルテミスの事は知っているかね」
「大体の話は知ってますよ」
「そうか、本題はその神話自体で無く女神の性質にある。彼女は自身の矢で動物を殺す狩人である一方彼ら動物達の友である・・・人を救う慈しみの女神であると同時に人に害をなす獰猛な自然神である・・・狩人の両義性を表すような存在じゃないかね。君と同じだよ」
「こんな不細工な神様がいたらお目にかかりたいもんですな」
「君は彼らを狩ると同時に彼らにシンパシーを抱いている。国家の、社会の守護者でありながら社会の根幹に疑問を抱かずにはいられない・・・堪えがたい二面性を狩猟に打ち込む事で押さえつける・・・君と同じじゃないか」
「私はいい年して大人になりきれてないだけですよ・・・子供のままなら疑問を抱く知性は無く、大人になれば疑問を受け入れる分別を得る・・・どちらにもなれないナマガキです」
「だから君は狩人なのだ。報告ではまだ狩り残した獲物が釜田辺りをうろついているようじゃないか、君の仕事に戻りたまえ班長」
「分かりました・・・年が明けるまでには狩って来ますよ管理官」
そういい残すと『班長』はドアの向こうへ消え、『管理官』は部屋の備品へと戻った。それから日が暮れるまで、この部屋で声が上がることは無かった。
放課後のチャイムが鳴り響き生徒が皆下校していく中、僕は足を踏み出せなかった。明日の夜が彼女の定めた期限である、日常と非日常の境目が僕の目の前に突きつけられている。これが本屋に積み上げられた物語ならここで主人公が日常に価値を見出してお仕舞いだ。家族だ友人だと分かりやすい価値が提示され日常を選択することが幸せであるような描写で物語は〆られる。だがこれは現実だ、本当にこのまま日常に回帰してしまっていいんだろうか。
今まで通り朝起きて学校に行き勉強して家に帰る日々を送り、たまには友人と遊んだり季節のイベントを楽しみ次の進路に向かう。大学進学か就職か、いずれにしても何時かは働いて家庭を持ち子を育て老いる。なるほど確かに幸せそうだ、だがそんな思い通りにコトが進むか?もし進まなかった時踏ん張る力が自分にあるのか?この問いを答えられる人間は居ないだろう。
「おい池本、ちょっと」
御影がいつに無く真剣な声で呼んでいる。誘われるまま屋上へ行くと奥沢もそこに居た。
「呼び出した理由はわかるな」
「そこまで鈍感じゃない」
ふざけた調子がこの男から消えている。よほど深刻に考えていたのだろう。
「そうか、では結論から先に言おう。お前達がどうするかに関わらず、俺は彼女に付いて行くことに決めた」
沈黙、矢張り御影はそうするだろうと予想していた通りの結論であった。
「俺は昔から外れていた子供だった、検査にも引っかかったが別に戻ってかまわんということで学校に戻された。そこからただ運に任せて生きてきた、だが周りの人間と俺は何かが違う。回りのやつが難なく出来る事が俺には出来ない、頭の回りもとろい方だ。顔も微妙だし体力も無い。そういう人間が社会出てどんな目にあうかなんて考えるだけ無駄じゃないか」
「いびり殺される前に逃げるってわけか」
「何とでもいえ!俺は淘汰が怖いんだ!ちょっと前まですこし外れれるナで済まされた事がいまじゃあ全力で叩かれるようになった。俺の理性が俺自身に警告しているんだ、潮時だぞってさ。俺自身もこのまま生きていけるか分からないしまして俺の子孫なんて屈辱の中のた打ち回る未来しか残されないだろう・・・看板時なんだよ、俺の遺伝子は。じゃあさ、俺が最後なら思いっきり踊って何が悪い!卑小な生活者の仮面を脱ぎ捨て、虚脱なる日常から逃げ出して、ただ己が技量を頼り似生を保つ真の強者の仲間入りをすることこそが真の人間らしい生き方じゃないのかぁ!」
いつもより一際激しく、そして切実に御影は吠え立てる。奥沢は宙を見ながらとつとつと続ける。
「今やグローバリズムと経済競争の時代が本格的に訪れてしまった・・・人間は自然のままでは生きられない、だから人間が持つ弱さを補うために人は社会を、文化を、経済を作ってきた。だが今やその補助装置である経済が暴走を始めてしまった。文化資源と社会資源を根こそぎ食い荒らして肥大したシステムは無限に続く経済戦争の中に個人を取り込んで擬似的な生存競争のサバイバルを戦わせる。そこから抽出されるエネルギーでシステムが温存されるというわけだ。そしてそのシステム内の競争と別に本能的な生存競争は歴史や社会に関わらず常に行なわれている。今は二重競争の時代と言えるだろう・・・あれを見ろ」
奥沢が指差したのはグラウンドで元気にサッカーやバスケに勤しむ好青年たちだった。誰もがみなきらきらした笑顔を振りまきマイボマイボと球技を楽しんでいる。愛想がよくて頭もいい、オマケに顔も一人前と来れば彼らの人気が出ない方がおかしい。ファッションも会話もセンスに満ちて自信の輝きで眩しく見える。
「ああいう強い人たちでさえ必死になって小さなパイを奪い合い、より強くより賢い強者だけがこの社会に居られる権利を得るんだ・・・だが真の競争はこんなフツーの偏差値の学校に居る奴は戦う事すら無いだろう。この地域、いや国のトップクラスの能力を持つ人間が努力と才能を駆使して社会に居られる権利を奪いに来る。そして彼らはそれより先にあるよりよい生活を手にする権利を得るためにさらなる競争に明け暮れる。しかも相手はこの国の人間だけじゃない、世界が相手だ。命がかかっているハングリーな連中が血眼になって俺たちの居る場所を奪いにやってくる・・・機会平等の原則は逃げることもかわすことも許さない。絶え間なく加速度的に激しさを増す強者の競争に我々のような卑弱な小市民が生き残れるとは到底考えられない。今回ばかりは御影が正しい、俺も行く!それがただ一つの生き残る術だろう」
奥沢が立った、深い思慮に裏付けられた決断なのだろう。その言葉に、意思に一切の曇りは無い。
「池本、お前はどうするんだ。人生がかかってる、何も今決めろと言わんが・・・後悔だけはするなよ。もし来るのなら・・・奥沢家前に夜中十時に集合だ、身辺の整理をしておくよう。もし来ないのなら・・・もうお前と会う事もなかろう。明日は休日だからな」
「ああ、今日の夜じっくり決めるよ」
そう言い残すとおぼつかない足取りで屋上を去り、ふらふらと堂々巡りの思考を繰り広げながら帰宅した。
帰宅しても全く考えが纏まらない。人生の一大事にどうしても先に踏み出す勇気がもてないままで居る。実に情けない。やれやれと自室をでて茶を飲みにリビングに向うと、珍しく親父が本を読んでいた。普段は忙しく十一時には床に付く親父が日を跨いでまで夜更かしするのは今日が金曜だからなのだろう。久しぶりに父と話してみようという気分になった。
「今日遅いね」
「ああ、最近ようやく仕事が減ってきて土曜に休めるようになったからな。年取ってよかったと思える数少ない出来事だ」
「よかったじゃん。ねえちょっと聞いていいかな、進路の事だけど」
「一体なんだ、でも俺は最近の進学とか志位ュう職とか学校の先生より詳しくないぞ」
「そんなんじゃない。もし道が二つに分かれていてさ、片方は今までと変わらぬ平坦で無難そうに見えるコース。でもいつ崩れるか分からないし幸せになれるかも分からない、あまりに多くの人が乗っかる道だから押し出されないようにしがみつくのが精一杯、それでもって自分以外の誰かに運命を委ねざるを得ない、そんな道がある。もう一つはすこし危険な道。障害も多い上一度入ったら後戻り出来ない。勿論はいった奴だけの話だけど・・・ただ、自分の力が尽きぬ限り歩き続けられるし何より自分の意思を一番に優先できる、他の誰がどうしようと歩みを続けられる。そんな道がある。親父ならどっちを取る?」
親父は本から目を離し眼鏡を拭いてこちらを見る。自分の顔に生き写しのより歳をとった顔が覗いてきた。
「その問いには答えられない。俺が選んだ選択肢はもっと違うものだったし一つでも違えば俺もお前もここに居ないだろう・・・俺にはそんな事は考えられない。だから俺はその答えには応えられない」
「なんかずるい答え」
「ずるいさ、大人はずるくてナンボって昔上司のオッサンに教わったよ。でもその問題を考える上で重要な視点ぐらいなら応えられるぞ」
「視点?」
「まずは、その選択をする奴の気持ちだな。この質問には『どっちを取ると誉めて貰えるかな』みたいな気持ちが見え隠れしてる、それじゃあどっち取ったって変わりはないさ。次に実利的な視点だが・・・これはイーブンだな、前者のリスクも後者のリスクも等しいと言えるだろう。つまりは選ぶ奴次第だな」
「またズルっこい答えだね」
「じゃあ最後にひとつだけ、親が子に望む事は何だと思う?」
「まともに生きろとか、結婚して孫の顔を見せてくれとか」
「違うな、親が子に望む事は二つだけ。元気に生きることと幸せになる事だ。それ以外は子供への望みなんかじゃなくて親の欲望さ」
「使い古された一般論じゃないか」
「ああ一般論さ、誰もが納得できるから一般論なんだ。お前も親になればわかるさ」
ふうと息をつき出涸らしの茶を飲み干すとおやすみと言い残し自室に戻ろうとする。sすると、後ろから声が聞こえた。
「浩一、お前の人生はお前のものなんだ。そしてお前は馬鹿じゃない・・・自分を信じて自分で決めてみなさい」
自室に戻り布団に入るも眠れずにひたすら天井を見上げて思考を張り巡らせる。
自分に正直に
自分に正直に
考えろ
考えろ
このチャンスは一回きり
最初に欲目を濁らせて彼女に出会ったその日、その容姿に見とれていたのは間違いない。だが二回目は容姿にはそれほど目が向わなかった、だが何故か二回目に奥沢家で出会ったあの日の事の方が遥かに鮮烈で、忘れがたい記憶になっている。それは何故だ・・・
ふと睡魔が誘うその時にようやく思い至った。僕は彼女の美しい容姿よりも、その生き様に強く強く惹かれているのだ。社会に、世間に迎合せず自分の生き方、自分の価値観、自分の力だけで生き抜く彼女の姿はなんて力強く美しく見えただろうか・・・その身と魂は誇りに、尊厳に、気高さにこれ以上無く満ちている。
むくりと起き上がり部屋の隅にある姿見の前に立つ。冴えない、モテナイ、だらしない高校生の姿がそこにあった。この先どうあがいても彼女のような誇りや尊厳を手に入れることは出来ないだろう・・・よしんば出来たとしてもそれは金の力や地位の力によるものだ。自分自身は金や地位のお飾りに過ぎない、それに気づかないまま自分のものでない力に酔いしれるかはたまた破滅するか・・・自分の魂が声を上げる、そんなのは嫌だと声を上げる。
もう眠ってなどいられない、思考を纏めるために机に向う。ふと机の隣にある窓から綺麗な光が差し込んでくる。ガラリと開け天を見上げると、そこには天に輝く夜の女王が君臨していた。普段より一際大きく黄色い月が夜空の頂点で他の星星を圧倒するかのように輝きを放つ。答えは出た、明日が人生の門出になるだろうという確信が僕の心に灯った。
目が覚めたら朝十時を回っていた。遅めの朝食を取る間もない、急ぎ部屋を片付ける。通帳とカードを引き出しから取り出す、コレが一番大事だ。支度が出来たら真っ先に銀行により貯金を全額引き下ろす。見たこともないような大量の諭吉が財布の中に貯まる貯まる。小腹が空いたので一番気に入っているドガ盛りラーメン屋、三郎に並び脂と小麦の塊を啜り上げる。固めに茹で上げられた平ふと麺はわしわしと歯ごたえを称え、その力強さに負けぬスープは醤油が強いせいかしっかり澄んでおりガツンと旨味が凝縮された味を口の中にぶちまける。山盛りの野菜はあまり好きではないので少なめに頼んだ、このぐらいが丁度いい。スープを飲み干し満足感が全身を駆け巡る。さあ次の用事だ。
服や薬、小物など今後の生活に使えそうなものをネットで検索しつつ自分のセンスで買って行く。鞄が重くならぬよう注意しつつ、全て選び終えた頃にはもう日が傾いていた。
家に帰ると久しぶりに家族全員が揃う夕食が待っていた。これが家族で取る最後の晩餐かと思うと胸に去来するものがあるがグッとこらえて平然と飯を食う。昨日の残り、牛蒡と牛の煮付けと小松菜の煮た奴がテーブルの中央に置かれ、今日の主菜である銀鱈の西京漬が皿に盛られ置かれる。大根の味噌汁を啜りながら銀シャリをがつがつと、思い残す事の無いよう味わって食べた。ご馳走様と言うと同時に両親の姿を目に焼き付け自室に戻る。
整理された自室に思い残す事はない。時刻はまだ八時を回ったところである。まずは両親に書置きを残しておく。息子の出奔を詫び、これまで育ててくれた感謝を述べ、これからの幸せを祈ってくれと〆る。身勝手極まるが仕方ないだろう、他にも縁の深い友人や世話になった人達へ一言二言記しておく。書置きを隠しているとすっかり頃合だ。大切にしているお守りと纏めた荷物だけ持ち、新品のコートを着込み親が気づかぬ様玄関を出る。
外に出て家を見返した時、涙が一滴だけポトリと落ちた。だがそんな感傷に浸っている暇はない。急ぎ足で集合場所に向う。
奥沢の家の前では何やら黒い外套を着込んだ御影とミリタリルックの奥沢が白い息を吐いていた。
「池本・・・来たのか」
「お前なら来るって思ってたよ、最高だぜコンチクショウ!」
皆でワイワイやりながら釜田まで向う、御影が道中興奮のあまりよく分からない事を吼えてそのたびに奥沢が頭を叩く、いつもの光景だ。
「おお月よ我らを褒め称えよ!天に輝く星星もこの声を聞け!ついに我々は堕情なる日常の牢獄を抜け出し輝かしい生を得ることと相成った!日々の労役で心身をすり減らす苦しみも、明日の食物を憂う恐れも我らには無縁となったのだ!この喜びをいかに表そうか!この幸せをいかに永遠のものとするか!言える事はただ一つ!今日が人生最良のひだぁぁぁぁぁぁ」
「通報されるからやめろ馬鹿!」
「む、失敬。それにしてもまだ時間があるな、コーヒー屋で時間潰すか?」
「いや、釜田まで歩けばいい。どうせあと少しだし丁度いい時間つぶしになるだろう」
「いや、職質のリスクが高いから電車で行こう。早めについて待ってればいい」
「異議なし」
マップを確認するとすぐ傍に沼田高校があった。なら沼田駅から珠川線に乗り釜田まで出ればいい。皆の口数は少ないけれど、考える事はただ一つ。これからの新生活にわくわくしていたのだ。
釜田駅を出て堀内通に着いた。だが様子がおかしい、町全体が息を潜めるような・・・何かに怯えているような雰囲気が漂っている。
「妙だな、寂れつつあるとはいえもっともっと活気があった筈なんだが」
「なあ、なんだかおかしいぞ今日の町は。なんか京香さんに関係あるんじゃねえか」
「もうここまで来たんだ、前進あるのみ。ほら行くぞ行くぞ」
路地の向こうからはもう冬なのに何だか鼻をくすぐる夏の匂いとそれに混じった獣の匂いが漂ってくる。覚悟を決めて路地に入ると・・・
その光景にぎょっとして足が止まる。振り返ることも声を上げることも出来ない緊張感が肌に伝う。目の前ではいつか見た中年刑事が大勢の部下を引き連れ大きな銃を構えて京香に対峙している。京香はその白い肌を桜色に紅潮させとんでもない鋭さで刑事を睨んでいる。
「辞めときな、ガキ共」
刑事がこちらを振り向くまでもなく呟いた。
「どーせこいつに吹き込まれたんだろう、なあ京香ぁ。お前ら流民は技を継承してその生き方を伝える事で二千年近く生き延びてきた文化集団だ。遠い昔だったらお前らみたいなのもアリかなって見逃してもらえた筈だ。だが今は違う、お前達の持つ『飯を食わずに他人からエネルギーを吸い取る』なんて非常識な力はこの世にあっていいもんじゃねえんだよ!これでも随分狩ってきたつもりだ、残りだってそんなにはいねえだろうさ。お前ら流民が伝えてきた技も、文化も、歴史も、ここらでお仕舞いだ。時間や社会と無関係に生きていける人間なんざ天地が許しても人の世が許さねえ。これも仕事だ、恨むなよ」
「あんたの名前だって知らないし、恨みなんざさらさらないわよ。ただ世の中が私たちの生き方を認める事が出来ないってだけ、それについてどうこう言うつもりはないわ。追われりゃ逃げるし噛まれたら噛み返す、それだけよ。この稼業入った時からこうなる事も織り込んであちこち回してきたわ、覚悟は出来てるわよ」
「随分思い切りのいいお嬢ちゃんだ。そんな性格じゃあ世間でやってけねえだろうなあ。ガキ共、こっから後見ると堪えるぞ。さっさと帰ってあったかくして眠るんだ」
突きつけられる現実に心が折れそうになる。矢張り日常という檻、社会という牢獄から逃げ出すなど出来ないのか・・・だがここであきらめるわけにはいかない。すると、真後ろから蹴り上げられるような怒声が轟いた。
「京香さんを見殺しになんて出来るわけ無いだろう!俺達はその人と一緒に逃げ延びて技を身に着けるんだ。そうする事が、そうする事だけが俺達にとっての唯一の価値ある生き方なんだぁ!」
御影は勇気を振り絞り声を枯らして叫ぶ事で諦めかけた心に再び意思の炎をともす。その断末魔にも似た絶叫は仲間達の心へ熱い息吹を吹き込ませる。ここで引くわけには行かない。もうモノトーンの無味乾燥した日常には戻りたくなんか無いと各々の瞳が告げている。
「聞き分けの無い子供だな・・・おい、暴れられても迷惑だ。押さえてろ」
引き連れていた男の部下達が向ってきた。体全体から殺意を匂わせて体を拘束してくる、口が押さえられ息苦しい。あまりに強いな殺意はまるで濃霧のようだ。
瞬間、空気のかわりに漂う殺意をひょっとしたら吸い込めるんじゃないかという予感が頭をよぎる。次の一動で身体全体で息を吸い込むような今までにない動きをしてみた。なぜか漂う殺意が薄まり、押さえつける力が弱くなっていく。
「なに!コイツも仲間か」
刑事が振り返り銃口がこちらを向く。引き金が絞られる前に京香が猫のような俊敏さで拳銃を蹴り上げた。
その華麗な動きに見とれる暇などありはしない。残っていた刑事の部下達・・・特殊部隊のような格好をしている屈強な兵士がナイフを握り飛び掛ってくる。
瞬時に跳ねのき事なきを得た。全身にかつて無い力がみなぎっている、この体躯の中に彼らの殺意が充満しているのだろう。動き回りながら攻撃を避けるその間中、脳は戦闘の興奮と美味の歓喜に酔いしれていた。今まで体育の授業で十全に動かなかった肉体が嘘のようだ。ばねのように肉が伸び厳つい敵も一撃で倒れこむ。圧倒的な力を目の前の敵に叩きつける、もう数は後わずかだ。
最後の敵の鳩尾に掌撃を打ち込んだ時、彼女は刑事を絞め落とし終わっていた。
「浩一クン、あなたすごいじゃない!私が二回吸っただけで気門が開くなんて。釜田くんだりまで出張っただけあるわ。そこの二人もやる気十分だし、私の役目は果たせたってわけね。気分はどう?」
「最高ですよ・・・この世にこんな喜びがあるなんて、知らなかった」
京香はふふっと悪戯っぽく笑うとこう付け足した。
「これからますますいいことが待ってるわよそれとさ」
京香は彼女らしくないもじもじした仕草を見せる。
「二回も助けてくれてありがとう、浩一クン。これはそのお礼よ」
グッと顔が近づき唇が覆われる。あまりのことに脳の回線がショートしてしまいそうになる。御影だけじゃなく僕にとっても人生最良の日といえるだろう。ふと気づくと、点から真っ白な贈り物が降り注いでいた。
ガタガタ
ガタガタ
終電後の線路を貨物列車の車列が走る。その中に四人もの人影が潜んでいるとは誰も気づいていなかった。
「まさかこんな移動手段があるとは・・・」
「高速も駅も空港も手が回ってる頃よ。でもこれを止めるのは確証が無いとできないし管轄の関係で時間差があるの」
「うう・・・」
御影がぽろぽろと泣いている。
「おいどうした御影、家が恋しいのか?」
「馬鹿言うな、嬉し泣きだよう。とうとう俺は将来の不安に枕を濡らす日々から抜け出したと思うと・・・感極まっちまってよう」
満面の笑みでポトポトと大粒の涙を濡らす御影、ぐうぐうとマイペースに寝ている奥沢、疲れからか瞳を閉じている京香、そして僕。皆明日への期待と不安を同時に抱きそして眠る。
ガタガタ
ガタガタ
列車はただ西へ西へとひた走る。その後、小さな地方紙の紙面に高校生三人行方不明と掲載されたとかされないとか。ともかく、この日を境に三人の人生は一変したとだけ記しておく。
完
逃鬼行
こんな長いものを読んでいただきありがとうございます。
この作品、結構元ネタ多いんですよね。書いたきっかけですがこないだ押井うる星みかえしていたら久しぶりにハマりまして、何がいいかってメガネってオリキャラが吼える吼える、名優千葉繁の声で吼える吼える。ああいうキャラを書きたくなったのと伝奇でいい設定がおもいついたから想いっきり書いてみました。あとはぬーべーに出てきた気孔のおじさんが一番のネタ元かな、まあ月姫とかうる星ラム親衛隊とか相棒演出とか数えたらキリないし僕も分からないぐらいいれちゃったけど。
御影君は気に入ったのでまたなにかで出てくると思います、僕の分身だし。でもしばらく忙しいのであんまかけないかも・・・
そういえばあの後の彼らですが、まだ考えてません。御影君以外は。いつか書きたいです。
ではここらへんで!もし機会があったらまた僕の作品を読んでくれたら嬉しいです、おやすみなさい