箱庭にて
この館には人魚が棲んでいる。
ホールの中央に据え置かれた大きな水槽の中、色硝子が填まった窓から散らばる光を一身に受けている彼女がそうだ。
その瞳が開くところを見たことはまだない。
ヨーは分厚い毛布にくるまりながら、白い息を吐いてその水槽を見上げる。
淡い金色の髪が水の中で緩く弧を描き、細い髪の一本一本が意思を持ったように動くさまは、いつ見ても飽きることはない。
水槽に手を当てると、ひた、と小さな音がして、黒いグローブ越しに冷え切った水の温度が伝わってくる。
細くしなやかな彼女の身体中を彩る真珠の粒。そのひとつひとつが縫い付けられたまま、消えない泡のごとく彼女に添う。
細やかな装飾を施されたレースの衣服は、美しい彼女によく似合っていた。
まとう腰布が水の中でも優雅になびいている。
「またここにいたのか、ヨー」
「マドラック」
玄関のドアがぎいと鈍い音を立てながら開き、途端に冷たい風が屋敷へ飛び込んできた。
寒さに強いマドラックは慌てる様子もなく、片手に薪を抱えながら足を使って重たいドアを閉める。
彼が着ている真っ黒なレインコートは、冬の雨に濡れてしっとりと光沢を放っていた。
ヨーは毛布をかき集めながら、マドラックの傍へ寄る。
外ほどではないとはいえ、広々とした屋敷の中はキンと冷え込んでいて、吐く息を白く染めた。
いとけないミルク色の頬と鼻先が、赤いインクを落としたようにじわりと滲んでいる。
履いている短いズボンから伸びた足は棒のごとくまっすぐで、膝はなだらかな二枚の貝殻のようだ。
「暖炉の薪?もうなかったっけ?」
寄るなりそう言って首を傾げると、真っ白な髪の毛の合間から黒い角が覗く。こめかみの辺りから生える二本の角は、きついカーヴを描くアンモナイトに似ている。
ヨーよりわずかに上背のあるマドラックは、両手で薪を抱えながら星屑を閉じ込めたような銀の瞳を一瞬だけ瞬かせた。
「お前は寒がりのくせにそういうところは全く気付かないんだな、どういうことなんだ」
半ば呆れた声でそう言ってから、ゆっくりとした動作で薪を足元に下ろす。
「マドラックはどうして暖炉を使うの?」
「暖房だと空気が乾いて嫌なんだ」
ホールには二人の声と雨風が窓を鳴らす音とが響いている。他に人の気配はなかった。
自由になった両手でレインコートを脱いだマドラックは、それを玄関先のコートスタンドに無造作に引っ掛けた。
鉄製の黒いスタンドは、レインコートをひとつ掛けたぐらいではびくともしない。
裾から落ちた雫のひとつひとつが広がり、やがて床にいくつかの円を描く。
レインコートを着ていても濡れるのか、シャツの下から伸びる黒い羽がきらきらと光っていた。
「雨、やまないな」
館の外が晴れたのを二人は見たことがない。
終わらない冬に閉ざされた世界の中で、もう何年も、何十年もの間、二人は自分たち以外の生き物を知らない。
――この水槽に閉じ込められた人魚以外は。
「今日で何日目だったっけ?」
「覚えちゃいないよ。――多分二百年は経ってるんじゃないか?」
かつてこの屋敷の主人はヨーやマドラック、そしてこの人魚のような変わった生き物を集めるのが大層好きだった。
趣味が高じてこの屋敷はそういった珍しい生き物を閉じ込めた大きな檻となり、やがてこの場所は自然の成り行きか見世物小屋となった。
しかしその面影は今はなく、主人の姿も、集う人々の喧騒も、もはや遠い日のこと。
「マドラック。ボクたちいつまで生きるのかな?」
「知ったこっちゃないよ。生き物なんだからいつか必ず死ぬだけさ」
マドラックはやけに淡白に答える。
ヨーは唇を尖らせて拗ねた素振りを見せた後、水槽の元へと戻っていった。
「ねえマドラック。この人魚は生きていると思う?」
赤色の強いマホガニーで出来た台の上に、金属の豪奢な留め具でしっかりと固定してある巨大な水槽は、彼女一人には大きいような気がした。
元々は彼女以外の人魚もいたのかもしれない。
「死んでいたら腐肉になるだけなんじゃないか?この人はまだ綺麗だ。たぶん、眠っているだけだと思う」
「そう。――じゃあ、起こしてあげよう」
唐突だった。
ヨーはまとう毛布の下から大きな木槌を出すと、足を大股に開いてぐいと腰を捻り、その勢いをもって水槽を叩き割った。
その華奢な体のどこにそんな力があるのかとマドラックは一瞬感心したが、ヨーがこの後始末をしないだろうことに気が付いて思わず声を荒げる。
「おい、誰が掃除するんだよ!」
「ボクとキミ以外誰もいないんだからいいじゃない」
マドラックの怒声に、ヨーはあっけらかんと笑って答える。
割れた水槽から勢いよく流れ出る水を、ヨーとマドラックは器用に避けた。
「……なあ、起こすって言うけど、人魚が水から出て生きてられるのか?」
大量の水と共に解き放たれた人魚は、冷たい石の床の上に横たわったままぴくりとも動かない。
頬に張り付いた金色の髪の毛のひと房を、ヨーは指先で摘まむとそっと剥がしてやった。
髪の毛と同じ色の長い睫毛が頬に影を落としている。薄い桃色の頬と薔薇色の唇は、とても死んでいるようには見えない。
「動かない。やっぱり死んでるのかな……」
横たわる人魚のそばに屈んだヨーが、そう呟いて立ち上がろうとした時だった。
「…………随分乱暴に起こされたわ」
硝子を鳴らしたように澄んだ、しかしけしてキンと高いだけではない、不思議な柔らかさを持った声がした。
固く閉じられていた瞼が静かに開き、嵌めこまれた二つの碧玉がヨーを見つめる。
海底から見上げる陽の光は、水の色を含んでこんな風に潤むのだろうかとヨーは思った。
「マドラック!やっぱりこの人寝てたんだよ!」
「……うーん、さすが人魚の声だな。綺麗だ」
船乗りを惑わすという人魚の歌声については、ホールの奥にある大量の本に記載がある。
ヨーは全く興味を示さなかったが、書架に並ぶ本に書きつけられた文字たちは、マドラックの長い余暇のいい暇潰しになった。
「……文献には人肉を食うとか書いてあったけど、あいにくヒトはもういないしな……」
はしゃぐヨーとは対照的に、マドラックは供する食事について頭を悩ませていた。
「ねえ、ボクはヨー。あのコはマドラック。アナタは?」
「あたくしはユーンジュよ」
起き上がっても立ち上がることは出来ない彼女に合わせるように、ヨーは屈んだまま尋ねている。
美しい声でそう名乗った人魚は、流れるような仕草で一つ伸びをした。
「息は出来る?」
「ええ。けれど、このままだと尾ひれが乾いてしまうわ」
「……ボクの靴下をあげたいけど、その大きな尻尾には入らなそうだね……」
「ヨー。あっちに使ってないバスタブがあったろう。あれを運んで水を張ろう」
マドラックがそう声をかけるやいなや立ち上がったヨーは、毛布を水浸しの床へ落としたことも忘れてバスタブのある浴室へと向かっていく。
後を追う格好となったマドラックは、やれやれと言うように緩く首を振った。
「ねえねえ、すっごい綺麗な人だねマドラック」
「ああ。……そもそもおれはヨーより後に入ったからな。ここに。女の人を見たのは、初めてだ」
「んっとね、人魚の人は、もっとたくさんいた気がする!でも、もうあんまり覚えていないや」
そう互いに交わしつつ、えっちらおっちらと振り子のように揺れながら、華奢な少年たちの腕が白いバスタブを運んでいく。
ようやくホールまでついた頃にはお互い汗だくだったが、後先考えずに水槽を割ってしまったヨーは責任を感じてか、水道から何度もバケツで水を運んだ。
「このバスタブじゃあの水槽には程遠いね……、割ってしまってごめんなさい」
ようやくバスタブに落ち着いた人魚を前に、ヨーは小さくなって謝る。
シフォンかオーガンジーで出来ているような透けた尾びれをバスタブから出してひらひらと振りながら、ユーンジュは縁に腕を乗せて優しげに笑う。
「あら。あたくしは好きよ」
その様子を見ていたマドラックは、奥の書架から黒い布張りの本を一冊持ってきた。
表紙に点々とインクのシミがあるその本は、この館の主の日記だ。
「この日記だと、同じ規模の水槽が二階にもあるそうだ。エケーテって男の人魚がいたらしい」
「……あたくしの水槽にいた人魚ね。兄だわ」
「それは……、――会わせてあげたいけど。でも、ボクたちだけじゃ、二階にはいけないね……」
この館は二階建の広い建物だ。しかし二階の廊下は多くの家具でバリケードが張られ、とてもじゃないが二人だけではどうにもならなそうだった。
ヨーとマドラックは、遮蔽物のない一階で暮らしている。幸いキッチンやトイレ、寝室や居間などがある一階は、生活するにさして不便はない。二人だけなら、なおさらだ。
日記のページを繰る音が響く。
「あと、ラズリットとオブシディアンって人魚もいたって書いてあるな。けど、この人たちは他の館に移されたみたいだ」
「ええ、ええ……。何だかずいぶん昔のことのような気がするわ……海原で彼らと過ごした日々が……」
ヨーとマドラックは、親の顔すら覚えていないうちにこの館へ来た。
家族を知っているユーンジュは、きっとまだ幸せなほうだろう。
口には出さないまま、お互いに顔を見合わせて少しだけ微笑む。
「お腹減っていない?ボクとマドラックが作ったサンドイッチがあるんだ!一緒に食べよう」
「……おいヨー。彼女、サンドイッチ食えるのか?」
「まあまあ。食べてみないと分かんないよ」
そう言ってヨーはキッチンからサンドイッチを持ってくる。
四季が死に絶えたのはずっと昔のことだ。
人間たちが生きていた頃、長い冬に閉ざされた世界でも生き抜けるよう構築された様々なシステムのおかげで、ヨーとマドラックは飢えたことがない。
暖房はマドラックが嫌がるせいであまりつけたことはなかったが、暖炉もあるせいか凍えたこともなかった。
小さな二人だけの世界は、それだけできっと幸せだったことだろう。それは二人がよく知っていた。
「ええっとねえ。これがチーズとハムで、これがきゅうりのピクルスとお肉のパテ。これはブルーベリージャムとクロテッドクリームだよ」
皿の上に並んだサンドイッチをひとつずつ指さしながらヨーが説明する。
マドラックは隣に並ぶと、パテのサンドイッチをひとつ指に挟んで口にした。
バターとパテの香りの合間に、ピクルスの酸味が広がる。
「うん、美味い」
「ボクはこれが好き」
そう言ってヨーが手にしたのはジャムのサンドイッチだ。甘いものが好きなヨーは、時々自分でジャムを煮る。このジャムもヨーが作ったものだった。
「初めて見る食べ物ね……」
ユーンジュは注意深く観察した後、チーズとハムのサンドイッチを、その白い蝋燭のような指で摘まんだ。
ぱく、と口にした後、何度か柔らかな頬が動く。
咀嚼したサンドイッチを嚥下したのを確認するなり、ヨーはすぐさま「おいしい?」と尋ねた。
「美味しい……!」
「良かったなヨー。お気に召したようだ」
マドラックはそう答えながら、食事は自分たちと同じで済みそうなことに安堵していた。
手に持ったひとつを、ゆっくりとではあるが食べ終わった後で、ユーンジュは小さく唇を開く。
ヨーとマドラックがキッチンへ行って温かな紅茶を用意している時だった。
今までどんなレコードでも聴いたことがない、澄んだ柔らかな声がホールに響き渡ったのだ。
「おい、彼女歌っているぞ……」
「……ボク、こんなきれいな声、初めて聴いたよマドラック……!」
あいにく歌詞は話し言葉とは異なるもので織りなされているようで、ヨーとマドラックにその歌の意味までは分からなかった。
あやうく取り落としそうになったポットを持ち直して、カップとソーサーを三つ、ユーンジュの前に運ぶ。
そうしてユーンジュの歌が終わると、二人は満ち足りた気持ちで拍手を打った。
「ユーンジュ!とてもきれいな声だね」
「ふふふ、久しぶりに歌えてあたくしも嬉しいわ」
花がふわりとほころぶような美しい笑顔に、彼女は起きていた方がずっときれいだと、ヨーは水槽を割ってしまった後悔も吹き飛んだようだ。
「おいヨー。……なあ、嘘だろう、雨がやんでるぞ」
屋根を叩く雨音がないことに気が付いたマドラックは、重い玄関のドアを開け放って呆然とつぶやいた。
その声にヨーも思わず玄関の方を見やる。
開け放たれたドアの向こうは、まだ灰色の雲が厚く層をなしているのが見えたが、長きにわたって降り続けていた雨は止み、時折雲の隙間から陽が差すさままで見えた。
その光景が信じられず、ヨーはぱちぱちと目を瞬かせる。
「えっ?二百年は降っていたのに?」
「……これが偶然だとしても、人魚の歌って、すごいな……こんな奇跡あるかよ」
並んで立つ少年たちの後ろ姿を見ながら、上機嫌の人魚は再び歌い始めた。
流れていく雲の間から、鮮やかな青い空が溢れたのを見て二人は思わず歓声をあげる。
我慢できずに外へ飛び出していったヨーの真っ白な靴が泥で汚れるのを見て、マドラックも呆れながら館の外へと出ていった。
「あたくしも脚があればついていけたのだけれど」
残されたユーンジュは残念そうに一人呟くと、皿の上に載っていたサンドイッチをぱくりと頬張った。
この館には、猫脚のバスタブで微睡む人魚が棲んでいる。
時折響くその美しい声は、静かに春を呼んでいるようだったが、彼らがそれを知るのはもっとずっと後のことだ。
<了>
箱庭にて