ひとりの夜に、木苺のジュース
木苺のジュースを覚えている?かよちゃん。
わたしは夜空に問いかける。かよちゃんは、夜空のお星さまになったわけではないのだけど。かよちゃんは、宇宙に飛んで行ったわけではないのだけど。
夜、部屋の明かりは点けない主義だ。月の出ていない日は、本など読めたものじゃない。
街灯の少ない町に住んでいる。気が滅入りそうなほど暗い夜も、窓の傍にいると不思議と安らぐ。部屋の窓から点々と建つ家の明かりを見ているのが好きなのであるが、やっぱり人間はわたしにとって食糧でしかない。それいじょうもそれいかもない。
かよちゃん。
わたしはかよちゃんみたいに大切な人間ができたから人間を食べることをやめるなんて真似は、一生できそうにない。
動いてなくてもお腹は空くの。わたしたちは、おじいちゃんおばあちゃん世代のように老若男女問わず血の一滴も残すまいと肉までしゃぶる雑食ではないけれど、例えばショッピングの帰りにお腹が空いたら、脂ぎってまん丸に太ったおじさんでも美味しくいただくことはしばしばだ。ほんとうは色白で細くて長い手足を持つ、髪が艶やかな美しい男女が好ましい。標準体型の人間に比べ含まれる栄養は偏っているが、美しく輝く者たちの血を食すと自分も美しくなれる気がする。人間の血を主食としているわたしたちが、人間を断って生きていけると思うか、かよちゃん。
今日もわたしは日がな一日、自室で寝て過ごした。
寝ているだけなのにお腹はぐうぐう鳴るものだから、ブランチとディナーに家の前を通った人間から血を抜き取った。抜き取ったといっても、貧血を起こす程度の少量である。人間に大した害はないのだから、かよちゃんだって人間を食べることをやめる必要はないのだ。かよちゃんが大切な彼の血をワイングラス一杯飲んだところで、彼が死ぬわけじゃないのよ。かよちゃん。彼と同じ人間になろうったって、無駄よ。根底がちがうもの。外見は取り繕えても、本能は騙せない。そのうちに、いいえ、もしかしたらもうとっくに我慢できなくて、わたしの知らないどこかで彼の血をいただいているかもしれない。そうだ、炭酸水で割ったかしら。
かよちゃんが教えてくれた人間の血を炭酸水で割る飲み方を、わたしは今も続けている。夕方、家の前を通った女子高生から採取した新鮮で赤々とした血も、今しがた炭酸水で割って木苺のジュースにした。木苺のジュースとは、この飲み方の隠語だ。古くからある飲み方だが、炭酸水特有の飲んだあとの爽快感と、口の中で小さな泡がぱちぱち弾ける感じを苦手とする者が多く、あまりメジャーではないのだそうだ。学校で習ってから種族の歴史に興味を持ったかよちゃんが、埃くさい分厚い本を抱え自慢げに語っていた日のことを思い出す。ハマる人は病みつきになって、それ以外の飲み方がまったくできなくなるのだとも、かよちゃんは言っていた。わたしたち種族は人間の血を原液で飲むのが主流であるし、採取したての新鮮な濃い血の方が栄養価は高いに決まっている。昔は人間も十分な栄養を蓄えておらず、人間ひとり枯らすつもりで摂取しないと生きられなかったおじいちゃんおばあちゃん世代にとって、水なりアルコールなり炭酸水なりで血を薄める飲み方は、高級な豆で時間をかけて淹れたコーヒーに砂糖を山盛りに投入することと等しい。
現代は少量で事足りるほど、人間は十二分に栄養を蓄えているし、常に目新しいものを追い求めたい若者は誰もやっていないことをやることに栄養価以上の価値を感じているのだ。
と、熱心に語っていたのはかよちゃんではないか。
木苺のジュースをわたしたち発信で流行らせようと息巻いていたのも、かよちゃんではないか。
薄明を頼りに、ワイングラスに注いだ木苺のジュースを眺める。気取ったようにグラスをまわしてみる。木苺のジュースは人間が削った氷にかける、いちごシロップの色に似ている。かよちゃんは例の大切な彼と、どこか遠くに行ってしまった。生きているかも死んでいるかもわからない。
今のわたしたちは寿命も延び、長い時間でなければ太陽の光を浴びても平気なほど人間に近しい存在となったけれど、それでもやはり人間とは本質が異なる。人間は血を飲まなくても生きていける。わたしたちはいくら人間らしく振る舞っても、血を飲まなくては生きていけない。血を断つことはできないのだ。そういう生き物なのだ、わたしたちは。
わたしはグラスを窓の方に傾けた。乾杯をするみたいに。
ねえ、かよちゃん。
ひとりはさびしいわ、かよちゃん。
かよちゃんを想いながら飲んだ女子高生の血を薄めた木苺のジュースは、ぱちぱち弾けながら体内に滑り落ちていった。
ひとりの夜に、木苺のジュース