宇宙の涙
竜の死
天空に浮かぶ島から下へ落ちれば、まず助からないと言われている。その島から三度落ちて、三度、生還した子どもがいた。
いま、翡翠に煌めく竜にまたがりl蒼天に舞う娘、ドラセナのことであった。
ドラセナの一族は天空の島にすまい、竜をしたがえ、大気に満ちる気を糧として生きる。気は、地の底から気脈を伝って地表に排出され、やがて天へと昇る。その気が澱めばたちまちドラセナたちは日々の糧を失った。
地中を流れる気の浄化は、一族にとって不可欠の任務だったのである。
その任にドラセナは今日もついていた。
「よし、ここはおわった。つぎは西へ向かおう」
ドラセナは張りのあるひと声で竜の一群を率いた。
翡翠のl鱗が太陽に煌めき、金銀の宝玉をl纏ったかのような竜を先頭に数十の竜が連なってl蒼空を泳いでゆく。一群が向かうのは西にあるウヌゼランの竜脈である。
竜脈――気脈が合流し、大きな気のながれとなったもの。
ウヌゼランの竜脈は中でもひときわ大きく、地底にも天空にも光の柱のたつほどであった。ひとたび手入れをおこたれば気の逆流や越流を起こしかねない。いまではドラセナの一群以外にウヌゼラン竜脈の浄化を任されるものはいない。
それは、ドラセナの胸に光る小さな誇りともなっていた。
蒼い空から眼下に黒々とした山脈が迫ってくる。その輪郭がよりはっきりとしてくると、竜たちはつぎつぎに四方の峰々へ散ってゆき、浄化の任についた。
竜の瞳には、気のながれ――気脈が河のようにくっきりと視えるらしい。
「どうだ?」
気のながれなど、どんなに瞳を凝らしても見えないドラセナは翡翠の竜にたずねる。
――まだ、かかるな。
答えの返ってこないところをみてドラセナは頭の中でつぶやき、忙しく働いている竜たちの様子を眼下に見下ろす。
竜たちが地に開いた気口から気流を吸い上げるたび、気脈のながれが活性化し滞りのあるところが浮き上がって視えるようになる、と翡翠の竜が言っていた。
滞りのあるところには直ちに熱い浄化のl焔が吹きつけられ、澱の溜まった気はすべて竜によって喰らい尽くされる。
自らに浄化能力をそなえる竜たちにとって、この任務はいわば食事のようでもあった。喰らい尽くされた未浄化な気は腹の中で浄化され、竜のエネルギーとなるからだ。
作業がすすむにつれ、より活力をもって身体を躍らせ始めた竜たちを見てドラセナはそろそろ今日の仕事も終わりに近づいた、と思い始めていた。
やがて、翡翠の竜が竜脈のながれる一帯をゆったりと巡回しはじめた。地表にほど近いところまで降り、鱗に覆われた肌で気のながれや波動を感じ取る。すべてが澄み渡り、清いながれとなっていれば翡翠の竜は高度を上げて天空へもどる。その日の浄化任務が終わるのだ。
まさに翡翠の竜が蒼空へ舞い上がり、鼻から熱い息をひとつ吐いたところで、ドラセナは声をあげようした。
が、その瞬間、視界のど真ん中が真っ二つに割れた。
鋭い閃光がおだやかな風景を切り裂いて地に落ちた。
一頭の小さな竜が閃光に打たれて落ちてゆく。
まるで無音のスローモーションを見ているような感覚にとらわれる。だが、すべては零コンマ一秒とかかっていないのだ。
ドラセナを乗せた翡翠の竜が小竜を追って瞬時に急降下する。降下する竜の背で、ドナセラは再び地に落ちる閃光を視界の端に見た。
はっとして上を見上げると、空に無数の光の礫が散らばり、雨のような閃光がウヌゼランの地に降りそそいだ。
「離れろ!離れるぞ」
ドナセラは上ずった声を張りあげたが、それも虚しく仲間の竜たちがつぎつぎと閃光に打たれ落ちていった。
唖然とするドラセナ。
ぐったりとした小竜を一頭、口にくわえたまま翡翠の竜が全速力でウヌゼランから遠ざかってゆく。ドラセナの瞳に最後に映ったのは、咄嗟に仲間を救おうとして自らも打たれ落ちていった仲間の竜たちの姿であった――。
疾風のごとく飛び去る翡翠の竜の背にうずくまり、豪風の爆音を聞きながらドラセナの意識は徐々に遠のいていった。
怖れ
翡翠の竜が雷のような咆哮をあげて空を鳴らしている。
ドラセナが目を覚ますと、あたりは微風に吹かれる蒼空の下だった。
竜の咆哮に応えて四方から幾頭もの竜たちが集まってくる。閃光の雨の中を生き残った竜たちである。
ドラセナは集まってきた竜たちを見渡して愕然(がくぜん)とした。そこに、ドラセナの率いていた竜たちの半数もいないのが明らかだったからだ。
ドラセナは全身を引き裂かれるような痛みを感じ、崩れるように竜の背に突っ伏して泣いた。
――なんてことだ……。
空を揺るがすほどの大声をあげて泣きじゃくりたかった。が、胃をつかみ必死に洩れる嗚咽を堪える。
――率いるものが打ちのめされてはいけない。
突っ伏したまま翡翠の竜に頼んだ。竜の遠瞳(とおめ)でウヌゼランの様子をさぐってくれと。
竜は腹の底に声を響かせ、ゆっくりと答えた。
「まだつづいておる」
聞き慣れたはずなのに、まったく見ず知らずの声のように白々しく聞こえてくる。
ドラセナは自分の心と現実をなんとか結びつけようと必死だった。
「な、んだったのだ、あれは?」
かすれて、声にさえならない。
「判然とせぬが、父ならば或(あるい)はわかるやもしれん」
「竜王か、」
ドナセラは腹に鉛をのみこんだように、その言葉をかみ砕いた。
――そうだ。竜王へは告げねばなるまい。この竜たちの損失を……。
不意に空から襲ってきた閃光。ドラセナに予見の能力がないとはいえ、竜の一群を率いるものとして避けることのできなかった自責の念を、一身に味わっていた。
「その小竜を巣で休ませよう。それから、わたしをあの島へ降ろしてくれ」
ドラセナは正気を取り戻して、ゆっくりと言った。
翡翠の竜の片腕には、だらりと力を失った小竜が抱えられていた。痛々しいその姿は、ドラセナの胸を悲しみに塞いだ。
くっと前を向き「さぁ行こう」と促す。
無論、竜の速度ならば、巣への往復などものの数分で済んだだろう。他の竜に小竜を預け、すぐに竜王謁見に向かうことだってできた。
だが、ドラセナには、ささやかな休養が必要だったのだ。風におどる草花に囲まれ、小さな泉のさざめくドラセナだけの島で。
翡翠の竜は、言われたとおりにドラセナを島へ降ろすと、ものも言わず空の霞と消えていった。
ドラセナは鬱々とした頭の中で、夢のような出来事にも思われる閃光の雨を理解しようと努めていた。
――あれは、なんだったのか。
ドラセナは蒼い空を映し出している穏やかな泉をのぞきこんだ。
同じ泉を向こう側からも少女がのぞいている。
空と同じ肌の色をした顔。燃える太陽のような色をした髪。豊かにウェーブしたそれは、ときおり、風にあおられてはもつれ、額を覆った。
ドラセナは、その中央にある彼女の瞳をとらえた。
あの竜とおなじ翡翠色。
唯一、気に入っている顔のパーツ。
だが、今日はその光の奥に、見知らぬ恐怖の色が浮かんでいるのが視えた。
――わたしは怖れている……。
ドラセナは躊躇いながら、その闇に見入った。
――おまえはだれだ?
暗く渦巻く恐怖の闇。ドラセナは闇が自分を見つめるように、闇を見つめ返した。
闇はなかなか沈黙を破らない。
――なにをわたしは怖れている?いや、なにも怖れてなどいない。怖れるものなど、何もありやしない。
打ち消そうとすると、たちまち心の奥にひそんでいた戦慄がもくもくと煙のように噴き上がり、恐怖はもはや否定しがたいものとなった。
ドラセナは慄(おのの)いた。まるで、己の心の内に飼っていた獰猛(どうもう)な化け物に、いま気づいたとでもいうように。
安全だと信じていた自分に裏切られるという衝撃は、新たな不安と恐怖をも呼び起こした。
――ダメだ。
闇にのみこまれそうになったドラセナは、思わず泉の水をばしゃっと額に浴びせかけた。
「戻ろう、ドラセナ。いつものわたしに戻ろう」
声に出して自身へ呼びかけ、荒い息をしている身体を土の上へ投げ出した。
ぬけるような蒼い空が瞳に飛び込んでくる。空に浮かぶ大地は、太陽の光を蓄えて温かかった。
ドラセナは瞳を閉じ、肺の奥までゆっくりと息を入れた。背から地中へ根が延びてゆく。それは島の植物たちの根と絡み合いながらさらに奥深くまで延び、島の集めるエネルギーを吸い上げた。地上の花々や木々の匂いはドラセナの昂(たかぶ)った神経を和らげ、風に揺れる草花が肌をやさしく、くすぐった。
ドラセナはゆっくりと瞼を開いた。高い空の上を悠々と泳いでいる翡翠の竜が見える。
――優雅だ。あんなにも美しい姿があってよいのか……。
ドラセナは、その立派な竜が自分のような小娘に仕えている滑稽さを思って、くすっと笑った。それからすっくと立ち上がると、身体についた細かな葉屑や土をはらい、空に声をかける。
――いくか。
翡翠の竜は物もいわず風音も立てず、すっと島の淵へ横づけし、ドラセナが軽々とその背へ飛び乗った。「竜王謁見の空」へ向かうのである。
宇宙の涙
次回 「怖れ」