彼の休日と裏表※挿絵位置調整中

挿絵・蜻蛉 巽様

 朝起きたら、明らかに下心の透けて見えるいい笑顔を浮かべた男の腕の中だった。オレが女だったら悲鳴を上げている所だろう。いや、下心が見えているんだから同性でも怯えていいのか。どうも思考が遠回りしている気がする。寝惚けているんだな、と思いながらオレは無言の儘其奴の顔面を殴った。常習犯なので今更怯えるも何もない。迷うことなく何時も通りの対応だ。ただ、少し、何時もよりいい手応えがあった気がするが、まあ、寝惚けていて加減を間違えたことにしよう。謝ったりしたら賠償として何を要求されるか考えただけで悪寒がする。
「ぐっ…お、おはようございます、我が主」
「おはよう。目覚めは清々しくないが、理由は聞くまでもないな?」
「…ええ、まあ、起こしついでにほっぺたつんつんしたりぷにぷにしたりなでなでしたりしましたが、ベッドに引っ張り込んだのは貴方のほうですので悪しからず」
「今日は鎧着てないし暖かかったんじゃないか…?…ああ、ねむい…」
「いやちょっと、ちょっと待って下さい主、シーセ様!御用があるからわざわざ起こしに来てるんじゃないですか!そりゃ休みの日の朝は二度寝に限りますよ!?そういうもんですよ!?正しい休日の過ごし方ですよ!?でも私の話聞いてから寝て下さい、ね!」
 こんな残念な変態だろうが何だろうがオレの騎士で、四六時中護衛としてオレにくっついている男、キーフェルがもう既に半分寝かかっているオレの肩を揺さ振る。
 キーフェルが今言ったが、今日は休みだ。世間一般の休日であるという意味ではなくて、オレが休みだ。そしてオレの休日がそのまま此奴の休日になる。仕事をしてようがしていまいが、家にいようがいまいが、そんなことを襲撃してくる連中が気遣ってくれる訳も無いので、オレが休みだからといって護衛が休んでいい理由には本来ならないのだが。そうでもしないと此奴は不眠不休で働きかねないので強引にそういうルールにした。スキンシップ過剰な以外は問題ないを通り越して忠誠心の塊だったり戦闘能力も間違いなく此の国最強だったりで、多分毎日働かせてもタフさと器用さと根性で乗り切りそうな奴ではあるんだが。オレが、個人的に、此奴に一個人としての時間が無いのが嫌だったから休ませている。
 とはいえ、此の国での騎士は完全に主の所有物という扱いだ。主の許可無しには出歩くことも出来ない。遠距離恋愛中の恋人に会いに行くぐらい勝手に行け、と思うがそうも行かないらしい。まあ実際此奴らの場合国境越えるからそんなに気楽に会いに行けるわけでもないんだが。今日中に帰ってくるなら問題ないから早く行け、とベッドに潜り直しながら適当に相槌を打つ。オレは眠い。でもまた肩を揺さ振られる。煩いまたベッド引っ張り込まれても知らないぞ。どうもオレは寝惚けてると誰でも彼でもベッドに引っ張り込んで抱き枕にして寝るらしい。自覚は全くない。ある程度以上信頼してる奴以外なら部屋に入ってきた段階で目が覚めて、そんなことは起こりようがないからまあ問題ない。
「キル…寝かせろ、まだなんかあるのか…」
「大事なこと忘れてます!ほら主、アレですよ、アレ!行ってらっしゃいのチューがま」
 まだです、と言い掛けたキーフェルをもう一遍殴り飛ばして寝る。一瞬とはいえわざわざ起き上がってやったんだから満足だろう。どうせ殴られても喜ぶし。サービスしすぎた程だな、嗚呼いいことした、と清々しい気分で眠りに落ちた。

「おはようございます、旦那様」
 次に目が覚めたとき、今度は穏やかな女性の声に起こされていた。目を開けて声がしたほうを見れば、寝室のドアの所に見慣れたメイドが声そのままの穏やかな笑顔で立っている。改めて失礼しますと一礼して部屋に入ってきて、ベッドの横のカーテンを開けた。眩しい。元から明るいより暗い方が落ち着く性分なのもあって、光から背を向けて寝返りを打つ。くすりと笑われた。
「そろそろ朝食をお召し上がりになったほうが。お昼になってしまいますよ」
「…お前に言われたら仕方ない」
「此のヴァニラ、旦那様の信頼にお応えできるよう、今後とも誠心誠意お仕えして参ります」
 余り巫山戯るな、と起き上がりながら苦笑して言えば申し訳ありませんと誇らしげに笑ったまま頭を下げられる。オレより幾らか年上なだけの此の国で尤も若いであろうメイド長は、今日も仕事人としてのプライドにかけて絶対に笑顔を崩さない。大した物だと思う。どちらかといえばプライドが高くて少し気が強いぐらいの女性が好きなんだろうな、と恋人の顔を思い浮かべながら伸びをした。
「朝食はお部屋までお持ち致しましょうか?」
「…いや。外で食べる」
「畏まりました。では暫くお待ち下さいませ」
 一瞬考えて、其れから否定した言葉の意味を聞き返しもせずにヴァニラが下がる。流石オレが抱き付き魔を発動しない程度には目が覚めるまで絶対部屋の入り口より先に入ってこないだけあって、実に話が早い。オレのことをよく分かってくれている、と思いながらベッドから起きだして身支度を整えはじめる。理解者が多いことは純粋に幸運なことだ。増して其れが家臣として側にいてくれるなら、尚更。オレは恵まれた主だ。しみじみそう思う。
 さて、休みだから私服でいいんだよな、と考えながらクローゼットに向かおうとして。机の上に置いてある畳まれた服を見て止まった。足も頭も止まった。ゆっくり息を吐いて、顔を手で覆う。なんでこうマメなのか。行動力のある馬鹿ほど面倒なものもそうそうない。
「…あの馬鹿…出掛けるときまでやらんでいいだろうが…」
 自分で見もしないクセに、と思いながら服の上に置かれたメモを手に取る。何が似合うと思って買っておいたので着て下さいだ、文末の感嘆符が文字なのに喧しい。二つも三つもでかでかと付けるんじゃない。例によって女物なんだろうな、とうんざりしながら人にあれこれ着せるのが趣味の騎士が選んできた服を広げる。キーフェルのセンスは、嫌いではないし、どちらかと言えば好きなので、冗談で露出度が高いどころの騒ぎではなかったりえらくフリルの多いワンピースなりを持ってこられたとき以外はそのまま着る。今回のも、オレが、体型的に女物のほうが合うから仕方ない、と自分の華奢さを恨む以外は特に問題なかった。
 すっかり身支度を整え終わり、寝室の隣のリビングでぼーっと一息吐く。窓の外を眺めて、一羽の鷹を見付けて開けろと窓の前でバタバタされる前に開けてやる。窓際の専用の止まり木の上に止まった鷹が、機嫌良さげに羽をバサバサと広げて鳴いた。
「おはよう、ウェルク。お前も一緒に飯食うか?だったら少し待ってろ」
 指を差し出せば自分から頭を寄せてきて、そのまま撫でてやれば気持ちよさそうに目を細める。こういうときは可愛いのに。鷹の姿のときは可愛いのに。人語を話し始めると途端素直でなくなる使い魔的存在の羽を軽く広げさせて毛繕いもしてやる。このまま寝るんじゃないかと思うぐらい気持ちよさそうにしている。
「お待たせ致しました旦那様。ウェルクさんもおはようございます」
 バスケットを抱えて戻ってきたヴァニラの挨拶に羽をばたつかせて返事をしているところも上機嫌そうだ。肩に乗せてやって部屋を出る。
「お前、朝食は…とっくに取っているか」
「はい、旦那様にお腹が空いてふらふらしているところをお見せするわけにいきませんから」
「ちゃんと食事だの休息だの、取っておかないとオレのことも叱れないしな。此の後の時間は空いているのか」
「旦那様のご用命に敵う予定など御座いませんよ」
 だから意地が悪いというのだ、と言えばヴァニラがくすりと笑う。此ぐらいタフでないとセルウォス家のメイド長など務まらないのだろう。何せ王の次の家だ、其れを幾ら代々仕えている家系の出だからと言ってたった二十やそこらで任されているとあっては其れなりに風当たりも強い。まあ、若いクセにと誰かが文句を言うたびにオレが出て行って、こんなに若い未熟なばかりの人間が猊下などと呼ばれていて私自身心苦しい限りですと全力で泣き落としを掛ければ大概は黙る。純粋にオレに絆される単純な輩もいるが、何せ王の次の位だ、喧嘩を売る度胸のある人間はこそこそとメイドに難癖を付けたりしない。
「昼食の準備に取りかかるまでは空いております」
「そうか。なら其れまで付き合え」
 畏まりました、と一礼したヴァニラの顔が営業スマイルではなく笑っている、はしゃいでいると言っても過言ではないほど。着いてきたいのなら最初からそう言ってもいいんだぞ、と思うが、立場上余り差し出がましいことも言えないのだと理解している。主に察しろと言う方が横暴だろう、とも言えてしまうが、其れがオレにとって対した負担でないなら別に構わないと思う。いい家臣を持つことが出来た幸運に報いる方法は、いい主でいる他ないのだから。
 肩の上のウェルクがヴァニラの持つバスケットの中身の匂いに反応して身を乗り出し、乗っているなら大人しくしろ、暴れるなら降りろと叱ったりしながら屋敷の一階まで降り、広い道を抜け幾らか細い道に入る。あくまでこの屋敷の中では、という基準だが。オレ以外はみな朝食を取り終わってとっくに仕事を始めている時間帯だ、屋敷の中は其れなりに騒がしい。
 昔は人の気配がするだけで落ち着けずに殺気立っていたが、今は此ぐらい人の声が聞こえた方が安心する。特にトラブルが起こっているでもなく、沢山の人間が日常を送っている音。いいものだな、と思っていたら明らかにトラブルをくっつけた忙しない足音と悲鳴混じりの声が聞こえてきた。日常がトラブルで構成されている、ちょっとばかり不器用すぎる人間が駆け寄ってくる。
「お姉ちゃーん!」
「こらショコラ!お仕事中にお姉ちゃんって呼ばないの!其れよりまず旦那様にご挨拶でしょう!」
「え、あっ、も、申し訳ありません旦那様!おはようございます!」
「ああ、おはよう。ヴァニラに何か用か?」
「は、はい、少し宜しいですか?」
 其処は先ず主に挨拶をし、其れから主の連れに対して用があるのだが構わないかと窺いを立てるべきだろうとヴァニラが姉に比べてしまうと、いや、比べなくとも随分と落ち着きのない妹を叱る。叱り方が如何にも姉妹の遣り取りらしくて微笑ましい。なるべく威圧してしまわないよう、出来るだけ穏やかに手短に済ませるようショコラを促した。口を出さずに姉妹の遣り取りを見守る。
 こういうことがあって、混乱して、こういう風に対応してしまった。一体どうしたらよかったのだろう。そして此の後はどうしたらいいのだろう。混乱してしまって何も分からず困っているので助けて欲しい、と混乱していると言うわりに実に順序よくショコラが状況を説明する。口調こそ震えたり上擦ったりどもったりして些か聞き取りにくいが、内容はしっかりしている。順序立てて説明できている、ということに限らず。此奴は何時もこうだ、と頭を抱える他ない。
 ヴァニラがくるりとオレを振り返る。オレが頷く。意見の一致を見た。ヴァニラがどうしようどうしようと涙目で手をバタバタさせてるショコラの肩に手を置く。落ち着きなさい、と押さえ付けている手にかなりの力が籠もっているのが傍目にも分かった、指先が白い。
「いい?ショコラ、落ち着いて。落ち着いて聞きなさい」
「ふ、ふぇえ」
「泣かないの!…あのね、その問題、もう解決しているの。起こったトラブルに、貴女は適切に対処しました。対処し終えています。貴女は立派にやりました」
「…へ?」
「其れ以上お前が気に病むことは何もない。相手が何か言ってきたとしても、そんなのは正論を突き付けられて自分の身勝手な主張を退けられた者の逆恨みだ。…お前は能力に見合っただけの自信を身に付けろ、過小評価で潰してしまうには余りに勿体ない」
 此で更に卑屈な発言を重ねるようなら、貴様の歪んだ自己評価によってオレの所有物を使い物にならなくされるのは気に食わない、とでも言ってやる所だが。幸いショコラは其処まで捻くれてはいない、少々パニックに陥りやすいだけだ。きょとんとした顔をした後目を輝かせているのやら気恥ずかしさに死にそうになっているのやら、真っ赤になったショコラが勿体ないお言葉をありがとうございますと裏返った声で叫びながらガバリと頭を下げる。そのまま固まって一向に顔を上げないのでヴァニラがよいしょと首根っこを掴んで引っ張り起こす。其れでもやっぱり真っ赤になったままで、微笑ましくて少し声を上げて笑った。部下のしたことで主が笑うのは馬鹿にしているようで余り良くはない、とは思うのだがどうせ此の姉妹は遠い親戚で半分は身内だ、気楽に接していてもいいだろう。
 どうにかショコラを落ち着かせ、ついでだから着いてこいと同行させ、屋敷の裏庭に出る。
「ハティー、スコール。出て来い。少し遊んでていいぞ」
 其れなりに巨大な檻を開け、何故かオレを群れのボスと認識してしまっている狼二匹を外に出してやる。些か乱暴にじゃれつかれそうになったウェルクがバサバサと飛んで逃げる。追い掛けようとした狼兄弟をキャーと歓声を上げつつメイド姉妹が捕獲した。毒蛇も毒蜘蛛も可愛い可愛いと言って撫でようとする連中だ、現飼い犬の元野生狼如き彼奴らにとってはよちよち歩きの子犬と大差ない。ふかふかの毛並みに顔を埋めて悦に浸っている。邪魔をしてはいけないな、と少し離れた木陰に座り込んでバスケットを横に置いた。にゃあ、と側で寝ていた年老いた三毛猫が一声鳴く。
「おはよう、お母さん。膝乗る?パンくず落ちちゃったらごめんね」
 のそのそと膝に登ってきてくれて、其処で丸くなったお母さんの背中を撫でる。母猫だから、お母さん。とっくに子育てなんて終わって孫所かひ孫ぐらい普通にいそうなくらいだけど、一時期子猫と混じって面倒を見て貰ってた身としてはやっぱりお母さんだ。
 たじろぎつつも何だかんだ姉妹に遊んで貰って楽しそうな狼共からほぼ完全に興味を失われて、自由になったウェルクが此方まで飛んでくる。すとっ、と二本の足で綺麗に地面に着地した。
「ご子息様ご子息様、一緒にご飯食べさせてくれる約束でしょ、サンドイッチ一個下さい。出来れば肉入ってるの」
「好きなの取れ」
「やたー!やーもうさっきから滅茶苦茶いい匂いしてるんですもん。えへ」
 一緒に飯食うかと誘ったからには飯を寄越せ、と人間の青年に化けたウェルクが不貞不貞しい態度でバスケットを覗き込む。かと思えばサンドイッチ一切れですっかり上機嫌だ。地面に胡座を掻いて座りながら両手でサンドイッチを持って幸せそうにもぐもぐと食べている。お前は鷹じゃないのか、栗鼠みたいになってるぞ。此奴が文句を言い始めるとほとほと面倒臭いので思うだけで言わないが。
 ピクニックみたいで楽しいですね、と言ったウェルクにそうだなとだけ頷いた。

 割と休みの日はあの木陰で昼寝をして過ごすことが多い、のだが。今日は眠くならなかったので諦めた。思いの外二度寝でしっかり寝れてしまっていたらしい。仕方ないから部屋に帰るか、とお母さんを膝から降ろし狼を檻に戻し、姉妹と別れて自室に戻ってきた。ウェルクも伝書鳩ならぬ伝書鷹として飛ばしてしまったので誰もいない。
 キーフェルは出掛けてしまった。恋人とは休みが合わなかった。三人いる兄さん達とも見事に合わなかった。弟子のような義理の弟のような悪友のような何だかそんな感じのアレもキーフェルが恋人に会いに行った隣の国に使いとして出しているから不在だ。誰もいない。本当に誰もいない。
 正直に言うと、寂しい。結構な確率で甘ったるいと言われるココアを入れたマグカップを両手で握り締めながら途方に暮れる。部屋の掃除でも、と思ってもよく働くメイド達がいるお陰で手を付けるような場所はないし、そもそも大して私物がない。武器類の手入れもやりたがる鍛冶師がいるお陰で自分でやるのは触らせていない短剣一振りだけだが、其れだって誰にも触らせたくないほど大切にして肌身離さず持ち歩いているのだから、そもそも汚れてなどいない。することがない。手持ち無沙汰だから寂しくなる。なら何かをすればいい。其の選択肢も思い浮かばない。
 嗚呼ならもう、休みの日とはいえ自分一人で出来ることなら特に何も支障ないから仕事するか、と思ったところでノックの音が転がってきた。余りにいいタイミング過ぎてむすっとしながら扉を開ける。どうせ彼奴だろうどうせ彼奴らだろう、ほらやっぱり。ドアの向こうに見慣れた騎士が二人。今紹介しろと言われたら無表情な方がオレの片腕のクリフォトでヘラヘラしてるほうが其の相棒のアクヴィだ、ぐらいぞんざいな扱いをするだろう。今無性に投げやりな発言がしたい。
「マスター、宜しいですか」
「…何だ」
「そろそろすることがないから仕事でもしようか、とお考えになる頃合いかと思いまして。休みの日なのですから仕事をされては困ります」
「…相変わらずお前はオレのことを分かり過ぎているほど分かっているな」
「お褒め頂き光栄です。仕事を切り上げて来ましたので一緒に遊びにでも行きませんか」
「…行く」
「っしゃー!ンじゃまず昼飯食いに行きましょーう、マスター奢って!」
「アクヴィ、僕怒るよ?」
「じょーだんじょーだん、ニシシッ!年下にたかるほど大人げなくねェって」
「まあたかる以前にお前らの給料払ってるのオレだけどな」
「…マスターちょっと刺々しくありませン?」
「甘えてるんだほっとけ」
 分かられ過ぎて腹が立つ、嗚呼腹が立つ、とむくれる理由はつまりそういうことだ。さっさと白状する。此奴らは騎士であると同時に友人だ、三つ年上の同性の友人。休みで遊びに行くと言うんだから完全に其の扱いでいいだろう。ちょっと待ってろと別に閉める必要もないのに態とらしくバタンと扉を閉め、上着を羽織って戻ってくる。ンじゃ行きますか、とヘラヘラしたアクヴィが言い、何か荷物があればお持ちしますが、と淡々としたクリフォトが言った。全くいいコンビだ。
「何食い行きますー?」
「酒が美味いか甘い物が美味いとこ」
「マスターってばもー流石お酒かココアしか飲まない人なんだからー…」
「マスター、其れは何処に食べに行くかであって何を食べに行くかとは微妙に違います」
「何でもいいぞ?…嗚呼でも、そうだな。朝食がサンドイッチだったから其れとは違う系統の物がいい」
「じゃあトーストとかハンバーガーは止めておきましょう」
「ハイじゃー俺肉、クリフ野菜でじゃんけんナ!勝った方に行く!」
「おい、肉が食いたいなら素直にそう言え」
「せめてアクヴィ牛肉僕豚肉マスター鶏肉とかでじゃんけんしようよ」
「…お前も何故即座にそう割り振った?」
「あ、違うのがいいですか?そうですよね羊肉とか魚肉とかも選択肢に入れていいですよね」
「………。まあ、その、其の三つから割り振れと言われたらイメージは間違っていなかったと思う」
「ちげーよクリフ、マスターは自分があっさり味だったことに地味にショックを」
「アクヴィ、クリフが信じかねないから変なこと言うな」

 結局昼食はパスタになった。何故こうなったのか分からない。どういう会話があってどういう流れでこうなったかは分かっている、分かっているが分からない。何故アクヴィがミートソースのミートって肉じゃね?と目を輝かせたのか分からない。お前は其れでいいのか。まあ今満足そうな顔でクリフと喋ってるからいいんだろう。オレもワインとデザートが美味かったから満足だ。細かいことは気にするもんじゃないな、と穏やかににこにこ笑っているクリフを見ると思う。楽しそうにしているのにわざわざ水を差してもオレだってつまらない。アクヴィに一言、お前は馬鹿だな、と言ったら其れでいいとクリフが深く頷いた。よし。
「ちょっと!ちょーっと!俺が馬鹿なンは別にいーですよいーですけどナニ無言で通じ合ってンですか!クリフの相棒は俺なんだーかーらー!マスターにだってあげませンかーらー!」
「…騒がしいな」
「丁度馬車が着いたみたいですね。念のため乗客の定員と其れを越えた場合の対応について確認しておきます」
「ああ、あくまで確認だけにしろ。街の中のことだ、直接の管轄はオレじゃない」
「では後程机の上にでも資料を置いておきます」
 口を出そうにも当然街の長と話をしなければならないのだが、正直アレと揉めたりするのは面倒臭い、とオレと同年代の女性の顔を思い浮かべる。間違いなく仕事は出来る、其れこそオレが言うのもなんだが年の割にしっかりしている。扱う手順さえ間違えなければいいのだが、きちんと踏まえればいいのだが、如何せん其れが面倒臭い。悪い奴と言うほどでもないが女って口喧しくて面倒だよな、という定番の文句を体現したような奴だ、あのリリスという女は。刺激しないよう穏便に情報だけ収集しろ、というオレの指示にクリフが頷く。そんなに事故の発生でも懸念する人手なのか、と好奇心に駆られたらしいアクヴィが自分が無視されたことを無視してクリフの肩越しに身を乗り出した。
「ンー?予約制じゃなくてやっすい飛び込み大っ歓迎ー、な方の馬車ですか」
「お客さんに聞こえるところで安いなんて言うもんじゃないよ」
 乗っていた人を貶めているように聞こえるから止めた方がいいと相棒に怒られたアクヴィがケラケラと笑うが、此奴の場合此でいて反省していない訳じゃないから別にいい。馬車から降りてきた乗客目当てに張り切る周囲の店の客引きに引かれてふらふら何処かに行っているが、まあいい、ほっとけ。
 其れにしても人が多いな、と辺りを見渡した。この内どれだけの人数が同じ馬車に乗っていたのか。元々あまり治安の良くない地域から出ている馬車だ、喧嘩っ早い客も多いだろうから狭い空間に長時間詰め込めば詰め込んだ分だけトラブルの発生率が跳ね上がりそうな物だが。尤もトラブルに腕力なり知力なりで対処できる自信がある者しかあんな地域の馬車など担当しない。そう言う意味では信頼しているしあまり心配もしていないのだが、だが。身元のしっかりしない者でも好きでそんな境遇で生まれ育った訳ではないのが大半だろうし、寧ろその状況を脱する機会を設けなければ貧民層は増えるばかりだろうがいいからお前ら纏めてうちに来いオレが雇う、と宣言した当人としては問題が起きないか気が気でない。オレの我が儘のせいで誰かが被害を被るのが怖くない訳がなかった。
「マスター。お仕事は後でですよ」
「…お前だって」
「私は帰ったら続きをしますから。貴方は一日お休みの筈です」
「一人称。…『今は』休みなんだろ」
「…ごめんなさい。でも、僕は貴方が折角のお休みを楽しめないのは嫌なので」
 心配事があるなら其れを取り除く手助けをしたいが、仕事モードになられるのもあれこれ考え込まれて落ち込まれるのも嫌だ、とクリフがしゅんとしながら言う。嗚呼もう、お前がいい奴なのは分かってるから。拗ねただけで怒った訳じゃないからそんなに凹まないでくれよと少し笑う。同じだけ安心した顔になったクリフが店先の果物に夢中になっているアクヴィを捕まえに行った。確かに引き寄せられたくなるような林檎だと此処から眺めていても思う。
 さて、あまり離れたところから眺めていても心配させるだろうしそろそろオレも行くか、と足を踏み出し掛けて。咄嗟に視線が動いた。頭より先に体が反応し、対象を視界のセンターに捉えてから状況を認識する。躊躇なく声を張り上げた。
「クリフォト!」
 オレの声に反応した二人がハッと周囲を探った瞬間、子供の手が林檎の一つを攫った。クリフォトが一番近い。即座に子供の腕を掴む。
「ちょっと君、今の見てたよ、何してるの?」
 口調こそゆったりと穏やかだがこの状況下でありながら穏やかというのは返って凄みがある、表情も全くの無表情だ。クリフォトの完全な無表情には底冷えのするような空虚感がある。人の良さそうなぎこちない表情の下に隠した顔。真っ直ぐに見下ろされた子供が真っ直ぐに見上げ返す。其の顔に怯えはなかった。大した肝の据わりようだ、と賞賛を込めて吐き捨る。不味い、と強く地面を蹴って駆けだした。彼奴は些か子供に甘い、本気を出せる奴じゃない。本気ならそもそも手で腕を掴んでなどいないだろう。
 子供が掴まれた腕を振り解こうとするかのように一歩引き、其れから全く逆の方向に力を込める。腕を外側に流されて体勢を崩されたクリフォトの腹に勢いの儘体重の乗った一撃を加え、身を翻しつつ脛に蹴りを入れた子供が跳ぶように路地裏に消える。
「クリフ!?ちょっアイツ何気にすげェ!何気にっつーか普通にすげェ!」
「感心、してる場合、じゃ…げほっ」
「アクヴィ、此の場はお前に任せる!」
「ハイハイ行ってらっしゃーい」
「すみ、ませ…」
 いいからお前は休んでろと腹を押さえて蹲るクリフォトを宥めつつ、弾みで散らばった商品を片付けながら店主に声を掛けているアクヴィに後を任せて逃げた子供を追う。足ならオレが一番早いし、何より細い路地裏で動き回るというのなら圧倒的に。よりにもよってこの街で、オレの街で、嗚呼。
「…なァクリフ、今のマスターの顔見た?」
「…凄く、楽しそうに笑ってたね」
「狙った獲物は逃がさない、なお人だかンなー。…おチビさんご愁傷様」
 後ろで友人二人がやれやれと肩を竦めながら囁き合っているのが聞こえるが、全く其の通りだ。嗚呼、面白い。血が騒ぐ。追われていることに気付いてすらいない子供が辺りを窺いながら走る。道と追っ手を探しているのだろう、やはりこの街には不慣れだ。逃走ルートの確保すら出来ていないのに盗みを働くとは余程の自信があるのだろう恐れ入る、実に愉快だ。其の楽しい気分そのままに飛び掛かって地面に押さえ付けた。まあ、笑いながらとはいかないが。あまり刺激しても仕方ない。
「うわぁ!?てんめ、どっから沸きやがったんだよちくしょー離せ!」
「最初からいたぞ?諦めるんだな」
「女に捕まるとかぜってぇ嫌だー!」
「……女?」
 嗚呼そうか、そうだな、如何にも異性に対して無駄にライバル意識を持っていそうな年頃だな、女に負けるなんて恥ずかしいと真面目に思っている年頃なんだろうな。で、誰が女だ。今何て言った?と何か不味いことを言ったと分からせるようにゆっくりはっきり低い声で問い返す。じたばたと藻掻いていた物の一向に抜け出せず既に諦め駆けていた子供がビクリと固まる。
「お、女のガキに掴まるなんて絶対嫌…」
「…オレは今、お前を二発殴っていいな?誰が女で誰がガキだ、どう見積もってもお前よりは年上だと思うがお前の言うガキとは何歳までだ?常識的に考えて十六歳未満か十八歳未満だろうな?」
 此の国での成人はある意味二段階だ、飲酒喫煙などは十六歳からだが一人前という扱いを受けるのは十八歳から。なのだから確かに十八歳未満は自分との年齢差に関係なく一括りに子供と言ってもいいだろう、いいだろうが。
「オレは此でも十九歳の男なんだが…?」
「うっそだぁ!っていてててて!」
 文句を言う代わりに押さえ付けている膝に力を込める。分かったから降参するから謝るから止めてくれと子供がオレの体を叩いた。本当は年下に見られるのも女に間違えられるのも慣れすぎて最早苛立つのも馬鹿馬鹿しい、と諦めているぐらいなのだが、此の場合は反省させた方がいいだろうと怒ってみせた。盗みが悪いことであるという世間一般の道徳の部分よりか個人的な部分で怒りに触れた方が恐ろしいのだろう、盛大に怖がって平謝りなので仕方ないから離してやる。
「悪かったって。あんたみたいな美人初めて見たんだもん、女だって思うじゃんしょーがねーだろ」
 ぎこちない愛想笑いとお世辞で機嫌を取りつつ、ぺたんと力無く地面に座り込んだ子供が押さえ付けられていたところをさする。煽てられて気をよくして落ち着いた風を装いつつ痛くしてすまなかったと心配そうな顔をして、手を伸ばせば届くが、程度の距離の所に座る。痣になったらどうすんの、とすっかり敵意を無くした人懐っこそうな金髪というか黄色い髪の子供がふて腐れてむくれる、が。
「逃がすか」
「ギャーもー油断しろよバカー!」
「頭は其れなりに回るようだし演技も悪くはないが、如何せん洞察力が足りないな」
 隙を突いてダッと駆け出しかけたところを一歩も進ませない儘もう一度捕まえる。態と隙を見せられたと気付けないとはまだまだだな、とがっしり組み敷いて見下ろせば負けを悔しがる顔で唸られる。もう完全に諦めたようだ。再び離してやれば胡座を組んで背を丸めてまだまだ唸っている。
「お前、此の意味が分かるか」
「…髪?と目?しるわけないじゃん」
「…そうか。分かった、ありがとう。其れで、お前の名前は?」
 此の国で青髪青目はオレ一人しかいない。女に間違えるぐらいだからオレのことを知らないのだろうなとは思ったが、青の意味も知らないらしい。はっきり言って青髪と青目が特別なことは一般常識だ、其れすら持っていない生まれなのだろう。盗みに関しても当たり前のことだと思ってやっている可能性が高いだろうなと思いつつなるべく穏やかに問い掛けた。態とらしく友好的な笑みを浮かべるつもりはないが、間違っても頭ごなしに怒るつもりもない。お前と話がしたい、と本心そのままの顔で話し掛けるが、やはりふんと態とらしく鼻を鳴らしてそっぽを向かれた。せめて名を聞くなら先に其方が名乗れと噛み付いてくれたら良かったんだが、其れすらない。念のためもう一度名前は、と問い掛けてみる。返事はない、顔を背けた儘で振り返ってすらくれない。
「教えてくれないのか?」
「………」
「そうか。なら仕方ないな…何と呼ぼうか。子供じゃ大雑把過ぎるだろう。…そうだな、よし」
「…何」
「ひよこ頭」
「はぁ!?」
 些か投げやりに放った適当すぎる呼び名に納得がいかないという顔で仮名ひよこ頭が勢いよく振り返る。いい食い付きに思わず吹き出したくなるがどうにか堪えて、何となく口から飛び出してしまったが案外いいじゃないか、と気に入ってきてしまったような顔をして畳み掛ける。
「其処までひよこみたいな色した髪の奴はそうそういないぞ?オレの一番目と二番目の兄も金髪だが全くひよこらしくはない。いいじゃないか、他の奴には無いお前だけの特徴を捉えていると思うぞ、ひよこ頭。其れにひよこ可愛いじゃないか。丁度お前自身ひよこみたいな年齢だし」
「ひよこひよこ連呼すんな!」
「其れでひよこ頭、お前さっきの馬車に乗ってきたんだろう?」
「ひよこ頭じゃねぇよ其れで話進めんな!テオだ、テオ!俺の名前!テ!オ!」
「…何だ、ちゃんと名前があるんじゃないか」
 よかった、と一瞬驚いて固まって、心底安堵して気が抜けたようにテオと名乗った子供を見下ろす。テオが呆気にとられた顔を返してくる。オレは内心笑い出したくて堪らない訳だが。あっさり引っ掛かるなよ、可愛らしい。子供は些か単純で生意気なぐらいがいい。
「テオか、テオ。いいな、格好いいが無骨すぎずに少し柔らかい。いい名前じゃないか、胸を張って教えてくれたらよかったのに。テオ。いい名前だ、呼んでいて心地いい」
「そ、そう、か?ま、まあ、その…俺も気に入ってるけど…」
「オレも気に入ったぞ、テオ」
「ああ、も、あんま呼ぶなよな!じゃああんたは!あんたの名前なに!」
「…シーセだ。シーセ・セルウォス」
 余り褒められることに慣れていないのだろう、満更でも無さそうに鼻の頭を掻いたテオが真っ赤になって声を張り上げた。暴れた拍子に地面で擦ったのか鼻に傷が出来ていて、触ってしまって痛そうにしているから見せてみろと怪我を覗き込みながら名を名乗る。怪我をさせるつもりは無かったが負わせたのはオレのような物だろう、オレのミスでしかない。黙り込んで目を細めたオレの心境などお構いなしに、なんかふわふわした名前だな、とテオが言う。そうかも知れないと少し笑った。
「其れで?さっきの馬車で来たんでいいんだろう。一人で来たのか?」
「おー、普通に一人で忍び込んで乗ってきた。一杯いたんじゃ忍び込めないじゃん」
「そうだな、隠れるの得意か?」
「得意だ!あと仲間の中でも俺足早いし喧嘩強いほうだったんだぜ」
「オレの仲間倒して逃げたもんな、もう一人の奴も凄いって驚いてたぞ」
「だろー?へへ。でもシーセ俺より足早いし強いのな!すげぇじゃん!」
「ありがとう、強い奴に褒められると嬉しいな。テオはどうして仲間がいたのに一人でこの街に来たんだ?」
「前んとこよりこっちのがでかい街じゃん、あとすっげぇ貴族様が住んでるんだろ?貴族って金持ちのことだろ?金持ちって美味い物食ってるんだろ?じゃあ同じ林檎盗むんでもこっちの街で盗んだほうが美味いんじゃね?って思ったからこっち来た!」
「成る程な。じゃあずっとこっちで暮らすつもりだったのか?」
「うん。行きの馬車のが混んでて忍び込みやすかったし。帰ろうとして捕まったらやじゃん」
「仲間と離れるの、寂しくなかったのか?」
「…別に。どうせ前のとこにいてもすぐみんないなくなるじゃん、俺がいなくなっても変わんない」
「…そうか」
 聞いているオレが自然笑ってしまうほど、褒められた内容ではなくとも怒りも呆れも浮かべきれないで苦笑するしかないほどずっと楽しそうに嬉しそうに話していたのに、しゅんと悄気て泣きそうなぐらいの顔をするから、其れはとても悲しくて寂しいことだなとテオの頭を撫でてやる。抱き締めて背中をぽんぽんと叩いてやっても何の抵抗もされなかった。しがみつかれる程ではなかったが。ゆっくり息を吐いて、沢山自分の話をさせてしまった分今度はオレが自分の話をする。
「オレも昔、テオがいたようなところにいたから少し分かる。オレは最初人間の仲間もいなくて、偶々仲良くなった野良猫とゴミ漁ったりしてただけだけど。みんな直ぐに散り散りになる。はぐれてそのまま会えなかったり、病気になって死んだり、誰かに殺されたり」
「その後は?今は人間の仲間いるんだろ?シーセはどうしたの?」
「オレか?…オレは、大きい組織に拾われて、人を殺したり自分の体売ったりして金を稼いでた。其の金で自分の命を買った。毎日毎日自分を売って、其の金で自分の命を買い続けた。…周りに人は沢山いたけど、其奴らは仲間じゃなかったんだ」
 どうして、と言いたそうな顔をしてオレを見るから、オレは所有物だったから仕方ないんだと笑ってくしゃりと髪を撫でてやる。悲痛な顔をしてくれるから感受性の高いいい子なんだろう。初対面の人間に此処まで情を移しているのは無防備じゃないかとも思うが、其れは寂しさの裏返しなのだろう。
「お前は?テオは、そんな目に遭ったりしてないか?」
「ないよ。そういう、奴もいたけど…でも俺は、人、殺してないし…体、売ったりもしてない」
「そうか、ならよかった。お前が其れをとても嫌なことだと知っていてくれてよかった」
 殺人や売春の経験の有無を確かめようとしたオレの狡さに気付かないで本気で泣きそうになっているテオを、心底愛おしいと思うのも本心だ。情が云々と言うなら、其れは多分オレもだろう。人間は自分を救うことを諦めると他の誰かを救いたがるらしい、救えなかった自分の代わりに。今のオレが救われていないとは間違っても思わないが、其れもまた一つの事実だろうと思う。
 さて空気を変えるか、と多少悪戯っぽく笑ってテオの顔を覗き込んだ。
「テオ。だが今オレには仲間がいる。盗みを働いたお前を捕まえて怒ろうともしている。お前にオレはどう見える?」
「…金持ちっぽい」
「ははっ、そうか、いいだろう。正解だ、何故ならオレがこの街の凄い貴族様だから」
「うっそだあ!」
「嘘じゃない。オレが神子だ。憶えておくといい、青い髪と青い瞳は特別だ、特に瞳の方はな」
「何で特別なの?」
「嗚呼、そうだな…お前はどんな奴を凄いと思う?」
「んー?…俺より強い奴とかー、すげぇ手先が器用な奴とか?」
「ああ、其れでいい。賢い子だ。自分に出来ないことを出来る奴を凄いと思うだろう?青い瞳の奴は其れ以外の奴に出来ないことが出来る。だから凄い凄いってもてはやされて偉い奴にされている」
「ほんとは偉くないみたいに言うんだな」
「偉いというのは、貴族に生まれたから偉いんじゃなく努力をした奴が偉いんだ。例えば鳥が空を飛べるのが偉いとして、其れは鳥に生まれたから偉いんじゃない。其の翼で飛べるようになる努力をしたから偉いんだ。青目は他の奴に出来ないことが出来る。だが其の分其れをちゃんと使えるようにする努力をしないといけない。偉いとしたらただ其れだけの理由だ」
「ふーん」
「少し長かったな。さて、テオ。オレはお前を怒ろうとしていると言った。其れは何故だ?」
 げっ、とあからさまに嫌そうな顔をされた。罪悪感を感じているいないは全く別の問題として、しかし何かを盗めば当然店主に怒りを向けられたりそれどころでは済まなかったりする経験や知識はあるのだろう。盗みが怒られるような行為だ、という自覚はちゃんとあるらしい。
「謝りに行こう」
「やだ。っていうか話してて忘れてたけど腹減ったから俺もう食う。今食う。って、あっ!ちょっ、返せ!返せー!」
「オレが返す相手はお前じゃなく店だと思うがな。其れともお前に返してお前から店に返すか?」
「おーれーがーくーうーのー!」
「駄目だ。…テオ、お前取引って分かるか?相手が喜ぶことをして、自分がして欲しいことを相手にして貰う。まあ物を買うのも此に含まれるが」
「…分かる…腹減った…」
「オレと取引をしよう、テオ。お前は今日一日このままオレの話し相手をする、そうしたら代わりにオレがお前に飯を食わせてやる。どうだ?」
「乗った」
 悪い話ではないと思うが、と促す前に即答された。あまりの迷いのない即決に少なからず面食らう。真っ直ぐ見上げてきたテオから咄嗟に視線を逸らしそうになるほど驚いた。テオから奪った林檎を片手に一瞬固まる。其れから本当にいいのか、という怪訝そうな表情を浮かべつつテオの顔を覗き込む。
「決断が早いな?」
「貴族って美味いモン食ってんだろ!?貴族の飯食ってみたい!」
「成る程そういうことか、やはり頭の回転は悪くない。なら一緒に行こう、ほら」
 目を輝かせるテオになら仕方ないなと笑って、ますます気に入ったと手を差し出す。促せば、案外あっさり手を繋いでくれた。考え込むように目が泳いでいるときに怯えているような表情が見えたのは、拒否して途中で逃げるつもりだと思われるのが怖かったのだろう。逆らわないで拘束された方がよさそうだ、という葛藤と結論が見えた気がした。まあまず謝りに行くけどな、と告げればビクリと体を強張らせられるが、手を振り解かれる訳ではなく最終的には縋るように握り締められた。オレが一緒に謝るから、と微笑みかければうんと小さく頷く。
 そんな訳ですっかり気落ちした様子だったのだが、やはり子供だ。好奇心には勝てないらしい。裏から戻るのではなくきちんと表通りに出れば、通行人や立ち並んだ店にすっかり視線と心を奪われている。きっと目新しい物ばかりだろう。単純に放っておくと何処かにふらふらと引き寄せられて迷子になりそうだから手を繋がせた、というのもあるが、実際こう見ていると其れで正解だったようだ。
「か、ふぇ?ってなんだ?なんか食い物屋か?」
「お前、文字読めるのか?」
「読めるぞ!んと、あれがパンだろ?や…や、きたて?お、もち…かえりでき、ます!お、お、おー…おみやげ、に?」
「凄いじゃないか、単語だけじゃなく文章読める奴なんてそうそういなかっただろう」
「えへー。あ、あれも読めるぞ!えと…」
 強いだけでも凄いのに、と驚いて見せれば照れ臭そうに笑ったテオが得意げに目を輝かせながらあれこれ指差して辿々しく読み上げてみせる。あまり人が沢山いる中で腕を伸ばすと危ないぞ、とぶんぶん振り回されかけていた腕を引っ込ませつつ凄いと褒め続ける。引き寄せられてオレに擦り寄りながらテオはずっと大はしゃぎだ、懐いてくれるのは嬉しいがちょっとばかり懐きすぎじゃないかと心配になってくる。其れから指差してみせる先が飲食店ばかりだ、食べ物絡みの文字しか読んでいない。不憫だ、屋敷に連れ帰ったら腹一杯食わせてやろう。飢える苦しみは知っている。
「ごひゃくー、ひゃくきゅ…ひゃくきゅーじゅーはちー!」
「数字まで読めるのか?」
「三つまでしか分かんないけどな!」
「三桁、だ。三つって言うといちにいさん、までしか数えられないみたいにも聞こえるだろ?」
「へへっ、俺そんな馬鹿じゃねーもん」
「…じゃあ、今お前が読んだ数字の意味分かるか?」
 馬鹿じゃないなら分かるだろうと少し声のトーンを落として問い掛ける。ビクリとテオの体が強張った。分かっているらしいし、オレが咎めようとしていることも分かるらしい。反応したのは後ろめたさというより最早オレに嫌われるのが怖いといった類だろう。そう思ってくれていた方が説教はしやすいが、其処までオレに依存させたい訳ではない。早めに他の人間とも親しくさせるべきだろう。
「値段だって分かってるんだな?書いてある金額を払わないと駄目なんだぞ」
「知ってるけど。いーじゃん、別に。一個ぐらい。自分で食う分しか盗ってない」
「…お前、パン屋には最初からパンがあると思ってるか?」
「…どゆ意味?」
 感情を押し込めた無表情の儘テオがオレを振り返る。明確な拒絶こそ示している物の話を聞いてくれる気も其れについて考えてくれる気も無い訳ではないのだと安堵した。オレの声を聞いてくれるのなら其れでいい、とゆっくりと語り出す。
「パンの作り方って知ってるか?まあ細かい手順はいいんだが。幾つかの材料を混ぜ合わせて其れを焼くんだ、何となく想像出来るな?ということはパン一つ焼く為にはまず幾つかの材料を買わないといけない、オーブンにくべる薪も買わないといけない、作る者への報酬も必要だ。パン一つに一体どれだけの手間と金が掛かる?商品を盗まれれば店は儲からない、其れは当たり前に分かるだろう。だが本当は儲からなくなるんじゃない、貧しくなるんだ。得られないんじゃない、失うんだ。沢山あるんだから一つくらいどうってことないと思っていたんだろう?沢山売って漸く利益になるんだ。お前のしていることは一つずつ積み上げて漸く山になった金貨を、沢山あるんだからといいだろうと一掴みに奪っていくような真似だ。其れは最初から其処にあった訳じゃない」
 分かるな、と呟くように問う。段々と表情を変え、呆然としたような顔でオレを見上げていたテオがゆっくりと前を向いて、其れから黙って頷く。神妙な面持ちになっているテオに流石賢い子だと笑いかけて抱き寄せた。心根の優しい子なのだろう、誰かが悲しむのは嫌なのだろう。
「林檎だって同じだ。自然になっているのを取ってきて売っている訳じゃない。土地を切り開いた人間がいて、苗木を植えた人間がいて、其の木を育てて面倒をみてきた人間がいて、此処まで運んできた人間もいる。当たり前に其処にある訳じゃない。だから謝ろう、な?」
「うん…」
 そんなこと考えもしなかったという顔で悄気ているテオの頭を撫でてやる。知らなかったから犯した罪だ、知って其れでも犯した罪とは意味合いが違う。無知は罪だというのなら釈明の余地などないのかも知れないが、無知でしかいさせなかったこともまた罪だろう。償うべきは、どちらもだ。

 二人で店主に謝って、テオが盗んだ分や落として傷を付けてしまった分はオレが弁償として買い上げた。幾らか金額を上乗せしようかとも思ったのだが、神子様にそんな風に謝らせてしまったらいっそ全部タダで差し上げたい程だと冗談めかして、しかし半分本気で言う物だから定価の金額を受け取らせるのにも四苦八苦した。この街はよく言えば心の強い、端的に言えば頑固な者が多い。
 ついでに救急箱を借りてテオの傷の手当てをしてやって、鼻に絆創膏を貼り付けたテオは今小高い山の上にある屋敷への坂道を上りながら幸せそうに林檎を囓っている。俺も俺もと騒ぐアクヴィに態と少し取りにくいところに林檎を一つ投げてやれば、よっ、と声を出して華麗にキャッチしたアクヴィにテオが歓声を上げた。クリフには普通に手渡す。贔屓だとアクヴィが喚くが、見せ場を作ってやっただけだろうと言えば満足そうにニヤニヤ笑った。扱いやすくて助かる。
「どちらかと言えばアクヴィじゃなくクリフォトに名誉挽回のチャンスをやるべきだったか」
「…先程はお見苦しいところをお見せして申し訳ありません」
 恥ずかしい限りだと凹むクリフを原因であるテオが痛くしてごめんな、と気遣う。盗んだことを謝るだけでなく乱暴をしたことも自主的に謝ってくれたお陰で既に関係は良好だ、オレが悪かったと謝りながらテオの傷の手当てをしたのがいいように作用したのかも知れない。人の行動を真似て直ぐに吸収できる年頃だ。折角だから仲良くじゃれて貰うか、と一つ閃いた。
「よし、テオ。クリフとゲームをしよう。まずお前が此処を真っ直ぐ走って逃げる、十秒後にクリフが動き始めて更に其処から十秒以内にお前を捕まえられたらクリフの勝ち、テオが逃げ切ればテオの勝ち。クリフォトには道具の使用を許可する。意味は分かるな?」
「畏まりました、お任せを」
「オレの騎士を格好悪いと思わせておく訳にはいかないからな」
 他の誰の騎士より強くあって貰わねば困る、と喉を鳴らして笑う。クリフォトは自慢の片腕だ、舐めさせておく訳にはいかない。そしてまたオレの意図を汲み忠実に結果を出すからこその片腕だ、負ける訳がない。テオはすっかりゲームと聞いてやる気満々で準備運動をしている。じゃあ俺が数える、とアクヴィが意気揚々と手を挙げた。テオとは十歳以上年が離れている筈なのだが、俺が勝ついいや俺の相棒が勝つと全く同じテンションで小突き合っている。まあ打ち解けてくれて何よりだ。
「んじゃ俺が走ったら数えるんだぞ!せーのっ」
「うっしゃ!じゅーう、きゅーう、はぁーち」
「…では、参ります」
「十秒逃げ切ればとは言ったが、そんなに掛けるなよ?」
「はっ」
 いい返事だ、と笑って腕組みをし、指先で時間を数えながらゲームを鑑賞する。テオも後ろを一切振り返ることなくただ全力で走っている、素直かつ一生懸命で実に良い。もし仮に後ろを振り返って蹌踉けられでもしたら実につまらない。悪人じみた笑いを隠しもしない上機嫌なオレの隣を擦り抜けてクリフォトが駆け出す。実際テオの足は速い、身長が大きく違うのだから歩幅だって違うのだが、其れを圧倒的なハンデにはさせないほどに。十秒では手が届くか微妙なラインだろう。触れられたらではなく捕まえられたらという勝利条件だ、ギリギリ届いたとしても振り解かれれば負けになる。
 だがあくまで其れは手を伸ばして手で捕まえようとしたら、の話でしかない。何のために道具の使用を許可したというのか。鋭い風切り音が心地いい。思わず目を細めて聴き入った。騎士という立場の形式上剣は携行しているが、クリフォトの武器は其れではない。本気ならば手で掴むわけなど無いのだ、此の縛るのもお手の物な鞭使いは。皮の鞭の先がテオの足首を絡め取る。
「へっ?うわっ!」
「ろーくでごー、ってクリフの勝ちぃ!どーだ見たかテオ、俺の相棒の凄さを!ナ!」
「御苦労。其れでこそオレの騎士だ」
「名誉挽回のチャンスを下さったこと、感謝致します我が主。…テオ、大丈夫?」
「ちゃんと上手く受け身とったもんな。下手に抵抗しなかった判断は正しいぞ、テオ」
 背筋を伸ばして一礼したクリフを労い、其れからきちんとテオも褒めてやる。悔しそうに呻いていたが其の冷静な判断は素晴らしいと頭を撫でてやれば静かになる。アクヴィは一貫して悪戯っぽく笑っているだけだ、くつくつと笑うばかりでテオを助け起こすのもクリフが駆け寄った方が早かった。
「なぁなぁ、そういえばさー」
「ん?」
「きし、ってなに?」
「よくぞ聞いてくれましたァ!」
 ぱんぱんと膝に付いた土を払いふうと一息吐いたテオがきょとんと首を傾げ、さあどう説明したらいいか、と一瞬オレとクリフが固まった其の隙にずいっとアクヴィが身を乗り出す。止めた方が良さそうか、言わせてみてから殴ればいいんじゃないですか、まあ間違ったことを言われたとしても其れは其れで反面教師だな、とオレとクリフで視線を通わせる。よし、放っておこう。
「騎士とは!ご主人様の為なら例え火の中水の中、命の限りお守りしますな正に此の俺とクリフのよーな超強い超格好いいヒーローだア!」
「ごめん、僕泳げない…」
「あっイヤ泳ぎなら俺が得意だから其処は俺がやるから、ナ!?ダイジョーブダイジョーブ」
「おいお前ら、例え話を具体的な話にして火の中はどう説明する気だ」
「…?もし其処に貴方がいるなら火の海でも飛び込みますよ?」
 何か問題が、と天然でクリフに首を傾げられて。ツボにはまって大笑いしだしたアクヴィがけれど得意げに親指を立てて。オレが悪かった、と呆気にとられた後に笑った。お前達の忠誠心を甘く見るような真似をしてしまってすまないと。すげぇ、とテオが目を輝かせて声を張り上げた物だからいよいよもって声を上げて笑い出す。あれでいいのか、子供の感性には子供のノリか、どうだ受けただろうとアクヴィが胸を張る。止めてくれ笑いが止まらなくなる。
「だがアクヴィの言ったので大体あってるな。なまじ要点を捉えているから困る」
「だって騎士ですからー、ニシシ!いいかーテオ、騎士ってのはな、強くて頭がよくなきゃなれないンだぞ!一杯体鍛えて一杯勉強しなきゃ駄目なンだぞ!」
「すげぇな!格好いいな!んじゃあ騎士ってみんな文字読めるのか!?足し算とか引き算とかもっと難しいのも出来るのか!」
「とーっぜん!こーんぐらい本読まなきゃなれないンだゼ!」
「うおおおお!」
 バッと両手を広げられる限り広げて見せたアクヴィにテオが握り拳を作って叫ぶ。アクヴィがヒーローだと自称したが今のテオは正しくヒーローに憧れる男の子、という顔になっていた。此の後のことを考えると好都合だ、よくやったアクヴィ。お前頭は悪くないが面倒臭がって計算とか自分じゃしないだろうとは思うだけで黙っておいてやろう。やって、とせがまれる側であるクリフが微妙な顔で黙っている。オレの考えも分かっているからのリアクションだろう、何時もお疲れと影で労った。
「さて、着いたな。下からも見えていただろうが此処がオレの屋敷だ」
「でっけえええ!あっちもでっけえ!どれ?どれに住んでんの?」
「オレが住んでるのはあっちの大きいの。クリフとアクヴィはあっちの窓が沢山ある奴。全部同じ塀の中にあるだろう?此の中の物は全部オレの物だ」
「かねもちだ!すっげえかねもちだ!」
 まあそうだな、と笑ってはしゃぎすぎのあまり何処かへ飛び出しそうなテオを押さえ付けがてら頭に手をやる。少し乱暴にひよこ色の頭を掻き乱してやれば止めろといいながら嬉しそうだ。
 王都の王宮に比べれば当然随分と見劣りする屋敷だが、彼方では王都の別の場所に作られている騎士の住まい等、主の住まい以外の施設が此方では同じ敷地内に幾つか存在する。王都全体とは比べ物にならないが、王宮単体と比較すれば此方のほうがずっと広い。因みに王都にも別邸があるが今其方は分家の名義だ、王都に滞在するときにはその屋敷に滞在するのだから一番いい部屋は常にオレの物として空けられているが。
「おや神子様、其方は小さなお客様で?」
「神子様神子様、おもてなしに沢山お菓子を焼いてもいいでしょうか!」
「あーちっちゃい子だー。ねえマスター、後でこの子と遊んでいい?」
「…マスター…いえもう何も言いません、もう言いません」
「流石神子様、幼子を放っておけずに連れ帰る、何と慈悲深いことか!」
「一応確認させて頂きたいのですが…其の癖治すつもり全くないですよね、マスター」
 自室に向かう道すがら、擦れ違ううちの屋敷の連中がオレに手を引かれるテオを見て庭師からメイドから騎士まで一様に、またか、という表情を浮かべる。楽しんでいる者からうんざりしている者まで様々だが其の一点に関しては変わらない。其処が違う者は新参者だけだ。其処まで頻繁に拾ってきてはいない、と思うが子供に限らず気に入った行き場のない連中は年齢も性別も生まれ育ちも関係なく連れ帰っているのは事実だ。大人の場合普通にスカウトして雇うだけ、のケースも多いから意識しないが、其れも含めて自分で連れてきた人数を答えろと言われれば、まあ、うん。だが其れで他の誰かの仕事を奪っているわけでもなく、やることは色々とあるんだからいいじゃないか別に。
 流石に人が多く、其れがまた揃いも揃って自分のことをまじまじと見てくるものだからテオが畏縮してオレにしがみつく。だが顔は強張っていても目は輝いたままだ、大丈夫だろう。事実クリフが宥めたりアクヴィがからかったりしていたら直ぐに元通りの調子に戻った。長らく人間から隠れるような生活をしてきたのだろうから暫く人見知りをするかと思ったが、案外適応している。順応性が高いなと感心するほどだ。周りの人間にも興味津々な様子なのでまた何処かへ飛び出さないように捕獲しつつ、あれはあれはと指差す先について解説してやる。
「剣を下げているのは大体騎士と其の見習いだ、一時的に雇っているだけの傭兵もいるがな。あの揃いの服を着ているのはメイドだ、特徴的だからすぐに憶えられるな?彼女たちの仕事は屋敷の掃除だとか、料理を作るのは別の人間の仕事だが、其奴らに何処で何人が食事をするからどういった物をどれくらい作ってくれと指示をしたり、其れを運んだり、あとは洗濯をしたりだとか色々とあるな。此処で暮らすのに必要なこと全般の面倒を見てくれている。其れから…嗚呼すまん、テオ。少し待て」
「ん?おー、かっけぇ鳥だ!」
 御苦労、と声を掛けつつオレのところへ真っ直ぐ降りてきたウェルクを腕に乗せてやる。其の絵面が気に入ったのかテオが格好いい格好いいと飛び跳ねている。動物好きなのだろうかと思わず小さく笑ってしまいながらウェルクの足に括り付けられた手紙を取ってやれば、直ぐにオレの腕から飛び立ってバサバサとテオの周りを飛んでみせた。遊んでやっているらしい。一人と一羽がおいかけっこをしている間に手紙に目を通す。特に問題は無さそうだ。その場で折り畳んでポケットに仕舞い込む。
「…あれー?」
「鳥、いなくなっちゃったな」
「うわっ!」
 見失っちゃった、とテオが落とした肩に人間に化けた当のウェルクがぽんと手を置く。いきなり背後に現れ、耳元で心底残念そうに言った見知らぬ人間にテオが飛び上がった。化かすのが好きな奴だ、驚いて目を白黒させているテオにニヤリと満足げな顔をしている。下がっていいぞ、と合図を出せばじゃあな、とテオの肩をもう一度叩いた。其れからまた素早くテオの死角に回り込み、鷹の姿に戻って上空に飛び上がる。羽音に振り返ったテオがいた、と鷹を指差して歓声を上げた。ぐるりと旋回して去っていったウェルクにテオが見惚れている。完全に姿が見えなくなっても消えていったほうの空を見上げたままだ。待たせて悪かった、と軽く背中を叩いたら漸く我に返った。
「さて、お前が今までに見た中だとあとは庭師か。庭師は見れば大体分かるな?」
「庭の手入れするんだろ?名前のまんまだな!」
「そうだな。メイドと料理人と庭師ぐらいは何処の屋敷にもいる。うちにいて他にあまりいないのを敢えて挙げようとすると…今は鍛冶師がいるな。此は名前だけ聞いても分からないだろう、金属を扱う奴のことだ。此処には騎士が沢山いる。剣を下げている者が沢山いるし、鎧を着ている者もいるだろう?槍や盾を扱う者もいる。こういった武器や防具の手入れや修理が得意な奴を呼んで、今は此処に住み込みで働いて貰っている。…あんまり想像ついて無さそうだな、後で見に行くか?」
「行く!あとさぁ、そのメイドとか庭師ってのの仕事、其れ以外の奴もやってね?ガキ一杯いんな」
「よく見ているじゃないか。興味を持って周りを見るのはいいことだ、偉いぞ。だが半分以上はお前より年上だろうがガキ呼ばわりは止したほうがいいぞ?其れとも見て分からないか?」
「ご、ごめんなさい…」
 にこりと態とらしく笑みを浮かべれば、まだ女だのガキだの言ったことを怒っているのかとテオが怯えて震える。まあ冗談なんだが。そうとは教えてやらずに宜しい、とだけ言って話を続ける。
「掃除をしたり食事を運んだり、庭の手入れをしたり、そう言うことをやっている子供が沢山いるだろう?彼らは此処に働きに来ているんだが、特別得意なことややりたい仕事がある訳じゃない。だから色んな仕事を手伝わせて、どんなことが自分に向いているか試して貰っている。其れに此処は見ての通り色んな人間がいるだろう、此処に住んでいる人間もいれば仕事で何処か遠いところから訪れている者もいる。廊下の掃除をしていれば当然沢山の人間と擦れ違うだろう、食事を運ぶにしても同じだ、沢山の人間と接点が出来る。其れはとても大切なことだ」
「ふーん…あっ、なあ!なあなあアレなんだ!?あいつら何やってんの!?」
 割と真面目な話をしていたというのに、と怒ってもいいところだろうが、こうなることは予想できていたので気にしない。中庭でサーカス団が練習をしていて子供が其れに目を奪われない訳がないだろう。丁度手を離していたものだからテオが廊下の縁の所にまで駆け寄っていく。
 木と木の間に綱を渡して綱渡りをしている者がいる。玉乗りをしている者もいるし、ジャグリングをしている者やナイフ投げをしている者もいる。それぞれがそれぞれに得意な芸を練習しているのだから多種多様に華やかだ。全体を見回していた男が此方に気付いて寄ってくる。
「此は此は神子様にお連れ様、目を留めて頂けて光栄です。しかし此はあくまで練習風景、本番となりましたら華やかな舞台華やかな衣装華やかな音楽にてご覧頂く方々を素敵な世界にお招き致します。此が我々の本気では御座いませんよ、どうぞ本番をお楽しみに…」
「テオ。此はこのサーカス団の団長、つまりリーダーをやっているラーゼンだ」
 はきはきとキレのいい身振り手振り付きで演技掛かった台詞を述べ、深々と一礼したラーゼンにテオが少なからず押され、何か凄いのがいて話し掛けられたんだけどどうしよう、という顔でオレとラーゼンを交互に見るものだからオレから紹介するという助け船を出してやる。
「お連れさんのお名前はテオさんですか。握手します?」
「お、おう!」
 握手、がなんだかよく分かっていないようだったが手を差し伸べられたのを真似て手を差し出し、ノリのいいラーゼンにぶんぶんと手を振り回すような握手をされてテオがはしゃぐ。
「なんだラーゼン、もうピエロ口調はお終いか?」
「んな面白いのにって顔せんで下さい。それよか神子様ったらまたこんなちっちゃい子連れ込んでー。こんな素直そうな子に何やらすんですかどんな芸仕込むんですか」
「お前こそ人聞きの悪いことをニヤニヤしながら言うな。さっき林檎一個食って軽く忘れてるみたいだが、取り敢えず部屋に上げて何かしら食わせる」
「あっそうだ、飯!飯だよ飯!忘れてた!」
「軽くどころじゃなかったみたいですかねぃ」
「もう時間が半端だからな、今は軽く食うだけで晩飯ちゃんと食おう。晩飯はどれだけ食ってもいいから、そうむくれるな。ただそうだな…テオ、重要な話がある」
「な、なに…?」
「別に今晩うちに泊まってくれていいんだが、取引の期限は今日一日だよな。ということは…」
「明日の朝飯は食え、ない…?」
「オレも今日は休みだが明日は仕事だからな。一日オレの話し相手をするという取引を延長する訳にもいかない」
 絶望的な顔をするテオにその通りだとはっきり頷く。今日が終わったからといって真夜中に放り出すほど非道ではないが、明日の朝はもう期限が切れているので関与しない。あんまりにも悲痛な顔をするのでオレは今笑い出しそうなのを堪えている。本気で堪えるのが辛い。もう少しは顔出してしまおう。だから提案だ、と屈んでテオと目線を合わせた。
「延長できないなら違う理由を作ればいい。分かるな?」
「り、ゆう…?」
 そんなの分からない、言っている意味は分かるけどそんなの思い付かないと涙目のテオが縋るような目でオレを見る。嗚呼、もう、まだ何か食ってみた訳でもないのに、其れで改めて釣られた訳でもないのに、そんなに此処を離れたくないのか。其処まで切実になられると少し、胸が痛い。此奴純粋すぎて騙されやすいタイプなんじゃないかと、今正に口車に乗せている立場のオレに言える台詞でもないのに、そう分かっているのに本気で不安になって心配になるほどだ。
 もしこのままオレの希望が叶ってくれるのなら、人を疑うことも教えよう。きっと本当は其れは知っているだろうから、抱き締めてくれた手を振り解くことを教えよう、其れをこの子が許してくれるなら。笑いかけて、手を差し伸べる。此の手を取ってくれるなら、此の手を拒むことも教えよう。矛盾していると理解している。都合のいい話だと、身勝手だと、どれ程言っても足りないと。
「オレの騎士にならないか。見習いとして此処にいろ。当然もし此処にいて、勉強をして、改めて考えて違うと思ったら何時出て行っても」
「いかない!出てかない!此処にいる!」
 いいんだからな、と言い掛けた言葉を甲高いほど悲痛な声で遮られる。もしもの話なんていらない、聞きたくないと睨み付けるぐらいに真っ直ぐに、けれど涙目でテオがオレを見詰める。まるで捨てられるのを拒んでいる子供だ。愛おしいのと同じだけ、胸の奥が痛む。込み上げてくる薄暗い感情で息が詰まる。後ろめたさを通り越して劣等感だろうな此は、と苦笑した。オレは昔から自分が嫌いだ。今も全部自分が悪いと思うクセが抜けきっていない。自分を醜く汚らわしいと思う。だから誰にも触れてはいけないと思う。其れでも、結局。
「ありがとう」
 少し黙ってしまった後、そう言ってテオを抱き締めた。其れがせめてものことだと思った。オレの腕の中で、テオが照れ臭そうにくすぐったそうに笑う。
「では、テオの仮入団の手続きをしておきます」
「よォ後輩よォ新人、頑張れよ!」
「おー!」
 すっかり黙ってオレの後を着いてくるだけだったクリフォトとアクヴィがじゃあなとテオに手を振って去っていく。最早オレがテオを口説き落とすのを待っているだけだったのだからそうなるだろう。増してラーゼンとは関わりたがらない、口を挟むわけがない。
 あのサーカス団に関わりたがる騎士など、一人もいない。何時かテオにも話そう、何時かテオが今よりもっとずっと大きくなったら。まだ知らなくていい、無邪気に手を振るこの子は、まだ知らなくていい。嫌ってはいない、差別でもない。ただ相容れないだけだ。ただ住んでいる世界が違うだけ、表と裏は交わらないのが道理なだけ。そうするのが当たり前だからそうする。本当に表と裏に別れた意味を知るものは、互いを傷付け合わないために自ら其れを選ぶ。無言の信頼関係も守りたいから触れない意味も、まだこの子にはきっと、寂しすぎるだろうから。
 ゆっくり息を吐いて、其れからまだ目をキラキラさせて練習風景を眺めているテオの頭に軽くぽんと手を置いた。余程気に入ったらしいが、其れにしたって食い入りすぎだろうと窘めるように笑いかける。飯に釣られたはずが今ではすっかり食べることは二の次だ。
「此処にいるんだったら何時でも見られるぞ?大概何時も此処で練習してるからな」
「うー…でも今見たい!今気になるもんは気になるのー!」
「何だったら幾つかやってみます?」
「マジで!」
「そんで実は神子様ってば、コレ大体全部出来たりなんかしちゃったりなんかして」
「マジで!?」
 あまり余計なことを言うなよ、とラーゼンに釘を刺す。唇に人差し指を当ててにやりと笑われた。
 一見たた茶目っ気が強いだけの、幾らか訛りのある喋り方をする此の男を筆頭に、彼らはオレと同類だ。だからある程度同じことが出来て当たり前だと、クリフォトもアクヴィも知っているから彼らと関わりたがらない。暗殺者だったオレと同じだから。ラーゼンに至っては同類どころか完全に当時の同僚だ、年が上な分そのまま彼奴のほうがオレより長いが。
 結局毒を制すのに毒を使うのが一番効率が良かった。元から冒された体なら、幾らか慣れた、慣らされた体なら直ぐにどうこうなることはない。毒に冒されて死ぬ者を一人でも減らしたければそうするしかなかった。そして何より、毒でいるしかできない人間をオレが見捨てられなかった。裏側でいるしかできない彼らをオレは否定できない。自己否定は強いクセに、其れで自分と同じ誰かを傷付けると思うと其方が勝つのだから滑稽だと思う。其れでも、オレと同じだからとオレを否定できない者が彼らを受け入れてくれるのなら、少しは何か意味があるのだろう。誰かがそう思ってくれるなら其れでいい。
 だが結局、オレと彼らが同類であっても、どう足掻いても同じ立場にはなれない。彼らは裏側の住人だ、堂々と日の光の下で振る舞うことはできない。強引に全てを許されたことにされてでも表に立つことを強制されたオレとは違う。だから偽るための、サーカス団などという仮の役割を与えた。そうすれば例え他の人間と触れ合うことは出来ないのだとしても演じている間は人間として振る舞える。そしてどのみち、道化すら演じられない者に此の役割は務まらないのだから。
 そして未だ道化を演じられない子供が一人、オレを見上げる。木陰から自分と同じ年頃の子供を見ていたのと同じ目で。
「マスター」
「…なんだ」
 何か用か、と感情の乗らない声で突き放す。まともに其方を見てやりすらしない。相手を責めているようでいて、まるで今にでも相手を殺しそうなほど凍り付いた表情をしているようでいて、泣きそうに瞳が揺れるのを隠せていないとちらりと視線をくれてやっただけで分かる。目を閉じていても分かるだろう。瞼の裏に泣きじゃくる子供が映り込む。だが泣き止ませてなどやらない。抱き締めてなどやらない、優しく声を掛けてやることすら絶対に。何時か涙が枯れて泣き止むまで、泣けなくなるまで、泣き止ませてなどやらない。
 オレの屋敷に忍び込み、オレの寝首を掻こうとしてしくじった此奴を気に入って手元に置いた。罪を犯した子供を気紛れで連れ帰ったという意味ではテオと同じだ。同じなのに頭を撫でてやったことも手を繋いでやったこともないから、此奴はこんな目でオレを見る。ラウ、と名を呼んでやったことすら数えるほどしかない。元々オレはあまり人を名前で呼ばない質ではあるが。
「何故ですか」
「何がだ」
「…俺と何が違うんです」
 何故彼奴は愛して貰えるの、と。どうせ聞くだろうと思った。どうせ聞かずにはいられない。切望とはそういうものだ。知って知らない振りをしたオレがただ無表情に見下ろすだけだと知っていて、其れでも聞かずにいられない。聞いたって逆効果だと頭では分かっているのだろうに。判断を狂わせるほどの飢えと渇きと知っていて、オレは此奴に何も与えない。
「彼奴は人を殺していなかった」
「人を殺したことがあるかないかなんて、たった其れだけの理由で」
「人を殺めることをたった其れだけだと」
 震える声を張り上げてオレの服を掴んだラウを、強い声で遮る。怒りの感情を見せてやることすらしなかった。ただ低く唸るように声を絞り出した、愚かで哀れなものを見る目で見下して。テオと同じだ、捨てられるのを拒んでいる子供の顔。だが此奴はテオとは違う。同じでないから同じように大丈夫だと笑いかけてはやれない。オレに怯えて畏縮したラウが、だからこそ服の裾を握り締めた手を解けないまま絶望しか見出せない表情で呆然とオレを見上げ続ける。手を離せるほど、目を逸らせるほど強いのなら、そもそもこんな風に問い詰めたりしないだろう。哀れだと思う、本当に。だからこそオレは、此奴が求める物を与えない。求める限り与えない。
「そう形容する者を当たり前に受け入れるほど、世界は優しくない」
 理由なら今お前が自ら示して見せた通りだと吐き捨てる。本当にそう思っているのだろう、たった其の程度のことと。褒められたいが為に自ら進んで、喜んで人を殺めてきたような奴だ。愛してくれない他人の命など、ただ一度頭を撫でて良くやったと笑いかけて貰うことよりずっと軽かった。そう思って生きてきた奴が、愛して貰うための行動で拒絶されるなどと受け入れるわけがない。けれど人を殺めること自体を楽しんではいなかった。其処まで狂ってはいなかった。本当は後ろめたさならあるのだろう、だが其れを罪とは認めない。自分を罪人とは認めない、当たり前に普通の子供と同じに愛して貰うことが出来なくなるから。
 だからオレは拒絶し続ける。諦めるまで、認めるまで。お前は既に境界を越えたのだと、其の手で、自らの意思で越えたのだと。理解するまで愛さない。一度でも愛されてしまえば許された気になるだろう。必死で目を塞ぎ耳を覆い続けて抱き締めてくれる体温にだけ縋るだろう。許されたと、思い込みたがるから。絶望するまで、涙が枯れ果てるまで。オレは決して、この子供を愛さない。
「なあシーセ!見て見て!なあ!…ん?」
 駆け寄ってきたテオがオレの隣のラウに首を傾げる。単純に同年代かつ同性の子供がいたから気になったのだろう。その子が今にも心が砕けて死んでしまいそうな顔をしているから、尚更。ビクリ、と肩を揺らしたラウがテオを見る。狂いそうなほどの嫉妬を必死で押し殺そうとして出来ていない、やはりまた無表情を装いながら瞳の揺れを隠せていないラウをまるで存在していないかのように扱って、何だと途中で足を止めてしまったテオに笑いかける。此方から其処まで行って頭を撫でた。
「どうした、テオ。何か上手くできたのか?」
「お、おう!これこれ!もっぺんやるからちゃんと見てろよな!」
 こっち来て見てて、とテオがオレの手を引っ張る。ちゃんと行くから慌てるなと苦笑するオレの横を、唇を噛み締めてテオを見ないように必死に顔を伏せたラウが早足に通り過ぎた。

 

 下卑た笑いの男だった。私怨によるものか大義でも掲げてきたか、誰かとの主従によるものか其れとも単なる金欲しさか。あからさまな軽蔑の目を向けられて嗚呼怖いと品のない笑いを浮かべつつ、男は少しの私怨と金欲しさだと答えた。恨みはないが気に入らない奴なら殺しやすいだろ、と。
 自慢話にもならないが命ならよく狙われる。拉致監禁をしたがる輩もよくいる。オレが表に上がるまで、オレが暗殺者などやっていたころは本当に毎日にでも仕事があった。同僚の大半をオレが引き連れてきたから大分頼む当てがなくなって落ち着いては来たが、まだ誰かの殺意と誰かの欲で当たり前に暗殺業が成立してしまうような状況だった。十六年死亡扱いだったのが突然生きて帰って王の座の次にいるのが気に食わないのだろう、世界でたった一人だけの青髪青目かつこんな外見だから珍しがって飼うなり剥製にして飾っておくなりしたいのだろう。狙われる理由なら幾らでもある、こじつけたがる連中が幾らでもいるから。神子様と、十六年間行き場の無かった信仰心を全て押し付けられている。過度に愛されれば妬みだのなんだので逆の憎しみも深くなる。何れにせよ放っておいてはくれない。無条件に愛されるか憎まれるかしかない。無関心でいてくれるのはオレを知らない者だけだ。
 侵入者などよくあることだった。お陰で年中訓練されて屋敷の警備はかなり強固だ、元より暗殺者対策に暗殺者を配備している。騎士には分からない侵入ルートの目の付け所など、何より同業者が一番よく分かっている。まず滅多にオレの命が脅かされることはなく、オレの所に辿り着く前に捕らえられて其の報告がオレに来るだけだ。その時もそうだった。男が数人に子供が一人のグループを捕らえたと。子供は見張りに立たされ合図があれば騒ぎを起こして逃げろと指示されていたようだが、合図を出した男達は子供とは全くの逆方向に逃げたと。子供は捕らえられてまず他の仲間は無事かと其の身を案じたと。男達は彼奴は何処だと仲間を案じて慌てふためいた顔をして、其れから別の所で捕らえられまだ其方にいると知り、ころりと態度を変えてあの役立たずのガキめと鼻で笑ったと。
 引き合わせるな、と指示をして男達のところへ向かい、主犯格だけいれば十分だと其れ以外は連れて行かせた。捨て駒のガキなら連れてこないから猫撫で声の準備はしなくていいぞ、と言えば男は下卑た笑い声を上げた。否定などせず、取り繕いもせず、話の分かる奴だと大声を上げて笑った。そして聞いてもいないのに語り始めた。
 女を強姦してついでに殺してみたら四、五歳の子供がいたからついでに拾って育ててみた。可哀想に君のお母さんは本当は凄く凄く悪い人だったんだよ、だから死んでしまったんだ嗚呼可哀想に可哀想に此からはお兄さん達が守ってあげるからねと、目に涙を浮かべた迫真の演技で抱き締めたら信じ込んだ。悪者だったと言われたら信じるような母親だったんだろう。どうせろくでもない親でろくでもない子供だったんだろう。抱き締められたことなど無かったのだろう。代わる代わる頭を撫でて添い寝までしてやって膝に乗せて飯を食わせたらあっさり懐いて言われたことは何でも信じる都合のいいガキに育った。稼ぎを分け与えてやらなくとも何も文句を言わなかった。酒を飲むのも女を買うのも上手い飯を食うのも、お前は子供だからまだ早い、大人になったら一緒にな、約束だぞと笑いかけてやれば全部信じた。盗めと言えば盗んだ。殺せと言えば殺した。何を命じても喜んでやったし何も与えなくとも抱き締めてやりさえすれば其れでよかった。彼奴には人の命より手から零れるぐらいの金貨の山よりたった一度よくやったと頭を撫でられる方が大事なんだ、なあいい子に育っただろう。
 ケタケタと笑う其の男はよくぞ育て上げたと褒めて欲しいぐらいだと言った。黙って眉を潜めるだけのオレに言った。なあ気に入ったんだろう、あのガキに情が湧いたんだろう、だったら手元に置いてやりゃいいさあんたが育てりゃいい。言ってやれよお前の仲間は悪い奴だったんだだから死んじゃったんだ可哀想に此からは俺が側にいてやるよって、優しい顔して抱き締めてやりさえすれば彼奴はもう一生あんたの玩具だ仕込んだ俺に感謝しろよ、と。其の男はそうオレに言った。事実だろうと思った。だから迷いなく男に返した。
 嗚呼そうかどうも貴重な情報をありがとう。ならオレは彼奴を愛さない、絶対に。
 そう吐き捨ててその場で下卑た笑いの男の首を刎ねた。他の奴と一緒に適当に捨てておけと仮面の部下に吐き捨てて、其れからラウという名だという子供の所へ向かった。
 其の子供は部屋の隅で震えていた。返り血を浴びたオレを見て何かを察したのだろう、震えながら仲間はどうしたと聞いた。お前の仲間は死んだと告げた。続けてお前も死ぬかオレに従うかのどちらかを選べと言った。少し迷ってから従う、と答えた子供の目に宿っていたのは、仲間が死んだと知って絶望した顔をした子供がオレを見上げる目に宿っていたのは。
 オレには、仲間を殺した男に対する怯えよりも、目の前の男が自分を必要として抱き締めてくれることへの期待に見えた。

 自室にテオをあげ、一緒に菓子を食い、既にやる気満々になっているテオを自室の隣にある資料室に放り込んで此で勉強しろと何冊か本を抜き出して置いてきた。丁度資料室にいた先客が若干暇そうにしていたから本のページの捲り方ぐらい教えてくれるだろう。平たく言うと丁度其処でさぼってた奴がいたから子守を押し付けてきた。字の読み書きも出来ないような子供を拾ってくることは、まあつまりまたかと顔をしかめられる程度の頻度であるわけで、彼処の資料室にはかなり分厚い政治やら経済やらに関する本や医学書に混じって初歩的な文字の書き取り練習帳やら絵本やらも置いてある。廊下を挟んだ向かいのテラスにいるから終わったら声を掛けろと言ったが、テオなら直ぐに上機嫌で走って来るだろう。実際直ぐ行くからなと燃えていた。可愛らしい、と思い出しても笑みが浮かぶ。
 暫くテラスに置かれたベンチに腰掛け、サーカス団が練習を切り上げて解散していくのを見ていた。ラーゼンが次回までにああするように、と出す指示の中に本業に関することが含まれているのを聞きながら、頭の中でページを捲る。オレは返って不便なほど記憶力がいい。生まれついての特性が半分と、多重人格者になると同時に他の人格の記憶を操作する能力を得たのが半分だろう。其れも憶えていないほど小さい頃だから生まれ付きと大差ないだろうが。まるで本のページを読み返すように大概のことは鮮明に思い出せる。インクが色褪せることも殆どない。整理をしないと勝手に回りに積み上がっていく本の山に埋もれるハメになるので、普通に寝るときにも片付けるがこういう休みの日だとかに改めて記憶の整理をすることが多い。
 ただ現実と同じように、つい片付けながら其処にある一冊を開いてみてしまうことはあるもので。誰かのことを気にしながらやるものじゃないな、と思う。ついラウが出て来るところに手が伸びた。
 ラウがこの屋敷に来たときのことは忘れない。文字の読み書きや計算を教えたことも、幾つかの掟を叩き込んだことも、ほんの少し姿を見掛けただけのことも、ラーゼンから様子を聞いただけのことも。全て忘れない、忘れられない。記憶のページを破り捨てることが、オレにはできない。
 先程まで下の中庭で練習をしていたサーカス団のうちの一人が、黒い装束と赤で模様が描かれた白い仮面を付けた姿でオレの斜め後ろで膝を着く。今聞いていたから分かっているから早く行け、と軽く手を揺らしてあしらった。仮面をしている間は人間じゃない、そういうルールだ。予め設定されたプログラムに添って行動するだけの機械になる。強固な自己暗示だ、演技ではなく本当に感情を殺す。性格だとかそういう問題ではなく、訓練して身に付ける技術だ、騎士になるより余程難しい。
 ラウに出来るだろうか、と以前ニヤニヤと笑うラーゼンに言われたことがある。笑われていたのはラウではなくオレの方だ、全く腹立たしい。当の二人が今下で喋ってる訳だが。オレが上にいることに気付かずラウがラーゼンにオレの文句を言っている訳だが。嗚呼、此は、また、あとでオレがラーゼンにこんなんじゃ先行き不安ですねだのなんだの言われて笑われる。食ってかかるラウをまあまあと宥めつつ、後ろ手でラーゼンがオレに手を振った。喧しい。
「何であんな奴に好き好んで忠誠なんか誓ってるんですか!」
「あんな奴とかゆーなって。天下の神子様相手に暴言とか、んなとこで度胸発揮するよりかもっと他に活かすもんあるだろ?」
「何が神子様ですか!あんなの、綺麗でもなんでもないし慈悲深くもない…っ!上っ面だけみて騙されてる奴らなら兎も角、団長だって他のメンバーだって、彼奴の本性知ってるじゃないですか!知ってて、なんでっ…」
 嗚呼もう、そんなに泣きそうな声を出すな、服の裾を握り締めるな。ラウがオレを嫌うのは、オレがラウに取っての悪い奴だからだ。愛してくれない、優しくしてくれない、だから悪い奴。客観的に見てもオレが悪人であれば自分の嫌悪が肯定されるから、酷い奴だと同意を求めたがる。自分の勝手で人を嫌っていることを正当な、当たり前の嫌悪と偽りたがる。認めたくないんだろう、自分が寂しいのを。飢えているのも満たされないのも、何もかも。本当に純粋にオレが怖いのもあるんだろうが、其れよりずっと自分自身のほうが怖いんだろう。自分からは逃げられないから。
「だって、笑ってた。人、殺して…昨日まで仲間だった奴殺して、笑ってるような、そんな奴の何が神子だ…!みんな有り難がって、笑いかけられただけで大はしゃぎする奴までいて、でも、あんな」
 ラーゼンが黙って話を聞いてやる、オレもただ黙って息を潜める。こんな形ででも、叫べるのは悪いことじゃない。声を無くしてしまった者もずっと見てきたから、そう思う。俺は認めないと、そう叫ばれて心地がいいだなんて言ったら頭が可笑しいんじゃないかと思われるだろう。其れで事実だ。
 オレは狂っている。ラウの言ったことは紛れもない真実だ。昨日までの部下を笑って殺した。本当は返り血だらけで真っ赤に染まった手を、綺麗だと言って握り締められるのが怖かった。綺麗な物だと思われて愛されるのが怖いから、醜いと言われて憎まれると安堵する。確かにオレは神の子だろう、半分は人間でないのだから。人間でないから尊いのか、人間でないから化け物なのか、どちらが真実かは人によって違うと思う。違っていいと思う。どちらを選ぶかは個人の自由だ、全ての人間からどちらかしか向けられないのは震えるほど怖い。オレにとっての真実は両方ともだから。
「…確かに、凄いと思いますよ。あの人は特別だ、崇められるのも分かる。だけど、あの人は奇跡の力を仲間を殺すことに使うじゃないか!」
 握り拳を作って振り絞るように声を張り上げたラウが、しかし其処で止まる。ラウ、と一言ラーゼンが呼んだ声で止まる。オレですら少しゾクリとするような底冷えのする声を出したラーゼンを、怯えというよりか其処まで行き着けずに驚愕の段階で停止しているラウが呆然と見上げる。お前があの方をどう思おうと勝手だけどな、と前置きして、ラーゼンが見せ付けるようにゆっくりと口を動かす。
「裏切り者は仲間じゃない」
 間違えるな、と其の男は吐き捨てるように言った。かつて仲間であった者、だとしても、裏切った時点で其れはもう仲間じゃない。だから仲間殺しには当たらない。敵は捕らえるだけで殺さなくてもいい、だが裏切り者は違う。裏切り者は必ず殺す、必ず。間違えるな、其れだけは間違えるなとラーゼンがラウを見下ろす。目を泳がせたラウがだって、と唇を振るわせた。
「だって、あんな奴じゃないですか。側にいたくないって、思ったってしょうがないじゃないですか。だって、ずっと、あの人、マスターのこと怖いって」
「裏切り者の肩を持つらしいラウに一ついいこと教えてやろか?…あの方に刃を向けるなら勝手にしろ、だが自分の殺意で剣を抜け。この前の彼奴みたいに他の誰かの殺意を理由にするな」
 そんな風に割り切りたくないと、言いたくて言えずに、裏切られるような奴に非があるのだと誤魔化しで口にしたラウにラーゼンが巫山戯た笑いを浮かべて目線を合わせる。其の続きの言葉は笑っていなかったが。
 大凡ラウと同じような経緯でオレに拾われた男が、オレを殺したい何処かの金持ちの誘いに乗って裏切った。自分一人で向かってくることすら出来ず、個人的な恨みだと叫ぶことすら出来ず、金に目が眩んだことにしてオレを殺そうとした。自分の感情で殺そうとしてはくれなかった。怯えて隠した。オレの目を見て怒りや軽蔑を叫ぶこともなかった。悲しかった、という心境を、容易く理解して貰えるとは思わない。結果がどうしようもない亀裂と決別でも其れが向き合ってくれた果てなのなら構わないと、縋るように思う此の痛みを分かってくれと言う方が難しいだろう。悲しくて苦しくて藻掻いて暴れて、どうしてか泣きそうなのに込み上げてくる笑いを抑えられないオレを恐怖に満ちた目で見て、来るなと裏返った怯えきった声で叫ばれて漸くオレを見て叫んでくれたと満たされた気になった此の渇きを、其れでも知って欲しくて堪らない。ガキなんだろう、正しく餓えた鬼だ。哀れまれたい訳でもない、知ってくれれば其れでいい。
「あとなぁ、根本的なことゆーけども。裏切り者は問答無用で死ねやってのは掟の話だ、不満があってもマスターですら変えられん。自分が裏切られたことを許す許さないはそりゃ当然個人の判断、んでも組織を裏切ったのを許すかどうかは個人で決めちゃいけない。其れがマスターでも駄目」
 おーけい、と気の抜けた声ですっかりいつもの調子に戻ったラーゼンがラウを覗き込む。殺し方に文句があるなら殺したオレを憎んでいいが、裏切り者を殺すという判断を下したとオレを恨むのは筋違いだから止めておけ、と淡々と諭す。ラウだって分かっているだろう、分かっているから目を逸らして居心地が悪そうに小さくなっている。というかオレも居心地が悪い、オレ自身が其の掟をあまりよく思っていないとばらされているような物だ。ラウにはそう聞こえなくともオレにはそう聞こえる。
「…其れは其れとしても、個人の判断でも許してるようには見えませんでしたけど。掟だからって正当化されてるだけで、自分の好きで、其れもわざわざ残酷な方法選んで殺したのに違いないでしょ」
「んなこと言えちゃうからお前ってばもう…げふん」
 ふて腐れた雰囲気のままラウが口を開くが、反論というかただの口答えだ。其れをお前が言うかと吹き出したラーゼンが咳払いをして誤魔化す。オレも危うく吹き出しかけたがラーゼンが思い切り突っ込みまで口にしていたお陰で怪訝そうなラウの視線が完全に其方に行っている、まだまだ上で聞いているとばれそうにない。裏の人間として訓練中なんだからそろそろ気付いてくれないと困るんだが。いい加減頭が痛い。どうしよう此奴大丈夫だろうか、少し不安になってきた。そう言いつつオレほどラウが一人前になってくれると信じている人間も他にいないと知っている。
 信じ切っているから、だからラーゼンに笑われる。信じたいと、どうあってもオレだけは此奴を信じていようと、思ってしまったんだから仕方ない。オレだけは絶対にこの子を裏切らない人間でいたいと、思ってしまったんだから仕方ない。綺麗と思わせて裏切りたくなかったから、最初に醜さを見せ付けた。敵だと思われてまで味方でいようと思った。我ながら、の後に続く言葉が上手く見付けられないほどおかしな話だと思う。
 深呼吸をしてにやけた笑いを引っ込めたラーゼンが改まって口を開いた。
「いーかラウ、あの人が裏切り者を許さないのは、許せないのは、裏切られたらどうにかなるほど、心が壊れてしまうほど俺達を信じて下さってるからだ。信じようとしてる、とか器用なこと出来る人じゃないしな。信じたいと思ったときには全面的に信じてんだあの人は」
「そういう、美化してるみたいな発言が嫌いです。そんなだから貴方を信用できない」
「ありゃ辛辣。あんなー、団長は神子様が生まれる前から先代様にお仕えしてるんです。あの神子様が一番信頼してらっしゃるキーフェルより古参なんです。団長は神子様のお小さいときも知ってるんです。ご自分の名前さえ知らないで当たり前に命令聞くだけの人形してたときから知ってんだ、何がどうして今あんな性格してんのかも大体分かってる」
 また随分と昔の話を、と思いながらゆっくり深く息を吐いて目を閉じた。ほんの数年前のことだが、神子であるオレしか知らないラウからしたら遠い昔の話だろう。余りにも状況が違う。
 人殺しを強制されていた頃は毎日毎日罵られて暴力を振るわれるのが当たり前だと思っていた、自分はそういう存在なのだと何の疑いも持たなかった。お陰で今でも自分が傷付くことをたった其れだけのことと思いがちだ。裏切られて傷付くリスクを軽んじるから、分の悪い賭けにしかならないと知っても信じることを選んでしまう。何も得られず傷付くだけだと言われても、傷付くことを何もないと認識するから、何も変わらないことと何かが変わるかも知れないことを選べといわれたら後者を選ぶ。結局いざ裏切られたら耐えられないクセに、壊れていく自分を眺めながら決まって何時ももうどうせ狂っているのだからこれ以上狂っても別に構わないと思う。問題など何もない、何も変わらない昨日までと同じだと、大丈夫だと自己暗示のように何度も心の中で呟く。毎回毎回泣くくせに、其れでもまたそうやって信じる方を選ぶ。いい加減馬鹿だと思う。美化してる訳じゃねえよ、とラーゼンが言った。美化の訳があるものか、こんなのは悪い見本だ。
「しょうがないからもっと分かり易く言ってやろか?表の連中はそりゃあ前側に立ってんだから、ずっと見てて貰えるし振り返ったら顔見れるんだろ。俺達裏は後ろ側に立ってんだ、見れんのは後ろ姿で振り返っても貰えない。自分のこと見て貰えないしあっちの表情も分からん。俺らは裏でもっと言えば影だろ、自分の影わざわざ振り返って観察するとか普段しないだろよ?見て貰えんで当然だ、其れで普通其れで当たり前。でもなーラウ、お前二人選んで前と後ろんどっちいて貰うか選べって言われたこと考えてみ?信じてる奴と信じてない奴と、どっちにどっちにいて欲しいと思う?」
 前にいるってことは何時でも監視出来んだ、後ろにいるってことは何やってるか見えないんだぜ、とラーゼンがラウに笑いかける。余計なことは言うなと言ったはずだ。嗚呼でも、アレはテオに対してだけか、此の男なら平気でそんな理屈を翳すだろう。嫌いになれるだけ嫌いになるまで好意など抱かせないでいようと思った、だから此は余計なことの筈だ。けれど今、少しでもラウが、必ずしもオレに嫌悪されている訳でないと知って救われるなら其れでいいと思った。思ってしまった。どうしようもない。結局オレはどうしようもない馬鹿で、どうしようもなく甘い。嘆くように両目を掌で覆った。泣きそうなのか光を見たくないのか、何れにせよ、どんなに目を瞑っても手で覆っても厄介なことに此の半分人でない体は瞼の裏に泣きじゃくる子供を映し続ける。他者の悲しみが見える体に生まれついてしまったのだから仕方ない、見続けることがオレの定めだ。理解もしたし覚悟もした。けれど偶に、こうして目を覆ってやはり見えないようには出来ないのだなと諦めたように笑いたくなる。
「振り返んないで背中預け続けんの、勇気いるだろ」
 だから見て貰えるの羨ましいばっか言わないで分かってやれよ、と誇らしげな顔をしてラーゼンが言った。ラウが何も言えずに黙り込むから、嗚呼もう、いい加減にしてくれ、いい加減に気付かせよう、もう駄目だオレが耐えられない。丁度よく子供の足音が慌ただしく駆けてくるのが聞こえた。
「シーセっ!読めたー!褒めろー!」
「っ…!?」
「早かったな、テオ。もう全部読めたのか?」
「おう!」
 飛び込んできたテオを椅子から立ち上がって両手を広げて抱き留める。中庭に対しては背を向けた訳だが、ラウがビクリと肩を跳ねさせ、一瞬目を泳がせてからガバリと上を見上げるのが手に取るように分かった。全く何だかんだアレもコレと同じでリアクションが正直すぎるだろうと思いつつ平静を装いつつ、テオの頭をぐしゃぐしゃにするぐらいに撫でてやる。
「流石賢い子だ。ご褒美と休憩で探検でも行くか?後で鍛冶師のところ行ってみるって約束したろ」
「行く!よっしゃあ行く!へへっ」
「よし、じゃあ少しだけ待ってくれ。その前に一つだけ下の奴に言わないといけないことがある」
 飛び跳ねていたテオがきょとんとした顔でオレを見上げ、つかつかとテラスの縁に歩み寄ったオレについて柵の間から顔を出して中庭を覗き込む。さっきの奴だ、とはしゃいだ声をあげたテオにラーゼンがどうもと手を振った。ラウは一言も口を利かずその場を動かず、実に大人しく静かにしているがぎゅっと服の裾を握り締めて忙しなく視線を動かしている。相変わらず混乱しきっていることを隠せていない。顔色が悪いのは咎められると思っているのだろう。態と一つゆっくり息を吐いた。
「ラーゼン」
「何か御用です?」
「さっきからお喋りな奴の声が煩くて仕方ないんだが、誰の声だか知らないか?」
「いやー、俺以外に喋ってる奴がいるとは気付いてませんでしたねー」
「そうか其れは残念だ。もしまた懲りずに喋り始めるようなら少し黙るように伝えてくれ」
「もし万が一俺が気付けたときには言っときます。………ほらラウ、ずっと気付いてて黙ってんだぞ、好きに話させてんだぞ優しいだろ?」
「嗚呼そうだ丁度こんな声だった気がするんだがなぁラーゼン?」
「なんと俺みたいな声で?其れなら風邪引いて声が出ないときに代わりに舞台立って欲しいですよ捕まえときます」
 仕方ないとオレが背中を向けた瞬間きっちりオレにも聞こえる態とらしいひそひそ声でラウに話し掛ける馬鹿を態とらしい笑顔で振り返る、更に態とらしい笑顔が返ってくる。暫く声を上げて笑いあった。あからさまに不穏な空気にテオが怯えて柵にしがみつく。逆に怯えきっていた筈のラウは暫く考え込むように黙って下を向いていた。
 瞬きの瞬間瞼の裏に映り込んだ子供が、ずっと蹲って泣いていた子供が、体の横で真っ直ぐ降ろした両手をぎゅっときつく握りながら睨むような眼光でオレを見ていた。
「…分かりました!」
 不意にくるりとオレから背を向けたラウが怒鳴るように声を張り上げる。ヤケになったような、だが確かに震えてはいない声にオレとラーゼンが目配せをしあう。そうして声を出さずに笑った、先程までとは全く違う意味で。掌を痛めないかと心配になるほど拳に力を込めて、両肩が上がってしまっている此の背中を抱き締めてやりたいとずっと思っている。本当に愛おしいから、本人には絶対に言わない。でも今、きっとこの子は振り返れないから、其の背を見てこんな風に笑っていてもいいだろう。隠さずに微笑んでもいいだろう。今だけは許して欲しい。許すのも許されるのも自分だろうけど。
「どうせ自分の評価が上がりそうだったから黙ってただけでしょう。逆になりそうだったら口挟んでたんじゃないですか?でも分かりました。其れって狡いじゃないですか。狡いことするのは弱いからでしょ。どうしてあんな人守らないといけないんだと思ってましたけど、わざわざ守ってあげなきゃいけないぐらい弱いことは納得しました。其れだけです」
 じゃ、と吐き捨てたラウがすたすたと大股で歩いて中庭から姿を消す。凛とした後ろ姿を見送って、堪えきれずに顔を手で覆って柵に突っ伏す。ラーゼンのニヤニヤした視線が煩い。
「神子様ってば、ああいう意地っ張りな子大っ好きですよね」
「喧しい」
「…なんだあいつ。シーセは頭いいし強いんだから、狡いことする必要なんかないのにな!」
 弱いなんて勝手なこと言いやがって、俺はちゃんと強いって知ってるんだからな、と自信満々で胸を張ったテオが去っていったラウに文句を言う。一瞬固まって、堪えようか迷って、結局堪られる訳もなくテオをぎゅっと抱き寄せる。嗚呼もう、嗚呼もう。此奴ら可愛すぎてどうしていいか分からない。なんだよ、あんないじめっ子みたいなの俺がやっつけてやるから大丈夫だぞと一人前に騎士気取りで盛大に勘違いしているテオがオレを抱き締め返すようにぽんぽんと背中を叩いてきた。強いと思っているのか弱いと思っているかどっちなんだお前は、もういっそどっちでもいいからこれ以上オレを動揺させるのは止めてくれ。嗚呼もう、どうしろって言うんだ。生きろと言うのか生きて愛せと言うのか作為的な解釈にも程がある、でももう其れでいい。細かいことはもうどうでもいい。そう言いながら明日になったら細かいことでうじうじ悩むのかも知れないが、其れすらもうどうでもいい。
「やーもー将来楽しみなちびっ子が二人もいて、神子様ってば幸せですねぃ?」
「ああそうだとも、二人とも愛おしくて堪らない」
 前に俺がラウのこと愛さないとか言っちゃって其れが愛じゃないならなんなんですって言ったときは無言を決め込んだのに今日はまああっさり認めちゃって、とラーゼンがオレを見上げる視線だけで訴えてくる。お前は喋っても面倒臭いがそう喋らずに声以外で饒舌になられても面倒臭い、どっちにしろ面倒臭い。其れが売りだとばかりに妙に清々しい誇らしげな顔をしている此の男がオレの二倍弱年上なようには先ず滅多に見えない。普段仮面の下に押し込めている分そうでないときの表情が豊かすぎる。笑っていいと泣いていいと、こんな風に人間でいていいと、あの子も知ってくれたらいいのに。仮面をしている間は人間じゃない。なら外している間は人間だと、そう切り分けるためでもあるのだと、あの子も知ってくれたらいいのに。
「なー、いと?おしい?って何だ?紐か?」
「違う其の糸じゃない。…つまり、お前が大好きってことだよ」
 そっか、と歓声を上げてぎゅっとしがみついてきたテオを目一杯に甘やかす。今はまだ、ラウにこうしてやれない分まで。テオに与えたからといってラウに与えたい分が無くなる訳じゃない、彼奴は妬くかも知れないが。何時かちゃんとラウにも渡してやれるだろう。ラウなら大丈夫だと信じている。
 同じではないから同じにはしてやれない、きっと同じ所にも歩いていけない。其れでも、何時か来るだろうラウを抱き締めてやれるその日まで、こうして無邪気に笑うテオの手を引いて一緒に行けたらいいと本気で願った。

 あの人は文字の読み書きを教えてくれた。難しい計算のやり方も教えてくれた。沢山教えて貰った言葉でも表しきれないほど、俺が知らなかった沢山のことを教えてくれた。
 あの人は戦い方を教えてくれた。人を守る方法を。其の意味と重さを。
 ずっと俺を抱き締めてくれる傷だらけの腕を見ていた。昔に付いた物だと言った傷が、今も血を流し続けていることに気付いていなかった。
 見上げていた笑顔が俺と同じ高さになって、強いと思っていたあの人の弱さを知った。其れでいいと思った。
 今度は俺がこの人の前に立って、この手を引いて大丈夫だと笑ってみせる。



 あの人は文字の読み書きを教えてくれた。難しい計算のやり方も教えてくれた。沢山教えて貰った言葉でも表しきれないほど、俺が知らなかった沢山のことを教えてくれた。
 あの人は戦い方を教えてくれた。人を殺す方法を。其の意味と重さを。
 ずっと俺を拒絶する血だらけの腕を見ていた。返り血だと思っていた其の赤が、他でもないその腕から流れ出ている物だと気付いていなかった。
 見上げていた背中が俺と同じ大きさになって、弱いと思っていたあの人の強さを知った。其れでいいと思った。
 この人の影が俺の居場所だから、俺のいたい場所だから、追い越せなくて其れでいい。

 

彼の休日と裏表※挿絵位置調整中

彼の休日と裏表※挿絵位置調整中

  • 小説
  • 中編
  • ファンタジー
  • 青年向け
更新日
登録日
2016-02-06

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