天使と悪魔のフェアリー・テール ~大人たちの御伽話~

序章

 魔王・ヘルサタン2世。

 悠遠なる古の往事からこの御世に至るまで、その身ひとつで、魔界のあらゆる猛者たちを統べ続けたと言われる魔王。
 精悍さを感じさせる、やや浅黒い肌。髪はシルバーを基調に森の木々を思わせる茶系がラインとして所々に重ねられている。それとは対照的な、深い森の緑を彷彿とさせるフォレストグリーンの瞳と、切れ長の瞳を覆うまつ毛はご婦人方のそれよりも長く、ご婦人方に優しく語りかける仕草やその甘い声は、他に類を見ないほど洗練されており、どの男性貴族をも圧倒してやまないほど優雅だった。
 彼ほど、神々しいと見紛うまでの眉目秀麗なルックスと、美貌とは裏腹の凄まじく悪しき能力を自由自在に操り、諸侯の深層心理を見抜くに長けた能力で、彼らの心の奥深くまで潜り込み悪事に手を染めさせ、俗世に争いを齎した者が果たして存在したであろうか。
 これが女性であったなら、世界に類を見ない傾城の美貌と謳われたことだろう。
 悪しき夢の成功報酬、その対価とは、一体何を指し示したものだったのか。人々の噂の域を超える事実は示されなかったが、それは、諸侯自らの御命及び財の総て、或いは諸侯の周りに侍る美しき娘子たちとも言われていた。
 また、類稀なる麗しき容貌は、彼を一目遠くから目にした御婦人の心をも見透かし、ご婦人方の心と身体を骨の髄まで心酔させ、諸侯たちの間には争い事が絶えなかったとも伝わっている。

 悪魔や魔王と言えば、神話や童話などを見てグロテスクな形相を思い浮かべがちだが、決してそうではなかった。
 堕天使も、広義での要素は悪魔に近いと言われていた。悪事に身を染め、天界を追われた者たちである。彼等堕天使もまた、見目麗しい形貌を武器として世の中を乱すことに喜びを禁じ得なかった者たちと噂されていた。

「ミステリアス・フォレスト」と呼ばれる、町から歩いて半日と少しばかりの場所に太古の昔から存在したと言われる森。
 現在、魔界の長と呼ばれるヘルサタン2世は、森の中ほどに小奇麗な屋敷を構えていた。
 黒猫と黒蛇、黒烏、白猫、白蛇、白烏など様々な動物を使い魔として過ごし、これまでの何百年かの過去など記憶から消し去ってしまったかのように、人々を惑わし争いを齎すような真似に手を染めようとはしなかった。
 俗世の争いに興味を失ったのであろうか。
 今、彼は極僅かな野望を秘める者たちの手助けをするに過ぎない。

 此処は、ただの森ではない。魔王・ヘルサタン2世の機嫌を損ねたが最後、生きては出られないという迷路の森だった。
 そのため、滅多なことで近づく人間など、今はいない。
 野望を胸に秘めた者、どうしても成し遂げたい目的がある者。そういった者たちが時折訪れるのみ。それでも、魔王との会話の途中で恐れをなし逃げ帰る者がその殆どを占めてはいたが。

 ヘルサタン2世も、その昔、自ら望んで魔界に身を置くようになった。不老不死と呼ばれる存在には違いないが、そこは少しばかり表現的に適切ではないのかもしれない。
 ある方法を取れば、永遠の眠りに就くことができるのだという。
 
 その方法を知るのは、本人と、周りに侍る使い魔だけだった。

第1章  新たな歴史

 春の嵐が吹き荒ぶ季節。中世鴎州の北東部に位置する国が、いとも簡単に滅びた。
 滅びたのは、スヴェルジェンヌ皇国。
 滅亡の原因は、内部クーデター。

 若い娘に溺れ堕落したスヴェル皇帝陛下と、贅の限りを尽くしたジェンヌ皇后陛下。注進する家来は、みな密かに処刑されたという。
 その様子を見た皇帝陛下の大叔父ドラヌル公爵は、我が息子を率い皇帝陛下と皇后に直談判した。
 しかし、皇帝陛下も皇后陛下も公爵の意見を聞き入れず、最後に大叔父は二人の首を落し、その首を城門前に晒すまでに民の怒りは煮え滾っていたと言われる。民はドラヌル公爵を支持し、スヴェル皇帝陛下とジェンヌ皇后陛下は墓標さえ無い状態だった。

 此処に、ドラヌル公爵を皇帝とした御世が始まった。

 ドラヌル皇帝陛下は、乱れきった世の中を正すため、方々で狩りをなされた。
 獲物たちは、捕まったが最後、良くて奴隷。刃向う者は誰であれ、八つ裂きにされた。
 狩りは、いつしか民にも、その矛先が向けられていた。
 先帝の御世には、言論の自由も、信仰の自由もあった。
 民衆同士が助け合うための組織結成も合法だった。それが今は、すべて非合法として取り扱われた。
 先帝は、どんな罪人だろうが、八つ裂きなどという非道な方法をお使いにならなかった。
 それが現在は、それは、それは、余りに非道としか言えない拷問や死罪の方法がとられ、若い女性や子供たちだけが、いつしか何処かに連れ去られていた。

「何か変だ」
 太陽が、ゆっくりと1年を掛けて地球の昼夜の長さを変えるころ、民衆の中でも、事の重大さに気づき始める者が増えつつあった。

 民衆の目が覚めたときには、神は既に民を見捨てつつあったように感じられた。民が、自分達だけで国を変えられるはずもなく、また、ドラヌル皇帝陛下の課す重税に苦しむ声が国中に溢れたが、反抗すれば狩りの獲物とされた。
 もう、そこには、レジスタンスなど考え付く余裕すらなかったのである。

 そこに、ある噂が流れた。
 ドラヌル皇帝陛下が、先帝の皇子と皇女を血眼になって捜している、という噂だった。
 ソフィヌベール皇女と、弟のデュビエーヌ皇子の御身が、まだ無事であるという証拠だと、人々は地下組織で噂した。
「こうなれば、お二人をお探しし、そのお考えをじっくりと拝聴したのちに、方向性を決めてはどうか」
「お二人が贅の限りを尽くした可能性もある。使い物にならない皇子や皇女なら、要らないではないか」
「ドラヌルに売るなら、いつでも出来る」
「今のままでは、前より酷い生活になるのは間違いないだろう」
「探してみるか、お二人を」
「森に逃げたというお噂も聞く」
「あの森では、入ったら出てこられなくなると聞いたぞ。俺は森に行きたくない」
「まず、じっくりと考えねば。急いては事を仕損じる、と昔から言うではないか」

 こうして、ミステリアス・フォレストの周辺は俄かに喧噪に包まれることになる・・。

 ヘルサタン2世には、その脳裏において暗示が交錯する中、ある一部分だけを除いて、今回起こった出来事を森の屋敷内で総て予想していた。今後予想される動きも、勿論、結果の予想もついていた。
 とはいえ、最終的には人間たちが為したこと。興味もなければ、手を出す気も無い。
 自分にとって不利益極まりない出来事でもあれば、話は別だが。
 彼にとって、何百年に渡る人間たちの争いなど、コップの中の嵐に過ぎなかったのである。

◇・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・◇
 
 時は遡る。

 スヴェルジェンヌ皇国が滅亡の哀傷から、日も浅いある夕刻のことだった。

「おやおや。珍客がお出でになるようだ」
 ヘルサタン2世の呟きとともに、使い魔への命が下る。
「お前たち、バスタブやシャワーの用意と、食べる物、飲み物の準備を。ベッドもだ」
「お客様は、如何ほどでしょう」
「7、いや8名かな。女性が3名だ。バスは2つ用意しろ」
「畏まりました」

 間もなく、ヘルサタン2世の予言通り、ミステリアス・フォレストの一角にあるヘルサタン2世の屋敷を、身を隠すように、こっそりと訪れた一行がいた。馬さえも鳴き声が聞こえないよう、何か宛がっていたのだろうか、それとも馬すら疲れ果て、鳴く体力すら残っていなかったのかもしれない。
 一行は、先日、内部クーデターの末にスヴェルジェンヌ城を追われた「スヴェルジェンヌ」皇帝一家の末裔、ソフィヌベール皇女と、弟のデュビエーヌ皇子だった。
 皇女の乗る一台の粗末な馬車と、皇子の乗る一騎の馬、そして4名の警護の兵士と皇女付の侍女2名だけが旅の供。
 寂しい限りの没落状態だった。

 クーデターの末に城を占拠したのは、ソフィヌベール皇女とデュビエーヌ皇子の大叔父、ドラヌル公爵。
 公爵は、自ら命を絶ったスヴェル先帝とジェンヌ王妃の首を晒し物にし、その血筋であるソフィヌベール皇女とデュビエーヌ皇子を血眼になって探していた。

 城から、町外れのこの森までは、そう時間もかからない。
 迷いさえしなければ、1日も経たずに到着するだろう。
 見つからぬよう秘密裏に城外を動くのは相当な困難を伴ったに違いない。何日も隠れながら旅をしたのであろう。馬も供の者たちも、口にする水にさえ事欠く有様だったと見受けられる。当然のように、皆が疲れ果てていた。

 ヘルサタン2世には、この一行が屋敷を訪れることが以前から脳裏に浮かび暗示があった。
「やっとご到着か。随分かかったな」
 
 暫くして、外のドアがノックされる。
「もし、どなたかおいででしたら、開けてくださいませ」
 ビクビクしたような、小さくか細い女の声がする。
 侍女なのだろう。
 そして、此処が何処なのかも、主から聞いているに違いない。

 使い魔たちが、一斉に騒ぎ出す。
「あーあ。すっかり怖がっていますよ。どうします?」
「どうするって、丁重に持て成すしかないだろう」
「じゃあ、取り敢えずっ、と」
 魔王の使い魔たちは、いとも簡単に人間に化ける。
 彼等にお茶の準備を任せ、皆を屋敷内に入れた。使い魔たちは厩舎で馬を休ませる。
 使い魔たちの働きは、完璧だ。そこらの人間など及びもつかないほどに。

 ソフィヌベール皇女の願いを聞き入れ、秘密裏に話を聞くことにした。
 本来なら、ソフィヌベール皇女だけを応接部屋に迎え入れ、弟君ほか従者や侍女には別室で待機してもらう予定だった。
 しかし従者が聞き入れない。ヘルサタン2世は仕方なく、従者を2人だけ部屋の中に入れた。

「まさかこのような森に、畏れ多くもソフィヌベール皇女さまが御出座しになられるとは。相当のご覚悟がおありのようでいらっしゃる」
「私が来ることがわかっていたのか」
「それが、わたくしの生業でございますゆえ」

 ソフィヌベール皇女は、皆が怖れると言う、或いは、古の時代から女性たちを揃って虜にしたと城内でも噂の、魔王ヘルサタン2世とやらを直視した。

 右手の小指には、特徴のある文様の施された長い爪。貴族でもそうそう類を見ない、鼻筋の通った顔立ち。森の緑を思わせる深い瞳の色。茶系の混じったシルバーの髪。目は切れ長にして、長いまつ毛と相俟って、昔聞いた御伽話の王子様を連想させる端正な顔立ち。
 話し方も紳士的で、とてもではないが、世界屈指の魔力を持つ悪魔とは思えなかった。
 悪魔というからには、耳が立って口も耳まで裂けていて、羽があって・・・と想像しながら此処まで来たのだが。

 やはり、噂は本当だったと見える。となれば、別の噂・・・権力争いを影で牛耳るという話も、強ち間違いではあるまい。

「ひとつ、そなたに聞きたいことがある」
「何でしょう、ソフィヌベール皇女さま」
「洩れ聞いた話なのだが。大叔父ドラヌル公爵が、クーデター前にそなたの下を訪れたとか」
「さて、そんな無粋な男には、まったく覚えがありませんね」
「秘密の契約か。ま、よかろう」
「他の悪魔とお間違えでしょう。わたくし、悪事を働く人間は好みませぬ」
「そうか?では、私がこれから働くのは、悪事ではないということか」
「さようでございます。さぞや、お辛い思いをされたことでございましょう」

 ソフィヌベール皇女が、必死の思いで涙を堪えているのがわかる。
 それでも気丈に振舞う姿は、毅然としてとても美しい。
 ヘルサタン2世は、そのような凛とした崇高さを、何よりも好む。
「本題に入るとしよう。私は、そなたと契約を結びたい」
「ソフィヌベール皇女さま、畏れ入ります。契約の意味を、ご存じでいらっしゃると?」
「勿論。私を魔女にしてくれぬか」
「契約には、成功報酬、所謂対価が必要にございますが」
「対価は生憎、この心臓しかない。この心臓など、大業のためなら惜しげもなく差し出そう。大叔父ドラヌル公爵を、あの玉座から引きずり落とすことさえできれば本望。本懐を遂げた暁には、この心臓をそなたに渡そうではないか」

 ヘルサタン2世の脳裏で、これまでの経過とこれからの行く末が暗示され、交錯する。
 ソフィヌベール皇女は、魔女への転身を望むという。
 己が心の臓と引き換えに。
 クーデターを引き起こした憎き大叔父、ドラヌル公爵の命を狙い、父母の仇討ちという腹積もり。その公算が色濃く反映された結果だろう。
 待てよ。
 一所に来た一行の中に、弟君がいた。
 彼がいるということは、仇を討ったあと、弟君が皇帝の座に就くことは間違いない。明白過ぎるほどに明白ときている。
 そして、ドラヌル公爵の命が、このソフィヌベール皇女によって尽きることもまた、明瞭なる事実という暗示がなされている。

 ヘルサタン2世は、ソフィヌベール皇女の足元を見たわけではない。
 ソフィヌベール皇女の心臓なら確かに、契約の対価として存分に匹敵し得るものである。
 瞬間的にヘルサタン2世の口を衝いて出たのは、予想も付かない言葉であった。これが終生、互いの誤解を呼ぶ原因となるなど、今の2人は予想もしなかった。

「足りませんね」

 ソフィヌベール皇女は、驚きを隠し得ないような表情と瞳を、ヘルサタン2世に向けた。
「足りぬと申すか。もう、そなたに渡せる対価は、私には無い。我が心臓のみだ」
「ソフィヌベール皇女さま。わたくしに隠し立てなど通用いたしませぬ。貴女さまは、ひとつだけ隠し事をしていらっしゃる」
「何のことだ」
「弟君が玉座に就かれたのちに、ソフィヌベール皇女さまの極上たる御命を頂戴できるのは有難い。しかし、弟君の御世の安泰を、心の底で願われているのでは?」
「確かに。そのとおりだ」
「それならば、弟君の御世の安泰までを、契約期間とされるがよろしゅうございましょう」
「ありがたい話だ」
「それ故に、契約の対価と我が儀式『ダークマスター』は、秤にかけて釣り合う状態でなければいけませぬ」
「というと?」
「わたくし、ソフィヌベール皇女さまほどの才色兼備な女性を拝見したことが一度もございません。契約が終了するまでの間、生きてわたくしの奴隷となるならば、その願い、お引き受けいたしましょう」

「ソフィヌベール皇女さまに向かい、ふざけたことを抜かしおって!」
 奴隷などという失礼極まりない発言に、従者たちは自分の立場も忘れ、相手が誰なのかも忘れ、怒ってヘルサタン2世に剣を刺し向けようとした。

 しかし、従者たちはソフィヌベール皇女によって、その動きを止められた。
「剣を収めなさい。今の私たちは剣を振るう立場にない。ヘルサタン2世殿、従者が無礼を働き申し訳ない」
「いいえ、勇猛果敢な部下をお持ちでいらっしゃる。何よりです」
「お前達。下がっていなさい」
「皇女さま、奴隷などと余りに・・・」
 それでも、従者2人は納得が行かないと言った様子で、剣を鞘に戻す気配がない。
「いいからお下がり。デュールの様子を見てきておくれ。ずっと馬の上で疲れたことだろう。ヘルサタン2世殿、お願いばかりで申し訳ないが、今晩は、この屋敷で休ませていただいてもよろしいか」
「はい」
「お前たちも、今日はもう、休ませてもらいなさい」
 ヘルサタン2世は、にこやかに微笑むと皇女に向けて恭しく頭を垂れる。
「失礼ながら、もう、シャワーやベッドの準備も整っております」
「ありがとう、ヘルサタン2世殿。何日ぶりのベッドか、もう分からないくらいだ」
「シャワーは、どうされます?」
「差し支えなければ、従者と侍女にだけでも使わせてほしい」
「ソフィヌベール皇女さまと弟君は?」
「私と弟は馬に乗っていただけだ。従者たちは歩き通しで相当疲れているはず」
「では、疲れの取れる秘薬を、バスタブに浮かべることといたしましょう」

 ヘルサタン2世に呼ばれた使い魔たちは、パタパタと歩き回り、ベッドの準備やバスタブの準備に追われていた。

 ヘルサタンは、少なからずソフィヌベール皇女に興味を抱いた。
 皇女としての立居振舞もさることながら、かなり胆の据わった女性、いや、少女とみえる。
 歳は、17、いや、確か先日18になったばかりのはず。
 嫁いだという話も聞かない。恐らく処女だろう。
 その心臓ともなれば、超の付く極上品であることは間違いあるまい。
 髪はブルネット。やや茶系ではあるが、祖先の血を引き継いだと見られる、目の色も茶系。笑うと右に笑窪の出る可愛らしい顔立ち。ま、今は笑ってもくれないが。
 どちらかといえばゲルマニース民族に近いようだ。先程ちらりと目にしたデュビエーヌ皇子さまも同様だった。

 それよりもヘルサタン2世の心を強く惹き付けたのは、皇女の資質だった。
 これが男性であったなら、稀に見る賢慮深き皇帝と名を馳せたことだろう。
 何よりも、臣下への配慮を忘れない、そのカリスマ性とも言うべき気遣い。普通の貴族なら、下僕は後回しで自分だけ綺麗な湯、最初の湯を使おうとする。それが、自分でもなく、皇帝になるべき弟でもなく、臣下が先と言う。
 これぞ未来の国の繁栄に通じるカリスマ性だと、長年の経験がヘルサタン2世の脳裏を過る。歴代皇帝の中でも、群を抜いている資質だ。
 ソフィヌベール皇女を前にして、ヘルサタンの目の奥には光が宿った。弥が上にも、その興味は増すばかりだった。

 ヘルサタン2世の切れ長の眼差しは、ソフィヌベール皇女を舐め回すように見つめる。その視線に気が付いたのだろう。ヘルサタン2世の美貌を前に、見つめられただけで気を失うご婦人もいる中、ソフィヌベール皇女は視線を逸らそうとしないばかりか、やおら、直球勝負で挑んできた。
「ああ、それで、ヘルサタン2世殿。契約の話だが」
「はい、ソフィヌベール皇女さま。契約の件、ご検討の余地ありと?」
「奴隷か。ふふっ。今迄の私なら、すぐに剣をとっただろうな」
「おや、剣術の嗜みをお持ちでしたか。ほう、武芸にも秀でていらっしゃるようですね」
「だが、今はそんな場合ではない」
「状況判断も、この上なく的確かつ正確かと」
「今のままでは、いずれ狩りに遭ってしまう。僅かの味方すら守ってやれぬ、不甲斐ない皇女なのだ、私は」
「して、如何なさいます?」
「総てそなたの言う条件のとおりにて、契約したい」
「結構。それでは、のちほど儀式を執り行いましょう」
 
 ヘルサタンには、現在の森の中の様子すら脳裏に浮かんでいる。
 森にまで、追っ手が迫ってきているのは確かだ。
 まったく、やみくもに探そうとするから森が荒れる。
 僕の森に許可も無く入る人間を見逃すくらい、僕の心は広くないのだがね。追っ手殿には、迷った挙句どうなってもらおうか。
 あまり美味しそうな心臓でもないけれど、使い魔たちには我慢してもらおう。

 ヘルサタン2世はソフィヌベール皇女の前で、再び首を垂れる。
「デュビエーヌ皇子さまの、弓や剣の腕前は」
「筋が良い。訓練さえ怠らねば、それ相応に上達するはずだ」
「なるほど。それでは、一旦、ソフィヌベール皇女さまと別れて行動なさった方がよろしかろう」
「やはりそうか。しかし、どうも心配でな」
「わたくしの使い魔を侍らせます故、ご心配には及びますまい」
「使い魔?そういった召使もいるのか?」
「さて、それでは召喚しましょう」
 現れたのは、大きな熊、黒い大蛇、黒い猫と黒烏。
「どうみても猫だ。烏は空を行き来出来るのだろうが」
「烏も猫も、何にでも形を変えるのです。ご覧に入れましょうか?」
「見せてもらいたい。弟を守ってくれる者たちだ」
「使い魔は、上等な魂を食らうことにより優れた能力を発揮します」

 ヘルサタン2世が声を掛けると、烏は人間たち数人を載せられるほどの大鷲になり、猫は黒い虎へと姿を変える。
 次の瞬間、彼らは人間の姿に形を変えるのだった。
「先ほどお茶を持ってきたのも、ベッドやバスの準備も、この者たち使い魔が行いました」
「見事だ。使い魔とやら。弟と従者たちを、狩りに来る追っ手から、どうか守ってもらえるだろうか」
「畏まりました。ヘルサタン2世さまの使い魔として恥じぬよう、お守りいたします」
「ありがとう。よろしく頼む」

 ヘルサタン2世が屋敷の外を見ながら語る。
「ご安心を。この森は『ミステリアス・フォレスト』。わたくしの許しも無く勝手に進んでくるような不遜な輩は、生きて帰ることなど叶いませぬ。どうやら、もうじきその追っ手とやらが迫ってくるようです。追っ手は今晩中に逆に獲物といたします。明日早朝、弟君御一行は、別の隠れ家にご移動いただきましょう。そちらは魔法によって存在が隠されておりますゆえ、成るべく早めの移動をお薦めいたします」

 明朝早い時間に、男性達の一行はヘルサタン2世の使い魔によって目立たぬよう隠されながら、森の中に消えることとされた。

 ソフィヌベール皇女は、表立って挨拶しないようヘルサタン2世から申し渡された。陰から弟たちの一行を見守り別れを告げるように、との指示である。これから姉が何をするのか、弟に知らせないためだという。
 姉が魔女になるなどと知らせれば、13歳の弟は止めるに違いない。致し方あるまい、とソフィヌベール皇女も了承した。

 弟たちの命が本当に助かるのか、その真偽は分からない。
 しかし、狩りに遭って目の前で命を落とす場面だけは見たくなかった。森に行って行方知れずとなったのなら、夢でも生きていると思えるだろう。
 儚い夢と知りつつも、父母のような悲壮な最期を遂げて欲しくなかったのである。
 
 そこで、ふと気がついた。女性たちである。

「私の侍女はどうなる?」
「侍女?」
「侍女まで魔女にするのは、忍びなくてな。私の財産でもない。守ってやりたいのだ」
「ふふん、そうですか。わたくしといたしましては、若い女性の心臓なら是非とも頂戴したいところでしたがね。なるほど、そうですねえ、この先、城下に舞い戻っても不審がられないといえば・・・『白魔女』でしょうな」
「白魔女?」
「はい。医術や占星術などを授けますので、医師や占い師として、城下の民衆から信頼が厚いのですよ。ま、教会からは追われる身になりますが。その辺りは、匿ってくれる民衆たちも多くおります。ですから、こちらもご心配には及びませぬ」
「そうか。それなら安心だな」
 
 と言いつつ、今迄、凛と前を向いていたソフィヌベール皇女の目が俄かに落ち着きを失くし、視線が辺りを彷徨いだしたのを見逃しはしない。
 ヘルサタン2世は、皇女が落ち着きを失くした要因を察知していたが、目の前にいるカリスマ性を兼ね備えた思慮深き少女が、どのような顔で、その問いを自分に投げかけるのか楽しみだった。

 ヘルサタン2世の考えた通りだった。
 ソフィヌベール皇女が、小さな声で恥ずかしそうに、ヘルサタン2世に問うた。
「彼女らも、噂に聞く儀式の『ダークマスター』とやらで、洗礼を受けるのか?」
 ソフィヌベール皇女の目が、心なしか潤んでいるのがわかる。やはり、これまで侍女を大切に扱ってきたのが分かる。本当に、深い労わりの心をお持ちの姫君だ。
「ご心配には及びません。白魔女は魔女と違って、簡単な知恵を授けるだけですから」
 先程とは裏腹に、ソフィヌベール皇女の目には安堵の色が浮かぶ。
 
 ヘルサタン2世は、その顔を見ながら悪戯っぽく微笑む。
 儀式に際し、ソフィヌベール皇女が動転しないよう使い魔にジャスミンの香りがする茶を入れさせ、ソフィヌベール皇女に勧める。
「さ、どうぞ。気分が落ち着きますよ」
「ありがとう」
「して、ダークマスターの儀式ですが、いつ頃をお望みでいらっしゃるか」
「侍女たちが城下に戻り、弟たちの無事が確認できれば、いつでも良い」
「時間や内容は、わたくしにお任せいただけますか」
「心の準備は、とうに済んでいるつもりだ。総て任せる」
「畏まりました。それでは、ソフィヌベール皇女さまの仰せの通りに進めることといたしましょう」

 そして、ソフィヌベール皇女の背後からゆっくりとその両肩を抱き、右耳の方にそっと顔を近づけると、耳元で甘ったるく、静かに囁いた。
「皆さまのことは、どうぞ、わたくしヘルサタン2世にお任せくださいませ。ご心配には及びませぬ。その代り、これから魔女となられるソフィヌベール皇女さまのダークマスターは、3日3晩の時間をかけて、ゆっくりと、血の一滴、肉の欠片まで、美味しくいただくといたしましょう。怖がることはありません。大丈夫。ほんの少しだけ淫らな行為もありますが、手荒な真似など一切いたしません。ここに御誓い申し上げます」
 
 肩から離した手で、今度はギュッと両手を握る。
 ソフィヌベール皇女は、少し顔を赤らめた。
 その耳の火照りを見逃すヘルサタン2世ではなかった。

「さ、ソフィヌベール皇女さま。今宵はベッドにて、ごゆっくりとお休みくださいませ。そして今迄のお疲れを御取りください。これからのダークマスターに備えていただかねば。3日3晩ともなれば、ソフィヌベール皇女さまも、その期間ベッドで眠ることなど叶いませぬ。ですから、今のうちに、ゆっくりとお休みを・・・」

第2章  ダークマスター

 悪魔との契約儀式など、通常経験した者はいない。
 いたとしても、魔女となるための儀式だ。魔女は文字通り教会に追われ、捕まれば死罪になると聞く。そんな身に自分を追い込むのだ、儀式の詳細を大声で話す者など、国内でも国外でも、誰一人としていないだろう。
 
 ソフィヌベール皇女は、準備されたベッドに入っても、なかなか寝付けなかった。
 やはり、儀式が気になっていたのは確かだ。
 特に淫らとは感じなかったのが本音だが、今までにない経験をすることへの不安が全くないと言えば、嘘になる。
 ソフィヌベール皇女にとって、悪魔との契約は、政略結婚と同じ類でしかなかった。
 あくまで城内で聞いた噂だが、王女や貴族の令嬢の中には、政略結婚先で初めて会った夫となる人物に、一晩中甚振られた女性たちとか、辱めを受ける女性たちが大勢いると聞く。要は、夫となる人物の人徳によって、幸せの方向が決まるというわけだ。

 ダークマスターという儀式も、それと同じようなものに違いない。
 たぶん、きっと。
 ソフィヌベール皇女は、3日3晩というヘルサタン2世の言葉を聞きながら、怖さが半分あるだけだった。そして、不安が半分、というわけである。この『不安』は、決して楽観的な感情ではない。
 クーデターの起こる以前のことだ。まだ幸せに暮らしていた時代。
 悪魔の儀式の詳細の噂を、宮中にて聞いたことがある。
 何でも、魔女になるには悪魔との乱交が必要だというではないか。
 破廉恥極まりない言葉を耳にして、気絶しそうになったくらいだ。今だって、父上や母上の仇討ちという大義無くば、乱交などという下品極まりない行為など行いたくもない。このような卑しい言葉、口にもしたくないが、今の自分に残された道は、政略結婚にも似た、この行為を受け入れることだけだった。

 何故かと問われれば、今、自分は、先日18歳になったばかりだ。
 18歳なら、普通の王家や貴族たちの娘は、当の昔に政略結婚している年齢だ。悪魔に甚振られ、辱められるという行為だけなら、政略結婚と何ら変わりないではないか。
 父のスヴェル皇帝陛下がお許しくださったからこそ、ソフィヌベール皇女は今まで政略結婚から逃れることができた。

 大叔父ドラヌル公爵が自分の息子ドラヌスに、ソフィヌベール皇女周辺を執拗にうろ付かせて近づけていたのも、強引に政略結婚を進めるためだったと知っている。
 向こうの浅知恵にしてみれば、手籠めにしてしまえばこっちの物、だったのだろうが、生憎、皇女であるにも拘らず、ソフィヌベール皇女は武術に長けていた。いつも周囲の怪しげな者たちを退けていたのである。
 政略結婚による国の簒奪に失敗すると見るや否や、大叔父ドラヌル公爵はクーデターという手を使って、大嘘を城下に流し国の民を騙し、欺いた。
 父スヴェル皇帝陛下と母ジェンヌ皇后陛下は、二手に分かれ城内の反対側で自決した。
 子供たち、そう、ソフィヌベール皇女とデュビエーヌ皇子を逃がす時間を、少しでも長く作るために。
 本来なら、自決するにしても一緒の場所でこの世を去りたかっただろう。それすらも許されなかったのである。

 おのれ、大叔父ドラヌル公爵よ。
 私はお前を、絶対に許さない。
 お父様やお母様が味わった以上の、何倍もの苦しみを与え、お前を罰する。
 それまでは、どんなことでも厭わない。
 逆クーデターなど、夢の世界でしかないこともまた事実。味方もいないのに策を弄することなど、出来るわけもない。
 どれだけの人間が先帝のために、弟のために動いてくれるかなど、信用もならない。
 言葉ほど、文字ほど信用成らぬ物は、この世にないのだから。
 だからこそ、私はこの身を魔女に窶してでも、大叔父ドラヌル公爵とその息子ドラヌスに復讐してやることにしたのだ。

 そして。
 できることなら、デュビエーヌ皇子が即位し安寧の国に戻るのを見届けるとしよう。
 魔王との契約によれば、国が安泰するまでは死なせてはもらえず、奴隷として働かされるらしい。
 それもまた、一興。
 天と地ほども違う生活を味わうのが我が運命とあらば、それも受け入れねばなるまい。

 色々考えている間に、どうやら眠りに就いていたようだった。
 久しぶりにふかふかのベッドに入ったからか、朝の10時ごろになって、漸く起床したらしい。やはり、緊張と疲労の蓄積具合が半端ではなかったのだろう。
 それもさることながら、周囲の者たちが今後安全に暮らせると聞き、安堵した結果だったのかもしれない。

「お食事は如何なさいますか」
 使い魔が起こしに来た。
「あ、いや、特に」

 ソフィヌベール皇女は、起き上がって、準備された新品の黒い絹のドレスなどに着替えた。サイズがぴったりで驚いた。あの悪魔は女性のサイズを目視できるのか?と訝ったほどだ。
 ソフィヌベール皇女が廊下に出ようとした時だった。庭が騒がしくなった。と、庭に白い帽子の付いたローブを着た侍女たちが立っているのが見えた。
 侍女たちへの白魔女としての知恵伝授が終わったのだろう。彼女たちは、白ハトや白蛇、白猫といった使い魔を伴って、にこやかに、城下へ戻る道を歩き出したように感じられた。
 ソフィヌベール皇女は、部屋の中から、後姿を見守った。
 どうか、みんなどうか無事で。
 神に祈りを捧げた。

 そんなときだった。ヘルサタン2世が部屋に姿を見せた。
「よくお休みになられたようですね。何よりです」
「お気遣いに感謝する」
「ドレスもサイズはぴったりのようです、ようございました」
「そなたは女性のサイズまで目視できるのか?」
「まさか。そんな変態的趣味は持ち合わせておりませぬ。昨日着ていらしたドレスを採寸して作ったのです」
「私としたことが、失礼した。許してほしい。ところで、聞きたいのだが」
 侍女たちへの知恵伝授に礼を述べるとともに、素直に質問をぶつける。
「外にいるあの使い魔たちは、侍女、いや、白魔女たちと一緒に働いてくれるのか」
「はい、申し付けたことを忠実に実行いたしますので。白魔女の使い魔は多いのですよ」
 ソフィヌベール皇女は、心の底から安心した。

「デュール達も、もう此処を出たのか」
「はい、朝早くお出かけになりました。別の隠れ家にて、武術の鍛練と、民の王としての道をお教えいたします」
「其処まで説いていただけるのか」
「何百年と生きたわたくしでございます。様々な佳き王、悪しき王を見てまいりました。佳き王になられるには、民の心を知ることでございますから」
「ありがたい。それも心配だったのだ。誰に任せたらいいものかわからなくて」
「わたくしのような悪魔でも宜しければ、お任せください」
「民の心情を教え乞うことができるなら、礼を申すまでのこと。本当にありがとう」
 本来、悪魔である魔王が民の心など、皇帝や王としての君主の道など解ろうはずもない。それでも、何百年と生きた経験は色々な歴史を見たことだろう。民の苦しみを見たことだろう。礼儀作法など、その前にあっては益体もない。まず記憶に留めるべきことを留めるのが王の道であろう。それが、ソフィヌベール皇女の哲学でもあった。
 これで、弟デュビエーヌ皇子のことも安心して任せられる道筋が付いた。

 ソフィヌベール皇女は、魔王と呼ばれるこの人物を、なぜここまで信用するのか、自分でも不思議だった。信用という文字は、皇女の辞書には無かったから。いつ裏切るかわからない、という言葉が存在するのみだったから。
 しかし、対価、成功報酬、取引と言った生々しい話が前提にあるからこそ、ヘルサタン2世に対する嫌悪感も無く、逆に信用の2文字を寄せたのかもしれない。

 ヘルサタン2世が、優しい声色で話しかける。
「いくらか安心されたようですね。それでは、午後1時から、わたくしとソフィヌベール皇女殿下の儀式を執り行います。時間まで、向かいのお部屋でお休みいただいてもよろしいですし、こちらのお部屋でお待ちいただいても結構です」
「では、こちらで待たせてもらおう」
「承知しました。では、儀式の10分前に、お迎えに上がりましょう」
 ヘルサタン2世はソフィヌベール皇女を刺激しないよう、柔らかな声で使い魔を呼んだ。
「ソフィヌベール皇女さまにジャスミン茶を」
「畏まりました」

 ソフィヌベール皇女はベッドから起き上がり、椅子に腰掛ける。
 ある程度、心配事に目途が付き、好きなジャスミンの香りで安心したのだろうか。
 起きて間もない時間帯にも関わらず、ソフィヌベール皇女は再び、夢現の中にあった。
 何処か、花園を楽しく飛び回っている夢だった。
 まるで、鳥達のように。
 鳥になれたら、どんなに良かったか。
 豪華絢爛とはいえ、不自由な暮らしだった。皇女という立場であるがゆえに、やりたい事のひとつも言えず、ただ、規律に従うのみだった。
 生まれ変わるなら、鳥になりたい。

「ソフィヌベール皇女さま、お目覚めですか」
 気が付くと、ヘルサタン2世が部屋に迎えに来ていた。
 ソフィヌベール皇女は、自分の目から涙が零れ落ちていたことに気が付いた。
 見られないように、脇を向いてからそっとハンカチをあてた。シルクのハンカチ。もう、使うこともあるまい。
 ハンカチを、テーブルに置いた。
 ソフィヌベール皇女に見えないように使い魔の黒猫が姿を現し、ハンカチを銜えて、消えた。

「さ、こちらです。屋敷の一番奥になりますので、少し時間がかかります。最後にもう一度。ご決心は、お変わりございませんか」
「二言は無い」
「結構。それでは、参りましょう」

 屋敷の一番奥。
 頑丈な扉で仕切られた部屋の前に立った。暗く、周囲には何もない。これまた、頑丈な壁と扉の両脇にある蝋燭台のみ。台には蝋燭が灯され、辺りを薄暗く照らしていた。
「では、お入りください」
 ヘルサタン2世が手招きする。
 ソフィヌベール皇女は、覚悟を決めて、部屋の中に踏み入った。
 怖さ、悍ましさ、それらを全て払拭し、凛とした姿で前に進んだ。
 後戻りを許さないかのように、頑丈な扉が重く大きな音とともに閉まる。

 部屋の中は、然程広くはなかった。四隅に椅子と蝋燭台があり、ヘルサタン2世は順番に蝋燭を灯していた。
 生贄を準備するような台座や、魔女誕生のために自分が寝かされるベッドなど、何かしら用具が準備されていると思っていたソフィヌベール皇女は、ちょっと拍子抜けした。
 ソフィヌベール皇女は思わず口にした。
「生贄とか、そういったものはないのか」

 ヘルサタン2世の目の奥が、ギラギラと光る。
「生贄は、ソフィヌベール皇女、貴女様そのものですから」

 部屋の真ん中に、何か術式などを書いたような文様が見える。
「さ、こちらへどうぞ」
 ソフィヌベール皇女は、ちょうど中心に立たされた。
 ヘルサタン2世は椅子を持って中央部に来ると、ソフィヌベール皇女を座らせた。
 そして、脚を組ませる。
 ヘルサタン2世は、ゆっくりと両足から靴を脱がせ、靴を脇に置く。

 目の前に傅くヘルサタン2世が、願い事を申し述べた。
「ソフィヌベール皇女さま。これから貴女さまをソフィと御呼びしてもよろしいでしょうか」
「あ?ああ。お父様もお母様も、私をソフィと呼んでくれた。構わない」
「承知しました。ソフィ、これから何が起ころうとも、私の言いつけを守るのですよ」

 ソフィは、その言葉の裏に隠された意味を図りかねていた。
 その瞬間だった。
「きゃっ」
 ヘルサタン2世は、なんと、ドレスの中に顔を埋め、黒絹のストッキングに手を掛けた。
「あの、あの」
「如何されました?」
「自分で出来る」
「わたくしの役目でございますので」
「シャワーとか、そういった清めなどは要らぬのか?」
「ダークマスターに清めなどといった言葉ほど、似つかわしくないものでございます」
「そ、そうなのか」
「さ、身体の力を抜いていただけますか、ソフィ」
 ゆっくりとした動作で、黒絹のストッキングをガーターから外し、そっと椅子の背に掛ける。
 両方の足から外し終わると、また椅子の背に掛けた。
 靴は、いつの間にか消えていた。使い魔が持って行ったのだろうか。

 ソフィは、恥ずかしさで一杯だった。
 それを見越すかのように、ヘルサタン2世は、一度ドレスから顔を出した。
 ソフィを見つめる、ギラギラとした目。
 恥ずかしさのボルテージは上がる。
 ヘルサタン2世は、にっこりと微笑むと、何も言わず、再びドレスの中に顔を埋め、黒絹のガーターを片足ずつ外す。
 それも、ゆっくりと、時間を掛けて。

 ソフィは、身体の芯が熱くなるのを、最早感じ得ずにはいられなかった。
 というのも、ソフィたちの国では、貴族や王族はストッキングとガーターのみで生活するのが一般的だったからだ。
 そう、今ヘルサタン2世に見られているのは、それらを身に纏っていない状態の、ソフィ自身である。

 ヘルサタン2世が、ドレスの中に顔を埋めたまま、ゆっくりと組んだ脚を解かせる。
 そして両足首を、それぞれロープで椅子の脇に縛った。ちょうど、脚を広げて椅子にもたれた恰好だった。
 気が付くと、ソフィの両手や上半身も、使い魔たちによってだろうか。気付かないうちに、椅子の背もたれに縛られていた。

 ヘルサタン2世は、しばらく何もしようとはせず、ドレスの中に顔を埋めたまま、ソフィの下半身を隅から隅まで、じっと見つめているようだった。
 ソフィには、それでも十分すぎた。顔を見られたら、余りの恥ずかしさに、どうしてよいか分からなかっただろう。
 そして、ヘルサタン2世は、ゆっくりとソフィの身体に舌を這わせだした。
 舌で何かを書き記しているような様子ではあったが、もう、ソフィの思考パターンは停止し、冷静に考えることが出来なかった。

 ヘルサタン2世は、ずっとドレスに潜ったままだった。
 今まで味わったことの無いビリビリと稲妻の走るような感覚に、思わず女性として身体が反応してしまう。洩らさないようにと、必死に我慢しても、時折、洩れてしまう声。
 はしたないと感じつつ、声を出さぬよう堪え続けるソフィだったが、その身体は反対に正直だった。
 つい声に出てしまうほど、ヘルサタン2世の舌遣いは完璧で、気持ちが良かった。

 ヘルサタン2世がドレスの中から話しかけるのが辛うじて聞こえた。
「僕のことは、ヘリィと呼んでくれ、ソフィ」

 下半身の一部をなぞられただけで、汗びっしょりになったソフィ。
 気が付くと、ランジェリーもドレスも汗びっしょりだった。椅子に座っていただけで、あんなに、はしたなくなるなんて。
 ソフィは、自分が恥ずかしかった。
「私としたことが、はしたない」

 ヘリィは、やっとドレスの外に顔を見せた。にこやかに笑みを浮かべつつ、目の奥にギラギラと光るものは消えない。
 
 ソフィが、恥ずかしそうに口ごもりながら、小さな声で呟く。
「すまない、汗が」
「どうしました?」
「下品な素行になってしまった。恥ずかしい」
 そんな皇女を前に、ヘリィが微笑みながら、その耳元で囁く。
「もっと下品におなりなさい。わたくしが貴女を、もっとはしたない気持ちにしてさしあげますから」
 今度は、先程使い魔に縛られた上半身に舌遣いが移った。
 ソフィは、ちょうど、胸元にボタンの付いたドレスを着て、縄で縛られていた。ヘリィは、縄はそのままに、ゆっくりとボタンを外しながら、豊満な胸だけが姿を現すよう、洋服の位置を調整する。

 そして次にドレスの胸部分を肌蹴る形で、豊満な胸が露になる。またも、恥ずかしさを禁じ得ないソフィ。
 ヘリィは、はち切れんばかりの豊かな胸を、縄の間から外に見えるように出した。そしてまた、両胸の間に顔を埋めた。
 ソフィは思わずヘリィの顔を見ようとしたが、使い魔たちが目隠しをした。
 舌か、或いは小指の長い爪で何か記しているのだろうか。
 目隠しをされ、周囲が見えないということが、どれだけ羞恥心を煽るかなど、ソフィは終ぞ知らなかった。
 生っぽい舌の動きは、これから為すべきことさえも忘れてしまうほど猥らなファクターに感じられ、ソフィは再び、我慢しながらも時折洩れてしまう声に溺れた。また、頭が空っぽになるのがわかる。
  
 どのくらい時間が経ったのだろう。ヘリィが、漸く動きを止めてくれた。
 ソフィは、もう、3日3晩が過ぎたのかと思うくらいだった。
 それほど、ヘリィのダークマスターは完璧で、ソフィの身体はへとへとに疲れ果てていたのである。

 しかし、ソフィは不思議なことに、汚らわしいとは感じなかった。
 ヘリィの奥に光るギラギラとした目が、ダークマスターの目的を語っていたのかもしれない。
 それは、男が女を漁る眼ではなかった。
 大叔父の息子ドラヌスのように、厭らしさに濡れた眼ではなかった。
 儀式と儀式の中断の際、ギラギラと光るヘリィの眼を見たとき、ソフィは本能的にダークマスターの意味を理解した。

 ヘリィは、ソフィの身体に舌で呪文を書いているのだろう。
 そう、ありとあらゆる場所に。
 それが何なのかは、知る由も無かったが。

 ヘリィは一旦、ソフィから離れると、ソフィを隅の椅子に座らせた。
「ソフィ。3日3晩と告げたでしょう。まだまだ始まったばかりですよ、覚悟なさい」
 ヘリィがまた、耳元で囁く。
 ソフィは囁かれただけで、あの、はしたない感情が再び身体を過ぎるのが分かる。

 部屋には、いつの間にかベッドが準備してあった。四隅にロープが見える。
 ヘリィは、椅子のある四隅でソフィのドレスを脱がせ、ランジェリーを剥ぎ取り、自然の姿にした。
「歩けますか?」
「歩けそうにない。少し恥ずかしい」
「それなら、このローブを羽織りましょう」
 黒いローブを羽織ると、ヘリィがソフィを抱き上げベッドに横たえてくれた。
 今度は左の首筋から鎖骨周辺を目掛けて、ヘリィの顔が近づいてくる。
 椅子の時は避けられなかったが、思わず、身体を右に避けてしまったソフィ。
「ソフィ。いけませんね。言いつけを守るよう、先程教えたはず。守れない子には、お仕置きしないと。ほら、こちらにいらっしゃい」
 優しく声を掛けながらも、ヘリィの目はギラギラ光る。

 使い魔たちが、ベッドの四隅にあるロープに、ソフィの四肢を繋いた。
 脚を大きく広げられ、コルセットなど無くとも豊満で形の良い姿態が燭台の蝋燭を影に揺蕩い(たゆたい)、艶かしさを増幅するには十分だった。ソフィは、何度となく、はしたなく露な体勢を取らされた。また、いくら我慢しても洩れ聞こえてしまう声だけは、どうしようもなかった。
 ベッドが片付けられると、長椅子であったり、ソファであったり、またベッドになったり。手足の自由が利かないまま、あられもない姿でのダークマスターは続いた。
 そうして3日3晩、堪えながらも、我慢しながらも、どうしても洩れてしまう淫靡なソフィの声が止むことは、片時もなかった。
 最後の晩には、流石に我慢の限界を超えたのか、それとも儀式が凄まじい内容だったのか。ソフィのか細い声が何度となく何時間にもわたり屋敷内に響き渡った。
 
 ソフィにとって、それは永遠に続くのではないかと臆断された、その時だった。
「ソフィ。ダークマスターが終わりましたよ。さ、シャワーを浴びていらっしゃい」
 肩を叩かれ、我に返った。
 もう終わってしまったのかと、そう思った瞬間、自分がとてもはしたなく感じられ、顔が赤くなるのがわかった。

 だからこそ、努めて平静、冷静を装った。
「シャワー室はどこに?」
「廊下を進んだ左側です。僕もすぐにいきますから。貴女の身体を、最終チェックさせてください」
「また、貴方に見られるの?」
「おや、ご不満でも?」
「いえ、恥ずかしいだけ」
 シャワーを浴びていると、ヘリィが入って来たのがわかった。
 シャワーを止める。
「寒くないですか?ソフィ」
「ええ、大丈夫」
「じゃあ、最終チェックしましょう」
 ヘリィは、ソフィの身体全体をざっと眺め回し、たまに舌を這わせた。ソフィは恥ずかしさをずっと我慢し、ヘリィの言うなりに動いていた。

「よし。これで大丈夫だ。まず、言葉遣いが変わるから。その他にも日を追うごとに、少しずつ変わってくるはすだ」
 黒のローブを着せられた。漸く、自然の姿から解放された。
 ヘリィが優しく肩を抱く。
「よく我慢したね、何もかもが初めての経験だっただろうに」
「魔女になると決めたときから、大方のことは覚悟していたから」
「キミの声が、とても初々しかった」
「お願いだから、はしたないことを思い出させないで」
「でも、キミの身体が一番覚えているはずだ」
「顔が赤くなるのが分かるわ。お願い、言わないで」
「いいよ、もう言わない。でも、キミの身体は僕に逆らえない」
「はしたないことを要求するの?」
「まさか。僕はそんな破廉恥な趣味など、持ち合わせていないから」
「じゃあ、何?」
「キミ自身が、これから段々はしたない女になるのかもしれないね」
「そんなこと、あり得ない。今迄、無かったもの」
「さて、どうかな。僕の奴隷さん」

 ヘリィは、真面目な顔をして、ソフィの顔を見た。
「申し訳ないが、皇女時代の洋服は処分した。思い出さないように。これからは、魔女ソフィとして生きるのだから」
「わかってる」
「ここ2~3日の間に、色々と変化が現れると思うけれど、驚かないでくれ。ダークマスターの力で皇女の姿を覆い隠してあるからね」
「わかったわ」
「魔法は自然に覚えられるものじゃない。勉強を怠っては、使うべき時に適切な魔法が何なのかわからなくなる。そのためにも、これからキミは魔法の勉強をしないといけないよ」
「わかった。勉強する」

 3日3晩のハードなダークマスターが終わった。

 ソフィは、自分もその日のうちに森か或いは城下に移されるものとばかり思っていた。
 ヘリィは何も口にしなかったが、移動を促すような素振りは、誰も見せない。そればかりか、ソフィの部屋と着替え、その他細々とした物が与えられた。
 魔女になりたい女性は、みなこうなのか。
 それともソフィが奴隷だからなのか。
 それは想像の範疇でしかなかったが、屋敷で周囲を見る限り、魔女のような女性の姿は見受けられない。

 ソフィに与えられたのは、黒のドレス数枚と、黒のローヒールの靴。ドレスは絹ではなかった。自分が皇女で無くなったのを、今更ながらに悟った。
 しばし、感傷に浸った。宮中での豪華な生活。
 ドレスは絹。体型を整えるためコルセットを強要され、逃げ回った日々。
 ハイヒール。惜しげもなく与えられた。走るとすぐに靴が傷んだ。それでも走った。
 ドレス姿で剣を振るうと、従者たちが飛んできた。
 皇后陛下の前に突き出され、延々とお説教を聞かされた。
 もう、そんな日は訪れない。
 父上も母上も、崩御された。
 あの薄汚い大叔父ドラヌルの策略によって。
 今の自分には、何も残されてはいないのだ。あるのは、この黒い洋服と靴だけ。

 それは序の口だ。
 これからは、もっと苦難が待ち受けているだろう。
 幸せを弟に与えてあげるには、あと、早くても3年か4年。弟が皇帝たる地位に相応しい技量を身に付けるその日まで、弟を常に気にかけ、護らねばならない。
 憎き大叔父ドラヌルとその息子ドラヌス。奴らの息の根を止め、王室を再興する。それが、あたしの願い。

 ソフィは、空に向かって大きく深呼吸した。

 ダークマスターが終わり、屋敷の外に出られるようになったソフィ。
 弟の隠れ住む場所や城外、国内外など行ってみたい場所はあったものの、許しが出ずに我慢していた。
 まだ動くには早いだろうとヘリィに言われていたからだ。
 部屋から庭を見ていると、ヘリィがやってきた。
「ソフィ。お疲れさま。調子はどう?」
「ありがとう。元気よ。ね、これからもヘリィ、でいいのかしら」
「OK、歓迎するよ。近代でも、僕の最高傑作だからね、キミは」
「そうなの?特に変化は感じられないのだけど」
「ふふふ。3日3晩のダークマスターは、伊達じゃないってことさ」

 ソフィは、ふと気が付いたように、笑窪の見える右頬に人差し指を当てて呟いた。
 笑窪が何よりも目立ち、可愛さが際立つ仕草。ヘリィも笑顔だった。
「これから何処に住もうかしら。住家を探さないと。まさか城下に降りるのは危険よね。魔女狩りされたら捕まっちゃう。ねえ、魔女って何食べて生きているの?他の魔女たちは何処に住んでいるの?」
「森にある果実なら何でも食べられるし、月の形をした焼き菓子を作って食べるパーティーもあるようだ」
「住家は?」
「城下でそれと知られぬように過ごしている魔女もいれば、森に隠れ住む魔女もいるね。この森には、いないけれど」
「どうしよう。城下に行くのは気が進まないの。かといって、森じゃ雨に濡れてしまうわ。小屋を作らないと。ね、小屋ってどうすれば作れるの?」
 黙って聞いていたヘリィが、微笑みながら提案した。
「此処に住めばいい。小屋の作り方を知るのは、まだ早いさ」
「ふうん。奴隷の契約があるから?貴男の奴隷として、あたしは何をすればいいの?」
「い、いや。そういうわけじゃないけど。ほら、魔法勉強しないと。計画も練る必要があるだろう。一人よりは、僕がいた方が役に立つ」
 
 時期を見極めないといけない計画。
 急いては事を成し遂げられないばかりか、大勢の命が無駄になってしまう。
 抵抗勢力を根こそぎ潰したとしても、味方を増やさなければならない。皇帝だけが城にいても一人で政はできないのだから。

 皇帝となった大叔父ドラヌルは、民からの信頼を得て皇帝の座に就いたわけではない。
 畏れを知らない野蛮な貴族たちと組んで民を騙しクーデターを起こし、皇帝及び皇后をはじめ、政に長け、ドラヌルを「是」としなかった貴族たちを狩りの対象にした。
 今でも残っている真っ当な貴族もいる。それら貴族たちにしても、大方同じ意見に纏まるはず。皇帝ドラヌルの馬鹿さ加減に呆れていくことであろう。民衆も、すぐにあの傍若無人な振る舞いに気付くに違いない。
 今はまだ逃げてきたばかりだから、城下の噂も耳に入ってこない。落ち着いたら、城下の様子を探らなくては。

 だからこそ、時間をかけて、ドラヌルに反目或いは内心的敵対並びに確執が生じそうな貴族を味方につけ、民のレジスタンスを利用し事を進めるべきだとヘリィが教えてくれた。
「あら、じゃあ、あたしが一人ずつ貴族を誑かしていけばいいのかしら」
「大胆だな。今のキミが語ると本当に聞こえるから、よしてくれ」
「お世辞でも嬉しいわ。ありがとう、ヘリィ」
「こんな魅力的な女性に大胆に迫られて、落ちない男はいないさ」
 ヘリィが黙って、鏡を差し出した。

 驚いた。

 ソフィは黒いドレスを着ているのだが、豊満な胸はそのままに、腰はコルセット無しでもきゅっと引き締まり、ヒップの上がり具合も絶妙だった。
 身体の変化もそうだったが、顔が一番変化した。
 元々、聡明さを持った整った目鼻立ちの顔。それが、皇女時代の威厳のある顔ではなく、美女には違いないが色気のある女性といった表情に変化したと、使い魔たちが小さな声で噂していた。

 見た目はだいぶ変わったから、街中を歩いても皇女と思い出す人は、殆ど居ないだろう。でも、危険は冒したくない。だからヘリィの屋敷に厄介になることにした。
 最初は、その後など考えず、至って簡単な気持ちだった。
「じゃあ、お言葉に甘えて居候させて。ね?お願い。小屋を作るまで」
「部屋は自由に出入りして構わない。ただし、ダークマスターの部屋だけは、入っちゃいけないよ」

 ソフィに背を向け、部屋の中を魔法で整えているヘリィが鏡に映っている。
「ありがとう。ねえ、ヘリィ」
「なんだい?」
 振り向いたヘリィに自分からキスして、ヘリィの太腿に自分の太腿を絡ませ、はしたないポーズを取る。
 ヘリィは、それに応じてソフィの腰に手を回しながら、呟いた。
「普段から他の男性に対してこんなポーズを取って誘惑したら、お仕置きだぞ」
「はあい」

 ソフィの胸の奥に、舌を這わせるヘリィ。
 妄りに男を誘惑しない呪文だという。
 実際には、他の男には見向きもしないという呪文であったが、こればかりは、さすがにヘリィも真実を言わなかった。
 使い魔たちにも内緒だ。これまでの何百年、使ったことがないのである。

「これでよし、と。僕の前以外で、はしたない真似をしないこと」
「わかったわ。あとは、何が出来る?」
「何でも。飛ぶ、壊す、惑わす、消える。全部直ぐにできるよう覚え込ませたからね」
「3日3晩の成果?」
 ソフィにその気があったのかどうか、ヘリィの前で飛び跳ね、目の前で胸を揺らす。
「ほらまた、そうやって誘惑する」
 ヘリィは、誘惑に負けた殿方のような顔になる。

「あら、ごめんなさい。あたしね、部屋の中で飛び跳ねたことないの。だから一度やって見たくて」
「武術以外では、走ることはおろか、飛び跳ねることさえ許されなかったか」
「大当たり。皇女殿下、はしたない。皇女殿下、いけませんってね」
「だから、はしたないことや、いけないことをしたくなるのかい?」
「下着姿のまま、お城の中をダッシュするの。もう大騒ぎよ」
「そりゃ、やんちゃな皇女さまだな」
「大人しいだけの皇女なんて柄じゃないもの」
「ますます僕の好みだ」
 ヘリィが小声で自分自身に言い聞かせるように呟いた。常に精悍な表情が、緩む。

 ヘリィの緩んだ表情を、不思議に思うソフィ。
「何か言った?」
「いや、何も。じゃあ、明日辺りから少しずつ、魔法を始めてみようか」
「勉強する本か何かあれば、自分でやってみるわ」
「いや、直々に伝授してあげるよ。力加減も覚えないといけないし。覚えも早そうだ」
「遅かったら?」
「本に任せる。いや、僕が居ないとダメだ。力が半端なく強そうだから森が吹っ飛ぶな」
「意地悪。いいわ。じゃ、今何か出来ることは無い?」
「じゃあ、部屋の暖炉に火をつけてみようか。呪文は『ファイス』だ。やってみて」
 初歩中の初歩、無難な魔法である。
 ソフィが暖炉の前に立つ。
 ヘリィが斜め後ろに立ち、その様子を窺う。少し肩に力が入っているのがわかる。何しろ、初めての魔法だ。緊張するなというほうが無理というものだろう。
「えーと、ファイス!」
 ソフィが暖炉に掌を翳した瞬間、暖炉に火をつけるつもりが、その暖炉は爆発寸前になった。部屋の中に濛々と立ちこめる煙と、暖炉の灰。

「リバール」
 ヘリィが呪文で部屋を元の状態に戻す。
 部屋は、ソフィが爆発させる寸前の状態に戻った。
「いいかいソフィ。キミの力は群を抜いて強い。普段は控えめにして、ここぞという時に全力を使えばいいだろう。リバールは、復活の呪文だ。今のような時、使えばいい」
「ありがとう。じゃあ、森で薪を拾ってくるわ。どんな魔法が一番適切?」
「うーん。強い魔法があるけど、今はまだ早そうだ。樹に向かって『フェイス』。叫んじゃダメだ。優しく、ね?一人で大丈夫かい?」
「大丈夫よ。優しく言えばいいのよね。出かけてくる!」
 屋敷から走って森の中へ消えたソフィ。恐らく、ドレス姿で走ったのは初めてなのかもしれない。とても嬉しそうに駈けだしていった。

 1時間が過ぎ、2時間が過ぎた。ソフィは一向に戻る気配がない。
 薪を運ぶ方法を教え忘れたと気付いたヘリィは、もしかしたらソフィが重い薪を引き摺っているのではと心配になり、使い魔たちを森の方々に走らせ、探させた。
 ヘリィの魔力をもって考えればすぐに分かりそうなものなのに、焦ってしまっている。
 使い魔の1匹が戻った。
「ソフィは?大丈夫か?」
「それが」

 フェイスの呪文を優しく言ったつもりが、辺り一帯が総て薪と化し、リバールの呪文を忘れたために薪に埋め尽くされていたのだという。
「リバール!」
 屋敷の中から放ったヘリィの呪文で、薪たちは元の樹に戻った。
 薪拾いのはずが、危うく森を全滅寸前にして戻ってきたソフィ。
 流石の皇女さまも、皇女とは別の意味で、思うように行かないことがあるという事実に気が付いたようだ。
「自己嫌悪だわ。力がセーブできないの」

「ファントマスターの呪文を掛けて、僕がセーブしよう」
 右手の薬指に、また舌を這わせるヘリィ。力をセーブする魔法なのだという。
「ありがとう」
 ヘリィが窮屈になるくらい、抱きついて喜ぶ。
「すっかり厭らしい女性になったね。ソフィ」
 下からヘリィを見上げる仕草が、艶かしく、また厭らしさも助長させる。
「貴方のせいだわ。ヘリィ。ね?魔女に成りたい女性には、皆あの儀式をするの?」
「ま、まあね。一応」
「ヤキモチ焼いちゃう。あたし以外にも、あんな思いする子がいるなんて」
 ソフィから離れ、暖炉の前に座ったヘリィが笑う。
「キミってホントはヤキモチを焼く女性だったんだ」
「え?」
「皇女時代には、無かっただろう?」
「貴方の力じゃないの?」
「性格まで変える力はないさ。キミが心で望んだことが、今、目の前にあるだけ」
「そうなの?あたしは、はしたないことなんて考えない皇女だったわ。武芸に明け暮れて、弟を補佐して国を守るつもりだったから」
「自分を抑え込んできたんだな。本当のキミは、こんなにも女性的で、厭らしく、はしたない女性というわけだ」
「あたしったら、そうなのかしら。恥ずかしいわ。はしたない女って顔してる?」
「まあね。僕の前でだけ、キミ本来の顔が出るようになっているから」
「そうなの?良かった。城下でそんな、はしたない顔して歩けないもの」
「他の男の前で、笑顔すら作って欲しくないよ」
「え?何か言った?」
「い、いや。何でもない。今日の教訓を生かして、明日からまた魔法を勉強しよう」
「よろしくね、ヘリィ」

 翌日、朝食後。
 部屋を変えて、机上の勉強から始まる。
 ヘリィは、魔法に際し、空を飛ぶことから教えた。
「基本から覚えて行こう。まずは移動魔法だ」
 ソフィは必死な顔をしている。覚える気力は満々のようだ。
「大きくわけると魔法は6つ。このほか、細かい呪文が沢山ある」
「クリスオーラ。これが空を飛ぶ呪文」
「リオーラは、此処に戻る呪文」
「コスモオーラは、空中停止と瞬間移動の呪文」
「アクアオーラは、水の中を移動できる呪文」
「レインボーオーラは、空中移動しながら術を使う呪文」
「ヘリオーラは、一つ前の場所に戻る呪文だ」
 
 昼食をとったのち、外に出た。
「実践してみるの?」
「上空にも結界を張るから、僕等の姿が皆から見える心配はない。さ、一緒にやってみよう。いいかい、力は抑え気味に。ほら」
「クリスオーラ!」
 結界にぶつかるソフィ。
「あー、痛い、痛い」
「まだ力が強いね。僕に囁くように呟いてごらん」
 ソフィは、本当にヘリィの耳元で、はしたなく囁く。
「クリスオーラ」
 ふわりと空中に浮かぶ。隣にきたヘリィが続ける。
「じゃあ、今度は瞬間移動と空中停止だ。さっきのように、はしたなく囁いて」
「コスモオーラ」
 すーっと移動した。ヘリィによれば、声高に叫ぶとそれだけ瞬間的な移動範囲が広がるらしい。
 しかし、今は力が強すぎると止められた。
「じゃあ、屋敷に戻ろうか」
 また、はしたない声で囁く。
「リオーラ」
 無事、二人は屋敷の前に戻った。

 戻ると同時に、ヘリィの頬にキスしたソフィ。
「ソフィは子供みたいだな」
「うふん、こうしていると、本来の目的を忘れそうになる時があるの」
「まだ、その時ではないからね」
「だから、忘れそうになったら思い出させて」
「わかったよ。さて、どんな方法なら思い出してくれるのかな、元皇女さまは」
「簡単よ、ダークマスター」
「まったく。儀式の虜じゃないか。本当はダークマスターじゃなく、卑猥な行為そのものをしてほしいのだろう?」
「いやん。はしたない表現を使わないで。身体が火照るわ」
「はて、どうしたものやら」
「ダメなの?」
「魔王がダークマスター以外で、あそこまで淫らな真似をすることは許されていないからねえ」
「そうなの」
 ヘリィの言葉を聞き、がっかりした声で項垂れるソフィ。

 ヘリィは、思わず嘘をついていた。
 魔王に君臨するまで、儀式以上の淫靡極まりない行為で、過去何百年に渡り一体どれだけの争いを引き起こしてきたことか。真実をソフィに言うのはどうしても憚られた。敢えて昔の女性たちとの過去は言いたくないし、隠しておきたかった。
 一方で、儀式以外のそんな行為など興味も無くなり生きてきたはずのヘリィが、一瞬ソフィに触れてみたい衝動に駆られたのも事実であり、ソフィの肌に熱く触れているデジャヴに、何度となく捉われた。己を律する覚悟が、揺らいでいるヘリィだった。

 ヘリィは、魔界を統べる魔王として俗世の人間たちに関わるようになってから、誰ひとりとして、近くに寄せようなどとは思わなかった。使い魔だけで十分だった。何百年生きて、自分から触れてみようと思った女性もただの独りも居ない。
 こうして、近くに居たいと思える女性はソフィが初めてだった。どうしてなのか、自分でもはっきりとした理由はわからない。不思議な感覚だった。

 ヘリィは、右手でソフィのさらさらした黒髪を梳きながら、左手でその顎を上向かせる。ソフィの左耳元で何か囁くと、耳たぶに軽くキスした。

「これなら簡単な儀式さ。だから、これで我慢しておくれ」
「うん。わかった」

 今度は、あどけなく笑う。
 凹んだり笑ったり、悪戯っぽくエロティックな真似をしてみたり。
 コロコロと変わるその表情。
 やはり、18歳の少女なのだという思いが、ヘリィの胸に刻みつけられる。
 皇女たるが故に、それらを全て封印し、皇女として振舞い、皇女としての発言をする。それは時として、平民の女の子よりも息苦しい毎日だったのではないか。
 それが、愛おしくさえ思えてくる。

 ヘリィは使い魔たちに命じ、夕餉の支度をさせ、ベッドを整えさせる。そして、庭のベンチに腰を下ろした。
 ソフィは皇女だ、普通の女性たちがするような家事一切など、一度もしたことが無いだろう。本人が興味を持ったら、少しずつ教えればよい。
 今、下手に興味を持たれても困る。
 多分、料理の際に鍋を焦がして、かまどを爆発させかねない。想像しただけで笑みが零れた。力加減を覚えたのちに、厨房へ案内した方が賢明な選択に違いない。

「何を考えていたの?」
 上からソフィが覗き込む。夕陽と胸が相重なり眩しくて、ソフィの顔が見えなかった。
「さあてね、何だろう」
「ソフィは当分の間、厨房入室禁止、って思っているでしょ?」
 ヘリィが、ぽかんとしたままソフィの目を見て、同時に、くすっと笑う。
「どうしてわかったんだい?」
「あたしの力加減が出来ないうちは、夕餉の支度すら無理だろうと思っているな、って。城じゃ一度も何かを作ったりしたことはないだろう、って思っているに違いないわって」
「違うの?」
「そりゃ、夕餉の支度までは準備したことが無いわ。でも、お菓子くらいなら弟のために焼いたりしたものよ」
「そうか。弟思いのお姉さんだったんだな」
「あたしの焼くお菓子が大好きだったの。お父様も、お母様も」
「そうか」
「もう、焼いてあげられない」
 ソフィが大粒の涙を、その大きな両眼に溜める。涙の粒が次々と頬を伝って流れ落ちる。

 こんな時に掛ける言葉。

 女を誑かす術など知り尽くしている魔王たる者・ヘリィが知らないわけもない。
 ヘリィは敢えて、ソフィに対し言葉を掛けなかった。
 普通の少女ならまだしも、それこそ物心つく前からそれ相応の教育を受けた皇女に、上っ面の同情など必要だろうか。上辺だけの言葉と気付かれるのが関の山だ。表面だけの同情の言葉など欲しくもあるまい。そうして己を奮い立たせるだけで、今は精一杯なのだから。

 言葉の代わりに、傍らでしゃくりあげるソフィの肩を抱いて引き寄せた。頭を撫で、涙を拭き取ってあげた。何度も何度も、ソフィの涙が自然に止まるまで・・・。
 翌日から、二人はまた、補助系魔法や攻撃系・防御系魔法を机上で勉強することから始めた。

 部屋の周囲では、使い魔の猫や蛇たちが目を丸くしている。
「今までに、ヘリィって呼んでいいよ、って言われた娘がいる?」
「それより、同じ屋根の下に住むことさえ許さなかったよ」
「術や呪文だって、今までは手を抜いてた」
「ましてや、自分で一緒に勉強して呪文効果を一緒に確かめるなんて、何百年も生きてるけれど見たことが無い。一体、どうしたんだろう」
「皇女様という身分の違い?それとも皇女様の決心をご存じだから?」
「まさか・・・恋だとでも?」
「あんなに毒々しい心に塗れているんだから。ソフィさまのためにも、恋だとは思いたくない」
「でもさ。この余りの違いに不安を覚えるんだ。僕はね、もしかしたらヘリィ様が永遠の眠りに就く序章じゃないかと危惧しているくらいだよ」
「ま、まさかっ」
「だって考えてもご覧よ。その証拠が、ちゃぁんとあるじゃないか。終章も」
「不味い、何としてでも踏み留まっていただかなくては」
「魔界の安泰のためにも、だ」

 そんな使い魔たちの心配など露知らず。
 ヘリィとソフィは、魔法の習得に余念がない。

「今日からは、補助系魔法だ。主に天変地異などを引き起こす。やりすぎると国が無くなるから、少しだけ囁くんだ。さ、始めて」
 訓えられたように、小声で囁くソフィ。
「えーと。サインぺリアル」
 ヘリィの張った結界の中、物凄い稲妻が轟く。
「じゃあ、今度は結界を張ってみよう。結界は強いほどいいから、普通に声を上げて大丈夫だ。森の木の上をイメージしながら」
「はーい。スピネード!」
 ソフィの魔術は桁違いだった。森の上に結界が張られ、緑が見えるがスプリングするようにフワフワとしている。
そのフワフワの下には頑丈な壁が出来上がっていた。
「成功だな。これで、他の補助系魔法の練習が出来る。最初は、風。嵐までは酷くない風だ。叫ぶなよ、二人とも弾き飛ばされる」
「はあい。インペリアル」
 ざわざわと風が吹き、ソフィのドレスが捲れ上がる。
「きゃっ」
「今くらいで捲れたんだ、叫んだらどうなるかわかったもんじゃない」
「次は?」
「雨を降らせよう。頼むから、叫ばないでくれよ」
「わかってるわ。リインペリアル」
 小声で囁いただけで、上空から雨垂れが落ちて来たかと思うと、本格的に雨が降ってきた。
「リサイト」
「そう、いい判断だ。二人ともずぶ濡れになってしまうからね。さっきのインペリアル3種類の組み合わせで、色々な天候に変化することが出来る」
「遭難の3種類は、実戦でないと使えない術なのね。サイト3種も今は止めておくわ」
「ああ、的確な判断だと思うよ。僕が解除呪文を流しておくから、小さく言葉にだけだしてごらん」
「海で遭難させるのがヘリドール、山で遭難させるのがヘリドーラ、森の中で遭難させるのかヘリドース。大地を揺らすのがペールサイト、竜巻がパールサイト、本格的な嵐がピータサイト。間違いないわよね?」
「そう。さすが、皇女さまは覚えが早い」
「ヘリィのお蔭よ」
「お世辞も上手くなった。いや、社交界ではお世辞こそが覚えるべき礼儀か。参るね」

 ソフィの顔に、暗い影がのぞく。
「お世辞。そうね、地方から来る領主たちや、城下に居を構える貴族たち。パーティーとは名ばかりの化かし合いよ。権限争いの渦中に巻き込まれるなんてザラだった」
「そんな中でも、キミを政略結婚の材料にしなかった皇帝陛下は、素晴らしいお父様だったじゃないか」
「民衆からどう思われていたのかわからないけど。クーデターが起きたときは大嘘が城下に蔓延していたから、悪く言われていたわ」
「華やかなりし城内を支えているのは民だからね。僕が言っても説得力ないけど、民の声には耳を傾けなければ。自分を支えてくれる者たちが誰なのか、見極めなくては」
「うん。弟に言わなくちゃね。その前に、魔法を皆覚えてしまいたいの。手伝って」
「OK。付き合うよ」

 ソフィの勉学に対する姿勢には畏れ入るばかりだ。
 世の人々が「魔法なんて」と馬鹿にする中、一所懸命、訓練を怠らない。
「えーと。攻撃の魔法は主に3つ。森の木で実演してみてもいい?」
「どうぞ。薪にするから心配ないよ」
「テキタイト!」
 巨木がスッパリと剣で切られたように倒れる。
 倒れている巨木に向かって、ソフィが声を上げる。
「テキスタイト!」

 何も起こらない。
「あ、間違えちゃった。テキスライト!」
 すると、巨木の表面に、弓矢で射たような大きな穴が開いた。2つの魔法を重ね掛けして、薪を作ったソフィ。
「さて、あとはどうやって運ぶか、よね」
「ヘリィの屋敷、シャーマタイト!」
 薪は一瞬にして姿を消した。
「これで帰った時に薪も帰っていたら、成功っと」

 そんな中、大叔父の私兵たちが森に近づいてきているのをヘリィは感じていた。
 ソフィは感じ取って無いようだ。知らせるべきだろうか。
 人間如きに取り囲まれたところで、別に小さな虫が寄ってきたのと変わりはないが、ソフィは突然目の前に現れたら驚くことだろう。
 しかし、避けては通れぬ道である。いつかは急な敵を目の前にする瞬間もくるだろう。今なら、自分が守ってやれるだけマシというところか。

 果たして、ヘリィはソフィに現状を伝えぬまま、魔法を続けさせていた。
 その時である。
 ガザガザッ、と樹がこすれ合う音と鎧の擦れ合う音が同時に聞こえた。
「誰だっ!」
 ソフィは急に皇女言葉に戻る。
「デルシエル!デルシエロ!」と叫んだ。
 すると、ソフィの姿は見えなくなった。

 私兵たちは、明らかに女の声を聞き、森を掻き分けながら進んできたと見える。
「おかしいな、こっちから女の声が聞こえたような気がするんだが」
「お、おい、ここって、入ったら戻れなくなるっていう森じゃないか?」
「馬鹿な。迷子になるだけだろう。目印を付けながら来たから大丈夫さ」
 私兵は2名。
「フローライト」
 ソフィが囁いた。
 森の暗がりの中、目を閉じていてもソフィには辺りがはっきりわかる。
 
 大叔父ドラヌル公爵の私兵なのは、鎧の文様で一目瞭然だった。
「テキスタイト」
 ソフィが小声で呟くと、ソフィの周囲を盾のようなオーラが包み込んだ。盾と同様の魔法だ。
 ソフィは、一呼吸おいた。

 大叔父ドラヌル公爵の手下。このまま、剣で貫きたい。そう思った。
 しかし、彼等を城内に戻さねば、この森が疑われる。弟が隠れ住み、ヘリィの屋敷もあるこの森を大叔父ドラヌル公爵の目に触れさせることは、断じて許されない。
 小声で呟いた。
「この2人の豚を、森の出口へ。シャーマタイト」
 2人の兵士は、その姿を消した。

 誰も見えなくなった森のなかで、ソフィは枯れかけた樹の枝を折った。そして、掌を向けた。
「シャーマライト、ハイパー」
 瞬く間に、枝は粉々になった。
 ハイパーは増幅魔法。
 声に出せぬやりきれなさと自分の無力さを嘆きつつ、枝に八つ当たりしたソフィは、思い切り枝を叩き壊した。今、下手に動けないソフィにとって、敵を刺激することは無謀に近いことだ。まだ、その時ではない。
 悔しいが、仕方が無かった。

 すっと背後から現れたのは、ヘリィだった。
「見事な捌きだった。魔法も含めて、ベストな選択だった」
「悔しかった。あの鎧を見ると血が滾るの。お父様とお母様の仇を討ちたいって」
「必ず機会は来る。その時まで、待つんだ」
「ええ。ね、ある意味実戦で疲れちゃった。ダークマスター、お願い」
「まだ余力があるよ。僕としては、セーブできるようにファントマスターの呪文を掛けたいくらいだ」
「あら、冷たいのね」

第3章  心の折れた魔女

 ヘリィから城下に行くことを許され、侍女たち白魔女を訪ねることにしたソフィ。

「うーん」
 考えあぐねている。
「やっぱり、これはちょっとねえ」
 白猫の使い魔が顔を出した。
「どうされました?ソフィさま」
「城下に行くんだけど、黒尽くめの衣装では目立つかなって」

「それより、その胸の方が目立ちますよ」
 ゴツンと頭を小突かれる使い魔。

「何か、いい方法ないかしら。洋服の種類云々じゃなくて、魔女だって気付かれない方法」
「デルシエルとデルシエロでは、いけないのですか?」
「ああ、そのための魔法よねぇ」

 出かける支度を始めたソフィに、ヘリィが小物を渡した。黒いケープと長袖のグローブ、そして前に黒のレースが付いた帽子だった。
「これなら、哀しみ事があったと思うだろう。胸も隠せるし、なるべく肌を隠した方が教会から目を離せる。教会の連中の中には、魔法を嗅ぎ分ける能力を持った人間がいるんだ。そいつに目を付けられたくないからね」
「ありがとう、ヘリィ」
「どういたしまして」
「じゃあ、笑いながら歩いちゃいけないってことだわね。神妙な顔つきで頑張るわ」

 ソフィが出かけると、ヘリィが、くすくすっと笑い出す。
「ヘリィさま、どうしたんです?」
「人間如きに、魔法を嗅ぎ分けられると思うか?」
「あ、そうですよねえ。あーあ。またソフィさまを騙しましたね」
「なんだ、人聞きの悪いことを言うな」
「要するにヘリィさまは、ソフィさまが城下で、にこにこと笑顔で歩いたり、胸を露出したドレスでお出かけになるのが許せないのでは?」
「お前、使い魔クビにするぞ」
「お、お許しを」

 また、陰で使い魔たちの井戸端会議が始まる。
「今日のヘリィさまときたら」
「それって、普通に人間の男が持つっていう感情じゃないのか」
「えーと。嫉妬。ヤキモチ。ジェラシー」
「ついにそこまでいったか」
 別の声がする。
「誰がジェラシーだって?」

 使い魔たちがビクッとしたまま、凍りつく。
 ゆっくりと後ろを振り返ると、ヘリィが鬼のような目をしつつ、口元に笑みを浮かべているではないか。
「ひえええええっっ」
「お許しくださいましっ」
「クビだけは、ご勘弁を」

 鬼の目のまま、ヘリィが黒猫の使い魔2匹に命令する。
「白魔女の下にいる使い魔から、今の城下がどうなっているか聞いてくるんだ。さ、行ってくれ」
「はいっ、ただいまっ!」
 黒猫たちはヘリィの前から姿を消した。

 ソフィの知慮や分別の能力に問題がないと分かっていても、ヘリィは落ち着かなかった。自分の目が届かないところにソフィが行くと、心配でならない。
 イヤな予感が頭を掠める。
 それが何を意味するのか、これから何が起こるのか。
 普段ならヘリィの能力で直ぐに脳裏に浮かぶのだが、暗示を投影することが出来ない。
 何かが邪魔しているのと考えるのが妥当だが、人間たちに邪魔立てできるような能力ではない。だからこそ、戸惑い、心配するヘリィだった。

 その頃、ソフィは城下に着いて、侍女たちを探そうとしていた。
 余り顔を見られたくないと身体を固くしていたため、行ゆく人にぶつかった。
「あ、すみません」
「いえ、どういたしまして」
 ソフィよりも背が高い。見上げると、綺麗な顔をした優しげな男性が微笑んでいる。
 頭を下げて、通り過ぎた。

 その後、ソフィは城下街の商人たちに、こっそりと白魔女の行方を聞いていた。
「エリーとポーラという白魔女を探しています。ご存知ですか」
「ああ、あの子たちか。この先の宿屋で下働きとして、潜んでいるはずだ。みんな助かるって誉めているぞ」
「教会から追われるようなことは」
「なあに、急病が出たときに宿屋の下働きに動いて貰っているって言えば、教会なんざ目もくれないよ」
「そうなんですか」
「今から行くなら、薬草をありがとうって言伝お願いするよ」
「はい、承知しました。こちらこそ、ありがとうございました」

 ソフィは、宿屋目指して小走りになって歩いた。いつも履いていない低い靴が、逸る心には、とても役に立つように感じられた。
 目指した宿屋は、直ぐに見つかった。

 足を止め、扉を叩こうとした。
 刹那。
 背後に何者かの視線を感じた。
 明らかに、誰かに見られている。
 教会が魔女狩りを行う際の目つきのような、危険極まりない視線ではない。
 かといって、信用に足るような相手とも思えなかった。
 その類の視線でもない。
 ああ、背後にいる相手の素性がわかるような魔法は無いものかと思案しながら、扉から離れた。
 万が一教会関係者だったら、エリーとポーラ、二人の元侍女に迷惑が掛かる。

「此処は一旦、森にお戻りを」
 使い魔の黒猫が足元に擦り寄ったのち、何処かに姿を消した。

「あーあ、残念」
 実際に会えず残念ではあったが、侍女二人の無事は確認した。
 ソフィは足早に森の方に向かい、ささっと後ろを向いた。
 誰もいないのを確かめ、素早く、リオーラの魔法で森にあるヘリィの屋敷に戻るのだった。

「ほう。素晴らしい利発さ、賢さ。そして何より、非常に美しいターゲットだ」
 ソフィの背後にいた男性が、うっとりとした声で呟いた。
 先ほどすれ違い、ぶつかった男性である。
 いや、見かけは男性、といった方が正しいだろうか。
 その名は、ミカエリス。
 天使でありながら悪行に手を染め、天界を追放された堕天使。男女という性別を持たないその身体は、獲物によって、その見かけを変えていた。
 ミカエリスが獲物=ターゲットと呼んだのは、紛れもなくソフィのことだった。
 一体、ミカエリスは何をしようというのか。
 ミカエリスの目的は、誰にもわからない。
 スクランブルに暗示を交錯され、ヘリィが感じ取れなかったのも仕方のないことだった。

 何か途轍もなく異常な視線を感じ、急ぎ屋敷に戻ったソフィ。
 へリィに報告しようと、屋敷内に入ろうとした矢先のことだった。
 若い女性がヘリィに従い、廊下を歩いて行くのが見えた。その向こうには、ダークマスターの部屋があるはずだった。

「儀式?」
 動こうとしても足が接着剤で固められたかのごとく、ソフィの足は思うように動かなかった。
 身体の動きもままならず、その場に立ち尽くしたままのソフィ。
 やがて、ダークマスターの部屋から女性の声が聞こえてきた。
 儀式をまるで愉しむかのように、甲高く、喘ぎ悶える大きな声。女性が口にするのも憚られる猥雑な言葉の数々。
 ヘリィの声は聞こえなかったが、もう、充分だった。
 聞きたくもない。でも、思い浮かんでしまう、その光景。

 ソフィの心の隅で、何かが「パキンッ」と砕けたような気がした。
 立ち尽くしたままだった足は、相変わらず動かせない。そのまま、そこに崩れ落ちた。
 どのくらい時間が経ったのだろうか。
 ソフィには、自分が儀式に与えてもらった3日3晩と同じくらいの時間が流れたように感じられた。
 儀式に来た女性の声は止んでいた。
 ソフィは、背後に誰かの気配を感じた。視線の善悪までは、わからない。
 たぶん、儀式を終えた魔女だろうと思った。
 まさか、こんな場所で座り込むところを見られるわけにはいかない。
「デルピエロ。デルシエロ」
 魔法で、姿を隠した。
 そう、見えなくなったはずだった。

「どうしたの?貴女も儀式を受けに来たの?ああ、怖いのね、なら家にお帰りなさいな」
 魔女らしき女性に、声を掛けられた。
「あ、はい」
「野望失くして此処に来てはダメよ。心臓を掴まれるんですもの」
 魔女は、魔法を唱え何処かに消えて行った。

 魔法が、効かなかった?
「クリスオーラ」
 身体は、ピクリとも移動しなかった。
「インペリアル!」
「サインぺリアル!」
 大声で叫んだが、魔法は発動できなかった。

 どうしよう。もう、もうダメ。
 折角結んだ契約も破棄になってしまう。弟たちも守れない。
 自分の心臓なんて、食われようが構わない。
 でも、折角ここまで来たというのに、弟たちが捕まるかもしれない。
 ぼろぼろと、涙が零れた。
 芝生の上に両手をついて、泣いた。声を上げて泣いたことなど、物心ついてからは記憶にないが、今日は嗚咽が漏れるほど泣きじゃくった。
 父母が亡くなった、あの時ですら、泣いている暇は無かった。弟を無事に逃がす方法を考えるので精一杯だった。
 でも、今はもう、心が折れそうだった。
 ヘリィも頼れない。頼ろうとした自分がいけなかった。
 生まれながらに、私は皇女であり、孤高の人間なのだ。
 なのに、どうしてよりによって魔王などを信じてしまったのだろう。裏切りに遭うことなど、百も承知だというのに。

 裏切り?
 いいえ、彼は、裏切ってなどいない。
 私が勝手に期待しただけ。
 期待したからこそ、期待外れの結果が悲しいだけ。
 ソフィは、本来の目的を思い出した。
 信頼など、期待など、私の人生にとって何の役にも立ちはしない。
 もう、魔法さえ使えないのだから。
 契約すら破棄しなければいけないのだから。

 どのくらいの時間があったのだろう。
 東から上がったはずの太陽は、オレンジ色の空とともに西に向いていた。
 ソフィの中で、やっと、心の整理が付いた。
 此処を出よう。
 弟のところにいって、武術の訓練をしよう。
 弟たちが心配だから白魔女を伴い自分が面倒を見る、と告げ、森の中に小屋を借りよう。
 今の自分にできるのは、それしかない。
 そして、いつの日か、父母の仇討ちだけでも果たす。
 大叔父とあの息子さえ殺めれば。
 弟が城に入れるか否かは、わからない。
 できることなら皇帝の座に就いて欲しいけれど、それは、私や弟が決めることではなく、民が決めること。

 泣きじゃくって真っ赤になった眼や、腫れてしまった瞼を見られないように、帽子のヴェールで顔を隠した。
 座り込んだ際の砂埃を素手で払って、グローブを付けた。
 さ、これが最後の挨拶。
 上手くやらなくちゃ。

 しかし、いざ屋敷に入ろうとすると足が震えた。
 ヘリィに逢うのが怖かった。
 顔を見られるのが怖かった。
 と、後ろから声がした。

「おや、ソフィヌベール皇女さま」
 ビクッとした。
 聞き慣れない声。
 大叔父の手の者か。
「いいえ、わたくしはドラヌルとは縁も所縁もありませんよ」
 背中で聞く声。ソフィは瞬時に悟った。
 今の私と大叔父の関係性が解る、ということは人間ではあるまい。
 それなら好都合というものだ。
 ソフィは振り返った。
「なんだ、お前は。わたくしの名を呼ぶ前に、己が名を名乗れ」
「これは失礼いたしました。わたくし、天使ミカエリスと申します」

 ミカエリスと名乗った男の目をヴェールの間から見た瞬間、ソフィは、城下でぶつかった男だと分かった。
 そして、昼間の背後からの視線もこの男だろうと目星を付けた。
 何故か分からないが、この男が味方という種ではないことも感じられた。
「何の用だ。此処は、お前の来る場所ではあるまい」
「皇女さまをお助けしたく参上いたしました」
「助けは要らぬ。己が場所へ戻るがよい」
「魔法が使えなくなっても助けが要らないと?武術だけで、少人数で何が出来ます?」

 見透かされていたか。
「今すぐに事を起こそうなどとは、考えておらぬ」
「わたくしがドラヌル大叔父の耳に、この森のことを言ったら、どうなさいます」
「脅しているのか?天使さまは人間を脅迫するために地上にいらっしゃるというわけか。ふん。そうなれば、それまでの運命ということ。私は生き恥など晒さぬ」
「魔女になど身を貶めることなく、他に倒す方法があるんですよ?」
「ほう。そんなに簡単な方法があるなら知りたいものだ。申し述べるが良い」
「それは」
「それは?」
「わたくしに付いて来てくだされば、お教えしましょう」

 どうやら、この男、何かの魂胆があるらしい。ソフィを何処かに連れ出すための張ったりのようだ。
「張ったりに付き合う暇はない。私は、嘘を最も好まぬ。ミカエリスとやら。覚えておけ」
「断じて、張ったりではありません」
「此処で言えぬなら張ったりと同じではないか。そのような戯言、聞く耳など持たぬ。帰れ」
「わたくしを信じてみませんか?皇女さま」
「生憎、信じるという言葉は、我が辞書にはない。下がれ」
「でも」
「下がれと言うのが聞こえぬと申すか。2度は言わぬ。消えろ」

 その時、地鳴りのような轟きが聞こえた。
 余りの地鳴りの激しさに、ソフィは立っていられず、またもや座り込んだ。
「ミカエリス、地獄へ。シャーマタイト!」
 ヘリィの放った魔法だった。
 ミカエリスは、その魔法を避けて空中浮遊していた。
「ヘルサタン、手荒な歓迎じゃないか」
「人の屋敷に不法侵入する奴など、これでも足りん」
「僕達は同胞のような者だろう」
「お前のような裏切り者と一緒にするなっ」
「裏切り、ねえ。皇女さまは、どうするんだろうね」
「どういうことだ。ソフィに何をした」
「別に。ああ、さっき、女の猥雑な声が聞こえちゃった。熱い儀式だったみたいだねえ」
「関係ないことでソフィを惑わすな」
「僕は何も言っていないよ。儀式を行った張本人はキミだろう?」
「お前に関係ないだろう。さっさと消えろ」
「皇女さまも傷つくよねえ。あんな声聞いたら。もう、此処にいたくないんじゃない?」
「これ以上何か言ったら、魔法では済まさない。今すぐに消えろ」
「でも、僕は答えを貰った。誰も信じないって。君もその中に入るみたいだよ。ふふふっ。ソフィヌベール皇女さま。僕の手をとりなさい。お待ちしていますよ」

 そう言い残して、すぅっと、ミカエリスは姿を消した。

 ヘリィがソフィの下に駆け寄った。砂埃に塗れたドレスの汚れを掃う。
「ソフィ!大丈夫か?」
「大丈夫。ちょっと吃驚しただけ」
 座り込んだソフィを起こそうとするが、ソフィは立ち上がれなかった。
 ミカエリスの言葉は、どうやらヘリィには意味が通じていないようだった。

 ヘリィが心配そうな顔で、ソフィを見る。
「何があった?ミカエリスに何を言われた?まさか、何かされたのか?」
「いいえ。大丈夫。いつも冷静沈着なヘリィにしては、珍しく敵意剥き出しだったわね」
「あんな堕天使、目の前にしただけでも腹立たしい」
「堕天使?」
「そう。あいつが何を狙っているか分からない。だから、用心に用心を重ねたい。あいつとは何かにつけ因縁があるんだ。ソフィ、キミを狙っているかもしれないし」
「魔女のひよこみたいな、あたしを狙ったところで何も得る物なんて、ないじゃない」
「キミは自分が皇女だということを忘れたのかい?あいつに誑かされて没落した貴族や、王家すらあるんだ」
「よくわからないけど、仲良くないのは解ったわ。城下で彼に会ったの。そのあと背後から彼の視線を感じて、不安になって戻って来たの」

「いつ戻ったの?」
 ヘリィに聞かれても、無言のままのソフィ。
 まさか、他の女性とダークマスターしている時間とは言えなかった。

「ああ、そうだ、ソフィ。魔法、使えるかい?ミカエリスは、その辺も長けているから」
「実は」

 ソフィは、全ての魔法が使えなくなったことを打ち明けた。
「なんてことだ。あいつ、背後から魔法を」
 偶然とはいえ、ミカエリスに遭遇させたことを後悔するヘリィの言葉に対し、ソフィは首を横に振った。
「視線を感じたあとも、魔法は使えたわ。全く使えなくなったのは、ここに戻ってから」
「じゃあ、何が原因なんだろう」
「あの、あの」
「僕としたことが。今日起こるべき事象をどうして読み解けなかったんだろう。まったく、今日に限ってこうだ」

 ソフィが、もじもじしている。
 ヘリィは、歩けないソフィを抱き上げ、家の中に向かった。
「まずは、砂まみれになった身体の埃を落さないと」

 此処を去る決意を告げなければ。
 弟たちや白魔女と暮らす小屋だけ借りれば、生きていける。
 もう、契約した身体ではなくなってしまったのだから。
 ひとつも魔法が使えないのだから。

 他の女性とのダークマスターに嫉妬した結果、と見透かされてしまうような気がした。
 ヘリィの能力で。
 でも、知られたとしても仕方がない。
 一度施されたダークマスターが消えたのだから。
 自分自身のジェラシーが引き起こした、大きなミスなのだから。

 ソフィは、やっとの思いで、喉元まで言葉を引っ張り出した。
「あの、ね。ヘリィ」
「なんだい?」
 使い魔にバスタブの用意をさせ、ヘリィ自らソフィの身体をチェックしようとドレスのボタンに手を掛けたときのことだった。
「たぶん、契約、もう無理だと思うの」
「どうして?」
「他の女性とのダークマスターの声が聞こえて、そしたら腰が立たなくなって、魔法が使えなくなっちゃった」
「え?」
「だから、その、これからも、そういう場面は何回となくあるでしょう。その度に魔法が使えないのでは、ヘリィのお荷物になっちゃうから。今日で暇乞いしようと思って」
 
 ソフィは、ヘリィに怒られ追い出されるか、最悪、命の保証も無いと覚悟しての告白だった。
 しかし、ヘリィの答えは違っていた。
「申し訳なかった、ソフィ」
 ソフィは謝られて驚くとともに、ヘリィのせいではないという自分の気持ちを伝えたかった。
「貴方のせいではないわ。謝らないで」
「いつも気丈に振舞い続ける皇女さまも、ジェラシーには弱かったんだね。さぞや心を痛めただろう」
「だって、屋敷に居候するっていうことは、そういうことだもの」
「キミに我慢を強いた僕が悪い。気付かない僕が甘かった」
「儀式を執り行うのが貴方の仕事でしょう。あたしが居なければ、そういう面倒も減るじゃない。だから」
「今迄、どうして気が付かなかったんだろう。もっと早く気付くべきだったのに」
「ヘリィは何も悪くないの。気にしないで」
 ボタンを外す手を止めて、ソフィを抱きしめたヘリィは、耳元で囁いた。
「ごめん」

 そして、使い魔たちにソフィの入浴とシャワーを手伝わせ、上から下まで綺麗さっぱりと砂埃やら何やらを落した。
 そして、何かを拾い上げた。
「やっぱり」
「何?」
「ミカエリスの羽」
「え?そんなものがあるの?」
「これで情報を収集するんだ。盗聴とか盗撮みたいな代物だよ。シャーマライト」
 羽は無残に引きちぎられ、ブチッと機械的な音がした。本当にそういう機械なのかもしれないと、驚いたソフィだった。
「おーい、お前達。ミカエリスの羽に気を付けて掃除してくれ。全部集めて、魔法で粉々に砕くから。それから、屋敷に強めの結界を張る。出かけるときは、解除術式を忘れるなよ」
「はい、かしこまりました」

 ヘリィは、掃除やバスタブ準備に加わっていなかった使い魔に声を掛けた。
「もう、準備はできたか?」
「はい、整っております」
「じゃあ、行こうか、ソフィ」
「何処に?私、まだローブしか着ていないわ。ドレスを着ないと」
「どうしてドレスを着る必要があるんだい?」
「此処を暇乞いするんですもの。まさか裸で追い出すことは、しないでしょう?」

 ヘリィは、こちらを見向きもせず、立ち止った。
 ソフィの手を握る力が強くなって、痛いくらいに感じる。
「誰が暇乞いを許した?」

 ヘリィの強い口調に驚いたソフィは、契約不履行の自分に、暇乞いなど許されないのだと悟った。なら、せめて弟たちだけでも隠して欲しいと願った。
「暇乞いが無理なら、受け入れるわ。でも、せめてデュール達だけは守って欲しいの。契約も果たせずお願いできる立場ではないけれど、私はもう、どうなっても構わないから」
 ヘリィの語気は強まる。握る手の力も、先程以上に強くなる。
「誰が出ていけと言った?誰がどうなっても構わないと言った?」
「でも。この有様だもの」
「さ、行くんだ」
「何処に?」
「ダークマスターの部屋だ。もう一度ダークマスターを行う」
 ソフィの目に、また涙が浮かんだ。
 先ほどのショッキングな、あの猥雑な響きが、再び頭の中をぐるぐると駆け巡る。
 足が動かない。
 腰が抜けたように、ふらふらになった。

「もう、あんな声を聞くのは嫌。頭から離れないの」
「ダメだ。僕はキミを離さない。キミが悲しまなくて済む方法を考える」
「だって、さっきも話したわ。貴方と他の女性がダークマスターしていたら、心がちぎれそうになるの。もう、ここには居られない」
「これからは気を使うよ。儀式がキミにわからないようにする。それでも嫌なら、儀式を止める。悪魔は僕だけじゃないから」
「そんなこと、頼めるわけがないわ」
「此処にいるのが嫌になったのか?僕は、キミと一緒にこの屋敷で暮らしたいんだ」
「奴隷だから?」
「意地悪な質問をしないでくれ。さ、儀式を始めよう」
 腰の立たないというソフィを抱き上げ、ヘリィは、ダークマスターの部屋に入った。
 
 今回のダークマスターは、3日3晩どころか、1週間以上も2人は儀式部屋から出てこなかった。部屋内外にも結界を張っているらしく、声すらも漏れ聞こえては来ない。

 ヘリィはざっとソフィの全身を見た。
「やっぱり。殆ど消えているか。本当に済まなかった。許してくれ」
「ううん、貴方は悪くないの。お願いだから、ダークマスターは、もう止めて」
「ダメだ。今回は本気でダークマスターを行うから。そのつもりでいてくれ」
 そう言いながら、ヘリィは、ソフィの身体を隅々まで眺め回した。
 最初のダークマスターでは、少しずつ身体を見られたから、恥ずかしさのボルテージも少しずつアップしていったが、今日はいきなり全裸にされた。

 ソフィの恥ずかしさは、マックスに達していた。
「ソフィ。最初のダークマスターでは、声を出さないように、我慢しただろう?」
 真っ赤になりながら、ソフィが頷く。
 耳まで真っ赤なソフィの右側に顔を寄せたヘリィが、優しく囁く。
「今日は部屋に結界を張ってある。どれだけ叫んでも、誰にも聞こえないよ」
「恥ずかしい」
「魔力を失うと、途端に恥ずかしがり屋さんになるんだな、ソフィは」
「お願いだから、はしたないことを思い出させないで」
「ダメだ。今日からキミは、僕の前でだけ、淫らで、はしたない女性になるんだ」
 ソフィの心臓から出ていく血が熱く滾る分、血が巡った箇所は見る見るうちに熱くなり、全身が小刻みに震える。
「寒い?」
「芯が熱いわ」
「さ、儀式を執り行おう」
「でも」
「もう、逃がさない。僕が良いというまで、此処から出さない。僕の総てを受け入れてもらうよ」
「ヘリィ」
「おいで。飛び切りのをあげるから」
 ソフィは、その目から涙が零れつつも、ヘリィの手を取らずにはいられなかった。

 瞼、耳の中、耳たぶ、唇、舌の裏。シャワーを浴びてさっぱりとした身体に、舌を這わせ、ゆっくりと呪文を記していく。それは、幾重にも重ねられた。
 勿論、最初のダークマスター同様、時にはあられもない体位に舌が這う場面もあった。ソフィは、只管我慢した。
「ソフィ。今日はどれだけ声を上げても構わないよ。でも、一番初めのダークマスターで必死に我慢していたソフィが、とてもエロティックだった。あの時は、僕も凄くゾクゾクした」
 そんな言葉を囁かれるたび、ソフィの身体は熱くなった。
 身体の熱さに比例するように、いくら我慢しようとも悶える声が洩れる。声を我慢しようとすると、ヘリィが我慢できないところを突いてくるのだった。
「声が出るの、お願い」
「どんな大きな声でも出して構わない。僕が出させてあげる」
「はしたなくなるから、言わないで」
「いいじゃないか。僕の前でだけ、はしたない声をあげてくれ」
 見える場所、見えない場所、総てにヘリィの舌が伸ばされた。
 体中に呪文を書き記すため、と言いながら、前回記さなかった場所にも舌は伸びた。
 どんなはしたない体位でも、呪文を施すまで我慢させられた。
 最初の3日3晩のダークマスターよりも、時間をかけて、ねっとりと、その行為は進められた。髪の毛が乾くと1本1本、舌で呪文を書き込まれた。
 その間にも、ソフィの口に時折ヘリィの舌が絡まる。呪文なのか、キスされているのかわからなかった。
 舌で呪文を記したのちも、爪で何度も同じ場所をなぞられた。
 感じやすいところを、わざと刺激された。
 ソフィの身体総てを、ヘリィは知り尽くしたようだった。
 最終日には、二人とも歩く体力すら残っていないほど、今回の儀式は念入りに行われた。

 使い魔たちは、二人がどうなっているのか、気が気でならない。
 なにせ、今迄、1週間も部屋から出てこなかったダークマスターなど無かったのだから。先日の3日3晩でさえ心配したというのに。
 ただ、中で働いている使い魔との交代時間があったので、中の状況は窺い知ることが出来た。

「ヘリィさま、超本気モードで突っ走っているよ」
「ここ何百年の間でも、こういったことは一度も無かった」
「飲み物が欲しいってご希望だよ。ソフィさまの分も」
「持って行かなくちゃ。喉も渇くさ」
「いやあ、儀式前のヘリィさまのご立腹と言ったら・・・」
「何?何?」
「誰が暇乞いを許した?誰が出て行けと言った?って」
「怖い」
「で、『もう、逃がさない。僕が良いというまで、此処から出さない。僕の総てを受け入れてもらうよ』だってー!」
「それって、愛の告白っていうやつじゃないのか?」
「わかんない。でも、本気に間違いないよ。一緒に住みたいって」
「そうそう。ソフィさまが嫌ならダークマスターを止めるとまで言い切った」
「止めたらどうなるの?」
「僕たちの食べ物が減る」
「お腹空くね」
「でも。ソフィさまの泣き顔見ていたら、本当に僕まで辛くなってしまったよ」
「何かいい方法はないものかねえ」

 そして、残された使い魔たちの井戸端会議が始まった。
「白魔女は元気だったのか?」
「ああ。使い魔たちも楽しそうに働いていたよ」
「それは何より」
「城下はどうなっているんだ?」
「ドラキャラによって、また税金の取り立てが厳しくなったらしい」
「ドラヌルだろ」
「どっちだっていいさ。税金の使い道が問題だ」
「何に使っているんだ?」
「まず、個人資産にインマイポケット。あとは、ブレーンの貴族がインマイポケット。最後に、これはソフィさまが爆発するな。周辺国へのご機嫌取りに、少女や子供たちを売り飛ばしているらしい」
「そりゃ不味い。今回のダークマスターでは、ちょっとやそっとのことで心が乱れない呪文を仕込んでいたみたいだから、ソフィさまのお怒り次第では、国が吹っ飛ぶ」
「森も吹っ飛ぶ」
「いや、困ったなぁ」
「国が吹っ飛ぶのは仕方ないとしても」
「森だけは吹っ飛びませんように」

第4章  堕天使の誘惑

 ミステリアス・フォレストに逃げ込んだばかりの頃、デュビエーヌ皇子はまだ13歳だった。
 スヴェル皇帝陛下とジェンヌ皇后陛下が相次いで自決され、その後、姉のソフィヌベール皇女に手を引かれ、何人かの従者たちとこの森に迷い込んだのは覚えている。

 そして、翌日突然、居場所を移すと宣告された。
 もう、ソフィ姉上の言っていた大叔父ドラヌル公爵に拿捕されたのだと、項垂れた記憶がある。ソフィ姉上を探したが姉上はおらず、自分だけが処刑台に上がるのかと、少年ながらに心に筋を通した。
 その後も処刑台にあがるような気配はない。大叔父ドラヌル公爵の手先に見つかった様子も見受けられない。
 今は、従者の者と何名かの者たちが、自分に武芸の道と、王たる者の進むべき道を説いてくれている。

 早いもので、あれから、5年の月日が経とうとしていた。
 デュビエーヌ皇子は、武術を磨きながら18歳になった。
 その心配の種は、一緒に逃げてきたソフィ姉上だけだった。
 5年前のあの日、従者が口走るのが聞こえた。
「悪魔と取引されるそうだ」
 その言葉が、未だに頭から離れない。
 悪魔との取引と言えば、心臓に手を入れられ、目的を果たした暁には、その動く部分を鷲づかみにされるとも聞く。

 暫く会っていないからこそ、ソフィ姉上に逢いたいと思った。森で世話になり始めた者たちに、聞いた。
「5年前にこの森に迷い込んだ皇女様の話を聞いたことがないか?」
「いいえ、ありませんよ」
「では、5年前に悪魔と取引した若い女性がいたという話は?」
「若い女性が魔女になりたいってのは日常茶飯事ですよ。何がそんなに恨みなのやら」
「そうか。もしもソフィという女性、いや、魔女がいたら知らせて欲しい」
「森を出ることがあったら聞いてみましょう。さ、訓練の時間です」
 武術を教えているのも、王たる道理を教えているのも使い魔たちだ。武術はまだしも、王たる道理など使い魔に解るはずもない。
 ヘリィに泣きつき、道理一式を喉に詰め込まれたという次第だ。
 余計なことを口走らない術も仕込まれていた。

 そんなある日のこと。
 いつものように訓練を終え、デュビエーヌ皇子が小屋に戻ろうとした矢先のことだ。
 
 デュビエーヌ皇子は、ある視線に気が付いた。
 違う方向からの2つの視線。
 すっと周囲を見回すが、人影は見えない。
 目を閉じ、神経を集中する。
 どちらも、今は敵意のある視線ではない。あるいは、魔法とやらで姿を隠しているのかもしれない。
 いずれ、従者以外は魔法も使える者たちだと聞く。心配は要らないだろう。

「片方は大丈夫。もう片方には、お気を付けて」
 黒い蛇が脇にいる。自分に話しかけたような気がした。通常なら忌み嫌うものと斬って捨てるところだが、リアリティな声だった。
「あ、そうか」
 もしかしたら、いつも自分を訓練してくれているのは、この黒蛇かもしれないと思った。
 何故かわからないが、そういう臭いというか、懐かしさというか、そういった優しさを心に感じた。

 デュビエーヌ皇子は、敢えて小屋には戻らず、その場に佇んで想いに耽った。いや、現状を読み解こうと考えを巡らせたのである。
 下手に小屋に戻って、住家を知らせるのは危険な行為だと、頭より最初に身体が動いた。

「片方は安全、か」
 これは、魔王と呼ばれる森の主が許した人間が此処にいることを示している。この森は、魔王の許しなく入った人間は生きて出られないと、5年前、噂に聞いたのだから間違いない。
 であれば、魔王の許しを得た人間、あるいは人間の類い、ということになる。
 魔女も入るとすれば、姉上かもしれない。それともまだ、姉上は人間として、この森のどこかに自分のように匿われているかもしれない。
 いつか、近いうちに会えるような気がした。

「問題は、もう片方だな」
 気を付けなければいけないということは、敵とは限らないが味方とは言えない。そんな人間に森に出入りする許可を、魔王が与えるはずもなく。
 生きて出られない森の、こんな奥深くに居合わせる人間など、まず信じるに値しないだろう。
 魔女や悪魔ならどうか。
 自分には判断が付かない。

 しかし、魔王の使い魔たちなら、相手が敵か味方か判るだろうし、同じように魔王が判別するはずだ。魔王を振り切って来たのでない限り。
 魔王を振り切って来たのだとすれば、相当の手練れであることは間違いない。それでも今はまだ、悪意のある視線ではなかった。
 あとは、向こうから姿を現すだろう。今も両側からの視線を感じる。

 突然、デュビエーヌ皇子はお腹を抱えて座り込んだ。
 その時だった。
「まあ、どうしたのです?」
 姉上、ソフィヌベール皇女の声がした。
 デュビエーヌ皇子は顔を上げた。
 あの日別れたきり、一度もその御姿を拝見することの叶わなかったソフィヌベール姉上が、今、目の前にいらっしゃる。総てあの日のままに・・・。

 そう。
 総て、あの日のまま。
 ドレスの色艶だけが、新品のように輝いていた。

 立って、デュビエーヌ皇子は剣を抜いた。

「お前は誰だ。どうして私を惑わす」
「どうしたの?デュビエーヌ皇子。私よ、ソフィよ」
「猿芝居を止めろ。5年前と今で、見目形が同じなど、あり得ぬ。ましてや、お前は私がソフィ姉上に差し上げたアレを持っておらぬだろう」
「アレ?」
「そうだ、私だと思ってお持ちください、と手渡したではないか。ソフィ姉上なら、忘れるわけがない」
 姉上の格好をした相手は、無言だった。
「どうした。言い返す言葉もないか」
「デュビエーヌ皇子。そもそも、何も手渡してなどいないではありませぬか」
「おや、ソフィ姉上。お忘れになってしまわれたのですね」
「嘘はやめなさい。それより、朗報を持ってきたのですよ」
「朗報?」
「そうです。一緒に、この森を出ましょう。大叔父ドラヌルを暗殺する機会が来たのです」
「どうやって暗殺を?」
「森を抜けてから教えましょう」

 デュビエーヌ皇子が一歩、ソフィヌベール皇女に近づいた。
 そして、剣の矛先をソフィヌベール皇女の頬に向けた。
「な、何をするの?おやめなさい。私は貴方の姉ですよ?」
「そうだ、ソフィヌベール皇女は、私が尊敬する姉上。姉上の名を語る不届き者はどんな素顔かと思ってな」
「兎に角、剣を仕舞いなさい」
「ソフィ姉上。昔から姉上は、そのような戯言など言わなかったではありませんか。私が剣を持てば、いつも指南してくださった。暗殺方法だって、実行直前に聞いても意味がない、と常々仰っていたはず。ミッションは常にリスクを負うもの。リスクを最小限にする手立てを幾通りも考えてこそ、作戦の成功もあると。さ。どんな作戦です?」
「森を抜けてからでないと言えません」
「そうですか。では、お一人でどうぞ。私はまだ、ここでしなければならないことがありますから」
「姉に刃向うとは」
「ご冗談を。私は本当のソフィ姉上なら、刃向いたりなどいたしませぬ」

 もう片方の視線は、ヘルサタン2世だった。デュビエーヌ皇子は見知らぬ相手を凝視するあまり、ヘルサタン2世が姿を現したのに気が付いていなかった。
「ミカエリス、お前の負けだ。立ち去れ」
 ヘルサタン2世を見て、デュビエーヌ皇子は5年前を思い出した。あの日、屋敷で出迎えてくれた主人だ、と。

「おや、ヘルサタン。ソフィのときとは、だいぶ態度が違うわねえ」
 ドレス姿のソフィ姉上に化けた人物が、突然可笑しな話し方を始めたので、デュビエーヌ皇子は背中がゾクリとした。
「ソフィの時は嫉妬に狂った目をしていたのに、今日はやけにクールだこと」
「黙れ、姑息な悪党風情が」
「ねえ、ヘルサタン。どうしてデュビエーヌ皇子さまは、わたしが本物でないと分かったのかしら」

 ヘルサタン2世が答える。
「デュビエーヌ皇子殿は、成長され、なおかつ聡明さも増した。そういうことだ」
 デュビエーヌ皇子が会話に交じってきた。
「ドレスだ」
「ドレス?」
「此処に来たとき、ソフィ姉上のドレスは裾がボロボロになっていた。最高級の絹であるにも関わらず、艶も無くなっていた。それが5年の月日を経て、元通り以上に蘇るわけがなかろう」
 ヘルサタン2世は腹の底から大声で笑った。
「なるほど。言われてみれば、そうだな」
「だから、最後にお渡しした物、とカマを掛けたのだ。そちらには引っ掛からなかったようだが。人間なら大概は最後の品、で本性を表すものだからな」
 ヘリィもミカエリスも、たった13歳のデュビエーヌ皇子が、あの最大の危機に瀕しそこまで観察し、なおかつ記憶に留めていることに驚嘆した。
デュビエーヌ皇子も、姉に負けず劣らず、高貴で知性に溢れる若者に成長していた。

「兎に角、ミカエリス。お前がいると邪魔だ。消えろ」
「つれないこと、ヘルサタン」
「今度ソフィを誘惑したら、ただでは済まさないからな。覚悟しておけ」
「こやつ、ソフィ姉上を誘惑したと申すか?」
「デュビエーヌ皇子殿。これはミカエリスという堕天使にございます。先日も仇討の機会と偽ってソフィヌベール皇女さまを連れ去ろうとしたのです」
デュビエーヌ皇子の目が、鬼のようにギラギラと光る。ある意味、ヘルサタン2世のそれを超えている。
「ヘルサタン2世とやら。どうすれば、このミカエリスという堕天使を成敗できるのだ?」

「あら、本気モードみたい。じゃあ、この辺で」
 またもや、ミカエリスは風のように姿を晦ました。

「恐れ入ります、人の能力にして、あの堕天使を滅ぼすには無理があります故、わたくしにお任せを」
「そなたと契約すれば、滅ぼせると?」
「デュビエーヌ皇子殿は、この国を背負って立つ御身。決して、契約などという言葉をお使いになってはなりませぬ」
「魔王は、対価がないと動いてくれぬのだろう?」
「通常であれば。デュビエーヌ皇子さまだけは、別格でございます」

 デュビエーヌ皇子は、俯いたまま、微動だにせず低い声を発した。
「別格とは、ソフィ姉上がそなたと契約した対価、ということか?」
「はい」
「では、大叔父ドラヌル公爵を倒し、国を再興するというソフィ姉上と私の願いが成就した暁には、ソフィ姉上はどうなるのだ」
「我が屋敷にて、お住まいいただく予定にございます」
「心臓を食らうという専らの噂だが」
「ソフィヌベール皇女さまの心臓には、触れておりません」
「そうか」

 ヘルサタン2世は、姉を心配するあまり打ち震えているデュビエーヌ皇子に告げた。
「5年が経ち、デュビエーヌ皇子殿も成長されました。その間、国は乱れきっております。反感を持つ貴族や民衆も多い現状にございます。近いうちに、ソフィヌベール皇女さまをお連れいたしますので、作戦を練られるのがよろしいかと」
「リスクは最小限に。ソフィ姉上がいつも口にしていた言葉だ。ソフィ姉上に伝えてくれ。お待ちしております、と」

 3日後。
 黒いポプリンのドレスを着た妖艶な美女が、デュビエーヌ皇子達の小屋を訪れた。
 女性を見た瞬間、デュビエーヌ皇子は椅子から立ち上がった。
「姉上!」
「あら、5年経って見かけも変わったでしょうに、良く判ったわね」
「そのお優しい眼差しだけは、変わりません。よくぞご無事で」
「デュビエーヌ皇子。貴方も立派に成長したわ」
「此処で密かに鍛練を積むことができたからです」
「先日は、ミカエリスに会ったそうね」
「はい。あの不届き者を始末したかったのですが、ヘルサタン2世殿に止められました」
「ミカエリスも人間ではないから。私たちが目指す獲物はただ一つだもの」

「はい。城下の様子も酷いと聞きました」
「私もたまに城下へ行って、情報を仕入れたり貴族たちに会ったりしているの」
「大丈夫ですか?お顔が知れる、などということはありませんか?」
「大叔父への考え方を、事前に使い魔に探らせているから大丈夫よ。私兵を借りないといけないし」
「民はどうです?」
「地下組織の義勇兵は、かなり集まったわ。あと少しで、計画を実行に移せる」
「医事はどうなっておりますか?怪我人を手当てせねばなりませぬ」
「白魔女にお願いしようと思っているの。民の間では重宝しているそうよ」
「武器は?」
「周辺国からの密売品を買うしかないわ」
「結構なリスクを伴いますね」
「こちらに鍛冶屋がいないし、銃も手に入らないから。そこだけが相当なリスクになるわね。密売品ともなれば、結構な値段を吹っかけてきそうだし。ま、魔法で奪う手もあるから、最後はそこね」
「場内は貴族の私兵、城下は義勇兵に任せると仰せなのですね」
「ええ。私が先導する」
「最大のリスクは?」
「義勇兵は大丈夫だけれど、私兵ね。万が一の場合は、魔力を使ってでも貴族を裏切らせる」
「大叔父ドラヌル公爵周辺は如何です?」
「警戒は厳しいわ。大叔父ドラヌル公爵とあの能無し息子のドラヌスは、私に任せなさい。貴方は、城を目指してちょうだい。やっと会えたのですもの。ゆっくりと、慎重に計画を詰めていきましょう」


 濃厚なダークマスターから、時間が経過していた。
 ソフィは朝食のあと何処かへ出かけてしまい、夕餉まで戻らないことが増えた。
 第一義的な目的は、デュビエーヌ皇子と会い、大叔父ドラヌル公爵たち失脚への道筋をつける計画の詳細を練ることにあった。
 また、そのために魔法を再確認し最大出力で使えるよう、訓練し調整することでもあった。

 あくまでそれは表面的な理由であり、尤もらしい目的だったが、総てではなかった。
 再び、他の女性へのダークマスターが儀式部屋にて開始されたのである。

 ソフィが嫌がるなら止めるとまでヘリィは言ってくれたが、まさか止めて欲しいとは言えなかった。成功報酬=契約対価が必要だからこそ行っている儀式を、ソフィ個人の感情だけで狂わせるわけにはいかない。
 本音を言えば、もう、2度として欲しくない。止めて欲しい。
 それが言えたら、どんなに楽だっただろう。

 ヘリィは毎回、何も言わずに呪文を掛けてソフィを眠らせてくれた。それでも、ダークマスター直前になると、ソフィは必ず目が覚めてしまうのだった。
 ヘリィがダークマスター部屋の内外にかけているであろう強力な結界も、何故かソフィには効かなかった。相変わらず聞こえる、猥雑な声や淫らな叫び。
 ソフィは、その度ベッドの中で嗚咽を洩らしながら枕に顔を埋めた。魔法を使えば、ヘリィに気付かれてしまうから、ただただ、部屋の中で泣くしかなかった。
 先日の強力なダークマスターのお蔭で、さすがに魔法の効力は失われなかったが、哀しくて、苦しくて仕方がないのだった。

 泣いた日、ソフィは必ず夕餉をキャンセルした。
 ヘリィに、泣き腫らした顔を見られたくなかったから。
 ヘリィは心配し、そのたび部屋に来てくれた。入室もドア越しの話も拒んだ。泣いてしまいそうになるからだ。
 そんなことが4、5回ほど続いただろうか。

 ヘリィが去ってから、また泣いていると、使い魔の黒猫が来た。
「ソフィさま。こちらを」
 そういって、ソフィにシルクのハンカチを差し出した。
 初めて此処に来た時、ダークマスター前に夢を見て、涙を拭き取ったシルクのハンカチだった。
 あのあと、総て処分されたものとばかり思っていた。
「魔女として生きるのだから、総て処分すると言っていたわ」
 猫の使い魔は、ヘリィが全てそのままに保管していることを話した。
「いいえ、ソフィさま。何もかも綺麗な状態で保管されているのですよ」
「どうして?最後にはあたしの心臓を食らうのでしょう?それまでの奴隷生活なのでしょう?」
「ソフィさまだけは違うのです。特別なのですよ」
 使い魔の一人が、あの日のドレスを持ってやってきた。
 他にも使い魔たちが集まってきた。
 
「今迄此処に来た魔女たちは、漏れなく、その対価として心臓の半分をヘリィ様に掴まれています」
「それで?」
「己の野望を遂げた暁には、残りの心臓をヘリィ様が掴みとるのです。対価の支払いとは、イコール=死、を意味しております」
「私も同じなのでは?」
「いいえ、心臓を掴まれた人間は苦しいのです。だから、楽しそうに笑うことはありません」
「そうなの?」
「はい。機会があったらご覧ください。皆、陰気な笑いです」
「あたしは、いつも楽しかったわ。此処に来て、心の底から笑えたもの」

 黒猫の使い魔が、くるりと一回りした。
「そこですよ。ソフィ様には、本来の顔だけを見せていただいているのです」
「ヘリィが、そうしているの?」
「はい。心臓をいただくつもりもないのです。弟君の世になったら、姉君として政を行ってもらうのだと、ヘリィ様は仰っていました」
「だって、対価を支払わないと。釣り合う対価って。私はもう、何も持っていないわ」
「ヘリィ様は、最初から契約の対価、それこそ対等な対価などお求めではなかったのです。我々も口止めされておりますので、大きな声では言えませんが」
「何がどうなっているのかわからないわ。じゃあ、対価は何?契約成立しているわよね?」

 使い魔たちが、一斉にウィンクする。
「ソフィ様の笑顔だけが、ヘリィ様にとっては唯一無二の対価、契約の対価なのでございましょう。くれぐれも、内緒にしてくださいまし。クビにはなりたくありませぬ」

 ソフィは漸く泣き止み、ハンカチを握りしめた。
 ドレスをクローゼットに仕舞った。
 着るつもりはなかったが、初めてヘリィに会った日の思い出として残しておきたかった。何もかもが始まった、あの日を思い出せるように。
 己自身の考え方を、いくらかでも切り替えることを心掛けた。
 泣き暮らすことではなく、別の道を探すために。
 そして、弟の下にに行くことを思いついたのだった。ダークマスターがいつなのか、知らされることは無い。だから、毎日森を彷徨う。
 
ヘリィは、たびたび夕餉をキャンセルするソフィの身体をひどく心配していたが、ある日、ソフィの初日着ていたドレスが消えていることに気が付いた。
使い魔たちに聞く。
「お前達。ドレスは何処に消えた?」
「さ、さあ?」
「じゃあ、質問を変えよう。なぜドレスが消えた?」
「そ、それは」
「じゃあ、また違うことを聞こうか。ドレスは誰かが着るために消えたのか?」
「それはございません!」
 ガン!ガン!ガン!
 使い魔たちはヘリィに雁首を掴まれ、拳骨の刑に遭うのだった。

 使い魔たちに説教するヘリィ。
「どうしてソフィに渡した。城内を思い出したら悲しくなるかもしれないのに」
「ヘリィ様が余りに鈍感だからですよ」
「僕が?いつ鈍感になったというんだ」
「まったく。ソフィさまのことになると、からっきしダメなんだから」
「どうして僕がお前たちにダメ出しを食らう?」

 使い魔たちは、ヘリィをじーっと見る。
「なんだ」
「どうして最近ソフィさまが何度も夕餉をキャンセルされたかご存じで?」
「具合が悪かったんじゃないのか?だからお前たちが入っていたのだと思っていた」
「ヘリィ様の能力は衰えていないのに、どうしてお解りにならないんです?」
「心配だけど、僕とは話したくないようだし」
「ヘリィさま。鈍感にも程がありましょう」
「夕餉の前に、貴方様は一体、何処で誰と何をされていらしたと?」
「ソフィには呪文をかけた。眠っていたはずだ。儀式部屋にも内外から結界を張ったぞ」
「そう思い込んでいたのはヘリィ様だけですよ」
「実は、毎回始まる前からずっと起きていらしたんです。結界も無駄でした」
「それは本当か?」
「そうですよ!魔法を使えばヘリィ様に知れるからと、我慢なさっておられたのです」
「泣き腫らした顔で夕餉に出るなど、出来るわけもないでしょう」
「ドア越しの面会を拒絶されたのも、泣きそうになるからだと仰っていました」
「止めて欲しくとも、我儘を口にされないのがソフィさまですから」
「あ、でも魔力に影響はないということでしょう。森に行って鍛練なさるということでしたし、弟君の下にもいらっしゃるとのことでしたから」

 ヘリィは、椅子にガッタリと腰を下ろすと、頭を抱えた。
「ソフィ。僕はどうしたらいいんだ」

 使い魔たちが、キーキー騒ぐ。
「対価もろくにとってないのに、屋敷に一緒に住むこと自体、ソフィさまが可哀想ですよ」
「確かに。他者とのダークマスターを聞かされるのは、ソフィさまにとっては拷問だ」
「心臓を握られていない状態であれを聞かされたら、普通なら病んでしまいます」
「でなければ、ダークマスターの場所を移動するとか」
「無理だろ。何百年続いた部屋だ」
「じゃあやっぱり、心臓を対価にすることですね。そしたら大丈夫でしょう?」
「他の男に見向きもしないような呪文まで使ってるし」
「他の男に取られたくないくらいご執心なご自分に、お気づきなんですか?」
「弟君の小屋に移っていただけたら、一件落着するんじゃないか?男とはいえ、従者だし」
「いや、従者だろうが男には変わりない。弟君の居ないときに襲われたら・・・」
「ソフィ様の魔法が一枚も二枚も上手に決まっているだろう?」
「いっそ、城下に戻っていただくとか」
「白魔女の宿屋なら安全ですしね」
「いずれ、手放されるのが賢明な策かと。お二人のためにもなりましょう」
「此処に留めおくのは、ヘリィさまの我儘でしかないんですから」
「そうだ、そうだ。奴隷が対価なんて、端から真っ赤な嘘なんだし」

「五月蝿いっ!」
 怒鳴るヘリィに対し、普段は文句のひとつも言わない使い魔たち。
 しかし、この日だけは違っていた。
 使い魔たちは、決して許しを請わなかった。
「ヘリィ様のバカッ!僕たちも言い過ぎたけど、一番可哀想なのはソフィ様ですっ!」
 そういうと、一斉に姿を消した。

 夕餉の直前になると、ソフィは屋敷に戻ってきた。
 ヘリィは、ソフィの顔を直視できなかった。
「ただいま。ヘリィ」
「ああ、おかえり、ソフィ」
「夕餉はまだ?お腹空いちゃった」

 使い魔たちが、ストライキを起こしている可能性がある。行って準備してもらわねば。
「様子を見てくるよ」
 ヘリィの元気の無さに、何かあったとソフィは当たりを付けた。
「あたしも行くわ」
 腕を組み、一緒に進む。やはり、いつものような快活な足取りではない。
「おーい、みんなー。あたしよ。今日は特別お腹が空いたの。ご飯ちょうだい」
「はいっ!ソフィ様!」
「それから、あたしの部屋にジャスミン茶を2つ準備してもらえるかしら」
「かしこまりました!」

 虚ろな顔のヘリィを引きずって、自分の部屋に入ったソフィ。
 まず、ヘリィを椅子に座らせ顔と目を見て、気の抜けようを計る。
 かなり重症のようだ。
 次に、頬や耳、手といった部分に手を宛がう。冷たい。常から熱くはないが。
 ジャスミン茶が運ばれ、使い魔たちが去ってから、ソフィは、ヘリィの右手小指に赤い糸を巻き付けた。
 同じように、自分の指にも。

「なんだかわかる?ヘリィ」
「これは、なに?」
「運命の糸なんですって。結ばれるように、離れないようにって。どうして赤いのかは、分かんないけど、心臓の色なのかもね」
「この国で、そういう風習は聞いたことがないけど」
「異国の風習みたい。足を結ぶっていうのが元々の由来らしいの。歩けないわよねぇ」
 ソフィが、笑ってヘリィの頬にキスする。作り笑いだと知っていた。
 
 その顔を見た瞬間、ヘリィの自制心がほんの少し、崩れた。
 ヘリィがソフィの腕を引っ張り、肩を抱いた。
 そしてそのまま、上半身に手を移し首筋や耳たぶにヘリィの唇は移動していくのだった。
 右手は小指同士が結ばれたまま。
 左手で、左胸を支えながらネッキングを続ける。
 ドレスの裾に手を伸ばそうとして、ヘリィは突然我に返ったようだった。

「済まない、ソフィ」
「いいの。哀しくないって言えば嘘だけど、必要な儀式でしょうし、あたしも森を歩いたり町に行ったり、することがあるから」
「もう、ここで過ごすのは嫌かい?」
「いいえ、そんなことないわ」
「デュール皇子のところに行くのか?」
「あそこは無理ね。男臭すぎて。シャワー浴びる場所も無ければ、寝るとき雑魚寝なのよ」
「じゃあ、城下に?」
「今が一番大切な時だから。チャンスを逃したくないの。一発で仕留めてみせる」
「此処にいるのが辛くないか?」
「今の時間から朝までは、儀式もないもの」
「だから毎日、朝から晩まで出歩いていたのかい?」

「だから、ほら。運命の糸」
 言い終わらないうちに、ヘリィがソフィの唇を塞ぐ。
「許してくれ。儀式を止めても良いなんて嘘までついて。実際には止められないのに」
「あたしは奴隷だもの、仕方ないわ」
「奴隷か。もしかしたら奴隷なのは僕かもしれない。キミの魂は崇高すぎて」
「貴方のような魔王様が何をいうの?契約によってあたしは貴方の奴隷になった。行く場所も当てもなく、居候を願い出た。それが唯一の真実よ」
「でも、泣かせてばかりいる。悲しませてばかりいる。どうしたらいいのかわからない」
「今迄どおりで構わないのよ。貴方の生活に差し障る様なら、今度こそ暇乞いするから」
「暇乞いなんて二度と言わないでくれ。僕はもう、今の生活しか考えられないんだ。どうすれば維持できるのか、それしか考えていないんだよ」
「契約終了までは、居候させて。もう泣かないから」

 ソフィが笑う。ヘリィは、無理に作り笑いを浮かべるソフィが愛おしくてならなかった。
 無理に笑う顔を見る度、ヘリィの心の箍は、いとも容易く外れてしまうのだった。
 再びベッドに座らせ上半身に手を伸ばす。今度はドレスのボタンを外し、胸の間に顔を埋めた。右手は小指同士が結ばれたまま。左手で、今度は右の胸を支えながら首筋から胸にかけて愛撫を始まった。
 ドレスの裾側に手が伸びてきた。ドレスが捲れ上がり全体に手は伸びる。今迄我慢していた声が、つい出てしまうソフィだった。
 はっ、と自制の心が戻ったヘリィ。
 ドレスを元に戻し、ボタンを嵌めて、ソフィの髪を撫でる。

「日中はどうしてるの?」
「攻撃魔法と補助魔法を中心に勉強しているから。何が一番効果的か、考えているの」
「雨の日は?風の日は?」
「絶好の機会が訪れる日に、風ひとつない青蒼穹とは限らないでしょう?雨や嵐、あらゆる想定をしないと」
「身体が冷えてしまうよ」
「弟たちも同じ条件で訓練させるから。あとは、何かいい魔法ないかしらね?身体がすぐに渇いちゃう魔法」
「どうしてそんなに自分を追い込むんだい?」
「言ったじゃない、あらゆるリスクを回避するって。あら、言わなかった?」
「そんなに自分を苛めないでくれ、お願いだから」
「ヘリィ。今、あたし最終局面に差し掛かっていると思うの。絶対に失敗したくないのよ」

 ソフィが自分を極限まで追い込み、何も考えないように訓練しているのが痛いほどわかった。
 申し訳ない気持ちと、ソフィの手を離したくない、その狭間でヘリィの気持ちは揺れた。
 争いにヘリィ自身が身を投じるわけにはいかないが、何か少しでも役に立ちたかった。
「僕に出来ることがあるかい?」
「お願いしてもいい?」
「なんなりと」
「ミカエリスは邪魔だから、どっかに飛ばしておいてちょうだい」
 思わず、ヘリィも笑いに釣られた。
「任せてくれ。あいつにだけは邪魔させないから」
「もう一つお願いしてもいい?」
「ああ。なんだい」
「白魔女を集めて欲しいの」
「わかった。他には?」
「成功を祈ってちょうだい」
「うん、必ず成功するよ。僕が保証する」

 使い魔が、皆に知らせる。
「ヘリィさまがね、奴隷なのは僕かもしれない、だって!」
「ヒャー!本音がでたよー。ソフィさまは?」
「気付いてないみたい」
「なんで気付かないかな、お互いに、ねえ」

第5章  蜂起

 弟が蜂起する日は近い。
 ソフィは、計画を抜かりなく実行できるよう、あらゆる手段を講じているつもりだった。しかし、不安は尽きない。
 その昼も、他の女性とダークマスターが行われていたが、それどころではなかった。
 ダークマスターが終わり、ヘリィが部屋から出てくると、ソフィは、顔を俯かせながらも、計画の実行について相談したいと持ちかけた。
「ごめんなさい。疲れているとは思うのだけど、どうしても心配なの。相談に乗って」
 ヘリィはソフィの肩を抱き、最後に、その頬に軽くキスしてから、ソフィを抱きかかえ自室に入る。

「心配事は何?」
「2つ。ひとつは、どのタイミングでデュールが城下に入るか。信用の出来る私兵がいれば別だけど、貴方の使い魔をお借りするわけにはいかないでしょう」
「使い魔を送ろう。彼等なら大丈夫。人間から逃れる術を学んでいるから、傷つけられる心配はない」
「ありがとう。では、お言葉に甘えて働いてもらうことにするわ」
「もうひとつ、あるんだろう?」

「地下組織にいる民への武器調達なの。各々である程度は剣や盾など準備してくれたようなんだけど、圧倒的に足りないの。あたしがひとりひとりにテキスタイトの術を施していては時間がないし、纏めて施しても隙ができるでしょう」
「ランダムにテキスタイトの魔法を掛けたら?あとは、デルピエロ。デルシエロの術が一番敵にとっては厄介かもしれない。見えなくなる魔法と、幻影の魔法だからね」
「地下組織はあらゆるところにあるの。すべてを回りきれるかどうか・・・」
「ドラヌル公爵とその息子、ドラヌスだっけ、二人への作戦は?」
「ああ、簡単よ。あらかじめテキスタイトの術を掛けておいて、強力な結界を張って周囲から引き離したうえで、少し誘惑すれば2人とも乗ってくるわ。そこでテキタイトとテキスライトを同時にぶっ放すの」
「誘惑するの?どうやって?」
「やあね、全裸にもならないしキスだってしないわ。胸と脚を少し見せれば寄ってくるのよ。あのスケベ爺たちは」
「こなかったら?」
「こっちからコスモオーラで真ん前に行くわ。どうしようもない時は、シャーマライト・ハイパーで城を爆発させるしかないでしょ。増幅に増幅させてやる」
 流石のヘリィも笑いが抑えられない。
「おいおい、弟君の入る居城が無くなってしまうよ」
「政なんて、どこでもできるじゃない。城は、あくまで警護が厳重なだけだもの。あたしは昔からデュールに話してきたの。贅を尽くすのと、民を安心させるのは違うと。城があるのは、万が一他国から攻められたとき民を匿うためのものだと」
「なるほど」
「弟には、万が一城が爆発するかも、って話はしてあるのよ。その時身を寄せる場所も確保してあるし」
「僕の姫君は、本当に男勝りで無茶苦茶だ。でも、世界で一番、恥ずかしがり屋ではしたない一面を持つんだね」
「ヘリィ!真面目に話している時に恥ずかしい言葉はだめよ」
「わかったよ」
 また、肩を抱き、今度は唇を重ねる。

「周辺国に信用できる国はないのかい?」
「信用という文字は、生憎あたしの辞書にはないのよ。でも、仲の良かった友人達ならいるわ」
「ひとつは、この国の南にあるネセス国を境に南西に位置するランドスペース国。お父様同士が仲良かったから、真面な国よ。今も国王さまと御妃さま、王子さまは、お元気と聞くわ」
「そこから武器の調達はできないのか?」
「わからない。私が皇女姿でお会いできたなら事情をお話しするけど、ネセスは大叔父ドラヌル公爵と懇意にしているの。もしランドスペースの援助が得られたとしても、陸上からの調達は難しい」
「シャーマタイトを使えば、すぐに地下組織に届く」
「魔女が行って『ソフィです』と名乗ったところで、入れてもらえやしないわ。魔女狩りに遭うのがオチだわ」
「もうひとつの国って、何処?」
「ランドスペースの東にあるルネスティ王国。ここもお父様同士が仲良かったから、真面な国よ。こちらも、国王さまと御妃さま、王女さまは、お元気なはずよ」
「ふむ。どちらもネセスがネックというわけか」

 ヘリィの脳裏に、ネセスを迂回してこちらへ向かう立派な騎士団と王族らしき人物の乗った馬車が見えた。旗は掲げていないが、国の色はスモーキィレモンだ。
「ソフィ。スモーキーレモンの国旗に覚えはないかい」
「ランドスケープ」
「そうか、ネセスを迂回してこちらに向かっている一行がいるようだ。直に着くだろう」
「大叔父ドラヌス公爵に会いに来たのではなくて?」
「なら、わざわざ迂回はしないだろう。国旗も立てていなかったし。たぶん、この国に入る前に色を塗り替えると思うよ。商人のふりでもするのだろうね」
「誰かしら」
「来ればわかるさ」

 それから1週間ほどが過ぎた。
 ヘリィは、その日予定されていたダークマスターをキャンセルし、他の悪魔に回したようだった。
 使い魔たちが、涙目で「ご馳走が」と口走るのを、笑顔と拳骨で宥めている。
「珍しいわね、キャンセルなんて」
「ま、まあね」
「出迎えに行ってみるわ」
「僕は中にいるから、必要なら呼んでくれ」

 と、そこに馬車と騎士団が現れた。商人のような見かけをしている。
 はて、どうしてここに?と訝るソフィ。
「ソフィ?ソフィだろう?」
 馬車から男性が2人降りてきた。こちらに駆け寄ってきて、交互に何度もハグされた。もう一人の男性は、妙に華奢な体型だった。
「あ?フェル?もしかしたらフェルなの?」
「思い出してくれたかい?キミのフィアンセ、フェルナースだよ!」
 部屋の中にいるヘリィの眉が、ピクッと動く。

 もう1人の、華奢な男性をじっと見る。いくら考えても、誰か思い出せなかった。ランドスケープ家に、男子は一人だけだったから。
「こちらは・・誰?」
「わたくしです、ルネスティのミルフィーネにございます」
「ミルフィ?大きくなったわ!いくつになったの?」
「15になりました」
「まあ、さぞや綺麗になったことでしょうね。本当のお顔が拝見できなくて残念だわ」
「あの、デュールさまは?」
「お蔭様で元気よ。今は別の場所で鍛練中だから出てこられないけど」
「デュールさまにお会いしたくて参りましたが、時をあらためますゆえ」
「ごめんなさいね。もしかしたら、あの約束、覚えていてくれているの?」
「あ、はい。わたくしの想い人はデュールさましかおりませんでした、5年以上前から」
「まあまあ。デュールも幸せものね。でも、お父上から反対されないの?」
「父上は、スヴェルジェンヌの再興を信じております」
「ありがとう」
「ソフィも、相変わらず美しいね」
「フェル、お世辞でも嬉しいわ」
「フィアンセにお世辞を言う男などいないさ」

「そこにいるだろ」
 ヘリィの独り事である。

「ヘリィ?ヘリィ?」
 ソフィの声が聞こえる。それでも、ベッドに頭を隠してしまうヘリィがいた。使い魔たちが呼ぶ。
「ヘリィさま。ソフィさまが御呼びですよ」
「具合が悪いんだ。少し休む」

 使い魔たちが、また噂する。
「さっき、フィアンセ!って叫ばれて、ヤキモチ焼いてるよ」
「ソフィさまの哀しみを考えたら、ヘリィ様のジェラシーなんて軽いもんだよ」
「自業自得だ」
「ソフィさまー。ヘリィ様は今日調子が悪いそうです」
「大丈夫かしら」
「大丈夫ですよ、仮病ですから」
「え?」
「いえ、何でも」
「お客様を持てなしたいの。シャワーの準備をして、騎馬隊の方々をご案内してくれる?」
「王族の方々は、如何いたしましょう」
「最初に大事な話があるというから、それを聞いてから疲れを癒していただきましょう」
「畏まりました。そのあと食事とベッドを手配いたしますので」
「お願いね」

 使い魔たちは、パタパタと仕事に向かって行った。勿論、人間の前では人間の姿である。
 応接部屋を借りることが出来た。
 隣にはヘリィの寝室がある。
 ヘリィも、話を聞いていてくれるだろうという安心感があるから、ソフィはわざわざこの部屋を指定した。

「ソフィ。提案があって僕たちは来たんだ」
「提案?」
「ネセスともども、今のこの国を滅ぼす計画だ」
「派手な計画ね」
「噂の域を出ないから、もし嘘だったら許してくれ。キミが魔王と契約し魔女になった、という噂が周辺国に流れている」
 ソフィは笑った。
「嘘よ、と言いたいとこだけど、本当よ。もう私は皇族ではないの。だからフェル、貴方が美しい方とご結婚された時には、本当に悲しかったわ」
「本当?」
「うふふ。昔から武術勝負しかしなかったじゃない、貴方とは。愛を語り合うでなし。どこかへ出かけるでもない。武術一本やりよ?」
「それでも、こんな才色兼備なキミと武術で勝負できるなんて、光栄の極みだったよ」
「ありがとう」
 隣室にいるヘリィの顔が、複雑になる。

「で、計画の内容を教えて」
「ネセスの軍隊は、決して統率のとれた軍隊とは言いかねる。そこで、僕たちランドスケープとルネスティが両側から攻めて、まずネセスを陥落させようと思う。そしてそのあとこの国に入り、城に向かおうという計画なんだ」

 これが罠だったら、ソフィの計画は儚き夢と散る。
 絶対に失敗できない。瞬殺の一撃でなくてはならない。
ヘリィの脳裏に浮かぶ暗示。
 ルネスティの様子は浮かんだ。武器の準備が進んでいる。ミルフィーネ王女はデュール皇子に恋心を抱いている様子も見受けられる。こちらは本物だろう。
 問題は、ランドスケープだった。
 暗示が読み取れない。なぜだろう。ルネスティを騙し討ちにして国を手中に収めようという計算か。ソフィへの協力申し出も、どうやら本物ではないようだ。
 心配なのが、ソフィが元フィアンセ殿を信じ切っていることだった。
 仕方がない。自分が悪役を買って出るしかあるまい。ヘリィはベッドから起きあがった。
 それにしても、ルネスだけが目的なのか、デュール皇子までもが標的なのか。読めない男である。いや、人間の心を読めなかったことなど今迄に一度も無かった。
 この男、何者だ?誰かがバックにいると考えれば読めない理由が解る。相手は、誰だ?
 バックにいる何者かの陰を探りながら、ヘリィが部屋を出ようとしたときのことだった。

 ソフィが、ランドスケープ国のフェルナース王子に尋ねた。
「フェル。今回の計画の、具体的な兵力と日数、兵糧、攻撃経路を知りたいのだけれど」
「え?」
 フェルナース王子は、何一つ、口にすることができなかった。
 ルネスティのミルフィーネ王女が話そうとした瞬間、ソフィはその口を閉じさせた。
「ミルフィ。バスに浸かってくるといいわ。疲れが取れるから」
「は、はい」

 ミルフィーネ王女さまを部屋から遠ざけると、ソフィは声を低めた。
「フェル。何が貴方を変えてしまったのかしら」
「なんのことだい。今から話そうと思っているところだよ」
「ミルフィのデュールへの恋心を逆手にとって、ネセスに寝返ったというわけ?」
「ば、ばかな」
「貴方、自分が今何処にいるのかわかっているの?単純な森じゃないのよ。森の主の怒りに触れたら、生きては帰れない。そういう場所よ、ここは」
「だから、今から話すよ」
「そう?じゃ、どうぞ」
「騎馬隊は1万。日数は10日ほど。兵糧は、兵糧は・・・」
「フェル。ちょっと無理な計画ね。確か、ランドスケープの全騎馬隊の数は3万。その3分の1を使ったら、自国が周辺国から攻められてしまうわ。2日で事を為すならまだしも。10日もかけてゆっくりしていたら、ランドスケープの国自体が無くなるのよ。兵糧だって、最初に考えるでしょう。簡単じゃない。最小でも、戦争日数×兵の数だもの。マックスが読めないのはわかるけれど。まったく、呆れたものだわ。ま、ネセスに寝返るのは仕方ないとして、ルネスティを我が物にしろというのは、誰の命令なの?」
 
 フェルナース王子は、答えなかった。
 ソフィは、しばらく思案していたようだったが、溜息をついて何かを呟き後ろを向いた。その時だった。フェルナース王子がソフィの心臓目掛け短剣を突き刺そうとしていた。 
 短剣は落ち、その場に砕けた。
「ヘリィ!」
 ソフィが叫んだ。
 そして、ソフィとランドスケープ国王子の前に、世界を牛耳る魔王がゆっくりと空中から姿を現した。
 威厳、畏怖、余りにも美しいその表情は氷のように冷たく、相手を見透かすようだった。
「ようこそ我が屋敷へ。わたくし、屋敷の主にして、魔王ヘルサタン2世にございます」

 余りの迫力に圧倒されたのだろうか。フェルナース王子は腰砕けのような姿勢になり、慄き震えながら後ずさりする。
「ヘリィ。ナイスタイミング。貴方が怒ると怖いのね」
 ソフィは、何処か他人事のように落ち着いていた。ヘリィは全く気付いていなかったが、ヘリィに対する全幅の信頼の証だった。
 
 ヘリィは、心底冷たいその表情と、深いフォレストグリーンの瞳。憂いを帯びながらも怒りのオーラが全体を覆っている。ただ一言、フェルナース王子に対し呪文を放つのみにて、静かな佇まいを見せた。
「ダークレムリア・ハイパー」

 途端にフェルナース王子は苦しみだし、水分を求めテーブルの茶器方面に這い蹲りながら進んで行く。
「どうやら、誰かが水に術を仕込んだか。水が欲しければ話せ。でなければ命はないぞ」
 茶器類を取り上げ、王子に水分を与えないヘリィ。
「ミ、ミカエリ、ス」
「なるほど、奴か。まったく。だから見えなかったというわけか」
 ヘリィは、フェルナース王子のその口に一滴、水を含ませた。
「ネセスに寝返る予定だったということで、よろしいか」
 王子は首を横に振った。
「それとも、ルネスティの王女が目的であったと?」
 今度は首を縦に振る。
「正妃にするわけでなし。なぜそこまで執着したのです」
「・・妃」
「そう。あなたにはれっきとした正妃がいらっしゃる」
「デュ・・ル」
「なるほど。ミルフィがデュールの妃になるのが許せない、そういうことでしたか」
 首を縦に振る。
「貴方は、デュール皇子失踪後に王女さまに申し込み、拒まれた過去をお持ちなのですね」
 
フェルナース王子は赤くなり、膝をついて顔を隠した。
漸く話せるようになっていた。
「だって、ソフィは僕を男として見てくれなかったし、ミルフィもデュールしか見てなかった。他に真面な女性なんて居なかったんだ。今の正妃だって、他に男がいるし」
「だからって、他の女性を寝盗るような真似は感心しませんね。今の正妃に威厳と優しさを持って接すれば、王子様を認めてくださることでしょう。今はただの男遊びに過ぎません。正妃は王子様に、正妃として接して欲しいのです。条件として、ソフィヌベール皇女を忘れて、ですが」
フェルナース王子の顔色は、益々赤みを帯びる。両手の爪先まで赤くなった。
「ソフィヌベール皇女を忘れておしまいなさい。さすれば貴方の未来も拓けますよ」

 あら。あたしが原因?と気づいたらしいソフィ。
「あたしは御呼びじゃないみたいね、席を外すわ」
「いや、ソフィ。残ってくれ。作戦を練り直そう」
「ヘリィ?」
「いいか、フェルナース王子は今、我が手の内にある。この調子だと、父母にも話していないだろう。それこそ、ソフィとデュールを助ける計画、と偽ってきたはずだ」
「で、どうするの?」
「こいつの国とルネスティから、地下組織への武器をシャーマタイトする」
「なるほど」
「そして、実際に騎馬隊を出してもらう」
「指揮は、誰が執るの?」
「ルネスティ軍は心配要らないだろう。問題は」
 項垂れている、フェルナース王子殿。
「フェルナース王子さま。少しの間、この屋敷でお寛ぎいただけますか?」
「え?僕を殺すのか?」
「まさか。書簡をお書きください。自分はこちらで手伝いをするから、騎馬隊5千と兵糧、そして将軍を派遣して欲しい、そういった旨の書簡を国王陛下あて認めていただければ。ミルフィさまにも同様の書簡をご準備いただく予定です」
「人質というわけか」

 フェルナース王子の馬鹿さ加減に呆れるヘリィ。
「さて、誰がそんなシナリオにしたのやら。ここから無事に帰りつければ、こんな書簡など必要もない。ネセスには情報が漏洩していますよ。ご存じなかったか?」
「誰も知らぬ計画のはず!」
「知っている奴がいるでしょう。ミカエリスです」
「なぜあの者が計画を洩らすのだ。得もあるまい」
 ヘリィは、諭すように話した。
「あの者は堕天使。俗世を引っ掻き回すことに至上の歓びを覚えるのです」
 さすがのソフィも、ほほぅという声を洩らしてしまった。
「ミカエリスの性格が分かった気がするわ」
 ヘリィが作戦を授ける。ここで反旗を翻すはずもない。言うなりになるだろう。
「ネセスの軍が貴方がたを捕縛しようとしています。ある程度の将軍が出てくるはずですから、本国の精鋭部隊を派遣し、討伐するのです。同時進行すれば、我が国からネセスに助けは出さないことでしょう。さすれば挟み撃ちに出来るというもの」
 しぶしぶと、フェルナース王子は書簡を認めることに同意した。ミルフィーネ王女に至っては、将来の夫と恋い慕う男性の一大事に繋がる決戦である、同意しないわけがない。

 廊下に出た、作戦の開始である。
「だから、ミカエリスにはついて行かないでくれよ」
「はあい」
「さ、武器類をシャーマタイトするぞ。おい、お前たち!町にいる使い魔に知らせてくれ」
「かしこまりました!ヘリィさま」

 武器類のシャーマタイトは、ヘリィの脳裏に焼き付いた情景を基に、難無く片付いた。
あとは、ルネスティとランドスケープからの応援部隊の到着を待つだけだった。
 ヘリィが逐次様子を確認していたので、ネセスの裏をかいた作戦展開を講じることが出来た。使い魔たちが、伝書バト宜しく現地に作戦命令書を運んでいたのである。
 ルネスティとランドスケープ両国は、ネセスを陥落させて、大叔父ドラヌル公爵たちが率いるこの地に進もうとしていた。
 国境付近で、休息兼兵糧補充と計画の進行状況確認にあたるソフィ。

 ネセスに潜んでいた白魔女たちに看護を頼み、また旧スヴェルジェンヌへと舞い戻る。
 スヴェルジェンヌ城内では、そんな動きなど露ほども疑っていない大叔父や諸侯たちが毎日のように宴に興じていた。

 作戦決行を明日午後に控え、デュール達は森の出口周辺まで降りてきていた。

 作戦決行の朝を迎えた。好天ばかりは、魔女の力でもどうにもならない。今にも、雨が落ちそうなどんよりとした空だった。雨ともなれば、足場が悪くなるのは必至。時間を要する闘いは不利と思われた。
 しかし、昼ごろから天気が回復してきた。
 これなら、陽の当たり具合によって相手の動きを封じることも可能だ。

 時計台の針が、午後3時を指す。
 あと、2時間。
 息を潜めて、そのときを待つ。
 
 使い魔たちの情報によれば、あと1時間ほどでランドスケープとルネスティの合同軍も城内に到着するという。
 あとは、約束を取り付けた貴族たちが、本当に城内から城門の錠をはずしてくれるかどうかだった。
 城門の錠を外してもらえなければ、ソフィ自身が叩き壊すつもりだったので力技の問題ではない。裏切りに遭うかどうかの鬩ぎ合いである。信用と言う文字を、言葉を、宮中で疑い通してきたソフィが、信頼に値すると判断できるかどうかの狭間にあった。

 あと30分。
 段々、陽が傾いてくる。
 戦いにおいては、陽を背負った方が、分が良い。風は凪。いや、いくらか森から城方向に向いた風が吹き出した。追い風の方がなおいいだろう。城周辺でその都度風の向きを調整すればいい。

 使い魔たちに、弟の状況を確認させ、また、合同軍と地下組織の状況を確認、報告させる。看護場所は地下組織内の隠れ家。白魔女たちの集合状況も良いと報告があった。

 あと10分。
 少し黒い雲が気になる。雨だけは、避けたい。神よ。父よ、母よ。我々をお守りください。雨が降る前に決着が付きますように。
 ソフィは宙に浮くから大丈夫だが、地上戦の兵士たちを思うと気の毒だった。

 ソフィの願いが通じたのか、黒い雲は消えた。

 あと5分。
 皆が所定の位置に着いた。
 こちらが鳴らす花火の合図とともに、城門が開くはずだ。

 何発かの花火の音。
 花火に紛れ、ギギ、ギギ、と重く響く音。
 城門が、中から開かれた。約束は違えられずに門は開いた。本格的な戦闘の始まりだった。

 ソフィは、コスモオーラを唱え城門の前に移動した。
 空中を飛び回り、口笛を吹いて、町中に城門開門を知らせる。

 クリスオーラを使いながら、城内をざっと確認した。味方になってくれた貴族たちが闘っていた。
 そこに、ランドスケープとルネスティの合同軍が到着し入城した。2手に分かれ、大叔父寄りの諸侯たちや城内の護衛を討って行く。

 町では、地下組織の一団が城下の憲兵団と戦闘に入った。
 そこに、弟たちの一団が加勢し、憲兵団を倒していく。城内で諸侯たちを相手にしていた合同軍の一部も憲兵団の戦闘に加わった。

 これで、城の陥落は間違いないだろう。
 残るは、二人。

 ソフィはコスモオーラで城に飛んだ。
 城内に入り、呪文を口にする。
「スピネル!ドラヌル!ドラヌス!」
 すると、ずるずるとみっともない格好でお腹を不恰好に晒した大叔父ドラヌル公爵と、その息子ドラヌスが、何か見えない力に引きずられるように姿を見せた。

「スピネード!」
 結界を張って、二人の逃げ場を失くす。
「この2人を城のバルコニーへ、シャーマタイト!」
 重すぎて、動かない。
 腹が立ってきた。ソフィは渾身の力を籠め、掌を翳す。
「この2人を城のバルコニーへ!シャーマタイト・ハイパー!」
 漸く2人の身体を、城下から良く見える場所に移動することに成功した。
 2人は結界の中で、おどおどとしている。
「だ、誰だ。魔女か?」
「知らぬだと?ああ、この顔は知らぬだろうな。声はどうだ?聞き覚えがないか?」
「もしや。ソフィヌベール皇女か?」
「ようやく思い出したと見える。さ、民の前で本当のことを話すがよい」
「な、なんのことだ」
「5年前の偽クーデターの詳細を、洗いざらい話せ」
「し、知らない」
「知らないと申すか?そうか、それなら、痛い目を見てもらうとするか」
「この、小娘が。お前が悪いんだ」
「父母の恨み。今日、此処で果たす。生きて出るなど、この私が許さん」
「俺は悪くない」

 大叔父ドラヌル公爵の呟きを背に、ソフィは大きな声で叫んだ。
「ダークレムリア」
 2人は息ができないようだった。
 このまま事切れるもよし、話すもよし。ソフィは、助ける気など全くなかったのだから。
 その時、森から城へ向かい、風が流れた。
 城から町全体に向けて流れたような気がした。
 ああ、ヘリィが町の人たちに聞こえるよう、音を増幅してくれたのだと思った。
「ダークレムリア・ハイパー!」
 大叔父の口から、途切れ途切れではあったが、言葉が発せられる。

「ソフィヌベール皇女を我が物にすれば、国が奪えると聞いて取引した。こちらに味方する諸侯と結託し、デュビエーヌ皇子は始末する気だった。そのことを皇帝に知られ、まず、皇帝を西門で自決させた。あとは、見つからない皇后を方々捜して、東門で自決させた。あとは簡単だ。女に溺れた皇帝と、贅を尽くした皇后に仕立て上げれば良かったから。問題は子供たちだった。姿を消したきり音沙汰がなかった。死んだと思った。その後は城に入り、税金をピンハネして、諸侯たちと分けた。気に入らない貴族や民衆は八つ裂きにした。貴族や庶民の若い娘や子供たちは、周辺国に身売りした。結構な金になった」

「バカヤロー!」
「この、ろくでなし!」
「八つ裂きにしろ!」
「娘を返せ!」
「父ちゃんを返せ!」
「お前のせいで、旦那は死んだんだ。返しとくれよ!」
 民衆の怒号は、膨らむばかりだった。

 その時、城と民衆の間に立った青年がいた。
 デュビエーヌ皇子、その人だった。

「私は、デュビエーヌ。先帝と先后の子。本日此処にドラヌルをはじめとした罪人たちを捕えることができたのも、皆さんのおかげと感謝します」
「皇子は死んだんじゃなかったのかい」
「あたしもそう聞いたよ」
「わたくしは、さる人物に匿われて何年かを過ごしました。大叔父からの刺客を何とか振り切り、大叔父を討ち横暴な政を止めさせるため、今日の日に備えてきました。みなさん、お怒りの気持ちはわかります。私も父母をあのような形で亡くし深く悲しみました。しかしここは、任せていただけないでしょうか。お願いします」
 デュールが頭を下げる。
「あんた、皇子さまが頭下げちゃいけないよ」
「お願いするときは頭を下げるものだと教わりました。どうか、私にご一任ください」
 
 先帝の皇子にいわれては、それ以上言える者は誰もいなかった。

 その頃ソフィは、大叔父とその息子を、どのようにしようかと迷っていた。首を晒し物にするなら、テキスタイト。木端微塵にするならシャーマライト・ハイパー。
 ヘリィの前では惑わせるなどと燥いで見せたが、実際、こやつらを前にして笑ってなどいられない。
 どうやってなぶり殺してやろうか、只管それだけを考えていた。

 デュールが城内の上に上がってくる。
 スピネードを張っているので中に入れない。
「姉上!その者たちを、どのようになさるおつもりなのですか?」
「晒し首など、処理する者が可哀想だろう。木端微塵にする。皆、下がれ」
「姉上!大叔父は『取引』と言いました!取引の相手を探さねばなりません!」
 もう、怒りに震えるソフィの耳に、弟や大叔父の言葉など聞こえていなかった。
 デュールのようにもう少し冷静になっていればその「取引相手」を知ることができたかもしれないが、ダークレムリア・ハイパーの呪文をしても口を割らないなら、それ以上の呪文はソフィにとっては無理だった。もう、これ以上内情を話はしないだろう。

 姉として、最後に弟デュールに向かって叫んだ。
「見るな!お前は血を見ない政をせよ!お前への最後の言葉だ!良き御世を期待する!」
「デュール、城の外へ。シャーマタイト」
 城の外に皇子を移動させ、ソフィは父母の仇を目の前に、壁と二人の間にもう一層の結界を張った。
「ドラヌル。ドラヌス。もう、消えろ。せめてもの温情だ、一瞬で消してやる」
「た、助けて」
「無駄だ。シャーマライト・ハイパー!」
 渾身の力を込めた。
 魔力が強すぎて、流石に周辺のコンクリートも吹っ飛んだ。言葉どおり、一瞬で、敵と追った大叔父たちは影も形も無くなっていた。

 終わった。呆気なく。
 呆然と空中静止したままのソフィ。
 急に、デュールの言った「取引相手」が気になった。そういえばそうだ。最初ヘリィに会ったとき、ヘリィと大叔父が契約したと噂で聞き、ストレート勝負した覚えがある。あの時は、やんわりと躱されたが。
 やはり、大叔父は誰かと契約若しくは取引していたに違いない。大叔父の望みは国家乗っ取りだっただろうが、それ以上に望みがあったのか、契約に関する一切を語らずに大叔父は逝ってしまったのだから。契約を交わしたであろう相手の名も、成功報酬すらも、大叔父たちが塵と化した今となっては、手がかりすら分からなかった。
 
 忽然と姿の消えた暴君に、人々の噂は色々だった。
 魔女が消し去ったとか、魔王が消し去ったとか。果ては、魔女が逃がしたという噂まで乱れ飛んだ。
 ランドスケープとルネスティ合同軍は、フェルナース王子とミルフィーネ王女を載せて国に戻っていった。ネセスを半分ずつ統治できることになった彼らにとって、今回の戦は身入りの良い作戦だったと見える。

 大叔父の政は貴族たち、そして何より民衆の反感をかっていた。陰では、前回のクーデターを悔やむ貴族すら、大勢いたほどだったという。
 程なくして、先帝の若君、デュビエーヌ皇子を中心とする新たなる政を、との気運が高まり、デュビエーヌ皇子は再び城に招き入れられることとなった。
 しかし、そこにソフィヌベール皇女の姿は無かった。

 デュビエーヌ皇子が城に入る当日、見送りの民衆が沿道を埋め尽くす中、ソフィがいた。
「姉上」
 デュビエーヌ皇子は馬を降り、歩き出し姉に話しかけようとしたが、遠くからソフィは首を横に振った。
「良き御世になりますよう、お祝い申し上げます」
 デュビエーヌ皇子から離れた場所で、あの日のシルクのハンカチだけを臣下に渡し、深くお辞儀をするソフィだった。
 そのハンカチをわざわざ臣下から受け取ると、デュビエーヌ皇子は馬に乗り、前を見た。手には、ハンカチをぎゅっと握りしめていた。
 デュビエーヌ皇子は、表立って教会と対立しないよう、白魔女たちにも優しくしてくれた。
 その後、国ではデュビエーヌ皇帝が即位し、その御世が始まった。
 間もなくして、デュビエーヌ皇帝は、ルネスティ王国のミルフィーネ王女を后に迎えられた。
 スヴェルジェンヌ国を挙げた挙式ではあったが、皇帝と皇后の意向もあり、贅を尽くした結婚式ではなく、威厳を保ちながらも、式典やパレードは質素に執り行われたという。
 そしてスヴェルジェンヌ国は、安寧の時期に入ったのだった。

「ね、ヘリィ」
「ん?なんだい」
「奴隷契約って、いつまでなの?」
「ああ。そうだ、ごめん。用を思い出した」
 そそくさと居なくなるヘリィ。
 奴隷契約は、いつ効力を失うのだろうか。
 ヘリィに聞いても、常に茶を濁す返事しかない。
 当初の目的を果たした今、魔女として行うべき何物も無く、ソフィは毎日安穏と暮らしていた。

 そんなとき、ヘリィが自分に催眠の呪文をかけたことを知った。
 ヘリィがまた、新しい魔女候補にダークマスターを行うのだ。当然、眠れるわけも無く、かといって、以前のように泣き叫ぶでもなく。
 それでもソフィの心に、哀しみや嫉妬の気持ちが渦巻いていたのは確かだった。
 もう、泣きたくない。
 もう、我慢も嫌。
 ヘリィに知られるのを承知で、町へ向かってクリスオーラした。白魔女の宿屋で侍女たちの様子を確認したり、城の周辺を回ったり。
 夕方まで方々を見回り、屋敷には戻らなかった。

 森の屋敷内では、ダークマスターの最中ソフィが魔法を使ったことを感じたヘリィが、儀式もそこそこに、狼狽した姿を見せていた。
 使い魔たちに聞く。
「ソフィはどこに?まだ戻らないのか?」
 近頃の使い魔たちは、ヘリィにとても冷たい。
「知りませーん」
「もう、帰ってこないかもしれませんね」
「ああ、お城に戻ったかもしれませんよ」
「ですよね、安寧の御世が始まったんですから」
「本当にクビにするぞ」
「その時は、ソフィ様について行く覚悟ですから大丈夫でーす」
「ヘリィさま、もう、契約解除の時期でしょう」
「まったく。自分勝手なんだから」

 夕方、やっとソフィは屋敷に戻った。
「ただいま」
「ソフィ。何処に行っていたんだ?」
「町とか、城の周りとか」
「出かけるときは誰かに言ってくれ。心配じゃないか」
「みんな忙しいでしょう。ダークマスターだもの。それに、ただの奴隷に、屋敷のみんなが気を遣う必要はないわ」
 それだけ言うと、ソフィはほっぺを膨らまし部屋に篭った。
 ヘリィも、項垂れて自室に篭ってしまった。

 使い魔たちが、なんだかんだ言いながらも頭を抱えている。
 自分達の雇い主であり、忠誠を誓うべきは、当然ながらヘリィである。何のために儀式が行われているかも当然理解している。
 ドラキャラじゃあるまいし、血が無ければ、心臓が無ければヘリィ自身が老いてしまうわけでもない。ヘリィ自身の能力が衰えるわけでもない。
 総ては我ら使い魔たちが元気でいられるようにという配慮だ。

 さりとて、ソフィに何の落ち度があろうか。
 儀式の理由を知っているからこそ、ソフィは何も言わない。
 損所其処らの女性なら駄々を捏ねているだろう。どちらが大切なのか、と。
 皇女たるが故に、当然のように配下の者にまで気を配るソフィ。その気持ちが痛々しいほどに解るから、可哀想でならなかった。
 
 どちらの味方、というわけではないものの、ヘリィの鈍感さには呆れるばかりの使い魔たちだった。

「ソフィ様、ジャスミン茶をお持ちしました」
 使い魔の声を聞いて、ドアを開ける。
「ありがとう」
「後程、夕餉の支度をいたします。今日はお一人でお召し上がりになりますか?」
「そうね、誰か、付き合ってちょうだい」

「ヘリィ様、ジャスミン茶をお持ちしました」
 こちらも使い魔の声を聞いて、ドアを開ける。
「ありがとう」
「後程、夕餉の支度をいたします。今日はお一人でお召し上がりになりますね?」
「お前、それはないだろう。せめて、ソフィを説得するとか言ってくれよ」
「絶対に無理です」

 夕餉が運ばれたソフィの部屋。使い魔たちも一緒に食べていた。
 このように、使い魔たちが一緒に集い食べるときもある。ソフィは、夕餉は楽しい方が良いと、使い魔たちも一緒に食べられるようヘリィに進言してくれたのだ。

「ねえ、あなたたち」
「なんでしょう、ソフィ様」
「あたし、どうしようか迷っているの。もう此処を出るべきなのかなって」
「此処を出て、どちらにいらっしゃるというのです」
「地下組織とかも、結構目立たないのよ。魔女もいるし」
「比べたら分かってしまいます。ソフィ様の心臓は、まだそのお身体に健在なんですから」
「そうですとも。他の魔女はみな、心臓を掴まれているのですから、訳が違います」
「じゃあ、他の悪魔の下に行く」
「それこそ、心臓を掴まれてしまいます。もう其処までの願いなど無いでしょう」

 ヘリィは、使い魔たちも誰一人居らず、夕餉どころではなかった。
「みんなで、何を話しているんだろう。ソフィが此処を出たいと言っているのか」
 頭を抱える。
「それだけは嫌だ。何か方法がないものだろうか」
 ぽつんと、独り言まで言う始末だった。
「もう、儀式さえしなければいいと分かっているんだが。男だけじゃ不味いし。若い女だと使い魔たちも良く働いてくれるし、な」

 その夜のことだった。
 ベッドに入ろうとローブに着替えたソフィは、部屋の中に視線を感じた。
「ミカエリス?」
「ご名答」
「ストーカーで訴えるわよ」
「大丈夫、そういう時は女性になるから」
「ああ、デュールの前では女だったそうじゃない」
「そ。見目麗しい男性にも女性にもなれるから。ある意味、ヘルサタンよりお買い得」
「お買い得じゃなくて、安物買いの銭失いっていうのよ」
「おやおや、それは手厳しい」
「そう思うなら、ヘリィが来る前に消えてちょうだい」

ミカエリスが、にっこり笑ってソフィに近寄ってきた。
スルスル、と逃げるソフィ。
「何の用?」
「じゃあ、ひと言だけ。人間に戻って皇女になりませんか」
「え?」
「ダークマスターの度に心を痛めておいででしょう。陛下に知れたら、連れ戻されますよ」
「うん。確かに」
「これは、嘘じゃないですよね?」
「嘘ではないけれど、契約期間が残っているから」
「知っているんですよ、契約の内容」
「なんのこと?」
「心臓なんて掴まれていないし、奴隷と言っても一緒にいるだけ。魔法を習っただけでしょう」
「それで?」
「契約の対価なんて、どこにも有りはしない。二人とも認めていないようですが」
「奴隷契約は奴隷契約よ、ご主人さまがいるもの。心臓は知らない。いつでも食えるでしょう」
「もう、ヘルサタンのところを去れる条件は揃っているのに、どうしていつまでも」
「あたしが魔女だから。それが総ての答えよ」

 ミカエリスは、引き下がらない。
「本当のことを話したときの、陛下のお顔が楽しみですよ。今度こそ、話しますよ」
「陛下は貴方の言葉などお信じにならないわ」
「どうしてそう思うのです」
「だって、陛下には姉などいないんですもの」
「貴女が姉上でしょう」
「あたしは魔女。陛下の周囲には、忠誠を誓う騎士や兵隊、貴族や民が沢山いるから」
「なぜ、名乗らないのです?」
「言ったじゃない。陛下には魔女の姉など、いらっしゃらない」

 ソフィは、ミカエリスをじっとみると、一つだけ尋ねた。
「貴方はダークマスターのような儀式を行うの?」
 うふふ、とにこやかに笑うミカエリス。
「僕には必要ありませんから」
「うらやましいわ」
「じゃあ、僕と一緒に行きませんか」
「行かない。嵐が巻き起こりそう」

 と、嵐のような音がする。
 たぶん、ヘリィだ。
 廊下の戸を開けて叫ぶ。
「ヘリィ。もうお帰りだそうだから、落ち着いて」

 ミカエリスに向かって、手を振るソフィ。
「さ、今日のヘリィはとても機嫌が悪いの。帰った方が無難よ」
「そのようですね。じゃ、御暇しましょう」

 ミカエリスが消えた瞬間と、ヘリィが姿を見せたのは、殆ど同時である。
「今、いただろう。奴が」
「スカウトされたわ」
「スカウト?」
「皇女に、だそうよ」
返事がない。
また狼狽し始めた、ヘリィ。
本来はそのはずだった、と使い魔たちが言っていたのをソフィは思い出した。
「陛下に魔女の姉など、いらっしゃらないと答えたけど」
 また、返事がない。
 約束を破ったと思い込んでいるのかもしれない。
 それでも、選んだのはソフィ自身だ。
 城に入ることもできたかもしれない。
 魔女という肩書をもみ消すことが出来たかもしれない。
 ヘリィほどの魔王なら、身体から呪文を取り除く術を知っているかもしれない。
 しかし、契約して魔女になったのは事実なのだ。
 心臓がどこにあろうが、今の自分は魔女なのだ。
 それだけが、唯一の真実。

 でも、悔しいから、言っちゃえ。
「ダークマスターの度に凹んでいるのは、見透かされているみたいね」
「そうか」
「奴隷契約だし。契約期間が終了したら教えて。何処かに消えて、ひっそりと暮らすから」
 ヘリィがまた、ソフィを抱きしめる。唇を奪い、ローブの間からその胸に手を伸ばし、
ソフィの身体を熱くする。
 その手は、段々下へと移動していく。
「キミは意地悪だ」
 熱くなったソフィの身体は、言葉を発することができない。
「ソフィ、キミは僕が一番悲しむ言葉を、いつも平然と言ってのける」
「ヘリィも、あたしが一番悲しむ行動を、いつも、平然と」
 ソフィは、話すのがやっとだった。
「僕は平然となんて行っていないさ。だからいつも呪文だってかけているのに」
 また、唇を重ねて熱を冷ます。
「そうね。貴方は悪くない。いつも気にかけてくれる。嫉妬する自分が一番嫌い」

 ソフィの眼には自然に涙が滲み、目の前がぼんやりとする。
「泣かないで。僕はもう、どうしたらいいかわからない。ダークマスターは僕等の命にも等しいけど、使い魔さえいなければ、ダークマスターなんてもう、したくないんだ」
「だめよ。あんなに良く働いてくれるんですもの。大事にしないと」
「でも、キミの涙を見るのはもっとつらい」
「今更もう、『大丈夫よ』なんて嘘はつかないわ。哀しい、嫉妬してしまうし、最悪な自分に気が付くの。だからせめて、その時間だけでも放浪させて、お願い」
「わからない。そのままキミが遠くに行ってしまうような気がして。いいよ、って答えられない」
「必ず戻ってくるから」
「それでも、答えられないんだ」
「貴方には未来が見えるのでしょう?ネセスの辺りから気が付いていたの。だから、安心して。必ず戻るから、ね?」
「近頃スクランブルな暗号が渦巻いていて見えないときがある。尚更心配なんだよ」
「じゃあ、この森の中ならいいでしょう。デュール達の小屋を開けて」
「あそこは本来、特別な儀式が執り行われる小屋なんだ」
「そうなの?あそこなら雨風凌げると思ったのに。大事な小屋だったのね」

第6章  ミカエリスの正体

 王室再興を皮切りに、人々が安心できる国を創るというデュビエーヌ皇帝陛下の政は、一部反対勢力はあったものの、貴族や民から概ね支持され軌道に乗りつつあった。

 駄々を捏ねるヘリィを宥めながら、ダークマスターのある日は、時折他の国々まで行けるほど、ソフィの飛行魔法は威力を増していた。
 駄々を捏ねる度、ヘリィは体調を崩した。自分のせいだと心では詫びながらも、ソフィは屋敷に留まる事が出来なかった。

 元ネセス国周辺は、現在ランドスケープ王国とルネスティ王国の領土になっている。元フィアンセのフェルナースも、皇太子となり国王陛下を補佐していると聞いた。
 自分が行けば、皇太子妃の機嫌を損ねるだろうと、ソフィは訪問を遠慮している。

 そんな折、旧ネセスに住む商人たちから妙な噂を聞いた。
 ドラヌル大叔父が、悪魔と契約していたという話だった。
 城から逃げる最中ヘリィに会いに行く直前に聞いた噂や、大叔父たちを誅殺した際に、取引という言葉を耳にした。ヘリィは他の悪魔だと言ったけれど。

 大叔父が悪魔と契約したとするならば、その対価は一体、何だったのだろう。
 
 興味が湧いた、というより、魔女の対価が心臓であるのに対し、殿方の対価は何なのだろう。大叔父が消えた今、深く考えてもいなかった。
 ただ単純な好奇心があるのみ、である。

 魔女ということを伏せ、商人たちに近づいた。
「ねえ。悪魔って男女問わず契約できるの?」
「おや、興味があるのかい?魔女にでもなろうって腹か?」
「そうねえ、魔女になるには心臓を差し出すって聞いたことがあるわ」
「そうそう。願望叶ったら、あの世行さ」
「殿方は、何を対価にするのかしら」
「そりゃあんた。男は狩りの動物だからな、獲物さ」
「獲物?」
「契約した悪魔が狙う獲物だよ。ご婦人とか、時に寄っちゃ、ライバルの悪魔だとさ」
「あら、怖い。ご婦人方も気を付けないといけないのね」
「あんたも気を付けな。そんなに高貴な顔立ちなんだ、獲物にされて魔女にされるぞ」
「じゃあ、逃げなきゃ。ありがとう」
 立ち止まって、後ろを向いたソフィ。また商人たちの顔を見る。
「ね、悪魔って何処に行ったら会えるの?」
「おいおい、魔女になるのかい?やめときな。悪いことは言わねえから」
「そうさな。森にいることが多いらしいぜ。ミステリアス・フォレストの魔王は有名だ」
「若い悪魔だと、方々の森を拠点にしてるとか聞くけどな。何処って言う国までは知らねえな」
「ルネスティにもランドスケープにもいるって話だ。周辺の森なら、いるだろう」
「兎に角、あんたは若くて綺麗なんだ。真っ当な人生歩みな」
「嬉しいこと言ってくれるわ。ホントにありがとう」

 ソフィは物陰に隠れると、リオーラで森に戻った。
 ダークマスターの厭らしい声は、まだ屋敷内に響いていた。どうしてみんな、あんなにはしたない声で叫べるんだろう、と苦々しい思いが募る。
 我慢して屋敷に入るつもりが、やはり腹立たしくなってくる。
 仕方なく、再度クリスオーラして城下に飛んだ。
 城下からクリスオーラで街を浮遊しているとき、森の方で何かが光ったように感じた。
 屋敷とは別方向だが、何か、良くない予感がしたのは確かだ。

 近頃、居場所がないソフィに名案が浮かんだ。
 弟たちが使った小屋に行けばいい。
 物を片付けたりする移動魔法、ファルサや要らない物を消すファルサスなら何とかなるかもしれない。囁く程度にしないと小屋が吹っ飛ぶ可能性があるが。
 あ。でも。
 あの隠れ家は、通常ヘリィの呪文で場所を封印してある。
 ヘリィさえ許してくれれば、ダークマスターの日はそこでのんびりできるのに。
 こうなったら、適当な場所にテキタイトで樹木を切って、小屋が作れないかしら。
 もどかしい思いとダークマスターへの哀しみを胸に、ソフィは街の中を浮遊し続けた。

 浮遊する中、はっとした。
 森に誰かいる気配がする。
 どろどろとした気配を消しもせずに、誰かが移動しているようだった。
 人間ではない。ヘリィが人間を入れるわけがない。ましてや、ダークマスターの最中とはいえ、知らない輩を森に入れるだろうか。ダークマスターだからこそ、普通なら結界を張るはず。結界を超えて森の中を歩き回るなど、一体誰なのか。

 急いで森に戻ったソフィ。気配のする辺りに降り立った。その時、気が付いた、ここは先程閃光を感じた辺りだ。
「テキスタイト」盾の魔法に、
「デルシエル」姿を消す魔法を重ね掛けして
「デルシエロ」幻惑魔法を3重掛けする。
 同系統の魔法は、重ね掛けしても干渉し合うことは無い、とヘリィに教わっているし、以前大叔父の手下を撃退した時に確認済みだ。
「フローライト」
 4つの魔法を重ね掛けして、息を潜めた。
 相手が魔法に長けていれば、あたしの術など子供騙しだろうけど。

 段々、相手が近づいてくる。こちらには気が付いていないようだ。
 ソフィは、木陰に身を寄せ、樹の息吹と同化した。

 現れたのは、ソフィが最初にイメージした悪魔の姿だった。相手は立ち止り、深呼吸して、人間の姿になる。
 それは、ミカエリス、その人だった。

 ソフィはその瞬間、商人たちの口から出た取引の対価を思い出した。
 取引相手、それは正しく、ミカエリスだったのではないのか?それも、人々を誑かし遊ぶだけの暇つぶしではなく、本気で得ようとした「獲物」
 その獲物は、初めソフィ自身だと思っていた。モーションを掛けるたびにヘリィが怒るから楽しみつつ、最後には、いただいてしまえ・・・と。
 漸く理解した。今現在、目の前にいる耳が立ち、口が裂け羽の生えた悪魔が求める獲物は、ソフィ自身ではないと。
 
 そう、ミカエリスが対価とし獲物と称したのはヘリィの能力。類稀なる力を我が物にしようと張り巡らせた数々の罠だった。魔王の力を根こそぎ得ようとしているのか、堕天使から悪魔になって儀式が行えれば満足なのか、それはわからない。でも、ミカエリスは、欲が深い。それだけは確かだった。

 大方、こんなストーリーだったのだろう。
 大叔父たちのクーデターが成功させてやるから、その時は獲物を貰う、とヘリィの能力を希望した。大叔父はヘリィなど知らなかったはずだし、クーデター成功の証拠には、あたしとデュールの首もあったに決まっている。お父様とお母様の首だけを差し出し大叔父を納得させ、うまく取り繕う魂胆だったに違いない。
 結局ミカエリスはあたしもデュールさえも大叔父に差し出すことはできなかった。当然、契約は半分不履行の状態であったはず。
 其処に逆クーデターが起き、騙しても構わないと思っていた大叔父は死んだ。契約主が去り、対価も総て受け取れないまま、ミカエリスは此処にいるのだろう。
 ヘリィの体調不良は、この契約の仕業なのか。
 使い魔たちのようにいつも新鮮なご馳走にありついていればまだしも、天使でもなく悪魔にもなりきれないミカエリスは、たまに人間のふりをするだけで、相当に体力を消耗するのかもしれない。何が本当のミカエリスの姿なのか、今となっては知る由も無かった。

 ミカエリスは、またもグロテスクな悪魔の顔になり、深呼吸を繰り返す。一体、どちらが本物に近づいているのか分からない。兎に角、あたしが敵う相手でないのは確かだ。
 樹の息吹と同化するのが、やっとだった。

 しかしその時、風が吹いた。
 運悪く、ソフィの方向からミカエリスの方向に風は流れたのである。
 気配は偽れても、匂いは消せない。
 ミカエリスの身体は、悪魔のそれを保ったままだった。
 こちらに近づくにつれ、段々と、その姿は大きくなるようにソフィには感じられた。

「これは、これは、皇女さま。ご無沙汰しておりました」

 とうとう、気付かれてしまった。
 もう隠れることもままならない。
 ソフィは、木陰から進み出た。
「大叔父と契約したのは、貴方だったのね、ミカエリス」
「ミカエリス、と御呼びになるのも今日が最後。明日からは魔王でございます」
「ヘリィの能力を削ぎ取るというわけ?」
「無論」
「許さないと言ったら?」
「皇女さまのお力で何ができましょう?我が奴隷となりますか?」
「ヘリィの力になれるなら、なんだってやるわ」

 ソフィは掌を翳した。
「スピネード!ハイパー!」
 強力な結界を張る。
「サインぺリアル!」
 森の中で稲妻が轟く。
 ミカエリスは、ケケケケッと不気味に笑った。
「そんな小手先の魔法など、私には通じませんよ」

 途端に、身体が硬直した。縄で縛られているような感触。
「テキタイト!ハイパー!」
 硬直感は止んだ。どうやら見えない縄で縛られたらしいが、魔法で縄を粉々に砕いた。

 次は何が出てくるのか。
 稲妻を効果的に使う方法は無いものか。ソフィは必死に考えた。
 ミカエリスも防御呪文を使っているに違いない。それを破れば、テキタイトでの攻撃が可能かもしれない。
「テキスタイト!ハイパー!」
 防御魔法だけでも、身の安全は計れるだろう。
 と、急に身体が締め付けられる。テキタイトの呪文を使おうとしたが、ミカエリス自身がソフィに絡みついているのだった。まるでツタの葉のように。
 抱きつかれたような格好になって、身動きが取れない。
 かといって、絞め殺すつもりもないらしい。ということは。
 人質になったというわけか。契約者の大叔父もいなくなった今、誰に渡すというのか。

 空中を伝って、声が聞こえた。

「我が森を荒らす不遜な輩は、誰だ」
 ヘリィのような、そうでないような。地の底から響く聞いたことも無い、冷徹な声。
 いつの間にか姿を現していたのは、ヘリィだった。
「ヘリィ!」
 叫んだソフィの声すら耳に入っていないかのように、ヘリィの表情は変わらず凄然とし、その眼は冷ややかにして周囲など慮る節は見られない。
 貫禄、風格、畏怖をも通り越したオーソリティー。魔王が魔王たる所以の所作であった。

 いつもならミカエリスを見ると嵐のように飛んできたヘリィが、何のアクションも起こさない。
 ヘリィは、沈黙を続けるミカエリスを、特に気に留める気配すらなかった。
 ミカエリスが人質にしようと抱きついたはずのソフィなど目に入らぬ様子で、鞭を取り出すと、ふっと息を吹きかけた。と同時に、ミカエリス目掛けて目にも止まらぬ速さで鞭を振り下ろした。20回、50回、100回。当然、ソフィにも鞭の先が当たり、頬や腕、脚など体中から血が流れ、ドレスはビリビリに破けた。ソフィはドレスが破けた瞬間、少しだけミカエリスとの間に空間が出来たのを感じ取った。
「リオーラ!ハイパー!」
 ソフィは、自分がいたら邪魔なのを瞬時に感じ取った。ヘリィには申し訳なかったが、屋敷に戻るのが一番と判断したのだった。

「ソフィさま!ご無事でしたか!」
 使い魔たちがドレスや薬を持って走ってくる。
「大丈夫よ。それより、心配かけてごめんなさいね」
「ヘリィさまがこんなにお怒りになったのは初めてです」
「ソフィさまにご容赦願いたいとの仰せでした」
「あたしは大丈夫。鞭の手捌きが良かったから逃れることができたわ」
「一体何が起こったのでございますか?」
「ヘリィの能力を削ぎ落すのが大叔父とミカエリスの契約だったの。今日分かって」

 その頃、森の中では、ミカエリスとヘリィが対峙したままだった。
「契約の対価を僕が知らなかったとでも?本当に間抜けだな、ミカエリス」
「だからあの娘に近づいた。あいつこそが、お前の心臓じゃないか」
「みすみすお前に心臓をくれてやるほど、僕もソフィも馬鹿じゃない」
「じゃあ、ここで最後の勝負と行こうじゃないか。この姿の僕は強いよ」
 ニヤリと不気味に笑うミカエリスに対し、ヘリィは右手の長い小指の爪にキスする。
 そして、呟きとともに小指をミカエリスに向けた。
「魔王も甘く見られたものだ。ハイパースナイプ!」
 瞬間、大樹に矢で心臓を刺され括りつけられたミカエリスがいた。
 ミカエリスの心臓から、血とも体液とも区別のつかないどろどろした液体が流れ出る。
「では、地獄へご招待いたしましょう。ミカエリス」
「う、五月蝿い。僕は悪魔になるんだ、魔王になるんだ」
「お前は悪ふざけが過ぎた。どのみち、天からも追われる身。己の無力さを知るがいい」
 ヘリィが天と地に手を翳し、祈るように叫んだ。
「スピネードサイバー!ハイパース」
 結界と大樹への稲妻。増幅は果てしなく。
 ミカエリスの身体は、一瞬にして塵と灰になり、消え去った。
「お前如きが魔王などと、千年早い。身の程知らずめ」

 屋敷に戻ったヘリィ。ソフィが手当し終えた部屋に顔をだした。そして初めて拳骨した。
「痛ーい、痛い痛い」
「危ないことはするな。気が気じゃなかった」
「ごめんなさい。森で小屋を作れないかなと思ってフラフラしていたの」
「どうして」
「ダークマスターの時に、そこで寝ていればいいでしょう」
「それは、済まない」
「それにね、今日ネセスまで飛んで情報仕入れたから、ミカエリスの正体がわかったの!」
 嬉しそうに語るソフィの前で、総て承知していたとは言えず、ヘリィは肩を竦めた。
 ミカエリスがドラヌル公爵と契約したのは承知していた。その内容も、対価も。
 スクランブルの暗示封鎖だけが心配の種なだけだ。それはイコールソフィやデュールの身の危険をはらんでいたのだから。
 人間の姿で遊んでいるミカエリスだからこそ、ヘリィは放っておいただけだ。

第7章  大人のフェアリー・テール

 早いもので、森に来て15年。
 ソフィは33歳になった。
 弟、デュールが皇帝に即位し、安寧を目指した時代が始まって、10年の時が過ぎようとしていた。
 もう、国の基盤が揺らぐ心配もないだろう。
 ソフィは、心の閊えが取れて嬉しいながらも、時折、憂いを隠せずにいた。

 ある晩のこと、ソフィは、思い切ってヘリィの部屋を訪ねた。
「どうしたんだい?こんな時間に珍しい」
「この頃、ずっと感じていたことがあったの」
「さ、中に入って」

 ソフィを招き入れると使い魔たちが即座に現れ、ソフィが好きなジャスミン茶を準備する。
「ソフィ。なんだか、顔色が優れ無いようだ。具合が悪いのかい?それとも悩み事?」
 一度背伸びしたソフィは、勇気を振り絞ったように、話し出した。
「ね、ヘリィ。あたしが此処に来て、何年になるかしら」
「15年。キミが来た日のことは忘れない」
「私も忘れないわ。あの日のことは。凄く緊張していて。まだ皇女言葉で、そなた、なんてね。今じゃ可笑しくって。申してみよ、なんて、考えられないわ」
 ソフィは思い出したように笑った。

 そんな楽しかった過去を振り返り、また、現実に引き戻されたのだろう。真顔に戻り、姿勢も正しくソファに腰掛けるソフィ。
「今日は、大事なことを話しに来たの」
「なんだい?」
「あたしたちの契約は、もう終了したと見做してもらえるのかしら」
「契約か、確かにそうだね。僕はもう、15年もキミを傍に置き続けた。奴隷などという言葉で卑しめたかもしれない」
「卑しめられてなどいないわ。いつも、いつも助けてもらって、優しくしてもらった。毎日が、とても楽しかった。鳥になった気分だったのよ」
「鳥、か」

「ね、ヘリィ。あたし、対価を総て支払いたいの」
「突然どうしたの?城に戻るのかい?」
「城には戻らないわ」
「それなら、どうして総ての対価だなんて」
「貴方の奴隷が、対価の総てではなかったはずでしょう。貴方、ダークマスターに釣り合う対価って言ったわ。あたしは何回も儀式を受けた」
「ああ、言った」
「大叔父ドラヌルの仇討ち、そして、デュールが即位し落ち着くまで」
「ああ、そういったかもしれない」
「ヘリィ。その契約が終了したのなら、あたしはもう、最後の対価を支払いたい。そして何もかも、終わりにしたいの」

「最後の対価?何もかも終わり?」
 正直、ヘリィには、ソフィの言葉の意味が解らなかった。
 今迄、悪事の限りを尽くし相手の深層心理やこれから起こることまで見えていたヘリィには、無かったことだ。
 そう。ソフィの一挙手一投足、15年間も一挙一動を観察しているのに、ヘリィにはその心裏が読めないのである。
 他の人間相手なら、そんなことはない。だから、自分の魔力が弱まったわけではないらしい。一体なぜなのか、ヘリィ自身にも分からなかった。

 知っていたのは、使い魔たちの方だった。
「ヘリィ様とソフィ様は、相思相愛だもんね。愛しすぎて相手の心が分かんないのさ」

 自分の気持ちにさえ気付かないヘリィは、本気で最後の対価の意味を聞くのだった。
「ソフィ。キミの言っていることが解らない。最後の対価って何のことだ」
「あたしの心臓を差し出すわ」
 それは、ヘリィには、考えも付かない返事だった。最初からソフィの心臓には手を付けてもいないし、食らう気も全くない。
「キミの心臓には手を付けていないよ!食らう気もない!」
「使い魔のみんなに聞いた。でももう、いいの。あたしの心臓を差し出すから、使い魔さんたちの活力の源にして」
 ヘリィはソフィの言葉をひとつたりとも理解できずにいた。
「じゃあ、何もかも終わりってどういうことだ?今の生活が嫌になったのかい?」
「ううん。とても楽しい。楽しすぎて、怖いの」
「怖い?何が?」
「ねえ、気付いてる?ヘリィ。貴方は初めて会った時のまま、類稀なる美貌と嫋やかな仕草は少しも変わらないわ。魔力すらも全然衰えることが無い。不老不死ですものね」
「ああ。そうかもしれない」
「でもあたしは、魔女とはいえ人間。年を取れば総てが衰えていくわ。心は変わらないつもりでも、身体の老いは確実に進んでいる。老いた自分を、貴方に見せたくないの。魔女になるため此処に来る、若い女性と貴方のダークマスターに嫉妬する自分が、惨めで嫌なのよ」
 今にも雨が落ちてきそうな暗い雲。空を見上げながら、ヘリィは呟いた。
「ソフィ。少しだけ、僕に考える時間をくれないか」
 ソフィの眼から、また、涙が一滴、頬を伝ってドレスを濡らした。

 老いから逃れるため、若い姿を要求するダークマスターを望む魔女たちは多かった。それでも対価を払える者は殆どいない。
 最初に心臓を握られたのだから、それ以上の対価をどうして準備できようか。例えどうにかして対価を準備したとしても、人間の老いをそっくりそのまま止めてしまえるほどの対価など、この世に存在するわけもない。

 ソフィは、怖いけれど、心臓を差し出し、『考えることそのもの』を放棄したかった。
 それが無理なら、この森を出て、どこかでひっそりと暮らし、ヘリィの行うダークマスターから遠ざかり、これまでの思い出を大事に心に仕舞っておければ、それで十分だった。
 この屋敷を出れば、老いることが怖くなくなると。
 ダークマスターに嫉妬する自分が居なくなると。

 皇女出身たるがゆえに、自分に向けられる偽の恋心に晒されてきたからなのか。
 ヘリィの言葉や仕草を、本心と思いたくても信じることが難しかったのか。
 いいえ、違う。
 あたしは、自分のことしか大事にしない我儘な皇女そのものなのだ。
 若い娘にヘリィの気持ちが動き、裏切られることを、心の中で一番恐れているのだ。
 ヘリィの気持ちが、いつまでも自分にあってほしいのだ。
 だから、離れれば裏切りを感じずとも済むだろうという、ヘリィの気持ちを無視した、ある意味では身勝手な行いを平気で行おうとしているのだ。

 あたしは、なんて浅ましい人間なのだろう。
 やはり、心臓を差し出すのが一番いいのかもしれない。
 ヘリィも、やがてあたしのことなど忘れるだろう。
 そう、ヘリィの生きた年数からすれば、この15年などあっという間。ヘリィだって、すぐに忘れてしまうはず。
 自分勝手で申し訳ないけれど、あたしは、自分が自分として行動していられる間に、ヘリィの前から消えたい。
 自分を見失って浅ましい行為に走ることだけは、皇女としてのプライドが許さない。
 だから、早く、早く答えが欲しい。
 このままでは、見かけばかりか、心まで醜くなってしまう。
 そうならないうちに、早く、早く。

 1週間後、夕餉の後だった。ヘリィに呼ばれ、ソフィは彼の部屋に入った。
 使い魔たちは、今日はハーブティを準備する。
「キミの申し出を受けよう。契約を終了させることにした」
「願いを聞いてくれてありがとう。今、ここで?」
「いや。終了の前に、キミに魔女として行ってほしい最後の儀式がある」
「あたしが?何をすればいいの?」

 ヘリィは、ソフィの前に進むと、跪いてその右手に口づけした。
「女神ダイアーナに願いを届けてほしい。ソフィ、僕の子を身籠ってくれないか」
「そんなことが許されるの?」
「ああ、ダイアーナとは旧知の仲だ。まあ、僕を嫌っているけど」
「どうして急に、そんなことを考えたの?」
「キミと最後の線を越えたい。そして、その子に魔王の座を譲りたいから」
「本当に貴方の子を宿せるの?」
「願いを聞き届けてもらう。僕は永く生きた。けれど、もう十分だ。永遠の眠りに就く」

 途端にソフィは座り込んで、涙を眼に溜めた。大きな瞳から零れ落ちるその雫は、ぽろぽろと床に弾け飛んだ。
「そんなこと言わないで。永遠の眠りだなんて」
「ソフィ、キミと一緒に眠りたい。ただ、それだけだよ」
「あたしを追放すれば済む話でしょう。あたしだって老いた自分を見せなくて済むわ」
「それじゃ駄目なんだよ。キミを手放したくないんだ。だからこそ、子供が欲しい」
 涙するソフィを抱きしめながら、子供を宿して欲しいと懇願するヘリィに、ソフィは頷いた。
「ありがとう。本当に、最後の思い出ね。とっても嬉しい」

 魔女の儀式に基づいて、月の女神ダイアーナに謁見したソフィ。ヘルサタン2世と自分からの願いを申し述べる機会が与えられた。
「わたくし、ミステリアス・フォレストにおります魔女、ソフィヌベールにございます」
「そなた、確か、皇女の身であったな」
「はい、大叔父に騙されクーデターに巻き込まれました。その際、無念の死を遂げた父母の弔いのため、こうして魔女となったのでございます」
「ふむ。ヘルサタン2世が施した儀式と聞いた。ありったけの呪文を施したものだな」
「は?」
「いや、気にするな。独り言だ。それで、そなたの願いとは、如何なるものか、述べてみるがよい」

 緊張しながら、ソフィは頭を垂れたまま、願いを口にした。
「ヘルサタン2世さまと、わたくしの子供を授かりたく、御前に参上した次第にございます」
「なるほど。ヘルサタン2世も、とうとう年貢の納め時、というわけか」
 ソフィは意味が解らず、返事が出来ないでいた。
 それを見た周囲は、ヘルサタン2世の本心を知り、にこやかに微笑んでいた。暫く一緒に微笑んでいた女神ダイアーナは、ソフィを見て、こう告げた。
「皇女ともなると、民の使う言葉がわからぬか」
「じ、実はどういった意味か、わかりかねております」
「年貢の納め時とは、滞納した税を清算することに掛けて、女癖の悪かったヘルサタン2世が遂に一人の女性に惚れぬいて、遂には子供を儲けようという気持ちになった、ということの例えなのさ。ヘルサタン2世に伝えておいてくれ。よく決断した、と」
「は、はい」
 顔を真っ赤にしながら頭を垂れ、頷くソフィ。

「ヘルサタン2世とそなたの願い、確かに聞き届けた。次の新月が夜、心と肉叢を共にするがよい」

 新月の夜、ヘルサタンは月の登らない夜を惜しむかのように、自分の部屋にソフィを招き入れ、2人は互いの心と肉体を一晩中結びつけた。互いに狂おしいまでの思いを秘めて、時間の許す限り心と身体を貪り合い、遂に最後の一線を越えた。

そして、女神ダイアーナの預言どおり、ソフィはヘリィの子を宿した。
「ヘリィ。赤ちゃんが出来たみたい」
「本当?僕とソフィの赤ちゃんが出来たのかい?」
 赤子の父親となることが人間も悪魔も変わらないのか、それはソフィには分からない。
 冷徹非道な魔王とまで呼ばれたヘルサタン2世がこんなに喜んでいると知ったら、世界中の悪魔たちが腹の底から笑うか、恐れ戦くかのどちらかであろう。
 
 使い魔たちから、出産に関する説明があった。人間の出産と若干違うのだという。
 悪魔の子は生まれたとき、人間の赤ん坊と違い悪魔の姿をしている。魔力が通常レベルの悪魔を凌駕する場合のみ、人間の姿で産まれるのだという。通常は次第に魔力を蓄え人間の姿になるそうだ。
 ああ、だからミカエリスは人間と悪魔の両方になったけど、人間だけではいられなかったのか、とソフィは納得した。
「ヘリィさまは、産まれたときからあのお顔です」
 赤ちゃんらしくないな、と皆で大笑いする。

 白魔女や使い魔たちが産婆と医者の役目を担ってくれるのだが、白魔女たちは流石に驚きを隠せない表情だった。そのまま、使い魔たちが説明する。
「人間の子供は約1年を掛けて歩く程度の知能や運動能力を会得しますが、魔王様の場合、全く違います。半年ほどで人間の15歳くらいの知能を有し、身体の成長も同程度となります。生まれてから1年ほど魔王としての教育をお受けになり、二十歳過ぎくらいのご容姿と能力を有されるのです。ですから、それまでの間、ソフィ様には心穏やかに、安らかにお過ごしいただくのが一番でございます。色々なことがあっても、赤ん坊を第一にお考えください。我々経験はありませんが、赤ん坊がお腹の中で動いた時は、それは、それは、幸せをお感じになるということでございました。お尋ね事は、我々使い魔や、場合によっては皇帝陛下のお力もお借り出来ましょう。ソフィさま。ご自分が楽に居られる方法をご相談くださいませ」

 その間にも、ダークマスターの儀式を受けるため何人かの若い女性が現れたのは確かだった。 
 ソフィは、なるべく自身の部屋にも結界を強めに張り、お腹の赤ちゃんと過ごしていた。
 嫉妬の感情、哀しみの感情を全く感じないと言えば嘘になるが、お腹の子供に色々と語りかけることで、ソフィは別の幸せを感じることが出来た。
 ダークマスターの時間は、以前より短くなっていたようだった。使い魔たちは手抜きだと噂し合う。
 ダークマスターの臭いを消すと、いつもヘリィはソフィの寝室に飛んできた。
 儀式の無い日は、朝から晩まで一緒に過ごした。

 胎動を感じると、ますます幸福感に浸ることが出来た。
「あ!今お腹を蹴ったわ!」
 ヘリィは、自分が胎動を感じないと言っては、ソフィを困らせる。
「僕にはわからない。ソフィにだけわかるなんて、ずるいよ」
「そんなこといっても、ねぇ。じゃあ、動いたら触らせてあげる」
 胎動を感じたとき、ヘリィにもお腹を触らせた。元気がいい。
「本当だ!あ、また蹴った!グルグル回ってる!」
 ヘリィも言葉で言い表せないと言いながら喜んでくれた。その目に、涙が光ったように見えたのは勘違いだったのだろうか。
 お腹の子は順調に育ち、やがて出産を迎え、ソフィは無事に男の子を産んだ。
 産まれた格好は、悪魔ではなく、人間の男の子だった。当初から通常の能力を秀逸していることを物語っていた。

 早速、月の女神ダイアーナの下へ馳せ参じ、恭しく跪き報告する。
「ありがたき幸せに存じます。このたび、無事に男子を出産するに至りました」
「ご苦労であった」
 ダイアーナもにこやかだった。
「何百年と生きるヘルサタンを見てきたが、このような願いを申し出たのは初めてだ」
「は、はい」
「この子が将来の魔王であろう。名付けをしたい。よいか?」
「重ね重ね、ありがたき幸せに存じます」
「そうだな、ルシフェル。ルシフェルといたそう。魔王となる際には、ヘルサタンから直々に魔王としての称号が授与されよう」
「女神さま直々の命名、恐悦至極に存じます」
「ヘルサタンにもよろしく伝えて欲しい。親バカになるな、とな」
「はい」
 思わずソフィにも笑みが零れた。

 月の女神ダイアーナから直々に授けられた名は「ルシフェル」
 ルシフェルは、通常の成長を超越する速さで、瞬く間に成人男性の姿になった。
 髪の色はヘリィと同じシルバー。茶色と黒のラインが混じっている。切れ長の瞳とまつ毛の長さもヘリィに似た。目の色はソフィと同じティンバーブラウン。顔色はヘリィよりも、やや白かった。鼻筋も通った端整な顔立ちはヘリィに、高貴な品性と聡明な眼差し、右口元の笑窪はソフィに似ていた。
 両親の良い部分を兼ね備え、本当に見目麗しき魔王たる体貌と品格を備えていた。


 その間、ヘリィから魔王教育を施された。
 驚異的な速さで瞬時に様々なスキルを会得していくと言う。
「皇女さまの卓越した頭脳のお蔭だ。とても筋が良い」
「あ、ダイアーナさまが言っていたわ。親バカになるな、って」
「そうかい?僕は一度もお世辞など言った試しはないよ。正直が僕の信条だって、キミもわかっているだろ?」
「ふふっ。それはそうね。ルシィの成長には、目を見張るものがあるわ」
「そろそろ、その時がきたようだ」
 ふっ、と笑って、教書を重ねた机の前に座っていたヘリィは、窓の外を眺めた。

 次の日。
 ソフィが、使い魔たちとともに、お菓子を焼いたと言って午後の茶会を開いた。
 ヘリィやルシィ、使い魔たち。皆で茶とお菓子を囲んだ。
「城にいた頃焼いたお菓子なの。懐かしい。家族のために焼けるとは思っても見なかった」
「美味しいです、母上」
「僕も初めて食べたよ。本当に上手だったんだね」
「ヘリィ?人を見境なく疑ってはダメよ?料理が苦手なのは変わらないけど、ね」
 皆で笑った。ヘリィとソフィの目には涙が光っていた。使い魔たちも、涙を隠した。
 
 とある、新月の晩だった。
 ヘルサタン2世が、ルシフェルを書斎に呼んだ。使い魔たちやソフィも同席した。
「はい、父上」
「入るがよい、ルシフェル。これからそなたに、称号を与える」
そこでルシフェルは、魔王の称号を授かった。
「ルシフェルよ。そなたに魔王の称号を譲位する。これからはルシフェル1世と名乗るがよい。私は直に眠りに就くゆえ、魔界を統べる者として、日々研鑽を怠らぬようにせよ」
「先王ヘルサタン2世。眠りに就かれる貴方様の御心を乱すことなく、この座に相応しき存在となれるよう精進いたします」

 ルシフェル1世に、魔王の座を含め総てを譲る儀式を終え、親子が離れるときが来た。

 使い魔たちを伴い、ヘリィはソフィとともに屋敷を出た。ルシフェル1世は、玄関先で両親を見送り、馬車が見えなくなるまでその場に立ち、礼節を弁えた。
 数十分後、ヘリィは、森の中にソフィを誘い(いざない)、小さな館の前に馬車を止め、降り立った。館には結界を施してある。
 窓から、真新しいベッドが準備された部屋が見えた。

 使い魔たちが恭しく敬礼する。
「ヘリィさま、とうとう、永遠の眠りに就かれるのですね」
「ああ。これまで良く働いてくれた、礼を言う」
「勿体無きお言葉にございます」
「ソフィさま。これからも、どうかヘリィさまをよろしくお支えくださいませ」
「貴方たちも今迄本当にありがとう。これからは、ルシフェルをお願いね」
「かしこまりました」
 使い魔たちは涙を堪えながら館から去った。

 屋敷に戻り、ルシフェル1世に報告した使い魔たち。
「ヘルサタン2世さま及びソフィヌベール皇女より、ルシフェル1世さまのお世話を仰せつかりました。不束者ではございますが、どうぞよろしくお願いいたします」
「僕のことはルシィで構わない。先王も母君もそうだったのだろう?」
「あ、はい。ですが」
「皆、とても働き者で心優しいと聞いている。僕はまだ若輩者だ。俗世のことを、これから色々と教えてはくれないか」
「勿体無きお言葉にございます」

 ルシフェル1世は、先王と母が眠りに就く館を、誰からも見えないよう呪文で包んだ。

 その頃、小さな館の中では。
 ヘリィがソフィをその腕に抱き、ベッドルームへとゆっくり進んでいた。
「ソフィ?怖くはない?」
「貴方と一緒だもの」
「僕も、キミと一緒で嬉しい」

『シェール』 
 呪文でベッドルームを開け、ソフィをベッドに横たわらせ、自らは脇に置いてある椅子に腰かけた。

「じゃあ、これから、一緒に眠りに就こう」
「ヘリィ。本当にいいの?あたしは老いる自分を貴方に見せたくないからだけど」
「キミのいない世界で生きるくらいなら、僕は眠りを選ぶ。一緒ならどこでも構わない」
「もっと美人がでてくるかもしれないのに?」

 ヘリィは、哀しそうな顔をした。
「僕にはもう、キミが手放せない。キミなしの生活も考えられないし、一時も耐えられない。でも、キミは自分の老いを気にし始めた。両方を解消するには、キミには酷いことかもしれないけれど、魔王を辞して、一緒に永久の眠りに就くこと、それしか考え付かなかった」
「ヘリィ。あたしのために魔王の座を辞したの?ルシィに譲ったのはそのためだったの?」
「ああ、そうだよ。キミに、僕の子を産んでもらえて幸せだった」
「貴方の子供がお腹にいるときの幸福感は、言葉では言い表せないくらいだったわ」
「あの子なら、立派に役目を果たすだろう。キミに似てしまったから、僕より男前なのが残念と言えば残念かな」
「柔らかい物腰や、状況の判断力は貴方にそっくりよ。頭の回転も良いし、立派な魔王になるわ」
「目の辺りとか一瞬で人を惹き付ける身のこなしは、ソフィそっくりだ。血は争えないね」

 ヘリィが、ベッドに移ってきて、ソフィの髪を撫でる。
「若い娘なんかより、今でも君が一番綺麗なのに」
「そういって貰えるのは嬉しいけど、老いは避けられない事実だもの。若い娘さんたちと貴方のダークマスターに嫉妬する自分は、この上なく嫌いだったわ」
「もう、儀式を行う必要もない。キミだけを想いながら黄泉の国で共に居られる」
「あたしの我儘を許してね、ヘリィ」
「僕こそ、我儘な悪魔と思って許してくれ」

 唇を何度も重ね合い、お互いを見つめあう二人。
 そして、最後の抱擁を交わした。
 黄泉に渡る準備をする。

 ヘリィはソフィと共に、お互いの左手の薬指を鎖の付いた指輪で繋ぎ、互いにその手を握り締めた。最後にヘリィ自身も一緒にベッドに横たわった。
『ヘルエス』
 そう呪文を囁きながらソフィに口づけした。

 ソフィは苦しみも無く、眠るように黄泉へと召された。
 時を同じくして、ヘリィもまた、眠りにつき黄泉へと飛んだ。
 黄泉の世界で、二人は一緒になれたのだろうか。薬指の指輪に記された呪文には、『黄泉に於いても常に共にあることを誓う』と刻まれていた。

 その時刻、ルシフェル1世は父母の写真を前に、涙とともに一礼を奉げたという。

 ヘルサタン2世の後継として、ルシフェル1世が魔界の魔王となった旨の噂が、使い魔や白魔女たちを通して一斉に城下に広まるとともに、城下で密やかに囁かれるようになった話があった。

 何百年の間、魔王としてその座に君臨しながら、たった一人の人間の女性を愛し、その命を食らうことなく、愛を貫き、自らも永遠の眠りを選んだという魔王ヘルサタン2世と、その寵愛を一身に受けたソフィヌベール皇女の恋は、後世に語り継がれるフェアリーテールとなった。

 内々に、デュビエーヌ皇帝陛下に届けられた姉君ソフィからの最初で最後の手紙。
 陛下の身体を気遣い、臣下を気遣い、民を気遣い、白魔女たち総てを気遣って欲しい旨の信書を前に、皇帝陛下は人目も憚らず涙したという。

終章

 ミステリアス・フォレストは、そののちも、Witch& Wizardの森として人々から畏れの対象とされた。好奇心で勝手に迷い込んではいけない、魔王の住む森として。

 そんなある日。
「おや、珍しい」
 ルシィの呟きとともに、使い魔たちを呼ぶ声が屋敷内に響いた。
「皇帝陛下がお忍びでこちらを目指していらっしゃる。誰か、先導するように」
 先導されて、屋敷に姿を見せたデュビエーヌ皇帝陛下。
 馬から降りると、背伸びをした。
 そこに、恭しく頭を垂れ近づくルシィ。

「ようこそ、我がミステリアス・フォレストへ」
「私はデュールと申す者。遠い昔、こちらで大変世話になったことがあった」
「デュールさまのご努力あっての、御世にございます。これからも栄えることでしょう」
「こちらに、ソフィという名の魔女がいると聞いたのだが」
「いいえ、今はもう、こちらにはおりませぬ」
「何処かに移られたのか?」
「永眠いたしました。2年前のことでございます」
「契約、なのか?」
「契約の満了と言えば満了、破棄と言えば破棄にございます」

 瞬間、片膝を折って、その場所に項垂れる陛下。
 肩が震えるのがわかった。
 ルシィも跪き、陛下の心を探る。
 陛下の姉ソフィが、契約の対価に心臓を差し出したと思ったのだろう。
 1度か2度会ったきりではあったが、ヘルサタン2世の顔を覚えていたのかもしれない。
 陛下は、ヘルサタン2世が姉の心臓を食らったと思っているが、彼がいなかったら自分たちは生きていることすら叶わなかったことも承知している。その狭間で心が揺れ動き、姉の死をどのように受け入れたら良いのか分からず、ご自分でも苦悩されていらっしゃる。

「失礼だが、そなたの顔を見せてはもらえぬか?」
「ご命令とあらば」
 ルシフェル1世として、毅然とした面持ちで命に従った。
 陛下の予想に反して、目の前にいたのはヘルサタン2世ではなく、別の者だった。それも、ソフィ姉上の面影を色濃く残す青年。
 はっとし、はらはらと涙を流す皇帝陛下。

「そなた。名を知らせてほしい」
「ルシフェル1世にございます」
「以前此処にいたヘルサタン2世殿は」
「同じく2年前に永眠いたしました」

 悪魔は不老不死と聞いていた陛下は、吃驚されている。永眠したのが同じ2年前ということで、少し混乱していらっしゃるかもしれない。
 いずれ、自分のために悪魔に力を借り魔女となったことで、皇帝の姉という華やかな世界を捨て、魔女を選んだ姉に対し陛下は今でも深い後悔の念をお持ちの様であった。


 もしかしたら、母上に会いにいらしたのか。
 元気を失くした陛下を前に、ルシィは父母に纏わるフェアリーテールを語ることにした。

「陛下。僭越ながら、城下で噂のフェアリーテールをご存じでいらっしゃいますか?」
「いや、知らぬ。どういった話だ」
「それでは、屋敷にご案内いたしましょう」
 屋敷を入るとすぐに、ヘリィとソフィの肖像画が飾られていた。
 またも、陛下の目に涙が浮かぶ。
「こちらへ」
 応接室にも、肖像画が飾られていた。楽しそうに笑うヘリィとソフィ、二人の顔。
 使い魔たちが持て成しをすると、ルシィは語り出した。
 ソフィに似た面影の魔王を前に、陛下は聞き入る。

 魔王として魔界を統べることよりも、たった一人の人間の女性を愛し、その命を食らうことなく、愛を貫き、一緒に永遠の眠りを選んだという魔王ヘルサタン2世と、その寵愛を一身に受けた、ソフィヌベール皇女の恋物語を口述したルシィ。
 
 皇帝陛下は、また涙しつつも、自らを納得させるように、ぎゅっと口の端を結んだ。
「素晴らしいフェアリーテールであった。そなたを見ていると姉上を思い出す」
「フェアリーテールでは語られておりませんが、二人の間には子を授かりましたゆえ」
 
 少し驚いたようではあったが、姉上が愛する者の子を授かったという話は、皇帝陛下を満足させる要素として十分すぎるようだった。
 茶を辞し、陛下は急ぎ城内へ戻られた。
 森へ来る時とは違った晴やかな笑みを浮かべて。

「ご満足いただけただろうか」
「はい、ルシィさま。わたくどもも、涙が止まりませんでした」
 使い魔たちは胸を張る。
「御父君は、初対面の時から御母君を、それはもう、心から愛していらしたのです」
「だから、様々な呪文を体中に施されました。長かったですなあ、儀式も」
「普通は御父君と御母君のような長丁場はございませんから大丈夫ですよ」
「お二人の場合、どのくらいかかったんだ?」
「3日3晩と、もう一回は1週間でしたね。通常バージョンは、そりゃ何回も」
 笑いながら、ルシィが呟いた。
「私も、いつの日かそんな女性に会ってみたいものだ。魔王が心奪われるくらいの、な」
「どうでしょう、我々も何百年生きてきて初めてでございましたから」
「母上は、そんなに魅力溢れる方だったのか?」
「それはもう!」
「御母君ほどの人間は見たことがございません!」
「女性としても最高の方でございました!」
「高貴な出身でいらしたのに、決して鼻に掛けず、いつも気遣っていただきました」
「御父君も御母君も、お互いを愛しすぎたあまり、いつも相手の気持ちが全然見えていませんでした。計りかねてばかりでございました」
「そうそう。他のことにはお二人とも凄く勘が良いのに、お互いのことになるとわからない。見ていて、不思議というか、もどかしいというか」
「だからこそ、お二人が喧嘩されると、我々いつも御母君に味方したものでございます!」

 一斉に叫び、跳ねまわり、喜ぶ使い魔たち。
 使い魔たちは本当に母上が大好きだったのだろう。
 尊敬できる父母を持ったと自負し、ご満悦のルシィだった。

「じゃあ、明日から儀式を執り行う。準備は全てまかせる」
 ミステリアス・フォレストにおける、魔王ルシフェル1世と使い魔たち、そして魔女を志願する女性たち。彼女らの野望を掛けた淫らな時間は続く。

 そう、喉から手が出るほど欲しい望みがある限り、永遠に。

天使と悪魔のフェアリー・テール ~大人たちの御伽話~

天使と悪魔のフェアリー・テール ~大人たちの御伽話~

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2016-02-05

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 序章
  2. 第1章  新たな歴史
  3. 第2章  ダークマスター
  4. 第3章  心の折れた魔女
  5. 第4章  堕天使の誘惑
  6. 第5章  蜂起
  7. 第6章  ミカエリスの正体
  8. 第7章  大人のフェアリー・テール
  9. 終章