本音を暴かないで 2

 クラスが静まりかえっている。聞こえるのは化学の先生の声と、シャープペンをノートに走らせる音だけだ。外では体育の授業で騒ぐ生徒の声と、夏の象徴、蝉の声がしている。
 クーラーの効いた教室で、私は強い吐き気を覚えていた。背筋に悪寒が走っている。ここ連日の睡眠不足に加え、夏の猛暑が私を蝕んでいた。背筋をなるべく伸ばし、元気であるかのように振る舞う。本当は机に突っ伏したい気持ちであったが、右隣の高坂は鋭い奴で、もし私がそんなことをしたら、心配して「保健室に行った方が良いよ」とか言い出しかねない。いや、別にそれはいいのだ。そこから先が問題だ。きっと「俺が一緒について行くから」とか言うのだ。それはまずい。なぜなら、彼が女子の人気者だからだ。私が人気者に気遣ってもらいたくてわざと体調悪そうにしていた、とか噂になっては、これからの学校生活に支障を来す。
 実際にその餌食になった女子がいる。佐々木信乃だ。彼女は高坂の幼なじみで、それはもう毎日のように彼と話していた。単に彼と仲が良かっただけなのだが、女子の反発を買ってしまっては為すすべもない。集団無視、陰では、あることないこと言われて、しまいには学校内に友達がいなくなった。彼女は高坂と口をきかなくなった。それはなんとなく、寂しい光景に見えた。
 目の前がぼやけて見え始めた。焦点が定まらず、頭がくらくらする。周囲の音が遠ざかるのを感じた。汗が噴き出し、胸のあたりが気持ち悪い。
 チャイムが鳴ったのか、先生が何か言って、教室を出て行った。私は一気に脱力した。机におでこをくっつけると、木の冷たさが心地よかった。
「彩知、眠たいの?」
 正面に恵梨が立っているのがわかった。彼女のシャンプーの香りが鼻孔をくすぐる。頭が重たくて、顔が上げられない。
「うーん……保健室」
 顔を伏せたまま小さく唸ると、恵梨のひんやりとした手が、夏服から伸びる私の腕に触れた。恵梨が驚いて声をあげる。
「うわ、熱ありそうな熱さだわ。保健室行こう、ほら、立って」
 恵梨は室長仲間の中井に何か言って、私を軽く引っ張った。体も重い。ほとんど彼女に体重を預けて、よろよろと歩く。机が邪魔で、何度かぶつかりそうになった。歩くと吐き気が増した。思わず口元を右手で押さえた。喉元まで出掛かっているそれを、ぐっと押さえ込む。クラスメイトの心配そうな声が聞こえた。私が吐くと思っているのだ。吐くなよってことだろう。わかっている。私だって吐きたくないから我慢した。
「原田さん、一人で大丈夫?」
 声の主を確かめようと顔を上げようとする。駄目だ。上がらない。
「無理かも。なんか、意識落としそうだし」
「じゃあ俺が運ぶよ」
「あたしも一応ついて行く。いろいろ心配だし」
 その会話を聞いたのを最後に、私は意識を失った。

 目が覚めたとき、そこは学校ではなく、家だった。見慣れたベッドに私は横たわっている。上半身は制服だが、スカートは脱がされ、代わりに学校の短パンが履かされている。なんだか熱い。まだ熱が引いていないのがわかった。吐き気はおさまっているようだが、悪寒は続いている。
 部屋は薄暗い。カーテンから少し覗く外は、まだ明るかった。閉め切っているせいで暗く感じるのだ。
 耳を澄ましてみる。誰かいるかもしれない。物音は聞こえなかった。
私をここまで運んだのは誰だろう。兄? 恵梨? それとも他の誰か。
 ふと視界の隅で、何かが明滅しているのが見えた。スマホだ。ベッド脇に置いてあるそれを手にとって、電源ボタンを押した。恵梨からラインが来ていた。
「調子は大丈夫? 学校は早退ってことになったよ。あのあと学校側から保護者に連絡したみたいなんだけど、電話に出なかったらしいから、先生が家まで送ってくれたよ。里山先生ね。あたしもついてって、マンションの人にスペアキーでドア開けてもらった。明日無理そうだったら連絡して。あたしから先生に伝えるから」
 私が読みやすいように、スペースを一々取って書かれている。一文ごとに意味を理解しながら、最後まで読み終えて、早速返信する。
「いろいろありがとう。調子はだいぶ楽だから大丈夫だよ。でも、まだ明日は無理そう。先生にもありがとうって言っておいて」
 ゆっくりと息を吐き出す。文字を打つのも疲れる。
 学校に登録されている保護者番号は父のものになっているはずだ。だから繋がらなかったのだ。
 高校一年生の最初の頃は、父がいないことを忘れていて――というより、帰って来ると思っていた――父の携帯番号で学校に登録していた。まさか、そのままいなくなるとは思っていなかった。しかし私と兄は、特にそれを警察に言うわけでもなく、何事もなかったかのように――見て見ぬ振りをして――日々を過ごしてきた。そのため、保護者番号のことがすっかり頭から抜け落ちていた。
(兄さんの番号を学校側に登録しておけばよかった。不審に思われないといいけど)

 次に目が覚めたとき、兄がベッドの傍に座っていた。外はすっかり日が落ちて、真っ暗だ。兄は、冷えピタを私のおでこに慎重な仕草で貼った。その冷たさに思わず首をすくめたら、起きていることに気づかれた。
「大丈夫か。何か食べるか」
 兄に看病されるのは恥ずかしかった。優しくされるのが、気まずかった。だからなるべく強気に、いつものように言う。
「薬だけ飲むから。水と薬持ってきて」
 兄は小さく頷いて、部屋から出ていく。暗い部屋に廊下の明かりが漏れた。その光景は、母を思い出させた。
 私は、昔からこうしてたまに熱を出すことがあった。母がいなくなる前は、看病されるのが好きだった。病気なのに、胸の中は温かく幸福だった。部屋に漏れてくる廊下の明かりを見るのは、母がまた私の部屋に来ることを意味していた。その光景が、孤独を消してくれた。
 高校生になって、人に甘えるのが下手になった気がしてならない。兄にだって、それは同じことだ。
 いつの間にか戻ってきていた兄から、薬とコップに入った水が手渡される。二錠の風邪薬を水で流し込んだ。
「ここにポカリ置いとく。水分は取れよ。明日は学校休め。俺から連絡しとく」
 ぶっきらぼうだが、労ってくれているのがわかる。横たわる自分が惨めに思えた。
「友達が連絡はしてくれるって」
「そうか。でも、一応俺からも連絡いれる」
 ついでに保護者番号についても話す、兄の目はそう言っていた。私は気まずくなった。というのも、父がいなくなったことを二人の間で明確に話し合ったことがないからだ。突然帰ってこなくなった父に気付かない振りをしてきた。私は今、初めてその現状を見た気がしていた。

 翌日は、兄と二人で過ごすこととなった。兄は有給を使って会社を休んだ。私のためにそうしたと思うと、悪い気がした。彼の作ったお粥は、少し辛かった。
 兄の看病の甲斐あって、その翌日には熱が引き、体調も元通りになった。
 学校へ行くため家を出る直前、兄はどことなく暗かった。彼のそんな表情を見るのはこれが初めてで、無理はするなよ、という声に頷くことしかできなかった。何を考えているのか普段分かり難いくらい無表情な兄が、あんな顔をしたことで、私は強い不安を感じた。

 席に着くとすぐに恵梨が駆けつけてきた。私は、へらっと笑ってみせる。
「おはよう、恵梨」
「あんた、大丈夫なの? 一昨日、顔真っ青だったし、一日休んだくらいで治るもの?」
 恵梨らしい態度だった。
「治るって。私本当は体力ある方だから。最近暑かったし……そのせいだよ」
 納得いかない風に恵梨が顔をしかめた。
(どれだけ心配してたのよ)
それが嬉しくて、にやっとする。
「もうっ。本当に心配したんだから。だって、家に送った時誰も――」
 恵梨は、はっと口を閉じた。私を不安げに見る。失言したと思っているのだろう。たぶん、家に誰もいなかったことを気にしている。
「恵梨は心配性だね。死ぬわけじゃないんだから」
「死ぬかもよ?」
 恵梨との会話に割って入ってきたのは、高坂だった。彼は、真面目な顔つきで続けて私に言った。
「病気で死ぬ人は多数いるからね」
 わざと真面目に言っているだけみたい。台詞じみた言い方だった。
 恵梨が隣に座る高坂を、おかしげに見る。
「それは、命に関わる病気の話でしょ」
 彼女の言うとおりだった。

 朝のホームルームが終わると、手招きされるままに、人気のない階段踊り場までついて行った。
 相変わらずの猫背を、もっと丸くしている。彼は周囲に人がいないのを確認すると、耳打ちの様な仕草をして、聞こえるか聞こえないかの小声で言う。
「もしかして、長井(あきら)先生の子供ですか?」
 今、なんて言った? 体に衝撃が走った。言葉が喉元で引っかかってなかなか出てきてくれない。私は、どうして動揺しているの?
 里山は、しまった、と慌てて付け加える。
「長井さんの家にお邪魔したとき、写真があったので……」
 写真? お父さんの? 
 私は首を振った。そんなものはない。どこにも、あるはずがない。どこにあったというのか、わからない。なぜ?
 唖然としている私の肩を、里山が優しく叩いた。
「大丈夫ですか? 長井さん、聞こえてますか?」
 しばらく頭が真っ白だった。何も考えられない。いや、考えたくない。私は意識的に父の写真を見ないようにしてたの? そんな自分に気付いて、嫌気が差した。これでは、私が父になにか強い思いでも、持っているようではないか。信じられない。
 頭の整理がついて落ち着いてくると、いつもの私が戻ってきた。写真のことなんて考えている場合ではないのだ。
 里山は父のことを知っているのだ。でなければ、写真――あるかどうか定かでない――を見ただけでその名前が出てくるわけがない。
「父の後輩、ですか?」
 里山がしっかりと頷く。昔の、と小さく付け加えた。昔といっても十年も前の話ではないだろう。父が教職を辞めたのは、母が死んで直ぐのことだったから。母も教師をしていた。
「今更ですが、お母さんのこと、お悔やみ申し上げます。こんなところで何ですが」
 里山の情けない顔に、思わず吹き出しそうになった。なんて先生らしくない先生なんだろう。私は自分のペースをすっかり取り戻していた。
「ありがとうございました。父の後輩がまさか里山先生だったなんて、驚きましたよ」
「いやあ、僕も長井さんがまさか……」
 急に深刻な表情になって、里山が黙る。
「すみませんが、放課後話したいことがあります。選択教室で少しの間残ってもらえませんか」
 里山が俯いた。先生の立場としてではなく、父の後輩として話がしたいと思っているような態度だった。
「わかりました。掃除が終わったら直ぐに行きます」

 授業開始のチャイムが鳴ったのは、私が席についたのと同時だった。先生はまだ来ていない。
「里山先生、何の話だったの?」
 周囲には聞こえにくい音量で言うので、あやうく私も聞き損ねるところだった。高坂は基本こういったことは訊かないはずだ。珍しいこともある。
「体調はどうか、とかそういう話だったよ」
 正面を向いたまま、単調に応える。
「それにしては長かったよね」
 はは、と笑い混じりに嘘を指摘されて、私も意地になる。
「私を車で送ってくれたことのお礼を言ってたの。感謝の気持ちは忘れない主義だから」
「そうなの? じゃあ俺にも感謝してほしいな」
 きょとんと、つい彼の方をまじまじと見つめる。高坂は、にこにこしながら私にノート差し出した。
「これ、昨日長井さんが休んでた分の授業ノート、俺がとったんだよね。あと、一昨日保健室に長井さんを運んだのも、俺だよ」
 驚いて言葉に詰まる。知らなかった。しかもノートまで作ってくれるとは、さすが高坂だ。一度面倒を見たら最後まで、というのはそうそう出来る事ではない。はっきりいって嬉しい。あとあと困ったことにならなければパーフェクトだ。
「知らなくて……ありがとう高坂くん。あとでノート代払うから」
 秀才くんのノートを受け取って、感動してしまう。私はラッキーだ。
「ノート代はいいよ。安かったから」
「あ、わかった。ありがとう」
(人気にはそれなりの理由がある、ね)

 昼休憩、私の右隣は煩くなる。女子が集まってくるからだ。このハーレム状態で男子の反感を買わないのには感心する。魔法でも使っていそうだ。
「隼、一緒に食べていい?」
「ん、いいよ」
 黒髪ロングが似合う彼女は、同じクラスの古川春だ。一見大人しく、清楚なイメージの彼女だが、裏では凄いと勝手に私は思っている。背が低くて女の子らしい振る舞いや仕草が目立つので、男子からの人気が高い。対照的に女子からは嫌厭されている。高坂の彼女候補、ということも嫌われる理由にあった。彼を下の名前で最初に呼んだのは彼女らしいのだ。どこからそんな情報が、と私は信憑性を疑っている。
「彩知、今日弁当無いの?」
 恵梨が机に椅子を引っ張ってきて、座る。いつもなら私の方が恵梨の席に行くが、気を遣ったのか今日は逆みたいだ。
「うん。食欲戻るまでには時間がかかるんだよね。自販機でヨーグルト買ってきたから、それ飲む」
「普段から食細いのに、風邪ひく度にご飯食べられなくなってたら、いつか骨だけになりそう」
 恵梨の冗談は、洒落にならない。
「夜は絶対食べるから大丈夫、と思いたいけど」
(兄さん一人に食べさせるわけにはいかないし)
「学校帰りに甘い物食べる? 元気になるかも」
 恵梨が無邪気に笑うので、断りにくい。彼女には、私が夜ご飯を作らなければならない理由を話した方がいいかもしれない。隠す必要もないのだし。その方が気も楽だ。
「今日、行こう。話したいことがあるし」
 断られるかも、迷惑がられるかも、と変なことばかり思ってしまう。けれど、そんな私の不安を吹き飛ばすように、恵梨が笑顔で頷いた。
(しまった! 先生とも約束してた)
「ちょ、ちょっと教室で待っててくれる? 放課後呼び出されてて」
 慌ててつけ加えた。恵梨はニヤリと笑って、私をつつく。
「告白? 告白の呼び出しでしょ」
 そんな勘違いをする恵梨が意外で、面白かった。彼女も寄り道することを嬉しく思ってくれている。私はそう、解釈した。

「じゃあ、ちょっと待っててね。直ぐ終わらせてくるから」
 放課後、掃除が終わって大半の生徒がいなくなった教室で、恵梨に申し訳なく言う。人を待たせるのって申し訳ないんだ。
「直ぐ終わらせるって、あんた、じっくり返事してあげないと」
 呆れた口調だった。誤解されたままなのを忘れていた。
「違うって。里山先生に」
 言ってから、後悔した。今日の私はダメダメだ。冷静じゃない。気が緩みすぎてる。風邪が治っていないのか。里山に本気になってきている恵梨を、ずっと隣で見ていたというのに。
「あ、あとで。あとで全部話すから!」
 恵梨の顔を見ないようにして、選択教室へと急いだ。
 ドアを開けると、すでに里山がいて、窓から外を見ていた。
「先生、何見てるんですか」
「何も……って、いたんですか長井さん」
 我に返った里山が、恥ずかしそうに言った。何を見ていたのか、窓から下を覗くと、生徒たちが帰って行くのが見えた。これを見ていたわけではないだろう。
「で、話を聞きに来たんですけど。友達が待っているので長いのは禁止です」
「友達って、原田さん、のことですね。大丈夫です。長くはないですよ」
(さすが先生だ。仲が良い人同士を把握している)
「朝も言いましたけど、僕は長井先生の後輩です。そのよしみで二年前まではなんとなくですが、連絡を取っていました」
 二年前、父がまだいるときだ。中学三年の終わり頃にいなくなったから、それ以前のことを言っているのだ。
「連絡が急に取れなくなったのも二年前です。最後に送られてきたメールは、謝罪の一言でした」
「なぜ、謝罪なんて」
「……わかりません。それ以降は連絡が付きませんでした。長井さんの家にあった写真を見たとき、驚きましたよ。あなたなら、何か知っていると思いました」
 里山が何を求めているのかわかった。しかし、私にその情報はなかった。今まで、情報を集めようともしなかった。
「私が中学三年生の時、兄は二十一歳でした。母が死んで屍のようになった父の代わりに、兄が、母の管理していた銀行口座や支払いなどをある程度こなすようになりました。そんなとき、父は帰ってこなくなりました。私も兄も、すでに父をいないものと考えていたので、いなくなっても気になりませんでした」
 父は私たちを嫌っていた。子供嫌いではなく、自分の子供が嫌いだったのだ。はっきり言われたこともある。特に、兄への当たりは酷かった。成績優秀な兄を誉めるどころか、調子に乗るなと罵倒し、成績表を破ったこともあったのだ。兄は心底父が憎かっただろう。あのときのことを思い出すと、悔しさと憎しみで涙が出そうになる。
「居場所、わからないんですね。僕、探してもいいですか? 彼に言いたいことがあるんです。大丈夫、警察には届けません」
 里山は真剣だった。父のただの後輩がすることとは思えない。異常だ。しかも、新任で学校に来て、慣れるのに精一杯なはずなのに、父を捜すとまで言う。そこまでして言いたいことがあるのだ。
「別に勝手にしていいですけど、無理ですよ。探せません。先生、忙しいでしょう? そんな時間無いはずです」
「ええ。だから長井さんの許可がほしいんです」
「許可?」
 何の?
「捜索依頼を、探偵にお願いしたいのです」
 急に里山が大きな声で言う。私はびっくりして肩が跳ねた。彼は良いことを思いついた子供のような瞳をしていた。そうか、確かにそれは許可が必要だ。けど、黙っていても良かったことだ。探偵に依頼する、というのはそういうことなのだから。彼は真面目すぎる大人だ。
「先生って律儀なんですね。ちょっとびっくりしました。探偵に依頼するなら、わざわざ私の許可なんて取らなくてもいいのに」
 彼自身もそう思っていた節があったようで、苦笑いを浮かべた。
「僕も、言おうかどうか迷いましたよ」
「私は構いませんよ、依頼については。ただ兄には言わないでくださいね。見つけたら自殺にみせかけて殺しかねません」
 私は冗談っぽく言った。冗談であってほしいものだ。我ながら的を射ているような気がしているのが、恐ろしかった。

「遅くなってごめん!」
 勢いよく頭を下げる。恵梨を見上げると、特に怒ったようではなく、なぜか居心地悪そうにしていた。
「気にしてないから、行こ」

 春に恵梨と来たカフェに決めて、適当な席に座った。メニューを広げる。今日はラテ系にしようかな、と考えていると、恵梨が唐突に謝った。
「え? どうしたの」
「里山先生との話、聞いちゃったの。本当にごめん。盗み聞きとか最低なことした」
 聞いてたのか、と思っただけで、私は大して怒らなかった。もともと、恵梨には話そうと思っていたことだったのだ。盗み聞きだろうが、私から話そうが、どちらもたいして変わらない。
「別にいい――」
 よ、と言おうとしたところで、恵梨が首を横に勢いよく振った。思わず口を閉じる。
「こ、高坂も、いたの」
(……)
「はぁ~?」
 耳を疑った。高坂がいた、だって?
「いや、直ぐにあいつ、盗み聞きは良くないからって帰ったけど」
(一々好青年な奴だ)
「どこまで聞いたの?」
「どこまでっていうか、里山先生が大声で言ったところしか聞こえてなかったし。そこだけなんだけど」
(探偵の下りだな。よかった、そこだけなら聞かれても構わない)
 ほっとして肩から力が抜けた。
「良いよ、そこだけなんでしょ。恵梨が気になってドアに張り付いているところに高坂が来て、タイミング良く里山先生が声を張ったのを聞いた、だいたいそんなところでしょう」
「まあ、そんな感じ。ほんとごめん。……。ねえ、これって聞いて良い? 探偵って何の話なのか」
 店員に抹茶ラテを頼み、届けられてから、私はゆっくりと話し始めた。どこから話せばいいのか考えた結果、母が死んでから父がいなくなり、私が家事全般をこなすようになったことまでを伝えることにした。そして、里山が言った探偵のことも。
 話し終えた頃には、日没が迫っていた。蝉の声が息を潜めた。店内の客足が減り、私の声がやけに大きく聞こえてしまう。
「あたしが最初に彩知に会ったとき思ったこと、間違ってなかった。あんたは、疲れてる」
 彼女の第一声は怒っていた。私にではない。自分自身に。
「今の話は誰にも話さない。これからは、何かあったらあたしを頼って。できることなら何でもする」
 その言葉で私は、今まで色々なものに耐えてきたのだということを知った。彼女の一言が今までの苦しみを暴き、そして半分にしてくれるようだった。頼ってもいいと言われただけで救われた。でもそんなこと言えるわけがなくて、私はただ、涙を耐えていつものように笑った。
「出た! 恵梨の姉御肌気質」

 もうすぐ夏休みだ。期末が終わり、廊下に成績上位者が貼り出された頃、私はクラスで目立っていた。学年で二位の成績だったのだ。中間テストの時も二位だったのだが、そのときは勉強を気にしている生徒が少なく、新学年でやっとクラスに馴染みだした頃でもあったためか、目立たなかった。しかし、腐っても進学校だ。成績は気になるし、勉強は重要に思う。私が二位だと、クラスメイトは不満があるらしく、陰ではカンニングだとか不正をしたとかいう噂になっている。恵梨情報だから噂が流れているのは本当なんだろうが、もちろん、内容はでたらめだ。私は侮辱されたも同然だった。一位の高坂はもてはやされているというのに、この格差はなんだろう。
「彩知って頭良さそうだとは思ってたけど、実際どの程度かわかんなかったんだよね。話してみると、普通だし。でもこの学校で二位とかレベル高すぎてついていけない」
 恵梨ががっくりと肩を落とした。志望大学が一緒だから不安になるのかもしれない。彼女は勝ちたい、というより落ちたくない、という意志が強いように見えた。国公立一発合格、それが目指す目標なのだ。
「まだ二年生だから。私だってこれから成績落ちるかもしれない」
「頑張るよ、あたし。彩知と同じ大学行きたいから」
「うん。行けるといいな」
「二人ともK大だっけ?」
 高坂は最近、こうしていきなり会話にはいってくることが増えた気がする。隣だから、かな。
「うん。高坂はT大だったよね。さすが秀才」
 恵梨がちゃかす。彼はいつもの如く笑顔で謙遜する。
「秀才って、大げさだよ。言うほど頭も良くないと思うし」
「それって、二位の私に対する当てつけ?」
 彼の謙遜を聞くといらいらする。本気でそう思っている臭いがプンプンするからだ。謙遜もし過ぎると悪徳になることがあるらしい。彼のように。
 高坂は困ったように笑った。
「違うけど、そう聞こえたならごめん。頭が良いって言うのは、俺にとっては人間的に、って感じに聞こえて。それなら自分は馬鹿の部類に入ると思うんだよね。だから反射的に答えちゃうんだ。勉強に関して言うと、確かに俺は賢いんだろうけど」
「高坂って面白い奴だわ」
 恵梨が愉快げに笑った。面白い? 冗談じゃない。私は高坂の方を見ないように心がけた。

 クラス内でざわめきが起こった。夏休みの教室掃除担当の組み合わせが席順で決められたためだった。反発はしないが、不満を持った人は多そうだ。
 この高校では夏休みの間、講習が毎日のように開かれる。曜日で科目が異なり、基本自由参加の講習だが、ほとんどの生徒が講習を受けに毎日登校して来る。そうすると、教室は掃除が必要になる。講習を受けた人が掃除をするべきだと言われていたが、大人数でやると、かえってさぼる生徒が出てくる。そこで、少数班を作り、交代で朝やることになったのだ。
(高坂くんと一緒か)
「一班から九班まであるので、八班と九班の八人は、他の班に入れてもらってください」
 里山は七班にしたいようだ。八班には恵梨がいる。後ろを振り返って、私の班に来るか、と目で聞いてみた。恵梨は両手を合わせてごめんのポーズをした。そして、指を三本立てた。三班に行く、という意味だ。なるほど、三班には信乃がいた。このチャンスに彼女と仲良くなろうという魂胆だ。このままクラスで浮いていたら、夏休み明けの文化祭に影響が出そうだし、私もそれには賛成だった。
「原田さん、こっちに来るって?」
 高坂って、時々エスパーなんじゃないかと思う。
「ううん。三班に行くみたい」
 班で固まりができるのを待って、里山がホワイトボードに曜日を書いていく。
「早いもの勝ちで、被ったら話し合いしてください」
 私の班は、高坂と派手系女子の佐藤と山根、九班から来た中井を含めて五人になった。ちょっと嫌な面子だ。
「うちら土日は無理」
 佐藤が山根と自分を交互に指さして言った。遊ぶ約束をしているとか、そういうことだろう。中井はいつでも暇そうだ。
「俺は月曜日と水曜日。塾だし、朝はゆっくりしたい」
「中井って塾行ってたんだ」
 馬鹿にするつもりはなく、初耳だったので言ってしまった。暇な人生を謳歌しているタイプだと思っていた。
「お前って本当、失礼な奴だよな」
 中井に、軽く睨まれる。言い方が気に障ったようだ。
「初めて聞いたから、別に他意はないよ」
「嘘だな」
 しばらく軽口を言い合う。中井はからかうと面白い。ついつい苛めてしまう。
「礼司と長井さんって仲良かったっけ?」
 高坂が不思議そうに、私たちを見ていた。
「仲良く、ねえだろ」
「一年生の時、同じクラスで。話すようになったきっかけは古典の授業の時に」
「ストップストップ! 言うなよ」
 中井が勢いよく、手を私の顔にかざした。相当根に持っている。それほど大した話ではないはずだ。
「嫌なら言わないけど」
(あのときの中井、面白かったな)
 思い出してクスクス笑っていると、中井がまた、睨んできた。

 担当の曜日は金曜になった。講習が英語の日だ。ついでに行ってみようか。一年生の時は結局、一回も行かずに夏が終わってしまった。三年生になれば講習は強制になる。そうなる前に、一度行ってみるのも悪くない。

本音を暴かないで 2

続きます。やや展開早めです。
次回 http://slib.net/55322

本音を暴かないで 2

前回の続きです。里山先生が主人公の彩知(さち)にアクションを起こします。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-02-05

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