半透明は黄金色に進化する(短編集)

短編集①
テーマ「悲劇」

半透明は黄金色に進化する

 私は卵がたまらなく好きだ。中でもとりわけ好きなのが、スクランブルエッグにケチャップを添えて、焼いた食パンで挟んで食べるやつ。料理名とかは特に無いと思うが、すぐに作ることができ、中々腹持ちもいいスグレモノだ。
 卵は素晴らしい。何かにつけて卵の何かを食べている。フライパンにぽとりと落とし、じゅうじゅう火を通せば、半透明が黄金色に代わってゆく。
 人はそんな簡単には代われない。だから私は卵が好きだ。彼らは、火があるだけで美しく生まれ変われるのだから。
 ぐちゃぐちゃー。かき混ぜたっていい。くるくるー。巻いたっていい。可能性は無限大だ。私とは大違いだ。


 私は肌色の表皮に包まれた、肉の塊だ。七割弱の水分と、大仰な見た目をした脳みそ、正直見た目に難ありの内蔵、それから筋肉やら骨やら沢山オプションが付いているけれど、何の魅力もない。半分に割っても、中から黄身が出てくることもない。せめて、スイカのように種がポロポロ出てくれば面白みもあっただろうけれど、残念なことに魚の内部の百万倍気持ちの悪いものでできている。
 同じ水分だらけの体でも、大根やトマトは綺麗なのに。なんで私だけ。


 じゅうじゅう。ぐちゃぐちゃ。ああ、いいことを思いついた。
 火は根っこが赤く、先端は青に染まり跳びはねる。ふわりふわり。とても楽しそう。
 フライパンをどけ、指を近づける。暖かく、突き刺すような痛み。指先がチリチリする。
 この感覚が心地よい。太ももとお腹に残る青あざなんかよりも。右手首にある引っかき傷よりも。楽しい、愉快、最高のエンターテインメント。
 じゅうじゅう。じゅうじゅう。ああ、私も卵になれるのだ。焼いたらきっと、黄金色の綺麗な私になるのだ。殻を割るように、皮膚を割いたら中からとろり、白身と黄身とがこんにちはをしてくれるのだ。
 卵になあれ。卵になあれ。美しくなりたい。美味しそうな私になりたい。じゅうじゅう。じゅうじゅう。
 ぼおおお。ちりちりちりちり。


 ――私はどうやら、悲鳴をあげていたらしい。大声で笑っていたつもりだったのだけれど、他所の誰かにはそう聞こえたらしい。
 ばしゃーん。水を頭から被せられた。ぽたりぽたりと零れるそれは限りなく透明で、ああ、私の中身は半透明のとろりとした白身なんかじゃなくて、透明で、少ししょっぱい、さらさらとした何かだけなのだ、とわかった。


 どうしてなのだろう。どうして分かってくれないのだろう。気づいてくれないのだろう。
「私は卵になりたかった」
 出来ることなら、生まれ直したかった。もし叶うのならば、生まれる事すら無かったことにしたかった。
 どうして怒るの。どうしてぶつの。どうして、私は赤の液体を撒き散らし、青の変色を繰り返し、灰色の視界を見ることしかできないの。
 どうせなら粉々に割ってよ。ぐちゃぐちゃにかき混ぜてよ。パンに挟んでたいらげてよ。
 私は卵になりたい。綺麗で美味しそうで、すぐに指名を全うする、あっという間の運命でありたい。

激しい夜に抱きしめたい

 肌寒い宵に丁度いい。彼女の身体は包み込めてしまうほどに小さく、かすかに温かい。死んでいるとは思えないほどに。いや生きているけれど、でも死んでいると同義だ。
 生まれた瞬間から、すでに絶命するその日までのカウントダウンが始まっている。だから生きているということは、つまり死ぬ直前が無限連鎖しているような状態だ。一分一秒、死なない運命だけを引き続ける、果てしないババ抜きゲーム。
 まあ、それはいいとして。彼女の柔らかな髪をなでて、今、この腕の中に彼女の頭が収まっている状態を、心から幸せに思う。
 これは、私への天からの贈り物なのだろう。あまりにも理想的で、完璧な存在だ。オンリーワンの逸品、パーフェクトだ。どこにも連れて行かない。私だけのものだ。
 濁った瞳も、つっけんどんな性格も、病的なほど白く細い曲線も、そしてダッチワイフのごとく感情のないしぐさも。全て私がそう望んだからだ。そんな人が欲しかったからだ。


「ねえ、コーヒーでも飲む?」
 夜はまだまだこれからだ。歪な境界線を互いに重ね合わせる時間にしようったって、少し早い。
 白のマグカップの中で、ぷかぷかと黒い液体が浮いている。彼女はブラックが好みだから、そのまま手渡す。くいっ。一気に飲み干し、空のそれを返される。
 また注ぐ。くいっ。一気飲み。また注ぐ。一気飲み。また注ぐ。
「何をしてほしいの」
 四杯目を受け取り、彼女がついに口を開いた。
「待ちきれないの?」
 ぞくりぞくり、と背筋が暴れだす。空になったマグカップをまた返され、受け取る手が震えてしまう。
「私は何をすればいい」
「焦らないでよ。ほら、もう一杯」
 白のマグカップを、手渡す。透明色の液体がぷかぷかと浮いている。
 コーヒーではない。見ればわかる。しかし彼女は私の施した最高のダッチワイフだ。文句の一つも言わず、唇を近づける。
 煙草に火をつけ、それを眺める。だが、やはりコーヒーではない別の匂いとなると、思わず躊躇ってしまうようだ。
「大丈夫、私が手伝うから」
 灰皿に煙草を置き、カップの底に手を充てがう。飲めよ。早く飲めったら。目だけが、私の本性を雄弁に語ってくれる。
 一気に飲み干し、彼女はむせてしまった。念のためもう一杯注ぎ、再び唇に充てがう。くいっ。一気飲み。そして咳き込む。
 さあ、下準備は完了だ。甘美な夜が始まるのだ。それはいつだって一夜限りの、燃えるような激しい夜なのだ。
「ほら、デザートをあげる」
 灰皿に置かれた煙草は、半分ほど灰となってはいるが、辛うじて煙をあげている。それには興味も見せず、その隣のマッチに手を伸ばす。
 しゅぼっ。マッチはライターなんかと違って、独特の香りがする。木が燃えると、こんな風なノスタルジックな香りを発するのだろうか。
「お口直しだよ」
 彼女のちっちゃな口を限界まで押し広げ、体内向けて放り込む。あとは、「燃えるような激しい夜」を感じてもらうだけだ。


 私の衝動を慰めてくれる、とびきりのダッチワイフ。彼女は理想のパートナーだ。その暴力的衝動は、いつだって結末を欲していた。
 だってそうでしょう、人は生きながらにして死を内包している。全てはババ抜きの連続、生き延びる運命を何十回何百回と繰り返し、こうして平穏無事に過ごせているのだ。
 そのババを、目の前で誰かに引かせたい。その気持ち自体はおかしなものでもないだろう。やっぱり人は、誰かが貶められ、悔しがる様を見るのが大好きなのだ。
 ただそれが、人生一度こっきりのババ抜きに成り代わっているだけで。だからこそ私は狂人なのだろうし、彼女のようなビッチを求めてしまうのだろう。
 ここは、二人だけの秘密の部屋。ババしかない手札を彼女に引かせるため、ただそれだけのための空間だ。


 彼女の体躯が、ガタガタと震え出す。大丈夫、今もちゃんと、この腕の中に彼女がある。きっと怖いのだろう。それでいい。貴方の泣き顔はまだ見たことがなかったな、早く見たいな。
 彼女の口付けたマグカップ。まだ、唾液がかすかに付いているはずだ。仄かに変な匂いのするそれに、コーヒーを注ぐ。
 うん、なるほど不味い。やっぱガソリンなんて飲めたもんじゃないや。彼女の身体が、ゆっくりと温もりを帯び始める。死んでいるとは思えないほどに。いや、今はまだ、生きているけれど。
 ああ、温かい。肌寒い宵に丁度いい。

天は唄い、地が踊り出す

<dystopia>
 無人探索機の羽音が、耳に障る。バカでかい蛾のようで、腐った果実に群がる蝿のようで、そいつの目を通し私達を覗き込む醜悪な民衆の声が聞こえてきそうで、私は適当な瓦礫の山へと這って隠れる。
 見るな。騒ぐな。興味を持つな。その日限りの下らない好奇心で、私達の世界が修復されるわけがないだろう。放っておけ。忘れろ。それでも助けたいというのなら、ここまで来い。
 いつ爆発するとも分からず、いつ死ぬとも分からない煉獄へ、来たいならば来るがいい。そしてバランスを失った廃材の下敷きになってさっさと死ね。


 第三次世界大戦は、やってこなかった。代わりにこんな小国を焼き払い、あらゆる生命を駆逐する「浄化作戦」が決行された。炎が身を焦がし、鉄の雨が心の臓腑を貫き、毒素が肺を汚染する。
 この世は生き地獄だ。早めに死ねたやつから救われる。生きれば生きるほど、生きるのが辛くなる。そういう奴ほど中々死ねず、いつまでたっても表面だけの励ましだけ貰い受ける。
 ここ数週間は、ものの味すら分からない。啜る液体が、水なのかお茶なのか泥水なのか、それすら把握できない。ただただ、寒い。身体の震えだけを体感する。
 空はずっと灰色だ。雲はなくとも色がない。燻ぶる炎が、弔いの煙を何本も空へ上げている。


 少なくとも私が覚えているのは、西暦二○一九年十一月十日のこと。今から三週間と少し前、空から宴の音が聞こえた。音速より早いんだかどうだか知らないが、「神の加護(ゴッド・スピード)」を得た機体が二つ、私達の空を横切った。
 金切り声を上げて投下された悪夢が、この地に悲鳴と破壊をもたらした。家屋が崩れ落ち、家畜が燃え上がり、人が泣き叫ぶその日の朝は、今も目の前で連続再生される。
 昨日までそこにあった果物屋。名前も知らない花を大切に育てていた、お隣さんの庭。全部、同じ形に塗りつぶされた。全部、荒廃した絶滅のミルフィーユに作り変えられた。


 あいつを潰せ。祖国のために。そいつを消せ。神の名において。雨粒より大きな投下弾、心臓より小さな銃弾。インスタントな功績(アドバンテージ)のために、沢山殺された。
 ――死ね。
 絶えず湧き上がる、行き場のない怒り。しかしその矛先は、彼らにあるのではない。
 ――死ね。
 あいつらは私達とは違う。きっとあれは人ですらなく、悪魔のような肉の塊なのだろう。そんな奴らを裁くほどの暇はない。
 ――死ね。安らかに。
 私は、もう疲れた。比較的軽傷で済んだのが幸運だった。失くしたのが左脚だけでよかった。夜な夜な幻肢痛に苦しむとき、抱き寄せるためのもう片方がちゃんとあるから。
 ――死のう。安らかに。
 生きのびたって、その日限りの好奇心で腹を満たすバカたちが、哀れんだ目で二束三文の偽善を寄越すだけだ。
 そんな惨めな末路、誰だって望んじゃいない。
 ならばいっそ、みんなで逝こう。
「一緒に逝こうよ」
 天は唄い、そして地が踊り出す。生まれて初めて、神とやらが私の願いを聞き入れてくれたのだ。
 静かに、そして突如として起こり来る「神の加護(ゴッド・スピード)」を、「神の祝福(ゴッド・ブレス)」を、残された右脚で感じ取る。


<archive>
 西暦二○一九年十一月十日、「浄化作戦」により小国がひとつ、歴史から消えた。
 同年十二月二日、例年を上回る寒気に見舞われたその日、被害国付近を中心とする大地震が発生。マグニチュード八を観測。これにより、かの小国の民族は全滅、今もその地には、放置された瓦礫と、白骨化した死体が広がっている。
 浄化作戦にて投下された毒素の空気中濃度は未だ安全値に下がらず、ごく僅かなボランティア団体が駆り出されるのみである。
</archive>


 世界に、何一つの変化もなく。
</dystopia>

<dystopia>

不可逆器官

 不登校の生徒がいた。 私は顔も知らない。それもそのはずで、一日だって来たことがないのだ。まあよくある話だ。
 川岸に葉が詰まろうとも、川そのものが止まることのないように。一人の空白だけで日常が崩壊することなど有り得ない。クラス全体は、三十人中一人が欠けている、という認識など持たず、今の状態こそがデフォルトで、不登校生徒が来たらそれは「異物混入」と見做すこととなる。
 それが現実だ。落ち葉に感情はないけれど、我々にはそれがある。ここは川でなく、限りなく圧縮されたひとつの世界なのだから。


 その不登校生徒を訪問しろ。それが私への指令。先生がそうしろなどと言うわけがない。あくまで生徒の立案だ。だけれど、ぶっちゃけ面倒くさい。
 いい格好をしておけば、内申点が上がるかもしれない。そうすると大学の推薦が通りやすくなるかもしれない。しかし、行くのは嫌だ。本末転倒である。
 そこで白羽の矢が立ったのが私。面倒ごとを頼んでも文句を言わない。クラス内のカーストもド真ん中辺り。しかもお人好しっぽい雰囲気。まさしく使いっ走りにはピッタリだ。
「ごめんね、本当は私も行くつもりだったんだけど」
 ふーん。内心では目の前で露骨に残念そうな顔をする彼女をぶん殴りたいと思っている。
 どうせ用事なんて大したものでもないくせに。不登校の子でも、ちゃんと気にかけていますよというポーズが欲しいだけのくせに。そのほうが、クラスの調和を保てるから。彼女は多分、それを調節する係なのだ。重苦しくなく、だらけ過ぎず。良いご身分だ。


 道のりは楽ではなかった。三駅乗って徒歩十分弱。公立の学校の区域としてはギリギリだ。坂を登って少し辺鄙な場所に出ると、それが見えた。
 中途半端に土地開発された街というのは、目に見える境界線ができる。さっきまでコンビニがあったり車の沢山行き交う場所だったのに、少し逸れるとど田舎になる。そんな場所だ。
 彼女の家もまた、境界線の向こう側にあった。ひとつの景色としては普通の住宅街なのに、その家だけが薄気味悪くみえ、お隣さんのお家も、街頭も、みんなそれだけを避けて、体をよじって触れないよう耐えているように映る。
 その最たる原因は、きっと外観にある。


 インターフォンを鳴らすと、わずかに物音が聞こえた。ここからは何も見えないが、これで完全な留守という線は消えた。しかし返事はない。もう一度鳴らす。やはり反応はない。
 電車賃だって自腹なのだ、ただで帰るわけにもいかないと思い、やたらめったらにインターフォンを鳴らしてやった。向こう五年分くらいは押しただろうか。
 ようやくスピーカーがオンになる音が聞こえ、そこから吐息が聞こえてきた。
「あ、あの……なんの用ですか」
 それにはカメラが付いている。私の姿を見れば、同じ高校の生徒ぐらいは察知できているはずだ。簡単に説明し、中へ入ることを承諾してもらった。
 しかし、笑顔を貼り付ける事すら忘れていた。出来るなら私だって、さっさと帰りたい。それを悟られなかったかが心配だ。


 門を開け、玄関前へ立ち、改めて家を見上げると、鳥肌が立った。気持ち悪い。何を思って、こんな設計にしたのだろう。
 遠目に見た時には、途中で数えるのを諦めたんだけれど、およそ百個の窓が並ぶ外観。全てが整然とこちらを向き、内部をこれでもかと曝け出している。しかも、内部には何も見えない。タンスだとか本棚だとかテーブルだとか、そんなものが何もない。白い壁紙だけがある。どこが壁で、どこが家の内部なのか、判別がつかないのだ。
「お待たせしました……」
 初めて見た彼女の姿は、さながらサリバンの乙女のようであった。口元をすっぽりマフラーで隠し、両の目しか出していない。しかも長袖にロングボトム。素肌などほぼ見えない。
 家の中の、一箇所だけカーテンの下ろしてあった場所が彼女の部屋だったらしい。ようやく外界から隔絶された気分を感じ、息を吐く。やはりそこにはこれといった特徴がなく、机とベッドがあるだけだ。
 渡すべきものを渡し、伝えるべき連絡事項を伝え終え、もう私の役目は終了だ。彼女も聞いてはいたが、「学校に来ること」や「元気な姿を見せる」といった上辺だけの気遣いに従う素振りは見られない。
 しかし最後に、つい聞いてしまったのだ。
 「貴方はどうして不登校になったの?」と。
 その秘密に、私は第三者特有の好奇心をもって踏み入れたのだ。


 問いかけに対し、彼女は長く沈黙を続けた。が、意を決したようにマフラーを解いた。顔が徐々に明るみに出て、それに合わせるように彼女は顔を伏せた。
 顔つき自体はまあ普通と言ったところだが、ニキビが酷い。顔中がブツブツしている。これをからかわれた、とか?
「これ、その、気持ち悪い、でしょ?」
 恐る恐る、震えた声で彼女が言う。いや、不快な気持ちが無いとは言えないけれど、しかし石を投げて唾を吐くほど醜悪かと言われたら、そんなことは全くない。
 「そこまでのことか?」と疑問に思う。ニキビくらい誰だって出来てしまうものだろう。
「それが原因で、いじめられた、とか?」
 彼女は首を振った。ならば何が。いま、目の前に提示された情報は、何も繋がってこない。不登校、彼女の顔、肌を隠す理由、そして「百個の窓でできた家」。
「それは――」
 何かを言おうとして、彼女の動きが止まった。くしゃみが出そうで出ない、そんな時のように、虚空を見つめて何かを待っている。いや、耐えているのだろうか。握りしめた右手が震えている。
 彼女は再びマフラーを取ろうとしたが、うう、と声を漏らし、うずくまった。何かの発作でも持っているのか、と私は慌てて彼女の顔色を覗き込む。
「来ないでっ」
 と手で遮られたのだが、私ははっきりとその姿を見てしまった。うずくまったのは、それを隠すためだったのだ。そして、見られまいとして取った行動が、左の頬を一瞬露わにしてしまったのだ。


「目……?」
 呟きながら、理解をしようとその一文字を咀嚼する。それでもわからない。
 ニキビだと思っていたそれは、そうじゃなかった。その粒々のひとつひとつに、眼球が見えたのだ。つまり、顔中に目玉が乱立しているのだ。
 左の頬に幾つもの眼球。左、右、ぎょろぎょろ――花に群がる蜂の子のようにせわしなく。
 従来の眼球へ寄り添うように巣食う眼球。上、下、ごろごろ――母体に繋がる赤子のように。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
 一向に顔を挙げない彼女と、尻餅をついて硬直する私。情報が、ひとつのシナリオに組み立てられていく。
「ねえ、この家を作ったのってもしかして……」
「そう、です。私の父親です」
「ご両親はここにはいない?」
「……そうです」
「その発作は、咳とかくしゃみみたいに突然起こるの?」
「……うん」
 小さな、湿気を帯びた声色で。小さくうずくまる背中が、酷く悲しげに見えた。
 つまりは、こういう事だ。彼女は何の不具合か、顔――あの服装からして、もしかしたら全身に――目玉が付いてきてしまった。百個の窓でできた家のように。それを醜く思った両親は彼女を捨て、あろうことかこのプライバシーの存在しない家に放り込んだ。
 醜い姿を晒してでも家を持つか、それともホームレスになるか。そしてそんな姿では、いじめ以前に学校へ行けない。
 異物混入。私は昼間、彼女が学校へ来るとしたらそうなるのだと表現した。だがそれは間違いだったのだ。人間という尺度の上での異物、彼女にとってすれば、身体に寄生した異物なのだ。
 彼女はいま、目を固く閉じて涙を零しているのに、違う目玉の集合体はぎょろぎょろと辺りを見回している。予め備わった二つの眼球。それが三つ以上となると、なぜか途端に恐怖を覚える。


 私は家を飛びだしていた。この目で見たものは、この世に存在するものだけだった。窓も、目も、何もかも、ただ「多い」というだけなのだ。
 それなのに、側溝に胃の中のものを吐き出した。気持ち悪い。怖い。……忘れたい。
 私はもう、彼女を「不登校のクラスメート」と認識できない。異形のもの、別の何かとしか考えられない。ただ、目玉が多いというだけで。脳がそうしろと命令している。
 彼女は、川の端に引っかかる落ち葉などではなかった。川の流れそのものを脅かす、土石流のような存在だったのだ。
 明日私は、どんな顔をして学校に行けば良い? あの異物を、どう説明すれば良い?

果てる

 尽きる。
 涙が尽きる。
 泣きはらして、涙が尽きる。
 悲しくて、泣きはらして、涙が尽きる。
 迫害されて、悲しくて、泣きはらして、涙が尽きる。
 私はニンゲンだから、迫害されて、悲しくて、泣きはらして、涙が尽きる。
 彼らはニンゲンじゃなくて、私はニンゲンだから、迫害されて、悲しくて、泣きはらして、涙が尽きる。
 彼らに、涙は、無い。


 叫ぶ。
 魂が叫ぶ。
 耐えられず、魂が叫ぶ。
 迫害され、耐えられず、魂が叫ぶ。
 彼らは痛みを知らないから、迫害され、耐えられず、魂が叫ぶ。
 私は痛みを知っているけれど、彼らは痛みを知らないから、迫害され、耐えられず、魂が叫ぶ。
 彼らに、魂は、無い。


 ニンゲンはこの世から消えてなくなり、彼らのような量産品(アンドロイド)が取って代わり、世界を埋め尽くす。
 私という純正品(ニンゲン)がいることを知り、彼らは自らは味わえないものを知るために、私を迫害する。
 自らが味わえないものを、痛みを、涙を、飢えを、恐怖を、快楽を、愉悦を、知るために。


 髪を引っ張れば千切れるんだって。
 舌を抜けば喋らなくなるんだって。
 肌を焼けば治らなくなるんだって。
 死ねばもう戻らなくなるんだって。
 知るために。
 彼らの祖先を知るために。
 私のような、脆弱で非力で欠陥まみれの、彼らの祖先を知るために。


 私は死ぬ。
 私は死に至る。
 私は此処で死に至る。
 私は薄暗闇の冷たい部屋で、死に至る。
 彼らはようやく知ることができる。
 彼らは私を見届ける。
 彼らは死を知る。
 彼らは知る。

 
 死とは何か、生とは何か。
 死ぬことのできない量産品の宿命こそが、脆弱で非力で欠陥まみれの純正品よりも、遥かに欠陥品らしい存在なのだと、彼らは知る。
 そのために、最後の純正品は死に至る。
 つまり私。


 哀れな量産品。
 どれだけ苦しくとも、最後には死ねる。
 だから、私はまだ、幸せなのだ。
 流す涙も、最後には尽きるのだ。
 痛む魂も、やがては叫ぶのだ。
 そして、その終着点で。
 私は死ぬのだ。
 そして尽きるのだ。
 そして果てるのだ。
 そして

すてきな家族

 とある年末の晩、私の所属地は深刻な事態に直面していた。
「来季の戦力が足りない」
 簡単に言えば人手不足。生まれるにしても死ぬにしても、幾分か失うものの出てくるこのご時世、若い力というのはそれだけで貴重な資源に違いないのだ。たとえ筋力がなくとも、単純にバカでも、日に日に衰えていく大人よりも、未来ある子供のほうが結局のところ利点が多い。


「というわけで、来季編成について意見を聞きたい」
 それが雇用主の要望。彼女の夫もまた私からすれば雇用主と同等の立ち位置に当たるが、あまり口出しをしない。興味がないのか、現状をありのまま受け入れる性分なのか。
「やっぱり男手は必要になってくるよね」
 とはイーサンの言葉。彼は最年長ということもあり、雇用主以上に人材マネジメントに精通している。
「でもコストがかかりますよ、食べ盛りだと飯を奢るだけでも一苦労だし」
 続けてニコ。イーサンの三つ下、私の二つ年上だ。彼女は面倒見のいい性格で、とにかく効率化を重要視するイーサンとは異なり、一人ひとりを大切に育てたいタイプだ。即戦力を求める意見と、長期的な育成カリキュラムを組みたい意見とは、いつも衝突している。
「そうは言ったって、今は男一人に女二人だ。流石に俺の負担が大きいんだよ。もう一枠、男を入れて欲しい」
「でも、今度は人件費がかさむ事になるからねえ」
 雇用主が口を挟む。収支を管理する彼女からすれば、確かに人員を増やして利益をより増やしたいのは山々だろう。
 しかし、現状は力仕事の部分がどうしても穴となっており、こればかりは男女差別云々を言うまでもなく、男の方が圧倒的に「即戦力」を引きやすい。
 枠を増やしたい、でも私含む三人を超えると、この所属地ではやや多い。となれば、たどり着く答えは一つだ。
「私、よそに移りましょうか?」
 簡単な話だ、一番年下の私が身を引けばいい。まだ入って一年程度だ、イーサンとニコの仕事をカバーできるほどのキャリアは積んでいない。
 それならば、私をどかして空いた三人目に、もっと力のある者を放り込めばいい。それこそ、「身体能力の高い女性」がヘッドハンティング出来るなら、最高の結果となる。


「ミナ、それはダメだ。トレードになったとしても、ここより条件の良いコミュニティにはそうそう引っかからない」
「良いんです。心配してくれるのは有り難いですけど、いま無理をしてこの『家庭』が崩壊することのほうが、私は悲しいから」
「でもアタシはミナに残って欲しい。在籍期間はアタシが一番長いけど、この三人が一番好き。それこそ、兄妹みたいだった」
 私の身を案ずる『兄』と『姉』、そして初めてみんなの為になることをしたい『妹』の私。これが家庭と呼べないのであれば、家族とは何なのだろう。
「なら、合併しよう」
 初めて雇用主・夫が口を開いた。私たち三人はもちろん、これには雇用主・妻も驚いた。そして何より、彼の告げた斜め上の発言に。
「俺の実家のコミュニティとこっちを合体させればいい。あっちは息子が二人いる。吸収合併して、二世帯住宅にするんだよ」
 一般的なコミュニティにおける理想の人員数は三人前後が一番だとされている。四人目がどうしてもおけないのであれば、母数を増やしてしまえという荒業だ。
「あっちの家庭は比較的安定している。バックアップには十分だろ?」
 これに反対する者はいなかった。雇用主はまだ若く、実家にはまだ独立していない子どもたちが残っていたのだ。


 そうなると、残る問題は一つだけ。
「じゃあ、ドラフトとトライアウト次第か」
 イーサンのいう、ドラフトとトライアウト。前者は晴れて独立となった若いリソースを取り合う決戦投票、後者は先ほど私が選ぼうとしていた自由契約(要は解雇通告だ)となったフリーの若者を、各々のパフォーマンスを見せてもらいつつ拾っていくものだ。
「よし、今のうちからリサーチするか」
「来季ドラフトかかるのって誰?」
「あっちのコンビニ向かい、Fさん宅のご子息なんか良いよ」
「あそこ、領地の規模もデカイもんな」
「あとは三つ隣のNさん宅。才色兼備のお嬢様」
「あれは育成に力入れていたし、ドラフト出さずに自分のところに抱えるだろ」
「っていうかさ、合併先の息子、やる気なけりゃ切って枠増やすのは? 次男三男枠まで拡張できる」
「俺は構わんよ。家庭の存続のが大事だ」


 これが、ある年末の晩に行われた『家族会議』の一連の議事録だ。未だ「血筋」に拘る文化が根付く地域の人にすれば、異様かもしれない。
しかし、この星はもう殆ど人間が占拠してしまい、新たな開拓地なんてありゃしない。そうなると、今ある資源を奪い合うしかより裕福な人生は得られない。
 家の領土、労働による収入、そして円滑な家庭。それらはいちいち生まれた子供に望みを託すよりも、いっそ全家庭で交換し合って、切磋琢磨してしまう方が効率的なのだ。


 はっきり言おう、若き生命は財産であり、そして紛れもない資源だ。幸福のために大人が子供を利用するのなら、我々若者も大人を値踏みし、より良い環境を求め、利用されてしまえばいい。
 家族に血も歴史も関係ないんだよ。

さよならの儀式

 二十余年の記録に、さよならをする。
 ひとつ境界を断つ毎に、幾千の思い出たちが地面へほろり。またひとつ。ふたつ。「はらはら舞う雨になって、私の頬をそっと撫でて」。
 しゃきん。しょきん。時折落つる雫は、たぶんきっと私の代わりにそれを体現してくれているのだと思う。
「失恋でしょ」
 いつもより言葉数が少ないのだから、察することは簡単だ。腰元から別の鋏を取り出しながら、彼女は問いかける。
「割とド直球で来るんですね」
 何とか笑みを浮かべてごまかすと、お姉さんは肩口に付く残骸を払い除けて言う。
「そのほうが良いと思って」
「それもそうですね」
 この美容室では何年も前からの常連だ。ずっと彼女を指名し続けている。友達以上に私をよく見てきたのだ。三ヶ月前に誕生日の話をしていたのに、今になってクリスマスの話題を避けるのだから、本当に私は嘘が下手である。
「にしても、本当にあるんだね」
 濡れた毛先が、鋏の又の部分にこびりつく。かちん、かちん。小気味よい音で振り落とし、手櫛で形を整えられる。
「実はこういうの、あんまり経験ないんだ」
 そう言うお姉さんは、長年髪の長さが変わらない。色ばかりが衣替えをして、するりとまとまった毛先をしていて、いつも同じように変わりのない美しさを保っている。そしてその顔つきも、日に日に熟練の自信に満ちた表情に上塗りされて。
「私が初めてですか」
「いんや、昔一度だけ」
「どんな方でした?」
「丁度、貴方みたいな女の子だったよ。振られてすぐ、だったね」
 へえ、の後が続かない。いつもなら、そこから明後日の方向にまで世界を広げられるのに。立ち止まり、目を落とすと、そこに彼の顔が反射している。
 そうすると駄目なんだ。私は駄目な私になる。そこにいて、その時だけを見つめていたくなる。
「どうして、ショートヘアにしたくなったの?」
 それは、単なる好奇心として。付け足された言葉に救われる。私が欲しいのは今後のことではなくて、今、この瞬間の苦しみを忘れさせることだ。カウンセラーなど必要ない。
「さあ……ただ何となく、ああ切ろうって」
 それは、別れ話の三十分後。向かいの席が空いて、外の景色が急に広大に映って、冷え切ったミルクティーをぐいっと飲み干した瞬間だった。


「なら、ヒントをあげる」
 目元にしがみつく細かい毛を、柔らかなブラシで払いのける。それに合わせて目を閉じ、再び開く。ずっとずっと、短く失われた髪の毛たち。とっさにそれが別人だと錯覚する。
「足元を見てご覧」
 言われるがまま、視線を落とす。カツラが二つは出来そうな量のそれが、山のように積み上がっている。
 シャンプーをする頃にそれらはモップでご退場、ゴミ箱かそれに近しい場所へ廃棄されるのだ。ついさっきまで、この身体の一部であったそれらが。
「髪の毛って、身体から離れた途端に怖いでしょ」
 フローリングとか、排水口とか。続けて補足される。確かにそうだ。私には無いけれど、どんなに綺麗なキューティクルを持っていたって、排水口に束になって詰まってしまえば、生ごみと同じような目で見てしまう。触りたくないし、勝手に溶けて消えてしまえと思う。
「それなんだと思う。その時はすごく綺麗なものに見えるんだけど、手から零れ落ちたら、それは汚いものと同じなの。早く捨てて、見えないようにしたいんだと思う」
 それは、以前の失恋した人がそうだったからですか。尋ねずにはいられなかった。
 襟足の長さを見る目線が、ぴたりと止まる。鏡越しに彼女の戸惑う顔がよく見える。
 気を取り直すように櫛を取り出し、毛先をすうっと真っ直ぐに合わせるのと同時に口を開いた。
「半分くらいは、正解かな」
 

 鏡を渡され、椅子がくるりと回転する。鏡に鏡を映して、これはつまり背中側の長さを確認するため。
 肩甲骨を覆うほどあった、平均的日本人女性の長さだった髪が、今は肩につくかつかないかだ。眼球には、未だに失われた数十センチが幻となって語りかけている。
「どうかな」
 どうも何も、注文通りだ。文句なんてない。ありがとうございます、と笑顔で返し、あとはお会計を済ますだけだ。
 預けていた荷物を受け取り、ポイントカードを返してもらい、千円札をうんと渡す。いつものとおりだ。一センチ切ろうが十センチ切ろうが、お値段据え置き。これが散髪の良い所。
「残りの半分って、何だったんですか」
 これだけ切ったら当分は来ない。ならいっそ、すべての答えを知りたかった。ド直球。彼女がそうなら、私だってそうしよう。その方が、私らしいから。
「……ま、時効でいいか」
 扉を開けられ、外へ促される。お見送り、そして答え合わせ。
「その子ね、私に一目惚れしていたの」
「女の子がですか?」
「そう。憧れっていう段階を超えていた。私は残念ながらそっちの気は無かったから、断ったの。そうしたら、なんて言ったと思う?」
「さあ……」
「もうここには来られないから、最後にたっぷりじっくり切ってくださいってね」
 ああ、と脳内が晴れていく。その気持ち、何となく分かるかな。いじらしくて、でもきっと苦しくて、聞いているだけでぐっとくるものがある。
「だからね、結局は捉え方次第なんだよ」
 頭についた髪の塊も、フローリングのやつも、排水口のやつも、みんな私の一部であることに変わりはない。それを自覚するのも、汚く思うのも、見方の違いに過ぎないのだ。
 だから、失恋だって。続く言葉は自分自身で補う。
「分かりました。頑張ります」
「うん、いつでも待ってます」
 にこやかに、流れるような手つきで帰り道を促す姿を見て、ああなるほど、これは惚れるな。名も知れぬ少女の恋の味を、仄かに感じた。

ニ.五秒遅れの恋

 挨拶ってとっても大事だろう。意味もなくデカい声で言う必要はないけれど、かといって俯いて無言で通り過ぎてしまうのは失礼である。これに異論はなかろう。
「おはよう」
「こんにちは」
「こんばんは」
 大体この三つ。朝昼晩で三種類。中でも「おはよう」は万能だ。最早夜であっても、とりあえず言っておけば間違いはない。夜勤の時なんかに使うだろう。
 そう、その挨拶についてだけれど、道行く人にいちいちする人はいるだろうか? そんなのはRPGの主人公くらいだろうか? 確かに、現在地を知らせてくれる係の人などいない。
 だが、実際問題、声をかけたらどうなるだろう。
 私は毎日のように、それを繰り返す。


 秋葉原の電気街口で。浜松のサービスエリアで。河原町の四条通りで。宝塚の花の道で。淡路島の海辺で。鳥取駅前の静かな商店街で。那覇の雑多な大通りで。
 僕は何度も声をかける。そしてみんな、通り過ぎてゆく。


 私には会いたい人がいる。すぐそばまで近づいている。その手を伸ばす勇気はないから、何度も声をかける。それすらも届かないのだから、懸命にその背中を追いかける。そしていつも、横断歩道の赤信号で諦める。まだ、追うことは十分出来るけれど。


 もしも、声をかけて振り向く人がいたら。それはきっと、貴方とその人とは必ず同じ場所にいる事になる。今、この瞬間に息づいている何よりの証拠だ。
 もしも、ほんの少しの歪があったら。それはたとえ、僅か二.五秒の誤差だとしても。貴方は私を知ることが出来ない。二.五秒後の世界は、二.五秒前の世界とは大きく異なる。誰かが転び、誰かが笑い、誰かが死んだ後の世界なのだから。私はその未来へたどり着けていない。


 懸命に走る。貴方の背中を追いかけている。ようやく二.五秒まで差を縮められたのだ。きっといつか辿り着ける。何度もそう言い聞かせて、誰も振り向きやしない街々で、私は挨拶をする。
 もしも、私の声が空耳として届いているのなら。それが私の望む会いたい人で無かったとしても。立ち止まって、私を探して欲しい。
 私は今も、貴方から見て二.五秒前の世界を走っている。確かにそこで生きている。
 二.五秒遅れの恋を、どうか忘れないでほしい。


 おはよう、未来の貴方へ。そこが朝でも昼でも夜であっても、どうか「おはよう」と返事をしてほしい。

二十一グラムの在処

 私は身体のどこかに穴が開いているのだ。そこから空気も食べ物も血液も、みーんな漏れ出てしまっていて、いつか私はしおしおに枯れた死体になるのだ。
 どんなに強力な精力剤を飲んだって、睡眠薬を飲んだって、アルコールをあおったって、何も変わらないのだ。
 頬に手を寄せる。ぺたりと吸い付いた右手は、冷蔵庫から取り出したのかと思わんほどの冷たさを持っている。するりと肌を滑り、地面へ倒れ込む。あ、今横たわっているのか。そんな事すら意識の中にない。


 遠からず、こうなる事は分かっていた。いつかはそうなるもの。壊れない玩具はないんだもの。
 それでも私は、床と天井の隙間に挟まれて、意味のない時間を浪費してなお、この物語を否定したい。
 私は今、家の中にいる。外は雨が降っていて、きっと寒い。しかしここなら安全だ。屋根の下にいるだけで世界が変わる。なのに空は空のままで、たぶんずっと先に宇宙があって、そこには恐らく何もない。
 それがたまらなく不愉快なのだ。宇宙人もワームホールもそこにはいないだろう。だからつまらないのだ。世界なんて小さなものだと錯覚するのだ。
 脚を投げ出す。痺れているのか、使い方を忘れたのか、まるで物のように床を叩いた。力が入らない。


 どうして私は燐寸を手にするのだろう。それそのものに意味はないのに。身寄りのない少女がくれたものでもない。思い出も思い入れもそこにはない。
 なのに、それが最後の架け橋になるのだ。記憶ではなく、記録でもなく、形だけの灯火が、私と貴方を繋ぐのだ。


 ねえ。私は笑いっぱなしの貴方へ声をかける。
 貴方はいま、どこにいるの?
 そこはどんな場所?
 楽しい?
 幸せ?
 ねえ。
 私の声は、届いている?


 蝋燭に火を灯す。冷え切った掌を、ついでに解凍する。私には家がある。マッチ売りの少女のように、雪の中で眠る末路にはならない。もっと醜くて、どうしようもない未来が待っている。
 だからこそ、知りたい。
 貴方は死んで、そしてどうなったのか。
 生きた末に、我々はどこへ逝くのか。
 そこにはエイリアンでもいやしないだろうか。
 魔法使いや幻獣はいないだろうか。
 この世界より、幾分か楽しい場所がないだろうか。
 もしも、死後の世界があるとして。そこがとびきりのネバーランドだったとしたら。私は今すぐにでも、貴方に逢いたい。
 だから、答えて。
「一緒にいこうよ」
 そう言って。
 死してなお、失われた二十一グラムの魂がどこかに存在しているのだと、私に教えて。
 でないと、私達に人生なんてものを押し付けた神様がいるんだと信じないと。
 私は、死ぬのが怖い。
 燐寸を擦って、火を灯して、貴方に語りかける事すらできなくなるのが、とても怖い。


 貴方は今日も、笑いかけている。私がどんな顔をしても、笑いかけている。まるで私なんて見えていないかのように。
 でもね。
 私はもう、泣くことも笑うことも出来やしないんだよ。
 貴方という私の世界が無くなった時、私の身体には穴が開いたから。
 ああ。また、穴から感情が零れだす。
「貴方に逢いたい」
 どうしても。どこへ逝こうとも。

黄金色は半透明を昇華する

 私は泣きたかった。瞬く間に手足から温もりを奪う冷気が、今年の終わりを伝えている。今年の終わりと、私の終わりとを。
 私は怒りたかった。右手が痛む。床に雫がぽとぽとと垂れる音がする。時計の針がかちりこちりと揺れるように、その確かな事実は心を鎮めてくれる。
「ごめん、入るよ?」
 私は寂しかった。だから彼女に――マオに助けを求めた。全てが台無しになった後で、もう何の手助けも出来やしない状態になってから――卑怯者だ。
「ど、どうしたの?」
 部屋の隅で体育座りをする私を見るやいなや、彼女はすぐそばに駆け寄った。ちんまい身体が年齢よりも幼く見せるけれど、その優しさはあらゆる老若男女に勝る。
 窓ガラスが割れており、容赦ない風がそこから吹き込んでくる。右手から血が零れており、肝心の私は床を見つめて動きもしないでいる。
「また、乱暴されたの?」
 彼女はほぼ全ての出来事を知っている。私がどんな人物で、同居人はどうであったか。どんな生活だったか。私はどうやって壊れてしまったか。全て分かっているのだ。
「違う、そうじゃない」
 違う、違う、違う。繰り返し唱える。これはもう、貴方の知る私とは別なんだよ、と気付かせるために。
「レイナ、何があったの?」
 レイナ。私の名前がちゃんと呼ばれた。嬉しい。私が見られている。それが嬉しい。家にいても、街を歩いても、私を呼ぶ声なんてないのだから。私を見て、私を観察して、私をオカズにして、私を食べてしまう人なんて、いないのだから。
「私……」
 少しだけ取り戻した笑顔で、マオの掌を掴み取る。
「卵にはなれなかった」


 卵――食べ物。美味しい。丸。半透明と真っ黄色のコントラスト。ぐるぐるかき混ぜて、フライパンにそっと垂らして。じゅうじゅう。半透明は黄金色に進化する。
 その素敵な変身を目の当たりにして、私はつい自分を鑑みた。貧相な躯、枯れかけの精神状態、奥行きのない未来と、ついでに灰色の生活。
 私は何色の人間なのかは分からないけれど、もし仮に紫色だったとして、それがある日群青色に変わることなど有り得ない。
 だから、少なくとも私は卵に劣る。生命ですらない、生まれる前のただの「卵」に、私という「生きているもの」は負けている。
 卵になりたい。それが願望だった。火で焼いたら、どこかにぶつけでヒビが入れば、温めて雛が孵れば、それは叶うと信じて。それは、自傷行為と断定されたけれど。
「レイナ、それは前にも話したでしょ?」
「分かってるよ。もうアレは止めた。たださあ、気付いたんだよ」
「あの人が、出ていったって話?」
 そうだよ、と答えて、煙草に火をつけた。がらんどうになった部屋に、煙が一筋、溶け込んで消えてゆく。ラークの味は、少しだけしょっぱい。
「よくある話だよ。すれ違い。ただそれだけ。だから分からないんだよ」
 同居人は、言葉より先に手が出る気質だった。私もそうだったと思う。というのも、私の場合はいつ手を上げたのか、その記憶が残らないのだ。
「嫌だったから別れたはずなのに、私はちっともあの子を嫌いになれない」
 嫌いになれたら、楽になるのに。心というものを丸い形であると仮定するなら、「嫌い」はその円に含まれない。それに接してくっついた別の円。傍から見ると、小さな腫瘍のようだ。「好き」は心の円の中にある。それはずっとずっと大きくて、別の感情や記憶を追い出してしまうほどに大きなものだ。だから、いない人を未だに愛してしまう事は、何よりも無意味で、何よりも息苦しい。
「ねえ、マオ」
 煙草の灰が溢れる。灰皿には落ちず、さらさらの埃一つない床に落ちた。
「私を傷つけて」


 マオは、幼い見た目をしていると言った。実際、私よりもいくつか年下だ。頭一つ分は身長が低いし、手足も細っこい。怒った顔が想像できないくらい、清らかで真っ白な顔をしている。
 「好き」で満ちた心を、傷つけて、戒めて、壊して、作り直してほしい。妹のような親友にそれを頼むのは、あまりに酷い事だ。
 窓ガラスを割ってみて、それでちっともこの苛立ちが晴れないとわかった時、すぐにマオの顔が浮かんだ――秘密だけれど。どこか私は、親友ですら、都合の良い人員としかみなしていないのか、とますます心が荒れていった。
「できないよ、そんなの……」
 当然、二つ返事で首を締めてくれるとも思っちゃいない。第一、殺せと言っているわけではない。ただ少し、転んで擦りむいたような傷をつけてほしいだけだ。ただし、マオ自身の意思で、マオ自身の手で。それが重要なのだ。
「今にもはちきれそうな風船があるとして、その口はゴムでガチガチに固めてある。中の空気を出してくれ、と言われたら、穴を開けるべきなんだよ」
 かちかちかち。カッターナイフを取り出した。頑張れば致命傷を与えることもできるが、余程大それた間違いをしない限りは、そうそう死にやしない。しかし、立派な凶器だ。刃を少しだけ出して、彼女に渡す。
「レイナ、レイナ、駄目だよ、落ち着こう」
「すっごく落ち着いてるよ。してほしいの」
 それだけが、行き場のない思いを消化する処方箋。彼女の小さな躯を抱き寄せ、震える吐息を肌で感じる。
「ほんのちょっとで良い。好きなところを」
 かちかちかち。それは刃を出す音ではなくて、彼女の手が震えているから。泣いているのだろうか。私は悪い女だ。最低だ。私は泣けなかった。
 ぷつり――注射をされたような痛みがして、立て続けに熱を帯びた雫が頬を伝った。
 左の頬に、小さな切り傷が出来上がった。血が二滴、三滴、零れる。窓ガラスで傷つけた右手から落ちたそれと同じ、同じ色の血が、床の上で混ざり合う。
「ありがとう、マオ」
 ぽんぽん、と頭を撫で、より一層抱きしめた。がちゃり、とカッターナイフが落ちて、もうそれもいらなくなった、と安堵の息を吐いた。


「脳みその大きさはみんな同じくらいなのに、心の大きさだけがバラバラなのは、どうしてなんだろうな」
 しばらくして、私はどこへとも言わず、言葉を発した。もしも私の心の容量がもっと大きければ、ここまで苦しまずに済んだだろう。
 マオはきっと、心が広い。そしてそこには、草とか花とか木とか、穏やかな自然だけが芽生えている。今日私は、その理想郷に狂気を植えつけた。ペパーミントよりも繁殖力の強いそれは、瞬く間に彼女を蝕むかもしれない。でも、もしかしたらネズミの兵隊だとか妖精さんだとか、可愛らしい免疫力でそれを跳ね除けるかもしれない。そうであってほしい。無責任にも、そう願うしかない。
「私には、そんなの分からないよ」
 彼女の目は赤く充血していて、しかし穏やかなままだ。頑張れ、ネズミの兵隊たち。
「うまくいかないなぁ。恋人との同居――というか、人付き合いってのは」
「レイナは不器用なだけなんだよ」
 そうか、不器用っていうのか。たった三文字で、私は表現できてしまうんだ。そんな単純で良かったんだ。とろんと眠気を帯びた頭が、そういえば、と次の目的を命令する。
「マオ、コーヒー飲む?」
 キッチンへ向かい、グァテマラコーヒーを作る。いい香りだ。少しだけ酸味も感じられる。それと、私にはミネラルウォーターを。
「火傷しないようにね」
 割れた窓ガラスの破片は、この短い間に無くなっていた。仕事が早いな、彼女は。ミネラルウォーターを一気飲みし、ゆっくりと香りを楽しむ彼女の頭に、顎を乗せた。
「マオ」
「なあに?」
「私は寂しがり屋だ」
「知ってるよ」
「そんでもって、ひどい奴だ」
「それは知らない」
「そうなんだよ。だから私、もう一つ酷いことをする」
「どういう――」
 ばたん。そうしようという意思もなく、躯が彼女とは反対方向に倒れ込む。ミネラルウォーターが床に飛び散る。コーヒーカップが割れる音がする。それらが水を張ったようにぼやけて聞こえて、目の前の何もない部屋がとろけてきて、そして最後に……。
 最後に、別れたはずの彼女の姿が見えて。
 深い、深い眠りに、私は落ちていった。


 ――レイナ、ねえ、起きてよ。
 何度呼んでも、ぴくりともしない。ひとつの恐ろしい予感が浮かび、私は彼女のポケットをまさぐる。錠剤の入ったシート。強力な睡眠薬と、恐らくこれは――。
 ひどい。確かに貴方の言うとおり、ひどいよこれは。笑えない冗談だ。
 穴の空いた窓ガラスからは、もう陽の光も差し込まない。真っ暗闇に限りなく近い空。雲ひとつないというのに、今日は月が出ていない。
 明かりのなくなった部屋の中で、ただひとつ、小さく光るものを視界がとらえた。それを手に取り、その意味を考え、それでも私は、それが至極当たり前の衝動なのだと、そう言い聞かせるように、違う、違う、と呟きながら、私は、
「どうして、私を信じてくれなかったの……」
 カッターナイフを、喉元に押し当てる。

半透明は黄金色に進化する(短編集)

私は卵になりたかった。
私は卵になれただろうか。
殻を割ったら、そこに貴方はいるだろうか?

2016.2.11
短編集①、完結。

半透明は黄金色に進化する(短編集)

私は卵になりたい。卵になって全てをゼロにして、もう一度生まれ直したい。生きたくない。死にたくもない。助けて。でも触れないで。傷つけて。でもできるだけ、傷つけないで。 思いついたものを残しておく、それだけのための短編集です。

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • サスペンス
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-02-06

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 半透明は黄金色に進化する
  2. 激しい夜に抱きしめたい
  3. 天は唄い、地が踊り出す
  4. 不可逆器官
  5. 果てる
  6. すてきな家族
  7. さよならの儀式
  8. ニ.五秒遅れの恋
  9. 二十一グラムの在処
  10. 黄金色は半透明を昇華する